長崎土佐商会

<まえがき>
平野富二は、まだ、平野富次郎と称していた頃の慶応3年(1867)3月から同年12月までのおよそ10ヶ月間、土佐藩に雇われた。土佐藩では、月手当25両7人扶持の待遇で器械方となり、土佐藩所有の蒸気船運行を担当した。その拠点となったのが、長崎土佐商会で、同年2月に土佐藩が長崎西浜町に開設したばかりであった。

土佐藩は、慶応2年(1866)12月から翌年6月までの間に、相次いで外国製の蒸気船5隻、風帆船3隻を購入した。しかし、それを運行する技術者が不足していた。そのため、当時、長崎に滞在していた土佐藩参政後藤象二郎は、坂本龍馬が率いる亀山社中を運輸や貿易などで協力させることにした。さらに、蒸気船運行については、長崎製鉄所から技術者を招聘することとした。

慶応3年(1867)は、わが国の政治・外交の面で、土佐藩が関与する重要な出来事があった。

6月、後藤象二郎が搭乗する土佐藩船「夕顔」の船上で阪本龍馬が「船中八策」を  起草した。のちに、後藤象二郎によって前藩主山内容堂に伝えられる。
同月、薩土盟約が結ばれる。これは、将軍徳川慶喜が自ら政体返還・将軍職辞退により王政復古を実現させるとしたものである。
7月、「イカルス号事件」(イギリス水兵斬殺事件)が長崎で発生し、イギリスとの間で外交問題となる。
10月、山内容堂の建白に応じて将軍徳川慶喜が大政を奉還する。
11月、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都で暗殺される。
12月、討幕派による王政復古の大号令が出される。

このような情勢の中で、平野富次郎は土佐藩の蒸気船に乗組んで長崎から下関、兵庫、須崎(土佐)を結ぶ航路を頻繁に往復した。その間、「イカルス号事件」に遭遇し、参考人として訊問を受けた。

平野富次郎は、土佐藩で勤務している中で、後藤象二郎、佐々木三四郎(高行)、岩崎弥太郎、坂本龍馬など、多くの土佐藩要人と面識を得た。

<長崎土佐商会とは>
土佐藩は、九州諸藩や長州藩のように長崎に蔵屋敷を置くことはせず、地元の商人を御用達として指名し、物産の販売と舶来品の調達を行っていた。

長崎土佐商会は、土佐藩の開成館貨殖局の長崎出張所のことで、土佐藩参政の後藤象二郎は、開成館の奉行に任命されていたが、多くの部下を引き連れて、慶応2年(1866)に長崎に来て銃砲や洋式船舶の買い付けを行った。翌年2月(異説もある)になって貨殖局長崎出張所を開設した。その場所は、中島川の河口に近い西浜町(現、浜町)の貿易商「梅屋商店」の持ち家とされている。一説では、土佐藩御用達の土佐屋に開設したとあるが、梅屋商店と土佐屋との関係は不明である。

「土佐商会跡」碑
長崎路面電車の「西浜町アーケード前」駅の川沿いスペースにたてられている。
その右横に「土佐商会跡」説明板がある。
実際の位置は、この場所から 20m ほど上流の川沿いにあった。

その目的は、土佐藩の富国強兵策を実行するためで、長崎では居留地の外国商社に樟脳などの土佐の産品を売り、銃砲・弾薬や洋式船舶を購入することだった。

後藤象二郎は、長崎に来てプロシャ商人クニフラーから法外な値段でライフル銃300丁を買い付け、イギリス商人オールトから蒸気船「夕顔」と風帆船「羽衣」を購入、さらに、中浜万次郎らを引き連れて上海に密航し、イギリス商人グラバーの仲介により小型砲艦「若紫」を上海で建造した。これら船舶や武器弾薬の代金支払いに困って、オールトから18万両という多額の借金をしたという。

慶応3年(1867)1月頃、後藤象二郎は長崎榎津町(現、万屋町)の料亭「清風亭」に坂本龍馬を招き、脱藩の罪を許すと共に、坂本龍馬の率いる亀山社中を海援隊と名付け、資金を提供して、土佐藩の海運・貿易などの事業に協力させることとした。

同年3月、岩崎弥太郎が開成館貨殖局長崎出張所の役人として長崎に到着し、6月、後藤象二郎が長崎を去った。岩崎弥太郎は長崎出張所の主任格(事実上の責任者)となった。

土佐藩大目付(大監察)佐々木三四郎は、慶応3年(1867)8月、イカルス号事件の訊問が長崎で行われることになって、土佐藩を代表する長崎駐在責任者となった。後に、坂本龍馬を失った後の海援隊を取り仕切り、維新の際には、海援隊を指揮して長崎奉行所西役所を占拠して、治安の安定を図った。

慶応4年(1868)7月、大坂が新たな外国貿易港として開かれると、外国商人たちは長崎から大坂・神戸に続々と商館を移した。土佐藩ではすでに大坂と兵庫に開成館出張所を設けており、長崎出張所土佐商会は同年閏4月に閉鎖された。このとき、海援隊も解散され、長崎の隊員たちは振遠隊に加わって東北で戦った。

<土佐藩雇用>
前回「長崎の長州藩蔵屋敷」で紹介した「江戸軍艦所内定取り消し事件」で吉村家の養子を解消して平野姓となった富次郎は、長崎製鉄所を退職して独自に新事業に取り組む決意をしたが、実際に長崎製鉄所を辞めたかどうかは判然としない。新たな史料が見つかることを期待するしかない。

年が改まった慶応3年(1867)になって、長崎に滞在していた後藤象二郎から平野富次郎に対して土佐藩器械方として招聘したいとの話があって、同年3月、開設されて間もない長崎土佐商会で雇用契約がなされたと見られる。

本件に関して、平野富二の伝記では、「慶応3年3月(22歳)土佐藩に雇われ、月手当25両7人扶持を給せられ、その藩の汽船機械方を命ぜられ、」と記載されているだけである。しかし、平野富二の遺品とされる中に、後藤象二郎の肖像写真が含まれていて、平野富二は後藤象二郎に恩義を感じていたと見られることから、当時の状況を勘案すると、このようになる。

後藤象二郎は、この直前に、坂本龍馬を料亭「清風亭」に招いて土佐藩の海運事業に協力させている。その際、自藩所有の蒸気船を運行するため、技術者を求めていることを伝えたと見られる。それに応えて、坂本龍馬は吉村富次郎(改称前)の名前を伝えた可能性がある。

坂本龍馬は、第二次幕長戦争のとき、薩摩藩名義で長州藩のために購入したユニオン号(薩摩名:桜島丸、土佐名:乙丑丸)に搭乗して下関に到着し、高杉晋作から近くに碇泊中の幕府軍艦を奇襲攻撃する計画に参加を依頼され、慶応2年(1866)6月17日未明に参戦している。その後の7月27日に行われた小倉沖の海戦で、幕府軍艦「回天」に乗組んだ吉村富次郎の活躍が長州藩内でも話題となっていたことから、坂本龍馬は、吉村富次郎の卓抜した操艦技術を伝え聞いていた可能性がある。

土佐藩は、平野富次郎の雇用と共に、慶応3年(1867)6月には、松平土佐守から長崎奉行に対して、竹内良助・石崎麒一郎・中村六三郎を指名して、「蒸気器械方または砲術等伝習のため雇入れ度き旨」を申し入れている。

<土佐藩での勤務>
土佐藩雇用中の平野富次郎は、自筆の「造船営業之来歴」の中で、「汽船夕顔、若紫、空蝉号等の一等機関手を相勤る。」と記している。

慶応3年(1867)3月に雇用されて、5月までの平野富次郎の動向は不明であるが、6月に長崎でグラバーから土佐藩に引渡された「若紫」を土佐まで回航している。7月に「イカルス号事件」が発生した頃は「若紫」に乗組んでいたことが記録されている。8月に長崎で参考人訊問が行われた後は、「夕顔」に乗組んで兵庫に航行し、その後、兵庫・土佐間を数回往復したという。

同年9月には、故障した「空蝉」を兵庫で仮修理を行うため乗組んだ平野富次郎は、ついで、長崎に回航して本修理を行っている。10月には、長崎で修理を行っていた「夕顔」に乗組み、長崎を離れている。その後、本修理を終わった「空蝉」の乗組みを命じられ、兵庫・土佐間を数回往復したとされている

土佐藩の洋式艦船は、『源氏物語』の巻の名に因んで命名されている。平野富次郎が乗組んだ「若紫」・「夕顔」・「空蝉」の他に、「箒木」・「胡蝶」・「羽衣」・「乙女」・「紅葉賀」が知られている。

 

左図の上

天地がで中が白

軍艦と付属輸送洋式船の旗章

 

天地が、中が白

商法局付属の洋式船の旗章
(海援隊もこの旗章を使用)

土佐藩艦船の旗章

 

「夕顔」絵図
この絵図は「明治維新当時諸藩艦船図」(東京大学教養学部図書館蔵)で、
右上に「松平土佐守軍船、長三十一間、幅五間」と記してある。
中央マストの上部に「二曳(にびき)」と称された旗章が掲げられている。

「夕顔丸」モニュメント
長崎路面電車の西浜町アーケード前駅脇のスペースに建立されている。
「夕顔丸」は通称で、この船中で大政奉還に繋がる「船中八策」が起草された。
幕末維新史の重要な舞台を記念して建立された。

<坂本龍馬との接点>
イカルス号事件では、坂本龍馬の率いる海援隊メンバーに殺害容疑が掛けられた。平野富次郎の乗組んだ「若紫」(原名:ナンカイ)は犯人逃亡幇助の疑いがあるとして、そのとき乗組んでいた平野富次郎も参考人として訊問を受けた。

訊問は、土佐の須崎港に碇泊していた「夕顔」船上と、場所を変えた長崎運上所で行われた。その内容は拙著『平野富二伝』に詳しく述べてあるのでここでは省略する。

この事件では、平野富次郎と坂本龍馬との接点となる場面が幾つかあった。

(1)慶応2年(1866)8月8日、土佐の須崎港に碇泊していた「夕顔」船上で、平野富次郎を含めた「若紫」乗組士官に対して訊問が行われた。このとき、「夕顔」船内に坂本龍馬が潜んでいた。しかし、二人は顔を合わせる機会はなかったと見られる。

坂本龍馬は、福井藩の松平春嶽から書状を預かって土佐藩大目付佐々木三四郎に届けたときに、土佐に向かう用船が出船したため下船できず、思いがけず土佐に来てしまった。脱藩の罪は許されてはいたが、非公式であったため、土佐に上陸することが出来なかった。

(2)長崎に場所を移して海援隊員も含めた訊問を行うことになって、関係者は土佐の須崎港を出港して長崎に向かった。途中、下関で一行は上陸し、坂本龍馬に誘われるまま、「若紫」の船長や平野富次郎も交えて、稲荷町の「大坂屋」(別称:「対帆楼」)で盛大な酒宴を開いたという。酒宴の中ではあるが、二人は直接話を交わした可能性がある。

(3)慶応3年(1867)8月19日、長崎運上所で訊問が再開された。この時は、海援隊代表の才谷楳太郎(坂本龍馬の別名)や土佐藩長崎駐在の岩崎弥太郎も出席している。平野富次郎は「松平土佐守家来、器械方 平野富次郎」として参考訊問を受けた。
結審して一件落着するまでの葯1ヶ月間、関係者は長崎市外に出ることを禁足されていため、「若紫」の乗組士官と海援隊隊員は一緒に過ごすことが多かった。
『平野富二氏行状』によると、「この時、夕顔の乗組員、才谷氏と同室し、起居すること1ヶ月ばかり。その知遇を得て、深く将来の運動上のことなどを談合せし。」と記している。
坂本龍馬と1ヶ月ばかり同室・起居したとあることは事実に反するが、平野富次郎が、その知遇を得て、親しく将来のことを話し合ったことは事実と見られる。

(4)慶応3年(1867)10月、「空蝉」が故障して、兵庫で修理することになり、平野富次郎はこれに乗組むことになった。「空蝉」は船体・器械とも老朽化していたため、長崎に回航した。このとき、長崎に駐在していた佐々木三四郎に宛てた書状に、京都で才谷楳太郎が遭難して死去したらしいとの第一報がもたらされた。
平野富次郎は、この報を聞いて、「友愛の情に堪えず。」と、ただ、この言葉より外に出なかったと、後年、知人に語っていたという。

<渡辺熊四郎との出会い>
渡辺熊四郎は函館財界人の一人で、明治11年(1878)に函館で北溟社を設立して、『函館新聞』を発刊した。

その自伝である『初代渡辺孝平伝』によると、新聞発行に当たって、「まず、『報知新聞』の栗本氏と『東京日日新聞』の岸田氏等に頼んで編集人を雇い入れ、機械は、平野富二と懇意であるので、活字・機械等は同人に頼んで買い入れた。」と述べている。

平野富二と懇意になった契機を調べて見ると、渡辺熊四郎は、一時期、長崎土佐商会の持ち船の会計を依頼されていたことがあることが判った。つまり、長崎土佐商会でお互いに知り合ったことになる。

渡辺熊四郎とのその後の関係は、函館の大火で北溟社が焼失したとき、再度、平野富二から活字と印刷機を購入している。また、明治14年(1871)2月に渡辺熊四郎らと共同で函館器械製造所を設立して、諸器械の製造と船舶の修理を行った。

このように長崎土佐商会は、平野富二の取り組んだ活版製造事業と造船事業の両面において地方進出の縁結びとなっていたことが分る。

<土佐藩解任>
慶応3年(1867)8月以降の平野富次郎については、佐々木三四郎(高行)の日記『保古飛呂比』(東京大学史料編纂所編、全12巻、東京大学出版会)の中に、その名前が散見される。

慶応3年12月6日の項に、「九字ヨリ若紫船ヘ見分ニ行ク。野崎伝太・山本勘作・平野富二郎 並 官太郎ニ出会。‥‥‥夕方、空蝉船長始メ士官、乗組御免ヲ以テ、御国ヘ被差返候御切紙出シ候事。」とあり、12月6日の夕方、平野富次郎は長崎奉行が支配する長崎に返す旨の切紙(辞令)を手渡されたことが判る。

その前日の項には、平野富次郎を含む「空蝉」乗組士官たちに、「空蝉」が老朽化して商用船として不適となったため、乗組みを解任する旨が伝達された。その夜、料亭「玉川」で慰労の宴を催したことが記されている。

この頃、土佐藩では同藩所有の輸送船を土佐商会の持ち船とする計画が内々に進んでおり、「空蝉」もその対象となっていたことも、土佐藩解任の理由と見られる。

平野富二の伝記では、「十月ニ至リ土佐ヲ辞シテ長崎ニ帰ル。」とあるが、実際は12月6日に辞令を受けたことになる。

<余談:岩崎弥太郎と梅屋庄吉>
長崎市街を走る路面電車の西浜町アーケード前駅に沿った川沿いの一画に、「土佐商会跡」碑と「土佐商会跡」説明板に並んで「梅屋商店跡」説明板が建てられている。

長崎さるく説明板「梅屋商店跡」
右上の地図には、説明板の場所と実際の梅屋家(土佐商会)の場所が示されている。
梅屋家の位置には、二つの戸番があり、梅屋と土佐商会が並んでいたらしい。
右下の写真は、中島川に架かる鉄橋上から眺めた河岸風景とされている。

その「梅屋商店跡」説明板には、「(梅屋)庄吉は、1868年(明治元)長崎市で生まれ、幼少期、土佐商会の家主でもあった梅屋家に養子入りして育てられました。彼は、“土佐商会の支配人であった岩崎弥太郎に背負われ、遊び戯れた記憶がある” と記しています。」とある。

先に述べたように、長崎土佐商会は、この年の閏4月には閉鎖されているが、岩崎弥太郎は明治2年(1869)1月まで長崎に留め置かれていた。したがって、岩崎弥太郎は家主の養子庄吉を背負うことはあっても、1歳に満たない乳飲み子が記憶していたとは考え難い。

岩崎弥太郎の日記の慶応3年(1867)7月16日の項には、「朝、大家の翁が話しをしに来た。昼、大家が酒と鶏肉を出してくれた。一口喫すると、鶏ご飯を出す。当時の風習では、この日、必ず鶏肉を食べる由。」(部分省略)とある。これにより、大家(梅屋家)との日常の交流がなされていたことが分かる。

梅屋家は貿易商と米穀商とを営んでいて、土佐商会の家主でもあった。その家の養子となった梅屋庄吉(1868~1934)は、香港で貿易商としての地位を築き、孫文と知り合って辛亥革命のために資金援助を行ったことで知られている。長崎の大浦海岸通りにある旧香港上海銀行長崎支店記念館に「孫文・梅屋庄吉ミュージアム」がある。

(本稿終り)