【「矢次事歴」の概要】
「矢次事歴」は、矢次家初代の関右衛門から九代温威までの事歴を纏めたものである。
その表紙は、中央に「矢次事歴」と筆書きし、その右側上部に「正徳三巳年ヨリ明治十三辰年ニ至ル一百六十八年間」、左側下部に2行に分けて「矢次温威女」、「矢次古う」と書いてある。
「正徳三巳年(1713)」は、矢次家初代関右衛門が長崎奉行から町司役を仰せ付けられた年で、「明治十三辰年(1880)」は、矢次家九代温威の事歴として清書書きが終わる年である。
清書された事績に続いて、九代温威の自筆とみられるメモ書きが添付されている。それは、明治17年(1884)から明治21年(1888)までの記録であるが、明治13年(1880)6月から明治17年(1884)7月までの記録が欠落しており、明治20年(1887)の記録の一部が破棄されている。
九代温威の自筆記録は、明治21年(1888)9月28日、隠居して辰蔵(辰三、養嫡子)に矢次家当主の地位を譲り、母ミネを実弟平野富二の籍に移したことで終わっている。
初代関右衛門から八代豊三郎(平野富二の実父)までの「矢次事績」については、拙著『平野富二伝』(株式会社朗文堂、2013年11月)に、原文のまま紹介してあるので、興味のある方はお読み頂きたい。
「矢次事歴」として清書した矢次古うは、戸籍上は、字母を「古越」とする万葉仮名で表記し、元治1年(1864)10月、矢次温威の長女として生まれた。明治3年(1870)、長崎奉行支配の唐人番土屋金六の三男辰三(数え年8歳)を矢次家の養子に迎え、こう(数え年7歳)は、後にその妻となった。
【矢次家祖先の人々】
長崎奉行支配の町司役を代々世襲した矢次家の当主を列記すると、次のようになる。
初代 関右衛門(大村因幡守純長家来、浪人、正徳3年〈1713〉、6年間)
二代 関 治 (従弟、立花飛騨守家来、浪人、享保3年〈1718〉、16年間)
三代 関右衛門(母の甥、松平下総守家来、浪人、享保18年〈1733〉、34年間)
四代 友右衛門(従弟、町司池島七郎太夫倅、明和3年〈1766〉、4年間)
五代 関 次 (甥、長崎遠見番古川彦右衛門弟、明和6年〈1769〉、34年間)
六代 和三郎 (従弟、長崎御役所附近藤儀三太倅、享和1年〈1801〉、12年間)
七代 茂三郎 (従弟、長崎散使本庄圓右衛門倅、文化9年〈1812〉、17年間)
八代 豊三郎 (長男、文政11年〈1828〉、21年間)
九代 温威 (長男、嘉永1年〈1848〉、慶応4年〈1868〉まで21年間)
各人の括弧内について、初代は前歴と勤続年数を、二代から三代は前代との血縁関係、前歴、勤続年数を、四代から九代までは前代との血縁関係、町司就任年、勤続年数を示す。
一見して分るように、初代から六代まではいずれも直系の男子に恵まれず、従弟や甥を養子として、代々、町司役を継いでいる。
町司役は、地元長崎の町人の中から選ばれた長崎奉行に仕える地役人に一つの役職で、主として長崎の町内と港内の警備を行った。初期においては武士あがりの浪人を採用し、苗字・帯刀を許されていた。
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初代 矢次関右衛門
この人については、次回ブログで詳しく紹介する。なお、前歴として示した大村藩の藩主名は、別途、調査して示したもので、「矢次事歴」には記載されていない。
ここでは、「矢次事歴」の最初のページを図版で紹介するにとどめる。
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五代 矢次関次
この人は、明和6年(1769)に町司役を前代から継ぎ、天明8年(1788)に町司定乗に昇進し、寛永2年(1790)に御役所附となっている。
天明7年(1787)12月、献上端物御手本御覧出役を勤め、翌年1月、オランダ商館長の江戸参府に、一行の警備役として、随行している。
この時の江戸参府には、本木栄之進と杉山三左衛門も一行に加わっている。本木栄之進(1735~1794)は、本木昌造の4代前の本木家当主で、オランダ通詞として随行した。後に本木仁太夫良永と称した。もう一人の警備役として随行した町司杉山三左衛門は、平野富二の長崎製鉄所での僚友だった杉山徳三郎の祖先と見られる。
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七代 矢次茂三郎
この人については、「安政五年 文書科事務簿}(『長崎町方史料(四)』、福岡大学総合研究所資料叢書 第七冊)に掲載されている親類書に血縁関係が記されている。文化9年(1812)に町司役を継ぎ、文政4年(1821)に町司定乗助、同6年(1823)に町司定乗に昇進した。
文政9年(1826)、オランダ商館長ヨハン・ウィルヘルム・ド・スチュルレルの江戸参府に随行した。この時、出島のオランダ商館医官ならびに自然科学調査官として派遣されていたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも一行に加わっている。江戸には1ヵ月余り滞在している。
文政11年(1828)8月9日の夜、茂三郎は、唐船繋番として勤務中に、突然、暴風雨に遭遇し、唐船を繋留できずに難破し、溺死した。
この時、オランダ商船コウネリュウス・ハウトマンが出港に備えて長崎湾の沖に碇泊していたが、強風を受けて湾内を漂っていた唐船に碇綱を切断され、稲佐の浜に舳先を突き付けて座礁した。奉行所の役人による臨検の結果、積み荷の中からシーボルト・コレクションが発見され、陸揚げされて奉行所の管理下に置かれた。これが、かの有名なシーボルト事件の発端となった。
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【平野富二の兄と甥について】
明治維新により長崎奉行支配の地役人の組織は、名称は変更されたが、基本的にはそのまま新政府に引き継がれた。矢次温度威は、正徳3年(1713)から九代にわたって長崎奉行に仕えた最後の町司となった。
矢次温威は、天保14年(1843)10月19日に父豊三郎の長男として生まれ、幼名は和一郎、後に重之助、重平と称し、明治2年(1869)に温威と改名した。幼名を富次郎と称した平野富二は、3歳下であった。
父の病死により、嘉永1年(1848)10月、数え年6歳で矢次家の家督を継いで、町司役となったが、幼年のため、奉行所の内々の了解を得て、年令を11歳として届け出た。
『慶応元年 明細分限帳』(越中哲也編、長崎歴史文化協会、昭和60年)によると、「矢次重之助 丑二十八歳」となっている。これは、丑年の慶応1年(1865)に数え年28歳であることを示す。実際は、5歳のサバを読んでいるので23歳となる。
数え年13歳のとき、初めて加役として新仕役掛を勤めている。慶応1年(1865)2月、町司定乗に昇進した。
慶応4年(1868)4月、長崎奉行所に代わって新政府の下で長崎裁判所が設置され、振遠隊第二等兵を命じられる。この時点で、初代から続いた町司の役職は無くなったと見られる。
新政府の下で奥州に兵卒として派遣され、転戦して帰還後、上等兵となった。明治5年(1872)2月、振遠隊は廃止され、代わって少邏卒(月給6両)を命じられたが、同年中に解任された。邏卒は今でいう警察官に相当する。
温威の父豊三郎の時代である天保9年(1836)当時、長崎奉行に仕える町司などの地役人は2,069人で、長崎の町人の13人に1人が地役人という情況だったとされている。この地役人たちが一斉に家禄を失ったことになる。
以後、特定の職を持たない温威一家は、資産を食いつぶし、親類縁者を頼って不安定な生活を送ることになる。
矢次辰三は、矢次家に入籍してから本木昌造の経営する新街私塾に学び、明治16年(1883)頃に温威の長女こうと結婚、一男三女をもうけている。
幕府の崩壊により家禄を失い、不安定な生活を送る中で成人し、どのような職に就いたかは不明である。しかし、矢次辰三著とする明治27年(1894)9月30日発行の「長崎港新図 全」と題する地図がある。この地図は、東京の三間石版印刷所の石版、色刷りの地図で、長崎の虎與號書店から発行されている。