活版製造所の築地への移転

はじめに
平野富二が新妻と社員8名を引き連れて長崎から上京し、神田和泉町(現、千代田区神田和泉町一)に長崎新塾出張活版製造所を開設したのは、明治5年(1872)7月であった。
その丁度1年後の明治6年(1873)7月になって、新立地を求めて築地2丁目(現、中央区築地1丁目)に工場を新築して移転した。

神田和泉町時代の当初は、活字の需要はほとんどなく苦労の連続だった。しかしながら、政府が発行する布告類を、手書き複写していた地方の各府県庁に活版で印刷することを働き掛け、さらに、活版印刷機を国産化して提供することにより、世間一般にも活版印刷の利便性が認められるようになった。同時に、なかなか進展しなかった新聞の活版印刷化も次第に行われるようになったことから、活字・活版の需要が急速に伸張しはじめた。

このような状況から、神田和泉町の東校構内にある門長屋を間借りした工場では拡張の余地がなく、もはや限界に達していた。また、同じ構内にあった文部省活版所が廃止されたことから、この地に存在する意味もなくなっていた。

本稿では、築地に移転後に急速に需要が拡大した活字・活版製造のために、当初は120坪(約400㎡)の土地に建てた木造の仮工場を起点として、隣接地をつぎつぎに買増して事務所と各種工場を建設して、東京屈指の一大工場を完成させ、さらなる事業発展の基礎を確立したことを述べ、本木昌造が負っていた負債を完済して、本木昌造との約束を果たしたことから、明治11年(1878)の本木昌造没後3年祭を期に長崎新塾出張活版製造所を本木家に返還するまでを紹介する。

なお、この間に行った活版印刷機の製造、内外博覧会への出品、地方活版所・新聞社への活版化協力については、それぞれ別稿で紹介する予定である。

(1)築地への移転
明治6(1873)年の初夏、平野富二は築地2丁目20番地の土地120坪余り(約400㎡)を買い求めて木造の仮工場を建て、同年7月、神田和泉町から設備・人員とも、すべてをここに移転した。

図26-1 明治6年の築地地区を示す地図
<明治6年「沽券図」、東京都公文書館所蔵>
地図の上部に濃く塗り潰された部分が築地川で、
左上の万年橋から築地川沿いの道路を右手に向かって
1本目の道路から先が築地二丁目となる。
その角が19番地で、
その隣に平野富二が購入した20番地がある。
この地区は
土地区画内に灰色で示す道路の拡幅・新設が計画されていた。
この頃は築地川に祝橋は未だ架けられていない。
この図には土地所有者の名前が記されており、この頃、
築地地区には外務官僚が多く居住していたことが分かる。

このとき新築した仮工場は、木造寄棟造り二階建ての大形建物だった。「銀座の大火」を契機に政府がこの地区に「本家作見合わせ令」を公布し、東京府により焼失地一帯の区画整理と防火のための煉瓦街建設が進められていたことから、木造の本建築は認められなかった。そこで平野富二は、いずれ煉瓦造に建て替えることを条件に仮工場として認可を得たと見られる。この移転のために金3,000円を支出したと伝えられている。

築地地区は幕末まで大部分が大名や旗本の屋敷地だった。明治維新に際して大名や旗本が国元に帰ったため、留守の番人を残すだけの閑散とした土地だった。

明治2年(1869)3月28日の東京奠都(とうきょうてんと)によって新政府の要人が築地周辺の旧大名・旗本屋敷に住み着くようになった。同年4月にいち早く築地に居を構えた大隈重信の屋敷には多くの要人が出入りし、築地の梁山泊といわれていた。

明治5年(1872)2月26日、和田倉門内の兵武省添屋敷から出火して、風下に当たる銀座から京橋、築地一帯の約三千戸が焼失した。この火災はいわゆる「銀座の大火」と称された大火災で、築地ホテル館も全焼して外国人に衝撃を与えた。築地と南飯田町の各半分と明石町の外国人居留地は焼失を免れた。

平野富二一行が長崎から横浜を経由して東京南飯田町の連絡船発着場に着いたのは、その5ヶ月後のことであった。一行は築地から銀座にかけての焼け野原を目にしたはずである。

その一年後に、平野富二は焼失した築地の土地を求めたことになる。当時は、未だ焼け野原となったままの土地も多く、大名・旗本屋敷跡は分割されて政府要人を中心とした者たちに譲渡されたが、政府と東京府による不燃都市化計画に基づく規制が厳しいため、家を建てて移り住む者は少なく、閑散としていた。

この築地地区は、築地川と称する水路に囲まれ、水路は日本橋や京橋にも通じていた。また、横浜の開港場と貨客小型蒸気船で連絡する築地運上所前の発着場(南飯田町)にも近く、明治5年(1872)9月には新橋・横浜間の鉄道が開業したことから、交通運輸に至便な所であった。

また、書籍類の出版・販売を行う書肆(しょし)が多く集まる日本橋や京橋地区への行き来が便利で、また、芝神明前も比較的に近く、活字・活版販売に好適な場所であった。

神田和泉町から移転してきた平野富二夫妻と従業員一同の居住場所は仮工場の一画に用意されたと見られる。

(2)営業活動の再開
移転作業が一段落して営業活動を再開できるようになったことから、明治6年(1873)8月15、16日の両日、『東京日日新聞』に移転広告を出した。

「これまで、神田佐久間町3丁目において活版ならびに銅版(エレキトルタイプ)、熔製摺機械、付属器とも製造いたし来たりそうろうところ、今般、築地2丁目20番地に引き移り、なお盛大に製造、廉価に差上げ申すべくそうろう間、あい変わらず御用向きの諸君、賑々しく御来臨のぼど希望たてまつりそうろうなり。明治6年酉8月 東京築地2丁目萬年橋東角20番地 長崎新塾出張活版製造所 平野富二」

図26-2 築地移転の新聞広告
<『東京日日新聞』、明治6年8月15日付>
この広告では、移転前は神田佐久間町3丁目としているが、
正しくは神田和泉町である。
新しくできた町名のため知る人は少なかったことから
昔からある神田佐久間町3丁目で門前の場所を表示した。
移転後の場所は、
築地川に架かる万年橋の東角から入った先の
築地2丁目20番地であることを示している。

築地に移転して間もない頃のこととして三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(192ページ)に逸話が紹介されている。その一部分を抜粋し、手を加えて紹介する。

「(略)築地二丁目に工場を建てられ、また、世間でも平野先生の活字の宣伝努力がようやく効いて、活字をだんだん用いることになったため、『今の努力が将来をなすものである。今が大切な時期である。』と、非常に馬力を掛けられた。
ちょうど折悪しく長女が病気にかかられて、駒子夫人もどうかして充分養生をさせ、早く癒してやりたいと思われたのは、親心としてもっとものことであった。しかし、何分にも築地に工場をたてて未だ間のない時分であったためと、その上に本木先生の借財を莫大に引き承けられ、世間に未だない新しい事業を始め、それが一体どうなるかということが気に掛かるのは、女心として当然であった。
そういうことから、長女琴(こと)の養生や手当も十分出来ず、ことに夏分は、今日の築地とちがって、昔の築地は大名の屋敷が多かったために家が密集していない関係から、非常に多く蚊が居た。それにもかかわらず、病気にかかった長女琴を背に負い、大勢の人達の三度のまかないから、その間々には、また、セッセと駒摺り(活字の二方をやすりで仕上げること)をせられ、長女琴に充分な手当も出来ずして、ついに死なして仕舞われたそうである。(略)」

この逸話は、築地に移転して間もない頃の出来事としているが、実際には移転してからほぼ2年間の事柄である。

谷中にある墓誌によると、長女琴(古登と表記)は明治8年(1875)7月7日、わずか3歳で病没している。その約3か月後の9月30日には二女津類(つる)が誕生している。

なお、長崎で本木昌造の容体悪化したのは8月中旬のことで、平野富二は取り急ぎ長崎に出掛けて病床を見舞い、9月15日に葬儀を執り行っている。

(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
平野富二は、仮工場を建てた20番地に隣接する19番地と21、22番地、さらに、17、18番地の土地を次々に入手し、20番地に最初に建てた仮工場と棟続きの木造二階建工場建屋を21、22番地の土地に増築した。また、19番地の道路に面した角に瓦葺煉瓦造平屋建の仮家屋(倉庫?)を新築、その横に正門と自費官築による二階建煉瓦家屋(事務所)を新築した。

この二階建煉瓦家屋(事務所)は、東京府が定めた「煉化石建築方法」に基づき所轄官庁の承認を得て土木寮建築局で建築(官築)したもので、明治6(1873)年12月25日に引き渡しを受け、事務所とした。以後、築地活版製造所の住所は築地2丁目19番地となった。

図26-3 新築の煉瓦家屋
<平野活版製造所『活字見本帳』、明治10年>

この新築煉瓦家屋は、
築地2丁目19番地を買増しして建てられた。
間口2丈1尺8寸(6.6m)、奥行3丈6尺8寸(11.15m)、
建坪22坪3合(73.7㎡)だった。
その右横は正門と通用門で、正門は観音開きの木製門扉を備え、
向かって右側門柱に「長崎新塾出張」「活版製造所」と
2行書きした大きな表札を掲げていた。

平野富二は、建築局から煉瓦家屋の引き渡しを受けたが資金繰りが付かず、東京府を通じて明治7年(1874)1月から12月までの分割納入を申し出て許可された。

そのとき東京府に提出した請書に、身元保証人として吉雄永昌(木挽町2丁目18番地)の名前が記されている。吉雄永昌は、長崎でオランダ通詞だった頃は吉雄辰之助と称しており、品川藤十郎の親戚筋にあたる。吉雄永昌と築地活版製造所との関係は子息吉雄永寿まで続くことになる。

図26-4 明治7年の築地活版製造所
<昭和4年10月刊『株式会社東京築地活版製造所紀要』の口絵>

画面右奥の大形建物が最初に建てた仮工場で、
奥に向かって建て増しされている。
右手手前の平屋は窓の構造から煉瓦造りの倉庫と見られる。
左手の建物は、図26-3で示した煉瓦造二階建家屋である。
事務所の右側に正門と通用門が見える。
画面左端の背後にわずかに見える建物は
後に平野富二が購入して居住する住宅家屋の屋根と見られる。

明治7年(1874)10月になって、敷地の前を流れる築地川に木挽町2丁目と築地2丁目を連絡する仮橋が架け渡されることになり、平野富二は東京府に20円を献納している。この頃、仮橋前から築地本願寺の角まで直通する道路が開設された。この仮橋は後に「祝橋」となる。

図26-5  仮橋架設後の築地地図
<明治7年「内務省地理局 五千分一地図」、国会図書館所蔵>

この地区の番地は図26-1に示した番地と同じであるが、
後に祝橋となる仮橋とその延長道路が開設されたことにより、
17、23、26、27番地の土地が削られた。
25番地の華族柳原前光は京都の公卿出身で、
当時は清国駐箚特命全権大使だった。
妹の愛子は大正天皇の生母である。

明治8年6月には23番地の土地と造作付き家屋を購入して、平野富二一家はここに移り住んだ。この家の入口は新たに開設された道路に面していた。

(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
平野富二は、明治7、8年頃(1874、5)の長崎新塾出張築地活版製造所について、次のように述べている。原文は長文であるので、その一部を現代文に改めてここに紹介する。

「明治7、8年の頃になって、世の中はおおいに文明開化の段階に進み、新聞・雑誌類の発行も日増しにその数を増し、布告・布達類も多くは活版で印刷することで統一された。これにより活字の需要先は日に日に拡大し、その販売高も大いに増加し、利益を得ることも少なくなかった。」

ちなみに、平野富二が東京に長崎新塾出張活版製造所を開設して以来の活字販売高を前記資料から示すと、

明治05年(1872)  244,236個     6,448匁    (   24,000g)
明治06年(1873) 2,772,851個   357,388匁   (1,340,205g)
明治07年(1874) 3,656,675個   817,463匁   (3,065,486g)
明治08年(1875) 4,554,334個   1,087,936匁   (4,079,760g)
明治09年(1876) 7,156,734個   1,071,186匁   (4,016,948g)

明治10年(1877) 5,828,255個   1,348,727匁   (5,057,726g)
明治11年(1878) 7,629,375個   1,274,303匁   (4,778,636g)
明治12年(1879) 10,141,035個    1,639,200匁  (6,147,000g)

牧治三郎によると、明治5年(1872)7月に神田和泉町に「長崎新塾活版製造所」を開設して、明治6年(1873)6月までに、四号活字23万個、五号活字22万個を販売し、3,500余円の金額を得たとしている。

明治5 年(1872)8月29日に初めて埼玉県から活字350個の注文を受けてひと息つくことができたということを考えると、隔世の感がある。明治5年の活字販売実績は8月末から12月までの約4ヵ月間の実績であるとみられるが、翌明治6年中旬から販売高が拡大していることが分かる。

このように、順調に発展する活版製造事業の状況は、逐一、本木昌造のもとに報告されていたと見られる。

(5)本木昌造の東京視察
本木昌造は、この頃、長崎で専ら新街私塾の開業の公認に苦労していたが、ようやく開業願書が長崎県に受理されて一段落した明治7年(1874)4月、大阪・京都を経由して東京への視察旅行に出た。

同年5月、上京した本木昌造は築地の長崎新塾出張活版製造所を訪れた。神田和泉町から築地に移転して新装なった事務所と工場を視察し、経営の現状と今後の見通し、設備拡充計画について平野富二から説明を受けた。このとき本木昌造が目にした築地の活版製造所は図26-3の写真に示す状態だったと見られる。

その後、従業員全員を集めて次のような慰労と激励の挨拶をしたことが伝えられている。

「東京での事業は私の予期していた以上に進展している。これは皆さんの協力のお陰である。しかし、事業は未だ道半ばであり、現今の僅かな成功に満足することなく、また、時代の流れに遅れることの無いよう、今後ともますます進歩発展させて欲しい。それには今まで以上に努力、精励が必要である。」その後、本木昌造は、東京の各地を巡って私学・私塾の現状を自分の目で確認し、東京を発って長崎に戻る前、長崎出身の内田九一が経営する内田写真館で撮った記念写真がある。
この写真は、2018年7月31日公開の本シリーズ「本木昌造の活版事業」で紹介しているが、写真に写された本木昌造は、紋付を羽織った姿であるが、眼は落ちくぼみ、頬はこけて、いかにも病気がちであることを想わせる。

本木昌造は、翌年春にも上京して築地を訪れている。その際、大阪の活版所設立のときに五代友厚から受けた融資金の返済について平野富二と相談した。平野富二は、返済金の一部として1,500円と利子90円を本木昌造に渡し、また、残金は本木昌造の養老金として毎月200円を仕送り、その中から支払ってもらうようにした。

本木昌造は、帰途、大阪で五代友厚と面会し、融資金の一部返済とその後の支払いについて了解をとり、肩の荷を下ろして長崎に戻った。間もなく長崎で体調をくずしたため京都に赴き、閑静な郊外で療養していたが、この地で引いた風邪がもとで病床に就くようになった。小康を得て長崎に戻ったが、回復することなく明治8年(1875)9月3日に死去した。52歳だった。

平野富二は、本木昌造の支払うべき五代友厚の負債残金を、本木昌造への養老金をそのまま充当して月賦返済した。これが縁となって平野富二と五代友厚との親交が始まった。

(6)築地に於ける設備増強
明治8年(1875)6月、平野富二は築地活版所に隣接する築地2丁目23番地の土地と建物一式を1,420円で購入し、自分の住居とした。

同年7月には、工場前を流れる築地川の河岸にある水揚場を自費で補修する旨の願書を東京府に提出している。活字類の原材料や製品を、ここから水運を利用して搬入、搬出することを目的とした。

同年9月5日付け『東京日日新聞』に「活字王本木昌造 我が文明の恩人」と題する本木昌造の死去を報ずる記事が掲載された。その中に記者が本木昌造へのお礼と弔問を兼ねて築地活版製造所を訪れたときのことが述べられている。その部分を平易な文章に改めて紹介する。

「なるほど感服したことには、いろいろの字母が出来ていました。横文字はどのような文字でもすべて、西洋の形を模写し、花文字から枠に用いる唐草模様まで揃っています。カタカナ、平がなは申すまでもなく、漢字は明朝風も楷書も大小いろいろあります。
製造中のものでは、極小漢字と二字続き、三字続きの平がな活字があります。これが出来たら今まで以上に便利になるでしょう。
非常に大きな製造場を新しく建ててありましたから、中に入ってみました。そこには大勢の職人が蒸気動力を用いて仕事をしていました。活字ばかりではなく、銅や鉄の加工はなんでも出来ると見えます。」

平野冨二は、新工場を建設すると同時に海外から工作機械を購入し、それを駆動するボイラ・蒸気機関を導入していたことが分かる。

明治9年(1876)5月、神田左衛門河岸(神田和泉町近くの神田川の河岸)にあった300坪余りの木造醸造蔵1棟を買い取り、その用材を用いて活字仕上場を建てた。余った木材でその傍らに長屋2棟を建てて印刷機械製造工場とした。これは、日増しに増大する活字と印刷機の需要に対応して、新たな設備投資を行なったものである。

なお、平野富二は近くの海軍省所轄の石川島修船場が廃止されるとの情報を得て、同年10月末に海軍省との間でその跡地を借用する契約を結んだ。それによって、念願の造船業への進出の足掛かりをえた。

(7)活字類の品揃えと改刻
前項で紹介した『東京日日新聞』の記事にあるように、漢字は明朝風と楷書、カタカナと平がな、各種書体の横文字(欧文文字)、花文字や唐草模様の枠まで揃えていた。これらは、明治9年(1876)に刊行した『活版様式』と明治10年に刊行した『BOOK OF SPECIMENS』に収録されている。

このような活字類の品揃えと共に、平野富二は活字の改刻に着手した。

明治8年(1875)、平野富二は上京後に字母係として雇った小倉吉蔵を上海に派遣して、活字母型のより完全な製法を研究させた。小倉吉蔵は江戸で相当名の売れた神社仏閣の飾金具師小倉吉蔵の長男で、その父のもとで働いていた。
字母の作成は、飾金具の加工と共通するところもあるが、馴れない仕事でもあったので、上海でその製法を習得して、明治10年(1877)に帰国した。ところが、小倉吉蔵は築地活版製造所には戻らず、各地の活版製造所を巡って、習得した新技術を伝授して歩いたという。

本木家に活版製造所を返還した後のことになるが、明治12年(1879)になって、曲田成を上海に派遣し、現地で新たに種字を彫りなおして、肉太のどっしりした字体を特徴とする明朝体を創り出した。いわゆる築地体と称される活字書体の先駆をなすものである。

当時、会計掛だった田中市郎の談話として、「上海から箱崎の三井支店に一握り程の種字が到着すると、いつも70円から100円位の金を持って、その種字を受け取ったものである。その頃の種字は、単に価が高価であるばかりでなく、これを集めるのに並々ならぬ苦心を要したそうである。」と記録されている。

同じ談話記録によると、「築地活版製造所が活字書体の大改革を企画したのは、明治13,4年頃で、竹内芳五郎が彫刻部の主任をしていた。この時は、上海から現地人を2,3人招聘し、所内に寄宿させていた。生活習慣が違うため大変な費用がかかり、結局、改良費が4,5千円も計上されたそうである。」とある。

矢作勝美著『活字=表現・記録・伝達する』によると、このときを「第一次改刻」とし、続いて、次のように順次改刻がなされて築地体が完成したとしている。
「第二次改刻」は、明治17年(1884)、第1次改刻の書体を基礎にして、日本人種字彫刻師による改刻。
「第三次改刻」は、明治22年(1889)、明朝体の整備が一段と進み、一般に築地体と云われるようになる。
「第四次改刻」は、明治28年(1895)、築地体の完成期。
「第五次改刻」は、明治36年(1903)、微調整がなされ築地体完成。

このように、明治12年(1879)から10年がかりで築地体といわれる優れた書体がほぼ出来上がり、明治22年(1889)の段階で平野富二は活版製造事業から手を引くが、その後も改良が重ねられて完成域に達したことが分かる。

なお、明治16年(1883)になって上海に出張所修文館を開設して活字および活版資材の海外販売を行っている。

(8)本木家に活版製造事業を返還
本木昌造の死後、長崎においてその跡を継いで新街私塾の経営を行っていた本木小太郎が新街私塾を畳んだのを期に、平野富二は本木小太郎を活版製造所の大阪支店と東京支店とを統括する長崎本店の経営者として育て上げるため、東京に呼び寄せ、自分の下で教育を行っていた。

明治11年(1878)9月初旬、平野富二は本木小太郎を伴って長崎に赴き、本木昌造没後三年祭を関係者と共に催した。

三年祭の行事が終わったところで、平野富二は活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京での事業として築地活版製造所と石川島造船所の棚卸高合計が130,000円余りに達したことを報告した。そして、その帳簿類一式を添えて、この事業を一旦、本木家に引き継いで貰い、それによって本木昌造と交わした最初の約束を履行したいと申し出た。

この申し出に出席者一同は、唖然としてお互いに顔を見合わせ、差し出された受取書に署名するものはいなかった。出資者一同は座を改めて対応を評議した。

その結果、平野富二の素志を重んじて石川島造船所の資産40,000円余りを平野富二の報酬として与え、活版製造所の資産90,000円余りを本木家と出資者の持ち分として受け取ることとした。さらに、石川島造船所と活版製造所の株金10,000円ずつを双方で交換し、本木家と平野富二との関係を永く続くようにするのが良いと一決した。

平野富二は、これを受け入れ、本木小太郎を活版製造所の所長とし、自らは後見人として事務一切を管理統括することとした。さらに、桑原安六を支配人に指名することとして、東京に戻った。

長崎から帰京した平野富二は、築地活版製造所の組織を次のように変更した。

所   長  本木小太郎
所長後見人  平野富二
支 配 人  桑原安六
副支配人      和田国男
会   計  藤野守一郎、近藤鉄吾、曲田成
店   員  山下槍十郎、秋山 某、宇野 某

部門としては、鋳造部、印刷部、ガラハニー部、字母部、彫刻部、活字仕上部、罫・輪郭部、鋳型部、徒弟部屋があった。その他に石川島造船所徒弟部屋に印刷機械部があった。

この中に印刷部が含まれているが、正式には明治17年(1884)3月になって設置された。明治11年(1878)10月に博聞館から刊行された太政官編『特命全権大使米欧回覧実記』全五巻の印刷製本を築地活版製造所で請負っているので、この時の臨時組織が示されているのかも知れない。

図26-6 平野富二が本木家に返還した頃の築地活版製造所
<明治18年刊『東京盛閣図録』の「活版製造所」>

本図は明治18年刊ではあるが、
明治16年頃の様子を示すものと見られる。
画面右手の木造二階建家屋は最初に建てられた仮工場で、
奥に向かって建て増しされている。
画面左端の煉瓦造2階建家屋は事務所である。
この絵図では、敷地の角にあった倉庫は撤去され、
事務所の左側に建てられる煉瓦造2階建家屋(図の範囲外)は、
用地取得のみで、本木家返還時には未だ存在していなかった。
黒煙を吐く4本の煙突は機械類駆動のための
蒸気発生用石炭焚きボイラの排煙用として設けられた。

なお、明治11年(1978)の『東京府統計書』によると、役員10人、職員32人、職工64人(内、女工1人)、建坪305.0坪と記録されている。

明治12年(1879)1月、平野富二は再び長崎を訪れ、長崎本店に於いて本木小太郎、松田源五郎、品川藤十郎、その他社中の者たちの立ち合いの下、資本区分の明確化を図った。

このとき明確化された平野富二の持ち分は、平野富二の「金銀銭出納帳」に次のように記録されている。

「一金30,000万円也
これは石川島造船所の棚卸資本金40,000円余りから他の借用分を差引いた40,000円の内、10,000円は本木家に活版製造所資本金と引換えた残金である。
 一金10,000円也
これは築地活版製造所の資本金100,000円の内、10,000円相当の株式を所有するもの。ただし、この10,000円は本木社長と示談により引き換えたもの。
 一金3,000円也
築地2 丁目13、14、17、39番地の土地買入金。
明治5年から同7年まで3ヶ年間の月給ならびに褒賞として本木昌造社長から亡くなる前に貰い受けたものである。
 一金600円也
これは浅草西鳥越乙2番地にある精米所の株高の内の自己所有分である。ただし、明治6年に同所に宮益幾平殿が精米所を設置の際に500円出金し、その後、中村六三郎の分100円を引き受けたので、合計600円となる。
 合計金43,600円也が自己所有となる。」

ここに示された平野富二所有の築地2丁目の土地4筆は、明治17年『東京実測全図』(内務省地理局)によると、神田和泉町から移転してきた当時の地番は変更されて、旧19~22番地が新17番地となり、旧17、18番地は新13番地、旧23番地は新14番地になった。

図26-7  『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。
築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は
築地2丁目(貮町目と表示)17番地となり、
築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。
後に、14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とし、
平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、
15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した。

したがって、四辺を道路に囲まれた築地2丁目13番地から17番地の区画は、その北西のほぼ半分が平野富二の所有地と確定し、ここには記載されていないが、その面積は約875坪(2,890㎡余り)となる。その土地の上に活版製造所の建物と諸設備が存在していたことになる。

なお、「金銭出納帳」にある39番地の土地は、図26-7の右下方向にある西本願寺の北東に位置し、堀と道路を隔てて隣接する区画内にある。用途は不明であるが、従業員の宿舎として利用されていたと見られる。

平野富二は、やがて区画の北西半分の所有地を活版製造所に譲渡し、区画の南東半分にある新16番地と新15番地を取得して、明治16年(1883)夏に平野邸を新築して、新14-1番地から移転することになる。以後、平野富二の住居表示は築地2丁目16番地となる。

ま と め
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。

当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて、次々と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。

事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化達成と本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。
また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

令和1年(2019)6月20日 稿了