国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

まえがき
明治維新まで17年前の1851(嘉永4)年、ロンドン万国博覧会が開かれたのを契機として、欧米の首都・商都を中心とした万国博覧会が相次いで開かれるようになった。

わが国が国家として最初に参加した万国博覧会は、幕府時代の1867(慶應3)年にフランスで開催されたパリ万国博覧会だった。この頃、本木昌造は長崎奉行所の支配定役格として長崎製鉄所の経営に苦心しており、一方、平野富二は土佐藩に雇われ小型蒸気船を乗り回しており、印刷事業とは無縁であった。
しかし、江戸商人としてこの万国博覧会に出品参加した清水卯三郎は、書籍の出版・販売にも興味を持っていたことから、フランスみやげとして持ち帰った中に活字母型・印刷機類があった。

パリ万国博覧会から9年後の1876(明治9)年に、アメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会に平野富二は活字・紙型等の各種見本を出品した。本木昌造は前年に死去し、平野富二による築地活版製造所の経営はその確立を目指して新たな発展を遂げていた。
この万国博覧会には、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌が政府事務官として現地に派遣された。このことが平野富二の出品の動機となったと見られる。
平野富二の出品物の中には急いで作成された活字見本帳『活版様式』があったと見られる。また、初めて国産化した小型手引印刷機も含まれていた可能性がある。

明治10年(1877)にわが国最初の内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。平野富二は宿願の造船事業に進出した直後であったが、築地活版製造所製の鉛版活字が平野富二の名前で出品された。このとき、明治10年版とされる本格的な活字見本帳が作成されたが、出品に間に合ったかどうかは定かでない。また、国産化した手引印刷機の出品があって当然であるが、平野富二の名前はなく、他者の名前で出品されたらしい。

その後に引続き開催された内国勧業博覧会や海外の万国博覧会での活字・印刷機の出品については次回「その2」で紹介する。

(1)1867年のパリ万国博覧会 L’Exposition du Paris, 1889
博覧会の概要
慶應3年(1867)1月11日、徳川昭武と随行使節団らは、横浜に碇泊中のフランス郵便「アルヘー号」に乗り組み、フランスに向けて出港した。パリ万国博覧会に参加するため清水卯三郎と従者も同行していた。同年2月29日にマルセイユで上陸し、3月6日、列車でリヨンを経由し、翌7日、パリに到着した。

パリ万国博覧会は、慶應3年2月27日(西暦1867年4月1日)から10月8日(西暦11月3日)まで開催され、一般公開は3月27日(西暦5月1日)からであった。会場はセーヌ河畔のシャン・ド・マルス広場(現在のエッフェル塔広場周辺)で、40ヘクタールを超える敷地に巨大な楕円形陳列会場を建設し、その両側に各国がパビリオンを構えて名産を販売、飲食を提供した。

図28-1 パリ万国博覧会のシャン・ド・マルス会場図
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』,思文閣出版、1985年3月、

原典:Reports of the United States Commissioners
to the Paris Universal Exposition 1867〉
セーヌ川の左岸(図の右端)に面したシャン・ド・マルス広場の中央に
長径530m、短径400mの長円形リング状の主会場が建てられた。
日本の出品区は、日本・シャム(タイ)・中国と共用しており、
日本は91㎡、シャム48㎡、中国73㎡であった。
この共用区は、図の上半部中央右寄りに位置し、会場全体の1%にも満たない。
その近くのアフリカ通りに面してアメリカ出品区がある。
清水卯三郎はこのアメリカ出品区で足踏印刷機を見付けたと見られる。
主会場の左右に各国パビリオンのある庭園が設けられた。
1889年の万博ではセーヌ河寄りの庭園部分にエッフェル塔が建てられた。

慶應元年(1865)3月、幕府は、駐日フランス公使ロッシュからパリ万国博覧会参加を勧められて、将軍徳川慶喜の名代として実弟の徳川昭武をヨーロッパに派遣し、パリ万国博覧会に参加するとともに、条約締結国を歴訪させることとした。

清水卯三郎の参加
博覧会参加については、幕府が諸藩と江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎(38歳)が手を挙げた。幕府は清水卯三郎に博覧会出品蒐集係を命じ、幕府の出展品189箱と清水卯三郎が集めた157箱は、慶應2年(1866)12月14日、先発隊が搭乗した「アゾフ号」で品川沖から発送された。

図28-2 晩年の清水卯三郎
〈清水連郎著「瑞穂屋卯三郎のこと」、『新旧時代』、大正14年12月〉

清水卯三郎(1829~1910)は、現在の埼玉県羽生市で郷士の家に生まれた。
蘭方医佐藤泰然と蘭学者箕作秋坪からオランダ語を学び、
アメリカ公使館書記官ポートマンに日本語を教える代わりに英語を学んだ。
万延元年(1860)に『ゑんぎりしことば』上・下巻を発刊。
文久3年(1863)にイギリス艦隊の旗艦「ユリアラス号」の通訳となり、
薩英戦争で捕虜となった松木弘安と五代才助を横浜で救出した。
幕府御用医師箕作秋坪から勧められてパリ万博に江戸商人として出展した。

パリに到着した清水卯三郎は、連れて来た大工に日本で加工した檜材を組立させて、数寄屋造りの水茶屋を博覧会場内に建てた。開会中、江戸柳橋の3人の芸者がお茶をたて、酒を注いで来訪者をもてなして評判を呼んだ。閉会後、出展物の販売など、残務整理を終えた清水卯三郎は、イギリス経由でアメリカに渡り、明治元年(1868)5月7日、1年4ヶ月ぶりに帰国した。

清水卯三郎は、フランス渡航に際して書家の宮城玄魚に平仮名の版下を依頼し、フランスで活字の字母を作製依頼して持ち帰ったと伝えられている。また、フランスで石版印刷機を購入し、博覧会に展示されていたアメリカのゴードン社製足踏印刷機の精巧さに驚き1台を発注し、イギリスとアメリカを経由して帰国した。

欧米視察から帰国した清水卯三郎は、浅草森田町に店舗を開いて「瑞穂屋卯三郎」と称し、西洋洋書、器具類、薬種類の販売を行い、かたわら石版印刷術を試みた。明治2年(1869)3月20日、浅草森田町から『六合新聞』を創刊したが、新聞紙印行条例に触れて第7号(4月7日)で廃刊となった。

明治2年(1869)の内に自分の店「瑞穂屋」を浅草森田町から日本橋本町3丁目20番地に移し、これまでの業務であった西洋書籍・器械類・薬種類の輸入・販売に加えて、書籍類の出版・販売を主要業務とした。

清水卯三郎の輸入した印刷機
フランスから持ち帰った石版印刷機を瑞穂屋の店頭に置いていたところ、福地桜痴の揮毫による書画会の案内状を印刷するよう依頼され、全く同じ印刷が出来て皆を驚かせたという。『中外新報』(明治2年9月17日)によると、その標語は、「明治二年己巳九月初三日 江戸貧士 桜痴泥隠福地 萬世尚甫氏撰幷書」であったという。

アメリカのゴードン社から輸入した足踏印刷機については、初めに試用しただけで自分では活用しなかった。フランスで造って貰った平仮名字母を使用して活字を鋳造することもなかったという。
条野伝平が『東京日日新聞』を創刊するに当たって、瑞穂屋の足踏印刷機に眼を付けたが、資金不足のため、これを借りることになった。しかし、持ち出しの許可が得られないため、瑞穂屋に通ってその店頭で新聞を摺らせてもらった。条野伝平は、やがて、この印刷機を750円で買取ったという。

『東京日日新聞』は、明治5年(1872)2月21日に創刊されたが、当初は木版摺であった。第2号(2月22日付)から鉛活字により日本橋本町3丁目の瑞穂屋卯三郎の店にあった足踏印刷機を使って印刷を目論んだものの、漢字活字が足りず、第12号(3月2日付)から、再び、木版摺りとなった。第118号(7月2日付)から木刻活字となり、第304号(明治6年3月2日付)から鉛活字となった。しかし、第540号(明治6年11月24日)からは平野富二から購入した5号活字となった。

この第2号から第11号までの新聞印刷に使用された鉛活字は耕文書館製と見られる。耕文書館は、岸田吟香の勧めで上海に渡航した熊谷金次郎が、上海美華書館で活版印刷と活字製造の技術を修得して帰国し、蠣殻町三丁目に活字鋳造擦立所を開設し、同年5月から営業を開始した。
第304号からの鉛活字は工部省勧工寮活字局製と見られる。工部省勧工寮活字局は、明治6年(1873)4月と6月に工部省勧工寮活字局は新聞広告を出して活字の一般向け販売をおこなった。勧工寮活字局は、明治6年(1873)11月9日に製作寮活字局となり、明治7年(1874)8月になって正院印書局に統合された。

清水卯三郎が別途輸入したと見られる他の1台の足踏印刷機は、平野富二がこれを買取り、これを手本にして模造し、国産化を行なった。その国産化を果たした時期は不明であるが、明治10年版とされる『BOOK OF SPECIMENS』に掲載された広告文の中に「足業印刷器械」が含まれている。

(2)フィラデルフィア万国博覧会 The Centennial Exposition, Fairmount Park, Philadelphia.USA
博覧会の概要
明治9年(1876)5月10日から11月10日までアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。

図28-3 フィラデルフィア万国博覧会の会場平面図(部分)
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851~1942』、図30、p.40,

原典:Frank Leslie’s Historical Resister〉
アメリカ建国100年を記念して
フィラデルフィア郊外のフェアモント公園で開催された。
図の下部の大型建物の内、右側が本館、左側が機械館である。
その上部に描かれた広大な公園内に美術館や農業館などが建てられ、
参加各国と共に日本村や日本政府館・売店が設けられた。
わが国では「米国博覧会」、「米国費府博覧会」と記している。
「費府」は「費拉徳費府」の略で、フィラデルフィア府を示す。

アメリカ政府からの参加招請に応じて日本政府が正式に参加を決定したのは明治7年(1874)10月30日のことであるが、すでに同年6月には出品布告がなされていた。
博覧会事務局は、当初、太政官正院の管轄であったが、明治8年(1875)3月31日に内務省勧業局に移管され、事務官が任命された。総裁は内務卿大久保利通、副総裁は西郷従道で、事務官の一人として吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)が任命されている。

わが国の出品物は、博覧会事務局により第一大区「鉱業・冶金術」、第二大区「製造物」、第三大区「教育・知学」、第四大区「美術」、第五大区「機械」、第六大区「農業」、第七大区「園芸」の7区分とされた。活字や印刷物は第三大区に含むものとされ、主展示会場の日本コーナーに展示された。

図28-4 日本コーナーの展示
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』、思文閣出版、1985年3月、

原典:The Masterpieces of the Centennial Exhibition Illustrated〉
主展示会場内に設けられた日本コーナーで、
日の丸の国旗と「帝国日本」の額が掲げられている。
「製造物」に属する陶磁器などの工芸品が中心で、
「教育・知学」に属する印刷関係は、ここには描かれていない。

実際にわが国から出品された点数は総計1,966点で、「製造物」が1,067点で、陶磁器を主体とした工芸品が多くを占めた。「美術」、「農業」の出品物も多かったが、機械会場に展示される「機械」の出品は無かった。したがって、印刷に関する機器類の出品は「教育・知学」として主展示会場内の日本コーナーに展示されたと見られる。会場外には日本家屋の日本館と茶屋、売店が建てられ、「教育・知学」の出品物として扱われた。

平野富二の出品
国立公文書館所蔵の「記録材料」として『米国博覧会報告 第二 明治九年』がある。それに含まれる「出品職工人名表」の自費出品之部の中に「出品物 鉛錫活字、出品主 東京 平野富二、職工 東京 桑原安六」と記録されている。これにより、平野富二は政府の勧奨に応じて鉛錫活字を自費出品したことが分かる。

また、「日本出品区分目録」にも本館展示の第三大区「教育及び知学」、第三百六小区「書籍及び新聞紙等」の中の第三十六号として「出品主 東京築地 平野富二 活字紙型等の見本各種」と記録されている。さらに、「出品原價表」に「活字 五一、三一三 東京府下平野富二」として出品物の原価が表示されている。この原価表示は51円31銭3厘を意味すると見られる。

平野富二に割り当てられた出品番号の前後には、文部省などからの書籍・新聞類の出品が記録されている。平野富二と類似の活字等の出品は見当たらない。

なお、『米国博覧会報告 第一』に「米国博覧会報告書 日本出品解説」がある。主要な出品に限って解説しているためか、第三百六小区の出品物に関する解説は見当たらない。
また、第五大区「機械」の展示として第五百四十小区から五百四十九小区に「印刷製本紙工等ノ機械」が割り当てられているが、そもそも「機械」として機械館に展示する日本からの出品はなかった。

展示会場としては、本館・美術舘・機械舘・農業舘・園芸舘の五舘があり、本館には「鉱業・冶金術」、「製造物」、「教育・知学」が、美術館には「美術」、機械館には「機械」、農業館には「農業」、園芸館には「園芸」が展示された。本館内の日本に割り当てられた第三区ブースは、館内の南側で、西側入口近くであった。

活字見本帳と手引印刷機の出品(考察)
平野富二が鉛錫活字・紙型等の見本各種を出品したことは明記されているが、この見本各種の中に活字見本帳『活版様式』と手引印刷機1台も含まれていた可能性はある。

活字見本帳『活版様式』は、この万国博覧会に合わせて作成されたものと見られる。ハードカバーをめくった扉ページに隷書で「活版様式」とあり、それに続いて事務所と正門を描いた線刻絵図に「1876」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-5 明治9年版活字見本帳の扉ページ
〈板倉雅宣著『活版印刷発達史』、印刷朝暘会、2006年10月〉

この明治9年版活字見本帳は板倉文庫旧蔵のものである。
活字摺見本に書体名の表示はないが、必要とされる各号サイズを揃え、
漢字は明朝・楷書・行書の3種、
平仮名は変体、扁平、上下接続の3種と含み、
片仮名はフリガナ用の7号まである。
その後にStand Pressとして手引印刷機の絵図が掲載されている。

手引印刷機については、活字見本帳『活版様式』に「Stand Press」として絵図が掲載されている。また、川田久長著『活版印刷史』(簡装版)によると、「その博覧会を見物に行った中国の李圭(リー・コイ)が、彼の旅行記の一節に、もとの西洋の機械よりも、立派にできていると大いに日本製の印刷機をほめている」としている。
平野富二の出品物原価51円余りの内、活字紙型と見本帳の原価は他の例から見て10円程度と見られるので、残りの40円程度は手引印刷機である可能性がある。当時の小型手引印刷機の国内における定価は100円とされていた。

図28-6 見本帳に掲載の小型手引印刷機 Stand Press
〈明治9年版活字見本帳『活版様式』、活版製造所 平野富二〉

この手引印刷機は平野富二が初めて国産化した印刷機と見られる。
これと同じ絵図が、
明治6年(1873)2月官許の『万国綱鑑録和解』に
「活字印刷機械之図 東京築地 平野富二製造」として掲載されている。

平野富二がこのフィラデルフィア万国博覧会に鉛錫活字を出品することになった経緯については良く分かっていないが、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌の存在を見逃す訳にはいかない。

政府事務官として渡航した吉雄永昌
吉雄永昌は、長崎のオランダ通詞出身で、吉雄辰太郎と称していた。品川藤十郎や吉雄圭斎とは祖先を同じくする遠い親戚である。明治になって大蔵省出仕を命じられて上京し、明治4年(1871)の岩倉米欧使節団に随員として参加した。明治9年(1876)には事務官としてフィラデルフィア万国博覧会に関わり、アメリカに渡航している。

平野富二が、築地二丁目に官庁に依頼して新築した煉瓦造二階建事務所の代金支払いに当たって、明治6年(1873)12月に月賦納付を申請したとき、吉雄永昌はその保証人となっている。おそらく品川藤十郎を通じて面識を得たと推測される。その後、吉雄永昌は、築地活版製造所が株式組織に改組されるときに株主の一人となり、後年、その息子吉雄永寿は東京築地活版製造所の専務取締役に就任している。

平野富二は、渡米した吉雄永昌を通じて、アメリカ印刷界の最新情報入手と、金子を渡して活字見本帳や参考資料の購入を依頼したと見られる。

(3)第一回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治10年(1877)8月21日から11月30日までの会期で東京の上野公園内(寛永寺本坊跡)に於いて第一回内国勧業博覧会が開催された。この博覧会の出品物展示として、会場正面に美術本館、西側に西本館、機械館、園芸館、東側に東本館、農業館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上に大時計が掲げられた。

図28-7 第一回内国勧業博覧会場略図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

寛永寺旧本坊表門だった観覧人入口を入ると、正面に美術館がある。
会場の東側(画面右側)に農業館と東本館、
西側(画面左側)に園芸館と機械館、西本館が建てられ、奥に動物館がある。

出品物は第1区:鉱業・冶金、第2区:製品、第3区:美術、第4区:機械、第5区:農業、第6区:園芸に区分され、府県別に陳列された。出品点数は8万4千点で、出品人員は1万6千人、会期中の観覧者数は45万人だった。審査によって優秀な出品物には一等(龍紋賞牌)、二等(鳳凰紋賞牌)、三等(唐草文賞牌)が授与された。

平野富二による鉛版活字の出品
平野富二は、築地活版製造所で製造した楷書・仮名等の鉛版活字を出品し、鳳紋賞牌を授与された。そのときの審査官長前島密らの褒状薦告には、「楷書及ビ假名等活字ノ鑿品字體整美ニシテ頗ル精巧ナリ。右ノ事項ニ因リ鳳紋賞牌ヲ附與アランコトヲ申請ス」とある。これにより内務卿大久保利通が授与を決済している。

鉛版活字と共に活字見本帳も出品したと見られる。しかし、平野家に所蔵されている明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(MOTOGI & HIRANO、Tsukiji Tokio. Japan)には、その刊記に年月日の表示はない。英文刷見本の中に「Tokio, Dec. 5th, 1877」と書いた例文があり、この日付は博覧会が閉会した後のものである。

したがって、平野富二は、第一回内国勧業博覧会に最新の活字見本帳を出品することを意図していたが間に合わず、代わりに明治9年版『活版様式』と明治10年(1877)4月に刊行された四号明朝体活字見本『活字摘要録 全』が展示した可能性がある。

当時、造船事業で建造中の洋式帆船をキャンセルされた平野富二は、顧客との折衝と折から勃発した西南戦争の動向把握のため、大阪に出張した。滞在1ヶ月で持病再発の兆しがあって帰京し、6月末から草津温泉で療養している。このような事情で、博覧会の準備に充分な時間をとる余裕がなかったと見られる。

明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』は、サイズ228×169ミリメートル、片面印刷111枚綴りのハードカバー本である。その見開きページに築地活版製造所の正門と煉瓦家屋の木口木版と見られる絵図(明治9年版と同じ)が単独で印刷されている。これに続いて、内表紙として「BOOK OF SPECIMENS」と題したページと、「THE Printers’ Handy Book of SPECIMENS」と題したページがある。この2枚のページには本木昌造の紋章である「丸も」と平野富二を示すドイツ文字「H」を組み合わせたマークが示されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-8 活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』
〈平野ホール所蔵〉

この2枚の表題には出版年が記されていない。
明治9年版と比較すると内容が充実し、分厚いものとなっている。
103ページに「Hand Press」として、
明治9年版で「Stand Press」として掲載された絵図がある。
5ページの広告にある3種類の活版印刷機は、
明治12年版の活字見本帳に絵図が掲載された。

続いて広告のページがあり、その中に「活字製造円形の活版摺器械」と「手業ならびに足業活版摺写押器械類」が含まれている。つまり、「円形」、「手業」、「足業」の3種類の印刷機の国産化を行ない、販売に供していたことが分かる。

本文は、漢字・仮名文字見本20ページ、各種洋文字見本24ページ、各種花文字見本39ページ、各種カット絵図17ページ、各種活版印刷用具類絵図5ページによって構成されている。103ページには「Hand Press」としてアルビオン型小型手引印刷機の絵図が掲載されている。この絵図は、明治9年版『活版様式』に「Stand Press」として掲載された絵図と同一である。

印刷機の出品
野村長三郎(東京府南茅場町)と加藤復重郎(浅草森田町)がそれぞれ印刷機を出品している。しかし、平野富二は、すでに3機種の印刷機を販売に供していたが、その名前による博覧会での出品はなかった。

野村長三郎が出品した印刷機(第六十三図として絵図がある)は、いわゆるアルビオン形手引印刷機で、その出品解説を現代文に直して紹介すると次のようになる。

第六十三図は、外国から輸入した印刷機を摸造したものである。原型に従って木型を採り、それより砂型を造り、西洋産の生鉄を用いて左右の鉄柱と上下の鉄部などを鋳造した。それに附属する部品は鍛造の上、ヤスリで仕上げた。
活字組版を(イ)に示す木枠内に置く。別置した(ロ)に示す台上でインキを均一に塗布したローラーを用いて活字組版の上面を転がしてインキを塗布する。印刷する用紙を(ハ)に示す紙挟みに取付け、活字組版の上にかぶせる。(紙挟みと活字組版を載せた)枠台を圧板の下に移動させて、(ニ)に示すハンドルを引いて圧板を降下させ、押圧して用紙に印刷する。

図28-9 野村長十郎出品の印刷機絵図
〈内国勧業博覧会事務局『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

手引印刷機とインキ台を示す絵図である。
出品解説に示す符号は判読できないが、
(イ)は印刷機本体の右にある一本支柱の上にある枠を示す。
(ロ)は右手に別置されたインキ台、
(ハ)は印刷機本体の右端に立てかけられた貼子、
(ニ)は印刷機本体に取り付けられたハンドルを示す。
この絵図をコピーして符号を除き、部分加筆と削除を行った絵図が
明治12年版活字見本帳に「活版手業機械」として掲載されている。

それに続く明細表によると、「製額」は10個で1,730円、「創製年歴」は明治9年(1876)7月、「工名地名」は伊藤常次郎 東京府南茅場町、「出品人名」は野村長三郎 となっている。しかし、後に正誤表により「工名地名」の名前と住所は削除された。

板倉雅宣氏によると、「野村長三郎は神澤社を持ち、南茅場町14番地に住んでいた。明治10年(1877)1月19日に、『仮名旁訓公布日報』を出版するため太政官に謄写を申し出て許可を得ている。彼はこの本を印刷するために手引印刷機を創製したのである。」とある。

しかし、野村長三郎が、自身で出版のために印刷機1台を外国から輸入したかも知れないが、それを基に10台も模造したとは考えられない。

出品解説の絵図は、内務省製品図面掛によって作成された線刻銅板画であるが、平野富二の活字見本帳(明治12年6月発行)に掲載されているPrinting Hand Press (活版手業機械)の絵図と酷似している。これは、出品解説の絵図を手本として、図中の符号を削除するなどして作成されたと見られる。野村長三郎と平野富二との関係についての考察は後に述べる。

加藤復重郎の出品した印刷機は、木材と鉄板等を用いて造った簡単な手動式ロール印刷機で、活字組版を水平台上に載せ、組版の上を手動でローラーを往復させる構造となっている。これは、明治7年(1874)に海外から輸入された印刷機を参考とし、考案・工夫して作成したもので、明治8年(1875)に印刷所を設けて自家用として使用したと述べている。

図28-10  加藤復重郎出品の手動式ロール印刷機
〈内国勧業博覧会事務局編『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

当時、このような簡易印刷機が輸入されていたことが分かる。
本図は単に参考として示したもので、機構の説明については省略する。

加藤複重郎は、明治6年(1873)5月、浅草に加藤活版所を設立し、明治14年(1881)2月に「活版印刷営業組合設立願」が東京府知事に提出されたとき、その一員に加わっている。加藤復重郎については、津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』に、「わが国最初の鉛版師」としてその経歴が紹介されている。

博覧会への出品とは別であるが、日報社(総代條野伝平)は博覧会の機械館内に印刷機を持ち込み、『東京日日新聞』の付録として、日々の景況、場内の遺失物、出品物の売上高を印刷し、無料で配布した。これにより、来会人に知識を開かせることにもなるとした。

平野富二が印刷機を出品しなかった理由(考察)
この博覧会には、平野富二の名前で鉛版活字が出品されたが、活版印刷機の出品はなかった。その理由は明らかではないが、博覧会開催直前の明治10年(1877)2月中旬に勃発した西南戦争により、それを報じる新聞の発行部数が急増したため、各新聞社で活版印刷機の増設需要が高まり、平野富二は出品できる活版印刷機が手元に皆無となってしまったと推察される。

平野富二は、明治9年(1876)に美濃二枚刷の大型手引印刷機の国産化を行なって、四国徳島の普及社に納入している。普及社は同年4月21日に『普通新聞』(タブロイド判二つ折り)を創刊している。タブロイド判は美濃二枚のサイズに相当する。

以下は推測にすぎないが、平野富二は、すでに国産化した手引印刷機が小型のため顧客の要求に対応できないことから、海外から輸入された大型手引印刷機を入手し、これを分解してスケッチし、図面化した。明治8年(1875)11月に友人の杉山徳三郎が横浜製鉄所を借用して機械製造を開始したことから、まず手始めに10台の製造を杉山徳三郎に依頼し、完成したものから順次、引き合いに応じて販売に供した。その中に四国普及社と野村長三郎に納入したものが含まれていた。平野富二は、明治9年(1876)5月になって横浜製鉄所の事業に出資して経営に加わっている。

明治10年(1877)2月に西南戦争が勃発し、その戦況を報道する新聞の発行部数が急激に伸びた。そのため、平野富二が製造した大型手引印刷機は、第一回内国勧業博覧会に出品する予定の製品も含めて、たちまち売り切れてしまった。その対応として、野村長三郎に依頼して先に納入した印刷機を所有者野村長三郎の名前で出品してもらったのではないだろうか。その間、野村長三郎には代替として輸入機を提供して便宜を図ったと考えられる。

野村長三郎の名前で出品したことについては、平野富二は、当時、即納を要求された顧客に対して販売できる活版印刷機が手元に一台も無いとして断っていた手前、自分の名前で出品することが出来なかったのではないだろうか。また、届け出た製造者名と住所については、出入りの業者の了解を得て、その名前と住所と使用したが、事実でないことが判明したことから削除されたと見られる。

府下縦覧工場として指定
この勧業博覧会の開場中、府下縦覧工場として19工場を指定して希望者に工場を縦覧させた。その中に築地活版製造所と石川島平野造船所があった。その他、出版印刷関係の工場としては、日報社(尾張町一丁目)、報知社(薬研堀町)、日就社(銀さ一丁目)、製紙会社(王子村)が含まれていた。

まとめ
幕末から明治期に開催された博覧会に出品された鉛活字と印刷機は、近代化を目指すわが国にとって文明の利器として欠くことのできないものとなった。

1867(慶應3)年4月にフランスでパリ万国博覧会が開催された。これは、わが国が国家として最初に参加した万国博覧会であった。幕府は自らの出品と共に諸藩や江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎が手を挙げた。
活字と印刷機については時期尚早のため、わが国の出品物の中には無かった。しかし、江戸商人として参加した清水卯三郎の「フランスみやげ」の中に、仮名文字の活字母型、石版印刷機と足踏印刷機があった。
活字母型は宮城玄魚による平仮名の版下を持参してフランスで作製依頼したものであるが、活字鋳造は行われなかったという。石版印刷機と足踏印刷機については清水卯三郎自身では使用せず、販売のため店先に置いてあった。
この足踏印刷機は、後に条野伝平がこれに眼を付け、『東京日日新聞』の創刊に関わることになった。また、別の一台は平野富二による足踏印刷機の国産化対象となった。

1876(明治9)年5月にアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。この万国博覧会参加のために政府事務官の一人として任命された吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)は、平野富二と知己であったことから、平野富二による「活字紙型等の見本各種」の出品がなされたと見られる。
この見本各種の中には、明治9年版活字見本帳『活版様式』と小形手引印刷機が含まれていたと見られる。これらについて考察を加えた。また、吉雄永昌について平野富二、築地活版製造所との関連を参考に述べた。

明治10年(1877)8月に第一回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。これはわが国政府主催の最初の博覧会であった。このとき平野富二は築地活版製造所で製造した「楷書・仮名等の鉛版活字」を出品した。しかし、平野富二の名前で出品した印刷機はなかった。
このとき、「鉛版活字」の摺り見本として明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』が一緒に出品されたと見られるが、疑問もある。また、国産化した活版印刷機を本格的に製造できる体制を整えたにも拘わらず、平野富二の名前で出品された印刷機はなく、築地活版製造所で造られたとみられる手引印刷機が、出版人である野村長三郎の名前で出品された。これらについて考察を加えた。

引続き第二回内国勧業博覧会(明治14年3月開催)、ロンドン発明品博覧会(明治17年5月)、第三回内国勧業博覧会(明治23年4月開催)などが開催されたが、これらについては、次回ブログ「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)」で紹介する。

2019年12月17日 稿了