東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一

(1)第六代社長として松田精一が就任
株式会社東京築地活版製造所の第5代社長野村宗十郎が大正14年(1925)4月23日に病没したため、同年6月に開催された取締役会において、松田精一が取締役のまま第6代社長に選任された。

図6-1 松田精一の肖像写真
<『長崎商工会議所 五十年史』より>

すでに白髪が目立つ晩年の姿とみられる。
温厚な顔つきをしているが、
恰幅の良い体格で激務に耐えていたと見られる。

そのときの重役は、取締役社長:松田精一、取締役:伊東三郎、監査役:星野錫、西川忠亮であった。なお、大正14年(1925)後期定例株主総会において、前社長野村宗十郎の持株を、長男野村雅夫(東京電灯勤務)が相続して東京築地活版製造所の株主となり、取締役の1人に選任されている。

松田精一は、設立当初から同社の取締役だった松田源五郎が明治34年(1901)3月1日に急死したのに伴い、そのあとを継いで取締役に就任した。当時、すでに長崎の株式会社十八銀行頭取、長崎商業会議所(昭和3年に長崎商工会議所と改称)の会頭をつとめていた。
そのため、東京築地活版製造所の社長に就任はしたが、専務としての役を負うことは実態としてみてもできなかった。

株主総会で選出された役員のうち、伊東三郎は、枢密顧問官伯爵だった伊東巳代治の三男で東京電灯の常勤監査役、星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長、西川忠亮は初代西川忠亮の息子でインキ商西川求林堂の社長であった。このようにいずれも東京築地活版製造所の経営を専任できる人たちではなかった。

したがって、東京築地活版製造所の実質的経営を執行するのは支配人となるわけであるが、それまで野村宗十郎社長の下で支配人をつとめていた人が居たのか、居なかったのか明らかではない。
昭和3年(1928)12月に開催された、昭和3年(1928)後期定時株主総会で新たらしく取締役支配人に選任された大沢長橘が、それ以前から支配人だった可能性がある。しかし、その人の社内における実績や社外活動については記録が見当たらず、野村宗十郎は社内における後継者育成を行っていなかったのではないかと疑われても仕方がない状態がみられる。

なお、大正2年(1913)に入社し、後に技師として技術部門を統括した宮崎栄太郎は、『印刷雑誌』などに時々投稿しているが、経営上の役割をどの程度になっていたかは不明である。宮崎栄太郎は昭和6年(1931)3月、37才の若さで亡くなっている。

この1年前の大正13年(1924)4月10日に開催された定時株主総会で報告された関東大震災による罹災後の復興状況について、
「仮工場の建築ならびに機械・工具の設備も着々進捗し、復興の基礎がようやくなった。しかし、作業の日はなお浅く、いまだ充分な成績を見るにはいたっていない」
としている。

その後、借入金30万円により復興が推進され、その結果、同年7月には罹災した築地の本社建物の補修と増築工事が完了している。また、月島分工場も罹災したあとに新築した工場建物が大正13年(1924)6月に完成している。

(2)松田精一の前歴
松田精一は、長崎の十八銀行第2代頭取だった松田源五郎の息子で、明治8年(1875)に生まれた。明治31年(1898)、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、同時に十八銀行に入行した。

十八銀行では、支配人代理を経て明治36年(1903)年1月、監査役に就任し、大正4年(1915)1月、取締役となった。大正11年(1922)4月、第4代頭取永見寛二が死去した後を受けて第5代頭取となった。

昭和11年(1936)7月、病を得て辞任するまで、十八銀行頭取の在職14年余、翌昭和12年(1937)1月、死去した。数え年で63だった。

この間、大正14年(1925)1月から昭和8年(1933)1月まで長崎商業会議所(昭和3年から長崎商工会議所と改称)の会頭(第7代、初代会頭は松田源五郎)をつとめた。また、長崎貯蓄銀行頭取、東京築地活版製造所社長のほか関係事業、公職も多かった。

松田精一は東京築地活版製造所など関係事業のために長崎には不在しがちであったため、昭和5年(1930)7月以降は常勤取締役の松田一三が代わって十八銀行での采配を振るっていた。

以上は、十八銀行の社史『十八銀行 百年の歩み』(昭和53年3月発行)による。

(3)東京築地活版製造所との関り
松田精一の東京築地活版製造所との関わりは、同社の取締役だった松田源五郎が明治34年(1901)3月1日に病気で急死したことにより、同年4月に開催された定時株主総会において松田源五郎のあとを継いで取締役に選任されたときからはじまる。

図6-2 松田源五郎の肖像写真
<『長崎商工会議所 五十年史』より>

本木昌造の活版事業に1,000円を出資して協力し、
東京に出た平野富二にも活版事業と造船事業の両面で協力した。
株式組織となった東京築地活版製造所の取締役を務め、
同社の第6代社長松田精一はその長男である。

図6-3 松田源五郎の墓
長崎の光源寺別所に松田家の広大な墓所がある。
墓所の参道突き当りに松田源五郎の墓があり、
墓前に一対の石灯篭が供えられている。
その石灯籠は「東京築地活版製造所員」の献納による。

先に名前のでた松田一三は、松田精一の甥で、松田精一が東京築地活版製造所の取締役に選任されたときに、監査役として就任した松田英三の四男(明治25年5月生まれ)である。松田英三は松田源五郎の次女サヲ(松田精一の姉)と結婚して松田姓を名乗った。

取締役となった松田精一は、明治40年(1907)9月までの6年間は社長名村泰蔵の積極経営を金融面で支え、明治39年(1906)6月には資本金16万円を20万円に増資した。
明治40年10月に社長野村宗十郎に代わってからは、ポイント活字の販路拡張を中心とした拡大経営に協力し、大正6年(1917)に資本金20万円を30万円に増資して、みずから発行株式の20%近くを占める最大の株主となった。

大正3年(1914)7月の第一次世界大戦勃発から、大正7年(1918)11月の大戦終結までの間、日本経済は一時苦境におちいったが、1年後頃から景気は好転し、未曽有の大戦景気を迎えることになった。
印刷業界も非常な活況を呈したが、大正5年(1916)頃から職工不足と材料高騰に悩まされた。大戦終結後の反動不況も半年たらずで収まり、大正8年(1919)4月頃から景気は急速に回復した。

この中で印刷業者の協調は良く保たれていたが、大正12年(1913)9月1日の関東大震災によって、東京の印刷業界はほとんど壊滅状態となった。印刷同業組合加入の685工場の中で552工場が罹災し、被害額4千万円と記録されている。

東京築地活版製造所では、本社ビルの第1期工事が完成して、移転の前日であったが、新築したばかりの鉄筋コンクリートビルの構造体を残すのみで、資料類や活版製造設備一切を類焼により焼失した。月島分工場も罹災して甚大な被害を受けて印刷機械の製造を継続することができなくなった。

世の中はその後の復興景気にあおられて、一時、目覚ましい好転振りをしめしたが、大正13年(1924)8月頃から、再び不景気となり、次第に価格競争を起すきざしが現れた。

そのような中で東京築地活版製造所は、震災後の初年度の決算は赤字に転落したものの、借入金30万円により復興に努め、大正13年(1924)7月には総工事費35万円を掛けて4階建本社ビルの補修と増築を完了し、活字製造設備を中心に復旧させた。月島分工場も同年6月に新築建物を竣工させ、工作機械類の据付に入った。

その後も復旧工事は続けられ、本社ビル周辺の罹災した工場跡地を片付け、数棟の建物を新築して本社ビル内に収容できない諸設備を据え付けた。

図6-4 昭和初期の築地本社ビルと付属工場
<『東京の印刷組合百年史』より>

裏鬼門のうわさのあった本社ビル正面玄関は、
松田精一が社長に就任してから閉鎖されて壁面となり、
正面玄関は築地川沿いのビル中央の位置に移されている。
4階建本社ビルの左右に別棟の平屋建て建物が見える。
これらの建物は前社長野村宗十郎の復興計画に含まれるもので、
本社ビルに収容しきれない諸設備のために建てられたものと見られる。
震災復興後の築地地区の工場平面図を図6-4に示す。
なお、写真右下に新しく架け替えられた祝橋の欄干が写されている。

社長野村宗十郎の陣頭指揮のもとで多大の資金を投入してようやく復旧を果たした直後の大正14年(1925)4月24日、野村宗十郎は入院中の病院で死去した。

(4)第6代社長松田精一による経営
1.増資・借入金と各期の決算結果
野村宗十郎のあとを引き継いて社長に指名された松田精一は、大正14年(1925)9月、株主総会で今までの資本金30万円を倍額増資して60万円とすることを決定し、同年11月28日、臨時株主総会を開催して増資新株6,000株の第1回払込を決了した。

震災後の復興資金として日本勧業銀行から、大正14年(1925)に30万円、翌15年に10万円、昭和3年(1928)に10万円、合計50万円の融資をうけた。

明治5年(1930)11月25日の決算では、活字の売り上げ減少がひびいて、当期損益で28,141円の大幅赤字を計上した。これが原因となって、以後は当期損益では黒字となっても赤字決算を続け、株主への配当も行うことができなかった。 

2.役員の改選
大正14年(1925)12月12日、大正14年後期定時株主総会を開催し、原料が騰貴し、財界不振の状態であったが、震災以来、無配だった株主への配当を復活した。新たに取締役1名を選出し、野村宗十郎の長男野村雅夫が選任された。
野村雅夫は、野村宗十郎の持株を相続して株主となっていった。当時、東京電灯に勤務し、数え年23だった。昭和48年(1973)7月19日、行年71歳で死去している。 

大正15年(1926)12月13日、大正15年度後期定時株主総会が開催され、今まで監査役を務めてきた西川忠亮は病気のため退任した。
西川忠亮は、インキ商西川求林堂を創業した初代西川忠亮のあとを継いで二代目として父親の名前を襲名し、東京築地活版製造所の3大株主の1人となっていた。明治36年(1903)1月には月島分工場の用地の一部である月島通4丁目7番地の土地を東京築地活版製造所に代わって東京市から家屋建築用として借地している。昭和2年(1927)6月12日に病気で死去した。享年48。

昭和3年(1928)6月29日、昭和3年度前期定時株主総会が開催され、取締役だった野村雅夫が監査役となり、代わって新任取締役として大道良太が選任された。また、大澤長橘が取締役支配人に選任された。
大道良太は、明治12年(1879)生まれの滋賀県出身で、明治35年(1902)に京都大学法学部在学中に文官高等試験に合格し、翌年、卒業して内務省に入省した。大正12年(1923)に東京市電気局長として転出した。昭和5年(1930)後期まで東京築地活版製造所の取締役をつとめた。
大澤長橘は、東京築地活版製造所の社員で、それまで支配人を務めていたと見られるが、その事績は不明である。

昭和5年(1930)12月24日、昭和5年度後期定時株主総会が開催され、取締役だった伊藤三郎、大道良太の2人が退任し、代わって松田一郎、吉雄永寿が選任された。
松田一郎は、松田精一の長男で、多忙で病気がちとなった父の補助役として選任された。
吉雄永寿は、オランダ通詞出身で大蔵省に出仕していた吉雄永昌(辰之助)の長男で、明治18年(1885)以来、父親が所有していた株式を相続して株主となっていた。前期に大赤字を出して経営危機に瀕していた東京築地活版製造所を救うため星野錫らの推薦を受けて経営陣に加わった。

昭和6年(1931)12月28日、昭和6年度後期定時株主総会が開催され、取締役だった大澤長橘は退任した。

3.博覧会への出品
昭和3年(1928)11月に昭和天皇即位の大礼式が行われ、これを記念して次のような博覧会が開催された。東京築地活版製造所はこれに協賛して活字類を出品し受賞した。
・大礼記念国産振興東京博覧会   国産優良時事賞
・大礼記念京都大博覧会        国産優良名誉大賞牌
・御大典奉祝名古屋博覧会      名誉賞牌
・東北産業博覧会                 名誉賞牌

4.活字鋳造設備の縮小
大正15年(1926)10月の『印刷雑誌』によると、「さすがは築地活版、至れり尽せる活字製造の設備 堅実に復興し行く此の状況」として、手廻機130台、トムソン(Thompson)自動鋳造機8台、フランス製フーシェー(Foucher)自動鋳造機1台を備えたとしている。

ところが、昭和6年(1931)10月調の東京築地活版製造所の「工場配置図」によると、4階建本社ビルの第4階平面図に「活字鋳造工場」(図6-6)として手廻キャスチング69台、トムソン8台が設置されていて、これ以上の機械を設置する余地はほとんど無い。

残りの手廻機61台とフーシェー自動鋳造機1台は、どこに据え付けられ、その後、どのようになったか明らかになっていない。しかし、4階建本社ビルの周辺に建てられた付属工場建物の規模からみると、残りの60台を越える活字鋳造機よりなる工場建物は、図6-5の右端にある細長い煉瓦造建物以外には考えられない。しかし、その図には「紙倉庫」と表示されている。

活字の売上高は、震災直前の大正11年(1922)をピークとして、震災後はそのレベルまで復活することなく、明治4年(1929)頃からは半減し、さらに減少の傾向を示している。

このことから、本社ビルの別棟として(第2)活字鋳造工場を新設したが、その後、松田精一の決断によって余剰設備となった機械類は転売処分し、建物は紙置場に転用したのではないかと推測される。しかし、そのことを示す資料は見当たらない。

図6-5 築地地区の工場配置図
この工場配置図は、昭和6年(1931)10月調のものである。

図の左下に描かれたL字形の区画は4階建本社ビルを示す。
これとは別に、数棟の建物が築地の所有地を埋め尽くす形で建てられている。
図の右側に描かれた細長の煉瓦造建物は「紙置場」と表示されている。
しかし、もともとは、(第2)活字鋳造工場だったと見られる。

図6-6 本社ビル4階の活字鋳造工場平面図
床面の中央部分に並ぶ  □  は手廻鋳造機で、69台が配置され、

さらに、図左下の区画内にトムソン自動鋳造機8台が並べられている。
図左上突出部は母型整理場、右下の区画内は「製系工場」と表示されている。
ここの手廻鋳造機で鋳造された活字素材は、
3階にある仕上工場で女工の手によりヤスリで仕上げられる。

活字鋳造事業は、もはや大工場で大量生産する時代ではなくなり、とくに震災以降は活字販売業者が自ら活字製造業に転向する傾向にあり、東京活字製造組合(組合員104名)が結成されるまでになっていた。

また、新聞社に続いて大手印刷会社も、雑誌や全集物を印刷するために活版輪転印刷機を設置するようになると、活字の大口需要は減少の傾向にあった。さらに、中規模の出版社でも自動活字鋳造機を備えて自家鋳造するようになった。そのうえ、活字鋳造から組版までを行う機械として「和文モノタイプ」が開発され、これが出版社に導入される時代になりつつあった。

昭和5年(1930)1月、東京築地活版製造所は創業以来の社則を解き、時代に即応して印刷局に官報用活字母型を納入した。また、和文モノタイプの普及が予測される中、自社の活字を活字父型かわりとして積極的に提供して、新しい活路を開く試みをはじめた。

野村宗十郎は震災後の復興として手廻活字鋳造機を大量に設備した。しかし、この設備は明治初年から行っていた活字製造方式であり、活字の鋳造から仕上げ作業まで職人や女工の手作業に依存していた。このことは、労働運動に目覚めつつあった職工たちによるストライキの影響を直接受けることにもなった。
野村宗十郎の社長時代である大正8年(1919)10月、東京築地活版製造所を含めた京橋区と神田区の大工場の多くが、信友会による実働8時間、賃上げ5割の統一要求ストライキにより各工場を閉鎖し、首謀者を解雇するなどで業界麻痺を経験している。

5.月島分工場の廃止と九州出張所の閉鎖
昭和3年(1928)12月頃から、月島分工場の用地を分割して、東京市からの借地権を他者に譲渡し始めた。
これは、関東大震災のあとの復興需要が一段落して、活版印刷機の需要が急激に減少し、新規需要は活版輪転印刷機やオフセット印刷機など、東京築地活版製造所では扱っていない高性能の新機種に顧客の需要が移行しつつあったことによると見られる。

昭和9年(1934)7月7日になって松田精一は、東京市に対して「市有地借地権譲渡願の件」として、京橋区月島通4丁目9番地1号と同11番地の土地を馬場新に借地権譲渡することを届け出た。これによって、これまで次々と縮小してきた月島分工場を閉鎖し、活版印刷機製造事業から完全に手を引いた。

そのような状況にも関わらず、昭和6年(1931)10月に『活字と機械』(改正版)を出版し、昭和10年(1935)10月にも出版して、活字と共に印刷機械の宣伝をしている。むかし、平野富二が行ったように、外部委託で印刷機を製造し、販売だけでも継続していたとも見られる。

月島分工場の閉鎖に先立ち、昭和6年(1931)12月に業務縮小のため九州出張所(小倉市大阪町)を閉鎖している。 

6.その他
昭和2年(1927)11月、東京築地活版製造所は、秀英舎、共同印刷、日清印刷、凸版印刷、日本紙業の6社で健康保険組合を創立した。以後、健康保険料の会社負担が計上されることになった。

昭和4年(1929)10月、『株式会社 東京築地活版製造所紀要』が発行された。これは同社が発行した最初で最後の社史であるが、わずか10ページの小冊子であった。

一方、顧客でもありライバルでもあった株式会社秀英舎は、明治40年(1907)3月と大正12年(1923)3月に『株式会社秀英舎沿革史』を発行、さらに、昭和2年(1927)3月に『株式会社秀英舎 創業五十年誌』を発行している。

昭和5年(1930)6月、有志者により前社長野村宗十郎の胸像を目黒不動尊滝泉寺境内に建立した。寄せられた寄付金8,680円余りの内、東京築地活版製造所から500円、東京築地活版製造所従業員から475円40銭が寄付された。

昭和6年(1831)12月、松田精一は、財団法人日本産業協会から産業功労者の1人として表彰された。

昭和9年(1934)5月、本木昌造没後60年目にあたり本木昌造頌徳会によって長崎諏訪公園内に本木昌造銅像(椅子掛座像)が建立された。この像は戦時の金属供出により失われた。現在の立像は昭和29年(1954)に再建されたものである。

(5)東京築地活版製造所の社長辞任とその後
昭和10年(1935)5月28日に開催された昭和10年度前期定時株主総会において、松田精一は病身のため取締役社長を辞任して相談役となった。

このとき選任された役員は、社長:空席、専務取締役:大道良太(新任)、取締役:松田一郎、吉雄永寿、馬場喜久松(新任)、監査役:星野錫、野村雅夫、相談役(新設):松田精一、伊東三郎、北見米吉。

専務取締役となった大道良太は、昭和3年後期から昭和5年後期まで取締役を勤めていた。取締役に新任された馬場喜久松は、東京築地活版製造所の事務員で、永年勤続により株式譲渡を受けて株主となっていた。
相談役となった北見米吉は第4代社長の名村泰蔵と関係が深く、名村泰蔵の遺族が所有していた株式をすべて譲り受けて大株主となっていた。

しかし、専務取締役に就任した大道良太が持株を手放して辞任したため、同年6月、臨時株主総会により取締役吉雄永寿が専務取締役に選任され、社長空席のまま、経営改善に取り組むことになった。本件については次回ブログで述べる。

松田精一は、東京築地活版製造所の第6代社長を辞任して1年7ヶ月後、昭和12年(1937)1月、長崎で死去した。享年63。

まとめ
松田精一は、明治34年(1901)4月から大正14年(1925)4月までの24年間、東京築地活版製造所の取締役として第4代社長名村泰蔵と第5代野村宗十郎の下でつとめた。
野村社長の病死により大正14年(1925)4月に第6代社長に就任してから昭和10年(1935)4月に病気で退任するまで10年間つとめた。その後も相談役をつとめたが、2ヶ月後の同年6月に辞任した。

このように34年余りの長い年月にわたって東京築地活版製造所の経営に関わって来たことになる。

この間、わが国の経済情勢は、明治34年(1901)の銀行恐慌、大正12年(1923)の関東大震災による震災恐慌、そして昭和2年(1927)の金融恐慌、さらには昭和4年(1929)に始まる世界大恐慌下の昭和恐慌に至る、まさに、わが国の経済情勢は「恐慌から恐慌へ」と揺れ動く動乱の時代だった。

前々代の名村社長による積極経営と、前代の野村社長によるポイント活字販売によって、東京築地活版製造所は順調に経営の拡大がなされてきた。しかし、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で罹災し、新築したばかりの本社ビルは鉄筋コンクリートの建物が焼け残っただけで、月島分工場を含めてほとんど壊滅状態になった。

前代野村社長の陣頭指揮の下で震災復興がおこなわれ、翌13年7月には本社ビルの補修と増築が完成して活字製造を開始した。それに続いて月島分工場も復旧工事が完成した。復興事業はその後も続いたが、本社ビルの完成から1年後の大正14年(1925)4月23日になって野村社長は復興計画未完成のまま入院して間もなく病死した。

あとを引き継いで社長となった松田精一は、野村前社長の未完成の計画を引き継ぎ、震災から3年後に活字製造設備を中心とした製造設備を完成させた。その復興資金は、日本勧業銀行からの融資と資本金の増資によってまかなわれた。日本勧業銀行からは大正13年度に30万円、大正15年度と昭和2年度にそれぞれ10万円、合計50万円の融資をうけた。大正14年(1925)に30万円の倍額増資を行い、資本金60万円となった。

しかし、震災後の復興需要が一巡すると、活字の需要は減退し、月島分工場で製造する従来型の活版印刷機もその需要は低迷した。そのため、銀行融資の利払いが負担となり、株主への配当ができない状態に陥ってしまった。

原因は、野村社長の復興計画が、印刷業界の趨勢を無視して復興の重点を活字製造事業に置き過ぎたこと、自動化、省力化の最新型製造設備への転換が疎かにされたことと見られる。
明治初期からの中小企業体質をそのままの形で大企業化をはかったため、もはや、後戻りして体質改善をおこなう余裕すらない状態に追い込まれていた。

この間、社長として経営を任された松田精一は、前社長の野村宗十郎の復興投資の後始末に追われて、活字鋳造設備を半減処分し、月島分工場を閉鎖するなどで経営上の負担を軽減させたが、時代に適合した方向への軌道修正ができないまま、病気により退陣を余儀なくされた。社長に代わって強力なジーダ―シップを発揮し、社内を新しい方向へ引っ張って行く人材が育成されていなかったことも苦境からの離脱ができない要因の一つであった。

松田精一は、父の松田源五郎が本事業の開祖本木昌造と業祖平野富二に終始側面から協力した結果として設立された東京築地活版製造所の第6代社長として経営を任されたが、長崎の十八銀行頭取などの本務がある制約から、経営改善の筋道をつけることができないまま、激務による病気で引退することになった。

その後は、長男の松田一郎が取締役として経営に参画することになるが、時代の趨勢は厳しくなる一方であった。
伝統ある東京築地活版製造所の最後の幕引きは、松田一郎が倒産でなく、解散という形で締めくくる役目を負った。そのことについては次回ブログで紹介する。

2019年7月18日 稿了