本木昌造の活版事業

平野富二を語る上に於いて、本木昌造の活版事業を欠かすことはできない。今まで、本木昌造の研究として多くの研究者がその活版事業について調査研究し、各種報告がなされている。しかし、その事業化に至る経緯は依然として不明確なことが多い。

ここでは、新しい知見や推測を織り込みながら、その全貌を纏めてみたが、未だ完全解明には至っていない。。

(1)活版研究の取り組み
本木昌造は、弘化3年(1846)の頃、緻密に整然と印刷されたオランダ書籍を見て、わが国でもこのような印刷による書籍を造りたいと研究を始めたと云う。丁度この頃、後に本木昌造のこの分野における後継者となる平野富二(幼名、矢次富次郎)が生まれている。

図18-1 晩年の本木昌造
《古賀十二郎著『本木昌造先生略伝』より》
明治7年か同8年に上京したとき、浅草の内田九一写真館で撮影した。

嘉永1年(1847)、オランダから舶来した蘭書植字判1式が長崎会所に保管されているのを見つけ、オランダ通詞仲間4人で借り受け、12月になって代金を払って買い受けた。その設備を、品川藤兵衛の屋敷に持ち込み、活版印刷の研究を行った。その仲間は、北村元助(45歳)、品川藤兵衛(39歳)、楢林定一郎(28歳、量一郎)と、一番若くて熱心だった本木昌造(23歳)と記録されている。なお、年令は数え年で示す。

数年間、調査研究した結果、西洋の印行術と上海の鉛字、わが国の組版などを比較折衷してガラフハニー(galvani、オランダ語の発音;電気メッキ)版で活字母型を造り、手鋳込器を用いて鉛活字を鋳造し、嘉永5年(1852)の頃、『蘭和対訳辞書』を印刷して、これをオランダに送ったとする伝聞が平野富二によって記録されている。しかし、この伝聞は時期の異なる事柄を集約したと見られ、このまま受け取ることはできない。

嘉永6年(1853)7月、ロシア使節プチャーチンの長崎来航と、それに続くアメリカ使節ペリーの浦賀沖来港で江戸と伊豆を往復するなど、安政2年(1855)4月に病気を理由として長崎に戻るまでの約2年間は、公務多忙で長崎を離れた期間も長く、活版印刷の研究を行うことは出来なかったと見られる。

安政2年(1855)8月、長崎奉行は西役所に活字判摺立所を設けて、オランダ書籍の復刻印刷を行うこととした。オランダ通詞4人の所有する蘭書植字判1式は買い上げられ、本木昌造は推薦を受けて活字判摺立方取扱掛に任命された。

同年12月には、他のオランダ通詞たちと共にオランダ商館長ドンケル・クルチウスと医師ファン・デン・ブルックから物理・化学などの学習を命じられた。このとき、本木昌造は電気メッキ法などの最新技術も知識として学んだと見られる。そのとき学習したテキストに基づき自ら実験した結果を後述する『新塾餘談』に掲載している。

安政4年(1857)5月、蘭書・器物売り捌き事件に連座して処罰された。翌年2月末に自宅謹慎の身となり、11月末に許されて自由の身となるまでの9ヶ月間、自宅で密かに活版研究を進めると共に、わが国の近代化を果たすために必要な青少年の基礎教育について構想を練っていた。

自宅謹慎の身となる直前の安政4年(1857)3月28日に長男昌太郎が夭逝し、自宅謹慎中の7月12日には妻縫が21歳の若さで病没した。なお、前年9月18日に次男小太郎が生まれている。その後、時期は定かでないが、本木昌造は病没した妻の母方の従妹タネを後妻として再婚した。

自宅謹慎を解かれた本木昌造は、活版師インデルマウルが運営する出島印刷所の通詞兼目付役に任命された。インデルマウルは長崎海軍伝習所の第二次オランダ教師団の一員として来日していた。ここでは、日本人の印刷見習工によりロール印刷機を用いてオランダ書籍の復刻が行われた。

このとき、本木昌造はインデルマウルから西欧の最新活版印刷技術を直接学んだと見られる。手元にある鉛活字を用いて電気メッキ法を応用し、同じ活字を複製する方法は既にオランダでも実用化されていたと見られる。

なお、本木昌造が活字判摺立方取扱掛となっていた活字判摺立所は、江戸町の五ヶ所宿老会所に移転した後、廃止されて、印刷設備は奉行所倉庫に保管されていた。

(2)事業化の試み
本木昌造は、自宅謹慎中に行った独自の研究と出島活版所でインデルマウルから教えて貰った事柄を織り込んで、安政6年(1859)12月に『和英商賈対話集 初編』(発行人塩田幸八)を出版した。それは、安政4年(1857)に長崎活字判摺立所で覆刻出版したオランダの『英文典初歩』から主要会話を抜き出し、オランダ会話の部分を和訳したものである。英文とその発音を示すカタカナはパンチ母型による鋳造鉛活字を用い、和文は木版を用いて印刷したものと見られ、漢字と平仮名の活字は未だ世に出すには至らなかったと見られる。

万延1年(1860)10月に出版した『蕃語小引 上下巻』(増永文治・内田作五郎名義)は、上巻の凡例に続けて「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今新ニ製スル所ニシテ 未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ヲ希フ」と記されている。漢字は蝋型電胎母型によると見られる鋳造活字を用いて印刷されている。

図18-2 『蕃語小引』の一部

いまだ満足の出来る鋳造漢字活字ではなかったが、実用化の目途のついた段階で、その成果を世に問うものであったと見られる。その意味で、これが本木昌造の永年の夢であった活版事業の最初の試みと見ることができる。なお、このときの活字試作や組版作業には、本木昌造を慕う若者たちが本木一門として協力したと見られる。

長崎奉行所の地役人としてオランダ通詞を勤める本木昌造は、書籍を出版して販売するような商行為は認められていなかった。そのため、自分の名前を出すことは出来ず、出入りの商人に依頼して出版届を提出し、発行したと見られる。

本木昌造は、上海において同様の技法で漢字活字を製造しているとの情報を得て、その製造法を学ばせるため、万延1年(1860)に門人松林源蔵を上海に派遣したが、空しく帰国したと云う。上海では、在中国アメリカ長老会印刷所が寧波から移転したばかりであり、しかも、蝋型電胎法により漢字の活字母型を造り始めたばかりの頃であったことを考慮する必要がある。

ところが、同年11月、本木昌造は長崎飽の浦で建設中だった長崎製鉄所の御用掛に任命された。そのため、緒に就いたばかりの活版事業を中断せざるを得なくなった。

しかし、文久1年(1861)5月、長崎居留地滞在のイギリス人ハンサードが日本で初めての英字新聞を発行するとき、本木一門の若者たちが、伝習を兼ねて手伝いのため英字新聞の発行に協力した。その中に陽其二や平野富二の名前もある。

慶應4年(1868)1月14日、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗退したとの報に接した長崎奉行が、長崎を退去するに当たり、本木昌造に製鉄所取扱方を任命し、長崎製鉄所の経営を一任した。長崎製鉄所は、同年5月4日、新政府の下で長崎府に移管された。この頃、本木昌造は長崎府に新聞局を設置することを建議したと見られる。同年7月24日には長崎製鉄所の頭取に任命されている。

同年8月、長崎新聞局から『崎陽雑報』が発行された。これは鋳造活字による活版印刷を計画していたが、木活字で間に合わせたと見られる。鋳造活字の製造が思うように進まないため、同年9月には政府の許可を得て上海美華書館に活字母型と関連設備1式を購入手配している。しかし、実際に購入したかどうかは不明である。

いつまでも思うような品質の鋳造活字を迅速に製造することができないため、上海美華書館の責任者ギャンブルが任期を終えてアメリカに帰国する機会を捉えて、長崎興善町の唐通事会所跡を伝習所として迅速活版製造技術の伝習(明治2年10月から翌年2月末まで)が行われた。

(3)活版事業の本格化
本木昌造は、明治2年(1869)8月に、病気を理由に長崎製鉄所の頭取辞任を申し出て以降、長崎製鉄所に出社しなかったという。9月になって、頭取辞任が認められて、代わりに閑職を与えられた。10月になって、ギャンブル伝習に協力するよう要請を受けたため、一門の者たちと共に伝習に参加して協力した。伝習を終えた明治3年(1870)2月末に、本木昌造は長崎製鉄所を正式に退職した。

頭取辞任を申し出て以降、本木昌造は、公職を離れて独自に活版事業を本格化させる準備として、多大の資産を投入して活版印刷を行うための印刷器械類を購入している。

明治2年(1869)9月頃と見られるが、友人の池原香稺の紹介で鹿児島を訪れ、薩摩藩の活版所を視察している。このとき、活用されずに保管されたままになっている和洋活字各1組と活版印刷機(ワシントンプレス)1台を譲り受けた。

図18-3 同型と見られるワシントンプレス
門型支柱に取り付けられた2本のスプリングによって
中央の圧盤を吊っており、レバーを引くことによって
中央のエルボーを経由して圧盤が押下げられる構造を特徴とする。

薩摩藩活版所の設備は、慶應4年(1868)6月に同藩の学生前田正名が上海から和英辞書(通称『薩摩辞書』)の数ページ分の摺り見本を持って資金集めのために帰国し、同藩の重野厚之丞(安繹)に見せたところ、重野厚之丞はその仕上がりに感心して、印刷設備一式を上海美華書館から購入して薩摩藩に活版所を設けることになった。

丁度この頃、五代才助(友厚)が通訳兼手代として雇っていた堀壮十郎(孝之)に和英辞書(ウエブスター大辞書を底本とする)を編集させていた。これを薩摩藩で印刷し、出版することとしたものである。

薩摩藩の和洋活字一式と印刷機は、明治2年(1869)2月に、再渡航した前田正名が上海から帰国する際、一緒に携行して来たと見られる。しかし、活字を印刷版に組む知識もなく、印刷機を組立てて使用する技術もないため、和英辞書の出版は棚上げにされた。

本木昌造は、長崎外浦町の自宅の一隅に活字と印刷機を持ち込み、門人陽其二と二人で、昼夜を分かたず、研究に取り組んだという。また、このとき、活字母型の製造法を学ばせるため、門人酒井三造を上海に派遣したとの伝聞がある。しかし、この伝聞は、当時すでにギャンブルを上海から長崎に招聘して伝習を受ける計画が進められていた頃であるので、誤伝と見られる。

ギャンブルの伝習を終了した明治3年(1870)2月末日をもって、本木昌造は長崎製鉄所を正式に退職した。その後は、ギャンブルの伝習によって得られた新知識を取り入れて蝋型電胎法による活字母型の製造に取り掛かった。

上海美華書館の明朝風漢字書体に加えて、新たに清朝風(楷書体)と和洋(行書体)の漢字と古典仮名の活字を製造するため池原香稺に揮毫を依頼した。当時の文章は、和洋漢字と古典仮名まじりが一般的であることを配慮したものと見られる。(図18-5 を参照)

また、大々的に多様の印刷物を出版するため、薩摩藩から譲り受けた印刷機をもとに、模造印刷機3台の製作を長崎製鉄所に依頼した。

さらに、同じ頃、上海美華書館に注文していたロール印刷機1台を買い求めた。これは、明治2年(1869)4月に本木昌造が新聞発行を目的として上海美華書館に4,000ドル相当の印刷機と関連設備の見積を依頼していたものであると見られる。購入した印刷機は、紙取付の無い四六判八頁掛けのロール印刷機(シリンダープレス)とされている。

図18-4 同型のロール印刷機
《東京築地活版製造所『活字と機械』、大正3年6月より》
上部にある円筒に印刷用紙を巻き付け、

その下で左右に往復する台車上の印刷版の動きと同期して
回転することによって印刷する。
手前右側の筒は、インキ塗布用の印刷用ローラー鋳型である。

(4)活版所の設立と中央への展開
明治3年(1870)3月、本木昌造は新町活版所を新街私塾に併設して開業した。ここでは、教科書・参考書・教養書などを活版で印刷し、広く一般にも販売することとした。

新街私塾では、もと地役人の子弟などを受入れ、その道の専門家を教師とし、本木昌造の方針で入学金などは無料とした。その経費を賄うために、私塾に付属させて新町活版所を設け、活版事業によって得られた収益を充てることにした。

活版事業を開始するに当たって、友人・知人に協力を仰ぎ、松田源五郎・品川藤十郎・和田半がそれぞれ1,000両、島田茂次郎・和田粂造がそれぞれ500両、合計4,000両を提供した。また、坂道を隔てた隣接地の小倉藩蔵屋敷跡を和田半から提供を受け、ここに活字鋳造場を設けて新町活版所に活字を供給した。この頃、本木昌造は、すでに本木家の財産として3万両余りをほとんど使い盡していたという。

本木昌造が鋳造活字の開発に成功し、長崎に本格的な活版所を開いたことが世間に知れ渡り、大阪、横浜、東京などから活版所の設立要請を受けるようになった。

まず、五代才助(友厚、すでに官途を辞し、大阪財界に身を投じる決意をしていた。)の要請により、明治3年(1870)4月頃、大阪大手筋折屋町に活版所を設立した。設立に当たって、五代才助から3,000円の融資を受けた。長崎から門人の酒井三造、小幡正蔵、谷口黙次、茂中貞次らを派遣して、それぞれ所長、所長代理、店員に据え、地元の薬種問屋長崎屋吉田宗三郎を支配人とした。

次いで、同じく明治3年(1870)4月頃、神奈川県令井関盛艮の要請を受けて、わが国最初の日刊新聞発行のため、門人陽其二を横浜に派遣した。陽其二は、横浜出資者の資金を得て横浜本町通り六丁目に横浜活版社を設立し、明治3年(1870)12月8日付け『横浜毎日新聞』を印刷・発行した。しかし、創刊号は鋳造活字が間に合わず、しばらくの間、木活字混用だった。

明治3年(1870)12月には、京都在住の山鹿善兵衛(父親が本木昌造の弟子だった。)の要請により、門人古川種次郎を派遣して、京都烏丸通三条上ルの地に點林堂を開設させた。後に大阪活版所の支店となる。

明治4年(1871)6月、本木昌造が東京に出張したとき、芝神明前の書肆仲間と活版所設立を計画した。この計画は、後に平野富二が東京出張のとき、本木昌造に代わって事情を説明し、計画中止を申し入れたと見られる。そのとき、平野富二は一書肆(和泉屋岡田吉兵衛)の紹介で太政官左院に活字数万個の注文に成功している。

同じ頃、本木昌造は大学・東南校の活字御用を仰せ付けられ、外神田の藤堂和泉守上屋敷跡に残された門長屋の一室と付属地所を借り受けて活版所を開くことになった。

本木昌造は、このように次々と活版事業の展開を図っていたが、肝心の活字製造が思うようにいかず、健康不安も手伝って、大きな壁に突き当たっていた。頼みとする主だった門弟たちを中央に送り出し、途方に暮れていたとき、今となっては長崎製鉄所を辞任した平野富二に頼むしかないと決意した。

明治4年(1871)7月、本木昌造は、平野富二を自宅に招いて活字製造部門の改革を依頼し、その経営を一任した。このとき、平野富二は、上海美華書館の事業運営を参考にたらしく、印刷出版事業と活字製造事業とを分離することとした。これにより、印刷出版事業を全国に展開して独占的に収益をえるという本木昌造の当初の方針を転換して、活字製造を一つの事業として独立させ、一般需要家にも活字を販売して収益を得ることとした。独立した活字製造部門は「新塾活字製造所」と命名した。

明治4年(1871)7月以降、本木昌造は新街私塾・新町活版所と大阪活版所の経営に専念することとなった。

平野富二が本木昌造から活字製造部門の経営を引受け、抜本的な改革を実行したことにより、わずか2ヶ月後には、ほぼ満足できる品質の活字を廉価に安定して製造することができる見込みがついた。

そこで、平野富二は大阪を経由して東京に出張し、本木昌造が抱えていた大阪と東京における懸案事項を解決し、併せて新塾活字(本木活字)の販売と需要調査を行い、好結果を得て長崎に戻った。

本木昌造は、ほぼ満足できる品質の活字が製造できるようになったので、これを期に語学抄集書6種の出版届を長崎県令に宛てて提出している。以後、教科書・参考書・教養書の出版届を相次いで提出している。

また、『新塾餘談』と題したシリーズ物の教養書を小冊子で出版開始した。明治5年(1872)2月に初編一から初編三を相次いで出版し、4月には初編四を出版している。いずれも巻末に新塾活字製造所の広告を掲載している。

図18-5 『新塾餘談 初編一』の「緒言」
完成した和様(行書体)漢字と万葉仮名の三号活字を用いている。
なお、本文は明朝風漢字と万葉仮名の四号活字で印刷している。
巻末に掲載された新塾活字製造所の広告は、
別シリーズの「東京築地活版製造所 歴代社長列伝 初代平野富二」
に掲載した図1-2を参照されたい。

本木昌造が本木咲三の名前で誌した「緒言」には、「近ごろ、私が製する所の活字がほぼ完成したので、このたび、取り急ぎ筆を執り‥‥」と述べている。また、巻末の広告には、「口上」として「この頃、印刷見本の通り活字が完成し、カタカナ、ひらがな共、大小数種あるので、ご希望の方には売却できます。右の他に字体・大小などお好みの通り製造できます。」としている。

この『新塾餘談 初編』は、西洋の新知識による各種加工法や製造法を紹介したもので、文久2年(1862)秋に整版で出版した『秘事新書』の続編に相当する内容が紹介されている。「初編二」には、ガルファニ鍍金銀の法、銅を以て器物を模する法が掲載され、「初編三」には、型の製法、「初編四」には、ガクファニ蝋着の法が紹介されている。これらは、本木昌造が活字製造の基礎とした諸法と見られる。

このように、活字による出版を積極的に行うようになったことは、本木昌造にとって念願の活版事業を本格的に展開することが出来るようになったことを示すものである。

(5)私塾の経営
大村藩の医師長與専斎は、英語の学習を思い立ち、自宅謹慎中の本木昌造をしばしば訪れた。そのとき、余暇に学塾を開くことを勧められ、文久1年(1861)になって本木昌造の貸家を借り受けて住居とし、10名ばかりの諸生を集めて、毎夜、適塾風の輪講を始めた。このことは自伝『松香私志』に記述されている。

本木昌造は、慶應年間に「新町塾」を開設したが、長崎製鉄所頭取と云う公職があって多忙なため、陽其二を塾長とし、自身は副塾長となったとの言い伝えがある。「新塾変則入門願書綴込」によると、最初の入門願書は明治元年(慶應4年)正月11日となっている。慶應4年(1868)8月になって、新町の長州藩蔵屋敷跡にあった広運館(もと語学所、済美館)が西役所に移転したことから、その跡地を校舎ごと買い受け、移転して「新町塾」と称したと見られる。

明治2年(1869)11月15日、「新町塾」は、規則を定めて正式に開塾し、「新街私塾」(略して「新塾」)と改称した。

ガンブル伝習の結果として、明治3年(1870)4月に初めて造った二号活字を用いて、塾生の教科書『保建大記』(保元から建久までの記録を大記した歴史教科書)を活版印刷した。同年中には、二号活字の倍角として本木昌造が創作した初号活字を用いて教科書『単語篇 上』を印刷している。また、『論語』も印刷を試みたが、活字不足で中止されたと云う。

先に述べたように、明治5年(1872)2月には、塾生向けの読み物として『新塾餘談 初編一』を発行し、同年8月までに『新塾餘談 三編』を刊行している。

私塾経営とは外れるが、明治5年(1872)には本木昌造は養父母を相次いで失った。養父本木昌左衛門久美(戸籍上は昌栄)は6月7日、72歳で病没、養母たまは12月27日、59歳で病没した。本木昌左衛門は、すでに、孫の小太郎を養子として家督を譲り、隠居の身となっていた。

明治5年(1872)8月に学制が公布された結果、小学校下等4年間の就学が義務化された。明治6年(1873)1月15日、本木昌造は法令に基づき私塾開業願書を長崎県令に提出したが受理されず、同年11月、再び願書を提出。明治7年(1874)1月に重ねて私塾開業願書を提出したところ、無免許教員による授業は認められないと通告された。

同年5月には、上京して新築成った築地活版製造所の視察を兼ねて、東京に於ける私塾経営の現状を調査し、長崎県庁が国の定めた一律の教科以外は認めないことを非難して文部省に訴え出た。その結果、ようやく、同年11月17日、文部省の指示により長崎県から私塾設立の認可を得ることができた。

このように、本木昌造は、平野富二に活版製造事業を一任して以降は、専ら、教育事業に注力していたことが覗える。

(6)本木昌造没後の活版事業
明治8年(1875)9月3日、本木昌造は長崎の自宅で死去した。享年52.残された遺族は後妻タネ、次男(嫡子)小太郎(19歳)、三男清次郎(12歳)、四男昌三郎(10歳)だった。

〔新街私塾〕
新街私塾は、そこで教師をしていた嫡子本木小太郎が塾長を継いだが、すでに明治5年(1872)に学制が公布されて公立小学校が設置された今日となっては、私塾としての存在意義も薄れたとして、明治8年(1875)限りで閉鎖することとした。塾の予備金100円余りは県下小学校の学費に供するため長崎県庁に献納した。

〔新町活版所〕
新町活版所は、嫡子本木小太郎が跡を継ぎ、境賢治が中心となって経営を支えた。明治27年(1894)5月から翌28年(1895)9月にかけて、長崎古文書出版会編纂の『長崎叢書』、全9巻を刊行したのを最後に、新町活版所は解散したとされている。境賢治は本五島町に境活版所を、喜多庄太郎は今町に愛文舎喜多活版所を設けた。喜多庄太郎(璋太欧)は、本木昌造が造ったとされる木活字(種字)と鋳造器具一式(合計4箱)を長崎諏訪神社に奉納した。

〔崎陽新塾出張活版所(大阪)⇒ 大阪 活版所⇒ 大阪活版製造所〕
大阪 活版所は、嫡子本木小太郎が跡を継ぎ、所長谷口黙次、支配人吉田宗三郎が経営を支えた。明治11年(1878)に大阪東区北九太郎町2丁目に移転し、活版製造所と改称した。

明治18年(1885)4月になって、本木家から独立させて株式組織とすることとなり、同年6月頃、株主総会で本木小太郎が社長に選任された。しかし、本木小太郎が長期海外出張中のため、同年10月、社長谷口黙次、取締役酒井三造、取締役肥塚與八郎、支配人吉田宗三郎に経営が一任され、社名を大坂活版製造所とした。

明治33年(1900)1月、社長谷口黙次が死去したため、吉田宗三郎が社長に就任した。明治35年(1902)6月、吉田宗三郎が死去したことにより、肥塚源次郎が社長に就任した。

明治45年(1912)になって、大阪活版製造所は閉鎖され、谷口黙次(2代目)が谷口活版所(北区堂島裏3丁目)を設立して、その跡を継いだ。

〔京都點林堂〕
山鹿善兵衛とその子息たちが経営を受け継ぎ、大正12年(1923)に50周年を機会に合資組織に改め、伊東幸祐が代表社員となった。昭和45年(1970)頃までは存続していた記録があるが、それ以降は不明。

〔横浜活版社〕
陽其二は、明治6年(1873)2月、横浜仲通り3丁目に仲間(親戚)と共に景諦社を設立し、同年5月、横浜活版社を閉鎖して横浜毎日新聞会社に譲渡した。

〔文部省御用活版所〕
明治5年(1872)9月に文部省活版所(文部省編集寮活版部)が廃止されたため、小幡活版所と改称したが、明治6年(1873)になって、所長小幡正蔵は、平野富二の了解を得て独立し、協力者だった大坪本左衛門と共に湯島嬬恋坂下に大坪活版所を設立して移転した。

〔崎陽新塾出張活版製造所(東京)⇒ 東京築地活版製造所〕
本件については、別シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長列伝」で述べることとする。

2018年7月31日 稿了

山尾庸三と長崎製鉄所

山尾庸三については、すでに本シリーズの「官営時代の長崎製鉄所(その2)」(2018年2月)で触れているが。本稿では、山尾庸三が長崎製鉄所と関りを持つようになった経緯を述べ、山尾庸三の略歴を紹介した後、長崎新聞局の活版製造設備を工部省に移管した経緯について、やや詳しく述べる。

1)山尾庸三と長崎製鉄所との関わり
山尾庸三が、明治4年(1871)1月7日の夜、長崎に到着して、9日から長崎製鉄所に出向いて帳簿調査を行い、平野富次郎が長崎製鉄所の責任者としてこれに対応したことについては「官営時代の長崎製鉄所(その2)」で触れた。

そもそも、山尾庸三が長崎製鉄所に関りを持つようになったのは、長崎府判事で長崎製鉄所の責任者となっていた井上聞多(馨)の働きによると見られる。

明治2年(1869)3月12日、井上聞多は国の施政上の意見十数ヶ条を参与副島種臣に提出してる。その中の1条に、「諸器械・船等を外国へみだりに注文または買入することを厳禁すべし。是非とも横須賀・長崎両所において作るべし。ついては、山尾庸三を横須賀へ全任これ有り候はば、長崎と申し合わせて、死力を尽くさんと欲す。」と述べている。

この意見書を受けてか、イギリス留学から帰国して郷里に居た山尾庸三は、明治3年(1870)4月、新政府に出仕して民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられ、横須賀製鉄所事務取扱となった。

ところが、井上聞多が会計官判事として大阪在勤(同年6月21日辞令)となって長崎製鉄所の経営に関われなくなったためか、同年5月3日、山尾庸三は横須賀・長崎・横浜製鉄所の総管と細大事務を委任されることになった。つまり、長崎製鉄所を含めた3製鉄所の総括責任者となったことを示している。

明治2年(1869)7月8日、民部省が新設され、これによって政府直轄の府県行政を中央の管轄・指揮のもとに一体化した。同年8月12日、大蔵省の主導により、民生実務一本化のため、民部・大蔵両省が合併した。同年10月28日には横須賀・横浜両製鉄所を神奈川県から本省に移管した。

しかし、長崎製鉄所は長崎府付属のままで民部・大蔵省の管轄下にあった。この頃の長崎府は、衰退の一途を辿る貿易に対処するため、立神ドックを建設することによって大形船舶の長崎入港を促し、それによって長崎を活性化させる動きが始まっていた。

明治3年(1870)7月10日、民部省は大蔵省から独立した。さらに、同年閏10月20日、工学開明・百工褒勧を目標として工部省が民部省から独立した。冒頭に述べた山尾庸三の長崎出張は、長崎製鉄所を長崎県から工部省直轄として継承するための予備調査を行うものであった。

その頃、1871年5月16日(明治4年3月27日)付けの英字新聞『The Far East』に、「長崎の飽ノ浦工場は、日本で最も有効な生産工場の一つであるにも関わらず、現在、休業状態にある。その直接の原因は、現地採用者による公金の遣い込みで、目下、政府による調査が行われている。」と報じている。

山尾庸三の調査結果を受けて、長崎製鉄所で行われた不正経理操作の首謀者とその一味は摘発・処分された。平野富次郎は長崎製鉄所本局である飽ノ浦製鉄所とは分離運営された小菅修船場の経営に携わっていたため嫌疑を免れたが、長崎製鉄所全体の経営責任者の立場として、明治4年(1871)3月16日に退職した。

平野富次郎が長崎製鉄所を去って3週間後の4月7日、山尾庸三が再び長崎に出張して来て、長崎製鉄所と小菅修船場を長崎県から正式に受領して、工部省の管轄下に入れ、長崎造船所と改称した。

図17‐1 明治5年(1872)頃の長崎造船所(飽ノ浦)
(「上野彦馬明治初期アルバム」から)
工部省に移管されて約1年経った頃の様子を示す。
鍛冶場の煙突から煙が出ており、岸壁沿いの工場建物が新設されている。

2)山尾庸三の略歴
山尾庸三は、天保8年(1837)10月8日、村役人山尾忠治郎の三男として周防国吉城郡二島村長浜(現、山口県秋穂二島)に生まれた。

嘉永2年(1849)、13歳で萩に出て繁沢家(藩の重臣で、二島村長浜を給領地としていた)に奉公し、その家来となる。かたわら柳生新陰流師範内藤作兵衛の下で剣術を学んだ。

安政3年(1856)夏、藩命により修学のため江戸に上り、江戸三大道場の一つである斎藤弥九郎の練兵館に入門し、そこで学んでいた高杉晋作(木戸孝允)から弟のように可愛がられたという。

〔洋学修業〕
文久1年(1861)1月、函館奉行所所属の幕府貿易船「亀田丸」がロシア沿海州に派遣されることを知り、藩主の許可を得て箱館(函館)に赴いた。同年4月、幕史北岡健三郎に随行して「亀田丸」に乗り組み、ロシア領ニコライエフスクとアムール地方に渡航し、同年8月、箱館に戻った。箱館では洋学者武田斐三郎の諸術調所に入門して洋学を学んだ。ここには、洋学修業中の野村弥吉(井上勝)が学んでいた。

文久2年(1862)9月、長州藩は小姓役の志道聞多(井上馨)に御用掛を命じて、蒸気船壬戌丸(原名ランスフィールド、448トン)を購入した。江戸に戻っていた山尾庸三は、志道聞多と共に乗り組みを命じられたが、船長と意見が合わず、乗り組みを免じられた。

同年11月、高杉晋作らと共に外国公使襲撃計画を行ったが、世子毛利元徳の命令により中止となり、江戸の藩邸で謹慎を命じられた。謹慎中に同志と血盟書を作り、御楯組と称して、同年12月12日、品川御殿山に建築中のイギリス領事館焼き討ちに参加した。この焼き討ちには、高杉晋作・久坂玄蕃・志道聞多・伊藤俊輔(博文)・山尾庸三ら総勢12名が加わった。

文久3年(1863)1月21日、長州藩が横浜で木造帆船癸亥丸(原名ランリック号、283トン)を購入し、同年3月、山尾庸三は測量方として乗り組んだ。船将は航海術を学んだ野村弥吉で、品川から兵庫までの回航を命じられた。

〔イギリス密航留学〕
この頃、藩重役周布政之助は、野村弥吉と山尾庸三の2人をイギリスに留学させるため、諸方に斡旋を依頼していたが、同年4月18日、志道聞多を加えた3人に、藩主の黙認による海外渡航のため5年間の「暇」を申し渡された。このとき、山尾庸三は身柄を「一代士雇」に準ぜられ、海軍修業として稽古料200両を世子毛利元徳から賜った。

これに次いで、京都藩邸の内用掛伊藤俊輔と江戸詰めで蒸気船壬戌丸乗組員の遠藤謹助が加わり、同年5月12日、伊藤俊輔(22歳)・井上聞多(28歳、旧姓に復す)・野村弥吉(20歳)・遠藤謹助(27歳)と共にイギリスに密航のため横浜を出航した。山尾庸三は26歳だった。

上海でロンドンに戻る2隻の帆船に分乗してイギリスに向かった。伊藤と井上は同年5月末、野村・遠藤・山尾はそれより10日程遅れて上海を出航し、同年9月中旬、山尾等3人はロンドンに到着した。同月23日、伊藤と井上の2人はロンドン港に入港した。

井上と山尾は画家クーパー家に下宿し、伊藤・野村・遠藤はUCL(ユニヴァーシティ・カレッジ、ロンドン)の教授ウィリアムソン家に下宿し、英語の勉強のためUCLの法文学部の聴講生となり、分析化学の講義などを専攻した。
図17‐2 ロンドンに於ける長州ファイブ
前列右が山尾庸三、左が井上聞多
後列右が伊藤俊輔、中央が野村弥吉、左が遠藤謹助

ロンドンに落ち着いて勉学を始めて半年ばかりのとき、現地の新聞でアメリカを中心とした四国連合艦隊が下関を砲撃するかもしれないとの報に接し、伊藤・井上の2人は急ぎ帰国の途に就いた。

元治2年(1865)6月21日、薩摩藩の海外視察員と留学生の一行19人がロンドンに到着した。視察員は新納刑部・松木弘安・五代友厚・堀壮十郎の4人だった。同年7月2日、野村・遠藤・山尾の3人はグラヴァー商会の周旋で薩摩留学生の宿舎を訪問している。

山尾庸三は、井上聞多が帰国した後、UCL近くのクーパー家に一人暮らしをしていた。そのため、薩摩留学生たちと頻繁に接触し、各地を案内している。

長州藩の3人は、藩からの送金がとだえ、学費に窮していた。山尾庸三は、カレッジを退学して造船技術を習得するため、スコットランド地方のグラスゴーに行くことにしていたが、旅費が工面できず、薩摩留学生たちから義援金16ポンドを出して貰ったという。

改元して慶應1年(1865)となった秋ごろ、山尾庸三はロンドンからグラスゴーに移り、昼間は同地にあるネイピア造船所で徒弟・見習工として働きながら、アンダーソン・カレッジの夜学に通って工学を修めた。

ロンドンに滞在していた遠藤謹助は、慶應4年(1868)1月ごろ、病気を理由にロンドンを発ち、同年4月に帰国した。

〔帰国〕
明治1年(1868)11月17日、井上弥吉(渡英時は野村)と共に山尾庸三はイギリス留学から帰国し、横浜本町4丁目の中蔦屋半兵衛方に身を寄せた。翌日、江戸の木戸孝允に宛てて連名で書簡を送り、指図を仰ぐと共に、7、8日滞在したのち、蒸気船で馬関(下関)に帰るとしている。

同年11月21日、山尾庸三は、井上弥吉と同道して東京の木戸孝允宅を訪問した。その後、井上弥吉と共に長州に戻り、山口の藩庁に復命した。翌明治2年(1869)1月、山尾庸三は山口藩海軍局教授方助役を命じられ、造船学を藩の子弟に教えた。同年2月3日、藩当局はイギリス留学から戻った2人に対して各30両の慰労金を下賜している。

〔新政府に出仕〕
その後、山尾庸三は木戸孝允の招きに応じて東京に上り、明治3年(1870)4月9日、民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられ、横須賀製鉄所事務取扱を仰せ付けられた。次いで、同年5月3日、横須賀・長崎・横浜製鉄所総管細大事務委任を仰せ付けれた。同年7月10日、民部省と大蔵省が分離したのに伴い、同月13日、民部権大丞専任となった。

同年閏10月20日、民部省の一部を継承して工部省が設置された。工部省の設置は山尾庸三が辞職を覚悟して政府に迫った結果と言われている。同月22日、山尾庸三は工部権大丞に任じられた。

明治4年(1871)4月、工部学校の設置を建議し、同年7月23日、工部大丞に任じられた。同年8月14日、工部省に工学寮と測量司が開設されるに伴い、同月15日に工学頭兼測量正に任じられた。同年12月4日になって工部少輔に任じられ、明治5年(1872)10月27日、工部大輔に昇進した。

工学寮に工学校(後の工部大学校)を開設するに当たって、訪欧中の工部大輔伊藤博文にイギリス人お雇い教師の人選を依頼した。伊藤博文は、明治4年(1871)11月に横浜を発って岩倉使節団の副使として参加していた。その結果、明治6年(1873)6月、工学博士ヘンリー・ダイアー以下9人が選ばれて来日した。

明治10年(1877)2月1日、工部卿の不在中、御用弁のため毎日太政官へ出勤することになった。明治11年(1878)3月5日、議官を兼任、明治13年(1880)2月28日、工部省のトップである工部卿に任じられた。

〔工部省退官後の余生〕
明治14年(1881)10月、参事院議官に転じ、明治15年(1882)7月、工学会会長となり、明治18年(1885)12月、宮中顧問官兼法制局長官となった。

図17‐3 山尾庸三の肖像写真
(萩博物館図録『日本工学の父 山尾庸三』、口絵写真より)
『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』(三の丸尚蔵館図録)に
明治13年(1880)、44歳の頃の写真がある。
本写真は容貌から見てそれよりやや後に撮影されたと見られる。

明治20年(1887)、華族に列せられ、子爵となった。大正6年(1917)12月21日、東京市麻布区東鳥居坂町5番地の自宅で逝去した。享年81。

山尾庸三は、技術者としてだけでなく、技術の持つ多様な側面を国政の場に役立てようとした。国家富強のための人材育成として、技術者養成のための工部学校を設立し、障碍者教育のために盲唖学校の設立に協力した。その性格は、地位や名誉に拘泥することのない、人間味豊かで、控えめな人であった。

3)長崎新聞局の工部省移管
民部省は、布達など一切の文書を、書写の手間を省くため、整版で印刷して公布するようになったが、さらに一層、簡便迅速に行うためには活字以外にはないとして、明治3年(1870)10月12日付け弁官(太政官)宛て文書で、活版印刷設備の導入を申請した。

その文書には、当節、長崎県で活字が開発され、殊の外、人手を省き便利であると聞いているとし、代価については、上海に注文すれば中小の漢字・カタカナ活字とも、併せて5千両ほとになるとして、長崎新聞局によるギャンブル伝習の結果と上海美華書館からの活字母型購入の情報を述べている。

このように、民部省が活版印刷設備の導入を希望していたにも関わらず、長崎県は、同年11月20日付け弁官宛て文書「活字版器械、大学付与の儀伺い」を提出た。

その文書には、長崎製鉄所付属新聞局がギャンブルにより活字鋳造法等を関係者に伝習させ、現在、活字の製造に専念している。しかし、長崎県では経費ばかり掛かって、それほどの役には立たない。したがって、大学が希望するならば、活字原字・諸器械に関係者一同を添えて差出したい、としている。

これに対して大学(後の文部省)は、同年12月15日付け文書で、申し立て通りすべてを受け入れたいとして、弁官に対して長崎県に通知することを依頼した。

ところが、翌明治4年(1871)1月、長崎製鉄所を長崎県から工部省に移管するため、事前調査として長崎に出張してきた民部権大丞山尾庸三は、応対した平野富次郎と共に帳簿調査に集中したためか、長崎新聞局の設備と人員を大学に移管させようとしている事実は知らなかったらしい。

その後について、『工部省沿革報告』の「長崎造船局」の項によると、「明治4年4月7日、工部権大丞山尾庸三は、長崎に至り、同所製鉄所および小菅修船架を長崎県庁より受領し、工部省十一等出仕岡部仁之助(利輔)にその経営を委任した。この際、太政官が長崎県庁に命じて、製鉄所付属の活字製造器械を大学南校に交付させようとしていることを知り、‥‥」とある。

このことに関して、牧治三郎が執筆した「製鉄所活字局移管の経緯」(「いんさつ明治百年⑬」、『日本印刷新聞』、昭和41年11月14日)には、次のように紹介している。

「明治4年3月、崎陽製鉄所御用のため工部省山尾権大丞が長崎県庁に出張して、製鉄所財産の移管について目録と引合せを行った際に、活字製作ならびに新聞紙局の活字および諸機械類の一部が除かれていたので、山尾は、県知事にこれを質した。ところが知事のいうには、『活字製造施設は、先に太政官から大学南校へ移譲するよう鞭撻がきているので、ご質問の部分は財産目録から除いた。』と答えた。
しかし、山尾は、『工部省の事業計画には、活字製作も入れてあるので、活字機械まで南校へ渡されては事業計画の変更で、今さらそれはできない。一応、太政官に伺いを立てるまで、引渡しを延期してもらいたい。』と告げて帰京し、伊藤工部卿と相談の上、4月7日付けで、次のような公文書を太政官に提出して善処方を申し入れた。」

大学では、既に長崎県の活字と器械類を南校で必要としているとして受け入れを表明していたが、長崎県から、工部権大丞山尾庸三の談判により器械類ならびに関係者共、工部省に引き継ぐことになったと通知された。大学はこれを工部省の横取りで不条理千万とした。

これを受けて工部省は、同年4月7日付けの弁官宛て文書「長崎製鉄所所属活字器械 大学南校へ御渡の儀に付 申立」を提出して、活字製作は工部省に一局を設けること、長崎でこれまで製作した活字は残らず南校に渡すこと、希望の者には活字を相応の価格で供給すること、とした。なお、『工部省沿革報告』によると、山尾庸三は次のように上申したと記録されている。

「今や人事多端の日に当たって、活字の功用は欠くことができない。およそ政府布告・日誌等のように速やかに公布を要するものは、活字を用いて印刷すれば、その敏捷なことは以前の比ではない。また、この功用を一般市民が知ることになれば、その内、新聞紙等を発行し、活字の需要が生まれるのは間違いない。したがって、工部省中に更に一局の製造所を設け、広く活字の販売を許し、勉めて印刷業を勧誘することを請願する。」

その結果、活字製造器械は工部省が領収し、既成の活字は南校に交付された。

その後の動向を述べると、工部省は、明治4年(1871)11月22日、勧工寮活字局を東京赤坂溜池葵町の旧伊万里県出張所跡(もと、佐賀藩松平肥前守中屋敷跡の一部)に開設し、長崎新聞局活字一課の設備と人員を移転させた。なお、明治6年(1873)11月になって、勧工寮が廃止されたため、製作寮の所管となった。

図17‐4 工部省勧工寮活字局の所在地
(明治16年測量「五千分一東京図」より)
図の中央左寄りに「工部省」と表記された一画が松平肥前守上屋敷で、
「地質検査所」と表記された辺りに勧工寮活字局があったと見られる。
ごく最近まで、ここには財務省印刷局の虎ノ門工場があった。
外堀を隔てた北側に「工部大学校」が表示されている。

その間、長崎製鉄所を退職した平野富二は、本木昌造の活版製造事業を受け継いで東京に進出し、崎陽新塾活版製造所を開設して、一般需要者に向けて活字・活版の販売を開始した。

これを受けてか、明治6年(1873)4月になって、勧工寮活字局も新聞広告により一般向けに活字販売を開始し、官民の間での劇烈な販売競争となった。

当時の勧工寮活字局の活版製造設備は、平野富二が調査した「明治6年 記録」によると、次の通りである。設備別に区分し、用語は分かり易く修正した。

活字母型:二号 5,000個、三号 6,000個、四号 3,000個、五号 5,000個、
(概数) 七号 300個、西洋 300個。
活字鋳造設備:ハンド・マシン・ポンプ 1 丁、メタル釜 1ッ、キャスチング・
マシン 1丁。
その他道具類:活字尻切道具 1揃、紙締め 1梃、ガルヴァ用型枠締め 1丁、
スペース鋳型 2梃。
印刷機:ハンド・マシン 1丁、ろーる・マシン 2丁。

明治7年(1874)8月になって、製作寮活字局は印刷関係設備一切を正院印書局に引渡した。これによって、政府各省に分散されていた印刷設備の印書局への集約完了した。

一方、南校(後、大学南校)は、幕府の蕃書調所を起源とする教育機関で、蕃書調所から伝えられた活版印刷設備があった。しかし、洋書の復刻印刷を主としていたため、漢字・仮名文字の活字は所有していなかったことから、長崎新聞局の活字と製造設備を必要としていた。明治4年(1871)になって、大学南校の印刷設備は大学東校に移管され、文部省が新設されるに伴い、文部省活版所(通称)となった。その間、大学は、上京中の本木昌造に活版御用を申し付け、活字供給の道を付けた。これが平野富二の東京進出の契機となる。

山尾庸三は、明治4年(1871)1月、長崎製鉄所での帳簿調査で真摯な態度で対応た平野富次郎に好感を抱き、近代産業の根幹をなす造船業の発展に一身を捧げる覚悟であることを知った。これを機に。平野富二(改名)は、東京に於いて山尾庸三から多大の協力を得ることになる。二人の交流については、拙著『明治産業近代化のパイオニア 平野富二伝』で記述してある。

2018年6月25日 稿了

長崎新聞局とギャンブルの伝習

(1)長崎新聞局の開設
長崎新聞局は、長崎府に付属する形で開設された。その開設の時期や経緯については今のところ間接的な伝聞しか見当たらない。しかし、殆どの資料で本木昌造の関与が記述されている。

本木昌造がわが国最初の英字新聞の刊行に協力したことについて、本シリーズの「幕府時代の長崎製鉄所」(2017年12月公開)で述べた。しかし、長崎新聞局から刊行された『崎陽雑報』創刊号に掲載された「題言」には、本件に関して誤った記述があるので、どこまで本木昌造が関与したのか、疑問は残る。

当時、長崎において新聞発行に必要な活版印刷の知識と技術を持つ者は、本木昌造とその一門以外には考え難い。本木昌造はわが国における活版印刷分野の開拓者として知られており、その概要は(2)で紹介する。

長崎奉行所が新政府に移管された後の慶應4年(1868)4月22日に、長崎において商会囲品の入札公示がなされ、その諸品目の中に活字板蘭書摺立道具一式が含まれていた。この入札は、旧長崎奉行所に保管されていた諸品の中の不用品を処分するため、売り捌いたものとみられる。

本木昌造は、このことを知って、活字板蘭書摺立道具一式を長崎裁判所(同年閏4月21日に長崎府となる)に引き取ってもらい、それを利用して一般市民に内外のニュースを伝えると共に新政府や長崎府の方針や施策を周知させる方策として新聞の発行を建議し、その結果、長崎新聞局が設置されたと推測される。

この活字板蘭書摺立道具は、もともとオランダから舶来したもので、本木昌造を含めたオランダ通詞仲間が購入し、嘉永2年(1869)頃から活版印刷の研究を行っていたものと見られる。

長崎海軍伝習所が開設されるに当たって、教科書・参考書をオランダ原書で印刷するために活字判摺立所が設けられ、オランダ通詞仲間が所有する摺立道具一式が買い上げられた。海軍伝習を終えて活字判摺立所が閉鎖されたとき、そこに在った道具類は奉行所の倉庫に保管された。文久1年(1861)になって、その主要部分は江戸の蕃書調所に移されたが、この摺立道具一式はそのまま保管されていたと見られる。

新設された長崎新聞局では、新聞の編集と印刷を自局で行い、活字の製造と版組みは長崎製鉄所内の分局を置いて行った可能性がある。

長崎新聞局で用いる漢字と仮名の活字類は、活字板蘭書摺立道具一式の中には含まれていないので、新規に活字製造部門を設けて、新聞発行に必要な活字類を製造する必要があった。

そのため、本木昌造の永年の研究と実験によって開発された蝋型電胎法により活字母型(鋳型)を造り、手鋳込器を用いて鉛活字を鋳造する方式が採用されたと見られる。具体的には、『本木昌造活字版の記事』(本木昌造自筆稿本、市立長崎博物館から長崎歴史文化博物館に移管)に記述されている方式か、さらに改良を加えたものであると見られる。

(2)本木昌造の活版製造研究
本木昌造の活版製造に関して、明治18年(1885)1月、平野富二が本木小太郎に代わって執筆し、東京府に提出した「活版事業創始の説明」(東京都公文書館所蔵)の中に、次のような記述がある。現代文に直して紹介する。

「本木昌造は、蘭書に基づき西洋印刷術の概要を学び、上海で鉛活字により漢文を印刷している者がいることを知り、上海に人を派遣して調査したが、得るところが無かった。その後、自ら熱心に研究・実験した結果、西洋印刷術と上海の鉛字、わが国の組版などを比較折衷して、ガラフハニー版(ガルヴァーニ版、電胎版)により活字母型を造り、手鋳込器を使用して鉛製活字を鋳造する方法を創始した。これを実際に使用したのは、嘉永5年(1852)の頃で、蘭和対訳辞書を印刷し、これをオランダに送ったのを初めとする。」

この記述によると、本木昌造が上海に人を派遣して調査したのは1852年以前のこととなるが、この時期は、ウィリアム・ギャンブルが中国に派遣される前で、中国では未だパンチマトリクス(punch matrix、打刻母型)方式による鋳造鉛活字の時代だった。ギャンブルは、1860年1月(万延1年11月)に寧波から上海に移転して、蝋型電胎法による漢字の活字母型を造り始めている。

万延1年(1860)10月、本木昌造は増永文治名義で『蕃語小引 数量篇』上下巻を出版した。その上巻の凡例末に「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今 新ニ製スル所ニシテ未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ニ希フ」として、未だ満足できるものではないとしながらも、鋳造活字研究のこれまでの成果を活版印刷で示している。おそらく、ガラフハニー版の活字母型により手鋳込器を用いて鋳造した鉛活字のことを述べたものと見られる。

そもそも、その原理は電気メッキによる精密模造法で、本木昌造は安政2年(1855)から3年にかけて、オランダ商館の医師ファン・デン・ブルックから教えられ、それを応用したものと見られる。

本木昌造は、安政4年(1857)に発覚した蘭書器物密売事件に連座して、同年5月13日、預かりの身となり、その後、揚り屋入りとなったが、翌年2月30日に重病を理由に出牢を許され、再び預かりの身となって自宅謹慎を続けていた。安政5年(1858)11月28日、長崎奉行の特別の計らいで処分を解かれた。

この自宅謹慎の9ヶ月間、本木昌造は公務に煩わされることなく活字製作についての各種研究・実験に専念することができた。その結果、蝋型電胎法による活字母型の製作法を開発するに至り、それを纏めたのが「本木昌造活字版の記事」であると見られる。

この本木昌造自筆の字母製作法について、牧治三郎は「活版印刷伝来考―6」(『印刷界』、1966年8月)に全文を掲載している。その原本は、本木昌造から後継者平野富二に渡され、東京築地活版製造所に保管されていた。関東大震災で焼失したが、牧治三郎がノートにとっておいたものとして紹介している。なお、文中の絵図は省略したとしている。長崎にある稿本は、本木昌造の手により添削がなされており、牧ノートによる記事には、添削の結果がそのまま反映されている。

蘭学者である川本幸民も、本木昌造に少し遅れて、長崎出島のオランダ商館で科学技術を学んでいる。薩摩藩で講義した記録が『遠西奇器述』として、安政6年(1859)秋、薩摩藩から出版されている。その中に「電気模像機 ガルハノプラスチーキ」の紹介がある。鹿児島の尚古集成館に所蔵されている三代木村嘉平の金属活字は、江戸の薩摩藩邸で川本幸民の指導により製作したと見られている。

(3)『崎陽雑報』の刊行
慶應4年(1868)8月、長崎新聞局から『崎陽雑報』第1号が創刊された。その表紙には、中央枠内に「崎陽雑報 第一号』と表示され、左下側に「致遠閣発兌」と印刷されている。右肩には公許の印として角印の「長崎府印が捺されている。

『崎陽雑報』、第1号の表紙
表紙右肩の捺印「長崎府印」は、公に許しを得て刊行されたことを示す。
この年、江戸で刊行された親幕府派の新聞はすべて発行禁止となった。
「長崎府印」はここにある正方形の他に幅を狭くした角印も見られる。

『崎陽雑報』は、和紙を二つ折りした表紙のある冊子形新聞で、漢字とカタカナの活字を用いた活版印刷である。本文は1ページに10行×21字詰の罫線入りで印刷されている。内容は、海外の情報と国内通信、官報に代わる布告訓令や官吏任免など、新政府の意向に沿ったものになっている。不定期刊行で、第13号までの存在が確認されている。明治2年(1869)夏以降は、鋳造活字の製造に手間取り、発行中止となったと見られる。

本文に用いている漢字活字は、端正な細書きの楷書で、同じ字でも点画が微妙に相違するものが混在する。また、カタカナも同じ母型から鋳造されたと見られる字がある一方、点画に差がある字も含まれている。このことから、鋳造活字が間に合わず、木活字が多用されたのではないかと見られる。

長崎歴史文化博物館展示の『崎陽雑報』第1号レプリカ
最初のページに「崎陽雑報題言」が掲載されている。
文章は楷書とカタカナを用い、鋳造活字と木活字の混合と見られる。

このことから見ると、本木昌造の指導によって設けられた活字製造設備は、まだ実験室の規模から多きく超えることはなく、新聞発行に必要な活字類を揃えるには長時間を要し、より迅速に活字を製造できる技術が求められていたことが分る。

(4)『崎陽雑報』を刊行した「致遠閣」
『崎陽雑報』を発兌(刊行)した「致遠閣」は、それと類似の名称である佐賀藩の外国語学校「致遠館」が同じ時期に長崎に存在していることから、佐賀藩の「致遠館」から刊行したとする説もある。しかし、長崎府が発行する新聞を、わざわざ、佐賀藩の学校から刊行することは考え難い。

「致遠」の意味は、新聞の機能である「遠方の情報などを送り届ける」という、新聞の機能に関係する意味があり、長崎新聞局は、その別称として「致遠閣」と称したと見られる。

一方、佐賀藩の外国語学校は、慶應3年(1867)11月、アメリカ宣教師で長崎外語学校(後の広運館)の校長だったフルベッキを迎えて教師とし、翌年になって、加賀、薩摩、土佐など他藩の学生を広く受け入れ、「致遠館」と称した。この「致遠」の意味は、「遠い土地の人を招き寄せる」という意味で名付けたと見られる。

長崎新聞局が長崎府の付属機関であったことについては、長崎製鉄所の頭取だった本木昌造が、明治2年(1869)5月、長崎製鉄所で精米事業を営み、それによって得る利益金を長崎府の付属機関の運営に充てるとして、徒刑場、広運館(本学局・漢学局・洋学局)、新聞局、製鉄局を挙げていることからも分る。

長崎新聞局が発行した新聞以外の印刷物は、明治2年(1869)7月に出版した何幸五郎訳述『地球略解』巻之一がある。何幸五郎は、後に何幸五と称し、後述するギャンブル伝習の際に通訳を勤めた人である。また、明治3年秋とする長崎新聞局開版『改正長崎職員録』が知られている。その裏表紙に「明治三庚午秋」、「長崎新聞局開版」と朱印が捺してある。

(5)『崎陽雑報』の刊行中止
明治2年(1869)夏頃に発行された『崎陽雑報』第13号を最後として、長崎新聞局での新聞発行は中断されたらしい。

後藤吉郎等(BULLETIN OF JSSD、2002)によると、アメリカ議会図書館のギャンブル・コレクションの中に、「日本新政府より活字母型の注文を受け、印刷設備を整備するため5,000ドルを受領した」旨を記した1868年10月19日(明治1年9月4日)付け書簡の概要記録が残されている。

上海美華書館の1867年版活字見本帳によると、スモール・パイカ(第5号相当)を含む3種類のサイズを揃えており、それぞれ1字当たりの母型価格はすべて1.00ドルと表示されている。

この記録では、「日本新政府」となっているが、当時の状況を考えると、長崎府が新政府の認可を得て発注したものと推察される。これにより、長崎新聞局では活字母型の製作がネックとなっていたことが分る。また、長崎では、既に明治1年頃から上海美華書館との交流があったことも分る。

明治2年(1869)6月、製鉄所掛から府当局に提出された文書が『文書科事務簿』に保存されている。その内容を現代文に直して紹介する。

「昨年来、新聞局において活字判で印刷・出版しているが、西洋と同様の迅速製造技術がないため、昼夜、苦心している。このたび、アメリカ人活字師ガンブルが避暑のため長崎港に来泊するので、4ヶ月間、当局で雇い入れ、活字判製造技術を残らず伝習したい。そうすれば、長崎府としても莫大な功績となるので、許可をお願いする。」

つまり、長崎新聞局では、依然として活字の製造に手間取り、新聞発行に支障をきたしていたことが分る。なお、活字師ガンブルは英語読みではギャンブルとなる。

(6)ギャンブルの招聘と短期雇用
ギャンブルの招聘を要請したとみられる本木昌造は、明治2年(1869)8月、病気を理由に長崎製鉄所頭取辞職願を提出し、当局から慰留されたがその決意は固く、同年9月になって製鉄所頭取退職を認められ、新たに機械伝習方懸頭取を委嘱された。しかし、その後は長崎製鉄所に出社することはなかった。

同年(1869)10月になって、本木昌造は県当局から「貴殿は、かねてから活字判の製造技術を心得ているので、新聞局掛の者と相談して、早急に成功するよう尽力すること」とした文書を受けている。

この文書から見ると、ギャンブルの来訪は明治2年(1869)10月中に延期されていたと見られる。その理由は定かではないが、上海における人事上のトラブルや長崎での伝習準備のためであったと見られる。

ギャンブルは、1830年(天保1年)、アイルランドで生まれた。1847年(弘化4年)、17歳でアメリカに移住し、製本所に勤務した。その後、印刷所で訓練を受けて、1858年(安政5年)、28歳のときにアメリカ長老派教会のニューヨーク伝道本部から印刷技術者として中国の寧波(ニンポウ)に派遣された。寧波では華花聖経書房に勤務した。1860年(万延1)12月、同書房が上海に移転し、美華書館と改称したとき、共に移転した。

ギャンブルがアメリカの印刷所で訓練を受けていたころ、既にアメリカでは活字および活字版の複製技術として電気鋳造法(electrotyping)が実用化されていた。特に、聖書の印刷では、大量に印刷するため活字版の劣化が早く、この方法で活字版を複製して対応していたという。

(7)ギャンブルの伝習
ギャンブルの来日に合わせて、明治2年(1869)10月、長崎興善町に在った元唐通事会所に活版伝習所が開設された。現在、その場所には長崎市立図書館があり、道路に面して記念碑が建てられている。

活版伝習所となった元唐通事会所の平面図
本絵図は国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」にある。
この絵図の下方に左右に通じる道路が現在の市役所通りである。

活版伝習所跡と唐通事会所跡の記念碑
背後は長崎市立図書館で、市役所通りに面した角に建てられている。

伝習に参加した者たちは、長崎新聞局の活版製造部門・印刷部門の担当者と本木昌造とその一門の者たちであったと見られる。本木昌造は世話役を務めると共に、自らも進んで伝習を受けたと見られる。長崎唐通事出身で英語に堪能な何幸五郎がギャンブルの通訳を勤めた。

長崎で伝習を行うに際してギャンブルが持参した活版器材の内容は明らかではないが、中国側の資料『教会新報』によると、「中国鉛字・外国鉛字・東洋字と一切の器具を携帯して出掛け、東洋人に排字・印書・電気鋳銅版の諸法を教える」とある。ここで、東洋とは日本のこと、排字とは活字を並べて版に組むことである。携帯した一切の器具の中には、ガルヴァーニ電池・電解槽や鋳造器具などを主体として、その他、製本までを含めた一切の道具・資材一式であったと見られる。

伝習の結果として、同じく中国側の資料によると、「造字は模三、副一で、中国字一、日本字は大小字を全て備え、試しに組版印刷した書物として西洋字と日本字を合わせて訳した字典がある」と記録されている。

この中の「造字は模三、副一」については、「持参した活字を用いて作成した鋳型(母型)3セットと予備1セット」と解釈される。「組版印刷した字典」については、どのような字典であったか不明である。

伝習に当たって、上海美華書館における活字のサイズを決める号数システムについても、基礎知識として教えられたと見られる。この知識が無ければ、組版を的確に行うことができない。

上海美華書館は、上海で発行されていた『教会新報』(1868.12.19)に活字販売広告を掲載している。それには、大小の新鋳中国鉛字6サイズを販売するとして、第1号から第6号までの摺り見本とそれぞれの重量ポンド当たりの価格と個数を示している。また、別有第2号としてややバランスの悪い漢字摺り見本が示されている。書体はいずれも明朝体で、第1号から第6号までは電胎母型により鋳造されたもの、別有第2号は従来から製造されていたパンチ母型による分合活字(扁や旁などを標準化して組み合わせた漢字活字)と見られる。

それぞれの活字サイズの関係は、第1号は第3号の2倍角(2倍の幅)で、第2号は、第1号よりもやや小さく、第5号の2倍角、第5号は第6号の2倍角となっている。第4号は第3号と第5号の中間サイズとなっている。これらは、アメリカのシステムとヨーロッパのシステムを活字サイズに応じて組み合わせたものとなっている。

小宮山博史(『日本語活字ものがたり』)によると、上海美華書館の活字販売広告は、1869年7月12日(明治2年6月4日)まで、8回に亘って掲載され、最後の2回は別有第2号が除かれているとのことである。旧式活字の在庫がなくなったと見られる。

ギャンブルは、日本における伝習教材の一つとして、この活字販売広告を携帯品の中に加えた可能性がある。

ギャンブルの伝習内容について纏まった形での日本側の記録は今のところ見当たらない。

日本側が期待した「迅速」については、最大の時間を要する電胎母型の製作が中心であったであろうが、出来上がった活字の品質についても、使用に堪えない活字を大量に製作しては意味がない。そのため、迅速と共に高品質の活字を鋳造するために、ギャンブルは鋳造用手動ポンプを上海から持参して、使用方法を伝授した可能性がある。

(8)ギャンブル伝習後の動向
明治3年(1870)2月末にギャンブルによる伝習が終了して、活版伝習所は閉鎖された。ギャンブルの持参した活版製造用器具と印刷器材は長崎新聞局に引き取られた。

長崎新聞局では、ギャンブルの伝習に基づき活版製造設備の更新が行われ、人員を整えて活字の製造に取り組んだが、『崎陽雑報』の再刊は行われなかった。

明治3年(1870)5月、長崎県当局は製鉄所掛に対して、「以降、新聞局を製鉄局に付属させる」旨を指令した。これにより、長崎新聞局は、長崎県付属から長崎製鉄所付属に変更された。同時期に。民部権大丞山尾庸三は横須賀・横浜製鉄所と長崎製鉄所(共に県営)を総括して、経営の全てを委任されることとなった。

長崎新聞局が長崎製鉄所に付属されて以降の事柄については、次回の「山尾庸三と長崎製鉄所」で述べることとする。

一方、ギャンブル伝習に協力した本木昌造は、伝習で製作した活字母型の副1を譲り受けたのではないかと思われるが、確証はない。その他には、複数ある器材のごく一部のみであったと見られる。また、上海美華書館の活字販売広告も少なくとも1枚は入手した可能性がある。

本木昌造は、伝習を終了した直後に、長崎製鉄所を退職している。かねてから取り組んでいた私塾の経営を本格化させるため、知人・友人の資金的協力を得て、長崎新町に新街私塾を設立し、さらに、教材としての教科書・参考書印刷のため新街私塾に付属させて新町活版所(印刷所)と新町活字製造所を設立した。本件については、追々、述べることとする。

2018年5月30日 稿了

立神ドックと平野富次郎の執念


<まえがき>

平野富二生前の明治24年(1891)3月に編纂された平野富二の行状に関する小冊子に、立神ドックに関して、次のような趣旨の記述がある。

明治2年(1869)3月に平野富二(富次郎)が小菅修船場の所長となってから16ヶ月間で純益金18,000円を得たこと、これを資本として立神ドックの開削を民部省に建言したこと、民部大丞井上馨(聞多)がその議を容れて直ちに着手すべきとの命令を下したこと、長崎県の政府への未納金11,700円を合わせて合計29,700円を原資として開削に着手したこと。

この記述にある明治2年3月から16ヶ月間ということは、明治3年(1870)7月までとなり、純益金の金額が確定したのは同年8月以降と見られる。しかし、平野富次郎に対する「ドック取建掛」の任命書は明治2年11月となっており、未だ小菅修船場で経営を開始してから8ヶ月しか経っていない時期にドック開削人事が発令されたことになる。

したがって、16ヶ月間の純益金を原資としてドック開削を建議し、開削着手したとするのは、辻褄が合わない。

平野富次郎が提出したとされる「建議書」があれば、この疑点は明確になると思われるが、現在までその存在を確認されていない。そこで、公文書に属する各種関連史料を参照し、それに基づき検討を行った結果を以下に述べる。

<立神ドック建設についての建議>
平野富次郎は、明治2年(1869)3月中旬から、品川藤十郎とコンビで小菅修船場(ソロバンドック)の経営に当たり、着実に成果を挙げていた。

同年9月頃になって、平野富次郎は、小菅修船場では対応できない大形艦船の修理案件が多いことに着目し、「立神修船所繁栄策」を長崎県庁経由で内務省に提出したと見られる。それは、幕営時代の軍艦打建所として用地造成されたまま放置されている立神地区に大ドックを建造することを建言するものであった。

この平野富次郎の建言は、推測に基づくものであるが、それを受けて、同年10月、野村知県事(宗七、のち盛秀)が井上造幣頭(聞多、のち馨、民部・大蔵大丞)に提出した文書によって、その概要を知ることができる。その文書は、長崎歴史文化博物館所蔵の「文書科事務簿、明治2年、諸用留、製鉄処」の簿冊に綴られている。

その要点を箇条書きにすると、次のようになる。

  1. 長崎県は、国の中央から遠く離れた小都市で、産物はなく、貿易も衰退の一途を辿り、地役人は職を失い、工業を盛んにする以外に生活の道はない。
  2. 対策として港湾改良に着手したが、効果が現れるには年月を要する。
  3. その代わりに、大形船舶修理用のドライドックを建設すれば、内外の船舶が数多く入港し、長崎の繁栄に結び付く。
  4. 小菅修船場で雇用しているイギリス人技師ブレイキーによると、工事期間18ヶ月で完成し、立神地区は天然至当の地であると申している。
  5. 明治1年(1868)に、小菅修船場の取得資金として太政官から金札7万両を下付されたが、その後、金札の交換が滞って、遅延している。官軍軍艦の修復料などの支払残額2万2千両相当を、本年12月中に大蔵省に返納する手筈になっている。
  6. この分を、2,3年後に延納するようにして頂ければ、これをドック建設資金として流用し、不足の分は長崎県が資産家たちから募金してまかなう。
  7. 明治2年(1869)11月から、取りあえず掘削工事を開始したい。

これらの主要部分は平野富次郎の「立神修船所繁栄策」の骨子を為すと見られるが、この内、2.、5. 、6.の内容は、長崎県の繁栄策を述べたもので、野村知県事の判断で付け加えられたと見られる。

同年11月、民部省の認可を得て、立神地区で大ドックの掘削工事が着手されることになった。

当時、民部省は大蔵省と一体で運営されており、明治4年(1871)7月になって、民部省は廃止され、大蔵省と工部省に引き継がれることになる。

同年11月20日、「ドック取建掛」として、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、二等機関方戸瀬昇平の3名が任命され、続いて、頭取助品川藤十郎と小菅掛境賢助の2名が加えられた。

平野富次郎のドック取建掛任命書
日付の「巳十一月」は明治2年11月を示す。

この任命書は、現在も平野家に保存されている。

同年12月4日、新政府によって廃官となっていた元長崎地役人の中から、とりあえず6名が「人夫差配其外相当之任」として再雇用された。その翌日には、「稲佐立神郷に於いてドック取り建て候に付き、掘方人夫として稼ぎいたしたきものは、男女老若の差別なく、町処と名前・年齢をしたためて町方に、早々、申し立てるべく候」として、市中一統に洩れなく触れが出された。

なお、先に野村知県事が提出した上申書は、12月13日付けで大阪出張大蔵省から「御書面御懸合之趣承知候」として、長崎県に送り戻された。書面の末尾に「12月24日到来」と付記されている。

<立神ドック掘削中の平野富次郎の逸話>
ドックの掘削作業には、連日、3,000人から4,000人の作業員を動員して突貫作業が行われたと云う。長崎に居住する一般市民の中から老若男女を問わず、人夫として採用した者たちに仕事を割り振り、統率するのは大変な事であったと推測される。

そのような中で、統括責任者となっていた平野富次郎について、次のような逸話が三菱長崎造船所の社内報に紹介されている。その概要を述べると次のようになる。

平野富次郎が持病の悪化で自宅の床に伏せているとき、ドック開削中の立神現場で大ゲンカがあった。最初は博打がもとの小さなもめ事であったが、それがいつの間にか二派に分かれ、作業道具の鍬やツルハシをふるっての派手なケンカとなったそうである・

病床で注進を受けた平野富次郎は、戸板に乗せられ、舟で現場におもむいた。担がれた戸板の上で双方の意見を聴き、手際よくこの大ゲンカをさばき、後のしこりが残らないようにそれぞれの代表者を呼び寄せ、手打ちの世話までしたとか。

この時、平野富次郎は25歳(数え年)であったが、すでに組織の統率者として、その能力を発揮していることが分かる。

立神ドックを描いた明治3年8月の絵地図
図の左側にある赤茶色の場所が立神地区で、
「造船所」「舟形小屋」と表示されている。
幅広い掘割が立神ドックであるが、完成を想定した姿で描かれている。
細い方の掘割は軍艦打建所として造成された資材運搬用の荷船岸壁で、
幕末期からオランダ人が指導する小規模造船所があったと見られる。
図右端の赤茶色の場所は、長崎製鉄所の本局である飽の浦製鉄所である。

<工事の進捗と資金不足による中断>
明治3年(1870)9月7日(和暦に換算)の英字新聞「The Far East」にドック掘削中の立神現場写真が掲載されている。この写真は遠景で、必ずしも鮮明ではないが、掘削中のドックに作業員の姿は見えず、工事が中断しているように見受けられる。

建設中の立神ドック写真
土木工事としては、すでにドックの底面まで掘削が進んでいる。
ドックの底面と側面の石積み、海側に戸船(門扉)を設置し、
その後、外の土堤を撤去する。
周辺の残土整理と整地、付属設備の設置などが残されている

この工事中断は、次に述べる当初認可された資金(金札で22,000両、流通レート換算で11,700円)を使い果たし、現場作業している人夫の日給を支払うことができなくなって、中断せざるを得ない事態に陥っていたことを示している。

同年9月頃、平野富次郎は、立神ドックの掘削工事を再開するため、小菅修船場で得た純益金18,000円を立神ドック掘削用の資金とし、さらに、工事完成までの資金を確保するよう、長崎県知事野村宗七に要請したと見られる。

同年11月20日付けの長崎県から政府弁官に宛てた申立書「立神修船場ノ儀ニ付申立」が国立公文書館所蔵の『公文録』(明治3年・第37巻・戊辰・各県公文13〈長崎〉)として保管されている。その概要を箇条書きで示すと次のようになる。

  1. 立神修船場について、明治3年秋に長崎県知事が上京した際に委細を願い上げ、64,000両を拝借することが了解された。
  2. さしあたり、大阪大蔵省から10.000両を下げ渡されることになったが、残金54,000両も速やかに下げ渡されることを懇願する。
  3. 立神修船場は、府藩県の洋式軍艦・商船を専ら修理するもので、修船のために出費する莫大な金を外国人の手に奪われないようになれば、利益も少なくない。
  4. 立神修船場が繁盛して、十分の利益金を計上できるようになるまで、拝借金の延納を認めて頂きたい。
  5. 長崎港では、在留外国人が機械製作・造船・修船の事業所を開いており、利益を彼らに貪られないように苦慮している。
  6. すでに小菅修船場は近頃繁盛しており、内外の洋式船を絶え間なく修復している。立神ドックが完成すれば、それ以上の成果を挙げることになると思うので、願意をご採用くださるよう懇願する。

文中の   1. に示す長崎県知事の出張目的は、長崎県知事が平野富次郎の要請を受けて、立神ドック完成までの資金を確保するためであったと推測される。

立神ドックの掘削現場では、差し当たり小菅修船場で得た純益金18,000円と、新たに認可された金額の内の10,000両(円と等価)の入金により、工事は再開されたと見られる。

この明治3年(1870)9月頃からの一連の動きを、平野富次郎の建言とそれによる立神ドックの開削着手としてとらえ、世間に紹介したのが本稿冒頭の「平野富二の行状」記事と見られる。

明治4年(1871)1月に長崎駐在のイギリス代理領事がイギリス公使に宛てた報告書によると、「建設中のドックはかなり進捗して、約200ft(60m)の岩が切り開かれ、ドックが所要の幅と深さに掘削されている。今年末までには完成すると期待できる。」と述べている。

<工部省移管に伴う立神ドックの工事中止>
長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されることになって、明治4年(1871)3月16日、長崎製鉄所の実質的な経営責任者であった平野富次郎は官位を返上して、長崎製鉄所を退職した。

これにより、立神ドックの建設工事も中止されたと見られる。建設現場ではすでに長さ500尺(約152m)の計画に対して400尺(約121m)まで開削されていたと記録されている。

長崎県営長崎製鉄所は、明治4年(1871)4月9日、工部省に正式移管された。

工部省は、明治3年(1870)閏10月23日に新設され、横須賀造船所を管轄下に置いた。そのとき、建設中であった横須賀第1ドックは、翌年2月8日に竣工している。そのため、立神ドックの工事再開は敢て行われなかったと見られる。

立神ドックの建設工事が中断されたまま、いつまでも再開されない状態を見兼ねた平野富次郎は、長崎県艸莽と名乗って「長崎県稲佐郷立神修船場ノ儀ニ付申建候書付」を当局に提出している。

平野富次郎の艸莽書付
この書付は、平野富二が「控」として大切に保管していたものである。
第二次世界大戦前までは平野家に保管されていたが、
現在、その存在は確認できない。

この書付は、一民間人となった平野富次郎が、立神ドックの建設工事を自ら請負い、完成後の経営を政府から委託されることを要請したものである。その背景には、自分の目指す将来の道を造船業と定め、無駄の多い官営事業は民営に移管することによって効率的経営を行うべきであるとの信念に基ずくものであった。

しかし、平野富次郎による立神ドックの受託経営は実現することはなかった。

平野富次郎の信念に基ずく志望は、5年後に東京に於いて、わが国最初の民間洋式造船所となる石川島平野造船所の設立によって実現することになる。

<工部省による立神ドックの完成>
その後、工部省によって基本設計の見直しがなされ、明治7年(1874)3月、約3年間の工期で建設工事が再開された。

ドックの新仕様は、上口長さ135.7m、上幅33.4m、深さ11.6mであった。旧仕様と比較すると、長さで約16m短縮されている。

完成は明治10年(1877)とされていたが、竣工直前に異常潮位による事故が発生し、明治12年(1879)5月、ようやく竣工式が挙行された。

官営長崎造船所は、明治17年(1884)7月、三菱に貸与されて三菱長崎造船所となり、3年後に払い下げられた。

明治28年(1895)7月になって、ドック頭部を延長して長さ159.4mとなった。明治29年(1896)11月に岩瀬道に新ドック(第2ドック)が完成したことから、立神ドックは第1ドックと称されるようになった。

昭和38年(1963)7月、第1ドックは廃止されて埋め立てられた。前面の海面を埋め立て、昭和40年(1965)9月に30万トン規模の建造ドック(第1ドック)と修繕ドック(第2ドック)が竣工した。岩瀬道ドックは第3ドックと改称された。

工部省によって完成した立神ドックの遺構(石碑と菊のご紋章)は、長崎造船所構内の立神通路に面した崖面に移設され、記念碑として残されている。この記念碑は、稼働中の工場構内にあるため、非公開となっている。

記念碑には、昭和43年(1969)3月に三菱重工業㈱長崎造船所によって製作された「建碑由来」銘板が嵌め込まれている。

立神ドック遺構記念碑の「建碑由来」銘板(部分)
画面中央の「立神ドック略歴」の次の行に平野富二の名前がある。

「建碑由来」銘板に「立神ドック略歴」として次のように記されている。

立神ドック略歴
明治三年(1870)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工、同四年(1871)一時工事中止
明治七年(1874)フランス人ワンサン・フロランを雇入れ築工工事再開
明治一二年(1879)工事完成
(長さ140米、巾31米、深さ10米、当時東洋一)
―以下省略―

明治三年の記述は、本稿で述べた内容と若干相違する。また、明治一二年の括弧内のドックの仕様は先に述べた仕様と相違する。長さと幅はドックの上面と底面では相違し、深さは地表からドック底面までとするか、(干潮、満潮時の)海水面からドック底面までとするなど、基準が明確でないので、一概に比較できない。

三菱によって建造された岩瀬道の第3ドックは「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録されているが、その先駆を為す立神ドックについては、記念碑として残された遺構だけては登録されなかったらしい。しかし、明治日本の産業革命の歴史を語る上において、立神ドックは欠くことのできない存在である。

2018年4月26日稿了

ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場

小菅修船場は、2015年7月に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界産業遺産に登録された。この設備は、薩摩藩とイギリス商人グラヴァーによって建設され、日本政府が買い取って長崎製鉄所の付属としたもので、そのときの最初の修船場長が平野富次郎(冨二)であった。

ここに、小菅修船場の建設経緯、設備内容、平野富次郎の経営などについて、概要をまとめて紹介する。

<グラヴァーによる竣工と政府による買収>
薩摩藩士五代才助(友厚)の企画に基づき薩摩藩とイギリス商人グラヴァー(T. B. Glover)によって建設された小菅修船場は、明治1年12月6日(西暦1868年1月18日)、付帯設備の一部を残して完成した。この日、グラヴァーの持ち船が第1船として曳き揚げ準備に入った。

その曳き揚げを視察した長崎府判事野村宗七(盛秀)は、同じ薩摩藩出身の小松玄蕃頭(帯刀)と五代友厚に宛てて、次のような報告をしている。現代文に直して紹介する。

去る6日、グラヴァーの船をドック台に仕掛けるとの報により、井上聞多(馨)と見物に出掛けました。なんとも立派に船体を台上に曳き揚げ、蒸気力も申し分ありませんでした。翌日は、適当な処にまで曳き揚げるので必ず来てくれとのことで、薩摩屋敷の連中と出掛けました。井上は行きませんでした。
この日には、船体を充分に曳き揚げ、船底一体が水面を離れ、初めて蒸気船の全姿を見ることができました。蒸気力のすばらしさは筆で書き尽くすことはできません。西洋人や老若男女の見物人が多く、帆柱の上に数百の旗章を立て並べ、わが国の旗も3本程あり、とても壮観でした。昼時に野外での食事が出ました。参加したのはほとんど100人でした。
この設備は、人手が掛からず、関係する人員は僅かで事足ります。(以下、省略)
十二月十日                  野村宗七拝
玄蕃頭 様
五代友厚様

その3ヶ月後の明治2年(1869)3月9日、長崎府判事井上聞多・野村宗七とグラヴァーとの間で、次のような約定書が交わされた。

一.英国商人ガラバ商社と、同社に於いて、長崎府判事は和暦2月29日に小菅浦スレップヘールリングドックに付いて左の件々を約した。
一.右ドックの代価は洋銀12万ドルにてわが国官府で買入を取り決めた。
一.右代価の内、6万ドルは和暦3月11日に払い入れ、即日、小菅浦ドックならびに付属の地所、諸品とも、目録の通り取り立てるべき事。
一.和暦3月11日より小菅浦ドックはわが国官府の付属と為すべき事。
一.洋銀が無い場合は、わが国通貨にてその時の市中普通相場を以って比較し、渡すべき事。
一.右ドックを官府に付属させてから1ヵ年内に、ドック並びに築立石垣等に自然災害を蒙った時は、ガラバ商社に於いてこれを補うべし。
明治二年巳三月            長崎府判事 野村宗七井上聞多
Mr. Glover Esq.
ムメストル ガラバ エスクワイル

ここで、「ガラバ商社」とはグラヴァー商会のこと。「スレップヘールリングドック」とはオランダ語の slephelling dok のこどて、曳揚傾斜路式ドックを意味する。英語では slipway またはpatent slip と称する。

長崎府は太政官に宛てて、同月付けの修船場施設の買上げに関する伺い書を提出している。それには、
① グラヴァーが建設した修船場は大阪大蔵省に於いて13万両で官府が買い取ることにしていたが、12万両で約定したこと
② 払入割合は、当節に洋銀で6万枚、12月に洋銀で6万枚、うち、2万枚は長崎府で出銀すること
③ もしも、外国人所有の大浦製鉄所に売り渡された場合、官府支配の稲佐製鉄局の大害となるので約定した
としている。

この文書にある「大浦製鉄所」とは、上海に拠点を持つイギリス系のボイド社(Boyd & Co. )のことで、長崎の大浦居留地内に舶用機械修理工場を持っていた。当時、グラヴァーは多額の債務を負っていて、資金繰りに窮していた。「稲佐製鉄局」とは、稲佐郷飽の浦にある製鉄所を意味し、飽の浦製鉄所(長崎製鉄所本局)のことである。なお、洋銀1ドルはわが国の1両とほぼ等価であった。

長崎府判事で製鉄所掛を兼務していた井上聞多は、長崎製鉄所の経営に苦しんでいたことから、小菅浦に建設中だった修船場の買収を検討するようになり、明治1年(1868)1月には、長崎府判事の大隈八太郎(重信)と楠本平之丞(正隆)が修船場建設で現場代理人となっていた岩瀬徳兵衛(公圃)に対して関連資料を要求するなどしている。

岩瀬徳兵衛は、維新前はオランダ通詞であったが、慶應4年(1868)2月に五代才助が新政府に出仕して大阪在勤となったことから、五代の代理人として建設現場を取り仕切っていた。後に、平野冨二と東京で親しく付き合ることになる。

<小菅修船場の設備概要>
小菅修船場は、元治2年(1865)2月頃、薩摩藩が長崎の御用商人を通じて長崎奉行に願書を提出し、翌慶應2年(1866)4月、認可を得て、長崎戸町小菅浦の谷間と周辺の田畑を修船場用地として取得したことに始まる。

当初は、鴻池などの大阪商人から融資を受けて、薩摩藩単独で修船場を建設する計画であった。その後、五代才助がヨーロッパでモンブランの協力によりベルギー政府との合弁事業の一つとして浮上ドック式修船設備(オランダ語でdrij dok)が提案されたが、最終的に、薩摩藩代表小松帯刀・グラヴァー兄弟社・グラヴァーの3者の合資によりソロバンドックと称される曳揚傾斜路式ドックが建設されることになった。

薩摩藩が取得した小菅浦の土地に、船舶を収容できる一定の幅と傾斜の用地を海面下まで造成し、土中に木杭を打ち込んで地盤を補強した。そこに、グラヴァーがイギリスから輸入したレールを敷設して、蒸気船を海上から陸上に曳き揚げるための台車と曳揚機を用意した。

建設に当たって、木材・石材・レンガを除く機械設備と資材は、グラヴァーの手配により、イギリスから輸入された。

船体曳揚用台車は、あたかもソロバンを上下逆にしたように多数の車輪を備えた幅約7.4m、長さ約34mの台車で、その上に船架が設置されている。船架は、陸上に曳き揚げられる船体を上架し、船腹を支えて横転を防止する装置である。

台車の牽引は、チェーンを介して蒸気式曳揚機によって行われる。曳揚機に付属して牽引用チェーンの延長/短縮装置がある。

小菅修船場の施設概要
用 地:5,443坪(約18,000㎡)
船 架:長さ110ft(約34m)、幅24ft4in(約7.4m)、約1,000トンまでを上架。
曳揚機:4段減速曳揚機、25馬力竪型2気筒蒸気機関、ランカシャ型ボイラ
軌 条:長さ174m、中央軌条は歯型軌条と一体。
小屋類:曳揚機小屋、鍛冶場、人足小屋、大工小屋、木挽小屋、造船小屋など
ドック使用料:3日間、船舶トン当たり3ドル。

現在の小菅修船場跡
海に向かって緩やかに下る斜面と中央にある歯型軌条付レールは
当初のままのものと見られる。
左右の線路とその上の台車群は、戦時中に改造されたもの。

曳揚機小屋
小屋の煉瓦積は建設当初の物で、
現存する日本最古の煉瓦造建築とされている。

小屋の中央から延びる装置は牽引用チェーンの延長/短縮装置である。
左右にある電動式巻上機は後年に設置されたものである。

四段減速曳揚機(手前)とランカシャ型ボイラ(奥)
4枚の大歯車によって減速され、
4段目の大歯車軸にチェーン用歯車がある。
このチェーンは屋外にある歯車と環状に巻かれ、
台車牽引用チェーンと接続される。
熱を遮蔽する煉瓦壁の奥にボイラが設置されている。

<平野富次郎による修船事業>
明治2年3月11日(西暦1869年4月22日)、政府からグラヴァーに初回の入金がなされ、小菅修船場は日本政府に引き渡された。

同時に、小菅修船場は長崎府所管の長崎製鉄所付属となり、元締役品川藤十郎と機関方平野富次郎が小菅諸務専任に任命された。品川藤十郎は営業・渉外を担当し、平野富次郎は技術・工事を担当し、小菅分局として飽の浦本局から分離独立した形で経営を任された。このとき、品川藤十郎は数え年51、平野富次郎は24だった。

同月12日、速やかに技術力を確保する必要から、2人の外国人技術者を雇い入れ、平野富次郎の配下とした。イギリス人修船頭ブレイキー(Blaikie、月給250円)とイギリス人水夫頭ダグラス(Douglas、月給65ドル)がそれで、この2人はグラヴァーが修船要員として雇い入れていた者たちであったと見られる。ブレイキーは、後年、平野冨二の造船事業に協力している。

約1年後の明治3年(1870)2月になって、イギリス人船工職ジル(Gill)とジョンソン(Johnson) を雇い入れている。

明治2年(1869)3月に長崎製鉄所付属小菅修船場として開設以来、品川藤十郎と平野富次郎の努力により16ヵ月間(明治3年6月末まで)で純益1万8千円を計上した。

グラヴァー経営中の1869年1月18日から同年4月11日までの3ヶ月若の収入は4,745ドルで、稼働経費3,628ドルを差し引くと、純利益は1,117ドルであったと記録されている。当時のドルと円はほぼ等価であるので、平野富次郎はグラヴァーよりも優れた業績を上げていたことが分かる。

小菅修船場の経営は、明治3年(1870)閏10月16日に品川藤十郎が退職し、続いて明治4年(1871)3月16日に平野富次郎が工部省移管に伴い退職した。同年4月9日、長崎製鉄所は小菅修船場を含めて長崎府から工部省に移管された。

長崎県立図書館蔵とされる「小菅揚架船明細表」などの資料によると、小菅修船場の稼働状況は、次の通りである。参考に工部省移管後の明治8年までを加えた。

西暦年度 隻数 合計トン数     備考
1869年  30   11,973  最大1,150トン、2ヶ月間1隻、21日間2隻。
1870年  24   11,707  最大1,633トン、ロシア船2隻も利用。
1871年  16     6,514  和暦4月9日に工部省移管。
1872年  15     5,059  和暦6月、明治天皇視察。
1873年  23     8,005  イギリス人技師3名雇用。
1874年  26   10,226
1875年  11     4,848  造船小屋1棟新設。

<その後の動向>
明治17年(1884)7月7日、工部省から郵便汽船三菱会社に貸与され、三菱長崎造船所となった。明治20年(1887)6月7日になって三菱に払い下げられた。

昭和11年(1936)7月、史蹟名勝天然記念物保存法により、文部大臣によて史蹟として指定を受けた。

第二次世界大戦中に軍用舟艇の製造を行うため、旧来の台車は撤去され、複線の線路を左右に敷設した。小型台車は、新たに設置された電動式巻上機によって曳き揚げが行われた。現在、その遺物が残されている。昭和28年(1953)に小菅修船場は閉鎖された。

平成27年(2015)7月、「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録された。現在、一般に無料公開されている。

2018年3月28日 稿了

官営時代の長崎製鉄所(その2)

前回の「官営時代の長崎製鉄所(その1)」では、長崎製鉄所の頭取役である本木昌造と吉田鶴次郎の二人が退職願を提出したところまでを述べた。
今回は、その後の動向と、長崎県から工部省への移管、工部省による郵便汽船三菱会社への貸与されるまでを述べる。

<青木休七郎による専横経営>
本木昌造と吉田鶴次郎の製鉄所頭取役辞任の動きのある中、明治2年(1879)9月3日、製鉄所助役だった青木休七郎は、県庁職員としての権大属、庶務掛兼裁判所弁務に任命されると共に、製鉄所役頭取兼勤を申し付けられた。

明治2年9月初旬に出された製鉄局手割書によると、頭取1人(兼勤 青木休七郎)、頭取助2人(牧斐之助、本庄寛次郎)、元締役3人(加藤雄次郎、野田耕平、品川藤十郎)、元締役助2人(香月新助、平野富次郎)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、機関方4人(吉田新、矢島良之助、御幡栄三、戸瀬昇平)となっている。

この人事では、本木昌造と吉田鶴次郎の退職を前提にして決められており、暫定人事と見られる。なお、この職制では、以前とは相違して機関方の前に勘定役と勘定役助が置かれており、技術よりも経理を重視することが覗える。

同月中旬に行われた人事異動は、退職を申し出ていた頭取役2人の処遇が決まったことにより発令されたと見られる。それは、頭取役1人(機械伝習方懸 本木昌造)、製鉄所頭取1人(兼務 権大属 青木休七郎)、頭取助役3人(吉田鶴次郎、牧斐之助、本庄寛次郎)、元締役3人(加藤雄次郎、野田耕平、品川藤十郎)、元締役助2人(香月新助、平野富次郎)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、第一等機関方1人(松尾良助)、第二等機関方3人(戸瀬昇平、塩沢善十郎、藤川喜多助)、第三等機関方2人(吉田新、矢島良之助)、機関方1人(御幡栄三)となっている。

この人事では、退職を願い出ていた本木昌造と吉田鶴次郎の2人の処遇を反映したもので、本木昌造は製鉄所筆頭ではあるが、経営には関与しない役職となっている。吉田鶴次郎も頭取助に降格させて、名目だけ残されている。その他については、9月初旬に出された手割書と同じであるが、機関方は等級別に表示されるようになり、人数が増えている。

続いて発令された同月下旬の人事異動では、頭取1人(権大属 青木休七郎)、頭取助4人(牧斐之助、野田耕平、加藤雄次郎、品川藤十郎)、元締役1人(香月新助)、元締役助2人(平野富次郎、吉田新)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、第一等機関方1人(松尾良助)、第二等機関方3人(塩沢善十郎、戸瀬昇平、藤川喜多助)、第三等機関方4人(矢島良之助、藤田新助、伊藤一郎吉、青木休三)となっている。

この異動では、本木昌造と吉田鶴次郎の名前は消え、頭取青木休七郎の意を体する経理部門は「青木―牧―香月―片山」の人脈により運営される体制が整ったと見られる。
このときに制定された「則」によると、飽之浦本局と小菅分局の経理は完全に分離された。そのためか、小菅諸務専任の品川藤十郎と平野富次郎は共に一段階の昇進となっている。

<青木体制下の本木昌造と平野富次郎>
本木昌造は、退職願を提出して以降、製鉄所には出勤しなかったと記録されている。しかし、先に招聘していた上海美華書館のギャンブルが10月に来日することになったため、製鉄所掛から本木昌造に宛てた明治2年10月付けの文書で、「その方は、かねてから活字製造技術を心得ていることから、新聞局掛の者と相談して、その技術を完成させるよう尽力すること。」(意訳)として、ギャンブルによる活字製造技術の伝習に協力するよう要請された。

ギャンブルによる伝習は、長崎市内の興善町にある元唐通事会所に活版伝習所を設けて、明治2年10月初旬から翌年2月末まで行われた。本木昌造は、それまで自分に協力してくれた本木一門の者たちを引き連れて活版伝習に協力するとともに、自らも伝習を受けた。

本木昌造は、ギャンブルにより伝習を終えた直後の明治3年(1870)2月末日、正式に長崎製鉄所を退職した。

なお、長崎県付属だった新聞局は、明治3年5月16日、製鉄所付属となり、新聞発行と活版製造は製鉄所内の一つの組織として運営されるようになった。

一方、平野富次郎は、小菅諸務専任となってから、小菅修船場で順調に工事をこなし、着実に成果を挙げていた。

明治2年10月頃になって、平野富次郎は、長崎県の知県事野村宗七に対して、立神ドック建設に関する建言書を提出した。それは、長崎製鉄所で本格的な船舶の建造と修理を行うために、小菅修船場で得た純益金を投資して立神地区にドック(船渠)を建設するというものであった。これによって、長崎に来港する内外の大形船舶を受入れて修理を行なうことで長崎の繁栄の一助とすると共に、建設工事の実施により職を失った長崎市民の失業救済のもなることを提言した。

これを受けた野村知県事は、大阪造幣頭となっていた井上聞多に上申書を提出し、同年12月13日付けで、大阪出張大蔵省によって認可された。

それに先立つ同年11月、製鉄所職制の中に、新たに「ドック取建方掛」が置かれ、頭取青木休七郎、頭取助(小菅諸務専任)品川藤十郎、元締役助(小菅諸務専任)平野富次郎、第一等機関方戸瀬昇平らが任命された。

<経理不正事件と経営陣の刷新>
明治3年5月、青木休七郎は製鉄所専任を命じられたが、同年6月、大阪出張大蔵省に出向となって、事実上、製鉄所では頭取が不在となった。

同年秋の「改正 職員録」によると、「〇製鉄所」の表示の後に、土肥少参事、白木権大属、青木権大属の県庁職員3人の名前が列記されており、それに続いて、頭取助1人(牧斐治)、頭取心得2人(野田耕平、品川藤十郎)、元締役2人(香月雄記、平野富次郎)、勘定役助1人(片山逸多)、第一等機関方1人(松尾凌多)、第二等機関方1人(戸瀬昇平)、第三等機関方1人(伊東一郎吉)となっている。

   

         明治3年秋の「改正 職員録」         冊子の奥付に相当するところに、
庚午秋 長崎新聞局 開版 と朱印が捺されている。

当時の秋は、旧暦の7月から9月までを示す。6月に青木頭取が大阪に出向して不在となったことから、県庁職員が製鉄所掛を兼務して、その役を補っていたと見られる。

なお、同年5月3日、民部・大蔵大丞山尾庸三が長崎製鉄所を含めた製鉄所事務総管に任命されており、民部省・大蔵省が長崎製鉄所の経営に深く関わるようになっていた。

本木昌造は、既に製鉄所頭取役を退いて経営に関与することはなく、青木休七郎も大阪出向により、事実上、製鉄所の経営に直接関与することが不可能な状態となった。

この人事異動により元締役助から元締役に昇進した平野富次郎は、頭取不在の状況に対処するため、製鉄所の諸事を幹部職員の合議により運営することを上申した。その結果、小菅諸務専任であった品川藤十郎と共に、同年7月から、飽之浦本局に勤務して製鉄所頭取職を合議制で運営することを命じられた。

同年8月22日、製鉄所職員は等級に応じて官禄を支給されるようになった。これは、県庁職員の官禄に比較して製鉄所職員の手当・褒賞が過大であることが問題となり、その是正が行われたことによる。

これまで、製鉄所職員は、官からの食禄を辞退する代わりに、製鉄所の利益金の中から手当を支給し、製鉄所が盛大な利益を得た場在には、前利益の8分の2を褒賞として支給することになっていた。青木一派は、これを悪用して、経理操作により利益を水増ししていたことが疑われ、大阪出張大蔵省からの調査が行われていた。

同年閏10月16日、平野富次郎は、製鉄所元締役のまま、県庁職員の資格である権大属に任命された。その時の製鉄所人事異動では、頭取心得品川藤十郎は退職、勘定役飯島與八郎、勘定役助片山逸多、第一等機関方松尾凌多の3人は元締役に、職方差配役吉田国太郎が元締役助に昇進し、第二等機関方戸瀬昇平は退職した。

平野富次郎の権大属辞令
この辞令は平野家に保管されている。

上記異動のあった翌日、頭取助牧斐治と元締役香月雄記の2人は「逼塞差し免じ候事」とされ、翌日に退職した。また、元締役となった片山逸多も、同年11月29日、「風聞宜しからず候につき、暇を申し候」とされて退職した。その結果、頭取心得の野田耕平については詳らかではないが、名目上の出向県職員は別として、権大属で元締役の平野富次郎が製鉄所職員のトップとなって、新任の元締役2人と共に製鉄所の経営を担うことになった。このとき、平野富次郎は数え年25であった。

<工部省への経営移管>
明治3年(1870)閏10月20日、民部省の一部を独立させて工部省が新設された。同日付けで、民部権大丞山尾庸三は工部権大丞に任命された。

山尾庸三は、幕末にイギリスへ密航留学した「長州ファイヴ」の1人で、維新後の慶応4年(1868)11月に帰国して、郷里に帰っていた。明治3年4月に上京して新政府に出仕し、民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられた。

同年閏10月から11月にかけて行われた長崎製鉄所の経理責任者処分を受けて、事実上、長崎製鉄所の責任者となった平野富次郎に対して、同年11月付けで東京からの調査官派遣に対する準備を申し渡された。

明治4年(1871)1月7日、民部権大丞山尾庸三が長崎に到着し、9日から長崎製鉄所に出向いて、平野富次郎を相手に帳簿類の調査を行った。先に大阪出張大蔵省が調査したときの帳簿と元帳とを比較したところ、不都合な個所が次々と見つかった。

同月20日、これらについて説明を求められた平野富次郎は、的確に応えることができず、翌日、進退伺を提出したが、遺留されて引き続き旧帳簿の調査を続けるよう指示された。富次郎にとっては、それまで小菅庶務専任であったため、旧帳簿の内容を説明できる立場ではなかった。

平野富次郎は、同年3月16日、県職員としての権大属を返上し、長崎製鉄所を退職した。しかし、その後も、御用に応じて出勤するよう長崎県から要請されていた。

官営となった長崎製鉄所での平野富次郎の昇進は目覚ましく、慶応4年(1868)8月に機関方として製鉄所職員に登用されて以来、同年12月には第一等機関方となり、明治2年(1869)3月には小菅庶務専任、同年9月には元締役助、同年11月には立神ドック取建掛兼務、明治3年(1870)秋には元締役、同年閏10月には権大属に任命され、わずか2年3ヶ月で長崎製鉄所の事実上のトップとなった。

一民間人となった平野富次郎は、自分の手掛けた立神ドックが未完成のまま廃棄されることを憂えて、この施設の完成から経営までを自分に委託するよう願い出た。しかし、この願いは実現されず、明治7年(1874)まで放置された。

<工部省による長崎製鉄所の経営>
明治4年(1871)4月7日、長崎に出張してきた工部権大丞山尾庸三は、長崎県から長崎製鉄所と小菅修船架の引き渡しを受け、工部省十一等出仕岡部仁之助(利輔)を所長とした。

このとき、製鉄所付属新聞局活字一課にある活字・諸器械が大学南校に引き渡されることを知った山尾庸三は、「活字の製作は工部省の役割であるので、認められない。しかし、これまで長崎で造った活字類は残らず大学南校に引き渡す」旨の申し出を太政官に提出した。

これに先立つ、前年11月20日、長崎県は、製鉄所付属新聞局が保有する設備と人員を、大学に移管する旨の希望を書面にして太政官に提出しており、同年12月15日、大学は、「活字と器械類を南校で必要としている」として、受け入れを申し出ていた。

工部省に移管された長崎製鉄所は、明治4年8月9日、「長崎造船所」と改称し、同月14日、本省内に造船寮を置いて、その下に属させた。

同年11月22日、勧工寮内に活字局を設けて、もと長崎新聞局活字一課の人員と活版製造設備一式を東京の赤坂溜池葵町にある旧伊万里県出張の屋敷跡に移転させた。

明治5年(1872)6月16日、明治天皇の臨幸に際して小菅修船場を視察し、雇修船長ブレイキーらに賜物された。

 

 

 

 

 

 

 

 

『明治天皇行幸所小菅修船場趾」碑      「長崎製鉄所跡」碑(飽の浦門前)

同年10月20日、造船寮を廃して製作寮と合併させ、長崎造船所を「長崎製作所」と改称した。また、明治10年(1877)1月11日、製作寮を廃して工作局が置かれたことに伴い、「長崎工作分局」と改称した。

それに先立ち、明治7年(1874)5月27日、製作寮六等出仕渡邉嵩蔵が所長となり、同年6月7日、立神ドックの再築工事を開始。明治11年(1878)5月21日、立神ドックが竣工し、工部卿井上薫により開業式が挙行された。

この立神ドックの再築は、明治4年から明治9年までの間は、船舶修理と器械製造・修理は僅少であったが、明治10年の西南戦争により工事量が増加し、諸工場の新設や器械設備の改良等に着手した一環として行われたものである。

明治16年(1883)9月22日、工作局が廃止されたため、「長崎造船局」と改称し、渡辺嵩蔵が局長となり、翌年6月3日、船舶会社に長崎造船局工場を貸与することを太政官に稟請した。これは、長崎港の商売が日増しに衰退し、船舶の出入りが減少したため、明治15年度から欠損を出すに至ったことによる。

政府の対応は素早く、同月11日、工場を岩崎弥太郎に交付すべきであると決め、同月12日、郵便汽船三菱会社社長岩崎弥太郎は長崎造船局を拝借したい旨を工部卿伊藤博文宛ててに請願した。同月23日には、岩崎弥太郎の拝借願は正式に認可され、翌日、貸渡条約書の調印が行われた。翌月の7月7日には、長崎出張工部少書記官から岩崎弥太郎に引き渡されて、「長崎造船所」と改称された。

2018年2月26日 稿了

官営時代の長崎製鉄所(その1)

<幕営から官営への移行>
慶応4年(1868)1月14日の夜、密かに長崎を退去した長崎奉行河津伊豆守裕邦は、長崎を対外警備する肥前・筑前両藩に後事を託していた。

しかし、両藩は形勢傍観するのみであったことから、長崎に駐在していた土佐藩の佐々木三四郎(後の佐々木高行)が海援隊を引き連れて西役所に乗り込んで警備に当たり、薩摩藩の長崎駐在松方助左衛門(後の松方正義)は長崎奉行の配下にあった遊撃隊に対して説得に当たって協力させた。同時に、長崎駐在の諸藩有志を糾合して長崎会議所を設けた。

同年2月14日、九州鎮撫総督澤宜嘉が同参謀井上聞多(長州藩、後の井上薫)を伴って長崎に入り、同月16日、長崎裁判所を設立した。井上は、長崎裁判所参謀となって、諸藩有志の中から抜擢して陣容を整えた。

長崎裁判所は、取りあえず、長崎奉行所の行政組織をそのまま引き継いでスタートした。したがって、長崎製鉄所は、その支配下になった。

同年閏4月21日、管制改革で七官制となり、地方を府・藩・県とした。これにより、澤は長崎府知事、井上は長崎府判事兼外国官判事に任命され、同年5月4日、長崎裁判所は長崎府に改められた。同時に大隈八太郎(佐賀藩、後の大隈重信)、野村宗七(薩摩藩、後の野村盛秀)も府判事(共に外国官判事兼務)に任命された。しかし、大隈は、前月18日に長崎を発って大阪に派遣されていた。そのため、5月29日に元長崎裁判所権判事だった楠本平之丞(大村藩、後の楠本正隆)が府判事に任命された。大隈は8月22日になって長崎府判事を免じられた。

このとき府判事となった大隈、野村、楠本の3人は、後年、平野富二が上京して事業を興してから何かと支援してくれた人たちである。

<井上聞多、製鉄所御用掛に就任>
当時、長崎府の財政は逼迫していたため、井上府判事は、その応急策として長崎製鉄所を独立採算できるように改革することを建言して、同年6月19日、外国官判事はそのままで、長崎府製鉄所御用掛となった。

この時の政府から井上に宛てた達書には、「今般、維新により海陸の武備を拡張されるに当たって、長崎製鉄所は最も必要とする設備であることから、速やかに規則を厳重に制定し、従来の悪弊を一掃して、天下の武器を十分保繕できるようにしたいとの思し召しである。よって製鉄所御用掛を仰せ付けられるので、その取り締まりに尽力するようとのご沙汰である。」(意訳)と記されている。

幕末の長崎製鉄所全景写真(「ボードイン・コレクション」から)

製鉄所御用掛となった井上による新しい職制と人事が発令される前の慶応4年7月4日付の井上に宛てた書面で、青木休七郎、以下15名の製鉄所職員一同が、「向後、会計局より御下ケ金一切御廃止くだされ、掛の者一同の食禄も返上し、粉骨砕身、当局と存亡を共に致し、奉功つかまつりたし」(要約)と申し出ている。

この時点では新組織が未決定であるとは言っても、上司となる頭取役を差し置いて、このような申し出をする青木休七郎は、もともと長崎で貿易を営む商人で、一時期、紀州藩御用を勤めたことがあったが、悪評の伴う人物であった。その才覚を買った井上が、自分の代人として抜擢したと言われている。

製鉄所改革の第一歩として、慶応4年7月24日、新たに職制と人事が示された。
その時の『長崎府職員録』によると、製鉄所頭取役2人(本木昌造、吉田鶴次郎)、助役1人(青木休七郎)、元締役5人(牧斐之助、本庄寛次郎、野田耕平、加藤寛次郎、品川藤十郎)、機関方3人(吉田新、矢島良之助、御幡栄三)、勘定役4人(香月新助、飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、機関方見習4人、下役3人、伝習の者15人に対して辞令が交付された。同年8月になって、機関方として3人(平野富次郎、松尾良助、戸瀬昇平)が追加任命された。

 

 

         『長崎府職員録』(慶応4年8月)

同年9月8日には改元して明治となるが、その6日前に井上は佐渡県知事に任命された。しかし、井上は、伊藤博文に長崎留任の斡旋を依頼した結果、10月17日に佐渡県知事を免じられて、長崎府判事に復任し、製鉄所の経営も任されることになった。

<井上聞多、製鉄所掛解任とその間の事業改革>
明治2年(1869)3月、井上は大阪において参与副島種臣に提出した意見書に、「諸器械・船等外国へみだりに注文または買入は厳禁すべし。是非とも横須賀・長崎両所において作るべし。就いては、山尾庸三を横須賀へ全任下されば、長崎と申し合わせ、死力を尽くさんと欲す。」とした。

一旦、長崎に帰った井上は、岩倉卿に呼ばれて再び大阪に上り、瓦解に瀕しつつある政府の現状と国家の危機救済について懇談した。その結果、同年6月21日、井上は会計官判事として通商司知事勤務を仰せ付けられ、大阪在勤となった。

その間の同年4月、長崎製鉄所では、頭取名で出された達書に、「近来、上下隔絶の模様も見聞に及び」、「上下の差別なく直言申し立てらるべく候。」として、組織内での派閥化を匂わせている。

井上が製鉄所御用掛に任命された慶応4年(1868)6月19日から、通商司知事として大阪在勤となった明治2年(1869)6月21日までの1年間に行われた長崎製鉄所の事業拡張の試みは次のようなもので、雑業的多角経営を目指していた。
(1)  イギリス式元込銃の製作、(2) 浜町の鉄橋架設、(3)  伊王島の燈明台建設、            (4)  精米機械の製作と精米事業の運営計画、 (5) 小菅修船場の買収。

<本木昌造の動向>
この間、本木昌造は、慶応4年1月14日の長崎奉行退去に当たって、製鉄所取扱方を命じられて長崎製鉄所の後事を託された。2月には、自宅待機していた平野富次郎を製鉄所機関手として復帰させている。

5月には、井上判府判事の命を受けて、修繕が必要となった政府輸送船「朝暘丸」の損傷報告と修理費受け取りのため京都に派遣された。京都では大阪の高麗橋架け替え工事と浚渫機械製造を請負い、長崎に戻った。

同年7月24日の製鉄所辞令で製鉄所頭取役に就任した。同時に、製鉄所伝習掛として機関方見習の者たちに技術教育を行い、また、長崎府新聞局にも関与して、8月には月刊誌『崎陽雑報』を発行、9月には上海美華書館から印刷設備を購入(?)している。

明治2年6月になって、『崎陽雑報』を第12号で廃刊せざるを得なくなった。その理由は、製鉄所に委託製造していた活字版を、西欧並みに迅速に製造することができず、日夜、苦心していたことによる。

同月、製鉄所役を通じて長崎府に願書を提出して、「上海美華書館の活字師ガンブル(ギャンブル)が避暑のため長崎に来港するので、4ヶ月間の契約で製鉄所に雇入れ、活字版製造技術を残らず伝習したい。」と願い出た。しかし、ギャンブルの都合によってか、同年10月に通知がくるまで延期された。

<平野富次郎の動向>
一方、平野富次郎は、慶応4年5月、政府輸送船「朝暘丸」に乗組んで兵庫に向かったが、下関でプロペラの車軸が折損し、風帆を使用して長崎に戻った。このとき、大阪に向かう大隈八太郎が乗船していて、親しく将来のことを語り合い、支援の約束をしてくれたという。

同年12月18日には、機関方に対して等級と御扶持・業給金が定められ、富次郎は第一等機関方に任命され、1ヵ年に付き10人扶持、業給金18両を支給されることになった

明治2年3月、グラバーから製鉄所付属となった小菅修船場を管理する小菅庶務専任となり、同じく専任となった品川藤十郎と共に、製鉄所本局から独立した形で経営を任された。これは、青木一派が本木一派である品川と平野を本局経営から隔離したとも、本木昌造がふたりを青木一派の経営から遠ざけるために配慮したとも考えられる。

<本木昌造の頭取役辞任>
長崎府は、明治2年(1869)7月17日、長崎県となって、府判事だった野村宗七が知県事に就任した。それにもかかわらず、青木一派による頭取役2人を差し置いた専横が続いた。

その間、本木昌造は、同年8月、奉願口上書を提出して、肝胃の病気を理由に辞職を願い出た。これに対して県当局は、「書面願いの義は詮議に及び難く、とくと養生すること。」として辞職を認めなかった。

同年9月5日になって、本木昌造は、「何分格別の御憐愍を以って‥‥御暇下し置かれ候様」として再度辞職を願い出た。県当局は、「製鉄所頭取は差し免じるが、製鉄所機械伝習方懸頭取を申し付ける。局中の諸事取締向も心得るべき事。」とした。

これに対して本木昌造は、同月21日に、「今般、仰せ渡された職名については御免じ仰せ下さるよう願い奉る。もっとも、機関方、その外、幼年の者の教育については不肖を顧みず尽力する。」として、公式の職務は辞退した。

同僚の吉田鶴次郎も、同年8月、肺病を患っていることを理由に辞職を願い出ている。

2018.1.31 稿了

幕営時代の長崎製鉄所と平野富二

<長崎製鉄所の第一期工事竣工とその設備>
長崎製鉄所は文久1年(1861)3月25日に竣工した。それは長崎港内の飽ノ浦において安政4年(1857)10月10日に起工して、3年5か月後のことであった。その間、木材、煉瓦と瓦以外の資材・機械類をオランダから輸入し、オランダから派遣された技術者や職長たちの指導により完成した。

竣工したときの長崎製鉄所の製造設備は、鋳物場、鍛冶場、轆轤盤細工所、小細工場と仮舎蜜所で、付属施設として諸物置、石炭囲所、諸器械置場、蒸気機関室が設置され、轆轤盤細工所に図引所が付属して設けられた。その他に、波戸、表門、掛支配向・地役人詰所、蘭人住居があった。

長崎製鉄所第一期工事竣工時の工場平面図
工場の右手は長崎湾で、下手は飽ノ浦の海面を示す。
破線で示した施設は追加建設予定の施設。

設置された工場設備を見ると、鉄や銅類の鋳物を製造し、鉄素材を鍛造して成型し、それらを工作機械で加工するまでの設備であることが分かる。上記工場略図には示されていないが、当然、加工した機械部品を組み立て、完成した機械を試運転するまでの施設があったと見られる。なお、仮舎蜜所は仮設のガラス工場のことで、船舶に用いられるガラス窓やランプなどのガラス製品を造る工場と見られる。

この工場施設が設置された長崎飽ノ浦は、水深が岸近くまで深く、容易に大型船舶を接岸できることから選ばれたものであるが、この時点では、蒸気機関に必要な汽缶製造設備や、修理する船舶を接岸するための岸壁も未だ整備されていなかった。

船舶の建造や本格的な船体修理を行う施設がなければ造船所としての機能はなく、そのため、鉄製品を製造する施設として「製鉄所」と呼ばれた。また、将来、本格的な造船所とすることを目指して、この段階で第一期工事の竣工としたと見られる。

竣工に先立ち、万延1年(1860)12月26日、オランダ側の建設責任者である海軍機関将校ハルデス(H. Hardes、1815~   )の在留期間を1861年5月1日(文久1年3月24日)まで延長、機関方のファン・アーケン(J. M. van Aken、1826~   )とラスコイト(D. Lasschuit、1813~   )の2名は1866(慶応2)年まで、職長たち7名は1862(文久2)年まで延長している。

ハルデスを除くオランダ人たちは、第一期工事竣工後の長崎製鉄所での技術指導のために滞在を延長され、飽ノ浦の製鉄所に隣接して建てられた蘭人住居に居住していたと見られる。

<長崎製鉄所での技術者育成>
わが国で初めての近代的舶用機械製造工場として建設された長崎製鉄所を運営して行くには、早急に日本人の「機関方」(エンジニア)と称する機械技術者を養成する必要があった。

長崎製鉄所の起工に先立ち、安政2年(1855)10月22日、日蘭和親条約の締結と同時に長崎海軍伝習所が開所され、幕府伝習生に対してオランダ海軍により洋式海軍の伝習が行われた。ここでは、海軍士官と要員の養成を目的とし、長崎製鉄所の技術者養成は対象とされてはいなかった。

そのため、長崎製鉄所の竣工を期に機関方の養成が行われることとなり、急遽、長崎地役人の中から機関方として適性のある者の人選が行われた。その際、機関方見習として伝習を行うために製鉄所内の掛支配向・地役人詰所の一室を教室としたと見られる。製鉄所内には見習生の宿舎は見当たらないので、見習生は長崎市内から西役所横の大波止から小舟に乗って通学したと見られる。

オランダ通詞の本木昌造は、文久1年(1861)3月、伝習掛兼務を命じられ、伝習責任者として主体的に伝習に関わり、主としてオランダ人機関方2名が、機関方見習として配属された者たちに直接教授したと見られる。

なお、記録には見当たらないが、日本人教師として吉田鶴次郎が加わっていた可能性がある。吉田鶴次郎は、長崎地役人の中から選抜されて長崎海軍伝習所の幕府伝習生として「蒸気機械方」・「火焚取締方」要員育成の伝習を受けた。この時に伝習を受けた主要メンバーは、伝習を終えて練習船「観光丸」で江戸に向かったが、吉田鶴次郎は、続いて行われた補充伝習(第二期伝習)にも参加し、その後、長崎奉行所支配定役となり、維新後は、本木昌造と共に長崎製鉄所の頭取役に就任している。

<特例選抜された矢次富次郎>
製鉄所機関方見習として採用された者たちの一人として矢次富次郎(後の平野富二、数え年16)が居た。

富次郎は、数え年12で隠密方御用所番見習として長崎奉行所に出仕していたが、抜擢されて製鉄所機関方見習となった。この抜擢は、特例中の特例として扱われたらしく、長崎奉行所の文書である『安政七年 外務課事務簿』の中に、次のような趣旨の記述があることを長崎在住の宮田和夫氏が見付けられた。

町司矢次和一郎の弟矢次富次郎については、製鉄所御雇いを仰せ付けられるに当たって、以後、次に該当する者に限り人選するよう申し付けたとして、「部屋住みの内に年頃の者が居ない時は、無給または本見習いの者たちでも、相応の者を選んで申し立てて良いが、二男、三男などの厄介は容易には申し立てをしてはならない。」という指示が出された。

文中にある「部屋住み」とは、武家の嫡男が未だ相続をしない間の身分、または、次男以下の者たちを指す。また。「厄介」とは家禄を支給されている長男の下で生活している二男以下の者たちを指す。長崎では地役人は、身分は別として、武家並みの扱いをされていた。

このとき、杉山徳三郎も製鉄所機関方見習として配属され、矢次富次郎と共に伝習を受けた。杉山徳三郎は、長崎海軍伝習所での補充伝習(第二期伝習)で番方として砲術の伝習を受け、終了後は、一代町司となっていた。

なお、富次郎が長崎奉行所で所属していた隠密方について、「隠密」と言うと「忍びの者」を連想されるが、実際は長崎奉行の特命事項を実行する役目である。隠密方の役割を示す一つの例として、長崎奉行が長崎に於ける艦船整備の一環として、長崎表で当時船を製造できる者の存否を隠密方に調査させたことがある。

嘉永7年(1854)2月に隠密方から長崎奉行に提出された調査報告書によると、「出島に在留するオランダ外科医(ファン・デン・ブルーク)が所持していた蒸気船絵図を、オランダ通詞本木昌造が少しずつ見覚え、下筑後町大工藤太郎に金を与えて蒸気船を細工させている。近頃、完成した様子であるが、まだ、蒸気装置の試運転までは行っていないとのこと」としている。

この隠密調査は、時期的に見て、富次郎の奉行所隠密方出仕以前のことであり、富次郎と本木昌造との接点にはなりえない。

長崎製鉄所における富次郎らの見習生たちは、本木昌造の指導の下、2年間の伝習を終えて、正式に機関方となった。つまり、長崎製鉄所の技術職員となったことを示す。

この間、江戸から軍艦操練所の蒸気方教官肥田濱五郎が長崎に出張に来ていたので、富次郎らの見習生たちは教えを受けたり、設計作業に参加させてもらったりした可能性がある。

肥田濱五郎は、長崎海軍伝習所の第2期伝習に参加し、伝習終了後は江戸軍艦操練所で教授方となり、蒸気船「咸臨丸」で渡米。帰国後は国産砲艦「千代田形」の蒸気機関の設計・製造を担当して長崎に出張して来ていた。後年、平野富二が東京で造船業に進出してから多くの協力を得ている。

<伝習責任者となった本木昌造>
本木昌造は、万延1年(1860)10月、製鉄所御用掛を任命され、長崎製鉄所を管理する立場となった。この頃、建設中の長崎製鉄所を視察し、細工場用の屋根組トラスの前でハルデスと共に撮った写真が残されている。同年12月には、細工所の小屋組トラスを据え付け、上棟式が行われたことからも通詞姿の人物は本木昌造であると見られる。

細工場屋根組トラス前のハルデスと本木昌造と見られる写真
製鉄所御用掛となった本木昌造が
建設中の工場を視察したときの写真と見られる。
背後の二階建て家屋は日本人役人の詰所で、
機関方見習生の教室として使用されたと見られる。

本木昌造は、洋式造船に関する知識と経験に於いて、当時、この分野で第一人者と見なされていた。以下に、その経験と実績と述べる。

1)嘉永6年(1853)、出島のオランダ医師ファン・デン・ブルークから蒸気船絵図を見せられ、下筑後町大工に模型を製作させた。(前述の隠密報告)

2)嘉永7年(1854)7月、土佐藩の江戸藩邸に於いて山内容堂に対して蒸気船模型を供覧。同年閏7月末、土佐藩から8人乗り小型蒸気船の建造を依頼された。
土佐藩は、同年8月23日、幕府の許可を得て江戸で小形蒸気船を着工し、翌年8月、土佐の浦戸に回航した。

3)安政1年(1854)12月6日、幕府の命によりロシア軍艦乗員の帰国用として洋式帆船「ヘダ号」建造のため、伊豆戸田村に滞在。翌年4月3日、病気を理由に戸田村在勤を楢林量一郎と交代している。

4)安政2年(1855)6月、蒸気船乗方等伝習掛を命じられる。同年8月には鍋島藩が洋式輸送船を購入する際、その良否と価格の調査を依頼されている。

5)安政2年(1855)10月22日から安政4年(1857)2月末まで、長崎海軍伝習所の幕府伝習生に対して、通訳掛の一員として伝習に関わった。
ただし、安政4年(1857)5月13日に蘭書・器物売り捌き事件で処罰され、預かりの身となったため、以後は海軍伝習に関わることはなかった。

本木昌造は、安政4年(1857)11月28日、自宅謹慎の身を解かれた。自宅謹慎の9ヶ月間、もっぱら鋳造活字の研究に従事したが、かたわら、子弟教育についての構想を練っていた。

<本木一門としての矢次富次郎>
矢次富次郎と本木昌造との最初の接点は、文久1年(1861)3月、矢次富次郎が長崎製鉄所に配属されて、機関方見習として伝習を受けたときと見られる。

長崎というあまり広くない地域で、同じ地役人の社会に属する関係にあることから、それ以前から何らかの接点があったかも知れないが、それを示す史料や逸話は今のところ見当たらない。

長崎製鉄所での機関方見習に対する伝習が開始されたころ、英領ニュージーランドから来日したイギリス人ハンサード(A. W. Hansard)が長崎駐在のイギリス領事を通じて長崎奉行に、「長崎で英字新聞を発行するので、この機会に日本人の若者2,3人に印刷術の全てを伝授したい」と申し入れがあった。

この申し入れを長崎奉行から伝え聞いた本木昌造は、自分の一門の者たちに伝え、平野富二(矢次富次郎)をはじめ、陽其二、谷口黙次、茂中貞次らの有能な門人たちがハンサードの新聞づくりに参加して、そのノウハウを学んだという逸話が伝えられている。

このとき発行された新聞は、“ The Nagasaki Shipping List and Advertiser ” で、1861年6月22日(文久1年5月15日)に創刊された。
これは、富次郎が長崎製鉄所に配属されて2ヶ月余り後のことである。ハンサードは、この新聞をわずか3ヶ月で終刊し、長崎に見切りをつけて横浜に移住し、「ジャパン・ヘラルド」を発行した。

「ザ・ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザー」
本紙はわが国で最初に発行された英字新聞で、図版は第6号を示す。

先の逸話が正しいものであるとすると、富次郎は長崎製鉄所に入って間もなく、本木一門に加わったていたことになる。

<第一期工事竣工後の長崎製鉄所>
文久1年(1861)3月に第一期工事を竣工した長崎製鉄所は、蒸気船に必要な機械・器具類を製造することのできる工場として完成した。しかし、未だ汽缶の製造は出来ず、修理船を接岸して機械類を修理することもできない状態であった。

また、第二期工事として、船舶を建造し、船体修理を行う施設を建設する計画であったが、幕府の財政窮乏のため、実現されなかった。

安政6年(1858)6月に築造着手していた大船修復場(艤装岸壁)は、文久2年(1862)頃に完成している。また、蒸気釜仕立所(汽缶製造工場)が建設着手したのは、文久1年(1861)11月以降と見られる。

江戸の石川島で砲艦「千代田形」の建造が着手され、文久2年(1862)9月、その蒸気機関(エンジン)は長崎製鉄所で製造して江戸に届けられた。しかし、汽缶(ボイラ)は、長崎製鉄所では製造できず、佐賀藩の三重津造船所で文久3年(1863)10月に完成している。

第一期工事竣工時に未整備だった大船修復場(艤装岸壁)と蒸気釜仕立所(汽缶製造工場)は、慶応1年(1865)頃に撮影された長崎製鉄所の写真(ボードウィン・コレクション)には完成された姿で写されている。

第二期工事としての船舶の建造・修理施設については、一貫した方針のない幕府の軍艦建造計画に振り回されて、遂に幕営時代には実現しなかった。

飽ノ浦に隣接する岩瀬道に修船架(ソロバンドック)の建設が着手されたが、途中で別に軍艦打建所の建設計画が浮上し、重複するとの理由で工事中止となった。すでにオランダから機材を輸入し、4分の1ほど工事が進捗していたが、未完成のまま放置された。

次いで、幕府から本格的な軍艦建造の要請を受けて、立神地区に軍艦打建所の建設が行われたが、長崎での軍艦建造計画が中止となり、土地造成の段階で中止となった。

長崎港内の長崎製鉄所関連施設
上図の「飽の浦製鉄所」とあるのが長崎製鉄所である。
「岩瀬道修船架」と「立神軍艦打建所」は建設工事の途中で中止となった。
「小菅修船場」は薩摩藩・グラバーにより完成した後、
長崎製鉄所の所属となった。

その背景には、江戸と大坂を防備するために建造する軍艦を、江戸から見て遥かに遠隔地である長崎に本格的造船所を設けて大量の軍艦を建造することを問題視し、江戸湾内にある石川島造船所の拡充、あるいは、江戸湾口にある横須賀造船所の建設計画が推進されて、長崎の重要性が低くなったことによる。

このようなことから長崎製鉄所の衰退は続き、元治1年(1864)6月、オランダ公使から外国奉行に対して長崎製鉄所の改善について善処方の要請を受けた。

八丈島漂着で冬季を過ごして江戸に戻った本木昌造は、幕閣から諮問を受けて、慶応1年(1865)8月、「製鉄所の儀御尋に付申上候書付」を提出した。この頃から本木昌造は長崎製鉄所の経営に深く関与することになる。本木昌造は、慶応2年(1866)8月、製鉄所支配定役格を命じられて、数かずの経営再建策を建言するが、幕府当局の理解が得られず、長崎製鉄所は衰退の一途を辿ることになる。

慶応4年(1868)1月14日、最後の長崎奉行となった河津伊豆守祐邦が長崎を退去するに当たって、「製鉄所取扱方の儀は、支配定役格本木昌造へ申し付け置き候」として、本木昌造に長崎製鉄所の後事を託した。

<製鉄所機関方となった矢次富次郎>
文久3年(1863)2月、富次郎は2年間の機械学を中心とした伝習を終えて、正式に製鉄所機関方となった。

これに合わせて長崎製鉄所では中古の蒸気輸送船2隻を購入し、物資や人員の輸送を行うようになった。それが、「チャールズ号」(「長崎丸」)と「ヴィクトリア号」(「第一長崎丸」)である。富次郎はこの船に乗り組み、時折、本木昌造が船長となって大坂、江戸へと航海した。

その間、富次郎は縁あって長崎にある長州藩蔵屋敷を管理する吉村家の養子となり、吉村富次郎と改名した。これによって長崎製鉄所の勤務は変わることはなかった。

薩英戦争で輸送船を失った薩摩藩の要請で、幕府は「チャールズ号」を薩摩藩に貸与していたが、下関海峡を通行する際、外国船と見誤った土佐藩からの砲撃に遭って避難する最中に火災を起こして沈没してしまった。

元治1年(1864)11月24日、本木船長の下で「ヴィクトリア号」に搭乗して江戸から長崎に戻る際、暴風雨に遭って八丈島に漂着。船体は大破して沈没してしまった。本木船長以下、富次郎を含めた56人は、翌春まで八丈島での滞在を余儀なくされた。

本木昌造と富次郎は、翌年4月18日に江戸に戻ることができたが、八丈島での約6ヶ月間、富次郎は直に本木昌造から多くの事を学んだに違いない。このとき、本木昌造は数え年42、富次郎は20であった。

本木昌造は八丈島から江戸に戻った頃から、経営不振に陥った長崎製鉄所の経営に深く関与することになる。

一方、長崎に戻った富次郎は、慶応2年(1866)6月、長崎奉行が長崎湾内警備のために購入した中古軍艦「回天」(原名:「ダンチッヒ」)に機関方として乗組んだ。富次郎の乗組んだ軍艦「回天」は、第二次幕長戦争で小倉沖に赴き、長州軍との海戦で大活躍をし、敵方からも富次郎の操艦技術を賞讃された。

平野富次郎の乗組んだ軍艦「回天」
長崎奉行所が長崎湾の警備のために購入した軍艦で、
当時、わが国で最大の軍艦だった。

その後、軍艦「回天」に乗組んで大坂経由江戸に赴き、軍艦「回天」は江戸の軍艦所所属となった。その時、富次郎も江戸軍艦所一等機関方の内定を通知された。しかし、間もなく理由も告げられずに内定取消しとなり、長崎で修理が必要となった軍艦「回天」で長崎に戻された。

長崎に戻った富次郎は、長州藩に仕える養家と幕府の組織に所属する自分の立場が内定取消しの理由であることを悟り、いずれにも無関係な自由の身になって自分の進路を切り開く決意をした。その結果、養家の吉村家を去り、祖先の旧姓である平野姓を名乗って平野富次郎と改名した。長崎製鉄所には辞表を提出したと見られるが、そのことを示す文書は未だ見つかっていない。また、辞表が受理されたかどうかも未確認である。

富次郎は、慶応3年(1867)3月から同年12月まで土佐藩に雇われ、同藩の蒸気船器械方となって、長崎土佐商会を基点として土佐藩のために活躍した。
土佐藩からの招聘は、当時、長崎に滞在していた土佐藩参政後藤象二郎から長崎製鉄所に出されたと見られる。しかし、とこからも制約されない自由の身となることを決意した富次郎に翻意を促したのは、本木昌造の関与があったと考えられる。

富次郎は、幕末の最終局面を土佐藩で過ごして維新を迎えることになった。その間、海援隊の坂本龍馬や維新後の新政府の要人となった土佐藩の後藤象二郎、佐々木三四郎などと面識を得ることができた。

維新後の長崎製鉄所と本木昌造・平野富次郎については、次回に譲ることとする。

以上

長崎土佐商会

<まえがき>
平野富二は、まだ、平野富次郎と称していた頃の慶応3年(1867)3月から同年12月までのおよそ10ヶ月間、土佐藩に雇われた。土佐藩では、月手当25両7人扶持の待遇で器械方となり、土佐藩所有の蒸気船運行を担当した。その拠点となったのが、長崎土佐商会で、同年2月に土佐藩が長崎西浜町に開設したばかりであった。

土佐藩は、慶応2年(1866)12月から翌年6月までの間に、相次いで外国製の蒸気船5隻、風帆船3隻を購入した。しかし、それを運行する技術者が不足していた。そのため、当時、長崎に滞在していた土佐藩参政後藤象二郎は、坂本龍馬が率いる亀山社中を運輸や貿易などで協力させることにした。さらに、蒸気船運行については、長崎製鉄所から技術者を招聘することとした。

慶応3年(1867)は、わが国の政治・外交の面で、土佐藩が関与する重要な出来事があった。

6月、後藤象二郎が搭乗する土佐藩船「夕顔」の船上で阪本龍馬が「船中八策」を  起草した。のちに、後藤象二郎によって前藩主山内容堂に伝えられる。
同月、薩土盟約が結ばれる。これは、将軍徳川慶喜が自ら政体返還・将軍職辞退により王政復古を実現させるとしたものである。
7月、「イカルス号事件」(イギリス水兵斬殺事件)が長崎で発生し、イギリスとの間で外交問題となる。
10月、山内容堂の建白に応じて将軍徳川慶喜が大政を奉還する。
11月、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都で暗殺される。
12月、討幕派による王政復古の大号令が出される。

このような情勢の中で、平野富次郎は土佐藩の蒸気船に乗組んで長崎から下関、兵庫、須崎(土佐)を結ぶ航路を頻繁に往復した。その間、「イカルス号事件」に遭遇し、参考人として訊問を受けた。

平野富次郎は、土佐藩で勤務している中で、後藤象二郎、佐々木三四郎(高行)、岩崎弥太郎、坂本龍馬など、多くの土佐藩要人と面識を得た。

<長崎土佐商会とは>
土佐藩は、九州諸藩や長州藩のように長崎に蔵屋敷を置くことはせず、地元の商人を御用達として指名し、物産の販売と舶来品の調達を行っていた。

長崎土佐商会は、土佐藩の開成館貨殖局の長崎出張所のことで、土佐藩参政の後藤象二郎は、開成館の奉行に任命されていたが、多くの部下を引き連れて、慶応2年(1866)に長崎に来て銃砲や洋式船舶の買い付けを行った。翌年2月(異説もある)になって貨殖局長崎出張所を開設した。その場所は、中島川の河口に近い西浜町(現、浜町)の貿易商「梅屋商店」の持ち家とされている。一説では、土佐藩御用達の土佐屋に開設したとあるが、梅屋商店と土佐屋との関係は不明である。

「土佐商会跡」碑
長崎路面電車の「西浜町アーケード前」駅の川沿いスペースにたてられている。
その右横に「土佐商会跡」説明板がある。
実際の位置は、この場所から 20m ほど上流の川沿いにあった。

その目的は、土佐藩の富国強兵策を実行するためで、長崎では居留地の外国商社に樟脳などの土佐の産品を売り、銃砲・弾薬や洋式船舶を購入することだった。

後藤象二郎は、長崎に来てプロシャ商人クニフラーから法外な値段でライフル銃300丁を買い付け、イギリス商人オールトから蒸気船「夕顔」と風帆船「羽衣」を購入、さらに、中浜万次郎らを引き連れて上海に密航し、イギリス商人グラバーの仲介により小型砲艦「若紫」を上海で建造した。これら船舶や武器弾薬の代金支払いに困って、オールトから18万両という多額の借金をしたという。

慶応3年(1867)1月頃、後藤象二郎は長崎榎津町(現、万屋町)の料亭「清風亭」に坂本龍馬を招き、脱藩の罪を許すと共に、坂本龍馬の率いる亀山社中を海援隊と名付け、資金を提供して、土佐藩の海運・貿易などの事業に協力させることとした。

同年3月、岩崎弥太郎が開成館貨殖局長崎出張所の役人として長崎に到着し、6月、後藤象二郎が長崎を去った。岩崎弥太郎は長崎出張所の主任格(事実上の責任者)となった。

土佐藩大目付(大監察)佐々木三四郎は、慶応3年(1867)8月、イカルス号事件の訊問が長崎で行われることになって、土佐藩を代表する長崎駐在責任者となった。後に、坂本龍馬を失った後の海援隊を取り仕切り、維新の際には、海援隊を指揮して長崎奉行所西役所を占拠して、治安の安定を図った。

慶応4年(1868)7月、大坂が新たな外国貿易港として開かれると、外国商人たちは長崎から大坂・神戸に続々と商館を移した。土佐藩ではすでに大坂と兵庫に開成館出張所を設けており、長崎出張所土佐商会は同年閏4月に閉鎖された。このとき、海援隊も解散され、長崎の隊員たちは振遠隊に加わって東北で戦った。

<土佐藩雇用>
前回「長崎の長州藩蔵屋敷」で紹介した「江戸軍艦所内定取り消し事件」で吉村家の養子を解消して平野姓となった富次郎は、長崎製鉄所を退職して独自に新事業に取り組む決意をしたが、実際に長崎製鉄所を辞めたかどうかは判然としない。新たな史料が見つかることを期待するしかない。

年が改まった慶応3年(1867)になって、長崎に滞在していた後藤象二郎から平野富次郎に対して土佐藩器械方として招聘したいとの話があって、同年3月、開設されて間もない長崎土佐商会で雇用契約がなされたと見られる。

本件に関して、平野富二の伝記では、「慶応3年3月(22歳)土佐藩に雇われ、月手当25両7人扶持を給せられ、その藩の汽船機械方を命ぜられ、」と記載されているだけである。しかし、平野富二の遺品とされる中に、後藤象二郎の肖像写真が含まれていて、平野富二は後藤象二郎に恩義を感じていたと見られることから、当時の状況を勘案すると、このようになる。

後藤象二郎は、この直前に、坂本龍馬を料亭「清風亭」に招いて土佐藩の海運事業に協力させている。その際、自藩所有の蒸気船を運行するため、技術者を求めていることを伝えたと見られる。それに応えて、坂本龍馬は吉村富次郎(改称前)の名前を伝えた可能性がある。

坂本龍馬は、第二次幕長戦争のとき、薩摩藩名義で長州藩のために購入したユニオン号(薩摩名:桜島丸、土佐名:乙丑丸)に搭乗して下関に到着し、高杉晋作から近くに碇泊中の幕府軍艦を奇襲攻撃する計画に参加を依頼され、慶応2年(1866)6月17日未明に参戦している。その後の7月27日に行われた小倉沖の海戦で、幕府軍艦「回天」に乗組んだ吉村富次郎の活躍が長州藩内でも話題となっていたことから、坂本龍馬は、吉村富次郎の卓抜した操艦技術を伝え聞いていた可能性がある。

土佐藩は、平野富次郎の雇用と共に、慶応3年(1867)6月には、松平土佐守から長崎奉行に対して、竹内良助・石崎麒一郎・中村六三郎を指名して、「蒸気器械方または砲術等伝習のため雇入れ度き旨」を申し入れている。

<土佐藩での勤務>
土佐藩雇用中の平野富次郎は、自筆の「造船営業之来歴」の中で、「汽船夕顔、若紫、空蝉号等の一等機関手を相勤る。」と記している。

慶応3年(1867)3月に雇用されて、5月までの平野富次郎の動向は不明であるが、6月に長崎でグラバーから土佐藩に引渡された「若紫」を土佐まで回航している。7月に「イカルス号事件」が発生した頃は「若紫」に乗組んでいたことが記録されている。8月に長崎で参考人訊問が行われた後は、「夕顔」に乗組んで兵庫に航行し、その後、兵庫・土佐間を数回往復したという。

同年9月には、故障した「空蝉」を兵庫で仮修理を行うため乗組んだ平野富次郎は、ついで、長崎に回航して本修理を行っている。10月には、長崎で修理を行っていた「夕顔」に乗組み、長崎を離れている。その後、本修理を終わった「空蝉」の乗組みを命じられ、兵庫・土佐間を数回往復したとされている

土佐藩の洋式艦船は、『源氏物語』の巻の名に因んで命名されている。平野富次郎が乗組んだ「若紫」・「夕顔」・「空蝉」の他に、「箒木」・「胡蝶」・「羽衣」・「乙女」・「紅葉賀」が知られている。

 

左図の上

天地がで中が白

軍艦と付属輸送洋式船の旗章

 

天地が、中が白

商法局付属の洋式船の旗章
(海援隊もこの旗章を使用)

土佐藩艦船の旗章

 

「夕顔」絵図
この絵図は「明治維新当時諸藩艦船図」(東京大学教養学部図書館蔵)で、
右上に「松平土佐守軍船、長三十一間、幅五間」と記してある。
中央マストの上部に「二曳(にびき)」と称された旗章が掲げられている。

「夕顔丸」モニュメント
長崎路面電車の西浜町アーケード前駅脇のスペースに建立されている。
「夕顔丸」は通称で、この船中で大政奉還に繋がる「船中八策」が起草された。
幕末維新史の重要な舞台を記念して建立された。

<坂本龍馬との接点>
イカルス号事件では、坂本龍馬の率いる海援隊メンバーに殺害容疑が掛けられた。平野富次郎の乗組んだ「若紫」(原名:ナンカイ)は犯人逃亡幇助の疑いがあるとして、そのとき乗組んでいた平野富次郎も参考人として訊問を受けた。

訊問は、土佐の須崎港に碇泊していた「夕顔」船上と、場所を変えた長崎運上所で行われた。その内容は拙著『平野富二伝』に詳しく述べてあるのでここでは省略する。

この事件では、平野富次郎と坂本龍馬との接点となる場面が幾つかあった。

(1)慶応2年(1866)8月8日、土佐の須崎港に碇泊していた「夕顔」船上で、平野富次郎を含めた「若紫」乗組士官に対して訊問が行われた。このとき、「夕顔」船内に坂本龍馬が潜んでいた。しかし、二人は顔を合わせる機会はなかったと見られる。

坂本龍馬は、福井藩の松平春嶽から書状を預かって土佐藩大目付佐々木三四郎に届けたときに、土佐に向かう用船が出船したため下船できず、思いがけず土佐に来てしまった。脱藩の罪は許されてはいたが、非公式であったため、土佐に上陸することが出来なかった。

(2)長崎に場所を移して海援隊員も含めた訊問を行うことになって、関係者は土佐の須崎港を出港して長崎に向かった。途中、下関で一行は上陸し、坂本龍馬に誘われるまま、「若紫」の船長や平野富次郎も交えて、稲荷町の「大坂屋」(別称:「対帆楼」)で盛大な酒宴を開いたという。酒宴の中ではあるが、二人は直接話を交わした可能性がある。

(3)慶応3年(1867)8月19日、長崎運上所で訊問が再開された。この時は、海援隊代表の才谷楳太郎(坂本龍馬の別名)や土佐藩長崎駐在の岩崎弥太郎も出席している。平野富次郎は「松平土佐守家来、器械方 平野富次郎」として参考訊問を受けた。
結審して一件落着するまでの葯1ヶ月間、関係者は長崎市外に出ることを禁足されていため、「若紫」の乗組士官と海援隊隊員は一緒に過ごすことが多かった。
『平野富二氏行状』によると、「この時、夕顔の乗組員、才谷氏と同室し、起居すること1ヶ月ばかり。その知遇を得て、深く将来の運動上のことなどを談合せし。」と記している。
坂本龍馬と1ヶ月ばかり同室・起居したとあることは事実に反するが、平野富次郎が、その知遇を得て、親しく将来のことを話し合ったことは事実と見られる。

(4)慶応3年(1867)10月、「空蝉」が故障して、兵庫で修理することになり、平野富次郎はこれに乗組むことになった。「空蝉」は船体・器械とも老朽化していたため、長崎に回航した。このとき、長崎に駐在していた佐々木三四郎に宛てた書状に、京都で才谷楳太郎が遭難して死去したらしいとの第一報がもたらされた。
平野富次郎は、この報を聞いて、「友愛の情に堪えず。」と、ただ、この言葉より外に出なかったと、後年、知人に語っていたという。

<渡辺熊四郎との出会い>
渡辺熊四郎は函館財界人の一人で、明治11年(1878)に函館で北溟社を設立して、『函館新聞』を発刊した。

その自伝である『初代渡辺孝平伝』によると、新聞発行に当たって、「まず、『報知新聞』の栗本氏と『東京日日新聞』の岸田氏等に頼んで編集人を雇い入れ、機械は、平野富二と懇意であるので、活字・機械等は同人に頼んで買い入れた。」と述べている。

平野富二と懇意になった契機を調べて見ると、渡辺熊四郎は、一時期、長崎土佐商会の持ち船の会計を依頼されていたことがあることが判った。つまり、長崎土佐商会でお互いに知り合ったことになる。

渡辺熊四郎とのその後の関係は、函館の大火で北溟社が焼失したとき、再度、平野富二から活字と印刷機を購入している。また、明治14年(1871)2月に渡辺熊四郎らと共同で函館器械製造所を設立して、諸器械の製造と船舶の修理を行った。

このように長崎土佐商会は、平野富二の取り組んだ活版製造事業と造船事業の両面において地方進出の縁結びとなっていたことが分る。

<土佐藩解任>
慶応3年(1867)8月以降の平野富次郎については、佐々木三四郎(高行)の日記『保古飛呂比』(東京大学史料編纂所編、全12巻、東京大学出版会)の中に、その名前が散見される。

慶応3年12月6日の項に、「九字ヨリ若紫船ヘ見分ニ行ク。野崎伝太・山本勘作・平野富二郎 並 官太郎ニ出会。‥‥‥夕方、空蝉船長始メ士官、乗組御免ヲ以テ、御国ヘ被差返候御切紙出シ候事。」とあり、12月6日の夕方、平野富次郎は長崎奉行が支配する長崎に返す旨の切紙(辞令)を手渡されたことが判る。

その前日の項には、平野富次郎を含む「空蝉」乗組士官たちに、「空蝉」が老朽化して商用船として不適となったため、乗組みを解任する旨が伝達された。その夜、料亭「玉川」で慰労の宴を催したことが記されている。

この頃、土佐藩では同藩所有の輸送船を土佐商会の持ち船とする計画が内々に進んでおり、「空蝉」もその対象となっていたことも、土佐藩解任の理由と見られる。

平野富二の伝記では、「十月ニ至リ土佐ヲ辞シテ長崎ニ帰ル。」とあるが、実際は12月6日に辞令を受けたことになる。

<余談:岩崎弥太郎と梅屋庄吉>
長崎市街を走る路面電車の西浜町アーケード前駅に沿った川沿いの一画に、「土佐商会跡」碑と「土佐商会跡」説明板に並んで「梅屋商店跡」説明板が建てられている。

長崎さるく説明板「梅屋商店跡」
右上の地図には、説明板の場所と実際の梅屋家(土佐商会)の場所が示されている。
梅屋家の位置には、二つの戸番があり、梅屋と土佐商会が並んでいたらしい。
右下の写真は、中島川に架かる鉄橋上から眺めた河岸風景とされている。

その「梅屋商店跡」説明板には、「(梅屋)庄吉は、1868年(明治元)長崎市で生まれ、幼少期、土佐商会の家主でもあった梅屋家に養子入りして育てられました。彼は、“土佐商会の支配人であった岩崎弥太郎に背負われ、遊び戯れた記憶がある” と記しています。」とある。

先に述べたように、長崎土佐商会は、この年の閏4月には閉鎖されているが、岩崎弥太郎は明治2年(1869)1月まで長崎に留め置かれていた。したがって、岩崎弥太郎は家主の養子庄吉を背負うことはあっても、1歳に満たない乳飲み子が記憶していたとは考え難い。

岩崎弥太郎の日記の慶応3年(1867)7月16日の項には、「朝、大家の翁が話しをしに来た。昼、大家が酒と鶏肉を出してくれた。一口喫すると、鶏ご飯を出す。当時の風習では、この日、必ず鶏肉を食べる由。」(部分省略)とある。これにより、大家(梅屋家)との日常の交流がなされていたことが分かる。

梅屋家は貿易商と米穀商とを営んでいて、土佐商会の家主でもあった。その家の養子となった梅屋庄吉(1868~1934)は、香港で貿易商としての地位を築き、孫文と知り合って辛亥革命のために資金援助を行ったことで知られている。長崎の大浦海岸通りにある旧香港上海銀行長崎支店記念館に「孫文・梅屋庄吉ミュージアム」がある。

(本稿終り)

長崎の長州藩蔵屋敷

<まえがき>
17世紀の初頭から19世紀の中葉までの間、長崎は幕府の政策によって唯一の対外貿易港であった。各種物産に限らず内外の情報も長崎に集中していたため、長崎には九州諸藩を中心とした14の藩が市内に蔵屋敷を設けていた。

長州藩(萩藩ともいう)の蔵屋敷は、最初、本五島町(現在の五島町の台地寄り)にあったが、寛政11年(1799)に台地の上の新町(現在の興善町6)に蔵屋敷を構えた。「肥前長崎図」(文錦堂、嘉永3年改刻)には「長門」と当時の国名で表示されている。

新町の通りに面して、坂道を介した隣りには「小くら」と表示のある小倉藩蔵屋敷があった。長州藩の下関と小倉藩の門司との間にある関門海峡に巌流島があることから、その坂道は「巌流坂」と呼ばれていた。

「肥前長崎図」部分

絵図の中央に「新町」とあり、その下の枠内に「小くら」と「長門」と書いてある。
新町から引地町に通じる道が「巌流坂」である。
平野富二は、引地町の道路の右端にある「丁じ長や」(町司長屋)で生まれた。

この長州藩蔵屋敷については、本木昌造と平野富二にとって直接的、間接的に因縁が深い。その内容については、おいおい説明する。

<長崎の蔵屋敷とは>
蔵屋敷は、大名や旗本などが自分の領地の年貢米や特産品を販売するため、商業の中心地である江戸、大阪、京都、長崎などに設けた倉庫や取引所を兼ねた屋敷のことである。とくに長崎では貿易品の売買や海外情報の入手が重要な役割であった。

長崎の蔵屋敷には、藩の役人が一年中駐在する藩と、オランダ船が5月中旬に入港して9月下旬に出港するまでの期間だけ駐在する藩とがあった。長州藩は後者で、夏季にのみ「聞役」と称する藩の役人とその部下が派遣されて駐在するグループに属していた。

長崎の「聞役」は、長崎奉行からの指示を国元に伝達する役目を主とし、その他に、諸藩との情報交換、独自の秘密情報の収集、藩で必要とする貿易品の調達などで、藩を代表する責任者であった。その下には、手先として働く地元出身の「御用達」が居り、長州藩蔵屋敷では吉村家が代々これを勤めていた。

<長州藩御用達吉村家について>
吉村家の出自は明らかではないが、寛永・慶安の頃(17世紀前半)にさかのぼると云う。おそらく、祖先は長州藩士で、何らかの理由で禄を失い、長崎に出てきて町人となったものと見られる。

吉村家の当主は、代々、長崎の長州藩蔵屋敷内に居住し、清国語に通じて唐交易の業務を行い、聞役などが本国に帰国した後の留守居役(長崎御屋代という)も兼ねていた。また、当主は長州藩から一代士族を認められ、苗字帯刀を許されていた。

吉村家の子孫である吉村栄吉氏の著わした『吉村迂斎詩文集』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和47年1月)に掲載されている吉村家の「家系図略」によると、詩儒として高名だった吉村迂斎(1749~1805)は新町の長州藩蔵屋敷に居住し、17歳で御用達となっている。当時、交易のために来航する唐人(清国人)は詩文、書道、絵画、音曲などを嗜む文化人が多く、それらの人々と親しく交流したことが覗える。同聲社(迂斎塾ともいう)を興して広く門人を擁した。

長州藩蔵屋敷のあった巌流坂に面して、「詩儒吉村迂斎遺跡」(昭和47年、長崎市設置)の記念碑があったが、現在では撤去されている。桜馬場の近くの春徳寺の墓地に墓碑がある。

吉村迂斎は、通称を久右衛門、諱を正隆と称した。その継嗣は、猪助正恵(1773~1834)、年三郎(1811~1859)、為之助(1845~1876)と続く。

<幕府による蔵屋敷没収>
元治1年(1864)7月19日、尊王攘夷を唱える長州軍が、迎え撃つ会津・桑名・薩摩の藩兵と京都御所の蛤御門前で激突し、敗退した。長州藩が御所に向かって発砲したことから、朝議により長州藩討伐のことが決定し、幕府に伝えられた。幕府はただちに諸藩に命じて各地の長州藩邸の没収を命じた。

長崎の長州藩蔵屋敷の処分については、長崎総奉行大村丹後守と長崎奉行服部長門守に委ねられた。同年8月19日、長崎にある長州藩蔵屋敷は早々に取り上げ、そこに居る家来どもは国元へ引き払わせるようとの幕命が伝えられた。

処置を任された大村藩は、長州浪人の妨害が噂される中、自藩藩邸を守護していた兵卒を従え、幕吏と共に長州屋敷に乗り込んだ。そのとき、周囲を取り巻いていた群衆が長州浪人の襲来と勘違いして急に離散したため、大村藩の兵卒は恐怖におびえ、上官を捨てて逃げだした。

その後、真相が判明して長州屋敷は没収され、大村藩に預けられた。この時、長州屋敷に居た者は、藩士1人と少数の小者の外、吉村一家に過ぎなかった。その者たちは幽囚の身となり、翌慶応1年(1865)、捕らえられた長州藩士と吉村家の当主為之助は長州送りとなった。残された吉村家の家族は長崎在住の親類縁者を頼って身を寄せた。長州屋敷にあった建物は撤去され、屋敷内に聳えていた太さ10抱えもある楠の大樹も切り倒された。

吉村家の当主為之助は、長州送りとなって4年後の明治1年(1868)12月になって、長州藩での謹慎を解かれて長崎に戻ってきた。やがて、長州藩蔵屋敷も復活され、場所を変えて樺島町の海岸通りに建てられた。吉村家はそこに御用達としての住居を与えられた。時代の流れでほとんど用向きのなくなった御用達の仕事に代えて、為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に、近くの大波止から、小舟で通勤した。

長州藩蔵屋敷の没収については、吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史 第二編』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和51年12月)に詳しく紹介されている。

新町の長州藩蔵屋敷跡には、慶応1年(1865)2月、近くの大村町にあった「語学所」が移転してきて、同年8月、「済美館」となった。ここには宣教師フルベッキが招かれて英語を教えた。何礼之助(礼之)と柴田大介(昌吉)もここで英語教師を勤めた。明治2年(1869)2月、長崎府により「広運館」と改称され、一般官吏の子弟と諸藩有志に高等教育を授けるため校舎増設などがあった。その翌年、「広運館」は外浦町の西役所跡に移転した。

本木昌造は、その跡地と校舎を買い受け、「新街私塾」を開設した。また、その運営資金を賄い、教科書・参考書を出版するため、ここに「新塾活版所」を併設した。さらに、本木昌造の協力者和田半が隣の小倉藩蔵屋敷跡を購入して本木昌造に提供したので、そこに「新町活字製造所」を設けた。

長州藩蔵屋敷跡の石垣
この写真は昭和9年(1935)に撮影とされている。
『長崎印刷百年史』の口絵に掲載されているものを流用させて頂いた。

長州藩蔵屋敷跡の現在の写真

向かって左側が長州藩蔵屋敷跡で、現在、長崎県市町村職員共済会館となっている。
中央の坂道は通称「巌流坂」と呼ばれ、坂道の途中に道路に面して「新町活版所跡」と「近代活版印刷発祥の地」碑がある。
向かって右端は小倉藩蔵屋敷跡で、現在、丸善ハイネスコーポが建っている。
ここには、「新町活字製造所」があった。

<平野富二の養子先>
平野富二は、文久3年(1863)、吉村庄之助の養子となり、吉村富次郎と称した。吉村家の養子となった後も、長崎製鉄所の機関方勤務は変わらず、時折、蒸気船に乗組んで関門海峡を通って兵庫、江戸へと航海していた。平野富二の乗組んだ蒸気船が遭難して八丈島に漂着したときの記録に、吉村富次郎と見られる名前が残されている。

慶応2年(1866)7月に行われた小倉沖海戦では、平野富二は幕府軍艦「回天」に乗組んで長州藩と対決し、一等機関方として活躍した。その功績が認められてか、江戸の軍艦所一等機関手の内命を受けた。しかし間もなく、理由も告げられずに内命取消となって、長崎に戻された。

以上の事柄は、明治24年(1891)3月に編纂された小冊子『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 幷ニ 継業者平野富二氏行状』に記述されている。この小冊子は、平野富二の生前に編纂され、平野家に保存されていた。

平野富二(吉村富次郎)は、幕府のために活躍したにも関わらず、養子先の吉村家が朝敵となった長州藩に仕えていることが内命取消の原因と見られたことから、長崎製鉄所を辞任し、吉村家からも去って、自主独立の道を歩むことを決心したらしい。そのとき、矢次家始祖が名乗っていた平野姓を復活させて、平野富次郎と改名した。

<未解明の疑問>
拙著『平野富二伝』(朗文堂、2013年11月)を執筆していた頃、平野富二の養父だったとされる吉村庄之助について、資料調査を行っていた。たまたま、安政5年(1858)の資料に吉村庄之助が波止場御番所詰となっていることを見つけた。

このことから、吉村庄之助は、長州藩の御用達であると共に、長崎奉行の地役人でもあって、二足の草鞋を履いていると解釈した。長崎地役人の地位は、隠居して養子に譲れば、家禄を相続することができた。

平野富二は地役人の次男であったため、家禄を受けることが出来なかった。親友杉山徳三郎も次男で、家禄を受けることができなかったが、選抜により長崎海軍伝習所を卒業して、特別に一代限りの町司として禄を得ていた。そこで、平野富二のことをおもんばかって、義姉の実家である吉村家への養子を勧めたと解釈していた。

ところが、長州藩蔵屋敷の御用達であった吉村家の系図を調べて見ると、吉村庄之助と名乗る人物は見当たらない。

長崎には吉村姓の地役人が数多くいた。たまたま、その中に吉村庄之助と名乗る人物がいたらしい。平野富二が養子となって名乗った吉村富次郎も、同姓同名の人物が船番見習、19歳として『慶応元年 明細分限帳』に載っている。

矢次富次郎と称していた平野富二が、数え年18で吉村家の養子となった文久3年(1863)の頃の吉村家の当主は、吉村迂斎の曾孫にあたる吉村為之助(1845~1874)で、まだ数え年10であった。父の年三郎(1811~1859)が死去して吉村家の当主となったときは、わずか数え年6であった。叔父の雄五郎(1819~1875)が幼い当主を支えたと見られる。

平野富二の伝記では、この「為之助」を「庄之助」と読み誤って伝えられたと見ることもできる。しかし、8歳も年下の吉村為之助を養父として吉村家に入るには、それなりの大きな理由がなければならない。

吉村為之助には、3つ違いの弟年次郎(1848~1919)がおり、異母弟である子之助(又作、1854~1878)もいた。また、為之助は、将来、結婚して跡継ぎを設けることもできた筈である。当時の吉村家に跡継ぎ問題はなかったと見られる。

さらに、為之助には3人の姉妹がいた。長姉トク(1838~1872)は平野富二の親友杉山徳三郎の兄杉山友之進に嫁ぎ、次姉タキ(1843~1896)は大村藩長崎御用達の品川九十九に嫁いでいた。妹ヒデ(1854~1878)は、当時、数え年10であったので、将来、養子に入った平野富二と結婚させる意図があったとも見られるが、わざわざ吉村家の養子となる動機にはならない。

杉山徳三郎の曽孫に当たる杉山謙二郎氏が執筆した『明治を築いた企業家 杉山徳三郎』(碧天舎、2005年9月)によると、「平野富二は成人したおりに一時長州藩の御用達吉村庄之助の養子となるが、この養家の長女は後に松三郎(友之進)の妻となった。」と記している。

ここでは、平野富二の養父を「吉村庄之助」とし、長女は「後に杉山松三郎の妻となった。」と記してあるが、吉村庄之助が吉村家の系図で誰に相当するのか説明がない。また、平野富二が吉村家の養子となった時には、杉山松三郎は、長男の出生年から見ると、すでに結婚していたことになる。したがって、上記の記述だけでは確証とはならない。

長州藩御用達として長崎蔵屋敷に居住していた吉村為之助と平野富二との関係で明らかなことは、次の2つである。

1)平野富二の親友杉山徳三郎の義姉トクが吉村為之助の長姉であること。
2)明治になって、吉村為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に勤務するようになった。これは、小菅修船場の経営責任者となっていた平野富二のかつての義父に対する配慮がうかがえることである。

長崎には、幕末から明治初期にかけての膨大な史料が残されている。それは、長崎奉行所・長崎裁判所・長崎府・長崎県の公文書を集めた『文書科事務簿』で、長崎歴史文化博物館に保管され、閲覧に供されている。

この中に先の疑問を解明できる史料が含まれているに違いない。しかし、『文書科事務簿』の簿冊リストはネット上で公開されているが、小生の知る限りにおいて、簿冊内の個別文書についてはリスト化されておらず、文書のデジタル化や内容検索も未完成のようである。これが完成すれば、幕末から明治初期にかけての長崎の歴史をより明確に解明できるものと思われる。

来年は明治150年に当たるので、この機会に実現されることを期待したい。

以上