錦絵『通運丸開業広告引札』からみえるもの:石川島平野造船所が最初に建造した船艇「通運丸」シリーズと、東京築地活版製造所五号かな活字に影響をあたえた「宮城玄魚」

【石川島平野造船所(現:石川島資料館)】

[所在地:中央区佃1丁目11─8 ピアウエストスクエア1階(もと佃島54番地)]

石川島資料館

石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設したところで、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場であった。

東京石川島造船所工場鳥瞰図
『東京石川島造船所製品図集』
(東京石川島造船所、明治36年12月、国立国会図書館蔵 請求記号:81-1016)

この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現:株式会社IHI)開設の起点としている。

石川島資料館は、長い歴史を持つ石川島造船所を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

通運丸開業広告引札』明治10(1877)年
山崎年信 画 物流博物館 所蔵
画:山崎年信、撰及びに書:宮城玄魚

通運丸開業広告引札』(物流博物館 所蔵)には、平野富二が石川島平野造船所を開いて最初期に建造した「通運丸」が描かれている。

平野富二が石川島平野造船所を開いて最初に建造した船は、内国通運会社(明治5年に設立された陸運元会社が、明治8年に内国通運会社と改称。現:日本通運株式会社)から請け負った「通運丸」シリーズだった。

内国通運会社は、政府指導で組織化された陸運会社であったが、内陸部に通じる河川利用の汽船業にも進出した。

隅田川筋から小名木川・中川・江戸川を経由して利根川筋を小型蒸気船で運行する計画を立て、明治9(1876)年10月末に開設したばかりの石川島平野造船所に、蒸気船新造4隻と改造1隻を依頼した。

明治10(1877)年1月から4月にかけて、相次いで5隻の蒸気船が完成した。新造船は第二通運丸から第五通運丸まで順次命名された。第一通運丸と命名された改造船は、前年に横浜製鉄所で建造された船艇であったが、船体のバランスが悪く、石川島平野造船所で大改造を行ったものである。

同年5月1日から第一、第二通運丸により東京と栃木県を結ぶ航路の毎日往復運航が開始され、盛況を博した。
「通運丸」と命名された小型蒸気船は第五六号まで記録されており、昭和23年代まで運行されていた。

この絵図に描かれた通運丸が第何番船かを特定することはできない。しかし宣伝文から推察すると、利根川下流の木下や銚子まで運行していることから、すでに第五通運丸までが就航していると考えられる。

したがって、石川島平野造船所で納入した五隻の通運丸のいずれかが対象になる。後年、船体の外輪側面に大きく船名が表示されるが、初期には、この航路は内国通運会社の独占だったため標示されていない。

帆柱のある通運丸を描いた新聞広告
『郵便報知新聞』明治10年5月26日に掲載
当初は一本の帆柱を備えていた。
(『平野富二伝』古谷昌二 著から引用)

船体の外輪側面に大きく船名が表示された通運丸
東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図』明治10年代
野沢定吉 画 物流博物館 所蔵

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「宮城玄魚」

『通運丸開業広告引札』の撰及びに書は、宮城玄魚(みやぎ・げんぎょ)によるものである。以下は錦絵に書かれた文章の釈読である。

『通運丸開業広告引札』部分
撰及びに書:宮城玄魚

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      廣 告

明治の美代日に開け。月に進みて
盛んなれば。實に民種の幸をやいはん。
國を冨すも亦。國産の増殖に在て。
物貨運輸。人民往復。自在の策を起
にしかず。されど時間の緩急は。交際
上の損益に關する事。今更論をま
たざるなり。爰に當社の開業は。郵
便御用を専務とし。物貨衆庶の乗
客に。弁利を兼て良製迅速。蒸気
数艘を製造なし。武總の大河と聞たる。
利根川筋を逆登り。東は銚子木下
や。西は栗橋上州路。日夜わかたず
往復は。上等下等の室をわけ。
發着の時間は別紙に表し。少も
遲〃なく。飛行輕便第一に。三千
余万の諸兄たち。御便利よろしと
思したまはゞ 皇國に報ふ九牛
の一毛社中の素志を憐み給ひて。
數の宝に入船は。出船もつきぬ
濱町。一新に出張を設けたる。内國
通運會社の開業より試み旁〃
御乗船を。江湖の諸君に伏て希ふ

      傭書の序 梅素記

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釈読:古谷昌二(2019・4・11) 

『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年の錦絵を釈読に置き換えたもの

宮城玄魚(1817─1880)は、幕末から明治時代の経師・戯作者・傭書家・図案家である。

文化14年江戸うまれ。浅草の骨董商ではたらき、のち父の経師職を手つだう。模様のひな形、看板の意匠が好評で意匠を専門とした。

條野傳平・仮名垣魯文・落合芳幾らの粋人仲間の中核として活動。清水卯三郎がパリ万博に随行したおり玄魚の版下によってパリで活字を鋳造して名刺を製作した。

江戸刊本の伝統を継承した玄魚の書風は東京築地活版製造所の五号かな活字に昇華されて、こんにちのかな書体にも影響を及ぼしている。

東京築地活版製造所 五号かな活字
明治10年 長崎新塾出張活版製造所
『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』
(平野ホール所蔵)

明治13年2月7日没。享年64。姓は宮城。名は喜三郎。号:梅素(ばいそ)玄魚・田キサ・呂成・水仙子・小井居・蝌蚪子など。

一恵斎芳幾(落合芳幾)が書いた晩年の宮城玄魚
『芳潭雑誌』より

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画は山崎年信の筆になる。以下に、詳細を載せた。

【山崎年信─初代】(1857─1886)
明治時代の日本画家。安政四年うまれ。歌川派の月岡芳年(1839─92)に浮世絵をまなび、稲野年恒、水野年方、右田年英とともに芳年門下の四天王といわれた。新聞の挿絵、錦絵などをえがいた。明治19年没、享年30。江戸出身。通称は信次郎。別号に仙斎、扶桑園など。

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この記事は、近日発行の『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』(編集:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、発行:平野富二の会、B5版、ソフトカバー、384頁、図版多数)より一部を抜粋したものを編集した。

『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』

表紙の画像は以下より採取した。

右上:
『郵便報知新聞』(明治10年5月26日)掲載広告

右下・左上:
明治36年 株式会社東京築地活版製造所

『東京築地活版製造所 活版見本』

左下:
明治10年 長崎新塾出張活版製造所

 『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』

また中心の図案は、大阪印刷界『本木號』(明治45年6月17日発行)を参考とした。