官営時代の長崎製鉄所(その1)

<幕営から官営への移行>
慶応4年(1868)1月14日の夜、密かに長崎を退去した長崎奉行河津伊豆守裕邦は、長崎を対外警備する肥前・筑前両藩に後事を託していた。

しかし、両藩は形勢傍観するのみであったことから、長崎に駐在していた土佐藩の佐々木三四郎(後の佐々木高行)が海援隊を引き連れて西役所に乗り込んで警備に当たり、薩摩藩の長崎駐在松方助左衛門(後の松方正義)は長崎奉行の配下にあった遊撃隊に対して説得に当たって協力させた。同時に、長崎駐在の諸藩有志を糾合して長崎会議所を設けた。

同年2月14日、九州鎮撫総督澤宜嘉が同参謀井上聞多(長州藩、後の井上薫)を伴って長崎に入り、同月16日、長崎裁判所を設立した。井上は、長崎裁判所参謀となって、諸藩有志の中から抜擢して陣容を整えた。

長崎裁判所は、取りあえず、長崎奉行所の行政組織をそのまま引き継いでスタートした。したがって、長崎製鉄所は、その支配下になった。

同年閏4月21日、管制改革で七官制となり、地方を府・藩・県とした。これにより、澤は長崎府知事、井上は長崎府判事兼外国官判事に任命され、同年5月4日、長崎裁判所は長崎府に改められた。同時に大隈八太郎(佐賀藩、後の大隈重信)、野村宗七(薩摩藩、後の野村盛秀)も府判事(共に外国官判事兼務)に任命された。しかし、大隈は、前月18日に長崎を発って大阪に派遣されていた。そのため、5月29日に元長崎裁判所権判事だった楠本平之丞(大村藩、後の楠本正隆)が府判事に任命された。大隈は8月22日になって長崎府判事を免じられた。

このとき府判事となった大隈、野村、楠本の3人は、後年、平野富二が上京して事業を興してから何かと支援してくれた人たちである。

<井上聞多、製鉄所御用掛に就任>
当時、長崎府の財政は逼迫していたため、井上府判事は、その応急策として長崎製鉄所を独立採算できるように改革することを建言して、同年6月19日、外国官判事はそのままで、長崎府製鉄所御用掛となった。

この時の政府から井上に宛てた達書には、「今般、維新により海陸の武備を拡張されるに当たって、長崎製鉄所は最も必要とする設備であることから、速やかに規則を厳重に制定し、従来の悪弊を一掃して、天下の武器を十分保繕できるようにしたいとの思し召しである。よって製鉄所御用掛を仰せ付けられるので、その取り締まりに尽力するようとのご沙汰である。」(意訳)と記されている。

幕末の長崎製鉄所全景写真(「ボードイン・コレクション」から)

製鉄所御用掛となった井上による新しい職制と人事が発令される前の慶応4年7月4日付の井上に宛てた書面で、青木休七郎、以下15名の製鉄所職員一同が、「向後、会計局より御下ケ金一切御廃止くだされ、掛の者一同の食禄も返上し、粉骨砕身、当局と存亡を共に致し、奉功つかまつりたし」(要約)と申し出ている。

この時点では新組織が未決定であるとは言っても、上司となる頭取役を差し置いて、このような申し出をする青木休七郎は、もともと長崎で貿易を営む商人で、一時期、紀州藩御用を勤めたことがあったが、悪評の伴う人物であった。その才覚を買った井上が、自分の代人として抜擢したと言われている。

製鉄所改革の第一歩として、慶応4年7月24日、新たに職制と人事が示された。
その時の『長崎府職員録』によると、製鉄所頭取役2人(本木昌造、吉田鶴次郎)、助役1人(青木休七郎)、元締役5人(牧斐之助、本庄寛次郎、野田耕平、加藤寛次郎、品川藤十郎)、機関方3人(吉田新、矢島良之助、御幡栄三)、勘定役4人(香月新助、飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、機関方見習4人、下役3人、伝習の者15人に対して辞令が交付された。同年8月になって、機関方として3人(平野富次郎、松尾良助、戸瀬昇平)が追加任命された。

 

 

         『長崎府職員録』(慶応4年8月)

同年9月8日には改元して明治となるが、その6日前に井上は佐渡県知事に任命された。しかし、井上は、伊藤博文に長崎留任の斡旋を依頼した結果、10月17日に佐渡県知事を免じられて、長崎府判事に復任し、製鉄所の経営も任されることになった。

<井上聞多、製鉄所掛解任とその間の事業改革>
明治2年(1869)3月、井上は大阪において参与副島種臣に提出した意見書に、「諸器械・船等外国へみだりに注文または買入は厳禁すべし。是非とも横須賀・長崎両所において作るべし。就いては、山尾庸三を横須賀へ全任下されば、長崎と申し合わせ、死力を尽くさんと欲す。」とした。

一旦、長崎に帰った井上は、岩倉卿に呼ばれて再び大阪に上り、瓦解に瀕しつつある政府の現状と国家の危機救済について懇談した。その結果、同年6月21日、井上は会計官判事として通商司知事勤務を仰せ付けられ、大阪在勤となった。

その間の同年4月、長崎製鉄所では、頭取名で出された達書に、「近来、上下隔絶の模様も見聞に及び」、「上下の差別なく直言申し立てらるべく候。」として、組織内での派閥化を匂わせている。

井上が製鉄所御用掛に任命された慶応4年(1868)6月19日から、通商司知事として大阪在勤となった明治2年(1869)6月21日までの1年間に行われた長崎製鉄所の事業拡張の試みは次のようなもので、雑業的多角経営を目指していた。
(1)  イギリス式元込銃の製作、(2) 浜町の鉄橋架設、(3)  伊王島の燈明台建設、            (4)  精米機械の製作と精米事業の運営計画、 (5) 小菅修船場の買収。

<本木昌造の動向>
この間、本木昌造は、慶応4年1月14日の長崎奉行退去に当たって、製鉄所取扱方を命じられて長崎製鉄所の後事を託された。2月には、自宅待機していた平野富次郎を製鉄所機関手として復帰させている。

5月には、井上判府判事の命を受けて、修繕が必要となった政府輸送船「朝暘丸」の損傷報告と修理費受け取りのため京都に派遣された。京都では大阪の高麗橋架け替え工事と浚渫機械製造を請負い、長崎に戻った。

同年7月24日の製鉄所辞令で製鉄所頭取役に就任した。同時に、製鉄所伝習掛として機関方見習の者たちに技術教育を行い、また、長崎府新聞局にも関与して、8月には月刊誌『崎陽雑報』を発行、9月には上海美華書館から印刷設備を購入(?)している。

明治2年6月になって、『崎陽雑報』を第12号で廃刊せざるを得なくなった。その理由は、製鉄所に委託製造していた活字版を、西欧並みに迅速に製造することができず、日夜、苦心していたことによる。

同月、製鉄所役を通じて長崎府に願書を提出して、「上海美華書館の活字師ガンブル(ギャンブル)が避暑のため長崎に来港するので、4ヶ月間の契約で製鉄所に雇入れ、活字版製造技術を残らず伝習したい。」と願い出た。しかし、ギャンブルの都合によってか、同年10月に通知がくるまで延期された。

<平野富次郎の動向>
一方、平野富次郎は、慶応4年5月、政府輸送船「朝暘丸」に乗組んで兵庫に向かったが、下関でプロペラの車軸が折損し、風帆を使用して長崎に戻った。このとき、大阪に向かう大隈八太郎が乗船していて、親しく将来のことを語り合い、支援の約束をしてくれたという。

同年12月18日には、機関方に対して等級と御扶持・業給金が定められ、富次郎は第一等機関方に任命され、1ヵ年に付き10人扶持、業給金18両を支給されることになった

明治2年3月、グラバーから製鉄所付属となった小菅修船場を管理する小菅庶務専任となり、同じく専任となった品川藤十郎と共に、製鉄所本局から独立した形で経営を任された。これは、青木一派が本木一派である品川と平野を本局経営から隔離したとも、本木昌造がふたりを青木一派の経営から遠ざけるために配慮したとも考えられる。

<本木昌造の頭取役辞任>
長崎府は、明治2年(1869)7月17日、長崎県となって、府判事だった野村宗七が知県事に就任した。それにもかかわらず、青木一派による頭取役2人を差し置いた専横が続いた。

その間、本木昌造は、同年8月、奉願口上書を提出して、肝胃の病気を理由に辞職を願い出た。これに対して県当局は、「書面願いの義は詮議に及び難く、とくと養生すること。」として辞職を認めなかった。

同年9月5日になって、本木昌造は、「何分格別の御憐愍を以って‥‥御暇下し置かれ候様」として再度辞職を願い出た。県当局は、「製鉄所頭取は差し免じるが、製鉄所機械伝習方懸頭取を申し付ける。局中の諸事取締向も心得るべき事。」とした。

これに対して本木昌造は、同月21日に、「今般、仰せ渡された職名については御免じ仰せ下さるよう願い奉る。もっとも、機関方、その外、幼年の者の教育については不肖を顧みず尽力する。」として、公式の職務は辞退した。

同僚の吉田鶴次郎も、同年8月、肺病を患っていることを理由に辞職を願い出ている。

2018.1.31 稿了