東京進出最初の拠点:神田和泉町

(1)富次郎の更なる改革
平野富次郎は、明治4年(1871111日、東京出張から長崎に戻った。
大阪と東京で得た知見にもとに、活版印刷の普及のために新たに取り組むべき課題が明確となった。

ギャンブルから導入した明朝体の漢字は、横線を細く水平とし、縦線は太く垂直に引き、横線のトメを三角形(ウロコ)とし、ハライとハネをふくめて定型化している。筆画が単純化されているため、公文書は別として、一般の文書用としては雅趣に欠けるとして当時はあまり歓迎されなかった。 

明朝体の漢字は、筆画が単純化されているため、明朝体の漢字と曲線主体の平仮名を交えた和文活字組版を違和感なく受け入れられるようにするためには、平仮名の字体改良も今後の課題として残された。また、活版印刷普及のためには、幕府の公文書に用いられ、一般の習字手習いに用いられている、いわゆる「和様書体」の活字も、当面充実させる必要があった。この書体の改良については、本木昌造から友人の池原香稺に依頼することになった。

活字を販売するだけで、あとの版組みと印刷を顧客に任せるのでは、必ずしも満足できる印刷結果が得られない。そこで、活字を印刷版に組むために必要な機材の提供、さらには、顧客の要求に応じてそのまま印刷機に設置すれば印刷できる活字組版(活版)までを販売の対照として、社内の体制を整備し、単なる活字製造から一歩進めて活字版製造までを行うことにした。 

さらに、官庁の布告類や新聞のような多量の文書を迅速に印刷できるようにするためには、高価な外国製印刷機に代えて、外国製に劣らない高性能印刷機を国産化することも必要であった。当面は、先に本木昌造が長崎製鉄所に依頼して製作した、自社用の手引印刷機と同型の印刷機を長崎製鉄所で製造してもらえるように手配することも必要であった。 

活字の大口需要先が東京にあることは明らかで、遠く離れた長崎から活字類を供給することは、運送のための時間と費用を考えると、事実上、不可能であった。また、不足活字を緊急に必要とする顧客に対して、その要求に応じる事が欠かせないことから、活字製造の拠点を東京に置くことが不可欠であった。

ギャンブルから学んだ技術に基づき活字を製造している長崎製鉄所付属の長崎新聞局活字一課が東京の赤坂溜池に移転し、明治4年(18711122日、工部省勧工寮活字局となって本格的に活字製造を開始したことも、東京移転の決意を促した要因と見られる。

(2)富次郎の結婚、転居、戸籍編成と改名
明治5年(1872)の年が明けて早々、平野富次郎は長崎丸山町に居住する安田清次・むらの養女こま(「古ま」と表記)と結婚した。新妻こまは嘉永5年(18521122日生まれの数え年21歳であった。こまの実父母は長崎茂木村の山下廣作・久ヱで、こまが数え年8歳のときに実父廣作が死去したため、安田家の養女となったと見られる。 

平野富次郎は結婚を機に、生家である矢次家を出て長崎外浦町-ほかうらまち、現万才町の一部-の新居に移転した。転居先は第一大区七ノ小区外浦町96番地と記録されている。同じ町内の外浦町682番(旧105番屋敷)に本木昌造が居住していたので、本木昌造が同じ町内にある売家を紹介して、平野夫妻を呼び寄せたと見られる。 

当時、全国的に新戸籍の編成が行われたため、戸別に住居表示が定められた。今まで住んでいた矢次家は第一大区四ノ小区引地町50番地であった。そのときの新街私塾は第一大区六ノ小区新町62番地と記録されている。 

当初定めた大区小区制は細分化し過ぎたため、1873(明治6)年11月に見直し改正された。さらに、1878(明治11)年10月に郡区町村編成法が公布されて大区小区制が廃止された。
その後、数度に亘って町界町名の変更が行われ、特に外浦町は、もともと町名の無かった旧長崎奉行所西役所の土地が外浦町に編入されたり、国道開通により道路の改廃と拡幅が行われたりしたため、現在となっては、当初定められた番地からその場所を特定することは難しい。
なお、1963(昭和38)年、全国的に行われた住居表示により、外浦町は万才町に併合されたため、現在、その町名はない。 

今まで、年月日の表記は和暦(旧暦)で表記し、西暦年を( )内に参考表記してきたが、明治6年(187311日から新暦が採用されたことから、それ以降の表記は西暦年のあとに元号を( )内で表記する。

明治4年(18714月、政府により戸籍法が布告され、明治5年(187221日から全国一斉に戸籍の編成が開始された。平野富次郎は、自分の名前を平野富二と改名し、外浦町の新住所を本籍として妻と共に二人の戸籍届けを提出した。本稿では以後、平野富二と表記する。

このとき、本木昌造は自分の戸籍上の名前を昌三と改名している。以後の正式名称は本木昌三であるが、実際には、その後も県庁などに提出した書類に、本木昌造あるいは咲三と署名しているものが多い。本稿では特別な場合を除き、従来通り本木昌造と表記する。

(3)東京移転計画と本木昌造の諒解
平野富二は長崎新街私塾の出張店として活字製造所の東京移転について本木昌造と相談した。その時の本木昌造の言葉が記録に残されている。現代文に直すと次のようになる。 

「私はすでに工場のことは一切、君に委託している。それを興隆させようが廃止させようが、また、発展させようが縮小させようが、君に一任する。
東京や大阪などの場所に異論はなく、ともかく利益を多く上げられる土地に行って営業することが得策だろう。
私がただ願うところは、その損益や得失について君が責任を持ち、計画どおりに事業を進展させたならば、資本償却費として金5,000円を還付して欲しい。そうすれば、私も出資者に対して面目を失わないことになる。その他については全て君と従業員一同とで協議して処置してくれ給え。」 

これは、本木昌造が平野富二を全面的に信頼し、その能力と気質を十分に理解した言葉であった。

(4)東京出張店の開設準備
明治5年(1872)に入ると、前年末に発行された『横浜毎日新聞』の影響を受けて、日刊新聞の発行を目指した新聞社設立の動きが東京・横浜で顕著になった。 

東京浅草茅町一丁目に設立された日報社は、同年221日、『東京日日新聞』と題して創刊号を発行した。創刊号は木版刷りであったが、二号から活版刷りとなった。しかし、活字の不足で苦労した様子が文面から読み取れる。やがて木版刷りに変更されてしまう。
横浜でガゼット社を経営していたブラックは、東京築地新栄町5丁目の東京開市場(とうきょうかいしじょう)区域内に日新真事誌社を設立して、同年317日、日本語新聞『日新真事誌』を発刊している。この新聞は、漢字を日本製木活字、片仮名を上海製鉛活字で印刷された。
駅逓頭前島密の発案で東京両国米沢町3丁目に設立された報知社は、同年610日、『郵便報知新聞』を発刊している。これも活字が得られなかったため、木版刷りであった。
また、明治4年(1871)に東京京橋の南鍋町で出版印刷業博聞社を開業した長尾景弼が、翌明治5年(18729月、『博聞新誌』を木版刷りで発行した。 

平野富二は、このような東京・横浜における動向を伝聞するにおよんで、東京出店を急ぐこととし、その準備に入った。 

東京出張店の場所は、既に東京に設けた文部省御用活版所と同じ門長屋に空き部屋があることを確認していたので、ここを正式に借用することとした。 

東京に活版製造の拠点を設けるからには、長崎に現有する活字製造設備と人員の大部分を移転させることになる。しかし、新町活版所での印刷業務に支障をきたすわけにはいかないので、それに必要な設備と人員は残すこととしたと見られる。 

東京行きの人選については、積極的に参加の意向を示す者もいたが、先祖代々住みなれた長崎の地を離れ、家族と離別することにかなりの抵抗があったと見られる。しかし、当時の長崎の状況を考えると、新たに職を得て家族を養うことは至難の業だった。 

人選の結果、柏原市兵衛・大塚浅五郎・和田国松・松野直之助・桑原安六・品川徳多・松尾徳太郎・吉田某・柘植広蔵の九人が選考され、柘植広蔵は少し遅れて出立することになった。 

柏原市兵衛は、後に印刷機製造部門の主任となり、息子の柏原栄太郎を呼び寄せ、同部門で従事させた。桑原安六は1878年(明治11年)に築地活版製造所の支配人となっている。そのとき、和田国松は桑原安六の下で副支配人を務め、桑原安六が解雇されたあとを継いで支配人に昇格している。松野直之助は営業部門で活躍したが、1873年(明治16年)4月、上海に支店として修文館を開設するに当り、その所長として派遣されている。 

平野富二は新妻こまを同行、単身で赴任する一行の食事や洗濯など日常の面倒をみてもらうこととした。こまはすでに身重の身であった。 

東京での事業は、活字の製造を中心とし、さらに活版印刷に必要な機器・資材の製造もおこなって、希望する顧客に提供することとし、そのため、事業所の名称を 「長崎新塾出張活版製造所」 と定めた。 

当面は資金の余裕が全くないことから、需要の見込める活字の製造から着手し、追々、内容を充実させていくこととした。

長崎から東京に持参する物品は次の範囲にとどめた。
・五号とその倍角の二号の字母各1組(四号の字母は追って別送)
・鋳型各1
・活字手鋳込器械3 

このうち、字母(活字母型)はそれぞれ数千個の単位で準備したと見られる。
鋳型はハンド・モールドと称する片手で持って操作する鋳造用具で、溶融した鉛合金を手柄杓で湯口に注ぎ込み、活字を一個ずつ鋳造することができる。取りあえず五号と二号の活字を鋳造するための鋳型を準備したものと見られる。
活字手鋳込器械は、溶融した鉛合金を手持ち鋳型に圧入するための手押しポンプで、鉛合金を熔解する釜と組み合わせた器械と見られる。

その他に鋳造した活字を仕上げるための道具類が必要と思われるが、これらは東京での調達が可能と見ていたのかも知れない。 

持参した物品の評価額は、保険を掛けるために高めに見積もって15千円としたと伝えられている。 

平野富二にとって最も重要なことは、東京出店に当って活字販売が或る程度軌道に乗るまでの運営資金の調達であった。 

本木昌造や出資者からこれ以上の出資を要求することは出来ないため、平野富二は長崎の金融業者六海社に出向き、担保なしの首証文を提出して金1,000円を借り出したと伝えられている。その証文には、「此の金を借りて東京に上り、活字製造・活版印刷の業を起こす。万が一にも此の金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差上げる。」 と書いてあったという。

(5)大きな抱負を持って東京へ
明治5年(1872711日、いよいよ長崎を出立する日が決まった。
新戸籍の届出を済ませた一行は、当分の間、東京に寄留することになるので、所轄の戸長に寄留先住所を届出て、鑑札を受け取る必要があった。その鑑札は寄留先の戸長を通じて最寄りの府県庁に提出され、新たな鑑札を受け取る。長崎に戻る際には元の鑑札と引き換えてもらう定めとなっていた。 

長崎を出立する日が迫った或る日のこと、本木昌造は平野富二の夫人こまを自宅に招き、金20円を入れた縞(しま)の財布を渡して小遣銭とするよう言われた。この財布は本木昌造が着ていた縞の着物をほどいて作ったものであった。
こま夫人は本木昌造の内情を知っていたので一度は固辞したが、それを受け入れ、上京後も肌身離さず大切にしていたと云う。
その20円は資金難からたちまち事業資金の一部となってしまった。しかし、縞の財布だけは記念として大切に保存していたが、この貴重な記念品は関東大震災で家財と共に焼失してしまったと云う。 

上京には、飛脚船と称されたアメリカの郵便蒸気船で長崎から兵庫経由、横浜まで行くことになった。運賃10人分150ドル、荷物運賃25円を支払い、携行物品の損害保険料として75ドルを支払った。この損害保険の支払いに際して、本木昌造と平野富二との間で次のような会話が交わされたと伝えられている。 

本木昌造は、「それは無用ではないか? 資金が窮乏している現在、75ドルは非常に大金だ。万一、不幸にも船が沈没して荷物を失ったとしても、私はこれを天災と諦め、残念とは少しも思わない。」

これに対して平野富二は、「先生のおっしゃることはもっともですが、この荷物は私の所有物ではなく、先生をはじめ数人の方々の今までの努力と、多大の資金とを注入して造り出したものです。輸送の途中で荷物を失ったとき、先生は天命として諦めても、先生に協力してくれた人々に申し開きができません。先生のご子孫のことも考えなければなりません。今、75ドルを払っておけば、万全の策となります。」 と言ったと云う。 

この逸話は、本木昌造と平野富二との事業経営に対する考え方の相違を如実に表している。 

明治5年(1872711日、平野富二は、新妻と社員8名を引き連れ、長崎を出発した。蒸気船の運航予定に従って、途中、神戸に上陸して2泊し、横浜に着いたのは同月16日であった。 

横浜に到着した平野富二は、横浜活板社の責任者となっている陽其二と連絡をとって上京の挨拶と今後の相談をしたことは想像に難くない。

横浜では、一行の一人ひとりに15円、10円、5円の3段階に分けて小遣銭を支給したと云う。その総額は75円であった。 

横浜から東京への交通手段については記録に残されていない。
明治1年(18681119日の江戸開市によって築地に外国人居留地が出来たことから、東京築地と横浜を結ぶ小形蒸気船による定期便が運航していた。したがって、平野富二一行はこの小形蒸気船を利用して東京築地に上陸したと見られる。 

折から政府によって建設中であった新橋-横浜間の鉄道は、同年57日に品川-横浜間で仮開業されたが、新橋までの全線開通は同年918日のことであった。 

一行が横浜から東京に着いて上陸したと見られる築地一帯は、外国人居留地とその周辺を除き、明治5年(18722月に発生した銀座大火で焼失し、焼け野原となっていた。

平野富二が21歳の時に軍艦「回天」に搭乗して江戸に着き、軍艦所一等機関手の内命を受けた幕府軍艦所は、その跡地に築地ホテル館が建ち、東京の新名所となっていたが、これも焼失してしまっていた。

(6)長崎新塾出張活版製造所
東京築地に着いた一行は、小幡正蔵の出迎えを受け、築地河岸で小舟を雇い、大川(隅田川)を遡って神田川に入り、和泉橋近くの河岸-かし-から上陸したと見られる。 

東校表門の門長屋には、小幡正蔵がすでに文部省御用活版所を経営していたので、それに隣接する数部屋が予め職場兼宿所として用意されていた。 

文部省活版所はその後913日に廃止され、やがて、そこに在った活版設備は正院印書局に移管されることになる。それに伴い小幡正蔵が所長を務める文部省御用活版所は文部省御用を解かれて小幡活版所と称することになる。翌年になって小幡正蔵の協力者であった大坪本左衛門の要請で、小幡活版所を長崎新塾の下から分離独立させ、湯島妻恋坂下に大坪活版所が開設されることになる。 

一行は旅装を解く間もなく、長崎新塾出張活版製造所の看板を掲げて、活字・活版製造の準備に入った。この看板の新塾は新街私塾のことで、その出張所である活版製造所であることを意味する。なお、長崎では活字製造所としていたが、東京では活版製造所とした。 

近くに住む大工を入れるなどして、部屋を模様替えして造作を整備し、長崎から後送された荷物もおいおい到着して、早速、活字の鋳造作業に入った。 

しかし、平野富二によると、「明治5年、東京に出て来て、活版製造事業の拡張を図ったが、その当初は容易に販売の道も開けず、その艱難は本木氏が経験した以上のものであった。それにも関わらず刻苦勉励して、技術を磨き、製造体制を整頓しながら時運の到来を待っていた。」 と述べている。

(7)活版製造所が開設された場所
一行が長崎から東京に着いて1ヶ月ほど経った814日に、平野富二は同日付けで『横浜毎日新聞』に陽其二の経営する横浜活版社の広告として、次の趣旨を掲載した。 

「(前略)今般、東京府下佐久間町東校表門通り文部省活版所内に於いて活字と銅板を製造発売したので、ご注文の方は同所ならびに長崎新塾にご相談下さい。なお、当社でもご注文できます。」

図22-1 『横浜毎日新聞』の広告
この広告は、平野富二の依頼により、横浜活版社の名前で出されている。
それには、これまで長崎の新町私塾内で活版製造を行ってきたが、
今般、東京府下佐久間町の東校表門通りにある
文部省活版所内において製造・販売することになった、と述べている。

ここでは長崎新塾出張活版製造所の場所を、東京府下佐久間町の東校表門通りにある文部省活版所内としている。つまり、平野富二が設けた活版製造所は文部省活版所内にあることを示している。 

ここで、東校表門と文部省活版所との関係を整理してみたい。前回のブログ(21)「文部省御用活版所の開設」(201810月)と重複するところもあるが、ご容赦ねがいたい。 

佐久間町の南側道路に面して、明治維新の直前まで伊勢国津藩主藤堂和泉守高猷-とうどう いずみのかみ たかゆき-の上屋敷と、能勢熊之助・太田運八郎・中根宇右衛門の旗本三屋敷が並んでいて、藤堂家上屋敷は西側のほぼ3分の2を占めていた。

また下図下方にみる「藤堂佐渡守」は伊勢国久居-ひさい-周辺(三重県旧久居市、現在は合併により津市)を支配した久居藩の上屋敷である。久居藩は本家藤堂家の嗣子が絶えた場合、無嗣子による改易に備えて設置された石高五万石ほどの支藩である。しかし城主格の大名でありながら築城は許可されず、久居陣屋と城下町を建設するのにとどまって維新を迎えた。

図22-2 上野下谷外神田辺絵図(近吾堂版、嘉永2年)
津藩藤堂家上屋敷の東西(絵図で左右)の長さは約350メートルで、
その周囲は堀と門長屋に囲まれていた。
屋敷の南側(上方)の道路に面して豪華な表門が設けられていた。
神田川に架かる和泉橋を通る道路は和泉橋通りと称し、現在の昭和通りに相当する。
もう一つの新シ橋(現、美倉橋)を通る道路は現在の清洲橋通りに相当する。

慶応4年(18681月に行われた鳥羽伏見の戦いで、勅命に応じて官軍に協力した藤堂高猷は、同年の内に佐久間町前から常盤橋内の小笠原家上屋敷跡に移転し、幕府崩壊の結果、旗本3家とその南側に隣接していた酒井家は国元に戻り、空屋敷となったこの地域は藤堂家上屋敷を含めて新政府が接収した。 

同年9月、藤堂和泉守上屋敷跡に横浜から新政府の軍陣病院が移転してきて大病院と称した。隣接する他の屋敷跡はその抱込地となった。

図22-3 明治4年の藤堂和泉守上屋敷跡の絵図
〈吉田屋又三郎板『東京大絵図』(明治48月改正)による。〉
藤堂和泉守の上屋敷は新政府に接収されて大病院となった。
ここに医学校が移転してきて、大学東校、東校、
第一大区医学校、東京医学校と改称を繰り返して、
1876(明治9)年に本郷元富士町に移転した。

明治2年(18692月、政府は近くの下谷和泉橋通りにあった幕府の医学所を医学校と改称し、移転して大病院に付属させた。同年3月、イギリス公使館付医師W・ウィリスを教師として迎え、医学校での授業を開始した。医師ウィルスは横浜で軍陣病院の医官として勤めていたことから、軍陣病院の移転と共に大病院に勤務していた。大病院と医学校は、設立した当初の一時期、東京府に移管されて医学校兼病院となった。 

同年7月、教育行政機関として大学校が設立され、医学校は昌平学校、開成学校と共にその管轄下に入った。同年12月、大学校が大学と改称され、それに伴い医学校は大学東校、開成学校は大学南校と改称された。そのとき、病院は大学東校の付属とされた。 

明治3(1870) 10 月、大学東校は学校規則を制定して予科と本科の組織が確立された。この新組織に基づき行われた体制について、当時、大学東校に勤務していた石黒忠悳-いしぐろ ただのり-の著わした『懐旧九十年』(岩波文庫、19834月)に、次のような内容が記されている。

      各藩に内示し、甲乙に区別した志願者を募集した。
      甲は有為の少年を対象に56年で卒業させる。西寮または西舎と称する寮舎に入れ、これを本科生とする。
      乙は現に医職にある者若干を入学させ、およそ2ヵ年で成業させる。東寮または東舎に入れ、これを東寮生と云った。
      石黒自身は東寮内の2室を占めて宿泊し、自ら東寮生の授業を担当し、監督まで兼務した。

石黒は主に理化学の講義を担当したが、東寮生には短い年限でひと通りの西洋医学を教える必要があったため、化学の講義案を整理して活版印刷することを企てた。しかし、活字が乏しく困っていた。 

その折、大学で絵を描かせるため雇っていた画家島霞谷-しま かこく-が新しい活字の製造法を発明し、その活字を用いて刷ったのが『化学訓蒙』(初版)である。その冊子を生徒各自に渡して教科書とした。これが医学校で最初の活字出版となった。

活字は島霞谷の自宅に小屋を建て、職人を雇って製造した。組版と印刷・製本は出入りの書肆に頼んだと見られる。
印刷物は教科書として生徒に配布すると共に、一般にも販売され、初期には、大学東校出版とし、浅草茅町二丁目の須原屋伊八と馬喰町二丁目の島村屋利助が発兌した。

大学東校での出版作業は、原稿の作成とゲラ刷りの校正程度で、石黒が使用した2室の内の1室で行われ、ここが東校活版所と呼ばれるようになったと見られる。

明治3年(187011月に島霞谷が病死したため、大学東校では活字の新規鋳造が出来なくなり、翌明治4年(1871415日、大学から活版御用を命じられていた本木昌造の願いが聞届けられて、大学東校区域内の長屋とそれに続く空き地に活版所を設ける許可を得た。

長崎に戻った本木昌造は、活字の品質とコスト面で困難に直面し、平野富次郎を招いて活字製造部門の改革を行った。そのため、大学東校での御用活版所の開設は遅れて、同年10月、門人の小幡正蔵を所長に任命し、活字製造部門の責任者となった平野富次郎に同行して東京に派遣して御用活版所を開設した。この時、すでに大学は廃止されて文部省となっていたことから、大学東校活版所は文部省活版所と改称されていた。そのため、文部省御用活版所と称した。

その間、同年718日、大学が廃止され、それに代わって文部省が神田の湯島聖堂内に新設された。それに伴い、同月21日、大学東校は東校と改称された。東校は文部東校とも称された。東校は、それまでのイギリス医学中心からドイツ医学の教育に移行するに当たり、一旦、閉鎖して規則を改め、同年10月に再開した。

大学東校活版所は東校活版所と改称されたが、同年918日、文部省編集寮が設立されたため、文部省編集寮の所属となり、蕃書調所から大学南校に伝承された活字・印刷機一式が移管された。それに伴い、門長屋とその付属地に活版所が増設されたと見られる。文部省編集寮活版局は文部省活版所と通称された。

文部省編集寮は欧米の書物の翻訳と教科書の編纂を目的としたが、明治5年(1872913日に廃止された。それに伴い活版局は廃止されて、同月20日に辰ノ口の元分析所に開設された正院印書局に活版印刷設備一式を移管した。

以上のことから、東校表門は元藤堂家上屋敷の表門であって、文部省活版所はその表門の東側に連なる門長屋とその付属地にあり、その区域内の同じ門長屋とその付属地を本木昌造が借りていたこと、それに隣接して平野富二が崎陽新塾出張活版製造所を開設したことが類推できる。

(8)門長屋の様子
この門長屋の様子は、安藤広景画 『江戸名所道下盡 十 外神田佐久間町』(安政66月)に描かれており、前ブログ(21)「文部省御用活版所の開設」、図213で紹介した。

ちょうど同じ頃のことになるが、津藩士堀江鍬次郎が藩の留学生として長崎海軍伝習所に入所して砲術を学び、傍らポンペの医学伝習所で化学を学んだ。医学伝習所で安政5年(1858)に入所した上野彦馬と知り合い、共に写真研究をしていた。上野の自宅で薬品類を自製し、銀板、湿板の研究を行い、堀江は藩主の許可を得てオランダ商人ボードウィンから湿板用写真機と薬品を購入した。
万延1年(1860)に、堀江は藩命を受けて江戸に向かった。このとき購入した写真機・薬品を携え、上野彦馬を同道した。江戸では上野彦馬と一緒に神田和泉橋の藤堂家中屋敷に滞在した。なお、藤堂家中屋敷は上屋敷の北方約600メートルの、現在の台東区台東3丁目にあった。

そのとき、堀江は命じられて藩主や重臣、旗本らを撮影したと伝えられている。しかし、現在では堀江が撮ったとされる若い上野彦馬像のひび割れたガラス製湿板写真(日本大学写真学科収蔵)が1点だけ残されているが、その他については発見されていない。 もしも、その時撮った写真が一式揃って発見されれば、その中に上屋敷表門と門長屋の姿も含まれているかも知れない。

この藤堂家上屋敷の表門と門長屋は1876(明治9)年頃までは残されていたらしく、森鷗外は、この門長屋のことを小説『雁』で次のように記している。 

「まだ大学医学部が下谷に有る時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌めた窓の明いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論、今はあんな窓を見ようと思ったって、僅かに丸の内の櫓に残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりは遥かにきゃしゃに出来ている。」 

森林太郎(鷗外)は、1874(明治7)年1月、12歳でありながら14歳として第一大学区医学校に入学した。同年5月に東京医学校と改称されるが、このとき東京医学校は神田和泉町の旧藤堂藩邸にあって、予科生徒は全寮制で、寄宿舎は旧藤堂屋敷の門長屋がそのまま使われていた。東京医学校は1876(明治9)年に神田和泉町から本郷元富士町の大聖寺藩上屋敷跡(現在の東京大学医学部構内)に移転した。

もともと、この門長屋は参勤交代で大名行列に連なった藩士たちの居住に使われ、身分に応じた広さの部屋が割り振られた。表門から入った屋敷内の各部屋の前面には、その部屋に付属する土地と入口が設けられており、入口を入ると土間を介して板の間、その先に座敷があり、板の間から二階に上がる階段が設けられていた。土間の一画に竈-かまど-が置かれていた。 

平野富二が東京に移転して来て3ヶ月ほど後に、1873(明治6)年から改暦が行われるため、太政官から緊急の印刷物の注文を受けた。このとき、深夜まで仕事をする連中が前の通りで売り歩く稲荷寿司屋を呼び止めて、2階の窓から帯の端に代金を結び付けて寿司を買い求めた話が伝えられている。当時、門長屋の2階の部屋が作業室になっていたことが分かる。

まとめ
平野富二が東京で最初に設けた活版製造の拠点は、神田和泉町の旧津藩藤堂家上屋敷の門長屋の一画だった。

この屋敷内の本邸には近代医学を教える東校があり、表門に続く門長屋は東校の生徒たちの宿舎として利用されていた。表門の東側に連なる門長屋と付属地の一画に文部省活版所があって、その近くの部屋と付属地を本木昌造が借り受けて長崎新塾製の活字を販売する文部省御用活版所(所長:小幡正蔵)が設けられていた。 

平野富二は本木昌造が借り受けた部屋と付属地に隣接する数室の部屋と付属地を借り受け、そこに長崎新塾活版製造所を設立して、東京進出の拠点とした。 

この場所は、明治4年(1871)まで、町名が付けられておらず、藤堂和泉守上屋敷として通っていたが、明治5年(1872)に近代戸籍が編製されるに当たって、新しく神田和泉町と名付けられた。そのため、この町名は一般には通用せず、平野富二は新聞広告で「東校表門通り、文部省活版所内」と表示している。 

平野富二による東京進出の最初の拠点となった長崎新塾出張活版製造所の位置を現在の地形図に当てはめると、和泉公園が旗本能勢熊之助の屋敷跡に相当することから、その西側に隣接する和泉小学校の道路沿いの一画にあったと推測される。

図22-3  旧東校表門通りの現状写真
画面の左手の道路が旧東校表門通り(現、佐久間学校通り)で、
中央に見えるコンクリート壁面から先方が旧藤堂家上屋敷で、
道路沿いに堀と門長屋が表門を介して続いていた。
アイビーの絡まる和泉小学校の壁面の辺りは東校表門の東側門長屋で、
この一画に長崎新塾活版製造所が設けられたと見られる。
手前は和泉公園で、ここは旗本能勢熊之助の屋敷地だった。

当時は、その門長屋の大部分が東校生の寄宿舎として利用されていたこと、前面の道路を隔てて佐久間町の民家が軒を連ねていたこともあって、活版製造所の用地としては何かと制約が多かったと見られる。その後、文部省活版所が廃止されたこともあって、平野富二は東京築地に新工場を建設して移転することになる。

この神田和泉町は平野富二の東京進出の第一歩であり、ここが活版印刷の全国的普及の起点となった場所でもあり、そのことを記念すべき土地である。しかし、そのことを示す標識や説明板は何もない。 

この地は、近代医学教育発祥の地と目され、また、初期邦文活版印刷の一拠点となった場所でもある。それらを含めた記念碑の設置を要望する。 

201915日 稿了