山尾庸三、平野富二の事業を支援した人(その2)

平野富二が初めて山尾庸三の面識を得たのは、明治4年(1871)1月9日のことで、長崎製鉄所に於いてであった。このとき、平野富二は長崎県の権大属として長崎製鉄所の経営を担う立場にあった。一方、山尾庸三は工部省の工部権大丞として横須賀・長崎・横浜製鉄所の経営を総括する立場にあち、長崎製鉄所を長崎県から工部省に移管するための事前調査を目的として長崎に派遣された。

山尾庸三は、それ以前に大蔵省が行った調査の際に入手した長崎製鉄所の帳簿類の写しを持参していた。それに基づき平野富二から提示された元帳類との照合が行なわれたが、両帳簿間に不一致の個所が散見されたため、山尾庸三は滞在期間を延長して徹底調査が行われた。その結果、長崎製鉄所飽ノ浦本局の経理担当者が二重帳簿を作成して、不正な利益を捻出し、過大な職員俸給を得ていた実態が判明した。

図37-1 山尾庸三の肖像写真
撮影年は不詳だが、工部省在勤時代と見られる。

明治3年(1870)7月に頭取青木休七郎が大坂出張大蔵省に出向を命じられて頭取不在となったとき、平野富二の進言で製鉄所の運営を元締役以上の幹部職員による合議制で行うことになった。それに伴い、小菅分局専任だった品川藤十郎と平野富二は飽ノ浦本局勤務となった。しかし、本局の経理担当は分局の者たちを排除する動きに出た。このことが県当局の知る所となって本局経理担当3名は自宅待機を命じられ、やがて依願退職した。しかし、そのときは経理不正の実態解明までは行われなかった。

山尾庸三は、図らずも長崎製鉄所の経理不正事件の実態解明に関わることになったが、この時の平野富二の誠実な態度と製鉄所に於ける実績にもとずく事業経営能力を認識し、後年、折に触れて平野富二の事業に支援の手を差し伸べた。

長崎製鉄所の工部省移管に関連して、時期は異なるが、次のような民営化の提案があったことが知られている。

1.長崎製鉄所を民営化する井上聞多の提案。
2.未完成の立神ドックの建設とその後の運営を民営化する平野富二の提案。
3.活字製造部門を東京に移転して勧工寮活字局とし、やがて、活字を外販するようになったときの平野富二の民営化提案。

これらの提案は、山尾庸三がその採否を決める立場にあったが、工部省の既定方針を曲げる訳にも行かす、いずれも採用されることはなかった。しかし、仮にa.b. が採用されていたとすれば、平野富二は別の途を歩んでいたかもしれない。また、c. については、その後、勧工寮活字の外販は中止され、さらに、活字製造設備を正院印書局に移管して、活字製造から撤退した。

これらの民営化提案に対する山尾庸三の対応は、必ずしも平野富二の事業支援には結び付くものではなかったが、平野富二のその後の事業に影響を及ぼす事柄であった。本件について、本稿の1.で採り上げ、具体的内容を紹介する。

長崎製鉄所を退職した平野富二は、思いがけず本木昌造の活字製造事業を請け負うことになり、やがて念願の造船事業に進出、さらに、土木事業や鉱山事業などにも手を広げることになった。

その間に山尾庸三から受けた事業支援については、拙著『平野富二伝』で紹介したので、その概要だけを紹介すると、

① 明治9年(1876)5月、平野富二が横浜製鉄所の共同経営者の一員に加わった時、山尾庸三からイギリス人技術者アーチボルド・キングを紹介され、器械師・職工頭として迎え入れた。その後、石川島平野造船所の造機技師長とした。
② 海軍省所管の石川島造船所が、その設備を横須賀造船所と兵器製造所に移され、やがて閉鎖される方向にあるとの情報を、平野富二は山尾庸三から伝え聞いたとされている。
② 明治9年(1876)10月、平野富二が海軍省から石川島修船所の跡地を借用して造船事業を開始するに当たり、山尾庸三から横須賀造船所で職長を勤めた稲木嘉助を紹介され、造船工長として迎え入れた。稲木嘉助は、やがて、平野富二の有力な造船・海運事業のパートナーとなった。

この度、平野富二が土木遺業に進出する契機となったドコビール製品の輸入・販売について、その販売促進のために平野富二が作成したPR用パンフレットを詳細に検討した結果、その導入に当たって、山尾庸三の多大な関与があったことが判った。
本件について、本稿の2.で採り上げ、その詳細を紹介する。

1.長崎製鉄所の民間委託構想

(1)井上聞多の提案
工部省が新設される直前の明治3年(1870)9月、大蔵大丞で造幣頭を兼務していた井上聞多(馨)と他1名は上司の大蔵少輔伊藤博文等に宛てて書簡を送り、長崎製鉄所の経営を民間に委託することを提案した。その書簡を現代文に直して紹介すると、次のようになる。

「長崎製鉄所は竣工以来、慶應4年(1868)7月まで毎年約3万両と職員の食禄(基本給)などで損失を続けてきた。
井上が長崎県知事(正しくは長崎府判事)在任中に製鉄所特任全権(正しくは製鉄所御用掛)を委任され、あらゆる仕法改革を行なった。官府から支給していた食禄を取り上げて費用1銭も出させず、その代わりに製鉄所の利益金より手当などを支給し、盛大な利益を得た際には総利益金の8分の2を褒賞として支給するように通達するなどした。今日までそのようにして運営・管理を行ってきたとのことである。
これには一利一害が有るのは勿論で、全くの良法とは言えないが、慶應4年7月以来、今日に至るまで官費は1銭も出費しなかったが、今般、以前のように(製鉄所の)諸入費と官員の食禄を(官費から支出することを)復旧させたとのこと。これによって年に約2万円位は損失になるかと思われるので、長崎県権大属青木休七郎を長崎に呼び戻して調査する。その次第は追って報告する。
ついては、長崎で相応の資産のある町人に諸器械を貸し渡して経営を引受けさせれば、6千円位は毎年納税され、その上、3年も経てば1万円位も納められると申し出る者も有るとのこと。
この町人に製鉄所の経営を委任することが良いと思われるので、民部省とも相談の上、至急、結論をご連絡ください。」

この書簡は、明治3年9月27日付で大蔵省から横須賀に居た民部権大丞山尾庸三に送付された書簡の「別紙」として添付されていたものである。その控えの1部が参議兼大蔵大輔大隈重信に送られ、現在、「大隈文書 A2989」として保存されている。

井上聞多(馨)は、政府官制の改定で長崎が長崎府となったのに伴い、慶應4年(1868)5月4日に長崎府判事兼外国官判事となり、同年6月19日に長崎府製鉄所御用掛に任命された。それ以来、他務多忙や中断の時期もあったが、明治2年(1869)10月頃まで長崎製鉄所の経営に関わって来た。
製鉄所御用掛となった井上聞多は、長崎の貿易商人青木休七郎を長崎製鉄所の職員に加え、製鉄所の経営を長崎府から独立させ、これまで長崎府の会計から支給していた職員俸給を辞退する申出書を提出させた。慶應4年7月24日に行われた人事異動の際に青木休七郎を頭取助役に据えて、製鉄所の経営に参画させた。青木休七郎は経理担当者と共謀して二重帳簿を作成させ、府職員を上回る俸給を捻出していたことが判明した。
井上聞多の長崎製鉄所民営化の提案は、結果的に見ると、もと自分の配下であった青木休七郎一派が犯した経理不正事件が暴露されないために仕組まれたものであったと見ることもできる。

山尾庸三は、明治3年(1870)7月13日、それまで合同運営されてきた民部省と大蔵省が分離・独立されたのに伴い、民部権大丞専任となった。その少し前の5月3日に横須賀・長崎・横浜製鉄所総管細大事務を委任され、当時は横須賀に滞在していた。
長崎製鉄所は長崎県(明治2年7月、府から県)に所属していたが、民部省が総括管理するようになってからは山尾庸三がその政府責任者となっていた。

井上聞多(馨)・遠藤謹助・伊藤俊輔(博文)・野村弥吉(井上勝)と共にイギリスに密航留学した山尾庸三は、「長州ファイブ」と称される一人で、グラスゴーのネイピア(Napier)造船所で働きながら勉学した経験を持っていた。その関連で製鉄所(造船・鉄工所のこと)を政府の立場で管理することになった。

わが国近代工業の育成と発展のために工部省の設立を頭に描いていた山尾庸三は、その一環として、工部省の下に横須賀・長崎・横浜製鉄所を付属させる構想を持っていたことから、井上聞多の提案は一蹴せざるを得なかったと見られる。

仮に井上聞多の民営化提案が採用されたとすると、平野富二は、その経営を請け負った長崎資産家に雇われて、長崎製鉄所の運営に携わっていたかも知れない。

(2)平野富二による立神ドックの民間委託提案
明治4年(1871)4月7日、山尾庸三は再び長崎を訪れ、長崎県庁で長崎製鉄所の財産移管のために目録照合を行いながら飽ノ浦製鉄所と小菅修船場の移管が行われた。同行してきた工部省十一等出仕岡部仁之助(利輔)を長崎製鉄所所長とした。

このとき平野富二は、すでに長崎製鉄所を退職(同年3月16日)していたが、中断されていた立神ドックの建設がその後も一向に再開される気配がないことから、みずから建設工事を請負って完成させ、その後の運営を委任して貰うことを画策して、申立書を提出した。

図37-2 掘削工事中の立神ドック
「The Far East」紙(1870年10月1日付)に貼付された写真である。

追加資金の要請で一時工事が中断したが、
明治4年(1871)末までには完成すると見られていた。

その内容は、平野家に遺されていた平野富二自筆の書付「長崎県稲佐立神郷修船場の儀に付申建候書付」(現在、紛失)によって知ることができる。その釈文と現代文による意訳は拙著『平野富二伝』に記載したので、ここではその結言だけを現代文に直して紹介する。

「民間人の私に長期間にわたって運営を委託して頂ければ、微力ではありますが一身を以って修船場の設備を完成させ、健全な経営を行う積りです。国内の工業は、将来、官業から民業に移されるべきで、この委託を実現させて頂ければ、民業の手本となるよう志望しています。」

この書付は、おそらく長崎県に提出され、そこから工部省に届けられたと見られる。
山尾庸三は、この書付に目を通したと推察されるが、当時は横須賀製鉄所の第1ドックが完成〈明治4年(1871)2月〉したばかりで、続く第2ドックの建設計画に入っていたこと、また、開店休業状態が続いていた長崎製鉄所本局の対策が急務であったことから、平野富二の要望は受け入れられなかった。
立神ドックは、当初の仕様を見直し、竣工したのは8年後の明治12年(1897)5月のことであった。

(3)活字製造部門の工部省移管と平野冨二による合併民営化提案
山尾庸三は、長崎製鉄所の活字製造部門に眼を付け、工部省の事業計画に活字製造も加えてあった。その主旨は、「政府の布告などのように速やかに交付を要する文書は、活字を用いて活版印刷すれば、その敏捷なことは以前の比ではない。この効用を一般市民が知ることになれば、新聞なども次第に発行され、活字の需要が生まれる。工部省中に一局を設けて活字を製造し、広く活字の販売を許せば、印刷業の発展につながる。」とした。

工部省に移管された長崎製鉄所の活字製造部門は、明治4年(1871)11月に東京に移転して勧工寮活字局と称した。

明治5年(1872)9月、正院印書局が開設されるに当たって各省が所有する活版印刷関連の諸設備を集約することになった。工部省の活字製造設備もこれに含まれていたので、山尾庸三はこれに反発して、製造事業は工部省の領域だとして引き渡しを拒否していた。明治6年11月になって勧工寮の廃止に伴い活字局は製作寮に移管されたが、明治7年(1874)8月に活字製造設備は正院印書局に引き渡された。
そのような中で、順調に発行部数を伸ばしていた『東京日日新聞』は、これまでの木活字に代えて、明治6年(1873)3月2日付から勧工寮の鋳造活字を採用した。やがて勧工寮は新聞広告により価額を提示して活字の払い下げを本格化させた。
ここまでは山尾庸三が当初に立てた工部省の方針に合致するものであった。

しかし、これに反発したのが平野富二であった。真っ向から価額競争に挑むのではなく、勧工寮の活字製造設備を自分の経営する活版製造所と一体とし、官営から民営にすることを願い出た。イギリス留学の経験を持つ山尾庸三ならば、この願いは受け入れられると思っていたかも知れない。しかし、山尾庸三は、正院からの設備移転要求を無視して平野富二の願いをかなえることは出来なかった。

平野富二は本木昌造の活字製造事業を引受けて、明治5年(1872)7月、東京の神田和泉町に崎陽新塾出張活版製造所を設立し、鋳造活字の販売を開始した。やがて、鋳造活字の需要が急増したため、明治6年(1873)7月、築地二丁目に新工場を建てて移転した。
この新塾出張の鋳造活字は、勧工寮活字と根源は同じで、上海美華書館の館長を務めたアメリカ人W.ギャンブルが任期を終えて帰国する際に、長崎製鉄所が招聘して活字母型の製造から活字鋳造までの生産管理技術について伝習を行った。そのとき、上海美華書館で採用している活字の基本サイズと明朝書体を導入したものである。
しかし、勧工寮活字は本木昌造がそれ以前に導入したオランダとイギリスの活字システムも混在していた。新塾出張活字は平野富二が活字製造事業を引き受けた際に、本木昌造と相談して上海美華書館の1号から5号に教科書用の初号とフリガナ用の7号を加えて統一し、他の混在するサイズは排除していた。

勧工寮活字を採用した『東京日日新聞』は、勧工寮活の字サイズ不統一に悩み、勧工寮が廃止されたのを機に、明治6年(1873)11月24日から新塾出張活字(平野活字)に切り替えた。

(4)山尾庸三による平野富二に対する事業協力の素地
工部省が長崎製鉄所を傘下に収めるに当たって、平野富二が取り組むことになる将来の事業に関係する民営化提案にたいする山尾庸三の対応について述べた。当時の成り行きからいずれも採用されなかったが、山尾庸三は一民間人としての平野富二の事業意欲と信念とを感じ取ったに違いない。とくに造船事業に対して何らかの機会があれば平野富二に協力する意思を固めていたと思われる。

このことは、山尾庸三から伊藤博文にも伝えられていたらしく、兵庫造船所が工部省所属の兵庫製作所と呼ばれていた頃、つまり、明治9年(1876)7月頃に平野富二は工部卿伊藤博文の訪問を受け、「兵庫製作所を工部省から分離したいので、その後の経営を引受けてくれないか」との相談があったと伝えられている。平野富二はすでに石川島の話が進んでいたので辞退したという。本件について拙著『平野富二伝』で紹介した。

2.平野土木組によるドコビール事業

(1)ドコビールについて
ここで言うドコビール事業とは、フランスのポール・ドコビール(Paul Decauville)が考案した軽便鉄道用の組立式鋼製レールと車両類の販売と、それを利用した土木工事のことである。

平野富二は、明治15年(1872)に長州(山口県)出身の児玉少介からの紹介により、ドコビール社の代理人デニー・ラリュー(Denis Larrieu)を通じて国内での独占販売権を得て、ドコビール事業を行うために、明治17年(1884)5月、平野土木組を設立した。

(2)平野土木組の販売促進用パンフレット
ドコビール製品の販売促進を目的としてPR用パンフレットを作製し、政府の主な省庁の役人や上京する各県の県令や土木担当者に狙いを定めて配布したと伝えられている。
そのPR用パンフレットは、平野富二の遺品の中には見当たらなかったが、たまたま、鉄道愛好家の名取紀之氏がコピーを所持されていることを知り、同氏のご厚意によりその内容詳細を知ることができた。

図37-3 ドコビール製品のPR用パンフレット、表紙と後記
右がパンフレットの表紙で左が最終ページを示す。

最終ページにある押印は、
佛蘭西ドコビール鉄道専賣取扱人
東京石川島造船所
同築地貮丁目拾四番地 平野冨二
と表記されていて、平野富二の自宅住所となっている。

図37-4 ドコビール製品とその使用例を示す絵図
周辺にドコビール製車輛類を配し、

中央に実際の使用例を示している。

PR用パンフレットの表題は、『佛蘭西新發明小形輕便鋼鐵路 効験書及ビ報告書』で、四六判サイズ、表紙を除き16ページから成る。
その構成は次の様になっている。

   序文   明治十五年五月十七日 吉井友実

   意見書  明治十五年四月廿日  山尾庸三 児玉少介宛

   効験書  明治十五年十二月   平野富二

   景況報告 明治十六年十一月五日 吉井友実 デニース・ラリユ宛

   概略積書 明治十六年十月    平野富二・今木七十郎

ここで注目すべきは、吉井友実(日本鉄道会社の初代社長)が「序文」と「景況報告」を寄せていること、山尾庸三(工部卿を勤めた後に参事院議官になっていた)が「意見書」(仮題)を寄せていることである。また、山尾庸三の「意見書」は紹介者児玉少介に宛てたもので、吉井友実の「景況報告」はドコビール社代理人デニース・ラリュに宛てたものである。それぞれの方々の了解を得てパンフレットに掲載したと見られる。
なお、このパンフレットでは著者によって固有名詞の表現が異なっている。たとえば、「ドコビール」は「土工比爾(トコヒール)」、「デカウヰール」、「獨工比爾(ドコービル)」、「ドコ-ビル」と表記されている。本稿ではそのままの表記とした。

吉井友実、山尾庸三、児玉少介の3人は、山尾庸三が工部卿だった時期(明治13年2月~明治14年10月)に、その下で吉井友実は工部大輔(宮内省一等侍補と兼務)、児玉少介は工部省雇で吉井友実の属官であった。

児玉少介については、吉井友実の『三峰日記』(宮内省書陵部蔵)の明治12年(1879)10月15日の条に、吉井友実が属官児玉少介を伴って横浜から神戸に行く玄海丸に乗船したとき、上等客の中に造船家平野富二もいたと記されている。この日記には児玉の名前がしばしば登場する。なお、「勅奏任官履歴原書」(元老院、国立公文書館蔵)によると、明治12年(1879)7月28日に工部省雇、明治14年(1881)7月26日に太政官御用掛(兼務?)となっており、明治14年(1881)10月に参事院が新設された時、山尾庸三が参事院議官として転任し、児玉少介は参事院法制局勤務となった。

山尾庸三の「意見書」によると、「私が、以前、実際に目にしたフランス人「デカウヰール」氏の専売になる鋼軌条(スチールレール)は、‥‥」、「当時、東京に滞在中のフランス人ラリユー氏の口頭説明によって推察すれば、‥‥」との趣旨が記されている。このことから、ラリューは工部省を訪問して山尾庸三と面会し、持参した鋼製レールの実物を見せながらドコビール製品の説明を行ったことが分かる。この時、吉井友実(新橋-品川間の鉄道建設の初期に関与したことのある)も呼ばれて、属官児玉少介と共に同席したと見られる。その時期は明らかではないが、明治14年(1881)夏頃と見られる。
なお、同じ工部省の鉄道局長官井上勝は、明治15年(1882)7月まで大阪在勤であったことから、これには関与していなかったと見られる。

吉井友実の「序文」と「景況報告」によると、「序文」では「今、フランスから輸入した土工比爾(ドコビール)の鋼製鉄路を実際に試験し、‥‥」、また、「景況報告」では「先に、ラリュ君の仲介で購入したドコービル氏のハシゴ型鉄道‥‥」と記されている。
そのことから、吉井友実は日本鉄道の鉄道建設工事に試用するためラリューからドコビール鉄軌を購入したことがあると見られる。しかし、「上野-高崎間の建設工事は全てを政府鉄道局に委任したため、日本鉄道会社では使用しなかった。」と述べている。
吉井友実が日本鉄道会社のためにドコビール製品を購入したのは、まだ、社長に就任する前で、明治14年(1881)11月に政府の特許条約書が正式に下付される以前だったと見られる。それにより鉄道建設と運航を工部省鉄道局に委託することが正式に決められた。

デニー・ラリューは、明治14年(18712)夏頃に来日したと見られる。ドコビール製品の販売活動の一環として最初に内務省土木局を訪問し、カタログ等の資料を提供して説明を行ない、その際、内務省の要求で静岡-清水港間の鉄道敷設を想定して、モデルケースとして代価を試算し、提出している。その内容は内務省土木局蔵版『内務省土木局臨時報告』(明治15年4月5日出版届、有隣堂発行)として出版された。

内務省土木局は、明治10年(1877)5月に信濃川の治水工事のために信濃川事務所を設けて信濃川大河津分水工事を行った。名村紀之氏によると、そこで使用されたドコビール鉄軌と土砂運搬車が信濃川大河津資料館に保存されているとのことである。この工事は長期にわたって行われたので何時の頃にこれらが輸入されてか分からないが、それを手掛かりにしてか、デニー・ラリューは来日して最初に納入実績のある内務省土木局を訪問したと見られる。

内務省土木局は、『臨時報告』の出版届と同じ頃、皇居造営の木材・石材運搬用としてドコビール鉄軌を利用することを考え、辰ノ口の工部省営繕局出張所内にドコビール鉄路を敷設して手押し車を用いた運搬テストを行ったことが『東京日日新聞』(明治15年4月22日付)に報道されている。新聞には記載されていないが、辰ノ口の工部省営繕局出張所は皇居の大手門に近く、当時まだ残っていた道三堀から舟便で資材を陸揚げできたことから、この地が選ばれたと見られる。なお、吉井友実は明治12年(1879)頃から皇居造営計画に関与していた。

(2)山尾庸三によるドコビールの紹介
山尾庸三は、明治13年(1880)2月28日に工部卿に就任し、明治14年(1881)10月21日に新設された参事院(議長:伊藤博文)の議員(財務部長)に転出した。

一方、吉井友実は、維新に際して軍務官として新政府に出仕し、その後、司法、民部・大蔵、宮内の各部門を歴任して、明治13年(1870)6月から工部省の工部大輔(宮内省第一等侍補兼務)となり、その属官として児玉少介が居た。その後、日本鉄道会社の初代社長に就任するため、明治15年(1872)1月に退官し、翌2月4日に社長に就任した。
それ以前から社長に内定していた吉井友実は、これから行う鉄道工事に役立つと思い、デニー・ラリューからドコビール鉄軌と資材運搬車両を購入したと見られる。そのとき、同席していた児玉少介は、なかなか有力顧客を見つけることの出来ないデニー・ラリューの顧客紹介役を買って出たと見られる。

山尾庸三は、参事院議員に転出していたが、ドコビール製品に深く関心を抱いていたことから、デニー・ラリューと手を組んだ児玉少介(山尾庸三と同じ長州出身で、同じ参事院法制部に配属)の要求に応じて「意見書」(明治15年4月20日付)を与え、そのとき、有望力な顧客として平野富二を推薦したと見られる。
山尾庸三から「意見書」を貰った児玉少助は、早速、平野富二を訪ねたと見られる。山尾庸三の「意見書」を見せて山尾庸三から照会があった旨を告げ、ドコビール製品の概要を説明して、この製品の販売に興味が有るならば、神田駿河台に滞在中のドコビール代理人デニー・ラリューを紹介するので訪ねて見るよう勧めたと見られる。

ここで、山尾庸三が児玉少介に与えた「意見書」の内容を、現代文に直して紹介する。
「先日、お尋ねのあった「デカウヰール」氏鉄道の件につき、私の意見を述べると次の通りです。」と前書きして、

「私が、以前、実際に目にしたフランス人「デカウヰール」氏の専売になる鋼軌条(スチールレール)は、幅量(ゲージ)50センチ、1メートル当りの重量4.5キログラム、形状は軌条に鋼板製の枕木が取り付けてあることからハシゴ状である。枕木を敷くことなく、用地を平坦にならせば、すぐに布設することができる。このように極めて軽便であることから、線路の変更も容易である。そのため、築港や築堤などで土砂・木材・石材などの運搬用としての架設鉄道に適していると確信する。
また、聞くところによれば、幅員60センチ、重量1メートル当り9.5キログラムの鉄軌を用いれば、およそ4トンの蒸気機関車による恒久鉄道として乗客・貨物を運搬することができる。これについて私は実際に見てはいないが、当時、東京に滞在中のフランス人ラリユー氏の口頭説明によって推察すれば、この恒久鉄道に用いる軌道の形状は仮説鉄道と同じく、幅に広狭の差があるだけである。
このように軽便な軌条は、これを用いる地方によっては役立つと考えられ、京都・滋賀間のような砂地にはこの設置が適している。すなわち、鋼板製の平横枕を砂地に据え付ければ、汽車の通行の際にも基礎が平均して強固になるので、車体通行時の振動は極めて少なくなるからである。そのような事から、このような土地に用いれば大いに役立つものと信じられる。
現在、東京・横浜間と京都・神戸間の鉄道に用いる機関車は20トンから25トンのものが必要である。しかし、「デカウヰール」氏の鉄道には4トン機関車が使用される。この鉄道はもともと軽便を主とするもので、支線に用いることを最適とし、その利便性は少なくない。鉱山に布設することも効果が著しことは明らかである。
もしも、「デカウヰール」氏の鉄道を既成の鉄道と同じ幅量として本線に使用するときは、ハシゴ形軌条の幅員を広げることになるので車体通行時の振動は著しく、これを減少させるには巨額の費用を要することになる。したがって、幅員はおよそ60センチとする。
鉄路布設の費用と布設後の営業上の損益については、地形や経済動向によって相違するので、あらかじめ明言することは出来ない。これは事業者の計画に任すべきものであるので、ここでは言及しない。」

文中のアンダーラインは稿者が引いたものであるが、その軽便性を生かして適用すべき用途を具体的に示して、採用を促している。
内容的には、元部下に与えた意見書であって、特定の人に利便を与えるものではない。

(3)平野富二の土木事業への進出
平野富二は、児玉少介の紹介によりドコビール製品の説明を受けるために部下の今木七十郎に指示して来日中のドコビール社代理人デニー・ラリューから説明を受けた。その効能を実際に確認するためサンプルを借り受け、工場で使用試験を行った。その結果、「どの程度売れるか分からないが、兎に角、やって見よう」と言うことで、国内一手販売権を取得してドコビール製品の販売に着手した。

しかし、当初は思うようには売れなかった。今まで見たこともない装置をどのように扱えばよいのか、理解できなに者がほとんどだった。

そこで、平野富二は、折から開始された日本鉄道会社の鉄道工事に目を付け、その請負業者にドコビール製品を売り込むために、鉄道局長官井上勝の紹介を得るべく部下の今木七十郎を訪問させた。
その結果、「請負業者への周旋は出来ない」と断られたが、「上大崎・隠田(渋谷)間の土木工事の請負入札があるから、これを受注して、実際にドコビール製品を使用して見せたらどうか」と提案された。この工事は、明治16年(1883)8月に政府認可を得た品川・赤羽間鉄道(品川線、今の山手線の一部)で、地元住民の反対があって路線を変更したため入札時期が、他の区間よりも遅れていた。

入札の結果、一番札で受注し、初めての土木工事を行うことになった。その結果、各所からの注文に結び付いたが、製品を販売して僅かな手数料を得るよりも、それを使った工事請負の方が、はるかに大きな利益を得られることが分かった。そこで、石川島造船所とは別組織の「平野土木組」を設立した。やがて、当時の大手である鹿島組(鹿島岩蔵)や大倉組(大倉喜八郎)などと肩を並べるまでに発展した。
しかし、「平野土木組」は、明治21年(1888)春、廃業・解散に追い込まれた。請負中の鉄道工事は早川組(早川智寛)に譲渡され、ドコビール製品の販売権はデニー・ラリューに戻された。廃業の主な原因は、平野富二の過労による病気再発で、さらに、不祥事が続いたことから、家族と協力者達の強い要望で本業である造船事業だけに絞り、その他は廃業または譲渡することになった。

平野富二はドコビール製品の輸入販売を手掛けることになり、結果として土木事業という新分野に進出することになって大いに発展した。その詳細は拙著『平野富二伝』に記述してある。

各種事情が重なって、平野富二は土木事業から撤退を余儀なくされたが、当時、病床に臥せていた平野富二にとっては本意ではなかったと見られる。そのことは、その後、何時の頃からか「平野鉄軌方」と称してドコビール社と同じ製品を自ら製造して販売し始めたことで判る。東京石川島造船所が有限責任の株式組織になった明治22年(1889)1月に頃にはすでに石川島に製造委託し、販売していたと見られる。

図37-5 平野鉄軌方の広告

明治25年(1892)4月に出された「平野鉄軌方」の広告(37-5)によると、ドコビールのカタログから図版を引用して、全く同じものを製造・販売していたことが分かる。「平野鉄軌方」の所在地は「平野土木組」と同じ平野富二の自宅住所となっている。

ま と め
平野富二が山尾庸三の面識を得て、お互いに付き合うようになったのは、長崎製鉄所を長崎県から工部省に移管する準備のために山尾庸三が、明治4年(1871)1月、長崎製鉄所を訪れたときに始まる。

平野富二は、頭取青木休七郎が明治3年(1870)6月に大坂大蔵省に出向となったため、同年9月から他の幹部と共同で長崎製鉄所の運営と行うようになった。同年閏10月に長崎県から権大属に任命され、長崎製鉄所の経営責任者となっていた。
長崎製鉄所は飽ノ浦製鉄所(本局)と小菅修船所(分局)から成り、それぞれ独立採算制で運営されていた。平野冨二は分局専任であったことから本局の経営には関わることはなかった。幹部による共同運営になってからも、当初は、分局の人間は本局経理担当の排除を受けていた。本局の経理担当者は謹慎処分を受け、やがて退職してしまった。

山尾庸三は長崎出張に当たって、あらかじめ平野富二の職歴を調査していたと見られる。また、青木休七郎の頭取時代に大蔵省が調査した長崎製鉄所の旧帳簿類の写しを持参していた。
平野冨二が提出した原簿と山尾庸三が持参した旧帳簿の写しを照合したところ、各所に不一致が発見された。当時の経理担当者はすでに退職しており、平野冨二は説明することが出来ず、翌日、進退伺いを提出した。しかし、山尾庸三は「引続き旧帳簿の調査を続けるよう」付箋を付けて返却した。山尾庸三は、滞在期間を延長して徹底的な帳簿調査を行い、その結果、本局で二重帳簿を作成して不正な利益を捻出し、製鉄所職員の俸給に宛てていたことが判明した。

平野冨二は明治4年(1871)3月16日に依願退職した。同年4月9日、山尾庸三は再び長崎に来て長崎県から長崎製鉄所を受領し、工部省の所管とした。

山尾庸三は、帳簿調査の中で、平野富二の誠実な態度と責任感の強さに深く印象付けられたと見られ、また、小菅修船所での経営実績や立神ドックの建設での統帥力を高く評価していたと見られる。平野富二が石川島平野造船所を設立した際に技師長としたイギリス人A.キングや造船工長とした稲木嘉助は、共に山尾庸三の紹介により迎え入れることが出来たと伝えられている。

山尾庸三は、長崎製鉄所の活字製造部門を東京に移転して勧工寮活字局としたことから、この分野でも平野冨二と関係することになった。その内容は、本ブログシリーズの(17)「山尾庸三と長崎製鉄所」(2018年6月公開)で、山尾庸三の略歴と共に紹介した。

本稿では、今まで触れることのなかった山尾庸三関連資料をもとにして、平野富二の事業に対する協力とはいえないまでも、山尾庸三の関与について、次の2項に分けて述べたものである。

1.長崎製鉄所の工部省移管に関連して提出された3つの民営化提案とその対応。
2.ドコビール製品のPR用パンフレットから明らかになった山尾庸三の関与。

最初の1.について、長崎製鉄所関連の設備を民営化する提案に対して山尾庸三は、工部省としての既定方針を変更することなく官営化を実行したが、平野富二の「わが国の工業発展は、官営ではなく、民営によってなされるべきである」という信念を汲み取り、その後の協力に結び付けたと見られる。

この3つの民営化提案とは、
(1)井上聞多(馨)による長崎製鉄所の民営化提案で、山尾庸三の最初の長崎訪問の少し前に提出されたものである。仮にこの提案が採用されていれば、平野富二は民間人として長崎製鉄所の経営を続けることができたかも知れない。
(2)平野冨二による立神ドックの完成とその後の経営を民間人となった自分に任せて欲しいとする願書である。平野冨二の造船事業に対する熱意と態度は、のちの造船事業での山尾庸三による協力に結び付いたと見られる。
(3)平野冨二による長崎新塾出張活版製造所と工部省勧工寮活字局の合併民営化提案である。これは、勧工寮活字局が活字を民間に有料で払い下げるとして新聞公告を出したのに対して提案したもので、その頃、平野冨二は活字の需要増大に対応して神田和泉町から築地二丁目に移転の最中であった。山尾庸三は勧工寮の活字外販を中止し、やがて、活字局を製作寮に移した後、正院印書局に引き渡した。

次の2.について、平野富二のドコビール事業は、鉄道庁長官井上勝の示唆によって日本鉄道会社の鉄道建設時の土木工事を請負うことになった。その結果、ドコビール製品の販路がひらけ、さらに、平野土木組を設立する契機となったことは広く知られていた。しかし、山尾庸三がドコビール事業に関わっていたことは、ほとんど知られていない。

平野富二がドコビール製品を販売するために作成したPR 用パンフレットの内容を調査した結果、山尾庸三は児玉少介を通じて平野富二にドコビール製品を紹介したことが判った。
山尾庸三が自分の「意見書」を児玉少介に与え、それがそのまま、平野富二のPR用パンフレットに掲載されていることは、平野富二に与えた「意見書」であったことを示す。

このPR用パンフレットは5つの文書から成り立っていおり、吉井友実(工部省を辞任して日本鉄道会社の初代社長に就任)、山尾庸三(工部卿から参事院議官に転任)、児玉少介(吉井友実の属官だったドコビール紹介者)、デニース・ラリュ(ドコビール社代理人)と平野富二・今木七十郎の6人の名前が執筆者あるいは宛先人として明記されている。
括弧内にその当時の職位を示したが、このPR用パンフレットを通読して判ったことは、山尾庸三が工部卿だった頃、ドコビール社代理人デニー・ラリューが鋼製レールを持参して工部省を訪れ、山尾庸三が面会し、吉井友実と児玉少介が立ち会ったと見られる。

吉井友実は、その時、工部大輔であったが、明治3年(1870)に新橋・横浜鉄道の路線測量時に関わったことがあり、また、明治13年(1880)頃には皇居造営計画に関わっていた。明治15年(1882)に日本鉄道会社の初代社長に就任するに当たって工部省を退官した。その際、デニー・ラリューからドコビール製品を鉄道建設用として購入した。

児玉少介は、明治12年(1879)7月に工部省雇となり、吉井友実の属官として行動を共にすることが多かった。吉井友実の退官の頃は太政官御用掛(兼務?)となっていたが、吉井友実が日本鉄道会社の建設工事用としてドコビール製品を購入するとき、指示されてデニー・ラリューに連絡したと見られる。そのとき、デニー・ラリューの依頼でドコビール製品の国内一手販売を任せられる顧客を紹介する役を買って出たと見られる。

以上のように、平野富二の事業協力者として山尾庸三を紹介したが、そのことを示す山尾庸三自筆の書簡類は見当たらない。すべて当事者による伝聞か、状況証拠によっている。政府高官が自分の立場を利用して特定個人に利益を供与する行為は禁じられており、疑われるような文書を残すことはない。本稿で述べた事柄をすべて真実と言い切ることはできないが、平野富二の事業に対する山尾庸の関与は明らかでる。結果的に平野富二の事業発展に寄与したことは間違いない。

余談になるが、PR用パンフレットの「序文」と「効験書」を書いた吉井友実は、その日記によると、詩歌や絵画をたしなんでいたことが分かる。その影響を受けて歌人となった孫の吉井勇の歌碑が平野富二の出生地のごく近くに建っている。絵画については池原日南(香稺)と親しく、書画会で一緒に竹の絵を描いたり、また、別の場では蘭の画法を教授されている。池原香稺は平野冨二の理解者であり支援者でもあった。

2021年6月16日 公開