長崎の長州藩蔵屋敷

<まえがき>
17世紀の初頭から19世紀の中葉までの間、長崎は幕府の政策によって唯一の対外貿易港であった。各種物産に限らず内外の情報も長崎に集中していたため、長崎には九州諸藩を中心とした14の藩が市内に蔵屋敷を設けていた。

長州藩(萩藩ともいう)の蔵屋敷は、最初、本五島町(現在の五島町の台地寄り)にあったが、寛政11年(1799)に台地の上の新町(現在の興善町6)に蔵屋敷を構えた。「肥前長崎図」(文錦堂、嘉永3年改刻)には「長門」と当時の国名で表示されている。

新町の通りに面して、坂道を介した隣りには「小くら」と表示のある小倉藩蔵屋敷があった。長州藩の下関と小倉藩の門司との間にある関門海峡に巌流島があることから、その坂道は「巌流坂」と呼ばれていた。

「肥前長崎図」部分

絵図の中央に「新町」とあり、その下の枠内に「小くら」と「長門」と書いてある。
新町から引地町に通じる道が「巌流坂」である。
平野富二は、引地町の道路の右端にある「丁じ長や」(町司長屋)で生まれた。

この長州藩蔵屋敷については、本木昌造と平野富二にとって直接的、間接的に因縁が深い。その内容については、おいおい説明する。

<長崎の蔵屋敷とは>
蔵屋敷は、大名や旗本などが自分の領地の年貢米や特産品を販売するため、商業の中心地である江戸、大阪、京都、長崎などに設けた倉庫や取引所を兼ねた屋敷のことである。とくに長崎では貿易品の売買や海外情報の入手が重要な役割であった。

長崎の蔵屋敷には、藩の役人が一年中駐在する藩と、オランダ船が5月中旬に入港して9月下旬に出港するまでの期間だけ駐在する藩とがあった。長州藩は後者で、夏季にのみ「聞役」と称する藩の役人とその部下が派遣されて駐在するグループに属していた。

長崎の「聞役」は、長崎奉行からの指示を国元に伝達する役目を主とし、その他に、諸藩との情報交換、独自の秘密情報の収集、藩で必要とする貿易品の調達などで、藩を代表する責任者であった。その下には、手先として働く地元出身の「御用達」が居り、長州藩蔵屋敷では吉村家が代々これを勤めていた。

<長州藩御用達吉村家について>
吉村家の出自は明らかではないが、寛永・慶安の頃(17世紀前半)にさかのぼると云う。おそらく、祖先は長州藩士で、何らかの理由で禄を失い、長崎に出てきて町人となったものと見られる。

吉村家の当主は、代々、長崎の長州藩蔵屋敷内に居住し、清国語に通じて唐交易の業務を行い、聞役などが本国に帰国した後の留守居役(長崎御屋代という)も兼ねていた。また、当主は長州藩から一代士族を認められ、苗字帯刀を許されていた。

吉村家の子孫である吉村栄吉氏の著わした『吉村迂斎詩文集』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和47年1月)に掲載されている吉村家の「家系図略」によると、詩儒として高名だった吉村迂斎(1749~1805)は新町の長州藩蔵屋敷に居住し、17歳で御用達となっている。当時、交易のために来航する唐人(清国人)は詩文、書道、絵画、音曲などを嗜む文化人が多く、それらの人々と親しく交流したことが覗える。同聲社(迂斎塾ともいう)を興して広く門人を擁した。

長州藩蔵屋敷のあった巌流坂に面して、「詩儒吉村迂斎遺跡」(昭和47年、長崎市設置)の記念碑があったが、現在では撤去されている。桜馬場の近くの春徳寺の墓地に墓碑がある。

吉村迂斎は、通称を久右衛門、諱を正隆と称した。その継嗣は、猪助正恵(1773~1834)、年三郎(1811~1859)、為之助(1845~1876)と続く。

<幕府による蔵屋敷没収>
元治1年(1864)7月19日、尊王攘夷を唱える長州軍が、迎え撃つ会津・桑名・薩摩の藩兵と京都御所の蛤御門前で激突し、敗退した。長州藩が御所に向かって発砲したことから、朝議により長州藩討伐のことが決定し、幕府に伝えられた。幕府はただちに諸藩に命じて各地の長州藩邸の没収を命じた。

長崎の長州藩蔵屋敷の処分については、長崎総奉行大村丹後守と長崎奉行服部長門守に委ねられた。同年8月19日、長崎にある長州藩蔵屋敷は早々に取り上げ、そこに居る家来どもは国元へ引き払わせるようとの幕命が伝えられた。

処置を任された大村藩は、長州浪人の妨害が噂される中、自藩藩邸を守護していた兵卒を従え、幕吏と共に長州屋敷に乗り込んだ。そのとき、周囲を取り巻いていた群衆が長州浪人の襲来と勘違いして急に離散したため、大村藩の兵卒は恐怖におびえ、上官を捨てて逃げだした。

その後、真相が判明して長州屋敷は没収され、大村藩に預けられた。この時、長州屋敷に居た者は、藩士1人と少数の小者の外、吉村一家に過ぎなかった。その者たちは幽囚の身となり、翌慶応1年(1865)、捕らえられた長州藩士と吉村家の当主為之助は長州送りとなった。残された吉村家の家族は長崎在住の親類縁者を頼って身を寄せた。長州屋敷にあった建物は撤去され、屋敷内に聳えていた太さ10抱えもある楠の大樹も切り倒された。

吉村家の当主為之助は、長州送りとなって4年後の明治1年(1868)12月になって、長州藩での謹慎を解かれて長崎に戻ってきた。やがて、長州藩蔵屋敷も復活され、場所を変えて樺島町の海岸通りに建てられた。吉村家はそこに御用達としての住居を与えられた。時代の流れでほとんど用向きのなくなった御用達の仕事に代えて、為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に、近くの大波止から、小舟で通勤した。

長州藩蔵屋敷の没収については、吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史 第二編』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和51年12月)に詳しく紹介されている。

新町の長州藩蔵屋敷跡には、慶応1年(1865)2月、近くの大村町にあった「語学所」が移転してきて、同年8月、「済美館」となった。ここには宣教師フルベッキが招かれて英語を教えた。何礼之助(礼之)と柴田大介(昌吉)もここで英語教師を勤めた。明治2年(1869)2月、長崎府により「広運館」と改称され、一般官吏の子弟と諸藩有志に高等教育を授けるため校舎増設などがあった。その翌年、「広運館」は外浦町の西役所跡に移転した。

本木昌造は、その跡地と校舎を買い受け、「新街私塾」を開設した。また、その運営資金を賄い、教科書・参考書を出版するため、ここに「新塾活版所」を併設した。さらに、本木昌造の協力者和田半が隣の小倉藩蔵屋敷跡を購入して本木昌造に提供したので、そこに「新町活字製造所」を設けた。

長州藩蔵屋敷跡の石垣
この写真は昭和9年(1935)に撮影とされている。
『長崎印刷百年史』の口絵に掲載されているものを流用させて頂いた。

長州藩蔵屋敷跡の現在の写真

向かって左側が長州藩蔵屋敷跡で、現在、長崎県市町村職員共済会館となっている。
中央の坂道は通称「巌流坂」と呼ばれ、坂道の途中に道路に面して「新町活版所跡」と「近代活版印刷発祥の地」碑がある。
向かって右端は小倉藩蔵屋敷跡で、現在、丸善ハイネスコーポが建っている。
ここには、「新町活字製造所」があった。

<平野富二の養子先>
平野富二は、文久3年(1863)、吉村庄之助の養子となり、吉村富次郎と称した。吉村家の養子となった後も、長崎製鉄所の機関方勤務は変わらず、時折、蒸気船に乗組んで関門海峡を通って兵庫、江戸へと航海していた。平野富二の乗組んだ蒸気船が遭難して八丈島に漂着したときの記録に、吉村富次郎と見られる名前が残されている。

慶応2年(1866)7月に行われた小倉沖海戦では、平野富二は幕府軍艦「回天」に乗組んで長州藩と対決し、一等機関方として活躍した。その功績が認められてか、江戸の軍艦所一等機関手の内命を受けた。しかし間もなく、理由も告げられずに内命取消となって、長崎に戻された。

以上の事柄は、明治24年(1891)3月に編纂された小冊子『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 幷ニ 継業者平野富二氏行状』に記述されている。この小冊子は、平野富二の生前に編纂され、平野家に保存されていた。

平野富二(吉村富次郎)は、幕府のために活躍したにも関わらず、養子先の吉村家が朝敵となった長州藩に仕えていることが内命取消の原因と見られたことから、長崎製鉄所を辞任し、吉村家からも去って、自主独立の道を歩むことを決心したらしい。そのとき、矢次家始祖が名乗っていた平野姓を復活させて、平野富次郎と改名した。

<未解明の疑問>
拙著『平野富二伝』(朗文堂、2013年11月)を執筆していた頃、平野富二の養父だったとされる吉村庄之助について、資料調査を行っていた。たまたま、安政5年(1858)の資料に吉村庄之助が波止場御番所詰となっていることを見つけた。

このことから、吉村庄之助は、長州藩の御用達であると共に、長崎奉行の地役人でもあって、二足の草鞋を履いていると解釈した。長崎地役人の地位は、隠居して養子に譲れば、家禄を相続することができた。

平野富二は地役人の次男であったため、家禄を受けることが出来なかった。親友杉山徳三郎も次男で、家禄を受けることができなかったが、選抜により長崎海軍伝習所を卒業して、特別に一代限りの町司として禄を得ていた。そこで、平野富二のことをおもんばかって、義姉の実家である吉村家への養子を勧めたと解釈していた。

ところが、長州藩蔵屋敷の御用達であった吉村家の系図を調べて見ると、吉村庄之助と名乗る人物は見当たらない。

長崎には吉村姓の地役人が数多くいた。たまたま、その中に吉村庄之助と名乗る人物がいたらしい。平野富二が養子となって名乗った吉村富次郎も、同姓同名の人物が船番見習、19歳として『慶応元年 明細分限帳』に載っている。

矢次富次郎と称していた平野富二が、数え年18で吉村家の養子となった文久3年(1863)の頃の吉村家の当主は、吉村迂斎の曾孫にあたる吉村為之助(1845~1874)で、まだ数え年10であった。父の年三郎(1811~1859)が死去して吉村家の当主となったときは、わずか数え年6であった。叔父の雄五郎(1819~1875)が幼い当主を支えたと見られる。

平野富二の伝記では、この「為之助」を「庄之助」と読み誤って伝えられたと見ることもできる。しかし、8歳も年下の吉村為之助を養父として吉村家に入るには、それなりの大きな理由がなければならない。

吉村為之助には、3つ違いの弟年次郎(1848~1919)がおり、異母弟である子之助(又作、1854~1878)もいた。また、為之助は、将来、結婚して跡継ぎを設けることもできた筈である。当時の吉村家に跡継ぎ問題はなかったと見られる。

さらに、為之助には3人の姉妹がいた。長姉トク(1838~1872)は平野富二の親友杉山徳三郎の兄杉山友之進に嫁ぎ、次姉タキ(1843~1896)は大村藩長崎御用達の品川九十九に嫁いでいた。妹ヒデ(1854~1878)は、当時、数え年10であったので、将来、養子に入った平野富二と結婚させる意図があったとも見られるが、わざわざ吉村家の養子となる動機にはならない。

杉山徳三郎の曽孫に当たる杉山謙二郎氏が執筆した『明治を築いた企業家 杉山徳三郎』(碧天舎、2005年9月)によると、「平野富二は成人したおりに一時長州藩の御用達吉村庄之助の養子となるが、この養家の長女は後に松三郎(友之進)の妻となった。」と記している。

ここでは、平野富二の養父を「吉村庄之助」とし、長女は「後に杉山松三郎の妻となった。」と記してあるが、吉村庄之助が吉村家の系図で誰に相当するのか説明がない。また、平野富二が吉村家の養子となった時には、杉山松三郎は、長男の出生年から見ると、すでに結婚していたことになる。したがって、上記の記述だけでは確証とはならない。

長州藩御用達として長崎蔵屋敷に居住していた吉村為之助と平野富二との関係で明らかなことは、次の2つである。

1)平野富二の親友杉山徳三郎の義姉トクが吉村為之助の長姉であること。
2)明治になって、吉村為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に勤務するようになった。これは、小菅修船場の経営責任者となっていた平野富二のかつての義父に対する配慮がうかがえることである。

長崎には、幕末から明治初期にかけての膨大な史料が残されている。それは、長崎奉行所・長崎裁判所・長崎府・長崎県の公文書を集めた『文書科事務簿』で、長崎歴史文化博物館に保管され、閲覧に供されている。

この中に先の疑問を解明できる史料が含まれているに違いない。しかし、『文書科事務簿』の簿冊リストはネット上で公開されているが、小生の知る限りにおいて、簿冊内の個別文書についてはリスト化されておらず、文書のデジタル化や内容検索も未完成のようである。これが完成すれば、幕末から明治初期にかけての長崎の歴史をより明確に解明できるものと思われる。

来年は明治150年に当たるので、この機会に実現されることを期待したい。

以上

杉山徳三郎、平野富二の朋友

《はじめに》
平野冨二が生涯にわたって親しく交わった友として杉山徳三郎がいる。

その交流は、長崎製鉄所での機関方(エンジニア)養成で一緒に机を並べたときに始まり、平野富二が活字販売で東京に出張したときに再会して旧交を温め、横浜製鉄所では共同経営者となって事業をおこなった。

また、杉山徳三郎と親交のある伊藤博文や福沢諭吉を紹介して平野富二の事業発展に協力している。

杉山徳三郎は、平野富二よりも10歳年長であるが、昭和5年(1930)に91歳で長寿を全うした。その間、平野富二が亡くなって7年後の明治32年(1899)に平野富二の母が長崎で亡くなったときは、その翌日、遺族を見舞っている。その時まで遺族との交わりが続いていたことを示すもので、如何に平野富二との交流を大切にしていたかが分かる。

曾孫杉山謙二郎氏の著書の表紙カバーを飾る杉山徳三郎肖像写真

《杉山徳三郎の生い立ち》 (以下に示す年令は数え年とする)
杉山徳三郎の生まれた境遇は平野富二と非常によく似ている。

徳三郎は、長崎町司の家に次男として生まれ、大井手町にある町司たちが居住する町司長屋で育った。まだ幼い7歳のときに父と死別し、10歳違いの兄が相続して町司となった。

利発で豊かな才能を見出されて、厄介の身(次男以下の子弟)でありながら、長崎海軍伝習所の入所を特別に認められ、つづいて新設された長崎製鉄所で機関方(エンジニア)として勉学する機会を与えられた。

平野富二は、徳三郎より7歳年少であるが、もしも同年齢であったならば、おそらく同じ道を歩んだと見られる。長崎製鉄所では、徳三郎と同じ厄介の身でありながら特別に選抜されて入所した。ここでは徳三郎と一緒に机を並べて機関方になるための勉学に励んだと見られる。

徳三郎の伯父太田寿吉は、平野富二(幼名、矢次富次郎)の住んでいた引地町の町司長屋に居住しており、富次郎が8歳のときに書道の手習いをしてもらったお師匠さんである。徳三郎の住んでいた大井手町の町司長屋とは歩いて5分程度の距離であり、その頃から徳三郎は富次郎のことを知っていた可能性がある。

《杉山徳三郎の経歴》
(福沢諭吉、伊藤博文、平野富二の名前は青色で示す)
杉山徳三郎は、天保10年(1839)10月18日、長崎地役人である町司杉山弥三郎とナヲの次男として大井手町の町司長屋で生まれた。

弘化2年(1845)、7歳のとき、父を亡くし、兄松三郎(友之進、弥三次)の厄介となった。そのため、医師の家に寄食して医術を学んだが、病人のために寝る暇もないことを見て、医者になることを諦めたという。

嘉永2年(1849)、11歳のとき、師について漢学と蘭学を学んだが、書籍や文具をかうことができず、長崎くんち(諏訪神社の例大祭)のときに紙の造花を作って売ったところ、1日で1両余りの利益を得て、書籍を購入した。周囲の人はその奇才に驚いたという。

安政1年(1858)、10歳のとき、福沢諭吉が長崎に勉学に来て、同じ町司長屋に住む砲術家で知られる山本物五郎の食客となっていたことがある。そのとき、杉山一家と親しくなった。(本件については後述する)

長崎海軍伝習所の第二期伝習が幕府伝習生に対して、安政4年(1857)1月上旬から翌年5月上旬までの約18か月間、行われた。徳三郎は、17歳の厄介の身であったが、特に抜擢され、海上警備を担う要員として伝習を受けることになった。

海軍伝習所では、本職を持つ地役人の伝習生は「御用の隙を見計らって」伝習を受けていたが、徳三郎は他に職を持たなかったので、伝習に専念することが出来た。その結果、砲術担当のオランダ一等士官ファン・トローイェンの代理を務めるまでになった。

第二期伝習が終了した後、引き続いて幕府伝習生のための第三期と諸藩伝習生のための伝習が行われた。安政5年(1858)10月、長州藩から選抜されて長崎海軍伝習所に来た者たちの中に18歳の伊藤俊輔(博文)が居た。最初はオランダ人教師ファン・トローイェンから砲術を学んだが、翌年になって帰国の迫ったファン・トローイェンに代わって徳三郎が教練に当たった。(本件については後述する)

安政5年(1858)3月、長崎奉行所で武術御見分が行われたが、徳三郎と矢次富次郎(平野富二)は職務専念のため、特別に免除された。このとき富次郎は、長崎奉行所隠密方御用所番に属していた。

安政6年(1859)10月、オランダ人教師団が帰国し、長崎海軍伝習所での砲術の伝習も終えた。その後、徳三郎は長崎製鉄所の建設に加わって、製鉄設備(鋳造・鍛造設備や工作機械など)の組立や動力用蒸気機関の据付を行いながら、それらの設備について伝習を受けた可能性がある。しかし、実態は不明である。

文久1年(1861)3月、長崎製鉄所の第一期工事(造船用機械製造設備の建設)が完了し、これに合わせて機関方(エンジニア)の養成が本格的に開始された。このとき、徳三郎は機関方見習として長崎製鉄所に入所し、機械学などの伝習を受けたと見られる。この時に伝習を受けた者たちの中に同じ機関方見習いの矢次富次郎(平野富二)も居た。

文久3年(1863)、矢次富次郎は長州藩蔵屋敷に居住・管理する吉村庄之助の養子となり。吉村富次郎と称した。徳三郎の兄友之進の妻は吉村庄之助の長女で、徳三郎は兄嫁の実家を富次郎の養子先として紹介したと見られる。

これにより、徳三郎と富次郎は義兄弟の関係となった。徳三郎はすでに妻帯しており、妻の名前は津留(ツル)。後年、平野富二は自分の跡継ぎとなる次女に同じ名前を付けている。

慶応1年(1865)、27歳のとき、新規製鉄所機関方 一代限り町司格を仰せ付けられ、受用高1貫5百目、2人扶持を支給されることになった。

明治維新の後、御用所支配の洋学伝習人となり、明治1年(1868)12月、長崎製鉄所掛の管轄下に入ることを命じられた。

その前後、徳三郎は、長崎製鉄所機関方として、諸藩からの依頼を受けて蒸気船の回航、建造・取扱指導のため、鹿児島、熊本、大津(近江)に出向した。

明治1年(1868)12月18日、徳三郎は、平野富次郎(養子先の吉村家を去って平野姓となっていた)と共に、長崎製鉄所第一等機関方に任命され、1年に付き10人扶持、業給金18両宛を支給されることになった。ただし、その頃、徳三郎は他藩に雇われて出向していたので、その間は業給金の支給はなかった。

明治2年(1869)1月、徳三郎は製鉄所掛の許可を得て加州(加賀藩、金沢藩)に赴き、3月24日に長崎に戻っている。この頃から加賀藩とその支藩である大聖寺藩による兵庫製鉄所(加州製鉄所)の建設構想が進められ、徳三郎は全面的に協力していたらしい。

そのとき、徳三郎は、頼まれて大聖寺藩の石川嶂(専輔)と共に兵庫県令となっていた伊藤博文を訪問し、兵庫製鉄所の用地借入に協力したと見られている。

明治2年(1869)5月、徳三郎は長崎製鉄所を免職された。これは、徳三郎が病気を理由に退職願を提出したが、これは、一旦、却下された。しかし、徳三郎がこれに応じなかったことによる。

徳三郎は、その後は兵庫製鉄所の建設と運営に関わっていたが、兵庫製鉄所が工部省に売却されることになったので、明治4年(1871)春、新しい仕事を求めて東京に上った。

明治4年(1871)11月19日、平野富次郎が活字販売のため上京したとき、東京で杉山(徳三郎)から銀銭22枚を借用している。このことは富次郎の「金銀銭出納帳」に記録されていた。

東京では、政府の高官となっていた伊藤博文が徳三郎に政府の役人になることを頻りに勧めたが、徳三郎は、「上司に盲従できない自分の性格を承知していたので辞退したら、それでは、何か自分で仕事をするなら大いに援助する」と言われたという。

明治8年(1875)4月、徳三郎は、無役となって生活に困窮している兄一家のために、長崎唐人屋敷跡の館山町に土地を求めて蒸気式精米所を開設した。

同年5月、徳三郎は、長崎の女性実業家大浦慶と連名で「横浜製作所御払下ケ願趣意見込書」を提出し、同年11月になって、横浜の高島嘉右衛門を加えて「拝借願書」を提出し、借用を許可された。これには、伊藤博文が背後で有力な支援をしてくれたと言う。

明治9年(1876)5月、高島嘉右衛門が横浜製鉄所の経営陣から脱退するのを機に、平野富二と他1名が新たに経営陣に加わった。しかし、平野富二は石川島造船所借用で多忙となったため、同年10月、経営陣から脱退した。

横浜製鉄所の新聞広告
(『東京日日新聞』、明治9年7月4日)

明治10年(1877)に勃発した西南戦争の特需で多大の利益を得た徳三郎は、第一回内国勧業博覧会に機械類を出品したが、頃合いを見て横浜製鉄所の共同経営から脱退して、長崎に戻った。

明治12年(1879)、新しい事業として将来に亘って有望な炭鉱業に進出することを決心し、各地を巡って有望な鉱区を調査した。その結果、明治13年(1880)5月、筑豊地区の目尾(しゃかのお)炭田を借区した。この地は遠賀川に近く、川船を利用して物資や石炭の輸送に便利であることに目を付けたという。

徳三郎は現場に蒸気機関を据え付け、蒸気動力による排水ポンプと巻上機を用いて人力に代えた。当時としては革新的なことで、積極的にその普及に努めた。

明治23年(1890)東京上野で第三回内国勧業博覧会が開催され、筑豊から石炭を持って参加した。その結果、蒸気機関を導入しその普及に努めたことから第三等進歩賞を受賞した。

明治24年(1891)、甥の杉山松太郎(兄の長男)に炭鉱経営を委任した。次いで明治27年(1894)9月には目尾鉱区の全権を松太郎に譲渡した。

これに先立ち、明治21年(1888)頃に長崎市外の伊良林郷に広大な邸宅を構えた。明治27年(1894)に自分の埋葬地を当時の茂木村田上に在って廃寺となっていた観音寺跡に選び、徳三寺を開創した。

長崎では長崎財界人の集まりには加わらず、独自の立場を維持していた。それでも、明治29年(1896)1月、有志者のひとりとなって長崎銀行の設立を計ったが、十八銀行の反対により設立を阻止された。

その後、旧外国人居留地近くの海面を埋立てて浪ノ平鉄工所を建設して、明治31年(1998)5月から営業を開始したが、翌年暮れには営業を中止した。

明治32年(1899)3月16日、平野富二の没後、長崎の実家に戻っていた平野富二の母矢次美祢が死去した。その翌日、徳三郎は弔問のため遺族を訪問している。

明治39年(1906)には、隠居届を長崎市役所に提出した。その後、大正7年(1818)には、80歳記念として一族を引き連れ、富士登山を敢行した。

昭和5年(1930)6月19日、91歳で永眠した。遺体は徳三寺の墓所に埋葬された。

《杉山徳三郎と福沢諭吉との縁》
福沢諭吉は、安政1年(1854)2月、21歳のとき、兄の勧めで蘭学を学ぶため長崎に出た。長崎では桶屋町の光永寺の食客となったが、やがて、大井手町の町司長屋に住む砲術家として知られた山本物五郎の食客となった。

山本家では、息子に漢書の素読を教えたり、水汲みなどの家事は何でも引き受けていたという。道路を隔てた前の町司長屋に若い町司の杉山松三郎(友之進)とその弟徳三郎が母と一緒に住んでいた。

節分の晩に、松三郎に誘われて法螺貝を吹き、千字文を経文のように唱えながら、銭や米を貰って歩き、そのお銭で雑炊を作ってたらふく食べたという。これは、『福翁自伝』に面白おかしく述べられている。そこには、松三郎のことを「杉山徳三郎の実兄」と括弧書きして紹介している。

福沢諭吉は杉山兄弟の母からも可愛がられていたらしい。当時、徳三郎は数え年16、兄の松三郎は26で、福沢諭吉はふたりの中間で、それぞれ5つ違いだった。

現在、大井手町に「福沢諭吉が使用した井戸」が残されている。その位置は、道路を挟んだ杉山家の前にあり、井戸端でしばしば顔を合わせていたと推測される。杉山家の住んでいた町司長屋の跡は、現在、広い駐車場となっている。

大井手町の町司長屋(国立公文書館所蔵)

福沢諭吉使用の井戸(古谷撮影)

《平野富二の福沢諭吉との交流》
平野富二と福沢諭吉の交流は、杉山徳三郎の紹介で平野富二が福沢諭吉を訪問したことに始まると見られる。このことは、平野家に残された福沢諭吉の書簡によって推測できる。以下に、記録に残されたふたりの交流を述べる。

1)造船技術者の斡旋
おそらく明治10年(1877)のことと推測されるが、石川島平野造船所(現、株式会社IHI)を開設したばかりの平野富二が、造船技術者不足に困って、福沢諭吉を訪問している。そのとき、平野富二は慶応義塾の塾生の中から優秀な技術者を斡旋するよう依頼した。

これに対して福沢諭吉は、慶応義塾の生徒の中から志願者を募り、多くの者の中から眼鏡に叶った一人を推挙してくれた。

そのときの平野富二に宛てた福沢諭吉の書簡(1月14日付)が平野家に保存されている。その内容は拙書『平野富二伝』に紹介してある。

その前年には、平野富二は杉山徳三郎と共同で横浜製鉄所を経営していたので、杉山徳三郎の紹介により福沢諭吉を訪問したと見られる。

2)「第一通快丸」進水式での祝辞
明治11年(1878)1月7日、自社用として建造した小型蒸気船「第一通快丸」の進水式に当たって、福沢諭吉は来賓として祝辞を述べている。

3)『時事新報』発刊のための印刷機発注
明治15年(1882)2月、『時事新報』の創刊に当たり、福沢諭吉は築地活版製造所に発注して、四六判16頁掛ロール印刷機1台を購入している。

4)朝鮮修信使に活字・印刷機械購入を斡旋
明治16年(1883)1月、李朝朝鮮国の第4次朝鮮修信使が日本で資金を調達して帰国する際、福沢諭吉の「朝鮮が近代国家として独立し、人民を啓蒙するには新聞の発行が必要である」との訓示により、活字・印刷機を購入した。

これに伴い、福沢諭吉の意をたいした井上角五郎が新聞発行のため印刷工2名を引き連れて朝鮮国に渡った。活字と印刷機は築地活版製造所から納入され、印刷工2名の派遣も平野富二の指示によったものと見られる。

井上角五郎は、朝鮮国の漢城(今のソウル)で、明治16年(1883)10月31日、李朝朝鮮国最初の近代的新聞である『漢城旬報』を創刊した。この新聞は朝鮮国の官報に準じて統理衛門管轄下の博文館から発行された。すべてが漢文で、四六倍判の冊子形式であった。

6)『漢城周報』発刊のためのハングル活字購入
明治18年(1885)8月中旬、政変で一旦帰国していた井上角五郎は再び漢城に戻って、破壊された博文館を再建した。さらに、日本に帰国してハングル活字を購入し、活字職人2人を引き連れて漢城に戻った。

漢字とハングル文字を混用した文体を現地の老儒者に創案してもらい、先の政変で発行停止となっていた『漢城旬報』に代えて、明治19年(1886)1月、『漢城周報』と題して発行した。

なお、いつの事か不明であるが、金玉均(キム・オクキュン)が朝鮮国の改新(改革と進歩)を念願すると共に、朝鮮国王と王妃の歓心をえるため福沢諭吉に多額の借金をしていた。福沢諭吉の「朝鮮人へ貸金の記憶書」の中に、「朝鮮文字の活字を注文して自国に著書新聞等の業を起さんとて、其活字何十万の数は築地の平野工場にて出来し‥‥」とあり、ハングル活字を築地活版製造所から調達したことが明示されている。

《杉山徳三郎と伊藤博文との縁》
安政5年(1858)10月、長州藩から選抜されて長崎海軍伝習所に来た者たちの中に18歳の伊藤俊輔(博文)が居た。

最初はオランダ人教師ファン・トローイェンから砲術を学んだが、翌年になって帰国の迫ったファン・トローイェンに代わって杉山徳三郎が教練に当たった。

「長崎における余らの師匠は日本人杉山徳三郎、オランダ人教師ファン・トローイェンと称する人々で、号令などはすべてオランダ語を用いた。杉山はすこぶる厳格な教師で、歩調姿勢が悪いときは容赦なくこれを矯正した。」と伊藤博文の言葉が伝えられている。

杉山徳三郎の懐旧談(『石炭時報』、第二巻第一号)によると、「長崎滞在中、伊藤公はしばしば私の宅へ遊びに来た。私の父を囲繞した当時の若者の中で、彼は私の父から最も愛された一人であった。」と述べている。

これが縁となって、後年、伊藤博文は徳三郎に対していろいろと支援の手を差し伸べた。具体的には、先に示した《杉山徳三郎の経歴》の中で述べた。

《平野富二と伊藤博文の接触》
兵庫造船所がまだ工部省の兵庫製作所と呼ばれていた頃、工部卿伊藤博文が築地活版製造所に居た平野富二を訪ねて来た。それは、兵庫製作所を平野富二に管理して貰いたいとの相談だった。

当時、平野富二は、海軍省の石川島造船所の施設を借用して、みずから造船所を設立・経営することを計画していたので、周囲の勧めもあったが、伊藤博文の提案を辞退した。本心は官に仕えることを嫌ったことによる。

このことは、公的記録には残されていないが、「平野富二追憶懇談会記録」(私文書、大正15年7月)に、石川島造船所の元幹部であった今木七十郎の発言として紹介されている。

伊藤博文は、当時、横浜製鉄所を経営していた杉山徳三郎から平野富二のことを聞いて、東京築地の平野富二を訪問したと見られる。また、長崎製鉄所時代の平野富二こことを知っている同僚の山尾庸三のアドバイスがあったかも知れない。

《長崎における杉山徳三郎の関連施設》
杉山徳三郎が晩年を過ごした広大な邸宅が伊良林郷にあったが、今では、当時の洋式煉瓦塀の一部が残るだけで、往時の姿は全く失われてしまったという。

唯一残された施設は、徳三寺(長崎市田上2丁目10番地)である。ここは自分の父母と自分を含めた子孫のために開創して寺で、境内に杉山家の墓所がある。そこには杉山家祖先の供養塔を建て、両親の墓を造った。徳三郎の墓標には夫人と共に俗名が刻まれている。

杉山徳三郎が開創した徳三寺の本堂
(『長崎の史跡(街道)』、長崎歴史文化博物館、平成19年)

徳三郎は、自分が死んだときに火葬されることを嫌い、当時、その規制のなかった隣町の茂木に属する田上地区に、廃寺となった観音寺跡の寺地を購入し、平戸の臨済宗雄香寺の末寺大梁院をここに移す形を取り、明治29年(1886)に徳三寺と改称した。

本堂の背後には、観音寺の歴代住職の墓所と杉山家の墓所がある。同じ境内の本堂前には竹林を背にして千歳亭跡がある。ここには向井去来の句碑とその猶子久米式右衛門の供養塔がある。

ついでに平野富二について言うと、長崎寺町の禅林寺飛び地墓地に矢次家の墓所があり、そこに平野富二の母が建立した「平野富二碑」があった。しかし、昭和年間に無縁墓地とされて、そこにあった墓石と共に撤去されてしまった。現在は、無縁墓石の集積地から「平野富二碑」を見つけ出し、東京谷中霊園にある平野家墓所に移設されている。

もう一つ、平野富二の名前を記した記念碑が長崎にある。それは、三菱長崎造船所本工場構内の立神通路に面した崖地の壁面にある「建碑由来」の銘板である。しかし、一般には公開されていない。

《まとめ》
杉山徳三郎と平野冨二の生い立ちが、共に似た境遇であったことは、すでに述べた。成人して独自の道を歩むようになった後も、二人の共通点を多く見ることができる。以下に、二人の共通点を列記した。

◆家禄を継いだ兄の下を離れて独立し、維新後に失禄・失業した兄一家を助けるため自分の設けた事業所に職を与えている。

◆何かと制約の多い官職に就くことを嫌い、政界と繋がりの深い財界から一定の距離を置いていた。

◆生涯に二つの異質な事業に取り組み、いずれも業界に先駆けて近代化を果たし、成功を収めた。杉山徳三郎は造船造機事業と炭鉱業、平野富二は活版製造事業と造船造機事業である。

◆共に時代の先端を行く事業に成功した結果、長者番付に載るほどの資産家となった。

◆生涯、技術者としての姿勢を貫き、共に技術系経営者の典型となった。杉山徳三郎は晩年になって永遠のエネルギーを研究テーマとして取り組んでいたと言う。平野富二は、当時、機械工業の基礎をなす鋳造技術の向上を目指して業界の集会で演説中に卒倒し、そのままこの世を去った。

両者の異なる所は、天から与えられた寿命であった。杉山徳三郎は91歳という長寿に恵まれ、悠々自適の生涯を送った。これに対して平野富二は47歳で、ほとんど休むことの無い生涯を終えた。

長崎の町司について

平野富二の生まれた長崎引地町の町司長屋のことや、始祖矢次関右衛門から代々長崎の町司役を受け継いだことは既に述べたが、長崎の町司とはどのような役職だったかについては、明らかにしてこなかった。

引地町の町司長屋は、7軒長屋と6軒長屋が各1棟ずつ道路に沿って建てられており、道路の反対側は石垣の上に牢屋があった。そのような環境の中で、町司たちとその家族に囲まれて育った平野富二は、町司という家職がその人格形成に少なからぬ影響を与えられたと見られる。

今回は、長崎の町司とはどのような役職であったかについて、各種資料から纏めてみた。

<町司の名称>
町司の名称は、最初は「目付役」と称し、やがて「町司(ちょうじ)」と改称、後に「町使」と表記されたが、再び「町司」と表記されるようになったと言われている。その表記変更の時期は必ずしも明らかでない。本稿では、他からの引用文など、特別な場合を除き、「町司」で統一する。

<町司の職務>
その役職は、一言でいえば、長崎の治安を担当する役職である。しかし、同じ治安担当といっても、長崎では幾つかの役職に区分されており、その中の一つである。

時代によって相違はあるが、元禄15年(1702)の頃は、奉行直属の給人・下役(もとは与力・同心と称した)の外に、地元採用の地役人からなる町司・散使・唐人番・船番・遠見番があり、これらを5組と称した。この内、船番は長崎港内の水上警察、遠見番は長崎港外の見張り役である。

町司について、宝永5年(1708)の記録(越中哲也編『慶応元年 明細分限帳』の解説による)に、次のように担当する業務が列記されている。( )内は補足説明とし、文章の表現は現代風に変更した。

・両屋敷(西役所と立山役所と称した奉行所)当番ならびに御用日には6ヶ所の御番所  に詰める。
・唐船の荷役より出帆までの間、商売方に付いて新地表門、水門、唐人屋敷前水門からの出入者を改め、その外、諸出役を勤める。
・オランダ船入津より出帆までの間、出島へたびたび出勤する。
・指名されて御役儀を仰せ付けられた節は、御屋敷ならびに御篭屋(牢屋)にも出勤する。
・御仕置者、自害人、転死者あるいは召捕られた者があった節は、出勤する。
・オランダ商館長が江戸へ参上する節は、両人(二人)ずつ、付添として同伴する。
・上記の外、町中昼夜見廻り、諏訪祭礼・祇園会の警固として出勤する。

これらの担当業務は、時代の変遷に応じて変化している。初期には、市中に潜むキリシタンの捜査摘発も職務の中にあった。その他、長崎追放となった罪人を日見峠まで見送り、死刑囚を西坂まで連行、流罪人を御用船で流刑地まで護送なども行った。

安政5年(1858)の開国後は、諸外国人がつぎつぎと長崎に来航するようになって、不法入国や密貿易の取り締まりも重要な業務の一つとなった。また、国論沸騰により不逞の浪人たちが長崎に来住して市内の治安が悪化し、幕府の威信が地に落ちて長崎の町が不安な状態になったため、町司の役割も変質化した。

これらの業務のなかで、一定期間専任で担当する業務を「加役」と称し、また、長崎市外に一定期間出向して勤務する業務を「旅役」と称した。これらは、町司の中から持ち回りで指名された。

<町司の設置とその後の経緯>
慶長8年(1603)、長崎奉行は初めて「目付役」5人を召し抱えた。この年は、小笠原一菴が江戸幕府から初代長崎奉行として補任された年である。

『慶応元年 明細分限帳』によると、慶長8年(1603)に召し抱えられた目付役5人の子孫について、次の4人が記載されている。他の1人は、途中で廃絶したらしく、記載されていない。

・慶長八卯年先祖より九代丑年迄二百六十三年相勤彦三郎儀‥‥
御役所附助過人 高橋彦三郎 丑三十七歳
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

・慶長八卯年祖先より十二代丑年迄二百六十三年相勤実之助儀‥‥
御役所附町司  中山実之助 丑五十三歳
高三拾俵三人扶持 外受用銀貮貫四百三拾目

・慶長八卯年祖先より十五代丑年迄二百六十三年相勤五郎左衛門儀‥‥
御役所附助過人 鶴田五郎左衛門
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

・慶長八卯年祖先より十五代丑年迄二百六十三年相勤達十郎儀‥‥
町司 太田達十郎
受用高貮貫百四拾目 貮人扶持

その後の経緯については、『長崎地役人総覧』(以下《総覧》)と『長崎実録大成 正編』(以下《実録》)に纏められている。

当初は目付役5人で発足したが、4代長崎奉行長谷川権六の在任中に目付役4人を加えて9人となる。これ以降は、目付役を町使と名付けたと云う。《総覧》
なお、《実録》では、元和5年(1619)に4人増加としている。長谷川権六は元和2年(1616)に長崎奉行を離任しており、《総覧》とは数年の相違がある。

その後の人員増加と、それに伴う触頭の指名、御役所附の新設などが行われた。以下にその様子を年表形式で示す。

・寛永12年(1635)、4人増加し、総勢13人となる。《実録》
・寛永19年(1642)、この年からオランダ商館長が江戸参府する節、町司2人が道中  警固のため出勤を仰せ付けられた。《実録》
・寛文12年(1672)、24代長崎奉行牛込忠左衛門勝登のとき、2人を加えて15人となる。《総覧》 なお、《実録》では、延宝4年(1676)、2人増加して15人となる。この内、2人が触頭を仰せ付けられる、とある。年代的には4年のずれがあり、新たに触頭が指名されたことが分かる。
・宝永5年(1708)、町の治安強化で諸勤役が繁多となったため、15人を増員して30人となり、触頭を3人とした。《実録》《総覧》
・正徳5年(1715)、新規に御役所内に御番所が建てられ、町司のうち、10人を御役所附とし、平番が20人となったので、10人を追い追い追加した。《実録》《総覧》
この年に新たに御役所附が設けられたことが分かる。
・享保1年(1716)、町司の内から4人を御役所附として増員し、御役所附は14人となった。平番の減員分4人に代えて5人を増員し、平番は35人となった。《実録》《総覧》

これ以降についての記載はないが、『慶応元年 明細分限帳》によると、慶応1年(1865)の町司の人数は、御役所附町司触頭・同助・御役所附町司・同助は合計27人、町司・同見習は合計33人で、合計60人と記録されている。
享保1年当時と比較すると、御役所附は14人が27人に、平番は35人が33人となっており、御役所附が大幅に増員されたのに対して、平番はほぼ横ばいとなっている。

<町司の役屋敷>
寛永3年(1626)頃までは、本博多町に役屋敷があったが、ここに在った奉行屋敷が焼失して、岬の先端近くの外浦町に西役所と東役所が設けられた。町司の役屋敷も、その時焼失したと見られ、同年、町司のために引地町に5軒長屋と6軒長屋が1棟ずつ建てられた。

延宝5年(1677)頃に、南馬町と出来大工町の間にある大井手町に町司長屋が増設された。その結果、引地町長屋11軒と大井手町長屋6軒となった。

宝暦5年(1755)、引地町長屋が類焼したため、新たに7軒長屋と6軒長屋が各1棟が建てられた。

文化年間(1804~1817)には、引地町・大井手町・八百屋町・銅座跡に町司長屋が存在した。これらの町司長屋は、「長崎諸役所絵図」(国立公文書館所蔵)に描かれている。

引地町の町司長屋

大井手町の町司長屋

八百屋町の町司長屋

銅座跡の町司長屋

<町司の役料>

町司の家は、家禄として平番の受用高で代々相続し、勤務年数や勤務成績に応じて御役所附や触頭に抜擢されて手当金が付加された。それらの受用高は、次のとおりである。

・平番町司:     高  2人扶持、受用銀2貫140目
・御役所附町司助過人:高  2人扶持、受用銀2貫140目
・御役所附町司:   高30俵3人扶持、受用銀2貫430目
・町司触頭:     高40俵5人扶持、受用銀2貫650目

相続する家禄とは別に、昇進による増額(上記)、勤務成績や加役などによって町司個人に対して、別途、報奨金や手当が支給された。

矢次家3代関右衛門と5代関次は、御役所附町司に任命されたときに、受用高30俵3人扶持、受用銀2貫430目を受けている。

慶応1年(1865)当時の矢次重之助(平野富二の実兄)の受用高は、2貫140目(銀2,140匁/月=金貨で約40両/月)、2人扶持(一日に米1升)で平番町司だった。

<町司の資格>
長崎町人の中から選ばれた地役人の一役職が町司であるので、たとえ祖先が諸藩の武士であったとしても、町人扱いとなる。

しかし、役職柄、苗字帯刀を許されていた。

矢次家では、役宅である町長屋に居住し、家僕(家付きの下男)が1人居た。

<幕末・維新期の変動>
平野富二の実兄矢次重之助(和一郎、重平、温威)は、幕末に長崎奉行支配の町司となり、明治維新を経て新政府の下で長崎裁判所、長崎府、長崎県の役職を得ている。「矢次事歴」には、矢次重之助を通じてこの時期の町司とその後の変遷の有様が述べられており、貴重な記録となっている。

矢次重之助は、嘉永1年(1848)10月14日、数え年6のとき、父の死去により長男として相続し、町司となった。年少であったためか、安政2年(1855)、数え年13のとき、初めて加役として新地仕役掛を勤めている。

その後、慶応1年(1865)まで、町司としての通常勤務の外に数多くの加役を勤めあげた結果、同年2月9日、数え年23で町司定乗助に昇進し、同年4月4日に町司定乗となって、手当として銀120目(金貨で約2両相当)を支給された。

同年12月12日、「乃武館」詰めを仰せ付けられ、勤め役として2人扶持、泊番手当として銀4匁(目と同じ)を支給された。

乃武館(だいぶかん)は、軍事と警察を兼任した部隊の屯所(詰所)で、片淵町の組屋敷に設けられた。長崎奉行は、黒田藩と鍋島藩の藩兵引揚げに代えて、五組の二男以下・市中浪人や剣客とその門人などを徴募して250名を以って「警衛隊」を組織した。別に「鉄砲隊」と「剣槍隊」を編成して市中警備に当たらせ、さらに、農民・町民が大部分の「大砲隊」と「小銃隊」が編成された。

慶応3年(1867)7月9日、数え年25のとき、四役一同が「御組同心」に召し直されて、切米高30俵2人扶持を下し置かれ、その年の内に、乃武館詰めの者一同は加役として「遊撃隊」に召し直されて、場々の警衛を仰せ付けられ、勤務日数に応じて5人扶持を下し置かれた。さらに、加役として「剣槍隊」の取締助席を仰せ付けられた。

剣槍隊の服装〈『明治六年の「長崎新聞」』から〉

「遊撃隊」は、慶応3年(1867)8月、長崎奉行がこれまでに編成した諸隊を統一して再編成した部隊で、土佐藩の「海援隊」(坂本龍馬の死後、土佐藩参政佐々木三四郎が隊長となる)に対抗するものであった。

慶応4年(1868)1月14日。長崎奉行河津伊豆守が長崎を退去し、入れ替わりに「海援隊」が西役所を占拠した。長崎に駐在していた薩摩藩の松方助左衛門(正義)が単身で片淵町の乃武館を訪問して、一触即発状態にある「遊撃隊」を説得し、恭順させたと云われている。

慶応4年(1868)2月9日から元組屋敷に入営して、日数30日詰め切りを仰せ付けられた。

同年2月14日、九州鎮撫総督澤宜嘉が長崎港に到着し、16日、長崎裁判所参謀兼務となり、長崎奉行に代わって長崎の統治を行った。長崎奉行の下にあった諸隊は「振遠隊」と改称されて、長崎裁判所(後に長崎府、長崎県)の支配下に入った。

同年4月9日、長崎裁判所に於いて「振遠隊」第二等兵を仰せ付けられ、高27俵2人扶持を支給された。2人扶持の内から半人扶持の賄い料を差し引き、それに代わって春秋衣の賄い料10両を支給された。

同年7月19日、長崎裁判所に於いて奥州出張を仰せ付けられ、イギリス船フィロン号に乗組み、同月26日、出羽国秋田郡脇本洲に上陸。8月12日、陣中で教導を仰せ付けられた。12月19日、長崎に帰陣し、長崎裁判所から褒美として軍服1領と金2,000疋(約5両相当)を下し置かれた。

明治4年(1871)7月30日、長崎県知県事から役米に代えて月給10円を支給されることになった。

明治5年(1872)2月22日、「振遠隊」が廃止され、御暇金として金12両を下付された。同日、少邏卒(しょうらそつ)を仰せ付けられ、月給6両となったが、同年中に邏卒を御暇するよう仰せ付けられ、これにより失職して、収入の道は途絶えた。

邏卒の服装〈『明治六年の「長崎新聞」』から〉

明治4年(1871)、長崎県に聴訟課が設けられ、明治5年(1872)2月、聴訟課に所属する組織として「邏卒」制度が生まれた。

邏卒はほとんど全員が振遠隊の中から選ばれ、総員60名。その中に区長(邏卒長)と権区長(副邏卒長)として各3名が任命された。
明治9年(1876)になって「邏卒」は「巡査」となった。

慶長8年(1603)に長崎奉行所の「目付役」として誕生した「町司」は、これまで述べて来た幕末・維新期の変遷を経て、274年後に長崎県の「邏卒」を経て「巡査」となった。この巡査制度は、地方自治体に所属する警察制度として、現在に引き継がれている。

矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人

平野富二は、長崎奉行支配の町司矢次豊三郎を父とし、その次男として生まれ、幼名を富次郎と称した。長男和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)が矢次家を継いだので、富次郎は矢次家の始祖関右衛門の別姓である平野姓を再興したと伝えられている。

矢次関右衛門については、『本木昌造・平野富二詳伝』(三谷幸吉編、昭和8年4月20日発行、非売品、以下『詳伝』と略す)に紹介されている。

それは、編者の三谷幸吉が平野家に伝えられた家伝にもとづいて編集したと見られる。その記述は、編者が平野富二を尊敬するあまり、表現を変えるばかりでなく、内容についても独自の見解を加えたと思われる個所が散見される。

本来ならば、平野家の家伝をそのまま紹介したいところであるが、残念ながら平野家の資料庫には見当たらない。ここでは、『詳伝』に記載されている記述の一部、平野富二とその祖先に対する過度な尊敬の表現、を改め、あとはそのまま紹介する。

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【『詳伝』に紹介された平野家の始祖】

『詳伝』の中で、平野富二の事績を紹介する本文とは別に、〔補遺〕として紹介されている内容は次の通りである。

平野富二の祖先に当たる関右衛門と云う人は、大村藩の勘定奉行であったが、領内およびその付近に洪水があり、それがために非常な飢饉が起こった。それでその当時、関右衛門は領主に米庫を開放して領民を救匡(きゅうきょう)せられたきことを嘆願に及んだ。

ところが、或る奸臣が居て、関右衛門の嘆願の非なることを領主に言上に及んだのである。それがために、米庫解放の埒(らち)が中々あかぬ。一方、領民は日一日、刻一刻と食料に窮乏して行くばかりで、領民が米庫破壊を企てる者さえあった。

大村府内は騒然たる有様なので、関右衛門は領主と領民、米庫と飢饉の板挟みとなった結果、ついに意を決して、敢て自ら米庫を開放して、領民に米を分配し救助したのであった。

他方、領主は関右衛門の独断専行を大いに憤って、ついに関右衛門に切腹を申し付けた。この処置に対して、或る老臣の一人が、関右衛門の応急処置は至当なものであり、また、関右衛門に切腹させれば、領民が騒ぎ出しては大変な騒動となることを悟り、領主に関右衛門の命乞いをした。

そのため、関右衛門は、ようやく一命は助かったが、奸臣の讒言により、ついに御暇(おいとま)を頂くことを余儀なくされた。

一浪人となった関右衛門は、知人を頼って長崎に身を落ち着け、姓を矢次と名乗った。そして、長崎奉行の認めるところとなって、長崎奉行所に奉仕し、その後、代々継いだのである。

三谷幸吉は、この伝記を紹介する前書きとして、

祖先平野勘太夫(大村藩)倅関右衛門(百五十石領)、正徳年間の飢饉に際しての米庫解放事件を叙説しておく必要がある。けだし、この祖先の伝統は平野先生へもながれているからである。

と述べている。

また、『詳伝』には、別に「平野・矢次家略系図」が掲載されている。それには、最初に平野勘太夫(大村藩)、続いて矢次関右衛門(大村藩勘定奉行、正徳三年長崎ニ来リ町司、享保十七年正月十三日没)が示されている。

この『詳伝』の発行に先立ち、『印刷雑誌』(第1巻、第4号、明治24年5月発行)に、「平野富二君ノ履歴」として掲載された記事の中に、

是年《文久2年》君《平野富二》故アリテ、同地《長崎》吉村庄之助君ノ養子トナル、五年ノ後養家ヲ辞シ帰テ平野家ヲ再興ス(矢次氏元平野氏、其先代故アリテ、矢次氏ヲ冒セルナリ)

とある。この引用文の文末にある括弧( )書きは原文のままであり、その内容は『詳伝』と相違するところはない。なお、《 》内の文言は稿者が追記した。

この「平野富二君ノ履歴」は著者が明らかでないが、福地桜痴(源一郎)が執筆したものとされている。その直前に掲載された「本木昌造君ノ行状」を福地桜痴が執筆する際に、同時に調査・入手した平野富二関係の資料に基づいたと見られる。

ごく最近まで、『詳伝』に記載されている伝記が一般に流布しこれが正しいものと考えられていた。ところが、2007(平成9)年になって、本家である矢次家のご子孫から「矢次事歴」が開示され、本家の記録を調査できるようになった。

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【「矢次事歴」の記録】

矢次関右衛門について、「矢次事歴」には次のように記録されている。原文は前回ブログで挿図によって示したので、興味のある方はご覧頂きたい。

ここでは、出来るだけ原文に忠実に、口語文に直して紹介する。

祖先平野勘太夫の倅(せがれ)である矢次関右衛門は、大村筑後守の家来で、知行150石を与えられ、勘定奉行を勤めていた。

大村藩で凶作が続き、百姓どもの難儀がいよいよ差し迫った際に、拝借を重ねて多くの制約を受けている者ども(原文:「拝借奉願支配数多有之者共」)の難儀を憐れんで銀貨を渡した。

このことを越度(おちど、法をそむいた罪)とされ、藩主から御暇(おいとま、藩籍召し上げ)を言い渡された。

浪人となった関右衛門は、長崎に出て町年寄久松善兵衛の家来松永善兵衛方に寄宿していたところ、正徳3年(1713)に町司村山半左衛門が退役を命じられて空席ができたので、その後任として町司役を仰せ付けられた。享保3年(1718)まで6ヵ年間勤務して、退役を願い出た。享和17年(1732)に病死した。

この内容を、『詳伝』の内容と比較すると、両者には微妙な相違が見られる。

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【『詳伝』と「矢次事歴」の比較】

まず、両者とも同じ内容の事柄を列記する。

1.矢次家の始祖は平野勘太夫で、大村藩士であった。
2.関右衛門は、勘太夫の倅で、大村藩の勘定奉行を勤めていた。
3.領内に洪水による飢饉(『詳伝』)、凶作が続いた(「事歴」)。
4.関右衛門の対応を越度とされ、領主から御暇を言い渡された。
5.長崎に移り住んだ。
6.長崎では矢次を名乗った。
7.長崎奉行の下で町司となった。

次に、内容の相違する事柄と片方しか記載されていない事柄を列記する。

1.関右衛門は大村筑後守の家来である(「事歴」のみ)
2.150石領(『詳伝』)、知行150石(「事歴」)
3.正徳年間の洪水で非常な飢饉(『詳伝』)、凶作が続いた(「事歴」)
4.百姓たちが困窮(『詳伝』)、拝借を重ねて制約のある者たち(「事歴」)
5.領民救助を領主に嘆願(『詳伝』のみ)
6.米庫を開放(『詳伝』)、銀貨を渡した(「事歴」)
7.奸臣、老臣と領主とのやり取り(『詳伝』のみ)
8.独断専行により切腹を申し付けられた(『詳伝』のみ)
9.正徳3年に長崎へ(『詳伝』のみ)
10.長崎の知人(『詳伝』)、長崎町年寄の家来(「事歴」)
11.長崎奉行所に奉仕(『詳伝』)、正徳3年に空席の町司(「事歴」)
12.享保3年まで勤務(「事歴」のみ)
13.享保17年1月13日没(『詳伝』)、享保17年没(「事歴」)

一般的に言えば、原典と見られる「矢次事歴」の記述のほうが正しいと考えられるが、『詳伝』には、平野家に口伝として伝えられた内容も含まれるかも知れない。

それにしても、6.で示した米庫解放と銀貨支給の相違、7.と8.で示した家臣と領主とのやり取りについては、差が大きすぎる。

これ以上は、大村藩に於ける関連記録を調査し、併せて当時の藩主の施政についても知る必要がある。

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【大村藩の「士系録」】

2016(平成28)年4月、盛山隆行氏(大村市史編さん室勤務)から、大村藩士の記録『新撰士系録 三』の抜粋コピーが提供された。それによると、大村藩士矢次家について、次のような系図が紹介されている。原文は縦書きであるが、ここでは横書きとして紹介する。

この系図を読み解くと、次のようになる。

1.矢次家の始祖は矢次近江である。
2.その息子の矢次右馬太夫は、早岐給人領田五町(今の佐世保市)から大村に来て、大村氏に仕え、大村藩矢次家初代となった。
3.二代太郎左衛門は、食禄九石八斗余りを支給された。
4.三代は杢兵衛が継いだ。
5.四代勘太夫は、平野助右衛門の二男で、矢次家に養子として入った。
6.五代関右衛門は、杢兵衛が勘太夫を養子として迎えたのちに、杢兵衛の実子として生まれたらしい。勘太夫の跡を継いで矢次家当主となったと見られる。

系図で、関右衛門の名前の傍らに記載されている記録を読み下すと、

故(ゆえ)有って大村藩の禄を離れ、長崎に住んだ。後に字(あざな)を改め、平野助左衛門と名乗った。長崎では町役を勤めた。

とある。つまり、「或る理由があって大村藩の禄を受けなくなり、長崎に移り住んだ。後に別名を平野助左衛門と名乗った。長崎では町司を勤めた。」となる。

長崎奉行所の記録では、町司として矢次関右衛門の名前が記録されている。したがって、別名の平野助左衛門を名乗ったのは、町司を退役した後のことと見られる。この別名は、矢次家四代勘太夫の実父の名前である平野助右衛門と一字違いである。

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【大村藩の史書『九葉実録』】

矢次関右衛門が、大村藩の禄を離れることになった原因について、長崎の宮田和夫氏(二十六聖人記念館勤務)の調査により、大村藩の史書『九葉実録』(大村史談会編・発行、平成6年7月)に、次のような記事があることが判った。

元禄12年(1699)閏9月9日の項に、

板鋪蔵役矢次関右衛門 会計足ラス 因テ 浪人トナシ 戸籍ヲ没入ス

つまり、「板鋪蔵役である矢次関右衛門は、会計の帳尻が合わないため、藩籍を没収され、浪人となった。」と記録されている。

板鋪蔵については、同書の注釈によると、大村氏の居城である玖島城の南側に板敷と呼ばれる地区があり、そこの波戸の手前に藩の米蔵があった。米蔵は城内と御船蔵にも存在した。

その直前の8月12、13日の項に、大雨による洪水被害のことが記録されている。その記述を要約すると、

12日夜に大雨となり、13日に洪水となった。城下と近隣を調査した結果、528町余りの田と140町余りの畠(以上の生産高8,200石余り)が水没し、民家152軒が倒壊・流失し、死者36人など、甚大な被害をこうむった。長崎奉行を通じて江戸に上申した。

さらに、翌年2月23日の項に、

廿三日制ス 自今 切米俸ノ者 公金ヲ借ラハ、返納ヲ保ツ證人ヲ得テ 其請ヲ許スヘシ

つまり、「23日、藩の規則を制定した。今後、切米俸の者が公金を借りるときは、返納を保証する人を立てれば、その請求を許すことができる。」と記録されている。

切米俸については、中下級の家臣に対して支給される扶持米で、年に2回あるいは3回に分けて藩の米蔵から分給した。玄米での支給が原則であるが、公定米価により換金して支給したこともある。

以上の記録から判明したことを列記すると、次のようになる。

1.矢次関右衛門は大村藩の所有する板敷米蔵の責任者であった。
2.元禄12年(1699)閏9月9日に矢次関右衛門は戸籍を没収され、浪人となった。
3.矢次関右衛門が浪人となった理由は、管理する米蔵の会計不足による。
4.約2ヶ月前の8月13日に大雨による洪水で、甚大な被害を被り、多くの困窮者が出た。
5.翌年2月23日に、切米俸の者に対する公金借用の条件が藩で制定された。

この時の藩主は、『寛政重修諸家譜』によると、大村因幡守純長(始祖から数えて16代目、豊臣秀吉により藩籍を認められてから4代目の当主)で、慶安3年(1650)に伊丹家から養子に入り、翌慶安4年(1651)2月に16歳で遺領を継いだ。寛永3年(1706)8月に71歳で没した。

この人の治世については、『長崎県の歴史』(山川出版社、1998)によると、明暦・寛文期(1655~1672)に藩制の諸機構を整備したが、元禄期(1688~1703)にはいると、初期以来、強力に推進してきた新田開発も極限に達し、かつ、家臣団の膨張によって再び藩財政が窮乏した。跡を継いだ5代筑後守純尹(すみまさ)によって、家臣団の知行制改革を中心とする享保改革が行われた。

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【矢次家の墓所と菩提寺の記録】

祖先の記録は、墓所にある祖先の墓石に刻まれ、菩提寺の過去帳に残されていることが多い。

「矢次事歴」に添付されていた矢次温威の記録によると、「明治13年(1880)4月26日に家内と召し連れて長崎に罷り越し、御父三拾三回忌相勤」とある。下って、温威の孫の一人が描いたと見られる菩提寺禅林寺と矢次家墓所への案内略図が残されていることから、昭和初期までは祖先の供養と墓参が行われていたと見られる。

ところが、いつの頃からか、矢次家墓所は無縁墓所となっていた。昭和62年(1989)頃に代わった禅林寺の住職により、矢次家祖先の墓石類は撤去され、他家の墓所となってしまった。

町を見下ろす石垣上に矢次家墓所があった。そこは、二区画に分割されて
他家の墓所となり、後背の市街を背景に新し墓石が建っている。

寺の過去帳もなく、墓石も失われてしまった中で、幸いにも無縁の墓石類を集積した中に平野富二の記念碑が発見され、東京谷中霊園の平野家墓所に移設された。

その記念碑は、平野富二の七回忌に当たって、その母が建立を思い立ち、長崎の西道仙に撰文を依頼したものである。

「平野富二碑」と正面に刻まれた記念碑の左側面に、

平野富二 長崎人 旧姓矢次 興始祖平野勘左右衛門之後 改今姓

と刻まれている。つまり、「平野富二は長崎の人で、旧姓は矢次。始祖平野勘左右衛門の後を興して今の姓に改めた」と記されている。

東京谷中霊園の平野家墓所に移設された「平野富二碑」

始祖平野勘左右衛門の名前は、大村藩の記録にもない名前であり、どのような記録に基づいたものか不明である。西道仙が根拠もなくこの名前を記すことは考え難い。

当時、矢次家墓所には矢次家始祖から始まる祖先の墓石が存在していたと見られるので、始祖矢次関右衛門の墓石にこの名前が刻まれていた可能性がある。

矢次関右衛門の周辺に居た人物の名前と自身の名前を挙げると、平野助右衛門、矢次勘太夫、平野助左衛門がある。それぞれの中から字を拾って組み合わせると、平野勘左右衛門となる。

これは推測であるが、矢次関右衛門は、長崎町司役を後裔に譲ってから、別名として平野助左衛門と称し、病没する前に平野勘左右衛門としたのではないだろうか?

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【まとめ】

平野富二の始祖関右衛門については、三谷幸吉が編集した『詳伝』に紹介された内容が、いままで一般に流布していた。

ところが、平野富二の本家筋にあたる矢次家から「矢次事歴」が開示され、また、昨年に相次いで、大村藩の記録である「新撰士系録」と『九葉実録』の中から矢次関右衛門に関する記録が発見され、それによって、『詳伝』の記録には錯誤や史実に基づかないフィクションが含まれていることが判った。

これまで紹介してきた各種記録を通読していただいた読者には、史実と相違する内容をすでにお気付きと思うが、要点を列記すると次のようになる。

1.『詳伝』と「矢次事歴」は共に、大村藩に於いては平野姓、長崎に出てからは矢次姓となったとしているが、史実は共に矢次姓である。平野姓を名乗ったのは、関右衛門が長崎町司を退役した後のことである。

2.『詳伝』に記された「米蔵開放事件」は、三谷幸吉によるフィクションである。

3.矢次関右衛門は、大村藩士矢次勘太夫(実父は平野助右衛門)の義弟で、勘太夫の跡を継いで矢次家当主となった。大村藩では板敷米蔵役を勤めていた。この時の藩主は四代大村因幡守純長(治世1651~1706)である。米蔵役は勘定奉行の支配下である。

4.元禄12年(1699)8月、大村府内および近郊で大雨による洪水で甚大な被害をこうむり、困窮者が出た。

5.被害を受けて困窮する下級藩士に、米蔵役の矢次関右衛門は公金の銀貨を貸し与えたが、返済が滞り、会計の帳尻を合わせられず、罪を負うことになった。

6.矢次関右衛門が大村藩の藩籍を召し上げられて浪人となったのは、元禄12年(1699)閏9月のことである。

7.浪人となって長崎に出てからは、「矢次事歴」に記載された通りと見られるが、浪人となってから平野姓を矢次姓に変えたとする『詳伝』と「矢次事歴」は誤りと見られる。

8.矢次関右衛門は、正徳3年(1713)に長崎奉行支配の町司となり、享保3年(1718)になって養子関治に町司役を譲り、隠居した。その後、別名として平野助左衛門と名乗った。
さらに、病没する前に平野勘左右衛門と名乗ったと見られる。

各家に伝えられた家伝・口伝は、それなりに意味のあるものであるが、史実に照らして検討してみると、思わぬ相違を発見することになった。

平野富二は、どこまでの事を知っていたのだろうか?

町司長屋の背後を流れる地獄川

【現在の風景】
町司長屋のあったもと引地町の一画に建つマンション(現、桜町9番地1)脇から長崎市公会堂に向かって坂道を下ると、マンションの背後に築かれた石垣に沿って水路がある。その水路は、一旦、坂道を交差するため暗渠となり、再び姿を現すが、次の坂道に出会うところから先は、再び暗渠となって完全に姿を隠してしまう。

昔は、石垣に沿って水路は海まで続いていたと見られるが、現在では、水路沿いの石垣を崩し、台地を削って宅地が造成されたため、石垣はごく限られた所しか残っていない。

水路は石が敷詰められていて、中央に溝があり、その両側は内側にゆるく傾斜している。溝にはきれいな水が流れており、水量が多いときには、水路の幅一杯に水が流れるようになっている。この構造は、長崎市中の他の場所でも見られ、明治初期に導入した最先端の土木技術が採用されたと言われている。

長崎では、川よりは小さく、溝よりは大きい水路を「えご」と称するらしい。この「えご」に沿った細道を「えごばた」と称し、近所の住民の格好の交流の場となっていたと言う。

図1は、坂道を下った所から桶屋町方向(上流側)を眺めたものである。道路の右手には長崎市公会堂がある。水路の片側は石垣で、中央に水の流れが見える。その両側はシダに覆われ、普段からあまり水量が多くないことを示している。

図1 マンション裏手の石垣と水路

 

図2は、道路を横断した地点から栄町方面(下流側)を眺めたものである。水路脇の石垣は失われ、家が建てられている。水路は桜町に属し、道路の中央から左は魚の町、前方の交差点から先は右手が興善町、左手は栄町である。

図2 栄町方面の眺め

前回のブログで紹介したように、ここには地獄川が流れていた。時代をさかのぼると、台地上に引地町が造成されるまでは、幅広い濠があったとされている。さらに戦国時代には、この付近は長い岬に沿った奥深い入り江で、満潮時の波打ち際であったと推測される。

【中島川本流の両岸は海だった】
『新長崎市史』(第二巻、近世編、長崎市、平成24年3月)によると、元亀2年(1571)の長崎開港の頃は、堂門川(西山川)と中島川が合流して中島川の本流となる周辺、つまり、現在の出来大工町から伊勢町、八幡町辺りまで奥深い入り江があった。その入り江の南側は風頭山麓に沿って流れる鹿解川(ししときかわ)の辺り、北側は現在の万才町から興善町、桜町、勝山町、馬町から成る台地の下辺りまでだったとされている。

人口の増加に伴って、その入り江は中島川本流を残して埋め立てられ、台地の下に新しい町が造成された。最初の段階で、北側は現在の賑町から栄町、さらには桶屋町、大井手町へと続く通りまでが埋め立てられた。

この記述だけでは分かりにくいので、国土地理院の1万分1地形図(平成7年9月発行)を用いて往古の海岸線を描くと、図3のようになる。太い実線は戦国時代(16世紀後半)の推定海岸線、太い破線は明治維新頃の海岸線を示す。推定海岸線は、等高線と石垣を参考にしながら概念図として描いたもので、鶴の首に似た長い岬と深く湾入した入り江の様子が分かる。

         図3 戦国時代と明治初期の推定海岸線

入り江には、最奥部で北から堂門川(西山川)が、東から中島川が流入し、入り江の口近くで南側から銅座川が流入していた。入り江は中島川本流の澪筋(みおすじ)を残して埋め立てられ、その際、両岸に沿って水路が設けられたと見られる。東岸と西岸(『新長崎市史』では南側と北側と表現)に沿った鹿解川と地獄川がそれに相当する。また、岬の東側付け根に沿って岩原川が流れ下っている。

中島川本流の河口周辺は、明治18年(1885)から変流工事が行われたため、大きく変貌した。

【濠の造成にかかわる長崎の歴史】
入り江の埋立てに際して、岬上の町を外敵から防御するため、岬の下辺、すなわち、かつての波打ち際に沿って石垣を築き、濠を掘って備えとしたと見られる。

石垣と濠の築造は、いつ頃のことで、どのような外敵に備えたのかを知るためには、戦国時代、16世紀後半以降の長崎における歴史を知る必要がある。

長崎の地を古くから支配していた地方豪族長崎氏は、長崎甚左衛門純景のときに領主大村家との関係を深め、大村純忠の息女を妻とし、その家臣となった。長崎氏の居館は、現在の長崎市桜馬場中学校の場所にあったとされ、その背後の山に砦が設けられていた。奥深い入り江に注ぐ二つの川に沿って、半農半漁の集落が形成されていた。

永禄10年(1567)、ポルトガル人ルイス・デ・アルメイダが長崎を訪れ、長崎甚左衛門の許しを得てキリスト教の布教を開始した。その2年後の永禄12年(1569)、神父ガスパル・ビレラは、甚左衛門から与えられた土地に、トードス・オス・サントス教会を建設した。これは長崎で最初に建てられたキリシタン教会とされている。ここでは、一時期、キリシタン版の印刷が行われた。この教会は禁教令の後に廃却され、現在、その跡地に華嶽山春徳寺が建てられている。

元亀1年(1570)、大村純忠は、イエスズ会の宣教師コスメ・デ・トーレスの要請を受けて長崎を開港し、ポルトガルとの貿易港とした。それは、ポルトガルとの貿易を有利に進め、それによってもたらされる莫大な利益により大村家を統一し、より有力な戦国大名となるためであった。大村純忠はキリシタン大名の一人だった。

その翌年、大村純忠は、長々と海に突出した岬上の突端近くに新しく町を開いた。大村家の家臣朝永対馬を町割奉行に任じ、まず、大村町・島原町・外浦町・平戸町・横瀬浦町・文知町の区画を定めた。各町には領内各地で迫害を受けていたキリシタン住民を中心に移住させた。

ポルトガル船が毎年のように入港するようになると、長崎は貿易港として急速に発展し、岬上の町も次第に拡大していった。この長崎の繁栄に対して、長崎と領土を接する近隣領主や豪族たちは反感を強め、とくに佐賀の龍造寺氏は近隣領主と連合して長崎を攻撃するようになった。

天正8年(1580)、大村純忠は、長崎と茂木の土地をイエスズ会に寄進し、土地の防御をイエスズ会に託した。その代りに、長崎に入港する貿易船から貿易税を徴収する権利を留保した。

このような状況下で、ポルトガル宣教師の強い勧告のもと、イエスズ会と地元キリシタン住民の手によって、岬上の町を外敵から護るため、城塞都市化が進められた。

当時、長崎に滞在していたポルトガル人巡察師アレシャンドロ・ワリニャーノによると、「周囲はほとんど全て海に囲われているほど海に突出した高い岬があるので、陸地に続く方面が防御柵と堀によって強化され、要塞のようになっている。」と記録している。

天正16年(1588)、岬上の町が豊臣秀吉によって直轄地として召し上げられた。その頃には、当初の6ヵ町が10ヵ町となっていた。その後、されに市街地化が進められ、文禄1年(1592)に豊臣秀吉は、当初の6ヵ町に隣接する本博多町に奉行所を置いた。後に内町と称される23ヵ町が奉行所支配となった。

慶長2年(1597)頃から、中島川本流を残して入り江の埋め立てが始められた。この入り江の埋め立ては、時期的に見て、岬を横断する3本の大堀築造と関係して進められたと見られる。岬の波打ち際に沿って水路を設け、三ノ堀に接する所から先は石垣を築き、石垣に沿って幅広い濠を設けたと見られる。

この頃、活版印刷に関する技術が相次いでわが国にもたらされている。少し脇道にそれるが、簡単に紹介する。

【ヨーロッパと李朝朝鮮の活版印刷技術】
天正18年(1590)、遣欧少年使節団が長崎に帰国した。長崎を発ってから11年目となる。そのとき、グーテンベルク式活版印刷機、活字、その他印刷器材・資材一式がもたらされた。帰国した使節団の中に現地で活版印刷技術を学んだ者も居て、日本でキリシタンの教義書などを印刷した。印刷された資料はコレジオ(神学院)などでの教材とされ、キリシタン版と呼ばれる。

長崎に到着した印刷設備は、陸揚げされることなく、当時、コレジオのあった島原半島南端の加津佐に運ばれ、天正19年(1591)、わが国最初の活版印刷が行われた。これは「加津佐版」と呼ばれる。同年、豊臣秀吉の伴天連(バテレン)追放令による弾圧を避けて天草に移転した。文禄1年(1592)から慶長2年(1597)頃まで「天草版」と呼ばれるキリシタン本が多数印刷された。

慶長2年(1597)中に、天草から長崎のトードス・オス・サントス教会に移されたが、翌年、イエスズ会本部のある岬の教会に移された。長崎で印刷されたキリシタン本は「長崎版」と呼ばれる。慶長19年(1614)、イエスズ会会員と日本人信者はマカオに追放され、そのとき、印刷設備一式も一緒に運び出された。

キリシタン版は、主として欧文活字を用いたラテン語とローマ字で印刷されたが、片仮名金属活字や木版で印刷されたものも多い。内容は宗教書、語学書、文学書があり、日本人ばかりでなく、渡来宣教師の日本語学習に用いられた。

この間、わずか24年間であったが、キリシタン版の印刷は、その目的が限定され、しかも、弾圧下で行われたため、活版印刷技術は普及することなく途絶えてしまった。

たまたま、同じ時期である文禄2年(1593)に、豊臣秀吉は朝鮮出兵で手に入れた朝鮮銅活字と道具一式を後陽成天皇に献上したと伝えられている。後陽成天皇はそれを用いて文禄勅版を印刷した。また、慶長2年(1597)、それにならって大型木活字を作り、慶長勅版を印刷した。

天下を統一した徳川家康は。慶長10年(1605)、禁中より借用した朝鮮銅活字を手本として、伏見において活字の鋳造を開始し、ほぼ1年かけて銅活字9万本余りを作成し、後陽成天皇に献上したという。

慶長20年(1615)になって、徳川家康は『大蔵一覧』を開版するため、先に後陽成天皇に献上した活字に加えて、1万3千字余りの活字を新たに鋳造した。徳川家康はすでに駿府に隠居しており、駿府において開版作業が行われた。これらの活字は、後に駿河版活字(国指定重要文化財、凸版印刷株式会社蔵)と呼ばれる活字の母体となったと推測されている。

【岬周辺の市街地化】
天和年間(1615~1623)頃までに、岬の周辺はぼぼ市街地化が完成して、54ヵ町となった。埋め立てによって完成した市街地は、当初、大村領に属していたが、幕府はこれを上地して、外町と称した。隣接する郷3ヵ村と天領長崎7ヵ村と呼ばれる村々を含め、勘定奉行直属の長崎代官が支配した。

岬の側面に沿って築造された濠は、慶長10年(1605)になって、濠に沿った岬の中段に引地町が造成されたとき、濠の幅は縮小され、残りは水路として利用されたと見られる。

三ノ堀よりも上流にあった既存の水路は、古地図で今博多町通りまで辿ることができるが、その水源は定かでない。上流から流れ下った水は、三ノ堀のところで岩原川の分水と合流し、出島横の海に注いでいた。

安政2年(1855)に来日したリンデンの『日本の想い出』の中に、出島の商館から眺めたこの水路の河口部分を描いた風景画がある。

     図4 出島商館から眺めた地獄川河口と北東の山々

この水路は、排水用だけでなく、内陸部への水運にも利用されていたと見られ、いつの頃からか地獄川と呼ばれるようになった。

【地獄川の名前の由来】
地獄川という名前が、いつの頃に、どのようにして名付けられたかは明確でない。しかし、中流にある桜町牢屋と引地町町司長屋の存在が関係していると見られる。

桜町牢屋で判決を受けた死刑囚が、西坂(現、JR長崎駅近くの丘)の刑場に送られる際に、小舟でこの水路を下った。そのとき、引地町の町司長屋に住む当番の町司が囚人に付き添って護送した。付近の住民はこれを見て、地獄に通じる川として、いつの頃からか、「地獄川」と呼ぶようになったと見られる。

町司長屋のあった付近から地獄川の流れに沿って下り、二本目の道路と交差する所から上る坂道は、巌流坂と呼ばれている。坂の途中の旧引地町通りを過ぎた次の通りが旧新町通りで、巌流坂の右手には長州藩蔵屋敷、左手には小倉藩蔵屋敷があった。ここに二つの蔵屋敷があったということは、物資の輸送に地獄川の水運を利用できたからと見ることができる。

なお、長州藩蔵屋敷は、平野富二が一時期養子となっていた吉村家が家守として居住していた所である。明治になって本木昌造が新街私塾と新町活版所を設けている。小倉藩蔵屋敷跡には、平野富二が本木昌造から経営を委託された新町活字製造所があった。

地獄川は、現在では「えご」と呼ばれる小さな水路となっているが、むかしは並行する道路の幅はもっと狭く、水路の幅は大きかったと見られる。

寛文2年(1662)に発生した長崎大火の結果、市内の道路が拡張された。さらに、いつの頃か岬を横断する三ノ堀が埋め立てられ、その結果、岩原川の分水がなくなったことにより地獄川の水量が減少した。明治になって、地獄川は「えご」として整備された。

このようなこともあって、地獄川の川幅は次第に縮小され、代わって道路が拡張されたと見られる。さらに現在では、暗渠化されつつある。近い将来、地獄川の痕跡は全く消え失せてしまうのではないだろうか?

以上