矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人

平野富二は、長崎奉行支配の町司矢次豊三郎を父とし、その次男として生まれ、幼名を富次郎と称した。長男和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)が矢次家を継いだので、富次郎は矢次家の始祖関右衛門の別姓である平野姓を再興したと伝えられている。

矢次関右衛門については、『本木昌造・平野富二詳伝』(三谷幸吉編、昭和8年4月20日発行、非売品、以下『詳伝』と略す)に紹介されている。

それは、編者の三谷幸吉が平野家に伝えられた家伝にもとづいて編集したと見られる。その記述は、編者が平野富二を尊敬するあまり、表現を変えるばかりでなく、内容についても独自の見解を加えたと思われる個所が散見される。

本来ならば、平野家の家伝をそのまま紹介したいところであるが、残念ながら平野家の資料庫には見当たらない。ここでは、『詳伝』に記載されている記述の一部、平野富二とその祖先に対する過度な尊敬の表現、を改め、あとはそのまま紹介する。

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【『詳伝』に紹介された平野家の始祖】

『詳伝』の中で、平野富二の事績を紹介する本文とは別に、〔補遺〕として紹介されている内容は次の通りである。

平野富二の祖先に当たる関右衛門と云う人は、大村藩の勘定奉行であったが、領内およびその付近に洪水があり、それがために非常な飢饉が起こった。それでその当時、関右衛門は領主に米庫を開放して領民を救匡(きゅうきょう)せられたきことを嘆願に及んだ。

ところが、或る奸臣が居て、関右衛門の嘆願の非なることを領主に言上に及んだのである。それがために、米庫解放の埒(らち)が中々あかぬ。一方、領民は日一日、刻一刻と食料に窮乏して行くばかりで、領民が米庫破壊を企てる者さえあった。

大村府内は騒然たる有様なので、関右衛門は領主と領民、米庫と飢饉の板挟みとなった結果、ついに意を決して、敢て自ら米庫を開放して、領民に米を分配し救助したのであった。

他方、領主は関右衛門の独断専行を大いに憤って、ついに関右衛門に切腹を申し付けた。この処置に対して、或る老臣の一人が、関右衛門の応急処置は至当なものであり、また、関右衛門に切腹させれば、領民が騒ぎ出しては大変な騒動となることを悟り、領主に関右衛門の命乞いをした。

そのため、関右衛門は、ようやく一命は助かったが、奸臣の讒言により、ついに御暇(おいとま)を頂くことを余儀なくされた。

一浪人となった関右衛門は、知人を頼って長崎に身を落ち着け、姓を矢次と名乗った。そして、長崎奉行の認めるところとなって、長崎奉行所に奉仕し、その後、代々継いだのである。

三谷幸吉は、この伝記を紹介する前書きとして、

祖先平野勘太夫(大村藩)倅関右衛門(百五十石領)、正徳年間の飢饉に際しての米庫解放事件を叙説しておく必要がある。けだし、この祖先の伝統は平野先生へもながれているからである。

と述べている。

また、『詳伝』には、別に「平野・矢次家略系図」が掲載されている。それには、最初に平野勘太夫(大村藩)、続いて矢次関右衛門(大村藩勘定奉行、正徳三年長崎ニ来リ町司、享保十七年正月十三日没)が示されている。

この『詳伝』の発行に先立ち、『印刷雑誌』(第1巻、第4号、明治24年5月発行)に、「平野富二君ノ履歴」として掲載された記事の中に、

是年《文久2年》君《平野富二》故アリテ、同地《長崎》吉村庄之助君ノ養子トナル、五年ノ後養家ヲ辞シ帰テ平野家ヲ再興ス(矢次氏元平野氏、其先代故アリテ、矢次氏ヲ冒セルナリ)

とある。この引用文の文末にある括弧( )書きは原文のままであり、その内容は『詳伝』と相違するところはない。なお、《 》内の文言は稿者が追記した。

この「平野富二君ノ履歴」は著者が明らかでないが、福地桜痴(源一郎)が執筆したものとされている。その直前に掲載された「本木昌造君ノ行状」を福地桜痴が執筆する際に、同時に調査・入手した平野富二関係の資料に基づいたと見られる。

ごく最近まで、『詳伝』に記載されている伝記が一般に流布しこれが正しいものと考えられていた。ところが、2007(平成9)年になって、本家である矢次家のご子孫から「矢次事歴」が開示され、本家の記録を調査できるようになった。

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【「矢次事歴」の記録】

矢次関右衛門について、「矢次事歴」には次のように記録されている。原文は前回ブログで挿図によって示したので、興味のある方はご覧頂きたい。

ここでは、出来るだけ原文に忠実に、口語文に直して紹介する。

祖先平野勘太夫の倅(せがれ)である矢次関右衛門は、大村筑後守の家来で、知行150石を与えられ、勘定奉行を勤めていた。

大村藩で凶作が続き、百姓どもの難儀がいよいよ差し迫った際に、拝借を重ねて多くの制約を受けている者ども(原文:「拝借奉願支配数多有之者共」)の難儀を憐れんで銀貨を渡した。

このことを越度(おちど、法をそむいた罪)とされ、藩主から御暇(おいとま、藩籍召し上げ)を言い渡された。

浪人となった関右衛門は、長崎に出て町年寄久松善兵衛の家来松永善兵衛方に寄宿していたところ、正徳3年(1713)に町司村山半左衛門が退役を命じられて空席ができたので、その後任として町司役を仰せ付けられた。享保3年(1718)まで6ヵ年間勤務して、退役を願い出た。享和17年(1732)に病死した。

この内容を、『詳伝』の内容と比較すると、両者には微妙な相違が見られる。

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【『詳伝』と「矢次事歴」の比較】

まず、両者とも同じ内容の事柄を列記する。

1.矢次家の始祖は平野勘太夫で、大村藩士であった。
2.関右衛門は、勘太夫の倅で、大村藩の勘定奉行を勤めていた。
3.領内に洪水による飢饉(『詳伝』)、凶作が続いた(「事歴」)。
4.関右衛門の対応を越度とされ、領主から御暇を言い渡された。
5.長崎に移り住んだ。
6.長崎では矢次を名乗った。
7.長崎奉行の下で町司となった。

次に、内容の相違する事柄と片方しか記載されていない事柄を列記する。

1.関右衛門は大村筑後守の家来である(「事歴」のみ)
2.150石領(『詳伝』)、知行150石(「事歴」)
3.正徳年間の洪水で非常な飢饉(『詳伝』)、凶作が続いた(「事歴」)
4.百姓たちが困窮(『詳伝』)、拝借を重ねて制約のある者たち(「事歴」)
5.領民救助を領主に嘆願(『詳伝』のみ)
6.米庫を開放(『詳伝』)、銀貨を渡した(「事歴」)
7.奸臣、老臣と領主とのやり取り(『詳伝』のみ)
8.独断専行により切腹を申し付けられた(『詳伝』のみ)
9.正徳3年に長崎へ(『詳伝』のみ)
10.長崎の知人(『詳伝』)、長崎町年寄の家来(「事歴」)
11.長崎奉行所に奉仕(『詳伝』)、正徳3年に空席の町司(「事歴」)
12.享保3年まで勤務(「事歴」のみ)
13.享保17年1月13日没(『詳伝』)、享保17年没(「事歴」)

一般的に言えば、原典と見られる「矢次事歴」の記述のほうが正しいと考えられるが、『詳伝』には、平野家に口伝として伝えられた内容も含まれるかも知れない。

それにしても、6.で示した米庫解放と銀貨支給の相違、7.と8.で示した家臣と領主とのやり取りについては、差が大きすぎる。

これ以上は、大村藩に於ける関連記録を調査し、併せて当時の藩主の施政についても知る必要がある。

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【大村藩の「士系録」】

2016(平成28)年4月、盛山隆行氏(大村市史編さん室勤務)から、大村藩士の記録『新撰士系録 三』の抜粋コピーが提供された。それによると、大村藩士矢次家について、次のような系図が紹介されている。原文は縦書きであるが、ここでは横書きとして紹介する。

この系図を読み解くと、次のようになる。

1.矢次家の始祖は矢次近江である。
2.その息子の矢次右馬太夫は、早岐給人領田五町(今の佐世保市)から大村に来て、大村氏に仕え、大村藩矢次家初代となった。
3.二代太郎左衛門は、食禄九石八斗余りを支給された。
4.三代は杢兵衛が継いだ。
5.四代勘太夫は、平野助右衛門の二男で、矢次家に養子として入った。
6.五代関右衛門は、杢兵衛が勘太夫を養子として迎えたのちに、杢兵衛の実子として生まれたらしい。勘太夫の跡を継いで矢次家当主となったと見られる。

系図で、関右衛門の名前の傍らに記載されている記録を読み下すと、

故(ゆえ)有って大村藩の禄を離れ、長崎に住んだ。後に字(あざな)を改め、平野助左衛門と名乗った。長崎では町役を勤めた。

とある。つまり、「或る理由があって大村藩の禄を受けなくなり、長崎に移り住んだ。後に別名を平野助左衛門と名乗った。長崎では町司を勤めた。」となる。

長崎奉行所の記録では、町司として矢次関右衛門の名前が記録されている。したがって、別名の平野助左衛門を名乗ったのは、町司を退役した後のことと見られる。この別名は、矢次家四代勘太夫の実父の名前である平野助右衛門と一字違いである。

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【大村藩の史書『九葉実録』】

矢次関右衛門が、大村藩の禄を離れることになった原因について、長崎の宮田和夫氏(二十六聖人記念館勤務)の調査により、大村藩の史書『九葉実録』(大村史談会編・発行、平成6年7月)に、次のような記事があることが判った。

元禄12年(1699)閏9月9日の項に、

板鋪蔵役矢次関右衛門 会計足ラス 因テ 浪人トナシ 戸籍ヲ没入ス

つまり、「板鋪蔵役である矢次関右衛門は、会計の帳尻が合わないため、藩籍を没収され、浪人となった。」と記録されている。

板鋪蔵については、同書の注釈によると、大村氏の居城である玖島城の南側に板敷と呼ばれる地区があり、そこの波戸の手前に藩の米蔵があった。米蔵は城内と御船蔵にも存在した。

その直前の8月12、13日の項に、大雨による洪水被害のことが記録されている。その記述を要約すると、

12日夜に大雨となり、13日に洪水となった。城下と近隣を調査した結果、528町余りの田と140町余りの畠(以上の生産高8,200石余り)が水没し、民家152軒が倒壊・流失し、死者36人など、甚大な被害をこうむった。長崎奉行を通じて江戸に上申した。

さらに、翌年2月23日の項に、

廿三日制ス 自今 切米俸ノ者 公金ヲ借ラハ、返納ヲ保ツ證人ヲ得テ 其請ヲ許スヘシ

つまり、「23日、藩の規則を制定した。今後、切米俸の者が公金を借りるときは、返納を保証する人を立てれば、その請求を許すことができる。」と記録されている。

切米俸については、中下級の家臣に対して支給される扶持米で、年に2回あるいは3回に分けて藩の米蔵から分給した。玄米での支給が原則であるが、公定米価により換金して支給したこともある。

以上の記録から判明したことを列記すると、次のようになる。

1.矢次関右衛門は大村藩の所有する板敷米蔵の責任者であった。
2.元禄12年(1699)閏9月9日に矢次関右衛門は戸籍を没収され、浪人となった。
3.矢次関右衛門が浪人となった理由は、管理する米蔵の会計不足による。
4.約2ヶ月前の8月13日に大雨による洪水で、甚大な被害を被り、多くの困窮者が出た。
5.翌年2月23日に、切米俸の者に対する公金借用の条件が藩で制定された。

この時の藩主は、『寛政重修諸家譜』によると、大村因幡守純長(始祖から数えて16代目、豊臣秀吉により藩籍を認められてから4代目の当主)で、慶安3年(1650)に伊丹家から養子に入り、翌慶安4年(1651)2月に16歳で遺領を継いだ。寛永3年(1706)8月に71歳で没した。

この人の治世については、『長崎県の歴史』(山川出版社、1998)によると、明暦・寛文期(1655~1672)に藩制の諸機構を整備したが、元禄期(1688~1703)にはいると、初期以来、強力に推進してきた新田開発も極限に達し、かつ、家臣団の膨張によって再び藩財政が窮乏した。跡を継いだ5代筑後守純尹(すみまさ)によって、家臣団の知行制改革を中心とする享保改革が行われた。

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【矢次家の墓所と菩提寺の記録】

祖先の記録は、墓所にある祖先の墓石に刻まれ、菩提寺の過去帳に残されていることが多い。

「矢次事歴」に添付されていた矢次温威の記録によると、「明治13年(1880)4月26日に家内と召し連れて長崎に罷り越し、御父三拾三回忌相勤」とある。下って、温威の孫の一人が描いたと見られる菩提寺禅林寺と矢次家墓所への案内略図が残されていることから、昭和初期までは祖先の供養と墓参が行われていたと見られる。

ところが、いつの頃からか、矢次家墓所は無縁墓所となっていた。昭和62年(1989)頃に代わった禅林寺の住職により、矢次家祖先の墓石類は撤去され、他家の墓所となってしまった。

町を見下ろす石垣上に矢次家墓所があった。そこは、二区画に分割されて
他家の墓所となり、後背の市街を背景に新し墓石が建っている。

寺の過去帳もなく、墓石も失われてしまった中で、幸いにも無縁の墓石類を集積した中に平野富二の記念碑が発見され、東京谷中霊園の平野家墓所に移設された。

その記念碑は、平野富二の七回忌に当たって、その母が建立を思い立ち、長崎の西道仙に撰文を依頼したものである。

「平野富二碑」と正面に刻まれた記念碑の左側面に、

平野富二 長崎人 旧姓矢次 興始祖平野勘左右衛門之後 改今姓

と刻まれている。つまり、「平野富二は長崎の人で、旧姓は矢次。始祖平野勘左右衛門の後を興して今の姓に改めた」と記されている。

東京谷中霊園の平野家墓所に移設された「平野富二碑」

始祖平野勘左右衛門の名前は、大村藩の記録にもない名前であり、どのような記録に基づいたものか不明である。西道仙が根拠もなくこの名前を記すことは考え難い。

当時、矢次家墓所には矢次家始祖から始まる祖先の墓石が存在していたと見られるので、始祖矢次関右衛門の墓石にこの名前が刻まれていた可能性がある。

矢次関右衛門の周辺に居た人物の名前と自身の名前を挙げると、平野助右衛門、矢次勘太夫、平野助左衛門がある。それぞれの中から字を拾って組み合わせると、平野勘左右衛門となる。

これは推測であるが、矢次関右衛門は、長崎町司役を後裔に譲ってから、別名として平野助左衛門と称し、病没する前に平野勘左右衛門としたのではないだろうか?

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【まとめ】

平野富二の始祖関右衛門については、三谷幸吉が編集した『詳伝』に紹介された内容が、いままで一般に流布していた。

ところが、平野富二の本家筋にあたる矢次家から「矢次事歴」が開示され、また、昨年に相次いで、大村藩の記録である「新撰士系録」と『九葉実録』の中から矢次関右衛門に関する記録が発見され、それによって、『詳伝』の記録には錯誤や史実に基づかないフィクションが含まれていることが判った。

これまで紹介してきた各種記録を通読していただいた読者には、史実と相違する内容をすでにお気付きと思うが、要点を列記すると次のようになる。

1.『詳伝』と「矢次事歴」は共に、大村藩に於いては平野姓、長崎に出てからは矢次姓となったとしているが、史実は共に矢次姓である。平野姓を名乗ったのは、関右衛門が長崎町司を退役した後のことである。

2.『詳伝』に記された「米蔵開放事件」は、三谷幸吉によるフィクションである。

3.矢次関右衛門は、大村藩士矢次勘太夫(実父は平野助右衛門)の義弟で、勘太夫の跡を継いで矢次家当主となった。大村藩では板敷米蔵役を勤めていた。この時の藩主は四代大村因幡守純長(治世1651~1706)である。米蔵役は勘定奉行の支配下である。

4.元禄12年(1699)8月、大村府内および近郊で大雨による洪水で甚大な被害をこうむり、困窮者が出た。

5.被害を受けて困窮する下級藩士に、米蔵役の矢次関右衛門は公金の銀貨を貸し与えたが、返済が滞り、会計の帳尻を合わせられず、罪を負うことになった。

6.矢次関右衛門が大村藩の藩籍を召し上げられて浪人となったのは、元禄12年(1699)閏9月のことである。

7.浪人となって長崎に出てからは、「矢次事歴」に記載された通りと見られるが、浪人となってから平野姓を矢次姓に変えたとする『詳伝』と「矢次事歴」は誤りと見られる。

8.矢次関右衛門は、正徳3年(1713)に長崎奉行支配の町司となり、享保3年(1718)になって養子関治に町司役を譲り、隠居した。その後、別名として平野助左衛門と名乗った。
さらに、病没する前に平野勘左右衛門と名乗ったと見られる。

各家に伝えられた家伝・口伝は、それなりに意味のあるものであるが、史実に照らして検討してみると、思わぬ相違を発見することになった。

平野富二は、どこまでの事を知っていたのだろうか?