<長崎製鉄所の第一期工事竣工とその設備>
長崎製鉄所は文久1年(1861)3月25日に竣工した。それは長崎港内の飽ノ浦において安政4年(1857)10月10日に起工して、3年5か月後のことであった。その間、木材、煉瓦と瓦以外の資材・機械類をオランダから輸入し、オランダから派遣された技術者や職長たちの指導により完成した。
竣工したときの長崎製鉄所の製造設備は、鋳物場、鍛冶場、轆轤盤細工所、小細工場と仮舎蜜所で、付属施設として諸物置、石炭囲所、諸器械置場、蒸気機関室が設置され、轆轤盤細工所に図引所が付属して設けられた。その他に、波戸、表門、掛支配向・地役人詰所、蘭人住居があった。
長崎製鉄所第一期工事竣工時の工場平面図
工場の右手は長崎湾で、下手は飽ノ浦の海面を示す。
破線で示した施設は追加建設予定の施設。
設置された工場設備を見ると、鉄や銅類の鋳物を製造し、鉄素材を鍛造して成型し、それらを工作機械で加工するまでの設備であることが分かる。上記工場略図には示されていないが、当然、加工した機械部品を組み立て、完成した機械を試運転するまでの施設があったと見られる。なお、仮舎蜜所は仮設のガラス工場のことで、船舶に用いられるガラス窓やランプなどのガラス製品を造る工場と見られる。
この工場施設が設置された長崎飽ノ浦は、水深が岸近くまで深く、容易に大型船舶を接岸できることから選ばれたものであるが、この時点では、蒸気機関に必要な汽缶製造設備や、修理する船舶を接岸するための岸壁も未だ整備されていなかった。
船舶の建造や本格的な船体修理を行う施設がなければ造船所としての機能はなく、そのため、鉄製品を製造する施設として「製鉄所」と呼ばれた。また、将来、本格的な造船所とすることを目指して、この段階で第一期工事の竣工としたと見られる。
竣工に先立ち、万延1年(1860)12月26日、オランダ側の建設責任者である海軍機関将校ハルデス(H. Hardes、1815~ )の在留期間を1861年5月1日(文久1年3月24日)まで延長、機関方のファン・アーケン(J. M. van Aken、1826~ )とラスコイト(D. Lasschuit、1813~ )の2名は1866(慶応2)年まで、職長たち7名は1862(文久2)年まで延長している。
ハルデスを除くオランダ人たちは、第一期工事竣工後の長崎製鉄所での技術指導のために滞在を延長され、飽ノ浦の製鉄所に隣接して建てられた蘭人住居に居住していたと見られる。
<長崎製鉄所での技術者育成>
わが国で初めての近代的舶用機械製造工場として建設された長崎製鉄所を運営して行くには、早急に日本人の「機関方」(エンジニア)と称する機械技術者を養成する必要があった。
長崎製鉄所の起工に先立ち、安政2年(1855)10月22日、日蘭和親条約の締結と同時に長崎海軍伝習所が開所され、幕府伝習生に対してオランダ海軍により洋式海軍の伝習が行われた。ここでは、海軍士官と要員の養成を目的とし、長崎製鉄所の技術者養成は対象とされてはいなかった。
そのため、長崎製鉄所の竣工を期に機関方の養成が行われることとなり、急遽、長崎地役人の中から機関方として適性のある者の人選が行われた。その際、機関方見習として伝習を行うために製鉄所内の掛支配向・地役人詰所の一室を教室としたと見られる。製鉄所内には見習生の宿舎は見当たらないので、見習生は長崎市内から西役所横の大波止から小舟に乗って通学したと見られる。
オランダ通詞の本木昌造は、文久1年(1861)3月、伝習掛兼務を命じられ、伝習責任者として主体的に伝習に関わり、主としてオランダ人機関方2名が、機関方見習として配属された者たちに直接教授したと見られる。
なお、記録には見当たらないが、日本人教師として吉田鶴次郎が加わっていた可能性がある。吉田鶴次郎は、長崎地役人の中から選抜されて長崎海軍伝習所の幕府伝習生として「蒸気機械方」・「火焚取締方」要員育成の伝習を受けた。この時に伝習を受けた主要メンバーは、伝習を終えて練習船「観光丸」で江戸に向かったが、吉田鶴次郎は、続いて行われた補充伝習(第二期伝習)にも参加し、その後、長崎奉行所支配定役となり、維新後は、本木昌造と共に長崎製鉄所の頭取役に就任している。
<特例選抜された矢次富次郎>
製鉄所機関方見習として採用された者たちの一人として矢次富次郎(後の平野富二、数え年16)が居た。
富次郎は、数え年12で隠密方御用所番見習として長崎奉行所に出仕していたが、抜擢されて製鉄所機関方見習となった。この抜擢は、特例中の特例として扱われたらしく、長崎奉行所の文書である『安政七年 外務課事務簿』の中に、次のような趣旨の記述があることを長崎在住の宮田和夫氏が見付けられた。
町司矢次和一郎の弟矢次富次郎については、製鉄所御雇いを仰せ付けられるに当たって、以後、次に該当する者に限り人選するよう申し付けたとして、「部屋住みの内に年頃の者が居ない時は、無給または本見習いの者たちでも、相応の者を選んで申し立てて良いが、二男、三男などの厄介は容易には申し立てをしてはならない。」という指示が出された。
文中にある「部屋住み」とは、武家の嫡男が未だ相続をしない間の身分、または、次男以下の者たちを指す。また。「厄介」とは家禄を支給されている長男の下で生活している二男以下の者たちを指す。長崎では地役人は、身分は別として、武家並みの扱いをされていた。
このとき、杉山徳三郎も製鉄所機関方見習として配属され、矢次富次郎と共に伝習を受けた。杉山徳三郎は、長崎海軍伝習所での補充伝習(第二期伝習)で番方として砲術の伝習を受け、終了後は、一代町司となっていた。
なお、富次郎が長崎奉行所で所属していた隠密方について、「隠密」と言うと「忍びの者」を連想されるが、実際は長崎奉行の特命事項を実行する役目である。隠密方の役割を示す一つの例として、長崎奉行が長崎に於ける艦船整備の一環として、長崎表で当時船を製造できる者の存否を隠密方に調査させたことがある。
嘉永7年(1854)2月に隠密方から長崎奉行に提出された調査報告書によると、「出島に在留するオランダ外科医(ファン・デン・ブルーク)が所持していた蒸気船絵図を、オランダ通詞本木昌造が少しずつ見覚え、下筑後町大工藤太郎に金を与えて蒸気船を細工させている。近頃、完成した様子であるが、まだ、蒸気装置の試運転までは行っていないとのこと」としている。
この隠密調査は、時期的に見て、富次郎の奉行所隠密方出仕以前のことであり、富次郎と本木昌造との接点にはなりえない。
長崎製鉄所における富次郎らの見習生たちは、本木昌造の指導の下、2年間の伝習を終えて、正式に機関方となった。つまり、長崎製鉄所の技術職員となったことを示す。
この間、江戸から軍艦操練所の蒸気方教官肥田濱五郎が長崎に出張に来ていたので、富次郎らの見習生たちは教えを受けたり、設計作業に参加させてもらったりした可能性がある。
肥田濱五郎は、長崎海軍伝習所の第2期伝習に参加し、伝習終了後は江戸軍艦操練所で教授方となり、蒸気船「咸臨丸」で渡米。帰国後は国産砲艦「千代田形」の蒸気機関の設計・製造を担当して長崎に出張して来ていた。後年、平野富二が東京で造船業に進出してから多くの協力を得ている。
<伝習責任者となった本木昌造>
本木昌造は、万延1年(1860)10月、製鉄所御用掛を任命され、長崎製鉄所を管理する立場となった。この頃、建設中の長崎製鉄所を視察し、細工場用の屋根組トラスの前でハルデスと共に撮った写真が残されている。同年12月には、細工所の小屋組トラスを据え付け、上棟式が行われたことからも通詞姿の人物は本木昌造であると見られる。
細工場屋根組トラス前のハルデスと本木昌造と見られる写真
製鉄所御用掛となった本木昌造が
建設中の工場を視察したときの写真と見られる。
背後の二階建て家屋は日本人役人の詰所で、
機関方見習生の教室として使用されたと見られる。
本木昌造は、洋式造船に関する知識と経験に於いて、当時、この分野で第一人者と見なされていた。以下に、その経験と実績と述べる。
1)嘉永6年(1853)、出島のオランダ医師ファン・デン・ブルークから蒸気船絵図を見せられ、下筑後町大工に模型を製作させた。(前述の隠密報告)
2)嘉永7年(1854)7月、土佐藩の江戸藩邸に於いて山内容堂に対して蒸気船模型を供覧。同年閏7月末、土佐藩から8人乗り小型蒸気船の建造を依頼された。
土佐藩は、同年8月23日、幕府の許可を得て江戸で小形蒸気船を着工し、翌年8月、土佐の浦戸に回航した。
3)安政1年(1854)12月6日、幕府の命によりロシア軍艦乗員の帰国用として洋式帆船「ヘダ号」建造のため、伊豆戸田村に滞在。翌年4月3日、病気を理由に戸田村在勤を楢林量一郎と交代している。
4)安政2年(1855)6月、蒸気船乗方等伝習掛を命じられる。同年8月には鍋島藩が洋式輸送船を購入する際、その良否と価格の調査を依頼されている。
5)安政2年(1855)10月22日から安政4年(1857)2月末まで、長崎海軍伝習所の幕府伝習生に対して、通訳掛の一員として伝習に関わった。
ただし、安政4年(1857)5月13日に蘭書・器物売り捌き事件で処罰され、預かりの身となったため、以後は海軍伝習に関わることはなかった。
本木昌造は、安政4年(1857)11月28日、自宅謹慎の身を解かれた。自宅謹慎の9ヶ月間、もっぱら鋳造活字の研究に従事したが、かたわら、子弟教育についての構想を練っていた。
<本木一門としての矢次富次郎>
矢次富次郎と本木昌造との最初の接点は、文久1年(1861)3月、矢次富次郎が長崎製鉄所に配属されて、機関方見習として伝習を受けたときと見られる。
長崎というあまり広くない地域で、同じ地役人の社会に属する関係にあることから、それ以前から何らかの接点があったかも知れないが、それを示す史料や逸話は今のところ見当たらない。
長崎製鉄所での機関方見習に対する伝習が開始されたころ、英領ニュージーランドから来日したイギリス人ハンサード(A. W. Hansard)が長崎駐在のイギリス領事を通じて長崎奉行に、「長崎で英字新聞を発行するので、この機会に日本人の若者2,3人に印刷術の全てを伝授したい」と申し入れがあった。
この申し入れを長崎奉行から伝え聞いた本木昌造は、自分の一門の者たちに伝え、平野富二(矢次富次郎)をはじめ、陽其二、谷口黙次、茂中貞次らの有能な門人たちがハンサードの新聞づくりに参加して、そのノウハウを学んだという逸話が伝えられている。
このとき発行された新聞は、“ The Nagasaki Shipping List and Advertiser ” で、1861年6月22日(文久1年5月15日)に創刊された。
これは、富次郎が長崎製鉄所に配属されて2ヶ月余り後のことである。ハンサードは、この新聞をわずか3ヶ月で終刊し、長崎に見切りをつけて横浜に移住し、「ジャパン・ヘラルド」を発行した。
「ザ・ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザー」
本紙はわが国で最初に発行された英字新聞で、図版は第6号を示す。
先の逸話が正しいものであるとすると、富次郎は長崎製鉄所に入って間もなく、本木一門に加わったていたことになる。
<第一期工事竣工後の長崎製鉄所>
文久1年(1861)3月に第一期工事を竣工した長崎製鉄所は、蒸気船に必要な機械・器具類を製造することのできる工場として完成した。しかし、未だ汽缶の製造は出来ず、修理船を接岸して機械類を修理することもできない状態であった。
また、第二期工事として、船舶を建造し、船体修理を行う施設を建設する計画であったが、幕府の財政窮乏のため、実現されなかった。
安政6年(1858)6月に築造着手していた大船修復場(艤装岸壁)は、文久2年(1862)頃に完成している。また、蒸気釜仕立所(汽缶製造工場)が建設着手したのは、文久1年(1861)11月以降と見られる。
江戸の石川島で砲艦「千代田形」の建造が着手され、文久2年(1862)9月、その蒸気機関(エンジン)は長崎製鉄所で製造して江戸に届けられた。しかし、汽缶(ボイラ)は、長崎製鉄所では製造できず、佐賀藩の三重津造船所で文久3年(1863)10月に完成している。
第一期工事竣工時に未整備だった大船修復場(艤装岸壁)と蒸気釜仕立所(汽缶製造工場)は、慶応1年(1865)頃に撮影された長崎製鉄所の写真(ボードウィン・コレクション)には完成された姿で写されている。
第二期工事としての船舶の建造・修理施設については、一貫した方針のない幕府の軍艦建造計画に振り回されて、遂に幕営時代には実現しなかった。
飽ノ浦に隣接する岩瀬道に修船架(ソロバンドック)の建設が着手されたが、途中で別に軍艦打建所の建設計画が浮上し、重複するとの理由で工事中止となった。すでにオランダから機材を輸入し、4分の1ほど工事が進捗していたが、未完成のまま放置された。
次いで、幕府から本格的な軍艦建造の要請を受けて、立神地区に軍艦打建所の建設が行われたが、長崎での軍艦建造計画が中止となり、土地造成の段階で中止となった。
長崎港内の長崎製鉄所関連施設
上図の「飽の浦製鉄所」とあるのが長崎製鉄所である。
「岩瀬道修船架」と「立神軍艦打建所」は建設工事の途中で中止となった。
「小菅修船場」は薩摩藩・グラバーにより完成した後、
長崎製鉄所の所属となった。
その背景には、江戸と大坂を防備するために建造する軍艦を、江戸から見て遥かに遠隔地である長崎に本格的造船所を設けて大量の軍艦を建造することを問題視し、江戸湾内にある石川島造船所の拡充、あるいは、江戸湾口にある横須賀造船所の建設計画が推進されて、長崎の重要性が低くなったことによる。
このようなことから長崎製鉄所の衰退は続き、元治1年(1864)6月、オランダ公使から外国奉行に対して長崎製鉄所の改善について善処方の要請を受けた。
八丈島漂着で冬季を過ごして江戸に戻った本木昌造は、幕閣から諮問を受けて、慶応1年(1865)8月、「製鉄所の儀御尋に付申上候書付」を提出した。この頃から本木昌造は長崎製鉄所の経営に深く関与することになる。本木昌造は、慶応2年(1866)8月、製鉄所支配定役格を命じられて、数かずの経営再建策を建言するが、幕府当局の理解が得られず、長崎製鉄所は衰退の一途を辿ることになる。
慶応4年(1868)1月14日、最後の長崎奉行となった河津伊豆守祐邦が長崎を退去するに当たって、「製鉄所取扱方の儀は、支配定役格本木昌造へ申し付け置き候」として、本木昌造に長崎製鉄所の後事を託した。
<製鉄所機関方となった矢次富次郎>
文久3年(1863)2月、富次郎は2年間の機械学を中心とした伝習を終えて、正式に製鉄所機関方となった。
これに合わせて長崎製鉄所では中古の蒸気輸送船2隻を購入し、物資や人員の輸送を行うようになった。それが、「チャールズ号」(「長崎丸」)と「ヴィクトリア号」(「第一長崎丸」)である。富次郎はこの船に乗り組み、時折、本木昌造が船長となって大坂、江戸へと航海した。
その間、富次郎は縁あって長崎にある長州藩蔵屋敷を管理する吉村家の養子となり、吉村富次郎と改名した。これによって長崎製鉄所の勤務は変わることはなかった。
薩英戦争で輸送船を失った薩摩藩の要請で、幕府は「チャールズ号」を薩摩藩に貸与していたが、下関海峡を通行する際、外国船と見誤った土佐藩からの砲撃に遭って避難する最中に火災を起こして沈没してしまった。
元治1年(1864)11月24日、本木船長の下で「ヴィクトリア号」に搭乗して江戸から長崎に戻る際、暴風雨に遭って八丈島に漂着。船体は大破して沈没してしまった。本木船長以下、富次郎を含めた56人は、翌春まで八丈島での滞在を余儀なくされた。
本木昌造と富次郎は、翌年4月18日に江戸に戻ることができたが、八丈島での約6ヶ月間、富次郎は直に本木昌造から多くの事を学んだに違いない。このとき、本木昌造は数え年42、富次郎は20であった。
本木昌造は八丈島から江戸に戻った頃から、経営不振に陥った長崎製鉄所の経営に深く関与することになる。
一方、長崎に戻った富次郎は、慶応2年(1866)6月、長崎奉行が長崎湾内警備のために購入した中古軍艦「回天」(原名:「ダンチッヒ」)に機関方として乗組んだ。富次郎の乗組んだ軍艦「回天」は、第二次幕長戦争で小倉沖に赴き、長州軍との海戦で大活躍をし、敵方からも富次郎の操艦技術を賞讃された。
平野富次郎の乗組んだ軍艦「回天」
長崎奉行所が長崎湾の警備のために購入した軍艦で、
当時、わが国で最大の軍艦だった。
その後、軍艦「回天」に乗組んで大坂経由江戸に赴き、軍艦「回天」は江戸の軍艦所所属となった。その時、富次郎も江戸軍艦所一等機関方の内定を通知された。しかし、間もなく理由も告げられずに内定取消しとなり、長崎で修理が必要となった軍艦「回天」で長崎に戻された。
長崎に戻った富次郎は、長州藩に仕える養家と幕府の組織に所属する自分の立場が内定取消しの理由であることを悟り、いずれにも無関係な自由の身になって自分の進路を切り開く決意をした。その結果、養家の吉村家を去り、祖先の旧姓である平野姓を名乗って平野富次郎と改名した。長崎製鉄所には辞表を提出したと見られるが、そのことを示す文書は未だ見つかっていない。また、辞表が受理されたかどうかも未確認である。
富次郎は、慶応3年(1867)3月から同年12月まで土佐藩に雇われ、同藩の蒸気船器械方となって、長崎土佐商会を基点として土佐藩のために活躍した。
土佐藩からの招聘は、当時、長崎に滞在していた土佐藩参政後藤象二郎から長崎製鉄所に出されたと見られる。しかし、とこからも制約されない自由の身となることを決意した富次郎に翻意を促したのは、本木昌造の関与があったと考えられる。
富次郎は、幕末の最終局面を土佐藩で過ごして維新を迎えることになった。その間、海援隊の坂本龍馬や維新後の新政府の要人となった土佐藩の後藤象二郎、佐々木三四郎などと面識を得ることができた。
維新後の長崎製鉄所と本木昌造・平野富次郎については、次回に譲ることとする。
以上