長崎の長州藩蔵屋敷

<まえがき>
17世紀の初頭から19世紀の中葉までの間、長崎は幕府の政策によって唯一の対外貿易港であった。各種物産に限らず内外の情報も長崎に集中していたため、長崎には九州諸藩を中心とした14の藩が市内に蔵屋敷を設けていた。

長州藩(萩藩ともいう)の蔵屋敷は、最初、本五島町(現在の五島町の台地寄り)にあったが、寛政11年(1799)に台地の上の新町(現在の興善町6)に蔵屋敷を構えた。「肥前長崎図」(文錦堂、嘉永3年改刻)には「長門」と当時の国名で表示されている。

新町の通りに面して、坂道を介した隣りには「小くら」と表示のある小倉藩蔵屋敷があった。長州藩の下関と小倉藩の門司との間にある関門海峡に巌流島があることから、その坂道は「巌流坂」と呼ばれていた。

「肥前長崎図」部分

絵図の中央に「新町」とあり、その下の枠内に「小くら」と「長門」と書いてある。
新町から引地町に通じる道が「巌流坂」である。
平野富二は、引地町の道路の右端にある「丁じ長や」(町司長屋)で生まれた。

この長州藩蔵屋敷については、本木昌造と平野富二にとって直接的、間接的に因縁が深い。その内容については、おいおい説明する。

<長崎の蔵屋敷とは>
蔵屋敷は、大名や旗本などが自分の領地の年貢米や特産品を販売するため、商業の中心地である江戸、大阪、京都、長崎などに設けた倉庫や取引所を兼ねた屋敷のことである。とくに長崎では貿易品の売買や海外情報の入手が重要な役割であった。

長崎の蔵屋敷には、藩の役人が一年中駐在する藩と、オランダ船が5月中旬に入港して9月下旬に出港するまでの期間だけ駐在する藩とがあった。長州藩は後者で、夏季にのみ「聞役」と称する藩の役人とその部下が派遣されて駐在するグループに属していた。

長崎の「聞役」は、長崎奉行からの指示を国元に伝達する役目を主とし、その他に、諸藩との情報交換、独自の秘密情報の収集、藩で必要とする貿易品の調達などで、藩を代表する責任者であった。その下には、手先として働く地元出身の「御用達」が居り、長州藩蔵屋敷では吉村家が代々これを勤めていた。

<長州藩御用達吉村家について>
吉村家の出自は明らかではないが、寛永・慶安の頃(17世紀前半)にさかのぼると云う。おそらく、祖先は長州藩士で、何らかの理由で禄を失い、長崎に出てきて町人となったものと見られる。

吉村家の当主は、代々、長崎の長州藩蔵屋敷内に居住し、清国語に通じて唐交易の業務を行い、聞役などが本国に帰国した後の留守居役(長崎御屋代という)も兼ねていた。また、当主は長州藩から一代士族を認められ、苗字帯刀を許されていた。

吉村家の子孫である吉村栄吉氏の著わした『吉村迂斎詩文集』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和47年1月)に掲載されている吉村家の「家系図略」によると、詩儒として高名だった吉村迂斎(1749~1805)は新町の長州藩蔵屋敷に居住し、17歳で御用達となっている。当時、交易のために来航する唐人(清国人)は詩文、書道、絵画、音曲などを嗜む文化人が多く、それらの人々と親しく交流したことが覗える。同聲社(迂斎塾ともいう)を興して広く門人を擁した。

長州藩蔵屋敷のあった巌流坂に面して、「詩儒吉村迂斎遺跡」(昭和47年、長崎市設置)の記念碑があったが、現在では撤去されている。桜馬場の近くの春徳寺の墓地に墓碑がある。

吉村迂斎は、通称を久右衛門、諱を正隆と称した。その継嗣は、猪助正恵(1773~1834)、年三郎(1811~1859)、為之助(1845~1876)と続く。

<幕府による蔵屋敷没収>
元治1年(1864)7月19日、尊王攘夷を唱える長州軍が、迎え撃つ会津・桑名・薩摩の藩兵と京都御所の蛤御門前で激突し、敗退した。長州藩が御所に向かって発砲したことから、朝議により長州藩討伐のことが決定し、幕府に伝えられた。幕府はただちに諸藩に命じて各地の長州藩邸の没収を命じた。

長崎の長州藩蔵屋敷の処分については、長崎総奉行大村丹後守と長崎奉行服部長門守に委ねられた。同年8月19日、長崎にある長州藩蔵屋敷は早々に取り上げ、そこに居る家来どもは国元へ引き払わせるようとの幕命が伝えられた。

処置を任された大村藩は、長州浪人の妨害が噂される中、自藩藩邸を守護していた兵卒を従え、幕吏と共に長州屋敷に乗り込んだ。そのとき、周囲を取り巻いていた群衆が長州浪人の襲来と勘違いして急に離散したため、大村藩の兵卒は恐怖におびえ、上官を捨てて逃げだした。

その後、真相が判明して長州屋敷は没収され、大村藩に預けられた。この時、長州屋敷に居た者は、藩士1人と少数の小者の外、吉村一家に過ぎなかった。その者たちは幽囚の身となり、翌慶応1年(1865)、捕らえられた長州藩士と吉村家の当主為之助は長州送りとなった。残された吉村家の家族は長崎在住の親類縁者を頼って身を寄せた。長州屋敷にあった建物は撤去され、屋敷内に聳えていた太さ10抱えもある楠の大樹も切り倒された。

吉村家の当主為之助は、長州送りとなって4年後の明治1年(1868)12月になって、長州藩での謹慎を解かれて長崎に戻ってきた。やがて、長州藩蔵屋敷も復活され、場所を変えて樺島町の海岸通りに建てられた。吉村家はそこに御用達としての住居を与えられた。時代の流れでほとんど用向きのなくなった御用達の仕事に代えて、為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に、近くの大波止から、小舟で通勤した。

長州藩蔵屋敷の没収については、吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史 第二編』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和51年12月)に詳しく紹介されている。

新町の長州藩蔵屋敷跡には、慶応1年(1865)2月、近くの大村町にあった「語学所」が移転してきて、同年8月、「済美館」となった。ここには宣教師フルベッキが招かれて英語を教えた。何礼之助(礼之)と柴田大介(昌吉)もここで英語教師を勤めた。明治2年(1869)2月、長崎府により「広運館」と改称され、一般官吏の子弟と諸藩有志に高等教育を授けるため校舎増設などがあった。その翌年、「広運館」は外浦町の西役所跡に移転した。

本木昌造は、その跡地と校舎を買い受け、「新街私塾」を開設した。また、その運営資金を賄い、教科書・参考書を出版するため、ここに「新塾活版所」を併設した。さらに、本木昌造の協力者和田半が隣の小倉藩蔵屋敷跡を購入して本木昌造に提供したので、そこに「新町活字製造所」を設けた。

長州藩蔵屋敷跡の石垣
この写真は昭和9年(1935)に撮影とされている。
『長崎印刷百年史』の口絵に掲載されているものを流用させて頂いた。

長州藩蔵屋敷跡の現在の写真

向かって左側が長州藩蔵屋敷跡で、現在、長崎県市町村職員共済会館となっている。
中央の坂道は通称「巌流坂」と呼ばれ、坂道の途中に道路に面して「新町活版所跡」と「近代活版印刷発祥の地」碑がある。
向かって右端は小倉藩蔵屋敷跡で、現在、丸善ハイネスコーポが建っている。
ここには、「新町活字製造所」があった。

<平野富二の養子先>
平野富二は、文久3年(1863)、吉村庄之助の養子となり、吉村富次郎と称した。吉村家の養子となった後も、長崎製鉄所の機関方勤務は変わらず、時折、蒸気船に乗組んで関門海峡を通って兵庫、江戸へと航海していた。平野富二の乗組んだ蒸気船が遭難して八丈島に漂着したときの記録に、吉村富次郎と見られる名前が残されている。

慶応2年(1866)7月に行われた小倉沖海戦では、平野富二は幕府軍艦「回天」に乗組んで長州藩と対決し、一等機関方として活躍した。その功績が認められてか、江戸の軍艦所一等機関手の内命を受けた。しかし間もなく、理由も告げられずに内命取消となって、長崎に戻された。

以上の事柄は、明治24年(1891)3月に編纂された小冊子『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 幷ニ 継業者平野富二氏行状』に記述されている。この小冊子は、平野富二の生前に編纂され、平野家に保存されていた。

平野富二(吉村富次郎)は、幕府のために活躍したにも関わらず、養子先の吉村家が朝敵となった長州藩に仕えていることが内命取消の原因と見られたことから、長崎製鉄所を辞任し、吉村家からも去って、自主独立の道を歩むことを決心したらしい。そのとき、矢次家始祖が名乗っていた平野姓を復活させて、平野富次郎と改名した。

<未解明の疑問>
拙著『平野富二伝』(朗文堂、2013年11月)を執筆していた頃、平野富二の養父だったとされる吉村庄之助について、資料調査を行っていた。たまたま、安政5年(1858)の資料に吉村庄之助が波止場御番所詰となっていることを見つけた。

このことから、吉村庄之助は、長州藩の御用達であると共に、長崎奉行の地役人でもあって、二足の草鞋を履いていると解釈した。長崎地役人の地位は、隠居して養子に譲れば、家禄を相続することができた。

平野富二は地役人の次男であったため、家禄を受けることが出来なかった。親友杉山徳三郎も次男で、家禄を受けることができなかったが、選抜により長崎海軍伝習所を卒業して、特別に一代限りの町司として禄を得ていた。そこで、平野富二のことをおもんばかって、義姉の実家である吉村家への養子を勧めたと解釈していた。

ところが、長州藩蔵屋敷の御用達であった吉村家の系図を調べて見ると、吉村庄之助と名乗る人物は見当たらない。

長崎には吉村姓の地役人が数多くいた。たまたま、その中に吉村庄之助と名乗る人物がいたらしい。平野富二が養子となって名乗った吉村富次郎も、同姓同名の人物が船番見習、19歳として『慶応元年 明細分限帳』に載っている。

矢次富次郎と称していた平野富二が、数え年18で吉村家の養子となった文久3年(1863)の頃の吉村家の当主は、吉村迂斎の曾孫にあたる吉村為之助(1845~1874)で、まだ数え年10であった。父の年三郎(1811~1859)が死去して吉村家の当主となったときは、わずか数え年6であった。叔父の雄五郎(1819~1875)が幼い当主を支えたと見られる。

平野富二の伝記では、この「為之助」を「庄之助」と読み誤って伝えられたと見ることもできる。しかし、8歳も年下の吉村為之助を養父として吉村家に入るには、それなりの大きな理由がなければならない。

吉村為之助には、3つ違いの弟年次郎(1848~1919)がおり、異母弟である子之助(又作、1854~1878)もいた。また、為之助は、将来、結婚して跡継ぎを設けることもできた筈である。当時の吉村家に跡継ぎ問題はなかったと見られる。

さらに、為之助には3人の姉妹がいた。長姉トク(1838~1872)は平野富二の親友杉山徳三郎の兄杉山友之進に嫁ぎ、次姉タキ(1843~1896)は大村藩長崎御用達の品川九十九に嫁いでいた。妹ヒデ(1854~1878)は、当時、数え年10であったので、将来、養子に入った平野富二と結婚させる意図があったとも見られるが、わざわざ吉村家の養子となる動機にはならない。

杉山徳三郎の曽孫に当たる杉山謙二郎氏が執筆した『明治を築いた企業家 杉山徳三郎』(碧天舎、2005年9月)によると、「平野富二は成人したおりに一時長州藩の御用達吉村庄之助の養子となるが、この養家の長女は後に松三郎(友之進)の妻となった。」と記している。

ここでは、平野富二の養父を「吉村庄之助」とし、長女は「後に杉山松三郎の妻となった。」と記してあるが、吉村庄之助が吉村家の系図で誰に相当するのか説明がない。また、平野富二が吉村家の養子となった時には、杉山松三郎は、長男の出生年から見ると、すでに結婚していたことになる。したがって、上記の記述だけでは確証とはならない。

長州藩御用達として長崎蔵屋敷に居住していた吉村為之助と平野富二との関係で明らかなことは、次の2つである。

1)平野富二の親友杉山徳三郎の義姉トクが吉村為之助の長姉であること。
2)明治になって、吉村為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に勤務するようになった。これは、小菅修船場の経営責任者となっていた平野富二のかつての義父に対する配慮がうかがえることである。

長崎には、幕末から明治初期にかけての膨大な史料が残されている。それは、長崎奉行所・長崎裁判所・長崎府・長崎県の公文書を集めた『文書科事務簿』で、長崎歴史文化博物館に保管され、閲覧に供されている。

この中に先の疑問を解明できる史料が含まれているに違いない。しかし、『文書科事務簿』の簿冊リストはネット上で公開されているが、小生の知る限りにおいて、簿冊内の個別文書についてはリスト化されておらず、文書のデジタル化や内容検索も未完成のようである。これが完成すれば、幕末から明治初期にかけての長崎の歴史をより明確に解明できるものと思われる。

来年は明治150年に当たるので、この機会に実現されることを期待したい。

以上