杉山徳三郎、平野富二の朋友

《はじめに》
平野冨二が生涯にわたって親しく交わった友として杉山徳三郎がいる。

その交流は、長崎製鉄所での機関方(エンジニア)養成で一緒に机を並べたときに始まり、平野富二が活字販売で東京に出張したときに再会して旧交を温め、横浜製鉄所では共同経営者となって事業をおこなった。

また、杉山徳三郎と親交のある伊藤博文や福沢諭吉を紹介して平野富二の事業発展に協力している。

杉山徳三郎は、平野富二よりも10歳年長であるが、昭和5年(1930)に91歳で長寿を全うした。その間、平野富二が亡くなって7年後の明治32年(1899)に平野富二の母が長崎で亡くなったときは、その翌日、遺族を見舞っている。その時まで遺族との交わりが続いていたことを示すもので、如何に平野富二との交流を大切にしていたかが分かる。

曾孫杉山謙二郎氏の著書の表紙カバーを飾る杉山徳三郎肖像写真

《杉山徳三郎の生い立ち》 (以下に示す年令は数え年とする)
杉山徳三郎の生まれた境遇は平野富二と非常によく似ている。

徳三郎は、長崎町司の家に次男として生まれ、大井手町にある町司たちが居住する町司長屋で育った。まだ幼い7歳のときに父と死別し、10歳違いの兄が相続して町司となった。

利発で豊かな才能を見出されて、厄介の身(次男以下の子弟)でありながら、長崎海軍伝習所の入所を特別に認められ、つづいて新設された長崎製鉄所で機関方(エンジニア)として勉学する機会を与えられた。

平野富二は、徳三郎より7歳年少であるが、もしも同年齢であったならば、おそらく同じ道を歩んだと見られる。長崎製鉄所では、徳三郎と同じ厄介の身でありながら特別に選抜されて入所した。ここでは徳三郎と一緒に机を並べて機関方になるための勉学に励んだと見られる。

徳三郎の伯父太田寿吉は、平野富二(幼名、矢次富次郎)の住んでいた引地町の町司長屋に居住しており、富次郎が8歳のときに書道の手習いをしてもらったお師匠さんである。徳三郎の住んでいた大井手町の町司長屋とは歩いて5分程度の距離であり、その頃から徳三郎は富次郎のことを知っていた可能性がある。

《杉山徳三郎の経歴》
(福沢諭吉、伊藤博文、平野富二の名前は青色で示す)
杉山徳三郎は、天保10年(1839)10月18日、長崎地役人である町司杉山弥三郎とナヲの次男として大井手町の町司長屋で生まれた。

弘化2年(1845)、7歳のとき、父を亡くし、兄松三郎(友之進、弥三次)の厄介となった。そのため、医師の家に寄食して医術を学んだが、病人のために寝る暇もないことを見て、医者になることを諦めたという。

嘉永2年(1849)、11歳のとき、師について漢学と蘭学を学んだが、書籍や文具をかうことができず、長崎くんち(諏訪神社の例大祭)のときに紙の造花を作って売ったところ、1日で1両余りの利益を得て、書籍を購入した。周囲の人はその奇才に驚いたという。

安政1年(1858)、10歳のとき、福沢諭吉が長崎に勉学に来て、同じ町司長屋に住む砲術家で知られる山本物五郎の食客となっていたことがある。そのとき、杉山一家と親しくなった。(本件については後述する)

長崎海軍伝習所の第二期伝習が幕府伝習生に対して、安政4年(1857)1月上旬から翌年5月上旬までの約18か月間、行われた。徳三郎は、17歳の厄介の身であったが、特に抜擢され、海上警備を担う要員として伝習を受けることになった。

海軍伝習所では、本職を持つ地役人の伝習生は「御用の隙を見計らって」伝習を受けていたが、徳三郎は他に職を持たなかったので、伝習に専念することが出来た。その結果、砲術担当のオランダ一等士官ファン・トローイェンの代理を務めるまでになった。

第二期伝習が終了した後、引き続いて幕府伝習生のための第三期と諸藩伝習生のための伝習が行われた。安政5年(1858)10月、長州藩から選抜されて長崎海軍伝習所に来た者たちの中に18歳の伊藤俊輔(博文)が居た。最初はオランダ人教師ファン・トローイェンから砲術を学んだが、翌年になって帰国の迫ったファン・トローイェンに代わって徳三郎が教練に当たった。(本件については後述する)

安政5年(1858)3月、長崎奉行所で武術御見分が行われたが、徳三郎と矢次富次郎(平野富二)は職務専念のため、特別に免除された。このとき富次郎は、長崎奉行所隠密方御用所番に属していた。

安政6年(1859)10月、オランダ人教師団が帰国し、長崎海軍伝習所での砲術の伝習も終えた。その後、徳三郎は長崎製鉄所の建設に加わって、製鉄設備(鋳造・鍛造設備や工作機械など)の組立や動力用蒸気機関の据付を行いながら、それらの設備について伝習を受けた可能性がある。しかし、実態は不明である。

文久1年(1861)3月、長崎製鉄所の第一期工事(造船用機械製造設備の建設)が完了し、これに合わせて機関方(エンジニア)の養成が本格的に開始された。このとき、徳三郎は機関方見習として長崎製鉄所に入所し、機械学などの伝習を受けたと見られる。この時に伝習を受けた者たちの中に同じ機関方見習いの矢次富次郎(平野富二)も居た。

文久3年(1863)、矢次富次郎は長州藩蔵屋敷に居住・管理する吉村庄之助の養子となり。吉村富次郎と称した。徳三郎の兄友之進の妻は吉村庄之助の長女で、徳三郎は兄嫁の実家を富次郎の養子先として紹介したと見られる。

これにより、徳三郎と富次郎は義兄弟の関係となった。徳三郎はすでに妻帯しており、妻の名前は津留(ツル)。後年、平野富二は自分の跡継ぎとなる次女に同じ名前を付けている。

慶応1年(1865)、27歳のとき、新規製鉄所機関方 一代限り町司格を仰せ付けられ、受用高1貫5百目、2人扶持を支給されることになった。

明治維新の後、御用所支配の洋学伝習人となり、明治1年(1868)12月、長崎製鉄所掛の管轄下に入ることを命じられた。

その前後、徳三郎は、長崎製鉄所機関方として、諸藩からの依頼を受けて蒸気船の回航、建造・取扱指導のため、鹿児島、熊本、大津(近江)に出向した。

明治1年(1868)12月18日、徳三郎は、平野富次郎(養子先の吉村家を去って平野姓となっていた)と共に、長崎製鉄所第一等機関方に任命され、1年に付き10人扶持、業給金18両宛を支給されることになった。ただし、その頃、徳三郎は他藩に雇われて出向していたので、その間は業給金の支給はなかった。

明治2年(1869)1月、徳三郎は製鉄所掛の許可を得て加州(加賀藩、金沢藩)に赴き、3月24日に長崎に戻っている。この頃から加賀藩とその支藩である大聖寺藩による兵庫製鉄所(加州製鉄所)の建設構想が進められ、徳三郎は全面的に協力していたらしい。

そのとき、徳三郎は、頼まれて大聖寺藩の石川嶂(専輔)と共に兵庫県令となっていた伊藤博文を訪問し、兵庫製鉄所の用地借入に協力したと見られている。

明治2年(1869)5月、徳三郎は長崎製鉄所を免職された。これは、徳三郎が病気を理由に退職願を提出したが、これは、一旦、却下された。しかし、徳三郎がこれに応じなかったことによる。

徳三郎は、その後は兵庫製鉄所の建設と運営に関わっていたが、兵庫製鉄所が工部省に売却されることになったので、明治4年(1871)春、新しい仕事を求めて東京に上った。

明治4年(1871)11月19日、平野富次郎が活字販売のため上京したとき、東京で杉山(徳三郎)から銀銭22枚を借用している。このことは富次郎の「金銀銭出納帳」に記録されていた。

東京では、政府の高官となっていた伊藤博文が徳三郎に政府の役人になることを頻りに勧めたが、徳三郎は、「上司に盲従できない自分の性格を承知していたので辞退したら、それでは、何か自分で仕事をするなら大いに援助する」と言われたという。

明治8年(1875)4月、徳三郎は、無役となって生活に困窮している兄一家のために、長崎唐人屋敷跡の館山町に土地を求めて蒸気式精米所を開設した。

同年5月、徳三郎は、長崎の女性実業家大浦慶と連名で「横浜製作所御払下ケ願趣意見込書」を提出し、同年11月になって、横浜の高島嘉右衛門を加えて「拝借願書」を提出し、借用を許可された。これには、伊藤博文が背後で有力な支援をしてくれたと言う。

明治9年(1876)5月、高島嘉右衛門が横浜製鉄所の経営陣から脱退するのを機に、平野富二と他1名が新たに経営陣に加わった。しかし、平野富二は石川島造船所借用で多忙となったため、同年10月、経営陣から脱退した。

横浜製鉄所の新聞広告
(『東京日日新聞』、明治9年7月4日)

明治10年(1877)に勃発した西南戦争の特需で多大の利益を得た徳三郎は、第一回内国勧業博覧会に機械類を出品したが、頃合いを見て横浜製鉄所の共同経営から脱退して、長崎に戻った。

明治12年(1879)、新しい事業として将来に亘って有望な炭鉱業に進出することを決心し、各地を巡って有望な鉱区を調査した。その結果、明治13年(1880)5月、筑豊地区の目尾(しゃかのお)炭田を借区した。この地は遠賀川に近く、川船を利用して物資や石炭の輸送に便利であることに目を付けたという。

徳三郎は現場に蒸気機関を据え付け、蒸気動力による排水ポンプと巻上機を用いて人力に代えた。当時としては革新的なことで、積極的にその普及に努めた。

明治23年(1890)東京上野で第三回内国勧業博覧会が開催され、筑豊から石炭を持って参加した。その結果、蒸気機関を導入しその普及に努めたことから第三等進歩賞を受賞した。

明治24年(1891)、甥の杉山松太郎(兄の長男)に炭鉱経営を委任した。次いで明治27年(1894)9月には目尾鉱区の全権を松太郎に譲渡した。

これに先立ち、明治21年(1888)頃に長崎市外の伊良林郷に広大な邸宅を構えた。明治27年(1894)に自分の埋葬地を当時の茂木村田上に在って廃寺となっていた観音寺跡に選び、徳三寺を開創した。

長崎では長崎財界人の集まりには加わらず、独自の立場を維持していた。それでも、明治29年(1896)1月、有志者のひとりとなって長崎銀行の設立を計ったが、十八銀行の反対により設立を阻止された。

その後、旧外国人居留地近くの海面を埋立てて浪ノ平鉄工所を建設して、明治31年(1998)5月から営業を開始したが、翌年暮れには営業を中止した。

明治32年(1899)3月16日、平野富二の没後、長崎の実家に戻っていた平野富二の母矢次美祢が死去した。その翌日、徳三郎は弔問のため遺族を訪問している。

明治39年(1906)には、隠居届を長崎市役所に提出した。その後、大正7年(1818)には、80歳記念として一族を引き連れ、富士登山を敢行した。

昭和5年(1930)6月19日、91歳で永眠した。遺体は徳三寺の墓所に埋葬された。

《杉山徳三郎と福沢諭吉との縁》
福沢諭吉は、安政1年(1854)2月、21歳のとき、兄の勧めで蘭学を学ぶため長崎に出た。長崎では桶屋町の光永寺の食客となったが、やがて、大井手町の町司長屋に住む砲術家として知られた山本物五郎の食客となった。

山本家では、息子に漢書の素読を教えたり、水汲みなどの家事は何でも引き受けていたという。道路を隔てた前の町司長屋に若い町司の杉山松三郎(友之進)とその弟徳三郎が母と一緒に住んでいた。

節分の晩に、松三郎に誘われて法螺貝を吹き、千字文を経文のように唱えながら、銭や米を貰って歩き、そのお銭で雑炊を作ってたらふく食べたという。これは、『福翁自伝』に面白おかしく述べられている。そこには、松三郎のことを「杉山徳三郎の実兄」と括弧書きして紹介している。

福沢諭吉は杉山兄弟の母からも可愛がられていたらしい。当時、徳三郎は数え年16、兄の松三郎は26で、福沢諭吉はふたりの中間で、それぞれ5つ違いだった。

現在、大井手町に「福沢諭吉が使用した井戸」が残されている。その位置は、道路を挟んだ杉山家の前にあり、井戸端でしばしば顔を合わせていたと推測される。杉山家の住んでいた町司長屋の跡は、現在、広い駐車場となっている。

大井手町の町司長屋(国立公文書館所蔵)

福沢諭吉使用の井戸(古谷撮影)

《平野富二の福沢諭吉との交流》
平野富二と福沢諭吉の交流は、杉山徳三郎の紹介で平野富二が福沢諭吉を訪問したことに始まると見られる。このことは、平野家に残された福沢諭吉の書簡によって推測できる。以下に、記録に残されたふたりの交流を述べる。

1)造船技術者の斡旋
おそらく明治10年(1877)のことと推測されるが、石川島平野造船所(現、株式会社IHI)を開設したばかりの平野富二が、造船技術者不足に困って、福沢諭吉を訪問している。そのとき、平野富二は慶応義塾の塾生の中から優秀な技術者を斡旋するよう依頼した。

これに対して福沢諭吉は、慶応義塾の生徒の中から志願者を募り、多くの者の中から眼鏡に叶った一人を推挙してくれた。

そのときの平野富二に宛てた福沢諭吉の書簡(1月14日付)が平野家に保存されている。その内容は拙書『平野富二伝』に紹介してある。

その前年には、平野富二は杉山徳三郎と共同で横浜製鉄所を経営していたので、杉山徳三郎の紹介により福沢諭吉を訪問したと見られる。

2)「第一通快丸」進水式での祝辞
明治11年(1878)1月7日、自社用として建造した小型蒸気船「第一通快丸」の進水式に当たって、福沢諭吉は来賓として祝辞を述べている。

3)『時事新報』発刊のための印刷機発注
明治15年(1882)2月、『時事新報』の創刊に当たり、福沢諭吉は築地活版製造所に発注して、四六判16頁掛ロール印刷機1台を購入している。

4)朝鮮修信使に活字・印刷機械購入を斡旋
明治16年(1883)1月、李朝朝鮮国の第4次朝鮮修信使が日本で資金を調達して帰国する際、福沢諭吉の「朝鮮が近代国家として独立し、人民を啓蒙するには新聞の発行が必要である」との訓示により、活字・印刷機を購入した。

これに伴い、福沢諭吉の意をたいした井上角五郎が新聞発行のため印刷工2名を引き連れて朝鮮国に渡った。活字と印刷機は築地活版製造所から納入され、印刷工2名の派遣も平野富二の指示によったものと見られる。

井上角五郎は、朝鮮国の漢城(今のソウル)で、明治16年(1883)10月31日、李朝朝鮮国最初の近代的新聞である『漢城旬報』を創刊した。この新聞は朝鮮国の官報に準じて統理衛門管轄下の博文館から発行された。すべてが漢文で、四六倍判の冊子形式であった。

6)『漢城周報』発刊のためのハングル活字購入
明治18年(1885)8月中旬、政変で一旦帰国していた井上角五郎は再び漢城に戻って、破壊された博文館を再建した。さらに、日本に帰国してハングル活字を購入し、活字職人2人を引き連れて漢城に戻った。

漢字とハングル文字を混用した文体を現地の老儒者に創案してもらい、先の政変で発行停止となっていた『漢城旬報』に代えて、明治19年(1886)1月、『漢城周報』と題して発行した。

なお、いつの事か不明であるが、金玉均(キム・オクキュン)が朝鮮国の改新(改革と進歩)を念願すると共に、朝鮮国王と王妃の歓心をえるため福沢諭吉に多額の借金をしていた。福沢諭吉の「朝鮮人へ貸金の記憶書」の中に、「朝鮮文字の活字を注文して自国に著書新聞等の業を起さんとて、其活字何十万の数は築地の平野工場にて出来し‥‥」とあり、ハングル活字を築地活版製造所から調達したことが明示されている。

《杉山徳三郎と伊藤博文との縁》
安政5年(1858)10月、長州藩から選抜されて長崎海軍伝習所に来た者たちの中に18歳の伊藤俊輔(博文)が居た。

最初はオランダ人教師ファン・トローイェンから砲術を学んだが、翌年になって帰国の迫ったファン・トローイェンに代わって杉山徳三郎が教練に当たった。

「長崎における余らの師匠は日本人杉山徳三郎、オランダ人教師ファン・トローイェンと称する人々で、号令などはすべてオランダ語を用いた。杉山はすこぶる厳格な教師で、歩調姿勢が悪いときは容赦なくこれを矯正した。」と伊藤博文の言葉が伝えられている。

杉山徳三郎の懐旧談(『石炭時報』、第二巻第一号)によると、「長崎滞在中、伊藤公はしばしば私の宅へ遊びに来た。私の父を囲繞した当時の若者の中で、彼は私の父から最も愛された一人であった。」と述べている。

これが縁となって、後年、伊藤博文は徳三郎に対していろいろと支援の手を差し伸べた。具体的には、先に示した《杉山徳三郎の経歴》の中で述べた。

《平野富二と伊藤博文の接触》
兵庫造船所がまだ工部省の兵庫製作所と呼ばれていた頃、工部卿伊藤博文が築地活版製造所に居た平野富二を訪ねて来た。それは、兵庫製作所を平野富二に管理して貰いたいとの相談だった。

当時、平野富二は、海軍省の石川島造船所の施設を借用して、みずから造船所を設立・経営することを計画していたので、周囲の勧めもあったが、伊藤博文の提案を辞退した。本心は官に仕えることを嫌ったことによる。

このことは、公的記録には残されていないが、「平野富二追憶懇談会記録」(私文書、大正15年7月)に、石川島造船所の元幹部であった今木七十郎の発言として紹介されている。

伊藤博文は、当時、横浜製鉄所を経営していた杉山徳三郎から平野富二のことを聞いて、東京築地の平野富二を訪問したと見られる。また、長崎製鉄所時代の平野富二こことを知っている同僚の山尾庸三のアドバイスがあったかも知れない。

《長崎における杉山徳三郎の関連施設》
杉山徳三郎が晩年を過ごした広大な邸宅が伊良林郷にあったが、今では、当時の洋式煉瓦塀の一部が残るだけで、往時の姿は全く失われてしまったという。

唯一残された施設は、徳三寺(長崎市田上2丁目10番地)である。ここは自分の父母と自分を含めた子孫のために開創して寺で、境内に杉山家の墓所がある。そこには杉山家祖先の供養塔を建て、両親の墓を造った。徳三郎の墓標には夫人と共に俗名が刻まれている。

杉山徳三郎が開創した徳三寺の本堂
(『長崎の史跡(街道)』、長崎歴史文化博物館、平成19年)

徳三郎は、自分が死んだときに火葬されることを嫌い、当時、その規制のなかった隣町の茂木に属する田上地区に、廃寺となった観音寺跡の寺地を購入し、平戸の臨済宗雄香寺の末寺大梁院をここに移す形を取り、明治29年(1886)に徳三寺と改称した。

本堂の背後には、観音寺の歴代住職の墓所と杉山家の墓所がある。同じ境内の本堂前には竹林を背にして千歳亭跡がある。ここには向井去来の句碑とその猶子久米式右衛門の供養塔がある。

ついでに平野富二について言うと、長崎寺町の禅林寺飛び地墓地に矢次家の墓所があり、そこに平野富二の母が建立した「平野富二碑」があった。しかし、昭和年間に無縁墓地とされて、そこにあった墓石と共に撤去されてしまった。現在は、無縁墓石の集積地から「平野富二碑」を見つけ出し、東京谷中霊園にある平野家墓所に移設されている。

もう一つ、平野富二の名前を記した記念碑が長崎にある。それは、三菱長崎造船所本工場構内の立神通路に面した崖地の壁面にある「建碑由来」の銘板である。しかし、一般には公開されていない。

《まとめ》
杉山徳三郎と平野冨二の生い立ちが、共に似た境遇であったことは、すでに述べた。成人して独自の道を歩むようになった後も、二人の共通点を多く見ることができる。以下に、二人の共通点を列記した。

◆家禄を継いだ兄の下を離れて独立し、維新後に失禄・失業した兄一家を助けるため自分の設けた事業所に職を与えている。

◆何かと制約の多い官職に就くことを嫌い、政界と繋がりの深い財界から一定の距離を置いていた。

◆生涯に二つの異質な事業に取り組み、いずれも業界に先駆けて近代化を果たし、成功を収めた。杉山徳三郎は造船造機事業と炭鉱業、平野富二は活版製造事業と造船造機事業である。

◆共に時代の先端を行く事業に成功した結果、長者番付に載るほどの資産家となった。

◆生涯、技術者としての姿勢を貫き、共に技術系経営者の典型となった。杉山徳三郎は晩年になって永遠のエネルギーを研究テーマとして取り組んでいたと言う。平野富二は、当時、機械工業の基礎をなす鋳造技術の向上を目指して業界の集会で演説中に卒倒し、そのままこの世を去った。

両者の異なる所は、天から与えられた寿命であった。杉山徳三郎は91歳という長寿に恵まれ、悠々自適の生涯を送った。これに対して平野富二は47歳で、ほとんど休むことの無い生涯を終えた。