東京築地活版製造所 初代社長 平野富二

(1)初代社長就任とその実績
株式会社東京築地活版製造所は、登記上、明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このとき、初めて社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

図1-1 不惑を迎えた平野富二の肖像写真

この時の会社規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。

20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたと云う。株主名簿は未詳。

役員は、取締役社長平野富二、取締役副社長谷口黙次、取締役松田源五郎、取締役品川藤十郎、支配人曲田成、副支配人藤野守一郎で、その他は未詳。

それに先立ち、同年4月、大阪において長崎、東京、大阪の出資者が参集し、東京店が所有する大阪店にたいする持株と売掛金の合計3万円、ならびに、東京店が支出した上海店の財産の一部を棄捐して、東京店と上海店を本木家から独立させることとした。その結果、長崎本社と大阪店は本木家の所有とし、本木昌造の嫡子本木小太郎に経営を委ねることになった。

その4年後の明治22年(1889)5月、平野富二は東京築地活版製造所の社長を退任し、その経営から身を引いた。退任の直接の理由は、同年1月、平野富二の個人会社であった石川島造船所を資本金17万5千円の株式組織の有限責任石川島造船所とし、平野富二は常務委員(事実上の社長)に選任されたことによる。さらに、創業者本木昌造の嫡子本木小太郎が長期間の海外研修と視察を終えて帰国したことも勇退を決意した理由と見られる。

平野富二は、明治19年(1886)5月、激務と心労のため脳溢血を発症し、その後、療養に努めたが、さらに発症を繰り返したため、家族や友人の強い要請により業務負担軽減の一環でもあった。

初代社長として在任した4年間の実績は、朝鮮国にハングル活字を納入(明治18年11月)、ロンドン万国発明品博覧会への出品(明治18年5月)、活字版印刷部・石版印刷部の充実(明治19年1月)、需要に応じた各種の文字活字・花形活字・電気銅版の品揃えと、明治15年以来作成した活字の『新製見本』発行(明治21年2月)、中国における活版需要調査(明治22年4月)などである。

このように、販路の海外向け展開、総合活字版印刷事業者としての印刷事業の充実、需要に応じた活字・花形活字などの品揃えがなされたことが分る。

初代社長に就任してからの実績はこのようなものであるが、株式会社組織となるまでの築地活版製造所を設立し、ここまで育て上げたのは平野富二である。

(2)築地活版製造所の前史
築地活版製造所は、もともと、平野富二が本木昌造の要請によって活字製造事業としての長崎新町活字製造所の経営を引き受けたことによって始まる。

この活字製造事業は、本木昌造の活版印刷事業の一環として、さらに遡れば、新街私塾の経営の一環として、長崎新町活版所(活版印刷所)に活字を供給することを目的としていた。

本木昌造は、すでに、自身の研究開発による基礎技術と、上海美華書館のギャンブルによる伝習によって得られた製造技術を習得していたが、思うような品質の活字を安定して製造することが出来ず、不良品の山を築くばかりの状態に立ち至っていた。すでに資金も枯渇寸前で、おまけに、健康不安も重なり、本木昌造は気力・体力を共に失いつつあった。

〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
本木昌造は、明治4年(1871)6月、東京出張で芝神明前の書肆仲間や、大学(後の文部省)からそれぞれ活版所と活字販売所の設立を要請されて長崎に戻った。ただちに、長崎製鉄所を退職して自宅で待機していた平野富二(当時は、まだ富次郎と称していた)を招き、新町活字製造所の改革と経営引受けを要請した。

造船事業を志望していた平野富二は、最初は固辞していたが、本木昌造の窮状を見るに見兼ねて、条件付きで引き受けることとした。それは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。

このときの平野富二が付けた条件を要約すると、(1)この事業の経営を一任し、専断を許すこと、(2)数年間で収益を挙げることが出来るようになったら、本木家に返還すること、(3)後継者を養成して、この事業を継承させること、(4)その後は、自分の素志である造船業を興すこと、であった。

〔活版製造事業の改革〕
製造業としての生産管理がおろそかになっていることを見抜いた平野富二は、直ちに徹底的な抜本改革を断行した。

活字の規格化を行い、品質管理と在庫管理を徹底させ、就業規則を定め、能力・特性に応じた作業体制を整えた。さらに、この事業の損益を明確にするため、今まで一体運営されていた活版印刷事業から独立させて長崎新町活字製造所とし、活字の外部販売を行い、それによって収益を得る独立採算制を採ることとした。

これは、長崎製鉄所時代の小菅修船場での独立採算による経営と、立神ドック掘削工事における人事管理の経験に基づくもので、さらに、上海美華書館の経営も参考にしたと見られる。

従業員にとっては革命とも言える抜本改革によって、着手してからわずか2ヶ月という短期間で、外部に販売できるだけの高品質・低価格で、しかも、必要量の活字を安定して製造・納入できるようになった。

〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
活字の販売で収益を得るためには、政治・経済・文化の中心地となった東京に販路を求めるのが第一と考え、本木昌造の了解の上、活字のサンプル若干と印刷見本を携え、平野富二自身が大阪経由で東京に出張した。

大阪活版所で取り組んでいる五代友厚依頼の『英和辞書』印刷と、そのために困難を窮めつつある特殊洋活字の製造、東京における芝神明前活版所の設立計画と大学御用活版所の設立も、平野富二の責任範囲に含まれるため、その善後処置を講ずることも出張の目的であった。

改革の結果が軌道に乗ったことを確認した平野富二は、明治4年(1871)9月中旬、長崎を発って大阪に立ち寄り、『英和辞書』(いわゆる薩摩辞書の第二版)の印刷辞退を五代友厚に申し出て了解を取り付けた。
次いで、大阪活版所に派遣されていた小幡正蔵と共に東京に向かった。東京では大学御用活版所を設立して小幡正蔵を所長とし、芝神明前の書肆仲間に活版所設立の計画中止を伝えた。その傍ら、有望な活字需要先を訪れて、各所から多量の活字註文を受け、大きな成果を得て長崎に戻った。それは、明治4年(1871)11月1日のことである。

〔事業所の東京移転〕
東京出張から戻った平野富二は、直ちに本木昌造と相談して、活字製造の拠点を大口需要が見込める東京に移転させることを決めて、その準備に入った。工部省傘下に入った長崎新聞局の活字製造部門は、勧工寮活字局として東京に移転したばかりで、そのことも決断を促したと見られる。

本木昌造は、明治5年(1872)2月、完成した活字を用いて『新塾餘談 初編一』を刊行した。その巻末に、平野富二の要求を容れて崎陽 新塾活字製造所の「活字摺り見本」を広告として掲載した。

この小冊子は本木昌造が経営する新街私塾の塾生向けの読本であるので、本来ならば活字の広告を掲載しても余り意味をなさないが、平野富二は、この冊子を東京に持参し、印刷サンプルとして希望者に配布することを考えていた。おそらく、上海美華書館の活字摺り見本広告にヒントを得たものであろう。

図1-2 『新塾餘談 初編一』に掲載した広告

明治5年(1872)7月11日、平野富二は、新妻と社員8名を引き連れて、兵庫(神戸)行きの郵便蒸気船に搭乗して長崎を発った。兵庫で横浜行きの便船に乗り換えて横浜に着いたのは、7月17日だった。

横浜で東京行きの小型蒸気船に乗り換え、東京築地に着き、そこから小舟を雇って隅田川、神田川を遡って神田和泉町河岸に到着したと見られる。近くの津藩藤堂和泉守上屋敷跡に残された門長屋の一室に、先発した小幡正蔵を所長とする大学御用活版所があり、その続きの部屋を借り受けて「崎陽新塾活版製造所」を設営した。

このとき、長崎から持参した物品は、五号と二号の活字母型と鋳型各1組、活字手鋳込器械3台のみで、当面の設営資金として持参した1,000円は長崎の金融業者から平野富二が首証文を引き換えに借りたものであったと伝えられている。四号活字母型1組と試し刷りに用いる手引き印刷機1台は長崎から後送されたが、これが、東京で事業をスタートさせるための設備の全てであった。

当時は木版による摺り物が一般的で、活版印刷による効能を理解する者は少なかったことから、平野富二は、官庁を回って『新塾餘談』の広告を配布しながら、活版印刷の効能を説明して回った。
10月になって、『新聞雑誌』に七号の振り仮名を加えた「崎陽新塾製造活字目録」を広告として掲載した。このような努力の結果、官庁の布達類は活版印刷を採用することになり、新聞・雑誌なども活版採用の気運が高まった。

「崎陽新塾製造活字目録」
『新聞雑誌』(第66号、明治5年10月)巻末綴じ込み附録 真田幸文堂蔵

一部記録に「投げ込み附録」とされるが、国立国会図書館蔵書を含め綴じ込まれている

平野富二が東京に進出する直前の明治5年(1872)2月に、銀座大火があって銀座・京橋・築地の一帯が焼失した。復興計画による規制もあり、築地地区には広大な空き地があった。そこで、平野富二は、もはや拡張の余地のない神田和泉町の借り部屋から撤退して、交通便利な築地に移転することを決意した。

明治6年(1873)7月、築地2丁目20番地の土地に仮建築という条件で木造2階建ての工場を新築して移転した。当初は敷地面積120坪余りの土地であったが、その後の事業発展に従い、次々と隣接地を買い増して、周辺道路に囲まれた一画の約半分851坪余りとなった。

これが東京築地活版製造所の起源である。その事業の創始と基金は本木昌造に拠るものであるが、事業としての発展は平野富二の寄与になることは明らかである。

(3)平野富二の貢献
明治20年(1887)7月改正の東京築地活版製造所「活字版並印刷器械及紙型鉛版其他定価」および「活版並諸印刷用器械洋墨類定価表」が残されている。それには、活版印刷に必要な活字類やあらゆる資材・器械類を網羅した取扱品目が価格を付して掲載されている。洋活字やハングル活字も含まれており、これを見ると、築地移転当時とは隔世の感がある。

平野富二の貢献を示す切り口はいろいろあるが、ここでは、残された当時の写真と絵図・地図によって、築地活版製造所発展の様子を示し、その間に行われた土地の買い増しと建物の新築・増改築によって、東京でも有数な大工場にまで発展させた平野富二の貢献を視覚的に再認識してみたい。

図1-3 明治7年(1874)の長崎新塾活版製造所
(『株式会社東京築地活版製造所紀要』、昭和4年10月、口絵組みあわせ写真の一部)

図1-3の写真は、築地活版製造所の姿を映した最も古いものと見られる。本木昌造は、死去する前年の明治7年(1874)夏に上京して、新築なった築地の煉瓦建事務所と関連施設を視察した。その時の本木昌造が目にした姿はこの写真とほぼ同じであったと見られる。

写真の右手奥の木造2階建て建物は、明治6年(1873)7月に完成した最初の仮工場である。左側の煉瓦造2階建て建物は、明治6年(1873)12月に完成・引渡しを受けた事務所である。その右側に正門と通用門がある。正門の右側門柱に表札「長崎新塾出張活版製造所」が掲げられている。なお、右側道路沿いの煉瓦造と見られる平屋の建物(倉庫?)については記録がない。

仮工場の建つ土地は、築地2丁目20番地とされているが、建物の奥行から見ると、隣接する21、22番地も同時か、その後に購入した可能性がある。手前の平屋の建つ土地は19番地、事務所の建つ土地は18番地と見られる。なお、この番地は、周辺の道路拡張・新設によって、後年、変更されることになる。

写真には見えないが、明治8年(1875)6月、本木昌造が再度上京する直前に平野富二は築地2丁目23番地の土地・建屋・畳・家具・諸造作1式を購入し、20番地から家族と共に移転した。また、時期は不明であるが、事務所左側の隣接地(17番地)も入手している。

築地活版製造所を訪れた本木昌造は、平野富二に対する明治5年から同7年まで3年間の給料と褒賞として、築地活版製造所のある17,18番地(新13番地)、23番地(新14番地)、19、20、21、22番地(新17番地)の土地を平野富二の所有とした。( )内は明治11年(1878)以降の新番地を示す。

図1-4 明治17年2月測量の「五千分一東京図測量原図」

図1-4の地図の中央に道路に囲まれた長方形の一画がある。その上半分(築地川寄り)に築地活版製造所の建物群がある。この地図では、薄赤色に着色された建物は私有の耐火建築物(煉瓦造または土蔵造)を示している。上部中央から左斜めに流れる川が築地川で、祝橋と万年橋が架けられている。

祝橋から右下に向かって斜めに通じる道路と万年橋からの道路との間を並行して通る道路に面して大形耐火建築物が表示されている。この場所は新17番地で、当初の木造仮工場を建て替えて煉瓦造りの工場建物としたと見られる。築地川沿いの道路との間に在った煉瓦造平屋は撤去されている。

祝橋に近い築地川沿いの道路に面した耐火建築物は、新13番地の土地に明治6年末に完成した事務所と明治14年5月に新築した2階建建物であると見られる。

区画の下半分(築地川と反対側)の土地は、平野富二が新たに購入した土地で、上半分の土地を築地活版製造所に譲渡した資金で購入した私有地である。明治16年(1883)夏、ここに平野邸が新築され、一家はここに移転した。隣接して並ぶ3棟の長屋は、石川島造船所と築地活版製造所の従業員に貸し与えられる宿舎と見られる。この平野邸と長屋のある土地は華族柳原前光邸の跡地だった。

図1-5 明治18年頃(?)の活版製造所絵図
(『東京盛閣図録』、明治18年刊)

図1-5は、明治18年(1885)刊行の絵図であることから、図1-4の地図とほぼ同じ頃の築地活版製造所の様子を描いたものと見られる。しかし、画面右側の2階建て大形建物は、この絵図では木造と見られるが、先の地図では耐火建築物と表示されている。したがって、この絵図は明治16年(1883)以前に撮影した写真により作成された可能性がある。

絵図の中央右寄りに見える煙の出ている4本煙突の辺りに僅かに見える建物は、明治9年(1876)9月に完成した木造の活字仕上場と印刷機製造工場と見られる。
築地川沿い道路に面した左側に明治14年(1881)5月に建てられた煉瓦造2階建の大形建物は、後のことになるが、この2階にある13号室で内田百閒らが岩波書店から刊行する『漱石全集』(組版・印刷:東京築地活版製造所)の編集に携わった。

図1-6 明治24年9月現在の東京築地活版製造所
(『印刷雑誌』、第1巻第8号、明治24年9月、広告)

図1-6は、平野富二が初代社長を退任してから2年後の様子を示す絵図である。図1-5と大きく相違するところは、右側の2階建て煉瓦造りの工場建物と正門の門構えである。

2階建て煉瓦造の工場建物は、川沿いの道路の縁まで延長増築されていることが分る。平野富二の社長在任中に増築されたものかどうかは判然としないが、株式組織となってからの建築であることは間違いない。

正門は、従来の扉付き門柱を建て替えて洒落た門型となり、装飾を施した横梁には、中央に「丸もにH」の社章を置き、その上部の円弧に沿って「THE TOKYO TSUKIJI TYPE FOUNDRY」と配し、下段に「東京築地活版製造所」と表示してある。両脇の門柱の頂部には電気照明が置かれている。

明治25年(1892)12月2日、平野富二は、鋳鉄業界の集会に招かれ、講演の最中に卒倒し、翌日早朝、東京の自宅で死去した。46年2ヶ月の生涯であった。本木昌造から引き継いだ活版製造事業を大成させ、念願の造船事業を独力で創り上げた。

2018年7月11日 稿了