【 Information Release 11 】「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭 ミニ・活版さるく 報告

明治産業近代化のパイオニア
「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭
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ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 at 長崎
2018年11月25日[日]

快晴に恵まれた、活版さるく日和の長崎にて「ミニ・活版さるく 平野富二ゆかりの地」を、2018年11月25日[日]10:00-12:00に開催いたしました。

案内役は、古谷昌二(当会代表)。

活版さるくマップの製作は、春田ゆかり氏(タイポグラフィ学会 事務局長、池原香穉研究家)に、ご協力いただきました。

また、長崎在住の日本二十六聖人記館の宮田和夫氏にご協力いただき、その土地ならではの解説、特にキリスト教関連施設の詳細な解説をしていただきました。 

集合場所は、長崎県勤労福祉会館前。
解散場所は、浜町アーケード前でした。

その後、希望者で、中島川の魚市橋横まで(歩行距離 約1.5キロメートル)を探索しました。

多くの方にご参加、ご協力いただきました。誠にありがとうございました。

探訪先は、

【1】平野富二の生誕地

【2】桜町牢屋:平野富二の父と母方の祖父の勤務地

【3】神邉家の住居:母美祢(みね)の実家

【4】三の堀跡:牢屋と町司長屋の関係で残されたか?

【5】大井手町の町司長屋
・平野富二の機関方仲間で7才年上の親友杉山徳三郎の居住地。
・地役人で砲術家の山本物次郎の家に福沢諭吉が食客となっていた。

【6】地獄川:牢屋との関係で命名か?

【7】酒屋町:西道仙・松田源五郎・品川藤十郎の住んでいた町

【8】長州藩蔵屋敷:平野富二の養子先の住まい。新塾私塾・新町活版所の在った場所

【9】小倉藩蔵屋敷跡:新町活字製造所の在った場所
・長州藩蔵屋敷との間の坂道は「巌流坂」と呼ばれていた。

【10】唐通事会所跡:活版伝習所が置かれた場所
・上海美華書館のギャンブルにより長崎新聞局のための迅速活字製造法を伝習。(明治2年10月から明治3年2月まで)
・長崎製鉄所頭取本木昌造がギャンブルを招聘。機械伝習方掛頭取として協力。

【11】吉雄耕牛(永章)居宅跡:子孫との交流

【12】西役所・長崎県県庁跡:活版印刷所が設けられた場所
・イエスズ会本部(被昇天のサンタ・マリア教会)に活版印刷所。
・幕府の活字判摺立所。

【13】外浦町碑:平野富二の住居の在った町

【14】本木昌造居宅跡:平野富二の恩師居住地

【15】平野富二居宅
・実際に居住したのは6ヶ月余りで、その後は東京に寄留。ここを本籍地とした。
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【16】くろがね(鐵)橋:平野富二の勤務していた長崎製鉄所で製作・架設
・井上聞多(馨)の認可により本木昌造が指導・監督、立神造船所に居たオランダ人設計技師フォーゲルの設計により、長崎製鉄所で加工・組立。

【17】土佐商会跡:平野富二が土佐藩に雇われていたときの拠点
・土佐藩の後藤象二郎、佐々木三四郎(高行)、岩崎弥太郎と面識。
・イカルス号事件で才谷梅次郎(坂本龍馬)と行動を共にした。

《《ここで、一旦、解散して、以後は希望者のみの参加とする》》

【18】万橋
・明治15年(1882)になって、西道仙が番号で呼ばれていた中島川の石橋に名前を付け、自ら揮毫した橋名を橋の親柱に刻ませた。

【19】賑橋

【20】常磐橋と本古川町(現、古川町・万屋町):平野富二の協力者池原香稺の眼科医院
・常磐橋から東の街路は「本古川通り」で、ここに池原香稺の眼科医院があった。
・池原香稺(いけはらかわか)は、国学者・書家としても有名で、本木昌造の初期活字の版下を揮毫し、それを受継いだ平野富二にも協力した。明治9年(1876)に東京に出て国学者として活躍し、東京に居た平野富二の活版製造事業にも協力。明治11年(1878)一日に掛軸を寄贈。平野家に残っている。

【21】袋橋(袋町橋)

【22】眼鏡橋

【23】魚市橋

なお、訪問地の個別の詳細は当webの「古谷昌二ブログ」をご参照ください