地方への活版普及 ー 茂中貞次と宇田川文海

まえがき
平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。

「文部省御用活版所」(後に、「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。

鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜寿記念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪に於ける初期の新聞発行に貢献している。

本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

(1)茂中貞次と鳥山棄三について
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、江戸の本郷新町屋で道具屋を営む伊勢屋市兵衛の次男真平と三男棄三である。

天保11年(1840)生まれの次男真平は、後に茂中貞次と名乗って長崎に赴き、本木昌造の下で活版印刷術を学んだ。文久1年(1861)、22 歳のとき、本木一門の一人としてイギリス人ハンサードから英字新聞の印刷術伝習を受けている。明治3年(1870)、31歳のとき、本木昌造が大阪に「新塾出張活版所」(「大阪活版所」)を開設したことから、店員の一人として大阪に派遣された。

明治4年(1871)10月頃、先に本木昌造が大学から御用を仰せ付けられていた活版所の開設準備のため、平野富二、小幡正蔵と共に上京した。

そのとき、谷中の南泉寺門前にあった百姓屋の土蔵に付属した三畳間を借りて一人暮らしをしていた弟鳥山棄三を訪ねて、10年ぶりの再会を果たした。茂中貞次は32歳、鳥山棄三は24歳だった。

弘化5年(1848)2月生まれの棄三は、母の旧姓である鳥山を名乗っていた。6、7歳ころから草双紙を読むのが大好きな子供で、7歳から3年間、寺子屋で教育を受けた。安政4年(1857)と同5年(1858)に、相次いで母と父を失い、翌年、12歳のときに駒込の養源寺で出家得度した。

文久1年(1861)7月、和尚のお供で湯島からの帰途、暗闇の中で浪人から斬りつけられた。一の太刀で右頬から胸に、二の太刀で左顎を斬りつけられ、手術により一命は取り止めたが、生涯、醜い傷跡が残った。

慶應2年(1866)秋、下総結城の寺に住職見習いとして転住したが、明治1年(1870)になって、廃仏毀釈運動で寺の仕事が行き詰まったため還俗した。

その後、東京に戻って、谷中の南泉寺の門前に一人身を寄せ、東校の講義録の手書き複写を請け負って生計を立てていた。

「文部省御用活版所」が開設されたとき、茂中貞次は「大阪活版所」から転籍して所長小幡正蔵の下で支配人兼技師となり、鳥山棄三は兄の勧めで見習工となった。

「文部省活版所」が、明治5年(1872)9月、正院印書局に吸収合併されて他所に移転したことから、その御用を勤めていた活版所は名称を変えて「小幡活版所」となった。

明治6年(1873)初めの頃、協力者の大坪本左衛門が、平野富二の了解を得て「小幡活版所」を閉鎖し、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立した。小幡正蔵は大坪本左衛門と共に長崎新塾活字の取次販売と活版印刷の営業を始めた。

それに伴い、茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、平野富二の下に残って長崎新塾出張活版製造所で働くことになった。

(2)宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
平野富二の下で働いていた鳥山棄三は、後に宇田川文海と称して文筆家となるが、大正14年(1925)に執筆した自伝『喜壽紀念』に、明治6年(1873)頃の平野富二の言動を記録している。

それによって、平野富二の人柄と共に、部下の能力を見出し、それを育成、指導することに優れていたことが判る。やや長文になるが出来るだけ原文に近い形で紹介する。

「平野富二という人が、これは活字と印刷機械の製造と販売を目的にして、長崎より出京して、大学東校の構内に製造所を設けて、盛んに製造業を営んでいた。この平野君は、本木先生の第一の高弟で、英学が能く出来、なかなかの人物であったが、鳥山々々と云って(私はその頃、母方の姓を名乗り、鳥山棄三と言っていた)私を可愛がってくれていた。」

この文に続いて、秋田県で発行する新聞の活版印刷御用を引き受けるよう平野富二から依頼を受けた次第が述べられているが、これは(3)で後述する。続いて平野富二の言葉が次のように述べられている。

「(私は秋田行きを)固く辞退したが、平野君が頭を振って、『イヤ、そうでない、私はお前の書いたものは読んだことはないが、お前が人と話しているのを聞いたことがある。その話は良く順序が立ち、かつ、解りよく面白く弁じて、しかも自然に文を成していた。あれだけ談話が出来れば、きっと文が書ける。』

『元来、物を言うのも、物を書くのも、心で想っている事の表わし方の相違で、舌で述べるのと、筆で書くのと、方法は異にしているが、心理上から言えば同一の作用である。お前のその舌の力、弁の才の方を応用して、少し熟練さえすれば、きっと心に想う事を、筆に綴って文となすことが出来るようになる。』

『そうして、神は人間を万物の霊長として造られたのだから、人間には不思議な霊力があって、自分で出来ると思って、一心不乱に勉強すればどんな事でも出来る。中国の古賢の言にも、精神一到何事か成らざらん、と云っている。』

『お前が誓ってやる気にさえなれば、必ず新聞記者として職務を果たす事が出来る。その事ならば私が確かに保証するから、その様な弱いことを言わずに、神を信じ自分を頼み、必ずやれると思って行きなさい。』

ここからは、平野富二の文章に対する持論となる。

『西洋は言の国であるから、言が即ち文、文が即ち言、言文一致であるから、思う事をすぐ口に言い、口に言う事を、すぐ筆に綴る事が出来る。日本も元来、ことたまのさちわう国といって、西洋と同じく言語の国であるが、中頃、支那から文字が渡り、その後は思想を表現するのに、言語と文章の両様を応用することに成り、文章は文字で書くようになった。』

『最初は純然たる漢文体を用いたが、次には漢文の変体を用い、また次には雑文体を用い、また次には漢文くずしと、仮名と、両文体を用い、また次には全くの仮名の一体を用いるようになったが、維新以後、今日では便利上日本の言語と、支那の文字を、巧みに交ぜて書く、一種の雑文体を多く用いるが、しかし五年、十年の後には、日本も西洋と同じように、言文一致に近い雑文体の文章で、解りよく物を書いていられる。』

『現に今でも、三田の慶応義塾の福澤諭吉先生などは、あの通り、すこぶる言文一致に近い雑文体の文章で、解りよく物を書いていられる。君も知っているが、読売新聞の鈴木田正雄君は、福澤先生よりもなお一歩進んで、純然たる言文一致の文体を書いて、女子童幼にも読めもするし解りもするので、非常に評判が好い。』

『君の福澤先生や鈴木田君に習って文字で文章を書くなどという、支那風の古い思想を廃して、心に想う事を、すぐ口に言い、口に言う事をすぐ筆に言わせて、西洋風の言文一致の率先者に成りたまへ』と力強く勧められたので、‥‥」

鳥山棄三は、ようやく決心して秋田に出向くことになった。
秋田では地元の有志者により「聚珍社」が設立され、明治7年(1874)2月に『遐邇新聞(かじしんぶん)』が発行されることになるが、本件については(3)で述べることとする。

また、宇田川文海の『喜壽紀念』に述べられた言葉として、『増補 長崎の歴史』(松浦道法著、昭和49年10月)に次のように紹介されている。

「平野先生の主張は、漢文も和文も文語体を尊しとして、言文一致体を軽んする習慣がある。あれでは文運の進歩にどれだけ差支えがあるか。今に見ていたまえ。相当、時日はかかるだろうが、新聞が必ず言文一致体で全紙面を埋める日が来る。だから、かなもじというものを、早くとり上げ、うまく生かした新聞が一ばん栄えるようになるよ、と主張された。」

「また、先生は、いつ読書されるか文学通で、シェークスピア、ディッケンズ、サッカレー、エリオットなどの小説や劇にも通じて居られた。自分はシェークスピアの ”ベニスの商人“ ”ロミオとジュリエット“ などの話を、日本風に翻案してお目にかけると、『面白い、これなら受けよう』といって、朱をいれてもらった。」

「平野先生は、その後、和泉橋の大学東校の構内に御用出版所を創設され、兄の茂中も私もそのお仕事を助けることになった。ほかに神田佐久間町に民営印刷所を経営されていた。ある時、左院から三万五千本の活字注文があり、即座に納められ、昔の江戸活字の四分の一の値だったので、左院はかえって怪しんだが、使ってみると江戸活字の三倍以上もつというので、これが評判となり、本木活字がついに天下を風靡する時代が来た。」

上記の最初の話にある「かなもじ」普及に関して、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、茂中貞次と鳥山棄三が「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった頃の2月中旬、『まいにち ひらがな しんぶんし』(前島密が東京相生橋通神田淡路町二丁目の「啓蒙社」から発兌)が発行されることになり、活字は平野富二の「長崎新塾出張活版製造所」から供給し、その組方として鳥山棄三が派遣されている。

なお、同じ前島密の発案で明治5年(1872)6月に『郵便報知新聞』が日本橋横山町三丁目の書肆泉屋金右衛門から創刊されている。この新聞は、46号までは木版印刷だったが、明治6年(1873)4月発行の47号からは長崎新塾製の4号活字により「大坪活版所」で小幡正蔵が活版印刷を請け負うようになった。

(3)鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
宇田川文海の自伝『喜寿記念』の中で、前項(2)で省略した記述は、鳥山棄三が平野富二の依頼を受けて、秋田で新聞を発行することになった経緯を述べたものである。

ここでは、それを紹介すると共に、秋田における新聞発行について述べる。

「一日の事、この平野君からちょいと来てくれという沙汰があったので、何の用かと思って、すぐに行って見ると、平野君は例のニコニコ笑ひながら、

『今度、秋田県の活版印刷の御用をひきうけて、出張する人があるが、県庁では、印刷の御用をさずける代わり、その副事業として、是非新聞を発行しなければならぬといふ注文。ところが経費の都合で新聞紙の主筆と、活版部の職工長と、二人を雇うことはむづかしいから、一人でこの二役を兼ねる者が欲しいが、是非世話をしてくれといふ困難の相談。』

『そこで私もいろいろ考えて見たが、私の知る限りでは、差し当りお前より外に適任者がないから、是非二役兼ねて行って貰いたい。お前さへ承知なら、茂中君には宜しく頼む』と、意外千万なる相談。私はこれを聞いて驚いた。

『先生の仰せでございますが、御承知の通り、兄の貞次の教えを受けて、活版印刷の事ならば、ひと通りは心得ておりますから、印刷の職工長は、曲りなりにも勤まりましょうが、これで纏まった文章の一篇も書いた事がありませんから、新聞の主筆などはとても出来ません』と固く辞退したが、‥‥‥」

ここからは、先に紹介した平野富二の言葉が長々と述べられている。その後、次のような会話が記述されている。

「‥‥意思の弱い私も之に励まされ、漸くに決心し、『左様ならば、先生のお勧めに従い、神を力にふるってやって見ましょう』と、大胆にも此の重大なる任務を引受けて、家兄の茂中の意見を問うたが、『平野先生が保証され、お前もやって見る決心なら、私も賛成する』との返答。」

「しかし、何分虚弱の身体、秋田の寒気に耐へられるか、どうか、医者の診断を受けるのも必要だと感じたから、茂中の心安い、その頃、有名なドクトルの許に行って、そのことを告げて診察を請うたが、‥‥(中略)‥‥いよいよ決心を定め、病弱不具、無学不文の身をも省みず、大胆にも無謀にも、印刷の職工長と、新聞の主筆の二大任務をおびて、ふるって秋田県へ出張したのは、明治6年(1873)の8月4日、私の26歳の時、」だった。

鳥山棄三が関与した新聞は『遐邇新聞(かじしんぶん)』で、明治7年(1874)2月2日に聚珍社(秋田県下茶町菊ノ町)から発行された。これは秋田県で先駆となる新聞で、全国新聞の中でも最も古いものに属する。第一號は、表紙共9枚二つ折り日本紙の冊子綴りで、活字は四号楷書風と平仮名を使用、編輯者は鳥山棄三、印務者は菅又謙二となっている。

 図24-1 『遐邇新聞』、第一号の表紙
長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三が編輯者となり、

秋田県の聚珍社から発行された。
長崎新塾製の活字が用いられ、漢字は楷書風、ルビは片仮名。
「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」
と記されている。

『秋田市史』(秋田市、平成12年3月31日刊)によると、明治5年(1872)9月、秋田県当局から県民に対して新聞購読の勧めが告諭として出された。これは、二代秋田県令杉孫七郎が県の布告・布達を速やかに周知させる手段として、新聞の購読を勧誘したものとされている。明治6年(1873)3月28日、吉岡十次郎と柴村藤次郎から出された新聞発行願いが許可された。

鳥山棄三の『秋田行日記』(原本は東京大学明治新聞雑誌文庫に所蔵)によると、その前文に、「明治6年8月4日、秋田県ヘ、新聞局ヲ開キ、活字版ヲ、広メン事ヲ依頼サレ、本日出発ス。相伴フ人ハ、吉岡十次郎君、柴村藤次郎君、外壱人、僕ト合セテ四人、家兄吉太郎、真平、千住駅マデ送リ来ル。」と記されている。

秋田県権参事加藤祖一の名前で活版新聞局設置について、明治6年(1873)年9月に出された告諭によると、「(前略)今県下ニ活板新聞局ヲ設ケ、近キハ奥羽ノ新事ヲ、中ハ海内ノ珍説ヲ輯(あつ)メ、遠キハ各国ノ異聞ヲ採リ、善ヲ以テ人ヲ勧ムルニ足リ、悪ヲ以テ懲スルニ足ル者、及ヒ人事ノ得失、物価ノ高低ニ至ルマテ詳細記載シ、以テ文明ノ進歩ヲ助ケントス、(後略)」と述べている。

同年10月5日、柴村藤次郎と吉岡十次郎代理吉岡十五郎の2人から秋田県に届書が提出された。それには、「本年四月中願済相成居「羽後新聞」ノ儀、今般「遐邇新聞」ト題号相改発行仕度候間、其段御届申上候。以上」と書かれている。

つまり、「明治6年(1873)4月に願書を提出してある『羽後新聞』発行について、今般、『遐邇新聞』と改題して発行したいのでお届け申上げます。」と述べている。
なお、「遐邇」とは「遠近」を意味する。これは、同年9月に出された告諭を受けて改題したと見られる。

その後、鳥山棄三が秋田を去ることになった経緯について、再び『喜壽紀念』から引用する。

「私は秋田の活版所へ、2年の約束で行って、明治6年の秋から8年の秋まで、首尾よく勤めたので、是非今1年働いてくれと依頼されたが、この時、兄の茂中貞次が、兵庫県の活版印刷の御用を勤め、傍ら神戸新聞(『神戸港新聞』)を発行していたので是非帰って援けろと、再三やかましく言ってくるので、兄弟の誼(よしみ)として辞するに由なく、約束通り秋田の活版所を辞して、その年の秋の末に神戸に行き、神戸新聞の記者と成った。」

(4)茂中貞次による地方への活版印刷普及
茂中貞次は、「文部省御用活版所」で支配人と技師を兼ねて活字販売と印刷請負いを行っていたが、印刷業の発展こそが時代の要求に応えるものだと自覚し、自ら率先して地方の府県を奔走して活版印刷の宣伝を行っていた。

明治4年(1871)11月20日に兵庫県令として赴任した神田孝平(かんだたかひら)は、政府の新聞発行奨励策により、積極的な働きかけを行なった。このとき、地方府県庁を訪問して活版印刷の宣伝をしていた茂中貞次がこれに協力し、明治5年(1872)5月、『神戸港新聞(こうべみなとしんぶん)』が創刊された。この新聞発行には、淡路出身の三木善八(後の報知新聞社長)らが呼ばれて編集・発行に参加した。

その後、茂中貞次は鳥取県庁に呼ばれて、布告などの活版印刷を行なうことになった。そのことについて、宇田川文海の『喜壽紀念』では次のように述べている。

「その年(明治6年)10月頃、『鳥取県庁に於いて、活字と機械を買い入れ、印刷教授の技師1名を招きたいという事であるが、かねて君の希望を聞いているからお知らせするが、行ってはどうか、』という相談が、平野君から茂中にあった。」

「茂中貞次は幸いに、同県の官吏に知人があったので、すみやかに承諾して東京の文部省御用活版所を辞し、活字と器械を携へて同県に至り、県庁の布告やその他の印刷をする余力を以て、広く民間の用をも達して、活版印刷の便を人に知らせ、1年以上働いたが、長く1ヶ所に居るのは自分の志ではないから、翌7年10月に、兵庫県の神戸に出、県庁の最寄りに活版所を開き、県庁およびその他の印刷の注文に応じ、傍ら「神戸港新聞」を発行した。」

このように、茂中貞次は、鳥取県庁で明治6年(1873)10月から約1年間働いたが、明治7年(1874)10月、神戸からの誘いを受けて兵庫県庁近くに御用活版所を開いて、県庁を主とした印刷の注文に応じると共に、『神戸港新聞』の発行も引き受けた。

このことは、これまで兵庫県の県庁内に直営活版所を設け、淡路出身で弱冠17、8歳の三木善八(後の報知新聞社長)らに『神戸港新聞』を編集・発行させていたが、活版所を県庁直営から民営に切り替えるために茂中貞次が呼ばれたと見られる。

茂中貞次が引き継いだ『神戸港新聞』は、当初は不定期刊で、週2回から隔日刊行となっていたが、これを日刊とした。明治8年(1875)10月、秋田で2年間の任期を終えた弟鳥山棄三を神戸に呼び寄せ、『神戸港新聞』の記者として筆を振るわせた。主筆は関徳(後の朝日新聞創業記者の一人)、同僚に赤荻文平、浮川福平が居た。

この頃、三木善八は既に『神戸港新聞』を去っていたと見られる。明治10年3月には淡路島で『淡路新聞』(社主:安倍喜平)の創刊に関わっており、このとき、東京築地活版製造所に居た同郷の曲田成が活版設備を納入し、印刷指導を行った。

明治9年(1876)9月になって兵庫県令が神田孝平から森岡昌純に代わったことにより、『神戸港新聞』は県庁の支援が得られなくなった。そのため、同年11月で廃刊となった。しかし、鳥山棄三が主体となって明治8年(1875)12月10日に大阪で発行された『浪華新聞』の印刷は、神戸で茂中貞次により行われた。

茂中貞次は、もと在籍していた大阪活版所とも連絡を取りながら、鳥山棄三の大阪における新聞発行に協力していたが、その後の動向は明らかではない。

一方、鳥山棄三は、その後、兄茂中貞次の勧めで『大阪新聞』に入社し、雑報の主任となった。さらに、『大阪新聞』から『魁新聞』、『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』へと転任した。

(4)茂中貞次による地方への活版印刷普及
茂中貞次は、「文部省御用活版所」で支配人と技師を兼ねて活字販売と印刷請負いを行っていたが、印刷業の発展こそが時代の要求に応えるものだと自覚し、自ら率先して地方の府県を奔走して活版印刷の宣伝を行っていた。

明治4年(1871)11月20日に兵庫県令として赴任した神田孝平(かんだたかひら)は、政府の新聞発行奨励策により、積極的な働きかけを行なった。このとき、地方府県庁を訪問して活版印刷の宣伝をしていた茂中貞次がこれに協力し、明治5年(1872)5月、『神戸港新聞(こうべみなとしんぶん)』が創刊された。この新聞発行には、淡路出身の三木善八(後の報知新聞社長)らが呼ばれて編集・発行に参加した。

その後、茂中貞次は鳥取県庁に呼ばれて、布告などの活版印刷を行なうことになった。そのことについて、宇田川文海の『喜壽紀念』では次のように述べている。

「その年(明治6年)10月頃、『鳥取県庁に於いて、活字と機械を買い入れ、印刷教授の技師1名を招きたいという事であるが、かねて君の希望を聞いているからお知らせするが、行ってはどうか、』という相談が、平野君から茂中にあった。」

「茂中貞次は幸いに、同県の官吏に知人があったので、すみやかに承諾して東京の文部省御用活版所を辞し、活字と器械を携へて同県に至り、県庁の布告やその他の印刷をする余力を以て、広く民間の用をも達して、活版印刷の便を人に知らせ、1年以上働いたが、長く1ヶ所に居るのは自分の志ではないから、翌7年10月に、兵庫県の神戸に出、県庁の最寄りに活版所を開き、県庁およびその他の印刷の注文に応じ、傍ら「神戸港新聞」を発行した。」

このように、茂中貞次は、鳥取県庁で明治6年(1873)10月から約1年間働いたが、明治7年(1874)10月、神戸からの誘いを受けて兵庫県庁近くに御用活版所を開いて、県庁を主とした印刷の注文に応じると共に、『神戸港新聞』の発行も引き受けた。

このことは、これまで兵庫県の県庁内に直営活版所を設け、淡路出身で弱冠17、8歳の三木善八(後の報知新聞社長)らに『神戸港新聞』を編集・発行させていたが、活版所を県庁直営から民営に切り替えるために茂中貞次が呼ばれたと見られる。

茂中貞次が引き継いだ『神戸港新聞』は、当初は不定期刊で、週2回から隔日刊行となっていたが、これを日刊とした。明治8年(1875)10月、秋田で2年間の任期を終えた弟鳥山棄三を神戸に呼び寄せ、『神戸港新聞』の記者として筆を振るわせた。主筆は関徳(後の朝日新聞創業記者の一人)、同僚に赤荻文平、浮川福平が居た。

この頃、三木善八は既に『神戸港新聞』を去っていたと見られる。明治10年3月には淡路島で『淡路新聞』(社主:安倍喜平)の創刊に関わっており、このとき、東京築地活版製造所に居た同郷の曲田成が活版設備を納入し、印刷指導を行った。

明治9年(1876)9月になって兵庫県令が神田孝平から森岡昌純に代わったことにより、『神戸港新聞』は県庁の支援が得られなくなった。そのため、同年11月で廃刊となった。しかし、鳥山棄三が主体となって明治8年(1875)12月10日に大阪で発行された『浪華新聞』の印刷は、神戸で茂中貞次により行われた。

茂中貞次は、もと在籍していた大阪活版所とも連絡を取りながら、鳥山棄三の大阪における新聞発行に協力していたが、その後の動向は明らかではない。

一方、鳥山棄三は、その後、兄茂中貞次の勧めで『大阪新聞』に入社し、雑報の主任となった。さらに、『大阪新聞』から『魁新聞』、『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』へと転任した。

図24-2 宇田川文海の紹介絵図
この絵図は隅田了古編集『新聞記者奇行伝 初編』に掲載されている。

画家は鮮斎永濯で、説明文に合わせた想像図としている。
「坂地は繰觚者に乏しきが故に野史・雑誌・戯場・評判記に至るまで
皆君が手に成ざるもの稀なり」と述べている。
顎の傷跡を隠すため、人前では口から下を布で覆っている。

とくに、明治14年(1881)9月に大阪朝日新聞社に入社して以降は、新聞連載小説に健筆を振るい、大阪に於ける代表的新聞連載小説家となった。筆名は宇田川文海、半痂居士、宇田川半痂。昭和5年(1930)1月、大阪住吉町の自宅で没した。享年83。

まとめ
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、後に文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。

現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。

2019年3月31日 稿了