五代友厚、平野富二の事業を支援した人(その1)

ま え が き

今回から「平野富二の事業を支援した人」をメインテーマとして、その最初に「五代友厚」を採り上げる。その順序は時期や支援の内容と関係なく、拙著『平野富二伝』に盛り込むことのできなかった新たな資料や知見を紹介できるものから順次紹介する。

五代友厚については、すでに本シリーズの第14回「ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場」(2018年3月28日公開)、第18回「本木昌造の活版事業」(2018年7月31日公開)、ならびに、第19回「五代友厚と大阪活版所」(2018年8月18日公開)の中で紹介した。

図36‐1 大阪時代の五代友厚

第14回で採り上げた小菅修船場は、五代友厚が中心となって薩摩藩で起案され、イギリス商人グラバーの共同出資により建設された。その後、新政府がこれを買い取って長崎製鉄所の付属とし、技術担当所長として平野富二が任命された。したがって、五代友厚と平野富二との関係は間接的なものであった。

第18回で採り上げた本木昌造の活版事業では、本木昌造が薩摩藩から和洋活字一式と活版印刷機を譲り受けたことを述べた。この活字と印刷機は、五代友厚が部下の堀孝之に編纂させた和訳英辞書を印刷するため、薩摩藩の儒学者重野安繹と相談して上海美華書館から購入したが、この設備の扱い方が分からず、未使用のまま御蔵入りとなっていたものである。その後、大阪で新聞発行を計画していた五代友厚は、本木昌造が鋳造活字の製造に成功したことを知って長崎の本木昌造を訪問した。結果として、五代友厚の要請と融資により本木昌造は大阪に活版所を設けた。

第19回では、第18回の続きとして大阪活版所の運営における五代友厚の関与を中心に述べた。大阪活版所の最初の仕事は、五代友厚が小松帯刀の要請を受けた『二十一史』(中国の史書)の活版による覆刻で、小松帯刀の病死による中止となり、その代替として『和訳英辞書』の出版であった。しかし、辞書用活字の製造が思うに任せず、本木昌造の活版事業は進退きわまり、平野富二が活字製造部門の改革と経営を任されることになった。平野富二は『和訳英辞書』の出版辞退を五代友厚に申入れ、そのときから、関係を持つようになった。

本稿では、平野富二が五代友厚に宛てた書簡の中に見られる造船事業の経営に関わる事柄通じて、五代友厚の協力内容を紹介する。
なお、五代友厚は、鹿児島の本家から独立して大阪を生活の拠点とした年である明治3年(1870)6月に「才助」を改名して「友厚」と名乗った。本稿では「友厚」に統一して表記する。

 

1.五代友厚に宛てた平野富二の書簡

五代友厚は各界の人達から寄せられた書簡を中心とする膨大は資料を保存し、遺していた。それらは大阪商工会議所に寄贈され、現在、「五代友厚関係文書」として保管されている。
それらの文書の多くは日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料』に織り込まれて東洋経済新報社から出版されている。しかし、この中に平野富二からの書簡は含まれていない。

一方、大阪商工会議所が発行した『五代友厚関係文書目録』によると、「平野富二書翰」が5通含まれていることが分かった。なお、この目録では「書翰」(筆で書いた書簡)と表記しているが、本稿では一般的な「書簡」で表記する。

平野富二の書簡はR13-32からR13-36までの符号が付けられており、月日順となっているが、年代順とは限らない。書簡の用紙は、最初のR13-32は「石川島」と「平野」を縦書き二行に分かち書きした「石川島平野造船所」の便箋、次のR13-33は巻紙、その他はすべて「築地」を横書きにした「築地活版製造所」の便箋が用いられている。

R13-32は、年始の挨拶に続いて前年末に発生した大火で造船所が罹災したことが述べられている。これにより、明治13年(1880)1月5日付の書簡であることが分かる。

R13-33は、会津赤岩銅山の持主浅田道貫(新潟県人)が五代友厚と面会を希望している旨を述べている。日付は1月31日となっているが、これだけでは該当年は特定できない。

R13-34は、上京中の五代友厚に面会し、石川島造船所を海軍省から借用する際に交わした約定書の更改要求について平野富二が協力を懇願したこと、その後の海軍省との交渉が進展していることを述べている。追伸として横須賀造船所長の遠武秀行からの依頼事項を伝えている。このことから、明治11年(1878)7月5日付の書簡であることが分かる。

R13-35は、石川島造船所の件がようやく更改契約の運びとなったこと、注文を受けていた藍〆器械を、一部を除き、送ったことの報告である。このことから、明治11年(1878)9月20日付の書簡であることが分かる。

R13-36は、北地より到来した鮭2尾を進呈することの通知と、その後の御様子伺いの書簡である。これだけでは該当年は断定できないが、平野富二は明治13年(1880)に新潟と函館に出張していることから、明治13年(1880)11月19日付と推定される。

 

2.造船事業での五代友厚の協力内容

平野富二が石川島修船場の跡地を海軍省から借用して造船事業に進出したのは明治9年(1876)10月のことである。そのとき、五代友厚の協力があったことを示唆する兆候がある。それは、平野富二が海軍省主船局との間で交わした契約書に保証人として岩瀬公圃が名を連ねていることである。

岩瀬公圃(1832~1891)は、オランダ通詞出身で、文久2年(1862)に幕府が千歳丸を上海に派遣するに際して五代友厚を変名で水夫として乗組ませる手引きをしたと云われている。グラバーと薩摩藩による小菅修船場の建設では五代友厚の下で現場監督を勤めた。その後、大阪に出て五代友厚の下で勤務した後、東京の新栄町1丁目(現在の中央区入船1丁目、聖路加看護大学の敷地)に設けた五代友厚の東京事務所の主任理事として派遣されていた。
したがって、岩瀬公圃はその立場上、五代友厚の指示なしには勝手に平野富二の保証人になることはできなかった筈である。その後の石川島造船所の再契約と部分更改契約、さらに、明治12年(1879)12月に横須賀海軍造船所と契約した横浜製鉄所借用の際も保証人になっている。

図36-2 晩年の岩瀬公圃
保証人としての住所は新榮町7丁目1番地となっている。

この場所には五代友厚が明治6年10月に事務所と屋敷を設けて、
岩瀬公圃が主任理事として派遣されてきた。
ここの屋敷は岩瀬の住居であり、五代友厚東京滞在中の東京別邸でもあった。
鉱山経営のための弘成館が設立された時、ここに東弘成館が置かれた。
同じ区画内で隣接する入船町8丁目1番地には
精藍事業のための(東)朝陽館が設けられた。
岩瀬公圃は明治16年(1883)2月から明治20年(1887)7月まで
東京馬車鉄道会社の取締役を務めている。
晩年は長崎に戻り余生を送った。

五代友厚が平野富二の造船事業における協力者であったことを示す資料は平野富二の書簡R13-34R13-35である。この2通の書簡を現代文に直して以下に紹介する。なお、原文は国立国会図書館所蔵のマイクロフィルムで閲覧できる。

書簡R13-34
梅雨降り続く季節、御地は如何でしょうか。さぞかし時期から見て日程を御固めの事と遠くからお察しして居ります。
さて、御船中も御無事に大阪にお帰りのご様子を拝聴しております。東京に御滞留中は実に色々と煩わしい事ばかりを歎願申上げ、さぞかし御迷惑と存じて居ります。
その後、石川島に於いて主船頭(主船寮の長官)にも面会したところ、石川島造船所の用地拝借年限、あるいは、利益金上納方法などについて、詳細を別紙にして提出するようご指示がありましたので提出して置きました。さぞかし、昨今にでも主船寮よりお回しになる事と存じます。最早、近々に何らかの御沙汰があると存じます。
全くこの度の事柄については尊公様の御尽力により、このようになったことと悦んでおります。
なお、この上ながら、然るべき様お願い申し上げます。
右感謝申し上げたく、かたがた、御伺い迄。早々拝具。
(明治一一年)七月五日                   平野富二
   五代友厚公
      閣下

なおなお、この中、遠武公より、拝面の節、御地にて御捌きの丁銅(なまこ形の銅地金)は月々何ほど位の生産高で、かつ、価格はいかほどかに付き、お序のときにでも先方にご一報遣わして下さりたいとの伝言がありましたので、この件を申上げ置きます。内情は、追々、銅板あるいはパイプの類を製造される見込みが有るように見受けられます。当面は、ただ、鎖等の鋳造に少々必要のご様子でした。

書簡R13-35
冷気たたずむ頃となりましたが、御令家様にはお変りも無くお慶び申し上げます。
さて、かねてからご厚配頂いていた石川島の一件もようやくご示令頂けるよう、昨今、その運びとなりました。この節はことのほか遠武公のご尽力で、全く五代大人のご尽力があって、このように事が運んだ事と感謝いたします。いずれ、二、三日中には東京府を通じてご示令になることと存じています。
ご多忙の中、何とも申し上げかねますが、遠武氏には御書をご出状下さりたく、伏してお願い申し上げます。いずれ、ご示令を落手しましたら、早速、ご礼状を差出します。
今便で藍〆器械をお送りいたしました。鉄箱については、今便までには間に合わなかったので、仮に木製のものを添え置きました。いずれ、ポンプと蒸気(ボイラーと蒸気エンジン)、並びに藍〆箱をも次便には間違いなくお送り申します。このように、変更しては申し訳ないことと存じますが、何分、職工が手間取り、変更しましたことをお許し願います。
製藍〆箱の件も、同様で、厚さ二、三歩とのご注文ではありますが、三百貫目以上の圧力とするようご指示があるので、右の寸法では(強度を)保つことが出来ませんので、別紙図面の通り製造して置きます故、次便までには間違いなくすべて完成します。今便では右の図面だけ差出し置きます。
なにとぞご勘考をお願いいたします。
〆器械も今便でお送りした分は、およそ四百貫目の圧力ですが、あまり多数であるので御地(大阪)の活版所境三造よりお下げ渡し下されたく、なお、小形の分を製造して納入してもよろしく、決して不用にはなりませんので、お心遣いなく然るべくお下げ渡し願います。
まずは、変更のお詫びかたがた、要用を申上げたく。早々拝具
(明治一一年)九月廿日                平野富二拝上
   五代公閣下

最初の書簡は、東京に滞在中の五代友厚に面会したこと、石川島造船所の用地拝借条件変更について協力を懇願したこと、海軍省の主船頭にも面会し、その指示により希望条件を別紙として差し出たこと、が述べられている。
追伸として、横須賀造船所長の遠武秀行と面談したこと、その際、五代友厚が扱っている銅地金の生産高と価格を教えて欲しいとの伝言があったことを述べている。

次の書簡は、2か月半後に出状したもので、石川島の一件は希望通りに受け入れられる見通しとなったこと、遠武秀行の尽力が大きかったこと、これは全て五代友厚の尽力でこのように(希望どおりに)なったこと、2、3日中に東京府を通じて指示ある見込みであることを伝え、遠武秀行に一筆書くようお願いしている。
別件として、五代友厚から注文を受けていた藍絞器械の納入と仕様変更などについて述べている。

図36-3 明治11年の築地地区と石川島の地形図
<『実測東京全図』、地理局、明治11年6月、部分>
本図は東京の築地地区と石川島地区の位置関係を示す。
❶は築地活版製造所と平野冨二邸
❷は五代友厚の東京事務所と岩瀬公圃の住居
❸は石川島平野造船所、❹は海軍省主船寮の所在地
この内、❶と❷は直線距離で約500mである。

3.平野富二の石川島造船所借用契約について
平野富二は、明治9年(1876)6月14日付で石川島造船所の用地拝借願書を、その2ケ月後の同年8月3日付で同所機械工場の拝借追願書を東京府の権知事楠本正隆を通じて海軍省の海軍大輔川村純義に提出している。
その結果、同年9月19日に海軍省から東京府を通じて「ドックを機械地所とも貸渡すので、委細は主船局に伺い出ること」との回答を得た。主船局との間で拝借条件の詰めを行った結果、明治9年(1876)10月30日付で契約書の調印が行われた。この契約書には平野富二の保証人として岩瀬公圃も名前を連ねている。

その後、契約条件に従い、1年後の明治10年(1877)11月29日付で借用料の増額と納金方法について再契約書が交わされた。
その間、平野富二は造船所としての機能を整備するため、多大の設備投資を行い、更にその後も投資を継続する必要があった。

明治11年(1878)になって、平野富二は2月と8月の二度にわたって東京府知事を通じて政府資金融資の願書を提出している。そのときに提出した担保物件リストによると、すでに石川島に3万円相当(現在では1.5~2億円に相当)の自己資金で器械類・建屋を投資していることが分かる。政府からの融資はいずれも認可されなかった。

資金窮乏の中、平野富二は改めて海軍省と交わした契約書を読み直したと見られる。
その結果、

①借用期間が明治16年(1883)9月までと短く、長期経営に不安要素となること。
②拝借物破損時の対応条件が不明確で、その弁償で経営を圧迫されかねないこと。
③3ヶ月前の事前通告により他所に移転しなければならないとすることは、事業の継続を困難にすること。

の3点が、多大な追加投資を行った立場からすると、破産・廃業に追い込まれかねないとの重大な懸念をいだかざるを得ず、何としても更改してもらうことを決意したと見られる。

そこで平野富二は、海軍省を事実上主導している薩摩出身の川村純義に当たるしかないと考え、同じ薩摩出身の五代友厚に相談したと見られる。

本件に関して、明治11年(1878)中の関連動向について防衛研究所図書館所蔵の海軍省史料等により追ってみると、次の様になる。

・4月22日、平野富二は契約書の部分更改についての願書を海軍省主船局に提出。
・5月16日、主船局は海軍大輔川村純義に上申書を提出し、川村純義は「海軍省では今後、石川島使用の見込みなし」とした。
・5月27日、川村純義から主船局に「原則許可」を伝達。
・その結果、主船局で原案を作成し、平野富二と協議。
(7月5日、平野富二から五代友厚に礼状出状R13-64
・8月12日、主船局から川村純義に更改案の伺書を提出。
・8月14日、川村純義から許可。
・8月22日、主船局と平野富二が部分更正追加契約書に調印。
(9月20日、平野富二から五代友厚宛てに報告R13-65

ここから推測されることは、平野富二が五代友厚に面会した時期は4月22日前後で、五代友厚は、早速、川村純義に平野富二が契約更改を懇願していることを伝えたと見られることである。

五代友厚と川村純義は、安政4年(1857)2月から翌年10月まで、共に薩摩藩から派遣されて長崎海軍伝習所で学んだ仲である。また、文久3年(1863)7月の薩英戦争で五代友厚がイギリス軍艦に捕らわれて横浜に連行され、その後、通訳をしていた清水卯三郎の手引きで武州羽生の近郷に潜伏、時期を見てひそかに長崎に戻って素封家酒井三造の家に潜伏していた時に御小姓役の川村純義が面会に訪れ、その結果、元治元年(1864)6月、藩主の許しを得ることができたと云う話がある。

 

4.当時の海軍造船所を管理する海軍省内の組織と人事
先に紹介した2通の書簡に出てくる「主船頭」、「主船寮」、「遠武公」について、また、更改契約書に調印した「主船局長 石川利行」について、当時の海軍省内でどのような位置づけだったかを知るため、海軍省内の関係組織変更と人事異動について要約すると次のようになる。

海軍省では、明治5年(1872)5月8日に横須賀造船所と横浜製鉄所を工部省から移管され、それを機に従来の「造船局」が明治5年(1872)10月13日に廃止され、それに代えて本局組織に含まれない海軍卿直属の「主船寮」が設けられた。主船寮は海軍省所属の造船所を管理した。

「主船寮」の長官は「主船頭」と称された。当初欠員だったが、同年10月24日に海軍大丞赤松則良が主船頭を兼任した。明治6年(1873)5月29日に肥田浜五郎が欧米視察から帰国して海軍大丞・主船頭に任命され、横須賀造船所の事務管理を兼任した。「主船寮」は、明治7年5月18日に石川島の新事務所に移転した。

明治8年(1875)11月になって、主船頭肥田浜五郎は「今後、石川島修船所における修理船工事は横須賀造船所に移管する」旨を通達している。肥田浜五郎は一時病気となって主船頭を解かれ、代わって明治9年(1876)1月23日に海軍少将・海軍大丞赤松則良が主船頭に就任した。このとき横須賀造船所長官を兼任して横須賀在勤となり、主船頭不在中の寮務代理として主船助石川利行が任命された。また、横須賀造船所長官不在中の所務代理として海軍秘書官兼主船助遠武秀行が任命された。遠竹秀幸は明治5年(1872)まで工部省下の横須賀造船所長官だった。

明治9年7月26日、赤松則良に代わって再び肥田為良(浜五郎)が主船頭兼横須賀造船所長官に就任した。その時、主船助石川利行は主船寮庶務代理を命じられた。しかし、同年8月8日、肥田為良は主船頭と横須賀造船所長官を免ぜられ、代わって海軍秘書官兼主船助だった遠竹秀行が横須賀造船所長官に任命された。

主船寮は明治9年8月31日に廃止され、翌9月1日、海軍省の本省内組織として「主船局」が設置され、海軍少丞石川利行が主船局長に就任した。

平野富二の書簡に現われる海軍省内の関係者について要約すると、次の通りである。

川村純義(かわむら すみよし、1836~1908)は、五代友厚を通じて平野富二の懇望が伝えられたと見られる頃は海軍卿就任の直前で、海軍大輔として参議兼海軍卿勝海舟の下で海軍全般のことを管理していた。勝海舟が参議専任となった明治11年(1878)5月24日に川村純義はその跡を継いで海軍卿に就任している。明治13年(1880)2月28日に海軍中将榎本武揚に代わったが、明治14年(1881)4月7日から明治17年(1884)7月23日まで参議兼任の海軍卿を勤めた。なお、現在、平野家に川村純義から寄せられた書簡2通が保存されている。その内の1通は大倉喜八郎から発注された木造風帆船高麗丸の進水式が明治11年(1878)10月22日に挙行され、その祝いの品として日本酒を受取ったとする同日付けの礼状である。

赤松則良(あかまつ のりよし、1834~1920)は、長崎海軍伝習所の第3期として江戸幕府から派遣され。航海術と造船術を学んだ。その後、榎本武揚と共に幕府オランダ留学生の一人となり、帰国後は沼津兵学校の教授方となった。明治9年(1876)1月から7月まで主船頭を勤めていたので、平野富二が面会した主船頭は赤松則良だったと見られる。そのとき、主船助(海軍史秘書官兼務)だった遠武秀行も同席した可能性がある。
なお、平野家に赤松則良から寄せられた書簡1通が保存されている。それは、高麗丸進水式に招待されたが公務のため参会できないとの断り状で、10月22日付となっている。

遠武秀行(とおたけ ひでゆき、1844~1904)は、当時、横須賀造船所長官で、その前は海軍秘書官兼主船助であった。薩摩出身であったことから川村純義とは親しく、秘書官の立場でもあったことから、その意向を酌んで平野富二の契約更改に協力したと見られる。
明治10年(1877)、横須賀造船所所長を経て、明治13年(1880)、東京風帆船会社社長。明治15年(1882)、共同運輸会社副社長となった。明治22年(1889)11月の東京湾汽船会社創立時にその相談役に就任した。明治25年の東京市水道鉄管の入札に当たって東京鋳鉄会社を設立して落札している。なお、東京湾汽船会社は東京平野汽船組合と内国通運会社が主体となった会社で平野富二は取締役となっている。また、東京市水道鉄管の入札では競争相手であった。

石川利行は、遠竹秀行と共に主船助だったが、明治9年7月に主船寮庶務代理となり、同年9月に主船寮が主船局になったとき、主船局長に昇進したことが分かる。同年10月30日に最初の契約書が海軍省と平野富二との間で交わされ、皆具省側は海軍主船局長 海軍少丞石川利行、他一命が調印している。

 

5.達成した契約更改の内容
当初、主船局では、平野富二の要求をそのまま受け入れると、海軍省の所有が名ばかりになってしまうとの意見があった。しかし、海軍省内の公達で「石川島の地所を含めたドック・諸建物は、今後、海軍省では使用の見込みがない。」としていたことから、川村純義に対案を提出し、原則許可となった。

その結果、明治11年(1878)8月22日に海軍主船局と平野富二との間で部分更改契約が行われた。その更改内容は、

①貸与の年限を明治9年10月から明治38年9月30日まで全30ヶ年間とする。
②ドック、機械器具、建物が、万一、拝借人の取り扱い不注意で破損または火災、紛失などの際は、相当の償金を差し出すこと。
③貸借期間満期で海軍省が使用、または平野富二が再使用を要求するときは、満1年前に協議すること。

この時の主船局側は副長と営繕課長が、平野富二側は拝借人平野富二と保証人岩瀬公圃が調印している。

このように、平野富二の要望はほぼ100%達成することができ、後顧の憂いなく経営にまい進することが出来るようになった。

 

6.五代友厚の鉱山事業と製藍事業について
五代友厚に宛てた平野富二の書簡の中で、五代友厚の鉱山事業と製藍事業に関する事柄が記されており、石川島造船所の製品が納入されている。

五代友厚の鉱山事業
五代友厚は明治4年(1871)10月に大和国(奈良県)吉野郡の天和銅山を入手したのを初めとして、次々と鉱山を買い求め、明治6年(1873)に鉱山経営のための会社「弘成館」を大阪北区堂島に設立している。明治7年(1874)3月には東京入船町8丁目に弘成館出張所を開設し、岩代国(福島県)伊達郡の半田銀山を入手したのを機に、大阪は西弘成館、東京は東弘成館と呼ばれるようになった。

五代友厚が鉱山事業に進出した契機は、新政府が慶應4年(1868)4月に貨幣鋳造所を大阪に建設することを決定し、火災により閉鎖されていた香港造幣局の造幣機械を購入した。その際、五代友厚も関与していたことから、造幣局に金銀の地金を納入することを目的として、明治2年(1869)8月、大阪の今宮に金銀分析所を設立した。この設立には岡田平蔵と益田孝も仲間入りしている。全国から江戸時代の金貨・銀貨を買い集め、これを分析、精製し、その地金を造幣寮に納入した。五代友厚はこの事業により相当の収益を挙げたと云う。

やがて旧貨幣では供給に限界があるため、五代友厚は鉱山事業に手を出したと見られる。益田孝は明治5年(1872)になって井上馨の勧めで大蔵省に出仕し、岡田平蔵は明治7年1月に病死したため、金銀分析所は五代友厚の単独事業となった。

平野富二は、石川島造船所を開設する直前の明治9年(1876)5月に、長崎時代の友人杉山徳三郎らが経営する横浜製鉄所に出資して参加し、諸機械類の製造を開始した。ここでは鉱山で用いられる排水ポンプや巻上機なども製造していたので、五代友厚が経営する鉱山にも器械類を納入した可能性がある。

五代友厚の製藍事業
五代友厚は明治6年(1873)の夏頃から、わが国からの輸出産品として茶・生糸と並んで染料藍が有望であることに着目して精製藍の製造法を研究していた。
その結果、明治9年(1876)4月、東京府権知事楠本正隆に宛てて「国産の材料を以て藍を精製する方法」の特許を出願、また、「資本御助力嘆願書」を提出している。特許については同年5月23日付で「聞き届け難し」として認められなかったが、「資本御助力歎願書」については、同日付けで内務省勧商局から資金50万円を無利子で貸し渡し、明治10年(1877)6月限り皆返済とし、抵当物件の提出を要求された。

明治9年(1876))9月に五代友厚は大阪堂島浜通2丁目の土地を大阪府から借用して、ここに藍精製所「朝陽館」を設けた。書簡R13-35によると、平野富二が藍〆器械とボイラー・蒸気機関を部分納入したのは同年9月のことで、大阪の朝陽館設立時期と一致する。
五代友厚の藍精製所は撰藍所、溶製所、機関所、除水所と蒸気機関所、染業試験所などによって構成され、蒸気動力による機械化がなされていた。藍の生葉を前処理する仮製造所が全国各地に設けられ、東京にも藍精製所が設けられた。そこの機械設備も平野富二が納入したと見られるが、それを示す記録は見つかっていない。

 

ま と め
平野富二は、長崎製鉄所を退職したとき、自分は民間に在って軍艦を建造できる造船所を経営し、これにより国家に尽くすことを決意したと云う。資金の裏付けのない一個人では達成困難であるので、その手始めとして、長崎製鉄所での造船の経験と実績をもとに、政府系造船所の経営を一民間人として引き受けることを画策していた。

しかし、恩師と仰ぐ本木昌造が活版事業で廃業の寸前にまで追い込まれ、その原因となった活字製造部門の改革と経営を依頼されたことから、自らの素志を一時棚上げにして、本木昌造の活字製造事業の経営を引き受けた。組織の改革を行い、品質の安定と製造コストの低減を達成して、活字需要の見込める東京に拠点を移し、隆盛を極めるまでになった。

その過程で平野富二は、五代友厚の面識を得ることができた。また、相応の資金を得ることができた。築地に活版製造所を移転させれからは、隅田川をへだてた対岸にある海軍省の石川島造船所をしばしば眺めながら、そこを貸与して貰えれば念願の造船事業に進出できると考えていたに違いない。

明治9年(1876)10月30日に海軍省主船局との間で契約調印が行われ、平野冨二念願の造船事業に進出することができた。この契約では岩瀬公圃が平野富二の保証人として名を連ねている。岩瀬公圃は五代友厚の東京出張所の責任者として派遣されていたことから、五代友厚の協力があったと推察される。

しかし、海軍省との契約内容では長期に安定した経営を目指すには不安な事項が含まれていた。石川島にあった移転可能な主要設備は、すでに海軍省によって他所に移転されていたため、石川島で本格的な造船を開始するには多大の追加投資が必要であった。海軍省の対応によっては、平野富二は破産、廃業に追い込まれかねない状態であった。

そのとき、平野富二の要請に応じて救いの手を差し伸べてくれたのが五代友厚だった。それにより契約の部分更改を達成し、平野富二は後顧の憂いなく造船業に注力することができ、わが国最初の民間造船所を確立し、株式会社IHIとして今日に続いている。

五代友厚は、明治6年10月に東京新栄町7丁目1番地に東京事務所を設けたときに、その土地の一隅に屋敷を設け、岩瀬公圃に居住させると共に、東京滞在中の宿泊所(別邸)としていた。

図36-4 紋付姿の五代友厚

明治18年(1885)初めに東京で眼病を発症し、大阪に戻って受診した結果、心臓病と糖尿病の併発で長期療養が必要と診断された。同年8月、海軍軍医総監高木兼寛の勧告により東京別邸に移って快方に向かったが、翌月中旬に容体が悪化して危篤状態に陥り、25日に死去した。数え年51歳、満49歳9ヶ月だった。
遺体は大阪に運ばれ、10月2日に天王寺葬場で盛大な告別式が行われた。翌明治19年(1886)9月に阿倍野墓地に五代家の墓所が設けられた。

五代家の墓所にある「五代友厚顕彰碑」には次のように刻まれている。

五代友厚氏は鹿児島の産、長崎の海軍伝習所に学び、上海に遣いした後欧州に渡り、諸国の新知識に接して帰朝、維新政府の参与に任ぜられ、外国事務局判事、大阪府判事等を歴任、外交内政に広く貢献した。
明治二年官を辞して大阪に居を定め、各地鉱山の開発、藍の精製に初まり、金銀分析所、活版所、貿易会社、鉄道会社、商船会社等多くの事業を興した。また、社会公共にあっても、明治十一年大阪商法会議所、株式取引所、大阪商業講習所の創立に尽力した。
明治十八年九月二十五日、惜しくも五十才にして病没したが、卓越した先見性と豪放、高潔の人物をもって、よく大阪経済を衰微の極から救い、後の発展の礎を築いた功績は不滅の光彩に輝く。ここに氏の生誕五十年、没後百年を記念し、その遺業を顕彰する。
 昭和六十年十二月           大阪商工会議所建之
       大阪大学名誉教授 日本学士院会員 宮本又次撰                        

五代友厚と平野富二の関係は、本木昌造の負債を平野富二が代わって弁済したことしか知られていなかった。大阪商工会議所に保存されていた平野富二の五代友厚宛て書簡2通によって五代友厚が平野富二の造船事業の支援者であり、顧客であったことを知ることができる。

以上
2020年3月28日 公開

 

 

 

 

 

平野富二の師 本木昌造

はじめに
平野富二が本木昌造と初めて面識を得たのは、まだ幼名の矢次富次郎を名乗っていた頃であった。それは、文久元年(1861)4月に製鉄所機関士見習として抜擢されて、長崎製鉄所に配属された時と見られる。伝習掛を兼務していた本木昌造は、平野富二が利発で物事に真剣に取り組む態度に眼をつけ、私的に活版印刷技術を研究するグループへの参加を呼び掛けた。

その時から明治維新を経て明治2年(1869)9月に本木昌造が長崎製鉄所の頭取を辞任するまでの8年半の間、本木昌造が慶應2年(1866)8月に奉行所支配定役格となってからの1年間と長崎製鉄所の頭取辞任後の半年間を除いて、長崎製鉄所に於いて上司と部下の関係にあった。この間の事柄については『平野富二伝』およびブログ連載により紹介した。

本木昌造は、長崎製鉄所頭取辞任後に永年の夢だった活版事業と育英事業とを実現させるため、新町に新街私塾(新塾と略称)を開設し、これを資金面から支えるために新町活版所と新町活字製造所を併設した。活版事業は長崎奉行所の解体で職を失った地役人たちの失業救済の意味もあり、知人・友人からの出資協力を得て実現した。

ところが、肝心の活字製造が軌道に乗らず、問題解決に至らないうちに資金が枯渇するという深刻な状態に陥った。その頃、平野富二は、長崎製鉄所が工部省に移管さるのに伴い退職し、自力で造船事業を行う構想を練っていた。本木昌造は、明治4年(1871)7月頃、平野富二を自宅に招いて活字製造部門の事業改革を依頼し、一任することになった。これを契機として、平野富二は本木昌造の活版事業に深く関わることになった。

明治8年(1875)9月3日に本木昌造は長崎で病没し、その没後3年に当る明治11年(1878)9月になって、平野富二は、活版事業受託の成果である築地活版製造所の資産を本木家に返還して本木小太郎を所長とし、自らは後見人となった。しかし、本木小太郎は事業経営者としては未熟であったことから海外に留学させた。
明治22年(1889)5月に東京築地活版製造所を有限責任の株式組織としたとき、平野富二は、本木小太郎を社長心得に推薦し、活版事業から身を引いて造船事業を中心とした自ら起した事業に専念することにした。

平野富二は、明治25年12月に脳溢血で死去し、46年6ヶ月の生涯であったが、文久元年(1861)の数え年16の時から明治22年(1889)の数え年44までの29年間、人生の大半を本木昌造との関連で過ごしたことになる。

この本木昌造について、その生涯を物語る伝記や小説を読んでみると、総合的にバランスよく纏められたものが殆ど見られない。どちらかと云うと活版印刷分野を中心とした内容が多い。本木昌造が活躍し世の中に貢献した分野を大きく分けると、①オランダ通詞、②活版製造・印刷・出版、③鉄工・造船・船舶運輸、④科学技術の啓蒙・普及、⑤私塾経営による育英事業の5分野に区分することができる。

本稿では、まず最初に「本木昌造の出自と家族」について紹介し、それに続いて上記5分野に於ける事績を拾い集め、最後に「本木昌造の晩年」を述べることにより、本木昌造の生涯を知る縁としたい。

本木昌造の出自と家族
本木昌造は、文政7年(1824)6月9日、馬田又次右衛門の二男として長崎で生まれた。幼名は作之助。天保5年(1834)、11歳の時、オランダ通詞本木昌左衛門久美の養子となり、元吉と名を改めた。通称は昌造、諱は永久、号は梧窓、堂号は點林、公職を退いた後は咲三、笑三などと称した。明治5年(1872)の近代戸籍の編成に際し昌三として届け出ている。従って戸籍上の本名は本木昌三である。

出自
実父馬田又次右衛門永成は、長崎会所吟味役を勤めあげた長崎地役人で、乙名(町長)を務める北島家から馬田家の養子に入った人である。その長男は馬田又蔵永親、二男は本木昌造、三男は松田雅典、四男は伊東祐吉、五男は長川東明、六男は柴田昌吉で、いずれも各界で名を成した人たちである。

実父の長兄北島三弥太(長崎新大工町乙名を継ぐ)は、本木昌左衛門久美の長姉繁を嫁として迎えた。本木昌造が本木家に養子として入るに際して、その縁から北島三弥太・繁を本木昌造の仮親として本木家に入ったと見られる。本木昌左衛門久美には男子2人、女子1人があったが、いずれも幼没し、当時、実子は無かった。そのため、養子を迎える条件として親戚筋であることを示す必要があったと見られる。初期に書かれた本木昌造の伝記では北島三弥太・繁を両親としている。
なお、本木昌左衛門久美の父庄左衛正栄が記録した本木家系図によると、その長女は「名茂、幼名豊。実は姪で、まだ襁褓(おむつ)をしている頃に養子とした」と記されている。

家族
妻の縫は、昌造が養子に入った4年後の天保9年(1838)4月18日に本木家の次女として生まれ、昌造の許嫁として育てられた。
長男昌太郎は嘉永6年(1853)3月に生まれ、安政5年(1858)3月に数え年6歳で病没した。次男小太郎は安政4年(1857)9月18日に生まれ、本木家の跡継ぎとして育てられた。
安政5年(1858)7月12日、妻縫が長男の死を追うように数え年21で病没した。そのため、義理の従妹で大和屋喜市の娘タネを後妻に迎え、三男清次郎と四男昌三郎を儲けた。

養父昌左衛門久美は、慶應3年(1867)までオランダ通詞目付を勤め、慶應4年(1868)にオランダ通詞の家督を孫の小太郎に譲って隠居し、昌栄と改名した。明治5年(1872)6月に数え年72で死去した。養母タマ(玉)も同年12月に数え年59で病死している。

本木家の祖先
本木家の始祖は平戸の蒲生家に仕えた林治作栄政で、病身のため弟甚左衛門友徳に平戸での扶持を譲り、その後、本木祐斉と称した。万治2年(1659)の頃、本木祐斉は長男庄太夫を召し連れて平戸から長崎に移住した。
本木庄太夫栄久(後に良意)は、寛文4年(1664)に奉行所から召し出されて小通詞役を仰せ付けられオランダ通詞となった。オランダ通詞2代目は本木仁太夫良固、3代目は本木仁太夫良永(良固の妹多津が西松仙に嫁ぎ、その次男)、4代目は本木庄左衛門正栄、5代目は本木昌左衛門久美(後に昌栄)と続き、本木昌造永久は6代目に当たる。

初代の本木栄久はオランダ商館長の江戸参府に随行すること10回に及んだ。3代目の本木良永は天文学や地理学の翻訳が多く、地動説の紹介で知られている。4代目の本木正栄は英語学習書と英和対訳辞書、フランス語辞書を編集、『和蘭軍艦図解』などの著訳書がある。5代目の本木久美は嘉永1年(1848)にアメリカ漂流民マクドナルドからオランダ通詞たちが英語を学んだとき通詞目付の立場で責任者となった。

① オランダ通詞としての職歴・実績
天保6年(1835、12歳)に、養父昌左衛門がオランダ通詞小通詞並の時、「稽古通詞」として採用された。天保11年(1840、17歳)に「小通詞末席」となり、弘化3年(1846、23歳)に「小通詞並」、嘉永4年(1851、28歳)に「小通詞助」、嘉永6年(1853、30歳)に「小通詞過人」となった。なお、年号に付した年齢は数え年を示す。

ここで述べる本木昌造のオランダ通詞としての記録は、『長崎県史』(史料編第四、吉川弘文館、昭和40年3月31日、p.831,832)に拠るが、この記録は安政4年(1857、34歳)までであるので、それ以降については別途示す。

安政2年(1855、32歳)になって、家業のオランダ通詞としての役に精を出し、ことに地方出張等で格別骨折り勤務したとして、父昌左衛門がオランダ通詞として勤務している間、御手当として毎年銀1貫目ずつ支給されることになった。また、安政4年(1857、34歳)には、勤務に精を出し商売関連の取扱いでも骨折ったことから、今後は「小通詞」として課せられる役掛りの加役を順に従い務めることになったが、オランダ人の江戸参府と献上物付添いについては除外された。

ところが、安政4年(1857、34歳)5月に許可なく蘭書・器物を売却したとして預かり(自宅謹慎)を申し渡され、閏5月になって揚屋(座敷牢)入りを申し付けられた。翌安政5年(1858、35歳)2月末に病気を理由に再び預かりの身となった。それから9ヶ月間は外出を禁止されて自宅で謹慎していたが、同年11月末になって許され、公務に復帰した。

その後は、慶應1年(1865、42歳)になっても小通詞過人であったが、慶應2年(1866、43歳)に奉行所直属の「支配定役格」に昇進し、オランダ通詞の役職を離れた。慶應4年(1868)6月、旧奉行所が新政府下で長崎裁判所となった陣容を示す『戊辰六月分限帳』では長崎裁判所「取締助役」の一人として本木昌蔵(ママ)の名前がある。

本木昌造がオランダ通詞として果たした主な事績(褒美・手当を受領)を列記すると、
・弘化1年(1844、22歳)、オランダ本国から使節コープスが渡来し、幕府に開国と通称条約の締結を勧告する国書を提出した。この時、入津より出帆まで「掛り切り勤務」し、格別出精した。
・弘化3年(1846、23歳)、イギリス船渡来に際して昼夜出精して勤め、続くイギリス船の渡来で「御役所詰め」を命じられて対応に当たった。
・嘉永4年(1851、28歳)、アメリカ船渡来の節、「御役所詰め」で翻訳物等に精を出して勤務した。
・嘉永6年(1853、30歳)、ロシア使節プチャーチンが軍艦パルラダ号に搭乗して長崎に来航し、7月18日から10月13日までと12月5日から翌年1月8日までの2度に亘って滞在した。その節、役掛りを仰せ付けられ、「滞船中の通弁」で骨折り勤務した。これにより幕府老中阿部伊勢守から御褒美として白銀三枚、御扶持方三人扶持を勤務日数に応じて支給され、さらに、「御隠密筋の御用」を勤めたことから別段銀拾枚を支給された。
・安政1年(1854、31歳)1月16日、アメリカ使節ペリーの伊豆下田来港により、江戸表からの急御用により急ぎ「江戸出張」を仰せ付けられた。同年3月3日に横浜村で日米和親条約12ヶ条(神奈川条約)が調印され、同年5月22日に伊豆下田で同附録12ヶ条(下田条約)が調印された。その間、「条約文和訳などの御用」を滞り無く勤めたことから、幕府老中阿部伊勢守から江戸城において御褒美として銀五枚を支給された。
・安政1年(1854)10月14日、ロシア使節プチャーチンが伊豆下田に来航した。その節、「江戸出張」を命じられ、江戸と下田を頻繁に往復し、同年12月21日に日露和親条約が締結された。その間、大地震による津波で大破したロシア艦ディアナ号を伊豆戸田村に回航の節、途中で沈没したディアナ号の代船ヘダ号を戸田村で建造するに際して、「戸田村出張」を命じられ、「通弁兼検分役」を勤めた。これにより、幕府老中阿部伊勢守から御褒美として白銀五枚を江戸で支給された。

・安政2年(1855、32歳)6月8日、オランダ海軍中佐ファビウスはヘデー号とスンビン号を率いて長崎に入港し、長崎海軍伝習所の開設準備が行われた。伊豆から長崎に戻った6月下旬からは、オランダ側との連絡掛を勤め、通詞団の一員として「交換文書の翻訳」に従事した。その他、「蒸気船乗方伝習掛」(6月29日)、「イギリス船掛」(7月19日)、「別段錫持渡商法掛助」(7月21日)、「別段御誂持渡代物取扱掛」(8月11日)を務めた。
・安政2年(1855)8月22日、長崎海軍伝習所が開所されるに当たって「伝習掛通弁官」の一人に任命された。同年9月には日蘭和親仮条約が調印された。

その後は、安政4年(1857、34歳)5月から預かり、入牢、預かりの身となり、オランダ通詞としての公的業務から遠ざかっていた。

・安政5年(1858、35歳)11月末に謹慎の身を解かれ、再びオランダ通詞として復帰し、オランダ側が活版印刷伝習の場として出島に開設した出島印刷所の「通詞兼目付役」に任命された。

しかし、万延1年(1860、38歳)10月に「製鉄所御用掛」に任命されて以降は、通詞としての役よりは「製鉄所御用掛」の方が主務となり、慶應2年(1866、44歳)には長崎奉行所「支配定役格」に昇進し、通詞役から外れることになった。

② 活版製造・印刷・出版の研究開発、事業化
活版印刷関係については、本シリーズの「本木昌造の活版事業」(2018年7月31日公開)で紹介したが、ここでは、その後に入手して基礎史料や新たな知見を加え、改めて纏めた。

活版研究の動機
本木昌造が活版印刷に興味をもって研究を始めた時期と動機について、本木昌造の伝記の中で最も古いものと見られる記録は、本木昌造の13回忌に当たり、多年函底に蔵されていた小冊子をもとに、明治20年(1887)11月に編纂したとする『本木先生行状記』(明治新聞雑誌文庫所蔵)がある。

それによると、活版印刷研究の契機は、弘化1年(1844、21歳)のことで、同年に来日したオランダ使節コープスがわが国に対して開国を勧告したことから、西欧で重視する科学技術に注目、中でも最も興味のある工業分野について、余暇を利用して広く洋書に目を通すようになった。そのうち、ふとしたことから、洋書の印刷が精巧で整然としていることに気付いて感銘し、これをわが国従来の木版印刷に代えて普及させることを決意した。活版印刷に関する西欧の参考書を探索し、出島のオランダ人に質問するなどして、その一端を知ることができたという。

通詞仲間との共同研究
そのうち、通詞仲間も参加するようになり、嘉永1年(1848、25歳)にオランダから輸入された蘭書植字判一式が見計らい品として長崎会所に保管されていることを知り、品川藤兵衛、楢林定一郎、本木昌造、北村元助の4人で借り受けるべき役所に申請した。嘉永2年(1849、26歳)1月14日に品川藤兵衛に貸渡されることになったが、品川藤兵衛と楢林定一郎が代金を支払い買取り、品川藤兵衛の屋敷に据え付けた。

流し込み活字のよる自著の印刷
「本木先生行状記」によると、「嘉永4、5年(1851、2年)の頃、流し込み活字を鋳造し、自著の蘭和通便書のような書を印刷して、これをオランダに送ったところ、オランダ人はこれを見て頗るその精巧さを賞讃したという。(中略) 鉛で活字を製することは、先生(本木昌造)が創造した流し込み活字を以て我が国の嚆矢とされる。」という趣旨が記述されている。これは、明治24年(1891)2月に刊行された『印刷雑誌』、創刊号でも同様の記述となっている。

ところが、それより早い明治22年(1889)5月に平野富二が本木小太郎の代理として作成した英国万国発明品博覧会の出品説明書には、「数年の間、潜心し経験した末、西洋印行術と上海の鉛字、我国の組版などとを比較、折衷し、ガラフハニー版を以て母型(電胎母型)を造り、手鋳込器械を以て鉛製活版を鋳造することを創始し、これを実際に使用したのは、嘉永5年(1852)の頃、蘭和対訳辞書を印刷し、これをオランダに送ったのを初めとする。」として、より具体的に記述されている。

しかし、前者では「本木昌造が創造した」とする流し込みによる鉛活字の製造法で、何を創造したかについては不明であり、後者では「ガラフハニー版による母型の製造」として具体的に述べていが、これを「上海の鉛字」と結びつけるのは時期的に無理がある。

長崎奉行による活字判摺立所の開設と取扱掛任命
安政2年(1855)8月、西役所内に海軍伝習所と併設する形で活字判摺立所が設けられ、本木昌造は品川藤兵衛と共に「活字判摺立方取扱掛」に任命された。この活字判摺立所は、諸藩主や蘭学者がオランダ書籍を競って買い求めるようになったことからオランダ通詞の勉学に支障をきたし、幕府の許可を得て、欧文活字と活版印刷機を備えた活字判摺立所を設置してオランダ書籍を覆刻することになった。

品川藤兵衛らが先に長崎会所から買い求めた印刷設備一式を奉行所が買上げ、さらに老中阿部伊勢守の指示により追加の印刷設備がオランダに発注された。安政3年(1856)6月にオランダ文法書『シンタクシス(Syntaxis)』が刊行され、長崎会所を通じて一般にも販売された。

オランダに追加注文した印刷設備は、安政4年(1857)6月3日にヤン・ダニエル号に積載されて長崎に到着した。その内容は、3箱に収納された書籍印刷用手引印刷機1台と見計らいとして5箱に収納された鉄製シリンダープレス1台と印刷用インキであった。シリンダープレスは手引印刷機の6倍の価格であったことから購入しなかったと見られる。

活字判摺立所は、安政4年(1857)12月に江戸町の五ヶ所宿老会所に移設され、同年9月に第二次オランダ教師団の一行として来日した看護長兼活版師インデルマウルが活字の植字術や印刷術を日本人に伝授した。しかし、このとき本木昌造はすでに入牢中の身となっていた。活字判摺立所は翌安政5年(1858)に廃止され、印刷設備は奉行所の倉庫に保管された。

自宅謹慎中の活字試作研究
安政5年(1858、35歳)2月末に病気を理由に入牢を解かれて、預かりの身として自宅謹慎となった。それから自由の身となるまでの9ヶ月間、自宅で鋳造活字の製造法などの実験を重ねた。活字の製造では、西欧に倣って水牛角や真鍮の端面に字を彫刻して鉛片に打ち込み、或いは、鋼鉄の端面に彫刻して銅片に打ち込むなどして活字母型を造るが、その方法では字画が単純な欧文やカタカナでは問題ないが、漢字や平仮名では点画や筆勢が充分に表現できない。また、活字の材料となる鉛とアンチモニーは不純物が多く、鋳込んだ活字の字面が平滑にならない。さらに、印刷に使用するインキも墨汁を種々工夫するが鉛活字による印刷には適応できないなど、苦労を重ねた。

このとき、出島でオランダ商館長と医師から近代科学技術の基礎教育を受ける際に洋書や参考資料として入手した化学・物理を応用した各種製法・技法の解説書があった。その中に電気メッキ法を応用した精密模造品の製造方法(電鋳法)の解説があり、これにヒントを得て欧米流の打ち込み式に代わる活字母型の製造実験を行ったと見られる。

出島活版所での通詞兼目付役
その後、安政5年(1858、35歳)11月末に預かりの身を解かれた。その間、オランダ側が出島に印刷所を開設し、活版師インデルマウルが日本人に活版術を伝習しながら、蘭書を出版するようになっていたことから、出島印刷所における「通詞兼目付役」に任命された。なお、同年7月には日蘭通商条約が締結され、それに伴いオランダ商館は廃止されてオランダ領事館となり、出島への一般人の出入りが自由になって出島印刷所は洋式活版印刷術の伝習所となっていた。

この出島印刷所はオランダ側が手配したもので、安政4年(1857)8月5日に第二次オランダ教師団の一員として来日した看護長兼活版師インデルマウルによる西欧式活版印刷術伝授のために出島内に設けられた。ここには、安政4年(1857)6月26日にオランダから出島宛てに74箱の活字類、7月7日にシリンダープレス1台と各種付属品や副資材、さらに、9月24日に47箱の活字類が到来した記録がある。安政6年(1859)4月に海軍伝習所が閉鎖されたのに伴い、出島印刷所も閉鎖された。

本木昌造は、自身の活字製造での疑問点や問題点について、暇を見てはインデルマウルに相談し、西欧における最新技術について説明を受け、アドバイスを得たと思われる。オランダでの活字サイズの標準体系、版組み方法、シリンダー・プレスの操作方法などの他に、欧米では電気メッキ法を応用した電鋳版が、有価証券の印刷や聖書のような同一版で大量に印刷する版の複製として実用化されていたことから、このことについても何らかの情報を得た可能性がある。

鋳造活字を用いた初めての書籍出版
安政6年(1859、36歳)12月、本木昌造は自分の名前を伏せて『和英商賈対話集 初編』を発行人 長崎下筑後町 塩田幸八として自費出版した。英文とその振り仮名のカタカナは活版、和文は木版による2度刷りの和装本であった。
続いて万延1年(1860.37歳)10月、『蕃語小引 数量篇』、上下巻を書肆 麹屋町 増永文治と江戸町 内田作五郎として出版した。英文、蘭文と和文の対訳で漢字を含めて全て鋳造活字で印刷されている。凡例末に「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今新ニ製スル所ニシテ未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ヲ希フ 万延庚申九月」とある。

万延2年(1861)には、ジョン・コムリーの翻刻本『EIKEU’S EDITION, COMLY’S READING BOOK adapted to the use of PUBLIC SCHOOLS』を出版しおり、海外との交流に必要な基礎英語を勉学するための教科書とした。

これらの書籍は、本木昌造の自宅または別途所有していた土地と建物に活版印刷設備を設置して、作業員を雇って印刷を行ったと見られる。

本木昌造の活字製造法
謹慎中に洋書からヒントを得て電鋳法を応用した活字製造法を編み出し、赦免後に出島印刷所で活版師インデルマウルからアドバイスを得たと見られる。万延1年(1860)になって不満足ながら実用できる漢字活字の製造法が完成したことを示している。

この活字製造法について、本木昌造は添削の跡のある草稿の形で残している。この草稿は「本木昌造活字判ノ記事」として、明治45年(1912)5月30日付けで點林同窓会惣代高見松太郎・堺賢治が長崎市長北川信従に宛てて「寄付願」として提出した「本木昌造家秘蔵古文書」の中の一冊である。現在、長崎歴史文化博物館に収蔵されている。その影印複写と読み下し文は片塩二朗氏によって『Vinette 04』(「活字をつくる」、朗文堂、2002年6月)に紹介されている。

本木昌造は清書した原稿を平野富二に預けていたと見られる。それは、出版されることなく東京築地活版製造所に保管されていたが、関東大震災で焼失してしまった。しかし、その内容は、牧治三郎によって「活版印刷伝来考=6」(『印刷界』、昭和41年8月、日本印刷株式会社)に紹介されている。誤記、脱字を除くと長崎の草稿と同一文であることが確認できるが、原稿28頁物の後半10頁半分は省略されている。説明図は共に欠落していた。

明治5年(1872、49歳)2月に長崎新塾から本木昌造が出版した『新塾餘談 初編三』に、前号の記事「ガルファニ鍍金銀の法」、「銅を以て器物を模する法」の続きとして「型の製法」が掲載されている。これを活字製造に応用すれば、木製の活字父型から銅製の活字母型(鋳造鋳型)を作ることが出来る。
本木昌造は、安政2年(1855)に出島で物理・化学などの教育を受ける中で、洋書中あるいは出島のオランダ人からの伝聞に基づき、日常生活に役立つ事柄を記録し、自ら実験して確認して、文久2年(1862)秋にその概要を原稿に纏め、慶應4年(1868)夏に江戸・京・大坂の三都の書肆から木版刷りの『秘事新書』を出版した。明治5年(1872)になって、その続編として『新塾餘談』シリーズを活版印刷により出版した。

本木昌造は、『秘事新書』の前言の中で、「爰(ここ)に示す其事件(そのことがら)は洋書中より訳するものにあらず、実地に予が製する処のものにして、其便利を広く知らしめんが為なり」と述べている。本木昌造は公務に多忙で、なかなか私事で纏まった時間が得られなかったが、自宅謹慎中の安政5年(1858)3月から11月の10ヶ月間は、公務を解かれて私事に費やす時間が十分あった。『秘事新書』や『新塾餘談』に紹介された内容は、このとき、自宅で実験した成果を纏めたものと見られる。その中には、電気メッキ応用による活字母型の製造も含まれていたことは、『蕃書小引』の活版印刷に用いられた和文鋳造活字によって知ることができる。

活版製造事業の後継者平野富二との出会い
その後、万延1年(1860、37 歳)10月に「飽ノ浦製鉄所御用掛」に任命されてからは、もっぱら製鉄所の用務に係り切りであったが、仕事の余暇に本木昌造の下で活版印刷の実用化を研究する若手グループが出来上がっていた。
文久1年(1861、38歳)4月、地役人の子弟の中から利発で将来性のある若者を製鉄所機関方見習として採用し、機械技術者として育成するための伝習が開始された。その中に矢次富次郎(後の平野富二)が居た。本木昌造は「製鉄所伝習掛兼務」に任命され、滞在していたオランダ人技師や海軍伝習所で学んだ地役人たちによる機械学を中心とした伝習が開始された。

活版事業の具体化
万延1年(1860)、門人松林源蔵を漢字活字鋳造法調査のため上海に派遣したが、印刷設備を見学するだけで、活字製造法の伝習は受けられなかった。時期的にみて、上海美華書館は寧波から上海に移転したばかりの多忙な時期に当たっていた。

文久1年4月22日(西暦1861年5月31日)、イギリス人A.W.ハンサード(1821~1866)が長崎大浦居留地から英字新聞『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』を創刊した。その際、長崎駐在イギリス領事G. S. モリソンを通じて長崎奉行に願書を提出している。それには、「イギリス人ハンサード氏が長崎で新聞発行を計画している。奉行が希望されるならば、この機会に奉行の推薦する2、3人の忠実な若者に印刷術を伝授したい。」としていた。
この話は長崎奉行から本木昌造に伝えられ、本木一門の者たちが閑を見ては参加した。その中には、小幡正蔵、陽其二、茂中貞次の名前があり、平野富二も参加したと見られる。ここでは、イギリス式の活字システムと新聞の版組みについて勉学したと見られる。
ハンサードは、新聞創刊から3ヶ月後に27号を終刊号として横浜に移転し、そこで『Japan Herald』を創刊した。

長崎新聞局とギャンブル伝習
慶應4年(1868、45歳)8月、長崎府付属の長崎新聞局から致遠閣発兌として『崎陽雑報』が発行された。この長崎新聞局の開設には長崎製鉄所の頭取に任命されたばかりの本木昌造が関与していたらしい。印刷設備は上海美華書館に発注し、活字製造設備は本木昌造が実用化に目途を付けた電鋳母型製造設備と手鋳込器によったと見られる。しかし、思うような品質の活字を必要なときに必要なだけ「迅速」に生産することに手間取り、当初から木活字との混用で印刷せざるを得なかった。そのため、『崎陽雑報』は翌明治2年(1869)夏ごろ発行中止となった。

この解決策として、同様の原理で活字母型を製造している上海の美華書館の館長W. ギャンブルが任期を終えて帰国するとの情報を得て、長崎に招いて「迅速活字製造法」の伝習を行うことになった。この時点で長崎新聞局は長崎製鉄所に所属替えとなっていた。
明治2年(1869、46歳)10月から明治3年2月末までギャンブルによる迅速活字製造法の伝習が行われ、本木昌造は「伝習世話役」として一門の者たちと共に参加した。

以上の事柄については、本ブログの「長崎新聞局とギャンブル伝習」(2018年5月公開)で述べてあるので、詳細は省略する。

活版所設立のための準備
明治2年(1869)4月、上海美華書館に活版印刷機と関連諸設備を4,000ドルの見積で購入。この印刷機は四六版八頁掛シリンダープレスであったと見られ、本木昌造は新聞の発行を目論んでいたらしい。

また、明治2年(1869)9月頃、薩摩藩活版所から手引印刷機1台と和洋活字1式を譲り受けた。この印刷設備は、五代友厚が堀孝之の編纂した英和辞典を印刷するため重野安繹と相談して、薩摩藩が上海美華書館から購入したが、印刷方法が分からず倉庫入りしていたものあった。

活版事業への進出
本木昌造は、ギャンブルの伝習が終わった直後の明治3年(1870、47歳)2月末日を以て長崎製鉄所を退職し、同年3月、支援者の出資を得て、新街私塾に付属させる形で新町活版所と新町活字製造所を設立した。ここで初めて製造したと見られる明朝風活字二号とその倍角の初号を用いて教科書『保建大記』と『単語篇 上』を出版した。

さらに、主要都市への活版印刷普及のために、五代友厚の要請と融資による大阪活版所の開設、東京の書肆仲間と共同で芝口に活版所の計画、大学(文部省)御用活版所の開設要請、京都の點林堂の開設、横浜毎日新聞刊行の協力など、各方面に手を広げた。

しかし、活版事業を本格化させたのは、平野富二に委託して活字の品質とコストが安定してからのことで、明治5年(1872)2月に『新塾餘談 初編一』を出版したのを初めとする。

明治5年(1872、49歳)3月から翌6年7月にかけて、各種教科書を活版印刷するための届け出を行っている。その中には、『日本外史小本』、『各国語学』、『西洋古史略』などがある。これらは、新町活版所で印刷し、新街私塾で教科書として使用された。

明治5年(1872)に松田源五郎、池原香稺、西道仙と新聞の発行を計画し、翌明治6年(1873)1月、新町私塾から『長崎新聞』を発行した。しかし、同年12月に廃刊となった。

新町活字製造所の経営改革と事業委託
本木昌造は新町活字製造所を、折から職を失った長崎地役人の救済の場として、能力や適性に関係なく雇用し、勤務も厳しくなく温情主義に徹していた。ギャンブルの伝習により上海美華書館の活字製造法を学んだものの、鋳込んだ活字の中で印刷に使用できる品質の活字は極くわずかで、不良品の山を築くばかりだった。そのため、準備した資金も底を着きはじめ、自身の健康不安もあって、東京、大阪、京都にまで広げた計画を中止または中断せざるを得ない事態となった。

丁度その頃、長崎製鉄所が工部省に移管されるに際して、明治4年(1871、48歳)3月に平野富二が長崎製鉄所を退職して在宅していることから、本木昌造は、平野富二を招いて新町活字製造所の現状を説明し、経営改革を依頼した。
紆余曲折を経て、平野富二が新町活字製造所の主任となって事業改革と経営受託を引き受けたのは、明治4年(1871)7月10日頃であった。

この時から本木昌造は、活字製造に関して一切の事を平野富二に任せて、自らは事業主の立場で相談に乗るにとどめた。

平野富二が、活版事業の経営を軌道に乗せて、本木家に一切を返却したのは、明治11年(1878)9月、本木昌造没後3年祭の時であった。出資者の合意を得て築地活版製造所の資産9万円を本木家に返還し、事業後継者として本木小太郎を所長に迎えた。

③ 蒸気船運航、鉄工・造船の企画、運営
蒸気船運航
安政2年(1855、32歳)6月に来日したオランダ海軍大尉ペルス・ライケンらが教師となって、長崎地役人と佐賀、福岡藩士を対象に蒸気船乗方等の予備伝習が行われることになり、本木昌造は蒸気船掛に任命され、掛り切りの勤務を命じられた。

文久3年(1863、40歳)2月、幕府は長崎でイギリス商人から中古蒸気輸送船2隻を購入し、長崎製鉄所に付属させた。通称「チャールズ号」は木造外車船で「長崎丸」と命名され、通称「ヴィクトリア号」は鉄甲外車船で「長崎丸一番」と命名された。本木昌造は、時折、船長として、機関方伝習を終えた平野富二らを乗組ませて、大坂、江戸を往復している。

鉄工・造船
嘉永7年(1854、31歳)2月、下筑後町の大工藤太郎は蒸気船雛形を完成させたが、蒸気仕掛けの試験までには至っていない。これは、出島のオランダ人外科医が所持していた蒸気船絵図を、本木昌造が少しづつ見覚え、大工藤太郎に造らせたものであるとの調査報告書がある。〔楠本寿一著「本木酒造と蒸気船の建造」、『長崎談叢』、平成4年1月〕

同年閏7月1日、本木昌造に従って伊豆戸田村に来ていた船大工塩田幸八は、土佐藩の江戸藩邸に蒸気船雛形を持参して、御馬場で山内容堂にご覧にいれた。その3日後には、本木昌造が前回よりは大形で仕掛けもやや精密な蒸気船雛形を持参してご覧にいれた。
その後、同月16日に蒸気船注文について相談し、24日には江戸築地の土佐藩蒸気船製造場を調査している。〔以上、土佐藩士寺田志斎の日記、楠本寿一著「本木酒造と蒸気船の建造」〕
土佐藩は、嘉永7年(1854)閏7月24日付で長さ6間の雛形(小型)蒸気船1艘の建造許可の申請書を幕府に提出している。同年8月23日に幕府の認可を得て、3ヶ月後の12月2日に竣工届が提出された。その後、艤装工事が行われたと見られるが、翌安政2年(1855)8月4日、土佐の浦戸に回航された。

日露和親条約交渉のためロシア使節プチャーチンがディアナ号に搭乗して伊豆下田に来航していた嘉永7年(1854)11月4日、大地震による津波でディアナ号が船体を破損した。修復のため伊豆戸田村に曳航中のディアナ号は天候急変で沈没した。そのため、乗員帰国用の代船を戸田村で建造することとなった。
本木昌造は、名目上、戸田村の領主小笠原家家来「通弁兼検分役」としてロシア人の設計・指導による洋式帆船の建造に立ち合った。改元された安政1年(1854)12月24日に洋式帆船の建造が開始され、安政2年(1855)3月10日に進水して「ヘダ号」と命名された。同月22日にプチャーチンは一部の乗員を残して帰国の途についた。
同年4月3日、本木昌造は病気を理由に同地に滞在していた楢原量一郎と交代を願い出て許された。長崎に帰還したのは安政2年(1854、32歳)6月20日であった。

安政3年(1856、33歳)8月、オランダ人坑師ヒュキュエニンが来日したことから、前年に引続き、化学・物理学・幾何学等と共に、坑業と製鉄についてオランダ通詞数名と共に「伝習御用」を命じられ、「兼帯諸事通弁掛」となった。なお、ヒュキュエニンは翌安政4年(1857)3月下旬に長崎を発ってオランダに帰国した。

安政3年(1856)、洋式小規模製鉄所を長崎郊外に設置するため、品川藤兵衛らと共に足しげく出島を訪問して商館医師ファン・デン・ブルックに相談し、関連図面を作製して貰っている。この工場は鋳鉄場と鍛造場を備え、さらに、簡単な機械工作場と小型溶鉱炉も設けていたらしい。その内容はフォス美弥子著「ファン=デン=ブルックの伝習」(『日本洋学史の研究 Ⅹ』、創元社、1991.1)に記録が紹介されている。当時は、飽ノ浦に建設される長崎製鉄所は計画中で、まだ、具体化されていなかった。

安政4年(1857、34歳)10月10日にオランダの支援により長崎製鉄所が飽ノ浦で起工され、諸設備の完成が近づいた万延1年(1860)10月、「飽ノ浦製鉄所御用掛」に任命された。文久1年(1861、38歳)3月25日になって長崎製鉄所の第一期工事(鉄工場としての主要設備)が完成し、それに伴い機関方候補者を養成のため「製鉄所伝習掛兼務」となった。

元治1年(1864、41歳)9月、ヴィクトリア号(船長本木昌造、機関手平野富二)で下関、大坂、江戸に航海し、帰途、11月24日に暴風雨で八丈島に漂着し、冬季を島で過ごした。翌慶應1年(1865、42歳)4月18日に八丈島を発って江戸に戻り、公務を終えて長崎に帰着したのは、同年9月11日だった。
なお、八丈島滞在中に島の産業を調査し、「八丈島御開港其外見込之儀ニ付申上候書付」を江戸で纏め、冬季でも入港できる港を開き、八丈島の絹織物などを長崎会所で扱うことにより、八丈島の貧困を救い、長崎の衰退から脱却する一助になるとしている。

この江戸滞在中、折からオランダ公使から幕府外国奉行に送達された長崎製鉄所の改善に就いての要請に対して意見を求められた本木昌造は、慶應1年(1865)8月、「製鉄所の儀御尋に付申上候書付」を幕府に提出した。
長崎に戻ってから、長崎奉行所「支配定役格」に任命され、専ら長崎製鉄所の経営問題に関与し、慶應3年(1867)10月までの間に意見書を次々と長崎奉行に上申している。その中で立神軍艦打建所の建設中止後の経営改善策としてドックの建設を提案し、概算見積を提出している。また、大雨で流失した浜町大橋(板橋)を鉄製橋として架け替えることを提言して採用された。慶應4年(1868)1月に長崎奉行河津伊豆守佑邦が長崎を退去するとき、「製鉄所の儀は支配定役格本木昌造へ申し付け置き候」として、後事を託した。

慶應4年(1868、45歳)4月、長崎府の「取締助役」に任命され。同年7月24日、「長崎製鉄所頭取」に任命された。その後は長崎製鉄所の経営改善に努め、中島川の鉄製橋「くろがね橋」の架設、浚渫機製造、小菅修船場の買収建言、大阪「高麗橋」の鉄製橋架設建言、飽ノ浦製鉄所内に蒸気式精米場を設けて精米事業に進出、伊王島灯明台の建設、立神ドックの建設推進を行った。なお、「くろがね橋」と「高麗橋」はわが国で2番目と3番目の鉄製橋で、1番目は横浜の「吉田橋」である。

明治2年(1869、46歳)8月に病気を理由に頭取辞任を申し出たが認められず、同年9月になって製鉄所頭取辞任が認められ、代わりに「機械伝習方教頭」に任命された。しかし、その後に行われたギャンブルによる迅速活字製造法の伝習を最後に、明治3年(1870、47歳)2月末日に長崎製鉄所を去った。

④ 科学技術の啓蒙・普及
安政2年(1855、32歳)10月、本木昌造を含むオランダ通詞5名と町医師吉雄圭斎がオランダ商館長と外科医師から化学・物理・測量・算術・炭坑業・鉄製造、その他必要とする分野として西欧科学技術の基礎を勉学するよう命じられた 翌安政3年(1856)8月にも坑業を中心とした同様の勉学を命じられた。

入牢後の自宅謹慎のとき、西欧の科学技術の基礎を学ぶ中で、その応用として日常生活で有用な物品の製法や処理法について解説したオランダ書を入手し、出島のオランダ人から学んだ事柄を加えて書き溜めた内容を纏め、実用書として出版した。

慶應4年(1868、45歳)夏、『秘事新書』を東京の須原屋と大阪の秋田屋を板元として整版(木版)で出版した。これは、文久2年(1862、39歳)に執筆して保管してあった原稿であることは、冒頭の凡例に記された日付で知ることが出来る。

明治5年(1872、49歳)2月、新町活版所から『新塾餘談』シリーズが刊行された。これは、平野富二による新町活字製造所の改革の成果として初めて活版印刷により出版されたもので、先に出版した『秘事新書』の続編に相当する。塾生の余暇に読ませるものとしているが、長崎、東京、大阪の新塾出張活版所を売弘所として、広く一般にも販売した。

⑤ 教育、私塾経営による育英事業
私塾経営についての関心
本木昌造は、安政2年(1855、32歳)に長崎海軍伝習所が開設されて、その伝習掛通弁官に任命され、同時に出島で最新の数学・物理・化学等の基礎教育を受けた。これらの経験から青少年を対象とした学塾の経営に関心があった。
このことは、長与専斎の自伝『松香私志』にも記されている。長与専斎は、安政5年(1858)に自宅謹慎中の本木昌造をしばしば訪ねて語らっている。

後日談として、長与専斎は、本木家の所有する外浦町の貸家を借り受けて住居とし、郷里(大村)の門下生が来て家事一切を行いながら、10名ばかりの諸生を集めて毎夜、適塾風の輪講を始めた。これは文久1年(1861)のことで、これが開業の初めであったとしている。

私塾の開設と経営
本木昌造が私塾を開設したのは慶應4年(1868、45歳)前後と見られ、「新塾変則入門願綴込」(渡辺庫輔著『崎陽論攷』)によると、最初の入門願書は慶應4年正月11日となっている。当時、本木昌造は長崎製鉄所の頭取として多忙であったことから、塾長は陽其二とし、自らは副塾長となっていたと伝えられている。

慶應4年(1868)8月になって、新町の元長州藩蔵屋敷の跡に建てられた語学所「広運館」が西役所跡に移転したことから、建物ごと買い取って「新町塾」と称した。明治2年(1869、46歳)11月15日になって、規則を定め、名称を「新町私塾」(略称「新塾」)として正式に発足した。学科は初等、1等から4等に分けて手習い、素読、算術などの基礎教育が行われ、長崎居住の子弟に対しては入学金などの支払いを不要とした。その費用は、明治3年(1870)3が月に新町活版所と新町活字製造所を協力者の出資により設立して、その収益により賄うこととした。

私塾の公認申請
明治5年(1872)8月になって学制が公布されたことから、小学校下等4年間の就学が義務化された。本木昌造は、明治6年(1873、50歳)1月、法令に基づき私塾開業願書を長崎県令に提出した。しかし、長崎県令は、同年3月に長崎県小学校創立告諭を発したことから、これを優先して私塾開業を認めなかった。本木昌造は、同年11月、翌年1月にも新学制に従って開業願を提出したが、認可を得られないまま新町私塾の経営を続けていた。

その後、数度に亘って出願を重ねたが、長崎県令の認可が得られないことから、築地活版製造所の視察を兼ねて、東京に於ける私塾経営の実態を調査し、文部省に働きかけた。その結果、明治7年(1874、51歳)11月に文部省から「私学の如きは学科・教則など充分備わらざるも、現に本木昌造私学諸規則の如き大なる弊害なきものは、本人の願意に任せ許可致す儀と相心得べき事」として長崎県令に対して通達され、開業が認可されることになった。

本木昌造は、明治4年(1871、48歳)7月に新町活字製造所の経営を平野富二に一任してからは、新町活版所での教科書出版と新町私塾の公的認可問題に専念していたことが覗える。

本木昌造の晩年
晩年は、専ら新街私塾と新町活版所の経営に当り、その傍ら長崎の名士となっていた友人たち、品川藤十郎、吉雄圭斎、池原香稺、和田半、西道仙、松田源五郎(以上、年令順)らと交流を深めた。また、趣味の面では短歌の会の主要メンバーであった。

明治7年(1874 51歳)5月、平野富二によって東京築地に新築された新塾出張活版製造所(通称、築地活版)の整備が完成し、その視察のために上京した。このついでに、東京に於ける私塾の実態を調査し、帰途、浅草の内田九一写真館で記念写真を撮影している。

翌明治8年(1875、52歳)春、再度上京して、五代友厚に対する債務返済について平野富二と相談した。その結果、大阪活版所の設立の際に融資を受けた5,000円のうち、取り敢えず1,500円に利子を加えて平野富二に出してもらい、さらに、養老金として毎月200円の仕送りを受けることになった。
長崎への帰途、大阪に立ち寄って五代友厚に1,500円と利子分を返済し、残りは月賦払いで返済することとした。その後、大阪、京都で門人たちと交流したが、5月に京都で体調を崩したが、小康を得て長崎に戻った。

同年8月中旬になって容体が悪化し、友人や門人たちが駆け付けて看病にあたったが、9月3日、長崎の自宅で病没した。同月16日に葬儀が行われ、長崎大光寺の本木家墓所に埋葬された。戒名は故林堂釈永久梧窓善士。

ま と め
幕末から明治初期にかけて52年間を生き抜いた本木昌造は、家職のオランダ通詞としてその人生をスタートさせた。長崎出島のオランダ人と接する中で、西欧文明、特に科学技術に関心を抱くようになり、わが国の近代化に役立てようと決心したと見られる。

当時のオランダ通詞を含めた長崎奉行所に出仕する長崎地役人は、与えられた役職の中で仕事に忠実に専念する者が多かったが、本木昌造は異なっていた。その関心領域は広く、それを追求する精神を持っていた。そのため、本木昌造と接した欧米人の評価は高かった。

そのようなことから、しばしば奉行特命の「隠密役」に指名されて通詞の役とは別の仕事を命じられた。また、開国に伴い通詞の役割を超えた新しい業務を与えられることも多く、オランダ通詞としては小通詞過人に留まり、通詞に課せられた数多くの付帯的な仕事からは解放されていた。

わが国が永い鎖国時代を経て欧米に門戸を開く時代に遭遇した本木昌造は、オランダ通詞としての活躍は目覚ましく、長崎奉行に限らず幕府老中阿部伊勢守からも数々の褒美を受けている。また、養父本木昌左衛門がオランダ通詞在任中であったので無給扱いとなっていたが、特別に手当てを支給されていた。

長崎にオランダの支援により海軍伝習所が開かれ、それに伴い蒸気軍艦の修理・建造のために長崎製鉄所が建設され、オランダ書籍の覆刻とそのための活版印刷伝習も行われた。主なオランダ通詞たちは伝習掛に任命され、また、その役目を果たすために、西欧の基礎学問として数学、物理、化学、その応用として測量、坑業、製鉄などについて出島の医師で科学技術に造詣の深いファン・デン・ブルックから学ぶ機会が与えられた。
これを契機に、本木昌造はさらに活版印刷の研究を進め、また、鉄工・造船と船舶運輸、科学技術の普及、育英事業の分野に深い関心を抱くようになったと見られる。いずれも、わが国が文明開化を果たすために必須なものであった。

結果として本木昌造は、わが国活版印刷術の創始者として印刷業界から仰がれ、わが国最初の近代的鉄工・造船所の経営者として位置付けられている。科学技術の普及に関しては実用書シリーズの刊行により一般人ばかりでなく製造業の人たちもこれを参考としていた。育英事業では多くの人材を輩出し、點林同窓会として交流を深めていた。

本木昌造は、小説ではあるが、「逃げる男」とか、「ふうけもん」と呼ばれている。
「逃げる男」として、オランダ通詞からの逃亡、製鉄所からの逃亡、活版製造からの逃亡などが挙げられている。一見すると自分に与えられた役割を全うせず、いずれも途中で仕事を放り投げてしまったと見られるかも知れない。「ふうけもん」は長崎の方言で、この小説では「普通の人では抱かない事柄に執着して、もう少し気の利いた人生を送ればよいのにと見られている人」のことを言うらしい。

幕末から明治にかけて本木昌造の生きた時代は、欧米の圧倒的な軍事力と進んだ文明を導入する窓口は長崎であり、その直接の受け皿はオランダ通詞たちであった。その中から有能な者たちは抜擢されて新しい業務を与えられ、或は、先覚者として、また、有志者として得率して国のため、人のために尽くし、それを生き甲斐と感じていた人が多かった。

そのような中で、人としての能力や適性、経験の差から一個人としての限界もあることから、後継者として平野富二を育て上げ、結果的に長崎製鉄所の経営を引き継ぎ、活版製造事業を一任することによって、それなりの成果を挙げることが出来た。

本木昌造が死去して146回目の祥月にあたり、平野富二が師と仰ぐ本木昌造の生涯を出来るだけ原典に拠り、最新の知見に基づいて纏めて見た。なお、私生活の面でいろいろと語られている事柄もあるが、どこまでが真実であるか不明な面も多いのであえて記述していない。

2020年9月24日 公開

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海外への活字販売:清国

まえがき

わが国と清国との間の近代国家としての交流は、明治4年(1871)7月29日、日清修好条規が調印されたことにより始まる。そして、翌5年(1872)1月29日に上海に領事館が設置され、代理領事として品川忠道が就任した。

築地活版製造所の清国への活字・印刷器械の販売拡張については、平野富二が築地活版製造所社長として外務省通商局に宛てて提出した明治22年(1889)5月3日付の願書に、それまでの経緯が要約されている。

① 明治12年(1879)に曲田成を上海に派遣して活版業の実況を視察した。
② 明治13年(1880)に上海商同会に委託して商品展示場に活字を展示し、一時、販売を試みた。
③ 明治16年(1883)、上海に修文書館を出店し、印刷業の傍ら活字鋳造販売を行った。
④ 明治18年(1885)、清国公使徐承祖は、活字数万個と器械1台を求めて公使館内に活版局を設け、足利文庫の古写本などを印刷して本国の関係者に配布、併せて日本印書業の進歩を報告してくれた。
⑤ 明治19年(1886)、上海の同文書館から館員数名が築地に出張し、2年余り滞在。漢書数十種の紙型鉛版数万枚と活字数十万個を持ち帰った。また、清国人王錫斎も活字若干とロールマシン1台を購入して本国に送った。

その後の追加事項として、次の内容がある。
⑥ 明治22年(1889)、平野富二は外務省に清国活版販路調査の願書を提出し、それに対する清国各地の領事館から報告が寄せられた。

これらについて、以下に順を追って紹介する。

1.曲田成の上海派遣、明治12年(1879)

明治12年(1879)1月、曲田成は平野富二の指示により、四号と六号の明朝風活字書体を改良するため清国上海に渡航した。現地で苦心惨憺の結果、優秀な種字彫刻職人を探し当て、ようやく理想的な活字種版を得て、明治13年(1880)に帰国した。
これが築地活版製造所に於ける活字改良の第一歩となった。後に「築地型」と称する明朝風書体はこの時の第一次改良を起点として着手された。

それまでの明朝風書体は、明治2年(1869)末から同3年(1870)初にかけて上海美華書館の館長ギャンブルを招聘して鉛活字迅速製造法を伝習するに際し、上海美華書館の標準書体が導入され、複製して用いられていた。

平野富二の外務省に宛てた願書によると、美華書館の字体は「細太が一様でなく、角に大小があって、高さに高低がある。そのため、版面が平滑とならず、白紙・唐紙等の脆薄な紙に印刷すると紙面の所々に脱破が見られる」としている。また、松尾篤三編『曲田成君略伝』によると、「(草創期の字母書体は)雑駁にして雅致をも趣味をも有しない」としていた。

曲田成の略伝には、明朝体活字の書体改良については記録されているが、清国における活版業の実情調査については触れていないので、その調査結果は不明である。木版彫師の中から優秀な技を持つ者を探し出す過程で、木版印刷業を中心にその他の印刷業者も含めて調査の対象となったことは十分考えられる。

本稿のテーマである清国への活版販売とは直接関係はないが、この時の活字書体改良に関連して、『本邦活版開拓者の苦心』に掲載されている挿話「築地活版昔物語」に、次のように紹介されている。

  • 築地活版が活字書体の大改良を企画したのは、明治13、4年頃で、竹口芳五郎氏が彫刻主任をしていた時分であった。その時は上海から支那人を2、3人招聘して所内に寄宿させていた。然るに彼らは和食を摂らず自炊をすると云う有様で、大変な費用がかかり、結局、改良費が4、5千円も計上されたそうである。
  • 上海から箱崎の三井支店に一握り程の種字が到着すると、何時も70円から100円位の金を持って、その種字を受取ったものである。その頃の種字は単に価の高価ばかりではなく、これが蒐集に並々ならぬ苦心を要したそうである。

2.上海商同会による委託販売の試み、明治13年(1880)春

上海商同会は、同会の報告書である『上海商業雑報』の第一号によると、在上海の日本人商人が設立を創議して、明治12年(1879)12月4日に上海総領事館に稟議し、公認を得て設立された。当時、上海で開業する日本人商人は10数社で、その他、清国21港の中では僅かに1、2社のみであったと云う。

明治13年(1880)春、築地活版製造所は上海総領事品川忠道の周旋により上海商同会の一部を借り受け、岡正康を主任として派遣し、活字版を陳列して清国に於ける販路を拓こうとした。

図34‐1 品川忠道の肖像写真
<吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史、第二編』より>

品川忠道(1841~1891)の清国との関係は、
明治2年(1869)11月、通商少佑に任じられて
「上海表商況取扱向経験の為」に上海出張を命じられた。
明治5年(1872)8月、上海初代領事に就任、
明治6年(1873)1月、上海総領事に就任、
明治17年(1884)5月、後任に事務を引き継ぎ、
同年7月に帰国するまで上海に駐在していた。

品川忠道と平野富二とは、当人同士が承知していたかどうかは不明であるが、二人の間に個人的な因縁がある。『マリンフード株式会社社史、第二編』によると、平野富二が一時期養子となっていた長州藩御用達吉村為之助(庄之助と伝えられているが、誤りと見られる)の次姉タキは大村藩御用達品川九十九に嫁しており、品川九十九の弟が品川忠道である。つまり、義理の伯父・甥の関係であった。

品川忠道は、品川権左衛門を実父とし、幼名は英輔と称した。オランダ通詞品川徳三郎の養子となってその跡を継いだ。英語にも通じていたので、ペリーの浦賀来港により幕府に徴されて横浜で通弁となり、安政6年(1859)に幕府が各国と通商条約を締結する時に通弁を務めた。その後、通弁のかたわら横浜で洋学教授をしていた。明治2年(1869)になって会計官通商司兼造幣局訳官として新政府に出仕した。

上海商同会の主任となった岡正康は、清国の状況をわが国の有志者に認識してもらうために月刊の報告書を発行する計画を立て、明治14年(1881)1月、上海総領事館に出願し、認可を得て、明治15年(1882)7月、日本人向け報告書『上海商業雑報』を創刊した。清国上海英租界四川路11号 三井物産会社構内に在る上海商同会から刊行し、主幹兼編集人岡正康、印刷人田中春雄で、第1号は五号明朝と片仮名活字を使用し、16ページの小冊子であった。第3号から月刊となった。

明治15年(1882)12月発行の第6号から発行場所が江西路第7号に変更されている。また、明治17年(1884)1月発行の第14号を以って満1年に達したので、ひとまず決算するとしている。
(第1号は明治15年春季3ヶ月、第2号は同年夏季3ヶ月の情況を報告しており、明治16年3月から7月までは休刊していた。)

明治16年(1883)になって、清国の形勢が近代化にむけて急進し、とくに活字の需要は最も有望であるとの報告が上海商同会から東京築地の平野富二にもたらされた。そこで、平野富二は上海に出張所修文館を開設し、館長として松野直之助を指名して上海に派遣することにした。本件については次の項で述べる。

明治18年(1885)6月、上海商同会は農商務省の要求に応じて清国一般の商況を精細に調査し、月に3、4回報告することとなった。この報酬として明治18年(1885)7月から毎月銀貨50円の報酬を受けることになった。

この時の農商務省の文書によると、「目下、清国に向かって物産の輸出を拡張する時期に際し、わが国への諸報告はわずかに一部の商情を摘訳したものに過ぎなかった」と云う。このことは、『上海商業雑報』は既に廃刊となっており、新たに「商況報告書」の発行が求められたと見られる。この報告書発行が何時まで続いたかは不明である。

3.上海に修文書館を開設、明治16年(1883)

明治16年(1883)3月、平野富二は松野直之助を主任として清国上海に派遣して、同年8月、資金3万円を以って英租界三洋径橋北江西路東南角第7号に築地活版製造所の出張所として修文館を開設させた。その時、松野直之助と共に大阪活版所から速水英喜、長崎から年齢の離れた未だ18歳の弟松野平三郎が上海に同行した。

松野直之助は、長崎の新街私塾で学び、新町活版所に入所した。明治5年(1872)7月、平野富二が東京の外神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設する際、長崎から上京した10人の中の一人であった。営業を担当していたが、その後、長崎に戻っていたと見られる。

速水英喜は、明治3年(1870)に開所したばかりの長崎新塾出張大阪活版所に印刷係見習いとして入所し、明治6年(1873)に東京の築地活版製造所で印刷器械の本格製造を開始したとき、製造見習いとして大阪活版所から東京に派遣された。明治14年(1881)7月に大阪活版所に戻って印刷器械の製造を担当していた。上海では活字鋳造と印刷の実務を担当したが、明治18年(1885)に大阪活版製造所(社名変更)に戻った。

上海出張修文館は、当初、上海の新聞に出した広告には修文活版所館、修文館活版所、修文書館などと表示されているが、その後、修文書館に統一された。取扱い品目は、大小銅活字・花紋刻版・各式印刷器械・各種印字墨料などで、活字を用いて古今書籍の印刷も行うとしていた。

明治18年(1885)4月、旧長崎新塾関係の株主総会が大阪活版製造所で開催され、長崎・大阪・東京・上海にある各事業所の財産区分について協議された。その結果、各事業所を独立させることとし、長崎の新町活版所は本木家の財産とすること、東京築地活版製造所が保有する大阪活版製造所の株式と売掛金を棄損し、東京築地活版製造所が支出した上海修文書館の財産も棄損することで合意した。これにより、上海修文書館は東京築地活版製造所の出張店から支那(清国)一手特約店となった。

図34‐2 東京築地活版製造所の広告
<『上海新報』、第4号、明治23年6月に掲載>

修文書館が築地活版製造所から独立して5年後に
修文書館から発行された『上海新報』に
東京築地活版製造所の広告が掲載されている。
それには、修文書館を「支那一手特約店」としている。

修文書館については、長崎在住の宮田和夫氏が長崎歴史文化博物館で「修文書館関連書簡類全13冊」を発見され、板倉雅宣氏がタイポグラフィ学会誌に紹介している。

それには上海で修文書館が受注した活字類や印刷物の記録が含まれており、アメリカ教会から多量の聖書、福音書類、在上海日本領事館を通じた多量の漢洋活字類が記録されている。また、明治19年(1886)から翌年にかけて上海で清国人が経営する出版社「廣百宗斎」から『東華録』194巻、『東華続録』230巻のステロ版(鉛版)を受注し、東京築地活版製造所と大阪活版製造所で分担した納入記録もある。

その他に、在天津領事館からの報告(項で述べる)によると、日刊紙『時報』と『Chinese Times』を発行している時報館は、活字を上海の修文館から購入したと述べている。天津以外の領事館からも地元の新聞社が日本から活字・印刷器械を求めていることが報告されている。

ステロ版について、『本邦活版開拓者の苦心』(89ページ)に、「(上海における)その頃の印刷物は専ら旧約聖書で、ステロ版を以って印刷していた。上海には既に米人経営の印刷所が4、5軒もあって、相当の仕事を吸収してやっていたのであるが、ステロ版に布目が出るため評判が芳しくなく、結局、技術の上で修文書館が勝利を博したので、松野主任をはじめ速水英喜らの得意は物凄かったと云う。」と紹介されている。

なお、上海に限らずアメリカ本国でも大量に同一版で印刷する聖書類は、活字の消耗が激しいので、活字版から紙型をとり、それを鋳型にして鉛版を鋳込んで複製版を作製し、これをステロ版と称していた。ステロ版は英語の stereotypeのことである。

修文書館の主任で館主の松野直之助は肺疾患が悪化し、長崎に戻って入院療養していたが、明治22年(1889)3月に43歳で病死した。その間、弟の松野平三郎が上海で兄の代理を務め、兄の死去により修文書館の館主となった。

 

図34‐3 松野直之助と松野平三郎の写真
<『大阪印刷界 本木号』、第32号、明治45年6月>

松野直之助は本木昌造の経営する新街私塾に学び、
新町活字製造所に勤務中、平野富二に随伴して上京した。
松野平三郎は直之助の20歳年の離れた弟で、
『大阪印刷界 本木号』では松野卯三郎となっている。
これは、「平」の崩し字を「卯」と読み違えたものと見られる。
松野家は長崎市豊後町2番戸にあったらしい。

このような事態を受けて、平野富二は清国に於ける今後の活版市場開拓を心配して、明治22年(1889)5月、外務省に願書を提出し、清国に於ける活版事業の販路調査を依頼したと見られる。本件については項で述べる。

明治23年(1890)6月5日、松野平三郎は修文書館から『上海新報』、第1号を発行した。この新聞発行は兄松野直之助の頃からの懸案であった。

発行に当たって松野平三郎は、同年1月に朝野新聞等に新聞広告「上海新報発行之趣旨」を出して日本国内での申込取次所を示し、購読者を募集している。

次いで、在上海日本総領事館に宛てて明治23年5月12日付の「上海新報発行届」を提出している。その内容は、「今般、清国上海外国人居留地規則を守り、日清間の通商貿易を奨励する趣旨で『上海新報』と題する新聞を来る5月20日から毎週1回発行するので、御届け申し上げます。」としている。この時の修文書館の住所は、清国上海英租界四川路第三百七拾五号で、松野平三郎は修文書館館主、本籍長崎市豊後町2番戸、平民としている。

これを受けた上海日本総領事館の領事代理書記官二口美久は、同日付けで本国の外務大臣子爵青木周蔵に宛てて「上海新報発行ノ件ニ付伺」を提出している。外務省では、同年6月28日、新聞紙条例の遵奉要否を検討した結果、外地での発行物は適用外であるとして届け出を認可し、同月30日に上海総領事館に通告した。そのため、発行予定の5月20日は遅れて6月5日発行となった。

『上海新報』の発行に先立つ明治19年(1886)1月に、三井物産会社上海支店から上海領事に対して「物価報告状発行願」が提出されたが、日本の新聞条例の許可が問題とされて実現しなかった。その『物価報告状』の発行所は上海支店三井物産会社、印刷所は上海の修文書館となっていた。修文書館は三井物産とは親密な関係にあり、『上海新報』に掲載された記事には三井物産から提供された「物価報告」等がある。

その後、修文書館は、明治23年(1890)12月、当初の英租界三洋径橋北江西路から英租界蘇州路に移転している。

明治24年(1891)5月29日付の『上海新報』第52号に松野平三郎は「休刊の辞」を掲載して「上海の地は生計費・税金が高く経営を続けられない」として休刊を告げ、また、修文書館の広告を掲載して「活字製造販売と諸印刷物請負などの本業に身を入れる」旨を述べている。それに先立つ5月17日には、同紙に掲載した記事が原因で暴徒の襲撃、暴行を受けるという事件があり、これが休刊となる直接の原因であったとも見られる。

松野平三郎は、その後、修文書館の本業に専念したが、『上海新報』を復刊することなく、明治26年(1893)に28歳の若さで病没した。

修文書館は、その翌年に業績不振に陥り、三井物産会社の担保となったが、明治33年(1900)に印刷設備一切を清国人経営の商務印書館に引き取られた。

4.清国公使による日本印書業の進歩を本国に報告、明治18年

清国公使徐承祖が、東京築地活版製造所の活字が清国の活版・木版と比較できないほど鮮明であることを感賞し、活字数万個と印刷器械1台を求めて、永田町の清国公使館内に設置して活版局「扶桑使廨」とした。

その活版局で足利文庫の古写本や公使父子の著書等、若干種を印刷し、本国の貴官や各省長・各道台、ならびに知人・友人等に配布した。これと併せて、日本印刷業の進歩について報告を行ったとされている。それ以来、築地活版製造所には清国各地方より活版業に関する照会が少なくなかったと云う。

公使父子の著書について、これは公使の亡父徐鼐(ジョ・シ)が遺した草稿を『周易舊註』、12巻として光緒丙戌、明治19年(1886)1月17日に扶桑使廨から出版したものと見られる。この書籍は『東京日日新聞』に出版広告が掲載され、国内でも販売された。現在、京都大学付属図書館に所蔵されている。

徐承祖は、明治17年(1884)12月26日に清国二等公使として着任し、明治20年(1887)6月23日に任期を終えた。本国に帰国する際、先に永田町公使館内に据付けた印刷設備1式を持ち帰ったと云う。

なお、余談であるが、明治19年(1886)8月1日に清国北洋艦隊の精鋭を誇る主力軍艦4隻が水師提督丁汝昌に率いられて長崎入港した。8月13日から15日にかけて多数の清国水兵が長崎市内に上陸し、暴行を働いて警察と市民を巻き込む大乱闘となり、多数の死者・負傷者を出すと云う大事件が発生した。同年9月に入ってから東京で外務大臣井上馨と清国公使が外交交渉が行われ、善後策を取り決めた。この時の清国公使が徐承祖である。

5.上海同文書館館員の築地滞在、明治19年(1886)夏

明治19年(1886)夏、上海の同文書館員数名が東京に出張して来て、東京築地活版所に2ヶ年余り滞在した。その時、『先正事略』、『西廂記』、『四書大全』、『詩韻合璧』、『歴代名臣言行録』、『憲廟硃批諭旨』、『石頭記』、『開国方略』等の漢文書籍数十種を版組して、数万枚の紙型を取って鉛版とし、鉛版と活字数10万個を持ち帰った。

この同文書館は、在上海日本総領事館からの報告書にある「同文書局」と見られる。それによると、同文書局は上海における石版業の著大なるものとして最初に挙げられており、上海虹口に所在し、手摺印刷機18台、ロール印刷機白紙全面掛12台を設備し、資本は80万ドルとしている。石版および器械は上海に在る売薬商大英医院の取次でイギリスから輸入したものとされ、ロール印刷機は蒸気動力駆動と報告されている。

また、日本に滞在していた清国人王錫斎も活字若干とロールマシン1台を購入し、本国(多分、広東であろう)に輸送したと云う。

6.外務省への清国活版販路調査依頼、明治22年(1889)

明治22年(1889)5月3日、平野富二は、清国に日本製の活字と印刷器機類の販路を開く目的で、外務省通商局に宛てて調査依頼の願書を提出した。

この直後の同年6月17日の株主総会で、平野富二は東京築地活版製造所を有限責任の株式組織とするために定款を定め、社長心得として本木小太郎を指名して、自らは社長を辞任した。その背景には、同年1月17日に認可を得て有限責任東京石川島造船所が発足した。平野富二は選任されて常務委員となり、造船事業に専念することになった。

そのようなことから、外務省通商局への願書は築地活版製造所 社長平野富二代 平田東雄が署名、捺印して提出された。

平田東雄の役職は明らかではないが、明治17年(1884)7月の「かなのくわい」役員改選で評議役40人の中に名前が見られる。また、平野富二が死去した明治25年(1892)12月にはすでに東京築地活版製造所を去っている。

平野富二にとって、明治4年(1871)に本木昌造から活版製造事業の経営を委託されて以来18年間、その事業に係わってきたが、中国での市場開拓を委託していた上海修文書館の松野直之助が死去したため、改めて中国における活版の市場調査を行い、その結果により善後策を講じることとしたものと見られる。
更には、当時のわが国の活字製造業界は、中小業者を中心として採算を度外視した過度な販売競争が行われており、海外に活路を見出す目的があったとも見られる。

ここで紹介する外務省宛ての願書とその関連文書は、外務省の外交史料館に所蔵され、アジア歴史資料センターから公開されている。その願書の冒頭には次のように述べられている。平易な文章に直して紹介する。

「当築地活版製造所は、清国国内で繁華な都市や開港場に日本製活字と印刷器械類の販売ルートを開きたく存じています。清国は、何分、遠隔の地でもあるので、活版業の現況や将来の見込み、日本と上海間の運輸・通信の有り様などが分かりません。しかも、日本内地と異なり鉄道・汽船の便にも問題が多く、広く遠大な国であるので地域により風土や人情も著しく相違する国柄で、事情不案内のままで突然視察に出かけても、実際の調査は行き届きかねません。
そこで、お手数をお掛けして誠に恐縮ながら、北京・上海・天津・広東・香港・福州・漢江・芝罘・牛荘・寧波・その他の主要都市や開港場の領事館または貿易事務員の手により一応御調査の上、御回報に預かりたく、別紙として定価表・略見本を添え、お願い申し上げます。」

 

図34‐4 外務省に宛てた活字販路取調方願書
<外務省外交史料館所蔵、アジ歴 B11091493300>

この願書は5枚、10ページから成る。
図は冒頭の1枚目と最後の5枚目を示す。
この願書は手書きではなく、活版印刷で作製されている。
この年は石川島造船所と築地活版製造所の株式組織化や
甲信鉄道の計画、東京湾汽船会社の設立など
平野富二にとって多忙であったことから
外務省通商局への提出に当たって
代理として平田東雄に署名させている。

なお、文中に「御報告を受けたら、清国中で著名な書肆・印書商・新聞社等に標本や定価表等を配布し、行く行くは主要な開港場に代理店・出張所を設立することを計画しています。」と述べている。

その上で、取調要目として12項目を挙げて、それぞれに就いての精細なる報告を要求した。

清国各地にある日本領事館からの回答は、在芝罘(チーフー)日本領事館(5月28日付)、在福州日本領事館(6月10日付)、在香港日本領事館(6月10日付)、在上海日本総領事館(6月14日付)、在天津領事館(8月3日付)、漢口領事館(8月26日付)から寄せられた。

芝罘は山東省北東部にある渤海に面した不凍港で、そこの日本領事館からは送り状と共に2枚4ページの報告書が添付されていた。それには、「山東省は、人口は多いが土地は痩せ、人は豊かでないので印刷物等の需用は多くない。必要なときは上海、天津等から容易に廉価で買い求めることが出来る。目下のところ、遺憾ながら需用はない。尤も、山東省の人民も逐年進歩しているので、他日を待って計画する以外にない」としている。

福州は福建省の台湾海峡に面した港であり、そこの日本領事館からは個別の調査報告はなく、コメントとして、「未だ活版の業務は殆どなく、販路を求める見込みはない」としているが、「心当たりの外国新聞社、外国宣教師、各官庁等に相談して置きたいので、活字標本と定価表を各10部送付するよう」要請があった。

香港の日本領事館からは3枚5ページの報告書が添付されており、そこには、「外字新聞が8種、漢字新聞が5種ある。活版業者は前記新聞社の他に、外国人経営3社、清国人経営の小活版印刷業者があるが、石版・銅版を業とするものはない。書籍等は主として活版により、木版は稀である」としている。活字と印刷器械については、「英活字はすべてイギリスからの輸入、漢字活字は China Printing & Publishing Co.によりイギリスの two-line pica body で製造している。また、上海の American Presbyterian Mission Press で製造している。印刷器械はイギリスから輸入し、アメリカ製のものもある」としている。その他に関する報告もあるが、ここでは省略する。

天津は首都北京に最も近い河北省の水運の中心地で、そこの日本領事館からは5枚10ページの報告書が寄せられた。そこには、「活版印刷は時報館と税関で定時的に発行されている。時報館は日刊紙『時報』と『Chinese Times』を発行しており、活字は上海の修文館から、活版器械は上海の外国人の手により購入した。税関は活字・器械ともにイギリス製である。天津地方では官民共に未だ活版を利用する方法を知らない。時報館はあまり収益がないと聞き及んでいるので、差し向き活字の販路を拡張するのは困難であろう。しかしながら、試みに三井物産会社出張店などに依頼して、徐々に販路を開くことに尽力するのも一策である」としている。

漢口は湖北省の中心都市で、現在は武漢市の一地区になっている。そこの日本領事館からは4枚8ページの報告書が寄せられた。そこには、「新聞・雑誌等の定時刊行物はないが、英漢書館が専ら漢文活字を用いて宗教書類を印刷している。他に洋文を印刷する小規模印刷所が2社ある。一般に在来の木版を珍重する風があり、現状では国民の気風が保守に偏しているので木版印刷物が最も多く、それに次いで石版、活版、銅版の順になる。官府告示文、その他公文類は専ら筆写で、民間の文書、報告書も同様で活版を用いた文書は見たことがない。当地で用いられている印刷器械はイギリス製である。上海機器局で大小各種の印刷器械を製造している。価格は廉価であるが、品質粗悪のため漢口で用いる者は居ない。活字は漢口製のものがあるが、上海・日本・西洋から輸入するものもある」としている。

上海の日本総領事館からの報告書は最も詳細に亘っており、8枚16ページの報告書であった。その中に前文として「上海活版・石版両業現況一班」が2枚4ページにわたって述べられている。

図34‐5 在上海日本総領事館からの報告書
図34‐4 と同じ>

報告書は最初に総括として
「上海に於ける活版業と石版業の現況一班」を述べている。
「一班」とは、物事の一部を示すことで全体を批評することを言う。
豹の毛皮は、まだら模様の一つを観れば、
全体の良否が判別できるに由来している。

その中に、「この数年間、活版製造業者の技術が大いに進歩し、活字は勿論、活版印刷に属す諸器械は一切、他国の供給を要せず、全て上海に於いて製造し、自国の需用は自国の供給を以って充てることが出来るようになった。その上、石版・銅版の事業も非常に発達し、殊に、石版は特に清国人の好みを博し、活版を凌駕する状態である。この事から、今日では他国が乗ずべき様を見ることが出来ない」としている。
また、「活版業者に至っては、定時刊行物を有する者は別として、その他の者は諸帳簿類や石版・銅版業者が顧みない印刷物を扱うに止まり、且つ、同業者が多数あって競争が激しいので、現に、修文館(修文書館)は清国人の鋭敏で巧妙な競争に苦しめられているようである」としている。

設問に対する11項目に亘る報告の内容紹介は、ここでは省略するが、その中の「活字と印刷器械」については、「最初、アメリカに求め、中頃、日本に求めたが、今は上海に於いてすべて製造し、しかも、洋墨・色肉までも清国人が自製していて、外国からは一切の供給を要しないようになった。しかし、活字は日本の活字を標本として模造したものであるので、佳は佳であるが日本の活字よりも優れているとは言えない。器械類も同様で、販売価格が非常に低廉であるので、外国製品を求めることはなく、自国製品で満足しているようである。したがって、近頃、外国人は活版諸器械の売込みに努めないようになった。」としている。また、「活字の価格は、美華書館の価格の2割から3割方安く、活版器械の販売価格も日本品よりも1割から2割方安く、外国製品は日本製よりも2割から3割方高いと云う」としている。

なお、各地共通であるが、定期刊行物以外で最も多数販売されている書籍は考試用の四書五経の類で、その他に尺牘(書簡類)・紀事・小説・翻訳書であると報告されている。

以上のような報告内容であるが、清国では、上海では石版、その他の地方では木版による印刷物が好まれている。報告書には述べられていないが、その裏には木版と石販は雅趣のある筆跡を残しているのに対して、単純化・規格化された明朝体による活版はその書体を嫌う傾向にあったと見られる。この傾向はわが国での活版印刷導入期に於いても同様であった。しかるに何故か、築地活版製造所が願書に添付した活字標本は明朝活字のみで、楷書活字の標本はなかった。

図34‐6 築地活版製造所の活字標本
図34‐4 と同じ>

提出された活字標本は明朝風書体のみであった。
当初採用されていた上海美華書館の書体はすべて改刻されて、
バランスの取れた、いわゆる「築地体」が実現されている。
四号字の標本として示す漢文に、
「本木昌造は今を去ること39年前に
初めて母型を製造して鉛活字を鋳造した」
と記されている。
明治22年を基準とすると、嘉永3年(1850)となる。

外務省からの調査報告書を受けた築地活版製造所は、当時、株式組織を有限責任として定款を定め、役員を改選して新発足する時期に当たっていた。
明治22年(1889)6月に開催された株主総会で、平野富二は社長を辞退して本木小太郎(業祖本木昌造の継嗣)を社長不在のまま社長心得とし、取締役の松田源五郎と谷口黙次に後見を託した。

その後間もなく、東京築地活版製造所は中小の活字製造業者による過度の販売競争の影響を受けて存亡の危機に見舞われた。翌明治23年(1890)1月に社長心得本木小太郎は退任し、代わって曲田成が社長に就任している。

そのようなことから、清国各地の日本領事館から報告書を受けたが、清国への活字・印刷器械の販売計画は殆ど進展しなかった。上海の修文書館は、明治24年(1891)5月29日になって、それまで主力を注いてきた『上海新報』を休刊して、本業に身をいれることを宣言したが、その後のことは3項で述べた通りである。

明治29年(1896)11月から12月にかけて、東京築地活版製製造所の取締役支配人野村宗十郎は清国の上海と香港に出張した。この出張目的は明確ではないが、上海で清国一手特約店となっていた修文書館が業績不振により閉鎖されたため、その善後策を協議し、次いで、今後の海外発展をめざして香港に足を延ばしたと見られる。

ま と め

上海の美華書館との付き合いは本木昌造の時代から始まるが、わが国で製造した活字や印刷器械を清国に販売する計画は、その製造が平野富二によって軌道に乗った時期に始まった。
その最初の試みは、明治12年(1879)に社員曲田成を上海に派遣して明朝風活字の書体改良を行う傍ら、清国に於ける活版印刷の動向を調査したことに始まる。その翌年に上海の商同会の商品展示場に活字を展示させてもらい、販売を試みた。

明治16年(1883)になって、清国での近代化に伴い活字の需要は最も有望であるとの上海商同会からの報告により、平野富二は松野直之助ら3人を上海に派遣して出張所修文館を設けて、活字鋳造販売と印刷請負を始めた。
その後、出張所修文館は独立して修文書館となり、支那一手特約店として東京築地活版製造所と大阪活版製造所からかなりの数量の活字やステロ版を納入している。館長の松野直之助が明治22年(1889)3月に病死したこともあってか、同年5月に平野富二は外務省通商局に宛てて清国に於ける活版販路調査を依頼している。

国内での清国関連として、明治18年(1885)、清国公使徐承祖は、東京築地活版製造所から活字数万個と器械1台を求めて公使館内に活版局を設け、父の遺した注釈書や足利文庫の古写本などを印刷した。これらを本国の関係者に配布し、併せて日本印書業の進歩を報告した。帰任に当たって印刷設備一式を本国に持ち帰った。また、明治19年(1886)には、上海の同文書館館員数名が築地に2年余り滞在し、漢書数十種の紙型鉛版数万枚と活字数十万個を持ち帰った。その他、清国人王錫斎も活字若干とロールマシン1台を購入して本国に送っている。

明治22年(1889)5月、平野富二は、東京築地活版製造所社長としての最後の仕事として、外務省通商局に宛てて清国に於ける活版設備のマーケット調査を依頼した。この直後の同年6月17日に東京築地活版製造所を有限責任の株式組織とし、平野富二は社長を辞任し、本木小太郎を社長心得として指名している。

この外務省へのマーケット調査依頼は、一つには上海の修文書館館主松野直之助の死去に伴うその後の活動に不安を持ったこと、二つには国内の活字製造業が採算を無視した販売競争にあったことから、新市場として清国に本格進出を計画していたことが考えられる。

外務省を通じて清国から芝罘・福州・香港・上海・天津・漢口に在る各領事館から報告が寄せられたのは、平野富二が東京築地活版製造所の社長を辞任した後のことであった。
在上海総領事館から寄せられた報告書が最も詳細を極めたものであった。その内容は、「活字と印刷器械は、最初、アメリカに求め、中頃、日本に求めたが、今は上海に於いてすべて製造し、外国からは一切の供給を要しないようになった。販売価格が非常に低廉であるので、自国製品で満足しているようである」としていた。
東京築地活版製造所は、平野富二の社長辞任後まもなく、会社存続に係わる経営危機に見舞われ、また、清国は必ずしも有望な市場ではないとの報告もあってか、清国進出は具体化されなかった。

上海の修文書館は、松野直之助の死後、弟の松野平三郎が館長となったが、兄の遺志を継いで『上海新報』を発行して清国の情況を日本国内に伝えることに力を注いだが、明治24年(1891)5月29日になって『上海新報』を休刊して、本業に身をいれることになった。しかし、明治26年(1893)に松野平三郎は28歳の若さで病没した。修文書館は業績不振に陥り、明治33年(1900)に印刷設備一切を清国人経営の商務印書館に引き取られた。

明治29年(1896)11月になって、東京築地活版製製造所の取締役支配人野村宗十郎が清国の上海と香港に出張しているが、その目的と結果については記録に残っていない。

本稿を纏めるに当たり、上海の商同会と修文書館に関して板倉雅宣氏がタイポグラフィ学会誌に発表された「上海 修文書館のこと」、「補遺 上海 修文書館のこと」を大いに参考にさせて頂いた。具体的で詳細な内容は同誌に拠られたい。

平野富二の活版事業との関わりは、明治4年(1871)に本木昌造から事業委託を受け、明治22年(1889)に東京築地活版製造所の社長を辞任するまでの18年間であった。その最後の置き土産が「清国に於ける活字・印刷器械の販路調査」であった。その後の平野富二は、活版事業を離れて自分の目指す事業に専念するが、天から与えられた時間はあまり無かった。

2020年7月27 日 公開

 

 

 

海外への活字販売:朝鮮国

はじめに
わが国の近隣諸国との交流は、江戸時代の鎖国下においても、清国とは長崎の唐人屋敷を通じて唐交易が行われ、李氏朝鮮国とは釜山に設けられた倭館を通じて対馬藩が交易を行われていた。その後、近代国家としての交流は、明治4年(1871)7月に清国との間で日清修好条規を締結、明治9年(1876)2月に朝鮮国との間で日朝和親条規を締結したことにより始まった。

平野富二は、東京に長崎新塾出張活版製造所を設けて生産体制を着々と整備し、海外の活字市場の開拓にも関心を示すようになった。当時、同じ漢字を用いていた清国と朝鮮国への活字供給が当面の対象となったと見られる。

清国と朝鮮国は、当時、いずれの国も特別な活字を造る必要はなかったが、広く普及させるためには、いわゆる明朝風よりも清朝風の楷書活字を用意する必要があった。

わが国では、当時、誰にでも読める仮名文字による印刷物の普及が提唱されていたことから、朝鮮国に対してはいわゆる朝鮮文字(ハングル)の活字を用意することになった。

本稿は、「海外への活字販売」シリーズの(その1)として、販売先を朝鮮国に焦点をあて、(1)東京築地活版製造所の広告文や活字見本帳に示された朝鮮文字、(2)朝鮮国への活字供給実績、について各種資料から取り纏めて紹介し、併せて、(3)ハングルの創制と変遷(参考)について、その概要を紹介する。

(1)広告文・活字見本帳に示された朝鮮文字
1)『活字見本帳(改定版)』、明治12年(1879)6月
平野富二は、明治12年(1879)6月、東京築地活版製造所の活字見本帳(改訂版)を発行している。その8ページに四号明朝風漢字と共に朝鮮書体が掲載されている。
本書を所持されていた板倉雅宣氏は「その朝鮮書体は取り急ぎ追加されたように見える」と述べておられる。

この発行に先立ち、明治9年(1876)2月に日朝修好条規が締結された結果、同年5月に朝鮮国は日本に第一次朝鮮修信使(正使:金綺秀 キム・ギス)を派遣し、日本における近代化と富国強兵策が迅速かつ効果的に行われている様子を見聞して帰った。一方、わが国は、明治10年(1877)から花房義質弁理公使をしばしば朝鮮国に派遣して開港交渉を行ない、明治12年(1879)に釜山(プサン)と元山(ウォンサン)が開港された。

このように、わが国は朝鮮国との間で国家間の交流が開始されたことから、朝鮮語を表記する朝鮮書体の活字需要が見込まれると判断したと見られる。

余談となるが、三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(p.191,2)に花房義質公使と見られる人物に関して、次のような逸話が紹介されている。要約すると、「或る公使が、明治11年頃に外国赴任のため自分が乗っていた定紋入りの人力車がまだ新しいのに不用となり、友人の平野富二に贈った。平野富二は、その後、その人力車が古くなったので新しく買い替えたが、公使から贈られたときのように定紋を取付けていた。4、5年後に公使が帰国したとき、平野富二が、贈った人力車をまだ新品のように手入れをして使用していると思い込み、『平野さんは品物を大切にする人だ』と褒められたそうである。」

当時、花房家は築地活版製造所の南側の道路を隔てた向かいにあった。二人は近隣のよしみで親しく付き合っていたらしい。そのことから、ハングル活字も話題となり、それを製造する動機となったとも考えられる。

なお、本稿(2)で紹介するが、明治5年(1872)と同6年(1873)に、平野富二は朝鮮文字の母型を製造し、顧客に納入している。当時は活字ではなく、活字の母型を納入しており、活字の製造までは考えていなかったのかも知れないが、朝鮮文字との出会いは東京に進出して間もなくのことであった。

2)第二回内国勧業博覧会『出品目録』、明治14年(1881)3月出品
築地活版製造所が自社製造のハングル活字を一般に公開したのは、明治14年(1881)3月1日に東京上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会においてであった。このとき平野富二は既に築地活版製造所の経営を名目上ではあるが本木小太郎に譲っていたので、本木小太郎の名前で各種印刷機械と共に各種活版と字見本帖を出品している。

同博覧会事務局から出版された『出品目録』によると、37種の各種活版が出品され、その中に明朝風、清朝風、行書、片仮名、平仮名と共に4種の「朝鮮書体」活版が記載されている。その印字見本は、同時に出品された「字見本帖」に示されている。この「字見本帖」は本稿1)で紹介した『活字見本帳(改定)』(明治12年(1879)6月刊行)と見られる。

図33‐1 第二回内国勧業博覧会『出品目録』
<『第二回内国勧業博覧会出品目録』、初篇四、明治14年刊>
上段の最終行から下段に掛けて本木小太郎の出品が列記されている。
製造者は支配人の桑原安六となっている。
印刷機械2種に続いて、各種活版が番号を付けて列記されており、
(13)、(16)、(22)が朝鮮書体、(19)が朝鮮風と表示されている。
最後に、各種書体を印刷した字見本帖がある。

3)『新製見本』、明治17年(1884)6月、配布
築地活版製造所では、前述したように明治14年(1871)3月開催の第二回内国勧業博覧会で朝鮮書体活版を出品し、活字見本帳に掲載しているが、その後、明治17年(1884)6月になって三号と四号の朝鮮活字を発売している。

これは、明治15年(1882)5月から明治19年(1886)11月までに新製した朝鮮文字活字を一冊に纏めて明治21年(1888)2月に発行した『新製見本』に掲載されている。

図33-2 明治17年6月の「新製見本」
<『新製見本』、築地活版製造所、明治21年2月より>

右に三号朝鮮文字、中央に四号朝鮮文字が印字されている。
なお、左は四号梵字(インド文字)である。

『新製見本』の(12)ページに「明治17年6月新製」の三号と四号の朝鮮文字と四号の梵字体が掲載されている。
なお、同書の(30)ページには「明治19年9月新製」の銅板イラストが紹介されており、そのイラストに築地活版製造所の英文広告が組み込まれている。その中に、FOREIGN CHARACTERSとして「Roman, Italic, German, Corean, Indian and all kinds of Jobbing Types」としてCorean(朝鮮文字)が含まれている。

4)『活字と機械』、大正3年(1914)6月発行(参考)
株式会社東京築地活版製造所の五代社長野村宗十郎の時代のことになるが、大正3年(1914)6月、『活字と機械』を発行している。

その冒頭の挨拶文で「粛啓 漢字、仮名、朝鮮文字、その他ポイント式活字類、印刷機械、小道具類等ノ見本帖 調製致候間 御高覧ニ供シ候 敬具」と述べて、漢字、仮名と共に朝鮮文字が含まれていることを示している。
また、9ページには「築地和漢洋文字」として「各号明朝、各号楷書、各号ポイント式活字、朝鮮文字、其他各種書体英、佛、伊太利、独乙、希蝋、印度、露西亜、蒙古、其他各国文字及装飾文字」と記した広告を掲載している。

そして、同書の77ページに「二号および三号」、78ページに「四号および五号朝鮮」として4種の朝鮮文字(ハングル)による印字見本を掲載している。

図33-3 『活字と機械』に掲載された朝鮮文字
<『活字と機械』、㈱東京築地活版製造所、大正3年6月より>

左側に二号と三号、右側に四号と五号の朝鮮文字を示す。
二号、四号、五号はいわゆる明朝系とされる書体であるが、
三号は、明治17年6月新製と同じで、
ゴシック系に近い書体であるが、筆の起収が表現されている。

大正3年(1914)は第一次世界大戦の勃発した年であるが、4年前の1910(明治43)年8月に日韓国併合条約が調印されて、大韓帝国(1897年10月に宣布)は消滅して日本国政府の統治下に入った。

日本政府は朝鮮の教育・文化政策を推進し、併合時に100校ほどしかなかった4年制の普通学校(小学校に相当)は、1943(昭和18)年には6年制の国民学校として5,960校を数え、義務教育制度はなかったが、そこで日本語、朝鮮語、算数、日本史、朝鮮史、朝鮮伝統の修身などの教育を行った。この朝鮮語教育でハングルが用いられたことから、ハングル活字の需要は大いに期待されていた。

(2)朝鮮国への活字納入実績
1)ハングル母型の製造・納入(明治5年)
明治5年(1872)、横浜のゼーコール・ジャパン社は朝鮮諺文活字を用いて『聖教公程』、四六半裁版300余頁を印刷出版した。この印刷に使用した字母の種字を彫刻したのが牛込に住んでいた天野国中で、母型は字母吉が製造してゼーコール・ジャパン社で鋳造した。

この記事は、牧治三郎著『活版印刷伝令考=10』(『印刷界』、1966年12月号)に記述されているものをそのまま引用した。

平野富二に雇われて神田和泉町で字母係となった小倉吉蔵(通称、字母吉)によるハングル活字の母型製造について、『聖教公程』が出版されたとする明治5年(1872)は、平野富二が長崎から上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したばかりの頃で、そのとき、長崎から字母係を連れて来ることができなかったため、江戸で相当名の知れた神社仏閣の飾金具師小倉宗吉に白羽の矢をたて、その推挙を受けて長男の吉蔵を字母係として雇い入れた。その小倉吉蔵が、後に「字母吉」と呼ばれるようになった。

平野富二が神田和泉町で字母製造のために初めてガルバニー(電胎法)を開始したのは明治5年(1872)9月20日であったする記録がある。小倉吉蔵はこれに従事したと見られる。

したがって、牧治三郎の記事が正しいとすると、『聖教公程』の朝鮮諺文(ハングルのこと)活字を鋳造するための字母は、神田和泉町で平野富二が字母吉に造らせて、ゼーコール・ジャパンに納入したと見ることができる。
通常は活版製造会社が字母を販売することはないが、わが国で使用されないハングル活字の字母であったがために、平野富二は敢えて販売に踏み切ったと見られる。

小倉吉蔵は、明治8年(1875)に平野富二の指示で上海に渡り、合理的な字母の製造法を研究し、明治10年(1877)に帰国した。しかし、平野富二の下には戻らず各地に誕生した活版製造所を遍歴し、明治11年(1878)に神田連雀町で字母製造業を独立開業した。 

2)活字字母を朝鮮国に納入(明治14年)
明治14年(1881)、朝鮮国から二号と四号の字母の注文があったことが津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』の雑録「築地活版昔物語」(116頁)に次のように紹介されている。

「●明治14年に朝鮮から二号と四号の字母が入注したことがある。数量は記憶がないが、かなり沢山な額であったと思う。その頃、字母は一本65銭、五号活字1個が1厘8毛という相場であった。」

この朝鮮からの字母入注は、明治13年(1880)8月、第二次朝鮮修信使(正使:金弘集〔キム・ホンジプ〕)の随員が東京の築地活版製造所を見学した結果とも見られる。

これだけの情報ではこの字母が漢字かハングルかは不明であるが、平野富二が漢字の字母を販売したとは考え難い。

ハングルで使う文字は、子音字と母音字を組み合わせて一つの文字に「組み書き」した場合、実用上は2,500字から3,000字近くの母型が必要となると云われている。これだけでもかなりな数量、金額であることに間違いない。

3)第四次朝鮮修信使に活字・印刷機を納入(明治16年)
朝鮮国への活字・印刷機の輸出については、直接的には、第四次朝鮮修信使(正使:朴泳考〔パク・ヨンヒョ〕、顧問:金玉均〔キム・オッキュン〕)が、明治16年(1883)1月、日本において資金を調達して帰国する際に、福澤諭吉の「朝鮮が近代国家として独立し、人民を啓蒙するには、新聞の発行が必要である」との訓示により、活字と印刷機を購入した。この活字と印刷機は築地活版製造所から納入された。

福沢諭吉は、明治15年(1882)3月1日に『時事新報』を創刊しており、人民を啓蒙する手段として自ら新聞によることを実践し、朝鮮にもそのような活動を広めるために全面的な支援を約束していた。

第四次朝鮮修信使が朝鮮国に持ち帰った活字と印刷機を使用して新聞を発行するため、福澤諭吉の意を戴した弟子の井上角五郎は印刷工2名を引き連れて朝鮮に渡った。この印刷工2名は慶應義塾出版の関係者と見られる。

井上角五郎(1860~1938)は、明治15年(1882)7月に慶應義塾を首席で卒業し、同年12月に福沢諭吉の指示で『時事新報』の記者だった牛場卓蔵らと共に朝鮮改革のため漢城(今のソウル)に派遣された。しかし、朝鮮政府の内部抗争で改革を断念して牛場卓蔵らは帰国したが、井上角五郎だけは独り残った。
その後、井上角五郎は、国王高宗と金允植(キム・ユンシク)の支持を得て、1883(明治16)年6月に朝鮮政府の外衛門顧問となった。そして、同年8月に新設された統理衛門博文局の主事を任命され、朝鮮開国492年10月1日(1883年10月31日)、朝鮮国最初の近代的新聞である『漢城旬報』を創刊した。

図33‐4 『漢城旬報』、第一号
<李相哲著『朝鮮における日本人経営新聞の歴史(1881~1945)』、

角川学芸出版、平成21年2月 より>
この新聞は朝鮮国の官報に準じて発行された。
四六倍判(幅17センチ、縦24センチ)の冊子形式であった。
新聞紙名の下に号数と朝鮮年号で発行年月日を示しており、
左上の枠外に清国の年号を表記している。
すべてが漢文で、当初は16頁であったが、後に24頁となった。
41号まで発行されて中断した。

当初の計画では、漢文とハングルを混ぜた朝鮮語の新聞とする予定であったが、活字の問題や守旧派の反対もあって全てが漢文の新聞となったという。

4)福沢諭吉を通じたハングル活字納入(明治18年)
明治16年(1883)11月21日付けの福澤諭吉から井上角五郎に宛てた書簡が慶応義塾編『福澤諭吉書翰集』、第四巻に収録されている。それによると、

「(前文省略) 殊に近日は新聞紙も着手、弥(いよいよ)発行相成(あいなり)候よし、幾重にも御勉強奉祈(いのりたてまつる)。 (途中省略) 京城新聞出来(しゅったい、完成)候に付ては朝鮮の仮名入用に可有之(これあるべく)、爰(ここ)に朝鮮仮名活字四号文字四千三百余種類各百五拾個づゝ、此総数六十四万九千八百個、代金弐千〇七拾九円三十六銭。但壱個に付三厘二毛。
右出来の品有之(これあり)、若(も)し御入用ならば差送り可申、実は此品を売れば此方に都合宜しき次第、但し金子を前以(まえもって)御遣し不相成候(あいならずそうらい)ては相談出来不申、品物は慥(たしか)に揃居候得共(そろえおりそうらえども)、金の入用劇しく、何分金と引替ならでは不都合に御座候。
故に若し其地の活版局に御買入にも相成(あいなり)候はゞ、右代価の外に荷作り並に運賃を見込、少々余分の金を添て御廻し相成候はゞ、品物は直に差上候様取計可申、実を証するため態(わざ)と老生より申上候。 (後付けと別記は省略)」

なお、括弧内は稿者が参考とて付記した。

時期的に見ると、すでに『漢城旬報』が発行された後のことであるが、福澤諭吉はまだ発行済であることを承知していないらしく、朝鮮の仮名文字(いわゆるハングル)が必要ならば、すでに手配して何時でも送れるように準備してあるとして、四号活字の個数と金額を提示している。なお、現地活版局の代金支払いを心配して、代金引き換えとするよう要求している。

この書簡の解説によると、朝鮮仮名活字は福澤諭吉の独断ですでに築地活版製造所に注文済みで、井上角五郎は、後年、『漢城旬報』を『漢城周報』と改題して漢字とハングル混用の文体を採用する際に、これを引き取ったという。

これよりやや後の書簡と見られるが、石河幹明著『福澤諭吉伝』、第三巻に、井上角五郎から送られて来た『漢城旬報』の第一号と第二号を見た福澤諭吉の書簡抜粋が次のように紹介されている。

「 (前略) 一向一心に御勉強奉祈候。或は材料の為に海外の新聞紙購求の事も緊要ならん。又、随(したがっ)て英文翻訳の人物も入用ならん。追々は紙面に絵を挿む事も韓人の耳目に新しき工風ならん。或は又、朝鮮の仮名文字にて近浅なる理学医学の道理を知らせ、又、滑稽洒落文抔(こっけいしゃれぶんなど)も妙ならん。兎に角(とにかく)に仮名は早々御用相成(ママ)、漢文のみにては区域狭くして埒明不申(らちあきもうさず)、実は仮名文を以て朝鮮の旧主義をも一転いたし度(たき)事共なり。日本にても古論を排したるは独り通俗文の力とも可申(もうすべく)、決して等閑(なおざり)に看るべからざるものに御座候。 (後略) 」

つまり、福澤諭吉は、井上角五郎から贈られた第一号と第二号を見て、「我国の仮名に相当する朝鮮のハングルを用いれば多くの人が読めるようになるだろう」と指摘し、ハングルの採用を井上角五郎に指示した。井上角五郎は、早速、新聞記事としてハングルを使用する検討を始めた。

井上角五郎が『漢城旬報』第10号(1884年1月30日付)と第11号に、京城に駐在する清兵の横暴についての記事を掲載したことに就いて、1884年4月、清国から朝鮮政府に対して、官報である『漢城旬報』にこのような根拠のない記事を掲載するのは非礼である、との厳重な通牒が寄せられた。
井上角五郎はその責任を負って辞職し、同年5月、日本に帰国した。同年8月になって、朝鮮国王(高宗)の内意を伝え得る手紙が届き、再び朝鮮に赴き、『漢城旬報』を再刊したのは同年11月であった。

1884(明治17)年12月、朝鮮国において「甲申政変」と呼ばれる改革派によるクーデターが起き、反撃した守旧派により博文局が襲撃され、機械設備一切を破壊され、局舎を焼き払われた。日本公使館も危うくなったことから、日本公使以下が日本に脱出するなどの事件があった。その際、井上角五郎はクーデターを起こした改革派の金玉均、朴泳考らと共に日本に避難した。

間もなくベトナムを巡って清国とフランスとの関係が切迫したため、井上角五郎は外務省の筋から『朝鮮旬報』を支那人の手に渡さないとの主意で朝鮮行きを勧められた。

1885(明治18)年8月中旬、井上角五郎は再び漢城に戻って博文館を再建した。さらに、一旦、日本に帰国して福沢諭吉が手配していたハングル活字を購入、活字職人2人を引き連れて漢城に戻った。次いで、漢字とハングル文字を混用した文体を現地の老儒者に創案してもらい、先の政変で発行停止となっていた『漢城旬報』に代えて、1886(明治19)年1月、『漢城周報』と題して発行した。

井上角五郎は1885(明治18)年10月(旧暦)から2年間の契約で翻訳係として朝鮮政府に雇われていたが、1886(明治19)年12月末に朝鮮を去って帰国した。

その後、『漢城周報』は、国漢文(漢字ハングル混用文)、純漢文、純ハングル文が使われていたが、国漢文と純ハングル文は次第に減少し、47号から純漢文のみとなり、1888年(明治21)年7月7日、赤字財政のため博文局が閉鎖されると共に『漢城周報』は廃刊された。創刊から2年6ヶ月後のことである。

(3)ハングルの創製と変遷(参考)
 1)「訓民正音」の創製
朝鮮国においては李朝第四代世宗(1397~1450、在位:1418~50)が1443年に国語を表記する文字として創製し、1446年に『訓民正音』という書物で公布した。この「訓民正音」は28字から成り、「習いやすく、日用に便ならしむ」目的で制定された。「訓民正音」は、後に「正音」、「諺文」、「国文」と称され、現在の「ハングル」である。

この「訓民正音」は、音節を初声、中声、終声に分解し、それぞれに子音字、母音字、子音字を割り付け、初声と中声を上に並べ、終声をその下に配置する。これにより音節に対応した一つの字体をかたちづくる。

子音字は、牙(口蓋)・舌・唇・歯・喉から発する平音をそれぞれ発音する時の口の形にかたどって字母とし、吐き出す息の強い激音には平音の字母に一画を加え、その他、有声音(鼻音・摩擦音・流音)に対応させて異体字(派生字)を割り付けた。これにより子音字は17字となる。
母音字は、「易」の天地人を表わす点・横棒・縦棒を組み合わせて短母音7字と短母音に点を一つ加えた半母音(二重母音)4字とし、合計11字となる。これに子音字17字を加えると28字となる。

世宗は『訓民正音』を頒布した翌年の1446年に『東国正韻』全六巻を編纂させて、2年後の1448年に頒布した。署名は「東国(朝鮮国のこと)の韻を定める」という意味で、その序文は金属活字、本文は木活字を用いた活版印刷で刊行された。

漢字漢文原理主義者の根強い抵抗のある中で、漢字と正音(ハングル)を混用した書物が現れた。その中での漢字の扱いは、①漢語は漢字で表記し、国語はハングルによるもの、②漢語をハングルで表現し、やや小さめの漢字を付すもの、③漢語を漢字で表記し、ハングルで小さめに付記するものなど、表記の仕方に工夫をしながらハングルの普及に努めたことが分かる。

世宗の没後は、第五代文宗、第六代端宗と続くが、その治世はいずれも短く、世宗の次男世祖が第七代として王朝を継いだのは1455年のことである。
この世祖の時代には仏典を朝鮮語に翻訳する事業が行われ、国是である儒学を学ぶための四書の諺解(ハングルを用いた朝鮮語訳)が行われている。また、漢字漢文を学ぶための入門書として『千字文』があるが、その漢字に対応する朝鮮語と音読みをハングルで付記した16世紀のものが残されている。

2)諺文の沈滞期
「諺」とは、昔から言い伝えられてきた言葉やことわざを意味するが、朝鮮国では漢文に対して朝鮮語の文を卑下して「諺文(おんもん)」と称したといわれている。

第十代燕山君(ヨンサングン、1476~1506、在位1494~1506)は諺文を禁圧し、諺文で記した書物などの焚書を命じたことで知られている。

この時から高宗30年(1892)までの400年間を諺文の沈滞期とする時代区分が朝鮮語学者の李允宰(イ・ユンジュ、1888~1943)によって1933年に提起されている。

本稿(2)で示したように、明治14年(1881)にはハングル母型の納入、明治16年(1873)の第四次朝鮮修信使による活字と印刷機の発注と『漢城旬報』発行時のハングル使用検討、明治18年(1875)の福沢諭吉手配のハングル活字購入による漢字・ハングル混用の『漢城周報』発行など、すでにハングル普及活動が開始されていることは、次の復興期への導入と見ることが出来る。

3)国文としての復興期(参考)
本稿は平野富二の活版製造に関連して朝鮮書体の製造と販売について紹介することを目的としているので、この「国文としての復興期」は時期的にその後の事となることから、(参考)とした。

李允宰は、この期間を甲午更張(1894)から庚戌(1910)までの17年間としている。
甲午更張とは、1894年7月に高宗が内政改革の一環として校正庁(改革推進機関)を設置して、「更張(改革)」への詔勅を下し、金弘集政権による改革事業が開始され、1896年2月に第三次金弘集政権が壊滅するまでの近代化改革をいう。

この改革は、下から支える大衆的基盤が弱かったことに対する反省から、1896(明治29)年4月、開化派の徐裁弼(ソ・ジェピル 1864~1951))らにより全文ハングルの『独立新聞』が創刊された。この刊行に当たって朝鮮語学者の周時経(チュ・シギョン、1876~1914)がハングル表記を統括する役割を果たした。なお、ハングルの名称は「偉大なる文字」を意味し、周時経が名付けたと言われている。

8年後の1896(明治29)4月に徐載弼(ソ・ジェピル 1864~1951)らによって全文ハングルによる『独立新聞』が創刊されている。この刊行にあたって朝鮮語学者の周時経(チュ・シギョン 1876~1914)によってハングル表記が統括され、純ハングルにより活版印刷された最初の新聞とされている。これは、清国による伝統的な宗属関係からの独立を主張し、漢文の読めない庶民および女性層の中に民権思想を浸透させるためであった。

なお、李允宰は、この周時経によるハングル運動を起点として、時代区分を提起した1933年までを「ハングルの整理期」としている。

ま と め
平野富二は、活字の販路を国内のみならず、当時の近隣国である清国と朝鮮国にも広げることを計画していた。清国に対しては、やや遅れてスタートしたが、朝鮮国に対しては明治5年(1872)に平野富二が上京して長崎新塾出張活版製造所を開設したばかりの頃に、横浜からの注文に応じて活字母型を納入しており、このことが、朝鮮国への朝鮮文字(ハングル)納入に結び付く契機となったと見られる。

築地活版製造所の広告文や活字見本帳に「朝鮮文字」が掲載されたのは、明治12年(1869)6月に発行された『活字見本帳(改定版)』であった。次いで、明治14年(1871)3月に開催された第1回内国勧業博覧会に朝鮮書体の活版4種が出品・展示された。明治17年(1874)6月には「新製」として三号と四号の朝鮮文字を発表している。明治21年(1878)2月に発行された『新製見本』には、明治17年6月新製の朝鮮文字も含まれているが、別の広告文に、FOREIGN CHARACTERSとして「Corean」が含まれている。
なお、平野富二の時代ではないが、大正3年(1914)6月発行の『活字と機械』には、二号から五号まで4種の朝鮮文字が掲載されている。

このように、明治12年(1869)に四号と見られるハングル活字が紹介されて以来、順次、サイズを増やして、大正3年(1914)には三号から五号までの4種のハングル活字が販売されていたことが分かる。

これを、活字納入実績の面から見ると、明治14年(1881)に朝鮮国からの注文に応じて二号と四号の活字母型を納入したことから始まる。活字母型を納入したことについては、明治12年(1869)6月発行の『活字見本帳(改正版)』に四号とみられる朝鮮文字をすでに掲載していることから、余程の配慮がなされた結果と見られる。

この間、国家間の進展が見られ、明治9年(1876)2月に日朝修好条規が締結された結果、同年5月に朝鮮国は日本に第一次朝鮮修信使を派遣し、明治13年(1880)8月には第二次朝鮮修信使の随員が築地活版製造所を見学している。

明治16年(1883)1月に第四次朝鮮修信使が、日本において資金を調達して帰国する際、福澤諭吉の「朝鮮が近代国家として独立し、人民を啓蒙するには、新聞の発行が必要である」との訓示により、活字と印刷機を築地活版製造所から購入している。それに合わせて福沢諭吉の意を体して牛場卓蔵らと共に井上角五郎が印刷技師2名を連れて朝鮮国に渡り、朝鮮国の官報に相当する『漢城旬報』を1883(明治16)年10月に刊行した。この刊行に当たってハングルの使用も検討されたが、反対もあって純漢文となったという。

その頃、福沢諭吉は朝鮮国での新聞発行には朝鮮仮名(ハングル)が必要であろうとして、築地活版製造所に朝鮮仮名活字約65万個を発注し、完成していたらしい。この朝鮮仮名活字は後に買い上げられて『漢城周報』(『漢城旬報』の後続誌)の印刷に使用された。

最後に、ハングルの創製と変遷について、参考にその概略を記した。

2020年6月28日 公開

 

活版印刷の地方への普及〔後編〕:明治7年以降の納入事例

まえがき
前回の「活版印刷の地方への普及〔中編〕」では、明治6年(1873)に各府県が発行した布達類と新聞について、平野富二の活字・活版印刷機納入を通じて鉛活字による活版印刷が全国に普及して行く状況を示した。

当初は県庁に活字・活版印刷機を設備して御用業者に印刷業務を請け負わせる府県が多かった。平野富二の鉛活字を採用する前から既に木活字を用いて手摺りで印刷を行っていた府県もあり、木活字を鉛活字に切り替えると共に活版印刷機を導入する府県もかなり見られた。

明治6年(1873)10月になって、正院印書局が布告・布達類を活版印刷して各府県毎に一定部数を定めて頒布するようになると、各府県は布告・布達類を新聞に掲載して広報誌として利用するようになった。さらに、民間の御用業者に県庁の活版設備を払い下げるなどして新聞を発行させるようになった。

本稿〔後編〕では、明治7年(1874)以降の地方における活版印刷の採用について、各種資料に記録された平野富二の活字・活版印刷機納入事例を通じて纏めてみた。

明治7年(1874)には秋田県聚珍社の『遐邇新聞』発行について、明治8年(1875)には佐賀県の県庁活版局への活版設備納入と名東県(後の徳島県)普通社の『普通新聞』発行について、明治9年(1876)には大阪府御布令上木所の活版化と兵庫県淡路洲本の『淡路新聞』発行について、1年置いた明治11年(1878)には北海道函館北溟社の『函館新聞』発行について、以下に順次紹介する。

各府県における布告類・新聞の活版印刷動向
(1)明治7年2月、秋田県の聚珍社
『遐邇(かじ)新聞』は、明治7年(1874)年2月2日、秋田の聚珍社(秋田県下茶町菊の町)から発行された。これは秋田県各新聞の先駆たる新聞の濫觴で、全国新聞中でも古いものに属するとされている。
聚珍社の基本的性格は県庁からの公文書の印刷であるが、その運営は全面的に県の資金援助に依存するものではなく、広告収入や文芸誌の発行により独立性を保っていた。
明治11年(1878)になって『秋田遐邇新聞』と改題し、秋田の自由民権運動に大きな役割を果たしたとされている。

第1号は、和紙9枚を半折りし、紙縒(こよ)り綴じした冊子で、本文は三号の初期清朝風漢字活字を使用している。明治8年(1875)上半期までは毎月1回発行され、下半期は月8回となった。

当時、東京築地活版製造所で販売していた漢字活字は書風の異なる3種の漢字を揃えていたが、呼称を表示することなく印字見本で示していた。当時の活字の版下は池原香稺の筆になるもので、池原香稺と本木昌造の間ではそれぞれを明朝風、清朝風、和風と呼んでいたらしい。ただし、明朝風と呼ぶ漢字活字は上海美華書館の活字を複製したものと見られている。

明朝風は現在用いられている明朝体と基本的に同じであるが、
清朝風は字画の太さに変化の少ない細めの書風の楷書体で、和風は御家流の流れを汲む書風の行書体である。清朝風は、後年、書家の小室樵山の筆になる版下を用いたことから、池原香稺によるものを初期清朝風とした。

これらの活字は、「活字目録」(図32‐2)や明治9年発行の『活版様式』に掲載されている。

表紙となる第1面には、明治七年二月二日、官許(押印)、遐邇新聞 第一號、聚珍社発兌(押印)とある。続いて半折りの裏面に、「今般官許を蒙(こうむ)り、上は県庁の布達幷(ならび)に審理公判、下は県下の諸新報を編集し、加うるに現今発行の各種新聞紙中最も切要にして世益となるべき者を抜粋し、且、東北地方の事績、諸新誌の載せざる所を録し、人民をして遠近の事情に達し、内外の形勢を知らしめ、以って知識開広勧懲裨補の一助となさんと欲す。因(よ)って冀(こいねが)ふ。諸君子記載すべき事あらば速に報告を賜へ」として掲載内容と発行目的、投稿依頼を記している。

図32‐1 『遐邇新聞』、第一号の奥付
<日本新聞博物館所蔵>

最終ページにある奥付には
本局:秋田縣下茶町菊ノ町 聚珍社
同局:東京小傳馬町三町目 吉岡重次郎
賣弘所:秋田縣下上肴町 小谷部甚左衛門
編輯者:鳥山棄三、印務者:管又謙次
と記してある。
漢字はすべて明朝体を採用している。
新聞名の「遐邇」は「遠近」、
社名の「聚珍」は「珍しい事柄を集める」
を意味する。

『遐邇新聞』の創刊に先立ち、明治6年(1873)8月、平野富二は聚珍社の関係者からの依頼に応じて社員鳥山棄三を編集兼印刷人として秋田に出立させている。

秋田県では、明治6年(1873)9月に秋田県権参事加藤祖一の名前で管内布達「活版新聞局設置に付き告諭」が出され、その中に「県下に活板新聞局を設け、‥‥その開業を許可」と記されている。次いで、同年10月5日に柴村藤次郎と吉岡十次郎代理吉岡十五郎から秋田県に届書が提出されている。その届書には、「本年4月中、願い済みとなっている『羽後新聞』は、今般、『遐邇新聞』と題号を改めて発行したいのでお届け申し上げ奉る」としている。秋田県はこれを受けて文部省に新聞題号更正を届け出た。

宇田川文海(鳥山棄三の筆名)述『喜寿記念』によると、
「或る日のこと、平野さんから『ちょいと来てくれ』という沙汰があったので、何の用かと思って、すぐに行って見ると、平野さんは例のニコニコ笑いながら、『今度、秋田県の活版印刷御用を引受けて出張する人があるが、県庁では、印刷の御用を命ずる代わりに、その副業として新聞を発行することになっている。ところが、経費の都合で新聞の主筆と、活版部の職工長と2人を雇うことは経費上むずかしいから、1人でこの二役を兼ねる者が欲しいので、是非世話をしてくれという難しい相談があった。そこで私もいろいろと考えて見たが、私の知る限りでは、差し当たりお前より外に適任者がないから、是非、二役を兼ねて行って貰いたい。お前さへ承知なら、兄の茂中貞次君には宜しく頼むことにする』と、意外千万な相談があった。そこで、『印刷の職工長は、曲りなりにも勤まりましょうが、これまで纏まった文章を書いた事がありませんから、新聞の主筆などはとても出来ません』と固く辞退したが、普段から部下の言動より鳥山棄三に文才があることを見抜いていた平野富二に説得されて秋田行きを決意した。」

鳥山棄三は東京を発って秋田に到着するまでの個人記録として『秋田行日記』を残している。その前文に、「明治六年八月四日、秋田県へ、新聞局を開き、活字版を広めん事を依頼され、本日出発す。相伴う人は、吉岡十五郎君、柴村藤次郎君、外壱人、僕と合せて四人、家兄吉太郎、真平、千住駅まで送り来る。」と記されている。

ここに出てくる柴村藤次郎は、当時、秋田県に寄留していた東京府下橘町三丁目の活版取扱人と記録されており、平野富二に活版設備一式を注文すると共に、活版印刷指導と新聞編輯を兼ねた人材の派遣を要請した当人と見られる。

その後、鳥山棄三が秋田を去るに至った経緯について、再び『喜寿記念』から引用すると、
「私は秋田の活版所へ、2年間の約束で行って、明治6年の秋から8年の秋まで、首尾よく勤めたので、是非今一年働いてくれと依頼されたが、この時、兄の茂中貞次が兵庫県の活版印刷の御用を勤め、傍ら『神戸港新聞』を発行していたので、是非帰って援けろと、再三やかましく言ってくるので、兄弟の誼(よしみ)として辞するに由なく、約束通り秋田の活版所を辞して、その年の秋の末に神戸に行き、『神戸港新聞』の記者と成った。」

(2)明治8年、佐賀県の県庁活版所
佐賀県では明治6年(1873)2月から楷書と片仮名、および、楷書と平仮名の活字で印刷された布告・布達類を発行しているが、これに用いられた活字はいずれも木活字と見られる。

明治7年(1874)10月15日になって、佐賀藩医だった川崎道民が佐賀県令北嶋秀朝に活版所の設立を願い出ている。その願書には『新聞雑誌』に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」が添付されていて、その中にある三号和様活字を至急購入したいと述べている。
このことは鈴木広光著『日本語活字印刷史』に述べられており、その関連文書は佐賀県立図書館に「活版書類」一冊(第一課編)として所蔵されているとのことである。

図32‐2 『新聞雑誌』の広告
<『新聞雑誌』、第66号附録より>

この「崎陽新塾製造活字目録」が掲載された時期は
明治5年(1872)10月下旬と見られる。
この中の三号活字には書体の異なる3種がある。
川崎道民は右から3番目の和様活字を指定した。
和様漢字は広く手習いで教えられる標準書体で、
当時の人たちにとって
最もなじみ深い行書体の書風である。

川崎道民の出状から20日程遅れて、長崎活版社中の松野直之助が佐賀県令北島秀朝に宛てて出状している。その明治7年(1874)11月4日付の願書については、本稿〔中編〕の福岡県の項でその前半部分に記された内容を紹介した。ここでは、後半部分に記された佐賀県令に対する願いの内容を現代文に直して紹介する。

「(前文省略) このたび御県にお伺いしたところ、活版所を出店した場合に布告類1枚を幾らで印刷できるか見積もるよう仰せ付けられました。そこで、布告類の部数をお伺いしたところ450部ずつ必要とのことでした。
計算の結果、1か月の布告類を平均100枚と見込むと総数は45,000枚、1枚2厘とすると90円となります。この内、紙代約35円を差し引くと、残りは60(55の誤り)円になりますが、これでは職人の給金やその他諸雑費など、出店するとなると存外増大するので、収支が合わないと存じます。
したがって、このことを勘案され、活字・機械等をお買い上げ頂けないでしょうか。代金の支払いについては一部前払い金を頂ければ、ご指示通りどのようにでも致します。
ことに御県ではこれまで布告類の印刷に従事した人もおられるとのことですので、ついでに活字・機械等のお買い上げをご下命されますようお願い申し上げます。」

川崎道民と松野直之助の願書は、たまたま、期を合わせたように相次いで佐賀県庁に提出されたことが分かる。

当時の佐賀県は、廃藩置県当初の佐賀県(第1次)と厳原県が合併して伊万里県となり、旧佐賀藩の諫早等が長崎県に分離編入された後の明治5年(1872)5月に伊万里県が佐賀県(第2次)と改称したものである。

佐賀県では、二人の願書を受けて木活字から崎陽新塾製の鉛活字に切り替えを行い、明治8年(1875)になって布告類の活版印刷化が実現することになった。
しかし、明治9年(1876)4月に三潴(みずま)県に併合され、さらに、同年8月に長崎県に併合された。現在の佐賀県(第3次)となったのは明治16年(1883)7月に長崎県から分離独立したときからである。

(3)明治8年9月、名東県で『普通新聞』発行
明治4年(1871)7月14日に行われた廃藩置県の結果、徳島藩は徳島県となったが、同年11月15日に淡路島全郡を含めて名東県となり、明治6年(1873)2月20日に香川県を併合したが、明治8年(1875)9月6日に香川県を分離して元に戻した。現在の徳島県となるのは明治13年(1880)3月2日である。

名東県は、明治6年(1873)7月10日、県の布達を初めて木活字による活版印刷で発行し、管内に配布した。
これに関連して、明治7年(1874)1月の徳島県布達に「昨年(明治6年)7月より12月まで、諸布達を活版印刷して配布したが、その間の印刷物は85,141部、費用は768円48銭2786」とあり、さらに、同年6月の徳島県庶務課からの布達に「昨年(明治6年)、活版機を1,470円で県が買い上げた。その代金と印刷費は管内各区が負担し、当年から5ヶ年10回払いする。」旨が記されている。

これに先立つ明治6年(1873)3月、名東県下の謳歌社から『徳島新聞』が創刊されている。この新聞は半紙二つ折りの冊子で、1段17字詰めの罫線書きで、木版により印刷されている。
第3号は同年4月に発行されたが、第4号は1年余り後の明治7年(1874)5月21日に体裁を一新して発行された。それは、洋紙1枚の表裏刷りで、3段組み、12ポイントよりも大きい木活字(四号相当)による活版印刷であった。編集者は国方日渉園(元徳島藩士で国学者)、発行所本局は通町二丁目の謳歌社となっている。

このように、名東県布達が木活字による活版印刷となった時期と『徳島新聞』が1年余りの休刊の後に体裁を変えて木活字による活版印刷で再刊された時期が一致する。このことは、謳歌社が名東県の印刷御用となり、県庁所有の木活字と活版印刷機を使用して諸布達を印刷納入すると共に、『徳島新聞』の印刷にも使用したと推測される。

明治6年(1873)に名東県が購入した印刷機は、金額が1,470円もすることから、これは活版印刷に必要な機器・資材一式と見られるが、当時、平野富二が販売する長崎製半紙二枚摺プレスは1台170円と比較すると余りにも高すぎる。したがって、これらの機器・資材は神戸の外国商社から購入した舶来品と見られる。

その前年5月に神戸では『神戸港新聞』が鉛活字による活版印刷で発行されており、名東県に属していた淡路島出身の三木善八がその経営に関わっていた。また、同年10月には、平野富二による活字や摺器械などの広告が『新聞雑誌』に掲載されている。
それにも拘らず、名東県が鉛活字ではなく木活字を使用し、高価な印刷設備を購入した理由は判らない。木活字は何度も印刷を重ねるうちに、次第に字影が判然としなくなるなどの問題がある。

『徳島新聞』は、明治8年(1875)8月に第21号で廃刊したらしい。その号には政府の「新聞纔謗律」と「新聞紙条例」の全文を掲載しており、廃刊の理由を暗示している。

それに代えたかのように、同年9月21日、『普通新聞』が普通社(徳島裏ノ町)から創刊された。『普通新聞』の創刊号はタブロイド判二つ折り、4ページ物で、3段組により鉛活字で活版印刷されている。主宰の益田永武は徳島藩中老の家に生まれ、初期民権運動家の一人で、廃藩置県後に県会議員を永く務めた人である。

『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)によると、「明治9年、四国に普及社(普通社の誤り)と云うのが出来て、美濃判二枚刷のハンド2台と活字、その他付属品一切を送付した。」とある。このことから、活字・活版印刷機など一式を平野富二が納入したことが判る。

図32‐3 普通社に納入したと見られるハンドプレス
<東京築地活版製造所『活字見本帳』、明治12年刊>

平野富二が国産化した半紙一枚刷の小型プレス
に続いて国産化した大型プレスが
ここに示す美濃判二枚刷ハンドである。
明治10年開催の第一回内国勧業博覧会に
この図版は野村長三郎名で出品された印刷機と同一で
すでに明治9年に販売されていたと見られる。

明治21年(1888)になって『普通新聞』は『徳島日日新聞』と改題し、明治31年(1898)に社屋の火災で休刊し、その後、蜂須賀家の援助を得て再刊した。明治37年(1904)5月に『徳島新報』と合併して『徳島日日新報』となった。

このように、県庁による布達類の活版印刷は明治6年(1873)7月から木活字を用いて発行されたが、鉛活字による活版印刷となったのは、平野富二が活字と活版印刷機を納入したのは明治9年(1976)であったと見られる。

(4)明治9年2月、大阪府の御布令上木所で活版採用
大阪府については本稿の〔前編〕で紹介したが、そこでは触れなかった布令発行について、『本邦活版開拓者の苦心』の雑録として次のように記されている。

「大阪で布令を発行することに決定したのは、明治4年(1871)の秋からである。その頃、布袋町の住人瀬戸安世氏は、再三、当局者へ布達の貫徹を計るために上木聴許の願いを提出したが、明治4年(1871)7月24日にようやく許可の達しに接したのであった。そこで直ちに自宅に「大阪府御布令上木所」の看板を掲げて布令の印刷を開始した。
その当時は印刷と云っても要するに木版の手摺りに過ぎなかった。その工程は、まず布令の原稿を総区長から受け取ると、直ちに版下書工に浄写させて、即時、彫刻に廻し、再び校合して一枚ずつ手摺りにかける。そして出来上がったものを和綴じにして、翌朝、総区長ならびに諸官衛に納本すると云う順序で、全く徹夜の作業であった。
明治9年(1876)2月には、大阪活版所から活字を購入し、御布令書を手引印刷機によって活字で印刷することにしたから、印刷能率は非常に上がったが、さて、当時の活字はわずかに2、3種で、しかも字数がすくなかったから、活字同型の木版を彫刻させて補植しつつ印刷したそうである。」

本木昌造が五代友厚の要請を受けて大阪に長崎新塾出張活版所を設けたのは、明治3年(1870)3、4月頃のことであるが、その設立に当たって、あらかじめ大阪府の御用活版所となることを約束されていた。
明治4年(1871)7月14日に発令された廃藩置県の実施に際して、政府の関係印刷物を一手に引き受けた実績はあるものの、五代友厚から依頼された『和訳英辞林』刊行のための活字製造に忙殺されて、大阪府御用活版所としての役割を果たすことができなかった。

〔前編〕で紹介したように、明治4年(1871)10月28日に刊行した『大阪府日誌』は木版刷りで、しかも支配人吉田宗三郎の名義となっている。

(5)明治9年5月、淡路洲本の淡路新聞社
淡路島洲本の先覚者安部喜平は、明治9年(1876)に自宅に活版所を設立した。この年の8月21日には名東県が廃されて淡路島全島が兵庫県に編入されている。

安倍喜平は、慶應2年(1866)2月、人材養成のための家塾「積小軒」を創設している。そこで学んだ精鋭たちの中に、後に報知新聞社主となる三木善八が居る。三木善八は兵庫県令神田孝平の招きを受けて神戸で『神戸港新聞』を発行したが、その後、安倍喜平の招きで郷里の淡路島に戻り、淡路新聞社の社員となって『淡路新聞』発行に協力している。
このことから、安倍喜平は、活版所開設に当たって、三木善八に相談して、茂中貞次を通じて平野富二から活字と活版設備の購入が行われたと見られる。

『洲本市史』など地元の資料によると、安部喜平は、本木昌造が苦心の末に活字の製法を発明して東京に活版製造所を創設したことを知り、洲本の曲田成を東京の活版製造所に派遣して研究させ、明治9年(1876)5月、曲田成は活字と印刷機を購入して洲本に帰ったとしている。

しかし、この内容は東京築地活版製造所から発行された『曲田成君略伝』の記述と相違する。
淡路島洲本出身の曲田成は、士族という身分だけで官から禄を支給され、安穏に生活していることに疑問を持ち、明治6年(1873)2月、独立して自立の道を求める決意をして単身で上京し、偶然、平野富二の面識を得て活版製造所に入所したとされており、安倍喜平の指示で上京したとの記録はない。

活字と活版設備一式は、曲田成によって淡路島の安倍喜平に届けられた。曲田成は、このとき、家禄奉還の願書を徳島にある名東県の県庁に提出し、受理されている。

明治10年(1877)3月8日に安倍喜平は『淡路新聞』を創刊した。タブロイド判二つ折り(縦196mm、横134mm)で、当初は月2回、第5号から月4回の発行となった。この年の2月15日には西郷隆盛による西南戦争が勃発している。

図32‐4 『淡路新聞』第1号の奥付
<国立国会図書館所蔵>

第1号の表紙は
「東京築地活版製造所社長列伝」ブログの
「第3代社長曲田成」で紹介した。
ここではその表紙と最終ページの奥付を示す。

当時の地方新聞は県庁の御用新聞として県庁所在地で発行されたものが多いが、『淡路新聞』は県庁所在地から遠くはなれた地方の中堅都市において一個人によって発刊された。
『淡路新聞』発行の趣旨が創刊号の緒言に述べられているので、その概要を紹介する。

「わが淡路国の地勢は南海の一孤島で、西は鳴門海峡が険しく、北は岩屋の海潮が急で、東面は大阪と神戸港の盛地が視野にはいるが、電信・汽船の便がない。
そのため日時を競う新説や奇聞は他所に後れを取っている。東京や各地の新聞紙があるので全国の景況などを知ることができるが、全て郵便・電信の届く土地に限られる。僻地の住人は新聞の効能を知らず、その体裁がどの様なものであるかを知らない人が少なくない。
その上、掲載する社説や弁論は中等以上の者でなければ、これを読んで面白いと感じることができないのは嘆かわしい。このようなことから、当地において読み易い新聞を発行しなければならない。これが弊社の新聞発行の所以である。」

名東県が廃止されて淡路島全島は兵庫県に属したが、以前の徳島県は復活されることなく併合されて土佐県となり、明治13年(1880)3月2日に高知県と徳島県に分割されるまで続いた。

土佐は自由民権運動の発祥地ともいわれており、板垣退助が明治7年(1874)3月に土佐で日本最初の政治結社である「立志社」を創設している。この土佐の「立志社」の活動に刺激を受けて、同年9月に早くも阿波徳島に「自助社」ができ、その支社が淡路島の洲本にもあった。

『淡路新聞』創刊号の雑録に、西南戦争に対する洲本自助社の箋文(上奏文)が掲載されている。その主旨は、鹿児島県下の暴動について朝廷の趣旨に従い、県官の命令を固守して流言浮説に惑わされないようにすることを申し合わせたものである。
その内容は自由民権運動とは関係ないが、その後、『淡路新聞』は自由民権論を中心とした社説を掲載している。明治16年(1883)4月に自由民権運動の高揚に伴い廃刊を余儀なくされたが、明治23年(1890)4月に再発行された。

(6)明治11年1月、函館の北溟社
北海道で最初の民間の手になる新聞である『函館新聞』は、明治11年(1878)1月7日、函館の書店魁文社内に設けられた北溟社から創刊された。

北溟社は、明治10年(1877)12月、函館区内の有力者を株主として資本金2,000円で設立され、函館財界の四天王と呼ばれる一人である渡辺熊四郎が社長に就任した。
北溟社の設立に当たって、渡辺熊四郎は、長崎で懇意だった東京の平野富二に相談して、築地活版製造所から活字類と二枚刷器械1台を買い入れた。

『函館新聞』は、当初、2、7の日に月6回の発行だったが、明治11年(1878)7月から隔日刊となった。しかし、明治12年(1877)12月の函館大火による類焼により青森に分局を置いて青森新聞社の機械を借りて発行を継続した。

図32-5 『函館新聞』第一号
<『函館市史』、通説編 第二巻より引用>

紙面はタブロイド判洋紙による二枚両面刷りで、
二つ折りの4面、1面3段組みであった。
編輯人は宮城県出身の佐久間健寿、
印刷人は山形県出身の伊藤鋳之助であった。

社長の渡辺熊四郎は、株主と相談して再建資金の目途をつけ、活字と印刷機を再び築地活版製造所から購入し、明治13年(1880)1月、函館市庁の長屋を借りて活版所を開き、『函館新聞』を発行した。明治13年(1880)6月から再び隔日刊となり、明治18年(1885)4月から日刊紙となった。

以上の経緯について、坪谷善四郎編著『実業家百傑伝』の渡辺熊四郎の項によると、「(渡辺熊四郎は)函館に新聞がないことを残念に思い、明治11年になって同志と相談して北溟社と云う活版所を設けて『函館新聞』を発刊した。創業の当初、君は推されて社長となり、在職3年で基礎を固め、社運がようやく盛んになるに及んで社長を辞任し、同志の一人である伊藤鋳之助にゆずった。」と記されている。

渡辺熊四郎は、引退後に渡辺孝平と改称するが、その自伝である『初代渡辺孝平伝』によると、「(新聞発行に当たって)まず東京に行き、『報知新聞』の栗本(鋤雲)氏、また、『東京日日新聞』の岸田(吟香)氏などに頼んで編輯人を雇入れ、また、新聞事業の機械は平野富二と懇意だったので、活字・機械なども同人に頼んで買い入れることにした。さてまた、資金が乏しいので二枚刷器械1台で、それに応じた活字を買い入れ、明治11年1月7日に開業した。」と述べている。

平野富二が慶應3年(1867)に土佐藩に招聘され、機関方として土佐藩の蒸気船を乗り回していた頃、渡辺熊四郎は長崎土佐商会の持ち船で会計を勤めていたことがある。このときお互いに面識を得て懇意になったと見られる。

明治12年(1879)12月6日に発生した函館大火により北溟社は社屋が類焼し、機械類も使用できなくなった。

このときの『函館新聞』に関して、同月18日付の『朝野新聞』に掲載された記事によると、
「函館新聞は、開拓使の保護と二、三の富豪の尽力により追々盛大になったところ、過日の火災で器械を残らず焼失した。しかし、このまま廃業するのも遺憾とのことで、同社取締役伊藤鋳之助氏は株主に相談して都合1,000円余りの資金を調達し、この度、活版器械買入のため上京し、築地の平野活版所で調達中である。同氏によると、是非とも今年中に函館に帰り、来年1月から函館市庁の長屋を借りて活版所を開くとのこと。」

北溟社が設立される以前の函館における活版印刷について、函館市編さん室編『函館市史』によると、明治6年(1873)8月、開拓使が東京出張所内に活版所を設けて布達類を印刷して管内に配布し、さらに、『新報節略』を発行して官員に配布した。この『新報節略』は東京の新聞の中から北海道に関する記事をダイジェスト版として編輯したものであった。明治8年(1875)4月になって『新報節略』が廃刊となり、印刷設備は函館支局に移された。

この印刷設備に注目した伊藤鋳之助は賛同者の大矢佐市、魁文社社中と連名で「活字版器械拝借願」を提出した。途中、魁文社社中の者たちは本業多忙を理由に脱退したが、明治9年(1876)3月23日になって、「60日間、試験として函館支庁発令の公布達類に限り印刷」として貸与が認められた。同年5月22日になって、設備の払い下げと印刷業開業の申請を行い、許可を得て伊東鋳之助と大矢佐市の二人だけで函館活版舎を設立し、開拓使の仕事を中心に営業を開始した。
その印刷設備は、活字摺器械1式と付属品、3,301種類45,865文字の活字であったと記録されている。
東京で開拓使が調達したことから、摺器械は外国の輸入品、活字は工部省勧工寮活字局の製品と見られる。

伊藤鋳之助は函館活版舎を経営する傍ら北溟社の株主として参加し、『函館新聞』の印刷人となっている。
明治13年(1880)3月、渡邊熊四郎が本業の商業事務多忙を理由に社長を辞任し山本忠礼が社長に就任したが、明治14年(1881)1月に伊藤鋳之助が北溟社の資産を受継いで社長に就任した。

『函館新聞』が創刊された頃は、すでに政府の新聞紙条例と讒謗律により発行責任者に対する罰則が厳しくなっていたこともあって、その内容は道内の状況と内地府県の景況を報道することに重点を置き、政治色を排除した中立的地方新聞であって、明治21年(1888)1月に札幌で『北海新聞』(同年10月に『北海道毎日新聞』と改題)が誕生するまで、北海道では『函館新聞』が一紙独占の状態だった。

平野富二と渡辺庫四郎との関係は活版設備の納入に止まらず、造船事業での協力にまで発展した。

渡辺熊四郎ら函館四天王と称された4人の有力者たちは、函館に本格的な船舶修理を行える造船所の設立を計画し、開拓使長官黒田清隆に嘆願して船渠(ドック)築造計画を推進していたが、明治12年(1879)の函館大火に遭遇し、資金面から計画が中断してしまった。
その結果、計画を縮小して小規模器械製造所を設立することになり、渡辺熊四郎は東京で石川島造船所を経営している平野富二に協力を要請した。要請を受けた平野富二は、明治13年(1880)9月、曲田成を伴って函館に赴き、函館器械製造所の設立に協力し、出資者の1人となった。

ま と め
明治5年(1872)9月に埼玉県が文部省の認可を受けて布告・布達類を活版印刷して管内に限り頒布するようになったことから、この動きは全国の府県にも急速に広がった。
明治7年(1874)11月には各地方県庁の3分の2が長崎新塾製の活字・活版設備を買い上げて活版所を開設したという。当時は3府60県であったので、約40県が活版所を開設したことになる。

本稿では、前2回の〔前期〕、〔中期〕に続く〔後期〕として明治7年(1874)以降の事績について述べた。

明治7年(1874)の事績としては、秋田県の聚珍社から発行された『遐邇新聞』についてのみを紹介したが、この年は前年にも増して全国各地の県庁から東京築地活版製造所に引き合いが寄せられ、数多くの納入実績を挙げたと見られる。しかし、東京築地活版製造所には纏まった記録が残されていないので、それぞれの府県の記録を調査しないと分からない。

前稿で紹介したように、明治6年(1873)7月から政府による日誌・布告類の印刷・頒布が行われるようになり、各府県に部数を定めて頒布されるようになった。ただし、当初は整版による印刷であって、『太政官日誌』が活版で印刷されたのは同年10月13日からである。
その結果、各府県は不足部数を謄写して管内に配布するようになったが、次第に県庁で購入した印刷設備を民間の御用業者に払い下げて、印刷を委託するようになった。

秋田県の聚珍社は、県庁から布告・布達類などの掲載を認められて『遐邇新聞』を発行するため印刷設備を購入し、県の広報を担う御用を務めたが、経営的には独立した民間企業であった。

明治8年(1875)の事績としては、佐賀県活版所への活版印刷設備の採用と名東県(後の徳島県)の普通社から発行する『普通新聞』印刷のための大型ハンドプレスの納入について紹介した。
両県とも、木活字により布告・布達類の活版印刷を行っていたが、鉛活字に切り替えた。名東県では民間の普通社が発行する『普通新聞』に布告・布達類を掲載させて周知を図った。そのとき普通社は、東京築地活版製造所で国産化したばかりの大型手引印刷機を購入している。

明治9年(1876)の事績としては、大阪府の御布令上木所が大阪活版所から活字を購入して活版印刷に移行したことについて、また、淡路島洲本に於いて先覚者安倍喜平により『淡路新聞』が発行されたことについて紹介した。

最後に、明治11年(1878)の事績として、府県には属さない北海道の新聞発行として『函館新聞』について紹介した。

当時の政府は、文明開化政策を進める手段として、「新聞は人の知識を啓発・開眼させることを目的とすべきであり、これによって文明開化が達成される」とした。その流れに沿って地方の府県でも、単に布告・布達類の頒布に留まらず、積極的に新聞として発行し、単に政府や県の施策を伝達するだけでなく、内外の新たな情報や知識を地元住民に伝達する手段として活用するようになった。

ここで紹介した秋田県の『遐邇新聞』、名東県の『普通新聞』、兵庫県淡路の『淡路新聞』、北海道函館の『函館新聞』は、県庁で頒布する布告・布達類を掲載して県庁御用の一役を担っているが、いずれも独立した民間の会社から発行されている。

明治7年(1874)1月、板垣退助ら元参議4人を含む8人により提出された「民撰議院設立建白書」が『日新真事誌』と『東京日日新聞』に相次いで掲載された。これを契機として、民撰議院設立論争が多くの新聞を通じて行われた。秋田、淡路、函館の新聞も時代の流れを受けて自由民権運動にも関与するが、明治8年(1875)6月に公布された「讒謗律」と「新聞誌条例」、9月に公布された「出版条例」を意識した穏健な立場を取っていた。

明治10年(1877)の西南戦争の報道により新聞の発行部数は大きく伸びたが、西郷隆盛の失脚、明治14年(1881)の政変による大隈重信の要職からの追放、10年後の国会開設の約束などにより、自由党、立憲改進党などの政党が結成された。各政党は自らの意見や主張を広く民衆に伝える手段として新聞・雑誌を利用するようになる一方、政府はこれに対抗して政府系の新聞を発行するようになり、全国的に数多くの新聞が発刊されては、廃刊するという情況が続いた。

活版印刷設備を販売する平野富二は、時期到来とばかりに、ますます生産設備の増強と活字の改良、品質の向上に努めた。
記録によると、明治11年(1878)の活字販売個数は127万個余りで、これは明治6年(1873)の3.56倍であった。

総まとめとして、
〔前編〕で扱った明治初年(1868)から5年(1872)までは、長崎、横浜、大阪に於ける『崎陽雑報』、『横浜毎日新聞』、『大阪府日報』の発行を通じて、本木昌造が永年の研究により開発した鉛活字を用いた活版印刷による発行が計画されていたものの、活字の製造が思うに任せず、木活字や木版による印刷でスタートせざるを得なかった。
この状態は、言わば近代活版印刷の黎明期に当たる。
対策として同様の原理で鉛活字を製造している上海美華書館のギャンブルを招聘して「迅速製造法」の伝習を受け、平野富二による活字の規格統一、品質・コスト面での生産管理の徹底が行われた。
その結果、神戸に於ける『神戸港新聞』では鉛活字による活版印刷で発行され、埼玉県では布告類の鉛活字のよる活版印刷化が実現した。
この状態は、言わば近代活版印刷の曙光期に当たる。

〔中編〕で扱った明治6年(1873)は、三重県、福岡県、名古屋県(後の愛知県)、新潟県、鳥取県、石川県における活版印刷採用の経緯を平野富二が納入した活版設備を通じて梗概した。いずれも前年に埼玉県が採用した布告類の活版印刷化の影響を受けて、いずれも県庁で平野富二から活版印刷設備を購入して、布告・布達類の活版印刷化が行われた。
印刷業務は御用商人に行わせていたが、やがて印刷設備を下げ渡して、単に布告・布達類の印刷に止まらず、県の広報紙として新聞を発行させるようになった。

〔後編〕では明治7年(1874)以降の秋田県、佐賀県、名東県(後の徳島県)、大阪府、淡路洲本(兵庫県)、函館(北海道)について活版印刷の採用を中心に梗概した。

活版印刷の地方への普及は、平野富二による府県に対する布告・布達類の活版印刷化の提案により急速に広まった。さらに、県庁活版所から民間の御用活版所へ、布告・布達類の単独印刷頒布から広報誌としての新聞の発行へと移行するようになった。
国民の知識欲と政治熱が高まるにつれて、中央のみならず地方に於いても、また、県庁御用以外でも新聞の創刊が相次ぎ、明治8年(1875)には26紙、明治9年(1976)には24紙、明治10年(1877)には37紙が創刊している。

本稿シリーズでは「地方への活版化普及」に視点を置いて述べてきたが、東京においても有力紙は発展を続け、明治10年(1877)以降,こぞって銀座煉瓦街に進出し、その他の新聞社も発行部数をのばしていた。

本木昌造が念願としていた近代的な活版印刷の全国普及は、それを引き継いだ平野富二の技術者としての視点と経営者としてのセンスにより、わが国の置かれていた未開の時代を切り開き、時流を形成しながら発展の途に就くことによって、初めて達成できたことが分かる。

2020年5月29日  公開
同年6月2日 修正・加筆

 

 

地方への活版印刷の普及(中編):明治6年の納入事例

まえがき
前回の(前編)では、わが国における明治5年(1872)以前の活版印刷について黎明期と曙光期の二期に分けて紹介した。
まず、黎明期に相当する時期に発行された『崎陽雑報』(慶應4年8月発行)と『横浜毎日新聞』(明治3年12月発行)、『大阪府日報』(明治4年10月発行)については、発行場所は異なるものの、いずれも本木昌造の経営する長崎の新塾活字製造所で製造した鉛活字を用いる計画であったが、結果として木活字あるいは木版に頼らざるを得なかった。
『崎陽雑報』発行の経験から、迅速に鉛活字を製造する手段と方法を上海美華書館のギャンブルから学び、その結果を用いて『横浜毎日新聞』が発行される予定だったが、活字の品質とサイズが安定せず、当初は木活字に依存するしかなかった。『大阪府日報』発行の頃は本木昌造に代わって平野富二が活字製造の責任者となり、高品質で低価格の鉛活字を安定して生産できる目途が付いていたが、政府から廃藩置県関係の印刷物を緊急で大量に請負ったため余力がなく、木版刷りでの見切り出版となったと見られる。

次いで、曙光期に相当する時期に発行された『神戸港新聞』(明治5年5月発行)については、木活字に頼ることなく鉛活字による活版印刷で発行された。時期的には平野富二が活字製造の拠点を長崎から東京に移転する準備を行っていた頃のことである。

平野富二が東京に進出してから1ヶ月の間、活字の引き合いがなかった。政府内での活字需要に対しては、前年11月に工部省勧工寮活字局が長崎から東京に移転して活字を供給していた。そこで、平野富二は旧知の野村盛秀が埼玉県令となっていることから、面会して布告・布達類の活版印刷によるメリットを説明し活字の購入を依頼した。野村県令は活版印刷採用による迅速、正確、減費の3得に着目して文部省の認可を得て、布告・布達類を活版印刷して管内に限って配布することになった。
これが契機となって、全国の各府県は県庁内に活版所を設けるか、出入りの業者に活版所を設けさせて布告・布達類の活版印刷を行うことになった。これがやがて地方新聞の発行につながることになった。

明治5年(1872)2月には、新潟県庁布告類印刷請負人坪井良策がフランス宣教師エブラルの指導により木活字と活版機械を購入し、『北湊新聞』を創刊した。また、同年9月には、栃木県では県令鍋島幹が文部省に布告類の活版印刷による配布を申請して許可され、乙女村の山中八郎の希望により活版を買い入れさせ、同年10月から布告類を活版で印刷させている。

この新潟県と栃木県の例では、いずれも平野富二以外の業者から活字と活版印刷機を購入しているが、明治6年(1873 )になると全国の各府県が一斉に布告・布達類の活版印刷化に乗り出し、平野富二の活版製造事業は盛況を極めることになる。

本稿では、各府県における布達類の活版印刷化と新聞発行について平野富二による活字・活版印刷機の納入事例となるものを抜粋して紹介する。その順序は時期的に早い順からとしたが、必ずしも厳密なものではない.

1.各府県における布達類・新聞の活版印刷動向
(1)明治6年3月、三重県御用活版所「水谷北辰社」
三重県では、明治5年(1872)に県庁御用印刷所として創業した水谷北辰社が、明治6年(1873)3月、三重県活版所として『三重県官員録』を半紙二つ折10枚、本木製四号活字で印刷、発行した。この記録は牧治三郎編『京橋の印刷史』の「年表」による。

この記録の根拠は不明であるが、おそらく牧治三郎が入手した『三重県官員録』に拠ったと見られる。これが事実であるとすると、三重県は、明治5年(1872)中に布達類を活版印刷するため県庁出入りの水谷某に北辰社を設立させて県庁御用活版所としたことになる。活字と活版印刷機は東京神田和泉町の長崎新塾出張活版製造所から三重県が購入して業者に貸与したか、業者に購入させたことになる。

三重県は、藤堂和泉守が藩主だった伊勢國津藩が明治4年(1871)7月の廃藩置県で津県となり、同年11月に隣接する6県が統合して安濃津県となり、県庁を安濃郡津大門町に設けた。明治5年(1872)4月に県庁を四日市に移し、郡名を採って三重県と改称したが、明治6年(1873)12月に県名はそのままで県庁を安濃津(現在の津市)に移した。

幕末に津藩士榊令輔が、蕃書調所で『レースブック』を翻刻する際、活字御用係出役を命じられて洋書の活版印刷に関わっている。また、神田和泉町にあったもと津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋には平野富二が崎陽新塾出張活版製造所を設けて活版印刷全国普及の起点となった。このように三重県は、間接的ではあるが、活版印刷との関りが深い。このことから、三重県は早い時点で布達類の活版印刷が行われたと見ることも出来る。

(2)明治6年4月、福岡県庁活版局で布告の活版印刷開始
明治6年(1873)4月、福岡県庁活版局は築地活版製の活版機械および活字を購入して布告・広報の印刷を開始した。
この記録は、牧治三郎著『京橋の印刷紙』、年表に記録されているが、どのような資料に拠ったかは不明である。

福岡県の活版設備に関して、長崎活版社の松野直之助から佐賀県令北島秀朝に宛てた明治7年(1874)11月付の願書がある。その内容は、「(前文略)すでに各地方の県庁も三分の二は(活版設備を)御買い上げ仰せ付けられ、御取り開きなされました。しかるに近隣の佐賀県と福岡県は未だ御買い上げのない状態であると伝え聞いております。先般、福岡県に御買い上げを願い出たところ、速やかに御採用、御買い上げ仰せ付けられ、当時、文字・機械等を取り揃え中です。‥‥」と記されている。

文中末尾にある「当時」は「現在」と同じ意味と解することができるので、明治7年11月の時点で福岡県に活版設備を納入準備中であったことを示しており、冒頭に紹介した年表の記録とは一年半以上の相違がある。

この願書を出した松野直之助は、明治5年(1872)7月に平野富二にしたがって東京に派遣された社員の一人で、明治16年(1883)2月には上海出張所修文館の主任として上海に派遣されている。従って、長崎に一時帰省していたときに出状したものと見られる。

また、年表では「築地活版製の」としているが、明治6年(1873)4月の時点では、活版製造所は神田和泉町に所在しており、未だ築地には移転していない。

したがって、福岡県庁活版局については更なる調査が必要である。

福岡県は、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により筑前、筑後、豊前にあった各藩がそのまま県となった。同年11月になって中小県の統合が行われ、筑前地区にある福岡県と秋月県が福岡県となった。そのとき、筑後地区の久留米県、柳川県、三池県の三県が統合されて三潴(みずま)県となり、豊前地区の豊津県、千束県、中津県の三県が統合されて小倉県となっている。明治9年(1876)8月、三潴県のうちの筑後一円が福岡県に編入された。

新聞の発行については、当時の福岡県に隣接する三潴県で、明治5年(1872)6月に久留米において植木園二らが『三潴県新聞誌』を創刊している。この時期、長崎では平野富二が製造した活字を用いて本木昌造が『新塾餘談』を刊行し始めているので、鉛活字による活版印刷で創刊された可能性があるが、未確認である。明治7年(1874)2月になって三潴県の広報誌『三潴新聞』が発行された。明治13年(1880)になって植木園二と博多の薬種商藤井孫次郎によって福岡に弘聞社が設立されて『筑紫新聞』が創刊された。

このように、隣接する三潴県では早くから新聞が発行されているが、福岡県では明治13年(1880)まで新聞の発行はなく、それまでは福岡県庁活版局による広報誌が新聞の役割を果たしていたと見られる。

(3)明治6年中頃、名古屋県庁御用達中川利兵衛の築地訪問
名古屋県は、明治4年(1871)3月、県庁内に新聞局を開設した。同年12月12日に名古屋権令となった井関盛艮は着任早々、次のような県布達を木版刷りで出している。

「新聞紙は民智を開くの最要也。文明の国に於いては競て之を読み、事情の景況、物価の騰降を弁知し、人生の利用、之にすぐるはなし。這回(この度)官許を得て名古屋新聞誌の上梓近きにあり。各区各村よく此の意を体認し、発売ごとに必ず一区一村 冊子を求め、各産業の基礎を補成し、開化の域に進歩すべき也。
太政官より御布告ありし願伺届書異紙の義も新聞社に於いて売立させ候事。
辛未十二月」

井関盛艮は、明治2年(1870)4月に神奈川知県事、明治3年(1870)10月に神奈川県知事となり、わが国最初の日刊新聞とされる『横浜毎日新聞』の発行を指導しており、新聞には関心が深かった。明治4年(1871)11月27日に宇和島県参事となった後、明治5年4月2日に名古屋県が愛知県に改称されたときに愛知県権令となり、明治6年5月30日に本官を免じられた。その後、島根県権令、同県令を経て、明治9年(1876)5月12日に依願免官となった。

後任の愛知県令鷲尾隆聚による明治6年(1873)9月付の県布達は二号明朝体鉛活字により印刷されている。

図31‐1 愛知県活版局で印刷された愛知県布達
<三浦荒一編『名古屋印刷史』による>

明治5年11月の権令井関盛艮名の県布達は木版刷りであるが、
明治6年9月の県令鷲尾隆聚名の県布達は、
二号明朝体鉛活字が用いられている。
前任の井関盛艮は本山某と中川利兵衛を東京に派遣して
平野富二からこの鉛活字を購入させたと見られる。

名古屋県庁御用達だった中川利兵衛は、県庁から布達類印刷の用命を受け、弟子の大工太田伊助の協力を得て、宮町2丁目に中川印刷局を設け、明治4年(1871)11月に県庁布達を木版刷りした『名古屋新聞』を本町5丁目の文明社から発行した。
この新聞の体裁は半紙二つ折り、6枚を紙縒(こより)で綴じた冊子で、表紙の中央に「名古屋新聞」、その下に号数、表題の右に発行年月を配し、左隅に「文明社記」と押印している。その後、明治5年(1872)4月2日に名古屋県が愛知県と改編されたことから、『愛知新聞』と改題した。

明治6年(1873)1月、木活字による印刷となって『愛知週報』と改題して週報となり、永東書店から刊行された。しかし、木活字は摩滅が早く補刻の必要もあって、手間と経費の面で難点があったため、同年6月に廃刊となった。

丁度その頃、中川利兵衛は県庁役人本山某から鉛活字の効用を知らされた。本山某が平野富二と懇意であるとのことから、2人で東京の長崎新塾出張活版製造所を見学し、二号活字を買い求めた。また、東京で見た手引印刷機を手本にして弟子と共に木製の手引印刷機を造り上げた。
これにより県布達は二号鉛活字により活版印刷されるようになったと見られるが、新聞の刊行までには至らなかったらしい。

明治6年(1873)7月1日、新たに購入した四号活字を用いて新聞紙面の改良を計ると共に、洋紙両面印刷4頁の日刊とし、『愛知新聞』第1号を発行した。新聞読者の増加に従い、明治7年(1874)に鉄製小型手引印刷機とフート(足踏印刷機)各1台を購入した。

明治8年(1875)5月1日、『愛知新聞』は『第二大学区新聞』、『二大学区愛知新聞』と改題したが、明治9年(1876)3月、『愛知新聞』に復し、五号活字を使用するようになった。後に『東海新聞』、『扶桑新報』、『名古屋新聞』、『中部日本新聞』へと続くことになる。

明治10年(1877)に八頁掛ハンド1台を、明治14年(1881)にはフート2台と八頁掛ハンド2台を増設して、一般向けの印刷も引き受けて社運隆盛を来たしたが、明治15年(1882)5月24日、中川利兵衛は71歳で死去した。

なお、自由民権派の新聞として、明治9年(1876)8月、『愛知日報』が創刊され、福沢諭吉門下生の鈴木才三が編輯長を勤めた。同年11月、『愛岐日報』と改題して岐阜県への進出を果たし、明治10年(1877)1月から日刊となった。愛知県令勝間田稔によって県下3紙が合同して『扶桑新報』となった。

その後、中川利兵衛の次男の中川善次郎が別途、報文社を開き、明治18年(1885)に東京築地活版製造所から字母製造人として海老原氏ほか2名を招聘している。また、姻戚関係のある成瀬弥六が印刷業を志し、明治14年(1881)に築地活版製造所に入り、その他2、3の活版所に入って技を磨き、明治31年(1898)に名古屋市東区に成瀬印刷所を開業している。

名古屋にはもう一人、平野富二の活版製造所で学んだ人がいる。それは、後に名古屋印刷界の重鎮と見なされた山田良弼である。山田良弼は、平野富二が長崎から上京して神田和泉町に新塾出張活版製造所を開いた当時から同所に入って専ら技術の研鑽に精励した。築地に移転拡張した後、ひと通りの自信がついた山田良弼は、明治6年(1873)に名古屋に帰り、県庁に活版印刷業の開業を出願しが、斡旋する人があって中川活版局の職長に迎えられて技術面を支えた。

明治18年(1885)になって、中川活版局を退社し、翌年、日比野泰助が経営する『黄金新聞』の職長に招聘されたが、間もなく廃刊となったため、同年12月、独力で活版印刷業を開業した。この会社は、後に株式会社一誠社となる。山田良弼は、明治43年(1910)に59歳で没した。

中川利兵衛に関しては、『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)に記載されおり、三浦荒一編『名古屋印刷史』(名古屋印刷同業組合、昭和15年12月)にそのまま引用されている。

原文では、中川利兵衛は最初に『名古屋新聞』を発行し、その後、『愛岐日報』と改称したとしているが、『名古屋印刷史』の別項「新聞印刷のはじめ」によると、『愛知日報』と『愛岐日報』については『中日新聞創業百年史』(社史編さん室、1987年8月)の記述に基づき修正した。

(4)明治6年7月、新潟県活版局で『新潟県治報知』発行
新潟県令楠本正隆は、明治6年(1873)7月、県庁の二橋県官に指示し、その肝煎りで新潟県庁直轄の新潟県活版局を設立した。その場所は新潟本町通柾屋小路の旧町会所内で、支配役として地元の有力者荒川太二を任命して、太政官布告、県庁布達などを頒布するため『新潟県治報知』を発行した。

図30‐2 新潟県治報知』、第二号
(日本新聞博物館所蔵)

和紙を用いた二つ折り、和綴じの冊子で、
罫線枠内に二号活字で「新潟」、
その下に続けて初号活字で「縣治報知」、
間隔を置いて三号活字で年月日を二行書きし、
号数を印字している。
記事は三号活字を用いて官省布告から始まっている。
書体はいずれも明朝体である。

新潟県では県庁内に活版局を開設するに当たり、平野富二の経営する東京の活版製造所から金属活字類と手引印刷機を調達し、さらに、印刷技師の派遣を要請した。

なお、新潟県では、「はじめに」で記したように、坪井良策が新潟県で初めての活版所を設けて、県の布達類の印刷請負人となり、明治5年(1872)2月に木活字による『北湊新聞』を創刊した。しかし、県令楠本正隆により県庁内に活版局を設けることになって、坪井良策から県庁印刷御用の権利を召し上げたため、新聞経営に行き詰まり、廃刊に追い込まれてしまったという。

楠本正隆は、慶応4年(1868)5月、長崎府において井上聞多(薫)、大隈八太郎(重信)、野村宗七(盛秀)と共に長崎府判事に任命され、小菅修船場の政府買い上げを大隈八太郎とともに推進したことでもあり、この頃から平野富二のことを知っていたと見られる。
その後、楠本正隆は外務大丞を経て、明治5年(1872)5月から明治7年(1874)7月まで新潟県令を務めた。明治8年(1875)8月に内務大丞として転出し、同年12月に東京府権知事を兼任、明治10年(1877)1月から東京府知事となった。
平野富二の石川島拝借願書は楠本権知事を通じて海軍省に提出し、認可を得ている。

荒川太二については、後年、平野富二と共同で新潟に「運輸会社」を設立し、新潟税関に代わって小型蒸気船による新潟・佐渡間の運輸業に進出している。

(5)明治6年中頃、兵庫県尼崎の三浦長兵衛が活版設備を購入
尼崎の元藩士三浦長兵衛は、明治5年(1872)9月、藩士授産のため活字製造と活版印刷の事業を志して上京し、平野富二に面会して、約6か月間、神田和泉町に滞在して活版伝習を受けた。帰京後、尼崎城内東三の丸に工場を建設すると共に、まず手始めに平野富二から二号、四号の活字若干と手引印刷機1台を買い受けた。その時期は明治6年(1873)の中頃と見られる。

ここに至るまでの経緯を述べると、明治4年(1871)7月に廃藩置県の令が出され尼崎県が成立したが、明治5年(1872)になって兵庫県に編入された。それらの結果、禄を失った旧尼崎藩のもと藩士たちに自活の途を与える方策が尼崎城内で協議され、一つの方策として活版製造・印刷を事業として立ち上げることになった。
そこで、代表となった三浦長兵衛は、本木昌造が大阪大手町に開設した長崎新塾出張活版所を訪ね、藩士授産のため活版業について伝授するよう要請した。しかし、大阪活版所の幹部は三浦長兵衛の入門を許さず、秘密主義を貫いたという。

明治5年(1872)9月になって、三浦長兵衛は上京して平野富二に面会し、元藩士の窮状を訴え、大阪活版所に頼んだが拒絶されたことを伝えた。これを聞いた平野富二は活版製造と印刷の伝授を直ちに快諾したと伝えられている。

三浦長兵衛は、活字製造工場を設け。事業に賛同する仲間と共に、入手した活字を種字として活字製造に着手した。しかし、東京で習ったはずの活字製造法が役に立たなかった。仲間の一人である久保松照映は、見るに見兼ねて独自に調査研究した結果、独創的な考案で活字を製造することができたという。

津田三省堂発行の『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年11月発行)に「大阪初期活版製造業者 久保松照映氏」として尼崎の三浦長兵衛と久保松照映に関する記事が掲載されており、本稿はこれに拠った。

(6)明治6年10月、鳥取県庁活版局が活版設備を購入
明治6年(1873)10月頃, 鳥取県庁から平野富二に対して布告などの印刷のため活字・活版印刷機械の買入れと印刷指導技師1名の派遣要請があった。そこで、平野富二は小幡活版所で支配人兼技師を勤めていた茂中貞次に本人の意向を打診した。以前から地方への活版普及に尽力していた茂中貞次は、鳥取県庁に知人がいることもあって、直ぐに鳥取行きを決意した。

茂中貞次は、小幡活版所を辞任し、平野富二の活版製造所で製造した活字1式と印刷機を携えて鳥取に向かった。鳥取では、県庁の布達類を印刷したが、余力を民間の活版印刷に注ぎ、その利便性を一般に周知させるべく努力した。鳥取でほぼ1年間働き、明治7年(1874)10月になって、旧知の兵庫県令神田孝平からの招聘により、以前、設立に協力した神戸港新聞社に移った。

鳥取県で最初に発行された新聞は『鳥取県新報』で、鳥取の新報社から発行された。第1号の日付は明治5年(1872)9月29日で、木版、和綴じの冊子であった。その後、県庁が平野富二から活字と活版設備を購入したので、明治6年(1873)末頃から鉛活字による活版印刷になったと見られるが、未調査である。

なお、鳥取地方で活版印刷による新聞が発行されたのは、明治13年(1880)のこととされており、『鳥取新報』(後の同名新聞とは違う)、『鳥取読売新聞』(後の『鳥取新聞』)、『蠖屈新誌(かくくつしんし)』が相次いで発刊された。これら3新聞の印刷にどの様な活字・印刷機が使用されたかは不明である。

鳥取県は、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により、旧因幡国と旧伯耆国の全部と旧播磨国の3郡の一部が鳥取県となった。同年11月に旧播磨国の領域が姫路県に分離・編入され、同年12月に島根県から旧隠岐国が編入された。明治5年(1872)1月に県下を112区に分け、明治6年(1873)12月から大区小区制が実施された。明治9年(1976)8月21日に鳥取県が島根県に併合・廃止され、鳥取に支庁が設置された。以後10年間、鳥取県は存在しないことになった。明治19年(1886)9月12日になって旧因幡国と旧伯耆国が島根県から分離して鳥取県が再置された。

(7)明治6年、石川県金沢町区会所が活版設備を購入
明治4年(1871)7月14日の廃藩置県によって金沢県が成立し、同年11月20日に大聖寺県を統合した。明治5年(1872)2月2日に県庁を石川郡美川町に移して石川県と改称した。同年9月25日に七尾県の射水郡を除き石川県に併合し、同年11月に足羽県から白山麓18か村を併合して、現在の石川県領域となった。明治6年(1873)になって県庁を金沢に移転した。

明治6年(1873)に金沢町区会所が平野活版製四号、五号活字ほか鉄製活版機械を買入れ、印刷工場を創設。後に同地吉本次郎兵衛に払い下げた。このことは『京橋の印刷史』年表に記録されている。

金沢町区会所は、明治6年(1873)に東京から取寄せた鉛製活字4万個と鉄製印刷機械1台を、明治8年(1875)10月5日に吉本次郎兵衛に払い下げることを決め、活字版ならびに器械代として金549円3銭、運搬費として金131円33銭5厘を3ヶ年賦で金沢町区会所に支払うこととした。吉本次郎兵衛は明治11年(1878)7月になって代金の全額を返済している。

本件に関する記録は石川県立図書館に吉本文庫として保存されており、石川県印刷工業組合編『石川県印刷史』に紹介されている。

吉本次郎兵衛は、天保2年(1831)10月、創業百年に及ぶ仕出し料理屋の家の次男として生まれた。明治2年(1869)に書林(書店)を開店して、明治4年(1871)冬に共同者と新聞発行を出願した。同年12月に官の許可を得て、同月末に『官許 開化新聞』第1号を発行した。

図31‐3 『開化新聞』第二号の表紙
(『日本初期新聞全集』、ぺりかん社)

この新聞は半紙二つ折りの仮綴じで、
冒頭に太政官の布告や金沢・石川県の布達を掲載。
当初は木版を手摺りした整版印刷であったが、
やがて木活字による活版印刷となった。
その後、紙面を一新した『石川新聞』に引き継がれ、
やがて鉛活字が採用されたと見られる。

その後、地元の金沢学校が明治4年(1871)11月に刊行した『十九史略通考』で使用した木活字を譲り受け、この木活字を用いたバレン摺りが続いたが、明治6年(1873)2月になって『石川新聞』と改題して大判一枚摺りとした。号数はそのまま継続した。

しかし、木活字の消耗もあって、吉本次郎兵衛は鉛製活字に着目した。たまたま、明治5年(1872)10月発行の『新聞雑誌』に平野富二の活字広告が掲載されているので、吉本次郎兵衛はこれを目にしたと見られる。

それまで金沢町区会から発行していた『石川県日誌』の印刷業務を請け負っていたとみられる吉本次郎兵衛は、早速、金沢町区会所に働きかけて、東京から鉛活字と活版印刷機を購入して貰い、それまで整版で印刷していた『石川県日誌』を鉛活字で活版印刷すると共に、『石川新聞』の印刷にも使用させて貰ったと見られる。

明治8年(1875)10月になって、活版印刷設備を金沢町区会所から譲り受けた吉本次郎兵衛は、石川県庁の活版御用を仰せ付けられ、管内の布達および日誌等の印刷を請け負うようになった。

本件については、磯部敦著『出版文化の明治前期』に吉本文庫を調査して纏めた「吉本次郎兵衛の足跡」が掲載されている。これを参考にすると共に、それ以前の経緯に一部推測を加えて纏めた。

なお、金沢には独自に開発したと見られる鉛活字がある。それは金沢学校が明治5年(1872)から明治7年(1874)にかけて刊行した書籍に見られる。
加賀藩甲冑師明珍宗英の次男小島致将は、金沢学校の教授たちの協力により金沢博労町に経業堂という印刷所を開設し、研究の結果、甲冑職人に活字母型を造らせ、神戸で活字鋳造ポンプ、鋳型、活字仕上機、手印刷機などを購入して活字製造と活版印刷を行った。その活字は肉細の楷書体で、西欧式のパンチ母型により鋳造されたと見られている。
この活字は、東京の大学東校における島霞谷の活字と同様に、金沢学校関係の出版にのみ使用され、他には使用されなかったと見られる。

2.明治6年当時の一般動向
平野富二は、明治6年(1873)7月に神田和泉町から築地二丁目に長崎新塾出張活版製造所を移転させて、活字と印刷機を含む活版印刷に必要な設備と資材の本格製造に入った。
これは、前年に埼玉県庁が布告・布達類の活版印刷による管内配布に踏み切ったことにより、全国の府県もこれに着目して一斉に活版印刷採用を検討するようになった結果でもある。

それより先の明治5年(1872)10月、平野富二は活版印刷の全国普及を目指して『新聞雑誌』に広告「崎陽新塾製造活字目録」を掲載した。この広告には、初号から七号までの活字摺り見本に売価を示し、大小2種の印刷機を含む活版印刷に必要な諸品を製造できると述べている。なお、「崎陽」は「長崎」のことである。
この『新聞雑誌』は、他の有力新聞に先行して、木戸孝允の意向によって明治4年(1871)5月1日に創刊された新聞で、初号は1万3千部余り、3号は3万部という盛況だったという。当然、各府県の東京駐在員を通じてそれぞれの県庁に送られたと見られる。

明治6年(1873)に入ると政府からの布告・布達類は数量が膨大になった。『日新真事誌』(明治6年7月4日)に掲載された山梨県権令藤村紫朗が大蔵省事務総裁大隈重信宛てた建言書によると、「太政官・諸省の達書が次々と頒布され、その中でも記録類は細字で数十枚にもなる。それらを伝写するのに一人1日掛けても出来ないものがある。明治6年1月から5月までに23件、その他に県庁限りの布告が85件ある。」としており、「各県に活字と器械を一度限り下げ渡して貰いたい。長崎(新塾)製二号活字と器械を含めて1県につき500円内外である。」としている。

これまで各府県が県庁内に活版局を設けて布告類を印刷する動きが盛んになったが、多額の資金を必要とするため、山梨県のような政府資金を当てにする府県も多かった。

これに対する政府の対応かどうかは不明であるが、明治6年(1873)6月14日の太政官布告第213号によると、「諸布告が各府県に早飛脚で到達する日限を定めて、到達の上30日間掲示の後は、管下一般にこれを知り得たことと見做す」とした。また、政府の布告・布達文の頒布部数は同年10月15日の太政官布達第348号で定めている。その配布総数は1,100部前後と云われている。

このことは、明治5年(1872)9月20日に印書局が正院内に設置され、設備と人員の整備拡充が行われた結果、ようやく、各府県にも布告類を一定数印刷配布することができるようになったことを示すものと見られる。

その結果、各府県は県庁内に活版局を設置して布告・布達類の印刷配布することを取止め、民間の御用活版所から新聞を発行さて布告・布達類や県の方針を伝達する役割をさせる方向に転換したと見られる。
この流れは、明治2年(1869)3月に公布された「新聞紙印行条例」などで新聞発行を公許制とし、政府の新制度や施策を伝える手段として積極的に新聞を活用する施策と合致し、明治6年(1873)10月に公布された「新聞紙印行条目」により改正整備された。明治8年(1875)6月に「讒謗律(ざんぼうりつ)」が公布されるまで、その流れは変わらなかった。

まとめ
明治5年(1872)の後半から一部の府県で活版印刷による布告・布達類の管内配布が行われるようになったが、明治6年(1873)に入ると、その流れは加速して多くの府県が県庁内に活版局を設け、あるいは、民間に御用活版所を設けさせるようになった。

本稿では長崎新塾製の活字・印刷機が採用された府県として、各種文献の中から三重、福岡、名古屋、新潟、尼崎、鳥取、金沢を採り上げ、布告・布達類の活版化とそれに続く新聞発行について紹介した。

これらの内、名古屋、尼崎、金沢は現在の県名ではないが、一時期、県として存在した。明治4年(1871)7月に行われた廃藩置県で3府302県が成立したが、同年11月に3府72県に統合され、さらに、明治6年(1873)になって3府60県にまで統合された。その名称は県名に限らず、その県内で発行された新聞名にも反映されるため、参考として府県ごとにその概要を付記した。

平野富二は、単に活字・印刷機を販売するだけにとどまらず、名古屋や尼崎のように顧客の要求に応じて工場見学を受入れ、活字製造や印刷業務の伝習まで行っている。また、新潟や鳥取のように活字・印刷機と共に印刷技術者を派遣して活版印刷技術を伝授・指導している。

明治6年(1873)に平野富二が納入した活字・印刷機の納入先として7県を紹介したが、福岡県の項で紹介したように明治7年(1874)11月の時点で地方の県庁の内、3分の2は活版設備を買い上げて貰ったとしていることから、さらに多くの県から引き合いが寄せられたと見られる。

平野富二の記録によると、活字納入個数として明治5年(1872)には244,236個であったものが、明治6年(1873)には2,772,851個と約11.4倍となっている。ただし、明治5年は7月に上京して工場を設立し、8月末になって埼玉県に初めて活字を納入したことから、明治5年の納入個数は4ヶ月間の実績となる。それを勘案しても約4倍の数量の活字を納入したことになる。

各府県では県庁内に活版局を設けて活版設備を備え、県布告として政府の布告類を印刷し、管内に頒布していた。その内、正院印書局が次第に設備と人員を整備し、太政官布告や各省布達を活版印刷して一定部数を各府県に配布するようになって、府県の方針や施策を含めた情報を住民に伝達する手段として民間の御用活版所を指定し、活版設備を貸与あるいは譲渡することにより新聞を発行させるようになった。

次稿の(後編)では、明治7年(1874)以降の納入事例を取り上げる予定であるが、地方の府県に限らず、東京における納入事例も含めて紹介する。

2020年4月28日 公開

 

活版印刷の地方への普及(前編):明治5年以前の状況

まえがき
平野富二は、明治4年(1871)7月、長崎でなかなか軌道に乗らない新塾活字製造所の事業改革とその後の経営を本木昌造から依託され、標準化と徹底した品質管理、適材適所の組織改革を断行することにより、わずか2か月で高品質で安価な鋳造活字を安定して製造することができるようになった。

同年11月、平野富二は、活字の需要調査のため東京・横浜に出張し、政府の左院編輯局、大学南校出入りの蔵田清右衛門、横浜の横浜活版社と日就社から活字の注文を受けている。当時の新聞や書籍類は、外国人居留地での欧字新聞を除いて、まだ木刻版による印刷が一般的であったが、東京・横浜では既に若干ではあるが活字の需要があり、活字を供給する者が存在していたことを示している。

長崎に帰った平野富二は、明治5年(1872)2月から本木昌造が活版印刷で発行した『新塾餘談』シリーズに活字の各種印字見本を広告として掲載して、希望者への活字販売を開始した。同年7月に東京の神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設して本格的な活字の生産を開始した。

表題の「活版印刷の地方への普及」を述べるに当たって、本来ならば東京築地活版製造所の社史をもとに新しい知見を加えて取り纏めることができれば望ましいが、その社史に相当するものは昭和4年(1929)10月に編纂された10ページ綴りの『東京築地活版製造所紀要』があるのみで、纏まった納入実績表すら残されていない。

そこで、本稿では、各府県で編纂された印刷史などをもとに、平野富二が納入したと見られる活字と活版印刷機に焦点を当てて地方での活版印刷採用の事例を紹介することにより、地方への普及状況を知ることができると考えた。

以下に、(1)として活版印刷普及の前段階となる本木昌造が関わった新聞発行の概要を紹介し、(2)として明治4,5年頃の東京における活字と活版印刷機の製造・販売状況を梗概する。その上で、(3)として明治5年の平野富二による活字・活版印刷機の納入実績を通じて個別事例を紹介する。

個別事例の紹介に当たって、出来るだけ多くの府県における状況を知るため、全体を3回に分け、今回は〔前編〕として明治5年以前の状況と明治5年の納入事例、次回は〔中編〕として明治6年の納入事例、次々回は〔後編〕として明治7年以降の納入事例とする。

1.本木昌造が関係した新聞発行
(1)慶應4年8月発行『崎陽雑報』
本木昌造は、慶應4年(1868)1月、長崎奉行が長崎を退去するに当たって長崎製鉄所取扱方を命じられた。同年4月、新政府下の長崎裁判所から製鉄所取締助に任命され、長崎裁判所が長崎府となった翌月の同年8月に長崎製鉄所の頭取に任命された。

そのような中で長崎府は、本木昌造の働きかけにより、長崎府の付属組織として新聞局を設けて本木昌造の開発した技術に基づく鋳造活字製造設備を設置し、上海美華書館から活版印刷機を購入して、慶應4年(1868)8月、『崎陽雑報』を致遠閣から発行した。内容は内外通信と布告・訓令、官吏任免などで、体裁は和紙二つ折り、10枚程度を袋綴じた冊子で、1ページ10行21字詰、ほぼ二号大の楷書体漢字とカタカナの鉛鋳造活字と木刻活字の混用であった。

図30-1 『崎陽雑報』、第一号の表紙
(牧治三郎著「活版印刷伝来考=6」に掲載)

鋳造活字の製造は、実験室規模では成功したものの、実用規模での製造は思うように行かず、そのため木刻活字との混用となったが、翌明治2年(1869)6月になって、『崎陽雑報』は第13号で廃刊した。
その頃、たまたま、同様の原理で活字を製造している上海美華書館の所長で活版師のW.ギャンブルが任期を終えてアメリカに帰国するとの情報を得て、迅速活字製造技術を伝習するため、招聘することとなった。

同年10月から長崎でギャンブルの伝習が開始された。本木昌造は、既に長崎製鉄所の頭取を辞任して機械伝習方教頭となっていたことから世話役に任命され、伝習を成功させるべく自分の門下生にも参加させた。

伝習を受けた新聞局のメンバーは長崎製鉄所の活字一課として編成され、その後、長崎製鉄所が工部省所属となったことから、工部省勧工寮活字局となり、明治4年(1871)11月、東京赤坂溜池の松平肥前守中屋敷跡に設備と人員を移転させた。

一方、本木昌造は、明治3年(1870)2月末で長崎製鉄所を退職し、同年3月に新街私塾に付属させる形で新町活版所と新町活字製造所を開設した。それは旧長崎奉行所に勤務していた地役人たちの失業対策でもあった。

その後、本木昌造は、松田源五郎、池原香稺、西道仙と相談して、明治6年(1873)1月、『長崎新聞』を長崎新町新塾から週刊で発行した。体裁は半紙二つ折り、表紙共10枚内外の袋綴じ冊子で、和風行書体漢字と変体仮名の鉛活字による活版印刷であった。しかし、同年暮に廃刊した。

本木昌造が死去した年の明治8年(1875)12月になって同名の『長崎新聞』が勝山新聞局から隔日刊で発行された。社主本多実、編輯西道仙で、やや肉細の初期明朝体活字が用いられている。

(2)明治3年12月発行『横浜毎日新聞』
神奈川県令井関盛艮は、横浜で日刊新聞の発行を計画し、本木昌造に技師派遣を要請した。本木昌造はこれを受けて、明治3年(1870)4月、門人の陽其二を横浜に派遣した。陽其二は唐通事出身で、長崎で英字新聞の発行に協力した経験もあり、本木昌造の活版製造研究に協力して薩摩藩から譲り受けた手引印刷機の操作も熟知していた。横浜では地元協力者の支援を受けて横浜元弁天(中区北仲通6丁目)の脩文館構内に横浜活版社を設立し、同年12月8日(西暦1871年1月28日)、『横浜毎日新聞』を創刊した。その体裁はタブロイド判の洋紙を用いた四号活字による両面刷りで、使用された活字は鉛活字ではなく木活字と見られ、漢字は楷書体、仮名文字は変体かなとカタカナを混用している。

図30-2 『横浜毎日新聞』、第一号の表面
(国立国会図書館所蔵)

故桜井孝三氏の調査によると、明治5年(1872)9月26日の第564号から木活字と混用する形で鉛活字が見られるようになり、この前月の8月14日付け第528号に「今般、東京府下佐久間町東校表門通り文部省活版所内に於いて、右活字並銅板製造発売致しますに付、‥‥」として横浜活版社名で広告を掲載している。明治7年(1874)12月1日から漢字を明朝体、カナ字をカタカナとした四号鉛活字を用いて4段組となり、明治9年9月18日から五号活字になった、としている。

横浜活版社は、『横浜毎日新聞』の発行と並行して、明治4年(1871)2月に『孛佛交兵記』を発行している。その緒言に「去冬(明治3年12月)、余が親友長崎より横浜に来て活版社を興す者あり。その刊鏤(かんろう、彫刻)尤も精巧にして且つ神速なるを以て、即時これを委ねて出版せしめたり」と記し、三号明朝体の漢字鉛活字を用いている。

このことから、『横浜毎日新聞』が鋳造活字ではなく木活字となった理由が見えてくる。つまり、限られた紙面に多くの情報を盛り込み、一般読者が読みなれた書体で記事を印刷することを優先すると、陽其二が持参した明朝体の三号活字は採用されず、やがて楷書体の四号活字が完成することを見越して、とりあえず四号大の木活字で対応することになったと見られる。

横浜活版社は、『横浜毎日新聞』の記事を補足するかたちで、明治4年(1871)10月に『金港雑報』、第1号を小冊子として発行した。その緒言は四号明朝鉛活字で印刷されている。また、明治5年(1872)1月には外国新聞の長文記事を翻訳して掲載する『毎週新聞』が発行された。これは四号明朝の漢字、変体かな、カタカナの鉛活字を使用した小冊子で、木活字の使用は見られなくなった。

なお、同じ時期に本木昌造が提供したと見られる四号明朝体と平仮名・片仮名の鉛活字を使用した『法普戦争誌略』8巻が明治4年(1871)6月に兵部省官版として、また、『万国新聞』が同年10月に、いずれも東京の官庁御用書肆から刊行されている。しかし、『万国新聞』は同年12月に第18号で終刊している。
本木昌造は、その頃、東京の主要書肆仲間の出資を受けて芝口1丁目に活版所の開設を計画していた。

(3)明治5年10月発行『大阪府日誌』
明治2年(1869)12月、官途を辞して大阪財界に身を投じる決意をした五代才助(友厚)は、郷里鹿児島に赴き、その帰途、再び長崎に立ち寄っている。その際、五代才助は長崎の本木昌造を訪問して大阪に大阪府御用活版所を開設する意向を示し、協力を要請した。

五代才助は、大阪に活版所を開設して、大阪府から新聞を発行すると共に、政府高官となって大阪に駐在していた小松帯刀が所蔵する中国歴史書『二十一史』を活版印刷で刊行することを計画していた。

要請を受けた本木昌造は、その後、五代才助と協議を重ねた結果、大阪府御用活版所を設立するとこととなり、条件を取り決めた上、活版所の設立に要する費用を五代才助から利払いで融資を受けることとした。

本木昌造は、明治3年(1870)3月、社員の小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣し、地元の協力者である長崎屋宗三郎と田村良助と共に五代友厚を訪問して協議を重ね、覚書を交わすに至った。次いで、大手筋折屋町(現在の大手通2丁目4番1~4号)に所在する土地と家作を買い受け、小幡正蔵と酒井三造を所長と副所長とし、さらに、社員として谷口黙次、若林弥三郎、茂中貞次を長崎から送り込み、活字製造に必要な職人を派遣するなどして万全の体制を敷いた。

ところが、『二十一史』刊行の依頼主だった小松帯刀が明治3年(1870)7月20日に病死し、そのため、『二十一史』の刊行が中止となってしまった。
その対応策として、五代友厚が刊行を予定していた『和訳英辞林』の印刷を上海の美華書館から大阪活版所に振り替えることになった。『和訳英辞林』は欧文活字と共に辞書特有の発音符号付き活字が必要で、活字母型の製造法も漢字とは異なるものであった。大阪活版所では苦労に苦労を重ねたが、1年後の明治4年(1871)7月末になっても「西洋活字の製造法を修業中」の状態であった。結局、『和訳英辞林』の印刷を辞退せざるを得なかった。

このような中で長崎では平野富二によって活字製造事業の大改革が開始された。ほぼ同時期の明治4年(1871)7月14日、政府によって廃藩置県が断行された。それに伴い中央官制の大改革がおこなわれ、大阪活版所はそれに関する一切の印刷物を政府から受注したと云う。また、当初からの懸案であった新聞発行は、大阪府の認可を得て、明治4年(1871)10月28日、『大阪府日報』初号(内題『日刊浪華要報』第一号)を発行した。

図30-4  『大阪府日報』の表紙表題と第1面
(板倉雅宣著「活字 東へ」、『ビネット07』より)

この新聞は活版ではなく整版(木版)で印刷され、文中に「板元は内淡路町壱丁目活板所長崎屋宗三郎」と記してある。長崎屋宗三郎は大阪活版所の支配人を勤めていた。第2号から『大阪日報』と改題し、同年12月28日付けの第5号で廃刊となった。『大阪府日報』が創刊された時期には、すでに政府からの活版印刷物の注文は一段落した頃とみられるが、追加注文に備えて『大阪府日報』の印刷を整版としたと推測される。

同時期の明治4年(1871)10月、活字製造部門の責任者である平野富二は東京に赴く途中、大阪に立ち寄った。本木昌造と相談した結果として、五代友厚から請け負っていた『和訳英辞林』の出版を辞退させて、苦労の種であった欧文活字の製造を中止した。その上で、大阪に駐在していた小幡正蔵を伴って上京し、本木昌造が下命をうけていた御用活版所を東校内に開設して小幡正蔵を所長とした。

平野富二が出張先から長崎に戻ったのは明治4年(1871)11月1日で、その後は活字の品揃えを行ったと見られる。活字のサイズは上海美華書館の一号から五号までの標準サイズに本木昌造が決めた初号(一号の倍角)を加え、漢字は上海美華書館の書体をそのまま採用した。それに加えて木版印刷で多用される三号活字の楷書体と行書体の漢字を揃え、二号以下の平仮名と片仮名を整備した。その結果を、明治5年(1872)2月から本木昌造が新製活字で刊行する『新塾餘談』シリーズに広告として活字印字見本を掲載し、希望者に販売するとした。

2.当時の東京における活版設備の供給状況
(1)活字の製造と販売
当時の東京で活字を製造する業者は、銀座近くの京橋南鍋町一丁目に店を構えた志貴和介と、その協力者で後に築地明石町に店を構えた大関某の名前が伝えられている。志貴和介は、兵部省から大量の活字製造を請け負い、出来上がった分から代金の支払いを受けていたという。この二人は、平野富二が東京に進出して1年も経たずに閉店したという。

その後、活版印刷が普及しはじめるに従い、活字製造を業とする者が現れた。明治6年(1873)5月に蠣殻町三丁目の耕文書館、明治8年(1875)10月に築地二丁目の弘道軒、明治9年(1876)8月に神田万世橋内淡路町の国文社、明治10年(1877)10月に博聞社が活字類の販売を開始している。

政府内では、明治4年(1871)11月に工部省が管轄下の長崎製鉄所にあった活字製造設備と人員を東京赤坂の佐賀藩松平家中屋敷内に移転し、勧工寮活字局として活字の製造を開始した。これは政府の発行する日誌や布告類の活版印刷化を目的としたものであった。
なお、政府からの官令布達や情報の周知を目的とした『太政官日誌』は慶應4年(1868)2月に創刊され、明治5年(1872)10月13日に木版から活版に印刷が切り替えられている。

ところが、明治6年(1873)4月になって勧工寮活字局は活字定価販売の新聞広告を出して、民間の印刷業者への活字販売を開始した。その後、大蔵省紙幣寮活版局になっても販売を続けたが、やがて民間からの応需を廃止した。

(2)活版印刷機の製造と販売
当時、活版印刷機を販売する業者はほとんど居なかった。どうしても活版印刷機を必要とする場合は、横浜や神戸などの開港地に進出していた外国商社に頼むか、外国新聞社を通じて入手していた。日本人の商人として活版印刷機を輸入販売したのは、明治2年(1869)に日本橋本町三丁目に店を出した瑞穂屋卯三郎とみられる。

外国製の活版印刷機は非常に高価で、『東京日日新聞』を発行した日就社は、当初は資金が調達できるまで、瑞穂屋の店頭に置いてある印刷機で新聞を刷ったと伝えられている。

本木昌造が長崎の新町活版所で使用していた活版印刷機は、社員が上海美華書館で実見した記憶をもとに作成した木製手引印刷機1台と薩摩藩が上海美華書館を通じて購入した手引印刷機1台、自ら上海美華書館を通じて購入したロール印刷機1台であった。その後、大阪や東京に出張店を設けるに当たって、薩摩藩から譲り受けた手引印刷機を手本にして、長崎製鉄所で木鉄混用の模造機を数台作製している。

活字を広く販売するためには活版印刷機も共に顧客に提供できるようにすることが必要であると考えた平野富二は、安価で操作しやすい活版印刷機の国産化を図り、その第一歩として隣室の文部省御用活版所で小幡正蔵が使用しているイギリス製小型手引印刷機に眼を付け、これを手本として国産化を果たした。

平野富二が国産品の販売を開始した時期は明確ではないが、明治5年(1872)10月下旬に発行された『新聞雑誌』に掲載の広告には、「摺器械美濃二枚摺、半紙二枚摺」が販売品目として挙げられている。また、平野富二の明治6年(1873)の「記録」によると、6月から9月の間と見られる「註文受約定書」の中に「長崎製半紙二枚摺プレス 170円、当局製造一枚摺 100円」と記されていたという。先の広告とこの記録での印刷機の表現は相違するが、長崎製の大型印刷機と当局製の小型印刷機を販売していたことが分かる。

長崎製の大型印刷機は、もともと、他者に販売する目的で製作したものではないことから、続いて小型印刷機と同じ構造の大型機を国産化して販売に供した。さらに、簡便な足踏印刷機と大量印刷に適したロール印刷機も国産化して製品系列に加え、顧客の要望に応えた。

明治6年(1873)に入って、活字・活版印刷機の引き合いが急増したため、平野富二は築地二丁目に土地を求めて新工場を建築し、同年7月、神田和泉町の工場をたたんで築地に移転した。移転後も長崎新塾出張活版製造所の看板を掲げていたが、一般には「築地活版」あるいは「平野活版」と呼ばれるようになった。

平野富二は、自分の下で活版印刷機の製造を修得した者たちの独立を認め、東京では金津平四郎父子、大阪では中島幾三郎、速水兵蔵が専業メーカーとなった。

明治7、8年(1874、5)頃になると、新橋に店を持つ新橋屋謹之助・亀吉親子が舶来機械の輸入販売を始め、また、横浜居留地内の商社が盛んに新聞広告を出すようになった。その中には、本町1丁目の蓬莱社を出店とする横浜28番館のチップメンストン商会の名前もある。

3.明治5年の地方への納入事例
(1)明治5年5月、兵庫県の神戸港新聞
明治4年(1871)11月20日に兵庫県令として赴任した神田孝平は、政府の新聞発行奨励策により、淡路島出身の三木善八(後の報知新聞社長)らに積極的な働きかけを行ない、設立させた神戸港新聞社から、明治5年(1872)5月、『神戸港(みなと)新聞』を創刊した。このとき、本木昌造門下の茂中貞次がこれに協力し、鉛活字を用いた活版印刷による日刊紙が発行された。

茂中貞次は、当時、神田和泉町の文部省御用活版所(所長小幡正蔵)に支配人兼技師として勤務していた。もともと本木昌造一門の一人で、長崎でW.ハンサードが英字新聞を創刊する際に手伝いを兼ねた伝習に参加した経験があり、大阪活版所が開設されたときに社員の一人として大阪に派遣された。

長崎で本木昌造から活字製造所の経営依託を受けた平野富二が高品質の活字を安定して安価に製造することに成功して、活字の積極販売に踏み切ったことから、茂中貞次は平野富二に協力して活版印刷の普及のために暇を見付けては全国を歩き回っていた。

『神戸港新聞』は、最初は不定期刊行であったが、やがて週2回、隔日発行となった。しかし、三木善八らは任期を終えて郷里淡路島に帰ることになっていたことから、明治7年(1874)10月、鳥取に滞在していた茂中貞次は、県令神田孝平の要請により神戸に移り、三木善八から経営を引き継いで神戸港新聞社の社主兼発行人となった。

三木善八は故郷の淡路島に戻り、恩師である安倍喜平の招きで淡路新聞社の社員となって『淡路新聞』の発行を行った。なお、『淡路新聞』については〔後編〕の(4)で紹介する。

茂中貞次は『神戸港新聞』を日刊に復し、やがて、東京築地活版製造所にいた弟の鳥山棄三を神戸に呼び寄せ、新聞記者とした。鳥山棄三については、〔後編〕の(1)で紹介するが、その自伝『喜寿記念』の中で、神田孝平が県庁退出時に新聞社に立ち寄り、記者を相手に時事問題について意見交換をするなどの逸話を紹介している。

図30-4 『神戸港新聞』、第九十六号
(横浜新聞博物館所蔵)

茂中貞次が社主となった後の明治8年(1875)9月8日付『神戸港新聞』(第58号)のサイズは、『国史大辞典』によると紙幅は縦31.5㎝、横24.0㎝で、4ページ綴りとされている。このサイズは半紙1枚に相当する。

新聞印刷に用いられた活字は、当時、平野富二が主任となっていた長崎の新町活字製造所製と見られる。平野富二は、明治5年(1872)2月に『新塾餘談 初編一』に活字見本の広告を出して、積極的な活字販売を開始している。印刷機については、時期的に見て、神戸の外国商社を通じて舶来品を購入したと見られる。

明治9年(1876)6月、『神戸港新聞』は『神戸新聞』と改題した。しかし、同年11月12日、第380号で廃刊となった。これは、同年9月、神田県令が元老院議官に転じて、後任となった権令森岡昌純が新聞を好まなかったため、県からの援助が得られず財政難に陥ったことによるとされている。 

(2)明治5年8月、埼玉県県庁
明治5年(1872)8月12日、埼玉県令野村盛秀(宗七)は文部省に宛てて「布告書活字板摺立伺」を提出し、同年9月、「管内に限り布達の書類を活版を以って摺立候儀は聞き届け候事」として文部省の許可を得た。

図30-5 埼玉県令野村盛秀の伺い書
(板倉雅宣著「活字、東へ」、『ヴィネット07』より)

当時、政府から出された布告類は各府県の東京出張所を通じて伝達された。布告類は各府県出張所間で回覧され、その中で各府県出張所は御布告留として転写して府県庁に送付された。府県庁内ではそれを筆写して管内各区の会所などに配布し、区戸長を経て各町村に回覧された。各町村の戸長は御用留として筆写記録すると共に掲示等の方法で町村民に伝達していた。行政が整備されるに従って頻繁に布告類が出されるようになると共に、その内容も複雑で長文になったため、筆写を繰り返す伝達方法では、人員と時間を要し、誤写や脱落による正確性に欠ける恐れがあった。

これに着目した平野富二は、長崎時代に面識のあった野村盛秀が埼玉県令として赴任していることに眼を付けた。早速、浦和の埼玉県庁を訪問して野村県令に面会し、正確性、迅速性、経済性の三得を説明して布告類を活版印刷するよう説得した。その結果が、冒頭の文部省宛て「布告書活字板摺立伺」である。

平野富二の「記録」によると、明治5年(1872)8月29日に「埼玉県より四号文字350字の注文があった」旨が記されている。これは東京で活版製造を開始してから初めての活字注文であった。これは、貸し出された布達類の原稿にもとづき活字を活字版に組んで納入したと見られる。埼玉県庁では、納入された活字版を用いてバレンによる手刷りで印刷したと見られる。

この埼玉県の「布告類の活版印刷」は全国の府県で注目され、活版印刷の全国普及の契機となった。明治7年(1874)11月4日付けの長崎活版社中松野直之助から佐賀県令北島英朝に宛てた願書(渡辺庫輔著『崎陽論攷』に掲載)に、「すでに各地方の県庁にも3分の2は活版をお買い上げになり活版所を開設している。」旨が記されている。

更に埼玉県は、明治5年(1872)11月15日、文部省に宛てて、活版による新聞冊子を起し、管内限りの新聞出版を願い出た。その結果、県庁内に県庁活版所を設置して文運社と名付け、吏員に従事させて、『埼玉新聞』を発行した。このとき、平野富二は活字を含めた活版設備を納入したと見られるが、内容は不明である。

しかし、明治7年(1874)3月、県庁内の失火により県庁印刷所が焼失したため、『埼玉新聞』は休刊となり、明治9年(1876)9月、内務省に廃絶届を提出した。埼玉県は、その対応として県内で初めての私立印刷所である開益社を設立させて、県庁印刷御用とした。開益社は、明治12年(1879)に共立社、明治19年(1886)に埼玉活版所と改名している。

なお、明治19年(1886)8月に埼玉県総務課編纂『現行類輯 埼玉県達全書』が東京築地活版製造所の印刷により刊行されている。埼玉県との縁を感じさせるものである。

ま と め
平野富二が本木昌造から活字製造事業の改革とその後の経営を引き受けた頃のわが国では、まだ、活版印刷の黎明期であった。長崎における本木昌造の活字の製造と活版印刷の試みは知られているが、その他にも特定の出版物を活版印刷により出版するため独自に活字の製造を試みる者はいたが、販売を目的として活字を製造する者はほとんど居なかった。
そのような中で平野富二が放った一筋の曙光が次第に全国に広がって行く様子は、各府県の印刷工業会などが編纂した『印刷史』や各種資料を通じて知ることができる。

活版印刷普及の前段階として本木昌造が発行に関わった新聞として、まず、慶應4年(1868)8月に長崎府新聞局が致遠閣と名付けた部門から発行された『崎陽雑報』がある。ついで、明治3年12月8日(1871年1月28日)に横浜活版社から発行された『横浜毎日新聞』、さらに、明治4年(1871)10月28日に大阪活版所の支配人長崎屋宗三郎の名前で発行された『大阪府日報』がある。

いずれの新聞も鉛活字による活版印刷で発行が計画されたが、『崎陽雑報』は鉛活字と木活字の混用、『横浜毎日新聞』は木活字、『大阪府日報』は木版により印刷された。当初の計画を変更した理由はそれぞれ異なるが、原因はいずれも新聞発行に合わせて充分な鉛活字を揃えることが出来なかったとみられる。

『崎陽雑報』を発行する際は、不足活字を迅速に製造できないと云う問題を抱えていた。それを解決するため上海美華書館のW.ギャンブルを招聘して迅速活字製造法の伝習を受けた。その成果を得た本木昌造は明治3年(1870)3月に新塾活字製造所を設立して本格的な活字の製造を開始した。
活字製造に自信を持った本木昌造は、大阪、横浜、京都に門人を派遣して活版所を開き、次いで自ら東京に出向いて官庁御用書肆たちの出資で活版所の設立を計画、大学御用を受けて神田佐久間町前に活版所を設立することとなった。

本木昌造は各地に設けた活版所に長崎から活字を供給する必要に迫られたが、新塾活字製造所で造った活字は不良品がおおく、需要に応えることができなかった。資金は枯渇し、多くの負債を抱えたまま倒産寸前の状態に追い込まれた。

ここで平野富二の出番となる。失業対策の慈善事業として運営されていた新塾活字製造所の経営を一任された平野富二は、生産体制の見直し、規格の統一、品質管理の徹底を断行し、着手してから2ヶ月弱で不良品を激減させ、高品質で安価な活字を安定して生産することに成功した。

平野富二が活字の需要を調査するため大阪経由で上京したのは、明治4年9月中旬のことである。東京では政府の布告類や民間の有志者が計画していた辞書などを活版印刷するため、良質で安価な活字を求めていることが判った。
当時の東京には、すでに僅かではあるが活字製造業者が存在していた。活版印刷機については未だ国産品はなく、専ら高価な舶来品に頼っていたことから、民間で活版業を営む者はほとんどいなかった。

明治5年(1872)2月、本木昌造が刊行する『新塾餘談 初編一』に新しく製造した活字が用いられ、末尾に活字見本の広告を出して積極的な活字販売を開始した。その後、平野富二は同年7月に東京に拠点を移し、神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設し、同年10月、『新聞雑誌』に同様の活字見本の広告を出し、活版印刷機も販売品目に加えて活版印刷の普及を図った。

明治5年(1872)の活字・活版印刷機の販売事例として、同年5月に創刊された『神戸港新聞』と同年9月にわが国で初めて活版印刷された埼玉県庁の布告類がある。

『神戸港新聞』は、本木昌造一門の茂中貞次が兵庫県令神田孝平に呼ばれて新聞発行に協力し、平野富二が責任者となった長崎の新塾活字製造所から活字一式を納入したとみられる。それまで本木昌造が関与した新聞は、鉛活字と木活字混用の活版印刷であったが、『神戸港新聞』の創刊により、鉛活字を用いた本格的活版印刷による新聞発行が初めて実現したことになる。

埼玉県庁による布告類の活版印刷化は、これを契機として全国各府県は布告・布達類を活版で印刷して管内に配布するようになった。やがて施策や各種情報を加えた冊子形の新聞として一般民衆に伝達するようになった。活版印刷設備を備えるには多額の費用を要することから、当初は県庁内に設備を備えて御用業者に印刷業務を命じていたが、やがて民間の御用業者に印刷設備を払い下げて新聞を発行させることになった。

平野富二の放った一筋の曙光は、翌年の明治6年(1873)になって急速に全国に広がって行った。その様子は次回に各県での事例をもとに紹介する。

2020年3月25日 公開
同年6月02日 更新

 

 

国内外の博覧会と活字・印刷機出品(その2)

まえがき
前回の「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)」では、1867(慶應3)年のパリ万国博物館、1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会、明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会について、それぞれの概要と活字・印刷機の出品について紹介し、考察を加えた。

今回は、続いて国内外で開催された各種博覧会への出品について紹介する。
内国勧業博覧会は、明治10年(1877)の第一回に続いて、明治14年(1881)、明治23年(1890)、明治28年(1895)、明治36年(1903)と第五回まで開催された。続いて明治40年(1907)に第六回が予定されていたが、日露戦争による財政悪化で延期され、政府主催による内国勧業博覧会は第五回以降の開催はなかった。

代わって明治40年(1907)に東京府主催で東京勧業博覧会が開催された。それ以降、府県庁またはその関係団体による主催で各種博覧会が開催された。その中で東京築地活版製造所から出品された博覧会は、大正3年(1914)の東京大正博覧会、大正11年(1922)の平和記念東京博覧会、昭和3年(1922)の大礼記念関連地方博覧会であった。

その間、1885(明治18)年にイギリスで開催されたロンドン万国発明品博覧会に活版見本を出品している。1893(明治26)年にはアメリカのシカゴで開催されたコロンブス世界博覧会に出品を予定していたが、都合により出品を辞退している。

本稿で採り上げる明治14年(1881)から昭和3年(1922)の間には、東京築地活版製造所は組織ならびに経営者の異動があった。その内容については必要に応じて個別に触れることにする。

博覧会に出品する製品については、活字・活版が主力であるが、印刷機については活字の販売促進のための製品であったことから、明治17年(1884)に印刷機械製造部門の廃止に伴い、製造に関わった従業員を独立させ、また、大阪活版製造所に製造委託するようになった。このことから、印刷機の博覧会への出品は大阪活版製造所が行うようになる。

今回は、第二回内国勧業博覧会以降の築地活版製造所が出品した各種博覧会について、年代順に紹介する。平野富二が直接関与した第二回内国勧業博覧会とロンドン発明品博覧会については詳細に述べるが、明治22年(1889)6月に東京築地活版製造所の社長を辞任して以降の博覧会については、その概要を述べるにとどめる。

(4)第二回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治14年(1881)3月1日から6月30日まで第二回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。出品人員は31,239人、観覧人員は822,395人、経費は276,148円と記録されている。

出品物は第一区:鉱業・冶金、第二区:製造物、第三区:美術、第四区:機械、第五区:農業、第六区:園芸の6大区分され、その区分に従い館別に陳列された。館内では、横軸通路を府県別、縦軸通路を類別に配列された。

表門内に第一~第四本館が建てられて第1、2区の出品物が展示された。中門内には第五本館(第2区出品物展示)、美術館(第3区)、第一・第二機械館(第4区)、第一~第五農業館(第5区)、動物館(第5区)、園芸館(第6区)が設けられた。

東京築地活版製造所から出品した「活字・印刷機」は第四区第五類に分類され、中門内の第一機械館に展示された。

図29-1 第二回内国勧業博覧会案内図(国文社)
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』より引用〉
この案内図は国文社が足踏印刷機を会場に持ち込んで印刷したものである。

第一から第四本館までは現在の国立博物館前の広場に設けられ、
それ以外の展示館は現在の国立博物館構内に設けられた。
「活字・印刷機」を展示する第一機械館は中門内の左手突当りにあった。

築地活版製造所からの出品
築地活版製造所からは所長の本木小太郎の名前で次の諸品を出品し、銅製二等有効賞牌を授与された。なお、平野富二は、明治11年(1878)9月に築地活版製造所を本木家に返還して、所長本木小太郎、支配人桑原安六とし、自らは本木小太郎の後見人となっていた。

築地活版製造所の出品目録は、次の通りであった。
・印刷機械(鉄製、西洋模造口形、京橋區築地二丁目 桑原安六)
・印刷機械(同上、フート形、同上)
・各種活版(亜鉛刻字、明朝風10種、清朝風6種、行書1種、朝鮮書体4種、片仮名6種、平仮名8種、平仮名続字1種、横文字1種、同上)
・字見本帖(西洋紙、西洋綴、各種書体印刷、同上)

築地活版製造所から出品された印刷機械の「西洋模造口形」と「フート形」は、一緒に出品された「字見本帖」に絵図で掲示されているPRINTING ROLL MACHINE(活版車機械)とPrinting Foot Press(活版足踏機械)と見られる。「ロ形」は「ロール(ROLL)形」を略称したものと推察される。

各種活版の内、漢字は「明朝風」、「清朝風」、「行書」の3種が出品され、初めて書風、書体を示す名称が付けられた。それまでの築地活版製造所の「摺り見本」や「字見本帳」には書体・書風を示す表示は示されていなかった。

「清朝風」の表現については池原香稺が本木昌造に宛てた書簡(出状年不明、もと長崎諏訪神社所蔵)の中に見られ、「明朝風」については『東京日日新聞』(明治8年9月5日付)の記事のなかに見られるので、本木昌造の生前にすでに用いられていた。

本木一門の間では、楷書体(一点一画を崩さずに正しく書いた漢字の正書体の内、紙面に兎毫竹管の筆を用いて書いた漢字書体で、「三過折」つまり三節構造を有するもの。)の一書風で、17、18世紀の清王朝の刊本に見られる自然で柔軟な筆遣いを残した書風を「清朝風」、16世紀頃から大量の経典を木版摺りとするために正書体でありながら点画を標準化した書風を「明朝風」と表現していたと見られる。

「字見本帳」について
出品された「字見本帖」は、明治12年(1879)6月版の活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(改刷)と見られる。それ以降、明治14年(1881)2月までに発行された活字見本帳は見付かっていない。

フィラデルフィア万国博覧会出品用として造られた明治9年版『活版様式』を大幅に増補改版した通称明治10年版の『BOOK OF SPECIMENS』を基に、その後に追加された活字類を加えて、「紀元弐千五百三拾九年 明治拾弐年卯第六月」、「改刷版」と表示された『BOOK OF SPECIMENS』が発行されている。

板倉文庫旧蔵本によると、表紙はマーブル紙表装圧紙、背表紙はクロス装で文字等は印刷されていない。扉ページ1は本木昌造肖像(点・線を組み合わせた凹版彫刻技法による銅版)、扉ページ2は表門と煉瓦造り二階建て事務所の絵図(線刻木口木版)、扉ページ3は明治10年版と同じ『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRNO』の表示の上部に「紀元貮千五百三拾九年 明治拾貮年卯第六月」、下部に「Tsukiji Tokyo, Japan」、「改刷」と表示されている。

図29-2 明治12年6月版『BOOK OF SPECIMENS』の扉ページ
〈板倉文庫旧所蔵〉
上図は本木昌造の肖像(扉ページ1)で、
写真を手本とした砂目石版画である。
手本とした写真では首筋まで髪を垂らした総髪姿であるが、
右耳裏の垂れ髪は修正されて無くなっている。

下図は本書の表題(扉ページ3)で、
中央部分は明治10年版と同じである。

表題の上部に刊行年月として紀元年と明治12年6月と記されている。
表題の下部には改刷版であることが示されている。

扉ページ4は飾り枠罫線の中に各種装飾文字を使用した英文表紙で「THE Printers’ Handy Book OF SPECIMENS」と表題を示し、下方に築地活版の旧マークと「OFFICE AND FOUNDEY, 20-BAN-CHI TSUKIJI TOKIO」とある。なお、「FOUNDEY」は「FOUNDRY」の誤りである。主要文字とマーク、飾り枠罫線は色刷りとなっている。

他社による活版印刷機の出展
この博覧会には、国文社(神田淡路町二丁目4番地、社長竹中邦香)から足踏印刷機(鉄、一人力踏転)と活字鋳造車機械が出品された。この足踏印刷機は平野富二の下から独立した金津平四郎(京橋区常盤町一丁目)による製作であることが表示されている。

この足踏印刷機を使用して、会場で「第二回内国勧業博覧会場案内図」(図29-1)を印刷して来館者に配布し、いかに印刷が便利なものであるかを示した。

国文社は、前島来介(密)が『まいにち ひらがな しんぶんし』を発行するに当たって、明治6年(1873)に山田栄蔵(本木一門出身)が本所区御竹蔵に活版印刷所「啓蒙舎」を設けた。明治7年(1874)に神田淡路町二丁目に移転し、その後、「国文社」と改称した。

その他、長崎県の以文会社(勝山町)から木製一人刷印刷機械が出品された。
以文会社について述べると、本木昌造が新町私塾から発行した『長崎新聞』の廃刊(明治6年12月)に続いて、西道仙が編輯主任となって発行(明治8年12月)された同名の『長崎新聞』がある。その発行所は新町新聞局と勝山街新聞局であった。この『長崎新聞』は、明治9年(1877)1月に『西海新聞』と改題され、さらに、明治15年(1882)になって『鎮西日報』と改題して日刊新聞として発行された。この発行所が勝山街新聞局を引き継いだ以文会社(社長佐々澄治・井上英雄・高見松太郎)である。その後、以文会社は県庁関係の印刷物を出版している。

弘道軒神崎正諠とのひと悶着
築地活版製造所の展示を視察したと見られる活版製造所弘道軒(京橋区南鍋町二丁目1番地)の神崎正諠は、博覧会展示品のなかに清朝風活字があることを見付けて、平野富二との間でひと悶着を起した。

当時の『有喜世(うきよ)新聞』(明治14年11月26日付)の記事を要約すると次のようになる。
「神崎正諠は、明治4年(1871)頃からタガネ師を雇って活字の鋼製元字を造り、すでに四号、五号等の字母数千種を製造した。本年1月になって、資金不足のために製造器械と共に字母などすべてを売却する広告を出した。早速、築地の平野富二が買い取りたいと申し入れたが、神崎正諠は思うところがあって断った。その仕返しかどうか知らないが、その後、築地活版製造所で弘道軒の活字を字母として電胎法による母型を造り、活字を鋳造していることを知った神崎正諠は、このまま捨て置いては犬が骨折してエサを鷹にとられるようなものだと立腹した。近頃、この旨を告訴するべく準備中とのこと。」

築地活版製造所は、本木昌造の頃から清朝風と呼んでいた池原香稺の版下による楷書体を改刻するため、能筆家小室樵山(下谷御徒町)に版下を依頼し、完成した活字を「清朝風」と称して第二回内国勧業博覧会に出品した。ところが、弘道軒活字も同じ小室樵山による版下を用いて「清楷書(正楷書)」と名付けて販売していたため、神崎正諠は弘道軒活字をそのまま父型として利用・複製したものと誤解したと見られる。

神崎正諠が、白装束に陣羽織姿で腰に大刀を帯び、築地活版製造所に乗り込んで抗議談判に及んだ逸話は、三谷幸吉が築地活版製造所の社員だった田中市郎の談話として紹介している。

弘道軒活字は、明治14年(1881)8月1日付けの『東京日日新聞』から本文活字として採用され、明治23年(1890)2月11日まで使われた。その間、相場や商況広告などは築地活字の明朝五号が使用されていた。神崎正諠は、明治24年(1891)12月14日、病没し、次男池上喜之助が跡を継いでいる。

築地活版製造所は、明治16年(1883)7月2日付け『時事新報』に広告を掲載して、「これまで明朝風の各号活字と六号楷書活字を販売して来たが、この度、能筆家に版下を依頼して五号楷書活字を本日から発売し、さらに、二号、三号、四号も製造着手中である」と述べている。このことは、神崎正諠の談判を受けて築地活版製造所は、出品した清朝風6種の内、六号のみを「楷書」として販売し、その他の清朝風5種は販売を差し控えていたことが分かる。

(5)ロンドン万国発明品博覧会
(International Inventors Exhibition, London)
明治17年(1884)11月21日付け農商務省布達第21号により「英吉利国龍動府開設万国発明品博覧会ニ帝国政府参同一件」として「来る明治18年5月より6ヶ月間、英国ロンドン府において万国発明品博覧会が開催されるに付き、出品を希望する者は農商務省に願い出ること。但し、出品手続については追って農商務卿より告示する。明治17年11月21日 太政大臣三条実美、農商務卿松方正義」とあり、それによって政府から布告された。

明治18年(1885)1月12日、平野富二は、本木小太郎の代理として、東京府を通じて農商務省に出品願書を提出した。

それに先立ち明治13年(1880)3月、平野富二は本木小太郎を活版、造船等の視察のためアメリカを経てイギリスに長期海外出張させており、当時、本木小太郎はロンドンに滞在していたとい見られる。

なお、出品願書を提出して3ヶ月後の明治18年(1885)4月に、築地活版製造所は本木家から独立して株式組織となり、有限責任東京築地活版製造所となった。平野富二が社長に就任し、本木小太郎は長崎新町活版所と大阪活版製造所の社長となった。

提出した願書には「出品目録」と「説明書」が添付されている。「出品目録」には次の2項目が記載されている。
第一号 活版見本   創業本木昌三、改良平野富二、製造本木小太郎 原価8円

第二号 同上印刷見本 同上                    原価1円

「説明書」は、築地活版製造所の便箋に手書きされたもので、末尾に追記された一文を除き、その全文は『史学協会誌』(第29号、明治19年1月、史学協会)に「活版事業創始の説明」として掲載されている。それは、片塩二朗著「本木昌造の活字づくり」(『ヴィネット04』、2002年6月、朗文堂)で紹介されている。その手書き原文は東京都公文書館に保管されている。

ここでは、手書き原稿により、その要点を箇条書きにして紹介する。
◆わが国には木板による製版と木駒による組版とがあるが、時間を要し、高価である。
◆本木昌三(注1)はオランダ書籍により西洋印刷術を知り、鉛字による漢文印刷術を上海で調査したが、手続きを怠ったため不成功に終わった。独自に研究の結果、電気メッキ版で母型を造り、手鋳込器械を用いて鉛活字を鋳造することを創始した。
◆嘉永5年(1852)の頃、蘭和対訳辞書(注2)を印刷してオランダに送ったのを初めとする。
◆当時は、この新技術が貴重なものであることを知る者がなく、逆に賎しむ有様だった。そのため、本木昌三は自分の財産を使い盡してしまった。

◆このとき、平野富二が本木昌三の志を賛助し、あらゆる面で計画を見直した。平野富二は、明治5年(1872)に東京に出て事業の拡張を計ったが、当初は販売の道が開けず、その苦労は本木昌三を上回った。
◆明治7、8年(1874、5)頃になって、新聞・雑誌類の発行が増え、布告類の活版印刷採用もあって、活字の販売高が増大し、利益をあげることが出来るようになった。その利益を資本として、活字の地金を厳選し、字体と大小を揃え、西洋文字・朝鮮文字・梵字などに至るまで揃えた。また、2、3年前から和文の再興が行われ、続き仮名活字を造り好評を得た。

◆この活版製造事業において、創業の功は専ら本木昌三にある。改良と弘売の功は平野富二の力が多大である。
◆明治5年(1872)中に東京で開業し、それ以来、明治17年(1884)までの販売高概数(注3)は次の通りである。なお、長崎と大阪の店の販売高は両店合計で東京店とほぼ同数となる。詳細は公表されている資料に譲るが、その概要は次の通りである。
明治5年は、7月中旬に神田和泉町に活版製造所を設営してから年末までの販売実績は個数244千個、重量6貫(1貫=3.75㎏)であった。
明治6年は2,773千個、257貫と個数で11.4倍、重量で42.8倍となり、明治7年はほゞ横ばいで、明治8年は4,554個、1,089千貫、明治9年には7,157千個、1,071貫と個数は年々大幅に増加した。
明治12年になると個数10,141千個、重量1,639貫、更に明治14年には個数15,811千個、重量2,262貫と驚異的な伸びを記録している。
明治17年までの実績合計は、個数107,589千個、重量164,508貫(616,905㎏)となっている。
◆第一回、第二回内国勧業博覧会に出品して賞牌を得た。

◆現在では全国500余の活版印刷所がわが社の製品を使用しており、2、3年前から上海・朝鮮にまで輸出するようになった。
◆わが事業がわが国の文明開化を誘導補助したことは疑うことはできない。しかし、わが国では未だ専売特許権の制度がないため、発明改良に苦労しても利益を得ることが少ない。それを盗み取って擬造・販売することで労せずに過分の利益を得ている。
◆活字の製造法や用法・効能などは西洋諸国と同じである。しかし、母型の製造法に違いがあり、西洋諸国は打込型であるのに対して、わが国ではガラフハニー(注4)型を用いている。(添付説明図は保存されていない。)
◆この鉛製活字は、従来の整版に較べて25~30倍の耐久性がある。
◆整版は急速の用には向かず、他の文章に版を転用することも出来ない。また、文字などを細かく出来ないので、印刷紙数が多くなり、書籍も高価となる。そのため、資力のない学徒は手写本に時日を費やしていた。
◆活版の採用により書籍の値段(注5)は1/2~1/5に下がるものがある。写本で伝わって来た奇書や大冊の書籍も活版印刷されるようになった。また、書籍の印刷発行が容易になったことから著述者を誘導し、その種類は10~15倍となった。
◆わが国が文明開化の進歩に向かう中で、直接または間接に成し遂げた功績については、長くなるので、説明を省略する。
◆追記として、日本文、中国文、欧文などの印刷に要する諸体の文字の販売、あるいは、印刷の引受を行うので、宣教師、その他東洋文字の印刷を希望する者はわが社に来訪されたい。

文中で注記番号を付した内容について、以下に補足する。
(注1):「本木昌三」について、通称は本木昌造であるが、ここでは明治5年(1872)に編成された戸籍上の名前で記している。

(注2):「蘭和対訳辞書」について、従来、福地櫻痴が執筆したとされる『印刷雑誌』の「本木昌造君の行状(前号の続)」の中で、「蘭和通弁の事を記せし一書」としており、それに基づいて研究者による詮索が行われ、それに相当する書物はオランダで発見することができなかったとされている。オランダで再調査すれば発見される可能性があるのではないかと思われる。
注3):「活字の販売高概数」について、明治5年の実績は年央からのもので、明治17年の実績は予測値と見られる。『史学協会雑誌』に掲載された説明書では重量を貫匁からポンドに換算しているが、その換算の過程で桁を誤って記載した箇所がある。
(注4):「ガルフハニー型」について、ガルヴァニー(galvanic)をオランダ語で表現したもので、「電気メッキ法により作成した型」を意味する。
(注5):「整版と活版の印刷物の価格差」について、ここでは学術本を対象にしているが、戯作本を例にとると、仮名垣魯文著『高橋阿伝夜刅譚』は、明治12年(1879)年に木版八編二十四冊本で1円だったのに対して、明治18年(1885)に活版一冊本で36銭だったという。

(6)第三回内国勧業博覧会
明治23年(1890)4月1日から7月31日の間、東京会場(上野公園内)で開催された。
出品人員77,432人、観覧人数1,023,693人、経費486,148円と記録されている。

出品は第一部:工業、第二部:美術、第三部:農業・園芸、第四部:水産、第五部:教育・学芸、第六部:鉱業・冶金術、第七部:機械 の7部門に区分された。

図29-3 第三回内国勧業博覧会場之図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

図右下にある表門内に第一東本館、第一西本館、第二~五館、機械館、
図中央の中門内に農林館、美術館、水産館、動物館、参考館が建てられた。
本館には工業、教育・学芸、鉱業・冶金術と工芸品、
参考館には諸外国の工芸品、美術品、天然物と邦人の特別出品が陳列された。
東京電灯がわが国最初の路面電車を走らせた。

印刷関係は、第一部の第十四類として「写真・印刷」、第七部の第四類として「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」に分類されている。この分野の審査は陽其二(製紙分社総括)が審査官主任を務めた。

「写真・印刷」(第一部第十四類)で褒賞を授与された出品者は、総数121人で、その内、東京府が58人、神奈川県が8人、大阪府が5人、京都府・兵庫県・長崎県が各3人を占めていた。その中で受賞者は総数33人の内、東京府が24人を占めていた。主な受賞者は次の通り。一等有功賞:写真 白金印書    東京府麹町区飯田町   小川一真
二等有功賞:活版印刷類 二面   東京府京橋区西紺屋町      佐久間貞一
三等進歩賞:活字組立板           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
三等有功賞:石版印刷物           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
褒状   :凸版                    東京府日本橋区兜町   陽其二

賞牌について上位から記すと、名誉賞牌(金造)、進歩賞牌(銅造、一等~三等)、妙技賞牌(銅造、一等~三等)、有功賞牌(銅造、一等~三等)、協賛賞牌(銅造、一等~三等)、褒状があった。

この印刷関係の審査報告概要では、「木版印刷は各種印刷物の過半を占め、専ら東京府の出品に属す。一は洋式の木版にして、もとより痂瑕なき能わずといえども、鮮明にして彫刻の労見るべし。一は本邦従来の方法に拠れるものにして、殊に雅致に富める所あり。東京府の出品にして活字を用いて上野公園入口の真景を填綴せるものは、その意匠の斬新たる本邦に於いてかつて見ざる所とす。又、紙型鉛版の如きは鋳造尋常なりといえども需要頗る広く、その製額変多し。」としている。

「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」(第七部第四類)で褒賞を授与された出品者は次の通り。
二等有功賞:活字鋳型              東京府赤坂区田町           大川光次
三等有功賞:十六片紙ロールマシン 大阪府東区北久太郎町  大阪活版製造所
褒状   :石版印刷機           東京府日本橋区本町        浅沼藤吉
同上   :活版印刷機           東京府京橋区常盤町   金津平四郎
同上   :活字額面              大阪府東区北久太郎町      大阪活版製造所
同上   :石版銅板彫刻機械 東京府日本橋区本町        杉浦六右衛門

博覧会に出品された印刷機は、前記の受賞出品以外に、東京府から水谷伊之助の活版器械(柏原栄太郎製造)があった。東京築地活版製造所の出品はなかった。大阪府から大阪活版製造所が受賞した十六片紙ロールマシン以外に半紙六枚摺ハンドプレスを出品し、会場に持ち込んだハンドプレスで自社の大判広告チラシを印刷、配布した。

図29-4  大阪活版製造所の広告チラシ
〈板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』、朗文堂、2011年9月〉

この広告は、会場に於いて半紙六枚摺ハンドプレスで印刷したものと見られる。
この広告の上段には四種類の印刷機械が描かれている。
右から活版印刷車輪機械 紙取付十六片紙摺 ロールマシン、
活版印刷車輪機械 八片紙摺 ロールマシン、
活版印刷手引機械 ハンドプレス、
活版印刷足踏機械 フートプレス
広告の下段右側には、活字各号見本が印刷されている。

審査報告として、「大阪府大阪活版製造所十六片紙(ロールマシン)は良く模造できたということが出来る。構造はよろしく、販売価格も低廉で、印刷された製品は殊に鮮明である。言うまでもなく、これに従事する職工の熟練、印肉の良質、活字の良品によることが少なくないとは言え、多年の経験により機械各部の構造が宜しくなければ、決して可能なことではない。」としている。

東京築地活版製造所は、明治23年(1890)1月に曲田成が社長に就任して間もなくの頃であった。本博覧会では「写真・印刷」部門で石版印刷物を出品して受賞しているが、すでに明治17年(1884)3月に印刷部を新設して、石版を含む印刷事業にも注力するようになっていた。

なお、平野富二の経営する東京石川島造船所は第七部「機械」、第六類「瓦斯・電気・汽力・風力等の発動機械及び汽缶」として舶用高圧蒸気機関を出品した。審査報告には「東京府石川島造船所 舶用高圧蒸気機関は構造・意匠とも程よく、各部はこれに比準してとても適当となった。しかし、造船所の規模が大きいことに比較して、この類の機械の出品が少ないのは残念である」とし、その出品に対して一等有功賞が授与された。

(7)コロンブス世界博覧会(シカゴ万国博覧会-1893年)
The World’s Columbian Exposition at Chicago, 1893
コロンブスの新大陸発見400年を記念してアメリカのシカゴで1893(明治26)年5月1日から10月30日まで開催された。その内容は科学技術の発展と工業への応用が中心となっていた。

わが国は宇治の平等院鳳凰堂を模した三棟から成る「鳳凰殿」と日本庭園を建設し、美術工芸品を中心に工業製品から園芸まで幅広く日本の文物を紹介した。このとき、東京築地活版製造所も出品を申請したが、明治25年(1892)5月5日付けで「閣龍(コロンブス)世界博覧会出品取消願」を東京府に提出して、出品を辞退している。

東京築地活版製造所は、社長曲田成の組織改革と業界活動の結果、経営は順調に拡大し、改正明朝活字や新製欧文活字を相次いで発売していた。

(8)第四回内国勧業博覧会
明治28年(1895)4月1日から7月31日の間、京都府岡崎公園に於いて開催された。
前年の明治27年(1894)には日清戦争が勃発したが、京都の遷都1,100年の記念事業として運営された。出品人員は73,781人、観覧人数は1,136,695人、経費27,256円と記録されている。

展示館としては、美術館、工芸館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館が主要なものであった。機械館の動力源が石炭から電力に替わり、会場外では、わが国初めての市街電車によって京都~琵琶湖疎水のほとりまでを連絡した。

印刷関係の出品区分は、第一部「工業」の第三類「写真・印刷」の中に其一「写真・幻燈画並びに其の器具」、其二「印刷物・其の用具」があり、さらに、第七部「機械」の第四十九類「製造機械」の其四「製紙、印刷、製本、活字、文具、‥‥等の機械」として2分野にまたがって区分されている。

「印刷物・印刷用具」(第一部第三類其四)については、東京府から東京築地活版製造所が「活字」を出品し、名誉賞銀牌を授与された。その審査評によると、「故本木昌造の遺志を継ぎ、活字鋳造、製版、印刷の業を営み、早くからその名声を海内に博し、功績顕著で、斯業の模範と為すに足りる」としている。

なお、東京築地活版製造所は、前年の明治27年(1894)10月16日に社長曲田成が姫路に出張中に脳溢血で客死し、代わって名村泰蔵が専務取締役社長に就任した。支配人は野村宗十郎が曲田社長時代に引続き支配人を務めていた。明治28年(1895)1月には、東京築地活版製造所から『座右の友(第二)』を発刊している。

東京築地活版所は、博覧会の開催に合わせて、明治28年(1895)3月、『印刷雑誌』に「改正明朝活字発売の広告」を掲載して、「第四回内国勧業博覧会の開催に際し、弊社改正文字発売の緒に就きたるを以て、其の会場の当日、すなわち本年四月一日より、三号明朝活字、五号明朝活字、六号明朝活字および新たに製造するところの三号楷書の4体を更に発売せんとす」としている。

「印刷機械」(第七部第四十九類其四)については、大阪府から大阪活版製造所の印刷車機械、森川松之助の足踏印刷機械、加藤駒蔵の活字製造機械、中島幾三郎の印刷機械が出品され、東京府からは杉浦六右衛門の写真版印刷機械が出品された。
大阪活版製造所出品の「印刷車機械」について、審査報告では「手本を海外に採るとは言え、着々と改良を施し、構造は堅牢で、製作は佳良である。製品も鮮明に印刷でき、充分実用に適している」としている。

東京築地活版製造所は、印刷機械の製造を大阪活版製造所に委託していたので、出品はなかった。

(9)第五回内国勧業博覧会
明治36年(1903)3月1日から7月31日の間、大阪府天王寺今宮の天王寺公園で開催された。出品人員は130,416人、観覧人数は5,305,209人、経費1,066,611円と記録されており、最後にして最大の内国勧業博覧会となった。

展示館として農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館の外に台湾館、参考館が建設された。第二会場として堺に水族館も建てられた。

出品は第一部「農業及園芸」、第二部「林業」、第三部「水産」、第四部「採鉱及冶金」、第五部「化学工業」、第六部「染織工業」、第七部「製作工業」、第八部「機械」、第九部「教育、学術、衛生及経済」の9部に分類された。

印刷関係の出品は、第八部の第四十六類「印刷機械」(其一「製版機械」、其二「印刷機械」と、第九部の第五十三類「写真及印刷」(其一~其十の内、其五「活字、活版、字母」、其六「整版、印刷器具、用品」、其八「印刷物」)に区分されている。

「印刷機械」(第八部)については、東京府から前田義胤が印刷機械、浅沼藤吉が汽動力石版印刷機械、全紙用写真版印刷機械、四つ切用写真版印刷機械、鉄葉版印刷機械、三色版用印刷機械、銅板用印刷機械の6機種、大阪府から中島幾三郎が四六判半裁石版印刷機、四頁形便利印刷機の2機種、浪花活版製造所が活版印刷機械四頁足踏ロール、坂本辰三郎が石版印刷器械を出品した。

活字」(第九部)については、東京築地活版製造所が、9ポイント活字約3,000個、その他サイズのポイント活字10種5,60個を出品し、名誉銀牌を授賞した。
このころ、東京築地活版製造所では社長名村泰蔵の下で支配人となっていた野村宗十郎がポイント活字の普及に努めていた。

この博覧会での受賞を記念して、同年11月1日、東京築地活版製造所は、それまでの集大成として『SPECIMEN BOOK OF TYPES 活字見本』を印刷し、関係者に贈呈した。しかし、この活字見本には内国勧業博覧会に出品した9ポイント活字は、まだ、掲載されていない。顧客の要求に即応できる社内態勢が充分整っていなかったものと推察される。

図29-5 明治36年11月版『活版見本』の表紙
〈旧板倉文庫所蔵、板倉雅宣著『活版印刷発達史』より〉

この明治36年11月版『活字見本』は、
468×182mm、468ページの大冊で、
明朝体、楷書体、平仮名、片仮名、各種装飾書体(色刷見本を含む)、
ゴチック、竪平型、梵字、朝鮮文字などから成る。

(10)その他の地方博覧会
国が主催した内国勧業博覧会は明治36年(1903)の第五回を以て終了した。それ以降は各府県あるいは関係団体主催による博覧会が開催された。東京築地活版製造所は下記の各博覧会に活字等を出品して受賞している。

1)東京勧業博覧会
明治40年(1907)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池畔(第二会場)、帝室博物館西側竹の台(第三会場)に於いて開催された。本博覧会は、もともと、明治40年(1907)に政府主催の第六回内国勧業博覧会の開催を予定していたが、日露戦争の勃発で財政悪化のため代わって東京府主催で開催されたものである。

東京築地活版製造所(社長名村泰蔵)は仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。取締役支配人の野村宗十郎は同博覧会の審査を嘱託された。

2)東京大正博覧会
大正3年(1914)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池周辺(第二会場)に於いて開催された。

東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「活字類」は名誉大賞牌を授賞した。なお、社長野村宗十郎は博覧会商議委員に就任した。

3)平和記念東京博覧会
大正11年(1922)3月10日から7月31日まで、東京上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「各種活字類」は名誉大賞牌を授賞した。

4)大礼記念関連の地方博覧会
・大礼記念国産振興東京博覧会
昭和3年(1928)3月24日から5月22日まで、東京商工会議所主催により上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長松田精一)は国産優良時事賞を受賞した。

・ 東北産業博覧会
昭和3年(1928)4月15日から6月3日まで、仙台商工会議所主催により仙台市川内東西両公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・御大典奉祝名古屋博覧会
昭和3年(1928)9月15日から11月30日まで、名古屋の鶴舞公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・大礼記念京都大博覧会
昭和3年(1928)9月20日から12月25日まで、京都の岡崎公園(東会場)・京都刑務所跡地(千本丸太町、西会場)・恩賜京都博物館(南会場)に於いて開催された。東京築地活版製造所は国産優良名誉大賞牌を授賞した。

なお、東京築地活版製造所は、1)の東京勧業博覧会の時は第四代社長名村泰蔵、支配人野村宗十郎であったが、2)と3)の東京大正博覧会と平和記念東京博覧会の時は第五代社長野村宗十郎、4)の大礼記念博覧会の時は第六代社長松田精一により出品された。

ま と め
前回の(その1)では、その最初として1867(慶應3)年に開催されたパリ万国博覧会で渡仏した清水卯三郎が「フランスみやげ」とした石版印刷機と足踏印刷機について紹介し、1876(明治9)年にアメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会と明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会に出品した活字と印刷機について紹介した。

今回は(その2)として、明治11年(1878)9月に平野富二が本木小太郎に築地活版製造所の経営を返還・移譲し、本木小太郎の後見人となって以降について紹介した。

明治14年(1881)に第二回内国勧業博覧会が開催され、本木小太郎の名前で各種印刷機と各種活版、字見本帖を出品した。また、1885(明治18)年にはロンドン万国発明品博覧会には平野富二が本木小太郎の代理として活字見本と活版印刷見本を出品した。

明治18年(1885)4月、有限責任の株式組織として本木家から独立した東京築地活版製造所は、平野富二を初代社長に選任した。明治22年(1889)6月になって平野富二は社長を辞任して、第二代社長は空席のまま、本木小太郎が社長心得となった。以後、平野富二は東京石川島造船所の経営に専念して、自ら東京築地活版製造所の経営に関与することはなかった。この間、明治23年(1890)に開催予定だった第三回内国勧業博覧会の出品準備が行われたが、博覧会開催は曲田成が社長に就任した後のことである。

明治23年(1890)1月、本木小太郎の辞任により、曲田成が第三代社長に就任した。野村宗十郎は社長曲田成の下で明治25年(1892)8月に副支配人、明治26年(1893)8月に支配人となった。この間、明治23年(1890)4月から第三回内国勧業博覧会が開催され、東京築地活版製造所から活版組立板と石版印刷物が出品された。また、大阪活版製造所から十六片紙ロールマシンと活字額面が出品され、会場内で活版印刷機の図入り広告が印刷、配布された。

明治27年(1894)10月、社長曲田成の病死により名村泰蔵が第四代社長に就任した。この間、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会では改正明朝体活字を出品、明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会ではポイント活字を出品して名誉銀牌を授賞、明治40年(1907)の第六回内国勧業博覧かに代わる東京勧業博覧会では仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。

明治40年(1907)9月、名村泰蔵の病死により支配人野村宗十郎が第五代社長に就任した。大正14年(1925)4月、野村宗十郎の病死により松田精一が第六代社長に就任した。
この間、府県庁またはその関係団体主催の各種博覧会に活字を出品して名誉賞を受賞している。

東京築地活版製造所は、業界の老舗でリーダーであったことから、出品した活字・活版については毎回、何らかの賞牌を授賞している。しかし、印刷機については、途中から自社内での製造を中止し、大阪活版製造所に委託したことから、機械分野での出品は見られなくなった。一方、明治17年(1884)から社内に印刷部を新設して印刷事業に本格進出し、石版印刷に力を注いだことから、石版印刷物の出品で受賞するようになった。

本稿では、平野富二が関わった博覧会の出品については詳しく述べたが、それ以降の博覧会については概要を述べるにとどまった。国立国会図書館には博覧会関係資料が数多く保管されており、それらは「国立国会図書館所蔵博覧会関係資料目録」(『参考書誌研究』、第44号、1994.8、国立国会図書館発行)に掲載されている。参考になる筈である。

2020年1月28日

国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)

まえがき
明治維新まで17年前の1851(嘉永4)年、ロンドン万国博覧会が開かれたのを契機として、欧米の首都・商都を中心とした万国博覧会が相次いで開かれるようになった。

わが国が国家として最初に参加した万国博覧会は、幕府時代の1867(慶應3)年にフランスで開催されたパリ万国博覧会だった。この頃、本木昌造は長崎奉行所の支配定役格として長崎製鉄所の経営に苦心しており、一方、平野富二は土佐藩に雇われ小型蒸気船を乗り回しており、印刷事業とは無縁であった。
しかし、江戸商人としてこの万国博覧会に出品参加した清水卯三郎は、書籍の出版・販売にも興味を持っていたことから、フランスみやげとして持ち帰った中に活字母型・印刷機類があった。

パリ万国博覧会から9年後の1876(明治9)年に、アメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会に平野富二は活字・紙型等の各種見本を出品した。本木昌造は前年に死去し、平野富二による築地活版製造所の経営はその確立を目指して新たな発展を遂げていた。
この万国博覧会には、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌が政府事務官として現地に派遣された。このことが平野富二の出品の動機となったと見られる。
平野富二の出品物の中には急いで作成された活字見本帳『活版様式』があったと見られる。また、初めて国産化した小型手引印刷機も含まれていた可能性がある。

明治10年(1877)にわが国最初の内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。平野富二は宿願の造船事業に進出した直後であったが、築地活版製造所製の鉛版活字が平野富二の名前で出品された。このとき、明治10年版とされる本格的な活字見本帳が作成されたが、出品に間に合ったかどうかは定かでない。また、国産化した手引印刷機の出品があって当然であるが、平野富二の名前はなく、他者の名前で出品されたらしい。

その後に引続き開催された内国勧業博覧会や海外の万国博覧会での活字・印刷機の出品については次回「その2」で紹介する。

(1)1867年のパリ万国博覧会 L’Exposition du Paris, 1889
博覧会の概要
慶應3年(1867)1月11日、徳川昭武と随行使節団らは、横浜に碇泊中のフランス郵便「アルヘー号」に乗り組み、フランスに向けて出港した。パリ万国博覧会に参加するため清水卯三郎と従者も同行していた。同年2月29日にマルセイユで上陸し、3月6日、列車でリヨンを経由し、翌7日、パリに到着した。

パリ万国博覧会は、慶應3年2月27日(西暦1867年4月1日)から10月8日(西暦11月3日)まで開催され、一般公開は3月27日(西暦5月1日)からであった。会場はセーヌ河畔のシャン・ド・マルス広場(現在のエッフェル塔広場周辺)で、40ヘクタールを超える敷地に巨大な楕円形陳列会場を建設し、その両側に各国がパビリオンを構えて名産を販売、飲食を提供した。

図28-1 パリ万国博覧会のシャン・ド・マルス会場図
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』,思文閣出版、1985年3月、

原典:Reports of the United States Commissioners
to the Paris Universal Exposition 1867〉
セーヌ川の左岸(図の右端)に面したシャン・ド・マルス広場の中央に
長径530m、短径400mの長円形リング状の主会場が建てられた。
日本の出品区は、日本・シャム(タイ)・中国と共用しており、
日本は91㎡、シャム48㎡、中国73㎡であった。
この共用区は、図の上半部中央右寄りに位置し、会場全体の1%にも満たない。
その近くのアフリカ通りに面してアメリカ出品区がある。
清水卯三郎はこのアメリカ出品区で足踏印刷機を見付けたと見られる。
主会場の左右に各国パビリオンのある庭園が設けられた。
1889年の万博ではセーヌ河寄りの庭園部分にエッフェル塔が建てられた。

慶應元年(1865)3月、幕府は、駐日フランス公使ロッシュからパリ万国博覧会参加を勧められて、将軍徳川慶喜の名代として実弟の徳川昭武をヨーロッパに派遣し、パリ万国博覧会に参加するとともに、条約締結国を歴訪させることとした。

清水卯三郎の参加
博覧会参加については、幕府が諸藩と江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎(38歳)が手を挙げた。幕府は清水卯三郎に博覧会出品蒐集係を命じ、幕府の出展品189箱と清水卯三郎が集めた157箱は、慶應2年(1866)12月14日、先発隊が搭乗した「アゾフ号」で品川沖から発送された。

図28-2 晩年の清水卯三郎
〈清水連郎著「瑞穂屋卯三郎のこと」、『新旧時代』、大正14年12月〉

清水卯三郎(1829~1910)は、現在の埼玉県羽生市で郷士の家に生まれた。
蘭方医佐藤泰然と蘭学者箕作秋坪からオランダ語を学び、
アメリカ公使館書記官ポートマンに日本語を教える代わりに英語を学んだ。
万延元年(1860)に『ゑんぎりしことば』上・下巻を発刊。
文久3年(1863)にイギリス艦隊の旗艦「ユリアラス号」の通訳となり、
薩英戦争で捕虜となった松木弘安と五代才助を横浜で救出した。
幕府御用医師箕作秋坪から勧められてパリ万博に江戸商人として出展した。

パリに到着した清水卯三郎は、連れて来た大工に日本で加工した檜材を組立させて、数寄屋造りの水茶屋を博覧会場内に建てた。開会中、江戸柳橋の3人の芸者がお茶をたて、酒を注いで来訪者をもてなして評判を呼んだ。閉会後、出展物の販売など、残務整理を終えた清水卯三郎は、イギリス経由でアメリカに渡り、明治元年(1868)5月7日、1年4ヶ月ぶりに帰国した。

清水卯三郎は、フランス渡航に際して書家の宮城玄魚に平仮名の版下を依頼し、フランスで活字の字母を作製依頼して持ち帰ったと伝えられている。また、フランスで石版印刷機を購入し、博覧会に展示されていたアメリカのゴードン社製足踏印刷機の精巧さに驚き1台を発注し、イギリスとアメリカを経由して帰国した。

欧米視察から帰国した清水卯三郎は、浅草森田町に店舗を開いて「瑞穂屋卯三郎」と称し、西洋洋書、器具類、薬種類の販売を行い、かたわら石版印刷術を試みた。明治2年(1869)3月20日、浅草森田町から『六合新聞』を創刊したが、新聞紙印行条例に触れて第7号(4月7日)で廃刊となった。

明治2年(1869)の内に自分の店「瑞穂屋」を浅草森田町から日本橋本町3丁目20番地に移し、これまでの業務であった西洋書籍・器械類・薬種類の輸入・販売に加えて、書籍類の出版・販売を主要業務とした。

清水卯三郎の輸入した印刷機
フランスから持ち帰った石版印刷機を瑞穂屋の店頭に置いていたところ、福地桜痴の揮毫による書画会の案内状を印刷するよう依頼され、全く同じ印刷が出来て皆を驚かせたという。『中外新報』(明治2年9月17日)によると、その標語は、「明治二年己巳九月初三日 江戸貧士 桜痴泥隠福地 萬世尚甫氏撰幷書」であったという。

アメリカのゴードン社から輸入した足踏印刷機については、初めに試用しただけで自分では活用しなかった。フランスで造って貰った平仮名字母を使用して活字を鋳造することもなかったという。
条野伝平が『東京日日新聞』を創刊するに当たって、瑞穂屋の足踏印刷機に眼を付けたが、資金不足のため、これを借りることになった。しかし、持ち出しの許可が得られないため、瑞穂屋に通ってその店頭で新聞を摺らせてもらった。条野伝平は、やがて、この印刷機を750円で買取ったという。

『東京日日新聞』は、明治5年(1872)2月21日に創刊されたが、当初は木版摺であった。第2号(2月22日付)から鉛活字により日本橋本町3丁目の瑞穂屋卯三郎の店にあった足踏印刷機を使って印刷を目論んだものの、漢字活字が足りず、第12号(3月2日付)から、再び、木版摺りとなった。第118号(7月2日付)から木刻活字となり、第304号(明治6年3月2日付)から鉛活字となった。しかし、第540号(明治6年11月24日)からは平野富二から購入した5号活字となった。

この第2号から第11号までの新聞印刷に使用された鉛活字は耕文書館製と見られる。耕文書館は、岸田吟香の勧めで上海に渡航した熊谷金次郎が、上海美華書館で活版印刷と活字製造の技術を修得して帰国し、蠣殻町三丁目に活字鋳造擦立所を開設し、同年5月から営業を開始した。
第304号からの鉛活字は工部省勧工寮活字局製と見られる。工部省勧工寮活字局は、明治6年(1873)4月と6月に工部省勧工寮活字局は新聞広告を出して活字の一般向け販売をおこなった。勧工寮活字局は、明治6年(1873)11月9日に製作寮活字局となり、明治7年(1874)8月になって正院印書局に統合された。

清水卯三郎が別途輸入したと見られる他の1台の足踏印刷機は、平野富二がこれを買取り、これを手本にして模造し、国産化を行なった。その国産化を果たした時期は不明であるが、明治10年版とされる『BOOK OF SPECIMENS』に掲載された広告文の中に「足業印刷器械」が含まれている。

(2)フィラデルフィア万国博覧会 The Centennial Exposition, Fairmount Park, Philadelphia.USA
博覧会の概要
明治9年(1876)5月10日から11月10日までアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。

図28-3 フィラデルフィア万国博覧会の会場平面図(部分)
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851~1942』、図30、p.40,

原典:Frank Leslie’s Historical Resister〉
アメリカ建国100年を記念して
フィラデルフィア郊外のフェアモント公園で開催された。
図の下部の大型建物の内、右側が本館、左側が機械館である。
その上部に描かれた広大な公園内に美術館や農業館などが建てられ、
参加各国と共に日本村や日本政府館・売店が設けられた。
わが国では「米国博覧会」、「米国費府博覧会」と記している。
「費府」は「費拉徳費府」の略で、フィラデルフィア府を示す。

アメリカ政府からの参加招請に応じて日本政府が正式に参加を決定したのは明治7年(1874)10月30日のことであるが、すでに同年6月には出品布告がなされていた。
博覧会事務局は、当初、太政官正院の管轄であったが、明治8年(1875)3月31日に内務省勧業局に移管され、事務官が任命された。総裁は内務卿大久保利通、副総裁は西郷従道で、事務官の一人として吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)が任命されている。

わが国の出品物は、博覧会事務局により第一大区「鉱業・冶金術」、第二大区「製造物」、第三大区「教育・知学」、第四大区「美術」、第五大区「機械」、第六大区「農業」、第七大区「園芸」の7区分とされた。活字や印刷物は第三大区に含むものとされ、主展示会場の日本コーナーに展示された。

図28-4 日本コーナーの展示
〈吉田光邦編『図説 万国博覧会 1851-1942』、思文閣出版、1985年3月、

原典:The Masterpieces of the Centennial Exhibition Illustrated〉
主展示会場内に設けられた日本コーナーで、
日の丸の国旗と「帝国日本」の額が掲げられている。
「製造物」に属する陶磁器などの工芸品が中心で、
「教育・知学」に属する印刷関係は、ここには描かれていない。

実際にわが国から出品された点数は総計1,966点で、「製造物」が1,067点で、陶磁器を主体とした工芸品が多くを占めた。「美術」、「農業」の出品物も多かったが、機械会場に展示される「機械」の出品は無かった。したがって、印刷に関する機器類の出品は「教育・知学」として主展示会場内の日本コーナーに展示されたと見られる。会場外には日本家屋の日本館と茶屋、売店が建てられ、「教育・知学」の出品物として扱われた。

平野富二の出品
国立公文書館所蔵の「記録材料」として『米国博覧会報告 第二 明治九年』がある。それに含まれる「出品職工人名表」の自費出品之部の中に「出品物 鉛錫活字、出品主 東京 平野富二、職工 東京 桑原安六」と記録されている。これにより、平野富二は政府の勧奨に応じて鉛錫活字を自費出品したことが分かる。

また、「日本出品区分目録」にも本館展示の第三大区「教育及び知学」、第三百六小区「書籍及び新聞紙等」の中の第三十六号として「出品主 東京築地 平野富二 活字紙型等の見本各種」と記録されている。さらに、「出品原價表」に「活字 五一、三一三 東京府下平野富二」として出品物の原価が表示されている。この原価表示は51円31銭3厘を意味すると見られる。

平野富二に割り当てられた出品番号の前後には、文部省などからの書籍・新聞類の出品が記録されている。平野富二と類似の活字等の出品は見当たらない。

なお、『米国博覧会報告 第一』に「米国博覧会報告書 日本出品解説」がある。主要な出品に限って解説しているためか、第三百六小区の出品物に関する解説は見当たらない。
また、第五大区「機械」の展示として第五百四十小区から五百四十九小区に「印刷製本紙工等ノ機械」が割り当てられているが、そもそも「機械」として機械館に展示する日本からの出品はなかった。

展示会場としては、本館・美術舘・機械舘・農業舘・園芸舘の五舘があり、本館には「鉱業・冶金術」、「製造物」、「教育・知学」が、美術館には「美術」、機械館には「機械」、農業館には「農業」、園芸館には「園芸」が展示された。本館内の日本に割り当てられた第三区ブースは、館内の南側で、西側入口近くであった。

活字見本帳と手引印刷機の出品(考察)
平野富二が鉛錫活字・紙型等の見本各種を出品したことは明記されているが、この見本各種の中に活字見本帳『活版様式』と手引印刷機1台も含まれていた可能性はある。

活字見本帳『活版様式』は、この万国博覧会に合わせて作成されたものと見られる。ハードカバーをめくった扉ページに隷書で「活版様式」とあり、それに続いて事務所と正門を描いた線刻絵図に「1876」とある。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-5 明治9年版活字見本帳の扉ページ
〈板倉雅宣著『活版印刷発達史』、印刷朝暘会、2006年10月〉

この明治9年版活字見本帳は板倉文庫旧蔵のものである。
活字摺見本に書体名の表示はないが、必要とされる各号サイズを揃え、
漢字は明朝・楷書・行書の3種、
平仮名は変体、扁平、上下接続の3種と含み、
片仮名はフリガナ用の7号まである。
その後にStand Pressとして手引印刷機の絵図が掲載されている。

手引印刷機については、活字見本帳『活版様式』に「Stand Press」として絵図が掲載されている。また、川田久長著『活版印刷史』(簡装版)によると、「その博覧会を見物に行った中国の李圭(リー・コイ)が、彼の旅行記の一節に、もとの西洋の機械よりも、立派にできていると大いに日本製の印刷機をほめている」としている。
平野富二の出品物原価51円余りの内、活字紙型と見本帳の原価は他の例から見て10円程度と見られるので、残りの40円程度は手引印刷機である可能性がある。当時の小型手引印刷機の国内における定価は100円とされていた。

図28-6 見本帳に掲載の小型手引印刷機 Stand Press
〈明治9年版活字見本帳『活版様式』、活版製造所 平野富二〉

この手引印刷機は平野富二が初めて国産化した印刷機と見られる。
これと同じ絵図が、
明治6年(1873)2月官許の『万国綱鑑録和解』に
「活字印刷機械之図 東京築地 平野富二製造」として掲載されている。

平野富二がこのフィラデルフィア万国博覧会に鉛錫活字を出品することになった経緯については良く分かっていないが、長崎オランダ通詞出身の吉雄永昌の存在を見逃す訳にはいかない。

政府事務官として渡航した吉雄永昌
吉雄永昌は、長崎のオランダ通詞出身で、吉雄辰太郎と称していた。品川藤十郎や吉雄圭斎とは祖先を同じくする遠い親戚である。明治になって大蔵省出仕を命じられて上京し、明治4年(1871)の岩倉米欧使節団に随員として参加した。明治9年(1876)には事務官としてフィラデルフィア万国博覧会に関わり、アメリカに渡航している。

平野富二が、築地二丁目に官庁に依頼して新築した煉瓦造二階建事務所の代金支払いに当たって、明治6年(1873)12月に月賦納付を申請したとき、吉雄永昌はその保証人となっている。おそらく品川藤十郎を通じて面識を得たと推測される。その後、吉雄永昌は、築地活版製造所が株式組織に改組されるときに株主の一人となり、後年、その息子吉雄永寿は東京築地活版製造所の専務取締役に就任している。

平野富二は、渡米した吉雄永昌を通じて、アメリカ印刷界の最新情報入手と、金子を渡して活字見本帳や参考資料の購入を依頼したと見られる。

(3)第一回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治10年(1877)8月21日から11月30日までの会期で東京の上野公園内(寛永寺本坊跡)に於いて第一回内国勧業博覧会が開催された。この博覧会の出品物展示として、会場正面に美術本館、西側に西本館、機械館、園芸館、東側に東本館、農業館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上に大時計が掲げられた。

図28-7 第一回内国勧業博覧会場略図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

寛永寺旧本坊表門だった観覧人入口を入ると、正面に美術館がある。
会場の東側(画面右側)に農業館と東本館、
西側(画面左側)に園芸館と機械館、西本館が建てられ、奥に動物館がある。

出品物は第1区:鉱業・冶金、第2区:製品、第3区:美術、第4区:機械、第5区:農業、第6区:園芸に区分され、府県別に陳列された。出品点数は8万4千点で、出品人員は1万6千人、会期中の観覧者数は45万人だった。審査によって優秀な出品物には一等(龍紋賞牌)、二等(鳳凰紋賞牌)、三等(唐草文賞牌)が授与された。

平野富二による鉛版活字の出品
平野富二は、築地活版製造所で製造した楷書・仮名等の鉛版活字を出品し、鳳紋賞牌を授与された。そのときの審査官長前島密らの褒状薦告には、「楷書及ビ假名等活字ノ鑿品字體整美ニシテ頗ル精巧ナリ。右ノ事項ニ因リ鳳紋賞牌ヲ附與アランコトヲ申請ス」とある。これにより内務卿大久保利通が授与を決済している。

鉛版活字と共に活字見本帳も出品したと見られる。しかし、平野家に所蔵されている明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(MOTOGI & HIRANO、Tsukiji Tokio. Japan)には、その刊記に年月日の表示はない。英文刷見本の中に「Tokio, Dec. 5th, 1877」と書いた例文があり、この日付は博覧会が閉会した後のものである。

したがって、平野富二は、第一回内国勧業博覧会に最新の活字見本帳を出品することを意図していたが間に合わず、代わりに明治9年版『活版様式』と明治10年(1877)4月に刊行された四号明朝体活字見本『活字摘要録 全』が展示した可能性がある。

当時、造船事業で建造中の洋式帆船をキャンセルされた平野富二は、顧客との折衝と折から勃発した西南戦争の動向把握のため、大阪に出張した。滞在1ヶ月で持病再発の兆しがあって帰京し、6月末から草津温泉で療養している。このような事情で、博覧会の準備に充分な時間をとる余裕がなかったと見られる。

明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』は、サイズ228×169ミリメートル、片面印刷111枚綴りのハードカバー本である。その見開きページに築地活版製造所の正門と煉瓦家屋の木口木版と見られる絵図(明治9年版と同じ)が単独で印刷されている。これに続いて、内表紙として「BOOK OF SPECIMENS」と題したページと、「THE Printers’ Handy Book of SPECIMENS」と題したページがある。この2枚のページには本木昌造の紋章である「丸も」と平野富二を示すドイツ文字「H」を組み合わせたマークが示されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

図28-8 活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』
〈平野ホール所蔵〉

この2枚の表題には出版年が記されていない。
明治9年版と比較すると内容が充実し、分厚いものとなっている。
103ページに「Hand Press」として、
明治9年版で「Stand Press」として掲載された絵図がある。
5ページの広告にある3種類の活版印刷機は、
明治12年版の活字見本帳に絵図が掲載された。

続いて広告のページがあり、その中に「活字製造円形の活版摺器械」と「手業ならびに足業活版摺写押器械類」が含まれている。つまり、「円形」、「手業」、「足業」の3種類の印刷機の国産化を行ない、販売に供していたことが分かる。

本文は、漢字・仮名文字見本20ページ、各種洋文字見本24ページ、各種花文字見本39ページ、各種カット絵図17ページ、各種活版印刷用具類絵図5ページによって構成されている。103ページには「Hand Press」としてアルビオン型小型手引印刷機の絵図が掲載されている。この絵図は、明治9年版『活版様式』に「Stand Press」として掲載された絵図と同一である。

印刷機の出品
野村長三郎(東京府南茅場町)と加藤復重郎(浅草森田町)がそれぞれ印刷機を出品している。しかし、平野富二は、すでに3機種の印刷機を販売に供していたが、その名前による博覧会での出品はなかった。

野村長三郎が出品した印刷機(第六十三図として絵図がある)は、いわゆるアルビオン形手引印刷機で、その出品解説を現代文に直して紹介すると次のようになる。

第六十三図は、外国から輸入した印刷機を摸造したものである。原型に従って木型を採り、それより砂型を造り、西洋産の生鉄を用いて左右の鉄柱と上下の鉄部などを鋳造した。それに附属する部品は鍛造の上、ヤスリで仕上げた。
活字組版を(イ)に示す木枠内に置く。別置した(ロ)に示す台上でインキを均一に塗布したローラーを用いて活字組版の上面を転がしてインキを塗布する。印刷する用紙を(ハ)に示す紙挟みに取付け、活字組版の上にかぶせる。(紙挟みと活字組版を載せた)枠台を圧板の下に移動させて、(ニ)に示すハンドルを引いて圧板を降下させ、押圧して用紙に印刷する。

図28-9 野村長十郎出品の印刷機絵図
〈内国勧業博覧会事務局『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

手引印刷機とインキ台を示す絵図である。
出品解説に示す符号は判読できないが、
(イ)は印刷機本体の右にある一本支柱の上にある枠を示す。
(ロ)は右手に別置されたインキ台、
(ハ)は印刷機本体の右端に立てかけられた貼子、
(ニ)は印刷機本体に取り付けられたハンドルを示す。
この絵図をコピーして符号を除き、部分加筆と削除を行った絵図が
明治12年版活字見本帳に「活版手業機械」として掲載されている。

それに続く明細表によると、「製額」は10個で1,730円、「創製年歴」は明治9年(1876)7月、「工名地名」は伊藤常次郎 東京府南茅場町、「出品人名」は野村長三郎 となっている。しかし、後に正誤表により「工名地名」の名前と住所は削除された。

板倉雅宣氏によると、「野村長三郎は神澤社を持ち、南茅場町14番地に住んでいた。明治10年(1877)1月19日に、『仮名旁訓公布日報』を出版するため太政官に謄写を申し出て許可を得ている。彼はこの本を印刷するために手引印刷機を創製したのである。」とある。

しかし、野村長三郎が、自身で出版のために印刷機1台を外国から輸入したかも知れないが、それを基に10台も模造したとは考えられない。

出品解説の絵図は、内務省製品図面掛によって作成された線刻銅板画であるが、平野富二の活字見本帳(明治12年6月発行)に掲載されているPrinting Hand Press (活版手業機械)の絵図と酷似している。これは、出品解説の絵図を手本として、図中の符号を削除するなどして作成されたと見られる。野村長三郎と平野富二との関係についての考察は後に述べる。

加藤復重郎の出品した印刷機は、木材と鉄板等を用いて造った簡単な手動式ロール印刷機で、活字組版を水平台上に載せ、組版の上を手動でローラーを往復させる構造となっている。これは、明治7年(1874)に海外から輸入された印刷機を参考とし、考案・工夫して作成したもので、明治8年(1875)に印刷所を設けて自家用として使用したと述べている。

図28-10  加藤復重郎出品の手動式ロール印刷機
〈内国勧業博覧会事務局編『明治十年内国勧業博覧会 出品解説』〉

当時、このような簡易印刷機が輸入されていたことが分かる。
本図は単に参考として示したもので、機構の説明については省略する。

加藤複重郎は、明治6年(1873)5月、浅草に加藤活版所を設立し、明治14年(1881)2月に「活版印刷営業組合設立願」が東京府知事に提出されたとき、その一員に加わっている。加藤復重郎については、津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』に、「わが国最初の鉛版師」としてその経歴が紹介されている。

博覧会への出品とは別であるが、日報社(総代條野伝平)は博覧会の機械館内に印刷機を持ち込み、『東京日日新聞』の付録として、日々の景況、場内の遺失物、出品物の売上高を印刷し、無料で配布した。これにより、来会人に知識を開かせることにもなるとした。

平野富二が印刷機を出品しなかった理由(考察)
この博覧会には、平野富二の名前で鉛版活字が出品されたが、活版印刷機の出品はなかった。その理由は明らかではないが、博覧会開催直前の明治10年(1877)2月中旬に勃発した西南戦争により、それを報じる新聞の発行部数が急増したため、各新聞社で活版印刷機の増設需要が高まり、平野富二は出品できる活版印刷機が手元に皆無となってしまったと推察される。

平野富二は、明治9年(1876)に美濃二枚刷の大型手引印刷機の国産化を行なって、四国徳島の普及社に納入している。普及社は同年4月21日に『普通新聞』(タブロイド判二つ折り)を創刊している。タブロイド判は美濃二枚のサイズに相当する。

以下は推測にすぎないが、平野富二は、すでに国産化した手引印刷機が小型のため顧客の要求に対応できないことから、海外から輸入された大型手引印刷機を入手し、これを分解してスケッチし、図面化した。明治8年(1875)11月に友人の杉山徳三郎が横浜製鉄所を借用して機械製造を開始したことから、まず手始めに10台の製造を杉山徳三郎に依頼し、完成したものから順次、引き合いに応じて販売に供した。その中に四国普及社と野村長三郎に納入したものが含まれていた。平野富二は、明治9年(1876)5月になって横浜製鉄所の事業に出資して経営に加わっている。

明治10年(1877)2月に西南戦争が勃発し、その戦況を報道する新聞の発行部数が急激に伸びた。そのため、平野富二が製造した大型手引印刷機は、第一回内国勧業博覧会に出品する予定の製品も含めて、たちまち売り切れてしまった。その対応として、野村長三郎に依頼して先に納入した印刷機を所有者野村長三郎の名前で出品してもらったのではないだろうか。その間、野村長三郎には代替として輸入機を提供して便宜を図ったと考えられる。

野村長三郎の名前で出品したことについては、平野富二は、当時、即納を要求された顧客に対して販売できる活版印刷機が手元に一台も無いとして断っていた手前、自分の名前で出品することが出来なかったのではないだろうか。また、届け出た製造者名と住所については、出入りの業者の了解を得て、その名前と住所と使用したが、事実でないことが判明したことから削除されたと見られる。

府下縦覧工場として指定
この勧業博覧会の開場中、府下縦覧工場として19工場を指定して希望者に工場を縦覧させた。その中に築地活版製造所と石川島平野造船所があった。その他、出版印刷関係の工場としては、日報社(尾張町一丁目)、報知社(薬研堀町)、日就社(銀さ一丁目)、製紙会社(王子村)が含まれていた。

まとめ
幕末から明治期に開催された博覧会に出品された鉛活字と印刷機は、近代化を目指すわが国にとって文明の利器として欠くことのできないものとなった。

1867(慶應3)年4月にフランスでパリ万国博覧会が開催された。これは、わが国が国家として最初に参加した万国博覧会であった。幕府は自らの出品と共に諸藩や江戸商人に呼び掛けて出品を募った結果、薩摩藩、肥前藩と浅草天王町に居住していた清水卯三郎が手を挙げた。
活字と印刷機については時期尚早のため、わが国の出品物の中には無かった。しかし、江戸商人として参加した清水卯三郎の「フランスみやげ」の中に、仮名文字の活字母型、石版印刷機と足踏印刷機があった。
活字母型は宮城玄魚による平仮名の版下を持参してフランスで作製依頼したものであるが、活字鋳造は行われなかったという。石版印刷機と足踏印刷機については清水卯三郎自身では使用せず、販売のため店先に置いてあった。
この足踏印刷機は、後に条野伝平がこれに眼を付け、『東京日日新聞』の創刊に関わることになった。また、別の一台は平野富二による足踏印刷機の国産化対象となった。

1876(明治9)年5月にアメリカのペンシルヴァニア州フィラデルフィアに於いてアメリカ建国100年を記念した万国博覧会が開催された。この万国博覧会参加のために政府事務官の一人として任命された吉雄永昌(勧業寮十二等出仕、会計)は、平野富二と知己であったことから、平野富二による「活字紙型等の見本各種」の出品がなされたと見られる。
この見本各種の中には、明治9年版活字見本帳『活版様式』と小形手引印刷機が含まれていたと見られる。これらについて考察を加えた。また、吉雄永昌について平野富二、築地活版製造所との関連を参考に述べた。

明治10年(1877)8月に第一回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。これはわが国政府主催の最初の博覧会であった。このとき平野富二は築地活版製造所で製造した「楷書・仮名等の鉛版活字」を出品した。しかし、平野富二の名前で出品した印刷機はなかった。
このとき、「鉛版活字」の摺り見本として明治10年版とされる活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』が一緒に出品されたと見られるが、疑問もある。また、国産化した活版印刷機を本格的に製造できる体制を整えたにも拘わらず、平野富二の名前で出品された印刷機はなく、築地活版製造所で造られたとみられる手引印刷機が、出版人である野村長三郎の名前で出品された。これらについて考察を加えた。

引続き第二回内国勧業博覧会(明治14年3月開催)、ロンドン発明品博覧会(明治17年5月)、第三回内国勧業博覧会(明治23年4月開催)などが開催されたが、これらについては、次回ブログ「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その2)」で紹介する。

2019年12月17日 稿了

活版印刷機の製造体制

まえがき
平野富二による活版印刷機の国産化については前々回(2019年5月)のブログで紹介した。その機種は、手引印刷機、ロール印刷機と足踏印刷機の3機種である。

販売を目的として最初に国産化を手掛けた機種は、小幡正蔵(文部省御用活版所の所長)が購入して使用していたイギリス製のアルビオン型手引印刷機であった。これは、半紙一枚摺りの小型機で、これを形取り・採寸して図面化し、部品を近くの石川島造船所に依頼して製造したものであった。
なお、石川島造船所は、明治5年(1872)10月になって、石川島修船場と石川島造兵所に分割され、印刷機の製造に必要な設備である鋳物小屋・鍛冶場・鑢場は石川島造兵所に属すことになった。

しかし、アルビオン型半紙一枚摺りの手引印刷機が製品として完成するまでの間は、本木昌造の経営する長崎の新町活版所で使用していた木材・金属混用の手引印刷機を長崎製鉄所で製造して貰い、東京で組立てて販売に供していた。

この木材・金属混用の手引印刷機は、本木昌造が長崎の新町活版所を立ち上げる際に、社員が中国の上海美華書館で見学したワシントン型手引印刷機のスケッチにもとづき、本木昌造が自分の経験を加えて図面化し、長崎製鉄所に製作を依頼したものであった。したがって、商品として販売するには難があった。

明治5年(1872)9月に埼玉県庁が、平野富二の説明を受けて、政府の布告を管内に限って活版印刷により複製して配布する許可を政府から得た。これを契機として、各府県庁では活字と活版印刷機の導入をおこなうようになった。

長崎県は、明治5年(1872)11月に「今後、布令には活字を使用す」と布達している。また、福岡県は県庁活版局を設け、明治6年(1873)4月に平野富二から活字と活版印刷機を購入して布告や公報の印刷を開始した。さらに、新潟県も県庁活版局が、平野富二から活字と活版印刷機を購入して、同年7月に『新潟県治報知』を創刊している。お膝元の東京府の布達類は、政府の印書局や印刷局で印刷された。

県庁直営ではないが、石川県の金沢町区会所は、明治6年(1873)に鉛製活字4万個と鉄製活版印刷機1台を東京から取り寄せて、活版所を開設している。また、名古屋では県庁御用達の中川利兵衛が県庁の役人と二人で平野富二の活版製造所を見学し、二号活字を買い求め、東京で見た手引印刷機を木製で模造して活版印刷を始めた。明治7年(1874)になって鉄製の小型手引印刷機とフート(手フートと称する卓上手押印刷機とみられる)を購入している。

目的を異にするが、尼崎の元藩士三浦長兵衛は、藩士授産の道として活字製造・活版印刷業を開業するため、明治5年(1872)9月、上京して平野富二に面会し、約6ヶ月間滞在して伝習を受けた。明治6年(1873)になって平野富二から活字と手引印刷機を買い受けている。

このように、各府県庁では県庁内に活版局を設けたり、民間の御用活版所を指名したりして、活字と活版印刷機を購入する動きが活発となった。平野富二にとっては、本業の活版製造と共に活版印刷機の製造体制をも早急に整備する必要が生じた。

活版印刷機の国産化は神田和泉町で開始され、鉄製小型手引印刷機が販売に供された。その後の手引印刷機の大型化とロール印刷機・足踏印刷機の国産化は、築地二丁目に移転した後に実現している。

平野富二の経営する東京の活版製造所では、神田和泉町から築地二丁目に移転して本格的に活版印刷機の製造体制を整えたが、やがて、横浜製鉄所に製造を委託、さらに、平野富二が石川島で造船事業を始めると、活版器械部を石川島に移転させ、石川島造船所で製造するようになった。その後は第4代社長名村泰蔵が活版印刷機製造を目的とした月島分工場を建設するまで、築地活版製造所の名前で販売はおこなうが、自社内での製造はおこなわなかった。

活版製造を本業とする築地活版製造所にとって活版印刷機の製造販売は、活字・活版を買ってくれる顧客を増やし、その便宜を与えることが目的であった。

本稿では、活版印刷機の製造体制に焦点を当てて、平野富二がどのように対処したかについて述べる。また、平野富二の没後に月島分工場を建設して活版印刷機の製造を再開したことについても触れることとする。

(1)神田和泉町における活版印刷機製造
平野富二は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を立ち上げた直後から、木材彫刻や金属加工に優れた技を持つ江戸の職人を探し出して、積極的に自分の工場に招聘した。

神社仏閣の飾金具師の小倉吉蔵(後に「字母吉」として独立)を字母係、路傍の印判彫刻師竹口芳五郎を版下書師、元館林藩の鎧鍛冶師で石川島造船所の職工となっていた川辺某と元金沢藩の鉄砲鍛冶師金津平四郎・清次郎親子を器械製造・修理師として雇用したことが知られている。

ついでながら、元彦根藩の鉄砲師だった大川光次がミシン器械などを製造していることを聞き込んだ平野富二は、活字鋳型師となって貰いたいと頼み込んだ。大川は平野に雇われることなく独立して活字鋳型の製造を開始し、活字の鋳造もおこなった。のちに大川は神崎正誼と知り合い、神崎が弘道軒活字製造業をはじめる契機を与え、活字鋳造機の国産化を果たした。

築地二丁目に移って最初に印刷機製造に関係した人は、石川島造船所の職工で元館林の鎧鍛冶師川辺某、元金沢の鉄砲鍛冶師金津平四郎・清次郎父子、柏原栄太郎、速水英喜の諸氏で、柏原市兵衛が主任となっていた。

大阪活版所から派遣された速水英喜を除いて、その他の者たちは神田和泉町に居た頃から、活字鋳造に必要な器具や器械類の補修をおこないながら、長崎から送られてきた長崎製鉄所製の活版印刷機の部品を組み立て、さらに、小幡正蔵が所有していた小型活版印刷機を手本にして国産化に携わっていたと見られる。

本稿の「まえがき」で述べたように、各府県庁直轄の活版所や民間経営の県庁御用活版所に平野富二が納入した活字と活版印刷機の中には、時期的にみて築地二丁目に工場を移転した明治6年(1873)7月以前に納入されたものがある。
初期に納入した活版印刷機は長崎製鉄所に依頼して製造した木・鉄混用製の印刷機と見られるが、その後に納入した「鉄製小型」と表示のある印刷機は平野富二が神田和泉町で国産化したものと見ることができる。

明治6年(1873)の平野富二の「記録」によると、「5月24日、米国より注文の内、銅板削り器械ならびに真鍮1箱参りし事」とある。これにより、活版製造に必要な器械・器具類を製造するため、アメリカに工作機械を注文していたことが判る。
活版や印刷機械を製造するための金属加工のできる工作機械がつぎつぎと入荷する中で、平野富二はひそかに築地への移転を計画していたと見られる。

明治6年(1873)8月に『東京日日新聞』に掲載した築地移転の広告で「これまで、神田佐久間町三丁目において活版ならびに銅版、鎔製摺機械、付属器とも製造いたし来たり候ところ、‥‥」と述べている。文中にある「神田佐久間町三丁目」は、活版製造所のある神田和泉町と道路を介した対面の町名で、前年に名前が付けられたばかりの神田和泉町に代えて表示したと見られる。また、「鎔製摺機械」は、鋳造による印刷機械を意味する。

(2)築地二丁目に移転後の印刷機製造
活字の需要が急速に伸び、併せて活版印刷機の引き合いが多くなったことから、神田和泉町の門長屋では手狭となり、また、地理的にも政府省庁や活字需要者の多い中心地から離れていて不便であることから、築地二丁目に土地を求めて移転することになった。

最初に買い求めた土地は120坪(400㎡)余で、その場所は築地二丁目20番地であった。この土地に木造二階建ての工場建屋を建築して、明治6年(1873)7月、神田和泉町から移転してきた。

引続き20番地に隣接する土地を買い求め、21、22番地の土地に先の工場建屋を連棟で延長・増築した。この工場建屋は工期を急ぐため木造としたが、当時、この地区は、政府の「本家作見合わせ令」により、区画整理と耐火建築義務付けにより、木造建築は仮建築としてのみ認可された。

築地二丁目における用地の買い増しは引続きおこなわれ、築地川沿いの道路に面した17、18、19番地の土地を取得し、18番地の土地に自費官築(自費で官に依頼して建築)による二階建煉瓦家屋を新築して事務所とし、活版製造所の正門と通用門を設けて「長崎新塾出張活版製造所」の表札を掲げた。

初期の活版器械製造工場
活版印刷機の製造をおこなう器械製造部門は、築地移転当初は、仮工場と称した木造の連棟二階建工場内にあったと見られる。明治7年(1874)5月になって、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始した。

築地に移転してから2年後のことになるが、本木昌造の死去を報ずる「雑報」『東京日日新聞』(岸田吟香筆 明治8年9月5日)の記事の中に次のような説明がある。その記事を平易な文章に直して以下に紹介する。

「非常に大きな製造場を新しく建ててありましたから、中に入ってみました。そこには大勢の職人が蒸気動力を用いて仕事をしていました。活字ばかりではなく、銅や鉄の加工は何でも出来ると見えます。」

この記事により、平野富二は築地の新工場に金属を加工する工作機械とそれを駆動するボイラ・蒸気機関を据え付けていたことがわかる。

先に紹介したように、明治6(1873)5月には、アメリカから銅板削り器械が到着ている。また、平野ホールに保管されている反故紙の中に「アメリカのニューヨーク州にあるSS社にて製造中の4馬力蒸気機械2機の代価900ドルの支払いを平野富二が分割払いとして承諾した」旨を記した書状(1874年12月18日付)が残されており、これらが新工場に据え付けられ、使用されていたことを示すものである。

築地移転を期に、大阪の新塾出張活版所で印刷係見習だった速水英喜が築地に派遣されて、築地の鉄工部に加わった。この頃から大阪の活版所でも印刷機の製造を手掛ける意図があったと見られる。

速水英喜(1854-1909)は、大阪の長崎新塾出張活版所支配人吉田宗三郎の縁で、開設したばかりの活版所に入り、印刷係見習となっていたが、印刷術ばかりでなく印刷機の構造に興味を持ち、自分もこのような機械を造ってみたいと念願していたという。大阪の活版所には,本木昌造が薩摩藩から譲り受けたワシントン型手引印刷機があった。

活版器械専用工場の建設
明治9年(1876)5月になって、平野富二は神田川沿いの神田左衛門河岸にあった300坪(約990㎡)余りの醸造蔵一棟を買い取り、その用材を用いて活字仕上場を建てた。その近くに余った木材を用いて長屋二棟を建てて、印刷機を含む活版器械類を製造する鉄工工場とした。これは、日増しに増大する活字と印刷機械の需要に対応して、新たな設備投資をおこなったものである。

図27-1 築地活版製造所の建物平面配置図
〈参謀本部「五千分一東京図」、明治17年3月測図、部分〉

本図は2枚からなる地図を合成したものである。
築地二丁目13~16番地の区画を図の中央に示す。
当初の仮工場は既に煉瓦造工場に建替えられている。
事務所は煉瓦造で、その横に正門と通用門がある。
活字仕上工場の余材で建てた鉄工工場において
印刷機を製造していたと見られる。
平野富二の旧居と新築し移転した新居を参考に示す。

その鉄工工場の場所は、正門を入って左手にある煉瓦建事務所の奥にある「く」の字形の細長い建物と推測される。その建物に併設する形でボイラ小屋と煙突らしきものが描かれている。

部品・素材の調達:当初は街の鋳物師に発注
神田和泉町の時代から印刷機械を製造するための素材は、もっぱら、街の鋳物師に注文したと見られる。その中で、松井寅吉と関本伝五郎の名前が判っている。

平野富二の「記録」によると、「明治6年(1873)9月14日、田中壮三注文ロール鋳型寅吉より相納。」とある。これは日付けから見て築地に移転後のことであるが、田中壮三から注文を受けたロール印刷機を製造するに当たって、出入りの寅吉に頼んで鋳型を造ってもらったとしている。その背景には、ロール印刷機の鋳物が大き過ぎて街の鋳物師では鋳造できないため鋳型だけを納入させて、石川島造船所に頼んで鋳造することにしたものと見られる。

ここに記されている寅吉とは松井寅吉のことで、『明治名工鑑』によると、4代前から鋳物師として仏具や置物を製造していた。明治4年(1871)から平野富二の注文を受けて印刷機を含めた鋳物製の器具や部品を製造していた。明治8年(1875)になって本所中ノ郷から神田佐久間町三丁目に転居したが、すでに平野富二の活版製造所は築地二丁目に転居していた。明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会には平野富二の依頼で高さ60㎝の置物を出品したという。

もう一人の関本伝五郎については、平野富二の手紙が残っている。手紙の日付は明治7年(1874)11月5日で、その内容は、注文した鋳物の不足分を早く送るようにとの督促状である。『明治名工鑑』によると、関本伝五郎は本所番場台の鋳物師で、明治2年(1869)に開業以来、舶来器械の模造をおこなっていた。明治10年(1877)の製造品目は「活版器械、暖炉、その他鉄鋳物は何品に限らず」としている。

大形部品の製造:石川島造船所と横浜製鉄所に依頼
街の鋳物師では手に負えない大形部品の鋳造や加工については、当初は海軍省所管の石川島造船所、次いで内務省駅逓寮所管の横浜製鉄所に依存せざると得なかった。 

平野富二は鉄製小型手引印刷機を国産化するに当たって、大形部品の鋳造を石川島造船所に依頼していたと見られる。

しかし、明治5年(1872)10月30日になって石川島造船所は石川島修船所と石川島造兵所に二分され、これまで平野富二が製造委託していた鋳物部品の製造工場は、造船部門から切り離されて、石川島造兵所の下で武器製造をおこなうことになった。
そのため、鋳物部品の製造委託が困難になったらしい。それでも頼みに頼んで何とか製造して貰っていた。石川島造兵所は、明治8年(1875)1月に築地小田原町の海軍省兵器製造所に併合され、設備の移転がおこなわれ、以後は製造委託ができなくなった。

横浜製鉄所については、明治8年(1875)5月に平野富二が親友杉山徳三郎と共同で横浜製造所敷地内の建屋を落札した記録がある。同年11月になって、高島嘉右衛門・大浦慶・杉山徳三郎の3名が連名で「横浜製鉄所拝借之願書」を提出し、明治9年(1876)2月から杉山徳三郎により横浜製鉄所で器械・器具類の製造が開始された。

その3か月後に、高島嘉右衛門が共同経営から脱退したことを機に、平野富二と他1名が経営に加わった。それによって平野富二は横浜製鉄所で活版印刷機を含む活版機械類の製造をおこなう道がひらけた。

石川島造兵所の併合移転により部品の製造委託ができなくなった明治8年(1875)1月から、杉山徳三郎が横浜製鉄所を借用して諸器械の製造を開始する明治9年(1876)2月までの約1年間、平野富二がどのように活版印刷機の部品調達をおこなったかは明らかではないが、鋳物師関本伝五郎に設備増強を依頼して対処した可能性はある。

明治9年(1876)7月4日付け『東京日日新聞』に、横浜製鉄所拝借人として平野富二(東京築地二丁目活版製造所)と杉山徳三郎(横浜製鉄所寄留)とが連名で広告を出している。それには、「諸機械製造 すべて鉄鋳物ならびに真鍮鋳物製造」とし、それに続けて具体的製品名を挙げている。その中に「〇活版諸機械類」が含まれている。

図27-2 横浜製鉄所の諸機械製造広告
〈『東京日日新聞』、明治9年7月4日〉

平野富二と杉山徳三郎連名の横浜製鉄所の広告である。
5行目から6行目にかけて「〇活版諸機械類」と記されている。

明治9年(1876)10月になって、平野富二は横浜製鉄所の経営から手を引いた。これは、もと石川島造船所の跡地を借用して念願の造船業に進出する目途が立ち、それに注力する必要があったからである。活版諸機械類は、横浜製鉄所で引き続き製造することとしたが、平野富二から依頼された分に限ることとした。

なお、明治10年版活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』に広告が掲載されている。それには、築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二が製造できる製品名が列記されている。上段に活版印刷機を含む活版関係の製品12項目が記されており、下段には一般産業向けの製品10品目が挙げられている。

上段の12品目の中に、「活字製造円形の活版摺器械」と「手業ならびに足業活版摺写押器械類」が含まれている。前者は「ロール活版印刷機械」のこと、後者は「手引活版印刷器械と足踏活版印刷機械」を示すと見られる。

下段の10品目は、先に横浜製鉄所拝借人として『東京日日新聞』に掲載した広告と同じ品目となっている。これらは活版印刷とは関係ない製品で、平野富二の思いの一端を示すものと見られる。

(3)築地にあった鉄工部の石川島移転
明治9年(1876)年10月30日、平野富二は海軍省主船局との間で海軍省所轄の石川島地所ならびに残存施設の借用契約を締結した。

借用した石川島地所は、閉鎖された旧修船所と他所に移転した旧造兵所の跡地で、旧修船所の跡地には総トン数600トンまでの船舶を収容できるドライドック(乾式船渠)と付属設備が残されていた。旧造兵所の跡地には諸設備の建屋だけが残されていたが、これらは借用対象外であったため、別途入札の上払い下げられた。しかし、機械工場の建屋だけは移設されたため、新設を余儀なくされた。

この頃になると築地地区は人家が密集するようになって、ボイラの燃料として石炭を燃やすことによる油煙の発生や機械の加工時に発生する騒音が近隣の人たちに迷惑を及ぼすようになっていた。

そのようなこともあって、平野富二は石川島造船所の構内に機械工場の建物を新築して、築地にあった蒸気機械(ボイラとエンジン)と工作機械(平削り盤・旋盤・蒸気ハンマーなど)を石川島に移設した。これにより、活版器械類の製造と共に船舶用器械類の製造もおこなうこととした。

蒸気機械と工作機械の移設に伴い、築地の鉄工部は石川島造船所内に設けられた徒弟部屋の一部に移された。

明治11年(1878)秋になって、平野富二は長崎で本木昌造三年祭を営み、関係者を招いて東京における活版・造船事業を本木家に引き継ぐことを申し出た。出資者により評議の結果、築地の活版製造所は本木家の所有とし、石川島造船所は平野富二の所有となった。これに伴い、活版印刷機の製造を石川島造船所に委託する形式となったと見られる。石川島造船所内にあった鉄工部はそのままで、印刷機械部と改称されたらしい。

明治12年(1879)の印刷機械部(もと鉄工部)の陣容は、『本邦活版開拓者の苦心』によると、柏原栄太郎、金子秀太郎、速水英喜、三木 某、辨木 某、江口 某、湯浅彦吉、伏谷米吉、太田 某、中島幾三郎の10名とされている。

神田和泉町時代からのメンバーだった金津平四郎・清次郎父子は、鉄工部が石川島造船所内に移転されるに際して独立し、京橋区常盤町2番地に活版器械製造所を設けた。なお、牧治三郎によると、それより前の明治7年(1874)に築地活版所を辞めて独立したとしている。

印刷機械部のメンバーに加えられた中島幾三郎(1858-1924)は、大垣藩士の次男で、明治7年(1874)に単身大阪に出て、やがて牛肉店を開業した。明治9年(1876)になって印刷業に転身すべく長崎新塾出張の大阪活版所に入所した。印刷技術よりも機械に興味を持っていたため、明治10年(1877)に印刷機械製造見習いとして石川島造船所内にあった鉄工部に派遣された。ロール印刷機の製造を担当し、鑢仕事で妙腕を振るったという。

先のメンバーの中には速水英喜の弟兵蔵の名前が見られないが、記載漏れと見られる。速水兵蔵(1860~?)は兄英喜を頼って上京し、船乗り業を志願して三菱商船学校に入学の段取りを付けたが、平野富二の勧めで兄と共に印刷機械の製造に従事することになった。それは明治11年(1878)のこととされている。

石川島造船所で印刷機械を製造していたことについては、東京石川島造船所発行の『石川島技報』(昭和17年6月発行)に紹介されている。要点をかいつまんで紹介する。

「造船所という名称は、何となくスケールの巨大な製品を想像させやすいが、この石川島で小型印刷機械や活字機械を造っていたと云うことは、ちょっと奇異の感なきを得ない。平野先生が造船所を開くと同時に、先に築地二丁目の活版製造所で製造していた機械を全部、石川島に移したと聞いたならば、その奇異の思いはおのずから解消するであろう。(中略)造船所において印刷機械を製造すると同時に、技術者も養成して、日本の印刷界に多大の貢献をなしたことは明らかである。一方、築地の活版製造所が平野先生の指導下に営業を継続していたことは勿論である。(中略)一例として、図に示す印刷機械は明治17年(1884)頃までの製品である。」

図27-3 石川島造船所で製造した印刷機械
〈『石川島技報』、第6巻 第15号、昭和17年1月〉

ここに掲載されている3種の印刷機はいずれもロール印刷機である。
左の写真は明治12年版活字見本帳にある活版車機械と同一である。
左の写真は大正3年版『活字と機械』にある
四六判八頁掛印刷機械と酷似している。

(4)印刷機械部の解散と離職者の独立支援
明治17年(1884)になって、石川島造船所内にあった築地活版製造所の印刷機械部は閉鎖され、解散した。

その理由は定かではないが、築地活版製造所の印刷機製造拠点を大阪の活版所に移すことにしたと推測される。当時、両所は共に本木家が所有し、本木小太郎が代表となっていた。

大阪の活版所は、明治11年(1878)に北久太郎町二丁目に600坪余りの土地を購入して移転し、二丁目40番地にある事務所に隣接して広大な工場を建設して、活版製造所と改称した。明治14年(1871)7月になって速水英喜・兵蔵兄弟と中島幾三郎が大阪に戻り、大阪での印刷機製造を本格化させていた。

図27-4 大阪活版製造所の工場建物
〈島屋政一著『印刷文明史』より〉

左奥の民家風の建物が事務所で北久太郎町二丁目40番地に当たる。
手前の背の高い長屋が印刷工場とされているが、
活版製造・印刷機製造もここで行われたと見られる。
頂部の3階に相当する部分は換気用と見られる。

やや後年のものになるが、大阪活版印刷業仲間事務所の「活版印刷業仲間職工住所姓名簿」(明治21年6月調べ)によると、大阪活版製造所の職工168人の内で鉄工課に所属する者は速水英喜を含めて46人で、活版製造所内で最も大きな部門となっている。

小型の手引印刷機や手フートと呼ばれる卓上型手押式印刷機などは個人企業でも製造が可能であることから、平野富二は、職を覚えた従業員で事業意欲のあるものを独立させ、築地活版製造所の名前で販売する途を選んだとみられる。

明治17年(1884)3月の「活字版並印刷器械製本器械其他定価」(改正版)と題した築地活版製造所の製品定価表によると、手引印刷機は半紙四枚摺、半紙二枚摺、半紙一枚摺、美濃一枚摺の4サイズ、車機械(ロールマシーネ)は大形、小形の2サイズ、足踏機械(フートマシーネ)は美濃版の1サイズが販売されていたことが分る。これによって、当時ほとんどの需要に対応できるところまで品揃えができたと判断したと考えられる。なお、車機械の大型は四六版16頁掛、小型は四六版8頁掛と見られる。

離職従業員の独立支援
印刷機械部の閉鎖に伴い、平野富二は活版製造に関わっていた者たちを独立させて印刷機の製造を業とし、その販売を東京築地活版製造所でおこなうこととした。

本林勇吉は、本木昌造の経営する新町私塾で学び、明治9年(1876)に築地の活版器械製造工場の製造担当となった。石川島造船所構内に移転してからは技工を勤めていたが、独立して京橋区弥左衛門町15番地で印刷機・付属品の製造を開始した。明治33年(1900)になって、江川活版製造所の江川次之進に招かれて、その下で築地2丁目14番地に本林機械製作所を開設して、印刷機を製造した。
本林勇吉の同僚だった井出雄平も独立して印刷機の製造を開始したという。

柏原栄太郎は、主任を務めていた父の柏原市兵衛の下で印刷機の製造を担当していたが、明治14年(1881)7月に独立して京橋区築地二丁目30番地に活版印刷機械製造の会社を設立している。明治23年(1890)に開催された第3回内国勧業博覧会に水谷伊之助(京橋区銀座三丁目)を通じて活版器械を出品している。

速水英喜・兵蔵兄弟は、明治14年(1881)7月に大阪活版製造所に戻り、印刷機械の製造を担当した。しかし、弟の速水兵蔵(1860-?)は、明治16年(1883)4月、築地活版所が上海に出張所修文館を設立したとき、松野直之助・平三郎兄弟に従って上海に出向し、そこで印刷と活字製造の実務に当たった。明治18年(1885)に大阪活版製造所に戻り、印刷機の修繕などをおこなっていたが、兄英喜の要請で独立し、東区北渡辺町1番地に速水鉄工所を開業した。

中島幾太郎(1858-1924)は、明治14年(1881)7月に大阪活版製造所に戻って印刷機械の製造に従事したが、4ヶ月後の明治14年11月に退職し、大阪の書肆修道館の印刷部に機械修理掛として入社し、そこで印刷機の製造をはじめた。明治18年(1885)3月になって独立し、西区土佐五丁目に中島機械工場を設立した。ロール印刷機械を中心とした印刷機の製造に従事し、数々の特許・実用新案を取得している。明治25年(1892)に製造した足踏式四六判4頁掛ロール印刷機械を東京の江川活版製造所から販売している。

なお、神田和泉町において印刷機の国産化を開始した当初から関わった者たちの中に独立して金津印刷器械製作所を設立した金津平四郎・清次郎父子がいる。手引印刷機や足踏印刷機械の製造に主力を注いでいた。明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会に国文社から足踏印刷機械を出品している。父平四郎の死去により二代目平四郎を襲名した清次郎は、京橋常盤町から南小田原町二丁目16番地に移転した。清次郎の長男巳之助も平四郎を名乗ったが、屋号は金津巳之助製作所と改めた。昭和に入ってからは営業方面を店員に任せきりで、廃業同然となった。

金津平四郎(初代)の次男金津金蔵は、明治5年(1872)に三菱の横浜造船所で見習い職工となった後、明治9年(1876)に常盤町の金津印刷器械製造所に入った。しかし、明治15年(1882)春、大坂砲兵工廠の徒弟となり、明治22年(1889)に上京して、京橋木挽町二丁目9番地にあった売家を購入して工場とし、分家独立した。当初は船の修理などをおこなっていたが、その後、印刷機械の製造をはじめ、明治24年(1891)頃には菊八頁掛ロール機械の製造を手掛け、従業員も職人5人、見習工7人を雇用するまでになっていた。
その頃、青山学院の印刷部に菊十六頁ロール機械2台を納入してから、中国方面に輸出するきっかけを作った。明治42年(1909)、仙台の河北新報から注文を受けてマリノニ輪転機の国産品を製作し、続いて、やまと、都、日本、東京日日、九州日日、静岡民友、秋田魁、名古屋新聞、福島民報、金沢、毎日、山形自由などの各新聞社の注文を受けて納入している。

当時の印刷機製造業者
明治9年(1876)から明治12年(1879)頃に創業した印刷機械製造業者として、加藤復重郎(浅草森田町10番地)、三卜堂(京橋新橋竹川町11番地)がある。その他、水町製造所(京橋築地三丁目)、寺本定芳(京橋銀座一丁目22二番地)、伊藤常次郎(京橋新肴町5番地)、松井兵次郎(京橋日吉町15番地)、大阪では安藤喜助(天満真砂町)が知られている。

その内、加藤復重郎は元来が印刷業者で、職業柄みずから創案した木鉄合製のハンドプレスを明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会に出品して好評を受けたが、まもなく機械製造を辞めて印刷専業となった。三卜堂は活版機械のほかに活字鋳造機械も製造したが、明治12年(1879)頃には活字販売と印刷を兼業するようになった。大阪の安藤喜助は木製ハンドプレスを手掛け、関西方面で広く販売された。

このように、平野富二の印刷器械製造事業は、結果的に、世の中に多くの人材を輩出して、未熟であったわが国の初期機械産業の育成と発展に貢献した。

(5)大阪活版製造所での印刷機製造
大阪活版製造所での印刷機製造は、築地で学んだ速水英喜が中心となり、大阪活版製造所のブランドで印刷機を販売すると共に、築地活版製造所が販売する築地ブランドの印刷機も製造したと見られる。
なお、それまで築地ブランドの印刷機を製造していた石川島平野造船所では、その後、製造請負を辞めたと見られるが、定かではない。

明治18年(1885)になって築地活版製造所と大阪活版製造所がそれぞれ商標を登録した。その記念に製造されたと見られる手引印刷機が長崎印刷工業組合に保管されている。この印刷機には大阪と築地の商標が門型横梁の表裏に鋳出されている。

図27-5  築地活版と大阪活版の商標のある手引印刷機
〈長崎印刷工業組合所有〉

上の写真はレバー操作側の面に鋳出された東京築地活版製造所の表示、
下の写真はその裏面に鋳出された大阪活版製造所の表示である。
向かって左側は英文の社名、右側中央は商標である。

また、明治19年(1886)7月10日付の『読売新聞』に築地活版製造所と大阪活版製造所が連名で紙取付装置を付属した16ページ掛け車機械(ロールマシン)の広告を掲載している。

図27-6  築地活版と大阪活版連名の新聞広告
〈『読売新聞』、明治19年7月10日発行〉

この車機械(ロールマシン)は当時最新鋭のもので、
四六判16頁掛の紙取付装置を装備したことをPRしている。
製造は大阪活版製造所、販売は両所が協力しておこなったことが判る。

このように印刷機製造事業は築地活版製造所と大阪活版製造所が一体となって運営するようになったことが分る。

その後の活版印刷機の部分改良や大型化は、専ら大坂活版製造所に戻った速水英喜によっておこなわれたと見られる。

東京築地活版製造所で発行した「活字版並印刷器械及紙型鉛版其他定価」(明治20年7月改正)と題するチラシで、その別紙による説明に、「手引器械は、半紙一枚摺、美濃紙一枚摺(以上、四六判、即、竪六寸横四寸の版四枚掛)、半紙二枚摺、美濃紙二枚摺(以上、四六判八枚掛)、半紙四枚摺にして、ロールマシンは四六判八ページ掛、十六ページ掛、三十二ページ掛の三種にして、足踏器械は美濃紙一枚摺に御座候へ共、其国の便利に応じ白紙唐紙半枚掛又は全紙に適すべき新形のものを製造する事も容易」とある。

この中の美濃二枚摺手引印刷機と四六判三十二ページ掛ロールマシンは、今までの定価表には無かったもので、需要に応じて大坂で新たに開発したものと見られる。

ここで、印刷機のサイズについて説明すると、そのサイズは版盤の大きさで示し、印刷用紙の種類別枚数あるいは判のページ数で表示している。
「半紙」1枚は8寸×1尺1寸(242×333mm)、「美濃紙」1枚は9寸×1尺3寸(273×394mm)、「四六判」1ページは4寸2分×6寸2分(127×188mm)、「菊判」1ページは5寸×7寸2分(152×218mm)のサイズである。
半紙と美濃紙は原紙そのもののサイズを示すが、「四六判」はその原紙を4×8(=32)ページに分断した判のサイズ、「菊判」はその原紙を4×4(=16)ページに分断した判のサイズを示すもので、この原紙サイズを「全紙」と呼んでいる。
なお、「四六判」はB列、「菊判」はA列にほぼ相当する。

平野富二は、明治22年(1889)6月、有限責任の株式組織となっていた東京築地活版製造所を辞任し、東京石川島造船所の経営に専念することになった。それ以降、活版製造事業と印刷器械製造事業に表立って関与することはなかった。

(6)月島分工場での印刷器械製造
平野富二が活版製造事業から手を引いてから18年後の明治40年(1907)2月に、東京築地活版製造所は月島に分工場を設けて活版印刷械の製造を再開した。

月島分工場の建設は、第4代社長名村泰蔵が積極経営の一環としておこなったものであるが、この頃、進行中であった大阪活版製造所の事業整理の一環として印刷機製造事業の廃止が計画されていたことが、最大の要因と見られる。

この頃になると印刷業界では新聞、雑誌やその他の活版印刷物が大量に発行されるようになり、活字の需要と共に活版印刷機の需要も増大していた。

図27-7 月島分工場の写真
〈『活字と機械』、大正3年8月、東京築地活版製造所より〉

明治41年(1908)3月に完成して稼働に入った月島分工場を示す。
左上は同じ頃に設立した大阪出張所である。
この頃、大阪活版製造所は閉鎖されたらしい。

明治23年(1890)に内閣官報局と大阪朝日新聞社がフランスからマリノニ輪転印刷機を導入したのを契機として、日露戦争前後(明治37、8年)にはフランス、ドイツ、アメリカから輪転印刷機が輸入され。その総数は65台であったと記録されているが、これは新聞社が中心であった。大手印刷会社は、博文館印刷所が輪転印刷機を導入した程度で、まだ、大形ロール印刷機械の需要が中心であった。

名村泰蔵は月島分工場の完成を待つことなく、明治39年(1906)9月に死去し、支配人だった野村宗十郎が第5代社長としてこれを引き継いだ。

月島は、明治20年(1887)から明治24年(1891)にかけて、東京府が東京湾の澪筋掘削を兼ねて佃島続きの洲を浚土で埋め立て約76ヘクタールの土地を造成したものである。この土地は区画整理の上、東京府が地主となって民間に貸し渡された。

名村泰蔵は、明治30年(1897)2月になって月島通四丁目9番地の土地285坪を、次いで明治36年(1903)1月に月島通四丁目11番地と月島通五丁目1、3、5番地の土地を東京築地活版製造所社長として東京府から借り受けた。それと隣接する月島通四丁目7番地の土地はインキ商で東京築地活版製造所の取締役だった西川忠亮が借り受けた。

月島分工場で製造された印刷機は、大正3年(1914)8月に東京築地活版製造所から発行された『活字と機械』によって知ることができる。

手引印刷機は半紙四枚掛、半紙二枚掛、美濃紙二枚掛、美濃紙一枚掛の4サイズ、ロール印刷機械は甲菊判四頁掛足踏、乙菊判四頁掛足踏、四六判八頁掛、甲菊判八頁掛、乙菊判八頁掛、四六判十六頁掛、菊判十六頁掛、四六判三十二頁掛の8サイズ、ゴルドン式印刷機械(足踏印刷機械)は鉄枠内寸16×11インチ(美濃紙一枚摺相当)の1サイズ、手押印刷機械は鉄枠内寸10×61/2インチの1サイズが写真入りで掲載されている。なお、甲乙の区分は不明である。

これを明治20年(1887)7月の「定価」チラシに記された品目と比較すると、手引印刷機は半紙一枚掛が無く、ロール印刷機械は菊判四頁掛足踏(甲、乙)、菊判八頁掛(甲、乙)と菊版十六頁掛(甲、乙)の3サイズ6機種が追加されている。また、これまで紹介されなかった手押印刷機械がある。

その説明書きによると、「印刷機械製作者は多いというが、その製作品を自社でも使用する業者は少ない。弊社は印刷、製本、鉛版などの事業を合わせて行い、その分野の権威者と目される専門技工がいる。弊社鉄工部で製作されたものは、これら専門家の試験を経て初めて顧客に提供される。弊社の製作品は、組立後の再加工は必要なく、直ちに完全なものとして使用できるので、顧客の利便は極めて大きい。」としている。

大正2年(1913)4月の時点で、東京印刷同業組合に加入している活版印刷業者の届け出による印刷機保有台数は、活版四六輪転4台、活版四六全判(32頁掛)ロール106台、活版菊全判(16頁掛)ロール162台、活版四六半裁(8頁掛)ロール105台、活版菊半裁(8頁掛)252台、活版四六四裁(8頁掛)53台、活版フート(足踏)123台、活版ハンド(手引)351台となっている。

この内、東京築地活版製造所の製品がどれだけ入っているか判らないが、順調に売り上げを伸ばしていたことは、大正9年(1920)から翌年にかけて月島分工場において建物の新設・増設により、設備の増強がおこなわれていることからも推察できる。

ところが、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で築地の新社屋と共に月島分工場も罹災し、木造工場建屋は焼失してしまった。築地活版製造所としての損失額は150万円に上ったという。

震災前の大正12年(1923)4月に報告された大正11年後期(大正11年10月~大正12年3月)の決算では、総売上高577,697円の内、活版製造事業345,438円(59.8%)、印刷事業203,946円(35.3%)、鉄工事業28,313円(4.9%)であったが、震災後の大正13年前期(大正12年12月~大正13年5月)の決算では、総売上高183,420円の内、活版事業136,220円(74.3%)、印刷事業38,684円(21.1%)、鉄工事業8,516円(4.6%)まで減少した。
これを事業別の前年同期比でみると、総売上高が31.8%にまで落ち込んだのに対して、活版製造事業では39.4%、印刷事業は5.3%、鉄工事業は3.3%まで落ち込んだことが分る。

これは活版製造事業の設備復旧を優先して、印刷事業と鉄工事業は後回しにされた結果と見られる。月島分工場の建物は大正13年(1924)3月に建築着手し、翌年6月に完成しているが、生産を開始した時期については不明である。

社長野村宗十郎は、大正13年(1824)に日本勧業銀行から30万円、その翌年に10万円を借り入れて復旧に努めたが、大正14年(1925)4月に病死した。後任の第5代社長松田精一は、昭和3年(1928)年になって更に10万円を借り受け、合計50万円の銀行負債を負うことになった。

活版印刷機を扱う鉄工部の売上高は、一時向上したが、低迷を続けた。そのため社長野村精一は、昭和3年(1928)12月に月島分工場の設備を縮小し、昭和9年(1934)7月になって月島分工場を廃止し、東京府から借地していた地所の借地権を他者に譲渡している。

これにより、平野富二が活版印刷機の国産化して販売を開始した明治5年(1872)から昭和9年(1934)までの62年間、築地活版製造所の営業品目となっていた活版印刷機は完全に消えることになった。

まとめ
平野富二にとって活版印刷機の製造・販売はあくまでも活字・活版の販売を促進するための手段だった。活版印刷を行う用具として見れば共通であるが、活字・活版の製造と活版印刷機の製造は異質のもので、その製造設備は全く異なるものである。

したがって、活版印刷機の製造をはじめた当初の神田和泉町時代は、細かい手細工を除いて、ほとんどを外部に依存していたが、築地二丁目に移転してからは金属加工機械を輸入して活版の製造と印刷に用いられる諸々の器械・器具の製造を兼ねて自社内での生産体制を整えた。

しかし、活版印刷機の製造に必要な鋳造設備や鍛冶設備が無いため、小物部品は街の鋳物師や鍛冶師に外注し、大物部品は石川島造船所に鋳造・加工を依頼していた。

明治9年(1976)になって、平野富二が杉山徳三郎の経営する横浜製鉄所に経営参加すると、横浜製鉄所で活版印刷機の製造をおこなうようになった。しかし、同じ年の内に平野富二が海軍省から旧石川島造船所の跡地を借り受けて石川島平野造船所を設立したのに伴い、築地活版所にあった印刷機部門と製造設備を石川島造船所構内に移転させた。当初、石川島造船所には機械加工設備がなかったため、築地から移転させた設備を使用して船舶用機器の製造もおこなった。

平野富二にとっては、活版印刷機の製造は一般産業機械の製造の一環としておこなわれるものであって、活版印刷機専用の製造設備を保有することは無駄で、勿体ないと思っていたに違いない。このような製造設備があれば、船舶用は言うに及ばす、他の一般産業分野で必要とする機械。器具類を製造して、広くわが国の産業発展に寄与できると考えていたと思われる。

平野富二は、江戸の職人たった者たちを積極的に雇用し、また、築地活版製造所で技術を身につけた従業員の退社に際して、その技術を生かして独立するよう支援している。これも、わが国産業発展の基盤とすることを意図したものと見られる。

東京築地活版製造所における活版製造と活版印刷機製造の営業上の位置付けを見ると、株式組織となった明治18年(1885)の売上高は活字類が23,521円(80%)に対して5,750円(20%)にすぎない。活字の売上高が圧倒的に高いことは後年になっても変わらず、活版印刷機の売上高比率はむしろ低下している。

東京築地活版製造所は、明治9年(1876)に築地にあった印刷機製造設備を石川島に移設して以来、第4代社長名村泰蔵が計画・建設した月島分工場が完成した明治40年(1907)まで、自社内に印刷機の製造設備を持つことは無かった。

名村泰蔵が活版印刷機の自社内製造を決意した背景には、大阪活版製造所での事業整理による印刷機製造部門の廃止があるが、新聞・雑誌類の発行部数が大きく伸びて大型印刷機の需要が増大したこと、高いレベルにある自社の印刷技術を印刷機に反映させることができることを念頭に置いたと見られる。

しかし、明治後期から大正にかけて、世の中の動きは活版をそのまま使用する活版印刷機の時代から、輪転印刷機、オフセット印刷機の時代へと移行しつつあった。

東京築地活版製造所では、活字・活版の製造・販売を主業務としていたため、活版印刷機の製造・販売にこだわって、活版をそのまま使用することのない輪転印刷機や平版に属するオフセット印刷機の製造については関心を示さなかった。

関東大震災による罹災から復旧はしたものの、印刷分野の技術革新に乗り遅れたこともあって、活版印刷機の受注は伸びず、昭和9年(1934)になって月島分工場は廃止されるにいたった。その4年後に伝統ある東京築地活版製造所は解散に追い込まれた。

昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において代表取締役社長に指名された松田一郎は、その場で会社解散を提議し、株主総会の承認を得て清算業務に入った。
会社解散を決議した松田一郎は、東京築地活版製造所の最後の社長として、その後の清算業務を無事に実行させることが自らの役割となった。
しかし、どのように清算が行われ、何時、清算を完了して会社解散の届け出を行ったのかは、業界紙誌も沈黙を守っており明らかになっていない。

令和元年11月13日 稿了