長崎の町司について

平野富二の生まれた長崎引地町の町司長屋のことや、始祖矢次関右衛門から代々長崎の町司役を受け継いだことは既に述べたが、長崎の町司とはどのような役職だったかについては、明らかにしてこなかった。

引地町の町司長屋は、7軒長屋と6軒長屋が各1棟ずつ道路に沿って建てられており、道路の反対側は石垣の上に牢屋があった。そのような環境の中で、町司たちとその家族に囲まれて育った平野富二は、町司という家職がその人格形成に少なからぬ影響を与えられたと見られる。

今回は、長崎の町司とはどのような役職であったかについて、各種資料から纏めてみた。

<町司の名称>
町司の名称は、最初は「目付役」と称し、やがて「町司(ちょうじ)」と改称、後に「町使」と表記されたが、再び「町司」と表記されるようになったと言われている。その表記変更の時期は必ずしも明らかでない。本稿では、他からの引用文など、特別な場合を除き、「町司」で統一する。

<町司の職務>
その役職は、一言でいえば、長崎の治安を担当する役職である。しかし、同じ治安担当といっても、長崎では幾つかの役職に区分されており、その中の一つである。

時代によって相違はあるが、元禄15年(1702)の頃は、奉行直属の給人・下役(もとは与力・同心と称した)の外に、地元採用の地役人からなる町司・散使・唐人番・船番・遠見番があり、これらを5組と称した。この内、船番は長崎港内の水上警察、遠見番は長崎港外の見張り役である。

町司について、宝永5年(1708)の記録(越中哲也編『慶応元年 明細分限帳』の解説による)に、次のように担当する業務が列記されている。( )内は補足説明とし、文章の表現は現代風に変更した。

・両屋敷(西役所と立山役所と称した奉行所)当番ならびに御用日には6ヶ所の御番所  に詰める。
・唐船の荷役より出帆までの間、商売方に付いて新地表門、水門、唐人屋敷前水門からの出入者を改め、その外、諸出役を勤める。
・オランダ船入津より出帆までの間、出島へたびたび出勤する。
・指名されて御役儀を仰せ付けられた節は、御屋敷ならびに御篭屋(牢屋)にも出勤する。
・御仕置者、自害人、転死者あるいは召捕られた者があった節は、出勤する。
・オランダ商館長が江戸へ参上する節は、両人(二人)ずつ、付添として同伴する。
・上記の外、町中昼夜見廻り、諏訪祭礼・祇園会の警固として出勤する。

これらの担当業務は、時代の変遷に応じて変化している。初期には、市中に潜むキリシタンの捜査摘発も職務の中にあった。その他、長崎追放となった罪人を日見峠まで見送り、死刑囚を西坂まで連行、流罪人を御用船で流刑地まで護送なども行った。

安政5年(1858)の開国後は、諸外国人がつぎつぎと長崎に来航するようになって、不法入国や密貿易の取り締まりも重要な業務の一つとなった。また、国論沸騰により不逞の浪人たちが長崎に来住して市内の治安が悪化し、幕府の威信が地に落ちて長崎の町が不安な状態になったため、町司の役割も変質化した。

これらの業務のなかで、一定期間専任で担当する業務を「加役」と称し、また、長崎市外に一定期間出向して勤務する業務を「旅役」と称した。これらは、町司の中から持ち回りで指名された。

<町司の設置とその後の経緯>
慶長8年(1603)、長崎奉行は初めて「目付役」5人を召し抱えた。この年は、小笠原一菴が江戸幕府から初代長崎奉行として補任された年である。

『慶応元年 明細分限帳』によると、慶長8年(1603)に召し抱えられた目付役5人の子孫について、次の4人が記載されている。他の1人は、途中で廃絶したらしく、記載されていない。

・慶長八卯年先祖より九代丑年迄二百六十三年相勤彦三郎儀‥‥
御役所附助過人 高橋彦三郎 丑三十七歳
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

・慶長八卯年祖先より十二代丑年迄二百六十三年相勤実之助儀‥‥
御役所附町司  中山実之助 丑五十三歳
高三拾俵三人扶持 外受用銀貮貫四百三拾目

・慶長八卯年祖先より十五代丑年迄二百六十三年相勤五郎左衛門儀‥‥
御役所附助過人 鶴田五郎左衛門
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

・慶長八卯年祖先より十五代丑年迄二百六十三年相勤達十郎儀‥‥
町司 太田達十郎
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

その後の経緯については、『長崎地役人総覧』(以下《総覧》)と『長崎実録大成 正編』(以下《実録》)に纏められている。

当初は目付役5人で発足したが、4代長崎奉行長谷川権六の在任中に目付役4人を加えて9人となる。これ以降は、目付役を町使と名付けたと云う。《総覧》
なお、《実録》では、元和5年(1619)に4人増加としている。長谷川権六は元和2年(1616)に長崎奉行を離任しており、《総覧》とは数年の相違がある。

その後の人員増加と、それに伴う触頭の指名、御役所附の新設などが行われた。以下にその様子を年表形式で示す。

・寛永12年(1635)、4人増加し、総勢13人となる。《実録》
・寛永19年(1642)、この年からオランダ商館長が江戸参府する節、町司2人が道中  警固のため出勤を仰せ付けられた。《実録》
・寛文12年(1672)、24代長崎奉行牛込忠左衛門勝登のとき、2人を加えて15人となる。《総覧》 なお、《実録》では、延宝4年(1676)、2人増加して15人となる。この内、2人が触頭を仰せ付けられる、とある。年代的には4年のずれがあり、新たに触頭が指名されたことが分かる。
・宝永5年(1708)、町の治安強化で諸勤役が繁多となったため、15人を増員して30人となり、触頭を3人とした。《実録》《総覧》
・正徳5年(1715)、新規に御役所内に御番所が建てられ、町司のうち、10人を御役所附とし、平番が20人となったので、10人を追い追い追加した。《実録》《総覧》
この年に新たに御役所附が設けられたことが分かる。
・享保1年(1716)、町司の内から4人を御役所附として増員し、御役所附は14人となった。平番の減員分4人に代えて5人を増員し、平番は35人となった。《実録》《総覧》

これ以降についての記載はないが、『慶応元年 明細分限帳》によると、慶応1年(1865)の町司の人数は、御役所附町司触頭・同助・御役所附町司・同助は合計27人、町司・同見習は合計33人で、合計60人と記録されている。
享保1年当時と比較すると、御役所附は14人が27人に、平番は35人が33人となっており、御役所附が大幅に増員されたのに対して、平番はほぼ横ばいとなっている。

<町司の役屋敷>
寛永3年(1626)頃までは、本博多町に役屋敷があったが、ここに在った奉行屋敷が焼失して、岬の先端近くの外浦町に西役所と東役所が設けられた。町司の役屋敷も、その時焼失したと見られ、同年、町司のために引地町に5軒長屋と6軒長屋が1棟ずつ建てられた。

延宝5年(1677)頃に、南馬町と出来大工町の間にある大井手町に町司長屋が増設された。その結果、引地町長屋11軒と大井手町長屋6軒となった。

宝暦5年(1755)、引地町長屋が類焼したため、新たに7軒長屋と6軒長屋が各1棟が建てられた。

文化年間(1804~1817)には、引地町・大井手町・八百屋町・銅座跡に町司長屋が存在した。これらの町司長屋は、「長崎諸役所絵図」(国立公文書館所蔵)に描かれている。

引地町の町司長屋

大井手町の町司長屋

八百屋町の町司長屋

銅座跡の町司長屋

<町司の役料>

町司の家は、家禄として平番の受用高で代々相続し、勤務年数や勤務成績に応じて御役所附や触頭に抜擢されて手当金が付加された。それらの受用高は、次のとおりである。

・平番町司:     高  2人扶持、受用銀2貫140目
・御役所附町司助過人:高  2人扶持、受用銀2貫140目
・御役所附町司:   高30俵3人扶持、受用銀2貫430目
・町司触頭:     高40俵5人扶持、受用銀2貫650目

相続する家禄とは別に、昇進による増額(上記)、勤務成績や加役などによって町司個人に対して、別途、報奨金や手当が支給された。

矢次家3代関右衛門と5代関次は、御役所附町司に任命されたときに、受用高30俵3人扶持、受用銀2貫430目を受けている。

慶応1年(1865)当時の矢次重之助(平野富二の実兄)の受用高は、2貫140目(銀2,140匁/月=金貨で約40両/月)、2人扶持(一日に米1升)で平番町司だった。

<町司の資格>
長崎町人の中から選ばれた地役人の一役職が町司であるので、たとえ祖先が諸藩の武士であったとしても、町人扱いとなる。

しかし、役職柄、苗字帯刀を許されていた。

矢次家では、役宅である町長屋に居住し、家僕(家付きの下男)が1人居た。

<幕末・維新期の変動>
平野富二の実兄矢次重之助(和一郎、重平、温威)は、幕末に長崎奉行支配の町司となり、明治維新を経て新政府の下で長崎裁判所、長崎府、長崎県の役職を得ている。「矢次事歴」には、矢次重之助を通じてこの時期の町司とその後の変遷の有様が述べられており、貴重な記録となっている。

矢次重之助は、嘉永1年(1848)10月14日、数え年6のとき、父の死去により長男として相続し、町司となった。年少であったためか、安政2年(1855)、数え年13のとき、初めて加役として新地仕役掛を勤めている。

その後、慶応1年(1865)まで、町司としての通常勤務の外に数多くの加役を勤めあげた結果、同年2月9日、数え年23で町司定乗助に昇進し、同年4月4日に町司定乗となって、手当として銀120目(金貨で約2両相当)を支給された。

同年12月12日、「乃武館」詰めを仰せ付けられ、勤め役として2人扶持、泊番手当として銀4匁(目と同じ)を支給された。

乃武館(だいぶかん)は、軍事と警察を兼任した部隊の屯所(詰所)で、片淵町の組屋敷に設けられた。長崎奉行は、黒田藩と鍋島藩の藩兵引揚げに代えて、五組の二男以下・市中浪人や剣客とその門人などを徴募して250名を以って「警衛隊」を組織した。別に「鉄砲隊」と「剣槍隊」を編成して市中警備に当たらせ、さらに、農民・町民が大部分の「大砲隊」と「小銃隊」が編成された。

慶応3年(1867)7月9日、数え年25のとき、四役一同が「御組同心」に召し直されて、切米高30俵2人扶持を下し置かれ、その年の内に、乃武館詰めの者一同は加役として「遊撃隊」に召し直されて、場々の警衛を仰せ付けられ、勤務日数に応じて5人扶持を下し置かれた。さらに、加役として「剣槍隊」の取締助席を仰せ付けられた。

剣槍隊の服装〈『明治六年の「長崎新聞」』から〉

「遊撃隊」は、慶応3年(1867)8月、長崎奉行がこれまでに編成した諸隊を統一して再編成した部隊で、土佐藩の「海援隊」(坂本龍馬の死後、土佐藩参政佐々木三四郎が隊長となる)に対抗するものであった。

慶応4年(1868)1月14日。長崎奉行河津伊豆守が長崎を退去し、入れ替わりに「海援隊」が西役所を占拠した。長崎に駐在していた薩摩藩の松方助左衛門(正義)が単身で片淵町の乃武館を訪問して、一触即発状態にある「遊撃隊」を説得し、恭順させたと云われている。

慶応4年(1868)2月9日から元組屋敷に入営して、日数30日詰め切りを仰せ付けられた。

同年2月14日、九州鎮撫総督澤宜嘉が長崎港に到着し、16日、長崎裁判所参謀兼務となり、長崎奉行に代わって長崎の統治を行った。長崎奉行の下にあった諸隊は「振遠隊」と改称されて、長崎裁判所(後に長崎府、長崎県)の支配下に入った。

同年4月9日、長崎裁判所に於いて「振遠隊」第二等兵を仰せ付けられ、高27俵2人扶持を支給された。2人扶持の内から半人扶持の賄い料を差し引き、それに代わって春秋衣の賄い料10両を支給された。

同年7月19日、長崎裁判所に於いて奥州出張を仰せ付けられ、イギリス船フィロン号に乗組み、同月26日、出羽国秋田郡脇本洲に上陸。8月12日、陣中で教導を仰せ付けられた。12月19日、長崎に帰陣し、長崎裁判所から褒美として軍服1領と金2,000疋(約5両相当)を下し置かれた。

明治4年(1871)7月30日、長崎県知県事から役米に代えて月給10円を支給されることになった。

明治5年(1872)2月22日、「振遠隊」が廃止され、御暇金として金12両を下付された。同日、少邏卒(しょうらそつ)を仰せ付けられ、月給6両となったが、同年中に邏卒を御暇するよう仰せ付けられ、これにより失職して、収入の道は途絶えた。

邏卒の服装〈『明治六年の「長崎新聞」』から〉

明治4年(1871)、長崎県に聴訟課が設けられ、明治5年(1872)2月、聴訟課に所属する組織として「邏卒」制度が生まれた。

邏卒はほとんど全員が振遠隊の中から選ばれ、総員60名。その中に区長(邏卒長)と権区長(副邏卒長)として各3名が任命された。
明治9年(1876)になって「邏卒」は「巡査」となった。

慶長8年(1603)に長崎奉行所の「目付役」として誕生した「町司」は、これまで述べて来た幕末・維新期の変遷を経て、274年後に長崎県の「邏卒」を経て「巡査」となった。この巡査制度は、地方自治体に所属する警察制度として、現在に引き継がれている。