(1)第四代社長として専務取締役に就任
名村泰蔵は、明治27年(1894)10月下旬に開催された株式会社東京築地活版製造所の株主総会において取締役に選任され、続いて取締役3人の互選により専務取締役に就任した。
図4-1 名村泰蔵の肖像写真
当時の専務取締役は、明治26年(1893)12月に制定した同社の「定款」により、「取締役の合議を経た全般の業務を処弁すると共に、内外に対して会社を代表する」としており、実質的に社長と同じである。
その直前の10月15日、曲田成は姫路の出張先で急性脳溢血を発症し、翌16日、姫路の客舎において死去した。その報せは直ちに東京の留守宅と東京築地活版製造所に届き、翌16日には広島市大手に滞在していた名村泰蔵に宛てて東京築地活版製造所から至急私報で「曲田姫路にて脳充血にて死す」と連絡された。
名村泰蔵は、明治26年(1893)9月、司法省を辞して、永年の官職を離れた。このようなことから、この頃、すでに東京築地活版製造所の役員候補として名前が挙がっていた可能性がある。
(2)名村泰蔵の出自と名前の変遷
名村泰蔵は、天保11年(1840)11月1日、島村義兵衛を父として長崎で生まれた。幼名を島村子之松、後に元健と称したとされている。
子之松は、その後、北村元助(1802~1868)の養子となって北村元四郎と名を改め、元助の孫娘トモ(1851~1938)と結婚した。北村トモは北村元七郎の弟茂登吉の娘とされている。北村元助はオランダ通詞で、その跡継ぎである北村元七郎(1833~1859)はオランダ通詞品川藤兵衛(1808~1857)の娘都喜(1839~1855)を妻としている。
『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』(長崎歴史文化博物館収蔵)によると、北村元助(小通詞並、二貫目、内助成五百目、六十六歳)、北村元四郎(小通詞末席、無給、二十六歳)、北村庄之助(元助孫、稽古通詞見習、無給、年令不明)となっていて、北村元七郎の名前はない。
北村元助の孫庄之助は、元四郎の年齢から推測すると、元七郎の息子と見られる。北村元七郎は、すでに、安政6年(1859)に死去している。
北村元助と品川藤兵衛は、本木昌造の活版研究仲間で、オランダから運ばれてきた印刷機と活字を共同で購入し、品川藤兵衛宅に持ち込み活版印刷の研究を行った。
品川藤兵衛の跡を継いだ品川藤十郎は英語を得意とするオランダ通詞で、維新後は長崎製鉄所に勤務し、本木昌造の活版事業に多額の資金を出資して協力している。後に東京築地活版製造所の取締役を務めていた。
北村元四郎が名村泰蔵と名を改めた時期は、明治3年(1870)頃と見られる。通説では、長崎のオランダ通詞名村八右衛門の養子となって名村泰蔵と改名したと言われている。しかし、名村八右衛門は安政6年(1859)に死去しており、それは有り得ない。
名村泰造が島村子之松と名乗っていた頃、名村八右衛門(元義、号は花蹊)からオランダ語を学ぶと共に、英語・ドイツ語・フランス語を修めた。同じ頃、名村泰蔵よりも1歳年下の福地源一郎(1841~1906)が名村八右衛門からオランダ語を学び、安政3年(1856)12月から安政5年(1858)12月ころまで名村家の養子となっていた。
名村八右衛門は、養子名村五八郎(1826~1876)に娘亀を嫁がせて跡継ぎとしたとされている。しかし、『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』によると、名村八右衛門(大通詞、三貫目、六十三歳)、名村貞四郎(八右衛門倅、小通詞末席、無給、二十五歳)となっていて、ここには、名村五八郎と名村泰蔵の名前はない。
名村八右衛門の倅(せがれ)とされる名村貞四郎は、年令から逆算すると天保12年(1841)に生まれている。八右衛門は若い頃に貞四郎、貞五郎と名乗っていたことがあり、同じ名前を襲名している。
『明治元年長崎府職員録』(長崎歴史文化博物館収蔵)によると上等通弁役となり、『明治三年長崎県職員録』(長崎歴史文化博物館収蔵)には長崎県外務局の権少属と記録されている。明治3年(1870)4月12日に死去している。なお、福地源一郎と同年で、名村泰蔵とは一歳年下である。
名村五八郎は、安政3年(1856)に函館詰となって長崎奉行支配の下から離れたため『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』には記載されなかったと見られる。明治5年(1872)9月には名村元度の名前で開拓使六等出仕として東京の芝増上寺に設けられた開拓使仮学校の学校掛(教授)に任命されており、明治9年(1876)に死去している。
以上のことから、名村貞四郎は、明治3年(1870)に、未だ数え年30であったが、不治の病で自分の死期を悟り、かつての父八右衛門の門人だった北村元四郎に名村家の名跡を継ぐことを依頼したのではないかと見られる。なお、『明治三年長崎県職員録』には広運館仏語教導助名村泰蔵の名前が記録されている。
(3)東京築地活版製造所に招聘されるまでの略歴
文久1年(1861)、22歳のとき、北村元四郎は幕命により神奈川奉行所詰となり、元治1年(1864)になって、フランス語の才能を見込まれ、横浜製鉄所の建築掛となった。
翌年2月、フランス海軍士官ド・ロートルが横浜製鉄所の首長に任命され、横須賀製鉄所設立原案に基づきフランス政府の支援で横浜製鉄所の建築工事が着工されたとき、通訳官として任命された。
慶應1年(1865)4月、横浜で幕府蒸気船「翔鶴丸」の機関修理がフランス軍艦「セミラミス」号の機関長ジンソライの指導の下で、横浜製鉄所所長のド・ロートルとその配下の職人により行われた。「翔鶴丸」の機関修理が終わって、試運転の際に同乗するフランス人の通訳として北村元四郎も搭乗した。そのとき、八丈島に漂着していた本木昌造らを救助するため八丈島に寄港している。近藤富蔵の『八丈実記』に「阿蘭陀通詞 北村元四郎」と記録されている。
『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』に、「小通詞末席、無給、北村元四郎、二十六歳」と記録されており、この年に神奈川奉行所詰(横浜製鉄所建築掛)を解かれて、長崎に戻ったと見られる。
慶應2年(1866)末、長崎奉行支配通詞北村元四郎は、万国博覧会御用掛に任命され、パリに派遣される徳川昭武民部大輔に随行して渡仏している。慶應4年(1868)2月、幕府崩壊によりフランスから帰国した。
長崎に戻った北村元四郎は、同年5月、長崎府上等通弁となった。同月、語学所「済美館」が改編されて「広運館」となったことから、上等通弁を務めるかたわら、その仏学局でフランス語を教えていた可能性がある。
明治2年(1869)3月に撮影されたと見られるフルベッキの送別記念写真の中に、「広運館」の教師・生徒と共に北村元四郎の姿(後列向かって左から4人目)が写されている。フルベッキは、3月10日に後任のスタウトに事務引継を行い、同月23日、長崎を発っている。
図4-2 北村元四郎の写真
明治2年3月に撮影されたと見られるフルベッキの送別記念写真。
「広運館」の教師・生徒と共に北村元四郎の姿が写されている。
『明治三年長崎県職員録』(長崎歴史文化博物館収蔵)によると、「広運館」仏語教導助として名村泰蔵の名前が記録されている。この頃、オランダ通詞名村八右衛門の倅である名村貞四郎の名跡を継いで名村泰造と改名したと見られる。
新町にあった「広運館」は国学局と洋学局に分かれ、国学局は中島の聖堂内にある明倫堂に、洋学局は外浦町の西役所跡に移転している。
本木昌造は、その「広運館」の跡を買い取って新街私塾を開設したことから、名村泰蔵は、「広運館」でフランス語の教導助を務めるかたわら、新街私塾で英語と数学を教えた。
この頃の名村泰蔵について、吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史 第二編』(非売品)に記述があるので紹介する。なお、吉村子之助(又作と改名、1858-1940)は平野富二が一時養子となっていた吉村為之助の異母弟で、吉村栄吉氏の父に当たる。
吉村子之助の住んでいた桜町にフランス語助教をしていた名村泰造という学友(教師の誤り)がいた。色が黒く頭髪がいつも茫々として眼光が鋭いため「ライオン」という綽名が付けられていた。子之助は泰造の家で、生まれて初めて牛肉というのを馳走になったという。名村家では(牛肉を)煮るとき臭気を避けるため裏庭で料理したという噂であった。
維新後に桜町に居住していた吉村子之助は、長姉の嫁ぎ先である大井手町の杉山家の二階を借りて手織り木綿を作っていて、かたわら、外浦町の西役所跡に出来た広運館の洋学局に通学して英語とフランス語を学んでいた。
明治5年(1872)2月、名村泰蔵は上京して司法省に出仕し、明法寮生徒学堂営繕掛となり、やがて翻訳局長となった。司法制度研究のため司法卿江藤新平の指示で渡欧した。このことは、明治4年(1871)11月12日に横浜を出発してアメリカに向かった岩倉使節団の後発団員の一人として名村泰蔵の名前が記録されている。司法大輔佐々木高行が理事官として使節団に当初から参加している。
渡欧先ではヨーロッパ各国の法律を調査し、その間、パリ大学法学部教授ボアソナード(Boissonade, Gustave Emile)と知り合い、その来日の契機を作ったと言われている。
少し脇道にそれるが、同年8月、本木笑三(昌造)は友人名村五八郎が万延元年遣米使節団に随行してアメリカに渡航したときの日記から要を摘んで贈られたものを『新塾餘談 三編 亜行記』上、下として刊行している。
明治6年(1873)11月、名村泰造はヨーロッパ視察を終えて帰国し、同年、司法権大書記官となった。
この年、日本政府は駐仏大使鮫島尚信を通じてボアソナードに法学教育と法典編纂のため来日を懇情し、ボアソナードは3年契約で来日した。ボアソナードは、後に契約を更新して明治25年(1892)まで日本に滞在した。その間、明治14年(1881)5月に開校した東京法学校(後の法政大学)で民法契約篇を連続講義し、明治16年(1883)に同校の教頭に就任している。
明治7年(1874)9月、名村泰蔵は台湾出兵問題で清国に派遣される特命全権弁理大臣大久保利通に随行している。明治8年(1875)には正七位に叙せられ、翻訳課長に任じられた。ついで、別局刑法草案取調委員となった。
明治11年(1878)には、ボアソナード講義、名村泰蔵口訳として『仏国刑法講義』、『仏国訴訟法講義』を司法省から刊行している。
明治12年(1879)10月、治罪法草案審査委員となる。この年、明治天皇が現任文武百官の写真を座右に備えるため「人物写真帖」を作成、その中に名村泰蔵44歳の写真も含まれている。
明治13年(1880)3月、太政官少書記官を兼務、明治14年(1881)10月、司法権大書記官、同年11月、海上裁判所取調委員となり、次いで参事院議官補なる。明治15年(1882)6月、勲五等に叙せられ、双光旭日章を下賜され、同年12月、司法大書記官に任じられ、内閣委員を仰せ付けられた。明治17年(1884)、大審院に移って「加波山事件」を担当した。
明治19年(1886)1月、大審院検事長に補せられ、勅任官二等に叙せられた。同年7月8日、正五位に叙せられ、同年11月30日、勲四等旭日小綬章を受けた。明治21年(1888)5月29日、勲三等旭日中綬章を受け、明治22年(1889)11月25日、大日本帝国憲法発布記念章を受章、明治25年(1892)2月13日、正四位に叙せられた。
明治25年(1892)8月、大審院長心得となり、明治26年(1893)9月、高等官一等に叙せられ、次いで、司法省を退官し、永年に亘る官職を辞した。
同年、従三位に叙せられ、その翌年1月、貴族院議員に勅任されている。
(4)東京活版製造所での事績
明治27年(1894)10月に株式会社東京築地活版製造所の専務取締役に就任した時の経営陣は、取締役松田源五郎、同西川忠亮、支配人野村宗十郎が重任した。
名村泰蔵が専務取締役社長として在任中に行った事績を以下に紹介する。
〔株主総会関連〕
明治28年(1895)11月25日、東京築地活版製造所の「定款変更届書」を農商務大臣に提出した。変更内容は、専務取締役を専務取締役社長とし、取締役の持株30株以上を100株以上に変更した。以後、専務取締役社長名村泰造と名乗っている。
明治29年(1896)4月、株主総会で野村宗十郎を取締役に選任し、支配人支配人とした。
明治31年(1898)10月18日、「定款変更御届」を農商務大臣に提出。明治32年(1899)1月10日、臨時株主総会を開催し、同月12日付けで「定款変更御届」を農商務大臣に提出した。これは、従来、取締役は当会社の株を100株以上所有するものに限るとしていたのを50株以上に変更したものである。明治33年(1900)11月、東京築地活版製造所の資本金を16万円に増資した。
創立当初からの取締役であった松田源五郎は、長崎で急病を発して病床に伏し、わずか数日後の明治34年(1901)3月1日、急死した。享年61。
明治39年(1906)4月、野村宗十郎を取締役支配人に再任し、同年6月、資本金を20万円に増資。日露戦役後の事業発展のための経営に資することとした。
〔事業拡張〕
明治30年(1897)2月5日、事業拡張のため、工場用地として月島通4丁目7,9,11番地と5丁目1,3,5番地の土地、合計1,425坪を借地し、借地人名村泰造、保証人西川忠亮として登記した。
明治36年(1903)1月1日、工場用地として借地していた東京月島4丁目9、11番地と5丁目1,5番地、各285坪、合計1,140坪を、改めて坪当たり3銭で借地した。月島4丁目7番地は西川忠亮が借地。ここに月島分工場として活版印刷機械の製造工場を建設することとした。(月島5丁目3番地は譲り受けたとみられる。)
図4‐3 月島分工場の完成写真
〈明治38年(1905)6月発行の『新製見本』、真田幸治氏提供〉
本工場は明治41年(1908)に完成するが、
写真で見られるように工場の一部は既に完成して、
印刷機を初めとする諸器械の製造を開始しているように見受けられる。
名村泰蔵が没して6ケ月後の明治41年3月に印刷機械を中心とする機械製造工場が完成した。これにより、東京石川島造船所と大阪活版製造所に委託していた印刷機ならびに諸器械の製造を自社で行うことになった。
〔営業活動〕
明治27年(1894)11月、前年に引き続いて第二回印刷物見本交換会を開催し、寄せられた印刷物見本を製本した『花のしおり』を野村宗十郎の名前で発行した。この印刷物見本交換会は、明治31年10月に第三回、明治35年3月に第四回が開催され、名村泰蔵の没後、明治41年6月に第五回が開催されて終了している。
明治28年(1895)4月1日、第四回内国勧業博覧会が開成され、東京築地活版製造所から活字類を出品し、名誉銀賞杯を受賞した。また、開場の当日、明朝活字三号、五号、六号と楷書活字三号の4書体を発売した。
明治36年(1903)3月1日、第5回内国勧業博覧会が大阪で開催され、ポイント活字10種を出品し、名誉銀牌を受賞した。
明治40年(1907)7月、東京勧業博覧会に仮名付活字と写真石版印刷物を出品し、名誉金牌を受賞した。
〔徒弟の基礎教育〕
明治28年(1895)4月、東京築地活版製造所内に徒弟養成学校(3年修業)を設けて、基礎教育を行うことになった。
明治32年(1899)4月1日、従来の徒弟養成学校の制度を見直し、徒弟学校として規則を制定し、徒弟として入社した者を対象に10歳から13歳までの男女子に尋常小学校の教程と同等の学科を教授するものであった。
〔その他〕
同年10月16日発行の松尾篤三編『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君畧伝』を刊行するに当たり、名村泰造はその小冊子を懐にして福地源一郎を訪問し、曲田成をよく知る者として閲読校正を依頼した。福地源一郎はその序文で名村泰蔵のことを「竹馬同窓の旧友」と述べ、若い頃、長崎で共にオランダ通詞名村八右衛門からオランダ語を学んだことを回想している。また、名村泰蔵は同書の「跋(おくがき)」に東京築地活版製造所社長として一文を呈している。
明治32年(1899)の頃、名村泰造は東京建物株式会社の専務取締役を兼務していた。東京建物株式会社は、明治29年(1896)10月1日、安田善次郎(安田財閥の創始者)により設立された会社で、割賦販売方式で不動産の売買を行った。現在、東京都中央区八重洲一丁目に本社がある。
明治37年(1904)11月27日、平野富二の十三回忌に当たり記念碑を建立して建碑式を挙行した。名村泰蔵は発起人総代の一人として式辞を述べた。記念碑の裏面には、発起人惣代として東京石川島造船所 専務取締役 平澤道次の名前と共に、「株式会社東京築地活版製造所 専務取締役 従五位勲三等 名村泰造」と刻まれている。
図4‐4 平野富二君碑
碑石の高さ1丈5尺(約4.55m)、幅5尺5寸(約1.67m)で、
上部の篆額は榎本武揚、碑文と揮毫は福地源一郎(桜痴)
石工は酒井八右衛門(井亀泉)による。
明治40年(1907)9月6日、東京築地活版製造所社長在任のまま、東京市麹町区富士見町四丁目八番地の自宅で死去した。享年68。遺族は妻トモと長男壬午郎。
特旨により正三位に叙せられ、祭祀料を賜わり、勅使をその邸に遣わされて幣帛を賜わった。
図4‐5 名村家の墓所
東京青山霊園に墓所(1種イ11号10・11側1蕃)がある。墓石の表面には「名村家之墓」と刻まれており、傍らの墓誌に戒名「馨徳院殿寛誉厳正泰安居士」が刻まれている。
まとめ
名村泰蔵は、幼名を島村子之松、少年の頃、オランダ通詞北村元七郎の養子となって北村元四郎、30歳になってオランダ語、英語、フランス語を学んだ名村八右衛門の名跡を継いで名村泰蔵となった。
北村元四郎を名乗っていた幕末から明治初期には、神奈川奉行所詰め(22歳)、横浜製鉄所の建設工事でフランス語通訳を勤め、八丈島に漂着していた本木昌造一行の救助に向かった幕府蒸気船に搭乗(27歳)、パリ万国博覧会に幕府随員として参加(28歳)し、帰国後、長崎に戻って上等通弁(29歳)となった。
慶應4年(1868)、30歳のとき、名村八右衛門・名村貞四郎の名跡を継いで名村泰蔵と改名し、長崎の「広運館」仏学局でフランス語の助教を務める傍ら、本木昌造の経営する新街私塾で英語とフランス語を教えていた。
明治5年(1872)に上京して司法省に出仕し、岩倉使節団の後発団員としてヨーロッパに派遣された。以後、明治26年(1893)、54歳のとき、大審院長心得を辞任して退官するまでの22年間を司法畑で過ごした。
東京築地活版製造所は、もともと、新街私塾の出張所(新塾出張)であったこともあり、名村泰蔵もその縁に連なる人である。そのことから、あらかじめ退官を期に東京築地活版製造所に役員として招聘される内諾があったと見られる。
第三代社長曲田成の急逝により、第四代社長として専務取締役に選任された名村泰蔵の東京築地活版製造所に於ける業績は、資本金8万円の会社から20万円の会社に成長させたこと、印刷機械を含む諸器械の専門工場として月島分工場を設立し、経営の拡大と安定を計ったことが挙げられる。また、各種博覧会に新製活字を出品して受賞し、業界のトップ企業としての地位を確立した。さらに、徒弟として入社した年少者の基礎教育を制度化した。
名村泰蔵を語る伝記や私記は見当たらない。東京築地活版製造所の正史とも言うべき『株式会社東京築地活版製造所紀要』(昭和4年10月発行)には、名村社長についての記述は僅かに4行しかない。そのこともあってか、その事績はほとんど知られていない。本書における東京築地活版製造所での事績は、板倉雅宣著『活版印刷発達史』(財団法人朝陽会、2006年10月15日)によるところが多い。
2019年3月9日 稿了