ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場

小菅修船場は、2015年7月に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界産業遺産に登録された。この設備は、薩摩藩とイギリス商人グラヴァーによって建設され、日本政府が買い取って長崎製鉄所の付属としたもので、そのときの最初の修船場長が平野富次郎(冨二)であった。

ここに、小菅修船場の建設経緯、設備内容、平野富次郎の経営などについて、概要をまとめて紹介する。

<グラヴァーによる竣工と政府による買収>
薩摩藩士五代才助(友厚)の企画に基づき薩摩藩とイギリス商人グラヴァー(T. B. Glover)によって建設された小菅修船場は、明治1年12月6日(西暦1868年1月18日)、付帯設備の一部を残して完成した。この日、グラヴァーの持ち船が第1船として曳き揚げ準備に入った。

その曳き揚げを視察した長崎府判事野村宗七(盛秀)は、同じ薩摩藩出身の小松玄蕃頭(帯刀)と五代友厚に宛てて、次のような報告をしている。現代文に直して紹介する。

去る6日、グラヴァーの船をドック台に仕掛けるとの報により、井上聞多(馨)と見物に出掛けました。なんとも立派に船体を台上に曳き揚げ、蒸気力も申し分ありませんでした。翌日は、適当な処にまで曳き揚げるので必ず来てくれとのことで、薩摩屋敷の連中と出掛けました。井上は行きませんでした。
この日には、船体を充分に曳き揚げ、船底一体が水面を離れ、初めて蒸気船の全姿を見ることができました。蒸気力のすばらしさは筆で書き尽くすことはできません。西洋人や老若男女の見物人が多く、帆柱の上に数百の旗章を立て並べ、わが国の旗も3本程あり、とても壮観でした。昼時に野外での食事が出ました。参加したのはほとんど100人でした。
この設備は、人手が掛からず、関係する人員は僅かで事足ります。(以下、省略)
十二月十日                  野村宗七拝
玄蕃頭 様
五代友厚様

その3ヶ月後の明治2年(1869)3月9日、長崎府判事井上聞多・野村宗七とグラヴァーとの間で、次のような約定書が交わされた。

一.英国商人ガラバ商社と、同社に於いて、長崎府判事は和暦2月29日に小菅浦スレップヘールリングドックに付いて左の件々を約した。
一.右ドックの代価は洋銀12万ドルにてわが国官府で買入を取り決めた。
一.右代価の内、6万ドルは和暦3月11日に払い入れ、即日、小菅浦ドックならびに付属の地所、諸品とも、目録の通り取り立てるべき事。
一.和暦3月11日より小菅浦ドックはわが国官府の付属と為すべき事。
一.洋銀が無い場合は、わが国通貨にてその時の市中普通相場を以って比較し、渡すべき事。
一.右ドックを官府に付属させてから1ヵ年内に、ドック並びに築立石垣等に自然災害を蒙った時は、ガラバ商社に於いてこれを補うべし。
明治二年巳三月            長崎府判事 野村宗七井上聞多
Mr. Glover Esq.
ムメストル ガラバ エスクワイル

ここで、「ガラバ商社」とはグラヴァー商会のこと。「スレップヘールリングドック」とはオランダ語の slephelling dok のこどて、曳揚傾斜路式ドックを意味する。英語では slipway またはpatent slip と称する。

長崎府は太政官に宛てて、同月付けの修船場施設の買上げに関する伺い書を提出している。それには、
① グラヴァーが建設した修船場は大阪大蔵省に於いて13万両で官府が買い取ることにしていたが、12万両で約定したこと
② 払入割合は、当節に洋銀で6万枚、12月に洋銀で6万枚、うち、2万枚は長崎府で出銀すること
③ もしも、外国人所有の大浦製鉄所に売り渡された場合、官府支配の稲佐製鉄局の大害となるので約定した
としている。

この文書にある「大浦製鉄所」とは、上海に拠点を持つイギリス系のボイド社(Boyd & Co. )のことで、長崎の大浦居留地内に舶用機械修理工場を持っていた。当時、グラヴァーは多額の債務を負っていて、資金繰りに窮していた。「稲佐製鉄局」とは、稲佐郷飽の浦にある製鉄所を意味し、飽の浦製鉄所(長崎製鉄所本局)のことである。なお、洋銀1ドルはわが国の1両とほぼ等価であった。

長崎府判事で製鉄所掛を兼務していた井上聞多は、長崎製鉄所の経営に苦しんでいたことから、小菅浦に建設中だった修船場の買収を検討するようになり、明治1年(1868)1月には、長崎府判事の大隈八太郎(重信)と楠本平之丞(正隆)が修船場建設で現場代理人となっていた岩瀬徳兵衛(公圃)に対して関連資料を要求するなどしている。

岩瀬徳兵衛は、維新前はオランダ通詞であったが、慶應4年(1868)2月に五代才助が新政府に出仕して大阪在勤となったことから、五代の代理人として建設現場を取り仕切っていた。後に、平野冨二と東京で親しく付き合ることになる。

<小菅修船場の設備概要>
小菅修船場は、元治2年(1865)2月頃、薩摩藩が長崎の御用商人を通じて長崎奉行に願書を提出し、翌慶應2年(1866)4月、認可を得て、長崎戸町小菅浦の谷間と周辺の田畑を修船場用地として取得したことに始まる。

当初は、鴻池などの大阪商人から融資を受けて、薩摩藩単独で修船場を建設する計画であった。その後、五代才助がヨーロッパでモンブランの協力によりベルギー政府との合弁事業の一つとして浮上ドック式修船設備(オランダ語でdrij dok)が提案されたが、最終的に、薩摩藩代表小松帯刀・グラヴァー兄弟社・グラヴァーの3者の合資によりソロバンドックと称される曳揚傾斜路式ドックが建設されることになった。

薩摩藩が取得した小菅浦の土地に、船舶を収容できる一定の幅と傾斜の用地を海面下まで造成し、土中に木杭を打ち込んで地盤を補強した。そこに、グラヴァーがイギリスから輸入したレールを敷設して、蒸気船を海上から陸上に曳き揚げるための台車と曳揚機を用意した。

建設に当たって、木材・石材・レンガを除く機械設備と資材は、グラヴァーの手配により、イギリスから輸入された。

船体曳揚用台車は、あたかもソロバンを上下逆にしたように多数の車輪を備えた幅約7.4m、長さ約34mの台車で、その上に船架が設置されている。船架は、陸上に曳き揚げられる船体を上架し、船腹を支えて横転を防止する装置である。

台車の牽引は、チェーンを介して蒸気式曳揚機によって行われる。曳揚機に付属して牽引用チェーンの延長/短縮装置がある。

小菅修船場の施設概要
用 地:5,443坪(約18,000㎡)
船 架:長さ110ft(約34m)、幅24ft4in(約7.4m)、約1,000トンまでを上架。
曳揚機:4段減速曳揚機、25馬力竪型2気筒蒸気機関、ランカシャ型ボイラ
軌 条:長さ174m、中央軌条は歯型軌条と一体。
小屋類:曳揚機小屋、鍛冶場、人足小屋、大工小屋、木挽小屋、造船小屋など
ドック使用料:3日間、船舶トン当たり3ドル。

現在の小菅修船場跡
海に向かって緩やかに下る斜面と中央にある歯型軌条付レールは
当初のままのものと見られる。
左右の線路とその上の台車群は、戦時中に改造されたもの。

曳揚機小屋
小屋の煉瓦積は建設当初の物で、
現存する日本最古の煉瓦造建築とされている。

小屋の中央から延びる装置は牽引用チェーンの延長/短縮装置である。
左右にある電動式巻上機は後年に設置されたものである。

四段減速曳揚機(手前)とランカシャ型ボイラ(奥)
4枚の大歯車によって減速され、
4段目の大歯車軸にチェーン用歯車がある。
このチェーンは屋外にある歯車と環状に巻かれ、
台車牽引用チェーンと接続される。
熱を遮蔽する煉瓦壁の奥にボイラが設置されている。

<平野富次郎による修船事業>
明治2年3月11日(西暦1869年4月22日)、政府からグラヴァーに初回の入金がなされ、小菅修船場は日本政府に引き渡された。

同時に、小菅修船場は長崎府所管の長崎製鉄所付属となり、元締役品川藤十郎と機関方平野富次郎が小菅諸務専任に任命された。品川藤十郎は営業・渉外を担当し、平野富次郎は技術・工事を担当し、小菅分局として飽の浦本局から分離独立した形で経営を任された。このとき、品川藤十郎は数え年51、平野富次郎は24だった。

同月12日、速やかに技術力を確保する必要から、2人の外国人技術者を雇い入れ、平野富次郎の配下とした。イギリス人修船頭ブレイキー(Blaikie、月給250円)とイギリス人水夫頭ダグラス(Douglas、月給65ドル)がそれで、この2人はグラヴァーが修船要員として雇い入れていた者たちであったと見られる。ブレイキーは、後年、平野冨二の造船事業に協力している。

約1年後の明治3年(1870)2月になって、イギリス人船工職ジル(Gill)とジョンソン(Johnson) を雇い入れている。

明治2年(1869)3月に長崎製鉄所付属小菅修船場として開設以来、品川藤十郎と平野富次郎の努力により16ヵ月間(明治3年6月末まで)で純益1万8千円を計上した。

グラヴァー経営中の1869年1月18日から同年4月11日までの3ヶ月若の収入は4,745ドルで、稼働経費3,628ドルを差し引くと、純利益は1,117ドルであったと記録されている。当時のドルと円はほぼ等価であるので、平野富次郎はグラヴァーよりも優れた業績を上げていたことが分かる。

小菅修船場の経営は、明治3年(1870)閏10月16日に品川藤十郎が退職し、続いて明治4年(1871)3月16日に平野富次郎が工部省移管に伴い退職した。同年4月9日、長崎製鉄所は小菅修船場を含めて長崎府から工部省に移管された。

長崎県立図書館蔵とされる「小菅揚架船明細表」などの資料によると、小菅修船場の稼働状況は、次の通りである。参考に工部省移管後の明治8年までを加えた。

西暦年度 隻数 合計トン数     備考
1869年  30   11,973  最大1,150トン、2ヶ月間1隻、21日間2隻。
1870年  24   11,707  最大1,633トン、ロシア船2隻も利用。
1871年  16     6,514  和暦4月9日に工部省移管。
1872年  15     5,059  和暦6月、明治天皇視察。
1873年  23     8,005  イギリス人技師3名雇用。
1874年  26   10,226
1875年  11     4,848  造船小屋1棟新設。

<その後の動向>
明治17年(1884)7月7日、工部省から郵便汽船三菱会社に貸与され、三菱長崎造船所となった。明治20年(1887)6月7日になって三菱に払い下げられた。

昭和11年(1936)7月、史蹟名勝天然記念物保存法により、文部大臣によて史蹟として指定を受けた。

第二次世界大戦中に軍用舟艇の製造を行うため、旧来の台車は撤去され、複線の線路を左右に敷設した。小型台車は、新たに設置された電動式巻上機によって曳き揚げが行われた。現在、その遺物が残されている。昭和28年(1953)に小菅修船場は閉鎖された。

平成27年(2015)7月、「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録された。現在、一般に無料公開されている。

2018年3月28日 稿了