国内外の博覧会と活字・印刷機出品(その2)

まえがき
前回の「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)」では、1867(慶應3)年のパリ万国博物館、1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会、明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会について、それぞれの概要と活字・印刷機の出品について紹介し、考察を加えた。

今回は、続いて国内外で開催された各種博覧会への出品について紹介する。
内国勧業博覧会は、明治10年(1877)の第一回に続いて、明治14年(1881)、明治23年(1890)、明治28年(1895)、明治36年(1903)と第五回まで開催された。続いて明治40年(1907)に第六回が予定されていたが、日露戦争による財政悪化で延期され、政府主催による内国勧業博覧会は第五回以降の開催はなかった。

代わって明治40年(1907)に東京府主催で東京勧業博覧会が開催された。それ以降、府県庁またはその関係団体による主催で各種博覧会が開催された。その中で東京築地活版製造所から出品された博覧会は、大正3年(1914)の東京大正博覧会、大正11年(1922)の平和記念東京博覧会、昭和3年(1922)の大礼記念関連地方博覧会であった。

その間、1885(明治18)年にイギリスで開催されたロンドン万国発明品博覧会に活版見本を出品している。1893(明治26)年にはアメリカのシカゴで開催されたコロンブス世界博覧会に出品を予定していたが、都合により出品を辞退している。

本稿で採り上げる明治14年(1881)から昭和3年(1922)の間には、東京築地活版製造所は組織ならびに経営者の異動があった。その内容については必要に応じて個別に触れることにする。

博覧会に出品する製品については、活字・活版が主力であるが、印刷機については活字の販売促進のための製品であったことから、明治17年(1884)に印刷機械製造部門の廃止に伴い、製造に関わった従業員を独立させ、また、大阪活版製造所に製造委託するようになった。このことから、印刷機の博覧会への出品は大阪活版製造所が行うようになる。

今回は、第二回内国勧業博覧会以降の築地活版製造所が出品した各種博覧会について、年代順に紹介する。平野富二が直接関与した第二回内国勧業博覧会とロンドン発明品博覧会については詳細に述べるが、明治22年(1889)6月に東京築地活版製造所の社長を辞任して以降の博覧会については、その概要を述べるにとどめる。

(4)第二回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治14年(1881)3月1日から6月30日まで第二回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。出品人員は31,239人、観覧人員は822,395人、経費は276,148円と記録されている。

出品物は第一区:鉱業・冶金、第二区:製造物、第三区:美術、第四区:機械、第五区:農業、第六区:園芸の6大区分され、その区分に従い館別に陳列された。館内では、横軸通路を府県別、縦軸通路を類別に配列された。

表門内に第一~第四本館が建てられて第1、2区の出品物が展示された。中門内には第五本館(第2区出品物展示)、美術館(第3区)、第一・第二機械館(第4区)、第一~第五農業館(第5区)、動物館(第5区)、園芸館(第6区)が設けられた。

東京築地活版製造所から出品した「活字・印刷機」は第四区第五類に分類され、中門内の第一機械館に展示された。

図29-1 第二回内国勧業博覧会案内図(国文社)
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』より引用〉
この案内図は国文社が足踏印刷機を会場に持ち込んで印刷したものである。

第一から第四本館までは現在の国立博物館前の広場に設けられ、
それ以外の展示館は現在の国立博物館構内に設けられた。
「活字・印刷機」を展示する第一機械館は中門内の左手突当りにあった。

築地活版製造所からの出品
築地活版製造所からは所長の本木小太郎の名前で次の諸品を出品し、銅製二等有効賞牌を授与された。なお、平野富二は、明治11年(1878)9月に築地活版製造所を本木家に返還して、所長本木小太郎、支配人桑原安六とし、自らは本木小太郎の後見人となっていた。

築地活版製造所の出品目録は、次の通りであった。
・印刷機械(鉄製、西洋模造口形、京橋區築地二丁目 桑原安六)
・印刷機械(同上、フート形、同上)
・各種活版(亜鉛刻字、明朝風10種、清朝風6種、行書1種、朝鮮書体4種、片仮名6種、平仮名8種、平仮名続字1種、横文字1種、同上)
・字見本帖(西洋紙、西洋綴、各種書体印刷、同上)

築地活版製造所から出品された印刷機械の「西洋模造口形」と「フート形」は、一緒に出品された「字見本帖」に絵図で掲示されているPRINTING ROLL MACHINE(活版車機械)とPrinting Foot Press(活版足踏機械)と見られる。「ロ形」は「ロール(ROLL)形」を略称したものと推察される。

各種活版の内、漢字は「明朝風」、「清朝風」、「行書」の3種が出品され、初めて書風、書体を示す名称が付けられた。それまでの築地活版製造所の「摺り見本」や「字見本帳」には書体・書風を示す表示は示されていなかった。

「清朝風」の表現については池原香稺が本木昌造に宛てた書簡(出状年不明、もと長崎諏訪神社所蔵)の中に見られ、「明朝風」については『東京日日新聞』(明治8年9月5日付)の記事のなかに見られるので、本木昌造の生前にすでに用いられていた。

本木一門の間では、楷書体(一点一画を崩さずに正しく書いた漢字の正書体の内、紙面に兎毫竹管の筆を用いて書いた漢字書体で、「三過折」つまり三節構造を有するもの。)の一書風で、17、18世紀の清王朝の刊本に見られる自然で柔軟な筆遣いを残した書風を「清朝風」、16世紀頃から大量の経典を木版摺りとするために正書体でありながら点画を標準化した書風を「明朝風」と表現していたと見られる。

「字見本帳」について
出品された「字見本帖」は、明治12年(1879)6月版の活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(改刷)と見られる。それ以降、明治14年(1881)2月までに発行された活字見本帳は見付かっていない。

フィラデルフィア万国博覧会出品用として造られた明治9年版『活版様式』を大幅に増補改版した通称明治10年版の『BOOK OF SPECIMENS』を基に、その後に追加された活字類を加えて、「紀元弐千五百三拾九年 明治拾弐年卯第六月」、「改刷版」と表示された『BOOK OF SPECIMENS』が発行されている。

板倉文庫旧蔵本によると、表紙はマーブル紙表装圧紙、背表紙はクロス装で文字等は印刷されていない。扉ページ1は本木昌造肖像(点・線を組み合わせた凹版彫刻技法による銅版)、扉ページ2は表門と煉瓦造り二階建て事務所の絵図(線刻木口木版)、扉ページ3は明治10年版と同じ『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRNO』の表示の上部に「紀元貮千五百三拾九年 明治拾貮年卯第六月」、下部に「Tsukiji Tokyo, Japan」、「改刷」と表示されている。

図29-2 明治12年6月版『BOOK OF SPECIMENS』の扉ページ
〈板倉文庫旧所蔵〉
上図は本木昌造の肖像(扉ページ1)で、
写真を手本とした砂目石版画である。
手本とした写真では首筋まで髪を垂らした総髪姿であるが、
右耳裏の垂れ髪は修正されて無くなっている。

下図は本書の表題(扉ページ3)で、
中央部分は明治10年版と同じである。

表題の上部に刊行年月として紀元年と明治12年6月と記されている。
表題の下部には改刷版であることが示されている。

扉ページ4は飾り枠罫線の中に各種装飾文字を使用した英文表紙で「THE Printers’ Handy Book OF SPECIMENS」と表題を示し、下方に築地活版の旧マークと「OFFICE AND FOUNDEY, 20-BAN-CHI TSUKIJI TOKIO」とある。なお、「FOUNDEY」は「FOUNDRY」の誤りである。主要文字とマーク、飾り枠罫線は色刷りとなっている。

他社による活版印刷機の出展
この博覧会には、国文社(神田淡路町二丁目4番地、社長竹中邦香)から足踏印刷機(鉄、一人力踏転)と活字鋳造車機械が出品された。この足踏印刷機は平野富二の下から独立した金津平四郎(京橋区常盤町一丁目)による製作であることが表示されている。

この足踏印刷機を使用して、会場で「第二回内国勧業博覧会場案内図」(図29-1)を印刷して来館者に配布し、いかに印刷が便利なものであるかを示した。

国文社は、前島来介(密)が『まいにち ひらがな しんぶんし』を発行するに当たって、明治6年(1873)に山田栄蔵(本木一門出身)が本所区御竹蔵に活版印刷所「啓蒙舎」を設けた。明治7年(1874)に神田淡路町二丁目に移転し、その後、「国文社」と改称した。

その他、長崎県の以文会社(勝山町)から木製一人刷印刷機械が出品された。
以文会社について述べると、本木昌造が新町私塾から発行した『長崎新聞』の廃刊(明治6年12月)に続いて、西道仙が編輯主任となって発行(明治8年12月)された同名の『長崎新聞』がある。その発行所は新町新聞局と勝山街新聞局であった。この『長崎新聞』は、明治9年(1877)1月に『西海新聞』と改題され、さらに、明治15年(1882)になって『鎮西日報』と改題して日刊新聞として発行された。この発行所が勝山街新聞局を引き継いだ以文会社(社長佐々澄治・井上英雄・高見松太郎)である。その後、以文会社は県庁関係の印刷物を出版している。

弘道軒神崎正諠とのひと悶着
築地活版製造所の展示を視察したと見られる活版製造所弘道軒(京橋区南鍋町二丁目1番地)の神崎正諠は、博覧会展示品のなかに清朝風活字があることを見付けて、平野富二との間でひと悶着を起した。

当時の『有喜世(うきよ)新聞』(明治14年11月26日付)の記事を要約すると次のようになる。
「神崎正諠は、明治4年(1871)頃からタガネ師を雇って活字の鋼製元字を造り、すでに四号、五号等の字母数千種を製造した。本年1月になって、資金不足のために製造器械と共に字母などすべてを売却する広告を出した。早速、築地の平野富二が買い取りたいと申し入れたが、神崎正諠は思うところがあって断った。その仕返しかどうか知らないが、その後、築地活版製造所で弘道軒の活字を字母として電胎法による母型を造り、活字を鋳造していることを知った神崎正諠は、このまま捨て置いては犬が骨折してエサを鷹にとられるようなものだと立腹した。近頃、この旨を告訴するべく準備中とのこと。」

築地活版製造所は、本木昌造の頃から清朝風と呼んでいた池原香稺の版下による楷書体を改刻するため、能筆家小室樵山(下谷御徒町)に版下を依頼し、完成した活字を「清朝風」と称して第二回内国勧業博覧会に出品した。ところが、弘道軒活字も同じ小室樵山による版下を用いて「清楷書(正楷書)」と名付けて販売していたため、神崎正諠は弘道軒活字をそのまま父型として利用・複製したものと誤解したと見られる。

神崎正諠が、白装束に陣羽織姿で腰に大刀を帯び、築地活版製造所に乗り込んで抗議談判に及んだ逸話は、三谷幸吉が築地活版製造所の社員だった田中市郎の談話として紹介している。

弘道軒活字は、明治14年(1881)8月1日付けの『東京日日新聞』から本文活字として採用され、明治23年(1890)2月11日まで使われた。その間、相場や商況広告などは築地活字の明朝五号が使用されていた。神崎正諠は、明治24年(1891)12月14日、病没し、次男池上喜之助が跡を継いでいる。

築地活版製造所は、明治16年(1883)7月2日付け『時事新報』に広告を掲載して、「これまで明朝風の各号活字と六号楷書活字を販売して来たが、この度、能筆家に版下を依頼して五号楷書活字を本日から発売し、さらに、二号、三号、四号も製造着手中である」と述べている。このことは、神崎正諠の談判を受けて築地活版製造所は、出品した清朝風6種の内、六号のみを「楷書」として販売し、その他の清朝風5種は販売を差し控えていたことが分かる。

(5)ロンドン万国発明品博覧会
(International Inventors Exhibition, London)
明治17年(1884)11月21日付け農商務省布達第21号により「英吉利国龍動府開設万国発明品博覧会ニ帝国政府参同一件」として「来る明治18年5月より6ヶ月間、英国ロンドン府において万国発明品博覧会が開催されるに付き、出品を希望する者は農商務省に願い出ること。但し、出品手続については追って農商務卿より告示する。明治17年11月21日 太政大臣三条実美、農商務卿松方正義」とあり、それによって政府から布告された。

明治18年(1885)1月12日、平野富二は、本木小太郎の代理として、東京府を通じて農商務省に出品願書を提出した。

それに先立ち明治13年(1880)3月、平野富二は本木小太郎を活版、造船等の視察のためアメリカを経てイギリスに長期海外出張させており、当時、本木小太郎はロンドンに滞在していたとい見られる。

なお、出品願書を提出して3ヶ月後の明治18年(1885)4月に、築地活版製造所は本木家から独立して株式組織となり、有限責任東京築地活版製造所となった。平野富二が社長に就任し、本木小太郎は長崎新町活版所と大阪活版製造所の社長となった。

提出した願書には「出品目録」と「説明書」が添付されている。「出品目録」には次の2項目が記載されている。
第一号 活版見本   創業本木昌三、改良平野富二、製造本木小太郎 原価8円

第二号 同上印刷見本 同上                    原価1円

「説明書」は、築地活版製造所の便箋に手書きされたもので、末尾に追記された一文を除き、その全文は『史学協会誌』(第29号、明治19年1月、史学協会)に「活版事業創始の説明」として掲載されている。それは、片塩二朗著「本木昌造の活字づくり」(『ヴィネット04』、2002年6月、朗文堂)で紹介されている。その手書き原文は東京都公文書館に保管されている。

ここでは、手書き原稿により、その要点を箇条書きにして紹介する。
◆わが国には木板による製版と木駒による組版とがあるが、時間を要し、高価である。
◆本木昌三(注1)はオランダ書籍により西洋印刷術を知り、鉛字による漢文印刷術を上海で調査したが、手続きを怠ったため不成功に終わった。独自に研究の結果、電気メッキ版で母型を造り、手鋳込器械を用いて鉛活字を鋳造することを創始した。
◆嘉永5年(1852)の頃、蘭和対訳辞書(注2)を印刷してオランダに送ったのを初めとする。
◆当時は、この新技術が貴重なものであることを知る者がなく、逆に賎しむ有様だった。そのため、本木昌三は自分の財産を使い盡してしまった。

◆このとき、平野富二が本木昌三の志を賛助し、あらゆる面で計画を見直した。平野富二は、明治5年(1872)に東京に出て事業の拡張を計ったが、当初は販売の道が開けず、その苦労は本木昌三を上回った。
◆明治7、8年(1874、5)頃になって、新聞・雑誌類の発行が増え、布告類の活版印刷採用もあって、活字の販売高が増大し、利益をあげることが出来るようになった。その利益を資本として、活字の地金を厳選し、字体と大小を揃え、西洋文字・朝鮮文字・梵字などに至るまで揃えた。また、2、3年前から和文の再興が行われ、続き仮名活字を造り好評を得た。

◆この活版製造事業において、創業の功は専ら本木昌三にある。改良と弘売の功は平野富二の力が多大である。
◆明治5年(1872)中に東京で開業し、それ以来、明治17年(1884)までの販売高概数(注3)は次の通りである。なお、長崎と大阪の店の販売高は両店合計で東京店とほぼ同数となる。詳細は公表されている資料に譲るが、その概要は次の通りである。
明治5年は、7月中旬に神田和泉町に活版製造所を設営してから年末までの販売実績は個数244千個、重量6貫(1貫=3.75㎏)であった。
明治6年は2,773千個、257貫と個数で11.4倍、重量で42.8倍となり、明治7年はほゞ横ばいで、明治8年は4,554個、1,089千貫、明治9年には7,157千個、1,071貫と個数は年々大幅に増加した。
明治12年になると個数10,141千個、重量1,639貫、更に明治14年には個数15,811千個、重量2,262貫と驚異的な伸びを記録している。
明治17年までの実績合計は、個数107,589千個、重量164,508貫(616,905㎏)となっている。
◆第一回、第二回内国勧業博覧会に出品して賞牌を得た。

◆現在では全国500余の活版印刷所がわが社の製品を使用しており、2、3年前から上海・朝鮮にまで輸出するようになった。
◆わが事業がわが国の文明開化を誘導補助したことは疑うことはできない。しかし、わが国では未だ専売特許権の制度がないため、発明改良に苦労しても利益を得ることが少ない。それを盗み取って擬造・販売することで労せずに過分の利益を得ている。
◆活字の製造法や用法・効能などは西洋諸国と同じである。しかし、母型の製造法に違いがあり、西洋諸国は打込型であるのに対して、わが国ではガラフハニー(注4)型を用いている。(添付説明図は保存されていない。)
◆この鉛製活字は、従来の整版に較べて25~30倍の耐久性がある。
◆整版は急速の用には向かず、他の文章に版を転用することも出来ない。また、文字などを細かく出来ないので、印刷紙数が多くなり、書籍も高価となる。そのため、資力のない学徒は手写本に時日を費やしていた。
◆活版の採用により書籍の値段(注5)は1/2~1/5に下がるものがある。写本で伝わって来た奇書や大冊の書籍も活版印刷されるようになった。また、書籍の印刷発行が容易になったことから著述者を誘導し、その種類は10~15倍となった。
◆わが国が文明開化の進歩に向かう中で、直接または間接に成し遂げた功績については、長くなるので、説明を省略する。
◆追記として、日本文、中国文、欧文などの印刷に要する諸体の文字の販売、あるいは、印刷の引受を行うので、宣教師、その他東洋文字の印刷を希望する者はわが社に来訪されたい。

文中で注記番号を付した内容について、以下に補足する。
(注1):「本木昌三」について、通称は本木昌造であるが、ここでは明治5年(1872)に編成された戸籍上の名前で記している。

(注2):「蘭和対訳辞書」について、従来、福地櫻痴が執筆したとされる『印刷雑誌』の「本木昌造君の行状(前号の続)」の中で、「蘭和通弁の事を記せし一書」としており、それに基づいて研究者による詮索が行われ、それに相当する書物はオランダで発見することができなかったとされている。オランダで再調査すれば発見される可能性があるのではないかと思われる。
注3):「活字の販売高概数」について、明治5年の実績は年央からのもので、明治17年の実績は予測値と見られる。『史学協会雑誌』に掲載された説明書では重量を貫匁からポンドに換算しているが、その換算の過程で桁を誤って記載した箇所がある。
(注4):「ガルフハニー型」について、ガルヴァニー(galvanic)をオランダ語で表現したもので、「電気メッキ法により作成した型」を意味する。
(注5):「整版と活版の印刷物の価格差」について、ここでは学術本を対象にしているが、戯作本を例にとると、仮名垣魯文著『高橋阿伝夜刅譚』は、明治12年(1879)年に木版八編二十四冊本で1円だったのに対して、明治18年(1885)に活版一冊本で36銭だったという。

(6)第三回内国勧業博覧会
明治23年(1890)4月1日から7月31日の間、東京会場(上野公園内)で開催された。
出品人員77,432人、観覧人数1,023,693人、経費486,148円と記録されている。

出品は第一部:工業、第二部:美術、第三部:農業・園芸、第四部:水産、第五部:教育・学芸、第六部:鉱業・冶金術、第七部:機械 の7部門に区分された。

図29-3 第三回内国勧業博覧会場之図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

図右下にある表門内に第一東本館、第一西本館、第二~五館、機械館、
図中央の中門内に農林館、美術館、水産館、動物館、参考館が建てられた。
本館には工業、教育・学芸、鉱業・冶金術と工芸品、
参考館には諸外国の工芸品、美術品、天然物と邦人の特別出品が陳列された。
東京電灯がわが国最初の路面電車を走らせた。

印刷関係は、第一部の第十四類として「写真・印刷」、第七部の第四類として「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」に分類されている。この分野の審査は陽其二(製紙分社総括)が審査官主任を務めた。

「写真・印刷」(第一部第十四類)で褒賞を授与された出品者は、総数121人で、その内、東京府が58人、神奈川県が8人、大阪府が5人、京都府・兵庫県・長崎県が各3人を占めていた。その中で受賞者は総数33人の内、東京府が24人を占めていた。主な受賞者は次の通り。一等有功賞:写真 白金印書    東京府麹町区飯田町   小川一真
二等有功賞:活版印刷類 二面   東京府京橋区西紺屋町      佐久間貞一
三等進歩賞:活字組立板           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
三等有功賞:石版印刷物           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
褒状   :凸版                    東京府日本橋区兜町   陽其二

賞牌について上位から記すと、名誉賞牌(金造)、進歩賞牌(銅造、一等~三等)、妙技賞牌(銅造、一等~三等)、有功賞牌(銅造、一等~三等)、協賛賞牌(銅造、一等~三等)、褒状があった。

この印刷関係の審査報告概要では、「木版印刷は各種印刷物の過半を占め、専ら東京府の出品に属す。一は洋式の木版にして、もとより痂瑕なき能わずといえども、鮮明にして彫刻の労見るべし。一は本邦従来の方法に拠れるものにして、殊に雅致に富める所あり。東京府の出品にして活字を用いて上野公園入口の真景を填綴せるものは、その意匠の斬新たる本邦に於いてかつて見ざる所とす。又、紙型鉛版の如きは鋳造尋常なりといえども需要頗る広く、その製額変多し。」としている。

「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」(第七部第四類)で褒賞を授与された出品者は次の通り。
二等有功賞:活字鋳型              東京府赤坂区田町           大川光次
三等有功賞:十六片紙ロールマシン 大阪府東区北久太郎町  大阪活版製造所
褒状   :石版印刷機           東京府日本橋区本町        浅沼藤吉
同上   :活版印刷機           東京府京橋区常盤町   金津平四郎
同上   :活字額面              大阪府東区北久太郎町      大阪活版製造所
同上   :石版銅板彫刻機械 東京府日本橋区本町        杉浦六右衛門

博覧会に出品された印刷機は、前記の受賞出品以外に、東京府から水谷伊之助の活版器械(柏原栄太郎製造)があった。東京築地活版製造所の出品はなかった。大阪府から大阪活版製造所が受賞した十六片紙ロールマシン以外に半紙六枚摺ハンドプレスを出品し、会場に持ち込んだハンドプレスで自社の大判広告チラシを印刷、配布した。

図29-4  大阪活版製造所の広告チラシ
〈板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』、朗文堂、2011年9月〉

この広告は、会場に於いて半紙六枚摺ハンドプレスで印刷したものと見られる。
この広告の上段には四種類の印刷機械が描かれている。
右から活版印刷車輪機械 紙取付十六片紙摺 ロールマシン、
活版印刷車輪機械 八片紙摺 ロールマシン、
活版印刷手引機械 ハンドプレス、
活版印刷足踏機械 フートプレス
広告の下段右側には、活字各号見本が印刷されている。

審査報告として、「大阪府大阪活版製造所十六片紙(ロールマシン)は良く模造できたということが出来る。構造はよろしく、販売価格も低廉で、印刷された製品は殊に鮮明である。言うまでもなく、これに従事する職工の熟練、印肉の良質、活字の良品によることが少なくないとは言え、多年の経験により機械各部の構造が宜しくなければ、決して可能なことではない。」としている。

東京築地活版製造所は、明治23年(1890)1月に曲田成が社長に就任して間もなくの頃であった。本博覧会では「写真・印刷」部門で石版印刷物を出品して受賞しているが、すでに明治17年(1884)3月に印刷部を新設して、石版を含む印刷事業にも注力するようになっていた。

なお、平野富二の経営する東京石川島造船所は第七部「機械」、第六類「瓦斯・電気・汽力・風力等の発動機械及び汽缶」として舶用高圧蒸気機関を出品した。審査報告には「東京府石川島造船所 舶用高圧蒸気機関は構造・意匠とも程よく、各部はこれに比準してとても適当となった。しかし、造船所の規模が大きいことに比較して、この類の機械の出品が少ないのは残念である」とし、その出品に対して一等有功賞が授与された。

(7)コロンブス世界博覧会(シカゴ万国博覧会-1893年)
The World’s Columbian Exposition at Chicago, 1893
コロンブスの新大陸発見400年を記念してアメリカのシカゴで1893(明治26)年5月1日から10月30日まで開催された。その内容は科学技術の発展と工業への応用が中心となっていた。

わが国は宇治の平等院鳳凰堂を模した三棟から成る「鳳凰殿」と日本庭園を建設し、美術工芸品を中心に工業製品から園芸まで幅広く日本の文物を紹介した。このとき、東京築地活版製造所も出品を申請したが、明治25年(1892)5月5日付けで「閣龍(コロンブス)世界博覧会出品取消願」を東京府に提出して、出品を辞退している。

東京築地活版製造所は、社長曲田成の組織改革と業界活動の結果、経営は順調に拡大し、改正明朝活字や新製欧文活字を相次いで発売していた。

(8)第四回内国勧業博覧会
明治28年(1895)4月1日から7月31日の間、京都府岡崎公園に於いて開催された。
前年の明治27年(1894)には日清戦争が勃発したが、京都の遷都1,100年の記念事業として運営された。出品人員は73,781人、観覧人数は1,136,695人、経費27,256円と記録されている。

展示館としては、美術館、工芸館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館が主要なものであった。機械館の動力源が石炭から電力に替わり、会場外では、わが国初めての市街電車によって京都~琵琶湖疎水のほとりまでを連絡した。

印刷関係の出品区分は、第一部「工業」の第三類「写真・印刷」の中に其一「写真・幻燈画並びに其の器具」、其二「印刷物・其の用具」があり、さらに、第七部「機械」の第四十九類「製造機械」の其四「製紙、印刷、製本、活字、文具、‥‥等の機械」として2分野にまたがって区分されている。

「印刷物・印刷用具」(第一部第三類其四)については、東京府から東京築地活版製造所が「活字」を出品し、名誉賞銀牌を授与された。その審査評によると、「故本木昌造の遺志を継ぎ、活字鋳造、製版、印刷の業を営み、早くからその名声を海内に博し、功績顕著で、斯業の模範と為すに足りる」としている。

なお、東京築地活版製造所は、前年の明治27年(1894)10月16日に社長曲田成が姫路に出張中に脳溢血で客死し、代わって名村泰蔵が専務取締役社長に就任した。支配人は野村宗十郎が曲田社長時代に引続き支配人を務めていた。明治28年(1895)1月には、東京築地活版製造所から『座右の友(第二)』を発刊している。

東京築地活版所は、博覧会の開催に合わせて、明治28年(1895)3月、『印刷雑誌』に「改正明朝活字発売の広告」を掲載して、「第四回内国勧業博覧会の開催に際し、弊社改正文字発売の緒に就きたるを以て、其の会場の当日、すなわち本年四月一日より、三号明朝活字、五号明朝活字、六号明朝活字および新たに製造するところの三号楷書の4体を更に発売せんとす」としている。

「印刷機械」(第七部第四十九類其四)については、大阪府から大阪活版製造所の印刷車機械、森川松之助の足踏印刷機械、加藤駒蔵の活字製造機械、中島幾三郎の印刷機械が出品され、東京府からは杉浦六右衛門の写真版印刷機械が出品された。
大阪活版製造所出品の「印刷車機械」について、審査報告では「手本を海外に採るとは言え、着々と改良を施し、構造は堅牢で、製作は佳良である。製品も鮮明に印刷でき、充分実用に適している」としている。

東京築地活版製造所は、印刷機械の製造を大阪活版製造所に委託していたので、出品はなかった。

(9)第五回内国勧業博覧会
明治36年(1903)3月1日から7月31日の間、大阪府天王寺今宮の天王寺公園で開催された。出品人員は130,416人、観覧人数は5,305,209人、経費1,066,611円と記録されており、最後にして最大の内国勧業博覧会となった。

展示館として農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館の外に台湾館、参考館が建設された。第二会場として堺に水族館も建てられた。

出品は第一部「農業及園芸」、第二部「林業」、第三部「水産」、第四部「採鉱及冶金」、第五部「化学工業」、第六部「染織工業」、第七部「製作工業」、第八部「機械」、第九部「教育、学術、衛生及経済」の9部に分類された。

印刷関係の出品は、第八部の第四十六類「印刷機械」(其一「製版機械」、其二「印刷機械」と、第九部の第五十三類「写真及印刷」(其一~其十の内、其五「活字、活版、字母」、其六「整版、印刷器具、用品」、其八「印刷物」)に区分されている。

「印刷機械」(第八部)については、東京府から前田義胤が印刷機械、浅沼藤吉が汽動力石版印刷機械、全紙用写真版印刷機械、四つ切用写真版印刷機械、鉄葉版印刷機械、三色版用印刷機械、銅板用印刷機械の6機種、大阪府から中島幾三郎が四六判半裁石版印刷機、四頁形便利印刷機の2機種、浪花活版製造所が活版印刷機械四頁足踏ロール、坂本辰三郎が石版印刷器械を出品した。

活字」(第九部)については、東京築地活版製造所が、9ポイント活字約3,000個、その他サイズのポイント活字10種5,60個を出品し、名誉銀牌を授賞した。
このころ、東京築地活版製造所では社長名村泰蔵の下で支配人となっていた野村宗十郎がポイント活字の普及に努めていた。

この博覧会での受賞を記念して、同年11月1日、東京築地活版製造所は、それまでの集大成として『SPECIMEN BOOK OF TYPES 活字見本』を印刷し、関係者に贈呈した。しかし、この活字見本には内国勧業博覧会に出品した9ポイント活字は、まだ、掲載されていない。顧客の要求に即応できる社内態勢が充分整っていなかったものと推察される。

図29-5 明治36年11月版『活版見本』の表紙
〈旧板倉文庫所蔵、板倉雅宣著『活版印刷発達史』より〉

この明治36年11月版『活字見本』は、
468×182mm、468ページの大冊で、
明朝体、楷書体、平仮名、片仮名、各種装飾書体(色刷見本を含む)、
ゴチック、竪平型、梵字、朝鮮文字などから成る。

(10)その他の地方博覧会
国が主催した内国勧業博覧会は明治36年(1903)の第五回を以て終了した。それ以降は各府県あるいは関係団体主催による博覧会が開催された。東京築地活版製造所は下記の各博覧会に活字等を出品して受賞している。

1)東京勧業博覧会
明治40年(1907)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池畔(第二会場)、帝室博物館西側竹の台(第三会場)に於いて開催された。本博覧会は、もともと、明治40年(1907)に政府主催の第六回内国勧業博覧会の開催を予定していたが、日露戦争の勃発で財政悪化のため代わって東京府主催で開催されたものである。

東京築地活版製造所(社長名村泰蔵)は仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。取締役支配人の野村宗十郎は同博覧会の審査を嘱託された。

2)東京大正博覧会
大正3年(1914)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池周辺(第二会場)に於いて開催された。

東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「活字類」は名誉大賞牌を授賞した。なお、社長野村宗十郎は博覧会商議委員に就任した。

3)平和記念東京博覧会
大正11年(1922)3月10日から7月31日まで、東京上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「各種活字類」は名誉大賞牌を授賞した。

4)大礼記念関連の地方博覧会
・大礼記念国産振興東京博覧会
昭和3年(1928)3月24日から5月22日まで、東京商工会議所主催により上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長松田精一)は国産優良時事賞を受賞した。

・ 東北産業博覧会
昭和3年(1928)4月15日から6月3日まで、仙台商工会議所主催により仙台市川内東西両公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・御大典奉祝名古屋博覧会
昭和3年(1928)9月15日から11月30日まで、名古屋の鶴舞公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・大礼記念京都大博覧会
昭和3年(1928)9月20日から12月25日まで、京都の岡崎公園(東会場)・京都刑務所跡地(千本丸太町、西会場)・恩賜京都博物館(南会場)に於いて開催された。東京築地活版製造所は国産優良名誉大賞牌を授賞した。

なお、東京築地活版製造所は、1)の東京勧業博覧会の時は第四代社長名村泰蔵、支配人野村宗十郎であったが、2)と3)の東京大正博覧会と平和記念東京博覧会の時は第五代社長野村宗十郎、4)の大礼記念博覧会の時は第六代社長松田精一により出品された。

ま と め
前回の(その1)では、その最初として1867(慶應3)年に開催されたパリ万国博覧会で渡仏した清水卯三郎が「フランスみやげ」とした石版印刷機と足踏印刷機について紹介し、1876(明治9)年にアメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会と明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会に出品した活字と印刷機について紹介した。

今回は(その2)として、明治11年(1878)9月に平野富二が本木小太郎に築地活版製造所の経営を返還・移譲し、本木小太郎の後見人となって以降について紹介した。

明治14年(1881)に第二回内国勧業博覧会が開催され、本木小太郎の名前で各種印刷機と各種活版、字見本帖を出品した。また、1885(明治18)年にはロンドン万国発明品博覧会には平野富二が本木小太郎の代理として活字見本と活版印刷見本を出品した。

明治18年(1885)4月、有限責任の株式組織として本木家から独立した東京築地活版製造所は、平野富二を初代社長に選任した。明治22年(1889)6月になって平野富二は社長を辞任して、第二代社長は空席のまま、本木小太郎が社長心得となった。以後、平野富二は東京石川島造船所の経営に専念して、自ら東京築地活版製造所の経営に関与することはなかった。この間、明治23年(1890)に開催予定だった第三回内国勧業博覧会の出品準備が行われたが、博覧会開催は曲田成が社長に就任した後のことである。

明治23年(1890)1月、本木小太郎の辞任により、曲田成が第三代社長に就任した。野村宗十郎は社長曲田成の下で明治25年(1892)8月に副支配人、明治26年(1893)8月に支配人となった。この間、明治23年(1890)4月から第三回内国勧業博覧会が開催され、東京築地活版製造所から活版組立板と石版印刷物が出品された。また、大阪活版製造所から十六片紙ロールマシンと活字額面が出品され、会場内で活版印刷機の図入り広告が印刷、配布された。

明治27年(1894)10月、社長曲田成の病死により名村泰蔵が第四代社長に就任した。この間、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会では改正明朝体活字を出品、明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会ではポイント活字を出品して名誉銀牌を授賞、明治40年(1907)の第六回内国勧業博覧かに代わる東京勧業博覧会では仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。

明治40年(1907)9月、名村泰蔵の病死により支配人野村宗十郎が第五代社長に就任した。大正14年(1925)4月、野村宗十郎の病死により松田精一が第六代社長に就任した。
この間、府県庁またはその関係団体主催の各種博覧会に活字を出品して名誉賞を受賞している。

東京築地活版製造所は、業界の老舗でリーダーであったことから、出品した活字・活版については毎回、何らかの賞牌を授賞している。しかし、印刷機については、途中から自社内での製造を中止し、大阪活版製造所に委託したことから、機械分野での出品は見られなくなった。一方、明治17年(1884)から社内に印刷部を新設して印刷事業に本格進出し、石版印刷に力を注いだことから、石版印刷物の出品で受賞するようになった。

本稿では、平野富二が関わった博覧会の出品については詳しく述べたが、それ以降の博覧会については概要を述べるにとどまった。国立国会図書館には博覧会関係資料が数多く保管されており、それらは「国立国会図書館所蔵博覧会関係資料目録」(『参考書誌研究』、第44号、1994.8、国立国会図書館発行)に掲載されている。参考になる筈である。

2020年1月28日

国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

まえがき
明治維新まで17年前の1851(嘉永4)年、ロンドン万国博覧会が開かれたのを契機として、欧米の首都・商都を中心とした万国博覧会が相次いで開かれるようになった。

わが国が国家として最初に参加した万国博覧会は、幕府時代の1867(慶應3)年にフランスで開催されたパリ万国博覧会だった。この頃、本木昌造は長崎奉行所の支配定役格として長崎製鉄所の経営に苦心しており、一方、平野富二は土佐藩に雇われ小型蒸気船を乗り回しており、印刷事業とは無縁であった。
しかし、江戸商人としてこの万国博覧会に出品参加した清水卯三郎は、書籍の出版・販売にも興味を持っていたことから、フランスみやげとして持ち帰った中に活字母型・印刷機類があった。

パリ万国博覧会から9年後の1876(明治9)年に、アメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会に平野富二は活字・紙型等の各種見本を出品した。本木昌造は前年に死去し、平野富二による築地活版製造所の経営はその確立を目指して新たな発展を遂げていた。
この万国博覧会には、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌が政府事務官として現地に派遣された。このことが平野富二の出品の動機となったと見られる。
平野富二の出品物の中には急いで作成された活字見本帳『活版様式』があったと見られる。また、初めて国産化した小型手引印刷機も含まれていた可能性がある。

明治10年(1877)にわが国最初の内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。平野富二は宿願の造船事業に進出した直後であったが、築地活版製造所製の鉛版活字が平野富二の名前で出品された。このとき、明治10年版とされる本格的な活字見本帳が作成されたが、出品に間に合ったかどうかは定かでない。また、国産化した手引印刷機の出品があって当然であるが、平野富二の名前はなく、他者の名前で出品されたらしい。

その後に引続き開催された内国勧業博覧会や海外の万国博覧会での活字・印刷機の出品については次回「その2」で紹介する。

(1)1867年のパリ万国博覧会 L’Exposition du Paris, 1889
博覧会の概要
慶應3年(1867)1月11日、徳川昭武と随行使節団らは、横浜に碇泊中のフランス郵便「アルヘー号」に乗り組み、フランスに向けて出港した。パリ万国博覧会に参加するため清水卯三郎と従者も同行していた。同年2月29日にマルセイユで上陸し、3月6日、列車でリヨンを経由し、翌7日、パリに到着した。

パリ万国博覧会は、慶應3年2月27日(西暦1867年4月1日)から10月8日(西暦11月3日)まで開催され、一般公開は3月27日(西暦5月1日)からであった。会場はセーヌ河畔のシャン・ド・マルス広場(現在のエッフェル塔広場周辺)で、40ヘクタールを超える敷地に巨大な楕円形陳列会場を建設し、その両側に各国がパビリオンを構えて名産を販売、飲食を提供した。

図28-1 パリ万国博覧会のシャン・ド・マルス会場図
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』,思文閣出版、1985年3月、

原典:Reports of the United States Commissioners
to the Paris Universal Exposition 1867〉
セーヌ川の左岸(図の右端)に面したシャン・ド・マルス広場の中央に
長径530m、短径400mの長円形リング状の主会場が建てられた。
日本の出品区は、日本・シャム(タイ)・中国と共用しており、
日本は91㎡、シャム48㎡、中国73㎡であった。
この共用区は、図の上半部中央右寄りに位置し、会場全体の1%にも満たない。
その近くのアフリカ通りに面してアメリカ出品区がある。
清水卯三郎はこのアメリカ出品区で足踏印刷機を見付けたと見られる。
主会場の左右に各国パビリオンのある庭園が設けられた。
1889年の万博ではセーヌ河寄りの庭園部分にエッフェル塔が建てられた。

慶應元年(1865)3月、幕府は、駐日フランス公使ロッシュからパリ万国博覧会参加を勧められて、将軍徳川慶喜の名代として実弟の徳川昭武をヨーロッパに派遣し、パリ万国博覧会に参加するとともに、条約締結国を歴訪させることとした。

清水卯三郎の参加
博覧会参加については、幕府が諸藩と江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎(38歳)が手を挙げた。幕府は清水卯三郎に博覧会出品蒐集係を命じ、幕府の出展品189箱と清水卯三郎が集めた157箱は、慶應2年(1866)12月14日、先発隊が搭乗した「アゾフ号」で品川沖から発送された。

図28-2 晩年の清水卯三郎
〈清水連郎著「瑞穂屋卯三郎のこと」、『新旧時代』、大正14年12月〉

清水卯三郎(1829~1910)は、現在の埼玉県羽生市で郷士の家に生まれた。
蘭方医佐藤泰然と蘭学者箕作秋坪からオランダ語を学び、
アメリカ公使館書記官ポートマンに日本語を教える代わりに英語を学んだ。
万延元年(1860)に『ゑんぎりしことば』上・下巻を発刊。
文久3年(1863)にイギリス艦隊の旗艦「ユリアラス号」の通訳となり、
薩英戦争で捕虜となった松木弘安と五代才助を横浜で救出した。
幕府御用医師箕作秋坪から勧められてパリ万博に江戸商人として出展した。

パリに到着した清水卯三郎は、連れて来た大工に日本で加工した檜材を組立させて、数寄屋造りの水茶屋を博覧会場内に建てた。開会中、江戸柳橋の3人の芸者がお茶をたて、酒を注いで来訪者をもてなして評判を呼んだ。閉会後、出展物の販売など、残務整理を終えた清水卯三郎は、イギリス経由でアメリカに渡り、明治元年(1868)5月7日、1年4ヶ月ぶりに帰国した。

清水卯三郎は、フランス渡航に際して書家の宮城玄魚に平仮名の版下を依頼し、フランスで活字の字母を作製依頼して持ち帰ったと伝えられている。また、フランスで石版印刷機を購入し、博覧会に展示されていたアメリカのゴードン社製足踏印刷機の精巧さに驚き1台を発注し、イギリスとアメリカを経由して帰国した。

欧米視察から帰国した清水卯三郎は、浅草森田町に店舗を開いて「瑞穂屋卯三郎」と称し、西洋洋書、器具類、薬種類の販売を行い、かたわら石版印刷術を試みた。明治2年(1869)3月20日、浅草森田町から『六合新聞』を創刊したが、新聞紙印行条例に触れて第7号(4月7日)で廃刊となった。

明治2年(1869)の内に自分の店「瑞穂屋」を浅草森田町から日本橋本町3丁目20番地に移し、これまでの業務であった西洋書籍・器械類・薬種類の輸入・販売に加えて、書籍類の出版・販売を主要業務とした。

清水卯三郎の輸入した印刷機
フランスから持ち帰った石版印刷機を瑞穂屋の店頭に置いていたところ、福地桜痴の揮毫による書画会の案内状を印刷するよう依頼され、全く同じ印刷が出来て皆を驚かせたという。『中外新報』(明治2年9月17日)によると、その標語は、「明治二年己巳九月初三日 江戸貧士 桜痴泥隠福地 萬世尚甫氏撰幷書」であったという。

アメリカのゴードン社から輸入した足踏印刷機については、初めに試用しただけで自分では活用しなかった。フランスで造って貰った平仮名字母を使用して活字を鋳造することもなかったという。
条野伝平が『東京日日新聞』を創刊するに当たって、瑞穂屋の足踏印刷機に眼を付けたが、資金不足のため、これを借りることになった。しかし、持ち出しの許可が得られないため、瑞穂屋に通ってその店頭で新聞を摺らせてもらった。条野伝平は、やがて、この印刷機を750円で買取ったという。

『東京日日新聞』は、明治5年(1872)2月21日に創刊されたが、当初は木版摺であった。第2号(2月22日付)から鉛活字により日本橋本町3丁目の瑞穂屋卯三郎の店にあった足踏印刷機を使って印刷を目論んだものの、漢字活字が足りず、第12号(3月2日付)から、再び、木版摺りとなった。第118号(7月2日付)から木刻活字となり、第304号(明治6年3月2日付)から鉛活字となった。しかし、第540号(明治6年11月24日)からは平野富二から購入した5号活字となった。

この第2号から第11号までの新聞印刷に使用された鉛活字は耕文書館製と見られる。耕文書館は、岸田吟香の勧めで上海に渡航した熊谷金次郎が、上海美華書館で活版印刷と活字製造の技術を修得して帰国し、蠣殻町三丁目に活字鋳造擦立所を開設し、同年5月から営業を開始した。
第304号からの鉛活字は工部省勧工寮活字局製と見られる。工部省勧工寮活字局は、明治6年(1873)4月と6月に工部省勧工寮活字局は新聞広告を出して活字の一般向け販売をおこなった。勧工寮活字局は、明治6年(1873)11月9日に製作寮活字局となり、明治7年(1874)8月になって正院印書局に統合された。

清水卯三郎が別途輸入したと見られる他の1台の足踏印刷機は、平野富二がこれを買取り、これを手本にして模造し、国産化を行なった。その国産化を果たした時期は不明であるが、明治10年版とされる『BOOK OF SPECIMENS』に掲載された広告文の中に「足業印刷器械」が含まれている。

(2)フィラデルフィア万国博覧会 The Centennial Exposition, Fairmount Park, Philadelphia.USA
博覧会の概要
明治9年(1876)5月10日から11月10日までアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。

図28-3 フィラデルフィア万国博覧会の会場平面図(部分)
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851~1942』、図30、p.40,

原典:Frank Leslie’s Historical Resister〉
アメリカ建国100年を記念して
フィラデルフィア郊外のフェアモント公園で開催された。
図の下部の大型建物の内、右側が本館、左側が機械館である。
その上部に描かれた広大な公園内に美術館や農業館などが建てられ、
参加各国と共に日本村や日本政府館・売店が設けられた。
わが国では「米国博覧会」、「米国費府博覧会」と記している。
「費府」は「費拉徳費府」の略で、フィラデルフィア府を示す。

アメリカ政府からの参加招請に応じて日本政府が正式に参加を決定したのは明治7年(1874)10月30日のことであるが、すでに同年6月には出品布告がなされていた。
博覧会事務局は、当初、太政官正院の管轄であったが、明治8年(1875)3月31日に内務省勧業局に移管され、事務官が任命された。総裁は内務卿大久保利通、副総裁は西郷従道で、事務官の一人として吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)が任命されている。

わが国の出品物は、博覧会事務局により第一大区「鉱業・冶金術」、第二大区「製造物」、第三大区「教育・知学」、第四大区「美術」、第五大区「機械」、第六大区「農業」、第七大区「園芸」の7区分とされた。活字や印刷物は第三大区に含むものとされ、主展示会場の日本コーナーに展示された。

図28-4 日本コーナーの展示
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』、思文閣出版、1985年3月、

原典:The Masterpieces of the Centennial Exhibition Illustrated〉
主展示会場内に設けられた日本コーナーで、
日の丸の国旗と「帝国日本」の額が掲げられている。
「製造物」に属する陶磁器などの工芸品が中心で、
「教育・知学」に属する印刷関係は、ここには描かれていない。

実際にわが国から出品された点数は総計1,966点で、「製造物」が1,067点で、陶磁器を主体とした工芸品が多くを占めた。「美術」、「農業」の出品物も多かったが、機械会場に展示される「機械」の出品は無かった。したがって、印刷に関する機器類の出品は「教育・知学」として主展示会場内の日本コーナーに展示されたと見られる。会場外には日本家屋の日本館と茶屋、売店が建てられ、「教育・知学」の出品物として扱われた。

平野富二の出品
国立公文書館所蔵の「記録材料」として『米国博覧会報告 第二 明治九年』がある。それに含まれる「出品職工人名表」の自費出品之部の中に「出品物 鉛錫活字、出品主 東京 平野富二、職工 東京 桑原安六」と記録されている。これにより、平野富二は政府の勧奨に応じて鉛錫活字を自費出品したことが分かる。

また、「日本出品区分目録」にも本館展示の第三大区「教育及び知学」、第三百六小区「書籍及び新聞紙等」の中の第三十六号として「出品主 東京築地 平野富二 活字紙型等の見本各種」と記録されている。さらに、「出品原價表」に「活字 五一、三一三 東京府下平野富二」として出品物の原価が表示されている。この原価表示は51円31銭3厘を意味すると見られる。

平野富二に割り当てられた出品番号の前後には、文部省などからの書籍・新聞類の出品が記録されている。平野富二と類似の活字等の出品は見当たらない。

なお、『米国博覧会報告 第一』に「米国博覧会報告書 日本出品解説」がある。主要な出品に限って解説しているためか、第三百六小区の出品物に関する解説は見当たらない。
また、第五大区「機械」の展示として第五百四十小区から五百四十九小区に「印刷製本紙工等ノ機械」が割り当てられているが、そもそも「機械」として機械館に展示する日本からの出品はなかった。

展示会場としては、本館・美術舘・機械舘・農業舘・園芸舘の五舘があり、本館には「鉱業・冶金術」、「製造物」、「教育・知学」が、美術館には「美術」、機械館には「機械」、農業館には「農業」、園芸館には「園芸」が展示された。本館内の日本に割り当てられた第三区ブースは、館内の南側で、西側入口近くであった。

活字見本帳と手引印刷機の出品(考察)
平野富二が鉛錫活字・紙型等の見本各種を出品したことは明記されているが、この見本各種の中に活字見本帳『活版様式』と手引印刷機1台も含まれていた可能性はある。

活字見本帳『活版様式』は、この万国博覧会に合わせて作成されたものと見られる。ハードカバーをめくった扉ページに隷書で「活版様式」とあり、それに続いて事務所と正門を描いた線刻絵図に「1876」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-5 明治9年版活字見本帳の扉ページ
〈板倉雅宣著『活版印刷発達史』、印刷朝暘会、2006年10月〉

この明治9年版活字見本帳は板倉文庫旧蔵のものである。
活字摺見本に書体名の表示はないが、必要とされる各号サイズを揃え、
漢字は明朝・楷書・行書の3種、
平仮名は変体、扁平、上下接続の3種と含み、
片仮名はフリガナ用の7号まである。
その後にStand Pressとして手引印刷機の絵図が掲載されている。

手引印刷機については、活字見本帳『活版様式』に「Stand Press」として絵図が掲載されている。また、川田久長著『活版印刷史』(簡装版)によると、「その博覧会を見物に行った中国の李圭(リー・コイ)が、彼の旅行記の一節に、もとの西洋の機械よりも、立派にできていると大いに日本製の印刷機をほめている」としている。
平野富二の出品物原価51円余りの内、活字紙型と見本帳の原価は他の例から見て10円程度と見られるので、残りの40円程度は手引印刷機である可能性がある。当時の小型手引印刷機の国内における定価は100円とされていた。

図28-6 見本帳に掲載の小型手引印刷機 Stand Press
〈明治9年版活字見本帳『活版様式』、活版製造所 平野富二〉

この手引印刷機は平野富二が初めて国産化した印刷機と見られる。
これと同じ絵図が、
明治6年(1873)2月官許の『万国綱鑑録和解』に
「活字印刷機械之図 東京築地 平野富二製造」として掲載されている。

平野富二がこのフィラデルフィア万国博覧会に鉛錫活字を出品することになった経緯については良く分かっていないが、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌の存在を見逃す訳にはいかない。

政府事務官として渡航した吉雄永昌
吉雄永昌は、長崎のオランダ通詞出身で、吉雄辰太郎と称していた。品川藤十郎や吉雄圭斎とは祖先を同じくする遠い親戚である。明治になって大蔵省出仕を命じられて上京し、明治4年(1871)の岩倉米欧使節団に随員として参加した。明治9年(1876)には事務官としてフィラデルフィア万国博覧会に関わり、アメリカに渡航している。

平野富二が、築地二丁目に官庁に依頼して新築した煉瓦造二階建事務所の代金支払いに当たって、明治6年(1873)12月に月賦納付を申請したとき、吉雄永昌はその保証人となっている。おそらく品川藤十郎を通じて面識を得たと推測される。その後、吉雄永昌は、築地活版製造所が株式組織に改組されるときに株主の一人となり、後年、その息子吉雄永寿は東京築地活版製造所の専務取締役に就任している。

平野富二は、渡米した吉雄永昌を通じて、アメリカ印刷界の最新情報入手と、金子を渡して活字見本帳や参考資料の購入を依頼したと見られる。

(3)第一回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治10年(1877)8月21日から11月30日までの会期で東京の上野公園内(寛永寺本坊跡)に於いて第一回内国勧業博覧会が開催された。この博覧会の出品物展示として、会場正面に美術本館、西側に西本館、機械館、園芸館、東側に東本館、農業館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上に大時計が掲げられた。

図28-7 第一回内国勧業博覧会場略図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

寛永寺旧本坊表門だった観覧人入口を入ると、正面に美術館がある。
会場の東側(画面右側)に農業館と東本館、
西側(画面左側)に園芸館と機械館、西本館が建てられ、奥に動物館がある。

出品物は第1区:鉱業・冶金、第2区:製品、第3区:美術、第4区:機械、第5区:農業、第6区:園芸に区分され、府県別に陳列された。出品点数は8万4千点で、出品人員は1万6千人、会期中の観覧者数は45万人だった。審査によって優秀な出品物には一等(龍紋賞牌)、二等(鳳凰紋賞牌)、三等(唐草文賞牌)が授与された。

平野富二による鉛版活字の出品
平野富二は、築地活版製造所で製造した楷書・仮名等の鉛版活字を出品し、鳳紋賞牌を授与された。そのときの審査官長前島密らの褒状薦告には、「楷書及ビ假名等活字ノ鑿品字體整美ニシテ頗ル精巧ナリ。右ノ事項ニ因リ鳳紋賞牌ヲ附與アランコトヲ申請ス」とある。これにより内務卿大久保利通が授与を決済している。

鉛版活字と共に活字見本帳も出品したと見られる。しかし、平野家に所蔵されている明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(MOTOGI & HIRANO、Tsukiji Tokio. Japan)には、その刊記に年月日の表示はない。英文刷見本の中に「Tokio, Dec. 5th, 1877」と書いた例文があり、この日付は博覧会が閉会した後のものである。

したがって、平野富二は、第一回内国勧業博覧会に最新の活字見本帳を出品することを意図していたが間に合わず、代わりに明治9年版『活版様式』と明治10年(1877)4月に刊行された四号明朝体活字見本『活字摘要録 全』が展示した可能性がある。

当時、造船事業で建造中の洋式帆船をキャンセルされた平野富二は、顧客との折衝と折から勃発した西南戦争の動向把握のため、大阪に出張した。滞在1ヶ月で持病再発の兆しがあって帰京し、6月末から草津温泉で療養している。このような事情で、博覧会の準備に充分な時間をとる余裕がなかったと見られる。

明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』は、サイズ228×169ミリメートル、片面印刷111枚綴りのハードカバー本である。その見開きページに築地活版製造所の正門と煉瓦家屋の木口木版と見られる絵図(明治9年版と同じ)が単独で印刷されている。これに続いて、内表紙として「BOOK OF SPECIMENS」と題したページと、「THE Printers’ Handy Book of SPECIMENS」と題したページがある。この2枚のページには本木昌造の紋章である「丸も」と平野富二を示すドイツ文字「H」を組み合わせたマークが示されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-8 活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』
〈平野ホール所蔵〉

この2枚の表題には出版年が記されていない。
明治9年版と比較すると内容が充実し、分厚いものとなっている。
103ページに「Hand Press」として、
明治9年版で「Stand Press」として掲載された絵図がある。
5ページの広告にある3種類の活版印刷機は、
明治12年版の活字見本帳に絵図が掲載された。

続いて広告のページがあり、その中に「活字製造円形の活版摺器械」と「手業ならびに足業活版摺写押器械類」が含まれている。つまり、「円形」、「手業」、「足業」の3種類の印刷機の国産化を行ない、販売に供していたことが分かる。

本文は、漢字・仮名文字見本20ページ、各種洋文字見本24ページ、各種花文字見本39ページ、各種カット絵図17ページ、各種活版印刷用具類絵図5ページによって構成されている。103ページには「Hand Press」としてアルビオン型小型手引印刷機の絵図が掲載されている。この絵図は、明治9年版『活版様式』に「Stand Press」として掲載された絵図と同一である。

印刷機の出品
野村長三郎(東京府南茅場町)と加藤復重郎(浅草森田町)がそれぞれ印刷機を出品している。しかし、平野富二は、すでに3機種の印刷機を販売に供していたが、その名前による博覧会での出品はなかった。

野村長三郎が出品した印刷機(第六十三図として絵図がある)は、いわゆるアルビオン形手引印刷機で、その出品解説を現代文に直して紹介すると次のようになる。

第六十三図は、外国から輸入した印刷機を摸造したものである。原型に従って木型を採り、それより砂型を造り、西洋産の生鉄を用いて左右の鉄柱と上下の鉄部などを鋳造した。それに附属する部品は鍛造の上、ヤスリで仕上げた。
活字組版を(イ)に示す木枠内に置く。別置した(ロ)に示す台上でインキを均一に塗布したローラーを用いて活字組版の上面を転がしてインキを塗布する。印刷する用紙を(ハ)に示す紙挟みに取付け、活字組版の上にかぶせる。(紙挟みと活字組版を載せた)枠台を圧板の下に移動させて、(ニ)に示すハンドルを引いて圧板を降下させ、押圧して用紙に印刷する。

図28-9 野村長十郎出品の印刷機絵図
〈内国勧業博覧会事務局『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

手引印刷機とインキ台を示す絵図である。
出品解説に示す符号は判読できないが、
(イ)は印刷機本体の右にある一本支柱の上にある枠を示す。
(ロ)は右手に別置されたインキ台、
(ハ)は印刷機本体の右端に立てかけられた貼子、
(ニ)は印刷機本体に取り付けられたハンドルを示す。
この絵図をコピーして符号を除き、部分加筆と削除を行った絵図が
明治12年版活字見本帳に「活版手業機械」として掲載されている。

それに続く明細表によると、「製額」は10個で1,730円、「創製年歴」は明治9年(1876)7月、「工名地名」は伊藤常次郎 東京府南茅場町、「出品人名」は野村長三郎 となっている。しかし、後に正誤表により「工名地名」の名前と住所は削除された。

板倉雅宣氏によると、「野村長三郎は神澤社を持ち、南茅場町14番地に住んでいた。明治10年(1877)1月19日に、『仮名旁訓公布日報』を出版するため太政官に謄写を申し出て許可を得ている。彼はこの本を印刷するために手引印刷機を創製したのである。」とある。

しかし、野村長三郎が、自身で出版のために印刷機1台を外国から輸入したかも知れないが、それを基に10台も模造したとは考えられない。

出品解説の絵図は、内務省製品図面掛によって作成された線刻銅板画であるが、平野富二の活字見本帳(明治12年6月発行)に掲載されているPrinting Hand Press (活版手業機械)の絵図と酷似している。これは、出品解説の絵図を手本として、図中の符号を削除するなどして作成されたと見られる。野村長三郎と平野富二との関係についての考察は後に述べる。

加藤復重郎の出品した印刷機は、木材と鉄板等を用いて造った簡単な手動式ロール印刷機で、活字組版を水平台上に載せ、組版の上を手動でローラーを往復させる構造となっている。これは、明治7年(1874)に海外から輸入された印刷機を参考とし、考案・工夫して作成したもので、明治8年(1875)に印刷所を設けて自家用として使用したと述べている。

図28-10  加藤復重郎出品の手動式ロール印刷機
〈内国勧業博覧会事務局編『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

当時、このような簡易印刷機が輸入されていたことが分かる。
本図は単に参考として示したもので、機構の説明については省略する。

加藤複重郎は、明治6年(1873)5月、浅草に加藤活版所を設立し、明治14年(1881)2月に「活版印刷営業組合設立願」が東京府知事に提出されたとき、その一員に加わっている。加藤復重郎については、津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』に、「わが国最初の鉛版師」としてその経歴が紹介されている。

博覧会への出品とは別であるが、日報社(総代條野伝平)は博覧会の機械館内に印刷機を持ち込み、『東京日日新聞』の付録として、日々の景況、場内の遺失物、出品物の売上高を印刷し、無料で配布した。これにより、来会人に知識を開かせることにもなるとした。

平野富二が印刷機を出品しなかった理由(考察)
この博覧会には、平野富二の名前で鉛版活字が出品されたが、活版印刷機の出品はなかった。その理由は明らかではないが、博覧会開催直前の明治10年(1877)2月中旬に勃発した西南戦争により、それを報じる新聞の発行部数が急増したため、各新聞社で活版印刷機の増設需要が高まり、平野富二は出品できる活版印刷機が手元に皆無となってしまったと推察される。

平野富二は、明治9年(1876)に美濃二枚刷の大型手引印刷機の国産化を行なって、四国徳島の普及社に納入している。普及社は同年4月21日に『普通新聞』(タブロイド判二つ折り)を創刊している。タブロイド判は美濃二枚のサイズに相当する。

以下は推測にすぎないが、平野富二は、すでに国産化した手引印刷機が小型のため顧客の要求に対応できないことから、海外から輸入された大型手引印刷機を入手し、これを分解してスケッチし、図面化した。明治8年(1875)11月に友人の杉山徳三郎が横浜製鉄所を借用して機械製造を開始したことから、まず手始めに10台の製造を杉山徳三郎に依頼し、完成したものから順次、引き合いに応じて販売に供した。その中に四国普及社と野村長三郎に納入したものが含まれていた。平野富二は、明治9年(1876)5月になって横浜製鉄所の事業に出資して経営に加わっている。

明治10年(1877)2月に西南戦争が勃発し、その戦況を報道する新聞の発行部数が急激に伸びた。そのため、平野富二が製造した大型手引印刷機は、第一回内国勧業博覧会に出品する予定の製品も含めて、たちまち売り切れてしまった。その対応として、野村長三郎に依頼して先に納入した印刷機を所有者野村長三郎の名前で出品してもらったのではないだろうか。その間、野村長三郎には代替として輸入機を提供して便宜を図ったと考えられる。

野村長三郎の名前で出品したことについては、平野富二は、当時、即納を要求された顧客に対して販売できる活版印刷機が手元に一台も無いとして断っていた手前、自分の名前で出品することが出来なかったのではないだろうか。また、届け出た製造者名と住所については、出入りの業者の了解を得て、その名前と住所と使用したが、事実でないことが判明したことから削除されたと見られる。

府下縦覧工場として指定
この勧業博覧会の開場中、府下縦覧工場として19工場を指定して希望者に工場を縦覧させた。その中に築地活版製造所と石川島平野造船所があった。その他、出版印刷関係の工場としては、日報社(尾張町一丁目)、報知社(薬研堀町)、日就社(銀さ一丁目)、製紙会社(王子村)が含まれていた。

まとめ
幕末から明治期に開催された博覧会に出品された鉛活字と印刷機は、近代化を目指すわが国にとって文明の利器として欠くことのできないものとなった。

1867(慶應3)年4月にフランスでパリ万国博覧会が開催された。これは、わが国が国家として最初に参加した万国博覧会であった。幕府は自らの出品と共に諸藩や江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎が手を挙げた。
活字と印刷機については時期尚早のため、わが国の出品物の中には無かった。しかし、江戸商人として参加した清水卯三郎の「フランスみやげ」の中に、仮名文字の活字母型、石版印刷機と足踏印刷機があった。
活字母型は宮城玄魚による平仮名の版下を持参してフランスで作製依頼したものであるが、活字鋳造は行われなかったという。石版印刷機と足踏印刷機については清水卯三郎自身では使用せず、販売のため店先に置いてあった。
この足踏印刷機は、後に条野伝平がこれに眼を付け、『東京日日新聞』の創刊に関わることになった。また、別の一台は平野富二による足踏印刷機の国産化対象となった。

1876(明治9)年5月にアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。この万国博覧会参加のために政府事務官の一人として任命された吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)は、平野富二と知己であったことから、平野富二による「活字紙型等の見本各種」の出品がなされたと見られる。
この見本各種の中には、明治9年版活字見本帳『活版様式』と小形手引印刷機が含まれていたと見られる。これらについて考察を加えた。また、吉雄永昌について平野富二、築地活版製造所との関連を参考に述べた。

明治10年(1877)8月に第一回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。これはわが国政府主催の最初の博覧会であった。このとき平野富二は築地活版製造所で製造した「楷書・仮名等の鉛版活字」を出品した。しかし、平野富二の名前で出品した印刷機はなかった。
このとき、「鉛版活字」の摺り見本として明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』が一緒に出品されたと見られるが、疑問もある。また、国産化した活版印刷機を本格的に製造できる体制を整えたにも拘わらず、平野富二の名前で出品された印刷機はなく、築地活版製造所で造られたとみられる手引印刷機が、出版人である野村長三郎の名前で出品された。これらについて考察を加えた。

引続き第二回内国勧業博覧会(明治14年3月開催)、ロンドン発明品博覧会(明治17年5月)、第三回内国勧業博覧会(明治23年4月開催)などが開催されたが、これらについては、次回ブログ「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)」で紹介する。

2019年12月17日 稿了