はじめに
平野富二は、長崎から活字製造部門の部下8人を引き連れて、東京神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を設立したのは明治5年(1872)7月のことであった。
この地には文部省活版所(もと東校活版所)があって、そこに活字を供給するため本木昌造が御用掛に指名され、小幡正蔵を所長とする御用活版所を設けていたことから、同じ門長屋の隣接した空き部屋と付属地を借り受けて活版製造所を設置した。
当時、わが国は活版印刷の黎明期に当たり、わずかに政府関係の諸省で文書の活版印刷が行われ始めた。そのことから、工部省は長崎製鉄所付属新聞局の活字製造設備と人員を引き取り、明治4年(1871)11月、勧工寮活字局を設けて東京の赤坂溜池に設備と人員を移転した。これにより政府・諸省の発行する日誌や布達類を活版印刷で迅速に作成し、併せて諸省にも活字を供給することを目指した。
明治5年(1872)9月20日になって正院印書局が新設され、10月16日に集議院内の仮局から皇居前の大蔵省付属辰ノ口分析所跡に移転し、太政官日誌を活版印刷で発行すると共に諸省の日誌や布達類の印刷をも引き受けることになった。それに伴い大蔵・文部・工部の各省と海軍省にある活字と印刷器械を印書局に引き渡すように通達が出された。
しかし、工部省は既に体制を整えて各方面からの依頼により印刷・製本を行っており、活字の製造は工業に関わる工部省の管轄に属するものであるとして引き渡しを断固拒否した。一方、文部省は、早速、活字と器械類を印書局に引き渡して神田和泉町の文部省活版所は閉鎖された。その為もあってか、平野富二が開設した活版製造所には活字の引き合いはほとんど無く、手持ち資金も目減りする一方であった。
このような状況の中で、本木昌造から委託を受けた活版製造事業を軌道に乗せるために平野富二が行った事柄を、新たな視点を加えて紹介する。
1)活字の製造体制整備
当初の準備資金は限られていたので、長崎から持参した活字母型を用いて一刻も早く活字を鋳造できる体制を整え、顧客の要求に応じていつでも販売できるようにする必要があった。
しかし、東京に拠点を構えて1ヶ月経っても、一向に顧客からの注文はなく、長崎で調達した資金も、そろそろ底をつく事態となった。
長崎で製造した活字母型は二号、四号、五号の明朝体のみであったが、需要動向を見ながら追いおいサイズと字体の品揃えのため、活字母型を製造することとした。
平野富二の日記によると、明治5年(1872)9月20日に初めて「ガルハニー相始候事」(電胎法による活字母型の製造を開始した)と記されている。
2)地方府県庁の文書活版化促進:埼玉県庁への活版納入
平野富二は、何としても活字の注文を得なければならなくなったことから、長崎製鉄所時代に親しくお付き合いしてもらった元長崎県令野村盛秀(宗七)が埼玉県令として赴任していることを思い付き、8月上旬の或る日、浦和の埼玉県庁を訪れて野村県令と面会した。活版印刷の効用を詳しく説明し、今まで手書きで書き写して県内の町村に配布していた政府の布告書類を活版印刷化することによって迅速、正確、減費の三得が得られることを力説した。
それに同意した野村県令は、大木文部卿に宛てて伺書(8月12日付け)を提出している。それは「布告書活字板摺立伺」と題し、
「管内一般に布告する書類が、現在、多量になり、長文の数部は特に書き写しが行き届きかねないので、今後、止むを得ない分は県庁に於いて活字版で印刷し、管内の町村に布達することにしたい。」と述べている。
これに対し、文部省から9月付けで「管内に限って布達の書類を活版により印刷することを認可する。」と指令があった。
平野富二の日記には、「8月29日、埼玉県より四号文字350字の注文があった。」と記録されている。注文の日付が文部省の正式認可より少し早いが、埼玉県では文部省の前向きな感触を得て、事前に発注してくれたことが分かる。平野富二にとっては「枯魚、一掬の水を得た」思いであったという。
図23‐1 平野富二の日記抜粋
〈三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』、p.131〉
右の八月廿九日 雨 の第2項に
「一.埼玉縣より四號活字三百五十字注文有之候事」
中央の九月五日の第3項には
「一.海軍省より摺物之義に付森尾より引合として罷越候事」
左の九月廿日に、「一.ガルハニー相始候事」、
「一.長崎来状 箱物七ツ横浜迄着候由」とある。
後に書かれた伝記では、「金額にして200円ばかりであった」と記されているが、四号活字1本が永8文(0.008円)であることから、活字だけで販売した場合、350字は合計3円若にしかならない。活字を版に組んで納入し、その後も引き続き注文を受けた結果として300円ばかりとなったと見られる。
埼玉県は、その後、県庁活版所を設けている。しかし、火災で焼失したため、民間の開益社(後の埼玉活版社)を県庁御用に指名している。
活版印刷を必要とするほどの印刷物の発行が未だ民間では殆ど行われていないこの時期に、埼玉県の決断により他の府県庁でも復刻する布告書類の活版印刷化が急速に行われるようになり、やがて民間活版所が府県の御用に指名されることにより地方における活版印刷の普及・発展を促したことになる。
3)広報宣伝活動:『横浜毎日新聞』に広告掲載
埼玉県令野村盛秀を訪問した同じ月の8月、平野富二は横浜の陽其二に依頼して、『横浜毎日新聞』(第528号、明治5年8月14日付)に陽其二の経営する横浜活版社名で広告を出してもらった。本件については、既に前回のブログで述べたが、ここではその広告の内容を現代文で紹介する。
「これまで、長崎新塾内において活版を鋳造し、さらに、銅版を熔解製造し、殆んど全備いたしました。一方、次第に活版印刷の大きな利便性が広く一般に認知され、各府県においても布告等に至るまで活版で印刷されるようになりました。そのような訳で、今般、東京府下佐久間町の東校表門通りにある文部省活版所内において活字ならびに銅板を製造・発売いたしますので、御注文の方は最寄りの同所ならびに長崎新塾へ御相談ください。なお、当社においても御注文をお受けすることが出来ます。」
この広告の印刷は木活字によると見られる。広告の趣旨から見て、平野富二が東京で新たに鋳造した活字が用いられて当然と思われるが、未だ新聞を印刷するには供給量が不足していたのかも知れない。
4)広報宣伝活動:『新聞雑誌』に「崎陽新塾製造活字目録」を掲載
同年10月に入って、平野富二は新聞局日新堂から発行されている『新聞雑誌』に広告を出した。同紙は半紙二つ折の木版刷り冊子式新聞で、その第66号(明治5年10月発行)に活版印刷による活字広告が掲載された。木版刷りの紙面の中に綴り込まれたこの活版刷り広告は、異彩を放つ存在だった。
図23‐2 「崎陽新塾製造活字目録」
〈『新聞雑誌』、第66号、綴り込み広告〉
表題にある「崎陽新塾」は「長崎新塾」と同じである。
明治5年(1872)2月に刊行の『新塾餘談』に掲載した摺り見本と同様に、
各号の摺り見本と1字当たりの代価が示されている。
初号から五号までは『新塾餘談』に掲載したと同じ鋳型で鋳造したと見られる活字による8種の摺り見本が示されているが、初号の字間スペースは若干詰めてある。これに加えて、七号振仮名(片仮名)の摺り見本(平仮名は見本を省略)が加わっている。七号は上海美華書館の六号に相当するもので、崎陽新塾では六号は示されていない。各号ごとの代価は、先の『新塾餘談』に示された代価と同額で、追加された七号は永五文となっている。
摺り見本に続いて、次のような説明が記されている。現代文に直して紹介する。
「右の外に二号以下毎号に平仮名・片仮名・濁音・唇音(半濁音)・塞音(促音)・略字・返り点、その他、西洋文字数種がある。且つ、真字(楷書)、その外とも、字体や大小等はお好みの通り製造出来ます。
一.摺器械は美濃二枚摺と半紙二枚摺 ○肉棒型と同金物 ○文字組鉄わく大小 ○文字取盆 ○肉盤○欄 ○系 ○文字挟、紙締器械、その外、活字入用の諸品。
一.御出版物が有れば、和・漢・西洋文とも印刷して差上げます。」
この「活字目録」は、全国の活版印刷業を志向する者たちの注目を集めた。
2年後のことになるが、佐賀藩医の川崎道民は、1874(明治7)年10月15日付けで佐賀県令北嶋秀朝に対して活版所の設立を願い出た。その願書に、活字購入のための見本として『新聞雑誌』に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」が付され、そこにある三号の和様活字に墨で○印を示し、「右三号ノ文字」を至急購入したい旨を述べている。
5)新聞の活版による印刷化動向
平野富二が東京神田泉町で長崎新塾出張活版製造所を開設するよりも5ヶ月前の明治5年(1872)2月21日、浅草茅町一丁目の日報社から『東京日日新聞』が創刊された。
同紙は、日本橋照降町の蛭子屋(えびすや)が所有する上海製活字と日本橋本町二丁目の瑞穂屋が所有する足踏式印刷機を使って、活版印刷による新聞発行を計画していた。しかし、創刊号は木版摺りとなった。第2号から活版になるが、活字が大幅に不足しているため、漢字の一部を片仮名で表記するなど苦労している。また、組版技術も未熟であったためか、第12号から再び木版摺りに戻っている。明治5年(1872)7月2日から1873(明治6)年2月末日まで木活字による印刷が行われた。
明治5年(1872)11月9日発行の改暦号は2日間で2万5千部を売り上げ、これにより発行部数を大幅に伸ばした。その結果、従来の請負制印刷に問題が生じ、工場直営の印刷に切り替えたという。
金属活字に戻るのは1873(明治6)年3月2日からである。これには勧工寮活字が用いられたが、同年11月24日から、勧工寮活字に代わって平野富二の製造する崎陽新塾活字が用いられるようになった。勧工寮の活字には、少なくとも3種の書体が混在する上、寸法にも違いがあったという。そのような中で、日報社は、崎陽新塾活字の美しさを発見し、平野富二に直接活字を販売する意思があることを確認して全面切り替えを行ったという。
日報社の勧工寮活字採用の時期は、次項6)で述べる勧工寮が『東京日日新聞』に活字払下げの広告を掲載する1ヶ月前であることである。日報社が勧工寮に活字払下げを依頼し、それを契機に勧工寮の外販活動が開始されたと見られる。勧工寮の広告に示された活字価格は、多分に崎陽新塾に対抗する意識を露わにしているが、平野富二は値引き競争に応ずることなく、あくまで活字の品質で応戦したとみられる。その結果は、日報社が勧工寮活字から崎陽新塾活字に全面的に切り替えた事実がこれを如実に示している。
明治5年(1872)には、『東京日日新聞』の発行に続いて、『日新真事誌』(3月16日創刊、貌刺屈社中)、『郵便報知新聞』(6月10日創刊、報知社)、『公文通誌』(11月創刊、公文社。のち『朝野新聞』と改題)が相次いで刊行された。
『日新真事誌』は、東京築地新栄町に於いて在留イギリス人ジョン・ブラックによって刊行され、漢字は日本製木活字、片仮名は上海製鋳造活字が使用された。1873(明治6)年12月3日から木活字に代えて四号鉛活字が使用されるようになった。
『郵便報知新聞』は、明治5年(1872)6月10日から月5回発行されたが、木版摺りであった。1873(明治6)年4月に発行された第40号から活版で印刷され、第55号(6月3日)から日刊となった。この活版印刷は、本郷妻恋町の大坪活版所において小幡正蔵が四号鉛活字を用いて印刷を請負ったとされている。
先に紹介した『新聞雑誌』(明治4年(1871)5月に木版印刷で創刊)は、1874(明治7)年1月発行の第72号から明朝体四号による活版印刷となった。ところが、次号から再び木版印刷に戻っている。その社告には、「本局で刊行の新聞は、当年1月より活版により発兌しましたが 毎号5千部余の印刷で、手数も煩わしく、機械も不足しているので、12月の間は正版(整版=木版)と活版とを隔号で発行します。幸いに四方の君子はしばらくその錯雑で不斉でとなることをお許し頂き、ひと通り目を通されるよう心からお願い致すのみです。」と記されている。
このように、各社は新聞の発行部数を順調に伸ばしているが、木版から活版への転換は、順調には行われなかったことが見て取れる。その背景には、活字の供給が追い付かなかったこともあるが、活字を拾って版に組むことに不馴れであったこと、活版を印刷する機械が不足していたことが挙げられる。
6)勧工寮による活字の外販開始と平野富二の対応
長崎から活版製造設備と人員を東京に移転して設立した工部省勧工寮活字局は、太政官正院印書局が設備を整えて活版製造が軌道に乗ったことから、政府内での需要が限られたためか、民間に対しても活字の販売を開始した。
1873(明治6)年4月26日から4日間、『東京日日新聞』に活字払下げの広告が掲載された。
それには、鉛製活字大二分五厘方(一字代金一銭一厘)、同中竪二分五厘横二分(同八厘五毛)、同二分方(同八厘)、同小一分二厘五毛方(同七厘)、同振仮名六厘二毛五糸方(同四厘五毛)と5種類のサイズの鉛製活字の1字当たりの代金が示して、「右漢字・仮名・句切等、求めに応じて多少を払い下げます。勧工寮」としている。
ここでは活字のサイズを分厘毛と寸法で表示している。また、縦横同寸のものは「方」と表示している。このサイズ表示は単なる呼称の可能性もあるが、曲尺寸法と見て上海美華書館の「号」と比較すると、二分五厘は第二号、一分二厘五毛は第五号に相当する。振仮名活字の六厘二毛五糸は五号の半格で、美華書館の最小活字である第六号よりも小さい。最初から2番目の竪二分五厘横二分は二分活字を縦長にした活字と見られる。二分は第三号よりもやや大きい。
このように同じギャンブル伝習による成果でも、長崎新塾系と勧工寮系では、共通するものもあるが、かなり違った流れが形成されつつあることが見て取れる。
また、金額の表示は新貨条例に基づく表示で、1銭は以前の永10文に相当する。この勧工寮活字を長崎新塾活字と比較すると、二号相当は1.1銭と1.2銭、五号相当は0.7銭と0.8銭で僅かばかり金額を低くして販売することにしており、明らかに長崎新塾活字を意識して値段設定を行っていることが分かる。
勧工寮は、さらに、同年6月19日から7月13日にかけて13回にわたって、3種類の活字を大幅に値下げし、元大阪町二番地の辻金太郎に販売させる広告を出している。二号相当は1.1銭を0.9銭、五号相当は0.7銭を0.3銭に値下げし、まさに投げ売りの様相を呈している。
勧工寮活字局は、この新聞広告に先立ち、同年5月に開会したウィーン万国大博覧会に活字版を出品し、進歩賞牌を授与され、その製作者藤山雅彦は協賛賞牌を受けている。藤山は現地で技術を学び、必要な諸器械を購入して1874(明治7)年に帰国した。
勧工寮が国費によって製造した活字を民間に販売することは、平野富二にとっては乏しい資金の中で多大の努力と工夫によって漸く芽の出始めた民業を圧迫するものとして大反対であった。
勧工寮活字局の前身は長崎製鉄所時代に平野富二の配下にあったことから、その内情を察知していた平野富二は、本木昌造との約束もあることから、敢えて値引き競争に挑むことなく、勧工寮活字局の設備を買い取り、長崎新塾出張活版製造所の設備と一体化することによって販売拡大を図ると云う大胆な提案を政府に願い出た。
その願書の控は、昭和の初期まで平野家に保管されていたが、現在のところ発見されていない。1933(昭和8)年に刊行された三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』には部分写真版と一部の読み下し文が紹介されている。
図23-3 勧工寮活字局の設備払下げ願書
〈三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』、p.137〉
その内容は、買取り設備の代価は分割支払いとし、活字の生産高に応じて一定の代価(税金)を政府に納めると云うもので、欧米の例を調査したところ、政府みずからが商売に手を出しても利益に結びつかず、民間に任せることによってこそ利益がえられると述べて、暗に工部省の遣り方を非難している。
平野富二は、国内の殖産興業を目的とする工部省の設立を主導した山尾庸三ならばこれを理解してくれると期待していたかも知れない。しかし、工部省が保有する活版設備の中には最新鋭の活字鋳造機やロール印刷機を含んでいたため、正院印書局の反対で民間に払い下げることが出来なかったと見られる。
平野富二の建議は採用されなかったが、1873(明治6)年11月になって勧工寮は廃止され、製作寮に所属替えとなった活字局は、翌年8月、設備一切を正院印書局に引き渡し、工部省は活字の製造販売から手を引いた。
政府系活版製造・活版印刷部門の変遷
7)政府文書の印刷請け負い
このような平野富二の努力によって、明治5年(1872)9月に入って、海軍省から出入り業者を通じて摺り物の引き合いが寄せられたことが、平野富二の日記に記されている。また、前年に平野富二が長崎から出張して東京で活字販売に成功した相手先である左院、日就社、蔵田活版所からも活字の注文があったという。
活版印刷の請負については、長崎の新町活版所との関係もあって事業範囲外としていたので、海軍省からの引き合いをどのように処置したか不明である。
明治5年(1872)11月9日、太政官布告第337号で「改暦ノ儀」が公布され、同年12月3日を明治6年1月1日とする太陽暦に改められることになった。
この改暦布告に際して、3府72県に100部単位で新暦を頒布し、さらに各省庁にも頒布することにしたが、10月10日になっても作暦担当の文部省で新暦が完成しておらず、施行までの期間が40日余しかないため、太政官から平野富二の長崎新塾出張活版製造所に注文が転げこんできた。
平野富二は、手持ちの手引印刷機では大量の注文を短期間で対応することができないので、急いで本木昌造に連絡して、政府からの印刷請負いに応じて東京で印刷を行うことについての許可と長崎にあるロール印刷機の取り寄せる要求を行ったと見られる。
その結果、政府は施行の10日余り前の11月9日に改暦布告を公布することが出来た。各県から頒布された部数では管内に徹底させるには全く不足しているとして重刻上梓の希望がだされた。そのため、引き続いて追加印刷の注文があったと見られる。
改暦関係の印刷は一段落したが、同年11月28日に太政官布告第379号で「徴兵告諭」が公布されることになり、この印刷も追加注文された。「徴兵告諭」は、今の市町村長に相当する郷長・里正に対して一般住民に徴兵に応じるよう告諭させるものであった。
この時の活版製造所での様子が三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』に、平野富二から速水兵蔵(大阪活版所から印刷機械製造の見習いとして派遣)が伝え聞いた話として、次のように紹介されている。
「平野先生が小幡活版所の隣で仕事をして居られた時分には、未だ東京にはどこにもロールがなかったので、随分珍しがられたものであったが、また、ゴットンゴットンと云うロールの音を聞いて、工場の付近を通る者が、『あの家では毛唐のものを使っている』などと嫌われて、ガラス戸に石を投げ付けて通った者があって困ったそうである。」
図23‐4 当時のロール印刷機による印刷風景
〈三浦荒一編『名古屋印刷史』、名古屋印刷同業組合、昭和15年12月〉
図では明治30年頃としているが、明治初期も同様であった。
これらの活版印刷による「新暦」と「徴兵告諭」の全国への頒布は全国に広く活版印刷物を認知させ、普及を促す一つの契機となったと見られる。
まとめ
神田和泉町で活版製造を行っていた期間は明治5年(1872)7月から翌年7月までの僅か1年余りであるが、活版製造体制を整えながら販売と広報に力を注ぎ、ようやく活版印刷の夜明けを迎え、朝日が昇り始めた。
この間、明治6年(1873)5月には曲田成(後の東京築地活版製造所第3代社長)を社員として迎えた。また、文部省御用活版所(小幡活版所)で支配人兼技師となっていた茂中貞次とその弟鳥山棄三(筆名、宇田川文海)を地方新聞社に派遣して地方の活版印刷普及の一端を担わせた。さらに、活版印刷機械国産化のために江戸職人を探し出し、その技術を活用している。
曲田成については、本ブログの別シリーズ「東京築地活版製造所社長列伝」に掲載してある。茂中貞次と鳥山棄三については次回のブログ掲載とし、それに続いて活版印刷機械の国産化について紹介する予定である。
平野富二の記録によると、明治5年(1872)の活字販売高は、僅か7月から12月の6ヶ月に満たない期間に244,236個(6貫448匁、24.18㎏)の実績を挙げている。それが翌年になると、神田和泉町から築地に移転した空白期間があるにも関わらず、年間2,772,851個(357貫388匁、1,340.21㎏)を記録している。個数で11.3倍、重量で55.4倍となる。
初めて埼玉県から活字350個を受注して、ようやく一息ついた頃から見ると、隔世の観がある。平野富二による活版製造事業は確実に軌道に乗り、平野富二はさらなる発展を目指して築地の新立地に移転することを決意した。
2019年2月10日 稿了