東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

はじめに
第6代社長の松田精一が取締役社長を辞任した昭和10年(1935)5月28日から会社解散決議に至る2年10ヶ月間は、文字通り東京築地活版製造所の終末期であった。

この間、専務取締役吉雄永寿(第7代社長空席)が2年5ヶ月間、次いで専務取締役坂東長康(第8代社長空席)が4ヶ月半の間、選任されて社長職を務め、昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において第9代社長に指名された代表取締役松田一郎が会社解散を決議した。
これによって、明治・大正・昭和の66年間にわたってわが国の印刷文化に尽くし、印刷業界で老舗(しにせ)といわれた東京築地活版製造所、通称「築地活版」は幕を引いた。

松田精一が第6代社長を辞任してから、その長男松田一郎が代表取締役に選任されて第9代社長として会社解散が決議されるまでの間、実質的な会社経営に寄与した人は専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿と代表取締役第9代社長松田一郎である。二人は、昭和6年(1931)3月16日に開催された臨時取締役会において共に初めて取締役に選任され、経営を支えて来た。

本稿ではおもに吉雄永寿と松田一郎について紹介する。

1.終末期の東京築地活版製造所の経営概要
第6代社長松田精一は、昭和10年(1935)5月28日に開催された定時株主総会において、健康上の理由で取締役社長を辞任し、相談役に退くことになった。同日、引き続いて開催された臨時株主総会において役員改選がおこなわれ、吉雄永寿が専務取締役に選任され、第7代社長空席のまま社長職を務めることになった。
吉雄永寿は、4年前の昭和6年(1931)3月12日に開催された臨時株主総会において、取締役の伊藤三郎と大道良太の二人の辞任による補欠選挙により、松田一郎と共に初めて取締役に選任され、以後、再選重任を重ねていた。

専務取締役に就任して会社の経営責任者となった吉雄永寿は、まず、伝票システムを導入して入出金の動きを正確に把握できるようにし、不要部門の整理統合を行うことによって昭和5年後期以来続く繰越赤字解消の目途をつけ、その上で、設備の更新を断行し、印刷工場の新設計画、業界活動への積極参加を行った。

しかし、昭和12年前期(昭和12年4月30日現在)の決算で当期損益金が9,924円の赤字を計上し、さらに、昭和12年(1937)10月、事業縮小のために従業員80名を解雇して以後、ストが頻発して、昭和12年後期(昭和12年10月31日現在)の決算で当期損益金が大幅赤字の見込みとなったことから、定時株主総会で決算報告の為される直前の同年10月29日に開かれた臨時株主総会において、吉雄永寿は専務取締役を辞任し、監査役に退かざるを得ないことになった。

新たに専務取締役(第8代社長空席)に選任されて経営責任者となった坂東長康は、政党関係の人(印刷史研究家牧治三郎は宮内省関係者としている)といわれ、昭和12年10月31日現在の株主名簿によると50株を所有する株主で、債権者代表として送り込まれた人物であったと見られている。

しかし、会社経営責任者となった坂東長康は、ほとんど経営改革に取り組むことなく、現状のままで営業を続行しながら清算準備にはいった。その間、坂東長康の不審な行動に気付いた吉雄永寿は、昭和13年(1938)3月17日に開かれた臨時株主総会において、監査役の職権を以って坂東長康を解任させたという。

昭和13年(1938)3月17日の臨時株主総会では、役員改選の結果、第9代社長として代表取締役松田一郎、取締役として橋本能保利と足立豊、監査役として吉雄永寿が選任された。次いで、松田一郎社長の発議により会社解散の決議がなされた。

解散決議がなされた東京築地活版製造所は直ちに清算業務に入ったが、社内の秩序が保てず、清算管理人となった吉雄永寿は背任行為に加わることをおそれて、途中で自ら身を引いたと伝えられている。

解散に追い込まれて後、東京築地活版製造所は、社内の醜い争いが表面化することなく、立つ鳥跡を濁さずの喩えのとおり、静かに身を引いた。
築地の土地・建物は債権者である日本勧業銀行の手に移され、製銅業者の団体「懇話会」に売却された。

2.専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿について
吉雄永寿は、昭和6年(1931)3月12日に開催された臨時株主総会において、松田一郎と共に初めて取締役に選任され、松田精一社長の下で経営改革に取り組むことになった。
その時の会社役員は、取締役社長:松田精一、取締役:大澤長橘、松田一郎、吉雄永寿、監査役:星野錫、野村雅夫であった。なお、大澤長橘は支配人を兼務していた。

挿図7-1 吉雄永寿の肖像写真
<日本工業倶楽部『創立二十年記念 会員写真帖』、昭和13年3月>

この写真は、東京築地活版製造所 常務取締役として掲載された。
日本工業倶楽部は大正6年に創立され、
東京築地活版製造所も会員の一員として加入していた。

明治10年5月28日に開催された定時株主総会に続く臨時総会で、吉雄永寿は専務取締役に選任され、松田精一社長の跡を継いで第7代社長空席のまま経営責任者となった。

東京築地活版製造所の業績は、大正12年(1923)9月の関東大震災で罹災してから向上せず、それでも野村宗十郎から松田精一が社長職を引き継いで以降は株主配当を継続していた。しかし、昭和5年後期(昭和6年11月25日現在)の決算で当期損益金として3万3千円若の赤字を計上することになった。

この期の営業報告書は失われているので大幅赤字の原因は不明であるが、当時、経済界の不況は深刻で、印刷業界への影響も厳しくなる一方であった。活字の需要は新聞社は勿論、中堅印刷業者であっても活字自家鋳造の時代となって大口需要は見込めなくなり、印刷業界での活版印刷輪転機の採用やオフセット印刷機の導入など、活字の売上と共に印刷物の注文も減少していた。なお、この時の大幅赤字は最後まで経営の足を引っ張ることになった。

このような事態に立ち至って、業界の老舗「築地活版」を潰すなとの声が上がり、共同印刷の大橋光吉(共同印刷社長)や、星野錫(東京印刷社長で築地活版の監査役)の推薦を受けた吉雄永寿が「築地活版」の経営陣に加わることになった。

吉雄永寿は父吉雄永昌から受け継いだ東京築地活版製造所の株式50株に新株発行による50株を加えて100株を所有する株主で、それまで高砂工業株式会社(現、高砂熱学工業株式会社)で役員を務めていた。

東京築地活版製造所の終末期の事業記録は断片的で、纏まった資料はほとんど残されていない。しかし、幸いなことに、吉雄永寿の御子息である吉雄永春氏が「東京築地活版製造所と吉雄永寿」と題して草稿を執筆されている。

この草稿は、平成2年(1990)3月1日から31日まで、中央区立明石町区民館で開催された「日本の活字印刷」あけぼの展(主催:中央区明石町町会、協賛:東京都印刷工業組合京橋支部)を訪れた吉野永春氏が、出品者として会場に居られた斎藤正文堂の斎藤喜徳氏に託されたものである。

斎藤正文堂の経営を継がれた斎藤隆夫氏が、平成30年(2018)5月18日、朗文堂を訪れて、その原稿を提示され、東京築地活版製造所の最後の歴史を物語る資料として公開することを依頼された。

その御依頼にお応えするため、本シリーズの一環として、以下にその草稿の全文を原文のまま紹介する。

2-1 吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」
活字業界の最大手であり印刷業界でも中堅の地位にあった築地活版製造所が昭和14年〔ママ〕に閉業したことは、謎として今日も真相が明らかではありません。閉業から半世紀が経過した今日、真相を追っても迷惑を及ぼす心配は失せているように思います。

終末劇の中心人物吉雄永寿は私の父です。その父と私の対話がこれからの文章の骨です。従って、或いは偏った記述があるかもしれませんが、父親は感情にはしる人ではなく、依怙贔屓はしない人ですから、その語った言葉は冷静な判断から生まれたものだと信じます。文中人名は避けますが、父に共鳴した人よりは改革に抵抗した人の方が多く、父の思うように改革が進まなかったのは認めざるを得ません。資金面での長崎人は冷ややかであったようです。父の数度の長崎の出張は援助を取付けるためだったようですが、成功しなかったようです。

吉雄永寿
吉雄家は代々長崎の蘭通詞でしたが、永寿の父永昌は明治政府の大蔵省出仕となって上京しました。英語に堪能であったために二度に渉って長期外遊がありました。その故に子女は7才年上の姉と永寿の2人きりです。

東京築地活版製造所は、明治18年、株式会社となって出資に応じた人々に株券を公布しています。その株券は永昌の没後も大切に保存されていました。それが、永寿が築地の経営を委される素地となりました。

築地活版は、東京大震災後、業績が上らず、昭和5年には2万7千円以上の大赤字で危機に瀕していました。印刷業界で老舗築地活版を潰すなとの声があがり、共同印刷の大橋光吉氏、財界の星野錫氏の推挙で、築地活版再建のため、その経営陣に加わりました。昭和5年暮のことです。

父親は引受けるに際して、長崎人の会社である築地活版はどんなことがあっても守って見せる。恐らく報酬はのぞめないが、これは二の次、と私に心境を洩らしました。事実、殆ど報酬を受けずに働き通しました。

昭和10年、社長松田精一氏の退任で、代表取締役になりましたが、社長は空席のままです。財力がないものは社長の資格がないというのが信念でした。

それでは、父親が時々洩らした言葉から改革の模様を探って見ます。

(一)伝票制会計
築地の会計はまことに大雑把であったことは父親の大きな驚きだったようです。

金の動きを正確に掴むために、すべてを伝票によって整理するシステムを導入しましたが、面倒がられて徹底するのに数年を必要としたということです。掛売の多い活字業では、もっと早く導入する必要があったのにともいっていました。

(二)設備の更新
設備の更新を怠ればたちまち同業者に蹴落されてしまいます。築地活版は老舗として高い技術を持っていましたが、父親は常々よい仕事はよい器械から生まれると言っていました。

日本は精神面の充実が技術の根本とされた時代で、異端者的な考えの持主でした。そのような考え方は大企業の人の中にも見られました。父親は築地活版以前の高砂時代、当時最高技術を誇った高砂暖房(今の高砂熱機)で、この考えを不動のものにしたようです。

あまりにも陳腐化していた築地の印刷機械は更新の対象でしたが、大赤字では為すすべがなかったのでしょう。

永寿は、その赤字解消の目算のついた昭和11年、敢然として新しい機械の購入に踏み切りました。機種の選定は慎重を極めたようですが、中馬鉄工所の高速オフセット機を2台迎え入れました。たちまち鉄道省観光局の印刷物を大量に受注出来ました。何んともいえない黒の色調のよさがその決め手だったと父は言っていました。

さらに増設を考えていたようですが、手狭ではにわかに実現できず、僅か2台の増設で終わりました。

(三)不用部門の切捨て
昭和10年頃の築地活版の重荷は機械製造部と大阪営業所でした。共に築地の良き時代に創設され、殊に機械製造部は印刷機械を広く売った花形部門ですが、全くといってよい程、受注がない状態だったようです。大阪営業所は製造設備を持つ分工場のようでしたが、業績はさっぱりということでした。

この二つの整理は昭和大不況の時だけに大変困難な仕事でした。

人員整理を巡って二度の大争議となりました。印刷界の争議は他に較べて解決が困難なものとされていました。争議団の人々が私共の自宅に襲撃して来ました。当時、父親は合理的な借家主義で自分の家は持ち合せていません。争議団の人々はこれが築地の代表者の家かと驚いたと伝えられています。

父親の築地活版を愛する気持が通じたのか、間もなく争議は解決し、月島の機械工場は閉鎖とし、大阪営業所も縮小の上、存続と決定しました。

一件落着のようですが、今振り返って見ると、築地活版の崩壊はこのときに始まっていたようです。一部社員の不正行為に端を発して、幹部社員に迄波及した騒動となりました。
自宅には父親の行為を是とする人々の会合が始まり、反対派の人々の来訪もあって、騒然とした状態でした。

(四)別工場
父親の最後の夢でしたが、遂に不発におわりました。先に述べたように印刷工場は狭い所に押込められ、狭くて暗い最悪の状態でした。

先ず、父親はまだ印刷の需要は伸びると考えていました。〔当時印刷業界トップ企業であった〕共同印刷と迄は及ばずとも、それに近い合理化は新しい工場を作るしかないとの見解のようでした。

もうコスト戦争は始まっているといっていました。その夢を実現する改革は着々と進んでいました。建物の図面を見せてくれましたが、少なくとも今迄の工場の3倍の広さでした。〔東京都板橋区〕志村を選んだのは、土地が安く、何よりも都の中心に製品を運ぶのに最適と考えたからといっていました。

この計画を知る人は、社内でも限られた人のみだったようです。不発に終ったのは、崩壊が早くて、銀行からの資金調達が出来なくなったからと推察します。

(五)内政から外交
父親は常々それ迄の築地は外交を疎かにしたためと分析していました。名実共に築地の代表者となった昭和10年は、赤字解消の目途が立ち、外交を積極的に行える状態になったからと思えます。業界誌はにわかの変化に注目しています。活躍の始まりは先ず活字組合の組合長です。その仕事は活字の値段の安定化でしたが、築地だけ値上げして他の組合員はそっぽを向くと言う苦境がありましたが、徐々に組織を纏めて目的を果たしていったようです。

次のステップは、東京印刷組合の京橋支部長です。いづれも築地活版の名声をバックにした行動で、当然の地位であると一般からも歓迎されたようです。京橋支部長を足掛りに、東印組合の副議長に選出され、組合長大橋光吉氏の補佐をしました。
東印25周年記念祭は、その絶頂のときでした。

終 焉
一番知りたい事ですが、本当に謎につつまれた最後です。

そのきっかけは、吉雄永寿が代表専務取締役から監査役に退いたときから始まります。私の推測では、先述したように幹部職員の間の内紛の責任をとったと思えます。

替わって代表専務となった阪東長康氏は株主名簿*1)にはありません。恐らくは債権者代表ではないかと思います。この交替は昭和12年の6月であったと思えます。僅か10ヶ月の後の昭和13年3月からは清算に入っています。

清算人の不審な行動に気付き、解任を迫っても肯んぜす、監査役の職権をもって交替させたといいます。解散が決まってからの社内は秩序が保てず、父は寄ってたかって会社を喰いものにしているといっていました。或日、妻にもうこれ以上居れば背任行為に加はらねばならないので退任するといって、築地活版から退社してしまいました。
崩壊の原因は、社内の内紛が表面に出て、銀行筋が貸金の回収を急いだ結果だと推察します。

父親は、昭和6年から11年迄の決算報告書を保存していましたが、不思議なことに、昭和12年以降は見当たりません。昭和12年の決算*2)こそ、閉業に至る事情が判るはずです。自宅に持ち帰らなかった内情は察するに余ります。

昭和11年で赤字は僅かに圧縮していますが、借入金に迄は手がつけられていません。

決算表のうつし
年度*3)           利益金   損益金
昭和 6年 6月    1,159.70         -26,980.75
昭和6年12月          535.77         -26,444.98
昭和 7年 6月       3,028.14         -23,416.14
昭和 7年12月      3,433.75         -19,982.39
昭和 8年 6月       3,116.35         -16,866.04
昭和 8年12月   3,169.83         -13,796.21
昭和 9年 6月     948.75        -12,847.46
昭和9年11月    -3,569.81        -16,417.27
昭和 10年 6月   2,926.53        -13,496.74
昭和10年11月   1,297.23        -10,193.51
昭和11年 6月       3,940.89          -6,257.70
昭和 11年12月     4,343.74          -1,908.96

資本金     600,000.–
借入金          510,369.21
(昭和11年10月現在)

以上

(稿者備考)
*1.文中に出てくる専務取締役坂東長康は、『昭和12年後期営業報告書』の「株主名簿」(昭和12年10月31日現在)に株主として名前が掲載されている。
*2. 12年6月と12年12月の決算表は、『昭和12年前期営業報告書』と『昭和12年後期営業報告書』に掲載されている。
*3. 「決算表のうつし」にある「年度」は、その1ヶ月前を期末とする決算結果を報告した定時株主総会の開催年月を示す。

2-2 その他の事績
東京活字製造組合での活動
吉雄永寿が専務取締役として経営責任者となった同じ月の昭和10年(1935)5月に、東京活字製造組合(組合員104名)において役員改選がおこなわれた。その結果、吉雄永寿(築地活版)が組長、青木弘(大日本印刷)が副組長に選任された。
同年7月になって、組合決議にしたがい新活字定価を発表した。同年12月には東京活字業者の有志が販売連鎖店「万寿会」を組織した。さらに、昭和11年(1936)11月、東京活字製造組合は活字定価を2割値上げした。

なお、大日本印刷は、昭和10年(1935)2月に株式会社秀英舎と日清印刷株式会社が合併したもので、その活字販売部が東京活字製造組合に加入した。この頃には、組合員となった活字製造業者が100社を超えるほど多数存在していたことが分かる。

その3年前の昭和8年(1933)秋以降、原料の暴騰により活字の販売件数は増加したものの、それなりの利益を挙げることが困難となっていた。昭和9年(1933)には数度に亘って活字値上げを断行したが、採算を度外視して販売する業者も現れたため、採算の改善にはつながらなかった。

昭和11年(1936)3月、東京築地活版製造所は大日本印刷活字販売部と共に、東京活字販売組合から脱退した。おそらく、組合員104名の中には中小業者が多く、活字値上げの徹底ができなかったことによると見られる。

昭和11年4月から1年間の営業成績
吉雄永寿が自宅に持ち帰らなかった昭和12年前期と後期の営業報告書は国立国会図書館の科学技術・経済情報室で閲覧できる。先に紹介した吉雄永春氏の草稿を補うものとして、以下に記載する。

『昭和12年前期営業報告書』によると、昭和11年(1936)11月1日から昭和12(1937)年4月30日までの事務処理と諸計算が報告、承認されている。
この期間の「営業の景況」は、「前期に引き続き諸材料の暴騰、ことに地金類の暴騰はほとんど底止まりするところを知らず、そのために多大の努力をはらったが、ついに予期の成績を挙げるに至らなかったのは、まことに遺憾とする所です。」としている。
また、「損失金処分」として、前期繰越欠損金 1,908円96銭、当期欠損金 9,924円25銭、合計後期繰越欠損金 11,833円21銭と報告している。

『昭和12年後期営業報告書』によると、昭和12年(1937)5月1日から同年10月31日までの事務処理と諸計算が報告、承認されている。
この期間の「営業の景況」は、「今期は前期以上に諸材料が暴騰したのみならず、原料の供給不足を来たす状況で、地金類の騰貴ははなはだしく、これに反して注文類は思わしくなく、そのために成績も悪く、したがって事績において見るべきものがないのは、まことに遺憾とする所です。」としている。
また、「損失金処分」として、前期繰越欠損金 11,833円21銭、当期欠損金 86,958円72銭、合計後期繰越欠損金 98,791円93銭と報告している。

なお、昭和12年(1937)10月31日現在として、資本金 600,000円、借入金 508,260円16銭となっている。

吉雄永寿が取締役となった昭和6年前期以降は、昭和9年前期まで松田精一社長の下で当期損益金は黒字を維持していた。しかし、昭和9年後期の決算で当期損益が赤字を計上したことから、吉雄永寿が常務取締役となって黒字に戻し、経営改善の方向に向かった。しかし、わが国の経済・社会情勢はこれに味方しなかった。

経済・社会環境の変化
昭和6年(1931)9月に満州事変が勃発し、以後、わが国の国際的孤立化が進み、日中戦争へと発展した。その中で、「重要産業統制法」が公布され、軍需優先の統制経済へと移行した。昭和12年(1937)9月になって、政府は「輸出入品等臨時措置方」、「臨時資金調整法」、「軍需工業動員法」を制定して、重要物資や資金を優先的に軍需産業に回すこととした。このとき、各産業は優先順に甲、乙、丙の三種に区分された。

印刷業は丙種産業に指定され、設備の拡張を抑制され、資金・原材料・生産・加工・流通などのあらゆる面で冷遇されることになった。
印刷業は、大部分が輸入品で、軍需資材でもある印刷関連資材が統制の対照となったため、資材供給の面でもっとも厳しい制限を受けることになった。それにより、あらゆる資材の高騰と供給制限に悩まされた。

昭和12年(1937)には、昭和11年(1936)に較べて印刷資材が4割も高騰し、各種材料・機械の値上げが相次いだが、それを転嫁すべき印刷料金の3割値上げの申し合わせは思うように実行できず、東京印刷同業組合員は苦しい経営を余儀なくされていた。

昭和13年(1938)5月発行の『印刷雑誌』によると、活字鋳造業の事情は甚だしく困難となり、各地の業者はその対策に腐心している。原因はいうまでもなく、輸入制限のため品薄となり、目下の原産地相場より恐ろしく騰貴し、鉛と錫は3倍、アンチモンは2倍に当たる。そして国内値段としては、(日華)事変前の5倍ないし6倍に騰貴している。
これに対して販売値段はせいぜい2倍くらいに騰貴したに過ぎず、前途値上げ実行も、甚だしく困難視されているので、この上は全国業者が一段となって、特別輸入許可を請願するほかなしとして、寄り寄り下相談が進められている模様である。
本月(昭和13年5月)前後の値段は各100キロ、鉛96円(貫3円50銭)、アンチモン175円(貫6円50銭)、錫800円(貫30円)で、事変(稿者注:日華事変、昭和12年7月に勃発)前の、貫当り鉛60銭前後、アンチモン1円20銭、錫7円に対して5,6倍の騰貴となった。
それでも合金中の最下品といわれる込物用〔活字〕が貫3円60銭(平時5,60銭)となり、仮に鉛83%、アンチモン15%、錫2%の地金にすると、4円50銭前後のものになる。

専務取締役の退任と監査役就任
昭和12年前期(昭和11年11月1日~昭和12年4月30日)の決算報告により当期損益で赤字を計上し、さらに昭和12年後期(昭和12年5月1日~昭和12年10月31日)の決算では大幅赤字が見込まれることになった。

このような苦境に直面した吉雄永寿は経営を改善すべく努力を続けていたが、昭和12年(1937)9月に政府の特別法が制定されて、印刷業はきびしい統制を受けることになった。このこともあって同年10月29日、臨時株主総会を開いた。その場で、吉雄永寿は専務取締役を退任して監査役に就任し、代わって株主坂東長康が代表専務取締役に選任された。

このとき選任された新役員は、専務取締役:坂東長康、取締役:橋本能保利、松田一郎、監査役:吉雄永寿であった。代表専務取締役坂東長康と専務取締役橋本能保利は東京築地活版製造所の株式それぞれ50株を取得して株主となっていた。

2-3 父吉雄永昌と平野富二との親交
吉雄永寿の父吉雄永昌は、築地活版製造所の初期時代から平野富二に協力し、株式組織となった時に50株を取得して株主となっていた。吉雄永寿がその株式を相続し、新株発行のときに50株を買増して100株を所有していた。

吉雄永昌は、幕末には吉雄辰太郎と称してオランダ通詞の一員であった。『慶應元年 明細分限帳』によると、享保8年(1723)の玄祖父より6代で、嘉永4年(1851)に稽古通詞に任命され、そのときにオランダ通詞役を相続したと記録されている。

玄祖父は、その年代から見て、吉雄藤三郎のことを示すと見られる。吉雄藤三郎は、前名を品川与兵衛と称し、オランダ通詞の品川家から吉雄家に養子に入った。その息子は吉雄幸左衛門永章(耕牛)、吉雄作次郎永純、諸熊五兵衛照親の3人で、吉雄幸左衛門永章の子孫は、のちに品川家を継いで品川藤十郎につながり、諸熊五兵衛照親の子孫には吉雄圭斎がおり、いずれも本木昌造の協力者として知られている。

吉雄辰太郎永昌は、吉雄作次郎永純の家系につながる人と見られ、代々オランダ通詞を勤めていた。慶應元年(1865)に数え年で25歳とされていることから、天保12年(1841)生まれとなる。しかし、相続してオランダ稽古通詞となったときに登用年齢に満たなかった場合、奉行所年齢として実年齢とは異なる場合もある。

幕末になると若手オランダ通詞は英語の勉学が行われるようになり、吉雄辰太永昌も英語を修得した。明治元年(1868)には長崎府職員として通弁役となった。この中の優秀な者たちは、新政府により東京や横浜の外国語を必要とする部署に出仕している。

吉雄辰太郎は、明治4年(1971)にアメリカ・ヨーロッパに派遣された岩倉使節団の理事官の1人となった田中光顕(大蔵省戸籍寮戸籍頭、財政・民生制度などの調査・研究を担当)の随員の1員として参加した。大蔵省からの派遣で、使節団一行に対する給料の支給などを行っていたことが記録されている。

明治7年(1874)1月、平野富二が築地活版製造所の本社事務所として築地2丁目19番地に煉瓦家屋を自費官築したとき、その建築費を月賦払いとするよう東京府に申請した。その請書に平野富二の身元請人として吉雄永昌(木挽町2丁目18番地)が名前を連ねている。このとき、遠い親戚である品川藤十郎が東京で政府の役人となっている吉雄永昌を平野富二に紹介したと見られる。

また、明治9年(1876)5月10日から11月10日までフィラデルフィアで開催された米国万国博覧会の委員の1人として、渡航人名表に「事務官 吉雄永昌」の名前がある。それには「勧業寮十二等出仕 長崎県平民 吉雄永昌 会計」と記録されている。
このフィラデルフィア万国博覧会には、平野富二が築地活版製造所から活字類と活字見本帳を出品している。この出品に当たって、勧業寮に出仕していた吉雄永昌の出品勧誘、協力があったと見られる。

吉雄永昌は、東京築地活版製造所が明治18年(1885)に株式会社として組織替えしたとき、平野冨二との縁もあって株主となった。

3.解散を決議した第9代社長松田一郎について 

3-1 東京築地活版製造所との関わり
松田一郎は、第6代社長松田精一の長男で、昭和6年(1931)3月12日に開催された臨時株主総会において取締役に選任された。このときの会社役員は、取締役社長:松田精一、取締役:大澤長橘、松田一郎、吉雄永寿、監査役:星野錫、野村雅夫であった。

それまで取締役だった伊東三郎と大道良太は退任し、その補欠として松田一郎と吉雄永寿が初めて取締役に選任された。

松田一郎の取締役就任は、多忙で病気がちとなった父松田精一の補助役として選任されたとみられる。以後、昭和10年(1935)5月1日に松田精一が取締役社長を辞任したのちも、昭和13年(1938)3月17日に代表取締役社長に就任するまで、丸7年間、取締役として会社経営を支えて来た。

父松田精一は、昭和8年(1933)まで長崎商工会議所会頭を務め、また、昭和11年(1936)7月に病を得て辞任するまで十八銀行頭取を務めていた。その翌年の昭和12年(1937)1月、63歳で死去した。

なお、昭和12年10月31日現在の東京築地活版製造所の株主名簿には、松田精一が筆頭株主として2,600株、松田一郎は410株を所有し、2人は東京市在住となっている。株式の遺産分与がなされていないが、これは何を意味するのか不明である。

3-2 取締役としての事績
昭和6年(1931)3月に松田精一の下で初めて取締役となり、昭和10年(1935)5月からは専務取締役に選任された吉雄永寿の下で引続き取締役を勤めて昭和13年(1938)3月まで、合計7年3ヶ月間、東京築地活版製造所の経営を支えてきた。

しかし、この間、取締役松田一郎としての事績は記録されていない。おそらく創業以来一貫して東京築地活版製造所の経営を支えて来た松田一族の代表として主として株主代表として、資金面での協力が大きかったと見られる。

ちなみに、昭和12年(1937)10月31日現在の株主名簿に記載された松田一族は、松田精一(2,600株)、松田一三(500株)、松田正雄(480株)、松田一郎(410株)、松田次郎(310株)、松田三郎(281株)、松田五郎(265株)、松田静枝(65株)で、合計持株数は4,911株となる。つまり、株式総数12,000株の41%を松田一族が所有していたことになる。

なお、参考に当時の東京築地活版製造所の株主構成を示すと、創業者本木昌造と初代社長平野富二の協力者であった西川忠亮につながる西川家は790株、第4代社長名村泰蔵の遺族の所有株式すべてを引き受けた北見米吉は2,550株、第5代社長野村宗十郎の縁につながる伊東巳之吉の子孫2,750株と野村雅夫366株を合わせて3,116株で、松田一族の分を含めると株式総数の94.7%となる。その他は平野富二の縁故者や東京築地活版製造所の従業員功労者の持株が大部分を占める。

3-3 第9代社長としての事績
昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において代表取締役社長に指名された松田一郎は、その場で会社解散を提議し、承認を得て清算業務に入った。
そのとき選任された新役員は、代表取締役社長:松田一郎、取締役:橋本能保利、足立豊、監査役:吉雄永寿となった。
新しく取締役となった足立豊は50株を所有する株主で、茨城県の田口家から男爵足立家に養子に入った人で、男爵を世襲して貴族院議員となっていた。

祖父松田源五郎は、明治25年(1892)2月、衆議院議員に当選しており、政界との繋がりが深い。その故もあってか、東京築地活版製造所に迎えられた役員には政界、官界の出身者が多い。

会社解散を決議した松田一郎は、東京築地活版製造所の最後の社長として、その後の清算業務を無事に実行させることが自らの役割となった。
しかし、どのように清算が行われ、何時、清算を完了して会社解散の届け出を行ったかは明らかになっていない。

まとめ
第6代社長松田精一が辞任して専務取締役吉雄永寿に会社経営を託した昭和13年(1935)5月28日から、第9代社長松田一郎が会社解散を決議した昭和13年(1938)3月17日までの2年10ヶ月間は東京築地活版製造所の終末期であった。

この間、第7代社長空席のまま専務取締役として吉雄永寿が2年5ヶ月半、次いで第8代社長空席のまま代表専務取締役坂東長康が4ケ月半、それぞれ経営責任者として勤めた。その後は、代表取締役松田一郎が第9代社長に選任されて即日、会社解散を決議して清算業務に入った。

吉雄永寿と松田一郎の二人は、昭和6年(1931)3月12日の臨時株主総会において初めて取締役に選任され、以後、重任を重ねていた。それを勘案すると、会社役員として経営に参与した期間は共に7年間となる。一方、坂東長康が経営に参与したのは僅か4ヶ月半で、その業績は伝えられていない。

吉雄永寿は、父吉雄永昌が遺した東京築地活版製造所の株式50株に新株50株を加えて100株を所有する株主であった。

吉雄家は長崎のオランダ通詞の家柄で、吉雄永昌は吉雄辰太郎と称していた。初期の東京築地活版製造所の取締役であった品川藤十郎とは遠い親戚で、上京して大蔵省、内務省に出仕した。その頃、平野富二に協力して築地本社事務所の建築代金支払いの保証人となった。また、フィラデルフィア万国博覧会への活字類出品に協力したと見られている。

その後、高砂熱学の役員を経て、東京築地活版製造所の取締役として招聘されたといわれている。昭和5年(1930)11月末の決算で大幅赤字を計上した東京築地活版製造所は、印刷業界の老舗「築地活版」をつぶすなとの声に押されて株主吉雄永寿は取締役に選任された。当時の社長松田精一は長崎の十八銀行頭取や長崎商工会議所会頭を務め、多忙のため病気がちで、「築地活版」の経営に専念することができない状態にあった。その補佐役として長男の松田一郎も同時に取締役に就任した。

会社役員に就任して後、会計に伝票制を取り入れ、人員整理を断行、大阪営業所の縮小、印刷事業に着目した高速オフセット印刷機の導入と、板橋区志村に新工場の計画、同業組合への積極的参画など、経営改善に努めた。

しかし、満州事変に始まる日中戦争への拡大により経済・社会情勢はこれに味方せず、関東大震災後の復興のための多額の借入金と昭和5年後期の大赤字が足を引っ張り、昭和12年後期の決算で前期に続いて赤字計上の見込みとなったため、昭和12年(1937)10月29日開催の臨時株主総会において専務取締役を辞任し、監査役に就任した。

吉雄永寿の跡を引き継いだ代表専務取締役坂東長康は、債権者代表として送り込まれた人物ともいわれ、会社経営上の貢献についての記録は見当たらない。第8代社長空席での経営責任者であったが、会社解散決議の直前まで最後の経営責任者となった。

松田一郎は、松田精一、吉雄永寿、坂東長康の3代にわたる経営責任者の下で都合7年間、取締役を務め、経営を支えてきた。この間の松田一郎が果たした経営上の貢献は明らかにされていないが、資金面での協力が大であったことは推測される。

松田精一を代表とする松田一族の保有する株数は、東京築地活版製造所の発行株数12,000株の40%を越え、松田一族の会社といっても過言ではない。

昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会が開かれ、経営責任者である坂東長康の不審な行動を見抜いた吉雄永寿は監査役の権限で退任を要求し、その結果、代表取締役に選任された松田一郎が第9代社長に就任した。松田一郎は、役員選任が終わった後、引き続いて会社解散の決議を行い、清算に入ることになった。

したがって、松田一郎は社長として会社経営を行うことなく、会社清算に入ったことになる。
この時の会社清算がどのように行われ、何時、解散届が役所に提出されたか不明であるが、築地の土地と建物は日本勧業銀行からの借入金の弁済に充てられた。その他、従業員の解雇手当や債権者への弁済には製品・資材や器械・器具類の売却により、多少の混乱はあったものの無事に清算を完了したと見られる。

なお、株主に対しては、昭和5年後期の決算以降、一度も株式配当を行うことなく会社解散となったが、最大株主である松田一族の代表でもある松田一郎の協力要請により、納得できる処置が講じられたものと見られる。

明治18年(1885)7月の会社設立から数えて53年、平野富二が築地に工場を建設した明治6年(1873)6月から数えると65年、わが国活版印刷の普及と発展に尽くした東京築地活版製造所は、その混乱を表面化することなく静かに幕を閉じた。

シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長略歴」を完結するに当たって
東京築地活版製造所の歴史をさかのぼると、明治3年(1870)3月に長崎で本木昌造が新街私塾の付属として設立した新町活版所と新町活字製造所にはじまる。その後、活字製造所の経営に行き詰まった本木昌造が平野富二に経営を委託し、平野富二は活字の規格を統一して品質とコストの管理を徹底し、一般需要者にも活字を販売することによって事業化に成功した。

平野富二は、本木昌造の承諾を得て、活字需要の見込める東京に進出することにした。明治5年(1872)7月、平野富二は、新妻と従業員8名を引き連れて上京し、神田和泉町に活版製造所を設立して、「長崎新塾出張活版製造所」として活字の製造と販売を開始した。当初、活字の需要はほとんど無かったが、各地の新聞社や県庁に働きかけて活字の利便性を説明すると共に、活版印刷機の国産化を行なった。その結果、全国各地から活字と印刷機の引き合いが寄せられるようになり、活字の需要は急速に拡大した。

手狭な神田和泉町の工場では活発な需要に対応できなくなったことから、明治5年(1872)に発生した銀座大火で類焼した築地の焼け跡に土地を求めて工場を新設し、明治6年(1873)7月、長崎新塾活版製造所を移転した。これが株式会社となる東京築地活版製造所にまで発展する起点となった。

これだけ長い歴史を持つ東京築地活版製造所であるから、社史が編纂されていても当然であるが、同社の社史に類するものは、昭和4年(1928)10月21日発行の『株式会社東京築地活版製造所紀要』と題するわずか10ページのパンフレットしかない。

その他に東京築地活版製造所の歴史を物語る資料としては、三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(詳伝頒布刊行会、昭和8年4月)、松尾篤三編『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君畧傳』(東京築地活版製造所印刷、明治28年10月)、「故野村宗十郎翁畧傳」(野村宗十郎翁胸像建立事務所編『野村宗十郎翁胸像建立概要』、昭和4年10月)、吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」(未発表草稿、斎藤正文堂斎藤隆夫氏提供)がある。

なお、東京築地活版製造所に関する情報を暦年順に纏めたものとして、板倉雅宣著『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』は幅広く情報が集約されているが、誤記が多いので原典を参照しながら読めば、貴重な資料となる。本シリーズの執筆に当たっては大いに参照させて頂いた。

旧東京築地活版製造所の建物は昭和44年(1969)2月まで所有者の株式会社懇話会館によって使用されてきたが、同年3月から新ビル改築のため取壊しがなされ、その痕跡はすべて失われた。

その後、同年6月に東京活字共同組合の理事会で「旧東京築地活版製造所に記念碑を建設する件」が協議され、昭和46年(1971)6月29日、道路に面した敷地の南端に「活字発祥の碑」が建立されて除幕式が挙行された。除幕式には野村雅夫氏が招かれたが、創始者である平野家の代表者が招かれなかったことから、一周年の記念日に当たる翌年6月29日に平野家から平野富二の嫡孫平野義太郎氏を招いて碑前祭が挙行された。

2019年9月3日 稿了