国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

まえがき
明治維新まで17年前の1851(嘉永4)年、ロンドン万国博覧会が開かれたのを契機として、欧米の首都・商都を中心とした万国博覧会が相次いで開かれるようになった。

わが国が国家として最初に参加した万国博覧会は、幕府時代の1867(慶應3)年にフランスで開催されたパリ万国博覧会だった。この頃、本木昌造は長崎奉行所の支配定役格として長崎製鉄所の経営に苦心しており、一方、平野富二は土佐藩に雇われ小型蒸気船を乗り回しており、印刷事業とは無縁であった。
しかし、江戸商人としてこの万国博覧会に出品参加した清水卯三郎は、書籍の出版・販売にも興味を持っていたことから、フランスみやげとして持ち帰った中に活字母型・印刷機類があった。

パリ万国博覧会から9年後の1876(明治9)年に、アメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会に平野富二は活字・紙型等の各種見本を出品した。本木昌造は前年に死去し、平野富二による築地活版製造所の経営はその確立を目指して新たな発展を遂げていた。
この万国博覧会には、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌が政府事務官として現地に派遣された。このことが平野富二の出品の動機となったと見られる。
平野富二の出品物の中には急いで作成された活字見本帳『活版様式』があったと見られる。また、初めて国産化した小型手引印刷機も含まれていた可能性がある。

明治10年(1877)にわが国最初の内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。平野富二は宿願の造船事業に進出した直後であったが、築地活版製造所製の鉛版活字が平野富二の名前で出品された。このとき、明治10年版とされる本格的な活字見本帳が作成されたが、出品に間に合ったかどうかは定かでない。また、国産化した手引印刷機の出品があって当然であるが、平野富二の名前はなく、他者の名前で出品されたらしい。

その後に引続き開催された内国勧業博覧会や海外の万国博覧会での活字・印刷機の出品については次回「その2」で紹介する。

(1)1867年のパリ万国博覧会 L’Exposition du Paris, 1889
博覧会の概要
慶應3年(1867)1月11日、徳川昭武と随行使節団らは、横浜に碇泊中のフランス郵便「アルヘー号」に乗り組み、フランスに向けて出港した。パリ万国博覧会に参加するため清水卯三郎と従者も同行していた。同年2月29日にマルセイユで上陸し、3月6日、列車でリヨンを経由し、翌7日、パリに到着した。

パリ万国博覧会は、慶應3年2月27日(西暦1867年4月1日)から10月8日(西暦11月3日)まで開催され、一般公開は3月27日(西暦5月1日)からであった。会場はセーヌ河畔のシャン・ド・マルス広場(現在のエッフェル塔広場周辺)で、40ヘクタールを超える敷地に巨大な楕円形陳列会場を建設し、その両側に各国がパビリオンを構えて名産を販売、飲食を提供した。

図28-1 パリ万国博覧会のシャン・ド・マルス会場図
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』,思文閣出版、1985年3月、

原典:Reports of the United States Commissioners
to the Paris Universal Exposition 1867〉
セーヌ川の左岸(図の右端)に面したシャン・ド・マルス広場の中央に
長径530m、短径400mの長円形リング状の主会場が建てられた。
日本の出品区は、日本・シャム(タイ)・中国と共用しており、
日本は91㎡、シャム48㎡、中国73㎡であった。
この共用区は、図の上半部中央右寄りに位置し、会場全体の1%にも満たない。
その近くのアフリカ通りに面してアメリカ出品区がある。
清水卯三郎はこのアメリカ出品区で足踏印刷機を見付けたと見られる。
主会場の左右に各国パビリオンのある庭園が設けられた。
1889年の万博ではセーヌ河寄りの庭園部分にエッフェル塔が建てられた。

慶應元年(1865)3月、幕府は、駐日フランス公使ロッシュからパリ万国博覧会参加を勧められて、将軍徳川慶喜の名代として実弟の徳川昭武をヨーロッパに派遣し、パリ万国博覧会に参加するとともに、条約締結国を歴訪させることとした。

清水卯三郎の参加
博覧会参加については、幕府が諸藩と江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎(38歳)が手を挙げた。幕府は清水卯三郎に博覧会出品蒐集係を命じ、幕府の出展品189箱と清水卯三郎が集めた157箱は、慶應2年(1866)12月14日、先発隊が搭乗した「アゾフ号」で品川沖から発送された。

図28-2 晩年の清水卯三郎
〈清水連郎著「瑞穂屋卯三郎のこと」、『新旧時代』、大正14年12月〉

清水卯三郎(1829~1910)は、現在の埼玉県羽生市で郷士の家に生まれた。
蘭方医佐藤泰然と蘭学者箕作秋坪からオランダ語を学び、
アメリカ公使館書記官ポートマンに日本語を教える代わりに英語を学んだ。
万延元年(1860)に『ゑんぎりしことば』上・下巻を発刊。
文久3年(1863)にイギリス艦隊の旗艦「ユリアラス号」の通訳となり、
薩英戦争で捕虜となった松木弘安と五代才助を横浜で救出した。
幕府御用医師箕作秋坪から勧められてパリ万博に江戸商人として出展した。

パリに到着した清水卯三郎は、連れて来た大工に日本で加工した檜材を組立させて、数寄屋造りの水茶屋を博覧会場内に建てた。開会中、江戸柳橋の3人の芸者がお茶をたて、酒を注いで来訪者をもてなして評判を呼んだ。閉会後、出展物の販売など、残務整理を終えた清水卯三郎は、イギリス経由でアメリカに渡り、明治元年(1868)5月7日、1年4ヶ月ぶりに帰国した。

清水卯三郎は、フランス渡航に際して書家の宮城玄魚に平仮名の版下を依頼し、フランスで活字の字母を作製依頼して持ち帰ったと伝えられている。また、フランスで石版印刷機を購入し、博覧会に展示されていたアメリカのゴードン社製足踏印刷機の精巧さに驚き1台を発注し、イギリスとアメリカを経由して帰国した。

欧米視察から帰国した清水卯三郎は、浅草森田町に店舗を開いて「瑞穂屋卯三郎」と称し、西洋洋書、器具類、薬種類の販売を行い、かたわら石版印刷術を試みた。明治2年(1869)3月20日、浅草森田町から『六合新聞』を創刊したが、新聞紙印行条例に触れて第7号(4月7日)で廃刊となった。

明治2年(1869)の内に自分の店「瑞穂屋」を浅草森田町から日本橋本町3丁目20番地に移し、これまでの業務であった西洋書籍・器械類・薬種類の輸入・販売に加えて、書籍類の出版・販売を主要業務とした。

清水卯三郎の輸入した印刷機
フランスから持ち帰った石版印刷機を瑞穂屋の店頭に置いていたところ、福地桜痴の揮毫による書画会の案内状を印刷するよう依頼され、全く同じ印刷が出来て皆を驚かせたという。『中外新報』(明治2年9月17日)によると、その標語は、「明治二年己巳九月初三日 江戸貧士 桜痴泥隠福地 萬世尚甫氏撰幷書」であったという。

アメリカのゴードン社から輸入した足踏印刷機については、初めに試用しただけで自分では活用しなかった。フランスで造って貰った平仮名字母を使用して活字を鋳造することもなかったという。
条野伝平が『東京日日新聞』を創刊するに当たって、瑞穂屋の足踏印刷機に眼を付けたが、資金不足のため、これを借りることになった。しかし、持ち出しの許可が得られないため、瑞穂屋に通ってその店頭で新聞を摺らせてもらった。条野伝平は、やがて、この印刷機を750円で買取ったという。

『東京日日新聞』は、明治5年(1872)2月21日に創刊されたが、当初は木版摺であった。第2号(2月22日付)から鉛活字により日本橋本町3丁目の瑞穂屋卯三郎の店にあった足踏印刷機を使って印刷を目論んだものの、漢字活字が足りず、第12号(3月2日付)から、再び、木版摺りとなった。第118号(7月2日付)から木刻活字となり、第304号(明治6年3月2日付)から鉛活字となった。しかし、第540号(明治6年11月24日)からは平野富二から購入した5号活字となった。

この第2号から第11号までの新聞印刷に使用された鉛活字は耕文書館製と見られる。耕文書館は、岸田吟香の勧めで上海に渡航した熊谷金次郎が、上海美華書館で活版印刷と活字製造の技術を修得して帰国し、蠣殻町三丁目に活字鋳造擦立所を開設し、同年5月から営業を開始した。
第304号からの鉛活字は工部省勧工寮活字局製と見られる。工部省勧工寮活字局は、明治6年(1873)4月と6月に工部省勧工寮活字局は新聞広告を出して活字の一般向け販売をおこなった。勧工寮活字局は、明治6年(1873)11月9日に製作寮活字局となり、明治7年(1874)8月になって正院印書局に統合された。

清水卯三郎が別途輸入したと見られる他の1台の足踏印刷機は、平野富二がこれを買取り、これを手本にして模造し、国産化を行なった。その国産化を果たした時期は不明であるが、明治10年版とされる『BOOK OF SPECIMENS』に掲載された広告文の中に「足業印刷器械」が含まれている。

(2)フィラデルフィア万国博覧会 The Centennial Exposition, Fairmount Park, Philadelphia.USA
博覧会の概要
明治9年(1876)5月10日から11月10日までアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。

図28-3 フィラデルフィア万国博覧会の会場平面図(部分)
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851~1942』、図30、p.40,

原典:Frank Leslie’s Historical Resister〉
アメリカ建国100年を記念して
フィラデルフィア郊外のフェアモント公園で開催された。
図の下部の大型建物の内、右側が本館、左側が機械館である。
その上部に描かれた広大な公園内に美術館や農業館などが建てられ、
参加各国と共に日本村や日本政府館・売店が設けられた。
わが国では「米国博覧会」、「米国費府博覧会」と記している。
「費府」は「費拉徳費府」の略で、フィラデルフィア府を示す。

アメリカ政府からの参加招請に応じて日本政府が正式に参加を決定したのは明治7年(1874)10月30日のことであるが、すでに同年6月には出品布告がなされていた。
博覧会事務局は、当初、太政官正院の管轄であったが、明治8年(1875)3月31日に内務省勧業局に移管され、事務官が任命された。総裁は内務卿大久保利通、副総裁は西郷従道で、事務官の一人として吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)が任命されている。

わが国の出品物は、博覧会事務局により第一大区「鉱業・冶金術」、第二大区「製造物」、第三大区「教育・知学」、第四大区「美術」、第五大区「機械」、第六大区「農業」、第七大区「園芸」の7区分とされた。活字や印刷物は第三大区に含むものとされ、主展示会場の日本コーナーに展示された。

図28-4 日本コーナーの展示
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』、思文閣出版、1985年3月、

原典:The Masterpieces of the Centennial Exhibition Illustrated〉
主展示会場内に設けられた日本コーナーで、
日の丸の国旗と「帝国日本」の額が掲げられている。
「製造物」に属する陶磁器などの工芸品が中心で、
「教育・知学」に属する印刷関係は、ここには描かれていない。

実際にわが国から出品された点数は総計1,966点で、「製造物」が1,067点で、陶磁器を主体とした工芸品が多くを占めた。「美術」、「農業」の出品物も多かったが、機械会場に展示される「機械」の出品は無かった。したがって、印刷に関する機器類の出品は「教育・知学」として主展示会場内の日本コーナーに展示されたと見られる。会場外には日本家屋の日本館と茶屋、売店が建てられ、「教育・知学」の出品物として扱われた。

平野富二の出品
国立公文書館所蔵の「記録材料」として『米国博覧会報告 第二 明治九年』がある。それに含まれる「出品職工人名表」の自費出品之部の中に「出品物 鉛錫活字、出品主 東京 平野富二、職工 東京 桑原安六」と記録されている。これにより、平野富二は政府の勧奨に応じて鉛錫活字を自費出品したことが分かる。

また、「日本出品区分目録」にも本館展示の第三大区「教育及び知学」、第三百六小区「書籍及び新聞紙等」の中の第三十六号として「出品主 東京築地 平野富二 活字紙型等の見本各種」と記録されている。さらに、「出品原價表」に「活字 五一、三一三 東京府下平野富二」として出品物の原価が表示されている。この原価表示は51円31銭3厘を意味すると見られる。

平野富二に割り当てられた出品番号の前後には、文部省などからの書籍・新聞類の出品が記録されている。平野富二と類似の活字等の出品は見当たらない。

なお、『米国博覧会報告 第一』に「米国博覧会報告書 日本出品解説」がある。主要な出品に限って解説しているためか、第三百六小区の出品物に関する解説は見当たらない。
また、第五大区「機械」の展示として第五百四十小区から五百四十九小区に「印刷製本紙工等ノ機械」が割り当てられているが、そもそも「機械」として機械館に展示する日本からの出品はなかった。

展示会場としては、本館・美術舘・機械舘・農業舘・園芸舘の五舘があり、本館には「鉱業・冶金術」、「製造物」、「教育・知学」が、美術館には「美術」、機械館には「機械」、農業館には「農業」、園芸館には「園芸」が展示された。本館内の日本に割り当てられた第三区ブースは、館内の南側で、西側入口近くであった。

活字見本帳と手引印刷機の出品(考察)
平野富二が鉛錫活字・紙型等の見本各種を出品したことは明記されているが、この見本各種の中に活字見本帳『活版様式』と手引印刷機1台も含まれていた可能性はある。

活字見本帳『活版様式』は、この万国博覧会に合わせて作成されたものと見られる。ハードカバーをめくった扉ページに隷書で「活版様式」とあり、それに続いて事務所と正門を描いた線刻絵図に「1876」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-5 明治9年版活字見本帳の扉ページ
〈板倉雅宣著『活版印刷発達史』、印刷朝暘会、2006年10月〉

この明治9年版活字見本帳は板倉文庫旧蔵のものである。
活字摺見本に書体名の表示はないが、必要とされる各号サイズを揃え、
漢字は明朝・楷書・行書の3種、
平仮名は変体、扁平、上下接続の3種と含み、
片仮名はフリガナ用の7号まである。
その後にStand Pressとして手引印刷機の絵図が掲載されている。

手引印刷機については、活字見本帳『活版様式』に「Stand Press」として絵図が掲載されている。また、川田久長著『活版印刷史』(簡装版)によると、「その博覧会を見物に行った中国の李圭(リー・コイ)が、彼の旅行記の一節に、もとの西洋の機械よりも、立派にできていると大いに日本製の印刷機をほめている」としている。
平野富二の出品物原価51円余りの内、活字紙型と見本帳の原価は他の例から見て10円程度と見られるので、残りの40円程度は手引印刷機である可能性がある。当時の小型手引印刷機の国内における定価は100円とされていた。

図28-6 見本帳に掲載の小型手引印刷機 Stand Press
〈明治9年版活字見本帳『活版様式』、活版製造所 平野富二〉

この手引印刷機は平野富二が初めて国産化した印刷機と見られる。
これと同じ絵図が、
明治6年(1873)2月官許の『万国綱鑑録和解』に
「活字印刷機械之図 東京築地 平野富二製造」として掲載されている。

平野富二がこのフィラデルフィア万国博覧会に鉛錫活字を出品することになった経緯については良く分かっていないが、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌の存在を見逃す訳にはいかない。

政府事務官として渡航した吉雄永昌
吉雄永昌は、長崎のオランダ通詞出身で、吉雄辰太郎と称していた。品川藤十郎や吉雄圭斎とは祖先を同じくする遠い親戚である。明治になって大蔵省出仕を命じられて上京し、明治4年(1871)の岩倉米欧使節団に随員として参加した。明治9年(1876)には事務官としてフィラデルフィア万国博覧会に関わり、アメリカに渡航している。

平野富二が、築地二丁目に官庁に依頼して新築した煉瓦造二階建事務所の代金支払いに当たって、明治6年(1873)12月に月賦納付を申請したとき、吉雄永昌はその保証人となっている。おそらく品川藤十郎を通じて面識を得たと推測される。その後、吉雄永昌は、築地活版製造所が株式組織に改組されるときに株主の一人となり、後年、その息子吉雄永寿は東京築地活版製造所の専務取締役に就任している。

平野富二は、渡米した吉雄永昌を通じて、アメリカ印刷界の最新情報入手と、金子を渡して活字見本帳や参考資料の購入を依頼したと見られる。

(3)第一回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治10年(1877)8月21日から11月30日までの会期で東京の上野公園内(寛永寺本坊跡)に於いて第一回内国勧業博覧会が開催された。この博覧会の出品物展示として、会場正面に美術本館、西側に西本館、機械館、園芸館、東側に東本館、農業館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上に大時計が掲げられた。

図28-7 第一回内国勧業博覧会場略図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

寛永寺旧本坊表門だった観覧人入口を入ると、正面に美術館がある。
会場の東側(画面右側)に農業館と東本館、
西側(画面左側)に園芸館と機械館、西本館が建てられ、奥に動物館がある。

出品物は第1区:鉱業・冶金、第2区:製品、第3区:美術、第4区:機械、第5区:農業、第6区:園芸に区分され、府県別に陳列された。出品点数は8万4千点で、出品人員は1万6千人、会期中の観覧者数は45万人だった。審査によって優秀な出品物には一等(龍紋賞牌)、二等(鳳凰紋賞牌)、三等(唐草文賞牌)が授与された。

平野富二による鉛版活字の出品
平野富二は、築地活版製造所で製造した楷書・仮名等の鉛版活字を出品し、鳳紋賞牌を授与された。そのときの審査官長前島密らの褒状薦告には、「楷書及ビ假名等活字ノ鑿品字體整美ニシテ頗ル精巧ナリ。右ノ事項ニ因リ鳳紋賞牌ヲ附與アランコトヲ申請ス」とある。これにより内務卿大久保利通が授与を決済している。

鉛版活字と共に活字見本帳も出品したと見られる。しかし、平野家に所蔵されている明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(MOTOGI & HIRANO、Tsukiji Tokio. Japan)には、その刊記に年月日の表示はない。英文刷見本の中に「Tokio, Dec. 5th, 1877」と書いた例文があり、この日付は博覧会が閉会した後のものである。

したがって、平野富二は、第一回内国勧業博覧会に最新の活字見本帳を出品することを意図していたが間に合わず、代わりに明治9年版『活版様式』と明治10年(1877)4月に刊行された四号明朝体活字見本『活字摘要録 全』が展示した可能性がある。

当時、造船事業で建造中の洋式帆船をキャンセルされた平野富二は、顧客との折衝と折から勃発した西南戦争の動向把握のため、大阪に出張した。滞在1ヶ月で持病再発の兆しがあって帰京し、6月末から草津温泉で療養している。このような事情で、博覧会の準備に充分な時間をとる余裕がなかったと見られる。

明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』は、サイズ228×169ミリメートル、片面印刷111枚綴りのハードカバー本である。その見開きページに築地活版製造所の正門と煉瓦家屋の木口木版と見られる絵図(明治9年版と同じ)が単独で印刷されている。これに続いて、内表紙として「BOOK OF SPECIMENS」と題したページと、「THE Printers’ Handy Book of SPECIMENS」と題したページがある。この2枚のページには本木昌造の紋章である「丸も」と平野富二を示すドイツ文字「H」を組み合わせたマークが示されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-8 活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』
〈平野ホール所蔵〉

この2枚の表題には出版年が記されていない。
明治9年版と比較すると内容が充実し、分厚いものとなっている。
103ページに「Hand Press」として、
明治9年版で「Stand Press」として掲載された絵図がある。
5ページの広告にある3種類の活版印刷機は、
明治12年版の活字見本帳に絵図が掲載された。

続いて広告のページがあり、その中に「活字製造円形の活版摺器械」と「手業ならびに足業活版摺写押器械類」が含まれている。つまり、「円形」、「手業」、「足業」の3種類の印刷機の国産化を行ない、販売に供していたことが分かる。

本文は、漢字・仮名文字見本20ページ、各種洋文字見本24ページ、各種花文字見本39ページ、各種カット絵図17ページ、各種活版印刷用具類絵図5ページによって構成されている。103ページには「Hand Press」としてアルビオン型小型手引印刷機の絵図が掲載されている。この絵図は、明治9年版『活版様式』に「Stand Press」として掲載された絵図と同一である。

印刷機の出品
野村長三郎(東京府南茅場町)と加藤復重郎(浅草森田町)がそれぞれ印刷機を出品している。しかし、平野富二は、すでに3機種の印刷機を販売に供していたが、その名前による博覧会での出品はなかった。

野村長三郎が出品した印刷機(第六十三図として絵図がある)は、いわゆるアルビオン形手引印刷機で、その出品解説を現代文に直して紹介すると次のようになる。

第六十三図は、外国から輸入した印刷機を摸造したものである。原型に従って木型を採り、それより砂型を造り、西洋産の生鉄を用いて左右の鉄柱と上下の鉄部などを鋳造した。それに附属する部品は鍛造の上、ヤスリで仕上げた。
活字組版を(イ)に示す木枠内に置く。別置した(ロ)に示す台上でインキを均一に塗布したローラーを用いて活字組版の上面を転がしてインキを塗布する。印刷する用紙を(ハ)に示す紙挟みに取付け、活字組版の上にかぶせる。(紙挟みと活字組版を載せた)枠台を圧板の下に移動させて、(ニ)に示すハンドルを引いて圧板を降下させ、押圧して用紙に印刷する。

図28-9 野村長十郎出品の印刷機絵図
〈内国勧業博覧会事務局『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

手引印刷機とインキ台を示す絵図である。
出品解説に示す符号は判読できないが、
(イ)は印刷機本体の右にある一本支柱の上にある枠を示す。
(ロ)は右手に別置されたインキ台、
(ハ)は印刷機本体の右端に立てかけられた貼子、
(ニ)は印刷機本体に取り付けられたハンドルを示す。
この絵図をコピーして符号を除き、部分加筆と削除を行った絵図が
明治12年版活字見本帳に「活版手業機械」として掲載されている。

それに続く明細表によると、「製額」は10個で1,730円、「創製年歴」は明治9年(1876)7月、「工名地名」は伊藤常次郎 東京府南茅場町、「出品人名」は野村長三郎 となっている。しかし、後に正誤表により「工名地名」の名前と住所は削除された。

板倉雅宣氏によると、「野村長三郎は神澤社を持ち、南茅場町14番地に住んでいた。明治10年(1877)1月19日に、『仮名旁訓公布日報』を出版するため太政官に謄写を申し出て許可を得ている。彼はこの本を印刷するために手引印刷機を創製したのである。」とある。

しかし、野村長三郎が、自身で出版のために印刷機1台を外国から輸入したかも知れないが、それを基に10台も模造したとは考えられない。

出品解説の絵図は、内務省製品図面掛によって作成された線刻銅板画であるが、平野富二の活字見本帳(明治12年6月発行)に掲載されているPrinting Hand Press (活版手業機械)の絵図と酷似している。これは、出品解説の絵図を手本として、図中の符号を削除するなどして作成されたと見られる。野村長三郎と平野富二との関係についての考察は後に述べる。

加藤復重郎の出品した印刷機は、木材と鉄板等を用いて造った簡単な手動式ロール印刷機で、活字組版を水平台上に載せ、組版の上を手動でローラーを往復させる構造となっている。これは、明治7年(1874)に海外から輸入された印刷機を参考とし、考案・工夫して作成したもので、明治8年(1875)に印刷所を設けて自家用として使用したと述べている。

図28-10  加藤復重郎出品の手動式ロール印刷機
〈内国勧業博覧会事務局編『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

当時、このような簡易印刷機が輸入されていたことが分かる。
本図は単に参考として示したもので、機構の説明については省略する。

加藤複重郎は、明治6年(1873)5月、浅草に加藤活版所を設立し、明治14年(1881)2月に「活版印刷営業組合設立願」が東京府知事に提出されたとき、その一員に加わっている。加藤復重郎については、津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』に、「わが国最初の鉛版師」としてその経歴が紹介されている。

博覧会への出品とは別であるが、日報社(総代條野伝平)は博覧会の機械館内に印刷機を持ち込み、『東京日日新聞』の付録として、日々の景況、場内の遺失物、出品物の売上高を印刷し、無料で配布した。これにより、来会人に知識を開かせることにもなるとした。

平野富二が印刷機を出品しなかった理由(考察)
この博覧会には、平野富二の名前で鉛版活字が出品されたが、活版印刷機の出品はなかった。その理由は明らかではないが、博覧会開催直前の明治10年(1877)2月中旬に勃発した西南戦争により、それを報じる新聞の発行部数が急増したため、各新聞社で活版印刷機の増設需要が高まり、平野富二は出品できる活版印刷機が手元に皆無となってしまったと推察される。

平野富二は、明治9年(1876)に美濃二枚刷の大型手引印刷機の国産化を行なって、四国徳島の普及社に納入している。普及社は同年4月21日に『普通新聞』(タブロイド判二つ折り)を創刊している。タブロイド判は美濃二枚のサイズに相当する。

以下は推測にすぎないが、平野富二は、すでに国産化した手引印刷機が小型のため顧客の要求に対応できないことから、海外から輸入された大型手引印刷機を入手し、これを分解してスケッチし、図面化した。明治8年(1875)11月に友人の杉山徳三郎が横浜製鉄所を借用して機械製造を開始したことから、まず手始めに10台の製造を杉山徳三郎に依頼し、完成したものから順次、引き合いに応じて販売に供した。その中に四国普及社と野村長三郎に納入したものが含まれていた。平野富二は、明治9年(1876)5月になって横浜製鉄所の事業に出資して経営に加わっている。

明治10年(1877)2月に西南戦争が勃発し、その戦況を報道する新聞の発行部数が急激に伸びた。そのため、平野富二が製造した大型手引印刷機は、第一回内国勧業博覧会に出品する予定の製品も含めて、たちまち売り切れてしまった。その対応として、野村長三郎に依頼して先に納入した印刷機を所有者野村長三郎の名前で出品してもらったのではないだろうか。その間、野村長三郎には代替として輸入機を提供して便宜を図ったと考えられる。

野村長三郎の名前で出品したことについては、平野富二は、当時、即納を要求された顧客に対して販売できる活版印刷機が手元に一台も無いとして断っていた手前、自分の名前で出品することが出来なかったのではないだろうか。また、届け出た製造者名と住所については、出入りの業者の了解を得て、その名前と住所と使用したが、事実でないことが判明したことから削除されたと見られる。

府下縦覧工場として指定
この勧業博覧会の開場中、府下縦覧工場として19工場を指定して希望者に工場を縦覧させた。その中に築地活版製造所と石川島平野造船所があった。その他、出版印刷関係の工場としては、日報社(尾張町一丁目)、報知社(薬研堀町)、日就社(銀さ一丁目)、製紙会社(王子村)が含まれていた。

まとめ
幕末から明治期に開催された博覧会に出品された鉛活字と印刷機は、近代化を目指すわが国にとって文明の利器として欠くことのできないものとなった。

1867(慶應3)年4月にフランスでパリ万国博覧会が開催された。これは、わが国が国家として最初に参加した万国博覧会であった。幕府は自らの出品と共に諸藩や江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎が手を挙げた。
活字と印刷機については時期尚早のため、わが国の出品物の中には無かった。しかし、江戸商人として参加した清水卯三郎の「フランスみやげ」の中に、仮名文字の活字母型、石版印刷機と足踏印刷機があった。
活字母型は宮城玄魚による平仮名の版下を持参してフランスで作製依頼したものであるが、活字鋳造は行われなかったという。石版印刷機と足踏印刷機については清水卯三郎自身では使用せず、販売のため店先に置いてあった。
この足踏印刷機は、後に条野伝平がこれに眼を付け、『東京日日新聞』の創刊に関わることになった。また、別の一台は平野富二による足踏印刷機の国産化対象となった。

1876(明治9)年5月にアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。この万国博覧会参加のために政府事務官の一人として任命された吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)は、平野富二と知己であったことから、平野富二による「活字紙型等の見本各種」の出品がなされたと見られる。
この見本各種の中には、明治9年版活字見本帳『活版様式』と小形手引印刷機が含まれていたと見られる。これらについて考察を加えた。また、吉雄永昌について平野富二、築地活版製造所との関連を参考に述べた。

明治10年(1877)8月に第一回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。これはわが国政府主催の最初の博覧会であった。このとき平野富二は築地活版製造所で製造した「楷書・仮名等の鉛版活字」を出品した。しかし、平野富二の名前で出品した印刷機はなかった。
このとき、「鉛版活字」の摺り見本として明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』が一緒に出品されたと見られるが、疑問もある。また、国産化した活版印刷機を本格的に製造できる体制を整えたにも拘わらず、平野富二の名前で出品された印刷機はなく、築地活版製造所で造られたとみられる手引印刷機が、出版人である野村長三郎の名前で出品された。これらについて考察を加えた。

引続き第二回内国勧業博覧会(明治14年3月開催)、ロンドン発明品博覧会(明治17年5月)、第三回内国勧業博覧会(明治23年4月開催)などが開催されたが、これらについては、次回ブログ「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)」で紹介する。

2019年12月17日 稿了

活版印刷機の製造体制

まえがき
平野富二による活版印刷機の国産化については前々回(2019年5月)のブログで紹介した。その機種は、手引印刷機、ロール印刷機と足踏印刷機の3機種である。

販売を目的として最初に国産化を手掛けた機種は、小幡正蔵(文部省御用活版所の所長)が購入して使用していたイギリス製のアルビオン型手引印刷機であった。これは、半紙一枚摺りの小型機で、これを形取り・採寸して図面化し、部品を近くの石川島造船所に依頼して製造したものであった。
なお、石川島造船所は、明治5年(1872)10月になって、石川島修船場と石川島造兵所に分割され、印刷機の製造に必要な設備である鋳物小屋・鍛冶場・鑢場は石川島造兵所に属すことになった。

しかし、アルビオン型半紙一枚摺りの手引印刷機が製品として完成するまでの間は、本木昌造の経営する長崎の新町活版所で使用していた木材・金属混用の手引印刷機を長崎製鉄所で製造して貰い、東京で組立てて販売に供していた。

この木材・金属混用の手引印刷機は、本木昌造が長崎の新町活版所を立ち上げる際に、社員が中国の上海美華書館で見学したワシントン型手引印刷機のスケッチにもとづき、本木昌造が自分の経験を加えて図面化し、長崎製鉄所に製作を依頼したものであった。したがって、商品として販売するには難があった。

明治5年(1872)9月に埼玉県庁が、平野富二の説明を受けて、政府の布告を管内に限って活版印刷により複製して配布する許可を政府から得た。これを契機として、各府県庁では活字と活版印刷機の導入をおこなうようになった。

長崎県は、明治5年(1872)11月に「今後、布令には活字を使用す」と布達している。また、福岡県は県庁活版局を設け、明治6年(1873)4月に平野富二から活字と活版印刷機を購入して布告や公報の印刷を開始した。さらに、新潟県も県庁活版局が、平野富二から活字と活版印刷機を購入して、同年7月に『新潟県治報知』を創刊している。お膝元の東京府の布達類は、政府の印書局や印刷局で印刷された。

県庁直営ではないが、石川県の金沢町区会所は、明治6年(1873)に鉛製活字4万個と鉄製活版印刷機1台を東京から取り寄せて、活版所を開設している。また、名古屋では県庁御用達の中川利兵衛が県庁の役人と二人で平野富二の活版製造所を見学し、二号活字を買い求め、東京で見た手引印刷機を木製で模造して活版印刷を始めた。明治7年(1874)になって鉄製の小型手引印刷機とフート(手フートと称する卓上手押印刷機とみられる)を購入している。

目的を異にするが、尼崎の元藩士三浦長兵衛は、藩士授産の道として活字製造・活版印刷業を開業するため、明治5年(1872)9月、上京して平野富二に面会し、約6ヶ月間滞在して伝習を受けた。明治6年(1873)になって平野富二から活字と手引印刷機を買い受けている。

このように、各府県庁では県庁内に活版局を設けたり、民間の御用活版所を指名したりして、活字と活版印刷機を購入する動きが活発となった。平野富二にとっては、本業の活版製造と共に活版印刷機の製造体制をも早急に整備する必要が生じた。

活版印刷機の国産化は神田和泉町で開始され、鉄製小型手引印刷機が販売に供された。その後の手引印刷機の大型化とロール印刷機・足踏印刷機の国産化は、築地二丁目に移転した後に実現している。

平野富二の経営する東京の活版製造所では、神田和泉町から築地二丁目に移転して本格的に活版印刷機の製造体制を整えたが、やがて、横浜製鉄所に製造を委託、さらに、平野富二が石川島で造船事業を始めると、活版器械部を石川島に移転させ、石川島造船所で製造するようになった。その後は第4代社長名村泰蔵が活版印刷機製造を目的とした月島分工場を建設するまで、築地活版製造所の名前で販売はおこなうが、自社内での製造はおこなわなかった。

活版製造を本業とする築地活版製造所にとって活版印刷機の製造販売は、活字・活版を買ってくれる顧客を増やし、その便宜を与えることが目的であった。

本稿では、活版印刷機の製造体制に焦点を当てて、平野富二がどのように対処したかについて述べる。また、平野富二の没後に月島分工場を建設して活版印刷機の製造を再開したことについても触れることとする。

(1)神田和泉町における活版印刷機製造
平野富二は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を立ち上げた直後から、木材彫刻や金属加工に優れた技を持つ江戸の職人を探し出して、積極的に自分の工場に招聘した。

神社仏閣の飾金具師の小倉吉蔵(後に「字母吉」として独立)を字母係、路傍の印判彫刻師竹口芳五郎を版下書師、元館林藩の鎧鍛冶師で石川島造船所の職工となっていた川辺某と元金沢藩の鉄砲鍛冶師金津平四郎・清次郎親子を器械製造・修理師として雇用したことが知られている。

ついでながら、元彦根藩の鉄砲師だった大川光次がミシン器械などを製造していることを聞き込んだ平野富二は、活字鋳型師となって貰いたいと頼み込んだ。大川は平野に雇われることなく独立して活字鋳型の製造を開始し、活字の鋳造もおこなった。のちに大川は神崎正誼と知り合い、神崎が弘道軒活字製造業をはじめる契機を与え、活字鋳造機の国産化を果たした。

築地二丁目に移って最初に印刷機製造に関係した人は、石川島造船所の職工で元館林の鎧鍛冶師川辺某、元金沢の鉄砲鍛冶師金津平四郎・清次郎父子、柏原栄太郎、速水英喜の諸氏で、柏原市兵衛が主任となっていた。

大阪活版所から派遣された速水英喜を除いて、その他の者たちは神田和泉町に居た頃から、活字鋳造に必要な器具や器械類の補修をおこないながら、長崎から送られてきた長崎製鉄所製の活版印刷機の部品を組み立て、さらに、小幡正蔵が所有していた小型活版印刷機を手本にして国産化に携わっていたと見られる。

本稿の「まえがき」で述べたように、各府県庁直轄の活版所や民間経営の県庁御用活版所に平野富二が納入した活字と活版印刷機の中には、時期的にみて築地二丁目に工場を移転した明治6年(1873)7月以前に納入されたものがある。
初期に納入した活版印刷機は長崎製鉄所に依頼して製造した木・鉄混用製の印刷機と見られるが、その後に納入した「鉄製小型」と表示のある印刷機は平野富二が神田和泉町で国産化したものと見ることができる。

明治6年(1873)の平野富二の「記録」によると、「5月24日、米国より注文の内、銅板削り器械ならびに真鍮1箱参りし事」とある。これにより、活版製造に必要な器械・器具類を製造するため、アメリカに工作機械を注文していたことが判る。
活版や印刷機械を製造するための金属加工のできる工作機械がつぎつぎと入荷する中で、平野富二はひそかに築地への移転を計画していたと見られる。

明治6年(1873)8月に『東京日日新聞』に掲載した築地移転の広告で「これまで、神田佐久間町三丁目において活版ならびに銅版、鎔製摺機械、付属器とも製造いたし来たり候ところ、‥‥」と述べている。文中にある「神田佐久間町三丁目」は、活版製造所のある神田和泉町と道路を介した対面の町名で、前年に名前が付けられたばかりの神田和泉町に代えて表示したと見られる。また、「鎔製摺機械」は、鋳造による印刷機械を意味する。

(2)築地二丁目に移転後の印刷機製造
活字の需要が急速に伸び、併せて活版印刷機の引き合いが多くなったことから、神田和泉町の門長屋では手狭となり、また、地理的にも政府省庁や活字需要者の多い中心地から離れていて不便であることから、築地二丁目に土地を求めて移転することになった。

最初に買い求めた土地は120坪(400㎡)余で、その場所は築地二丁目20番地であった。この土地に木造二階建ての工場建屋を建築して、明治6年(1873)7月、神田和泉町から移転してきた。

引続き20番地に隣接する土地を買い求め、21、22番地の土地に先の工場建屋を連棟で延長・増築した。この工場建屋は工期を急ぐため木造としたが、当時、この地区は、政府の「本家作見合わせ令」により、区画整理と耐火建築義務付けにより、木造建築は仮建築としてのみ認可された。

築地二丁目における用地の買い増しは引続きおこなわれ、築地川沿いの道路に面した17、18、19番地の土地を取得し、18番地の土地に自費官築(自費で官に依頼して建築)による二階建煉瓦家屋を新築して事務所とし、活版製造所の正門と通用門を設けて「長崎新塾出張活版製造所」の表札を掲げた。

初期の活版器械製造工場
活版印刷機の製造をおこなう器械製造部門は、築地移転当初は、仮工場と称した木造の連棟二階建工場内にあったと見られる。明治7年(1874)5月になって、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始した。

築地に移転してから2年後のことになるが、本木昌造の死去を報ずる「雑報」『東京日日新聞』(岸田吟香筆 明治8年9月5日)の記事の中に次のような説明がある。その記事を平易な文章に直して以下に紹介する。

「非常に大きな製造場を新しく建ててありましたから、中に入ってみました。そこには大勢の職人が蒸気動力を用いて仕事をしていました。活字ばかりではなく、銅や鉄の加工は何でも出来ると見えます。」

この記事により、平野富二は築地の新工場に金属を加工する工作機械とそれを駆動するボイラ・蒸気機関を据え付けていたことがわかる。

先に紹介したように、明治6(1873)5月には、アメリカから銅板削り器械が到着ている。また、平野ホールに保管されている反故紙の中に「アメリカのニューヨーク州にあるSS社にて製造中の4馬力蒸気機械2機の代価900ドルの支払いを平野富二が分割払いとして承諾した」旨を記した書状(1874年12月18日付)が残されており、これらが新工場に据え付けられ、使用されていたことを示すものである。

築地移転を期に、大阪の新塾出張活版所で印刷係見習だった速水英喜が築地に派遣されて、築地の鉄工部に加わった。この頃から大阪の活版所でも印刷機の製造を手掛ける意図があったと見られる。

速水英喜(1854-1909)は、大阪の長崎新塾出張活版所支配人吉田宗三郎の縁で、開設したばかりの活版所に入り、印刷係見習となっていたが、印刷術ばかりでなく印刷機の構造に興味を持ち、自分もこのような機械を造ってみたいと念願していたという。大阪の活版所には,本木昌造が薩摩藩から譲り受けたワシントン型手引印刷機があった。

活版器械専用工場の建設
明治9年(1876)5月になって、平野富二は神田川沿いの神田左衛門河岸にあった300坪(約990㎡)余りの醸造蔵一棟を買い取り、その用材を用いて活字仕上場を建てた。その近くに余った木材を用いて長屋二棟を建てて、印刷機を含む活版器械類を製造する鉄工工場とした。これは、日増しに増大する活字と印刷機械の需要に対応して、新たな設備投資をおこなったものである。

図27-1 築地活版製造所の建物平面配置図
〈参謀本部「五千分一東京図」、明治17年3月測図、部分〉

本図は2枚からなる地図を合成したものである。
築地二丁目13~16番地の区画を図の中央に示す。
当初の仮工場は既に煉瓦造工場に建替えられている。
事務所は煉瓦造で、その横に正門と通用門がある。
活字仕上工場の余材で建てた鉄工工場において
印刷機を製造していたと見られる。
平野富二の旧居と新築し移転した新居を参考に示す。

その鉄工工場の場所は、正門を入って左手にある煉瓦建事務所の奥にある「く」の字形の細長い建物と推測される。その建物に併設する形でボイラ小屋と煙突らしきものが描かれている。

部品・素材の調達:当初は街の鋳物師に発注
神田和泉町の時代から印刷機械を製造するための素材は、もっぱら、街の鋳物師に注文したと見られる。その中で、松井寅吉と関本伝五郎の名前が判っている。

平野富二の「記録」によると、「明治6年(1873)9月14日、田中壮三注文ロール鋳型寅吉より相納。」とある。これは日付けから見て築地に移転後のことであるが、田中壮三から注文を受けたロール印刷機を製造するに当たって、出入りの寅吉に頼んで鋳型を造ってもらったとしている。その背景には、ロール印刷機の鋳物が大き過ぎて街の鋳物師では鋳造できないため鋳型だけを納入させて、石川島造船所に頼んで鋳造することにしたものと見られる。

ここに記されている寅吉とは松井寅吉のことで、『明治名工鑑』によると、4代前から鋳物師として仏具や置物を製造していた。明治4年(1871)から平野富二の注文を受けて印刷機を含めた鋳物製の器具や部品を製造していた。明治8年(1875)になって本所中ノ郷から神田佐久間町三丁目に転居したが、すでに平野富二の活版製造所は築地二丁目に転居していた。明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会には平野富二の依頼で高さ60㎝の置物を出品したという。

もう一人の関本伝五郎については、平野富二の手紙が残っている。手紙の日付は明治7年(1874)11月5日で、その内容は、注文した鋳物の不足分を早く送るようにとの督促状である。『明治名工鑑』によると、関本伝五郎は本所番場台の鋳物師で、明治2年(1869)に開業以来、舶来器械の模造をおこなっていた。明治10年(1877)の製造品目は「活版器械、暖炉、その他鉄鋳物は何品に限らず」としている。

大形部品の製造:石川島造船所と横浜製鉄所に依頼
街の鋳物師では手に負えない大形部品の鋳造や加工については、当初は海軍省所管の石川島造船所、次いで内務省駅逓寮所管の横浜製鉄所に依存せざると得なかった。 

平野富二は鉄製小型手引印刷機を国産化するに当たって、大形部品の鋳造を石川島造船所に依頼していたと見られる。

しかし、明治5年(1872)10月30日になって石川島造船所は石川島修船所と石川島造兵所に二分され、これまで平野富二が製造委託していた鋳物部品の製造工場は、造船部門から切り離されて、石川島造兵所の下で武器製造をおこなうことになった。
そのため、鋳物部品の製造委託が困難になったらしい。それでも頼みに頼んで何とか製造して貰っていた。石川島造兵所は、明治8年(1875)1月に築地小田原町の海軍省兵器製造所に併合され、設備の移転がおこなわれ、以後は製造委託ができなくなった。

横浜製鉄所については、明治8年(1875)5月に平野富二が親友杉山徳三郎と共同で横浜製造所敷地内の建屋を落札した記録がある。同年11月になって、高島嘉右衛門・大浦慶・杉山徳三郎の3名が連名で「横浜製鉄所拝借之願書」を提出し、明治9年(1876)2月から杉山徳三郎により横浜製鉄所で器械・器具類の製造が開始された。

その3か月後に、高島嘉右衛門が共同経営から脱退したことを機に、平野富二と他1名が経営に加わった。それによって平野富二は横浜製鉄所で活版印刷機を含む活版機械類の製造をおこなう道がひらけた。

石川島造兵所の併合移転により部品の製造委託ができなくなった明治8年(1875)1月から、杉山徳三郎が横浜製鉄所を借用して諸器械の製造を開始する明治9年(1876)2月までの約1年間、平野富二がどのように活版印刷機の部品調達をおこなったかは明らかではないが、鋳物師関本伝五郎に設備増強を依頼して対処した可能性はある。

明治9年(1876)7月4日付け『東京日日新聞』に、横浜製鉄所拝借人として平野富二(東京築地二丁目活版製造所)と杉山徳三郎(横浜製鉄所寄留)とが連名で広告を出している。それには、「諸機械製造 すべて鉄鋳物ならびに真鍮鋳物製造」とし、それに続けて具体的製品名を挙げている。その中に「〇活版諸機械類」が含まれている。

図27-2 横浜製鉄所の諸機械製造広告
〈『東京日日新聞』、明治9年7月4日〉

平野富二と杉山徳三郎連名の横浜製鉄所の広告である。
5行目から6行目にかけて「〇活版諸機械類」と記されている。

明治9年(1876)10月になって、平野富二は横浜製鉄所の経営から手を引いた。これは、もと石川島造船所の跡地を借用して念願の造船業に進出する目途が立ち、それに注力する必要があったからである。活版諸機械類は、横浜製鉄所で引き続き製造することとしたが、平野富二から依頼された分に限ることとした。

なお、明治10年版活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』に広告が掲載されている。それには、築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二が製造できる製品名が列記されている。上段に活版印刷機を含む活版関係の製品12項目が記されており、下段には一般産業向けの製品10品目が挙げられている。

上段の12品目の中に、「活字製造円形の活版摺器械」と「手業ならびに足業活版摺写押器械類」が含まれている。前者は「ロール活版印刷機械」のこと、後者は「手引活版印刷器械と足踏活版印刷機械」を示すと見られる。

下段の10品目は、先に横浜製鉄所拝借人として『東京日日新聞』に掲載した広告と同じ品目となっている。これらは活版印刷とは関係ない製品で、平野富二の思いの一端を示すものと見られる。

(3)築地にあった鉄工部の石川島移転
明治9年(1876)年10月30日、平野富二は海軍省主船局との間で海軍省所轄の石川島地所ならびに残存施設の借用契約を締結した。

借用した石川島地所は、閉鎖された旧修船所と他所に移転した旧造兵所の跡地で、旧修船所の跡地には総トン数600トンまでの船舶を収容できるドライドック(乾式船渠)と付属設備が残されていた。旧造兵所の跡地には諸設備の建屋だけが残されていたが、これらは借用対象外であったため、別途入札の上払い下げられた。しかし、機械工場の建屋だけは移設されたため、新設を余儀なくされた。

この頃になると築地地区は人家が密集するようになって、ボイラの燃料として石炭を燃やすことによる油煙の発生や機械の加工時に発生する騒音が近隣の人たちに迷惑を及ぼすようになっていた。

そのようなこともあって、平野富二は石川島造船所の構内に機械工場の建物を新築して、築地にあった蒸気機械(ボイラとエンジン)と工作機械(平削り盤・旋盤・蒸気ハンマーなど)を石川島に移設した。これにより、活版器械類の製造と共に船舶用器械類の製造もおこなうこととした。

蒸気機械と工作機械の移設に伴い、築地の鉄工部は石川島造船所内に設けられた徒弟部屋の一部に移された。

明治11年(1878)秋になって、平野富二は長崎で本木昌造三年祭を営み、関係者を招いて東京における活版・造船事業を本木家に引き継ぐことを申し出た。出資者により評議の結果、築地の活版製造所は本木家の所有とし、石川島造船所は平野富二の所有となった。これに伴い、活版印刷機の製造を石川島造船所に委託する形式となったと見られる。石川島造船所内にあった鉄工部はそのままで、印刷機械部と改称されたらしい。

明治12年(1879)の印刷機械部(もと鉄工部)の陣容は、『本邦活版開拓者の苦心』によると、柏原栄太郎、金子秀太郎、速水英喜、三木 某、辨木 某、江口 某、湯浅彦吉、伏谷米吉、太田 某、中島幾三郎の10名とされている。

神田和泉町時代からのメンバーだった金津平四郎・清次郎父子は、鉄工部が石川島造船所内に移転されるに際して独立し、京橋区常盤町2番地に活版器械製造所を設けた。なお、牧治三郎によると、それより前の明治7年(1874)に築地活版所を辞めて独立したとしている。

印刷機械部のメンバーに加えられた中島幾三郎(1858-1924)は、大垣藩士の次男で、明治7年(1874)に単身大阪に出て、やがて牛肉店を開業した。明治9年(1876)になって印刷業に転身すべく長崎新塾出張の大阪活版所に入所した。印刷技術よりも機械に興味を持っていたため、明治10年(1877)に印刷機械製造見習いとして石川島造船所内にあった鉄工部に派遣された。ロール印刷機の製造を担当し、鑢仕事で妙腕を振るったという。

先のメンバーの中には速水英喜の弟兵蔵の名前が見られないが、記載漏れと見られる。速水兵蔵(1860~?)は兄英喜を頼って上京し、船乗り業を志願して三菱商船学校に入学の段取りを付けたが、平野富二の勧めで兄と共に印刷機械の製造に従事することになった。それは明治11年(1878)のこととされている。

石川島造船所で印刷機械を製造していたことについては、東京石川島造船所発行の『石川島技報』(昭和17年6月発行)に紹介されている。要点をかいつまんで紹介する。

「造船所という名称は、何となくスケールの巨大な製品を想像させやすいが、この石川島で小型印刷機械や活字機械を造っていたと云うことは、ちょっと奇異の感なきを得ない。平野先生が造船所を開くと同時に、先に築地二丁目の活版製造所で製造していた機械を全部、石川島に移したと聞いたならば、その奇異の思いはおのずから解消するであろう。(中略)造船所において印刷機械を製造すると同時に、技術者も養成して、日本の印刷界に多大の貢献をなしたことは明らかである。一方、築地の活版製造所が平野先生の指導下に営業を継続していたことは勿論である。(中略)一例として、図に示す印刷機械は明治17年(1884)頃までの製品である。」

図27-3 石川島造船所で製造した印刷機械
〈『石川島技報』、第6巻 第15号、昭和17年1月〉

ここに掲載されている3種の印刷機はいずれもロール印刷機である。
左の写真は明治12年版活字見本帳にある活版車機械と同一である。
左の写真は大正3年版『活字と機械』にある
四六判八頁掛印刷機械と酷似している。

(4)印刷機械部の解散と離職者の独立支援
明治17年(1884)になって、石川島造船所内にあった築地活版製造所の印刷機械部は閉鎖され、解散した。

その理由は定かではないが、築地活版製造所の印刷機製造拠点を大阪の活版所に移すことにしたと推測される。当時、両所は共に本木家が所有し、本木小太郎が代表となっていた。

大阪の活版所は、明治11年(1878)に北久太郎町二丁目に600坪余りの土地を購入して移転し、二丁目40番地にある事務所に隣接して広大な工場を建設して、活版製造所と改称した。明治14年(1871)7月になって速水英喜・兵蔵兄弟と中島幾三郎が大阪に戻り、大阪での印刷機製造を本格化させていた。

図27-4 大阪活版製造所の工場建物
〈島屋政一著『印刷文明史』より〉

左奥の民家風の建物が事務所で北久太郎町二丁目40番地に当たる。
手前の背の高い長屋が印刷工場とされているが、
活版製造・印刷機製造もここで行われたと見られる。
頂部の3階に相当する部分は換気用と見られる。

やや後年のものになるが、大阪活版印刷業仲間事務所の「活版印刷業仲間職工住所姓名簿」(明治21年6月調べ)によると、大阪活版製造所の職工168人の内で鉄工課に所属する者は速水英喜を含めて46人で、活版製造所内で最も大きな部門となっている。

小型の手引印刷機や手フートと呼ばれる卓上型手押式印刷機などは個人企業でも製造が可能であることから、平野富二は、職を覚えた従業員で事業意欲のあるものを独立させ、築地活版製造所の名前で販売する途を選んだとみられる。

明治17年(1884)3月の「活字版並印刷器械製本器械其他定価」(改正版)と題した築地活版製造所の製品定価表によると、手引印刷機は半紙四枚摺、半紙二枚摺、半紙一枚摺、美濃一枚摺の4サイズ、車機械(ロールマシーネ)は大形、小形の2サイズ、足踏機械(フートマシーネ)は美濃版の1サイズが販売されていたことが分る。これによって、当時ほとんどの需要に対応できるところまで品揃えができたと判断したと考えられる。なお、車機械の大型は四六版16頁掛、小型は四六版8頁掛と見られる。

離職従業員の独立支援
印刷機械部の閉鎖に伴い、平野富二は活版製造に関わっていた者たちを独立させて印刷機の製造を業とし、その販売を東京築地活版製造所でおこなうこととした。

本林勇吉は、本木昌造の経営する新町私塾で学び、明治9年(1876)に築地の活版器械製造工場の製造担当となった。石川島造船所構内に移転してからは技工を勤めていたが、独立して京橋区弥左衛門町15番地で印刷機・付属品の製造を開始した。明治33年(1900)になって、江川活版製造所の江川次之進に招かれて、その下で築地2丁目14番地に本林機械製作所を開設して、印刷機を製造した。
本林勇吉の同僚だった井出雄平も独立して印刷機の製造を開始したという。

柏原栄太郎は、主任を務めていた父の柏原市兵衛の下で印刷機の製造を担当していたが、明治14年(1881)7月に独立して京橋区築地二丁目30番地に活版印刷機械製造の会社を設立している。明治23年(1890)に開催された第3回内国勧業博覧会に水谷伊之助(京橋区銀座三丁目)を通じて活版器械を出品している。

速水英喜・兵蔵兄弟は、明治14年(1881)7月に大阪活版製造所に戻り、印刷機械の製造を担当した。しかし、弟の速水兵蔵(1860-?)は、明治16年(1883)4月、築地活版所が上海に出張所修文館を設立したとき、松野直之助・平三郎兄弟に従って上海に出向し、そこで印刷と活字製造の実務に当たった。明治18年(1885)に大阪活版製造所に戻り、印刷機の修繕などをおこなっていたが、兄英喜の要請で独立し、東区北渡辺町1番地に速水鉄工所を開業した。

中島幾太郎(1858-1924)は、明治14年(1881)7月に大阪活版製造所に戻って印刷機械の製造に従事したが、4ヶ月後の明治14年11月に退職し、大阪の書肆修道館の印刷部に機械修理掛として入社し、そこで印刷機の製造をはじめた。明治18年(1885)3月になって独立し、西区土佐五丁目に中島機械工場を設立した。ロール印刷機械を中心とした印刷機の製造に従事し、数々の特許・実用新案を取得している。明治25年(1892)に製造した足踏式四六判4頁掛ロール印刷機械を東京の江川活版製造所から販売している。

なお、神田和泉町において印刷機の国産化を開始した当初から関わった者たちの中に独立して金津印刷器械製作所を設立した金津平四郎・清次郎父子がいる。手引印刷機や足踏印刷機械の製造に主力を注いでいた。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に国文社から足踏印刷機械を出品している。父平四郎の死去により二代目平四郎を襲名した清次郎は、京橋常盤町から南小田原町二丁目16番地に移転した。清次郎の長男巳之助も平四郎を名乗ったが、屋号は金津巳之助製作所と改めた。昭和に入ってからは営業方面を店員に任せきりで、廃業同然となった。

金津平四郎(初代)の次男金津金蔵は、明治5年(1872)に三菱の横浜造船所で見習い職工となった後、明治9年(1876)に常盤町の金津印刷器械製造所に入った。しかし、明治15年(1882)春、大坂砲兵工廠の徒弟となり、明治22年(1889)に上京して、京橋木挽町二丁目9番地にあった売家を購入して工場とし、分家独立した。当初は船の修理などをおこなっていたが、その後、印刷機械の製造をはじめ、明治24年(1891)頃には菊八頁掛ロール機械の製造を手掛け、従業員も職人5人、見習工7人を雇用するまでになっていた。
その頃、青山学院の印刷部に菊十六頁ロール機械2台を納入してから、中国方面に輸出するきっかけを作った。明治42年(1909)、仙台の河北新報から注文を受けてマリノニ輪転機の国産品を製作し、続いて、やまと、都、日本、東京日日、九州日日、静岡民友、秋田魁、名古屋新聞、福島民報、金沢、毎日、山形自由などの各新聞社の注文を受けて納入している。

当時の印刷機製造業者
明治9年(1876)から明治12年(1879)頃に創業した印刷機械製造業者として、加藤復重郎(浅草森田町10番地)、三卜堂(京橋新橋竹川町11番地)がある。その他、水町製造所(京橋築地三丁目)、寺本定芳(京橋銀座一丁目22二番地)、伊藤常次郎(京橋新肴町5番地)、松井兵次郎(京橋日吉町15番地)、大阪では安藤喜助(天満真砂町)が知られている。

その内、加藤復重郎は元来が印刷業者で、職業柄みずから創案した木鉄合製のハンドプレスを明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品して好評を受けたが、まもなく機械製造を辞めて印刷専業となった。三卜堂は活版機械のほかに活字鋳造機械も製造したが、明治12年(1879)頃には活字販売と印刷を兼業するようになった。大阪の安藤喜助は木製ハンドプレスを手掛け、関西方面で広く販売された。

このように、平野富二の印刷器械製造事業は、結果的に、世の中に多くの人材を輩出して、未熟であったわが国の初期機械産業の育成と発展に貢献した。

(5)大阪活版製造所での印刷機製造
大阪活版製造所での印刷機製造は、築地で学んだ速水英喜が中心となり、大阪活版製造所のブランドで印刷機を販売すると共に、築地活版製造所が販売する築地ブランドの印刷機も製造したと見られる。
なお、それまで築地ブランドの印刷機を製造していた石川島平野造船所では、その後、製造請負を辞めたと見られるが、定かではない。

明治18年(1885)になって築地活版製造所と大阪活版製造所がそれぞれ商標を登録した。その記念に製造されたと見られる手引印刷機が長崎印刷工業組合に保管されている。この印刷機には大阪と築地の商標が門型横梁の表裏に鋳出されている。

図27-5  築地活版と大阪活版の商標のある手引印刷機
〈長崎印刷工業組合所有〉

上の写真はレバー操作側の面に鋳出された東京築地活版製造所の表示、
下の写真はその裏面に鋳出された大阪活版製造所の表示である。
向かって左側は英文の社名、右側中央は商標である。

また、明治19年(1886)7月10日付の『読売新聞』に築地活版製造所と大阪活版製造所が連名で紙取付装置を付属した16ページ掛け車機械(ロールマシン)の広告を掲載している。

図27-6  築地活版と大阪活版連名の新聞広告
〈『読売新聞』、明治19年7月10日発行〉

この車機械(ロールマシン)は当時最新鋭のもので、
四六判16頁掛の紙取付装置を装備したことをPRしている。
製造は大阪活版製造所、販売は両所が協力しておこなったことが判る。

このように印刷機製造事業は築地活版製造所と大阪活版製造所が一体となって運営するようになったことが分る。

その後の活版印刷機の部分改良や大型化は、専ら大坂活版製造所に戻った速水英喜によっておこなわれたと見られる。

東京築地活版製造所で発行した「活字版並印刷器械及紙型鉛版其他定価」(明治20年7月改正)と題するチラシで、その別紙による説明に、「手引器械は、半紙一枚摺、美濃紙一枚摺(以上、四六判、即、竪六寸横四寸の版四枚掛)、半紙二枚摺、美濃紙二枚摺(以上、四六判八枚掛)、半紙四枚摺にして、ロールマシンは四六判八ページ掛、十六ページ掛、三十二ページ掛の三種にして、足踏器械は美濃紙一枚摺に御座候へ共、其国の便利に応じ白紙唐紙半枚掛又は全紙に適すべき新形のものを製造する事も容易」とある。

この中の美濃二枚摺手引印刷機と四六判三十二ページ掛ロールマシンは、今までの定価表には無かったもので、需要に応じて大坂で新たに開発したものと見られる。

ここで、印刷機のサイズについて説明すると、そのサイズは版盤の大きさで示し、印刷用紙の種類別枚数あるいは判のページ数で表示している。
「半紙」1枚は8寸×1尺1寸(242×333mm)、「美濃紙」1枚は9寸×1尺3寸(273×394mm)、「四六判」1ページは4寸2分×6寸2分(127×188mm)、「菊判」1ページは5寸×7寸2分(152×218mm)のサイズである。
半紙と美濃紙は原紙そのもののサイズを示すが、「四六判」はその原紙を4×8(=32)ページに分断した判のサイズ、「菊判」はその原紙を4×4(=16)ページに分断した判のサイズを示すもので、この原紙サイズを「全紙」と呼んでいる。
なお、「四六判」はB列、「菊判」はA列にほぼ相当する。

平野富二は、明治22年(1889)6月、有限責任の株式組織となっていた東京築地活版製造所を辞任し、東京石川島造船所の経営に専念することになった。それ以降、活版製造事業と印刷器械製造事業に表立って関与することはなかった。

(6)月島分工場での印刷器械製造
平野富二が活版製造事業から手を引いてから18年後の明治40年(1907)2月に、東京築地活版製造所は月島に分工場を設けて活版印刷械の製造を再開した。

月島分工場の建設は、第4代社長名村泰蔵が積極経営の一環としておこなったものであるが、この頃、進行中であった大阪活版製造所の事業整理の一環として印刷機製造事業の廃止が計画されていたことが、最大の要因と見られる。

この頃になると印刷業界では新聞、雑誌やその他の活版印刷物が大量に発行されるようになり、活字の需要と共に活版印刷機の需要も増大していた。

図27-7 月島分工場の写真
〈『活字と機械』、大正3年8月、東京築地活版製造所より〉

明治41年(1908)3月に完成して稼働に入った月島分工場を示す。
左上は同じ頃に設立した大阪出張所である。
この頃、大阪活版製造所は閉鎖されたらしい。

明治23年(1890)に内閣官報局と大阪朝日新聞社がフランスからマリノニ輪転印刷機を導入したのを契機として、日露戦争前後(明治37、8年)にはフランス、ドイツ、アメリカから輪転印刷機が輸入され。その総数は65台であったと記録されているが、これは新聞社が中心であった。大手印刷会社は、博文館印刷所が輪転印刷機を導入した程度で、まだ、大形ロール印刷機械の需要が中心であった。

名村泰蔵は月島分工場の完成を待つことなく、明治39年(1906)9月に死去し、支配人だった野村宗十郎が第5代社長としてこれを引き継いだ。

月島は、明治20年(1887)から明治24年(1891)にかけて、東京府が東京湾の澪筋掘削を兼ねて佃島続きの洲を浚土で埋め立て約76ヘクタールの土地を造成したものである。この土地は区画整理の上、東京府が地主となって民間に貸し渡された。

名村泰蔵は、明治30年(1897)2月になって月島通四丁目9番地の土地285坪を、次いで明治36年(1903)1月に月島通四丁目11番地と月島通五丁目1、3、5番地の土地を東京築地活版製造所社長として東京府から借り受けた。それと隣接する月島通四丁目7番地の土地はインキ商で東京築地活版製造所の取締役だった西川忠亮が借り受けた。

月島分工場で製造された印刷機は、大正3年(1914)8月に東京築地活版製造所から発行された『活字と機械』によって知ることができる。

手引印刷機は半紙四枚掛、半紙二枚掛、美濃紙二枚掛、美濃紙一枚掛の4サイズ、ロール印刷機械は甲菊判四頁掛足踏、乙菊判四頁掛足踏、四六判八頁掛、甲菊判八頁掛、乙菊判八頁掛、四六判十六頁掛、菊判十六頁掛、四六判三十二頁掛の8サイズ、ゴルドン式印刷機械(足踏印刷機械)は鉄枠内寸16×11インチ(美濃紙一枚摺相当)の1サイズ、手押印刷機械は鉄枠内寸10×61/2インチの1サイズが写真入りで掲載されている。なお、甲乙の区分は不明である。

これを明治20年(1887)7月の「定価」チラシに記された品目と比較すると、手引印刷機は半紙一枚掛が無く、ロール印刷機械は菊判四頁掛足踏(甲、乙)、菊判八頁掛(甲、乙)と菊版十六頁掛(甲、乙)の3サイズ6機種が追加されている。また、これまで紹介されなかった手押印刷機械がある。

その説明書きによると、「印刷機械製作者は多いというが、その製作品を自社でも使用する業者は少ない。弊社は印刷、製本、鉛版などの事業を合わせて行い、その分野の権威者と目される専門技工がいる。弊社鉄工部で製作されたものは、これら専門家の試験を経て初めて顧客に提供される。弊社の製作品は、組立後の再加工は必要なく、直ちに完全なものとして使用できるので、顧客の利便は極めて大きい。」としている。

大正2年(1913)4月の時点で、東京印刷同業組合に加入している活版印刷業者の届け出による印刷機保有台数は、活版四六輪転4台、活版四六全判(32頁掛)ロール106台、活版菊全判(16頁掛)ロール162台、活版四六半裁(8頁掛)ロール105台、活版菊半裁(8頁掛)252台、活版四六四裁(8頁掛)53台、活版フート(足踏)123台、活版ハンド(手引)351台となっている。

この内、東京築地活版製造所の製品がどれだけ入っているか判らないが、順調に売り上げを伸ばしていたことは、大正9年(1920)から翌年にかけて月島分工場において建物の新設・増設により、設備の増強がおこなわれていることからも推察できる。

ところが、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で築地の新社屋と共に月島分工場も罹災し、木造工場建屋は焼失してしまった。築地活版製造所としての損失額は150万円に上ったという。

震災前の大正12年(1923)4月に報告された大正11年後期(大正11年10月~大正12年3月)の決算では、総売上高577,697円の内、活版製造事業345,438円(59.8%)、印刷事業203,946円(35.3%)、鉄工事業28,313円(4.9%)であったが、震災後の大正13年前期(大正12年12月~大正13年5月)の決算では、総売上高183,420円の内、活版事業136,220円(74.3%)、印刷事業38,684円(21.1%)、鉄工事業8,516円(4.6%)まで減少した。
これを事業別の前年同期比でみると、総売上高が31.8%にまで落ち込んだのに対して、活版製造事業では39.4%、印刷事業は5.3%、鉄工事業は3.3%まで落ち込んだことが分る。

これは活版製造事業の設備復旧を優先して、印刷事業と鉄工事業は後回しにされた結果と見られる。月島分工場の建物は大正13年(1924)3月に建築着手し、翌年6月に完成しているが、生産を開始した時期については不明である。

社長野村宗十郎は、大正13年(1824)に日本勧業銀行から30万円、その翌年に10万円を借り入れて復旧に努めたが、大正14年(1925)4月に病死した。後任の第5代社長松田精一は、昭和3年(1928)年になって更に10万円を借り受け、合計50万円の銀行負債を負うことになった。

活版印刷機を扱う鉄工部の売上高は、一時向上したが、低迷を続けた。そのため社長野村精一は、昭和3年(1928)12月に月島分工場の設備を縮小し、昭和9年(1934)7月になって月島分工場を廃止し、東京府から借地していた地所の借地権を他者に譲渡している。

これにより、平野富二が活版印刷機の国産化して販売を開始した明治5年(1872)から昭和9年(1934)までの62年間、築地活版製造所の営業品目となっていた活版印刷機は完全に消えることになった。

まとめ
平野富二にとって活版印刷機の製造・販売はあくまでも活字・活版の販売を促進するための手段だった。活版印刷を行う用具として見れば共通であるが、活字・活版の製造と活版印刷機の製造は異質のもので、その製造設備は全く異なるものである。

したがって、活版印刷機の製造をはじめた当初の神田和泉町時代は、細かい手細工を除いて、ほとんどを外部に依存していたが、築地二丁目に移転してからは金属加工機械を輸入して活版の製造と印刷に用いられる諸々の器械・器具の製造を兼ねて自社内での生産体制を整えた。

しかし、活版印刷機の製造に必要な鋳造設備や鍛冶設備が無いため、小物部品は街の鋳物師や鍛冶師に外注し、大物部品は石川島造船所に鋳造・加工を依頼していた。

明治9年(1976)になって、平野富二が杉山徳三郎の経営する横浜製鉄所に経営参加すると、横浜製鉄所で活版印刷機の製造をおこなうようになった。しかし、同じ年の内に平野富二が海軍省から旧石川島造船所の跡地を借り受けて石川島平野造船所を設立したのに伴い、築地活版所にあった印刷機部門と製造設備を石川島造船所構内に移転させた。当初、石川島造船所には機械加工設備がなかったため、築地から移転させた設備を使用して船舶用機器の製造もおこなった。

平野富二にとっては、活版印刷機の製造は一般産業機械の製造の一環としておこなわれるものであって、活版印刷機専用の製造設備を保有することは無駄で、勿体ないと思っていたに違いない。このような製造設備があれば、船舶用は言うに及ばす、他の一般産業分野で必要とする機械。器具類を製造して、広くわが国の産業発展に寄与できると考えていたと思われる。

平野富二は、江戸の職人たった者たちを積極的に雇用し、また、築地活版製造所で技術を身につけた従業員の退社に際して、その技術を生かして独立するよう支援している。これも、わが国産業発展の基盤とすることを意図したものと見られる。

東京築地活版製造所における活版製造と活版印刷機製造の営業上の位置付けを見ると、株式組織となった明治18年(1885)の売上高は活字類が23,521円(80%)に対して5,750円(20%)にすぎない。活字の売上高が圧倒的に高いことは後年になっても変わらず、活版印刷機の売上高比率はむしろ低下している。

東京築地活版製造所は、明治9年(1876)に築地にあった印刷機製造設備を石川島に移設して以来、第4代社長名村泰蔵が計画・建設した月島分工場が完成した明治40年(1907)まで、自社内に印刷機の製造設備を持つことは無かった。

名村泰蔵が活版印刷機の自社内製造を決意した背景には、大阪活版製造所での事業整理による印刷機製造部門の廃止があるが、新聞・雑誌類の発行部数が大きく伸びて大型印刷機の需要が増大したこと、高いレベルにある自社の印刷技術を印刷機に反映させることができることを念頭に置いたと見られる。

しかし、明治後期から大正にかけて、世の中の動きは活版をそのまま使用する活版印刷機の時代から、輪転印刷機、オフセット印刷機の時代へと移行しつつあった。

東京築地活版製造所では、活字・活版の製造・販売を主業務としていたため、活版印刷機の製造・販売にこだわって、活版をそのまま使用することのない輪転印刷機や平版に属するオフセット印刷機の製造については関心を示さなかった。

関東大震災による罹災から復旧はしたものの、印刷分野の技術革新に乗り遅れたこともあって、活版印刷機の受注は伸びず、昭和9年(1934)になって月島分工場は廃止されるにいたった。その4年後に伝統ある東京築地活版製造所は解散に追い込まれた。

昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において代表取締役社長に指名された松田一郎は、その場で会社解散を提議し、株主総会の承認を得て清算業務に入った。
会社解散を決議した松田一郎は、東京築地活版製造所の最後の社長として、その後の清算業務を無事に実行させることが自らの役割となった。
しかし、どのように清算が行われ、何時、清算を完了して会社解散の届け出を行ったのかは、業界紙誌も沈黙を守っており明らかになっていない。

令和元年11月13日 稿了

活版製造所の築地への移転

はじめに
平野富二が新妻と社員8名を引き連れて長崎から上京し、神田和泉町(現、千代田区神田和泉町一)に長崎新塾出張活版製造所を開設したのは、明治5年(1872)7月であった。
その丁度1年後の明治6年(1873)7月になって、新立地を求めて築地2丁目(現、中央区築地1丁目)に工場を新築して移転した。

神田和泉町時代の当初は、活字の需要はほとんどなく苦労の連続だった。しかしながら、政府が発行する布告類を、手書き複写していた地方の各府県庁に活版で印刷することを働き掛け、さらに、活版印刷機を国産化して提供することにより、世間一般にも活版印刷の利便性が認められるようになった。同時に、なかなか進展しなかった新聞の活版印刷化も次第に行われるようになったことから、活字・活版の需要が急速に伸張しはじめた。

このような状況から、神田和泉町の東校構内にある門長屋を間借りした工場では拡張の余地がなく、もはや限界に達していた。また、同じ構内にあった文部省活版所が廃止されたことから、この地に存在する意味もなくなっていた。

本稿では、築地に移転後に急速に需要が拡大した活字・活版製造のために、当初は120坪(約400㎡)の土地に建てた木造の仮工場を起点として、隣接地をつぎつぎに買増して事務所と各種工場を建設して、東京屈指の一大工場を完成させ、さらなる事業発展の基礎を確立したことを述べ、本木昌造が負っていた負債を完済して、本木昌造との約束を果たしたことから、明治11年(1878)の本木昌造没後3年祭を期に長崎新塾出張活版製造所を本木家に返還するまでを紹介する。

なお、この間に行った活版印刷機の製造、内外博覧会への出品、地方活版所・新聞社への活版化協力については、それぞれ別稿で紹介する予定である。

(1)築地への移転
明治6(1873)年の初夏、平野富二は築地2丁目20番地の土地120坪余り(約400㎡)を買い求めて木造の仮工場を建て、同年7月、神田和泉町から設備・人員とも、すべてをここに移転した。

図26-1 明治6年の築地地区を示す地図
<明治6年「沽券図」、東京都公文書館所蔵>
地図の上部に濃く塗り潰された部分が築地川で、
左上の万年橋から築地川沿いの道路を右手に向かって
1本目の道路から先が築地二丁目となる。
その角が19番地で、
その隣に平野富二が購入した20番地がある。
この地区は
土地区画内に灰色で示す道路の拡幅・新設が計画されていた。
この頃は築地川に祝橋は未だ架けられていない。
この図には土地所有者の名前が記されており、この頃、
築地地区には外務官僚が多く居住していたことが分かる。

このとき新築した仮工場は、木造寄棟造り二階建ての大形建物だった。「銀座の大火」を契機に政府がこの地区に「本家作見合わせ令」を公布し、東京府により焼失地一帯の区画整理と防火のための煉瓦街建設が進められていたことから、木造の本建築は認められなかった。そこで平野富二は、いずれ煉瓦造に建て替えることを条件に仮工場として認可を得たと見られる。この移転のために金3,000円を支出したと伝えられている。

築地地区は幕末まで大部分が大名や旗本の屋敷地だった。明治維新に際して大名や旗本が国元に帰ったため、留守の番人を残すだけの閑散とした土地だった。

明治2年(1869)3月28日の東京奠都(とうきょうてんと)によって新政府の要人が築地周辺の旧大名・旗本屋敷に住み着くようになった。同年4月にいち早く築地に居を構えた大隈重信の屋敷には多くの要人が出入りし、築地の梁山泊といわれていた。

明治5年(1872)2月26日、和田倉門内の兵武省添屋敷から出火して、風下に当たる銀座から京橋、築地一帯の約三千戸が焼失した。この火災はいわゆる「銀座の大火」と称された大火災で、築地ホテル館も全焼して外国人に衝撃を与えた。築地と南飯田町の各半分と明石町の外国人居留地は焼失を免れた。

平野富二一行が長崎から横浜を経由して東京南飯田町の連絡船発着場に着いたのは、その5ヶ月後のことであった。一行は築地から銀座にかけての焼け野原を目にしたはずである。

その一年後に、平野富二は焼失した築地の土地を求めたことになる。当時は、未だ焼け野原となったままの土地も多く、大名・旗本屋敷跡は分割されて政府要人を中心とした者たちに譲渡されたが、政府と東京府による不燃都市化計画に基づく規制が厳しいため、家を建てて移り住む者は少なく、閑散としていた。

この築地地区は、築地川と称する水路に囲まれ、水路は日本橋や京橋にも通じていた。また、横浜の開港場と貨客小型蒸気船で連絡する築地運上所前の発着場(南飯田町)にも近く、明治5年(1872)9月には新橋・横浜間の鉄道が開業したことから、交通運輸に至便な所であった。

また、書籍類の出版・販売を行う書肆(しょし)が多く集まる日本橋や京橋地区への行き来が便利で、また、芝神明前も比較的に近く、活字・活版販売に好適な場所であった。

神田和泉町から移転してきた平野富二夫妻と従業員一同の居住場所は仮工場の一画に用意されたと見られる。

(2)営業活動の再開
移転作業が一段落して営業活動を再開できるようになったことから、明治6年(1873)8月15、16日の両日、『東京日日新聞』に移転広告を出した。

「これまで、神田佐久間町3丁目において活版ならびに銅版(エレキトルタイプ)、熔製摺機械、付属器とも製造いたし来たりそうろうところ、今般、築地2丁目20番地に引き移り、なお盛大に製造、廉価に差上げ申すべくそうろう間、あい変わらず御用向きの諸君、賑々しく御来臨のぼど希望たてまつりそうろうなり。明治6年酉8月 東京築地2丁目萬年橋東角20番地 長崎新塾出張活版製造所 平野富二」

図26-2 築地移転の新聞広告
<『東京日日新聞』、明治6年8月15日付>
この広告では、移転前は神田佐久間町3丁目としているが、
正しくは神田和泉町である。
新しくできた町名のため知る人は少なかったことから
昔からある神田佐久間町3丁目で門前の場所を表示した。
移転後の場所は、
築地川に架かる万年橋の東角から入った先の
築地2丁目20番地であることを示している。

築地に移転して間もない頃のこととして三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(192ページ)に逸話が紹介されている。その一部分を抜粋し、手を加えて紹介する。

「(略)築地二丁目に工場を建てられ、また、世間でも平野先生の活字の宣伝努力がようやく効いて、活字をだんだん用いることになったため、『今の努力が将来をなすものである。今が大切な時期である。』と、非常に馬力を掛けられた。
ちょうど折悪しく長女が病気にかかられて、駒子夫人もどうかして充分養生をさせ、早く癒してやりたいと思われたのは、親心としてもっとものことであった。しかし、何分にも築地に工場をたてて未だ間のない時分であったためと、その上に本木先生の借財を莫大に引き承けられ、世間に未だない新しい事業を始め、それが一体どうなるかということが気に掛かるのは、女心として当然であった。
そういうことから、長女琴(こと)の養生や手当も十分出来ず、ことに夏分は、今日の築地とちがって、昔の築地は大名の屋敷が多かったために家が密集していない関係から、非常に多く蚊が居た。それにもかかわらず、病気にかかった長女琴を背に負い、大勢の人達の三度のまかないから、その間々には、また、セッセと駒摺り(活字の二方をやすりで仕上げること)をせられ、長女琴に充分な手当も出来ずして、ついに死なして仕舞われたそうである。(略)」

この逸話は、築地に移転して間もない頃の出来事としているが、実際には移転してからほぼ2年間の事柄である。

谷中にある墓誌によると、長女琴(古登と表記)は明治8年(1875)7月7日、わずか3歳で病没している。その約3か月後の9月30日には二女津類(つる)が誕生している。

なお、長崎で本木昌造の容体悪化したのは8月中旬のことで、平野富二は取り急ぎ長崎に出掛けて病床を見舞い、9月15日に葬儀を執り行っている。

(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
平野富二は、仮工場を建てた20番地に隣接する19番地と21、22番地、さらに、17、18番地の土地を次々に入手し、20番地に最初に建てた仮工場と棟続きの木造二階建工場建屋を21、22番地の土地に増築した。また、19番地の道路に面した角に瓦葺煉瓦造平屋建の仮家屋(倉庫?)を新築、その横に正門と自費官築による二階建煉瓦家屋(事務所)を新築した。

この二階建煉瓦家屋(事務所)は、東京府が定めた「煉化石建築方法」に基づき所轄官庁の承認を得て土木寮建築局で建築(官築)したもので、明治6(1873)年12月25日に引き渡しを受け、事務所とした。以後、築地活版製造所の住所は築地2丁目19番地となった。

図26-3 新築の煉瓦家屋
<平野活版製造所『活字見本帳』、明治10年>

この新築煉瓦家屋は、
築地2丁目19番地を買増しして建てられた。
間口2丈1尺8寸(6.6m)、奥行3丈6尺8寸(11.15m)、
建坪22坪3合(73.7㎡)だった。
その右横は正門と通用門で、正門は観音開きの木製門扉を備え、
向かって右側門柱に「長崎新塾出張」「活版製造所」と
2行書きした大きな表札を掲げていた。

平野富二は、建築局から煉瓦家屋の引き渡しを受けたが資金繰りが付かず、東京府を通じて明治7年(1874)1月から12月までの分割納入を申し出て許可された。

そのとき東京府に提出した請書に、身元保証人として吉雄永昌(木挽町2丁目18番地)の名前が記されている。吉雄永昌は、長崎でオランダ通詞だった頃は吉雄辰之助と称しており、品川藤十郎の親戚筋にあたる。吉雄永昌と築地活版製造所との関係は子息吉雄永寿まで続くことになる。

図26-4 明治7年の築地活版製造所
<昭和4年10月刊『株式会社東京築地活版製造所紀要』の口絵>

画面右奥の大形建物が最初に建てた仮工場で、
奥に向かって建て増しされている。
右手手前の平屋は窓の構造から煉瓦造りの倉庫と見られる。
左手の建物は、図26-3で示した煉瓦造二階建家屋である。
事務所の右側に正門と通用門が見える。
画面左端の背後にわずかに見える建物は
後に平野富二が購入して居住する住宅家屋の屋根と見られる。

明治7年(1874)10月になって、敷地の前を流れる築地川に木挽町2丁目と築地2丁目を連絡する仮橋が架け渡されることになり、平野富二は東京府に20円を献納している。この頃、仮橋前から築地本願寺の角まで直通する道路が開設された。この仮橋は後に「祝橋」となる。

図26-5  仮橋架設後の築地地図
<明治7年「内務省地理局 五千分一地図」、国会図書館所蔵>

この地区の番地は図26-1に示した番地と同じであるが、
後に祝橋となる仮橋とその延長道路が開設されたことにより、
17、23、26、27番地の土地が削られた。
25番地の華族柳原前光は京都の公卿出身で、
当時は清国駐箚特命全権大使だった。
妹の愛子は大正天皇の生母である。

明治8年6月には23番地の土地と造作付き家屋を購入して、平野富二一家はここに移り住んだ。この家の入口は新たに開設された道路に面していた。

(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
平野富二は、明治7、8年頃(1874、5)の長崎新塾出張築地活版製造所について、次のように述べている。原文は長文であるので、その一部を現代文に改めてここに紹介する。

「明治7、8年の頃になって、世の中はおおいに文明開化の段階に進み、新聞・雑誌類の発行も日増しにその数を増し、布告・布達類も多くは活版で印刷することで統一された。これにより活字の需要先は日に日に拡大し、その販売高も大いに増加し、利益を得ることも少なくなかった。」

ちなみに、平野富二が東京に長崎新塾出張活版製造所を開設して以来の活字販売高を前記資料から示すと、

明治05年(1872)  244,236個     6,448匁    (   24,000g)
明治06年(1873) 2,772,851個   357,388匁   (1,340,205g)
明治07年(1874) 3,656,675個   817,463匁   (3,065,486g)
明治08年(1875) 4,554,334個   1,087,936匁   (4,079,760g)
明治09年(1876) 7,156,734個   1,071,186匁   (4,016,948g)

明治10年(1877) 5,828,255個   1,348,727匁   (5,057,726g)
明治11年(1878) 7,629,375個   1,274,303匁   (4,778,636g)
明治12年(1879) 10,141,035個    1,639,200匁  (6,147,000g)

牧治三郎によると、明治5年(1872)7月に神田和泉町に「長崎新塾活版製造所」を開設して、明治6年(1873)6月までに、四号活字23万個、五号活字22万個を販売し、3,500余円の金額を得たとしている。

明治5 年(1872)8月29日に初めて埼玉県から活字350個の注文を受けてひと息つくことができたということを考えると、隔世の感がある。明治5年の活字販売実績は8月末から12月までの約4ヵ月間の実績であるとみられるが、翌明治6年中旬から販売高が拡大していることが分かる。

このように、順調に発展する活版製造事業の状況は、逐一、本木昌造のもとに報告されていたと見られる。

(5)本木昌造の東京視察
本木昌造は、この頃、長崎で専ら新街私塾の開業の公認に苦労していたが、ようやく開業願書が長崎県に受理されて一段落した明治7年(1874)4月、大阪・京都を経由して東京への視察旅行に出た。

同年5月、上京した本木昌造は築地の長崎新塾出張活版製造所を訪れた。神田和泉町から築地に移転して新装なった事務所と工場を視察し、経営の現状と今後の見通し、設備拡充計画について平野富二から説明を受けた。このとき本木昌造が目にした築地の活版製造所は図26-3の写真に示す状態だったと見られる。

その後、従業員全員を集めて次のような慰労と激励の挨拶をしたことが伝えられている。

「東京での事業は私の予期していた以上に進展している。これは皆さんの協力のお陰である。しかし、事業は未だ道半ばであり、現今の僅かな成功に満足することなく、また、時代の流れに遅れることの無いよう、今後ともますます進歩発展させて欲しい。それには今まで以上に努力、精励が必要である。」その後、本木昌造は、東京の各地を巡って私学・私塾の現状を自分の目で確認し、東京を発って長崎に戻る前、長崎出身の内田九一が経営する内田写真館で撮った記念写真がある。
この写真は、2018年7月31日公開の本シリーズ「本木昌造の活版事業」で紹介しているが、写真に写された本木昌造は、紋付を羽織った姿であるが、眼は落ちくぼみ、頬はこけて、いかにも病気がちであることを想わせる。

本木昌造は、翌年春にも上京して築地を訪れている。その際、大阪の活版所設立のときに五代友厚から受けた融資金の返済について平野富二と相談した。平野富二は、返済金の一部として1,500円と利子90円を本木昌造に渡し、また、残金は本木昌造の養老金として毎月200円を仕送り、その中から支払ってもらうようにした。

本木昌造は、帰途、大阪で五代友厚と面会し、融資金の一部返済とその後の支払いについて了解をとり、肩の荷を下ろして長崎に戻った。間もなく長崎で体調をくずしたため京都に赴き、閑静な郊外で療養していたが、この地で引いた風邪がもとで病床に就くようになった。小康を得て長崎に戻ったが、回復することなく明治8年(1875)9月3日に死去した。52歳だった。

平野富二は、本木昌造の支払うべき五代友厚の負債残金を、本木昌造への養老金をそのまま充当して月賦返済した。これが縁となって平野富二と五代友厚との親交が始まった。

(6)築地に於ける設備増強
明治8年(1875)6月、平野富二は築地活版所に隣接する築地2丁目23番地の土地と建物一式を1,420円で購入し、自分の住居とした。

同年7月には、工場前を流れる築地川の河岸にある水揚場を自費で補修する旨の願書を東京府に提出している。活字類の原材料や製品を、ここから水運を利用して搬入、搬出することを目的とした。

同年9月5日付け『東京日日新聞』に「活字王本木昌造 我が文明の恩人」と題する本木昌造の死去を報ずる記事が掲載された。その中に記者が本木昌造へのお礼と弔問を兼ねて築地活版製造所を訪れたときのことが述べられている。その部分を平易な文章に改めて紹介する。

「なるほど感服したことには、いろいろの字母が出来ていました。横文字はどのような文字でもすべて、西洋の形を模写し、花文字から枠に用いる唐草模様まで揃っています。カタカナ、平がなは申すまでもなく、漢字は明朝風も楷書も大小いろいろあります。
製造中のものでは、極小漢字と二字続き、三字続きの平がな活字があります。これが出来たら今まで以上に便利になるでしょう。
非常に大きな製造場を新しく建ててありましたから、中に入ってみました。そこには大勢の職人が蒸気動力を用いて仕事をしていました。活字ばかりではなく、銅や鉄の加工はなんでも出来ると見えます。」

平野冨二は、新工場を建設すると同時に海外から工作機械を購入し、それを駆動するボイラ・蒸気機関を導入していたことが分かる。

明治9年(1876)5月、神田左衛門河岸(神田和泉町近くの神田川の河岸)にあった300坪余りの木造醸造蔵1棟を買い取り、その用材を用いて活字仕上場を建てた。余った木材でその傍らに長屋2棟を建てて印刷機械製造工場とした。これは、日増しに増大する活字と印刷機の需要に対応して、新たな設備投資を行なったものである。

なお、平野富二は近くの海軍省所轄の石川島修船場が廃止されるとの情報を得て、同年10月末に海軍省との間でその跡地を借用する契約を結んだ。それによって、念願の造船業への進出の足掛かりをえた。

(7)活字類の品揃えと改刻
前項で紹介した『東京日日新聞』の記事にあるように、漢字は明朝風と楷書、カタカナと平がな、各種書体の横文字(欧文文字)、花文字や唐草模様の枠まで揃えていた。これらは、明治9年(1876)に刊行した『活版様式』と明治10年に刊行した『BOOK OF SPECIMENS』に収録されている。

このような活字類の品揃えと共に、平野富二は活字の改刻に着手した。

明治8年(1875)、平野富二は上京後に字母係として雇った小倉吉蔵を上海に派遣して、活字母型のより完全な製法を研究させた。小倉吉蔵は江戸で相当名の売れた神社仏閣の飾金具師小倉吉蔵の長男で、その父のもとで働いていた。
字母の作成は、飾金具の加工と共通するところもあるが、馴れない仕事でもあったので、上海でその製法を習得して、明治10年(1877)に帰国した。ところが、小倉吉蔵は築地活版製造所には戻らず、各地の活版製造所を巡って、習得した新技術を伝授して歩いたという。

本木家に活版製造所を返還した後のことになるが、明治12年(1879)になって、曲田成を上海に派遣し、現地で新たに種字を彫りなおして、肉太のどっしりした字体を特徴とする明朝体を創り出した。いわゆる築地体と称される活字書体の先駆をなすものである。

当時、会計掛だった田中市郎の談話として、「上海から箱崎の三井支店に一握り程の種字が到着すると、いつも70円から100円位の金を持って、その種字を受け取ったものである。その頃の種字は、単に価が高価であるばかりでなく、これを集めるのに並々ならぬ苦心を要したそうである。」と記録されている。

同じ談話記録によると、「築地活版製造所が活字書体の大改革を企画したのは、明治13,4年頃で、竹内芳五郎が彫刻部の主任をしていた。この時は、上海から現地人を2,3人招聘し、所内に寄宿させていた。生活習慣が違うため大変な費用がかかり、結局、改良費が4,5千円も計上されたそうである。」とある。

矢作勝美著『活字=表現・記録・伝達する』によると、このときを「第一次改刻」とし、続いて、次のように順次改刻がなされて築地体が完成したとしている。
「第二次改刻」は、明治17年(1884)、第1次改刻の書体を基礎にして、日本人種字彫刻師による改刻。
「第三次改刻」は、明治22年(1889)、明朝体の整備が一段と進み、一般に築地体と云われるようになる。
「第四次改刻」は、明治28年(1895)、築地体の完成期。
「第五次改刻」は、明治36年(1903)、微調整がなされ築地体完成。

このように、明治12年(1879)から10年がかりで築地体といわれる優れた書体がほぼ出来上がり、明治22年(1889)の段階で平野富二は活版製造事業から手を引くが、その後も改良が重ねられて完成域に達したことが分かる。

なお、明治16年(1883)になって上海に出張所修文館を開設して活字および活版資材の海外販売を行っている。

(8)本木家に活版製造事業を返還
本木昌造の死後、長崎においてその跡を継いで新街私塾の経営を行っていた本木小太郎が新街私塾を畳んだのを期に、平野富二は本木小太郎を活版製造所の大阪支店と東京支店とを統括する長崎本店の経営者として育て上げるため、東京に呼び寄せ、自分の下で教育を行っていた。

明治11年(1878)9月初旬、平野富二は本木小太郎を伴って長崎に赴き、本木昌造没後三年祭を関係者と共に催した。

三年祭の行事が終わったところで、平野富二は活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京での事業として築地活版製造所と石川島造船所の棚卸高合計が130,000円余りに達したことを報告した。そして、その帳簿類一式を添えて、この事業を一旦、本木家に引き継いで貰い、それによって本木昌造と交わした最初の約束を履行したいと申し出た。

この申し出に出席者一同は、唖然としてお互いに顔を見合わせ、差し出された受取書に署名するものはいなかった。出資者一同は座を改めて対応を評議した。

その結果、平野富二の素志を重んじて石川島造船所の資産40,000円余りを平野富二の報酬として与え、活版製造所の資産90,000円余りを本木家と出資者の持ち分として受け取ることとした。さらに、石川島造船所と活版製造所の株金10,000円ずつを双方で交換し、本木家と平野富二との関係を永く続くようにするのが良いと一決した。

平野富二は、これを受け入れ、本木小太郎を活版製造所の所長とし、自らは後見人として事務一切を管理統括することとした。さらに、桑原安六を支配人に指名することとして、東京に戻った。

長崎から帰京した平野富二は、築地活版製造所の組織を次のように変更した。

所   長  本木小太郎
所長後見人  平野富二
支 配 人  桑原安六
副支配人      和田国男
会   計  藤野守一郎、近藤鉄吾、曲田成
店   員  山下槍十郎、秋山 某、宇野 某

部門としては、鋳造部、印刷部、ガラハニー部、字母部、彫刻部、活字仕上部、罫・輪郭部、鋳型部、徒弟部屋があった。その他に石川島造船所徒弟部屋に印刷機械部があった。

この中に印刷部が含まれているが、正式には明治17年(1884)3月になって設置された。明治11年(1878)10月に博聞館から刊行された太政官編『特命全権大使米欧回覧実記』全五巻の印刷製本を築地活版製造所で請負っているので、この時の臨時組織が示されているのかも知れない。

図26-6 平野富二が本木家に返還した頃の築地活版製造所
<明治18年刊『東京盛閣図録』の「活版製造所」>

本図は明治18年刊ではあるが、
明治16年頃の様子を示すものと見られる。
画面右手の木造二階建家屋は最初に建てられた仮工場で、
奥に向かって建て増しされている。
画面左端の煉瓦造2階建家屋は事務所である。
この絵図では、敷地の角にあった倉庫は撤去され、
事務所の左側に建てられる煉瓦造2階建家屋(図の範囲外)は、
用地取得のみで、本木家返還時には未だ存在していなかった。
黒煙を吐く4本の煙突は機械類駆動のための
蒸気発生用石炭焚きボイラの排煙用として設けられた。

なお、明治11年(1978)の『東京府統計書』によると、役員10人、職員32人、職工64人(内、女工1人)、建坪305.0坪と記録されている。

明治12年(1879)1月、平野富二は再び長崎を訪れ、長崎本店に於いて本木小太郎、松田源五郎、品川藤十郎、その他社中の者たちの立ち合いの下、資本区分の明確化を図った。

このとき明確化された平野富二の持ち分は、平野富二の「金銀銭出納帳」に次のように記録されている。

「一金30,000万円也
これは石川島造船所の棚卸資本金40,000円余りから他の借用分を差引いた40,000円の内、10,000円は本木家に活版製造所資本金と引換えた残金である。
 一金10,000円也
これは築地活版製造所の資本金100,000円の内、10,000円相当の株式を所有するもの。ただし、この10,000円は本木社長と示談により引き換えたもの。
 一金3,000円也
築地2 丁目13、14、17、39番地の土地買入金。
明治5年から同7年まで3ヶ年間の月給ならびに褒賞として本木昌造社長から亡くなる前に貰い受けたものである。
 一金600円也
これは浅草西鳥越乙2番地にある精米所の株高の内の自己所有分である。ただし、明治6年に同所に宮益幾平殿が精米所を設置の際に500円出金し、その後、中村六三郎の分100円を引き受けたので、合計600円となる。
 合計金43,600円也が自己所有となる。」

ここに示された平野富二所有の築地2丁目の土地4筆は、明治17年『東京実測全図』(内務省地理局)によると、神田和泉町から移転してきた当時の地番は変更されて、旧19~22番地が新17番地となり、旧17、18番地は新13番地、旧23番地は新14番地になった。

図26-7  『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。
築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は
築地2丁目(貮町目と表示)17番地となり、
築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。
後に、14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とし、
平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、
15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した。

したがって、四辺を道路に囲まれた築地2丁目13番地から17番地の区画は、その北西のほぼ半分が平野富二の所有地と確定し、ここには記載されていないが、その面積は約875坪(2,890㎡余り)となる。その土地の上に活版製造所の建物と諸設備が存在していたことになる。

なお、「金銭出納帳」にある39番地の土地は、図26-7の右下方向にある西本願寺の北東に位置し、堀と道路を隔てて隣接する区画内にある。用途は不明であるが、従業員の宿舎として利用されていたと見られる。

平野富二は、やがて区画の北西半分の所有地を活版製造所に譲渡し、区画の南東半分にある新16番地と新15番地を取得して、明治16年(1883)夏に平野邸を新築して、新14-1番地から移転することになる。以後、平野富二の住居表示は築地2丁目16番地となる。

ま と め
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。

当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて、次々と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。

事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化達成と本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。
また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

令和1年(2019)6月20日 稿了

平野富二による活版印刷機の国産化

はじめに
活字を組んで印版とすることによって在来の木版と同様に手刷りで印刷することは出来るが、手間を掛けずに能率よく印刷するためには、活版印刷機が必要となる。

平野富二は、本木昌造から委託された活字製造事業を発展させるために、活版印刷の普及に努力して来たが、高価で品薄の外国製活版印刷機が更なる普及を妨げていることに着目して、これを国産化して、広く一般に販売することを決意した。

国産化した機種は、手引印刷機、ロール印刷機と足踏印刷機の3機種であるが、神田和泉町で手掛けた機種は手引印刷機とロール印刷機までであった。

本稿では、神田和泉町の活版製造所において平野富二が、どのようにして活版印刷機の国産化を果たしたかを中心に述べるが、必要に応じて築地移転後の事柄についても触れることになる。

続いて、わが国における活版印刷機導入の歴史と本木昌造・平野富二の活版印刷機との関わりについて述べる。

(1)活版印刷機の国産化に着手
平野富二は、本木昌造から活字製造事業を引き受けた当初から、活版印刷を全国的に普及させる手段として、活版印刷機の国産化と販売を課題として持っていたと見られる。

<最初の活版印刷機の販売広告>
平野富二が、神田和泉町にあった東校構内の門長屋に長崎新塾出張活版製造所の設営を開始したのは、明治5年(1872)7月20日前後であるが、それから約3ヶ月後の10月下旬になって、『新聞雑誌』、第66号に広告「崎陽新塾製造活字目録」を掲載している。

その広告の中で活版印刷機について、美濃二枚摺印刷器械と半紙二枚摺印刷器械の2機種を挙げ、その他活版印刷に必要な諸品も製造できるとしている。
ここで「美濃二枚摺」とは、美濃判2枚分の印刷を一度に印刷できる大きさの印刷機のことで、「半紙二枚摺」も同様である。ただし、印刷機としての表示サイズは、美濃二枚摺1.44尺×2.1尺(436mm×636mm)、半紙二枚摺1.18尺×1.58尺(358mm×479mm)としており、用紙サイズよりもかなり小さい。

これより先の明治5年(1872)8月14日付けで発行された『横浜毎日新聞』の横浜活版社から出された広告には、「東校表門通り文部省活版所内に於て右活字幷銅板製造発売致し候」として、活字と版組に必要な副資材を製造・発売すると述べるだけで、活版印刷機のことについては触れていない。

これによって、8月中旬に活字・活版の製造・販売体制が整い、10月下旬になって活版印刷機についても製造・販売できる体制が整いつつあったことが分かる。

それでは、10月下旬から販売を宣告した2機種の「印刷器械」とはどのようなものであったのか、このことについて検討してみたい。

<当時、新塾出張活版製造所で所有の活版印刷機>
平野富二が、神田和泉町の活版製造所で活字製造と活版印刷の営業を開始した時に業務用として所有していた活版印刷機は、「四六判八頁掛ロール」1台、「フート・マシン」1台、「ハンド」1台の合計3台があったとされている。〈津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』(p.85)による〉

まず、「四六判八頁掛ロール」は、明治3年(1870)に本木昌造が上海から買い求めた紙取付装置のないロール印刷機であったと見られる。これは、明治5年(1872)11月に、平野富二の要請により長崎から東京に送られてきたものである。

そもそも、このロール印刷機は、明治2年(1869)4月頃、本木昌造が新聞発行を目的として上海美華書館に引き合いを出した印刷機と付属設備のことと見られる。その見積に基づき、4千ドルの為替手形を送る約束をしたことが、上海のギャンブル(W. Gamble)とアメリカ長老会本部との通信記録に残されている。〈後藤吉郎等の報文(『デザイン学研究』、2002年、p.284)による〉

このロール印刷機は、本木昌造が新街私塾の付属設備として開設した新町活版所に据え付けられたが、当初目的とした新聞の発行は明治6年(1873)1月に実現するまで行われなかった。明治5年(1872)11月に平野富二が神田和泉町で政府から改暦文書を大量に緊急受注したとき、手持ちの印刷機だけでは対応できないため、このロール印刷機を長崎から東京に送って貰い、政府の要求に応えた。

次に、「フート・マシン」については、本木昌造が薩摩藩の重野安繹から譲り受けたものを見本とし長崎製鉄所で造ったものであると述べられている。

長崎製鉄所頭取だった本木昌造は、明治2年(1869)8月、病気を理由に頭取辞任を申し出た。翌9月頃、鹿児島を訪れて、薩摩藩が上海美華書館から購入したが使用できずに倉庫入りしていた活版印刷機(ワシントン・プレス)1台を譲り受けている。

図25-1 ワシントン・プレス
〈Thomas MacKellar著『The American Printer』,1866より〉

この図に示す印刷機は本木昌造が入手したものと同一ではないが、
印刷機の中央に見える4の字形の加圧装置と
2本の支柱に沿って置かれた一対のスプリングが
ワシントン・プレスの特徴である。
上部横桁にワシントンとフランクリンの肖像がある。

この活版印刷機は、付属するレバーハンドルを手前に強く引いて印刷することからハンド・マシンと呼ばれるが、これを「フート・マシン」と呼ぶ理由は定かでない。

薩摩藩から譲り受けた印刷機は、明治3年(1870)になって大阪に長崎新塾出張活版所を開設する際、大阪に移設された。当時、印刷係見習だった速水英喜は、この微妙な働きをする印刷機の研究に努力し、自分もこのような機械を造り上げたいと願っていたと伝えられている。

最後の「ハンド」は、ハンド・マシンのことで、万延元年(1860)に活字製造法を学ぶため上海に派遣された松林源蔵の見聞を基礎として、明治元年(1868)になって本木昌造が長崎製鉄所に依頼して造ったものとされている。

この印刷機は、木材と鋳造品・鍛造品の組み合わせで、鳥居と称する門型架構は木製、バレン(馬連、印版の上に置いた印刷用紙を上から押し付ける圧盤のこと)はメッキを施した金属製、バレン取付け金物は鋳物、印版を載せて移動させる台車のレールは木製、レール受けは鉄の丸棒だったとされている。

図25-2 本木昌造の印刷所風景
〈三浦荒一編『名古屋印刷史』、昭和15年12月より)

図の説明では、長崎国際産業博覧会の木製印刷器とされている。
昭和10年刊『長崎市主催国際産業観光博覧会協賛会誌』によると、
昭和9年(1934)3月25日から5月23日まで長崎で開催され、
中之島埋立地の第一会場に文明発祥館を設けて10景を展示した。
その1景として、
「本木昌造の印刷所創始」の様子を丁髷姿の人形で再現している。
展示された木製印刷器は、「ハンド」を模したものと見られる。

上海美華書館は、万延元年10月中旬(1860年12月)に寧波から上海に移転して来たたばかりで、松村源蔵は活字製造法を学ぶことは出来なかったが、ここで使用していたハンド・マシンを見せて貰い、操作方法を教えてもらった可能性はある。上海美華書館で用いていたハンド・マシンは全てアメリカ製のワシントンプレスであったと見られるので、本木昌造の「ハンド」はワシントンプレスに類似した基本構造の印刷機だったと見られる。

<平野富二の明治6年の「記録」>
明治6年(1873)は、平野富二が活版製造所を神田和泉町から築地二丁目に移転した年である。したがって、6月以前は神田和泉町での事柄であるか、7月以降は築地二丁目に移転した後の事柄となる。

平野富二が残した明治6年の「記録」から抜粋した記事(三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』に掲載)によると、

◆明治6年(1873)6月時点での新塾出張活版製造所の設備現況は、

一.四枚摺器械 壱台
一.二枚摺器械 壱台
一.ルール機械 壱台

◆当時の器械の定価は、

長崎製半紙二枚摺プレス  百七十円
当局製造 一枚摺       百円

◆明治6年9月14日の「記録」として

一.田中壮三注文ロール鋳型寅吉相納

明治6年(1873)6月の設備現況として挙げられた活版印刷機3台は、呼称は違うが前項で取り上げた3台と一致する。つまり、「四枚摺器械」は先の「ハンド」のこと、「二枚摺器械」は「フート・マシン」のこと、「ルール機械」は先の「四六判八頁掛ロール」のことと見られる。

この「記録」により、明治6年(1873)には、すでに、「長崎製半紙二枚摺プレス」と「当局製造一枚摺(プレス)」の二機種を販売しており、築地二丁目に移転した直後の同年9月には「ロール」の複製品を製造中であったことが判る。

販売品としての「長崎製半紙二枚摺プレス」は、もともと自社の設備として本木昌造が製造したものであるが、平野富二は、活字の販売で印刷機の注文も同時に受けた場合に対応するため、長崎製鉄所に製造を委託して販売することとしたと見られる。

もう一つの販売品である「当局製造一枚摺プレス」については、名前が示す通り、平野富二が自ら東京で製造するもので、本格的に国産化に取り組んだ最初の機種であることが分かる。

(2)最初の自社製印刷機
明治6年の「記録」にある「当局製造一枚摺プレス」は、新塾出張活版製造所に隣接する文部所御用活版所(小幡活版所)で所長の小幡正蔵が使用していた手引き印刷機を模造したものと伝えられている。

文部省御用活版所(後の小幡活版所)の手引き印刷機については、『本邦活版開拓者の苦心』(p.75,6)に記述がある。補足を加えて要約すると次の通りである。

▼明治3年(1870)10月、小幡正蔵が上京して神田佐久間町前に文部省御用活版所を開いたとき、日本橋本町三丁目の瑞穂屋卯三郎から美濃判半裁のハンド・プレスを購入した。
▼瑞穂屋から購入したハンド・プレスは、慶応2年(1866)4月、横浜の外人の手を経てイギリスから輸入したもので、ホプキンソン・ホープ社製のアルビオン印刷機の中でも初期のものであった。
▼この印刷機は、その後、小幡正蔵が手放し、東京銀座で売りに出された。明治6年(1873)になって、これを大阪活版所の谷口黙次が見付けて購入し、大阪活版所で使用していたが、後に大阪活版所を引き継いだ谷口活版所で保管していた。

図25-3 谷口活版所にあった手引印刷機
〈大阪の印刷業界誌に掲載された二代目谷口黙次の談話より〉

掲載されたものである。
小形のため、木材をT字形に組んだ台座の上に据え付けられている。
頂部にスプリングケースがあるので、
この手引印刷機はアルビオン・プレスであることが分かる。

平野富二は、長崎新塾出張活版製造所を開いた当初から、門長屋の隣室で小幡正蔵が使用しているこのアルビオン印刷機に着目し、この印刷機を自ら国産化して全国に普及させることを目指したと見られる。

美濃判半裁(美濃判を半分に裁断したサイズ)とはサイズが相違するが、「当局製造半紙一枚摺プレス」に相当すると見られる絵図が、明治7年(1874)8月に刊行された模禮菘(モリソン)著『萬國綱鑑録和解』(明治6年2月官許、何不成社刊)の巻頭に掲載されている。

それには、「活字印刷器械之図」、「東京築地 平野富二 製造、同本郷 伊藤彌兵衛 刷行」として、手引印刷機が描かれており、図25-3で示した手引印刷機と外見上では相違はあるが、印刷機構は同一と見られる。

また、この絵図と同一の図版が、明治9年(1876)に平野富二が発行した『活版様式』(TYPE FOUNDRY, TSUKIJI AT TOKEI. 東京築地 活版製造所、1876)に「Stand Press」として、さらに、明治10年(1877)年に発行した『BOOK OF SPECIMENS 』(MOTOGI & HIRANO, Tsukiji Tokio, Japan 東京築地二丁目二十番地 平野活版製造所)に「Hand Press」として掲載されている。

図25-4 『萬國綱鑑録和解』の活字印刷器械之図
〈板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』、朗文堂、2011年9月より〉

この絵図は、櫻井孝三氏が発掘されたものである。
頂部にスプリングケースがあることから
アルビオン・プレスであることが分かる。
印刷機本体部分の脚は四本で床上に置く構造となっている。
この印刷機は、明治6年(1873)中に完成していた。

谷口活版所に在った手引印刷機(図25-3)と比較すると、脚部の構造が明らかに相違している。このことから、平野富二が手本とした手引印刷機は別の類似輸入機であった可能性が高い。しかし、いずれも小型アルビオン・プレスであることには違いない。

図25-5 Stand Press図
〈明治9年刊『活版様式』、TYPE FOUNDRY,TSKIJI AT TOKEIより〉

この『活字様式』は平野富二が最初に作成した活字見本帳である。
1876年にアメリカ建国100年を記念しで開催された
フィラデルフィア万国博覧会に出品ため編纂されたとみられる。
この時の出品目録には明示されていないが、
この印刷機を出品した可能性がある。
図25-4とは同じ絵図である。

(3)当初の印刷機製造態勢
平野富二が顧客への販売を目的として、初めて自社で製造した活版印刷機について、郡山幸男・馬渡力共著『明治大正日本印刷術史』(三秀舎、昭和5年10月)に「活版印刷器械製造の創始」として紹介されている。これを補足、要約すると次のようになる。

▼明治5年(1872)7月、平野富二が東京に出てきて、神田和泉町で活版の製造と販売を開始すると、同業の活版製造業者から活字の製造に必要な活字鋳造器の故障修理を依頼されることが多くなった。
▼そこで、東京に住んでいた元鉄砲鍛冶職の金津平四郎・清次郎父子を雇用して修理に当らせた。
▼そのうち、阿波国(現在の徳島県)から半紙二枚摺手引印刷機の製造依頼があった。金津平四郎がこれを引き受けることを申し出たので、平野富二は、手持ちの手引印刷機から型を取り、鋳物を外注して鋳造してもらい、金津父子に加工・組立を行わせた。
▼完成した手引印刷機に活字・付属品を添えて納入した。これが、わが国で最初の国産印刷機であるとみなすことができる。

最初の手引印刷機の製造を引き受けた金津平四郎は、23歳で江戸に出て松屋錠七の下で10年ばかり鉄砲の製造を修業し、その後、7年前(明治5年)から平野富二に雇われて活版器械の製造を行うこと数年、一昨年(明治7年)から独立して活版器械の製造を業としている。〈『東京名工鑑』(東京府勧業課、明治12年12月刊、有隣堂)による〉

阿波國の印刷機製造依頼については不明な点が多い。廃藩置県により阿波國は名東県となるが、明治6年(1873)に名東県が活版印刷機を1,460 円で購入し、同年7月から諸布達を活版印刷して各区に配布したとする記録がある。〈徳島新聞社編『徳島近代史 2』(徳島県出版文化協会、昭和51年10月、p.189) 

平野富二の「記録」では「当局製造一枚摺」の定価は100円となっているが、名東県が購入した価格とは、活字類一式を含めたとしても、余りにも差がありすぎる。

半紙二枚摺手引印刷機の製造依頼については、平野富二の当局製造品は「一枚摺」とサイズが明記されていないが、これを「美濃一枚摺」と見ても、「半紙二枚摺」はそれよりひと回り大きい。

後のことになるが、明治9年(1876)になって、四国徳島の普及社から美濃判二枚摺手引印刷機2台の注文があり、これが大型手引印刷機の最初となったとされている。同じ徳島のことでもあり、この「美濃判二枚摺」と混同していた可能性がある。

金津父子は、平野富二に雇用されている間に、阿波国向け以外に2台の手引印刷機械を製作したと伝えられている。これは、時期的に見て、神田和泉町から築地二丁目に移転する前後である。

明治7年(1874)末になって、金津父子は独立して活字鋳造器の修理を専業とし、やがて活字鋳造器・手引印刷機の製造を行うようになった。

手引印刷機のサイズについて、当初は「一枚摺」、「二枚摺」、「四枚摺」と単に一度に印刷できる用紙の枚数を示していたが、後に「美濃判半裁」、「美濃一枚摺」、「半紙二枚摺」、「美濃判二枚摺」と、一度に印刷できる印刷版のサイズと枚数を示すようになる。

後年になって、明治20年(1887)7月の「定価表」には、「半紙一枚摺」、「美濃一枚摺」(以上、四六判、即、竪六寸横四寸の版四枚掛)、「半紙二枚摺」、「美濃二枚摺」(以上、四六判八枚掛)、「半紙四枚摺」としている。

半紙(8×11寸)は美濃紙(9×13寸)に較べてひと廻り小さいサイズであるが、さして大きな差はない。しかし、印刷機の価格は「半紙一枚摺」は80円、「美濃一枚摺」は100円で2割の値差があった。初期の印刷業者にとってはこの差が問題だったと見られる。

明治23年(1890)6月になると、「美濃一枚」、「美濃二枚」、「半紙二枚」、「美濃四枚」の4サイズに集約している。これは、半紙と美濃紙のサイズに大きな差がないことから、小型では美濃で代用し、大形はいずれか一方に纏めている。

(4)ロール印刷機の国産化
本木昌造が上海美華書館から購入した四六判八頁掛ロール印刷機は、明治5年(1872)11月に神田和泉町で政府から改暦関係文書の緊急印刷を行うため、平野富二が本木昌造に依頼して、長崎から取り寄せて使用し、無事期限内に印刷物を納入した。

このロール印刷機は、手引印刷機では1時間に約250枚を印刷できるのに対して、約900枚を印刷でき、しかも、印刷用紙は四六判八頁(四六判原紙から4枚取りしたサイズ、394×545mm)で美濃判2枚分に相当するサイズを印刷できる。

平野富二は、近い将来の印刷需要を見越して、早速、この機械をモデルにして自製による国産化に着手した。

築地二丁目に移転した後のことになるが、先に述べたように明治6年(1873)9月14日の「記録」として「田中壮三の注文になるロール印刷機の鋳型を(松井)寅吉が納入した」と記載されている。既に顧客の注文を受けて、模造品の設計図面が完成し、製造に着手していることが判る。

このことから、この機種の製品化と販売は、神田和泉町では行われず、築地二丁目に移転してからであることが判る。

ロール印刷機については、平野富二が発行した明治12年版『活字見本帳』に初めて図版により「PRINTING ROLL MACHINE 活版車機械」として紹介されている。

図25-6 ロール印刷機(ストップ・シリンダー型)
〈明治12年(1879)刊行『活字見本帳』より〉

上部左寄りの圧胴(ロール)に紙を手差しで取付け、
その下を版盤が円筒の動きと連動して左右に移動する。
版盤の往路で印刷が行われ、帰路のときには圧胴は停止し、
その間、排紙と紙取り付け、印版のインキ付けなどが行われる。
駆動は、右端後方にあるハンドル付はずみ車の手動回転により、
歯車とクランク機構を介して行われる。
手動に代えて蒸気力または電力での駆動も可能である。

従来の手引印刷機は、インキを塗布した印版の上に印刷用紙を置き、上部から圧盤で加圧する面圧式であるが、このロール印刷機は、印刷用紙を巻き付けたロールの下部で、ロールの回転と同期して移動する印版を接触加圧する線圧式である。そのため、印刷部に加える圧力を増大することができ、高速であっても摺りむらのない印刷が可能となる。

このロール印刷機は、後に輪転式印刷機が導入されるまで、新聞の発行には欠かせないものとなった。

(5)その後に国産化された足踏印刷機
平野富二が発行した明治12年版『活字見本帳』には、これまで紹介した印刷機とは別の形式の印刷機が「活版足踏機 Printing Foot Press」として図版で掲載されている。

この印刷機も築地二丁目に移転した後に国産化されたものであるが、比較的手軽に印刷できることから、名刺や伝票、チラシなど雑種の端物印刷用として用いられる。

この印刷機は、瑞穂屋卯三郎が、慶應3年(1867)に開催されたパリ万国博覧会でアメリカのゴルドン社から出品された印刷機に着目し、帰国後、明治2年(1869)にアメリカから数台を輸入した。明治5年(1872)になって、日就社がその中の1台を用いて『東京日日新聞』を印刷したと伝えられている。

図25-7 足踏印刷機
〈明治12年(1879)版『活字見本帳』より〉

下部にあるペダルを足で踏んで手前側面のはずみ車を回転させる。
上方奥にあるロールインキ付け装置があり、
中央に垂直に置かれた版盤をレバーにより開閉する圧盤がある。
給紙と排紙は手で一枚毎に行われる。

平野富二は、瑞穂屋にあった残りの1台を購入し、それを手本として国産化を図ったと見られる。

この印刷機は、足踏みにより一人で運転できることが特徴である。足踏みの代わりに蒸気力や電力による動力運転も可能である。手引印刷機に比較して機構が複雑なため高価であった。

平野富二が国産化して販売した活版足踏機械は一番小型の11×16インチ(280×400 mm)の1サイズに限っていた。

(6)わが国における活版印刷機の渡来の歴史
活版印刷機は、インキを塗布した印版とその上面に定位置で接する紙を加圧装置により加圧することで印刷が行われる。

活版印刷が開発された15世紀中ごろから19世紀に至るまで、加圧を手動で行う「手引印刷機」が広く用いられてきた。

当初は木製であったが、産業革命の結果、鉄製に代わり、その後、主として圧盤による加圧機構と圧盤の吊り上げ機構に工夫が加えられ、各種各様の考案がなされた。

その結果、スタンホープ・プレスから始まり、コロンビアン・プレス、アルビオン・プレス、ワシントン・プレスを代表とする各種手引印刷機が開発され、わが国にも導入された。

わが国には、16世紀末の天正年間にイエスズ会宣教師たちによって木製手引印刷機がもたらされた。天正18年(1590)には、ヨーロッパから帰国した天正遣欧少年使節団が持ち帰ったが、慶長19年(1614)の禁教令により信者がわが国から放逐された際、信者たちと共にマカオに移されてしまった。そのため、わが国における活版印刷術は、伝承されることなく途絶えてしまった。

図25-8 16世紀の木製手引印刷機
〈ハンス・ザックス著『西洋職人づくし』、1568年より〉
15世紀中ごろのドイツで、
グーテンベルグによって開発された木製の活版印刷機は、
18世紀末から19世紀に掛かる頃まで、
構造的に大きな改良を加えられることなく使用されていた。

その後、わが国は鎖国時代に入るが、19世紀の半ばの嘉永年間に、オランダから手引印刷機が欧文書籍印刷用として相次いで長崎にもたらされた。

その内の1基は、嘉永1年(1848)に見計らい品として蘭書植字判一式が輸入された。翌年、本木昌造を含むオランダ通詞仲間がこれを買い求め、活版印刷研究に用いられた。

その蘭書植字判一式は、安政2年(1855)8月に長崎活字版摺立所が西役所内に設立されたとき、長崎会所によって買い取られた。そのときオランダに別途注文した他の1基が安政4年(1857)6月に到着している。

それより早く、嘉永3年(1850)3月には、オランダ商館長レファイスゾーン(J.H.Lefaijssohn)が江戸参府の際に、オランダ国王から徳川将軍に献上された印刷機1基がある。この印刷機は、安政年間に蕃書調所で洋書復刻に使用された。

これらの書籍印刷用手引印刷機は、18世紀の産業革命により鉄の供給と加工技術の向上により、イギリスのチャールズ・スタナップ(Charles Stanhope)により開発された総鉄製手引印刷機で、スタンホープ・プレスと呼ばれた。献上品は、これを模造したオランダ製だったと見られる。

図25-9 スタンホープ・プレス
〈矢野道成著『印刷術』、第二版より〉

この手引印刷機は原理的には従来の木製印刷機と同様である。
総鉄製で、強力な加圧力の得られることから、
大判の印刷が可能となった。

長崎活字版擦立所は、安政6年(1859)に廃止され、そこで使用されていた書籍印刷用手引印刷機2基を含む印刷資材は奉行所倉庫に保管された。文久1年(1861)3月になって、保管されていた印刷資材・機器の一部が江戸の蕃書調所に移された。

蕃書調所は、洋書調所、開成所と改称され、維新の際に一時閉鎖された後、慶應4年(1868)6月、新政府に移管されるが、同年12月になって活字類の大部分と若干の機器が徳川家の静岡藩沼津印刷工場に持ち出された。この中に手引印刷機が含まれていたかどうかは不明である。

幕府の開成所は、明治2年(1869)1月に新政府の開成学校に引き継がれ、大学南校、南校と改称されるが、南校に伝承された活版印刷設備は、明治4年(1871)9月に新設された文部省編集寮活版部(通称、文部省活版所)に移管された。その後、正院印書局が新設され、政府関係省庁で所有する活版印刷機器の集約が行われたため、明治5年(1872)9月に文部省活版所は廃止され、印刷器機は印書局に移管された。

その後、印書局の印刷設備は大蔵省に移管されるが、現在、「お札と切手の博物館」に保存・展示されているスタンホープ・プレスは、蕃書調所から伝承されたものである。

なお、長崎奉行所倉庫に保管されていた残りの印刷設備は、新政府下の慶應4年(1871)4月になって、活字板蘭書摺立道具壱式として市中で希望する者に入札払する旨の触れ書が出されている。入札の結果は不明である。

長崎、横浜、神戸の外国人居留地で欧文の新聞が発行されるようになると、外国人によって各種活版印刷機が我国に渡来するようになった。その最初期に発行されたのが『The Nagasaki Sipping List and Advertiser』で、この新聞は、文久1年(1861)5月15日に長崎においてハンサード(A.W. Hansard)によって創刊された。ハンサードは、上海で活字や印刷機の手配をして長崎に来港したと見られている。

平野富二を含む本木一門が、新聞印刷の伝習を兼ねてハンサードの新聞発行の手伝いをしたことについては、本シリーズの中ですでに述べた。ハンサードがどのような印刷機を持参したのか定かでないが、このとき、平野富二は活版印刷機についての知識も得たと見られる。

ハンサードは、当時発展しつつあった横浜に移って、文久1年(1861)10月21日に『THE JAPAN HERALD』を発行した。ヘラルドで使用した初期の印刷機は美濃二枚摺りの手引きで、上部に鷲のマークの付いたものであったと記録されている。これは、アメリカで開発され、特許制度のあるイギリスで製造・販売されたコロンビアン・プレスと見られる。

本格的な活版印刷機が平野富二の手によって国産化するまでは、上海の美華書館を通じて輸入するか、横浜や神戸の外国新聞社・商社を通じて欧米から輸入していたと見られる。しかし、輸入品は非常に高価であった。

まとめ
平野富二による活版印刷機の国産化は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したときから、準備が進められたと見られる。

その目的は、あくまでも活字・活版の販売を促進するためであったと見られ、開設から3ヶ月後には、早くも印刷機の販売について新聞広告を出している。

取りあえずの対応は、本木昌造が自社で使用するために設計し、長崎製鉄所に依頼して製作した木鉄混用の手引印刷機を複製して販売することから始められた。しかし、これは販売を目的として開発されたものではなく、間つなぎ的なものであった。

神田和泉町では、幸い身近に外国製の小型手引印刷機とロール印刷機があったことから、これを分解して型を取り、模造することによって国産化を果たすことが出来た。それにより、活版印刷の普及と事業の拡大に大きく寄与することになった。

しかし、ロール印刷機の国産化を果たして販売できるようになるのは、築地二丁目に新工場を建設して移転してからであった。

活版印刷の需要が急速に拡大する中で、多くの引合が寄せられるようになり、より大型で高性能の活版印刷機が要求されるようになったことに対応するため、築地二丁目に移転後、各種印刷機の本格的製造体制を整えることになる。

本格的な生産体制の整備と機種の品揃えは、明治6年(1873)7月に築地に新工場を建設してからであり、今後の動向と発展についての紹介は後日に譲ることとする。

2019年5月2日 稿了

地方への活版普及 ー 茂中貞次と宇田川文海

まえがき
平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。

「文部省御用活版所」(後に、「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。

鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜寿記念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪に於ける初期の新聞発行に貢献している。

本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

(1)茂中貞次と鳥山棄三について
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、江戸の本郷新町屋で道具屋を営む伊勢屋市兵衛の次男真平と三男棄三である。

天保11年(1840)生まれの次男真平は、後に茂中貞次と名乗って長崎に赴き、本木昌造の下で活版印刷術を学んだ。文久1年(1861)、22 歳のとき、本木一門の一人としてイギリス人ハンサードから英字新聞の印刷術伝習を受けている。明治3年(1870)、31歳のとき、本木昌造が大阪に「新塾出張活版所」(「大阪活版所」)を開設したことから、店員の一人として大阪に派遣された。

明治4年(1871)10月頃、先に本木昌造が大学から御用を仰せ付けられていた活版所の開設準備のため、平野富二、小幡正蔵と共に上京した。

そのとき、谷中の南泉寺門前にあった百姓屋の土蔵に付属した三畳間を借りて一人暮らしをしていた弟鳥山棄三を訪ねて、10年ぶりの再会を果たした。茂中貞次は32歳、鳥山棄三は24歳だった。

弘化5年(1848)2月生まれの棄三は、母の旧姓である鳥山を名乗っていた。6、7歳ころから草双紙を読むのが大好きな子供で、7歳から3年間、寺子屋で教育を受けた。安政4年(1857)と同5年(1858)に、相次いで母と父を失い、翌年、12歳のときに駒込の養源寺で出家得度した。

文久1年(1861)7月、和尚のお供で湯島からの帰途、暗闇の中で浪人から斬りつけられた。一の太刀で右頬から胸に、二の太刀で左顎を斬りつけられ、手術により一命は取り止めたが、生涯、醜い傷跡が残った。

慶應2年(1866)秋、下総結城の寺に住職見習いとして転住したが、明治1年(1870)になって、廃仏毀釈運動で寺の仕事が行き詰まったため還俗した。

その後、東京に戻って、谷中の南泉寺の門前に一人身を寄せ、東校の講義録の手書き複写を請け負って生計を立てていた。

「文部省御用活版所」が開設されたとき、茂中貞次は「大阪活版所」から転籍して所長小幡正蔵の下で支配人兼技師となり、鳥山棄三は兄の勧めで見習工となった。

「文部省活版所」が、明治5年(1872)9月、正院印書局に吸収合併されて他所に移転したことから、その御用を勤めていた活版所は名称を変えて「小幡活版所」となった。

明治6年(1873)初めの頃、協力者の大坪本左衛門が、平野富二の了解を得て「小幡活版所」を閉鎖し、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立した。小幡正蔵は大坪本左衛門と共に長崎新塾活字の取次販売と活版印刷の営業を始めた。

それに伴い、茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、平野富二の下に残って長崎新塾出張活版製造所で働くことになった。

(2)宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
平野富二の下で働いていた鳥山棄三は、後に宇田川文海と称して文筆家となるが、大正14年(1925)に執筆した自伝『喜壽紀念』に、明治6年(1873)頃の平野富二の言動を記録している。

それによって、平野富二の人柄と共に、部下の能力を見出し、それを育成、指導することに優れていたことが判る。やや長文になるが出来るだけ原文に近い形で紹介する。

「平野富二という人が、これは活字と印刷機械の製造と販売を目的にして、長崎より出京して、大学東校の構内に製造所を設けて、盛んに製造業を営んでいた。この平野君は、本木先生の第一の高弟で、英学が能く出来、なかなかの人物であったが、鳥山々々と云って(私はその頃、母方の姓を名乗り、鳥山棄三と言っていた)私を可愛がってくれていた。」

この文に続いて、秋田県で発行する新聞の活版印刷御用を引き受けるよう平野富二から依頼を受けた次第が述べられているが、これは(3)で後述する。続いて平野富二の言葉が次のように述べられている。

「(私は秋田行きを)固く辞退したが、平野君が頭を振って、『イヤ、そうでない、私はお前の書いたものは読んだことはないが、お前が人と話しているのを聞いたことがある。その話は良く順序が立ち、かつ、解りよく面白く弁じて、しかも自然に文を成していた。あれだけ談話が出来れば、きっと文が書ける。』

『元来、物を言うのも、物を書くのも、心で想っている事の表わし方の相違で、舌で述べるのと、筆で書くのと、方法は異にしているが、心理上から言えば同一の作用である。お前のその舌の力、弁の才の方を応用して、少し熟練さえすれば、きっと心に想う事を、筆に綴って文となすことが出来るようになる。』

『そうして、神は人間を万物の霊長として造られたのだから、人間には不思議な霊力があって、自分で出来ると思って、一心不乱に勉強すればどんな事でも出来る。中国の古賢の言にも、精神一到何事か成らざらん、と云っている。』

『お前が誓ってやる気にさえなれば、必ず新聞記者として職務を果たす事が出来る。その事ならば私が確かに保証するから、その様な弱いことを言わずに、神を信じ自分を頼み、必ずやれると思って行きなさい。』

ここからは、平野富二の文章に対する持論となる。

『西洋は言の国であるから、言が即ち文、文が即ち言、言文一致であるから、思う事をすぐ口に言い、口に言う事を、すぐ筆に綴る事が出来る。日本も元来、ことたまのさちわう国といって、西洋と同じく言語の国であるが、中頃、支那から文字が渡り、その後は思想を表現するのに、言語と文章の両様を応用することに成り、文章は文字で書くようになった。』

『最初は純然たる漢文体を用いたが、次には漢文の変体を用い、また次には雑文体を用い、また次には漢文くずしと、仮名と、両文体を用い、また次には全くの仮名の一体を用いるようになったが、維新以後、今日では便利上日本の言語と、支那の文字を、巧みに交ぜて書く、一種の雑文体を多く用いるが、しかし五年、十年の後には、日本も西洋と同じように、言文一致に近い雑文体の文章で、解りよく物を書いていられる。』

『現に今でも、三田の慶応義塾の福澤諭吉先生などは、あの通り、すこぶる言文一致に近い雑文体の文章で、解りよく物を書いていられる。君も知っているが、読売新聞の鈴木田正雄君は、福澤先生よりもなお一歩進んで、純然たる言文一致の文体を書いて、女子童幼にも読めもするし解りもするので、非常に評判が好い。』

『君の福澤先生や鈴木田君に習って文字で文章を書くなどという、支那風の古い思想を廃して、心に想う事を、すぐ口に言い、口に言う事をすぐ筆に言わせて、西洋風の言文一致の率先者に成りたまへ』と力強く勧められたので、‥‥」

鳥山棄三は、ようやく決心して秋田に出向くことになった。
秋田では地元の有志者により「聚珍社」が設立され、明治7年(1874)2月に『遐邇新聞(かじしんぶん)』が発行されることになるが、本件については(3)で述べることとする。

また、宇田川文海の『喜壽紀念』に述べられた言葉として、『増補 長崎の歴史』(松浦道法著、昭和49年10月)に次のように紹介されている。

「平野先生の主張は、漢文も和文も文語体を尊しとして、言文一致体を軽んする習慣がある。あれでは文運の進歩にどれだけ差支えがあるか。今に見ていたまえ。相当、時日はかかるだろうが、新聞が必ず言文一致体で全紙面を埋める日が来る。だから、かなもじというものを、早くとり上げ、うまく生かした新聞が一ばん栄えるようになるよ、と主張された。」

「また、先生は、いつ読書されるか文学通で、シェークスピア、ディッケンズ、サッカレー、エリオットなどの小説や劇にも通じて居られた。自分はシェークスピアの ”ベニスの商人“ ”ロミオとジュリエット“ などの話を、日本風に翻案してお目にかけると、『面白い、これなら受けよう』といって、朱をいれてもらった。」

「平野先生は、その後、和泉橋の大学東校の構内に御用出版所を創設され、兄の茂中も私もそのお仕事を助けることになった。ほかに神田佐久間町に民営印刷所を経営されていた。ある時、左院から三万五千本の活字注文があり、即座に納められ、昔の江戸活字の四分の一の値だったので、左院はかえって怪しんだが、使ってみると江戸活字の三倍以上もつというので、これが評判となり、本木活字がついに天下を風靡する時代が来た。」

上記の最初の話にある「かなもじ」普及に関して、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、茂中貞次と鳥山棄三が「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった頃の2月中旬、『まいにち ひらがな しんぶんし』(前島密が東京相生橋通神田淡路町二丁目の「啓蒙社」から発兌)が発行されることになり、活字は平野富二の「長崎新塾出張活版製造所」から供給し、その組方として鳥山棄三が派遣されている。

なお、同じ前島密の発案で明治5年(1872)6月に『郵便報知新聞』が日本橋横山町三丁目の書肆泉屋金右衛門から創刊されている。この新聞は、46号までは木版印刷だったが、明治6年(1873)4月発行の47号からは長崎新塾製の4号活字により「大坪活版所」で小幡正蔵が活版印刷を請け負うようになった。

(3)鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
宇田川文海の自伝『喜寿記念』の中で、前項(2)で省略した記述は、鳥山棄三が平野富二の依頼を受けて、秋田で新聞を発行することになった経緯を述べたものである。

ここでは、それを紹介すると共に、秋田における新聞発行について述べる。

「一日の事、この平野君からちょいと来てくれという沙汰があったので、何の用かと思って、すぐに行って見ると、平野君は例のニコニコ笑ひながら、

『今度、秋田県の活版印刷の御用をひきうけて、出張する人があるが、県庁では、印刷の御用をさずける代わり、その副事業として、是非新聞を発行しなければならぬといふ注文。ところが経費の都合で新聞紙の主筆と、活版部の職工長と、二人を雇うことはむづかしいから、一人でこの二役を兼ねる者が欲しいが、是非世話をしてくれといふ困難の相談。』

『そこで私もいろいろ考えて見たが、私の知る限りでは、差し当りお前より外に適任者がないから、是非二役兼ねて行って貰いたい。お前さへ承知なら、茂中君には宜しく頼む』と、意外千万なる相談。私はこれを聞いて驚いた。

『先生の仰せでございますが、御承知の通り、兄の貞次の教えを受けて、活版印刷の事ならば、ひと通りは心得ておりますから、印刷の職工長は、曲りなりにも勤まりましょうが、これで纏まった文章の一篇も書いた事がありませんから、新聞の主筆などはとても出来ません』と固く辞退したが、‥‥‥」

ここからは、先に紹介した平野富二の言葉が長々と述べられている。その後、次のような会話が記述されている。

「‥‥意思の弱い私も之に励まされ、漸くに決心し、『左様ならば、先生のお勧めに従い、神を力にふるってやって見ましょう』と、大胆にも此の重大なる任務を引受けて、家兄の茂中の意見を問うたが、『平野先生が保証され、お前もやって見る決心なら、私も賛成する』との返答。」

「しかし、何分虚弱の身体、秋田の寒気に耐へられるか、どうか、医者の診断を受けるのも必要だと感じたから、茂中の心安い、その頃、有名なドクトルの許に行って、そのことを告げて診察を請うたが、‥‥(中略)‥‥いよいよ決心を定め、病弱不具、無学不文の身をも省みず、大胆にも無謀にも、印刷の職工長と、新聞の主筆の二大任務をおびて、ふるって秋田県へ出張したのは、明治6年(1873)の8月4日、私の26歳の時、」だった。

鳥山棄三が関与した新聞は『遐邇新聞(かじしんぶん)』で、明治7年(1874)2月2日に聚珍社(秋田県下茶町菊ノ町)から発行された。これは秋田県で先駆となる新聞で、全国新聞の中でも最も古いものに属する。第一號は、表紙共9枚二つ折り日本紙の冊子綴りで、活字は四号楷書風と平仮名を使用、編輯者は鳥山棄三、印務者は菅又謙二となっている。

 図24-1 『遐邇新聞』、第一号の表紙
長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三が編輯者となり、

秋田県の聚珍社から発行された。
長崎新塾製の活字が用いられ、漢字は楷書風、ルビは片仮名。
「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」
と記されている。

『秋田市史』(秋田市、平成12年3月31日刊)によると、明治5年(1872)9月、秋田県当局から県民に対して新聞購読の勧めが告諭として出された。これは、二代秋田県令杉孫七郎が県の布告・布達を速やかに周知させる手段として、新聞の購読を勧誘したものとされている。明治6年(1873)3月28日、吉岡十次郎と柴村藤次郎から出された新聞発行願いが許可された。

鳥山棄三の『秋田行日記』(原本は東京大学明治新聞雑誌文庫に所蔵)によると、その前文に、「明治6年8月4日、秋田県ヘ、新聞局ヲ開キ、活字版ヲ、広メン事ヲ依頼サレ、本日出発ス。相伴フ人ハ、吉岡十次郎君、柴村藤次郎君、外壱人、僕ト合セテ四人、家兄吉太郎、真平、千住駅マデ送リ来ル。」と記されている。

秋田県権参事加藤祖一の名前で活版新聞局設置について、明治6年(1873)年9月に出された告諭によると、「(前略)今県下ニ活板新聞局ヲ設ケ、近キハ奥羽ノ新事ヲ、中ハ海内ノ珍説ヲ輯(あつ)メ、遠キハ各国ノ異聞ヲ採リ、善ヲ以テ人ヲ勧ムルニ足リ、悪ヲ以テ懲スルニ足ル者、及ヒ人事ノ得失、物価ノ高低ニ至ルマテ詳細記載シ、以テ文明ノ進歩ヲ助ケントス、(後略)」と述べている。

同年10月5日、柴村藤次郎と吉岡十次郎代理吉岡十五郎の2人から秋田県に届書が提出された。それには、「本年四月中願済相成居「羽後新聞」ノ儀、今般「遐邇新聞」ト題号相改発行仕度候間、其段御届申上候。以上」と書かれている。

つまり、「明治6年(1873)4月に願書を提出してある『羽後新聞』発行について、今般、『遐邇新聞』と改題して発行したいのでお届け申上げます。」と述べている。
なお、「遐邇」とは「遠近」を意味する。これは、同年9月に出された告諭を受けて改題したと見られる。

その後、鳥山棄三が秋田を去ることになった経緯について、再び『喜壽紀念』から引用する。

「私は秋田の活版所へ、2年の約束で行って、明治6年の秋から8年の秋まで、首尾よく勤めたので、是非今1年働いてくれと依頼されたが、この時、兄の茂中貞次が、兵庫県の活版印刷の御用を勤め、傍ら神戸新聞(『神戸港新聞』)を発行していたので是非帰って援けろと、再三やかましく言ってくるので、兄弟の誼(よしみ)として辞するに由なく、約束通り秋田の活版所を辞して、その年の秋の末に神戸に行き、神戸新聞の記者と成った。」

(4)茂中貞次による地方への活版印刷普及
茂中貞次は、「文部省御用活版所」で支配人と技師を兼ねて活字販売と印刷請負いを行っていたが、印刷業の発展こそが時代の要求に応えるものだと自覚し、自ら率先して地方の府県を奔走して活版印刷の宣伝を行っていた。

明治4年(1871)11月20日に兵庫県令として赴任した神田孝平(かんだたかひら)は、政府の新聞発行奨励策により、積極的な働きかけを行なった。このとき、地方府県庁を訪問して活版印刷の宣伝をしていた茂中貞次がこれに協力し、明治5年(1872)5月、『神戸港新聞(こうべみなとしんぶん)』が創刊された。この新聞発行には、淡路出身の三木善八(後の報知新聞社長)らが呼ばれて編集・発行に参加した。

その後、茂中貞次は鳥取県庁に呼ばれて、布告などの活版印刷を行なうことになった。そのことについて、宇田川文海の『喜壽紀念』では次のように述べている。

「その年(明治6年)10月頃、『鳥取県庁に於いて、活字と機械を買い入れ、印刷教授の技師1名を招きたいという事であるが、かねて君の希望を聞いているからお知らせするが、行ってはどうか、』という相談が、平野君から茂中にあった。」

「茂中貞次は幸いに、同県の官吏に知人があったので、すみやかに承諾して東京の文部省御用活版所を辞し、活字と器械を携へて同県に至り、県庁の布告やその他の印刷をする余力を以て、広く民間の用をも達して、活版印刷の便を人に知らせ、1年以上働いたが、長く1ヶ所に居るのは自分の志ではないから、翌7年10月に、兵庫県の神戸に出、県庁の最寄りに活版所を開き、県庁およびその他の印刷の注文に応じ、傍ら「神戸港新聞」を発行した。」

このように、茂中貞次は、鳥取県庁で明治6年(1873)10月から約1年間働いたが、明治7年(1874)10月、神戸からの誘いを受けて兵庫県庁近くに御用活版所を開いて、県庁を主とした印刷の注文に応じると共に、『神戸港新聞』の発行も引き受けた。

このことは、これまで兵庫県の県庁内に直営活版所を設け、淡路出身で弱冠17、8歳の三木善八(後の報知新聞社長)らに『神戸港新聞』を編集・発行させていたが、活版所を県庁直営から民営に切り替えるために茂中貞次が呼ばれたと見られる。

茂中貞次が引き継いだ『神戸港新聞』は、当初は不定期刊で、週2回から隔日刊行となっていたが、これを日刊とした。明治8年(1875)10月、秋田で2年間の任期を終えた弟鳥山棄三を神戸に呼び寄せ、『神戸港新聞』の記者として筆を振るわせた。主筆は関徳(後の朝日新聞創業記者の一人)、同僚に赤荻文平、浮川福平が居た。

この頃、三木善八は既に『神戸港新聞』を去っていたと見られる。明治10年3月には淡路島で『淡路新聞』(社主:安倍喜平)の創刊に関わっており、このとき、東京築地活版製造所に居た同郷の曲田成が活版設備を納入し、印刷指導を行った。

明治9年(1876)9月になって兵庫県令が神田孝平から森岡昌純に代わったことにより、『神戸港新聞』は県庁の支援が得られなくなった。そのため、同年11月で廃刊となった。しかし、鳥山棄三が主体となって明治8年(1875)12月10日に大阪で発行された『浪華新聞』の印刷は、神戸で茂中貞次により行われた。

茂中貞次は、もと在籍していた大阪活版所とも連絡を取りながら、鳥山棄三の大阪における新聞発行に協力していたが、その後の動向は明らかではない。

一方、鳥山棄三は、その後、兄茂中貞次の勧めで『大阪新聞』に入社し、雑報の主任となった。さらに、『大阪新聞』から『魁新聞』、『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』へと転任した。

(4)茂中貞次による地方への活版印刷普及
茂中貞次は、「文部省御用活版所」で支配人と技師を兼ねて活字販売と印刷請負いを行っていたが、印刷業の発展こそが時代の要求に応えるものだと自覚し、自ら率先して地方の府県を奔走して活版印刷の宣伝を行っていた。

明治4年(1871)11月20日に兵庫県令として赴任した神田孝平(かんだたかひら)は、政府の新聞発行奨励策により、積極的な働きかけを行なった。このとき、地方府県庁を訪問して活版印刷の宣伝をしていた茂中貞次がこれに協力し、明治5年(1872)5月、『神戸港新聞(こうべみなとしんぶん)』が創刊された。この新聞発行には、淡路出身の三木善八(後の報知新聞社長)らが呼ばれて編集・発行に参加した。

その後、茂中貞次は鳥取県庁に呼ばれて、布告などの活版印刷を行なうことになった。そのことについて、宇田川文海の『喜壽紀念』では次のように述べている。

「その年(明治6年)10月頃、『鳥取県庁に於いて、活字と機械を買い入れ、印刷教授の技師1名を招きたいという事であるが、かねて君の希望を聞いているからお知らせするが、行ってはどうか、』という相談が、平野君から茂中にあった。」

「茂中貞次は幸いに、同県の官吏に知人があったので、すみやかに承諾して東京の文部省御用活版所を辞し、活字と器械を携へて同県に至り、県庁の布告やその他の印刷をする余力を以て、広く民間の用をも達して、活版印刷の便を人に知らせ、1年以上働いたが、長く1ヶ所に居るのは自分の志ではないから、翌7年10月に、兵庫県の神戸に出、県庁の最寄りに活版所を開き、県庁およびその他の印刷の注文に応じ、傍ら「神戸港新聞」を発行した。」

このように、茂中貞次は、鳥取県庁で明治6年(1873)10月から約1年間働いたが、明治7年(1874)10月、神戸からの誘いを受けて兵庫県庁近くに御用活版所を開いて、県庁を主とした印刷の注文に応じると共に、『神戸港新聞』の発行も引き受けた。

このことは、これまで兵庫県の県庁内に直営活版所を設け、淡路出身で弱冠17、8歳の三木善八(後の報知新聞社長)らに『神戸港新聞』を編集・発行させていたが、活版所を県庁直営から民営に切り替えるために茂中貞次が呼ばれたと見られる。

茂中貞次が引き継いだ『神戸港新聞』は、当初は不定期刊で、週2回から隔日刊行となっていたが、これを日刊とした。明治8年(1875)10月、秋田で2年間の任期を終えた弟鳥山棄三を神戸に呼び寄せ、『神戸港新聞』の記者として筆を振るわせた。主筆は関徳(後の朝日新聞創業記者の一人)、同僚に赤荻文平、浮川福平が居た。

この頃、三木善八は既に『神戸港新聞』を去っていたと見られる。明治10年3月には淡路島で『淡路新聞』(社主:安倍喜平)の創刊に関わっており、このとき、東京築地活版製造所に居た同郷の曲田成が活版設備を納入し、印刷指導を行った。

明治9年(1876)9月になって兵庫県令が神田孝平から森岡昌純に代わったことにより、『神戸港新聞』は県庁の支援が得られなくなった。そのため、同年11月で廃刊となった。しかし、鳥山棄三が主体となって明治8年(1875)12月10日に大阪で発行された『浪華新聞』の印刷は、神戸で茂中貞次により行われた。

茂中貞次は、もと在籍していた大阪活版所とも連絡を取りながら、鳥山棄三の大阪における新聞発行に協力していたが、その後の動向は明らかではない。

一方、鳥山棄三は、その後、兄茂中貞次の勧めで『大阪新聞』に入社し、雑報の主任となった。さらに、『大阪新聞』から『魁新聞』、『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』へと転任した。

図24-2 宇田川文海の紹介絵図
この絵図は隅田了古編集『新聞記者奇行伝 初編』に掲載されている。

画家は鮮斎永濯で、説明文に合わせた想像図としている。
「坂地は繰觚者に乏しきが故に野史・雑誌・戯場・評判記に至るまで
皆君が手に成ざるもの稀なり」と述べている。
顎の傷跡を隠すため、人前では口から下を布で覆っている。

とくに、明治14年(1881)9月に大阪朝日新聞社に入社して以降は、新聞連載小説に健筆を振るい、大阪に於ける代表的新聞連載小説家となった。筆名は宇田川文海、半痂居士、宇田川半痂。昭和5年(1930)1月、大阪住吉町の自宅で没した。享年83。

まとめ
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、後に文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。

現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。

2019年3月31日 稿了

神田和泉町での平野富二の事績

はじめに
平野富二は、長崎から活字製造部門の部下8人を引き連れて、東京神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を設立したのは明治5年(1872)7月のことであった。

この地には文部省活版所(もと東校活版所)があって、そこに活字を供給するため本木昌造が御用掛に指名され、小幡正蔵を所長とする御用活版所を設けていたことから、同じ門長屋の隣接した空き部屋と付属地を借り受けて活版製造所を設置した。

当時、わが国は活版印刷の黎明期に当たり、わずかに政府関係の諸省で文書の活版印刷が行われ始めた。そのことから、工部省は長崎製鉄所付属新聞局の活字製造設備と人員を引き取り、明治4年(1871)11月、勧工寮活字局を設けて東京の赤坂溜池に設備と人員を移転した。これにより政府・諸省の発行する日誌や布達類を活版印刷で迅速に作成し、併せて諸省にも活字を供給することを目指した。

明治5年(1872)9月20日になって正院印書局が新設され、10月16日に集議院内の仮局から皇居前の大蔵省付属辰ノ口分析所跡に移転し、太政官日誌を活版印刷で発行すると共に諸省の日誌や布達類の印刷をも引き受けることになった。それに伴い大蔵・文部・工部の各省と海軍省にある活字と印刷器械を印書局に引き渡すように通達が出された。

しかし、工部省は既に体制を整えて各方面からの依頼により印刷・製本を行っており、活字の製造は工業に関わる工部省の管轄に属するものであるとして引き渡しを断固拒否した。一方、文部省は、早速、活字と器械類を印書局に引き渡して神田和泉町の文部省活版所は閉鎖された。その為もあってか、平野富二が開設した活版製造所には活字の引き合いはほとんど無く、手持ち資金も目減りする一方であった。

このような状況の中で、本木昌造から委託を受けた活版製造事業を軌道に乗せるために平野富二が行った事柄を、新たな視点を加えて紹介する。

1)活字の製造体制整備
当初の準備資金は限られていたので、長崎から持参した活字母型を用いて一刻も早く活字を鋳造できる体制を整え、顧客の要求に応じていつでも販売できるようにする必要があった。

しかし、東京に拠点を構えて1ヶ月経っても、一向に顧客からの注文はなく、長崎で調達した資金も、そろそろ底をつく事態となった。

長崎で製造した活字母型は二号、四号、五号の明朝体のみであったが、需要動向を見ながら追いおいサイズと字体の品揃えのため、活字母型を製造することとした。
平野富二の日記によると、明治5年(1872)9月20日に初めて「ガルハニー相始候事」(電胎法による活字母型の製造を開始した)と記されている。

2)地方府県庁の文書活版化促進:埼玉県庁への活版納入
平野富二は、何としても活字の注文を得なければならなくなったことから、長崎製鉄所時代に親しくお付き合いしてもらった元長崎県令野村盛秀(宗七)が埼玉県令として赴任していることを思い付き、8月上旬の或る日、浦和の埼玉県庁を訪れて野村県令と面会した。活版印刷の効用を詳しく説明し、今まで手書きで書き写して県内の町村に配布していた政府の布告書類を活版印刷化することによって迅速、正確、減費の三得が得られることを力説した。

それに同意した野村県令は、大木文部卿に宛てて伺書(8月12日付け)を提出している。それは「布告書活字板摺立伺」と題し、
「管内一般に布告する書類が、現在、多量になり、長文の数部は特に書き写しが行き届きかねないので、今後、止むを得ない分は県庁に於いて活字版で印刷し、管内の町村に布達することにしたい。」と述べている。
これに対し、文部省から9月付けで「管内に限って布達の書類を活版により印刷することを認可する。」と指令があった。

平野富二の日記には、「8月29日、埼玉県より四号文字350字の注文があった。」と記録されている。注文の日付が文部省の正式認可より少し早いが、埼玉県では文部省の前向きな感触を得て、事前に発注してくれたことが分かる。平野富二にとっては「枯魚、一掬の水を得た」思いであったという。

図23‐1 平野富二の日記抜粋
〈三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』、p.131〉
右の八月廿九日 雨 の第2項に
「一.埼玉縣より四號活字三百五十字注文有之候事」
中央の九月五日の第3項には
「一.海軍省より摺物之義に付森尾より引合として罷越候事」
左の九月廿日に、「一.ガルハニー相始候事」、
「一.長崎来状 箱物七ツ横浜迄着候由」とある。

後に書かれた伝記では、「金額にして200円ばかりであった」と記されているが、四号活字1本が永8文(0.008円)であることから、活字だけで販売した場合、350字は合計3円若にしかならない。活字を版に組んで納入し、その後も引き続き注文を受けた結果として300円ばかりとなったと見られる。
埼玉県は、その後、県庁活版所を設けている。しかし、火災で焼失したため、民間の開益社(後の埼玉活版社)を県庁御用に指名している。

活版印刷を必要とするほどの印刷物の発行が未だ民間では殆ど行われていないこの時期に、埼玉県の決断により他の府県庁でも復刻する布告書類の活版印刷化が急速に行われるようになり、やがて民間活版所が府県の御用に指名されることにより地方における活版印刷の普及・発展を促したことになる。

3)広報宣伝活動:『横浜毎日新聞』に広告掲載
埼玉県令野村盛秀を訪問した同じ月の8月、平野富二は横浜の陽其二に依頼して、『横浜毎日新聞』(第528号、明治5年8月14日付)に陽其二の経営する横浜活版社名で広告を出してもらった。本件については、既に前回のブログで述べたが、ここではその広告の内容を現代文で紹介する。

「これまで、長崎新塾内において活版を鋳造し、さらに、銅版を熔解製造し、殆んど全備いたしました。一方、次第に活版印刷の大きな利便性が広く一般に認知され、各府県においても布告等に至るまで活版で印刷されるようになりました。そのような訳で、今般、東京府下佐久間町の東校表門通りにある文部省活版所内において活字ならびに銅板を製造・発売いたしますので、御注文の方は最寄りの同所ならびに長崎新塾へ御相談ください。なお、当社においても御注文をお受けすることが出来ます。」

この広告の印刷は木活字によると見られる。広告の趣旨から見て、平野富二が東京で新たに鋳造した活字が用いられて当然と思われるが、未だ新聞を印刷するには供給量が不足していたのかも知れない。

4)広報宣伝活動:『新聞雑誌』に「崎陽新塾製造活字目録」を掲載
同年10月に入って、平野富二は新聞局日新堂から発行されている『新聞雑誌』に広告を出した。同紙は半紙二つ折の木版刷り冊子式新聞で、その第66号(明治5年10月発行)に活版印刷による活字広告が掲載された。木版刷りの紙面の中に綴り込まれたこの活版刷り広告は、異彩を放つ存在だった。

図23‐2 「崎陽新塾製造活字目録」
〈『新聞雑誌』、第66号、綴り込み広告〉
表題にある「崎陽新塾」は「長崎新塾」と同じである。
明治5年(1872)2月に刊行の『新塾餘談』に掲載した摺り見本と同様に、
各号の摺り見本と1字当たりの代価が示されている。

初号から五号までは『新塾餘談』に掲載したと同じ鋳型で鋳造したと見られる活字による8種の摺り見本が示されているが、初号の字間スペースは若干詰めてある。これに加えて、七号振仮名(片仮名)の摺り見本(平仮名は見本を省略)が加わっている。七号は上海美華書館の六号に相当するもので、崎陽新塾では六号は示されていない。各号ごとの代価は、先の『新塾餘談』に示された代価と同額で、追加された七号は永五文となっている。

摺り見本に続いて、次のような説明が記されている。現代文に直して紹介する。
「右の外に二号以下毎号に平仮名・片仮名・濁音・唇音(半濁音)・塞音(促音)・略字・返り点、その他、西洋文字数種がある。且つ、真字(楷書)、その外とも、字体や大小等はお好みの通り製造出来ます。
一.摺器械は美濃二枚摺と半紙二枚摺 ○肉棒型と同金物 ○文字組鉄わく大小 ○文字取盆 ○肉盤○欄 ○系 ○文字挟、紙締器械、その外、活字入用の諸品。
一.御出版物が有れば、和・漢・西洋文とも印刷して差上げます。」

この「活字目録」は、全国の活版印刷業を志向する者たちの注目を集めた。
2年後のことになるが、佐賀藩医の川崎道民は、1874(明治7)年10月15日付けで佐賀県令北嶋秀朝に対して活版所の設立を願い出た。その願書に、活字購入のための見本として『新聞雑誌』に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」が付され、そこにある三号の和様活字に墨で○印を示し、「右三号ノ文字」を至急購入したい旨を述べている。

5)新聞の活版による印刷化動向
平野富二が東京神田泉町で長崎新塾出張活版製造所を開設するよりも5ヶ月前の明治5年(1872)2月21日、浅草茅町一丁目の日報社から『東京日日新聞』が創刊された。

同紙は、日本橋照降町の蛭子屋(えびすや)が所有する上海製活字と日本橋本町二丁目の瑞穂屋が所有する足踏式印刷機を使って、活版印刷による新聞発行を計画していた。しかし、創刊号は木版摺りとなった。第2号から活版になるが、活字が大幅に不足しているため、漢字の一部を片仮名で表記するなど苦労している。また、組版技術も未熟であったためか、第12号から再び木版摺りに戻っている。明治5年(1872)7月2日から1873(明治6)年2月末日まで木活字による印刷が行われた。

明治5年(1872)11月9日発行の改暦号は2日間で2万5千部を売り上げ、これにより発行部数を大幅に伸ばした。その結果、従来の請負制印刷に問題が生じ、工場直営の印刷に切り替えたという。

金属活字に戻るのは1873(明治6)年3月2日からである。これには勧工寮活字が用いられたが、同年11月24日から、勧工寮活字に代わって平野富二の製造する崎陽新塾活字が用いられるようになった。勧工寮の活字には、少なくとも3種の書体が混在する上、寸法にも違いがあったという。そのような中で、日報社は、崎陽新塾活字の美しさを発見し、平野富二に直接活字を販売する意思があることを確認して全面切り替えを行ったという。

日報社の勧工寮活字採用の時期は、次項6)で述べる勧工寮が『東京日日新聞』に活字払下げの広告を掲載する1ヶ月前であることである。日報社が勧工寮に活字払下げを依頼し、それを契機に勧工寮の外販活動が開始されたと見られる。勧工寮の広告に示された活字価格は、多分に崎陽新塾に対抗する意識を露わにしているが、平野富二は値引き競争に応ずることなく、あくまで活字の品質で応戦したとみられる。その結果は、日報社が勧工寮活字から崎陽新塾活字に全面的に切り替えた事実がこれを如実に示している。

明治5年(1872)には、『東京日日新聞』の発行に続いて、『日新真事誌』(3月16日創刊、貌刺屈社中)、『郵便報知新聞』(6月10日創刊、報知社)、『公文通誌』(11月創刊、公文社。のち『朝野新聞』と改題)が相次いで刊行された。

『日新真事誌』は、東京築地新栄町に於いて在留イギリス人ジョン・ブラックによって刊行され、漢字は日本製木活字、片仮名は上海製鋳造活字が使用された。1873(明治6)年12月3日から木活字に代えて四号鉛活字が使用されるようになった。

『郵便報知新聞』は、明治5年(1872)6月10日から月5回発行されたが、木版摺りであった。1873(明治6)年4月に発行された第40号から活版で印刷され、第55号(6月3日)から日刊となった。この活版印刷は、本郷妻恋町の大坪活版所において小幡正蔵が四号鉛活字を用いて印刷を請負ったとされている。

先に紹介した『新聞雑誌』(明治4年(1871)5月に木版印刷で創刊)は、1874(明治7)年1月発行の第72号から明朝体四号による活版印刷となった。ところが、次号から再び木版印刷に戻っている。その社告には、「本局で刊行の新聞は、当年1月より活版により発兌しましたが 毎号5千部余の印刷で、手数も煩わしく、機械も不足しているので、12月の間は正版(整版=木版)と活版とを隔号で発行します。幸いに四方の君子はしばらくその錯雑で不斉でとなることをお許し頂き、ひと通り目を通されるよう心からお願い致すのみです。」と記されている。

このように、各社は新聞の発行部数を順調に伸ばしているが、木版から活版への転換は、順調には行われなかったことが見て取れる。その背景には、活字の供給が追い付かなかったこともあるが、活字を拾って版に組むことに不馴れであったこと、活版を印刷する機械が不足していたことが挙げられる。

6)勧工寮による活字の外販開始と平野富二の対応
長崎から活版製造設備と人員を東京に移転して設立した工部省勧工寮活字局は、太政官正院印書局が設備を整えて活版製造が軌道に乗ったことから、政府内での需要が限られたためか、民間に対しても活字の販売を開始した。

1873(明治6)年4月26日から4日間、『東京日日新聞』に活字払下げの広告が掲載された。
それには、鉛製活字大二分五厘方(一字代金一銭一厘)、同中竪二分五厘横二分(同八厘五毛)、同二分方(同八厘)、同小一分二厘五毛方(同七厘)、同振仮名六厘二毛五糸方(同四厘五毛)と5種類のサイズの鉛製活字の1字当たりの代金が示して、「右漢字・仮名・句切等、求めに応じて多少を払い下げます。勧工寮」としている。

ここでは活字のサイズを分厘毛と寸法で表示している。また、縦横同寸のものは「方」と表示している。このサイズ表示は単なる呼称の可能性もあるが、曲尺寸法と見て上海美華書館の「号」と比較すると、二分五厘は第二号、一分二厘五毛は第五号に相当する。振仮名活字の六厘二毛五糸は五号の半格で、美華書館の最小活字である第六号よりも小さい。最初から2番目の竪二分五厘横二分は二分活字を縦長にした活字と見られる。二分は第三号よりもやや大きい。

このように同じギャンブル伝習による成果でも、長崎新塾系と勧工寮系では、共通するものもあるが、かなり違った流れが形成されつつあることが見て取れる。

また、金額の表示は新貨条例に基づく表示で、1銭は以前の永10文に相当する。この勧工寮活字を長崎新塾活字と比較すると、二号相当は1.1銭と1.2銭、五号相当は0.7銭と0.8銭で僅かばかり金額を低くして販売することにしており、明らかに長崎新塾活字を意識して値段設定を行っていることが分かる。

勧工寮は、さらに、同年6月19日から7月13日にかけて13回にわたって、3種類の活字を大幅に値下げし、元大阪町二番地の辻金太郎に販売させる広告を出している。二号相当は1.1銭を0.9銭、五号相当は0.7銭を0.3銭に値下げし、まさに投げ売りの様相を呈している。

勧工寮活字局は、この新聞広告に先立ち、同年5月に開会したウィーン万国大博覧会に活字版を出品し、進歩賞牌を授与され、その製作者藤山雅彦は協賛賞牌を受けている。藤山は現地で技術を学び、必要な諸器械を購入して1874(明治7)年に帰国した。 

勧工寮が国費によって製造した活字を民間に販売することは、平野富二にとっては乏しい資金の中で多大の努力と工夫によって漸く芽の出始めた民業を圧迫するものとして大反対であった。

勧工寮活字局の前身は長崎製鉄所時代に平野富二の配下にあったことから、その内情を察知していた平野富二は、本木昌造との約束もあることから、敢えて値引き競争に挑むことなく、勧工寮活字局の設備を買い取り、長崎新塾出張活版製造所の設備と一体化することによって販売拡大を図ると云う大胆な提案を政府に願い出た。

その願書の控は、昭和の初期まで平野家に保管されていたが、現在のところ発見されていない。1933(昭和8)年に刊行された三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』には部分写真版と一部の読み下し文が紹介されている。

図23-3 勧工寮活字局の設備払下げ願書
〈三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』、p.137〉

その内容は、買取り設備の代価は分割支払いとし、活字の生産高に応じて一定の代価(税金)を政府に納めると云うもので、欧米の例を調査したところ、政府みずからが商売に手を出しても利益に結びつかず、民間に任せることによってこそ利益がえられると述べて、暗に工部省の遣り方を非難している。

平野富二は、国内の殖産興業を目的とする工部省の設立を主導した山尾庸三ならばこれを理解してくれると期待していたかも知れない。しかし、工部省が保有する活版設備の中には最新鋭の活字鋳造機やロール印刷機を含んでいたため、正院印書局の反対で民間に払い下げることが出来なかったと見られる。

平野富二の建議は採用されなかったが、1873(明治6)年11月になって勧工寮は廃止され、製作寮に所属替えとなった活字局は、翌年8月、設備一切を正院印書局に引き渡し、工部省は活字の製造販売から手を引いた。

政府系活版製造・活版印刷部門の変遷

7)政府文書の印刷請け負い
このような平野富二の努力によって、明治5年(1872)9月に入って、海軍省から出入り業者を通じて摺り物の引き合いが寄せられたことが、平野富二の日記に記されている。また、前年に平野富二が長崎から出張して東京で活字販売に成功した相手先である左院、日就社、蔵田活版所からも活字の注文があったという。

活版印刷の請負については、長崎の新町活版所との関係もあって事業範囲外としていたので、海軍省からの引き合いをどのように処置したか不明である。

明治5年(1872)11月9日、太政官布告第337号で「改暦ノ儀」が公布され、同年12月3日を明治6年1月1日とする太陽暦に改められることになった。

この改暦布告に際して、3府72県に100部単位で新暦を頒布し、さらに各省庁にも頒布することにしたが、10月10日になっても作暦担当の文部省で新暦が完成しておらず、施行までの期間が40日余しかないため、太政官から平野富二の長崎新塾出張活版製造所に注文が転げこんできた。

平野富二は、手持ちの手引印刷機では大量の注文を短期間で対応することができないので、急いで本木昌造に連絡して、政府からの印刷請負いに応じて東京で印刷を行うことについての許可と長崎にあるロール印刷機の取り寄せる要求を行ったと見られる。

その結果、政府は施行の10日余り前の11月9日に改暦布告を公布することが出来た。各県から頒布された部数では管内に徹底させるには全く不足しているとして重刻上梓の希望がだされた。そのため、引き続いて追加印刷の注文があったと見られる。

改暦関係の印刷は一段落したが、同年11月28日に太政官布告第379号で「徴兵告諭」が公布されることになり、この印刷も追加注文された。「徴兵告諭」は、今の市町村長に相当する郷長・里正に対して一般住民に徴兵に応じるよう告諭させるものであった。

この時の活版製造所での様子が三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』に、平野富二から速水兵蔵(大阪活版所から印刷機械製造の見習いとして派遣)が伝え聞いた話として、次のように紹介されている。
「平野先生が小幡活版所の隣で仕事をして居られた時分には、未だ東京にはどこにもロールがなかったので、随分珍しがられたものであったが、また、ゴットンゴットンと云うロールの音を聞いて、工場の付近を通る者が、『あの家では毛唐のものを使っている』などと嫌われて、ガラス戸に石を投げ付けて通った者があって困ったそうである。」

図23‐4 当時のロール印刷機による印刷風景
〈三浦荒一編『名古屋印刷史』、名古屋印刷同業組合、昭和15年12月〉
図では明治30年頃としているが、明治初期も同様であった。

これらの活版印刷による「新暦」と「徴兵告諭」の全国への頒布は全国に広く活版印刷物を認知させ、普及を促す一つの契機となったと見られる。

まとめ
神田和泉町で活版製造を行っていた期間は明治5年(1872)7月から翌年7月までの僅か1年余りであるが、活版製造体制を整えながら販売と広報に力を注ぎ、ようやく活版印刷の夜明けを迎え、朝日が昇り始めた。

この間、明治6年(1873)5月には曲田成(後の東京築地活版製造所第3代社長)を社員として迎えた。また、文部省御用活版所(小幡活版所)で支配人兼技師となっていた茂中貞次とその弟鳥山棄三(筆名、宇田川文海)を地方新聞社に派遣して地方の活版印刷普及の一端を担わせた。さらに、活版印刷機械国産化のために江戸職人を探し出し、その技術を活用している。

曲田成については、本ブログの別シリーズ「東京築地活版製造所社長列伝」に掲載してある。茂中貞次と鳥山棄三については次回のブログ掲載とし、それに続いて活版印刷機械の国産化について紹介する予定である。

平野富二の記録によると、明治5年(1872)の活字販売高は、僅か7月から12月の6ヶ月に満たない期間に244,236個(6貫448匁、24.18㎏)の実績を挙げている。それが翌年になると、神田和泉町から築地に移転した空白期間があるにも関わらず、年間2,772,851個(357貫388匁、1,340.21㎏)を記録している。個数で11.3倍、重量で55.4倍となる。

初めて埼玉県から活字350個を受注して、ようやく一息ついた頃から見ると、隔世の観がある。平野富二による活版製造事業は確実に軌道に乗り、平野富二はさらなる発展を目指して築地の新立地に移転することを決意した。

2019年2月10日 稿了

東京進出最初の拠点:神田和泉町

(1)富次郎の更なる改革
平野富次郎は、明治4年(1871111日、東京出張から長崎に戻った。
大阪と東京で得た知見にもとに、活版印刷の普及のために新たに取り組むべき課題が明確となった。

ギャンブルから導入した明朝体の漢字は、横線を細く水平とし、縦線は太く垂直に引き、横線のトメを三角形(ウロコ)とし、ハライとハネをふくめて定型化している。筆画が単純化されているため、公文書は別として、一般の文書用としては雅趣に欠けるとして当時はあまり歓迎されなかった。 

明朝体の漢字は、筆画が単純化されているため、明朝体の漢字と曲線主体の平仮名を交えた和文活字組版を違和感なく受け入れられるようにするためには、平仮名の字体改良も今後の課題として残された。また、活版印刷普及のためには、幕府の公文書に用いられ、一般の習字手習いに用いられている、いわゆる「和様書体」の活字も、当面充実させる必要があった。この書体の改良については、本木昌造から友人の池原香稺に依頼することになった。

活字を販売するだけで、あとの版組みと印刷を顧客に任せるのでは、必ずしも満足できる印刷結果が得られない。そこで、活字を印刷版に組むために必要な機材の提供、さらには、顧客の要求に応じてそのまま印刷機に設置すれば印刷できる活字組版(活版)までを販売の対照として、社内の体制を整備し、単なる活字製造から一歩進めて活字版製造までを行うことにした。 

さらに、官庁の布告類や新聞のような多量の文書を迅速に印刷できるようにするためには、高価な外国製印刷機に代えて、外国製に劣らない高性能印刷機を国産化することも必要であった。当面は、先に本木昌造が長崎製鉄所に依頼して製作した、自社用の手引印刷機と同型の印刷機を長崎製鉄所で製造してもらえるように手配することも必要であった。 

活字の大口需要先が東京にあることは明らかで、遠く離れた長崎から活字類を供給することは、運送のための時間と費用を考えると、事実上、不可能であった。また、不足活字を緊急に必要とする顧客に対して、その要求に応じる事が欠かせないことから、活字製造の拠点を東京に置くことが不可欠であった。

ギャンブルから学んだ技術に基づき活字を製造している長崎製鉄所付属の長崎新聞局活字一課が東京の赤坂溜池に移転し、明治4年(18711122日、工部省勧工寮活字局となって本格的に活字製造を開始したことも、東京移転の決意を促した要因と見られる。

(2)富次郎の結婚、転居、戸籍編成と改名
明治5年(1872)の年が明けて早々、平野富次郎は長崎丸山町に居住する安田清次・むらの養女こま(「古ま」と表記)と結婚した。新妻こまは嘉永5年(18521122日生まれの数え年21歳であった。こまの実父母は長崎茂木村の山下廣作・久ヱで、こまが数え年8歳のときに実父廣作が死去したため、安田家の養女となったと見られる。 

平野富次郎は結婚を機に、生家である矢次家を出て長崎外浦町-ほかうらまち、現万才町の一部-の新居に移転した。転居先は第一大区七ノ小区外浦町96番地と記録されている。同じ町内の外浦町682番(旧105番屋敷)に本木昌造が居住していたので、本木昌造が同じ町内にある売家を紹介して、平野夫妻を呼び寄せたと見られる。 

当時、全国的に新戸籍の編成が行われたため、戸別に住居表示が定められた。今まで住んでいた矢次家は第一大区四ノ小区引地町50番地であった。そのときの新街私塾は第一大区六ノ小区新町62番地と記録されている。 

当初定めた大区小区制は細分化し過ぎたため、1873(明治6)年11月に見直し改正された。さらに、1878(明治11)年10月に郡区町村編成法が公布されて大区小区制が廃止された。
その後、数度に亘って町界町名の変更が行われ、特に外浦町は、もともと町名の無かった旧長崎奉行所西役所の土地が外浦町に編入されたり、国道開通により道路の改廃と拡幅が行われたりしたため、現在となっては、当初定められた番地からその場所を特定することは難しい。
なお、1963(昭和38)年、全国的に行われた住居表示により、外浦町は万才町に併合されたため、現在、その町名はない。 

今まで、年月日の表記は和暦(旧暦)で表記し、西暦年を( )内に参考表記してきたが、明治6年(187311日から新暦が採用されたことから、それ以降の表記は西暦年のあとに元号を( )内で表記する。

明治4年(18714月、政府により戸籍法が布告され、明治5年(187221日から全国一斉に戸籍の編成が開始された。平野富次郎は、自分の名前を平野富二と改名し、外浦町の新住所を本籍として妻と共に二人の戸籍届けを提出した。本稿では以後、平野富二と表記する。

このとき、本木昌造は自分の戸籍上の名前を昌三と改名している。以後の正式名称は本木昌三であるが、実際には、その後も県庁などに提出した書類に、本木昌造あるいは咲三と署名しているものが多い。本稿では特別な場合を除き、従来通り本木昌造と表記する。

(3)東京移転計画と本木昌造の諒解
平野富二は長崎新街私塾の出張店として活字製造所の東京移転について本木昌造と相談した。その時の本木昌造の言葉が記録に残されている。現代文に直すと次のようになる。 

「私はすでに工場のことは一切、君に委託している。それを興隆させようが廃止させようが、また、発展させようが縮小させようが、君に一任する。
東京や大阪などの場所に異論はなく、ともかく利益を多く上げられる土地に行って営業することが得策だろう。
私がただ願うところは、その損益や得失について君が責任を持ち、計画どおりに事業を進展させたならば、資本償却費として金5,000円を還付して欲しい。そうすれば、私も出資者に対して面目を失わないことになる。その他については全て君と従業員一同とで協議して処置してくれ給え。」 

これは、本木昌造が平野富二を全面的に信頼し、その能力と気質を十分に理解した言葉であった。

(4)東京出張店の開設準備
明治5年(1872)に入ると、前年末に発行された『横浜毎日新聞』の影響を受けて、日刊新聞の発行を目指した新聞社設立の動きが東京・横浜で顕著になった。 

東京浅草茅町一丁目に設立された日報社は、同年221日、『東京日日新聞』と題して創刊号を発行した。創刊号は木版刷りであったが、二号から活版刷りとなった。しかし、活字の不足で苦労した様子が文面から読み取れる。やがて木版刷りに変更されてしまう。
横浜でガゼット社を経営していたブラックは、東京築地新栄町5丁目の東京開市場(とうきょうかいしじょう)区域内に日新真事誌社を設立して、同年317日、日本語新聞『日新真事誌』を発刊している。この新聞は、漢字を日本製木活字、片仮名を上海製鉛活字で印刷された。
駅逓頭前島密の発案で東京両国米沢町3丁目に設立された報知社は、同年610日、『郵便報知新聞』を発刊している。これも活字が得られなかったため、木版刷りであった。
また、明治4年(1871)に東京京橋の南鍋町で出版印刷業博聞社を開業した長尾景弼が、翌明治5年(18729月、『博聞新誌』を木版刷りで発行した。 

平野富二は、このような東京・横浜における動向を伝聞するにおよんで、東京出店を急ぐこととし、その準備に入った。 

東京出張店の場所は、既に東京に設けた文部省御用活版所と同じ門長屋に空き部屋があることを確認していたので、ここを正式に借用することとした。 

東京に活版製造の拠点を設けるからには、長崎に現有する活字製造設備と人員の大部分を移転させることになる。しかし、新町活版所での印刷業務に支障をきたすわけにはいかないので、それに必要な設備と人員は残すこととしたと見られる。 

東京行きの人選については、積極的に参加の意向を示す者もいたが、先祖代々住みなれた長崎の地を離れ、家族と離別することにかなりの抵抗があったと見られる。しかし、当時の長崎の状況を考えると、新たに職を得て家族を養うことは至難の業だった。 

人選の結果、柏原市兵衛・大塚浅五郎・和田国松・松野直之助・桑原安六・品川徳多・松尾徳太郎・吉田某・柘植広蔵の九人が選考され、柘植広蔵は少し遅れて出立することになった。 

柏原市兵衛は、後に印刷機製造部門の主任となり、息子の柏原栄太郎を呼び寄せ、同部門で従事させた。桑原安六は1878年(明治11年)に築地活版製造所の支配人となっている。そのとき、和田国松は桑原安六の下で副支配人を務め、桑原安六が解雇されたあとを継いで支配人に昇格している。松野直之助は営業部門で活躍したが、1873年(明治16年)4月、上海に支店として修文館を開設するに当り、その所長として派遣されている。 

平野富二は新妻こまを同行、単身で赴任する一行の食事や洗濯など日常の面倒をみてもらうこととした。こまはすでに身重の身であった。 

東京での事業は、活字の製造を中心とし、さらに活版印刷に必要な機器・資材の製造もおこなって、希望する顧客に提供することとし、そのため、事業所の名称を 「長崎新塾出張活版製造所」 と定めた。 

当面は資金の余裕が全くないことから、需要の見込める活字の製造から着手し、追々、内容を充実させていくこととした。

長崎から東京に持参する物品は次の範囲にとどめた。
・五号とその倍角の二号の字母各1組(四号の字母は追って別送)
・鋳型各1
・活字手鋳込器械3 

このうち、字母(活字母型)はそれぞれ数千個の単位で準備したと見られる。
鋳型はハンド・モールドと称する片手で持って操作する鋳造用具で、溶融した鉛合金を手柄杓で湯口に注ぎ込み、活字を一個ずつ鋳造することができる。取りあえず五号と二号の活字を鋳造するための鋳型を準備したものと見られる。
活字手鋳込器械は、溶融した鉛合金を手持ち鋳型に圧入するための手押しポンプで、鉛合金を熔解する釜と組み合わせた器械と見られる。

その他に鋳造した活字を仕上げるための道具類が必要と思われるが、これらは東京での調達が可能と見ていたのかも知れない。 

持参した物品の評価額は、保険を掛けるために高めに見積もって15千円としたと伝えられている。 

平野富二にとって最も重要なことは、東京出店に当って活字販売が或る程度軌道に乗るまでの運営資金の調達であった。 

本木昌造や出資者からこれ以上の出資を要求することは出来ないため、平野富二は長崎の金融業者六海社に出向き、担保なしの首証文を提出して金1,000円を借り出したと伝えられている。その証文には、「此の金を借りて東京に上り、活字製造・活版印刷の業を起こす。万が一にも此の金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差上げる。」 と書いてあったという。

(5)大きな抱負を持って東京へ
明治5年(1872711日、いよいよ長崎を出立する日が決まった。
新戸籍の届出を済ませた一行は、当分の間、東京に寄留することになるので、所轄の戸長に寄留先住所を届出て、鑑札を受け取る必要があった。その鑑札は寄留先の戸長を通じて最寄りの府県庁に提出され、新たな鑑札を受け取る。長崎に戻る際には元の鑑札と引き換えてもらう定めとなっていた。 

長崎を出立する日が迫った或る日のこと、本木昌造は平野富二の夫人こまを自宅に招き、金20円を入れた縞(しま)の財布を渡して小遣銭とするよう言われた。この財布は本木昌造が着ていた縞の着物をほどいて作ったものであった。
こま夫人は本木昌造の内情を知っていたので一度は固辞したが、それを受け入れ、上京後も肌身離さず大切にしていたと云う。
その20円は資金難からたちまち事業資金の一部となってしまった。しかし、縞の財布だけは記念として大切に保存していたが、この貴重な記念品は関東大震災で家財と共に焼失してしまったと云う。 

上京には、飛脚船と称されたアメリカの郵便蒸気船で長崎から兵庫経由、横浜まで行くことになった。運賃10人分150ドル、荷物運賃25円を支払い、携行物品の損害保険料として75ドルを支払った。この損害保険の支払いに際して、本木昌造と平野富二との間で次のような会話が交わされたと伝えられている。 

本木昌造は、「それは無用ではないか? 資金が窮乏している現在、75ドルは非常に大金だ。万一、不幸にも船が沈没して荷物を失ったとしても、私はこれを天災と諦め、残念とは少しも思わない。」

これに対して平野富二は、「先生のおっしゃることはもっともですが、この荷物は私の所有物ではなく、先生をはじめ数人の方々の今までの努力と、多大の資金とを注入して造り出したものです。輸送の途中で荷物を失ったとき、先生は天命として諦めても、先生に協力してくれた人々に申し開きができません。先生のご子孫のことも考えなければなりません。今、75ドルを払っておけば、万全の策となります。」 と言ったと云う。 

この逸話は、本木昌造と平野富二との事業経営に対する考え方の相違を如実に表している。 

明治5年(1872711日、平野富二は、新妻と社員8名を引き連れ、長崎を出発した。蒸気船の運航予定に従って、途中、神戸に上陸して2泊し、横浜に着いたのは同月16日であった。 

横浜に到着した平野富二は、横浜活板社の責任者となっている陽其二と連絡をとって上京の挨拶と今後の相談をしたことは想像に難くない。

横浜では、一行の一人ひとりに15円、10円、5円の3段階に分けて小遣銭を支給したと云う。その総額は75円であった。 

横浜から東京への交通手段については記録に残されていない。
明治1年(18681119日の江戸開市によって築地に外国人居留地が出来たことから、東京築地と横浜を結ぶ小形蒸気船による定期便が運航していた。したがって、平野富二一行はこの小形蒸気船を利用して東京築地に上陸したと見られる。 

折から政府によって建設中であった新橋-横浜間の鉄道は、同年57日に品川-横浜間で仮開業されたが、新橋までの全線開通は同年918日のことであった。 

一行が横浜から東京に着いて上陸したと見られる築地一帯は、外国人居留地とその周辺を除き、明治5年(18722月に発生した銀座大火で焼失し、焼け野原となっていた。

平野富二が21歳の時に軍艦「回天」に搭乗して江戸に着き、軍艦所一等機関手の内命を受けた幕府軍艦所は、その跡地に築地ホテル館が建ち、東京の新名所となっていたが、これも焼失してしまっていた。

(6)長崎新塾出張活版製造所
東京築地に着いた一行は、小幡正蔵の出迎えを受け、築地河岸で小舟を雇い、大川(隅田川)を遡って神田川に入り、和泉橋近くの河岸-かし-から上陸したと見られる。 

東校表門の門長屋には、小幡正蔵がすでに文部省御用活版所を経営していたので、それに隣接する数部屋が予め職場兼宿所として用意されていた。 

文部省活版所はその後913日に廃止され、やがて、そこに在った活版設備は正院印書局に移管されることになる。それに伴い小幡正蔵が所長を務める文部省御用活版所は文部省御用を解かれて小幡活版所と称することになる。翌年になって小幡正蔵の協力者であった大坪本左衛門の要請で、小幡活版所を長崎新塾の下から分離独立させ、湯島妻恋坂下に大坪活版所が開設されることになる。 

一行は旅装を解く間もなく、長崎新塾出張活版製造所の看板を掲げて、活字・活版製造の準備に入った。この看板の新塾は新街私塾のことで、その出張所である活版製造所であることを意味する。なお、長崎では活字製造所としていたが、東京では活版製造所とした。 

近くに住む大工を入れるなどして、部屋を模様替えして造作を整備し、長崎から後送された荷物もおいおい到着して、早速、活字の鋳造作業に入った。 

しかし、平野富二によると、「明治5年、東京に出て来て、活版製造事業の拡張を図ったが、その当初は容易に販売の道も開けず、その艱難は本木氏が経験した以上のものであった。それにも関わらず刻苦勉励して、技術を磨き、製造体制を整頓しながら時運の到来を待っていた。」 と述べている。

(7)活版製造所が開設された場所
一行が長崎から東京に着いて1ヶ月ほど経った814日に、平野富二は同日付けで『横浜毎日新聞』に陽其二の経営する横浜活版社の広告として、次の趣旨を掲載した。 

「(前略)今般、東京府下佐久間町東校表門通り文部省活版所内に於いて活字と銅板を製造発売したので、ご注文の方は同所ならびに長崎新塾にご相談下さい。なお、当社でもご注文できます。」

図22-1 『横浜毎日新聞』の広告
この広告は、平野富二の依頼により、横浜活版社の名前で出されている。
それには、これまで長崎の新町私塾内で活版製造を行ってきたが、
今般、東京府下佐久間町の東校表門通りにある
文部省活版所内において製造・販売することになった、と述べている。

ここでは長崎新塾出張活版製造所の場所を、東京府下佐久間町の東校表門通りにある文部省活版所内としている。つまり、平野富二が設けた活版製造所は文部省活版所内にあることを示している。 

ここで、東校表門と文部省活版所との関係を整理してみたい。前回のブログ(21)「文部省御用活版所の開設」(201810月)と重複するところもあるが、ご容赦ねがいたい。 

佐久間町の南側道路に面して、明治維新の直前まで伊勢国津藩主藤堂和泉守高猷-とうどう いずみのかみ たかゆき-の上屋敷と、能勢熊之助・太田運八郎・中根宇右衛門の旗本三屋敷が並んでいて、藤堂家上屋敷は西側のほぼ3分の2を占めていた。

また下図下方にみる「藤堂佐渡守」は伊勢国久居-ひさい-周辺(三重県旧久居市、現在は合併により津市)を支配した久居藩の上屋敷である。久居藩は本家藤堂家の嗣子が絶えた場合、無嗣子による改易に備えて設置された石高五万石ほどの支藩である。しかし城主格の大名でありながら築城は許可されず、久居陣屋と城下町を建設するのにとどまって維新を迎えた。

図22-2 上野下谷外神田辺絵図(近吾堂版、嘉永2年)
津藩藤堂家上屋敷の東西(絵図で左右)の長さは約350メートルで、
その周囲は堀と門長屋に囲まれていた。
屋敷の南側(上方)の道路に面して豪華な表門が設けられていた。
神田川に架かる和泉橋を通る道路は和泉橋通りと称し、現在の昭和通りに相当する。
もう一つの新シ橋(現、美倉橋)を通る道路は現在の清洲橋通りに相当する。

慶応4年(18681月に行われた鳥羽伏見の戦いで、勅命に応じて官軍に協力した藤堂高猷は、同年の内に佐久間町前から常盤橋内の小笠原家上屋敷跡に移転し、幕府崩壊の結果、旗本3家とその南側に隣接していた酒井家は国元に戻り、空屋敷となったこの地域は藤堂家上屋敷を含めて新政府が接収した。 

同年9月、藤堂和泉守上屋敷跡に横浜から新政府の軍陣病院が移転してきて大病院と称した。隣接する他の屋敷跡はその抱込地となった。

図22-3 明治4年の藤堂和泉守上屋敷跡の絵図
〈吉田屋又三郎板『東京大絵図』(明治48月改正)による。〉
藤堂和泉守の上屋敷は新政府に接収されて大病院となった。
ここに医学校が移転してきて、大学東校、東校、
第一大区医学校、東京医学校と改称を繰り返して、
1876(明治9)年に本郷元富士町に移転した。

明治2年(18692月、政府は近くの下谷和泉橋通りにあった幕府の医学所を医学校と改称し、移転して大病院に付属させた。同年3月、イギリス公使館付医師W・ウィリスを教師として迎え、医学校での授業を開始した。医師ウィルスは横浜で軍陣病院の医官として勤めていたことから、軍陣病院の移転と共に大病院に勤務していた。大病院と医学校は、設立した当初の一時期、東京府に移管されて医学校兼病院となった。 

同年7月、教育行政機関として大学校が設立され、医学校は昌平学校、開成学校と共にその管轄下に入った。同年12月、大学校が大学と改称され、それに伴い医学校は大学東校、開成学校は大学南校と改称された。そのとき、病院は大学東校の付属とされた。 

明治3(1870) 10 月、大学東校は学校規則を制定して予科と本科の組織が確立された。この新組織に基づき行われた体制について、当時、大学東校に勤務していた石黒忠悳-いしぐろ ただのり-の著わした『懐旧九十年』(岩波文庫、19834月)に、次のような内容が記されている。

      各藩に内示し、甲乙に区別した志願者を募集した。
      甲は有為の少年を対象に56年で卒業させる。西寮または西舎と称する寮舎に入れ、これを本科生とする。
      乙は現に医職にある者若干を入学させ、およそ2ヵ年で成業させる。東寮または東舎に入れ、これを東寮生と云った。
      石黒自身は東寮内の2室を占めて宿泊し、自ら東寮生の授業を担当し、監督まで兼務した。

石黒は主に理化学の講義を担当したが、東寮生には短い年限でひと通りの西洋医学を教える必要があったため、化学の講義案を整理して活版印刷することを企てた。しかし、活字が乏しく困っていた。 

その折、大学で絵を描かせるため雇っていた画家島霞谷-しま かこく-が新しい活字の製造法を発明し、その活字を用いて刷ったのが『化学訓蒙』(初版)である。その冊子を生徒各自に渡して教科書とした。これが医学校で最初の活字出版となった。

活字は島霞谷の自宅に小屋を建て、職人を雇って製造した。組版と印刷・製本は出入りの書肆に頼んだと見られる。
印刷物は教科書として生徒に配布すると共に、一般にも販売され、初期には、大学東校出版とし、浅草茅町二丁目の須原屋伊八と馬喰町二丁目の島村屋利助が発兌した。

大学東校での出版作業は、原稿の作成とゲラ刷りの校正程度で、石黒が使用した2室の内の1室で行われ、ここが東校活版所と呼ばれるようになったと見られる。

明治3年(187011月に島霞谷が病死したため、大学東校では活字の新規鋳造が出来なくなり、翌明治4年(1871415日、大学から活版御用を命じられていた本木昌造の願いが聞届けられて、大学東校区域内の長屋とそれに続く空き地に活版所を設ける許可を得た。

長崎に戻った本木昌造は、活字の品質とコスト面で困難に直面し、平野富次郎を招いて活字製造部門の改革を行った。そのため、大学東校での御用活版所の開設は遅れて、同年10月、門人の小幡正蔵を所長に任命し、活字製造部門の責任者となった平野富次郎に同行して東京に派遣して御用活版所を開設した。この時、すでに大学は廃止されて文部省となっていたことから、大学東校活版所は文部省活版所と改称されていた。そのため、文部省御用活版所と称した。

その間、同年718日、大学が廃止され、それに代わって文部省が神田の湯島聖堂内に新設された。それに伴い、同月21日、大学東校は東校と改称された。東校は文部東校とも称された。東校は、それまでのイギリス医学中心からドイツ医学の教育に移行するに当たり、一旦、閉鎖して規則を改め、同年10月に再開した。

大学東校活版所は東校活版所と改称されたが、同年918日、文部省編集寮が設立されたため、文部省編集寮の所属となり、蕃書調所から大学南校に伝承された活字・印刷機一式が移管された。それに伴い、門長屋とその付属地に活版所が増設されたと見られる。文部省編集寮活版局は文部省活版所と通称された。

文部省編集寮は欧米の書物の翻訳と教科書の編纂を目的としたが、明治5年(1872913日に廃止された。それに伴い活版局は廃止されて、同月20日に辰ノ口の元分析所に開設された正院印書局に活版印刷設備一式を移管した。

以上のことから、東校表門は元藤堂家上屋敷の表門であって、文部省活版所はその表門の東側に連なる門長屋とその付属地にあり、その区域内の同じ門長屋とその付属地を本木昌造が借りていたこと、それに隣接して平野富二が崎陽新塾出張活版製造所を開設したことが類推できる。

(8)門長屋の様子
この門長屋の様子は、安藤広景画 『江戸名所道下盡 十 外神田佐久間町』(安政66月)に描かれており、前ブログ(21)「文部省御用活版所の開設」、図213で紹介した。

ちょうど同じ頃のことになるが、津藩士堀江鍬次郎が藩の留学生として長崎海軍伝習所に入所して砲術を学び、傍らポンペの医学伝習所で化学を学んだ。医学伝習所で安政5年(1858)に入所した上野彦馬と知り合い、共に写真研究をしていた。上野の自宅で薬品類を自製し、銀板、湿板の研究を行い、堀江は藩主の許可を得てオランダ商人ボードウィンから湿板用写真機と薬品を購入した。
万延1年(1860)に、堀江は藩命を受けて江戸に向かった。このとき購入した写真機・薬品を携え、上野彦馬を同道した。江戸では上野彦馬と一緒に神田和泉橋の藤堂家中屋敷に滞在した。なお、藤堂家中屋敷は上屋敷の北方約600メートルの、現在の台東区台東3丁目にあった。

そのとき、堀江は命じられて藩主や重臣、旗本らを撮影したと伝えられている。しかし、現在では堀江が撮ったとされる若い上野彦馬像のひび割れたガラス製湿板写真(日本大学写真学科収蔵)が1点だけ残されているが、その他については発見されていない。 もしも、その時撮った写真が一式揃って発見されれば、その中に上屋敷表門と門長屋の姿も含まれているかも知れない。

この藤堂家上屋敷の表門と門長屋は1876(明治9)年頃までは残されていたらしく、森鷗外は、この門長屋のことを小説『雁』で次のように記している。 

「まだ大学医学部が下谷に有る時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌めた窓の明いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論、今はあんな窓を見ようと思ったって、僅かに丸の内の櫓に残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりは遥かにきゃしゃに出来ている。」 

森林太郎(鷗外)は、1874(明治7)年1月、12歳でありながら14歳として第一大学区医学校に入学した。同年5月に東京医学校と改称されるが、このとき東京医学校は神田和泉町の旧藤堂藩邸にあって、予科生徒は全寮制で、寄宿舎は旧藤堂屋敷の門長屋がそのまま使われていた。東京医学校は1876(明治9)年に神田和泉町から本郷元富士町の大聖寺藩上屋敷跡(現在の東京大学医学部構内)に移転した。

もともと、この門長屋は参勤交代で大名行列に連なった藩士たちの居住に使われ、身分に応じた広さの部屋が割り振られた。表門から入った屋敷内の各部屋の前面には、その部屋に付属する土地と入口が設けられており、入口を入ると土間を介して板の間、その先に座敷があり、板の間から二階に上がる階段が設けられていた。土間の一画に竈-かまど-が置かれていた。 

平野富二が東京に移転して来て3ヶ月ほど後に、1873(明治6)年から改暦が行われるため、太政官から緊急の印刷物の注文を受けた。このとき、深夜まで仕事をする連中が前の通りで売り歩く稲荷寿司屋を呼び止めて、2階の窓から帯の端に代金を結び付けて寿司を買い求めた話が伝えられている。当時、門長屋の2階の部屋が作業室になっていたことが分かる。

まとめ
平野富二が東京で最初に設けた活版製造の拠点は、神田和泉町の旧津藩藤堂家上屋敷の門長屋の一画だった。

この屋敷内の本邸には近代医学を教える東校があり、表門に続く門長屋は東校の生徒たちの宿舎として利用されていた。表門の東側に連なる門長屋と付属地の一画に文部省活版所があって、その近くの部屋と付属地を本木昌造が借り受けて長崎新塾製の活字を販売する文部省御用活版所(所長:小幡正蔵)が設けられていた。 

平野富二は本木昌造が借り受けた部屋と付属地に隣接する数室の部屋と付属地を借り受け、そこに長崎新塾活版製造所を設立して、東京進出の拠点とした。 

この場所は、明治4年(1871)まで、町名が付けられておらず、藤堂和泉守上屋敷として通っていたが、明治5年(1872)に近代戸籍が編製されるに当たって、新しく神田和泉町と名付けられた。そのため、この町名は一般には通用せず、平野富二は新聞広告で「東校表門通り、文部省活版所内」と表示している。 

平野富二による東京進出の最初の拠点となった長崎新塾出張活版製造所の位置を現在の地形図に当てはめると、和泉公園が旗本能勢熊之助の屋敷跡に相当することから、その西側に隣接する和泉小学校の道路沿いの一画にあったと推測される。

図22-3  旧東校表門通りの現状写真
画面の左手の道路が旧東校表門通り(現、佐久間学校通り)で、
中央に見えるコンクリート壁面から先方が旧藤堂家上屋敷で、
道路沿いに堀と門長屋が表門を介して続いていた。
アイビーの絡まる和泉小学校の壁面の辺りは東校表門の東側門長屋で、
この一画に長崎新塾活版製造所が設けられたと見られる。
手前は和泉公園で、ここは旗本能勢熊之助の屋敷地だった。

当時は、その門長屋の大部分が東校生の寄宿舎として利用されていたこと、前面の道路を隔てて佐久間町の民家が軒を連ねていたこともあって、活版製造所の用地としては何かと制約が多かったと見られる。その後、文部省活版所が廃止されたこともあって、平野富二は東京築地に新工場を建設して移転することになる。

この神田和泉町は平野富二の東京進出の第一歩であり、ここが活版印刷の全国的普及の起点となった場所でもあり、そのことを記念すべき土地である。しかし、そのことを示す標識や説明板は何もない。 

この地は、近代医学教育発祥の地と目され、また、初期邦文活版印刷の一拠点となった場所でもある。それらを含めた記念碑の設置を要望する。 

201915日 稿了

文部省御用活版所の開設

まえがき
本木昌造は、明治4年(1871)5、6月頃、活版事業の拡大を目指して東京に出張した。前年3月に長崎で新町活版所を設立して教科書・参考書・教養書を中心とした活版印刷物を発行しているが、長崎では一向に販路が拓けず、在庫の山を築く状態だった。

折しも、東京で本木昌造が提供した活字を用いて書籍が刊行されることから、その評判を確認すると共に、主要書肆たちを訪問して今後の活版印刷による書籍の販路拡大について話し合ったと見られる。その際、本木昌造は、大学(後の文部省)から活版御用を仰せ付けられ、御用活版所設置の地所を提供された。

準備のために長崎に帰った本木昌造は、用意した資金が枯渇寸前の状態で、もはや事業拡大どころではないことに気付いた。活字の製造が思うように行かず、これが事業最大の妨げとなっていることに思いを来たし、同年7月、先般長崎製鉄所を退職した平野富次郎を招いて活字製造事業を一任した。これを受けた平野富次郎は徹底的な活字の品質向上と経営の効率化を行った。

平野富次郎は、受託してから2ヶ月間で改革の成果が表れたことを確認し、大阪経由で東京に出張して、懸案となっていた大学御用活版所の開設を本木昌造に代わって行った。なお、この時点で本木昌造が仰せ付かった大学は廃止され、代わって文部省が新設されて間もなくであった。

本稿では、平野富次郎による文部省御用活版所の設立について述べると共に、参考として、大学・大学東校・大学南校の設立経緯とそれぞれの活版事情について述べる。

この文部省御用活版所が設立された場所は、後に平野冨二(改名)が東京に進出して活字製造を行うときの最初の拠点となった所でもあり、ここから全国に鋳造鉛活字による活版印刷が普及した記念すべき場所でもある。

(1)文部省御用活版所の設立
本木昌造は、明治4年(1871)5月末、あるいは、6月初旬、東京に出張した。その主たる目的については明らかではないが、同年6月に本木系活字を使用したとされる兵部省官版『法普戦争誌畧』、8巻が須原屋茂兵衛(日本橋南1丁目)から刊行されていることから、その刊行に立ち合って、その評判を自ら見極めると共に、東京の書肆仲間とさらなる書籍の刊行について相談する目的であったと推察される。

図21-1 『法普戦争誌畧』の表紙
《牧治三郎著「活版印刷伝来考=8」、『印刷界』、1966年10月》
この刊本を所蔵していたと見られる牧治三郎によると、
本文に用いられている明朝4号活字の漢字・平仮名・片仮名は、
横浜活版社の陽其二から須原屋などが大量に買い入れて印刷した、
と述べている

本木昌造は、東京に滞在中、大学から大学・東南校に活字を供給する御用を仰せ付けられた。早速、その受け皿となる御用活版所を設立するための地所拝借を願い出たところ、明治4年(1871)6月15日付けで大学東校区域内で不用となっている長屋とその接続地に大学御用活版所を開設する許可を得た。

図21-2 御用活版所の設立認可
《『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵》
この公文書によって本木昌造は、
大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、
御用活版所の用地拝借を願い出た結果、
大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する
政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。
この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。

大学御用活版所の開設準備のため長崎に戻った本木昌造は、いままで現場に任せていた活字製造部門を調査したところ、大量に活字を製造しても、印刷に適した活字はごく僅かで、不良品の山を築くばかりの状態であって、準備した資金は枯渇寸前となっていることに気付いた。自身の健康不安もあって、事業拡大どころではないことに愕然とした。

そこで本木昌造は、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されるに際して退職した平野富次郎を招いて、苦境打開のために活字製造事業を一任し、徹底した改革を行うことを懇願した。

その結果、平野富次郎は、恩師の窮状を見るに見兼ねて、活字製造部門の経営一任を引受け、活字の規格を統一し、生産管理を主体とした抜本的改革を断行し、僅か2ヶ月間で高品質の活字を安定して製造する目途をつけたことについては、本シリーズの「活字製造事業の経営受託」(2018年9月)で紹介した。

平野富次郎に一任された活字製造事業の一環として大学御用活版所も含まれることから、その所長と東京における協力者の人選について本木昌造と相談の上、平野富次郎は、明治4年(1871)9月中旬、大阪を経由して東京に出張した。

大阪では、長崎から新塾出張活版所に派遣されていた小幡正蔵と茂名貞次に東京派遣を伝え、東京の大学御用活版所を設営するため、その所長に指名された小幡正蔵を同伴して東京に向かった。

本木昌造が版御用を仰せつかった大学は、明治4年(1871)7月18日、廃止されて文部省が新設され、同年9月18日に文部省編集寮活版部が東校区域内にある東校活版所に設けられて、文部省活版所となったばかりであった。ここには南校にあったオランダ製活版印刷設備一式も移された。

平野富次郎と小幡正蔵は、東京在住の大坪本左衛門の協力により、文部省活版所と同じ長屋内の1戸とその接続地を借り受けて文部省御用活版所を設営した。

この長屋は、津藩藤堂和泉守上屋敷の表門に連なる門長屋で、江戸時代には参勤交代で江戸に滞在した家臣たちが居住する宿舎であると共に、大名屋敷の周囲を囲む外壁を兼ねて、二階建ての連棟となっていた。

図21-3 藤堂和泉守上屋敷の表門と門長屋
《安藤広景画「外神田佐久間町」、『江戸名所道外盡 十』》
東京都立中央図書館蔵
20万石以上の大大名のみに認められた表門造りで、
左右に連棟2階建ての門長屋が屋敷地周囲を囲んでいる
一階部分は海鼠壁(なまこかべ)に武者窓(むしゃまど)で
二階部分は漆喰の白壁に太い横桟の曰窓(いわくまど)がある。
門長屋と道路の間には堀を巡らし、城塞を模している。
西方に当たる遠方の山上には神田明神の社殿が描かれている

文部省御用活版所の所長となった小幡正蔵は、やがて大阪から上京して来た茂名貞次を支配人兼技師とし、活字の販売と共に活字を組んで印刷版として販売した。校正摺りを行うために、日本橋にある瑞穂屋卯三郎の店からイギリス製小型アルビオン式印刷機を購入し、注文に応じて小物印刷も行っていたらしい。

明治5年(1872)7月、平野冨二(この年に行われた近代戸籍編成に当たり富次郎を改名)は、長崎から社員8人と新婚の妻を引き連れて上京し、小幡正蔵が所長の文部省御用活版所に隣接する門長屋の数戸を借り受けて、崎陽新塾出張活版製造所を開設し、ここで活字・活版の製造を開始した。

明治5年(1872 )9月20日に太政官正院印書局が東京辰ノ口の分析所跡(現、千代田区丸の内1丁目4番)に開設されるに当たって、各省が所有する活版印刷設備を集約することになったため、文部省活版所は、所有する活版印刷設備一式を印書局に移管して、設置されてから丁度1年後の同年9月18日に廃止された。

そのため、文部省御用活版所は所長小幡正蔵の名前を冠して小幡活版所と改称し、自主営業の道を辿ることになった。翌年になって、小幡正蔵は、平野富二の了解を得て小幡活版所を閉鎖し、大坪本左衛門と共に神田五軒町の湯島嬬恋坂下に大坪活版所を設立して独立した。

平野富二が開設する崎陽新塾出張活版製造所については、次回のブログで紹介する。

(2)大学、大学東校、大学南校
慶應4年(1868)4月、新政府は幕府の「医学所」を接収し、同年6月、「医学校」として復興した。同年8月、医学校は「昌平学校」(幕府の「昌平坂学問所」を新政府が復興)と共に東京府に移管された。一方、幕府の「開成所」は新政府の下で、改元された明治1年(1868)9月、「開成学校」として復興され、同年11月、東京府に移管された。同月、昌平学校が行政官の所管となったのに伴い、翌明治2年(1869)1月、医学校と開成学校は昌平学校の下に置かれた。

明治2年(1869)7月、教育行政機関の「大学校」が設立された。これにより、昌平学校は廃止され、医学校と開成学校は共に分局として大学校の管轄下に入った。同年12月、大学校が「大学」と改称され、それに伴い医学校は「大学東校」、開成学校は「大学南校」と改称された。湯島昌平坂にある大学を中心として、その東方にあることから大学東校、南方にあることから大学南校と名付けられた。

明治3年(1870)7月18日、大学が廃止され、それに代わって「文部省」が湯島聖堂内に新設された。それに伴い、同月21日、大学東校は「東校」、大学南校は「南校」と改称された。なお、東校、南校は「文部東校」、「文部南校」とも称された。東校は、それまでのイギリス医学中心からドイツ医学の教育に移行するに当たり、一旦、閉鎖して規則を改め、同年10月に再開した。

(3)「大学」における活版について
大学は政府弁官に対して明治3年(1870)3月8日付けで「学規が確定したことにより諸省などが学規を内見したいとの要求があり、その都度、書写して渡すことは手間が掛かり、誤写の弊害もあるので、活字版を整え置きたい。」と伺書を提出し、「伺いの通りとなすべし。」との回答を得た。

その後、どのような経緯があったか不明であるが、長崎県が政府弁官に対して同年11月20日付けで「長崎製鉄所付属新聞局が長崎県から製鉄所に付属替えの節、アメリカ人ガンブルが長崎滞在中に活字鋳造法などをその筋の者へ伝習いたさせ、現在、専ら造字中です。しかし、当県では(活字は)それほど有用ではなく、其の上、製鉄所が工部省に移管されることから、毎月相応の経費にもなります。新聞局を大学で引き取って頂ければ、それなりの効果が期待できると言えます。したがって、これまでに製造した原字と諸器械ならびに関係者一同を(大学に)差出したいと存じますので、ご決断を仰ぎます。」と伺書を提出している。

これを受けて大学は政府弁官に対して、同年12月15日付けで「活字のほか、機械類も南校で必要なので、すべて南校に付与して頂きたい。(本件について)長崎県と相談したい。」と要望書が出された。
ここでは、大学自体ではなく、大学南校への付与を希望していることが分かる。

ところが、明治4年(1871)1月、工部権大丞山尾庸三が、長崎製鉄所を工部省に移管準備のため長崎に出張して長崎製鉄所の経営状況を調査する中で、付属新聞局で活字を製造していることを知り、活字製造も工部省の事業の一つとすることにしたと見られる。

山尾庸三は、同年4月7日、再度、長崎に出張して、長崎県から正式に長崎製鉄所付属施設一式の工部省への移管を受けた。ところが、新聞局の活字と活字製造設備については移管目録から除外されていることを知り、異議を申し入れた。本件については本シリーズの「山尾庸三と長崎製鉄所」(2018年6月)で述べた。

結果として、同月中に、工部省と大学南校は、活字製造設備と人員は工部省で引き取り、これまで長崎で製造した活字一式は大学南校に引き渡すことで合意した。不足活字は、大学南校の要求に応じて、工部省から供給することとなった。

明治4年(1871)7月18日、大学が廃止され、代わって文部省が設置された。

(4)「大学南校」における活版について
大学南校の前身は、幕府の「蕃書調所」で、文久3年(1863)になって、「開成所」と改称された。元治1年(1864)11月に開成所の規則が改められ、教育科目を蘭・英・仏・独・魯の5学と、天文学・地理学・窮理学・数学・物産学・精錬術・器械学・画学・活字術の各課に分けられた。

器械学については、教授手伝役の市川斎宮(兼恭)が米国独国器械改に任命されて、アメリカ使節ペリーとプロシャ使節オイレンブルグが献納した電信機、汽車模型、石版印刷機、写真機などの調査・研究が主であった。

活字術については、蕃書調所時代の安政4年(1857)1月に市川斎宮が活版事業担任に任命され、嘉永3年(1858)にオランダ語教科書『レースブック(西洋武功談)』を刊行した。その後、活字方として津藩士榊令輔が市川斎宮の跡を継いだ。万延1年(1860)には、教授手伝の堀達之助らによって、初めて英語入門書『Familiar Method』が復興出版された。文久1年(1861)3月になって、長崎奉行所の倉庫にあった手引き印刷機を含む活版付属具が備えられた。

文久2年(1862)5月、蕃書調所は「洋書調所」と改称(さらに翌年、「開成所」となる)されて、人員も逐次増加し、洋学教科書の復刻、中国刊行訳書の翻刻、翻訳新聞(『バタビヤ新聞』)の刊行などが盛んに行われた。

開成所にあった活版印刷設備は、開成学校、大学南校、南校へと引き継がれ、文部省編集寮の設置に伴い、東校活版所に移されて、文部省活版所の主要設備となった。

このように大学南校は、
蕃書調所⇒洋書調所⇒開成所⇒開成学校⇒大学南校⇒南校
と活版印刷設備を伝承して来たが、洋書の復刻が中心であったため、邦文活字は保有していなかった。

前項(3)で述べたように、明治4年(1871)4月になって大学南校は、それまで長崎新聞局で製造した活字一式を工部省から移管され、必要に応じて工部省から追加供給を受けられるようになった。

(5)「大学東校」における活版について
明治3年(1870)閏10月、大学東校は学校規則を制定して予科と本科の組織が確立された。この新組織に基づき行われた体制について、当時、大学東校に勤務していた石黒忠悳(いしぐろただのり)の著わした『懐旧九十年』(岩波文庫、1983年4月)に、次のような内容が記されている。

・各藩に内示し、甲乙に区別した志願者を募集した。
・甲は有為の少年を対象に5,6年で卒業させる。西寮または西舎と称する寮舎に入れ、これを本科生とする。
・乙は現に医職にある者若干を入学させ、およそ2ヶ年で成業させる。東寮または東舎に入れ、これを東寮生と言った。

石黒自身は、東寮内の2室を占めて宿泊し、自ら東寮生の授業を担当して、監督まで兼務した。東寮生には短い年限で一通り西洋医学を教える必要があった。石黒は主に理化学の講義を担当した。

そのとき、化学の講義案を整理して活版印刷することを企てたが、医学館にあった李朝活字では字数が乏しく困っていた。その折、大学で絵を描かせるため雇っていた画家島霞谷(しまかこく)が新活字を発明し、その活字を用いて刷ったのが『化学訓蒙』(初版)で、その冊子を生徒各自に渡して教科書とした。これが医学校で最初の活字出版である。

以上について注釈を加えると、当時はまだ廃藩置県の実施される前だったので、中央政府の統括のもとで各藩が地方自治を行っていた。そのため、各藩を通じて生徒募集を行った。
西寮・東寮については、大学東校の表門(旧津藩藤堂和泉守上屋敷の表門)の西に連なる門長屋を西寮(西舎)、東に連なる門長屋を東寮(東舎)と呼び、学生の寄宿舎とした。
李朝活字を保管していた医学館は、近くの向柳原にあった旧幕府の漢方医学教育施設であったが、慶應4年(1868)7月、廃止されて医学所(大学東校)に付属された。

藤堂屋敷の門長屋が医学校の寄宿舎だったことについては、森鴎外の小説『雁』にも記述されている。

島霞谷は、明治3年(1870)3月、大学東校から資金を供与されて、下谷下久保町の自宅に活字製造所を開設し、職人を雇って活字の鋳造を行った。島霞谷の発明は、黄楊(つげ)または水牛の角を彫刻して父型とし、河柳(かわやなぎ)の木口に父型を打ち込んで活字母型を造ったことで、河柳の耐熱性を利用したものである。

大学東校での出版作業は、原稿の作成とゲラ刷りの校正程度であったと見られ、活字の組版と印刷は旧開成所出入りの御用商人であった蔵田屋清右衛門が請け負い、蕃書調所時代から伝来したスタンホープ式印刷機を借り受けて印刷を行ったと見られる。いわゆる大学東校活版所と称される実態は、このようなものであったと見られる。初期は、大学東校出版として浅草茅町2丁目の須原屋伊八と馬喰町2丁目の島村屋利助の発兌となっている。

明治3年(1870)11月、島霞谷が病死したため、大学東校では活字の新規鋳造が出来なくなった。そのため、明治4年(1871)に刊行された書籍は木活字本となっている。本木昌造が大学活版御用を仰せ付けられたのは、明治4年(1871)6月のことで、このような事情があったことによると見られる。

明治4年(1871)9月18日、文部省は編集寮活字局を新設して(大学)東校活版所を引き継ぎ、文部省活版所とした。そのとき、(大学)南校にあった活版印刷設備一式が移管された。

しかし、明治5年(1872)9月20日に正院印書局が東京辰ノ口の分析所跡に開設されるに伴い、文部省活版所は活版印刷設備一式を印書局に移管して、同年9月13日に廃止された。

大学東校の活版印刷の歴史は、大学南校と較べると短いが、その発祥は、安政5年(1858)5月、江戸の蘭方医たちが出資して神田お玉ヶ池に設置した種痘所に始まる。その後の推移を示すと、
種痘所⇒西洋医学講習所⇒官立種痘所⇒西洋医学所⇒医学所⇒医学校
⇒大学東校⇒東校⇒第一大学区医学校⇒東京医学校⇒東京大学医学部
となる。

医学校のときに、大病院(新政府の軍陣病院)と併合されて津藩藤堂和泉守上屋敷に移転し、東京医学校のときに本郷に移転した。

(6)当時の東京における活版事情
蕃書調所時代の活版印刷設備を受継いだ大学南校と、講義録を印刷するため木製母型から活字を鋳造した大学東校について述べたが、両校の活版印刷設備は文部省活版所が開設されて1カ所に纏められた。やがて、太政官正院印書局が新設されて、政府各省が保有する活版印刷設備が集約された。

一方、長崎県から長崎新聞局の活版関係設備を移管された工部省は、省内に勧工寮活字局を新設して、長崎から活字製造設備と人員を東京赤坂葵町に移転したのは、明治4年(1871)11月22日のことである。

このような政府内での活版化が着々と進められている中で、明治4年(1871)6月、本木昌造は大学・大学東校・大学南校への活字供給のために大学御用活版所を大学東校区域内に開設することを認められ、平野富次郎によって、同年10月頃、小幡正蔵を所長とする文部省御用活版所が開設されたことになる。この時期は、勧工寮活字局の新設に先立つこと1ヵ月程であった。

当時の東京では、活字の販売業者として南鍋町1丁目(現、中央区銀座5丁目)に店を構えた志貴和介(しきわすけ)が海軍省などの大口需要者に鋳造活字を販売ていた。しかし、どのような技術を基にして活字を鋳造していたかは分かっていない。

横浜では、居留地に住む外国人が新聞を発行してたので、活版印刷が盛んに行われていたが、本木昌造が派遣した陽其二によって横浜活版社が地元の出資で設立され、明治3年(1870)12月8日、わが国最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が発行されている。また、柴田昌吉(しばたまさよし)らが『英和字彙』を刊行するに当たり、同年春に日就社が設立され、欧文・漢字・仮名の各活字と活版印刷機を上海の美華書館から購入している。

このように、民間でも活版印刷による刊行が徐々に始まりつつあった。まさに活版印刷の夜明け前であった。

2018年10月25日 稿了

活字製造事業の経営受託

平野富次郎(平野冨二)が、本木昌造から活字製造事業の経営を受託して、工場の組織と運営面で全面的改革を断行した。その結果、約2ヶ月という短期間で、高品質の活字を安定して、しかも、低価格で製造できる目途を付けた。さらに、本木昌造が大阪と東京に計画した出張活版所で抱えていた諸課題に対して善後策を講じ、活字の需要が見込める東京・横浜において販売を試み、大きな成果を得た。これらについては、本シリーズの2018年7月と2018年8月の投稿で、その概要に触れている。

本稿では、平野富次郎の人生で最大の転機となった本木昌造の活字製造事業の受託とその成果について、先稿と一部重複することもあるが、ここに纏めて紹介する。

その多くは、東京築地活版製造所で編纂した小冊子『長崎活版所東京出店ノ顛末幷ニ継業者平野冨二氏行状』(明治24年3月、初稿)に拠った。そもそも、この小冊子の内容は、本木昌造の協力者である池原香稺と、以前から本木昌造の工場で従事していた2、3人に加えて、平野冨二本人の直話を比較・参考にしたと付記されている。それに加えて、その後に発見された資料や当時の状況を勘案して、補足・修正を行った。

(1)本木昌造の懇願と平野富次郎の条件付き受託
本木昌造は、長崎出島のオランダ人から得た情報をもとに活字製造の基礎技術を開発したが、本格的に実用に供するまでには、まだまだ、多くの課題を抱えていた。たまたま、同様の原理で活字を製造していた上海の美華書館から主任で開発者でもあるウィリアム・ギャンブルを長崎に招いて、長崎県付属の長崎新聞局のために迅速活字製造法の伝習を行い、自らも伝習に協力しながら受講した。

本木昌造は、長崎製鉄所の退職を機に、明治3年(1870)3月、長崎新町に新街私塾を開設した。その運営経費をまかなうためと、維新に際して家禄・扶持を失った地役人や士族たちに職を与えるため、活版所(活版印刷所)と活字製造所とを開いて、活字の製造とその活字を用いた活版印刷により教科書や参考書、教養書の出版を開始した。

しかし、活字を製造しても、粗悪品ばかりが多く、印刷に適した活字を思うように製造することが出来なかった。また、活版で印刷しても、従来の手書き文字を木版とした整版印刷に馴染んだ人々から、必ずしも歓迎されなかった。

このままでは、活版所での活版印刷事業は勿論のこと、新街私塾の経営にも支障を来たす事態に陥ることは明らかであった。身近にいた主な門人たちは、すでに大阪、横浜、京都に開設した活版所に派遣したため、後事を託せる門人は残っていなかった。

明治4年(1871)6月頃、東京出張から戻った本木昌造は、自宅で造船事業の構想を練っていた平野富次郎を招いて、活字製造の事業化が思うように進まないので、これに手を貸してくれないかと要請した。

当初、平野富次郎は、本木昌造が自分の退職を心配してくれたものと思い込み、再三に亘って固辞した。しかし、内情を聴くうちに、本木昌造の窮状を知り、遂に、本木昌造が経営している活字製造事業を引き受けることとなった。

(2)本木昌造の抱えていた課題と要望
当時、本木昌造が抱えていた課題を纏めて整理すると、
① 不良品ばかりが出来て、実用になる活字が僅かしか得られないこと、② 鋳造活字を用いた印刷物が必ずしも世間から歓迎されないこと、③ 事業収入が得られず、経費ばかりが増大し、資金は枯渇寸前となったこと、④ 自身の健康不安を抱えていること、であった。

さらに、副次的なものとして、
⑤ 有能な門人たちを大阪、横浜、京都に派遣してしまい、後事を託す者が居ないこと、⑥ 五代友厚から前金を受けて請負った和訳英辞書の出版が頓挫していること、⑦ 大阪、横浜、京都に開設した出張活版所では、当面、木版での出版とせざるを得ないこと、⑧ 大学・東南校への活字供給の要請を受けて、その対応に苦慮していること、⑨ 東京芝神明前での書肆仲間との活版所設立計画に苦慮していること、など多岐多方面にわたっている。

本木昌造は、どちらかと云えば、学者・研究者肌の人であった。自分の家の一室で職人を使って活字を手作りすることは出来ても、これを工業的に大量に製造するには、別の才覚と能力を必要としていた。本木昌造を慕って集まった門人たちも、知識欲は旺盛であっても、物造りの本質をわきまえず、このようなものは職人にまかせるものだという考えが一般的であった。

これらの課題を解決するため本木昌造が平野富次郎に要望した内容は、
① 活字製造のために設けた工場に関する一切の事を委託すること、② どのような改革をおこなっても構わないので、心置きなく処置して欲しいこと、③ どのような土地で営業しても構わないので、利益の多く得られる土地に移転することが得策と考えること、④ 損益得失の責任を負う覚悟で行なって欲しいこと、⑤ 経営が軌道に乗るようになったら、出資者のために資本償却として5千円を還付して欲しいこと、⑥ 今後の事業運営についてはすべて、従業員一同との協議によって処置すること、であった。

(3)平野富次郎の活版印刷への関り
ここで、本木昌造から活字製造事業を委託された頃の平野富次郎は、活版印刷に関する知識と経験がどの程度あったかを、その経歴から調べて見た。

平野富次郎は、文久1年(1861)、多くの候補者の中から選抜されて長崎製鉄所に入所し、機関方見習いとして機械学の伝習を受けた。その際、長崎製鉄所の御用掛と伝習掛を兼務していた本木昌造から直接指導を受けたことから、誘われて本木一門に加わり、業務の余暇に一門の者たちと共に活版印刷の研究にも携わったと見られる。

長崎で1861年6月22日(文久1年5月15日)に創刊された英字新聞『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』の発行に際して、伝習を兼ねて新聞の印刷を手伝った本木一門の逸話がある。その一門の者の中に平野(当時は矢次)富次郎の名前が見られる。

その後は、本木昌造が船長となった長崎製鉄所の蒸気船に機関手として乗組む機会が多く、また、八丈島に漂着して、約5ヵ月間、共に滞在を余儀なくされたこともあり、本木昌造と直接話をする機会も多く、活版印刷研究について多くの話を聴かされたであろうことは推測できる。

しかし、明治2年(1869)3月に平野富次郎が小菅修船場の諸務専任となって以降、長崎製鉄所を退社するまでの間は、業務多忙のため活版印刷研究からは遠ざかっていたと見られる。したがって、その間に行われた上海美華書館のギャンブルによる伝習には直接関わることはなかったと見られる。

(4)平野富次郎の受託条件
平野富次郎が本木昌造から活字製造事業の経営を受託したのは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。

平野富次郎が、受託するに当たって付けた条件を箇条書きにして纏めると、
① 引き受ける事業は、当面、活字製造に限り、印刷出版は別扱いとすること、② 本事業をすべて一任して専断を許認し、他者の干渉を排除すること、③ 製造する活字類は希望するものにも販売できるようにすること、④ 活字製造事業を印刷出版事業から分離して、独立採算制とすること、⑤ 後継者を養成して事業の継続を図ること、⑥ 経営が軌道に乗って利益がでるようになったならば、一切を本木家に返還すること、であった。

当時、わが国では活版印刷について一般になじみが薄く、手書き文書をそのままの形で複写する整版印刷(木版摺り)を好み、敬遠する風潮にあった。そのような中で、政府・官公庁が公布する行政文書が多くなるに従い、手早く大量に印刷できる活版印刷が着目されるようになった。また、新聞の普及により、遅滞なく最新の情報を印刷する手段として活字が求められるようになりつつあった。

当初の本木昌造の基本方針は、全国の活版印刷事業を一手に独占し、主要書肆(出版社、書店)を通じて印刷物を販売することであって、これによって得られた利益を全国の職を失った貧窮士族の救済に充てることであった。

このことが活版印刷の普及を妨げる要因の一つとなっていることに着目した平野富次郎は、本木昌造を説得して、広く世間に活字・活版を販売することが活版印刷の普及を促進し、自らの利益を増大させると共に、世間の利便にも貢献することことになることを認めて貰った。

(5)平野富次郎による改革の内容
活字製造事業を引受け、改革を行うに当たって、活字製造に関する最新の知識と情報を本木昌造から説明を受け、ギャンブルから伝授された活字製造上の要点を聴取したと見られる。このとき、ギャンブルから入手していたであろう活字見本広告も参考にしたと思われる。

図20-1 上海美華書館の活字見本広告
《『教会新誌』、第16号、同治7年11月(1868年12月)》

この広告では「本館が現有する新鋳の大小中国鉛字6種を販売し、
号ごとに印刷して、重量ポンド当たりの価格と個数を示し、
購入者に一見して便利で明らかになるようにした。(中略)
なお、来館購入するならば、日本鉛字・外国鉛字などもあるが、
ここには価格の表示はない。」と述べている。
ページを4分の1の枠に区切り、枠内に活字のサイズ毎に
キリスト教の「主の祈り」を中国鉛字で印刷している。
字種は一書体のみで、サイズは第一号から第六号まで、
その外に、旧型鉛字の別有二号が表示されている。
この広告は、1868年(明治1年)12月から翌年7月まで、
8回掲載されたが、最後の2回分は別有二号の掲載はない。
長崎の活版伝習では、この広告を教材とした可能性がある。

ちなみに、上海美華書館では号数で活字のサイズを示している。各サイズを比較調査して見ると、第五号を基準として、その倍角(縦に並べた2本分)を第二号、半角(2分の1本分)を第六号としている。また、第三号の1.5倍角が第一号(第三号3本分が第一号2本分)となる。第四号は第三号と第五号との中間サイズであるが、倍角関係はない。このように、美華書館の活字サイズは3種類の異なる基本システムを組み合わせていることが分かる。

第五号は、英語で Small Pica と呼ばれ、1フィートの枠内に80個の活字が並べられるアメリカのブルース・システムを採用している。イギリスのハンサード・システムでは1フィートに83個を基準としており、僅かな寸法差がある。また、イギリスやアメリカの1インチはフランスやオランダの1インチとは僅かではあるが異なっている。

本木昌造は、当初、オランダから活版印刷を学び、幕末になってイギリスのハンサードから新聞印刷を学んだ。明治になってからアメリカのギャンブルから迅速活字製造法を学んでいる。そのため、永年にわたる活字研究の結果として、本木昌造の許には各国の活字サイズシステムが混然としていて、字種・字体も多様なものが残されていたと見られる。

平野富次郎の断行した活字製造上の改革内容は、すでに上海美華書館で実用に供されている製造技術そのものは対象外として、製造の際の管理と運営上の問題に絞られた。その多くが、能力や経験に関係なく失業救済策として採用された従業員であることに起因していると見られることから、教育や訓練は勿論、作業上の管理と運営に着目して改革を断行した。

改革の内容を箇条書きにして纏めると、
① 業務に精励しない者若干名を解雇すること、② 幼年者・老人・身体虚弱者は能力に応じた業務に配置転換すること、③ 出勤・退出の時刻を厳守させ、昼食後の午睡習慣を禁止すること、④ 能力に応じて給料を支払うこと、⑤ 意欲や向上心のある者に褒賞を与えること、などであった。

次に、素人の集まりであることから、
⑥ 仕事を習熟させるために分業制とすること、⑦ 組織を改正して責任の明確化を図ること、⑧ 不良品の発生を少なくするため作業工程の見直しを行うこと、などであった。

また、活字の品質を向上させ、コスト意識を持たせるために、
⑨ 品目ごとに標準見本を作製すること、⑩ 一人の主任者により製品検査を行うこと、⑪ 不合格となった活字類はすべて熔解して地金に戻すこと、などを徹底した。

なお、伝記には記録されていないが、木製の種字から鉛合金製の活字を鋳造するまでには多くの複雑な工程が必要であり、各工程における良否の判断は経験に依存する要素が多かった。当時は未だ外部からの電力供給はなく、蝋や地金の加熱・溶解の際の温度管理や電気メッキ作業での適正層厚管理などは経験を要する感覚に頼るしかなかった。

図20-2 16世紀の活字鋳造作業図
《Hans Sachs の著書(1568)から引用》

床に置かれた地金熔解炉の焚き口から木炭を継ぎ足しながら
その上にある鍋中の地金の熔融温度を調節し、
右手に持った柄杓で熔融地金を定量掬い取り、

すばやく左手に握った鋳型に熔融地金を注ぎ入れる。
その直後に左手を素早く振り上げて、
地金を鋳型の隅々まで行き渡らせる。
鋳型内で固化した活字素材は、鋳型から外されて、
床上の受け皿に入れられる。
明治初期には、
すでに外国で活字注入ポンプや手廻式活字鋳造機があったが、
長崎の新塾活字製造所では、ほとんどが
16世紀のヨーロッパと同様の鋳造作業であったと見られる。

図20-3 活字の仕上げ作業
《石井研堂著『少年工芸文庫』、第八編、「活版の牧」》

この作業は、活字の側面を砥石で擦って仕上げる作業を示す。
これを「こますり」(駒擦り)と呼び、
もっぱら、女性の仕事とされた。

改革の実行に当たっては、長崎製鉄所における経験と上海美華書館の情報が大いに役立ったと見られる。

具体的には、船舶用の機械や器具は鋳鉄や真鍮の鋳物が多く、活字の鋳造と共通する知識と経験が役立った。また、小菅修船場での経営に当たって、本局と経理を分離して独立採算制としたことにより、経営の採算性が明確になった。立神ドック掘削工事では、失業者救済のための人事管理を経験し、多種多様の素人集団を一つに纏めて工事を実行した。さらに、上海美華書館の活字・印刷機械の外部販売による積極経営や印刷見本広告による活字の販売方法などを参考にしたと見られる。

(6)平野富次郎の改革の成果
本木昌造の活字製造事業を引受け、徹底的な改革を実行して、わずか2ヶ月後には課題を解決して、高品質の活字を安定して製造できるようになった。また、不良品の発生が激減したことにより、活字の製造コストも大幅に低減した。その時期については、平野富次郎の大阪出張準備の記録から判断できる。

少し後のことになるが、明治5年(1872)2月になって本木昌造は『新塾餘談 初編一』を刊行して、その緒言の中で「近ごろ、私の製造する活字がようやく完成した」旨を述べている。さらに、その巻末に「口上」として、崎陽 新塾活字製造所の広告を掲載して、各号ごとの印刷見本と1字当たりの代価を示している。

図20-4 新塾活字製造所の活字広告
《『新塾餘談 初編一』、新町活版所、明治5年2月》

活字のサイズ毎に「天下泰平国家安康」の印刷見本を示している。
美華書館の広告と比較すると、
活字サイズとしては、
初号を追加し、六号がない。
書体は、三号に清朝風と和洋行書体を追加している。
また、価格は重量当たりではなく、1個当たりとしている。
この広告は、上海美華書館の広告を見習った可能性がある。

「口上」として掲示された文章を現代文に書き換えると、次のようになる。
「この度、印字見本の通り活字が完成しました。漢字のみならず、カタカナ・ひらがな共大小数種があるので、お望みの方にはお譲りすることができます。その外に、字体や大小など、お好みの通り製造できます。」

初号については、本木昌造が明治3年(1870)に印刷発行した教科書『単語篇 上』で、初号と二号の活字を用いている。この広告と共通して用いられている「天」と「平」を比較すると、同じ活字母型で鋳造されたことが分かる。しかし、『単語篇』では鋳造欠陥のある活字が含まれている。

なお、参考に記すと、広告にある価格の「永」表示は、金貨を基準とした永銭勘定と呼ばれ、江戸時代から金貨は4進法で1両=4分=16朱と呼称するが、これを10進法である銅銭の単位を用いて、1両=1貫文=1,000文=10,000分で呼称することを示す。金貨と銅銭の交換比率は相場によって変動した。明治4年(1871)5月の新貨条例により、純金の重さに基づき1両=1円=100銭=1,000厘=10,000毛となった。

(7)関連する課題への対応
平野富次郎は、改革の成果が出始めたことを確認して、明治4年(1871)9月中旬に大阪に出張し、次いで、東京まで足を延ばし、同年11月1日に長崎に帰着している。

伝記では、「11月に活字若干を携えて東京に上り、」とあるが、平野富次郎の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵、現在は所在不明)の記録により時期を訂正した。出張目的は、伝記では東京での活字販売を試みたことしか述べていないが、当時、本木昌造が大阪、横浜、東京で抱えていた諸課題から類推すると、早期決着を要する別の目的があったことが分かる。

大阪における本木昌造の当時の課題については、本シリーズの「五代友厚と大阪活版所」(2018年8月)で詳述した。また、横浜では、陽其二を派遣して横浜活版所からわが国最初の日刊新聞を発行したが、鉛活字の供給が停滞して、木活字で対応していたこと、東京では、神田佐久間町前の大学東校構内に御用活版所を設立して活字の納入要請を受けていたこと、芝神明前の書肆仲間と活版所設立計画をしていたことについては、本シリーズの「本木昌造の活版事業」で述べた。

平野富次郎は、完成した活字若干を見本として携えて、横浜と東京で販売を試みた。その際、印刷見本も持参したと見られる。

横浜では、陽其二を通じて神奈川県御用掛となっていた柴田昌吉(本木昌造の末弟)を紹介してもらい、同地に設立された日就社から刊行予定の『不音挿図 英和字彙』の序文印刷用として活字を買ってもらった。

東京では、芝神明前の書肆仲間を訪れたとき、岡田吉兵衛を通じて太政官左院から活字数万個の注文を受けた。岡田吉兵衛は、本木昌造が文久2年(1862)に崎陽點林堂主人として『秘事新書』を整版で出版したときの取り扱い書肆の一つである和泉屋吉兵衛のことと見られる。

続いて、神田佐久間町前の大学東校構内に御用活版所を設立する際に、大学御用達の蔵田屋清右衛門から活字の注文を受けた。蔵田屋清右衛門は大学東校にあったスタンホープ式印刷機を借り受け、ドイツ活字を輸入して『独和会話篇』(明治5年刊)を印刷している。

このように、東京の各所で活字の販売を行い、合計2,000円余りの注文を得たという。本木昌造の抱えていた課題も解決し、活字販売の見通しも立って、大きな成果を得て東京を発つ直前に東京で撮影した、丁髷を結い旅姿の平野富次郎の肖像写真が平野家に残されている。
途中、大阪に立ち寄って、活字の原料となるアンチモニーを購入し、長崎に戻った。

この平野富次郎の東京出張と入れ替えに、明治4年(1871)11月22日、工部省は東京赤坂溜池葵町に勧工寮活字局を開設した。長崎新聞局活字一課の設備と人員をここに移転させ、官報の活版印刷を目的とした活字製造を開始した。

この頃が、まさに活版印刷の黎明期と云える。文明開化の代表的な利器の一つと言える活版印刷も、その価値を認められて需要が拡大するためには、更なる努力が必要であった。

2018年9月30日 稿了

 

五代友厚と大阪活版所

まえがき
数ある本木昌造の伝記資料の中で大阪活版所について述べた最初の記事には、「是歳(明治3年)春社員小幡正蔵酒井三造ノ両氏ヲ大坂ヘ送リ五代才助(後ニ友厚)氏ト謀リテ同地ノ大手町ニ始メテ活版所ヲ開カシム(後ニ北九太郎町ニ移レリ)」(『印刷雑誌』、第1巻第3号、明治24年4月)と記述されている。

この記事には著者が明記されていないが、福地源一郎(桜痴)が長崎の西道仙収集の資料(「長崎文庫」)に基づいて執筆したとされている。

活版所開設の時期を「春」(旧暦では正月元日から3月末日)と幅をもたせて表現し、開設場所を「大手町」として当時の大阪には存在しない町名で示している。さらに、五代才助(友厚)とはどのような経緯があったのか全く分からない。

後に、『東京活版製造始祖故本木昌造先生』と題する小冊子が東京築地活版製造所から発行されて、活版所の開設時期は「明治3年3月」となった。しかし、その根拠は不明である。

このように、大阪活版所の開設に関する経緯、場所、時期が必ずしも明確になっていない。そこで、大阪商工会議所に保管されている「五代友厚関係文書」の中から、大阪における活版所開設に関する各種文書(主として書簡類)を横断的に読み解いた。その結果、本木昌造との関係で活版所開設の経緯などが見えて来た。

以下にその内容を紹介するに当たり、この時期、個人の名前が多様に用いられており、例えば、五代友厚は才助、松陰、重野安繹は重埜安、成斎、小松帯刀は玄蕃頭、観瀾、本木昌造は昌三、元木、平野富二は富次郎として文書に現れている。ここでは、特に必要とする以外は、一般に用いられている名称に統一して表記することとする。

(1)大阪における活版所開設の経緯
五代友厚は、明治2年(1869)7月に官途を辞し、その後は大阪の財界に身を投ずる決意をしていた。そのことを郷里鹿児島に帰って報告するため、同年12月、大阪を発って長崎に立ち寄り、翌年1月、大阪に戻る途次、再び長崎に立ち寄っている。


図19-1 大阪商工会議所前に立つ五代友厚銅像
この銅像は、昭和28年(1953)10月、
大阪商工会議所創立75周年に当たり、再建された。
《写真提供:雅春文庫》

長崎に立ち寄った五代友厚は、大阪に大阪府御用活版所を設立して新聞を発行する計画を、大村屋(書肆とみられる)と本木昌造に伝えて協力を要請した。大村屋には大阪に進出して新聞の印刷発行を行うこと、本木昌造には新聞発行に必要な活字を大村屋に提供することを要求したと見られる。

このことに関して、五代友厚が大阪に戻った後に、長崎の大村屋に宛てて出状した明治3年(1870)3月19日付け書簡がある。これを現代文に直して紹介すると次のようになる。

「(前文挨拶は省略)活字板の一件については、追い追い勉強されていることと遠察いたします。当所においても都合よく進展しています。殊に、重野安繹とは『二十一史』を活字で出版するよう取り決めて置いたので、本木昌造とご示談の上、所持の活字一切残らず持参させるよう致したい。もちろん、『二十一史』は近頃流行の書であるが、一向に市中に見当たらず、一部250両位するとのこと。重野はそのため大阪に滞在して字数を取調中です。所持している活字だけでは、まだ、字数が不足しているとのこと。追い追い取り寄せいたしたく、そのため、本木昌造にも大阪に来てもらわなければ、このような大業は成功することは難しいです。一緒に誘い合わせて大阪に来られることをお待ちしています。重野安繹は漢学の分野では現在、彼より優れている者を知りません。同氏を味方にすれば、本木昌造は勿論、貴殿の志もこの時に立つことが出来ると云えるでしょう。ぐずぐずなさることは有りません。頓首不具。
三月十九日                     松陰生
大村屋君
なお、新聞紙の方は何時でも宜しい。また、活字を製造する機械があると思うので、長崎にあれば、御買入の上、ご持参下さい。」

この書簡には出状年が記載されていないが、次に示す重野安繹の書簡と小松帯刀の死亡時期から見て、明治3年(1870)であることが分かる。

「(前文挨拶は省略)昨日、小松家より活版の一件に付いて依頼され、引き受けました。早速、参堂して詳しくお話し申上げたく存じますが、(省略)明後日に(省略)参上いたしたく、(省略)御在宅でしょうか?(省略)詳しくはお会いして申上げます。頓首
三月十一日                 重埜繹拝
松陰賢伯 侍史」

小松家とは小松帯刀のことを指すと見られる。小松帯刀は薩摩藩家老を勤め、新政府内で要職に就いたが、明治2年(1869)5月、病気のため退官した。その後は療養に努めていたが、多くの借財を抱えていた。この窮状を打開するため、小松家で秘蔵していた『二十一史』を活版で出版することを思い付き、重野安繹と五代友厚がこれに協力していた。なお、『二十一史』とは、中国の史記から元朝までの正史を編纂した歴史書である。

重野安繹は、3月13日に五代宅を訪問して、対応を話合い、その結果、先に紹介した五代友厚から大村屋に宛てた書簡が出状されたと見られる。

この大村屋に宛てた書簡によると、明治3年(1870)3月19日の時点では、五代友厚は本木昌造に対して大阪に活版所を設立することまでは、まだ、期待していないように読み取れる。

また、同じ書簡で、追伸として述べている「新聞紙の方は」の一文から推察すると、五代友厚が大村屋と本木昌造に対して、以前から大阪での新聞発行を相談していたように窺える。

やや後のことと見られるが、活版所の開設に関して本木昌造が作成したと見られる覚書草案がある。一部補足して現代文に直して紹介する。

① 大阪府の御用活版所として設立し、本木昌造(元木と表記)が全てを手配すること。
② 『二十一史』の校合・句読を重野安繹にお願いすること。
③ 活字数が揃ったら、期限を定めて『二十一史』を印刷し、利益は2分割すること。
④ 『二十一史』を出版するまでは、その他の書籍売上高の5歩を上納すること。
⑤ 書籍の販売は秋田屋に差配させること。
⑥ 必要な資金を貸し渡し下されば、利付で借用するが、ご都合に任せること。

この覚書草稿には差出人、受取人、日付の記載がない。しかし、国立公文書館にあるマイクロフィルムを閲覧した結果、明らかに本木昌造の筆跡であることが分かった。
内容からみて、受取人は五代友厚と見られる。

先の五代友厚から大村屋に宛てた書簡と相違して、より具体化された取り決めとなっている。ここでは、大村屋の代わりに本木昌造が活版所を設立し、秋田屋が書籍の販売を行うことになっている。秋田屋は、大阪心斎橋通安堂寺町の秋田屋太右衛門のことと見られ、本木昌造の『秘事新書』を整版で発売したことがある。

この覚書草稿の作成時点で、当初、五代友厚が期待していた長崎の大村屋は辞退したと見られる。その背景には、長崎の大村屋と本木昌造との間で何らかの話合いがなされ、大村屋は荷が重すぎることで手を引き、本木昌造自身が大阪に活版所を設立することになったと見られる。

その後のことについては、『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)の速水英喜に関する記述の中に、「(本木昌造)先生は予ねて長崎で経営されている長崎新塾の出張所を大阪の地へ設立する意図があって、豪商五代友厚氏と田村良助氏、これに(長崎屋)吉田宗三郎氏等を加えて相談を試みられ、翌3年3月には先生の命を奉じて同社員小幡正蔵、酒井三造の両氏が上阪し、五代氏と更に協議の結果、大手町に大阪活版所を創立することに決定した。」と述べられている。

以上の事柄を纏めると、明治3年(1870)1月に五代友厚が長崎に立ち寄って、本木昌造と大村屋に大阪での新聞発行のことを相談した。これを受けて本木昌造は、懇意にしていた大阪の長崎屋宗三郎と田村良助に連絡して、五代友厚と相談していた。3月になって、小松帯刀所蔵の『二十一史』を活版で出版することになり、五代友厚は同月19日付け書簡で大村屋と本木昌造に対応を要請した。本木昌造は大村屋と協議し、3月中に小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣した。二人は長崎屋宗三郎と田村良助と共に五代友厚と更に協議を行い、活版所設立に関する覚書を交わすに至った。

したがって、大阪で実際に活版所が開設された時期は、いくら急いでも、それから1,2ヶ月後のことと見られる。

(2)活版所開設直後の『二十一史』出版中止
活版所の土地と建物は、地元の長崎屋宗三郎と田村良助が手配して、大手筋折屋町(現在の大手通2丁目)に所在する家作を買い受け、小幡正蔵と酒井三造を責任者とし、さらに、長崎から谷口黙次、若林弥三郎、茂中貞次を送り込み、必要な職人を派遣するなどして、万全の体制を敷いた。


図19-2 「大阪活版所跡」碑
場 所:大阪市中央区大手通2丁目4番の前の道路脇
表 面:「大阪活版所跡」
右側面:「明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計
     により この地に活版所が創設された 大阪の活版印刷
     は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」
裏 面:「    昭和四九年三月  大阪市建立」
《写真提供:雅春文庫》

ところが、明治3年(1870)7月20日、小松帯刀が36歳の若さで大阪において病死した。そのため、『二十一史』の刊行が中止となってしまった。

本木昌造は、五代友厚・重野安繹と対応を協議した結果、五代友厚が上海の美華書館で出版を予定していた『和訳英辞林』を、取り急ぎ、大阪の活版所に振り替えることとなった。

(3)五代友厚の『和訳英辞林』出版計画
先に薩摩藩の学生高橋新吉(良昭)・前田献吉(正穀)・前田正名(弘庵)の3人が、長崎で洋学の勉強をしているときに、海外留学の資金を得るため、和訳英辞書の出版を思い付き、アメリカ宣教師フルベッキの協力を得て原稿を作成した。これを上海の美華書館で印刷し、完成した『改正増補 和訳英辞書』(明治2年1月、薩摩学生として刊行。通称『薩摩辞書』)を国内で売りさばくに当たって、五代友厚が協力した。『薩摩辞書』は好評を博し、品切れの状態で高価に取り引きされるようになった。

話は少しさかのぼるが、前田献吉(前田正名の兄)は軍艦「春日」の軍医として戊辰戦争に従軍し、高橋新吉は薩摩藩庁に出仕して長崎で警備に就いたため、前田正名はひとりで辞書の序文を作成し、「薩摩学生」(英文では A STUDENT OF SATSUMA)と記して完成させた。前田正名は完成した辞書2,000部を上海から持ち帰った。

前田正名は、五代友厚の協力の下に、約500部を売りさばいて自分の海外留学資金とし、残りの約1,500部を五代友厚に預けて、明治2年(1869)6月、フランスに帰国するモンブラン伯に同行して出国してしまった。

その後、前田献吉と高橋新吉は相次いで鹿児島に戻り、五代友厚から『薩摩辞書』を受取った。2人はアメリカに留学するため、受け取った辞書の販売に尽力して留学資金を得た。明治3年(1870)2月になって、留学のため出発する期日が差し迫ったため、残り500部の販売を小松帯刀に頼み込んだ。小松帯刀から依頼された五代友厚は、大阪内淡路町の岡田平蔵に販売を依頼して、売りさばいてやった。

五代友厚は、『薩摩辞書』が好評を博したことに目を付け、通訳兼手代として雇っていた堀孝之(壮十郎、オランダ通詞堀達之助の次男)に指示して、この『薩摩辞書』をウェブスター辞書を基にして大幅に改正・増補させ、薩摩学生前田献吉・高橋新吉の名前で出版することを計画した。

その改定・増補する内容について、次のような覚書が残されている。これを現代文に直し、補足を加えて紹介する。

① ウェブスター小辞書から選択して、先の和訳英辞書(『薩摩辞書』)で不足している英語を追加すること。
② 和訳英辞書に幾つかの誤訳があるので、別途、改正専門の者を雇うこと。
③ 巻末付属の略語集に詳しい和訳を加えること。
④ 右の通り増補改正する辞書の序文と本文最初の一枚位を印刷して、広く一般に配布すること。
上記4ヶ条は、この度の辞書再版において一つも欠くことのできない要件である。

この覚書には示されていないが、最大の改正点として、英語の発音を示すカタカナ表記を止めて、ウェブスター辞書に基づく発音符号、アクセント符号、シラブル記号を用いることとした。(図19-3を参照)

明治2年(1869)10月頃、堀孝之の手で増補改正作業が大方完成した段階で、前田・高橋に二人の名前で辞書を再版することの了解を得たと見られる。明治3年(1870)5月になって、前田・高橋はフルベッキに辞書再版のことを伝え、堀孝之と共に3人で上海の美華書館を訪れた。現地では、ほぼ完成した原稿を示し、見積もりを依頼すると共に、宣伝に用いるための摺り見本を要求し、契約書用紙と摺り見本を持参して、一旦、帰国した。

この再版辞書(『和訳英辞林』)は、五代友厚と堀孝之にとっては、先に薩摩藩が鹿児島に設立した薩摩藩活版所で出版を計画した大英和辞書(ウェブスター大辞書を基にして堀孝之が編纂)に代わるものであったと見られる。薩摩藩では、印刷の知識と技術が伴わず、印刷設備1式は使用されないまま、明治2年(1869)9月頃、本木昌造に譲渡された。本件については、前回ブログ「本木昌造の活版事業」で紹介した。

前田献吉と高橋新吉の2人は、海外留学の準備と『薩摩辞書』の販売に注力していたが、序文の作成と官許申請だけは行ない、後事を堀孝之に託して、明治4年(1871)1月4日、海外留学のため、アメリカに向けて出発してしまった。

(4)洋活字の製造で困難に直面
五代友厚は、大阪の活版所で出版準備中であった『二十一史』を中止し、それに代えて上海の美華書館で再版を予定していた『和訳英辞林』の出版を本木昌造に依頼した。依頼にあたって、五代友厚は上海美華書館で印刷した摺り見本(本文8ページ分)をサンプルとして渡したと見られる。この摺り見本は「五代友厚関係文書」の中に含まれている。

本木昌造は、先に薩摩藩から譲り受けた和洋活字1式と手引印刷機1台を大阪に送って対応した。この印刷設備は、薩摩藩が大英和辞書の印刷のために購入したものであることから、容易に出版できるものと考えていたらしい。

ところが、期待に反して洋活字の製造に苦労し、なかなか完成するに至らなかった。この洋活字を含めて、活字製造事業が壁に突き当たって進退窮まった本木昌造が、長崎製鉄所を退職した平野富二を招いて活字製造事業を一任し、抜本的改革に着手したのは明治4年(1871)7月10日前後とされている。

大阪活版所の支配人となった長崎屋宗三郎が大阪府庁に提出した明治4年(187197月52日付けの「乍恐口上」書簡がある。それによると、まず最初に「西洋活字の製造法を修業中」と述べている。

このことは、本木昌造が『和訳英辞林』の出版を依頼されてから、ほぼ1年を経過しているにも関わらず、西洋活字が製造できず、「製造法を修業中」、つまり、実用できる西洋活字の製造が未だに出来ない状態であることを示している。

先に薩摩藩から譲り受けた和洋活字1式が手元にあり、しかも、上海美華書館のギャンブルから伝習を受けたことでもあり、その洋活字を種字として蝋型電胎法で母型を製作すれば、問題なく洋活字を複製できる。しかし、今度の『和訳英辞林』は、以前の『薩摩辞書』と相違して、全ての英語に発音符号が付けられていた。そのため、この符号付き洋活字の製造に苦労して、なかなか完成に至らなかったと見られる。

長崎屋の書簡には、続いて、「大阪府下追手筋折屋町において、昨年中より活字器械を据え付けて現在に至っている。」とある。これにより活版所の場所が判る。「追手筋」は大坂城の追手口に通じる道筋のことで、その道筋に「折屋町」がある。明治4年(1871)2月に出版された『新塾餘談 初編二』には、製本賣弘所のひとつとして「大坂 大手筋折屋町 活版所」と表示されている。「追手筋」は昔からの呼称で、「大手筋」、「大手通」と称されるようになる。

なお、この書簡は、大阪府付属御用活版所として、府庁で必要な書籍類を調進し新聞記事を毎日印行することの免許を大阪府に申請するものであった。

その後、新聞刊行についての規則の提出と承認を経て、明治4年(1871)10月28日に『大阪府日報』初号(内題『日刊波華要報』第一号)を発行している。この新聞は、活版ではなく整版(木版)で印刷され、その口上の中に「板元は内淡路町壱丁目活板所長崎屋宗三郎」と記している。

内淡路町壱丁目は、追手筋の1本北側の道路に面した町で、その道路の南側は活版所のある折屋町と背中合わせとなっている。先の書簡で、長崎屋宗三郎が大阪府付属御用活版所として申請し認可を受けた場所は折屋町であることから、本来ならば折屋町とするべきである。しかし、背中合わせの北側の内淡路町1丁目としていることは、この土地までも取得して活版所用地としていたと見れば、まだ、活字による活版印刷ができなかったことから、遠慮して、「活板所」と表記し、裏口の住居表示を用いたのではないだろうか?

なお、内淡路町1丁目は、後に2丁目に変更されるが、ここには長崎屋宗三郎が薬種問屋としての店を持っていた。この店は、長崎の物産を扱い、本木昌造の定宿であったと云われている。

長崎屋宗三郎が大阪府庁に「乍恐口上」を提出する直前の明治4年(1871)7月14日に、政府は262藩を廃して3府72県を置く廃藩置県を断行した。このとき、廃藩置県に関する政府の印刷物一切を大阪活版所が引き受けたという。活字製造が壁に突き当たっていたため、やむを得ず、整版印刷で対応したと見られる。

この頃、廃藩置県に伴い職を失った元藩士たちの授産のために活版業を始めようとした尼崎の三浦長兵衛が、大阪の長崎新塾出張活版所を訪れて、活版業の伝授を懇請したが、同所の幹部は入門を許さず、絶対秘密主義を墨守したとの話が『本邦活版開拓者の苦心』に紹介されている。当時、大阪の活版所では、活字製造法が未だに確立されておらず、それどころではないのが実情であった。

(5)平野富二の登場
この頃、本木昌造が平野富二に活字製造部門の経営を一任し、平野富二による抜本的改革が行われていた。このことに付いては、前回ブログ「本木昌造の活版事業」で紹介した。

平野富二が本木昌造の活字製造部門の経営を引き受けたのは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。活字の規格を統一し、品質管理と在庫管理を徹底させ、適材適所の人員配置と勤務の見直しを行った。

その結果、不良品が激減して、印刷に堪える品質の活字を安定して製造できる見通しがついた。そこで、平野富二は、活版事業で大阪と東京で抱えている懸案事項について本木昌造と相談し、まず、大阪で抱えている洋活字の製造を中止し、五代友厚から請け負った『和訳英辞林」の出版を辞退することを進言して、了解を得たと見られる。

平野富二は、同年9月13日、大阪出張のために本木昌造と社友品川藤十郎から旅費などを借用している。恐らく、当日か翌日に大阪に向けて出立したと見られる。その際、見本の活字若干数と印刷した摺り見本を持参したと見られる。

大阪では、酒井三造の案内で五代友厚を訪問し、長崎における活字製造の取組みについて説明し、『和訳英辞林』の活字製造と組版の困難さを訴え、当初予定していた上海の美華書簡で印刷するよう懇願したと見られる。また、五代友厚から受領していた辞書出版前払金と活版所設立融資金の返済についても話し合ったと見られる。

五代友厚は、取り急ぎ、堀孝之を上海に派遣して、美華書館に『和訳英辞林』の印刷・製本を依頼したと見られる。明治4年(1871)10月、上海美華書館から『大正増補 和訳英辞林』(本文806ページ)として出版された。なお、堀孝之の同年1月25日付けの五代友厚宛書簡によると、契約書に調印して前金を支払えば、40~50日程度で印刷できるとのことであった。

図19-3 『大正増補 和訳英辞林』の内表紙と本文
本文の英語には、全て発音符号などが付けられている。

大阪での用務を済ませた平野富二は、本木昌造からの指示を受けて、大阪に居た小幡正蔵と同行して、横浜を経由して東京に向かった。

横浜では、横浜活版社の陽其二を訪れ、その紹介により日就社から活字若干の注文を受けた。東京では、神田和泉町の元藤堂家上屋敷の門長屋に文部省御用活版所を設営して、小幡正蔵を所長とした。次いで、芝神明前の書肆仲間を訪れて活版所設立の計画中止を申し入れた。その後、東京の各所を訪れて活字の宣伝と販売を行い、大きな成果を得て長崎に戻ったのは、同年11月1日のことだった。

(6)平野富二による五代友厚への融資金返済
平野富二の遺品の中に、「本木昌三 利子」と題した書付があり、三谷幸吉によって『本木昌造・平野富二詳伝』に不鮮明な写真版が掲載されている。なお、「本木昌三」は戸籍上の表記である。

図19-4 「本木昌三 利子」書付
《三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』より》

本木昌造は、五代友厚からの要請で大阪に活版所を設立する際、入費金として利付で資金を融資して貰っている。このことは本稿(1)で述べた。さらに、島屋政一によると、『和訳英辞林』の印刷を請け負う際に、前渡金として5,000円を無利子で受取り、月賦で返還することにしていた。

先の「本木昌三 利子」によると、明治7年(1874)10月の時点で、本木昌造は3,580円の利付負債があったことが判読できる。つまり、辞書印刷の前渡金は既に返済が終わっていて、残りは活版所設立の際の融資金の残金であったことが分かる。

融資金の残金に対して、本木昌造は、明治7年11月に元金100円に利子を加えて返済したが、以降、返済が滞ったまま、明治8年(1875)9月3日に死去してしまった。そのため、平野富二は、この本木昌造の負債を肩代わりして、取り敢えず元金1,500円に利子を付けて返済した。その後は、元金200円に利子を付けて月賦返済を行い、明治9年(1876)10月に残金180円に利子を付けて返済を完了した。図版では利子の金額までは読み取れない。

平野富二にとっては、もともと本木昌造に養老金として毎月200円を贈っていたので、本木昌造の没後は、それに代えて月賦返済の元金としたと見られる。

大阪活版所は、その後、主として商業印刷物を中心に印刷していた。牧治三郎の蔵書の中に、明治7年8月官許の『医用化学』(ニール・スミス著、松村短明訳、美濃二つ折和装、四号明朝活字組、112ページ、大阪大手通折屋町印務活版社)、明治10年(1877)2月出版の『新撰薬名早引 全』(安川通斎輯、松村文海堂発兌、四六判、96ページ、奥付欄外に大阪大手通活版社)がある。

明治11年(1878)春になって、大阪活版所は東区北久太郎町2丁目(現、中央区久太郎町2丁目)に1,000坪余りの土地を求めて移転し、大阪活版製造所と改称した。ここでは、事業を拡張して印刷機械の製造を本格的に行うこととなった。

五代友厚は、平野富二の誠意に感じて、平野富二の造船事業にしばしば支援の手を差し伸べている。また、五代友厚は東京築地に製藍事業の東京店として東朝陽館を設立て、岩瀬公圃を派遣していたが、平野富二が横浜製鉄所の貸与を申請したとき、岩瀬公圃に保障人となって貰っている。

五代友厚は、明治11年(1878)8月、大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の設立を主導し、創立に際して会頭に選ばれ、死去に至るまでその任にあった。明治18年(1885)9月25日、東京築地で没した。享年51。

五代友厚が保管していた書簡類は、現在、大阪商工会議所に「五代友厚関係文書」として保管されている。その内容はマイクロフィルムにより国立国会図書館で閲覧できる。

2018年8月27日 稿了