杉山徳三郎、平野富二の朋友

《はじめに》
平野冨二が生涯にわたって親しく交わった友として杉山徳三郎がいる。

その交流は、長崎製鉄所での機関方(エンジニア)養成で一緒に机を並べたときに始まり、平野富二が活字販売で東京に出張したときに再会して旧交を温め、横浜製鉄所では共同経営者となって事業をおこなった。

また、杉山徳三郎と親交のある伊藤博文や福沢諭吉を紹介して平野富二の事業発展に協力している。

杉山徳三郎は、平野富二よりも10歳年長であるが、昭和5年(1930)に91歳で長寿を全うした。その間、平野富二が亡くなって7年後の明治32年(1899)に平野富二の母が長崎で亡くなったときは、その翌日、遺族を見舞っている。その時まで遺族との交わりが続いていたことを示すもので、如何に平野富二との交流を大切にしていたかが分かる。

曾孫杉山謙二郎氏の著書の表紙カバーを飾る杉山徳三郎肖像写真

《杉山徳三郎の生い立ち》 (以下に示す年令は数え年とする)
杉山徳三郎の生まれた境遇は平野富二と非常によく似ている。

徳三郎は、長崎町司の家に次男として生まれ、大井手町にある町司たちが居住する町司長屋で育った。まだ幼い7歳のときに父と死別し、10歳違いの兄が相続して町司となった。

利発で豊かな才能を見出されて、厄介の身(次男以下の子弟)でありながら、長崎海軍伝習所の入所を特別に認められ、つづいて新設された長崎製鉄所で機関方(エンジニア)として勉学する機会を与えられた。

平野富二は、徳三郎より7歳年少であるが、もしも同年齢であったならば、おそらく同じ道を歩んだと見られる。長崎製鉄所では、徳三郎と同じ厄介の身でありながら特別に選抜されて入所した。ここでは徳三郎と一緒に机を並べて機関方になるための勉学に励んだと見られる。

徳三郎の伯父太田寿吉は、平野富二(幼名、矢次富次郎)の住んでいた引地町の町司長屋に居住しており、富次郎が8歳のときに書道の手習いをしてもらったお師匠さんである。徳三郎の住んでいた大井手町の町司長屋とは歩いて5分程度の距離であり、その頃から徳三郎は富次郎のことを知っていた可能性がある。

《杉山徳三郎の経歴》
(福沢諭吉、伊藤博文、平野富二の名前は青色で示す)
杉山徳三郎は、天保10年(1839)10月18日、長崎地役人である町司杉山弥三郎とナヲの次男として大井手町の町司長屋で生まれた。

弘化2年(1845)、7歳のとき、父を亡くし、兄松三郎(友之進、弥三次)の厄介となった。そのため、医師の家に寄食して医術を学んだが、病人のために寝る暇もないことを見て、医者になることを諦めたという。

嘉永2年(1849)、11歳のとき、師について漢学と蘭学を学んだが、書籍や文具をかうことができず、長崎くんち(諏訪神社の例大祭)のときに紙の造花を作って売ったところ、1日で1両余りの利益を得て、書籍を購入した。周囲の人はその奇才に驚いたという。

安政1年(1858)、10歳のとき、福沢諭吉が長崎に勉学に来て、同じ町司長屋に住む砲術家で知られる山本物五郎の食客となっていたことがある。そのとき、杉山一家と親しくなった。(本件については後述する)

長崎海軍伝習所の第二期伝習が幕府伝習生に対して、安政4年(1857)1月上旬から翌年5月上旬までの約18か月間、行われた。徳三郎は、17歳の厄介の身であったが、特に抜擢され、海上警備を担う要員として伝習を受けることになった。

海軍伝習所では、本職を持つ地役人の伝習生は「御用の隙を見計らって」伝習を受けていたが、徳三郎は他に職を持たなかったので、伝習に専念することが出来た。その結果、砲術担当のオランダ一等士官ファン・トローイェンの代理を務めるまでになった。

第二期伝習が終了した後、引き続いて幕府伝習生のための第三期と諸藩伝習生のための伝習が行われた。安政5年(1858)10月、長州藩から選抜されて長崎海軍伝習所に来た者たちの中に18歳の伊藤俊輔(博文)が居た。最初はオランダ人教師ファン・トローイェンから砲術を学んだが、翌年になって帰国の迫ったファン・トローイェンに代わって徳三郎が教練に当たった。(本件については後述する)

安政5年(1858)3月、長崎奉行所で武術御見分が行われたが、徳三郎と矢次富次郎(平野富二)は職務専念のため、特別に免除された。このとき富次郎は、長崎奉行所隠密方御用所番に属していた。

安政6年(1859)10月、オランダ人教師団が帰国し、長崎海軍伝習所での砲術の伝習も終えた。その後、徳三郎は長崎製鉄所の建設に加わって、製鉄設備(鋳造・鍛造設備や工作機械など)の組立や動力用蒸気機関の据付を行いながら、それらの設備について伝習を受けた可能性がある。しかし、実態は不明である。

文久1年(1861)3月、長崎製鉄所の第一期工事(造船用機械製造設備の建設)が完了し、これに合わせて機関方(エンジニア)の養成が本格的に開始された。このとき、徳三郎は機関方見習として長崎製鉄所に入所し、機械学などの伝習を受けたと見られる。この時に伝習を受けた者たちの中に同じ機関方見習いの矢次富次郎(平野富二)も居た。

文久3年(1863)、矢次富次郎は長州藩蔵屋敷に居住・管理する吉村庄之助の養子となり。吉村富次郎と称した。徳三郎の兄友之進の妻は吉村庄之助の長女で、徳三郎は兄嫁の実家を富次郎の養子先として紹介したと見られる。

これにより、徳三郎と富次郎は義兄弟の関係となった。徳三郎はすでに妻帯しており、妻の名前は津留(ツル)。後年、平野富二は自分の跡継ぎとなる次女に同じ名前を付けている。

慶応1年(1865)、27歳のとき、新規製鉄所機関方 一代限り町司格を仰せ付けられ、受用高1貫5百目、2人扶持を支給されることになった。

明治維新の後、御用所支配の洋学伝習人となり、明治1年(1868)12月、長崎製鉄所掛の管轄下に入ることを命じられた。

その前後、徳三郎は、長崎製鉄所機関方として、諸藩からの依頼を受けて蒸気船の回航、建造・取扱指導のため、鹿児島、熊本、大津(近江)に出向した。

明治1年(1868)12月18日、徳三郎は、平野富次郎(養子先の吉村家を去って平野姓となっていた)と共に、長崎製鉄所第一等機関方に任命され、1年に付き10人扶持、業給金18両宛を支給されることになった。ただし、その頃、徳三郎は他藩に雇われて出向していたので、その間は業給金の支給はなかった。

明治2年(1869)1月、徳三郎は製鉄所掛の許可を得て加州(加賀藩、金沢藩)に赴き、3月24日に長崎に戻っている。この頃から加賀藩とその支藩である大聖寺藩による兵庫製鉄所(加州製鉄所)の建設構想が進められ、徳三郎は全面的に協力していたらしい。

そのとき、徳三郎は、頼まれて大聖寺藩の石川嶂(専輔)と共に兵庫県令となっていた伊藤博文を訪問し、兵庫製鉄所の用地借入に協力したと見られている。

明治2年(1869)5月、徳三郎は長崎製鉄所を免職された。これは、徳三郎が病気を理由に退職願を提出したが、これは、一旦、却下された。しかし、徳三郎がこれに応じなかったことによる。

徳三郎は、その後は兵庫製鉄所の建設と運営に関わっていたが、兵庫製鉄所が工部省に売却されることになったので、明治4年(1871)春、新しい仕事を求めて東京に上った。

明治4年(1871)11月19日、平野富次郎が活字販売のため上京したとき、東京で杉山(徳三郎)から銀銭22枚を借用している。このことは富次郎の「金銀銭出納帳」に記録されていた。

東京では、政府の高官となっていた伊藤博文が徳三郎に政府の役人になることを頻りに勧めたが、徳三郎は、「上司に盲従できない自分の性格を承知していたので辞退したら、それでは、何か自分で仕事をするなら大いに援助する」と言われたという。

明治8年(1875)4月、徳三郎は、無役となって生活に困窮している兄一家のために、長崎唐人屋敷跡の館山町に土地を求めて蒸気式精米所を開設した。

同年5月、徳三郎は、長崎の女性実業家大浦慶と連名で「横浜製作所御払下ケ願趣意見込書」を提出し、同年11月になって、横浜の高島嘉右衛門を加えて「拝借願書」を提出し、借用を許可された。これには、伊藤博文が背後で有力な支援をしてくれたと言う。

明治9年(1876)5月、高島嘉右衛門が横浜製鉄所の経営陣から脱退するのを機に、平野富二と他1名が新たに経営陣に加わった。しかし、平野富二は石川島造船所借用で多忙となったため、同年10月、経営陣から脱退した。

横浜製鉄所の新聞広告
(『東京日日新聞』、明治9年7月4日)

明治10年(1877)に勃発した西南戦争の特需で多大の利益を得た徳三郎は、第一回内国勧業博覧会に機械類を出品したが、頃合いを見て横浜製鉄所の共同経営から脱退して、長崎に戻った。

明治12年(1879)、新しい事業として将来に亘って有望な炭鉱業に進出することを決心し、各地を巡って有望な鉱区を調査した。その結果、明治13年(1880)5月、筑豊地区の目尾(しゃかのお)炭田を借区した。この地は遠賀川に近く、川船を利用して物資や石炭の輸送に便利であることに目を付けたという。

徳三郎は現場に蒸気機関を据え付け、蒸気動力による排水ポンプと巻上機を用いて人力に代えた。当時としては革新的なことで、積極的にその普及に努めた。

明治23年(1890)東京上野で第三回内国勧業博覧会が開催され、筑豊から石炭を持って参加した。その結果、蒸気機関を導入しその普及に努めたことから第三等進歩賞を受賞した。

明治24年(1891)、甥の杉山松太郎(兄の長男)に炭鉱経営を委任した。次いで明治27年(1894)9月には目尾鉱区の全権を松太郎に譲渡した。

これに先立ち、明治21年(1888)頃に長崎市外の伊良林郷に広大な邸宅を構えた。明治27年(1894)に自分の埋葬地を当時の茂木村田上に在って廃寺となっていた観音寺跡に選び、徳三寺を開創した。

長崎では長崎財界人の集まりには加わらず、独自の立場を維持していた。それでも、明治29年(1896)1月、有志者のひとりとなって長崎銀行の設立を計ったが、十八銀行の反対により設立を阻止された。

その後、旧外国人居留地近くの海面を埋立てて浪ノ平鉄工所を建設して、明治31年(1998)5月から営業を開始したが、翌年暮れには営業を中止した。

明治32年(1899)3月16日、平野富二の没後、長崎の実家に戻っていた平野富二の母矢次美祢が死去した。その翌日、徳三郎は弔問のため遺族を訪問している。

明治39年(1906)には、隠居届を長崎市役所に提出した。その後、大正7年(1818)には、80歳記念として一族を引き連れ、富士登山を敢行した。

昭和5年(1930)6月19日、91歳で永眠した。遺体は徳三寺の墓所に埋葬された。

《杉山徳三郎と福沢諭吉との縁》
福沢諭吉は、安政1年(1854)2月、21歳のとき、兄の勧めで蘭学を学ぶため長崎に出た。長崎では桶屋町の光永寺の食客となったが、やがて、大井手町の町司長屋に住む砲術家として知られた山本物五郎の食客となった。

山本家では、息子に漢書の素読を教えたり、水汲みなどの家事は何でも引き受けていたという。道路を隔てた前の町司長屋に若い町司の杉山松三郎(友之進)とその弟徳三郎が母と一緒に住んでいた。

節分の晩に、松三郎に誘われて法螺貝を吹き、千字文を経文のように唱えながら、銭や米を貰って歩き、そのお銭で雑炊を作ってたらふく食べたという。これは、『福翁自伝』に面白おかしく述べられている。そこには、松三郎のことを「杉山徳三郎の実兄」と括弧書きして紹介している。

福沢諭吉は杉山兄弟の母からも可愛がられていたらしい。当時、徳三郎は数え年16、兄の松三郎は26で、福沢諭吉はふたりの中間で、それぞれ5つ違いだった。

現在、大井手町に「福沢諭吉が使用した井戸」が残されている。その位置は、道路を挟んだ杉山家の前にあり、井戸端でしばしば顔を合わせていたと推測される。杉山家の住んでいた町司長屋の跡は、現在、広い駐車場となっている。

大井手町の町司長屋(国立公文書館所蔵)

福沢諭吉使用の井戸(古谷撮影)

《平野富二の福沢諭吉との交流》
平野富二と福沢諭吉の交流は、杉山徳三郎の紹介で平野富二が福沢諭吉を訪問したことに始まると見られる。このことは、平野家に残された福沢諭吉の書簡によって推測できる。以下に、記録に残されたふたりの交流を述べる。

1)造船技術者の斡旋
おそらく明治10年(1877)のことと推測されるが、石川島平野造船所(現、株式会社IHI)を開設したばかりの平野富二が、造船技術者不足に困って、福沢諭吉を訪問している。そのとき、平野富二は慶応義塾の塾生の中から優秀な技術者を斡旋するよう依頼した。

これに対して福沢諭吉は、慶応義塾の生徒の中から志願者を募り、多くの者の中から眼鏡に叶った一人を推挙してくれた。

そのときの平野富二に宛てた福沢諭吉の書簡(1月14日付)が平野家に保存されている。その内容は拙書『平野富二伝』に紹介してある。

その前年には、平野富二は杉山徳三郎と共同で横浜製鉄所を経営していたので、杉山徳三郎の紹介により福沢諭吉を訪問したと見られる。

2)「第一通快丸」進水式での祝辞
明治11年(1878)1月7日、自社用として建造した小型蒸気船「第一通快丸」の進水式に当たって、福沢諭吉は来賓として祝辞を述べている。

3)『時事新報』発刊のための印刷機発注
明治15年(1882)2月、『時事新報』の創刊に当たり、福沢諭吉は築地活版製造所に発注して、四六判16頁掛ロール印刷機1台を購入している。

4)朝鮮修信使に活字・印刷機械購入を斡旋
明治16年(1883)1月、李朝朝鮮国の第4次朝鮮修信使が日本で資金を調達して帰国する際、福沢諭吉の「朝鮮が近代国家として独立し、人民を啓蒙するには新聞の発行が必要である」との訓示により、活字・印刷機を購入した。

これに伴い、福沢諭吉の意をたいした井上角五郎が新聞発行のため印刷工2名を引き連れて朝鮮国に渡った。活字と印刷機は築地活版製造所から納入され、印刷工2名の派遣も平野富二の指示によったものと見られる。

井上角五郎は、朝鮮国の漢城(今のソウル)で、明治16年(1883)10月31日、李朝朝鮮国最初の近代的新聞である『漢城旬報』を創刊した。この新聞は朝鮮国の官報に準じて統理衛門管轄下の博文館から発行された。すべてが漢文で、四六倍判の冊子形式であった。

6)『漢城周報』発刊のためのハングル活字購入
明治18年(1885)8月中旬、政変で一旦帰国していた井上角五郎は再び漢城に戻って、破壊された博文館を再建した。さらに、日本に帰国してハングル活字を購入し、活字職人2人を引き連れて漢城に戻った。

漢字とハングル文字を混用した文体を現地の老儒者に創案してもらい、先の政変で発行停止となっていた『漢城旬報』に代えて、明治19年(1886)1月、『漢城周報』と題して発行した。

なお、いつの事か不明であるが、金玉均(キム・オクキュン)が朝鮮国の改新(改革と進歩)を念願すると共に、朝鮮国王と王妃の歓心をえるため福沢諭吉に多額の借金をしていた。福沢諭吉の「朝鮮人へ貸金の記憶書」の中に、「朝鮮文字の活字を注文して自国に著書新聞等の業を起さんとて、其活字何十万の数は築地の平野工場にて出来し‥‥」とあり、ハングル活字を築地活版製造所から調達したことが明示されている。

《杉山徳三郎と伊藤博文との縁》
安政5年(1858)10月、長州藩から選抜されて長崎海軍伝習所に来た者たちの中に18歳の伊藤俊輔(博文)が居た。

最初はオランダ人教師ファン・トローイェンから砲術を学んだが、翌年になって帰国の迫ったファン・トローイェンに代わって杉山徳三郎が教練に当たった。

「長崎における余らの師匠は日本人杉山徳三郎、オランダ人教師ファン・トローイェンと称する人々で、号令などはすべてオランダ語を用いた。杉山はすこぶる厳格な教師で、歩調姿勢が悪いときは容赦なくこれを矯正した。」と伊藤博文の言葉が伝えられている。

杉山徳三郎の懐旧談(『石炭時報』、第二巻第一号)によると、「長崎滞在中、伊藤公はしばしば私の宅へ遊びに来た。私の父を囲繞した当時の若者の中で、彼は私の父から最も愛された一人であった。」と述べている。

これが縁となって、後年、伊藤博文は徳三郎に対していろいろと支援の手を差し伸べた。具体的には、先に示した《杉山徳三郎の経歴》の中で述べた。

《平野富二と伊藤博文の接触》
兵庫造船所がまだ工部省の兵庫製作所と呼ばれていた頃、工部卿伊藤博文が築地活版製造所に居た平野富二を訪ねて来た。それは、兵庫製作所を平野富二に管理して貰いたいとの相談だった。

当時、平野富二は、海軍省の石川島造船所の施設を借用して、みずから造船所を設立・経営することを計画していたので、周囲の勧めもあったが、伊藤博文の提案を辞退した。本心は官に仕えることを嫌ったことによる。

このことは、公的記録には残されていないが、「平野富二追憶懇談会記録」(私文書、大正15年7月)に、石川島造船所の元幹部であった今木七十郎の発言として紹介されている。

伊藤博文は、当時、横浜製鉄所を経営していた杉山徳三郎から平野富二のことを聞いて、東京築地の平野富二を訪問したと見られる。また、長崎製鉄所時代の平野富二こことを知っている同僚の山尾庸三のアドバイスがあったかも知れない。

《長崎における杉山徳三郎の関連施設》
杉山徳三郎が晩年を過ごした広大な邸宅が伊良林郷にあったが、今では、当時の洋式煉瓦塀の一部が残るだけで、往時の姿は全く失われてしまったという。

唯一残された施設は、徳三寺(長崎市田上2丁目10番地)である。ここは自分の父母と自分を含めた子孫のために開創して寺で、境内に杉山家の墓所がある。そこには杉山家祖先の供養塔を建て、両親の墓を造った。徳三郎の墓標には夫人と共に俗名が刻まれている。

杉山徳三郎が開創した徳三寺の本堂
(『長崎の史跡(街道)』、長崎歴史文化博物館、平成19年)

徳三郎は、自分が死んだときに火葬されることを嫌い、当時、その規制のなかった隣町の茂木に属する田上地区に、廃寺となった観音寺跡の寺地を購入し、平戸の臨済宗雄香寺の末寺大梁院をここに移す形を取り、明治29年(1886)に徳三寺と改称した。

本堂の背後には、観音寺の歴代住職の墓所と杉山家の墓所がある。同じ境内の本堂前には竹林を背にして千歳亭跡がある。ここには向井去来の句碑とその猶子久米式右衛門の供養塔がある。

ついでに平野富二について言うと、長崎寺町の禅林寺飛び地墓地に矢次家の墓所があり、そこに平野富二の母が建立した「平野富二碑」があった。しかし、昭和年間に無縁墓地とされて、そこにあった墓石と共に撤去されてしまった。現在は、無縁墓石の集積地から「平野富二碑」を見つけ出し、東京谷中霊園にある平野家墓所に移設されている。

もう一つ、平野富二の名前を記した記念碑が長崎にある。それは、三菱長崎造船所本工場構内の立神通路に面した崖地の壁面にある「建碑由来」の銘板である。しかし、一般には公開されていない。

《まとめ》
杉山徳三郎と平野冨二の生い立ちが、共に似た境遇であったことは、すでに述べた。成人して独自の道を歩むようになった後も、二人の共通点を多く見ることができる。以下に、二人の共通点を列記した。

◆家禄を継いだ兄の下を離れて独立し、維新後に失禄・失業した兄一家を助けるため自分の設けた事業所に職を与えている。

◆何かと制約の多い官職に就くことを嫌い、政界と繋がりの深い財界から一定の距離を置いていた。

◆生涯に二つの異質な事業に取り組み、いずれも業界に先駆けて近代化を果たし、成功を収めた。杉山徳三郎は造船造機事業と炭鉱業、平野富二は活版製造事業と造船造機事業である。

◆共に時代の先端を行く事業に成功した結果、長者番付に載るほどの資産家となった。

◆生涯、技術者としての姿勢を貫き、共に技術系経営者の典型となった。杉山徳三郎は晩年になって永遠のエネルギーを研究テーマとして取り組んでいたと言う。平野富二は、当時、機械工業の基礎をなす鋳造技術の向上を目指して業界の集会で演説中に卒倒し、そのままこの世を去った。

両者の異なる所は、天から与えられた寿命であった。杉山徳三郎は91歳という長寿に恵まれ、悠々自適の生涯を送った。これに対して平野富二は47歳で、ほとんど休むことの無い生涯を終えた。

長崎の町司について

平野富二の生まれた長崎引地町の町司長屋のことや、始祖矢次関右衛門から代々長崎の町司役を受け継いだことは既に述べたが、長崎の町司とはどのような役職だったかについては、明らかにしてこなかった。

引地町の町司長屋は、7軒長屋と6軒長屋が各1棟ずつ道路に沿って建てられており、道路の反対側は石垣の上に牢屋があった。そのような環境の中で、町司たちとその家族に囲まれて育った平野富二は、町司という家職がその人格形成に少なからぬ影響を与えられたと見られる。

今回は、長崎の町司とはどのような役職であったかについて、各種資料から纏めてみた。

<町司の名称>
町司の名称は、最初は「目付役」と称し、やがて「町司(ちょうじ)」と改称、後に「町使」と表記されたが、再び「町司」と表記されるようになったと言われている。その表記変更の時期は必ずしも明らかでない。本稿では、他からの引用文など、特別な場合を除き、「町司」で統一する。

<町司の職務>
その役職は、一言でいえば、長崎の治安を担当する役職である。しかし、同じ治安担当といっても、長崎では幾つかの役職に区分されており、その中の一つである。

時代によって相違はあるが、元禄15年(1702)の頃は、奉行直属の給人・下役(もとは与力・同心と称した)の外に、地元採用の地役人からなる町司・散使・唐人番・船番・遠見番があり、これらを5組と称した。この内、船番は長崎港内の水上警察、遠見番は長崎港外の見張り役である。

町司について、宝永5年(1708)の記録(越中哲也編『慶応元年 明細分限帳』の解説による)に、次のように担当する業務が列記されている。( )内は補足説明とし、文章の表現は現代風に変更した。

・両屋敷(西役所と立山役所と称した奉行所)当番ならびに御用日には6ヶ所の御番所  に詰める。
・唐船の荷役より出帆までの間、商売方に付いて新地表門、水門、唐人屋敷前水門からの出入者を改め、その外、諸出役を勤める。
・オランダ船入津より出帆までの間、出島へたびたび出勤する。
・指名されて御役儀を仰せ付けられた節は、御屋敷ならびに御篭屋(牢屋)にも出勤する。
・御仕置者、自害人、転死者あるいは召捕られた者があった節は、出勤する。
・オランダ商館長が江戸へ参上する節は、両人(二人)ずつ、付添として同伴する。
・上記の外、町中昼夜見廻り、諏訪祭礼・祇園会の警固として出勤する。

これらの担当業務は、時代の変遷に応じて変化している。初期には、市中に潜むキリシタンの捜査摘発も職務の中にあった。その他、長崎追放となった罪人を日見峠まで見送り、死刑囚を西坂まで連行、流罪人を御用船で流刑地まで護送なども行った。

安政5年(1858)の開国後は、諸外国人がつぎつぎと長崎に来航するようになって、不法入国や密貿易の取り締まりも重要な業務の一つとなった。また、国論沸騰により不逞の浪人たちが長崎に来住して市内の治安が悪化し、幕府の威信が地に落ちて長崎の町が不安な状態になったため、町司の役割も変質化した。

これらの業務のなかで、一定期間専任で担当する業務を「加役」と称し、また、長崎市外に一定期間出向して勤務する業務を「旅役」と称した。これらは、町司の中から持ち回りで指名された。

<町司の設置とその後の経緯>
慶長8年(1603)、長崎奉行は初めて「目付役」5人を召し抱えた。この年は、小笠原一菴が江戸幕府から初代長崎奉行として補任された年である。

『慶応元年 明細分限帳』によると、慶長8年(1603)に召し抱えられた目付役5人の子孫について、次の4人が記載されている。他の1人は、途中で廃絶したらしく、記載されていない。

・慶長八卯年先祖より九代丑年迄二百六十三年相勤彦三郎儀‥‥
御役所附助過人 高橋彦三郎 丑三十七歳
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

・慶長八卯年祖先より十二代丑年迄二百六十三年相勤実之助儀‥‥
御役所附町司  中山実之助 丑五十三歳
高三拾俵三人扶持 外受用銀貮貫四百三拾目

・慶長八卯年祖先より十五代丑年迄二百六十三年相勤五郎左衛門儀‥‥
御役所附助過人 鶴田五郎左衛門
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

・慶長八卯年祖先より十五代丑年迄二百六十三年相勤達十郎儀‥‥
町司 太田達十郎
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

その後の経緯については、『長崎地役人総覧』(以下《総覧》)と『長崎実録大成 正編』(以下《実録》)に纏められている。

当初は目付役5人で発足したが、4代長崎奉行長谷川権六の在任中に目付役4人を加えて9人となる。これ以降は、目付役を町使と名付けたと云う。《総覧》
なお、《実録》では、元和5年(1619)に4人増加としている。長谷川権六は元和2年(1616)に長崎奉行を離任しており、《総覧》とは数年の相違がある。

その後の人員増加と、それに伴う触頭の指名、御役所附の新設などが行われた。以下にその様子を年表形式で示す。

・寛永12年(1635)、4人増加し、総勢13人となる。《実録》
・寛永19年(1642)、この年からオランダ商館長が江戸参府する節、町司2人が道中  警固のため出勤を仰せ付けられた。《実録》
・寛文12年(1672)、24代長崎奉行牛込忠左衛門勝登のとき、2人を加えて15人となる。《総覧》 なお、《実録》では、延宝4年(1676)、2人増加して15人となる。この内、2人が触頭を仰せ付けられる、とある。年代的には4年のずれがあり、新たに触頭が指名されたことが分かる。
・宝永5年(1708)、町の治安強化で諸勤役が繁多となったため、15人を増員して30人となり、触頭を3人とした。《実録》《総覧》
・正徳5年(1715)、新規に御役所内に御番所が建てられ、町司のうち、10人を御役所附とし、平番が20人となったので、10人を追い追い追加した。《実録》《総覧》
この年に新たに御役所附が設けられたことが分かる。
・享保1年(1716)、町司の内から4人を御役所附として増員し、御役所附は14人となった。平番の減員分4人に代えて5人を増員し、平番は35人となった。《実録》《総覧》

これ以降についての記載はないが、『慶応元年 明細分限帳》によると、慶応1年(1865)の町司の人数は、御役所附町司触頭・同助・御役所附町司・同助は合計27人、町司・同見習は合計33人で、合計60人と記録されている。
享保1年当時と比較すると、御役所附は14人が27人に、平番は35人が33人となっており、御役所附が大幅に増員されたのに対して、平番はほぼ横ばいとなっている。

<町司の役屋敷>
寛永3年(1626)頃までは、本博多町に役屋敷があったが、ここに在った奉行屋敷が焼失して、岬の先端近くの外浦町に西役所と東役所が設けられた。町司の役屋敷も、その時焼失したと見られ、同年、町司のために引地町に5軒長屋と6軒長屋が1棟ずつ建てられた。

延宝5年(1677)頃に、南馬町と出来大工町の間にある大井手町に町司長屋が増設された。その結果、引地町長屋11軒と大井手町長屋6軒となった。

宝暦5年(1755)、引地町長屋が類焼したため、新たに7軒長屋と6軒長屋が各1棟が建てられた。

文化年間(1804~1817)には、引地町・大井手町・八百屋町・銅座跡に町司長屋が存在した。これらの町司長屋は、「長崎諸役所絵図」(国立公文書館所蔵)に描かれている。

引地町の町司長屋

大井手町の町司長屋

八百屋町の町司長屋

銅座跡の町司長屋

<町司の役料>

町司の家は、家禄として平番の受用高で代々相続し、勤務年数や勤務成績に応じて御役所附や触頭に抜擢されて手当金が付加された。それらの受用高は、次のとおりである。

・平番町司:     高  2人扶持、受用銀2貫140目
・御役所附町司助過人:高  2人扶持、受用銀2貫140目
・御役所附町司:   高30俵3人扶持、受用銀2貫430目
・町司触頭:     高40俵5人扶持、受用銀2貫650目

相続する家禄とは別に、昇進による増額(上記)、勤務成績や加役などによって町司個人に対して、別途、報奨金や手当が支給された。

矢次家3代関右衛門と5代関次は、御役所附町司に任命されたときに、受用高30俵3人扶持、受用銀2貫430目を受けている。

慶応1年(1865)当時の矢次重之助(平野富二の実兄)の受用高は、2貫140目(銀2,140匁/月=金貨で約40両/月)、2人扶持(一日に米1升)で平番町司だった。

<町司の資格>
長崎町人の中から選ばれた地役人の一役職が町司であるので、たとえ祖先が諸藩の武士であったとしても、町人扱いとなる。

しかし、役職柄、苗字帯刀を許されていた。

矢次家では、役宅である町長屋に居住し、家僕(家付きの下男)が1人居た。

<幕末・維新期の変動>
平野富二の実兄矢次重之助(和一郎、重平、温威)は、幕末に長崎奉行支配の町司となり、明治維新を経て新政府の下で長崎裁判所、長崎府、長崎県の役職を得ている。「矢次事歴」には、矢次重之助を通じてこの時期の町司とその後の変遷の有様が述べられており、貴重な記録となっている。

矢次重之助は、嘉永1年(1848)10月14日、数え年6のとき、父の死去により長男として相続し、町司となった。年少であったためか、安政2年(1855)、数え年13のとき、初めて加役として新地仕役掛を勤めている。

その後、慶応1年(1865)まで、町司としての通常勤務の外に数多くの加役を勤めあげた結果、同年2月9日、数え年23で町司定乗助に昇進し、同年4月4日に町司定乗となって、手当として銀120目(金貨で約2両相当)を支給された。

同年12月12日、「乃武館」詰めを仰せ付けられ、勤め役として2人扶持、泊番手当として銀4匁(目と同じ)を支給された。

乃武館(だいぶかん)は、軍事と警察を兼任した部隊の屯所(詰所)で、片淵町の組屋敷に設けられた。長崎奉行は、黒田藩と鍋島藩の藩兵引揚げに代えて、五組の二男以下・市中浪人や剣客とその門人などを徴募して250名を以って「警衛隊」を組織した。別に「鉄砲隊」と「剣槍隊」を編成して市中警備に当たらせ、さらに、農民・町民が大部分の「大砲隊」と「小銃隊」が編成された。

慶応3年(1867)7月9日、数え年25のとき、四役一同が「御組同心」に召し直されて、切米高30俵2人扶持を下し置かれ、その年の内に、乃武館詰めの者一同は加役として「遊撃隊」に召し直されて、場々の警衛を仰せ付けられ、勤務日数に応じて5人扶持を下し置かれた。さらに、加役として「剣槍隊」の取締助席を仰せ付けられた。

剣槍隊の服装〈『明治六年の「長崎新聞」』から〉

「遊撃隊」は、慶応3年(1867)8月、長崎奉行がこれまでに編成した諸隊を統一して再編成した部隊で、土佐藩の「海援隊」(坂本龍馬の死後、土佐藩参政佐々木三四郎が隊長となる)に対抗するものであった。

慶応4年(1868)1月14日。長崎奉行河津伊豆守が長崎を退去し、入れ替わりに「海援隊」が西役所を占拠した。長崎に駐在していた薩摩藩の松方助左衛門(正義)が単身で片淵町の乃武館を訪問して、一触即発状態にある「遊撃隊」を説得し、恭順させたと云われている。

慶応4年(1868)2月9日から元組屋敷に入営して、日数30日詰め切りを仰せ付けられた。

同年2月14日、九州鎮撫総督澤宜嘉が長崎港に到着し、16日、長崎裁判所参謀兼務となり、長崎奉行に代わって長崎の統治を行った。長崎奉行の下にあった諸隊は「振遠隊」と改称されて、長崎裁判所(後に長崎府、長崎県)の支配下に入った。

同年4月9日、長崎裁判所に於いて「振遠隊」第二等兵を仰せ付けられ、高27俵2人扶持を支給された。2人扶持の内から半人扶持の賄い料を差し引き、それに代わって春秋衣の賄い料10両を支給された。

同年7月19日、長崎裁判所に於いて奥州出張を仰せ付けられ、イギリス船フィロン号に乗組み、同月26日、出羽国秋田郡脇本洲に上陸。8月12日、陣中で教導を仰せ付けられた。12月19日、長崎に帰陣し、長崎裁判所から褒美として軍服1領と金2,000疋(約5両相当)を下し置かれた。

明治4年(1871)7月30日、長崎県知県事から役米に代えて月給10円を支給されることになった。

明治5年(1872)2月22日、「振遠隊」が廃止され、御暇金として金12両を下付された。同日、少邏卒(しょうらそつ)を仰せ付けられ、月給6両となったが、同年中に邏卒を御暇するよう仰せ付けられ、これにより失職して、収入の道は途絶えた。

邏卒の服装〈『明治六年の「長崎新聞」』から〉

明治4年(1871)、長崎県に聴訟課が設けられ、明治5年(1872)2月、聴訟課に所属する組織として「邏卒」制度が生まれた。

邏卒はほとんど全員が振遠隊の中から選ばれ、総員60名。その中に区長(邏卒長)と権区長(副邏卒長)として各3名が任命された。
明治9年(1876)になって「邏卒」は「巡査」となった。

慶長8年(1603)に長崎奉行所の「目付役」として誕生した「町司」は、これまで述べて来た幕末・維新期の変遷を経て、274年後に長崎県の「邏卒」を経て「巡査」となった。この巡査制度は、地方自治体に所属する警察制度として、現在に引き継がれている。

矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人

平野富二は、長崎奉行支配の町司矢次豊三郎を父とし、その次男として生まれ、幼名を富次郎と称した。長男和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)が矢次家を継いだので、富次郎は矢次家の始祖関右衛門の別姓である平野姓を再興したと伝えられている。

矢次関右衛門については、『本木昌造・平野富二詳伝』(三谷幸吉編、昭和8年4月20日発行、非売品、以下『詳伝』と略す)に紹介されている。

それは、編者の三谷幸吉が平野家に伝えられた家伝にもとづいて編集したと見られる。その記述は、編者が平野富二を尊敬するあまり、表現を変えるばかりでなく、内容についても独自の見解を加えたと思われる個所が散見される。

本来ならば、平野家の家伝をそのまま紹介したいところであるが、残念ながら平野家の資料庫には見当たらない。ここでは、『詳伝』に記載されている記述の一部、平野富二とその祖先に対する過度な尊敬の表現、を改め、あとはそのまま紹介する。

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【『詳伝』に紹介された平野家の始祖】

『詳伝』の中で、平野富二の事績を紹介する本文とは別に、〔補遺〕として紹介されている内容は次の通りである。

平野富二の祖先に当たる関右衛門と云う人は、大村藩の勘定奉行であったが、領内およびその付近に洪水があり、それがために非常な飢饉が起こった。それでその当時、関右衛門は領主に米庫を開放して領民を救匡(きゅうきょう)せられたきことを嘆願に及んだ。

ところが、或る奸臣が居て、関右衛門の嘆願の非なることを領主に言上に及んだのである。それがために、米庫解放の埒(らち)が中々あかぬ。一方、領民は日一日、刻一刻と食料に窮乏して行くばかりで、領民が米庫破壊を企てる者さえあった。

大村府内は騒然たる有様なので、関右衛門は領主と領民、米庫と飢饉の板挟みとなった結果、ついに意を決して、敢て自ら米庫を開放して、領民に米を分配し救助したのであった。

他方、領主は関右衛門の独断専行を大いに憤って、ついに関右衛門に切腹を申し付けた。この処置に対して、或る老臣の一人が、関右衛門の応急処置は至当なものであり、また、関右衛門に切腹させれば、領民が騒ぎ出しては大変な騒動となることを悟り、領主に関右衛門の命乞いをした。

そのため、関右衛門は、ようやく一命は助かったが、奸臣の讒言により、ついに御暇(おいとま)を頂くことを余儀なくされた。

一浪人となった関右衛門は、知人を頼って長崎に身を落ち着け、姓を矢次と名乗った。そして、長崎奉行の認めるところとなって、長崎奉行所に奉仕し、その後、代々継いだのである。

三谷幸吉は、この伝記を紹介する前書きとして、

祖先平野勘太夫(大村藩)倅関右衛門(百五十石領)、正徳年間の飢饉に際しての米庫解放事件を叙説しておく必要がある。けだし、この祖先の伝統は平野先生へもながれているからである。

と述べている。

また、『詳伝』には、別に「平野・矢次家略系図」が掲載されている。それには、最初に平野勘太夫(大村藩)、続いて矢次関右衛門(大村藩勘定奉行、正徳三年長崎ニ来リ町司、享保十七年正月十三日没)が示されている。

この『詳伝』の発行に先立ち、『印刷雑誌』(第1巻、第4号、明治24年5月発行)に、「平野富二君ノ履歴」として掲載された記事の中に、

是年《文久2年》君《平野富二》故アリテ、同地《長崎》吉村庄之助君ノ養子トナル、五年ノ後養家ヲ辞シ帰テ平野家ヲ再興ス(矢次氏元平野氏、其先代故アリテ、矢次氏ヲ冒セルナリ)

とある。この引用文の文末にある括弧( )書きは原文のままであり、その内容は『詳伝』と相違するところはない。なお、《 》内の文言は稿者が追記した。

この「平野富二君ノ履歴」は著者が明らかでないが、福地桜痴(源一郎)が執筆したものとされている。その直前に掲載された「本木昌造君ノ行状」を福地桜痴が執筆する際に、同時に調査・入手した平野富二関係の資料に基づいたと見られる。

ごく最近まで、『詳伝』に記載されている伝記が一般に流布しこれが正しいものと考えられていた。ところが、2007(平成9)年になって、本家である矢次家のご子孫から「矢次事歴」が開示され、本家の記録を調査できるようになった。

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【「矢次事歴」の記録】

矢次関右衛門について、「矢次事歴」には次のように記録されている。原文は前回ブログで挿図によって示したので、興味のある方はご覧頂きたい。

ここでは、出来るだけ原文に忠実に、口語文に直して紹介する。

祖先平野勘太夫の倅(せがれ)である矢次関右衛門は、大村筑後守の家来で、知行150石を与えられ、勘定奉行を勤めていた。

大村藩で凶作が続き、百姓どもの難儀がいよいよ差し迫った際に、拝借を重ねて多くの制約を受けている者ども(原文:「拝借奉願支配数多有之者共」)の難儀を憐れんで銀貨を渡した。

このことを越度(おちど、法をそむいた罪)とされ、藩主から御暇(おいとま、藩籍召し上げ)を言い渡された。

浪人となった関右衛門は、長崎に出て町年寄久松善兵衛の家来松永善兵衛方に寄宿していたところ、正徳3年(1713)に町司村山半左衛門が退役を命じられて空席ができたので、その後任として町司役を仰せ付けられた。享保3年(1718)まで6ヵ年間勤務して、退役を願い出た。享和17年(1732)に病死した。

この内容を、『詳伝』の内容と比較すると、両者には微妙な相違が見られる。

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【『詳伝』と「矢次事歴」の比較】

まず、両者とも同じ内容の事柄を列記する。

1.矢次家の始祖は平野勘太夫で、大村藩士であった。
2.関右衛門は、勘太夫の倅で、大村藩の勘定奉行を勤めていた。
3.領内に洪水による飢饉(『詳伝』)、凶作が続いた(「事歴」)。
4.関右衛門の対応を越度とされ、領主から御暇を言い渡された。
5.長崎に移り住んだ。
6.長崎では矢次を名乗った。
7.長崎奉行の下で町司となった。

次に、内容の相違する事柄と片方しか記載されていない事柄を列記する。

1.関右衛門は大村筑後守の家来である(「事歴」のみ)
2.150石領(『詳伝』)、知行150石(「事歴」)
3.正徳年間の洪水で非常な飢饉(『詳伝』)、凶作が続いた(「事歴」)
4.百姓たちが困窮(『詳伝』)、拝借を重ねて制約のある者たち(「事歴」)
5.領民救助を領主に嘆願(『詳伝』のみ)
6.米庫を開放(『詳伝』)、銀貨を渡した(「事歴」)
7.奸臣、老臣と領主とのやり取り(『詳伝』のみ)
8.独断専行により切腹を申し付けられた(『詳伝』のみ)
9.正徳3年に長崎へ(『詳伝』のみ)
10.長崎の知人(『詳伝』)、長崎町年寄の家来(「事歴」)
11.長崎奉行所に奉仕(『詳伝』)、正徳3年に空席の町司(「事歴」)
12.享保3年まで勤務(「事歴」のみ)
13.享保17年1月13日没(『詳伝』)、享保17年没(「事歴」)

一般的に言えば、原典と見られる「矢次事歴」の記述のほうが正しいと考えられるが、『詳伝』には、平野家に口伝として伝えられた内容も含まれるかも知れない。

それにしても、6.で示した米庫解放と銀貨支給の相違、7.と8.で示した家臣と領主とのやり取りについては、差が大きすぎる。

これ以上は、大村藩に於ける関連記録を調査し、併せて当時の藩主の施政についても知る必要がある。

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【大村藩の「士系録」】

2016(平成28)年4月、盛山隆行氏(大村市史編さん室勤務)から、大村藩士の記録『新撰士系録 三』の抜粋コピーが提供された。それによると、大村藩士矢次家について、次のような系図が紹介されている。原文は縦書きであるが、ここでは横書きとして紹介する。

この系図を読み解くと、次のようになる。

1.矢次家の始祖は矢次近江である。
2.その息子の矢次右馬太夫は、早岐給人領田五町(今の佐世保市)から大村に来て、大村氏に仕え、大村藩矢次家初代となった。
3.二代太郎左衛門は、食禄九石八斗余りを支給された。
4.三代は杢兵衛が継いだ。
5.四代勘太夫は、平野助右衛門の二男で、矢次家に養子として入った。
6.五代関右衛門は、杢兵衛が勘太夫を養子として迎えたのちに、杢兵衛の実子として生まれたらしい。勘太夫の跡を継いで矢次家当主となったと見られる。

系図で、関右衛門の名前の傍らに記載されている記録を読み下すと、

故(ゆえ)有って大村藩の禄を離れ、長崎に住んだ。後に字(あざな)を改め、平野助左衛門と名乗った。長崎では町役を勤めた。

とある。つまり、「或る理由があって大村藩の禄を受けなくなり、長崎に移り住んだ。後に別名を平野助左衛門と名乗った。長崎では町司を勤めた。」となる。

長崎奉行所の記録では、町司として矢次関右衛門の名前が記録されている。したがって、別名の平野助左衛門を名乗ったのは、町司を退役した後のことと見られる。この別名は、矢次家四代勘太夫の実父の名前である平野助右衛門と一字違いである。

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【大村藩の史書『九葉実録』】

矢次関右衛門が、大村藩の禄を離れることになった原因について、長崎の宮田和夫氏(二十六聖人記念館勤務)の調査により、大村藩の史書『九葉実録』(大村史談会編・発行、平成6年7月)に、次のような記事があることが判った。

元禄12年(1699)閏9月9日の項に、

板鋪蔵役矢次関右衛門 会計足ラス 因テ 浪人トナシ 戸籍ヲ没入ス

つまり、「板鋪蔵役である矢次関右衛門は、会計の帳尻が合わないため、藩籍を没収され、浪人となった。」と記録されている。

板鋪蔵については、同書の注釈によると、大村氏の居城である玖島城の南側に板敷と呼ばれる地区があり、そこの波戸の手前に藩の米蔵があった。米蔵は城内と御船蔵にも存在した。

その直前の8月12、13日の項に、大雨による洪水被害のことが記録されている。その記述を要約すると、

12日夜に大雨となり、13日に洪水となった。城下と近隣を調査した結果、528町余りの田と140町余りの畠(以上の生産高8,200石余り)が水没し、民家152軒が倒壊・流失し、死者36人など、甚大な被害をこうむった。長崎奉行を通じて江戸に上申した。

さらに、翌年2月23日の項に、

廿三日制ス 自今 切米俸ノ者 公金ヲ借ラハ、返納ヲ保ツ證人ヲ得テ 其請ヲ許スヘシ

つまり、「23日、藩の規則を制定した。今後、切米俸の者が公金を借りるときは、返納を保証する人を立てれば、その請求を許すことができる。」と記録されている。

切米俸については、中下級の家臣に対して支給される扶持米で、年に2回あるいは3回に分けて藩の米蔵から分給した。玄米での支給が原則であるが、公定米価により換金して支給したこともある。

以上の記録から判明したことを列記すると、次のようになる。

1.矢次関右衛門は大村藩の所有する板敷米蔵の責任者であった。
2.元禄12年(1699)閏9月9日に矢次関右衛門は戸籍を没収され、浪人となった。
3.矢次関右衛門が浪人となった理由は、管理する米蔵の会計不足による。
4.約2ヶ月前の8月13日に大雨による洪水で、甚大な被害を被り、多くの困窮者が出た。
5.翌年2月23日に、切米俸の者に対する公金借用の条件が藩で制定された。

この時の藩主は、『寛政重修諸家譜』によると、大村因幡守純長(始祖から数えて16代目、豊臣秀吉により藩籍を認められてから4代目の当主)で、慶安3年(1650)に伊丹家から養子に入り、翌慶安4年(1651)2月に16歳で遺領を継いだ。寛永3年(1706)8月に71歳で没した。

この人の治世については、『長崎県の歴史』(山川出版社、1998)によると、明暦・寛文期(1655~1672)に藩制の諸機構を整備したが、元禄期(1688~1703)にはいると、初期以来、強力に推進してきた新田開発も極限に達し、かつ、家臣団の膨張によって再び藩財政が窮乏した。跡を継いだ5代筑後守純尹(すみまさ)によって、家臣団の知行制改革を中心とする享保改革が行われた。

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【矢次家の墓所と菩提寺の記録】

祖先の記録は、墓所にある祖先の墓石に刻まれ、菩提寺の過去帳に残されていることが多い。

「矢次事歴」に添付されていた矢次温威の記録によると、「明治13年(1880)4月26日に家内と召し連れて長崎に罷り越し、御父三拾三回忌相勤」とある。下って、温威の孫の一人が描いたと見られる菩提寺禅林寺と矢次家墓所への案内略図が残されていることから、昭和初期までは祖先の供養と墓参が行われていたと見られる。

ところが、いつの頃からか、矢次家墓所は無縁墓所となっていた。昭和62年(1989)頃に代わった禅林寺の住職により、矢次家祖先の墓石類は撤去され、他家の墓所となってしまった。

町を見下ろす石垣上に矢次家墓所があった。そこは、二区画に分割されて
他家の墓所となり、後背の市街を背景に新し墓石が建っている。

寺の過去帳もなく、墓石も失われてしまった中で、幸いにも無縁の墓石類を集積した中に平野富二の記念碑が発見され、東京谷中霊園の平野家墓所に移設された。

その記念碑は、平野富二の七回忌に当たって、その母が建立を思い立ち、長崎の西道仙に撰文を依頼したものである。

「平野富二碑」と正面に刻まれた記念碑の左側面に、

平野富二 長崎人 旧姓矢次 興始祖平野勘左右衛門之後 改今姓

と刻まれている。つまり、「平野富二は長崎の人で、旧姓は矢次。始祖平野勘左右衛門の後を興して今の姓に改めた」と記されている。

東京谷中霊園の平野家墓所に移設された「平野富二碑」

始祖平野勘左右衛門の名前は、大村藩の記録にもない名前であり、どのような記録に基づいたものか不明である。西道仙が根拠もなくこの名前を記すことは考え難い。

当時、矢次家墓所には矢次家始祖から始まる祖先の墓石が存在していたと見られるので、始祖矢次関右衛門の墓石にこの名前が刻まれていた可能性がある。

矢次関右衛門の周辺に居た人物の名前と自身の名前を挙げると、平野助右衛門、矢次勘太夫、平野助左衛門がある。それぞれの中から字を拾って組み合わせると、平野勘左右衛門となる。

これは推測であるが、矢次関右衛門は、長崎町司役を後裔に譲ってから、別名として平野助左衛門と称し、病没する前に平野勘左右衛門としたのではないだろうか?

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【まとめ】

平野富二の始祖関右衛門については、三谷幸吉が編集した『詳伝』に紹介された内容が、いままで一般に流布していた。

ところが、平野富二の本家筋にあたる矢次家から「矢次事歴」が開示され、また、昨年に相次いで、大村藩の記録である「新撰士系録」と『九葉実録』の中から矢次関右衛門に関する記録が発見され、それによって、『詳伝』の記録には錯誤や史実に基づかないフィクションが含まれていることが判った。

これまで紹介してきた各種記録を通読していただいた読者には、史実と相違する内容をすでにお気付きと思うが、要点を列記すると次のようになる。

1.『詳伝』と「矢次事歴」は共に、大村藩に於いては平野姓、長崎に出てからは矢次姓となったとしているが、史実は共に矢次姓である。平野姓を名乗ったのは、関右衛門が長崎町司を退役した後のことである。

2.『詳伝』に記された「米蔵開放事件」は、三谷幸吉によるフィクションである。

3.矢次関右衛門は、大村藩士矢次勘太夫(実父は平野助右衛門)の義弟で、勘太夫の跡を継いで矢次家当主となった。大村藩では板敷米蔵役を勤めていた。この時の藩主は四代大村因幡守純長(治世1651~1706)である。米蔵役は勘定奉行の支配下である。

4.元禄12年(1699)8月、大村府内および近郊で大雨による洪水で甚大な被害をこうむり、困窮者が出た。

5.被害を受けて困窮する下級藩士に、米蔵役の矢次関右衛門は公金の銀貨を貸し与えたが、返済が滞り、会計の帳尻を合わせられず、罪を負うことになった。

6.矢次関右衛門が大村藩の藩籍を召し上げられて浪人となったのは、元禄12年(1699)閏9月のことである。

7.浪人となって長崎に出てからは、「矢次事歴」に記載された通りと見られるが、浪人となってから平野姓を矢次姓に変えたとする『詳伝』と「矢次事歴」は誤りと見られる。

8.矢次関右衛門は、正徳3年(1713)に長崎奉行支配の町司となり、享保3年(1718)になって養子関治に町司役を譲り、隠居した。その後、別名として平野助左衛門と名乗った。
さらに、病没する前に平野勘左右衛門と名乗ったと見られる。

各家に伝えられた家伝・口伝は、それなりに意味のあるものであるが、史実に照らして検討してみると、思わぬ相違を発見することになった。

平野富二は、どこまでの事を知っていたのだろうか?

「矢次事歴」:平野富二祖先の記録

【「矢次事歴」の概要】

「矢次事歴」は、矢次家初代の関右衛門から九代温威までの事歴を纏めたものである。

その表紙は、中央に「矢次事歴」と筆書きし、その右側上部に「正徳三巳年ヨリ明治十三辰年ニ至ル一百六十八年間」、左側下部に2行に分けて「矢次温威女」、「矢次古う」と書いてある。

「正徳三巳年(1713)」は、矢次家初代関右衛門が長崎奉行から町司役を仰せ付けられた年で、「明治十三辰年(1880)」は、矢次家九代温威の事歴として清書書きが終わる年である。

清書された事績に続いて、九代温威の自筆とみられるメモ書きが添付されている。それは、明治17年(1884)から明治21年(1888)までの記録であるが、明治13年(1880)6月から明治17年(1884)7月までの記録が欠落しており、明治20年(1887)の記録の一部が破棄されている。

九代温威の自筆記録は、明治21年(1888)9月28日、隠居して辰蔵(辰三、養嫡子)に矢次家当主の地位を譲り、母ミネを実弟平野富二の籍に移したことで終わっている。

初代関右衛門から八代豊三郎(平野富二の実父)までの「矢次事績」については、拙著『平野富二伝』(株式会社朗文堂、2013年11月)に、原文のまま紹介してあるので、興味のある方はお読み頂きたい。

「矢次事歴」として清書した矢次古うは、戸籍上は、字母を「古越」とする万葉仮名で表記し、元治1年(1864)10月、矢次温威の長女として生まれた。明治3年(1870)、長崎奉行支配の唐人番土屋金六の三男辰三(数え年8歳)を矢次家の養子に迎え、こう(数え年7歳)は、後にその妻となった。

【矢次家祖先の人々】

長崎奉行支配の町司役を代々世襲した矢次家の当主を列記すると、次のようになる。

初代 関右衛門(大村因幡守純長家来、浪人、正徳3年〈1713〉、6年間)
二代 関 治 (従弟、立花飛騨守家来、浪人、享保3年〈1718〉、16年間)
三代 関右衛門(母の甥、松平下総守家来、浪人、享保18年〈1733〉、34年間)
四代 友右衛門(従弟、町司池島七郎太夫倅、明和3年〈1766〉、4年間)
五代 関 次 (甥、長崎遠見番古川彦右衛門弟、明和6年〈1769〉、34年間)
六代 和三郎 (従弟、長崎御役所附近藤儀三太倅、享和1年〈1801〉、12年間)
七代 茂三郎 (従弟、長崎散使本庄圓右衛門倅、文化9年〈1812〉、17年間)
八代 豊三郎 (長男、文政11年〈1828〉、21年間)
九代 温威  (長男、嘉永1年〈1848〉、慶応4年〈1868〉まで21年間)

各人の括弧内について、初代は前歴と勤続年数を、二代から三代は前代との血縁関係、前歴、勤続年数を、四代から九代までは前代との血縁関係、町司就任年、勤続年数を示す。

一見して分るように、初代から六代まではいずれも直系の男子に恵まれず、従弟や甥を養子として、代々、町司役を継いでいる。

町司役は、地元長崎の町人の中から選ばれた長崎奉行に仕える地役人に一つの役職で、主として長崎の町内と港内の警備を行った。初期においては武士あがりの浪人を採用し、苗字・帯刀を許されていた。

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初代 矢次関右衛門

この人については、次回ブログで詳しく紹介する。なお、前歴として示した大村藩の藩主名は、別途、調査して示したもので、「矢次事歴」には記載されていない。

ここでは、「矢次事歴」の最初のページを図版で紹介するにとどめる。

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五代 矢次関次

この人は、明和6年(1769)に町司役を前代から継ぎ、天明8年(1788)に町司定乗に昇進し、寛永2年(1790)に御役所附となっている。

天明7年(1787)12月、献上端物御手本御覧出役を勤め、翌年1月、オランダ商館長の江戸参府に、一行の警備役として、随行している。

この時の江戸参府には、本木栄之進と杉山三左衛門も一行に加わっている。本木栄之進(1735~1794)は、本木昌造の4代前の本木家当主で、オランダ通詞として随行した。後に本木仁太夫良永と称した。もう一人の警備役として随行した町司杉山三左衛門は、平野富二の長崎製鉄所での僚友だった杉山徳三郎の祖先と見られる。

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七代 矢次茂三郎

この人については、「安政五年 文書科事務簿}(『長崎町方史料(四)』、福岡大学総合研究所資料叢書 第七冊)に掲載されている親類書に血縁関係が記されている。文化9年(1812)に町司役を継ぎ、文政4年(1821)に町司定乗助、同6年(1823)に町司定乗に昇進した。

文政9年(1826)、オランダ商館長ヨハン・ウィルヘルム・ド・スチュルレルの江戸参府に随行した。この時、出島のオランダ商館医官ならびに自然科学調査官として派遣されていたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも一行に加わっている。江戸には1ヵ月余り滞在している。

文政11年(1828)8月9日の夜、茂三郎は、唐船繋番として勤務中に、突然、暴風雨に遭遇し、唐船を繋留できずに難破し、溺死した。

この時、オランダ商船コウネリュウス・ハウトマンが出港に備えて長崎湾の沖に碇泊していたが、強風を受けて湾内を漂っていた唐船に碇綱を切断され、稲佐の浜に舳先を突き付けて座礁した。奉行所の役人による臨検の結果、積み荷の中からシーボルト・コレクションが発見され、陸揚げされて奉行所の管理下に置かれた。これが、かの有名なシーボルト事件の発端となった。

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【平野富二の兄と甥について】

明治維新により長崎奉行支配の地役人の組織は、名称は変更されたが、基本的にはそのまま新政府に引き継がれた。矢次温度威は、正徳3年(1713)から九代にわたって長崎奉行に仕えた最後の町司となった。

矢次温威は、天保14年(1843)10月19日に父豊三郎の長男として生まれ、幼名は和一郎、後に重之助、重平と称し、明治2年(1869)に温威と改名した。幼名を富次郎と称した平野富二は、3歳下であった。

父の病死により、嘉永1年(1848)10月、数え年6歳で矢次家の家督を継いで、町司役となったが、幼年のため、奉行所の内々の了解を得て、年令を11歳として届け出た。

『慶応元年 明細分限帳』(越中哲也編、長崎歴史文化協会、昭和60年)によると、「矢次重之助 丑二十八歳」となっている。これは、丑年の慶応1年(1865)に数え年28歳であることを示す。実際は、5歳のサバを読んでいるので23歳となる。

数え年13歳のとき、初めて加役として新仕役掛を勤めている。慶応1年(1865)2月、町司定乗に昇進した。

慶応4年(1868)4月、長崎奉行所に代わって新政府の下で長崎裁判所が設置され、振遠隊第二等兵を命じられる。この時点で、初代から続いた町司の役職は無くなったと見られる。

新政府の下で奥州に兵卒として派遣され、転戦して帰還後、上等兵となった。明治5年(1872)2月、振遠隊は廃止され、代わって少邏卒(月給6両)を命じられたが、同年中に解任された。邏卒は今でいう警察官に相当する。

温威の父豊三郎の時代である天保9年(1836)当時、長崎奉行に仕える町司などの地役人は2,069人で、長崎の町人の13人に1人が地役人という情況だったとされている。この地役人たちが一斉に家禄を失ったことになる。

以後、特定の職を持たない温威一家は、資産を食いつぶし、親類縁者を頼って不安定な生活を送ることになる。

矢次辰三は、矢次家に入籍してから本木昌造の経営する新街私塾に学び、明治16年(1883)頃に温威の長女こうと結婚、一男三女をもうけている。

幕府の崩壊により家禄を失い、不安定な生活を送る中で成人し、どのような職に就いたかは不明である。しかし、矢次辰三著とする明治27年(1894)9月30日発行の「長崎港新図 全」と題する地図がある。この地図は、東京の三間石版印刷所の石版、色刷りの地図で、長崎の虎與號書店から発行されている。

町司長屋の背後を流れる地獄川

【現在の風景】
町司長屋のあったもと引地町の一画に建つマンション(現、桜町9番地1)脇から長崎市公会堂に向かって坂道を下ると、マンションの背後に築かれた石垣に沿って水路がある。その水路は、一旦、坂道を交差するため暗渠となり、再び姿を現すが、次の坂道に出会うところから先は、再び暗渠となって完全に姿を隠してしまう。

昔は、石垣に沿って水路は海まで続いていたと見られるが、現在では、水路沿いの石垣を崩し、台地を削って宅地が造成されたため、石垣はごく限られた所しか残っていない。

水路は石が敷詰められていて、中央に溝があり、その両側は内側にゆるく傾斜している。溝にはきれいな水が流れており、水量が多いときには、水路の幅一杯に水が流れるようになっている。この構造は、長崎市中の他の場所でも見られ、明治初期に導入した最先端の土木技術が採用されたと言われている。

長崎では、川よりは小さく、溝よりは大きい水路を「えご」と称するらしい。この「えご」に沿った細道を「えごばた」と称し、近所の住民の格好の交流の場となっていたと言う。

図1は、坂道を下った所から桶屋町方向(上流側)を眺めたものである。道路の右手には長崎市公会堂がある。水路の片側は石垣で、中央に水の流れが見える。その両側はシダに覆われ、普段からあまり水量が多くないことを示している。

図1 マンション裏手の石垣と水路

 

図2は、道路を横断した地点から栄町方面(下流側)を眺めたものである。水路脇の石垣は失われ、家が建てられている。水路は桜町に属し、道路の中央から左は魚の町、前方の交差点から先は右手が興善町、左手は栄町である。

図2 栄町方面の眺め

前回のブログで紹介したように、ここには地獄川が流れていた。時代をさかのぼると、台地上に引地町が造成されるまでは、幅広い濠があったとされている。さらに戦国時代には、この付近は長い岬に沿った奥深い入り江で、満潮時の波打ち際であったと推測される。

【中島川本流の両岸は海だった】
『新長崎市史』(第二巻、近世編、長崎市、平成24年3月)によると、元亀2年(1571)の長崎開港の頃は、堂門川(西山川)と中島川が合流して中島川の本流となる周辺、つまり、現在の出来大工町から伊勢町、八幡町辺りまで奥深い入り江があった。その入り江の南側は風頭山麓に沿って流れる鹿解川(ししときかわ)の辺り、北側は現在の万才町から興善町、桜町、勝山町、馬町から成る台地の下辺りまでだったとされている。

人口の増加に伴って、その入り江は中島川本流を残して埋め立てられ、台地の下に新しい町が造成された。最初の段階で、北側は現在の賑町から栄町、さらには桶屋町、大井手町へと続く通りまでが埋め立てられた。

この記述だけでは分かりにくいので、国土地理院の1万分1地形図(平成7年9月発行)を用いて往古の海岸線を描くと、図3のようになる。太い実線は戦国時代(16世紀後半)の推定海岸線、太い破線は明治維新頃の海岸線を示す。推定海岸線は、等高線と石垣を参考にしながら概念図として描いたもので、鶴の首に似た長い岬と深く湾入した入り江の様子が分かる。

         図3 戦国時代と明治初期の推定海岸線

入り江には、最奥部で北から堂門川(西山川)が、東から中島川が流入し、入り江の口近くで南側から銅座川が流入していた。入り江は中島川本流の澪筋(みおすじ)を残して埋め立てられ、その際、両岸に沿って水路が設けられたと見られる。東岸と西岸(『新長崎市史』では南側と北側と表現)に沿った鹿解川と地獄川がそれに相当する。また、岬の東側付け根に沿って岩原川が流れ下っている。

中島川本流の河口周辺は、明治18年(1885)から変流工事が行われたため、大きく変貌した。

【濠の造成にかかわる長崎の歴史】
入り江の埋立てに際して、岬上の町を外敵から防御するため、岬の下辺、すなわち、かつての波打ち際に沿って石垣を築き、濠を掘って備えとしたと見られる。

石垣と濠の築造は、いつ頃のことで、どのような外敵に備えたのかを知るためには、戦国時代、16世紀後半以降の長崎における歴史を知る必要がある。

長崎の地を古くから支配していた地方豪族長崎氏は、長崎甚左衛門純景のときに領主大村家との関係を深め、大村純忠の息女を妻とし、その家臣となった。長崎氏の居館は、現在の長崎市桜馬場中学校の場所にあったとされ、その背後の山に砦が設けられていた。奥深い入り江に注ぐ二つの川に沿って、半農半漁の集落が形成されていた。

永禄10年(1567)、ポルトガル人ルイス・デ・アルメイダが長崎を訪れ、長崎甚左衛門の許しを得てキリスト教の布教を開始した。その2年後の永禄12年(1569)、神父ガスパル・ビレラは、甚左衛門から与えられた土地に、トードス・オス・サントス教会を建設した。これは長崎で最初に建てられたキリシタン教会とされている。ここでは、一時期、キリシタン版の印刷が行われた。この教会は禁教令の後に廃却され、現在、その跡地に華嶽山春徳寺が建てられている。

元亀1年(1570)、大村純忠は、イエスズ会の宣教師コスメ・デ・トーレスの要請を受けて長崎を開港し、ポルトガルとの貿易港とした。それは、ポルトガルとの貿易を有利に進め、それによってもたらされる莫大な利益により大村家を統一し、より有力な戦国大名となるためであった。大村純忠はキリシタン大名の一人だった。

その翌年、大村純忠は、長々と海に突出した岬上の突端近くに新しく町を開いた。大村家の家臣朝永対馬を町割奉行に任じ、まず、大村町・島原町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知町の区画を定めた。各町には領内各地で迫害を受けていたキリシタン住民を中心に移住させた。

ポルトガル船が毎年のように入港するようになると、長崎は貿易港として急速に発展し、岬上の町も次第に拡大していった。この長崎の繁栄に対して、長崎と領土を接する近隣領主や豪族たちは反感を強め、とくに佐賀の龍造寺氏は近隣領主と連合して長崎を攻撃するようになった。

天正8年(1580)、大村純忠は、長崎と茂木の土地をイエスズ会に寄進し、土地の防御をイエスズ会に託した。その代りに、長崎に入港する貿易船から貿易税を徴収する権利を留保した。

このような状況下で、ポルトガル宣教師の強い勧告のもと、イエスズ会と地元キリシタン住民の手によって、岬上の町を外敵から護るため、城塞都市化が進められた。

当時、長崎に滞在していたポルトガル人巡察師アレシャンドロ・ワリニャーノによると、「周囲はほとんど全て海に囲われているほど海に突出した高い岬があるので、陸地に続く方面が防御柵と堀によって強化され、要塞のようになっている。」と記録している。

天正16年(1588)、岬上の町が豊臣秀吉によって直轄地として召し上げられた。その頃には、当初の6ヵ町が10ヵ町となっていた。その後、されに市街地化が進められ、文禄1年(1592)に豊臣秀吉は、当初の6ヵ町に隣接する本博多町に奉行所を置いた。後に内町と称される23ヵ町が奉行所支配となった。

慶長2年(1597)頃から、中島川本流を残して入り江の埋め立てが始められた。この入り江の埋め立ては、時期的に見て、岬を横断する3本の大堀築造と関係して進められたと見られる。岬の波打ち際に沿って水路を設け、三ノ堀に接する所から先は石垣を築き、石垣に沿って幅広い濠を設けたと見られる。

この頃、活版印刷に関する技術が相次いでわが国にもたらされている。少し脇道にそれるが、簡単に紹介する。

【ヨーロッパと李朝朝鮮の活版印刷技術】
天正18年(1590)、遣欧少年使節団が長崎に帰国した。長崎を発ってから11年目となる。そのとき、グーテンベルク式活版印刷機、活字、その他印刷器材・資材一式がもたらされた。帰国した使節団の中に現地で活版印刷技術を学んだ者も居て、日本でキリシタンの教義書などを印刷した。印刷された資料はコレジオ(神学院)などでの教材とされ、キリシタン版と呼ばれる。

長崎に到着した印刷設備は、陸揚げされることなく、当時、コレジオのあった島原半島南端の加津佐に運ばれ、天正19年(1591)、わが国最初の活版印刷が行われた。これは「加津佐版」と呼ばれる。同年、豊臣秀吉の伴天連(バテレン)追放令による弾圧を避けて天草に移転した。文禄1年(1592)から慶長2年(1597)頃まで「天草版」と呼ばれるキリシタン本が多数印刷された。

慶長2年(1597)中に、天草から長崎のトードス・オス・サントス教会に移されたが、翌年、イエスズ会本部のある岬の教会に移された。長崎で印刷されたキリシタン本は「長崎版」と呼ばれる。慶長19年(1614)、イエスズ会会員と日本人信者はマカオに追放され、そのとき、印刷設備一式も一緒に運び出された。

キリシタン版は、主として欧文活字を用いたラテン語とローマ字で印刷されたが、片仮名金属活字や木版で印刷されたものも多い。内容は宗教書、語学書、文学書があり、日本人ばかりでなく、渡来宣教師の日本語学習に用いられた。

この間、わずか24年間であったが、キリシタン版の印刷は、その目的が限定され、しかも、弾圧下で行われたため、活版印刷技術は普及することなく途絶えてしまった。

たまたま、同じ時期である文禄2年(1593)に、豊臣秀吉は朝鮮出兵で手に入れた朝鮮銅活字と道具一式を後陽成天皇に献上したと伝えられている。後陽成天皇はそれを用いて文禄勅版を印刷した。また、慶長2年(1597)、それにならって大型木活字を作り、慶長勅版を印刷した。

天下を統一した徳川家康は。慶長10年(1605)、禁中より借用した朝鮮銅活字を手本として、伏見において活字の鋳造を開始し、ほぼ1年かけて銅活字9万本余りを作成し、後陽成天皇に献上したという。

慶長20年(1615)になって、徳川家康は『大蔵一覧』を開版するため、先に後陽成天皇に献上した活字に加えて、1万3千字余りの活字を新たに鋳造した。徳川家康はすでに駿府に隠居しており、駿府において開版作業が行われた。これらの活字は、後に駿河版活字(国指定重要文化財、凸版印刷株式会社蔵)と呼ばれる活字の母体となったと推測されている。

【岬周辺の市街地化】
天和年間(1615~1623)頃までに、岬の周辺はぼぼ市街地化が完成して、54ヵ町となった。埋め立てによって完成した市街地は、当初、大村領に属していたが、幕府はこれを上地して、外町と称した。隣接する郷3ヵ村と天領長崎7ヵ村と呼ばれる村々を含め、勘定奉行直属の長崎代官が支配した。

岬の側面に沿って築造された濠は、慶長10年(1605)になって、濠に沿った岬の中段に引地町が造成されたとき、濠の幅は縮小され、残りは水路として利用されたと見られる。

三ノ堀よりも上流にあった既存の水路は、古地図で今博多町通りまで辿ることができるが、その水源は定かでない。上流から流れ下った水は、三ノ堀のところで岩原川の分水と合流し、出島横の海に注いでいた。

安政2年(1855)に来日したリンデンの『日本の想い出』の中に、出島の商館から眺めたこの水路の河口部分を描いた風景画がある。

     図4 出島商館から眺めた地獄川河口と北東の山々

この水路は、排水用だけでなく、内陸部への水運にも利用されていたと見られ、いつの頃からか地獄川と呼ばれるようになった。

【地獄川の名前の由来】
地獄川という名前が、いつの頃に、どのようにして名付けられたかは明確でない。しかし、中流にある桜町牢屋と引地町町司長屋の存在が関係していると見られる。

桜町牢屋で判決を受けた死刑囚が、西坂(現、JR長崎駅近くの丘)の刑場に送られる際に、小舟でこの水路を下った。そのとき、引地町の町司長屋に住む当番の町司が囚人に付き添って護送した。付近の住民はこれを見て、地獄に通じる川として、いつの頃からか、「地獄川」と呼ぶようになったと見られる。

町司長屋のあった付近から地獄川の流れに沿って下り、二本目の道路と交差する所から上る坂道は、巌流坂と呼ばれている。坂の途中の旧引地町通りを過ぎた次の通りが旧新町通りで、巌流坂の右手には長州藩蔵屋敷、左手には小倉藩蔵屋敷があった。ここに二つの蔵屋敷があったということは、物資の輸送に地獄川の水運を利用できたからと見ることができる。

なお、長州藩蔵屋敷は、平野富二が一時期養子となっていた吉村家が家守として居住していた所である。明治になって本木昌造が新街私塾と新町活版所を設けている。小倉藩蔵屋敷跡には、平野富二が本木昌造から経営を委託された新町活字製造所があった。

地獄川は、現在では「えご」と呼ばれる小さな水路となっているが、むかしは並行する道路の幅はもっと狭く、水路の幅は大きかったと見られる。

寛文2年(1662)に発生した長崎大火の結果、市内の道路が拡張された。さらに、いつの頃か岬を横断する三ノ堀が埋め立てられ、その結果、岩原川の分水がなくなったことにより地獄川の水量が減少した。明治になって、地獄川は「えご」として整備された。

このようなこともあって、地獄川の川幅は次第に縮小され、代わって道路が拡張されたと見られる。さらに現在では、暗渠化されつつある。近い将来、地獄川の痕跡は全く消え失せてしまうのではないだろうか?

以上

町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡

【町司長屋の横にあった窪地】
幕末の「長崎明細図」[1] によると、引地町町司長屋の敷地に隣接して、何やらいわく因縁のありそうな土地が、周囲から孤立して描かれている。

この土地が接している引地町通りの延長部分は、「引地町町使長屋絵図」[2] によると、道幅が狭くなっており、片側は桜町牢屋の石垣で高くなっている。反対側は、道路面から下に石垣が積まれており、この土地が窪地であることが分かる。

さらに、「長崎惣町絵図」[3] によると、この窪地は台形状をなしており、引地町通りの延長部分に面する間口が5間5尺(約11.4m)、下の川沿いの間口が7間2尺(約16.4m)、石段のある坂道に接する長さと引地町に接する長さが、共に16間1尺(約31.8m)で、その面積は約440㎡となる。

先の「長崎明細図」では、町筋を表示した道路に太い線で町の境界を示してあり、その範囲の道路に面した土地が、その町に属すことになる。この台形状の窪地は、引地町筋の外側にあるので引地町には属さないことは分かるが、それではどの町に属していたのかというと、はっきりしない。

現在、その窪地には私立財団法人長崎地区労働福祉会館のビルが建てられている。そのため、ここが窪地であったことはほとんど気付かれない。しかし、隣接する長崎県勤労福祉会館の敷地との境界をよく見ると、大きな段差があったことが分かる。

窪地の先にある石段の坂道(「引地町町使長屋絵図」にある両紺屋町筋の延長)は、現在、大きく変貌を遂げている。道路は拡幅され、その中央を公会堂前から長崎駅に通じる路面電車が通っている。国道34号線が上部を交差するため、台地を横断する切通し道となっており、その両側は、上の国道に通じる坂道となっている。

その坂道に面して労働福祉会館が建っている。坂道に沿った建物の前面にある一段高い狭い土地に自然石の句碑がある。そのコンクリート製の土台の側面に「建碑由来」の碑文が嵌め込まれている。句碑には、歌人吉井勇の句「黒龍に いふ名を石に 刻ませて 父をこそおもへ 母をこそおもへ」が刻まれている。建碑由来によると、この地は、特殊薬効クリーム「黒龍」発祥の地とされ、昭和5年(1930)から同9年(1934)まで存在し、その後、東京に移転した。〈2018.2.20 訂正・追加)

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【この窪地は「三ノ堀」の末端部だった】
この窪地について、さらに調べてみた。

長崎に残された最も古い地図とされる「寛永長崎港図」[4] によると、白く塗られた内町の台地を横断して青色で3本の堀が描かれている。同図で、一番上に描かれた堀は、赤く塗られた外町との境界をなしていることが分かる。この堀は、台地の先端から数えて3本目に当たることから、「三ノ堀」と呼ばれている。

寛永長崎港図(長崎歴史文化博物館所蔵)部分

この「三ノ堀」の両端は、共に川に接続している。2本の川は内町台地の両側面を囲うように流れている。同図で、左側の川は岩堀川、右側は地獄川と呼ばれている。

「寛永長崎港図」で、「三ノ堀」が地獄川に接続する付近の内側に、地獄川と平行して「引地町通り」と表示されている。そのことから、引地町に隣接する窪地は、「三ノ堀」の末端部であったことが明らかとなった。

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【「三ノ堀」の建設時期とその目的】
内町にあった3本の堀について、『新長崎市史』(第二巻 近世編、平成24年3月)によると、次のように記されている。

「本博多町、現在の万才町にある奉行屋鋪(白塀で囲まれているが、建物はない)の南側に大堀(一ノ堀)が、さらに、豊後町と桜町の間に大堀(二ノ堀)が、桜町と勝山町の間に大堀(三ノ堀)がある。一ノ堀は、文禄元年(1596)、奉行屋鋪北側の小堀(「寛永長崎港図」にはない)と共に開削されたが、慶長元年(1596)、二ノ堀と三ノ堀が開削されたので、小堀は埋められ、慶長元年(1596)以降、町が造成され、堀町と命名された。また、慶長10年(1605)、三ノ堀の一部は埋められ、引地町が造成された。」

引用元の本文にある丸番号は、ここでは省略したため、文章を多少変更した。

戦国時代、ポルトガル船の来航により開港した長崎は、中島川が堂門川(西山川)と合流する付近まで入り江となっており、海に向かって長く突き出た岬の台地上に新しく六ヵ町が造成され、それを基点に発展して都市が形成されたと云われている。

岬の形状は、飛翔する鶴の首に似ているとされている。「長崎明細図」には、岬の外周に築かれた石垣が描かれている。その石垣をたどると、鶴の首の姿が現れてくる。長いくちばしの先端は尖ってはいないが、頭に相当する部分は西側に丸く突出し、首の部分で再び細くなっている。

岬上の町は、天正8年(1580)、領主大村純義によってイエスズ会に寄進された。その後、町が拡張されると共に、くちばしの外縁部に当たる低地にも町が造成された。天正15年(1587)、九州征伐を達成した豊臣秀吉は、長崎を没収して直轄領とした。その範囲は「寛永長崎港図」に白塗りで示された内町に相当する。

文禄元年(1592)、長崎支配のために岬上に奉行屋鋪(奉行所)が置かれ、同時に、外敵の防御と秀吉の威信を示すために設けられたのが、三段構えの大堀であった。

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【3本の大堀の位置関係】
長崎の地形を鶴の首になぞられて3本の大堀の位置を確認すると、まず、くちばしの付け根に相当する位置に岬を横断して「一ノ堀(大堀)」、くちばしの付け根から鼻の辺りにかけて奉行屋鋪、その外側に接して「一ノ堀(小堀)」が設けられた。その4年後に、頭と首の接続部に「二ノ堀」、尾根上の街道が尾根から分かれる辺りに「三ノ堀」が設けられたことが分かる。

「寛永長崎港図」が描かれた頃は、すでに中島川本流を残して入り江は埋め立てられ、市街地化されていた。内町と外町とは、内町の一部を除いて、「三ノ堀」と2本の川によって隔離され、橋によって連絡されていた。

「三ノ堀」は、岩原川から水を導入して貯水し、堰を設けて地獄川に排水したと見られる。

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【引地町の造成と「三ノ堀」の埋め立て】
徳川家康によって天下が平定されたため、大堀は順次埋め立てられて市街化された。

引地町の造成については、前回のブログでも触れたが、『新長崎市史』に「慶長10年(1605)、三ノ堀の一部は埋められ、引地町が造成された。」と記されている。しかし、それより約30年後に描かれたと見られる「寛永長崎港図」には、「三ノ堀」が埋め立てられた様子は見られない。

引地町の造成に当たって、「三ノ堀」に面する擁壁を嵩上げする工事が行われたことは考えられるが、これは埋め立てには当たらない。引地町通りの延長が「三ノ堀」を横断して描かれているので、この部分だけ埋め立てられたとも見られるが、通常ならば橋を架けるところで、このためだけに堀の一部を埋め立てたとは考えられない。

『長崎市史』(地誌編名勝旧跡部、昭和⒓年3月)には、引地町について、次のように記されている。

「この地はもと、桜町より東南に向かって傾斜した荒蕪地であった。戦国の世、桜町に濠を設けて貯水し、敵軍に備えたが、後、人口増殖、市街拡張のため、桜町の東南部傾斜の一帯を切開き、濠を埋めて一区の住宅地を建てたので引地町の称を得た。」

桜町の傾斜した荒蕪地に隣接して存在していたとする「濠」は、「三ノ堀」のことではなく、引地町に沿って流れる地獄川の位置に「濠」が存在していたことを示すものと解釈できる。その「濠」の一部が水路として残されて地獄川となったと見られる。

地獄川については、次回のブログで紹介する。

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【窪地として残された理由】
「三ノ堀」の引地町に隣接するところだけが、何故、窪地として残されたのだろうか?

「長崎惣町絵図」は、明和年間(1765 年前後)に造られたとされており、これには「三ノ堀」はすべて埋め立てられて、町地化されている。しかし、引地町に隣接する「三ノ堀」跡は、この時でも完全には埋め立てられず、窪地として残されていたことは、宝暦年間(1760年前後)より後に描かれた「桜町牢屋絵図」[5] にある石垣によって明らかである。

窪地として残された理由として、まず考えられることは、桜町牢屋と引地町町使長屋の存在がある。警備上の隔離策として道を狭め、深い窪地を残したと見られる。

しかし、もっと単純な理由かもしれない。窪地の一方が坂道に面しているので、わざわざ引地町と同じ高さまで埋め立てる必要はなく、下の土地の高さまで埋め立てれば、住宅地としてはあまり好適ではないが、それで十分と見なしたのではないか。

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【備考】
[1] 「長崎明細図」は、「平野富二生誕の地」確定根拠の添付資料3として示した。
[2] 「引地町町使長屋絵図」は、前々回ブログ(2017年1月)の図2として示した。
[3] 「長崎惣町絵図」は、「趣意書」の「平野富二生誕の地」確定根拠の添付資料2として示した。
[4] 「寛永長崎港図」は、長崎歴史文化博物館に所蔵されている。元長崎町年寄高島家に伝来した原図の模写とされている。図に描かれた奉行屋鋪は、寛永10年(1633)に焼失して外浦町に移転したとされているが、元の位置のままである。一方、寛永13年(1636)に完成した出島が描かれているなど、描かれた時期に幅がある。
[5] 「桜町牢屋絵図」は、前回ブログ(2017年2月)で示した。

町司長屋の前にあった桜町牢屋

【はじめに】
平野富二の生まれた引地町の周辺には、長崎の長い歴史に関連する史跡が存在する。それは、桜町牢屋・三ノ堀・地獄川である。これらの史跡には、その痕跡を示すものは僅かであり、説明板や表示もない。平野富二の生誕地をおとずれたついでに、平野富二を生み、はぐくんだ長崎の土地とその歴史をしることも意義あることと思う。

今回は、シリーズの最初として「桜町牢屋」について紹介する。

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【平野富二との関わり】
引地町にある町司長屋の前面道路の反対側に、かつては高さ2間(約3.9m)の石垣が積まれ、その上に桜町牢屋があった。

平野富二の父矢次豊三郎は、天保14年(1843)から弘化1年(1844)にかけて、加役として牢屋・溜牢取締掛を勤めていた。[1] 住んでいた町司長屋のすぐ前に牢屋の裏門があったので、牢屋への通勤にはものの1分とは掛からなかった。

母方の祖父神邉隆庵は、町年寄支配御役医師として桜町に居住し、世襲の牢屋医師を勤めていた。このことから、豊三郎は、同じ職場で隆庵と親しくなり、隆庵の娘み祢(みね)と結婚することになったと見られる。

豊三郎とみ祢は、ともに文政6年(1823)の生まれで、このとき数え年21歳だった。天保14年(1843)10月19日には長男和一郎が生まれている。

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【「桜町牢屋」の歴史】
桜町牢屋のあったこの地には、もともとキリシタン墓地があった。慶長5年(1600)、その墓地を炉粕町に移して、南馬町(現、馬町)の坂際にあった牢屋をその跡地に移転させたと記録されている。[2]

初期の牢屋はたいして大きなものではなかったとみられる。現在、絵図で知られている牢屋の敷地は、桜町の一区画の多くを占め、残るは桜町通りに沿った細長い町地のみである。後に述べるサン・フランシスコ教会(修道院)がこの細長い敷地に建築されたとは考え難い。

慶長10年(1605)、桜町の東南に隣接する荒れ果てた傾斜地を削って平地化し、引地町が造成された。削り取られて崖となったところに石垣を築いて引地町との境界とし、石垣に沿った道路を引地町通りとした。この造成工事によって、桜町牢屋はその敷地や規模が変更された可能性がある。

桜町と勝山町の間に、慶長1年(1596)に開削された三ノ堀(次回で紹介する)があったが、このとき、その一部が埋められたとされている。[3] 寛永年間の中頃(1623年前後)に描かれたとされる「寛永長崎港図」によると、引地町はすでに描かれているが、三ノ堀はそのまま残っている。主要道路の通る所だけを埋め立てたと見られる。

慶長16年(1611)、桜町牢屋に隣接した土地にフランシスコ会の修道士たちによってサン・フランシスコ教会(修道院)の建設が始められた。しかし、慶長19年(1614)の禁教令により破壊された。宣教師をはじめとして多くの潜伏キリシタンが捕縛され、牢屋に収容されたと云う。[4]

現在、長崎市役所別館前の歩道脇に長崎さるく説明板「サン・フランシスコ教会(修道院)跡」が立てられている。

寛文2年(1662)3月、筑後町から出火した大火は、当時の長崎66ヵ町のうち63ヵ町を焼失するという大惨事となった。このとき、桜町牢屋も類焼したが、すぐに再建されたと云う。

この桜町牢屋の再建に合わせたかのように、寛文3年(1663)、引地町に初めて町使長屋が建てられた。(当時は、「町司」を「町使」と表記していた。)

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【桜町牢屋の規模と構造】
桜町牢屋に関して、長崎歴史文化博物館に所蔵されている「長崎諸地図」に、その敷地と建物の寸法・配置をあらわした絵図がある。

その絵図によると、敷地の惣坪数は744坪(約2,880㎡)余りで、外塀の長さは、絵図の左手表門側19間2尺(約38.0m)、右手の勝山町側17間半(約34.4m)、下方の引地町側45間(約88.5m)、上方の桜町側46間5寸(約91.6m)、折廻し50間5尺(約99.3m)と記されている。

敷地は大きく二つの区域に分けられている。表門を入った区域は厚い練塀で囲われ、拷問所と3棟からなる獄舎がある。この区域の奥は、中門のある練塀を隔てて別の区域となっている。そこには、牢守居宅と牢番長屋があり、さらに、揚り屋が2ヶ所に分かれて建てられている。

絵図の上方に描かれた長い練塀の外は桜町通りに面した細長い町地となっている。また、絵図の下方は長い石垣に沿って引地町通りとなっている。

敷地の右端は、上方が桜町通りに面するまで突出している。これは、三ノ堀を埋め立てて新たに造成した土地と見られる。そこには5室の牢番長屋と番所付き揚り屋1室からなる連棟長屋が建てられている。

絵図に示された桜町牢屋の敷地が確定したのは、建設中の教会が破壊撤去され、引地町が造成され、三ノ堀が埋め立てられた後と見ることができる。

この「長崎諸地図」よりも後に作成されたと見られる「長崎諸役場絵図」が国立公文書館に所蔵されており、その中に「桜町牢屋絵図」がある。

この絵図に記されている惣坪数744坪と敷地の外形は、先に述べた「長崎諸地図」と一致している。しかし、建物の配置を見ると、揚り屋は1棟のみで、その規模が縮小されている。それに応じて牢守居宅や牢番長屋も規模や配置が変更されている。

宝暦年間(1757~1763)に、土地が狭いために揚り屋を2棟とも取り崩し、新たに4間 × 2間(約7.9m × 3.9m)の1棟を中門の北隅に新築したとされている。[6] したがって、この絵図は宝暦年間以降に描かれたことが分かる。

なお、この絵図に表示されている方位は、南北が誤って逆に記されている。

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【矢次豊三郎の勤務】
平野富二の父矢次豊三郎は、前に述べたように、一時期、牢屋・溜牢取締掛を勤めていた。

牢屋は、当初、未決および既決の犯罪人を収容していたが、寛延(1748~1750)の頃に、主として既決囚のみを収容した。[6] 牢守と牢番が居住して看守に当たっていたが、町司はここに日勤で詰めて取り締まりを行い、また、囚人を移送するときの監護もその役目であった。

溜牢は、寛延1年(1748)に桜町牢屋が狭くなったため、浦上村馬込郷(当時)に屋舎を新設し、町人を対象とした未決囚を収容した。[6] 矢次豊三郎が勤務していた頃は、刑を終えた無宿で無職の者たちを収容し、寄せ場の細工所に通わせて職業訓練を行っていた。「長崎諸役所絵図」の中に「溜牢絵図」が含まれており、その規模と構造が分かる。

矢次豊三郎の在勤中に、桜町牢屋で無宿人宗助が首つり自殺をはかった事件があり、また、溜牢では大阪無宿人の入れ墨治兵衛が雪隠(トイレ)の内壁を破って逃亡する事件があった。[7] 矢次豊三郎はその責任を問われて処分をうけたが、任期を終えたときには、「万端、行き届き勤務した。」として御目付からお言葉とご褒美を貰ったと「矢次事歴」に記録されている。

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【本木昌造の揚り屋入り】
桜町牢屋の揚り屋は、士分以上の罪人を拘禁する所であった。安政4年(1857)5月に起こった蘭書器物売り捌き事件で多くの逮捕者があったが、本木昌造は士分扱いとして、同年閏5月18日から翌年2月30日まで、この揚り屋に入牢していた。
 「揚り屋」と「揚げ屋」は似た表記ではあるが、「揚げ屋」の方は、遊女を置き屋から呼んで遊興するところであるので、天国と地獄の違いがある。

当時、有力大名が自藩の海防強化のためにオランダ語の洋式造船・大砲鋳造・砲台築造などの科学技術書やそれを読むための語学書を盛んに買い集めていた。結果として、輸入量が限られていたことから品薄となり、市中で高価に取り引きされていた。

オランダの協力により長崎海軍伝習所が開設されるに当たって、通訳官として従事するオランダ通詞たちの勉学に支障をきたすようになっていた。そのため、オランダ書籍を復刻する目的で長崎奉行所西役所内に長崎活字判摺立所が設立された。本木昌造は活字判摺立方取扱掛に任命されて、ここに勤務していた。

本木昌造は、病気を理由に揚り屋入りを許された後も、「預かり」として自宅謹慎が同年11月28日まで続いた。

本木昌造が拘束されていた安政4年(1857)5月から翌年11月までの期間は、オランダからカッテンディケの率いる第二次オランダ教師団が来日して、海軍伝習とともに、ポンぺによる西洋医術の伝習、インデルマウルによる活版伝習、ならびに、ハルデスによる製鉄所の建設具体化がなされた時期であった。

外出は禁じられていたが外部との接触は可能だった本木昌造は、専ら自宅において鋳造活字の各種製造法について研究に明け暮れた。
私見ではあるが、長崎歴史文化博物館に保存されている「本木昌造活字版の記事」稿本は、この時に実験した蝋型電胎法の成果を記録したものと見られる。

自由の身となってから、その成果が『和英商賈対話集 初編』と『蕃語小引 数量篇』上巻の刊行として示された。しかし、本木昌造は「未だ精に至らず」としている。

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【備考】
[1] 加役とは、本来の職務とは別に年ごとに持ち回りで分担する業務のことである。
[2] 『長崎実録大成』(丹羽漢吉・森永種夫校訂、正編、長崎文献社、昭和48年12月)、『長崎治役人総覧』(籏先好紀著、長崎文献社、2012年10月)
[3] 『新長崎市史』(第二巻近世編、長崎市、平成24年3月)
[4] 『長崎県の歴史散歩』(山川出版社、2005年6月)、『ナガサキ インサイトガイド』(Vol. 1、社団法人ナガサキベイデザインセンター、2010年10月)
[5] 「建碑趣意書」参照。
[6] 『長崎市史』(地誌篇名勝旧跡部、長崎市役所、成文堂出版、昭和42年再刊)
[7] 『犯科帳』(森永種夫校訂、第九巻、犯科帳刊行会、昭和36年)

探索:平野富二の生まれた場所

【長崎生まれとしかわからなかった】
平野富二が長崎の町司矢次豊三郎の次男として長崎に生まれ、幼名を矢次富次郎と称したことについては、福地桜痴の記述したとされる「平野富二君の行状」に示されている。それをもとに調査し、結果をまとめた三谷幸吉編著『本木昌造・平野富二詳伝』でも、長崎の何処で生まれたかについては明らかにしていない。

ご子孫の平野家にある過去帳や平野富二の京橋区除籍謄本には、いずれも長崎の外浦町(ほかうら-まち)と記されている。しかし、これは平野富二が東京に籍を移す前の本籍地であって、必ずしも出生地を示すものではない。

各種文献を調査した結果、長崎には引地町(ひきぢ-まち)と大井出町に町司長屋が在ったことが分かり、矢次家はそのいずれかに住んでいたのではないかと思われた。

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【矢次家の居所を示す番地が判明】
平野富二の伝記を執筆中だった2007(平成19)年に、平野富二の生家である矢次(やつぐ)家のご子孫から「矢次事歴」を拝見させて頂く機会を得た。

その「矢次事歴」は、1723(正徳3)年から1880(明治13)年まで、矢次家初代から九代までの事歴を記録したものである。しかし、九代目を継いだ平野富二の兄矢次温威(幼名は和一郎)の事歴は未完成のままとなっていた。

兄温威の事歴の中に、引地町と外浦町に関する記述があり、それを要約すると次のようになる。

◆1872(明治5)年に矢次温威の弟平野富二は妻こまと共に外浦町に分家した。その番地は、1874(明治7)年の時点で、第一大区七ノ小区外浦町九十六番地であった。

◆1874(明治7)年4月時点での矢次温威宅の番地は、第一大区四ノ小区引地町五十番地であったが、1878(明治11)年9月時点では、第一大区二ノ小区引地町二百十五番地に変更されている。

◆1874(明治7)年頃に、矢次温威は家計を賄うために引地町の自宅を貸家とし、外浦町にある平野富二の留守宅に移り住んだ。

◆1876(明治9)年10月になって、矢次家は東京の平野富二宅に移転し、やがて、先祖代々受け継いできた長崎の土地と建物を売却している。

ここに記した大区小区制の番地は、1872(明治5)年に実施された近代戸籍の編成に当たって制定されたものである。当初、細分化し過ぎたことから、1873(明治6)年に改正された。

「矢次事歴」によると、長崎では1874(明治7)年4月になっても、当初定められた番地が使われていたらしい。引地町の番地が二つあるのは、この改正によるものと見られる。

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【明治初期の番地では調査できない】
平野冨二の生家である矢次家の明治初期の番地が判明したことから、その場所を特定するため、長崎の歴史研究に携わっておられる長崎在住の宮田和夫さんに調査をお願いしたことがある。

そのときは、1872(明治5)年に編成された近代戸籍(壬申戸籍と呼ばれる)は、人権に関わる内容を含むため非公開となっていて調査できないとのことであった。

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【長崎での「活版さるく」を機会に再調査】
2016(平成28)年は平野富二生誕170年目に当たり、朗文堂/アダナ・プレス倶楽部主催で「崎陽探訪・活版さるく」が計画された。

これを機会に平野富二の生誕の地を特定したいとの思いから、いろいろ調べているときに、「肥前長崎図」(享和2年、文錦堂刊、嘉永3年再板)にある引地町と表示された道筋の末端に、何やら長崎奉行所の関連施設らしい表示があったことを思い出した。

その部分を拡大して子細に観ると、図1に示すようにちいさく「丁じ 長や」と二行で表示されていることが分かった。「町司長屋」のことを知らなかったら、判読できなかったかも知れない。

これは、矢次家が代々居住していた引地町の町司長屋を示すもので、その長屋の一画が平野富二の誕生の地であることは間違いないと思われた。

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○図1「肥前長崎図」(原田博二著『図説 長崎歴史散歩』から)の部分拡大図

【「矢次家」居所を示す絵図の発見】
このことを朗文堂の片塩二朗さん経由で、長崎の宮田和夫さんと長崎印刷工業組合の岩永正人さんに連絡したところ、長崎歴史文化博物館に長崎市立博物館旧蔵資料として「長崎諸役場絵図」があり、その中に「引地町町使長屋」の絵図が含まれていること、さらに、その長屋の一戸に「矢次」の名前が記されていることを教えて頂いた。

町使(後に町司と表記された)という長崎奉行所の一地役人の住居が名前入りで絵図に描かれ、現代まで残されるとは思いもよらないことだった。

同様の絵図が東京の国立公文書館にも所蔵されているとのことで、朗文堂が入手した絵図を図2に示す。

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○図2「引地町町使長屋絵図」(国立公文書館所蔵)の部分図

【「引地町町使長屋」跡地の現状】
現在の長崎市には引地町の町名はすでになく、隣接する桜町と興善町に吸収合併されてしまった。矢次家のあった町使長屋の場所は、現在、桜町に属しており、そこには長崎県勤労福祉会館とVIVACITY 桜町 Exia と称するマンションが建っている。

その前の通りが旧引地町筋で、明治の頃は幅が2間4尺(約2.14m)であったとされている。しかし、現在は勤労福祉会館の建物が大きく後退して建てられているので、道幅はかなり広くなっている。また、明治維新前は道の反対側に小高い石垣が築かれ、その上に桜町牢屋があった、それを道路と同じレベルに平準化して長崎市役所分館が建てられている。

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○図3 現在の街の様子を示す写真

図3に示す写真は、2016(平成28)年5月現在の街の様子を示す。道路の右側中央の白い建物が長崎県勤労福祉会館で、その前に駐車している小型乗用車の辺りに矢次家の入口があったと見られる。

なお、長崎県勤労福祉会館と同じ並びの奥に見える三階建てのビル(一般財団法人長崎地区労働福祉会館)は、図2に示す町使長屋の右手に表示されている窪地に建てられていることが分かる。

このように、現在ではこの地区には昔を偲ぶよすがは全く残されていない。

投稿:2017年01月03日