立神ドックと平野富次郎の執念


<まえがき>

平野富二生前の明治24年(1891)3月に編纂された平野富二の行状に関する小冊子に、立神ドックに関して、次のような趣旨の記述がある。

明治2年(1869)3月に平野富二(富次郎)が小菅修船場の所長となってから16ヶ月間で純益金18,000円を得たこと、これを資本として立神ドックの開削を民部省に建言したこと、民部大丞井上馨(聞多)がその議を容れて直ちに着手すべきとの命令を下したこと、長崎県の政府への未納金11,700円を合わせて合計29,700円を原資として開削に着手したこと。

この記述にある明治2年3月から16ヶ月間ということは、明治3年(1870)7月までとなり、純益金の金額が確定したのは同年8月以降と見られる。しかし、平野富次郎に対する「ドック取建掛」の任命書は明治2年11月となっており、未だ小菅修船場で経営を開始してから8ヶ月しか経っていない時期にドック開削人事が発令されたことになる。

したがって、16ヶ月間の純益金を原資としてドック開削を建議し、開削着手したとするのは、辻褄が合わない。

平野富次郎が提出したとされる「建議書」があれば、この疑点は明確になると思われるが、現在までその存在を確認されていない。そこで、公文書に属する各種関連史料を参照し、それに基づき検討を行った結果を以下に述べる。

<立神ドック建設についての建議>
平野富次郎は、明治2年(1869)3月中旬から、品川藤十郎とコンビで小菅修船場(ソロバンドック)の経営に当たり、着実に成果を挙げていた。

同年9月頃になって、平野富次郎は、小菅修船場では対応できない大形艦船の修理案件が多いことに着目し、「立神修船所繁栄策」を長崎県庁経由で内務省に提出したと見られる。それは、幕営時代の軍艦打建所として用地造成されたまま放置されている立神地区に大ドックを建造することを建言するものであった。

この平野富次郎の建言は、推測に基づくものであるが、それを受けて、同年10月、野村知県事(宗七、のち盛秀)が井上造幣頭(聞多、のち馨、民部・大蔵大丞)に提出した文書によって、その概要を知ることができる。その文書は、長崎歴史文化博物館所蔵の「文書科事務簿、明治2年、諸用留、製鉄処」の簿冊に綴られている。

その要点を箇条書きにすると、次のようになる。

  1. 長崎県は、国の中央から遠く離れた小都市で、産物はなく、貿易も衰退の一途を辿り、地役人は職を失い、工業を盛んにする以外に生活の道はない。
  2. 対策として港湾改良に着手したが、効果が現れるには年月を要する。
  3. その代わりに、大形船舶修理用のドライドックを建設すれば、内外の船舶が数多く入港し、長崎の繁栄に結び付く。
  4. 小菅修船場で雇用しているイギリス人技師ブレイキーによると、工事期間18ヶ月で完成し、立神地区は天然至当の地であると申している。
  5. 明治1年(1868)に、小菅修船場の取得資金として太政官から金札7万両を下付されたが、その後、金札の交換が滞って、遅延している。官軍軍艦の修復料などの支払残額2万2千両相当を、本年12月中に大蔵省に返納する手筈になっている。
  6. この分を、2,3年後に延納するようにして頂ければ、これをドック建設資金として流用し、不足の分は長崎県が資産家たちから募金してまかなう。
  7. 明治2年(1869)11月から、取りあえず掘削工事を開始したい。

これらの主要部分は平野富次郎の「立神修船所繁栄策」の骨子を為すと見られるが、この内、2.、5. 、6.の内容は、長崎県の繁栄策を述べたもので、野村知県事の判断で付け加えられたと見られる。

同年11月、民部省の認可を得て、立神地区で大ドックの掘削工事が着手されることになった。

当時、民部省は大蔵省と一体で運営されており、明治4年(1871)7月になって、民部省は廃止され、大蔵省と工部省に引き継がれることになる。

同年11月20日、「ドック取建掛」として、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、二等機関方戸瀬昇平の3名が任命され、続いて、頭取助品川藤十郎と小菅掛境賢助の2名が加えられた。

平野富次郎のドック取建掛任命書
日付の「巳十一月」は明治2年11月を示す。

この任命書は、現在も平野家に保存されている。

同年12月4日、新政府によって廃官となっていた元長崎地役人の中から、とりあえず6名が「人夫差配其外相当之任」として再雇用された。その翌日には、「稲佐立神郷に於いてドック取り建て候に付き、掘方人夫として稼ぎいたしたきものは、男女老若の差別なく、町処と名前・年齢をしたためて町方に、早々、申し立てるべく候」として、市中一統に洩れなく触れが出された。

なお、先に野村知県事が提出した上申書は、12月13日付けで大阪出張大蔵省から「御書面御懸合之趣承知候」として、長崎県に送り戻された。書面の末尾に「12月24日到来」と付記されている。

<立神ドック掘削中の平野富次郎の逸話>
ドックの掘削作業には、連日、3,000人から4,000人の作業員を動員して突貫作業が行われたと云う。長崎に居住する一般市民の中から老若男女を問わず、人夫として採用した者たちに仕事を割り振り、統率するのは大変な事であったと推測される。

そのような中で、統括責任者となっていた平野富次郎について、次のような逸話が三菱長崎造船所の社内報に紹介されている。その概要を述べると次のようになる。

平野富次郎が持病の悪化で自宅の床に伏せているとき、ドック開削中の立神現場で大ゲンカがあった。最初は博打がもとの小さなもめ事であったが、それがいつの間にか二派に分かれ、作業道具の鍬やツルハシをふるっての派手なケンカとなったそうである・

病床で注進を受けた平野富次郎は、戸板に乗せられ、舟で現場におもむいた。担がれた戸板の上で双方の意見を聴き、手際よくこの大ゲンカをさばき、後のしこりが残らないようにそれぞれの代表者を呼び寄せ、手打ちの世話までしたとか。

この時、平野富次郎は25歳(数え年)であったが、すでに組織の統率者として、その能力を発揮していることが分かる。

立神ドックを描いた明治3年8月の絵地図
図の左側にある赤茶色の場所が立神地区で、
「造船所」「舟形小屋」と表示されている。
幅広い掘割が立神ドックであるが、完成を想定した姿で描かれている。
細い方の掘割は軍艦打建所として造成された資材運搬用の荷船岸壁で、
幕末期からオランダ人が指導する小規模造船所があったと見られる。
図右端の赤茶色の場所は、長崎製鉄所の本局である飽の浦製鉄所である。

<工事の進捗と資金不足による中断>
明治3年(1870)9月7日(和暦に換算)の英字新聞「The Far East」にドック掘削中の立神現場写真が掲載されている。この写真は遠景で、必ずしも鮮明ではないが、掘削中のドックに作業員の姿は見えず、工事が中断しているように見受けられる。

建設中の立神ドック写真
土木工事としては、すでにドックの底面まで掘削が進んでいる。
ドックの底面と側面の石積み、海側に戸船(門扉)を設置し、
その後、外の土堤を撤去する。
周辺の残土整理と整地、付属設備の設置などが残されている

この工事中断は、次に述べる当初認可された資金(金札で22,000両、流通レート換算で11,700円)を使い果たし、現場作業している人夫の日給を支払うことができなくなって、中断せざるを得ない事態に陥っていたことを示している。

同年9月頃、平野富次郎は、立神ドックの掘削工事を再開するため、小菅修船場で得た純益金18,000円を立神ドック掘削用の資金とし、さらに、工事完成までの資金を確保するよう、長崎県知事野村宗七に要請したと見られる。

同年11月20日付けの長崎県から政府弁官に宛てた申立書「立神修船場ノ儀ニ付申立」が国立公文書館所蔵の『公文録』(明治3年・第37巻・戊辰・各県公文13〈長崎〉)として保管されている。その概要を箇条書きで示すと次のようになる。

  1. 立神修船場について、明治3年秋に長崎県知事が上京した際に委細を願い上げ、64,000両を拝借することが了解された。
  2. さしあたり、大阪大蔵省から10.000両を下げ渡されることになったが、残金54,000両も速やかに下げ渡されることを懇願する。
  3. 立神修船場は、府藩県の洋式軍艦・商船を専ら修理するもので、修船のために出費する莫大な金を外国人の手に奪われないようになれば、利益も少なくない。
  4. 立神修船場が繁盛して、十分の利益金を計上できるようになるまで、拝借金の延納を認めて頂きたい。
  5. 長崎港では、在留外国人が機械製作・造船・修船の事業所を開いており、利益を彼らに貪られないように苦慮している。
  6. すでに小菅修船場は近頃繁盛しており、内外の洋式船を絶え間なく修復している。立神ドックが完成すれば、それ以上の成果を挙げることになると思うので、願意をご採用くださるよう懇願する。

文中の   1. に示す長崎県知事の出張目的は、長崎県知事が平野富次郎の要請を受けて、立神ドック完成までの資金を確保するためであったと推測される。

立神ドックの掘削現場では、差し当たり小菅修船場で得た純益金18,000円と、新たに認可された金額の内の10,000両(円と等価)の入金により、工事は再開されたと見られる。

この明治3年(1870)9月頃からの一連の動きを、平野富次郎の建言とそれによる立神ドックの開削着手としてとらえ、世間に紹介したのが本稿冒頭の「平野富二の行状」記事と見られる。

明治4年(1871)1月に長崎駐在のイギリス代理領事がイギリス公使に宛てた報告書によると、「建設中のドックはかなり進捗して、約200ft(60m)の岩が切り開かれ、ドックが所要の幅と深さに掘削されている。今年末までには完成すると期待できる。」と述べている。

<工部省移管に伴う立神ドックの工事中止>
長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されることになって、明治4年(1871)3月16日、長崎製鉄所の実質的な経営責任者であった平野富次郎は官位を返上して、長崎製鉄所を退職した。

これにより、立神ドックの建設工事も中止されたと見られる。建設現場ではすでに長さ500尺(約152m)の計画に対して400尺(約121m)まで開削されていたと記録されている。

長崎県営長崎製鉄所は、明治4年(1871)4月9日、工部省に正式移管された。

工部省は、明治3年(1870)閏10月23日に新設され、横須賀造船所を管轄下に置いた。そのとき、建設中であった横須賀第1ドックは、翌年2月8日に竣工している。そのため、立神ドックの工事再開は敢て行われなかったと見られる。

立神ドックの建設工事が中断されたまま、いつまでも再開されない状態を見兼ねた平野富次郎は、長崎県艸莽と名乗って「長崎県稲佐郷立神修船場ノ儀ニ付申建候書付」を当局に提出している。

平野富次郎の艸莽書付
この書付は、平野富二が「控」として大切に保管していたものである。
第二次世界大戦前までは平野家に保管されていたが、
現在、その存在は確認できない。

この書付は、一民間人となった平野富次郎が、立神ドックの建設工事を自ら請負い、完成後の経営を政府から委託されることを要請したものである。その背景には、自分の目指す将来の道を造船業と定め、無駄の多い官営事業は民営に移管することによって効率的経営を行うべきであるとの信念に基ずくものであった。

しかし、平野富次郎による立神ドックの受託経営は実現することはなかった。

平野富次郎の信念に基ずく志望は、5年後に東京に於いて、わが国最初の民間洋式造船所となる石川島平野造船所の設立によって実現することになる。

<工部省による立神ドックの完成>
その後、工部省によって基本設計の見直しがなされ、明治7年(1874)3月、約3年間の工期で建設工事が再開された。

ドックの新仕様は、上口長さ135.7m、上幅33.4m、深さ11.6mであった。旧仕様と比較すると、長さで約16m短縮されている。

完成は明治10年(1877)とされていたが、竣工直前に異常潮位による事故が発生し、明治12年(1879)5月、ようやく竣工式が挙行された。

官営長崎造船所は、明治17年(1884)7月、三菱に貸与されて三菱長崎造船所となり、3年後に払い下げられた。

明治28年(1895)7月になって、ドック頭部を延長して長さ159.4mとなった。明治29年(1896)11月に岩瀬道に新ドック(第2ドック)が完成したことから、立神ドックは第1ドックと称されるようになった。

昭和38年(1963)7月、第1ドックは廃止されて埋め立てられた。前面の海面を埋め立て、昭和40年(1965)9月に30万トン規模の建造ドック(第1ドック)と修繕ドック(第2ドック)が竣工した。岩瀬道ドックは第3ドックと改称された。

工部省によって完成した立神ドックの遺構(石碑と菊のご紋章)は、長崎造船所構内の立神通路に面した崖面に移設され、記念碑として残されている。この記念碑は、稼働中の工場構内にあるため、非公開となっている。

記念碑には、昭和43年(1969)3月に三菱重工業㈱長崎造船所によって製作された「建碑由来」銘板が嵌め込まれている。

立神ドック遺構記念碑の「建碑由来」銘板(部分)
画面中央の「立神ドック略歴」の次の行に平野富二の名前がある。

「建碑由来」銘板に「立神ドック略歴」として次のように記されている。

立神ドック略歴
明治三年(1870)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工、同四年(1871)一時工事中止
明治七年(1874)フランス人ワンサン・フロランを雇入れ築工工事再開
明治一二年(1879)工事完成
(長さ140米、巾31米、深さ10米、当時東洋一)
―以下省略―

明治三年の記述は、本稿で述べた内容と若干相違する。また、明治一二年の括弧内のドックの仕様は先に述べた仕様と相違する。長さと幅はドックの上面と底面では相違し、深さは地表からドック底面までとするか、(干潮、満潮時の)海水面からドック底面までとするなど、基準が明確でないので、一概に比較できない。

三菱によって建造された岩瀬道の第3ドックは「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録されているが、その先駆を為す立神ドックについては、記念碑として残された遺構だけては登録されなかったらしい。しかし、明治日本の産業革命の歴史を語る上において、立神ドックは欠くことのできない存在である。

2018年4月26日稿了