活版印刷の地方への普及〔後編〕:明治7年以降の納入事例

まえがき
前回の「活版印刷の地方への普及〔中編〕」では、明治6年(1873)に各府県が発行した布達類と新聞について、平野富二の活字・活版印刷機納入を通じて鉛活字による活版印刷が全国に普及して行く状況を示した。

当初は県庁に活字・活版印刷機を設備して御用業者に印刷業務を請け負わせる府県が多かった。平野富二の鉛活字を採用する前から既に木活字を用いて手摺りで印刷を行っていた府県もあり、木活字を鉛活字に切り替えると共に活版印刷機を導入する府県もかなり見られた。

明治6年(1873)10月になって、正院印書局が布告・布達類を活版印刷して各府県毎に一定部数を定めて頒布するようになると、各府県は布告・布達類を新聞に掲載して広報誌として利用するようになった。さらに、民間の御用業者に県庁の活版設備を払い下げるなどして新聞を発行させるようになった。

本稿〔後編〕では、明治7年(1874)以降の地方における活版印刷の採用について、各種資料に記録された平野富二の活字・活版印刷機納入事例を通じて纏めてみた。

明治7年(1874)には秋田県聚珍社の『遐邇新聞』発行について、明治8年(1875)には佐賀県の県庁活版局への活版設備納入と名東県(後の徳島県)普通社の『普通新聞』発行について、明治9年(1876)には大阪府御布令上木所の活版化と兵庫県淡路洲本の『淡路新聞』発行について、1年置いた明治11年(1878)には北海道函館北溟社の『函館新聞』発行について、以下に順次紹介する。

各府県における布告類・新聞の活版印刷動向
(1)明治7年2月、秋田県の聚珍社
『遐邇(かじ)新聞』は、明治7年(1874)年2月2日、秋田の聚珍社(秋田県下茶町菊の町)から発行された。これは秋田県各新聞の先駆たる新聞の濫觴で、全国新聞中でも古いものに属するとされている。
聚珍社の基本的性格は県庁からの公文書の印刷であるが、その運営は全面的に県の資金援助に依存するものではなく、広告収入や文芸誌の発行により独立性を保っていた。
明治11年(1878)になって『秋田遐邇新聞』と改題し、秋田の自由民権運動に大きな役割を果たしたとされている。

第1号は、和紙9枚を半折りし、紙縒(こよ)り綴じした冊子で、本文は三号の初期清朝風漢字活字を使用している。明治8年(1875)上半期までは毎月1回発行され、下半期は月8回となった。

当時、東京築地活版製造所で販売していた漢字活字は書風の異なる3種の漢字を揃えていたが、呼称を表示することなく印字見本で示していた。当時の活字の版下は池原香稺の筆になるもので、池原香稺と本木昌造の間ではそれぞれを明朝風、清朝風、和風と呼んでいたらしい。ただし、明朝風と呼ぶ漢字活字は上海美華書館の活字を複製したものと見られている。

明朝風は現在用いられている明朝体と基本的に同じであるが、
清朝風は字画の太さに変化の少ない細めの書風の楷書体で、和風は御家流の流れを汲む書風の行書体である。清朝風は、後年、書家の小室樵山の筆になる版下を用いたことから、池原香稺によるものを初期清朝風とした。

これらの活字は、「活字目録」(図32‐2)や明治9年発行の『活版様式』に掲載されている。

表紙となる第1面には、明治七年二月二日、官許(押印)、遐邇新聞 第一號、聚珍社発兌(押印)とある。続いて半折りの裏面に、「今般官許を蒙(こうむ)り、上は県庁の布達幷(ならび)に審理公判、下は県下の諸新報を編集し、加うるに現今発行の各種新聞紙中最も切要にして世益となるべき者を抜粋し、且、東北地方の事績、諸新誌の載せざる所を録し、人民をして遠近の事情に達し、内外の形勢を知らしめ、以って知識開広勧懲裨補の一助となさんと欲す。因(よ)って冀(こいねが)ふ。諸君子記載すべき事あらば速に報告を賜へ」として掲載内容と発行目的、投稿依頼を記している。

図32‐1 『遐邇新聞』、第一号の奥付
<日本新聞博物館所蔵>

最終ページにある奥付には
本局:秋田縣下茶町菊ノ町 聚珍社
同局:東京小傳馬町三町目 吉岡重次郎
賣弘所:秋田縣下上肴町 小谷部甚左衛門
編輯者:鳥山棄三、印務者:管又謙次
と記してある。
漢字はすべて明朝体を採用している。
新聞名の「遐邇」は「遠近」、
社名の「聚珍」は「珍しい事柄を集める」
を意味する。

『遐邇新聞』の創刊に先立ち、明治6年(1873)8月、平野富二は聚珍社の関係者からの依頼に応じて社員鳥山棄三を編集兼印刷人として秋田に出立させている。

秋田県では、明治6年(1873)9月に秋田県権参事加藤祖一の名前で管内布達「活版新聞局設置に付き告諭」が出され、その中に「県下に活板新聞局を設け、‥‥その開業を許可」と記されている。次いで、同年10月5日に柴村藤次郎と吉岡十次郎代理吉岡十五郎から秋田県に届書が提出されている。その届書には、「本年4月中、願い済みとなっている『羽後新聞』は、今般、『遐邇新聞』と題号を改めて発行したいのでお届け申し上げ奉る」としている。秋田県はこれを受けて文部省に新聞題号更正を届け出た。

宇田川文海(鳥山棄三の筆名)述『喜寿記念』によると、
「或る日のこと、平野さんから『ちょいと来てくれ』という沙汰があったので、何の用かと思って、すぐに行って見ると、平野さんは例のニコニコ笑いながら、『今度、秋田県の活版印刷御用を引受けて出張する人があるが、県庁では、印刷の御用を命ずる代わりに、その副業として新聞を発行することになっている。ところが、経費の都合で新聞の主筆と、活版部の職工長と2人を雇うことは経費上むずかしいから、1人でこの二役を兼ねる者が欲しいので、是非世話をしてくれという難しい相談があった。そこで私もいろいろと考えて見たが、私の知る限りでは、差し当たりお前より外に適任者がないから、是非、二役を兼ねて行って貰いたい。お前さへ承知なら、兄の茂中貞次君には宜しく頼むことにする』と、意外千万な相談があった。そこで、『印刷の職工長は、曲りなりにも勤まりましょうが、これまで纏まった文章を書いた事がありませんから、新聞の主筆などはとても出来ません』と固く辞退したが、普段から部下の言動より鳥山棄三に文才があることを見抜いていた平野富二に説得されて秋田行きを決意した。」

鳥山棄三は東京を発って秋田に到着するまでの個人記録として『秋田行日記』を残している。その前文に、「明治六年八月四日、秋田県へ、新聞局を開き、活字版を広めん事を依頼され、本日出発す。相伴う人は、吉岡十五郎君、柴村藤次郎君、外壱人、僕と合せて四人、家兄吉太郎、真平、千住駅まで送り来る。」と記されている。

ここに出てくる柴村藤次郎は、当時、秋田県に寄留していた東京府下橘町三丁目の活版取扱人と記録されており、平野富二に活版設備一式を注文すると共に、活版印刷指導と新聞編輯を兼ねた人材の派遣を要請した当人と見られる。

その後、鳥山棄三が秋田を去るに至った経緯について、再び『喜寿記念』から引用すると、
「私は秋田の活版所へ、2年間の約束で行って、明治6年の秋から8年の秋まで、首尾よく勤めたので、是非今一年働いてくれと依頼されたが、この時、兄の茂中貞次が兵庫県の活版印刷の御用を勤め、傍ら『神戸港新聞』を発行していたので、是非帰って援けろと、再三やかましく言ってくるので、兄弟の誼(よしみ)として辞するに由なく、約束通り秋田の活版所を辞して、その年の秋の末に神戸に行き、『神戸港新聞』の記者と成った。」

(2)明治8年、佐賀県の県庁活版所
佐賀県では明治6年(1873)2月から楷書と片仮名、および、楷書と平仮名の活字で印刷された布告・布達類を発行しているが、これに用いられた活字はいずれも木活字と見られる。

明治7年(1874)10月15日になって、佐賀藩医だった川崎道民が佐賀県令北嶋秀朝に活版所の設立を願い出ている。その願書には『新聞雑誌』に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」が添付されていて、その中にある三号和様活字を至急購入したいと述べている。
このことは鈴木広光著『日本語活字印刷史』に述べられており、その関連文書は佐賀県立図書館に「活版書類」一冊(第一課編)として所蔵されているとのことである。

図32‐2 『新聞雑誌』の広告
<『新聞雑誌』、第66号附録より>

この「崎陽新塾製造活字目録」が掲載された時期は
明治5年(1872)10月下旬と見られる。
この中の三号活字には書体の異なる3種がある。
川崎道民は右から3番目の和様活字を指定した。
和様漢字は広く手習いで教えられる標準書体で、
当時の人たちにとって
最もなじみ深い行書体の書風である。

川崎道民の出状から20日程遅れて、長崎活版社中の松野直之助が佐賀県令北島秀朝に宛てて出状している。その明治7年(1874)11月4日付の願書については、本稿〔中編〕の福岡県の項でその前半部分に記された内容を紹介した。ここでは、後半部分に記された佐賀県令に対する願いの内容を現代文に直して紹介する。

「(前文省略) このたび御県にお伺いしたところ、活版所を出店した場合に布告類1枚を幾らで印刷できるか見積もるよう仰せ付けられました。そこで、布告類の部数をお伺いしたところ450部ずつ必要とのことでした。
計算の結果、1か月の布告類を平均100枚と見込むと総数は45,000枚、1枚2厘とすると90円となります。この内、紙代約35円を差し引くと、残りは60(55の誤り)円になりますが、これでは職人の給金やその他諸雑費など、出店するとなると存外増大するので、収支が合わないと存じます。
したがって、このことを勘案され、活字・機械等をお買い上げ頂けないでしょうか。代金の支払いについては一部前払い金を頂ければ、ご指示通りどのようにでも致します。
ことに御県ではこれまで布告類の印刷に従事した人もおられるとのことですので、ついでに活字・機械等のお買い上げをご下命されますようお願い申し上げます。」

川崎道民と松野直之助の願書は、たまたま、期を合わせたように相次いで佐賀県庁に提出されたことが分かる。

当時の佐賀県は、廃藩置県当初の佐賀県(第1次)と厳原県が合併して伊万里県となり、旧佐賀藩の諫早等が長崎県に分離編入された後の明治5年(1872)5月に伊万里県が佐賀県(第2次)と改称したものである。

佐賀県では、二人の願書を受けて木活字から崎陽新塾製の鉛活字に切り替えを行い、明治8年(1875)になって布告類の活版印刷化が実現することになった。
しかし、明治9年(1876)4月に三潴(みずま)県に併合され、さらに、同年8月に長崎県に併合された。現在の佐賀県(第3次)となったのは明治16年(1883)7月に長崎県から分離独立したときからである。

(3)明治8年9月、名東県で『普通新聞』発行
明治4年(1871)7月14日に行われた廃藩置県の結果、徳島藩は徳島県となったが、同年11月15日に淡路島全郡を含めて名東県となり、明治6年(1873)2月20日に香川県を併合したが、明治8年(1875)9月6日に香川県を分離して元に戻した。現在の徳島県となるのは明治13年(1880)3月2日である。

名東県は、明治6年(1873)7月10日、県の布達を初めて木活字による活版印刷で発行し、管内に配布した。
これに関連して、明治7年(1874)1月の徳島県布達に「昨年(明治6年)7月より12月まで、諸布達を活版印刷して配布したが、その間の印刷物は85,141部、費用は768円48銭2786」とあり、さらに、同年6月の徳島県庶務課からの布達に「昨年(明治6年)、活版機を1,470円で県が買い上げた。その代金と印刷費は管内各区が負担し、当年から5ヶ年10回払いする。」旨が記されている。

これに先立つ明治6年(1873)3月、名東県下の謳歌社から『徳島新聞』が創刊されている。この新聞は半紙二つ折りの冊子で、1段17字詰めの罫線書きで、木版により印刷されている。
第3号は同年4月に発行されたが、第4号は1年余り後の明治7年(1874)5月21日に体裁を一新して発行された。それは、洋紙1枚の表裏刷りで、3段組み、12ポイントよりも大きい木活字(四号相当)による活版印刷であった。編集者は国方日渉園(元徳島藩士で国学者)、発行所本局は通町二丁目の謳歌社となっている。

このように、名東県布達が木活字による活版印刷となった時期と『徳島新聞』が1年余りの休刊の後に体裁を変えて木活字による活版印刷で再刊された時期が一致する。このことは、謳歌社が名東県の印刷御用となり、県庁所有の木活字と活版印刷機を使用して諸布達を印刷納入すると共に、『徳島新聞』の印刷にも使用したと推測される。

明治6年(1873)に名東県が購入した印刷機は、金額が1,470円もすることから、これは活版印刷に必要な機器・資材一式と見られるが、当時、平野富二が販売する長崎製半紙二枚摺プレスは1台170円と比較すると余りにも高すぎる。したがって、これらの機器・資材は神戸の外国商社から購入した舶来品と見られる。

その前年5月に神戸では『神戸港新聞』が鉛活字による活版印刷で発行されており、名東県に属していた淡路島出身の三木善八がその経営に関わっていた。また、同年10月には、平野富二による活字や摺器械などの広告が『新聞雑誌』に掲載されている。
それにも拘らず、名東県が鉛活字ではなく木活字を使用し、高価な印刷設備を購入した理由は判らない。木活字は何度も印刷を重ねるうちに、次第に字影が判然としなくなるなどの問題がある。

『徳島新聞』は、明治8年(1875)8月に第21号で廃刊したらしい。その号には政府の「新聞纔謗律」と「新聞紙条例」の全文を掲載しており、廃刊の理由を暗示している。

それに代えたかのように、同年9月21日、『普通新聞』が普通社(徳島裏ノ町)から創刊された。『普通新聞』の創刊号はタブロイド判二つ折り、4ページ物で、3段組により鉛活字で活版印刷されている。主宰の益田永武は徳島藩中老の家に生まれ、初期民権運動家の一人で、廃藩置県後に県会議員を永く務めた人である。

『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)によると、「明治9年、四国に普及社(普通社の誤り)と云うのが出来て、美濃判二枚刷のハンド2台と活字、その他付属品一切を送付した。」とある。このことから、活字・活版印刷機など一式を平野富二が納入したことが判る。

図32‐3 普通社に納入したと見られるハンドプレス
<東京築地活版製造所『活字見本帳』、明治12年刊>

平野富二が国産化した半紙一枚刷の小型プレス
に続いて国産化した大型プレスが
ここに示す美濃判二枚刷ハンドである。
明治10年開催の第一回内国勧業博覧会に
この図版は野村長三郎名で出品された印刷機と同一で
すでに明治9年に販売されていたと見られる。

明治21年(1888)になって『普通新聞』は『徳島日日新聞』と改題し、明治31年(1898)に社屋の火災で休刊し、その後、蜂須賀家の援助を得て再刊した。明治37年(1904)5月に『徳島新報』と合併して『徳島日日新報』となった。

このように、県庁による布達類の活版印刷は明治6年(1873)7月から木活字を用いて発行されたが、鉛活字による活版印刷となったのは、平野富二が活字と活版印刷機を納入したのは明治9年(1976)であったと見られる。

(4)明治9年2月、大阪府の御布令上木所で活版採用
大阪府については本稿の〔前編〕で紹介したが、そこでは触れなかった布令発行について、『本邦活版開拓者の苦心』の雑録として次のように記されている。

「大阪で布令を発行することに決定したのは、明治4年(1871)の秋からである。その頃、布袋町の住人瀬戸安世氏は、再三、当局者へ布達の貫徹を計るために上木聴許の願いを提出したが、明治4年(1871)7月24日にようやく許可の達しに接したのであった。そこで直ちに自宅に「大阪府御布令上木所」の看板を掲げて布令の印刷を開始した。
その当時は印刷と云っても要するに木版の手摺りに過ぎなかった。その工程は、まず布令の原稿を総区長から受け取ると、直ちに版下書工に浄写させて、即時、彫刻に廻し、再び校合して一枚ずつ手摺りにかける。そして出来上がったものを和綴じにして、翌朝、総区長ならびに諸官衛に納本すると云う順序で、全く徹夜の作業であった。
明治9年(1876)2月には、大阪活版所から活字を購入し、御布令書を手引印刷機によって活字で印刷することにしたから、印刷能率は非常に上がったが、さて、当時の活字はわずかに2、3種で、しかも字数がすくなかったから、活字同型の木版を彫刻させて補植しつつ印刷したそうである。」

本木昌造が五代友厚の要請を受けて大阪に長崎新塾出張活版所を設けたのは、明治3年(1870)3、4月頃のことであるが、その設立に当たって、あらかじめ大阪府の御用活版所となることを約束されていた。
明治4年(1871)7月14日に発令された廃藩置県の実施に際して、政府の関係印刷物を一手に引き受けた実績はあるものの、五代友厚から依頼された『和訳英辞林』刊行のための活字製造に忙殺されて、大阪府御用活版所としての役割を果たすことができなかった。

〔前編〕で紹介したように、明治4年(1871)10月28日に刊行した『大阪府日誌』は木版刷りで、しかも支配人吉田宗三郎の名義となっている。

(5)明治9年5月、淡路洲本の淡路新聞社
淡路島洲本の先覚者安部喜平は、明治9年(1876)に自宅に活版所を設立した。この年の8月21日には名東県が廃されて淡路島全島が兵庫県に編入されている。

安倍喜平は、慶應2年(1866)2月、人材養成のための家塾「積小軒」を創設している。そこで学んだ精鋭たちの中に、後に報知新聞社主となる三木善八が居る。三木善八は兵庫県令神田孝平の招きを受けて神戸で『神戸港新聞』を発行したが、その後、安倍喜平の招きで郷里の淡路島に戻り、淡路新聞社の社員となって『淡路新聞』発行に協力している。
このことから、安倍喜平は、活版所開設に当たって、三木善八に相談して、茂中貞次を通じて平野富二から活字と活版設備の購入が行われたと見られる。

『洲本市史』など地元の資料によると、安部喜平は、本木昌造が苦心の末に活字の製法を発明して東京に活版製造所を創設したことを知り、洲本の曲田成を東京の活版製造所に派遣して研究させ、明治9年(1876)5月、曲田成は活字と印刷機を購入して洲本に帰ったとしている。

しかし、この内容は東京築地活版製造所から発行された『曲田成君略伝』の記述と相違する。
淡路島洲本出身の曲田成は、士族という身分だけで官から禄を支給され、安穏に生活していることに疑問を持ち、明治6年(1873)2月、独立して自立の道を求める決意をして単身で上京し、偶然、平野富二の面識を得て活版製造所に入所したとされており、安倍喜平の指示で上京したとの記録はない。

活字と活版設備一式は、曲田成によって淡路島の安倍喜平に届けられた。曲田成は、このとき、家禄奉還の願書を徳島にある名東県の県庁に提出し、受理されている。

明治10年(1877)3月8日に安倍喜平は『淡路新聞』を創刊した。タブロイド判二つ折り(縦196mm、横134mm)で、当初は月2回、第5号から月4回の発行となった。この年の2月15日には西郷隆盛による西南戦争が勃発している。

図32‐4 『淡路新聞』第1号の奥付
<国立国会図書館所蔵>

第1号の表紙は
「東京築地活版製造所社長列伝」ブログの
「第3代社長曲田成」で紹介した。
ここではその表紙と最終ページの奥付を示す。

当時の地方新聞は県庁の御用新聞として県庁所在地で発行されたものが多いが、『淡路新聞』は県庁所在地から遠くはなれた地方の中堅都市において一個人によって発刊された。
『淡路新聞』発行の趣旨が創刊号の緒言に述べられているので、その概要を紹介する。

「わが淡路国の地勢は南海の一孤島で、西は鳴門海峡が険しく、北は岩屋の海潮が急で、東面は大阪と神戸港の盛地が視野にはいるが、電信・汽船の便がない。
そのため日時を競う新説や奇聞は他所に後れを取っている。東京や各地の新聞紙があるので全国の景況などを知ることができるが、全て郵便・電信の届く土地に限られる。僻地の住人は新聞の効能を知らず、その体裁がどの様なものであるかを知らない人が少なくない。
その上、掲載する社説や弁論は中等以上の者でなければ、これを読んで面白いと感じることができないのは嘆かわしい。このようなことから、当地において読み易い新聞を発行しなければならない。これが弊社の新聞発行の所以である。」

名東県が廃止されて淡路島全島は兵庫県に属したが、以前の徳島県は復活されることなく併合されて土佐県となり、明治13年(1880)3月2日に高知県と徳島県に分割されるまで続いた。

土佐は自由民権運動の発祥地ともいわれており、板垣退助が明治7年(1874)3月に土佐で日本最初の政治結社である「立志社」を創設している。この土佐の「立志社」の活動に刺激を受けて、同年9月に早くも阿波徳島に「自助社」ができ、その支社が淡路島の洲本にもあった。

『淡路新聞』創刊号の雑録に、西南戦争に対する洲本自助社の箋文(上奏文)が掲載されている。その主旨は、鹿児島県下の暴動について朝廷の趣旨に従い、県官の命令を固守して流言浮説に惑わされないようにすることを申し合わせたものである。
その内容は自由民権運動とは関係ないが、その後、『淡路新聞』は自由民権論を中心とした社説を掲載している。明治16年(1883)4月に自由民権運動の高揚に伴い廃刊を余儀なくされたが、明治23年(1890)4月に再発行された。

(6)明治11年1月、函館の北溟社
北海道で最初の民間の手になる新聞である『函館新聞』は、明治11年(1878)1月7日、函館の書店魁文社内に設けられた北溟社から創刊された。

北溟社は、明治10年(1877)12月、函館区内の有力者を株主として資本金2,000円で設立され、函館財界の四天王と呼ばれる一人である渡辺熊四郎が社長に就任した。
北溟社の設立に当たって、渡辺熊四郎は、長崎で懇意だった東京の平野富二に相談して、築地活版製造所から活字類と二枚刷器械1台を買い入れた。

『函館新聞』は、当初、2、7の日に月6回の発行だったが、明治11年(1878)7月から隔日刊となった。しかし、明治12年(1877)12月の函館大火による類焼により青森に分局を置いて青森新聞社の機械を借りて発行を継続した。

図32-5 『函館新聞』第一号
<『函館市史』、通説編 第二巻より引用>

紙面はタブロイド判洋紙による二枚両面刷りで、
二つ折りの4面、1面3段組みであった。
編輯人は宮城県出身の佐久間健寿、
印刷人は山形県出身の伊藤鋳之助であった。

社長の渡辺熊四郎は、株主と相談して再建資金の目途をつけ、活字と印刷機を再び築地活版製造所から購入し、明治13年(1880)1月、函館市庁の長屋を借りて活版所を開き、『函館新聞』を発行した。明治13年(1880)6月から再び隔日刊となり、明治18年(1885)4月から日刊紙となった。

以上の経緯について、坪谷善四郎編著『実業家百傑伝』の渡辺熊四郎の項によると、「(渡辺熊四郎は)函館に新聞がないことを残念に思い、明治11年になって同志と相談して北溟社と云う活版所を設けて『函館新聞』を発刊した。創業の当初、君は推されて社長となり、在職3年で基礎を固め、社運がようやく盛んになるに及んで社長を辞任し、同志の一人である伊藤鋳之助にゆずった。」と記されている。

渡辺熊四郎は、引退後に渡辺孝平と改称するが、その自伝である『初代渡辺孝平伝』によると、「(新聞発行に当たって)まず東京に行き、『報知新聞』の栗本(鋤雲)氏、また、『東京日日新聞』の岸田(吟香)氏などに頼んで編輯人を雇入れ、また、新聞事業の機械は平野富二と懇意だったので、活字・機械なども同人に頼んで買い入れることにした。さてまた、資金が乏しいので二枚刷器械1台で、それに応じた活字を買い入れ、明治11年1月7日に開業した。」と述べている。

平野富二が慶應3年(1867)に土佐藩に招聘され、機関方として土佐藩の蒸気船を乗り回していた頃、渡辺熊四郎は長崎土佐商会の持ち船で会計を勤めていたことがある。このときお互いに面識を得て懇意になったと見られる。

明治12年(1879)12月6日に発生した函館大火により北溟社は社屋が類焼し、機械類も使用できなくなった。

このときの『函館新聞』に関して、同月18日付の『朝野新聞』に掲載された記事によると、
「函館新聞は、開拓使の保護と二、三の富豪の尽力により追々盛大になったところ、過日の火災で器械を残らず焼失した。しかし、このまま廃業するのも遺憾とのことで、同社取締役伊藤鋳之助氏は株主に相談して都合1,000円余りの資金を調達し、この度、活版器械買入のため上京し、築地の平野活版所で調達中である。同氏によると、是非とも今年中に函館に帰り、来年1月から函館市庁の長屋を借りて活版所を開くとのこと。」

北溟社が設立される以前の函館における活版印刷について、函館市編さん室編『函館市史』によると、明治6年(1873)8月、開拓使が東京出張所内に活版所を設けて布達類を印刷して管内に配布し、さらに、『新報節略』を発行して官員に配布した。この『新報節略』は東京の新聞の中から北海道に関する記事をダイジェスト版として編輯したものであった。明治8年(1875)4月になって『新報節略』が廃刊となり、印刷設備は函館支局に移された。

この印刷設備に注目した伊藤鋳之助は賛同者の大矢佐市、魁文社社中と連名で「活字版器械拝借願」を提出した。途中、魁文社社中の者たちは本業多忙を理由に脱退したが、明治9年(1876)3月23日になって、「60日間、試験として函館支庁発令の公布達類に限り印刷」として貸与が認められた。同年5月22日になって、設備の払い下げと印刷業開業の申請を行い、許可を得て伊東鋳之助と大矢佐市の二人だけで函館活版舎を設立し、開拓使の仕事を中心に営業を開始した。
その印刷設備は、活字摺器械1式と付属品、3,301種類45,865文字の活字であったと記録されている。
東京で開拓使が調達したことから、摺器械は外国の輸入品、活字は工部省勧工寮活字局の製品と見られる。

伊藤鋳之助は函館活版舎を経営する傍ら北溟社の株主として参加し、『函館新聞』の印刷人となっている。
明治13年(1880)3月、渡邊熊四郎が本業の商業事務多忙を理由に社長を辞任し山本忠礼が社長に就任したが、明治14年(1881)1月に伊藤鋳之助が北溟社の資産を受継いで社長に就任した。

『函館新聞』が創刊された頃は、すでに政府の新聞紙条例と讒謗律により発行責任者に対する罰則が厳しくなっていたこともあって、その内容は道内の状況と内地府県の景況を報道することに重点を置き、政治色を排除した中立的地方新聞であって、明治21年(1888)1月に札幌で『北海新聞』(同年10月に『北海道毎日新聞』と改題)が誕生するまで、北海道では『函館新聞』が一紙独占の状態だった。

平野富二と渡辺庫四郎との関係は活版設備の納入に止まらず、造船事業での協力にまで発展した。

渡辺熊四郎ら函館四天王と称された4人の有力者たちは、函館に本格的な船舶修理を行える造船所の設立を計画し、開拓使長官黒田清隆に嘆願して船渠(ドック)築造計画を推進していたが、明治12年(1879)の函館大火に遭遇し、資金面から計画が中断してしまった。
その結果、計画を縮小して小規模器械製造所を設立することになり、渡辺熊四郎は東京で石川島造船所を経営している平野富二に協力を要請した。要請を受けた平野富二は、明治13年(1880)9月、曲田成を伴って函館に赴き、函館器械製造所の設立に協力し、出資者の1人となった。

ま と め
明治5年(1872)9月に埼玉県が文部省の認可を受けて布告・布達類を活版印刷して管内に限り頒布するようになったことから、この動きは全国の府県にも急速に広がった。
明治7年(1874)11月には各地方県庁の3分の2が長崎新塾製の活字・活版設備を買い上げて活版所を開設したという。当時は3府60県であったので、約40県が活版所を開設したことになる。

本稿では、前2回の〔前期〕、〔中期〕に続く〔後期〕として明治7年(1874)以降の事績について述べた。

明治7年(1874)の事績としては、秋田県の聚珍社から発行された『遐邇新聞』についてのみを紹介したが、この年は前年にも増して全国各地の県庁から東京築地活版製造所に引き合いが寄せられ、数多くの納入実績を挙げたと見られる。しかし、東京築地活版製造所には纏まった記録が残されていないので、それぞれの府県の記録を調査しないと分からない。

前稿で紹介したように、明治6年(1873)7月から政府による日誌・布告類の印刷・頒布が行われるようになり、各府県に部数を定めて頒布されるようになった。ただし、当初は整版による印刷であって、『太政官日誌』が活版で印刷されたのは同年10月13日からである。
その結果、各府県は不足部数を謄写して管内に配布するようになったが、次第に県庁で購入した印刷設備を民間の御用業者に払い下げて、印刷を委託するようになった。

秋田県の聚珍社は、県庁から布告・布達類などの掲載を認められて『遐邇新聞』を発行するため印刷設備を購入し、県の広報を担う御用を務めたが、経営的には独立した民間企業であった。

明治8年(1875)の事績としては、佐賀県活版所への活版印刷設備の採用と名東県(後の徳島県)の普通社から発行する『普通新聞』印刷のための大型ハンドプレスの納入について紹介した。
両県とも、木活字により布告・布達類の活版印刷を行っていたが、鉛活字に切り替えた。名東県では民間の普通社が発行する『普通新聞』に布告・布達類を掲載させて周知を図った。そのとき普通社は、東京築地活版製造所で国産化したばかりの大型手引印刷機を購入している。

明治9年(1876)の事績としては、大阪府の御布令上木所が大阪活版所から活字を購入して活版印刷に移行したことについて、また、淡路島洲本に於いて先覚者安倍喜平により『淡路新聞』が発行されたことについて紹介した。

最後に、明治11年(1878)の事績として、府県には属さない北海道の新聞発行として『函館新聞』について紹介した。

当時の政府は、文明開化政策を進める手段として、「新聞は人の知識を啓発・開眼させることを目的とすべきであり、これによって文明開化が達成される」とした。その流れに沿って地方の府県でも、単に布告・布達類の頒布に留まらず、積極的に新聞として発行し、単に政府や県の施策を伝達するだけでなく、内外の新たな情報や知識を地元住民に伝達する手段として活用するようになった。

ここで紹介した秋田県の『遐邇新聞』、名東県の『普通新聞』、兵庫県淡路の『淡路新聞』、北海道函館の『函館新聞』は、県庁で頒布する布告・布達類を掲載して県庁御用の一役を担っているが、いずれも独立した民間の会社から発行されている。

明治7年(1874)1月、板垣退助ら元参議4人を含む8人により提出された「民撰議院設立建白書」が『日新真事誌』と『東京日日新聞』に相次いで掲載された。これを契機として、民撰議院設立論争が多くの新聞を通じて行われた。秋田、淡路、函館の新聞も時代の流れを受けて自由民権運動にも関与するが、明治8年(1875)6月に公布された「讒謗律」と「新聞誌条例」、9月に公布された「出版条例」を意識した穏健な立場を取っていた。

明治10年(1877)の西南戦争の報道により新聞の発行部数は大きく伸びたが、西郷隆盛の失脚、明治14年(1881)の政変による大隈重信の要職からの追放、10年後の国会開設の約束などにより、自由党、立憲改進党などの政党が結成された。各政党は自らの意見や主張を広く民衆に伝える手段として新聞・雑誌を利用するようになる一方、政府はこれに対抗して政府系の新聞を発行するようになり、全国的に数多くの新聞が発刊されては、廃刊するという情況が続いた。

活版印刷設備を販売する平野富二は、時期到来とばかりに、ますます生産設備の増強と活字の改良、品質の向上に努めた。
記録によると、明治11年(1878)の活字販売個数は127万個余りで、これは明治6年(1873)の3.56倍であった。

総まとめとして、
〔前編〕で扱った明治初年(1868)から5年(1872)までは、長崎、横浜、大阪に於ける『崎陽雑報』、『横浜毎日新聞』、『大阪府日報』の発行を通じて、本木昌造が永年の研究により開発した鉛活字を用いた活版印刷による発行が計画されていたものの、活字の製造が思うに任せず、木活字や木版による印刷でスタートせざるを得なかった。
この状態は、言わば近代活版印刷の黎明期に当たる。
対策として同様の原理で鉛活字を製造している上海美華書館のギャンブルを招聘して「迅速製造法」の伝習を受け、平野富二による活字の規格統一、品質・コスト面での生産管理の徹底が行われた。
その結果、神戸に於ける『神戸港新聞』では鉛活字による活版印刷で発行され、埼玉県では布告類の鉛活字のよる活版印刷化が実現した。
この状態は、言わば近代活版印刷の曙光期に当たる。

〔中編〕で扱った明治6年(1873)は、三重県、福岡県、名古屋県(後の愛知県)、新潟県、鳥取県、石川県における活版印刷採用の経緯を平野富二が納入した活版設備を通じて梗概した。いずれも前年に埼玉県が採用した布告類の活版印刷化の影響を受けて、いずれも県庁で平野富二から活版印刷設備を購入して、布告・布達類の活版印刷化が行われた。
印刷業務は御用商人に行わせていたが、やがて印刷設備を下げ渡して、単に布告・布達類の印刷に止まらず、県の広報紙として新聞を発行させるようになった。

〔後編〕では明治7年(1874)以降の秋田県、佐賀県、名東県(後の徳島県)、大阪府、淡路洲本(兵庫県)、函館(北海道)について活版印刷の採用を中心に梗概した。

活版印刷の地方への普及は、平野富二による府県に対する布告・布達類の活版印刷化の提案により急速に広まった。さらに、県庁活版所から民間の御用活版所へ、布告・布達類の単独印刷頒布から広報誌としての新聞の発行へと移行するようになった。
国民の知識欲と政治熱が高まるにつれて、中央のみならず地方に於いても、また、県庁御用以外でも新聞の創刊が相次ぎ、明治8年(1875)には26紙、明治9年(1976)には24紙、明治10年(1877)には37紙が創刊している。

本稿シリーズでは「地方への活版化普及」に視点を置いて述べてきたが、東京においても有力紙は発展を続け、明治10年(1877)以降,こぞって銀座煉瓦街に進出し、その他の新聞社も発行部数をのばしていた。

本木昌造が念願としていた近代的な活版印刷の全国普及は、それを引き継いだ平野富二の技術者としての視点と経営者としてのセンスにより、わが国の置かれていた未開の時代を切り開き、時流を形成しながら発展の途に就くことによって、初めて達成できたことが分かる。

2020年5月29日  公開
同年6月2日 修正・加筆

 

 

国内外の博覧会と活字・印刷機出品(その2)

まえがき
前回の「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)」では、1867(慶應3)年のパリ万国博物館、1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会、明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会について、それぞれの概要と活字・印刷機の出品について紹介し、考察を加えた。

今回は、続いて国内外で開催された各種博覧会への出品について紹介する。
内国勧業博覧会は、明治10年(1877)の第一回に続いて、明治14年(1881)、明治23年(1890)、明治28年(1895)、明治36年(1903)と第五回まで開催された。続いて明治40年(1907)に第六回が予定されていたが、日露戦争による財政悪化で延期され、政府主催による内国勧業博覧会は第五回以降の開催はなかった。

代わって明治40年(1907)に東京府主催で東京勧業博覧会が開催された。それ以降、府県庁またはその関係団体による主催で各種博覧会が開催された。その中で東京築地活版製造所から出品された博覧会は、大正3年(1914)の東京大正博覧会、大正11年(1922)の平和記念東京博覧会、昭和3年(1922)の大礼記念関連地方博覧会であった。

その間、1885(明治18)年にイギリスで開催されたロンドン万国発明品博覧会に活版見本を出品している。1893(明治26)年にはアメリカのシカゴで開催されたコロンブス世界博覧会に出品を予定していたが、都合により出品を辞退している。

本稿で採り上げる明治14年(1881)から昭和3年(1922)の間には、東京築地活版製造所は組織ならびに経営者の異動があった。その内容については必要に応じて個別に触れることにする。

博覧会に出品する製品については、活字・活版が主力であるが、印刷機については活字の販売促進のための製品であったことから、明治17年(1884)に印刷機械製造部門の廃止に伴い、製造に関わった従業員を独立させ、また、大阪活版製造所に製造委託するようになった。このことから、印刷機の博覧会への出品は大阪活版製造所が行うようになる。

今回は、第二回内国勧業博覧会以降の築地活版製造所が出品した各種博覧会について、年代順に紹介する。平野富二が直接関与した第二回内国勧業博覧会とロンドン発明品博覧会については詳細に述べるが、明治22年(1889)6月に東京築地活版製造所の社長を辞任して以降の博覧会については、その概要を述べるにとどめる。

(4)第二回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治14年(1881)3月1日から6月30日まで第二回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。出品人員は31,239人、観覧人員は822,395人、経費は276,148円と記録されている。

出品物は第一区:鉱業・冶金、第二区:製造物、第三区:美術、第四区:機械、第五区:農業、第六区:園芸の6大区分され、その区分に従い館別に陳列された。館内では、横軸通路を府県別、縦軸通路を類別に配列された。

表門内に第一~第四本館が建てられて第1、2区の出品物が展示された。中門内には第五本館(第2区出品物展示)、美術館(第3区)、第一・第二機械館(第4区)、第一~第五農業館(第5区)、動物館(第5区)、園芸館(第6区)が設けられた。

東京築地活版製造所から出品した「活字・印刷機」は第四区第五類に分類され、中門内の第一機械館に展示された。

図29-1 第二回内国勧業博覧会案内図(国文社)
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』より引用〉
この案内図は国文社が足踏印刷機を会場に持ち込んで印刷したものである。

第一から第四本館までは現在の国立博物館前の広場に設けられ、
それ以外の展示館は現在の国立博物館構内に設けられた。
「活字・印刷機」を展示する第一機械館は中門内の左手突当りにあった。

築地活版製造所からの出品
築地活版製造所からは所長の本木小太郎の名前で次の諸品を出品し、銅製二等有効賞牌を授与された。なお、平野富二は、明治11年(1878)9月に築地活版製造所を本木家に返還して、所長本木小太郎、支配人桑原安六とし、自らは本木小太郎の後見人となっていた。

築地活版製造所の出品目録は、次の通りであった。
・印刷機械(鉄製、西洋模造口形、京橋區築地二丁目 桑原安六)
・印刷機械(同上、フート形、同上)
・各種活版(亜鉛刻字、明朝風10種、清朝風6種、行書1種、朝鮮書体4種、片仮名6種、平仮名8種、平仮名続字1種、横文字1種、同上)
・字見本帖(西洋紙、西洋綴、各種書体印刷、同上)

築地活版製造所から出品された印刷機械の「西洋模造口形」と「フート形」は、一緒に出品された「字見本帖」に絵図で掲示されているPRINTING ROLL MACHINE(活版車機械)とPrinting Foot Press(活版足踏機械)と見られる。「ロ形」は「ロール(ROLL)形」を略称したものと推察される。

各種活版の内、漢字は「明朝風」、「清朝風」、「行書」の3種が出品され、初めて書風、書体を示す名称が付けられた。それまでの築地活版製造所の「摺り見本」や「字見本帳」には書体・書風を示す表示は示されていなかった。

「清朝風」の表現については池原香稺が本木昌造に宛てた書簡(出状年不明、もと長崎諏訪神社所蔵)の中に見られ、「明朝風」については『東京日日新聞』(明治8年9月5日付)の記事のなかに見られるので、本木昌造の生前にすでに用いられていた。

本木一門の間では、楷書体(一点一画を崩さずに正しく書いた漢字の正書体の内、紙面に兎毫竹管の筆を用いて書いた漢字書体で、「三過折」つまり三節構造を有するもの。)の一書風で、17、18世紀の清王朝の刊本に見られる自然で柔軟な筆遣いを残した書風を「清朝風」、16世紀頃から大量の経典を木版摺りとするために正書体でありながら点画を標準化した書風を「明朝風」と表現していたと見られる。

「字見本帳」について
出品された「字見本帖」は、明治12年(1879)6月版の活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(改刷)と見られる。それ以降、明治14年(1881)2月までに発行された活字見本帳は見付かっていない。

フィラデルフィア万国博覧会出品用として造られた明治9年版『活版様式』を大幅に増補改版した通称明治10年版の『BOOK OF SPECIMENS』を基に、その後に追加された活字類を加えて、「紀元弐千五百三拾九年 明治拾弐年卯第六月」、「改刷版」と表示された『BOOK OF SPECIMENS』が発行されている。

板倉文庫旧蔵本によると、表紙はマーブル紙表装圧紙、背表紙はクロス装で文字等は印刷されていない。扉ページ1は本木昌造肖像(点・線を組み合わせた凹版彫刻技法による銅版)、扉ページ2は表門と煉瓦造り二階建て事務所の絵図(線刻木口木版)、扉ページ3は明治10年版と同じ『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRNO』の表示の上部に「紀元貮千五百三拾九年 明治拾貮年卯第六月」、下部に「Tsukiji Tokyo, Japan」、「改刷」と表示されている。

図29-2 明治12年6月版『BOOK OF SPECIMENS』の扉ページ
〈板倉文庫旧所蔵〉
上図は本木昌造の肖像(扉ページ1)で、
写真を手本とした砂目石版画である。
手本とした写真では首筋まで髪を垂らした総髪姿であるが、
右耳裏の垂れ髪は修正されて無くなっている。

下図は本書の表題(扉ページ3)で、
中央部分は明治10年版と同じである。

表題の上部に刊行年月として紀元年と明治12年6月と記されている。
表題の下部には改刷版であることが示されている。

扉ページ4は飾り枠罫線の中に各種装飾文字を使用した英文表紙で「THE Printers’ Handy Book OF SPECIMENS」と表題を示し、下方に築地活版の旧マークと「OFFICE AND FOUNDEY, 20-BAN-CHI TSUKIJI TOKIO」とある。なお、「FOUNDEY」は「FOUNDRY」の誤りである。主要文字とマーク、飾り枠罫線は色刷りとなっている。

他社による活版印刷機の出展
この博覧会には、国文社(神田淡路町二丁目4番地、社長竹中邦香)から足踏印刷機(鉄、一人力踏転)と活字鋳造車機械が出品された。この足踏印刷機は平野富二の下から独立した金津平四郎(京橋区常盤町一丁目)による製作であることが表示されている。

この足踏印刷機を使用して、会場で「第二回内国勧業博覧会場案内図」(図29-1)を印刷して来館者に配布し、いかに印刷が便利なものであるかを示した。

国文社は、前島来介(密)が『まいにち ひらがな しんぶんし』を発行するに当たって、明治6年(1873)に山田栄蔵(本木一門出身)が本所区御竹蔵に活版印刷所「啓蒙舎」を設けた。明治7年(1874)に神田淡路町二丁目に移転し、その後、「国文社」と改称した。

その他、長崎県の以文会社(勝山町)から木製一人刷印刷機械が出品された。
以文会社について述べると、本木昌造が新町私塾から発行した『長崎新聞』の廃刊(明治6年12月)に続いて、西道仙が編輯主任となって発行(明治8年12月)された同名の『長崎新聞』がある。その発行所は新町新聞局と勝山街新聞局であった。この『長崎新聞』は、明治9年(1877)1月に『西海新聞』と改題され、さらに、明治15年(1882)になって『鎮西日報』と改題して日刊新聞として発行された。この発行所が勝山街新聞局を引き継いだ以文会社(社長佐々澄治・井上英雄・高見松太郎)である。その後、以文会社は県庁関係の印刷物を出版している。

弘道軒神崎正諠とのひと悶着
築地活版製造所の展示を視察したと見られる活版製造所弘道軒(京橋区南鍋町二丁目1番地)の神崎正諠は、博覧会展示品のなかに清朝風活字があることを見付けて、平野富二との間でひと悶着を起した。

当時の『有喜世(うきよ)新聞』(明治14年11月26日付)の記事を要約すると次のようになる。
「神崎正諠は、明治4年(1871)頃からタガネ師を雇って活字の鋼製元字を造り、すでに四号、五号等の字母数千種を製造した。本年1月になって、資金不足のために製造器械と共に字母などすべてを売却する広告を出した。早速、築地の平野富二が買い取りたいと申し入れたが、神崎正諠は思うところがあって断った。その仕返しかどうか知らないが、その後、築地活版製造所で弘道軒の活字を字母として電胎法による母型を造り、活字を鋳造していることを知った神崎正諠は、このまま捨て置いては犬が骨折してエサを鷹にとられるようなものだと立腹した。近頃、この旨を告訴するべく準備中とのこと。」

築地活版製造所は、本木昌造の頃から清朝風と呼んでいた池原香稺の版下による楷書体を改刻するため、能筆家小室樵山(下谷御徒町)に版下を依頼し、完成した活字を「清朝風」と称して第二回内国勧業博覧会に出品した。ところが、弘道軒活字も同じ小室樵山による版下を用いて「清楷書(正楷書)」と名付けて販売していたため、神崎正諠は弘道軒活字をそのまま父型として利用・複製したものと誤解したと見られる。

神崎正諠が、白装束に陣羽織姿で腰に大刀を帯び、築地活版製造所に乗り込んで抗議談判に及んだ逸話は、三谷幸吉が築地活版製造所の社員だった田中市郎の談話として紹介している。

弘道軒活字は、明治14年(1881)8月1日付けの『東京日日新聞』から本文活字として採用され、明治23年(1890)2月11日まで使われた。その間、相場や商況広告などは築地活字の明朝五号が使用されていた。神崎正諠は、明治24年(1891)12月14日、病没し、次男池上喜之助が跡を継いでいる。

築地活版製造所は、明治16年(1883)7月2日付け『時事新報』に広告を掲載して、「これまで明朝風の各号活字と六号楷書活字を販売して来たが、この度、能筆家に版下を依頼して五号楷書活字を本日から発売し、さらに、二号、三号、四号も製造着手中である」と述べている。このことは、神崎正諠の談判を受けて築地活版製造所は、出品した清朝風6種の内、六号のみを「楷書」として販売し、その他の清朝風5種は販売を差し控えていたことが分かる。

(5)ロンドン万国発明品博覧会
(International Inventors Exhibition, London)
明治17年(1884)11月21日付け農商務省布達第21号により「英吉利国龍動府開設万国発明品博覧会ニ帝国政府参同一件」として「来る明治18年5月より6ヶ月間、英国ロンドン府において万国発明品博覧会が開催されるに付き、出品を希望する者は農商務省に願い出ること。但し、出品手続については追って農商務卿より告示する。明治17年11月21日 太政大臣三条実美、農商務卿松方正義」とあり、それによって政府から布告された。

明治18年(1885)1月12日、平野富二は、本木小太郎の代理として、東京府を通じて農商務省に出品願書を提出した。

それに先立ち明治13年(1880)3月、平野富二は本木小太郎を活版、造船等の視察のためアメリカを経てイギリスに長期海外出張させており、当時、本木小太郎はロンドンに滞在していたとい見られる。

なお、出品願書を提出して3ヶ月後の明治18年(1885)4月に、築地活版製造所は本木家から独立して株式組織となり、有限責任東京築地活版製造所となった。平野富二が社長に就任し、本木小太郎は長崎新町活版所と大阪活版製造所の社長となった。

提出した願書には「出品目録」と「説明書」が添付されている。「出品目録」には次の2項目が記載されている。
第一号 活版見本   創業本木昌三、改良平野富二、製造本木小太郎 原価8円

第二号 同上印刷見本 同上                    原価1円

「説明書」は、築地活版製造所の便箋に手書きされたもので、末尾に追記された一文を除き、その全文は『史学協会誌』(第29号、明治19年1月、史学協会)に「活版事業創始の説明」として掲載されている。それは、片塩二朗著「本木昌造の活字づくり」(『ヴィネット04』、2002年6月、朗文堂)で紹介されている。その手書き原文は東京都公文書館に保管されている。

ここでは、手書き原稿により、その要点を箇条書きにして紹介する。
◆わが国には木板による製版と木駒による組版とがあるが、時間を要し、高価である。
◆本木昌三(注1)はオランダ書籍により西洋印刷術を知り、鉛字による漢文印刷術を上海で調査したが、手続きを怠ったため不成功に終わった。独自に研究の結果、電気メッキ版で母型を造り、手鋳込器械を用いて鉛活字を鋳造することを創始した。
◆嘉永5年(1852)の頃、蘭和対訳辞書(注2)を印刷してオランダに送ったのを初めとする。
◆当時は、この新技術が貴重なものであることを知る者がなく、逆に賎しむ有様だった。そのため、本木昌三は自分の財産を使い盡してしまった。

◆このとき、平野富二が本木昌三の志を賛助し、あらゆる面で計画を見直した。平野富二は、明治5年(1872)に東京に出て事業の拡張を計ったが、当初は販売の道が開けず、その苦労は本木昌三を上回った。
◆明治7、8年(1874、5)頃になって、新聞・雑誌類の発行が増え、布告類の活版印刷採用もあって、活字の販売高が増大し、利益をあげることが出来るようになった。その利益を資本として、活字の地金を厳選し、字体と大小を揃え、西洋文字・朝鮮文字・梵字などに至るまで揃えた。また、2、3年前から和文の再興が行われ、続き仮名活字を造り好評を得た。

◆この活版製造事業において、創業の功は専ら本木昌三にある。改良と弘売の功は平野富二の力が多大である。
◆明治5年(1872)中に東京で開業し、それ以来、明治17年(1884)までの販売高概数(注3)は次の通りである。なお、長崎と大阪の店の販売高は両店合計で東京店とほぼ同数となる。詳細は公表されている資料に譲るが、その概要は次の通りである。
明治5年は、7月中旬に神田和泉町に活版製造所を設営してから年末までの販売実績は個数244千個、重量6貫(1貫=3.75㎏)であった。
明治6年は2,773千個、257貫と個数で11.4倍、重量で42.8倍となり、明治7年はほゞ横ばいで、明治8年は4,554個、1,089千貫、明治9年には7,157千個、1,071貫と個数は年々大幅に増加した。
明治12年になると個数10,141千個、重量1,639貫、更に明治14年には個数15,811千個、重量2,262貫と驚異的な伸びを記録している。
明治17年までの実績合計は、個数107,589千個、重量164,508貫(616,905㎏)となっている。
◆第一回、第二回内国勧業博覧会に出品して賞牌を得た。

◆現在では全国500余の活版印刷所がわが社の製品を使用しており、2、3年前から上海・朝鮮にまで輸出するようになった。
◆わが事業がわが国の文明開化を誘導補助したことは疑うことはできない。しかし、わが国では未だ専売特許権の制度がないため、発明改良に苦労しても利益を得ることが少ない。それを盗み取って擬造・販売することで労せずに過分の利益を得ている。
◆活字の製造法や用法・効能などは西洋諸国と同じである。しかし、母型の製造法に違いがあり、西洋諸国は打込型であるのに対して、わが国ではガラフハニー(注4)型を用いている。(添付説明図は保存されていない。)
◆この鉛製活字は、従来の整版に較べて25~30倍の耐久性がある。
◆整版は急速の用には向かず、他の文章に版を転用することも出来ない。また、文字などを細かく出来ないので、印刷紙数が多くなり、書籍も高価となる。そのため、資力のない学徒は手写本に時日を費やしていた。
◆活版の採用により書籍の値段(注5)は1/2~1/5に下がるものがある。写本で伝わって来た奇書や大冊の書籍も活版印刷されるようになった。また、書籍の印刷発行が容易になったことから著述者を誘導し、その種類は10~15倍となった。
◆わが国が文明開化の進歩に向かう中で、直接または間接に成し遂げた功績については、長くなるので、説明を省略する。
◆追記として、日本文、中国文、欧文などの印刷に要する諸体の文字の販売、あるいは、印刷の引受を行うので、宣教師、その他東洋文字の印刷を希望する者はわが社に来訪されたい。

文中で注記番号を付した内容について、以下に補足する。
(注1):「本木昌三」について、通称は本木昌造であるが、ここでは明治5年(1872)に編成された戸籍上の名前で記している。

(注2):「蘭和対訳辞書」について、従来、福地櫻痴が執筆したとされる『印刷雑誌』の「本木昌造君の行状(前号の続)」の中で、「蘭和通弁の事を記せし一書」としており、それに基づいて研究者による詮索が行われ、それに相当する書物はオランダで発見することができなかったとされている。オランダで再調査すれば発見される可能性があるのではないかと思われる。
注3):「活字の販売高概数」について、明治5年の実績は年央からのもので、明治17年の実績は予測値と見られる。『史学協会雑誌』に掲載された説明書では重量を貫匁からポンドに換算しているが、その換算の過程で桁を誤って記載した箇所がある。
(注4):「ガルフハニー型」について、ガルヴァニー(galvanic)をオランダ語で表現したもので、「電気メッキ法により作成した型」を意味する。
(注5):「整版と活版の印刷物の価格差」について、ここでは学術本を対象にしているが、戯作本を例にとると、仮名垣魯文著『高橋阿伝夜刅譚』は、明治12年(1879)年に木版八編二十四冊本で1円だったのに対して、明治18年(1885)に活版一冊本で36銭だったという。

(6)第三回内国勧業博覧会
明治23年(1890)4月1日から7月31日の間、東京会場(上野公園内)で開催された。
出品人員77,432人、観覧人数1,023,693人、経費486,148円と記録されている。

出品は第一部:工業、第二部:美術、第三部:農業・園芸、第四部:水産、第五部:教育・学芸、第六部:鉱業・冶金術、第七部:機械 の7部門に区分された。

図29-3 第三回内国勧業博覧会場之図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

図右下にある表門内に第一東本館、第一西本館、第二~五館、機械館、
図中央の中門内に農林館、美術館、水産館、動物館、参考館が建てられた。
本館には工業、教育・学芸、鉱業・冶金術と工芸品、
参考館には諸外国の工芸品、美術品、天然物と邦人の特別出品が陳列された。
東京電灯がわが国最初の路面電車を走らせた。

印刷関係は、第一部の第十四類として「写真・印刷」、第七部の第四類として「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」に分類されている。この分野の審査は陽其二(製紙分社総括)が審査官主任を務めた。

「写真・印刷」(第一部第十四類)で褒賞を授与された出品者は、総数121人で、その内、東京府が58人、神奈川県が8人、大阪府が5人、京都府・兵庫県・長崎県が各3人を占めていた。その中で受賞者は総数33人の内、東京府が24人を占めていた。主な受賞者は次の通り。一等有功賞:写真 白金印書    東京府麹町区飯田町   小川一真
二等有功賞:活版印刷類 二面   東京府京橋区西紺屋町      佐久間貞一
三等進歩賞:活字組立板           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
三等有功賞:石版印刷物           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
褒状   :凸版                    東京府日本橋区兜町   陽其二

賞牌について上位から記すと、名誉賞牌(金造)、進歩賞牌(銅造、一等~三等)、妙技賞牌(銅造、一等~三等)、有功賞牌(銅造、一等~三等)、協賛賞牌(銅造、一等~三等)、褒状があった。

この印刷関係の審査報告概要では、「木版印刷は各種印刷物の過半を占め、専ら東京府の出品に属す。一は洋式の木版にして、もとより痂瑕なき能わずといえども、鮮明にして彫刻の労見るべし。一は本邦従来の方法に拠れるものにして、殊に雅致に富める所あり。東京府の出品にして活字を用いて上野公園入口の真景を填綴せるものは、その意匠の斬新たる本邦に於いてかつて見ざる所とす。又、紙型鉛版の如きは鋳造尋常なりといえども需要頗る広く、その製額変多し。」としている。

「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」(第七部第四類)で褒賞を授与された出品者は次の通り。
二等有功賞:活字鋳型              東京府赤坂区田町           大川光次
三等有功賞:十六片紙ロールマシン 大阪府東区北久太郎町  大阪活版製造所
褒状   :石版印刷機           東京府日本橋区本町        浅沼藤吉
同上   :活版印刷機           東京府京橋区常盤町   金津平四郎
同上   :活字額面              大阪府東区北久太郎町      大阪活版製造所
同上   :石版銅板彫刻機械 東京府日本橋区本町        杉浦六右衛門

博覧会に出品された印刷機は、前記の受賞出品以外に、東京府から水谷伊之助の活版器械(柏原栄太郎製造)があった。東京築地活版製造所の出品はなかった。大阪府から大阪活版製造所が受賞した十六片紙ロールマシン以外に半紙六枚摺ハンドプレスを出品し、会場に持ち込んだハンドプレスで自社の大判広告チラシを印刷、配布した。

図29-4  大阪活版製造所の広告チラシ
〈板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』、朗文堂、2011年9月〉

この広告は、会場に於いて半紙六枚摺ハンドプレスで印刷したものと見られる。
この広告の上段には四種類の印刷機械が描かれている。
右から活版印刷車輪機械 紙取付十六片紙摺 ロールマシン、
活版印刷車輪機械 八片紙摺 ロールマシン、
活版印刷手引機械 ハンドプレス、
活版印刷足踏機械 フートプレス
広告の下段右側には、活字各号見本が印刷されている。

審査報告として、「大阪府大阪活版製造所十六片紙(ロールマシン)は良く模造できたということが出来る。構造はよろしく、販売価格も低廉で、印刷された製品は殊に鮮明である。言うまでもなく、これに従事する職工の熟練、印肉の良質、活字の良品によることが少なくないとは言え、多年の経験により機械各部の構造が宜しくなければ、決して可能なことではない。」としている。

東京築地活版製造所は、明治23年(1890)1月に曲田成が社長に就任して間もなくの頃であった。本博覧会では「写真・印刷」部門で石版印刷物を出品して受賞しているが、すでに明治17年(1884)3月に印刷部を新設して、石版を含む印刷事業にも注力するようになっていた。

なお、平野富二の経営する東京石川島造船所は第七部「機械」、第六類「瓦斯・電気・汽力・風力等の発動機械及び汽缶」として舶用高圧蒸気機関を出品した。審査報告には「東京府石川島造船所 舶用高圧蒸気機関は構造・意匠とも程よく、各部はこれに比準してとても適当となった。しかし、造船所の規模が大きいことに比較して、この類の機械の出品が少ないのは残念である」とし、その出品に対して一等有功賞が授与された。

(7)コロンブス世界博覧会(シカゴ万国博覧会-1893年)
The World’s Columbian Exposition at Chicago, 1893
コロンブスの新大陸発見400年を記念してアメリカのシカゴで1893(明治26)年5月1日から10月30日まで開催された。その内容は科学技術の発展と工業への応用が中心となっていた。

わが国は宇治の平等院鳳凰堂を模した三棟から成る「鳳凰殿」と日本庭園を建設し、美術工芸品を中心に工業製品から園芸まで幅広く日本の文物を紹介した。このとき、東京築地活版製造所も出品を申請したが、明治25年(1892)5月5日付けで「閣龍(コロンブス)世界博覧会出品取消願」を東京府に提出して、出品を辞退している。

東京築地活版製造所は、社長曲田成の組織改革と業界活動の結果、経営は順調に拡大し、改正明朝活字や新製欧文活字を相次いで発売していた。

(8)第四回内国勧業博覧会
明治28年(1895)4月1日から7月31日の間、京都府岡崎公園に於いて開催された。
前年の明治27年(1894)には日清戦争が勃発したが、京都の遷都1,100年の記念事業として運営された。出品人員は73,781人、観覧人数は1,136,695人、経費27,256円と記録されている。

展示館としては、美術館、工芸館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館が主要なものであった。機械館の動力源が石炭から電力に替わり、会場外では、わが国初めての市街電車によって京都~琵琶湖疎水のほとりまでを連絡した。

印刷関係の出品区分は、第一部「工業」の第三類「写真・印刷」の中に其一「写真・幻燈画並びに其の器具」、其二「印刷物・其の用具」があり、さらに、第七部「機械」の第四十九類「製造機械」の其四「製紙、印刷、製本、活字、文具、‥‥等の機械」として2分野にまたがって区分されている。

「印刷物・印刷用具」(第一部第三類其四)については、東京府から東京築地活版製造所が「活字」を出品し、名誉賞銀牌を授与された。その審査評によると、「故本木昌造の遺志を継ぎ、活字鋳造、製版、印刷の業を営み、早くからその名声を海内に博し、功績顕著で、斯業の模範と為すに足りる」としている。

なお、東京築地活版製造所は、前年の明治27年(1894)10月16日に社長曲田成が姫路に出張中に脳溢血で客死し、代わって名村泰蔵が専務取締役社長に就任した。支配人は野村宗十郎が曲田社長時代に引続き支配人を務めていた。明治28年(1895)1月には、東京築地活版製造所から『座右の友(第二)』を発刊している。

東京築地活版所は、博覧会の開催に合わせて、明治28年(1895)3月、『印刷雑誌』に「改正明朝活字発売の広告」を掲載して、「第四回内国勧業博覧会の開催に際し、弊社改正文字発売の緒に就きたるを以て、其の会場の当日、すなわち本年四月一日より、三号明朝活字、五号明朝活字、六号明朝活字および新たに製造するところの三号楷書の4体を更に発売せんとす」としている。

「印刷機械」(第七部第四十九類其四)については、大阪府から大阪活版製造所の印刷車機械、森川松之助の足踏印刷機械、加藤駒蔵の活字製造機械、中島幾三郎の印刷機械が出品され、東京府からは杉浦六右衛門の写真版印刷機械が出品された。
大阪活版製造所出品の「印刷車機械」について、審査報告では「手本を海外に採るとは言え、着々と改良を施し、構造は堅牢で、製作は佳良である。製品も鮮明に印刷でき、充分実用に適している」としている。

東京築地活版製造所は、印刷機械の製造を大阪活版製造所に委託していたので、出品はなかった。

(9)第五回内国勧業博覧会
明治36年(1903)3月1日から7月31日の間、大阪府天王寺今宮の天王寺公園で開催された。出品人員は130,416人、観覧人数は5,305,209人、経費1,066,611円と記録されており、最後にして最大の内国勧業博覧会となった。

展示館として農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館の外に台湾館、参考館が建設された。第二会場として堺に水族館も建てられた。

出品は第一部「農業及園芸」、第二部「林業」、第三部「水産」、第四部「採鉱及冶金」、第五部「化学工業」、第六部「染織工業」、第七部「製作工業」、第八部「機械」、第九部「教育、学術、衛生及経済」の9部に分類された。

印刷関係の出品は、第八部の第四十六類「印刷機械」(其一「製版機械」、其二「印刷機械」と、第九部の第五十三類「写真及印刷」(其一~其十の内、其五「活字、活版、字母」、其六「整版、印刷器具、用品」、其八「印刷物」)に区分されている。

「印刷機械」(第八部)については、東京府から前田義胤が印刷機械、浅沼藤吉が汽動力石版印刷機械、全紙用写真版印刷機械、四つ切用写真版印刷機械、鉄葉版印刷機械、三色版用印刷機械、銅板用印刷機械の6機種、大阪府から中島幾三郎が四六判半裁石版印刷機、四頁形便利印刷機の2機種、浪花活版製造所が活版印刷機械四頁足踏ロール、坂本辰三郎が石版印刷器械を出品した。

活字」(第九部)については、東京築地活版製造所が、9ポイント活字約3,000個、その他サイズのポイント活字10種5,60個を出品し、名誉銀牌を授賞した。
このころ、東京築地活版製造所では社長名村泰蔵の下で支配人となっていた野村宗十郎がポイント活字の普及に努めていた。

この博覧会での受賞を記念して、同年11月1日、東京築地活版製造所は、それまでの集大成として『SPECIMEN BOOK OF TYPES 活字見本』を印刷し、関係者に贈呈した。しかし、この活字見本には内国勧業博覧会に出品した9ポイント活字は、まだ、掲載されていない。顧客の要求に即応できる社内態勢が充分整っていなかったものと推察される。

図29-5 明治36年11月版『活版見本』の表紙
〈旧板倉文庫所蔵、板倉雅宣著『活版印刷発達史』より〉

この明治36年11月版『活字見本』は、
468×182mm、468ページの大冊で、
明朝体、楷書体、平仮名、片仮名、各種装飾書体(色刷見本を含む)、
ゴチック、竪平型、梵字、朝鮮文字などから成る。

(10)その他の地方博覧会
国が主催した内国勧業博覧会は明治36年(1903)の第五回を以て終了した。それ以降は各府県あるいは関係団体主催による博覧会が開催された。東京築地活版製造所は下記の各博覧会に活字等を出品して受賞している。

1)東京勧業博覧会
明治40年(1907)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池畔(第二会場)、帝室博物館西側竹の台(第三会場)に於いて開催された。本博覧会は、もともと、明治40年(1907)に政府主催の第六回内国勧業博覧会の開催を予定していたが、日露戦争の勃発で財政悪化のため代わって東京府主催で開催されたものである。

東京築地活版製造所(社長名村泰蔵)は仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。取締役支配人の野村宗十郎は同博覧会の審査を嘱託された。

2)東京大正博覧会
大正3年(1914)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池周辺(第二会場)に於いて開催された。

東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「活字類」は名誉大賞牌を授賞した。なお、社長野村宗十郎は博覧会商議委員に就任した。

3)平和記念東京博覧会
大正11年(1922)3月10日から7月31日まで、東京上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「各種活字類」は名誉大賞牌を授賞した。

4)大礼記念関連の地方博覧会
・大礼記念国産振興東京博覧会
昭和3年(1928)3月24日から5月22日まで、東京商工会議所主催により上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長松田精一)は国産優良時事賞を受賞した。

・ 東北産業博覧会
昭和3年(1928)4月15日から6月3日まで、仙台商工会議所主催により仙台市川内東西両公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・御大典奉祝名古屋博覧会
昭和3年(1928)9月15日から11月30日まで、名古屋の鶴舞公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・大礼記念京都大博覧会
昭和3年(1928)9月20日から12月25日まで、京都の岡崎公園(東会場)・京都刑務所跡地(千本丸太町、西会場)・恩賜京都博物館(南会場)に於いて開催された。東京築地活版製造所は国産優良名誉大賞牌を授賞した。

なお、東京築地活版製造所は、1)の東京勧業博覧会の時は第四代社長名村泰蔵、支配人野村宗十郎であったが、2)と3)の東京大正博覧会と平和記念東京博覧会の時は第五代社長野村宗十郎、4)の大礼記念博覧会の時は第六代社長松田精一により出品された。

ま と め
前回の(その1)では、その最初として1867(慶應3)年に開催されたパリ万国博覧会で渡仏した清水卯三郎が「フランスみやげ」とした石版印刷機と足踏印刷機について紹介し、1876(明治9)年にアメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会と明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会に出品した活字と印刷機について紹介した。

今回は(その2)として、明治11年(1878)9月に平野富二が本木小太郎に築地活版製造所の経営を返還・移譲し、本木小太郎の後見人となって以降について紹介した。

明治14年(1881)に第二回内国勧業博覧会が開催され、本木小太郎の名前で各種印刷機と各種活版、字見本帖を出品した。また、1885(明治18)年にはロンドン万国発明品博覧会には平野富二が本木小太郎の代理として活字見本と活版印刷見本を出品した。

明治18年(1885)4月、有限責任の株式組織として本木家から独立した東京築地活版製造所は、平野富二を初代社長に選任した。明治22年(1889)6月になって平野富二は社長を辞任して、第二代社長は空席のまま、本木小太郎が社長心得となった。以後、平野富二は東京石川島造船所の経営に専念して、自ら東京築地活版製造所の経営に関与することはなかった。この間、明治23年(1890)に開催予定だった第三回内国勧業博覧会の出品準備が行われたが、博覧会開催は曲田成が社長に就任した後のことである。

明治23年(1890)1月、本木小太郎の辞任により、曲田成が第三代社長に就任した。野村宗十郎は社長曲田成の下で明治25年(1892)8月に副支配人、明治26年(1893)8月に支配人となった。この間、明治23年(1890)4月から第三回内国勧業博覧会が開催され、東京築地活版製造所から活版組立板と石版印刷物が出品された。また、大阪活版製造所から十六片紙ロールマシンと活字額面が出品され、会場内で活版印刷機の図入り広告が印刷、配布された。

明治27年(1894)10月、社長曲田成の病死により名村泰蔵が第四代社長に就任した。この間、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会では改正明朝体活字を出品、明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会ではポイント活字を出品して名誉銀牌を授賞、明治40年(1907)の第六回内国勧業博覧かに代わる東京勧業博覧会では仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。

明治40年(1907)9月、名村泰蔵の病死により支配人野村宗十郎が第五代社長に就任した。大正14年(1925)4月、野村宗十郎の病死により松田精一が第六代社長に就任した。
この間、府県庁またはその関係団体主催の各種博覧会に活字を出品して名誉賞を受賞している。

東京築地活版製造所は、業界の老舗でリーダーであったことから、出品した活字・活版については毎回、何らかの賞牌を授賞している。しかし、印刷機については、途中から自社内での製造を中止し、大阪活版製造所に委託したことから、機械分野での出品は見られなくなった。一方、明治17年(1884)から社内に印刷部を新設して印刷事業に本格進出し、石版印刷に力を注いだことから、石版印刷物の出品で受賞するようになった。

本稿では、平野富二が関わった博覧会の出品については詳しく述べたが、それ以降の博覧会については概要を述べるにとどまった。国立国会図書館には博覧会関係資料が数多く保管されており、それらは「国立国会図書館所蔵博覧会関係資料目録」(『参考書誌研究』、第44号、1994.8、国立国会図書館発行)に掲載されている。参考になる筈である。

2020年1月28日

活版印刷機の製造体制

まえがき
平野富二による活版印刷機の国産化については前々回(2019年5月)のブログで紹介した。その機種は、手引印刷機、ロール印刷機と足踏印刷機の3機種である。

販売を目的として最初に国産化を手掛けた機種は、小幡正蔵(文部省御用活版所の所長)が購入して使用していたイギリス製のアルビオン型手引印刷機であった。これは、半紙一枚摺りの小型機で、これを形取り・採寸して図面化し、部品を近くの石川島造船所に依頼して製造したものであった。
なお、石川島造船所は、明治5年(1872)10月になって、石川島修船場と石川島造兵所に分割され、印刷機の製造に必要な設備である鋳物小屋・鍛冶場・鑢場は石川島造兵所に属すことになった。

しかし、アルビオン型半紙一枚摺りの手引印刷機が製品として完成するまでの間は、本木昌造の経営する長崎の新町活版所で使用していた木材・金属混用の手引印刷機を長崎製鉄所で製造して貰い、東京で組立てて販売に供していた。

この木材・金属混用の手引印刷機は、本木昌造が長崎の新町活版所を立ち上げる際に、社員が中国の上海美華書館で見学したワシントン型手引印刷機のスケッチにもとづき、本木昌造が自分の経験を加えて図面化し、長崎製鉄所に製作を依頼したものであった。したがって、商品として販売するには難があった。

明治5年(1872)9月に埼玉県庁が、平野富二の説明を受けて、政府の布告を管内に限って活版印刷により複製して配布する許可を政府から得た。これを契機として、各府県庁では活字と活版印刷機の導入をおこなうようになった。

長崎県は、明治5年(1872)11月に「今後、布令には活字を使用す」と布達している。また、福岡県は県庁活版局を設け、明治6年(1873)4月に平野富二から活字と活版印刷機を購入して布告や公報の印刷を開始した。さらに、新潟県も県庁活版局が、平野富二から活字と活版印刷機を購入して、同年7月に『新潟県治報知』を創刊している。お膝元の東京府の布達類は、政府の印書局や印刷局で印刷された。

県庁直営ではないが、石川県の金沢町区会所は、明治6年(1873)に鉛製活字4万個と鉄製活版印刷機1台を東京から取り寄せて、活版所を開設している。また、名古屋では県庁御用達の中川利兵衛が県庁の役人と二人で平野富二の活版製造所を見学し、二号活字を買い求め、東京で見た手引印刷機を木製で模造して活版印刷を始めた。明治7年(1874)になって鉄製の小型手引印刷機とフート(手フートと称する卓上手押印刷機とみられる)を購入している。

目的を異にするが、尼崎の元藩士三浦長兵衛は、藩士授産の道として活字製造・活版印刷業を開業するため、明治5年(1872)9月、上京して平野富二に面会し、約6ヶ月間滞在して伝習を受けた。明治6年(1873)になって平野富二から活字と手引印刷機を買い受けている。

このように、各府県庁では県庁内に活版局を設けたり、民間の御用活版所を指名したりして、活字と活版印刷機を購入する動きが活発となった。平野富二にとっては、本業の活版製造と共に活版印刷機の製造体制をも早急に整備する必要が生じた。

活版印刷機の国産化は神田和泉町で開始され、鉄製小型手引印刷機が販売に供された。その後の手引印刷機の大型化とロール印刷機・足踏印刷機の国産化は、築地二丁目に移転した後に実現している。

平野富二の経営する東京の活版製造所では、神田和泉町から築地二丁目に移転して本格的に活版印刷機の製造体制を整えたが、やがて、横浜製鉄所に製造を委託、さらに、平野富二が石川島で造船事業を始めると、活版器械部を石川島に移転させ、石川島造船所で製造するようになった。その後は第4代社長名村泰蔵が活版印刷機製造を目的とした月島分工場を建設するまで、築地活版製造所の名前で販売はおこなうが、自社内での製造はおこなわなかった。

活版製造を本業とする築地活版製造所にとって活版印刷機の製造販売は、活字・活版を買ってくれる顧客を増やし、その便宜を与えることが目的であった。

本稿では、活版印刷機の製造体制に焦点を当てて、平野富二がどのように対処したかについて述べる。また、平野富二の没後に月島分工場を建設して活版印刷機の製造を再開したことについても触れることとする。

(1)神田和泉町における活版印刷機製造
平野富二は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を立ち上げた直後から、木材彫刻や金属加工に優れた技を持つ江戸の職人を探し出して、積極的に自分の工場に招聘した。

神社仏閣の飾金具師の小倉吉蔵(後に「字母吉」として独立)を字母係、路傍の印判彫刻師竹口芳五郎を版下書師、元館林藩の鎧鍛冶師で石川島造船所の職工となっていた川辺某と元金沢藩の鉄砲鍛冶師金津平四郎・清次郎親子を器械製造・修理師として雇用したことが知られている。

ついでながら、元彦根藩の鉄砲師だった大川光次がミシン器械などを製造していることを聞き込んだ平野富二は、活字鋳型師となって貰いたいと頼み込んだ。大川は平野に雇われることなく独立して活字鋳型の製造を開始し、活字の鋳造もおこなった。のちに大川は神崎正誼と知り合い、神崎が弘道軒活字製造業をはじめる契機を与え、活字鋳造機の国産化を果たした。

築地二丁目に移って最初に印刷機製造に関係した人は、石川島造船所の職工で元館林の鎧鍛冶師川辺某、元金沢の鉄砲鍛冶師金津平四郎・清次郎父子、柏原栄太郎、速水英喜の諸氏で、柏原市兵衛が主任となっていた。

大阪活版所から派遣された速水英喜を除いて、その他の者たちは神田和泉町に居た頃から、活字鋳造に必要な器具や器械類の補修をおこないながら、長崎から送られてきた長崎製鉄所製の活版印刷機の部品を組み立て、さらに、小幡正蔵が所有していた小型活版印刷機を手本にして国産化に携わっていたと見られる。

本稿の「まえがき」で述べたように、各府県庁直轄の活版所や民間経営の県庁御用活版所に平野富二が納入した活字と活版印刷機の中には、時期的にみて築地二丁目に工場を移転した明治6年(1873)7月以前に納入されたものがある。
初期に納入した活版印刷機は長崎製鉄所に依頼して製造した木・鉄混用製の印刷機と見られるが、その後に納入した「鉄製小型」と表示のある印刷機は平野富二が神田和泉町で国産化したものと見ることができる。

明治6年(1873)の平野富二の「記録」によると、「5月24日、米国より注文の内、銅板削り器械ならびに真鍮1箱参りし事」とある。これにより、活版製造に必要な器械・器具類を製造するため、アメリカに工作機械を注文していたことが判る。
活版や印刷機械を製造するための金属加工のできる工作機械がつぎつぎと入荷する中で、平野富二はひそかに築地への移転を計画していたと見られる。

明治6年(1873)8月に『東京日日新聞』に掲載した築地移転の広告で「これまで、神田佐久間町三丁目において活版ならびに銅版、鎔製摺機械、付属器とも製造いたし来たり候ところ、‥‥」と述べている。文中にある「神田佐久間町三丁目」は、活版製造所のある神田和泉町と道路を介した対面の町名で、前年に名前が付けられたばかりの神田和泉町に代えて表示したと見られる。また、「鎔製摺機械」は、鋳造による印刷機械を意味する。

(2)築地二丁目に移転後の印刷機製造
活字の需要が急速に伸び、併せて活版印刷機の引き合いが多くなったことから、神田和泉町の門長屋では手狭となり、また、地理的にも政府省庁や活字需要者の多い中心地から離れていて不便であることから、築地二丁目に土地を求めて移転することになった。

最初に買い求めた土地は120坪(400㎡)余で、その場所は築地二丁目20番地であった。この土地に木造二階建ての工場建屋を建築して、明治6年(1873)7月、神田和泉町から移転してきた。

引続き20番地に隣接する土地を買い求め、21、22番地の土地に先の工場建屋を連棟で延長・増築した。この工場建屋は工期を急ぐため木造としたが、当時、この地区は、政府の「本家作見合わせ令」により、区画整理と耐火建築義務付けにより、木造建築は仮建築としてのみ認可された。

築地二丁目における用地の買い増しは引続きおこなわれ、築地川沿いの道路に面した17、18、19番地の土地を取得し、18番地の土地に自費官築(自費で官に依頼して建築)による二階建煉瓦家屋を新築して事務所とし、活版製造所の正門と通用門を設けて「長崎新塾出張活版製造所」の表札を掲げた。

初期の活版器械製造工場
活版印刷機の製造をおこなう器械製造部門は、築地移転当初は、仮工場と称した木造の連棟二階建工場内にあったと見られる。明治7年(1874)5月になって、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始した。

築地に移転してから2年後のことになるが、本木昌造の死去を報ずる「雑報」『東京日日新聞』(岸田吟香筆 明治8年9月5日)の記事の中に次のような説明がある。その記事を平易な文章に直して以下に紹介する。

「非常に大きな製造場を新しく建ててありましたから、中に入ってみました。そこには大勢の職人が蒸気動力を用いて仕事をしていました。活字ばかりではなく、銅や鉄の加工は何でも出来ると見えます。」

この記事により、平野富二は築地の新工場に金属を加工する工作機械とそれを駆動するボイラ・蒸気機関を据え付けていたことがわかる。

先に紹介したように、明治6(1873)5月には、アメリカから銅板削り器械が到着ている。また、平野ホールに保管されている反故紙の中に「アメリカのニューヨーク州にあるSS社にて製造中の4馬力蒸気機械2機の代価900ドルの支払いを平野富二が分割払いとして承諾した」旨を記した書状(1874年12月18日付)が残されており、これらが新工場に据え付けられ、使用されていたことを示すものである。

築地移転を期に、大阪の新塾出張活版所で印刷係見習だった速水英喜が築地に派遣されて、築地の鉄工部に加わった。この頃から大阪の活版所でも印刷機の製造を手掛ける意図があったと見られる。

速水英喜(1854-1909)は、大阪の長崎新塾出張活版所支配人吉田宗三郎の縁で、開設したばかりの活版所に入り、印刷係見習となっていたが、印刷術ばかりでなく印刷機の構造に興味を持ち、自分もこのような機械を造ってみたいと念願していたという。大阪の活版所には,本木昌造が薩摩藩から譲り受けたワシントン型手引印刷機があった。

活版器械専用工場の建設
明治9年(1876)5月になって、平野富二は神田川沿いの神田左衛門河岸にあった300坪(約990㎡)余りの醸造蔵一棟を買い取り、その用材を用いて活字仕上場を建てた。その近くに余った木材を用いて長屋二棟を建てて、印刷機を含む活版器械類を製造する鉄工工場とした。これは、日増しに増大する活字と印刷機械の需要に対応して、新たな設備投資をおこなったものである。

図27-1 築地活版製造所の建物平面配置図
〈参謀本部「五千分一東京図」、明治17年3月測図、部分〉

本図は2枚からなる地図を合成したものである。
築地二丁目13~16番地の区画を図の中央に示す。
当初の仮工場は既に煉瓦造工場に建替えられている。
事務所は煉瓦造で、その横に正門と通用門がある。
活字仕上工場の余材で建てた鉄工工場において
印刷機を製造していたと見られる。
平野富二の旧居と新築し移転した新居を参考に示す。

その鉄工工場の場所は、正門を入って左手にある煉瓦建事務所の奥にある「く」の字形の細長い建物と推測される。その建物に併設する形でボイラ小屋と煙突らしきものが描かれている。

部品・素材の調達:当初は街の鋳物師に発注
神田和泉町の時代から印刷機械を製造するための素材は、もっぱら、街の鋳物師に注文したと見られる。その中で、松井寅吉と関本伝五郎の名前が判っている。

平野富二の「記録」によると、「明治6年(1873)9月14日、田中壮三注文ロール鋳型寅吉より相納。」とある。これは日付けから見て築地に移転後のことであるが、田中壮三から注文を受けたロール印刷機を製造するに当たって、出入りの寅吉に頼んで鋳型を造ってもらったとしている。その背景には、ロール印刷機の鋳物が大き過ぎて街の鋳物師では鋳造できないため鋳型だけを納入させて、石川島造船所に頼んで鋳造することにしたものと見られる。

ここに記されている寅吉とは松井寅吉のことで、『明治名工鑑』によると、4代前から鋳物師として仏具や置物を製造していた。明治4年(1871)から平野富二の注文を受けて印刷機を含めた鋳物製の器具や部品を製造していた。明治8年(1875)になって本所中ノ郷から神田佐久間町三丁目に転居したが、すでに平野富二の活版製造所は築地二丁目に転居していた。明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会には平野富二の依頼で高さ60㎝の置物を出品したという。

もう一人の関本伝五郎については、平野富二の手紙が残っている。手紙の日付は明治7年(1874)11月5日で、その内容は、注文した鋳物の不足分を早く送るようにとの督促状である。『明治名工鑑』によると、関本伝五郎は本所番場台の鋳物師で、明治2年(1869)に開業以来、舶来器械の模造をおこなっていた。明治10年(1877)の製造品目は「活版器械、暖炉、その他鉄鋳物は何品に限らず」としている。

大形部品の製造:石川島造船所と横浜製鉄所に依頼
街の鋳物師では手に負えない大形部品の鋳造や加工については、当初は海軍省所管の石川島造船所、次いで内務省駅逓寮所管の横浜製鉄所に依存せざると得なかった。 

平野富二は鉄製小型手引印刷機を国産化するに当たって、大形部品の鋳造を石川島造船所に依頼していたと見られる。

しかし、明治5年(1872)10月30日になって石川島造船所は石川島修船所と石川島造兵所に二分され、これまで平野富二が製造委託していた鋳物部品の製造工場は、造船部門から切り離されて、石川島造兵所の下で武器製造をおこなうことになった。
そのため、鋳物部品の製造委託が困難になったらしい。それでも頼みに頼んで何とか製造して貰っていた。石川島造兵所は、明治8年(1875)1月に築地小田原町の海軍省兵器製造所に併合され、設備の移転がおこなわれ、以後は製造委託ができなくなった。

横浜製鉄所については、明治8年(1875)5月に平野富二が親友杉山徳三郎と共同で横浜製造所敷地内の建屋を落札した記録がある。同年11月になって、高島嘉右衛門・大浦慶・杉山徳三郎の3名が連名で「横浜製鉄所拝借之願書」を提出し、明治9年(1876)2月から杉山徳三郎により横浜製鉄所で器械・器具類の製造が開始された。

その3か月後に、高島嘉右衛門が共同経営から脱退したことを機に、平野富二と他1名が経営に加わった。それによって平野富二は横浜製鉄所で活版印刷機を含む活版機械類の製造をおこなう道がひらけた。

石川島造兵所の併合移転により部品の製造委託ができなくなった明治8年(1875)1月から、杉山徳三郎が横浜製鉄所を借用して諸器械の製造を開始する明治9年(1876)2月までの約1年間、平野富二がどのように活版印刷機の部品調達をおこなったかは明らかではないが、鋳物師関本伝五郎に設備増強を依頼して対処した可能性はある。

明治9年(1876)7月4日付け『東京日日新聞』に、横浜製鉄所拝借人として平野富二(東京築地二丁目活版製造所)と杉山徳三郎(横浜製鉄所寄留)とが連名で広告を出している。それには、「諸機械製造 すべて鉄鋳物ならびに真鍮鋳物製造」とし、それに続けて具体的製品名を挙げている。その中に「〇活版諸機械類」が含まれている。

図27-2 横浜製鉄所の諸機械製造広告
〈『東京日日新聞』、明治9年7月4日〉

平野富二と杉山徳三郎連名の横浜製鉄所の広告である。
5行目から6行目にかけて「〇活版諸機械類」と記されている。

明治9年(1876)10月になって、平野富二は横浜製鉄所の経営から手を引いた。これは、もと石川島造船所の跡地を借用して念願の造船業に進出する目途が立ち、それに注力する必要があったからである。活版諸機械類は、横浜製鉄所で引き続き製造することとしたが、平野富二から依頼された分に限ることとした。

なお、明治10年版活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』に広告が掲載されている。それには、築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二が製造できる製品名が列記されている。上段に活版印刷機を含む活版関係の製品12項目が記されており、下段には一般産業向けの製品10品目が挙げられている。

上段の12品目の中に、「活字製造円形の活版摺器械」と「手業ならびに足業活版摺写押器械類」が含まれている。前者は「ロール活版印刷機械」のこと、後者は「手引活版印刷器械と足踏活版印刷機械」を示すと見られる。

下段の10品目は、先に横浜製鉄所拝借人として『東京日日新聞』に掲載した広告と同じ品目となっている。これらは活版印刷とは関係ない製品で、平野富二の思いの一端を示すものと見られる。

(3)築地にあった鉄工部の石川島移転
明治9年(1876)年10月30日、平野富二は海軍省主船局との間で海軍省所轄の石川島地所ならびに残存施設の借用契約を締結した。

借用した石川島地所は、閉鎖された旧修船所と他所に移転した旧造兵所の跡地で、旧修船所の跡地には総トン数600トンまでの船舶を収容できるドライドック(乾式船渠)と付属設備が残されていた。旧造兵所の跡地には諸設備の建屋だけが残されていたが、これらは借用対象外であったため、別途入札の上払い下げられた。しかし、機械工場の建屋だけは移設されたため、新設を余儀なくされた。

この頃になると築地地区は人家が密集するようになって、ボイラの燃料として石炭を燃やすことによる油煙の発生や機械の加工時に発生する騒音が近隣の人たちに迷惑を及ぼすようになっていた。

そのようなこともあって、平野富二は石川島造船所の構内に機械工場の建物を新築して、築地にあった蒸気機械(ボイラとエンジン)と工作機械(平削り盤・旋盤・蒸気ハンマーなど)を石川島に移設した。これにより、活版器械類の製造と共に船舶用器械類の製造もおこなうこととした。

蒸気機械と工作機械の移設に伴い、築地の鉄工部は石川島造船所内に設けられた徒弟部屋の一部に移された。

明治11年(1878)秋になって、平野富二は長崎で本木昌造三年祭を営み、関係者を招いて東京における活版・造船事業を本木家に引き継ぐことを申し出た。出資者により評議の結果、築地の活版製造所は本木家の所有とし、石川島造船所は平野富二の所有となった。これに伴い、活版印刷機の製造を石川島造船所に委託する形式となったと見られる。石川島造船所内にあった鉄工部はそのままで、印刷機械部と改称されたらしい。

明治12年(1879)の印刷機械部(もと鉄工部)の陣容は、『本邦活版開拓者の苦心』によると、柏原栄太郎、金子秀太郎、速水英喜、三木 某、辨木 某、江口 某、湯浅彦吉、伏谷米吉、太田 某、中島幾三郎の10名とされている。

神田和泉町時代からのメンバーだった金津平四郎・清次郎父子は、鉄工部が石川島造船所内に移転されるに際して独立し、京橋区常盤町2番地に活版器械製造所を設けた。なお、牧治三郎によると、それより前の明治7年(1874)に築地活版所を辞めて独立したとしている。

印刷機械部のメンバーに加えられた中島幾三郎(1858-1924)は、大垣藩士の次男で、明治7年(1874)に単身大阪に出て、やがて牛肉店を開業した。明治9年(1876)になって印刷業に転身すべく長崎新塾出張の大阪活版所に入所した。印刷技術よりも機械に興味を持っていたため、明治10年(1877)に印刷機械製造見習いとして石川島造船所内にあった鉄工部に派遣された。ロール印刷機の製造を担当し、鑢仕事で妙腕を振るったという。

先のメンバーの中には速水英喜の弟兵蔵の名前が見られないが、記載漏れと見られる。速水兵蔵(1860~?)は兄英喜を頼って上京し、船乗り業を志願して三菱商船学校に入学の段取りを付けたが、平野富二の勧めで兄と共に印刷機械の製造に従事することになった。それは明治11年(1878)のこととされている。

石川島造船所で印刷機械を製造していたことについては、東京石川島造船所発行の『石川島技報』(昭和17年6月発行)に紹介されている。要点をかいつまんで紹介する。

「造船所という名称は、何となくスケールの巨大な製品を想像させやすいが、この石川島で小型印刷機械や活字機械を造っていたと云うことは、ちょっと奇異の感なきを得ない。平野先生が造船所を開くと同時に、先に築地二丁目の活版製造所で製造していた機械を全部、石川島に移したと聞いたならば、その奇異の思いはおのずから解消するであろう。(中略)造船所において印刷機械を製造すると同時に、技術者も養成して、日本の印刷界に多大の貢献をなしたことは明らかである。一方、築地の活版製造所が平野先生の指導下に営業を継続していたことは勿論である。(中略)一例として、図に示す印刷機械は明治17年(1884)頃までの製品である。」

図27-3 石川島造船所で製造した印刷機械
〈『石川島技報』、第6巻 第15号、昭和17年1月〉

ここに掲載されている3種の印刷機はいずれもロール印刷機である。
左の写真は明治12年版活字見本帳にある活版車機械と同一である。
左の写真は大正3年版『活字と機械』にある
四六判八頁掛印刷機械と酷似している。

(4)印刷機械部の解散と離職者の独立支援
明治17年(1884)になって、石川島造船所内にあった築地活版製造所の印刷機械部は閉鎖され、解散した。

その理由は定かではないが、築地活版製造所の印刷機製造拠点を大阪の活版所に移すことにしたと推測される。当時、両所は共に本木家が所有し、本木小太郎が代表となっていた。

大阪の活版所は、明治11年(1878)に北久太郎町二丁目に600坪余りの土地を購入して移転し、二丁目40番地にある事務所に隣接して広大な工場を建設して、活版製造所と改称した。明治14年(1871)7月になって速水英喜・兵蔵兄弟と中島幾三郎が大阪に戻り、大阪での印刷機製造を本格化させていた。

図27-4 大阪活版製造所の工場建物
〈島屋政一著『印刷文明史』より〉

左奥の民家風の建物が事務所で北久太郎町二丁目40番地に当たる。
手前の背の高い長屋が印刷工場とされているが、
活版製造・印刷機製造もここで行われたと見られる。
頂部の3階に相当する部分は換気用と見られる。

やや後年のものになるが、大阪活版印刷業仲間事務所の「活版印刷業仲間職工住所姓名簿」(明治21年6月調べ)によると、大阪活版製造所の職工168人の内で鉄工課に所属する者は速水英喜を含めて46人で、活版製造所内で最も大きな部門となっている。

小型の手引印刷機や手フートと呼ばれる卓上型手押式印刷機などは個人企業でも製造が可能であることから、平野富二は、職を覚えた従業員で事業意欲のあるものを独立させ、築地活版製造所の名前で販売する途を選んだとみられる。

明治17年(1884)3月の「活字版並印刷器械製本器械其他定価」(改正版)と題した築地活版製造所の製品定価表によると、手引印刷機は半紙四枚摺、半紙二枚摺、半紙一枚摺、美濃一枚摺の4サイズ、車機械(ロールマシーネ)は大形、小形の2サイズ、足踏機械(フートマシーネ)は美濃版の1サイズが販売されていたことが分る。これによって、当時ほとんどの需要に対応できるところまで品揃えができたと判断したと考えられる。なお、車機械の大型は四六版16頁掛、小型は四六版8頁掛と見られる。

離職従業員の独立支援
印刷機械部の閉鎖に伴い、平野富二は活版製造に関わっていた者たちを独立させて印刷機の製造を業とし、その販売を東京築地活版製造所でおこなうこととした。

本林勇吉は、本木昌造の経営する新町私塾で学び、明治9年(1876)に築地の活版器械製造工場の製造担当となった。石川島造船所構内に移転してからは技工を勤めていたが、独立して京橋区弥左衛門町15番地で印刷機・付属品の製造を開始した。明治33年(1900)になって、江川活版製造所の江川次之進に招かれて、その下で築地2丁目14番地に本林機械製作所を開設して、印刷機を製造した。
本林勇吉の同僚だった井出雄平も独立して印刷機の製造を開始したという。

柏原栄太郎は、主任を務めていた父の柏原市兵衛の下で印刷機の製造を担当していたが、明治14年(1881)7月に独立して京橋区築地二丁目30番地に活版印刷機械製造の会社を設立している。明治23年(1890)に開催された第3回内国勧業博覧会に水谷伊之助(京橋区銀座三丁目)を通じて活版器械を出品している。

速水英喜・兵蔵兄弟は、明治14年(1881)7月に大阪活版製造所に戻り、印刷機械の製造を担当した。しかし、弟の速水兵蔵(1860-?)は、明治16年(1883)4月、築地活版所が上海に出張所修文館を設立したとき、松野直之助・平三郎兄弟に従って上海に出向し、そこで印刷と活字製造の実務に当たった。明治18年(1885)に大阪活版製造所に戻り、印刷機の修繕などをおこなっていたが、兄英喜の要請で独立し、東区北渡辺町1番地に速水鉄工所を開業した。

中島幾太郎(1858-1924)は、明治14年(1881)7月に大阪活版製造所に戻って印刷機械の製造に従事したが、4ヶ月後の明治14年11月に退職し、大阪の書肆修道館の印刷部に機械修理掛として入社し、そこで印刷機の製造をはじめた。明治18年(1885)3月になって独立し、西区土佐五丁目に中島機械工場を設立した。ロール印刷機械を中心とした印刷機の製造に従事し、数々の特許・実用新案を取得している。明治25年(1892)に製造した足踏式四六判4頁掛ロール印刷機械を東京の江川活版製造所から販売している。

なお、神田和泉町において印刷機の国産化を開始した当初から関わった者たちの中に独立して金津印刷器械製作所を設立した金津平四郎・清次郎父子がいる。手引印刷機や足踏印刷機械の製造に主力を注いでいた。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に国文社から足踏印刷機械を出品している。父平四郎の死去により二代目平四郎を襲名した清次郎は、京橋常盤町から南小田原町二丁目16番地に移転した。清次郎の長男巳之助も平四郎を名乗ったが、屋号は金津巳之助製作所と改めた。昭和に入ってからは営業方面を店員に任せきりで、廃業同然となった。

金津平四郎(初代)の次男金津金蔵は、明治5年(1872)に三菱の横浜造船所で見習い職工となった後、明治9年(1876)に常盤町の金津印刷器械製造所に入った。しかし、明治15年(1882)春、大坂砲兵工廠の徒弟となり、明治22年(1889)に上京して、京橋木挽町二丁目9番地にあった売家を購入して工場とし、分家独立した。当初は船の修理などをおこなっていたが、その後、印刷機械の製造をはじめ、明治24年(1891)頃には菊八頁掛ロール機械の製造を手掛け、従業員も職人5人、見習工7人を雇用するまでになっていた。
その頃、青山学院の印刷部に菊十六頁ロール機械2台を納入してから、中国方面に輸出するきっかけを作った。明治42年(1909)、仙台の河北新報から注文を受けてマリノニ輪転機の国産品を製作し、続いて、やまと、都、日本、東京日日、九州日日、静岡民友、秋田魁、名古屋新聞、福島民報、金沢、毎日、山形自由などの各新聞社の注文を受けて納入している。

当時の印刷機製造業者
明治9年(1876)から明治12年(1879)頃に創業した印刷機械製造業者として、加藤復重郎(浅草森田町10番地)、三卜堂(京橋新橋竹川町11番地)がある。その他、水町製造所(京橋築地三丁目)、寺本定芳(京橋銀座一丁目22二番地)、伊藤常次郎(京橋新肴町5番地)、松井兵次郎(京橋日吉町15番地)、大阪では安藤喜助(天満真砂町)が知られている。

その内、加藤復重郎は元来が印刷業者で、職業柄みずから創案した木鉄合製のハンドプレスを明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品して好評を受けたが、まもなく機械製造を辞めて印刷専業となった。三卜堂は活版機械のほかに活字鋳造機械も製造したが、明治12年(1879)頃には活字販売と印刷を兼業するようになった。大阪の安藤喜助は木製ハンドプレスを手掛け、関西方面で広く販売された。

このように、平野富二の印刷器械製造事業は、結果的に、世の中に多くの人材を輩出して、未熟であったわが国の初期機械産業の育成と発展に貢献した。

(5)大阪活版製造所での印刷機製造
大阪活版製造所での印刷機製造は、築地で学んだ速水英喜が中心となり、大阪活版製造所のブランドで印刷機を販売すると共に、築地活版製造所が販売する築地ブランドの印刷機も製造したと見られる。
なお、それまで築地ブランドの印刷機を製造していた石川島平野造船所では、その後、製造請負を辞めたと見られるが、定かではない。

明治18年(1885)になって築地活版製造所と大阪活版製造所がそれぞれ商標を登録した。その記念に製造されたと見られる手引印刷機が長崎印刷工業組合に保管されている。この印刷機には大阪と築地の商標が門型横梁の表裏に鋳出されている。

図27-5  築地活版と大阪活版の商標のある手引印刷機
〈長崎印刷工業組合所有〉

上の写真はレバー操作側の面に鋳出された東京築地活版製造所の表示、
下の写真はその裏面に鋳出された大阪活版製造所の表示である。
向かって左側は英文の社名、右側中央は商標である。

また、明治19年(1886)7月10日付の『読売新聞』に築地活版製造所と大阪活版製造所が連名で紙取付装置を付属した16ページ掛け車機械(ロールマシン)の広告を掲載している。

図27-6  築地活版と大阪活版連名の新聞広告
〈『読売新聞』、明治19年7月10日発行〉

この車機械(ロールマシン)は当時最新鋭のもので、
四六判16頁掛の紙取付装置を装備したことをPRしている。
製造は大阪活版製造所、販売は両所が協力しておこなったことが判る。

このように印刷機製造事業は築地活版製造所と大阪活版製造所が一体となって運営するようになったことが分る。

その後の活版印刷機の部分改良や大型化は、専ら大坂活版製造所に戻った速水英喜によっておこなわれたと見られる。

東京築地活版製造所で発行した「活字版並印刷器械及紙型鉛版其他定価」(明治20年7月改正)と題するチラシで、その別紙による説明に、「手引器械は、半紙一枚摺、美濃紙一枚摺(以上、四六判、即、竪六寸横四寸の版四枚掛)、半紙二枚摺、美濃紙二枚摺(以上、四六判八枚掛)、半紙四枚摺にして、ロールマシンは四六判八ページ掛、十六ページ掛、三十二ページ掛の三種にして、足踏器械は美濃紙一枚摺に御座候へ共、其国の便利に応じ白紙唐紙半枚掛又は全紙に適すべき新形のものを製造する事も容易」とある。

この中の美濃二枚摺手引印刷機と四六判三十二ページ掛ロールマシンは、今までの定価表には無かったもので、需要に応じて大坂で新たに開発したものと見られる。

ここで、印刷機のサイズについて説明すると、そのサイズは版盤の大きさで示し、印刷用紙の種類別枚数あるいは判のページ数で表示している。
「半紙」1枚は8寸×1尺1寸(242×333mm)、「美濃紙」1枚は9寸×1尺3寸(273×394mm)、「四六判」1ページは4寸2分×6寸2分(127×188mm)、「菊判」1ページは5寸×7寸2分(152×218mm)のサイズである。
半紙と美濃紙は原紙そのもののサイズを示すが、「四六判」はその原紙を4×8(=32)ページに分断した判のサイズ、「菊判」はその原紙を4×4(=16)ページに分断した判のサイズを示すもので、この原紙サイズを「全紙」と呼んでいる。
なお、「四六判」はB列、「菊判」はA列にほぼ相当する。

平野富二は、明治22年(1889)6月、有限責任の株式組織となっていた東京築地活版製造所を辞任し、東京石川島造船所の経営に専念することになった。それ以降、活版製造事業と印刷器械製造事業に表立って関与することはなかった。

(6)月島分工場での印刷器械製造
平野富二が活版製造事業から手を引いてから18年後の明治40年(1907)2月に、東京築地活版製造所は月島に分工場を設けて活版印刷械の製造を再開した。

月島分工場の建設は、第4代社長名村泰蔵が積極経営の一環としておこなったものであるが、この頃、進行中であった大阪活版製造所の事業整理の一環として印刷機製造事業の廃止が計画されていたことが、最大の要因と見られる。

この頃になると印刷業界では新聞、雑誌やその他の活版印刷物が大量に発行されるようになり、活字の需要と共に活版印刷機の需要も増大していた。

図27-7 月島分工場の写真
〈『活字と機械』、大正3年8月、東京築地活版製造所より〉

明治41年(1908)3月に完成して稼働に入った月島分工場を示す。
左上は同じ頃に設立した大阪出張所である。
この頃、大阪活版製造所は閉鎖されたらしい。

明治23年(1890)に内閣官報局と大阪朝日新聞社がフランスからマリノニ輪転印刷機を導入したのを契機として、日露戦争前後(明治37、8年)にはフランス、ドイツ、アメリカから輪転印刷機が輸入され。その総数は65台であったと記録されているが、これは新聞社が中心であった。大手印刷会社は、博文館印刷所が輪転印刷機を導入した程度で、まだ、大形ロール印刷機械の需要が中心であった。

名村泰蔵は月島分工場の完成を待つことなく、明治39年(1906)9月に死去し、支配人だった野村宗十郎が第5代社長としてこれを引き継いだ。

月島は、明治20年(1887)から明治24年(1891)にかけて、東京府が東京湾の澪筋掘削を兼ねて佃島続きの洲を浚土で埋め立て約76ヘクタールの土地を造成したものである。この土地は区画整理の上、東京府が地主となって民間に貸し渡された。

名村泰蔵は、明治30年(1897)2月になって月島通四丁目9番地の土地285坪を、次いで明治36年(1903)1月に月島通四丁目11番地と月島通五丁目1、3、5番地の土地を東京築地活版製造所社長として東京府から借り受けた。それと隣接する月島通四丁目7番地の土地はインキ商で東京築地活版製造所の取締役だった西川忠亮が借り受けた。

月島分工場で製造された印刷機は、大正3年(1914)8月に東京築地活版製造所から発行された『活字と機械』によって知ることができる。

手引印刷機は半紙四枚掛、半紙二枚掛、美濃紙二枚掛、美濃紙一枚掛の4サイズ、ロール印刷機械は甲菊判四頁掛足踏、乙菊判四頁掛足踏、四六判八頁掛、甲菊判八頁掛、乙菊判八頁掛、四六判十六頁掛、菊判十六頁掛、四六判三十二頁掛の8サイズ、ゴルドン式印刷機械(足踏印刷機械)は鉄枠内寸16×11インチ(美濃紙一枚摺相当)の1サイズ、手押印刷機械は鉄枠内寸10×61/2インチの1サイズが写真入りで掲載されている。なお、甲乙の区分は不明である。

これを明治20年(1887)7月の「定価」チラシに記された品目と比較すると、手引印刷機は半紙一枚掛が無く、ロール印刷機械は菊判四頁掛足踏(甲、乙)、菊判八頁掛(甲、乙)と菊版十六頁掛(甲、乙)の3サイズ6機種が追加されている。また、これまで紹介されなかった手押印刷機械がある。

その説明書きによると、「印刷機械製作者は多いというが、その製作品を自社でも使用する業者は少ない。弊社は印刷、製本、鉛版などの事業を合わせて行い、その分野の権威者と目される専門技工がいる。弊社鉄工部で製作されたものは、これら専門家の試験を経て初めて顧客に提供される。弊社の製作品は、組立後の再加工は必要なく、直ちに完全なものとして使用できるので、顧客の利便は極めて大きい。」としている。

大正2年(1913)4月の時点で、東京印刷同業組合に加入している活版印刷業者の届け出による印刷機保有台数は、活版四六輪転4台、活版四六全判(32頁掛)ロール106台、活版菊全判(16頁掛)ロール162台、活版四六半裁(8頁掛)ロール105台、活版菊半裁(8頁掛)252台、活版四六四裁(8頁掛)53台、活版フート(足踏)123台、活版ハンド(手引)351台となっている。

この内、東京築地活版製造所の製品がどれだけ入っているか判らないが、順調に売り上げを伸ばしていたことは、大正9年(1920)から翌年にかけて月島分工場において建物の新設・増設により、設備の増強がおこなわれていることからも推察できる。

ところが、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で築地の新社屋と共に月島分工場も罹災し、木造工場建屋は焼失してしまった。築地活版製造所としての損失額は150万円に上ったという。

震災前の大正12年(1923)4月に報告された大正11年後期(大正11年10月~大正12年3月)の決算では、総売上高577,697円の内、活版製造事業345,438円(59.8%)、印刷事業203,946円(35.3%)、鉄工事業28,313円(4.9%)であったが、震災後の大正13年前期(大正12年12月~大正13年5月)の決算では、総売上高183,420円の内、活版事業136,220円(74.3%)、印刷事業38,684円(21.1%)、鉄工事業8,516円(4.6%)まで減少した。
これを事業別の前年同期比でみると、総売上高が31.8%にまで落ち込んだのに対して、活版製造事業では39.4%、印刷事業は5.3%、鉄工事業は3.3%まで落ち込んだことが分る。

これは活版製造事業の設備復旧を優先して、印刷事業と鉄工事業は後回しにされた結果と見られる。月島分工場の建物は大正13年(1924)3月に建築着手し、翌年6月に完成しているが、生産を開始した時期については不明である。

社長野村宗十郎は、大正13年(1824)に日本勧業銀行から30万円、その翌年に10万円を借り入れて復旧に努めたが、大正14年(1925)4月に病死した。後任の第5代社長松田精一は、昭和3年(1928)年になって更に10万円を借り受け、合計50万円の銀行負債を負うことになった。

活版印刷機を扱う鉄工部の売上高は、一時向上したが、低迷を続けた。そのため社長野村精一は、昭和3年(1928)12月に月島分工場の設備を縮小し、昭和9年(1934)7月になって月島分工場を廃止し、東京府から借地していた地所の借地権を他者に譲渡している。

これにより、平野富二が活版印刷機の国産化して販売を開始した明治5年(1872)から昭和9年(1934)までの62年間、築地活版製造所の営業品目となっていた活版印刷機は完全に消えることになった。

まとめ
平野富二にとって活版印刷機の製造・販売はあくまでも活字・活版の販売を促進するための手段だった。活版印刷を行う用具として見れば共通であるが、活字・活版の製造と活版印刷機の製造は異質のもので、その製造設備は全く異なるものである。

したがって、活版印刷機の製造をはじめた当初の神田和泉町時代は、細かい手細工を除いて、ほとんどを外部に依存していたが、築地二丁目に移転してからは金属加工機械を輸入して活版の製造と印刷に用いられる諸々の器械・器具の製造を兼ねて自社内での生産体制を整えた。

しかし、活版印刷機の製造に必要な鋳造設備や鍛冶設備が無いため、小物部品は街の鋳物師や鍛冶師に外注し、大物部品は石川島造船所に鋳造・加工を依頼していた。

明治9年(1976)になって、平野富二が杉山徳三郎の経営する横浜製鉄所に経営参加すると、横浜製鉄所で活版印刷機の製造をおこなうようになった。しかし、同じ年の内に平野富二が海軍省から旧石川島造船所の跡地を借り受けて石川島平野造船所を設立したのに伴い、築地活版所にあった印刷機部門と製造設備を石川島造船所構内に移転させた。当初、石川島造船所には機械加工設備がなかったため、築地から移転させた設備を使用して船舶用機器の製造もおこなった。

平野富二にとっては、活版印刷機の製造は一般産業機械の製造の一環としておこなわれるものであって、活版印刷機専用の製造設備を保有することは無駄で、勿体ないと思っていたに違いない。このような製造設備があれば、船舶用は言うに及ばす、他の一般産業分野で必要とする機械。器具類を製造して、広くわが国の産業発展に寄与できると考えていたと思われる。

平野富二は、江戸の職人たった者たちを積極的に雇用し、また、築地活版製造所で技術を身につけた従業員の退社に際して、その技術を生かして独立するよう支援している。これも、わが国産業発展の基盤とすることを意図したものと見られる。

東京築地活版製造所における活版製造と活版印刷機製造の営業上の位置付けを見ると、株式組織となった明治18年(1885)の売上高は活字類が23,521円(80%)に対して5,750円(20%)にすぎない。活字の売上高が圧倒的に高いことは後年になっても変わらず、活版印刷機の売上高比率はむしろ低下している。

東京築地活版製造所は、明治9年(1876)に築地にあった印刷機製造設備を石川島に移設して以来、第4代社長名村泰蔵が計画・建設した月島分工場が完成した明治40年(1907)まで、自社内に印刷機の製造設備を持つことは無かった。

名村泰蔵が活版印刷機の自社内製造を決意した背景には、大阪活版製造所での事業整理による印刷機製造部門の廃止があるが、新聞・雑誌類の発行部数が大きく伸びて大型印刷機の需要が増大したこと、高いレベルにある自社の印刷技術を印刷機に反映させることができることを念頭に置いたと見られる。

しかし、明治後期から大正にかけて、世の中の動きは活版をそのまま使用する活版印刷機の時代から、輪転印刷機、オフセット印刷機の時代へと移行しつつあった。

東京築地活版製造所では、活字・活版の製造・販売を主業務としていたため、活版印刷機の製造・販売にこだわって、活版をそのまま使用することのない輪転印刷機や平版に属するオフセット印刷機の製造については関心を示さなかった。

関東大震災による罹災から復旧はしたものの、印刷分野の技術革新に乗り遅れたこともあって、活版印刷機の受注は伸びず、昭和9年(1934)になって月島分工場は廃止されるにいたった。その4年後に伝統ある東京築地活版製造所は解散に追い込まれた。

昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において代表取締役社長に指名された松田一郎は、その場で会社解散を提議し、株主総会の承認を得て清算業務に入った。
会社解散を決議した松田一郎は、東京築地活版製造所の最後の社長として、その後の清算業務を無事に実行させることが自らの役割となった。
しかし、どのように清算が行われ、何時、清算を完了して会社解散の届け出を行ったのかは、業界紙誌も沈黙を守っており明らかになっていない。

令和元年11月13日 稿了