活版製造所の築地への移転

はじめに
平野富二が新妻と社員8名を引き連れて長崎から上京し、神田和泉町(現、千代田区神田和泉町一)に長崎新塾出張活版製造所を開設したのは、明治5年(1872)7月であった。
その丁度1年後の明治6年(1873)7月になって、新立地を求めて築地2丁目(現、中央区築地1丁目)に工場を新築して移転した。

神田和泉町時代の当初は、活字の需要はほとんどなく苦労の連続だった。しかしながら、政府が発行する布告類を、手書き複写していた地方の各府県庁に活版で印刷することを働き掛け、さらに、活版印刷機を国産化して提供することにより、世間一般にも活版印刷の利便性が認められるようになった。同時に、なかなか進展しなかった新聞の活版印刷化も次第に行われるようになったことから、活字・活版の需要が急速に伸張しはじめた。

このような状況から、神田和泉町の東校構内にある門長屋を間借りした工場では拡張の余地がなく、もはや限界に達していた。また、同じ構内にあった文部省活版所が廃止されたことから、この地に存在する意味もなくなっていた。

本稿では、築地に移転後に急速に需要が拡大した活字・活版製造のために、当初は120坪(約400㎡)の土地に建てた木造の仮工場を起点として、隣接地をつぎつぎに買増して事務所と各種工場を建設して、東京屈指の一大工場を完成させ、さらなる事業発展の基礎を確立したことを述べ、本木昌造が負っていた負債を完済して、本木昌造との約束を果たしたことから、明治11年(1878)の本木昌造没後3年祭を期に長崎新塾出張活版製造所を本木家に返還するまでを紹介する。

なお、この間に行った活版印刷機の製造、内外博覧会への出品、地方活版所・新聞社への活版化協力については、それぞれ別稿で紹介する予定である。

(1)築地への移転
明治6(1873)年の初夏、平野富二は築地2丁目20番地の土地120坪余り(約400㎡)を買い求めて木造の仮工場を建て、同年7月、神田和泉町から設備・人員とも、すべてをここに移転した。

図26-1 明治6年の築地地区を示す地図
<明治6年「沽券図」、東京都公文書館所蔵>
地図の上部に濃く塗り潰された部分が築地川で、
左上の万年橋から築地川沿いの道路を右手に向かって
1本目の道路から先が築地二丁目となる。
その角が19番地で、
その隣に平野富二が購入した20番地がある。
この地区は
土地区画内に灰色で示す道路の拡幅・新設が計画されていた。
この頃は築地川に祝橋は未だ架けられていない。
この図には土地所有者の名前が記されており、この頃、
築地地区には外務官僚が多く居住していたことが分かる。

このとき新築した仮工場は、木造寄棟造り二階建ての大形建物だった。「銀座の大火」を契機に政府がこの地区に「本家作見合わせ令」を公布し、東京府により焼失地一帯の区画整理と防火のための煉瓦街建設が進められていたことから、木造の本建築は認められなかった。そこで平野富二は、いずれ煉瓦造に建て替えることを条件に仮工場として認可を得たと見られる。この移転のために金3,000円を支出したと伝えられている。

築地地区は幕末まで大部分が大名や旗本の屋敷地だった。明治維新に際して大名や旗本が国元に帰ったため、留守の番人を残すだけの閑散とした土地だった。

明治2年(1869)3月28日の東京奠都(とうきょうてんと)によって新政府の要人が築地周辺の旧大名・旗本屋敷に住み着くようになった。同年4月にいち早く築地に居を構えた大隈重信の屋敷には多くの要人が出入りし、築地の梁山泊といわれていた。

明治5年(1872)2月26日、和田倉門内の兵武省添屋敷から出火して、風下に当たる銀座から京橋、築地一帯の約三千戸が焼失した。この火災はいわゆる「銀座の大火」と称された大火災で、築地ホテル館も全焼して外国人に衝撃を与えた。築地と南飯田町の各半分と明石町の外国人居留地は焼失を免れた。

平野富二一行が長崎から横浜を経由して東京南飯田町の連絡船発着場に着いたのは、その5ヶ月後のことであった。一行は築地から銀座にかけての焼け野原を目にしたはずである。

その一年後に、平野富二は焼失した築地の土地を求めたことになる。当時は、未だ焼け野原となったままの土地も多く、大名・旗本屋敷跡は分割されて政府要人を中心とした者たちに譲渡されたが、政府と東京府による不燃都市化計画に基づく規制が厳しいため、家を建てて移り住む者は少なく、閑散としていた。

この築地地区は、築地川と称する水路に囲まれ、水路は日本橋や京橋にも通じていた。また、横浜の開港場と貨客小型蒸気船で連絡する築地運上所前の発着場(南飯田町)にも近く、明治5年(1872)9月には新橋・横浜間の鉄道が開業したことから、交通運輸に至便な所であった。

また、書籍類の出版・販売を行う書肆(しょし)が多く集まる日本橋や京橋地区への行き来が便利で、また、芝神明前も比較的に近く、活字・活版販売に好適な場所であった。

神田和泉町から移転してきた平野富二夫妻と従業員一同の居住場所は仮工場の一画に用意されたと見られる。

(2)営業活動の再開
移転作業が一段落して営業活動を再開できるようになったことから、明治6年(1873)8月15、16日の両日、『東京日日新聞』に移転広告を出した。

「これまで、神田佐久間町3丁目において活版ならびに銅版(エレキトルタイプ)、熔製摺機械、付属器とも製造いたし来たりそうろうところ、今般、築地2丁目20番地に引き移り、なお盛大に製造、廉価に差上げ申すべくそうろう間、あい変わらず御用向きの諸君、賑々しく御来臨のぼど希望たてまつりそうろうなり。明治6年酉8月 東京築地2丁目萬年橋東角20番地 長崎新塾出張活版製造所 平野富二」

図26-2 築地移転の新聞広告
<『東京日日新聞』、明治6年8月15日付>
この広告では、移転前は神田佐久間町3丁目としているが、
正しくは神田和泉町である。
新しくできた町名のため知る人は少なかったことから
昔からある神田佐久間町3丁目で門前の場所を表示した。
移転後の場所は、
築地川に架かる万年橋の東角から入った先の
築地2丁目20番地であることを示している。

築地に移転して間もない頃のこととして三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(192ページ)に逸話が紹介されている。その一部分を抜粋し、手を加えて紹介する。

「(略)築地二丁目に工場を建てられ、また、世間でも平野先生の活字の宣伝努力がようやく効いて、活字をだんだん用いることになったため、『今の努力が将来をなすものである。今が大切な時期である。』と、非常に馬力を掛けられた。
ちょうど折悪しく長女が病気にかかられて、駒子夫人もどうかして充分養生をさせ、早く癒してやりたいと思われたのは、親心としてもっとものことであった。しかし、何分にも築地に工場をたてて未だ間のない時分であったためと、その上に本木先生の借財を莫大に引き承けられ、世間に未だない新しい事業を始め、それが一体どうなるかということが気に掛かるのは、女心として当然であった。
そういうことから、長女琴(こと)の養生や手当も十分出来ず、ことに夏分は、今日の築地とちがって、昔の築地は大名の屋敷が多かったために家が密集していない関係から、非常に多く蚊が居た。それにもかかわらず、病気にかかった長女琴を背に負い、大勢の人達の三度のまかないから、その間々には、また、セッセと駒摺り(活字の二方をやすりで仕上げること)をせられ、長女琴に充分な手当も出来ずして、ついに死なして仕舞われたそうである。(略)」

この逸話は、築地に移転して間もない頃の出来事としているが、実際には移転してからほぼ2年間の事柄である。

谷中にある墓誌によると、長女琴(古登と表記)は明治8年(1875)7月7日、わずか3歳で病没している。その約3か月後の9月30日には二女津類(つる)が誕生している。

なお、長崎で本木昌造の容体悪化したのは8月中旬のことで、平野富二は取り急ぎ長崎に出掛けて病床を見舞い、9月15日に葬儀を執り行っている。

(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
平野富二は、仮工場を建てた20番地に隣接する19番地と21、22番地、さらに、17、18番地の土地を次々に入手し、20番地に最初に建てた仮工場と棟続きの木造二階建工場建屋を21、22番地の土地に増築した。また、19番地の道路に面した角に瓦葺煉瓦造平屋建の仮家屋(倉庫?)を新築、その横に正門と自費官築による二階建煉瓦家屋(事務所)を新築した。

この二階建煉瓦家屋(事務所)は、東京府が定めた「煉化石建築方法」に基づき所轄官庁の承認を得て土木寮建築局で建築(官築)したもので、明治6(1873)年12月25日に引き渡しを受け、事務所とした。以後、築地活版製造所の住所は築地2丁目19番地となった。

図26-3 新築の煉瓦家屋
<平野活版製造所『活字見本帳』、明治10年>

この新築煉瓦家屋は、
築地2丁目19番地を買増しして建てられた。
間口2丈1尺8寸(6.6m)、奥行3丈6尺8寸(11.15m)、
建坪22坪3合(73.7㎡)だった。
その右横は正門と通用門で、正門は観音開きの木製門扉を備え、
向かって右側門柱に「長崎新塾出張」「活版製造所」と
2行書きした大きな表札を掲げていた。

平野富二は、建築局から煉瓦家屋の引き渡しを受けたが資金繰りが付かず、東京府を通じて明治7年(1874)1月から12月までの分割納入を申し出て許可された。

そのとき東京府に提出した請書に、身元保証人として吉雄永昌(木挽町2丁目18番地)の名前が記されている。吉雄永昌は、長崎でオランダ通詞だった頃は吉雄辰之助と称しており、品川藤十郎の親戚筋にあたる。吉雄永昌と築地活版製造所との関係は子息吉雄永寿まで続くことになる。

図26-4 明治7年の築地活版製造所
<昭和4年10月刊『株式会社東京築地活版製造所紀要』の口絵>

画面右奥の大形建物が最初に建てた仮工場で、
奥に向かって建て増しされている。
右手手前の平屋は窓の構造から煉瓦造りの倉庫と見られる。
左手の建物は、図26-3で示した煉瓦造二階建家屋である。
事務所の右側に正門と通用門が見える。
画面左端の背後にわずかに見える建物は
後に平野富二が購入して居住する住宅家屋の屋根と見られる。

明治7年(1874)10月になって、敷地の前を流れる築地川に木挽町2丁目と築地2丁目を連絡する仮橋が架け渡されることになり、平野富二は東京府に20円を献納している。この頃、仮橋前から築地本願寺の角まで直通する道路が開設された。この仮橋は後に「祝橋」となる。

図26-5  仮橋架設後の築地地図
<明治7年「内務省地理局 五千分一地図」、国会図書館所蔵>

この地区の番地は図26-1に示した番地と同じであるが、
後に祝橋となる仮橋とその延長道路が開設されたことにより、
17、23、26、27番地の土地が削られた。
25番地の華族柳原前光は京都の公卿出身で、
当時は清国駐箚特命全権大使だった。
妹の愛子は大正天皇の生母である。

明治8年6月には23番地の土地と造作付き家屋を購入して、平野富二一家はここに移り住んだ。この家の入口は新たに開設された道路に面していた。

(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
平野富二は、明治7、8年頃(1874、5)の長崎新塾出張築地活版製造所について、次のように述べている。原文は長文であるので、その一部を現代文に改めてここに紹介する。

「明治7、8年の頃になって、世の中はおおいに文明開化の段階に進み、新聞・雑誌類の発行も日増しにその数を増し、布告・布達類も多くは活版で印刷することで統一された。これにより活字の需要先は日に日に拡大し、その販売高も大いに増加し、利益を得ることも少なくなかった。」

ちなみに、平野富二が東京に長崎新塾出張活版製造所を開設して以来の活字販売高を前記資料から示すと、

明治05年(1872)  244,236個     6,448匁    (   24,000g)
明治06年(1873) 2,772,851個   357,388匁   (1,340,205g)
明治07年(1874) 3,656,675個   817,463匁   (3,065,486g)
明治08年(1875) 4,554,334個   1,087,936匁   (4,079,760g)
明治09年(1876) 7,156,734個   1,071,186匁   (4,016,948g)

明治10年(1877) 5,828,255個   1,348,727匁   (5,057,726g)
明治11年(1878) 7,629,375個   1,274,303匁   (4,778,636g)
明治12年(1879) 10,141,035個    1,639,200匁  (6,147,000g)

牧治三郎によると、明治5年(1872)7月に神田和泉町に「長崎新塾活版製造所」を開設して、明治6年(1873)6月までに、四号活字23万個、五号活字22万個を販売し、3,500余円の金額を得たとしている。

明治5 年(1872)8月29日に初めて埼玉県から活字350個の注文を受けてひと息つくことができたということを考えると、隔世の感がある。明治5年の活字販売実績は8月末から12月までの約4ヵ月間の実績であるとみられるが、翌明治6年中旬から販売高が拡大していることが分かる。

このように、順調に発展する活版製造事業の状況は、逐一、本木昌造のもとに報告されていたと見られる。

(5)本木昌造の東京視察
本木昌造は、この頃、長崎で専ら新街私塾の開業の公認に苦労していたが、ようやく開業願書が長崎県に受理されて一段落した明治7年(1874)4月、大阪・京都を経由して東京への視察旅行に出た。

同年5月、上京した本木昌造は築地の長崎新塾出張活版製造所を訪れた。神田和泉町から築地に移転して新装なった事務所と工場を視察し、経営の現状と今後の見通し、設備拡充計画について平野富二から説明を受けた。このとき本木昌造が目にした築地の活版製造所は図26-3の写真に示す状態だったと見られる。

その後、従業員全員を集めて次のような慰労と激励の挨拶をしたことが伝えられている。

「東京での事業は私の予期していた以上に進展している。これは皆さんの協力のお陰である。しかし、事業は未だ道半ばであり、現今の僅かな成功に満足することなく、また、時代の流れに遅れることの無いよう、今後ともますます進歩発展させて欲しい。それには今まで以上に努力、精励が必要である。」その後、本木昌造は、東京の各地を巡って私学・私塾の現状を自分の目で確認し、東京を発って長崎に戻る前、長崎出身の内田九一が経営する内田写真館で撮った記念写真がある。
この写真は、2018年7月31日公開の本シリーズ「本木昌造の活版事業」で紹介しているが、写真に写された本木昌造は、紋付を羽織った姿であるが、眼は落ちくぼみ、頬はこけて、いかにも病気がちであることを想わせる。

本木昌造は、翌年春にも上京して築地を訪れている。その際、大阪の活版所設立のときに五代友厚から受けた融資金の返済について平野富二と相談した。平野富二は、返済金の一部として1,500円と利子90円を本木昌造に渡し、また、残金は本木昌造の養老金として毎月200円を仕送り、その中から支払ってもらうようにした。

本木昌造は、帰途、大阪で五代友厚と面会し、融資金の一部返済とその後の支払いについて了解をとり、肩の荷を下ろして長崎に戻った。間もなく長崎で体調をくずしたため京都に赴き、閑静な郊外で療養していたが、この地で引いた風邪がもとで病床に就くようになった。小康を得て長崎に戻ったが、回復することなく明治8年(1875)9月3日に死去した。52歳だった。

平野富二は、本木昌造の支払うべき五代友厚の負債残金を、本木昌造への養老金をそのまま充当して月賦返済した。これが縁となって平野富二と五代友厚との親交が始まった。

(6)築地に於ける設備増強
明治8年(1875)6月、平野富二は築地活版所に隣接する築地2丁目23番地の土地と建物一式を1,420円で購入し、自分の住居とした。

同年7月には、工場前を流れる築地川の河岸にある水揚場を自費で補修する旨の願書を東京府に提出している。活字類の原材料や製品を、ここから水運を利用して搬入、搬出することを目的とした。

同年9月5日付け『東京日日新聞』に「活字王本木昌造 我が文明の恩人」と題する本木昌造の死去を報ずる記事が掲載された。その中に記者が本木昌造へのお礼と弔問を兼ねて築地活版製造所を訪れたときのことが述べられている。その部分を平易な文章に改めて紹介する。

「なるほど感服したことには、いろいろの字母が出来ていました。横文字はどのような文字でもすべて、西洋の形を模写し、花文字から枠に用いる唐草模様まで揃っています。カタカナ、平がなは申すまでもなく、漢字は明朝風も楷書も大小いろいろあります。
製造中のものでは、極小漢字と二字続き、三字続きの平がな活字があります。これが出来たら今まで以上に便利になるでしょう。
非常に大きな製造場を新しく建ててありましたから、中に入ってみました。そこには大勢の職人が蒸気動力を用いて仕事をしていました。活字ばかりではなく、銅や鉄の加工はなんでも出来ると見えます。」

平野冨二は、新工場を建設すると同時に海外から工作機械を購入し、それを駆動するボイラ・蒸気機関を導入していたことが分かる。

明治9年(1876)5月、神田左衛門河岸(神田和泉町近くの神田川の河岸)にあった300坪余りの木造醸造蔵1棟を買い取り、その用材を用いて活字仕上場を建てた。余った木材でその傍らに長屋2棟を建てて印刷機械製造工場とした。これは、日増しに増大する活字と印刷機の需要に対応して、新たな設備投資を行なったものである。

なお、平野富二は近くの海軍省所轄の石川島修船場が廃止されるとの情報を得て、同年10月末に海軍省との間でその跡地を借用する契約を結んだ。それによって、念願の造船業への進出の足掛かりをえた。

(7)活字類の品揃えと改刻
前項で紹介した『東京日日新聞』の記事にあるように、漢字は明朝風と楷書、カタカナと平がな、各種書体の横文字(欧文文字)、花文字や唐草模様の枠まで揃えていた。これらは、明治9年(1876)に刊行した『活版様式』と明治10年に刊行した『BOOK OF SPECIMENS』に収録されている。

このような活字類の品揃えと共に、平野富二は活字の改刻に着手した。

明治8年(1875)、平野富二は上京後に字母係として雇った小倉吉蔵を上海に派遣して、活字母型のより完全な製法を研究させた。小倉吉蔵は江戸で相当名の売れた神社仏閣の飾金具師小倉吉蔵の長男で、その父のもとで働いていた。
字母の作成は、飾金具の加工と共通するところもあるが、馴れない仕事でもあったので、上海でその製法を習得して、明治10年(1877)に帰国した。ところが、小倉吉蔵は築地活版製造所には戻らず、各地の活版製造所を巡って、習得した新技術を伝授して歩いたという。

本木家に活版製造所を返還した後のことになるが、明治12年(1879)になって、曲田成を上海に派遣し、現地で新たに種字を彫りなおして、肉太のどっしりした字体を特徴とする明朝体を創り出した。いわゆる築地体と称される活字書体の先駆をなすものである。

当時、会計掛だった田中市郎の談話として、「上海から箱崎の三井支店に一握り程の種字が到着すると、いつも70円から100円位の金を持って、その種字を受け取ったものである。その頃の種字は、単に価が高価であるばかりでなく、これを集めるのに並々ならぬ苦心を要したそうである。」と記録されている。

同じ談話記録によると、「築地活版製造所が活字書体の大改革を企画したのは、明治13,4年頃で、竹内芳五郎が彫刻部の主任をしていた。この時は、上海から現地人を2,3人招聘し、所内に寄宿させていた。生活習慣が違うため大変な費用がかかり、結局、改良費が4,5千円も計上されたそうである。」とある。

矢作勝美著『活字=表現・記録・伝達する』によると、このときを「第一次改刻」とし、続いて、次のように順次改刻がなされて築地体が完成したとしている。
「第二次改刻」は、明治17年(1884)、第1次改刻の書体を基礎にして、日本人種字彫刻師による改刻。
「第三次改刻」は、明治22年(1889)、明朝体の整備が一段と進み、一般に築地体と云われるようになる。
「第四次改刻」は、明治28年(1895)、築地体の完成期。
「第五次改刻」は、明治36年(1903)、微調整がなされ築地体完成。

このように、明治12年(1879)から10年がかりで築地体といわれる優れた書体がほぼ出来上がり、明治22年(1889)の段階で平野富二は活版製造事業から手を引くが、その後も改良が重ねられて完成域に達したことが分かる。

なお、明治16年(1883)になって上海に出張所修文館を開設して活字および活版資材の海外販売を行っている。

(8)本木家に活版製造事業を返還
本木昌造の死後、長崎においてその跡を継いで新街私塾の経営を行っていた本木小太郎が新街私塾を畳んだのを期に、平野富二は本木小太郎を活版製造所の大阪支店と東京支店とを統括する長崎本店の経営者として育て上げるため、東京に呼び寄せ、自分の下で教育を行っていた。

明治11年(1878)9月初旬、平野富二は本木小太郎を伴って長崎に赴き、本木昌造没後三年祭を関係者と共に催した。

三年祭の行事が終わったところで、平野富二は活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京での事業として築地活版製造所と石川島造船所の棚卸高合計が130,000円余りに達したことを報告した。そして、その帳簿類一式を添えて、この事業を一旦、本木家に引き継いで貰い、それによって本木昌造と交わした最初の約束を履行したいと申し出た。

この申し出に出席者一同は、唖然としてお互いに顔を見合わせ、差し出された受取書に署名するものはいなかった。出資者一同は座を改めて対応を評議した。

その結果、平野富二の素志を重んじて石川島造船所の資産40,000円余りを平野富二の報酬として与え、活版製造所の資産90,000円余りを本木家と出資者の持ち分として受け取ることとした。さらに、石川島造船所と活版製造所の株金10,000円ずつを双方で交換し、本木家と平野富二との関係を永く続くようにするのが良いと一決した。

平野富二は、これを受け入れ、本木小太郎を活版製造所の所長とし、自らは後見人として事務一切を管理統括することとした。さらに、桑原安六を支配人に指名することとして、東京に戻った。

長崎から帰京した平野富二は、築地活版製造所の組織を次のように変更した。

所   長  本木小太郎
所長後見人  平野富二
支 配 人  桑原安六
副支配人      和田国男
会   計  藤野守一郎、近藤鉄吾、曲田成
店   員  山下槍十郎、秋山 某、宇野 某

部門としては、鋳造部、印刷部、ガラハニー部、字母部、彫刻部、活字仕上部、罫・輪郭部、鋳型部、徒弟部屋があった。その他に石川島造船所徒弟部屋に印刷機械部があった。

この中に印刷部が含まれているが、正式には明治17年(1884)3月になって設置された。明治11年(1878)10月に博聞館から刊行された太政官編『特命全権大使米欧回覧実記』全五巻の印刷製本を築地活版製造所で請負っているので、この時の臨時組織が示されているのかも知れない。

図26-6 平野富二が本木家に返還した頃の築地活版製造所
<明治18年刊『東京盛閣図録』の「活版製造所」>

本図は明治18年刊ではあるが、
明治16年頃の様子を示すものと見られる。
画面右手の木造二階建家屋は最初に建てられた仮工場で、
奥に向かって建て増しされている。
画面左端の煉瓦造2階建家屋は事務所である。
この絵図では、敷地の角にあった倉庫は撤去され、
事務所の左側に建てられる煉瓦造2階建家屋(図の範囲外)は、
用地取得のみで、本木家返還時には未だ存在していなかった。
黒煙を吐く4本の煙突は機械類駆動のための
蒸気発生用石炭焚きボイラの排煙用として設けられた。

なお、明治11年(1978)の『東京府統計書』によると、役員10人、職員32人、職工64人(内、女工1人)、建坪305.0坪と記録されている。

明治12年(1879)1月、平野富二は再び長崎を訪れ、長崎本店に於いて本木小太郎、松田源五郎、品川藤十郎、その他社中の者たちの立ち合いの下、資本区分の明確化を図った。

このとき明確化された平野富二の持ち分は、平野富二の「金銀銭出納帳」に次のように記録されている。

「一金30,000万円也
これは石川島造船所の棚卸資本金40,000円余りから他の借用分を差引いた40,000円の内、10,000円は本木家に活版製造所資本金と引換えた残金である。
 一金10,000円也
これは築地活版製造所の資本金100,000円の内、10,000円相当の株式を所有するもの。ただし、この10,000円は本木社長と示談により引き換えたもの。
 一金3,000円也
築地2 丁目13、14、17、39番地の土地買入金。
明治5年から同7年まで3ヶ年間の月給ならびに褒賞として本木昌造社長から亡くなる前に貰い受けたものである。
 一金600円也
これは浅草西鳥越乙2番地にある精米所の株高の内の自己所有分である。ただし、明治6年に同所に宮益幾平殿が精米所を設置の際に500円出金し、その後、中村六三郎の分100円を引き受けたので、合計600円となる。
 合計金43,600円也が自己所有となる。」

ここに示された平野富二所有の築地2丁目の土地4筆は、明治17年『東京実測全図』(内務省地理局)によると、神田和泉町から移転してきた当時の地番は変更されて、旧19~22番地が新17番地となり、旧17、18番地は新13番地、旧23番地は新14番地になった。

図26-7  『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。
築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は
築地2丁目(貮町目と表示)17番地となり、
築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。
後に、14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とし、
平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、
15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した。

したがって、四辺を道路に囲まれた築地2丁目13番地から17番地の区画は、その北西のほぼ半分が平野富二の所有地と確定し、ここには記載されていないが、その面積は約875坪(2,890㎡余り)となる。その土地の上に活版製造所の建物と諸設備が存在していたことになる。

なお、「金銭出納帳」にある39番地の土地は、図26-7の右下方向にある西本願寺の北東に位置し、堀と道路を隔てて隣接する区画内にある。用途は不明であるが、従業員の宿舎として利用されていたと見られる。

平野富二は、やがて区画の北西半分の所有地を活版製造所に譲渡し、区画の南東半分にある新16番地と新15番地を取得して、明治16年(1883)夏に平野邸を新築して、新14-1番地から移転することになる。以後、平野富二の住居表示は築地2丁目16番地となる。

ま と め
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。

当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて、次々と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。

事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化達成と本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。
また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

令和1年(2019)6月20日 稿了

平野富二による活版印刷機の国産化

はじめに
活字を組んで印版とすることによって在来の木版と同様に手刷りで印刷することは出来るが、手間を掛けずに能率よく印刷するためには、活版印刷機が必要となる。

平野富二は、本木昌造から委託された活字製造事業を発展させるために、活版印刷の普及に努力して来たが、高価で品薄の外国製活版印刷機が更なる普及を妨げていることに着目して、これを国産化して、広く一般に販売することを決意した。

国産化した機種は、手引印刷機、ロール印刷機と足踏印刷機の3機種であるが、神田和泉町で手掛けた機種は手引印刷機とロール印刷機までであった。

本稿では、神田和泉町の活版製造所において平野富二が、どのようにして活版印刷機の国産化を果たしたかを中心に述べるが、必要に応じて築地移転後の事柄についても触れることになる。

続いて、わが国における活版印刷機導入の歴史と本木昌造・平野富二の活版印刷機との関わりについて述べる。

(1)活版印刷機の国産化に着手
平野富二は、本木昌造から活字製造事業を引き受けた当初から、活版印刷を全国的に普及させる手段として、活版印刷機の国産化と販売を課題として持っていたと見られる。

<最初の活版印刷機の販売広告>
平野富二が、神田和泉町にあった東校構内の門長屋に長崎新塾出張活版製造所の設営を開始したのは、明治5年(1872)7月20日前後であるが、それから約3ヶ月後の10月下旬になって、『新聞雑誌』、第66号に広告「崎陽新塾製造活字目録」を掲載している。

その広告の中で活版印刷機について、美濃二枚摺印刷器械と半紙二枚摺印刷器械の2機種を挙げ、その他活版印刷に必要な諸品も製造できるとしている。
ここで「美濃二枚摺」とは、美濃判2枚分の印刷を一度に印刷できる大きさの印刷機のことで、「半紙二枚摺」も同様である。ただし、印刷機としての表示サイズは、美濃二枚摺1.44尺×2.1尺(436mm×636mm)、半紙二枚摺1.18尺×1.58尺(358mm×479mm)としており、用紙サイズよりもかなり小さい。

これより先の明治5年(1872)8月14日付けで発行された『横浜毎日新聞』の横浜活版社から出された広告には、「東校表門通り文部省活版所内に於て右活字幷銅板製造発売致し候」として、活字と版組に必要な副資材を製造・発売すると述べるだけで、活版印刷機のことについては触れていない。

これによって、8月中旬に活字・活版の製造・販売体制が整い、10月下旬になって活版印刷機についても製造・販売できる体制が整いつつあったことが分かる。

それでは、10月下旬から販売を宣告した2機種の「印刷器械」とはどのようなものであったのか、このことについて検討してみたい。

<当時、新塾出張活版製造所で所有の活版印刷機>
平野富二が、神田和泉町の活版製造所で活字製造と活版印刷の営業を開始した時に業務用として所有していた活版印刷機は、「四六判八頁掛ロール」1台、「フート・マシン」1台、「ハンド」1台の合計3台があったとされている。〈津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』(p.85)による〉

まず、「四六判八頁掛ロール」は、明治3年(1870)に本木昌造が上海から買い求めた紙取付装置のないロール印刷機であったと見られる。これは、明治5年(1872)11月に、平野富二の要請により長崎から東京に送られてきたものである。

そもそも、このロール印刷機は、明治2年(1869)4月頃、本木昌造が新聞発行を目的として上海美華書館に引き合いを出した印刷機と付属設備のことと見られる。その見積に基づき、4千ドルの為替手形を送る約束をしたことが、上海のギャンブル(W. Gamble)とアメリカ長老会本部との通信記録に残されている。〈後藤吉郎等の報文(『デザイン学研究』、2002年、p.284)による〉

このロール印刷機は、本木昌造が新街私塾の付属設備として開設した新町活版所に据え付けられたが、当初目的とした新聞の発行は明治6年(1873)1月に実現するまで行われなかった。明治5年(1872)11月に平野富二が神田和泉町で政府から改暦文書を大量に緊急受注したとき、手持ちの印刷機だけでは対応できないため、このロール印刷機を長崎から東京に送って貰い、政府の要求に応えた。

次に、「フート・マシン」については、本木昌造が薩摩藩の重野安繹から譲り受けたものを見本とし長崎製鉄所で造ったものであると述べられている。

長崎製鉄所頭取だった本木昌造は、明治2年(1869)8月、病気を理由に頭取辞任を申し出た。翌9月頃、鹿児島を訪れて、薩摩藩が上海美華書館から購入したが使用できずに倉庫入りしていた活版印刷機(ワシントン・プレス)1台を譲り受けている。

図25-1 ワシントン・プレス
〈Thomas MacKellar著『The American Printer』,1866より〉

この図に示す印刷機は本木昌造が入手したものと同一ではないが、
印刷機の中央に見える4の字形の加圧装置と
2本の支柱に沿って置かれた一対のスプリングが
ワシントン・プレスの特徴である。
上部横桁にワシントンとフランクリンの肖像がある。

この活版印刷機は、付属するレバーハンドルを手前に強く引いて印刷することからハンド・マシンと呼ばれるが、これを「フート・マシン」と呼ぶ理由は定かでない。

薩摩藩から譲り受けた印刷機は、明治3年(1870)になって大阪に長崎新塾出張活版所を開設する際、大阪に移設された。当時、印刷係見習だった速水英喜は、この微妙な働きをする印刷機の研究に努力し、自分もこのような機械を造り上げたいと願っていたと伝えられている。

最後の「ハンド」は、ハンド・マシンのことで、万延元年(1860)に活字製造法を学ぶため上海に派遣された松林源蔵の見聞を基礎として、明治元年(1868)になって本木昌造が長崎製鉄所に依頼して造ったものとされている。

この印刷機は、木材と鋳造品・鍛造品の組み合わせで、鳥居と称する門型架構は木製、バレン(馬連、印版の上に置いた印刷用紙を上から押し付ける圧盤のこと)はメッキを施した金属製、バレン取付け金物は鋳物、印版を載せて移動させる台車のレールは木製、レール受けは鉄の丸棒だったとされている。

図25-2 本木昌造の印刷所風景
〈三浦荒一編『名古屋印刷史』、昭和15年12月より)

図の説明では、長崎国際産業博覧会の木製印刷器とされている。
昭和10年刊『長崎市主催国際産業観光博覧会協賛会誌』によると、
昭和9年(1934)3月25日から5月23日まで長崎で開催され、
中之島埋立地の第一会場に文明発祥館を設けて10景を展示した。
その1景として、
「本木昌造の印刷所創始」の様子を丁髷姿の人形で再現している。
展示された木製印刷器は、「ハンド」を模したものと見られる。

上海美華書館は、万延元年10月中旬(1860年12月)に寧波から上海に移転して来たたばかりで、松村源蔵は活字製造法を学ぶことは出来なかったが、ここで使用していたハンド・マシンを見せて貰い、操作方法を教えてもらった可能性はある。上海美華書館で用いていたハンド・マシンは全てアメリカ製のワシントンプレスであったと見られるので、本木昌造の「ハンド」はワシントンプレスに類似した基本構造の印刷機だったと見られる。

<平野富二の明治6年の「記録」>
明治6年(1873)は、平野富二が活版製造所を神田和泉町から築地二丁目に移転した年である。したがって、6月以前は神田和泉町での事柄であるか、7月以降は築地二丁目に移転した後の事柄となる。

平野富二が残した明治6年の「記録」から抜粋した記事(三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』に掲載)によると、

◆明治6年(1873)6月時点での新塾出張活版製造所の設備現況は、

一.四枚摺器械 壱台
一.二枚摺器械 壱台
一.ルール機械 壱台

◆当時の器械の定価は、

長崎製半紙二枚摺プレス  百七十円
当局製造 一枚摺       百円

◆明治6年9月14日の「記録」として

一.田中壮三注文ロール鋳型寅吉相納

明治6年(1873)6月の設備現況として挙げられた活版印刷機3台は、呼称は違うが前項で取り上げた3台と一致する。つまり、「四枚摺器械」は先の「ハンド」のこと、「二枚摺器械」は「フート・マシン」のこと、「ルール機械」は先の「四六判八頁掛ロール」のことと見られる。

この「記録」により、明治6年(1873)には、すでに、「長崎製半紙二枚摺プレス」と「当局製造一枚摺(プレス)」の二機種を販売しており、築地二丁目に移転した直後の同年9月には「ロール」の複製品を製造中であったことが判る。

販売品としての「長崎製半紙二枚摺プレス」は、もともと自社の設備として本木昌造が製造したものであるが、平野富二は、活字の販売で印刷機の注文も同時に受けた場合に対応するため、長崎製鉄所に製造を委託して販売することとしたと見られる。

もう一つの販売品である「当局製造一枚摺プレス」については、名前が示す通り、平野富二が自ら東京で製造するもので、本格的に国産化に取り組んだ最初の機種であることが分かる。

(2)最初の自社製印刷機
明治6年の「記録」にある「当局製造一枚摺プレス」は、新塾出張活版製造所に隣接する文部所御用活版所(小幡活版所)で所長の小幡正蔵が使用していた手引き印刷機を模造したものと伝えられている。

文部省御用活版所(後の小幡活版所)の手引き印刷機については、『本邦活版開拓者の苦心』(p.75,6)に記述がある。補足を加えて要約すると次の通りである。

▼明治3年(1870)10月、小幡正蔵が上京して神田佐久間町前に文部省御用活版所を開いたとき、日本橋本町三丁目の瑞穂屋卯三郎から美濃判半裁のハンド・プレスを購入した。
▼瑞穂屋から購入したハンド・プレスは、慶応2年(1866)4月、横浜の外人の手を経てイギリスから輸入したもので、ホプキンソン・ホープ社製のアルビオン印刷機の中でも初期のものであった。
▼この印刷機は、その後、小幡正蔵が手放し、東京銀座で売りに出された。明治6年(1873)になって、これを大阪活版所の谷口黙次が見付けて購入し、大阪活版所で使用していたが、後に大阪活版所を引き継いだ谷口活版所で保管していた。

図25-3 谷口活版所にあった手引印刷機
〈大阪の印刷業界誌に掲載された二代目谷口黙次の談話より〉

掲載されたものである。
小形のため、木材をT字形に組んだ台座の上に据え付けられている。
頂部にスプリングケースがあるので、
この手引印刷機はアルビオン・プレスであることが分かる。

平野富二は、長崎新塾出張活版製造所を開いた当初から、門長屋の隣室で小幡正蔵が使用しているこのアルビオン印刷機に着目し、この印刷機を自ら国産化して全国に普及させることを目指したと見られる。

美濃判半裁(美濃判を半分に裁断したサイズ)とはサイズが相違するが、「当局製造半紙一枚摺プレス」に相当すると見られる絵図が、明治7年(1874)8月に刊行された模禮菘(モリソン)著『萬國綱鑑録和解』(明治6年2月官許、何不成社刊)の巻頭に掲載されている。

それには、「活字印刷器械之図」、「東京築地 平野富二 製造、同本郷 伊藤彌兵衛 刷行」として、手引印刷機が描かれており、図25-3で示した手引印刷機と外見上では相違はあるが、印刷機構は同一と見られる。

また、この絵図と同一の図版が、明治9年(1876)に平野富二が発行した『活版様式』(TYPE FOUNDRY, TSUKIJI AT TOKEI. 東京築地 活版製造所、1876)に「Stand Press」として、さらに、明治10年(1877)年に発行した『BOOK OF SPECIMENS 』(MOTOGI & HIRANO, Tsukiji Tokio, Japan 東京築地二丁目二十番地 平野活版製造所)に「Hand Press」として掲載されている。

図25-4 『萬國綱鑑録和解』の活字印刷器械之図
〈板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』、朗文堂、2011年9月より〉

この絵図は、櫻井孝三氏が発掘されたものである。
頂部にスプリングケースがあることから
アルビオン・プレスであることが分かる。
印刷機本体部分の脚は四本で床上に置く構造となっている。
この印刷機は、明治6年(1873)中に完成していた。

谷口活版所に在った手引印刷機(図25-3)と比較すると、脚部の構造が明らかに相違している。このことから、平野富二が手本とした手引印刷機は別の類似輸入機であった可能性が高い。しかし、いずれも小型アルビオン・プレスであることには違いない。

図25-5 Stand Press図
〈明治9年刊『活版様式』、TYPE FOUNDRY,TSKIJI AT TOKEIより〉

この『活字様式』は平野富二が最初に作成した活字見本帳である。
1876年にアメリカ建国100年を記念しで開催された
フィラデルフィア万国博覧会に出品ため編纂されたとみられる。
この時の出品目録には明示されていないが、
この印刷機を出品した可能性がある。
図25-4とは同じ絵図である。

(3)当初の印刷機製造態勢
平野富二が顧客への販売を目的として、初めて自社で製造した活版印刷機について、郡山幸男・馬渡力共著『明治大正日本印刷術史』(三秀舎、昭和5年10月)に「活版印刷器械製造の創始」として紹介されている。これを補足、要約すると次のようになる。

▼明治5年(1872)7月、平野富二が東京に出てきて、神田和泉町で活版の製造と販売を開始すると、同業の活版製造業者から活字の製造に必要な活字鋳造器の故障修理を依頼されることが多くなった。
▼そこで、東京に住んでいた元鉄砲鍛冶職の金津平四郎・清次郎父子を雇用して修理に当らせた。
▼そのうち、阿波国(現在の徳島県)から半紙二枚摺手引印刷機の製造依頼があった。金津平四郎がこれを引き受けることを申し出たので、平野富二は、手持ちの手引印刷機から型を取り、鋳物を外注して鋳造してもらい、金津父子に加工・組立を行わせた。
▼完成した手引印刷機に活字・付属品を添えて納入した。これが、わが国で最初の国産印刷機であるとみなすことができる。

最初の手引印刷機の製造を引き受けた金津平四郎は、23歳で江戸に出て松屋錠七の下で10年ばかり鉄砲の製造を修業し、その後、7年前(明治5年)から平野富二に雇われて活版器械の製造を行うこと数年、一昨年(明治7年)から独立して活版器械の製造を業としている。〈『東京名工鑑』(東京府勧業課、明治12年12月刊、有隣堂)による〉

阿波國の印刷機製造依頼については不明な点が多い。廃藩置県により阿波國は名東県となるが、明治6年(1873)に名東県が活版印刷機を1,460 円で購入し、同年7月から諸布達を活版印刷して各区に配布したとする記録がある。〈徳島新聞社編『徳島近代史 2』(徳島県出版文化協会、昭和51年10月、p.189) 

平野富二の「記録」では「当局製造一枚摺」の定価は100円となっているが、名東県が購入した価格とは、活字類一式を含めたとしても、余りにも差がありすぎる。

半紙二枚摺手引印刷機の製造依頼については、平野富二の当局製造品は「一枚摺」とサイズが明記されていないが、これを「美濃一枚摺」と見ても、「半紙二枚摺」はそれよりひと回り大きい。

後のことになるが、明治9年(1876)になって、四国徳島の普及社から美濃判二枚摺手引印刷機2台の注文があり、これが大型手引印刷機の最初となったとされている。同じ徳島のことでもあり、この「美濃判二枚摺」と混同していた可能性がある。

金津父子は、平野富二に雇用されている間に、阿波国向け以外に2台の手引印刷機械を製作したと伝えられている。これは、時期的に見て、神田和泉町から築地二丁目に移転する前後である。

明治7年(1874)末になって、金津父子は独立して活字鋳造器の修理を専業とし、やがて活字鋳造器・手引印刷機の製造を行うようになった。

手引印刷機のサイズについて、当初は「一枚摺」、「二枚摺」、「四枚摺」と単に一度に印刷できる用紙の枚数を示していたが、後に「美濃判半裁」、「美濃一枚摺」、「半紙二枚摺」、「美濃判二枚摺」と、一度に印刷できる印刷版のサイズと枚数を示すようになる。

後年になって、明治20年(1887)7月の「定価表」には、「半紙一枚摺」、「美濃一枚摺」(以上、四六判、即、竪六寸横四寸の版四枚掛)、「半紙二枚摺」、「美濃二枚摺」(以上、四六判八枚掛)、「半紙四枚摺」としている。

半紙(8×11寸)は美濃紙(9×13寸)に較べてひと廻り小さいサイズであるが、さして大きな差はない。しかし、印刷機の価格は「半紙一枚摺」は80円、「美濃一枚摺」は100円で2割の値差があった。初期の印刷業者にとってはこの差が問題だったと見られる。

明治23年(1890)6月になると、「美濃一枚」、「美濃二枚」、「半紙二枚」、「美濃四枚」の4サイズに集約している。これは、半紙と美濃紙のサイズに大きな差がないことから、小型では美濃で代用し、大形はいずれか一方に纏めている。

(4)ロール印刷機の国産化
本木昌造が上海美華書館から購入した四六判八頁掛ロール印刷機は、明治5年(1872)11月に神田和泉町で政府から改暦関係文書の緊急印刷を行うため、平野富二が本木昌造に依頼して、長崎から取り寄せて使用し、無事期限内に印刷物を納入した。

このロール印刷機は、手引印刷機では1時間に約250枚を印刷できるのに対して、約900枚を印刷でき、しかも、印刷用紙は四六判八頁(四六判原紙から4枚取りしたサイズ、394×545mm)で美濃判2枚分に相当するサイズを印刷できる。

平野富二は、近い将来の印刷需要を見越して、早速、この機械をモデルにして自製による国産化に着手した。

築地二丁目に移転した後のことになるが、先に述べたように明治6年(1873)9月14日の「記録」として「田中壮三の注文になるロール印刷機の鋳型を(松井)寅吉が納入した」と記載されている。既に顧客の注文を受けて、模造品の設計図面が完成し、製造に着手していることが判る。

このことから、この機種の製品化と販売は、神田和泉町では行われず、築地二丁目に移転してからであることが判る。

ロール印刷機については、平野富二が発行した明治12年版『活字見本帳』に初めて図版により「PRINTING ROLL MACHINE 活版車機械」として紹介されている。

図25-6 ロール印刷機(ストップ・シリンダー型)
〈明治12年(1879)刊行『活字見本帳』より〉

上部左寄りの圧胴(ロール)に紙を手差しで取付け、
その下を版盤が円筒の動きと連動して左右に移動する。
版盤の往路で印刷が行われ、帰路のときには圧胴は停止し、
その間、排紙と紙取り付け、印版のインキ付けなどが行われる。
駆動は、右端後方にあるハンドル付はずみ車の手動回転により、
歯車とクランク機構を介して行われる。
手動に代えて蒸気力または電力での駆動も可能である。

従来の手引印刷機は、インキを塗布した印版の上に印刷用紙を置き、上部から圧盤で加圧する面圧式であるが、このロール印刷機は、印刷用紙を巻き付けたロールの下部で、ロールの回転と同期して移動する印版を接触加圧する線圧式である。そのため、印刷部に加える圧力を増大することができ、高速であっても摺りむらのない印刷が可能となる。

このロール印刷機は、後に輪転式印刷機が導入されるまで、新聞の発行には欠かせないものとなった。

(5)その後に国産化された足踏印刷機
平野富二が発行した明治12年版『活字見本帳』には、これまで紹介した印刷機とは別の形式の印刷機が「活版足踏機 Printing Foot Press」として図版で掲載されている。

この印刷機も築地二丁目に移転した後に国産化されたものであるが、比較的手軽に印刷できることから、名刺や伝票、チラシなど雑種の端物印刷用として用いられる。

この印刷機は、瑞穂屋卯三郎が、慶應3年(1867)に開催されたパリ万国博覧会でアメリカのゴルドン社から出品された印刷機に着目し、帰国後、明治2年(1869)にアメリカから数台を輸入した。明治5年(1872)になって、日就社がその中の1台を用いて『東京日日新聞』を印刷したと伝えられている。

図25-7 足踏印刷機
〈明治12年(1879)版『活字見本帳』より〉

下部にあるペダルを足で踏んで手前側面のはずみ車を回転させる。
上方奥にあるロールインキ付け装置があり、
中央に垂直に置かれた版盤をレバーにより開閉する圧盤がある。
給紙と排紙は手で一枚毎に行われる。

平野富二は、瑞穂屋にあった残りの1台を購入し、それを手本として国産化を図ったと見られる。

この印刷機は、足踏みにより一人で運転できることが特徴である。足踏みの代わりに蒸気力や電力による動力運転も可能である。手引印刷機に比較して機構が複雑なため高価であった。

平野富二が国産化して販売した活版足踏機械は一番小型の11×16インチ(280×400 mm)の1サイズに限っていた。

(6)わが国における活版印刷機の渡来の歴史
活版印刷機は、インキを塗布した印版とその上面に定位置で接する紙を加圧装置により加圧することで印刷が行われる。

活版印刷が開発された15世紀中ごろから19世紀に至るまで、加圧を手動で行う「手引印刷機」が広く用いられてきた。

当初は木製であったが、産業革命の結果、鉄製に代わり、その後、主として圧盤による加圧機構と圧盤の吊り上げ機構に工夫が加えられ、各種各様の考案がなされた。

その結果、スタンホープ・プレスから始まり、コロンビアン・プレス、アルビオン・プレス、ワシントン・プレスを代表とする各種手引印刷機が開発され、わが国にも導入された。

わが国には、16世紀末の天正年間にイエスズ会宣教師たちによって木製手引印刷機がもたらされた。天正18年(1590)には、ヨーロッパから帰国した天正遣欧少年使節団が持ち帰ったが、慶長19年(1614)の禁教令により信者がわが国から放逐された際、信者たちと共にマカオに移されてしまった。そのため、わが国における活版印刷術は、伝承されることなく途絶えてしまった。

図25-8 16世紀の木製手引印刷機
〈ハンス・ザックス著『西洋職人づくし』、1568年より〉
15世紀中ごろのドイツで、
グーテンベルグによって開発された木製の活版印刷機は、
18世紀末から19世紀に掛かる頃まで、
構造的に大きな改良を加えられることなく使用されていた。

その後、わが国は鎖国時代に入るが、19世紀の半ばの嘉永年間に、オランダから手引印刷機が欧文書籍印刷用として相次いで長崎にもたらされた。

その内の1基は、嘉永1年(1848)に見計らい品として蘭書植字判一式が輸入された。翌年、本木昌造を含むオランダ通詞仲間がこれを買い求め、活版印刷研究に用いられた。

その蘭書植字判一式は、安政2年(1855)8月に長崎活字版摺立所が西役所内に設立されたとき、長崎会所によって買い取られた。そのときオランダに別途注文した他の1基が安政4年(1857)6月に到着している。

それより早く、嘉永3年(1850)3月には、オランダ商館長レファイスゾーン(J.H.Lefaijssohn)が江戸参府の際に、オランダ国王から徳川将軍に献上された印刷機1基がある。この印刷機は、安政年間に蕃書調所で洋書復刻に使用された。

これらの書籍印刷用手引印刷機は、18世紀の産業革命により鉄の供給と加工技術の向上により、イギリスのチャールズ・スタナップ(Charles Stanhope)により開発された総鉄製手引印刷機で、スタンホープ・プレスと呼ばれた。献上品は、これを模造したオランダ製だったと見られる。

図25-9 スタンホープ・プレス
〈矢野道成著『印刷術』、第二版より〉

この手引印刷機は原理的には従来の木製印刷機と同様である。
総鉄製で、強力な加圧力の得られることから、
大判の印刷が可能となった。

長崎活字版擦立所は、安政6年(1859)に廃止され、そこで使用されていた書籍印刷用手引印刷機2基を含む印刷資材は奉行所倉庫に保管された。文久1年(1861)3月になって、保管されていた印刷資材・機器の一部が江戸の蕃書調所に移された。

蕃書調所は、洋書調所、開成所と改称され、維新の際に一時閉鎖された後、慶應4年(1868)6月、新政府に移管されるが、同年12月になって活字類の大部分と若干の機器が徳川家の静岡藩沼津印刷工場に持ち出された。この中に手引印刷機が含まれていたかどうかは不明である。

幕府の開成所は、明治2年(1869)1月に新政府の開成学校に引き継がれ、大学南校、南校と改称されるが、南校に伝承された活版印刷設備は、明治4年(1871)9月に新設された文部省編集寮活版部(通称、文部省活版所)に移管された。その後、正院印書局が新設され、政府関係省庁で所有する活版印刷機器の集約が行われたため、明治5年(1872)9月に文部省活版所は廃止され、印刷器機は印書局に移管された。

その後、印書局の印刷設備は大蔵省に移管されるが、現在、「お札と切手の博物館」に保存・展示されているスタンホープ・プレスは、蕃書調所から伝承されたものである。

なお、長崎奉行所倉庫に保管されていた残りの印刷設備は、新政府下の慶應4年(1871)4月になって、活字板蘭書摺立道具壱式として市中で希望する者に入札払する旨の触れ書が出されている。入札の結果は不明である。

長崎、横浜、神戸の外国人居留地で欧文の新聞が発行されるようになると、外国人によって各種活版印刷機が我国に渡来するようになった。その最初期に発行されたのが『The Nagasaki Sipping List and Advertiser』で、この新聞は、文久1年(1861)5月15日に長崎においてハンサード(A.W. Hansard)によって創刊された。ハンサードは、上海で活字や印刷機の手配をして長崎に来港したと見られている。

平野富二を含む本木一門が、新聞印刷の伝習を兼ねてハンサードの新聞発行の手伝いをしたことについては、本シリーズの中ですでに述べた。ハンサードがどのような印刷機を持参したのか定かでないが、このとき、平野富二は活版印刷機についての知識も得たと見られる。

ハンサードは、当時発展しつつあった横浜に移って、文久1年(1861)10月21日に『THE JAPAN HERALD』を発行した。ヘラルドで使用した初期の印刷機は美濃二枚摺りの手引きで、上部に鷲のマークの付いたものであったと記録されている。これは、アメリカで開発され、特許制度のあるイギリスで製造・販売されたコロンビアン・プレスと見られる。

本格的な活版印刷機が平野富二の手によって国産化するまでは、上海の美華書館を通じて輸入するか、横浜や神戸の外国新聞社・商社を通じて欧米から輸入していたと見られる。しかし、輸入品は非常に高価であった。

まとめ
平野富二による活版印刷機の国産化は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したときから、準備が進められたと見られる。

その目的は、あくまでも活字・活版の販売を促進するためであったと見られ、開設から3ヶ月後には、早くも印刷機の販売について新聞広告を出している。

取りあえずの対応は、本木昌造が自社で使用するために設計し、長崎製鉄所に依頼して製作した木鉄混用の手引印刷機を複製して販売することから始められた。しかし、これは販売を目的として開発されたものではなく、間つなぎ的なものであった。

神田和泉町では、幸い身近に外国製の小型手引印刷機とロール印刷機があったことから、これを分解して型を取り、模造することによって国産化を果たすことが出来た。それにより、活版印刷の普及と事業の拡大に大きく寄与することになった。

しかし、ロール印刷機の国産化を果たして販売できるようになるのは、築地二丁目に新工場を建設して移転してからであった。

活版印刷の需要が急速に拡大する中で、多くの引合が寄せられるようになり、より大型で高性能の活版印刷機が要求されるようになったことに対応するため、築地二丁目に移転後、各種印刷機の本格的製造体制を整えることになる。

本格的な生産体制の整備と機種の品揃えは、明治6年(1873)7月に築地に新工場を建設してからであり、今後の動向と発展についての紹介は後日に譲ることとする。

2019年5月2日 稿了

神田和泉町での平野富二の事績

はじめに
平野富二は、長崎から活字製造部門の部下8人を引き連れて、東京神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を設立したのは明治5年(1872)7月のことであった。

この地には文部省活版所(もと東校活版所)があって、そこに活字を供給するため本木昌造が御用掛に指名され、小幡正蔵を所長とする御用活版所を設けていたことから、同じ門長屋の隣接した空き部屋と付属地を借り受けて活版製造所を設置した。

当時、わが国は活版印刷の黎明期に当たり、わずかに政府関係の諸省で文書の活版印刷が行われ始めた。そのことから、工部省は長崎製鉄所付属新聞局の活字製造設備と人員を引き取り、明治4年(1871)11月、勧工寮活字局を設けて東京の赤坂溜池に設備と人員を移転した。これにより政府・諸省の発行する日誌や布達類を活版印刷で迅速に作成し、併せて諸省にも活字を供給することを目指した。

明治5年(1872)9月20日になって正院印書局が新設され、10月16日に集議院内の仮局から皇居前の大蔵省付属辰ノ口分析所跡に移転し、太政官日誌を活版印刷で発行すると共に諸省の日誌や布達類の印刷をも引き受けることになった。それに伴い大蔵・文部・工部の各省と海軍省にある活字と印刷器械を印書局に引き渡すように通達が出された。

しかし、工部省は既に体制を整えて各方面からの依頼により印刷・製本を行っており、活字の製造は工業に関わる工部省の管轄に属するものであるとして引き渡しを断固拒否した。一方、文部省は、早速、活字と器械類を印書局に引き渡して神田和泉町の文部省活版所は閉鎖された。その為もあってか、平野富二が開設した活版製造所には活字の引き合いはほとんど無く、手持ち資金も目減りする一方であった。

このような状況の中で、本木昌造から委託を受けた活版製造事業を軌道に乗せるために平野富二が行った事柄を、新たな視点を加えて紹介する。

1)活字の製造体制整備
当初の準備資金は限られていたので、長崎から持参した活字母型を用いて一刻も早く活字を鋳造できる体制を整え、顧客の要求に応じていつでも販売できるようにする必要があった。

しかし、東京に拠点を構えて1ヶ月経っても、一向に顧客からの注文はなく、長崎で調達した資金も、そろそろ底をつく事態となった。

長崎で製造した活字母型は二号、四号、五号の明朝体のみであったが、需要動向を見ながら追いおいサイズと字体の品揃えのため、活字母型を製造することとした。
平野富二の日記によると、明治5年(1872)9月20日に初めて「ガルハニー相始候事」(電胎法による活字母型の製造を開始した)と記されている。

2)地方府県庁の文書活版化促進:埼玉県庁への活版納入
平野富二は、何としても活字の注文を得なければならなくなったことから、長崎製鉄所時代に親しくお付き合いしてもらった元長崎県令野村盛秀(宗七)が埼玉県令として赴任していることを思い付き、8月上旬の或る日、浦和の埼玉県庁を訪れて野村県令と面会した。活版印刷の効用を詳しく説明し、今まで手書きで書き写して県内の町村に配布していた政府の布告書類を活版印刷化することによって迅速、正確、減費の三得が得られることを力説した。

それに同意した野村県令は、大木文部卿に宛てて伺書(8月12日付け)を提出している。それは「布告書活字板摺立伺」と題し、
「管内一般に布告する書類が、現在、多量になり、長文の数部は特に書き写しが行き届きかねないので、今後、止むを得ない分は県庁に於いて活字版で印刷し、管内の町村に布達することにしたい。」と述べている。
これに対し、文部省から9月付けで「管内に限って布達の書類を活版により印刷することを認可する。」と指令があった。

平野富二の日記には、「8月29日、埼玉県より四号文字350字の注文があった。」と記録されている。注文の日付が文部省の正式認可より少し早いが、埼玉県では文部省の前向きな感触を得て、事前に発注してくれたことが分かる。平野富二にとっては「枯魚、一掬の水を得た」思いであったという。

図23‐1 平野富二の日記抜粋
〈三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』、p.131〉
右の八月廿九日 雨 の第2項に
「一.埼玉縣より四號活字三百五十字注文有之候事」
中央の九月五日の第3項には
「一.海軍省より摺物之義に付森尾より引合として罷越候事」
左の九月廿日に、「一.ガルハニー相始候事」、
「一.長崎来状 箱物七ツ横浜迄着候由」とある。

後に書かれた伝記では、「金額にして200円ばかりであった」と記されているが、四号活字1本が永8文(0.008円)であることから、活字だけで販売した場合、350字は合計3円若にしかならない。活字を版に組んで納入し、その後も引き続き注文を受けた結果として300円ばかりとなったと見られる。
埼玉県は、その後、県庁活版所を設けている。しかし、火災で焼失したため、民間の開益社(後の埼玉活版社)を県庁御用に指名している。

活版印刷を必要とするほどの印刷物の発行が未だ民間では殆ど行われていないこの時期に、埼玉県の決断により他の府県庁でも復刻する布告書類の活版印刷化が急速に行われるようになり、やがて民間活版所が府県の御用に指名されることにより地方における活版印刷の普及・発展を促したことになる。

3)広報宣伝活動:『横浜毎日新聞』に広告掲載
埼玉県令野村盛秀を訪問した同じ月の8月、平野富二は横浜の陽其二に依頼して、『横浜毎日新聞』(第528号、明治5年8月14日付)に陽其二の経営する横浜活版社名で広告を出してもらった。本件については、既に前回のブログで述べたが、ここではその広告の内容を現代文で紹介する。

「これまで、長崎新塾内において活版を鋳造し、さらに、銅版を熔解製造し、殆んど全備いたしました。一方、次第に活版印刷の大きな利便性が広く一般に認知され、各府県においても布告等に至るまで活版で印刷されるようになりました。そのような訳で、今般、東京府下佐久間町の東校表門通りにある文部省活版所内において活字ならびに銅板を製造・発売いたしますので、御注文の方は最寄りの同所ならびに長崎新塾へ御相談ください。なお、当社においても御注文をお受けすることが出来ます。」

この広告の印刷は木活字によると見られる。広告の趣旨から見て、平野富二が東京で新たに鋳造した活字が用いられて当然と思われるが、未だ新聞を印刷するには供給量が不足していたのかも知れない。

4)広報宣伝活動:『新聞雑誌』に「崎陽新塾製造活字目録」を掲載
同年10月に入って、平野富二は新聞局日新堂から発行されている『新聞雑誌』に広告を出した。同紙は半紙二つ折の木版刷り冊子式新聞で、その第66号(明治5年10月発行)に活版印刷による活字広告が掲載された。木版刷りの紙面の中に綴り込まれたこの活版刷り広告は、異彩を放つ存在だった。

図23‐2 「崎陽新塾製造活字目録」
〈『新聞雑誌』、第66号、綴り込み広告〉
表題にある「崎陽新塾」は「長崎新塾」と同じである。
明治5年(1872)2月に刊行の『新塾餘談』に掲載した摺り見本と同様に、
各号の摺り見本と1字当たりの代価が示されている。

初号から五号までは『新塾餘談』に掲載したと同じ鋳型で鋳造したと見られる活字による8種の摺り見本が示されているが、初号の字間スペースは若干詰めてある。これに加えて、七号振仮名(片仮名)の摺り見本(平仮名は見本を省略)が加わっている。七号は上海美華書館の六号に相当するもので、崎陽新塾では六号は示されていない。各号ごとの代価は、先の『新塾餘談』に示された代価と同額で、追加された七号は永五文となっている。

摺り見本に続いて、次のような説明が記されている。現代文に直して紹介する。
「右の外に二号以下毎号に平仮名・片仮名・濁音・唇音(半濁音)・塞音(促音)・略字・返り点、その他、西洋文字数種がある。且つ、真字(楷書)、その外とも、字体や大小等はお好みの通り製造出来ます。
一.摺器械は美濃二枚摺と半紙二枚摺 ○肉棒型と同金物 ○文字組鉄わく大小 ○文字取盆 ○肉盤○欄 ○系 ○文字挟、紙締器械、その外、活字入用の諸品。
一.御出版物が有れば、和・漢・西洋文とも印刷して差上げます。」

この「活字目録」は、全国の活版印刷業を志向する者たちの注目を集めた。
2年後のことになるが、佐賀藩医の川崎道民は、1874(明治7)年10月15日付けで佐賀県令北嶋秀朝に対して活版所の設立を願い出た。その願書に、活字購入のための見本として『新聞雑誌』に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」が付され、そこにある三号の和様活字に墨で○印を示し、「右三号ノ文字」を至急購入したい旨を述べている。

5)新聞の活版による印刷化動向
平野富二が東京神田泉町で長崎新塾出張活版製造所を開設するよりも5ヶ月前の明治5年(1872)2月21日、浅草茅町一丁目の日報社から『東京日日新聞』が創刊された。

同紙は、日本橋照降町の蛭子屋(えびすや)が所有する上海製活字と日本橋本町二丁目の瑞穂屋が所有する足踏式印刷機を使って、活版印刷による新聞発行を計画していた。しかし、創刊号は木版摺りとなった。第2号から活版になるが、活字が大幅に不足しているため、漢字の一部を片仮名で表記するなど苦労している。また、組版技術も未熟であったためか、第12号から再び木版摺りに戻っている。明治5年(1872)7月2日から1873(明治6)年2月末日まで木活字による印刷が行われた。

明治5年(1872)11月9日発行の改暦号は2日間で2万5千部を売り上げ、これにより発行部数を大幅に伸ばした。その結果、従来の請負制印刷に問題が生じ、工場直営の印刷に切り替えたという。

金属活字に戻るのは1873(明治6)年3月2日からである。これには勧工寮活字が用いられたが、同年11月24日から、勧工寮活字に代わって平野富二の製造する崎陽新塾活字が用いられるようになった。勧工寮の活字には、少なくとも3種の書体が混在する上、寸法にも違いがあったという。そのような中で、日報社は、崎陽新塾活字の美しさを発見し、平野富二に直接活字を販売する意思があることを確認して全面切り替えを行ったという。

日報社の勧工寮活字採用の時期は、次項6)で述べる勧工寮が『東京日日新聞』に活字払下げの広告を掲載する1ヶ月前であることである。日報社が勧工寮に活字払下げを依頼し、それを契機に勧工寮の外販活動が開始されたと見られる。勧工寮の広告に示された活字価格は、多分に崎陽新塾に対抗する意識を露わにしているが、平野富二は値引き競争に応ずることなく、あくまで活字の品質で応戦したとみられる。その結果は、日報社が勧工寮活字から崎陽新塾活字に全面的に切り替えた事実がこれを如実に示している。

明治5年(1872)には、『東京日日新聞』の発行に続いて、『日新真事誌』(3月16日創刊、貌刺屈社中)、『郵便報知新聞』(6月10日創刊、報知社)、『公文通誌』(11月創刊、公文社。のち『朝野新聞』と改題)が相次いで刊行された。

『日新真事誌』は、東京築地新栄町に於いて在留イギリス人ジョン・ブラックによって刊行され、漢字は日本製木活字、片仮名は上海製鋳造活字が使用された。1873(明治6)年12月3日から木活字に代えて四号鉛活字が使用されるようになった。

『郵便報知新聞』は、明治5年(1872)6月10日から月5回発行されたが、木版摺りであった。1873(明治6)年4月に発行された第40号から活版で印刷され、第55号(6月3日)から日刊となった。この活版印刷は、本郷妻恋町の大坪活版所において小幡正蔵が四号鉛活字を用いて印刷を請負ったとされている。

先に紹介した『新聞雑誌』(明治4年(1871)5月に木版印刷で創刊)は、1874(明治7)年1月発行の第72号から明朝体四号による活版印刷となった。ところが、次号から再び木版印刷に戻っている。その社告には、「本局で刊行の新聞は、当年1月より活版により発兌しましたが 毎号5千部余の印刷で、手数も煩わしく、機械も不足しているので、12月の間は正版(整版=木版)と活版とを隔号で発行します。幸いに四方の君子はしばらくその錯雑で不斉でとなることをお許し頂き、ひと通り目を通されるよう心からお願い致すのみです。」と記されている。

このように、各社は新聞の発行部数を順調に伸ばしているが、木版から活版への転換は、順調には行われなかったことが見て取れる。その背景には、活字の供給が追い付かなかったこともあるが、活字を拾って版に組むことに不馴れであったこと、活版を印刷する機械が不足していたことが挙げられる。

6)勧工寮による活字の外販開始と平野富二の対応
長崎から活版製造設備と人員を東京に移転して設立した工部省勧工寮活字局は、太政官正院印書局が設備を整えて活版製造が軌道に乗ったことから、政府内での需要が限られたためか、民間に対しても活字の販売を開始した。

1873(明治6)年4月26日から4日間、『東京日日新聞』に活字払下げの広告が掲載された。
それには、鉛製活字大二分五厘方(一字代金一銭一厘)、同中竪二分五厘横二分(同八厘五毛)、同二分方(同八厘)、同小一分二厘五毛方(同七厘)、同振仮名六厘二毛五糸方(同四厘五毛)と5種類のサイズの鉛製活字の1字当たりの代金が示して、「右漢字・仮名・句切等、求めに応じて多少を払い下げます。勧工寮」としている。

ここでは活字のサイズを分厘毛と寸法で表示している。また、縦横同寸のものは「方」と表示している。このサイズ表示は単なる呼称の可能性もあるが、曲尺寸法と見て上海美華書館の「号」と比較すると、二分五厘は第二号、一分二厘五毛は第五号に相当する。振仮名活字の六厘二毛五糸は五号の半格で、美華書館の最小活字である第六号よりも小さい。最初から2番目の竪二分五厘横二分は二分活字を縦長にした活字と見られる。二分は第三号よりもやや大きい。

このように同じギャンブル伝習による成果でも、長崎新塾系と勧工寮系では、共通するものもあるが、かなり違った流れが形成されつつあることが見て取れる。

また、金額の表示は新貨条例に基づく表示で、1銭は以前の永10文に相当する。この勧工寮活字を長崎新塾活字と比較すると、二号相当は1.1銭と1.2銭、五号相当は0.7銭と0.8銭で僅かばかり金額を低くして販売することにしており、明らかに長崎新塾活字を意識して値段設定を行っていることが分かる。

勧工寮は、さらに、同年6月19日から7月13日にかけて13回にわたって、3種類の活字を大幅に値下げし、元大阪町二番地の辻金太郎に販売させる広告を出している。二号相当は1.1銭を0.9銭、五号相当は0.7銭を0.3銭に値下げし、まさに投げ売りの様相を呈している。

勧工寮活字局は、この新聞広告に先立ち、同年5月に開会したウィーン万国大博覧会に活字版を出品し、進歩賞牌を授与され、その製作者藤山雅彦は協賛賞牌を受けている。藤山は現地で技術を学び、必要な諸器械を購入して1874(明治7)年に帰国した。 

勧工寮が国費によって製造した活字を民間に販売することは、平野富二にとっては乏しい資金の中で多大の努力と工夫によって漸く芽の出始めた民業を圧迫するものとして大反対であった。

勧工寮活字局の前身は長崎製鉄所時代に平野富二の配下にあったことから、その内情を察知していた平野富二は、本木昌造との約束もあることから、敢えて値引き競争に挑むことなく、勧工寮活字局の設備を買い取り、長崎新塾出張活版製造所の設備と一体化することによって販売拡大を図ると云う大胆な提案を政府に願い出た。

その願書の控は、昭和の初期まで平野家に保管されていたが、現在のところ発見されていない。1933(昭和8)年に刊行された三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』には部分写真版と一部の読み下し文が紹介されている。

図23-3 勧工寮活字局の設備払下げ願書
〈三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』、p.137〉

その内容は、買取り設備の代価は分割支払いとし、活字の生産高に応じて一定の代価(税金)を政府に納めると云うもので、欧米の例を調査したところ、政府みずからが商売に手を出しても利益に結びつかず、民間に任せることによってこそ利益がえられると述べて、暗に工部省の遣り方を非難している。

平野富二は、国内の殖産興業を目的とする工部省の設立を主導した山尾庸三ならばこれを理解してくれると期待していたかも知れない。しかし、工部省が保有する活版設備の中には最新鋭の活字鋳造機やロール印刷機を含んでいたため、正院印書局の反対で民間に払い下げることが出来なかったと見られる。

平野富二の建議は採用されなかったが、1873(明治6)年11月になって勧工寮は廃止され、製作寮に所属替えとなった活字局は、翌年8月、設備一切を正院印書局に引き渡し、工部省は活字の製造販売から手を引いた。

政府系活版製造・活版印刷部門の変遷

7)政府文書の印刷請け負い
このような平野富二の努力によって、明治5年(1872)9月に入って、海軍省から出入り業者を通じて摺り物の引き合いが寄せられたことが、平野富二の日記に記されている。また、前年に平野富二が長崎から出張して東京で活字販売に成功した相手先である左院、日就社、蔵田活版所からも活字の注文があったという。

活版印刷の請負については、長崎の新町活版所との関係もあって事業範囲外としていたので、海軍省からの引き合いをどのように処置したか不明である。

明治5年(1872)11月9日、太政官布告第337号で「改暦ノ儀」が公布され、同年12月3日を明治6年1月1日とする太陽暦に改められることになった。

この改暦布告に際して、3府72県に100部単位で新暦を頒布し、さらに各省庁にも頒布することにしたが、10月10日になっても作暦担当の文部省で新暦が完成しておらず、施行までの期間が40日余しかないため、太政官から平野富二の長崎新塾出張活版製造所に注文が転げこんできた。

平野富二は、手持ちの手引印刷機では大量の注文を短期間で対応することができないので、急いで本木昌造に連絡して、政府からの印刷請負いに応じて東京で印刷を行うことについての許可と長崎にあるロール印刷機の取り寄せる要求を行ったと見られる。

その結果、政府は施行の10日余り前の11月9日に改暦布告を公布することが出来た。各県から頒布された部数では管内に徹底させるには全く不足しているとして重刻上梓の希望がだされた。そのため、引き続いて追加印刷の注文があったと見られる。

改暦関係の印刷は一段落したが、同年11月28日に太政官布告第379号で「徴兵告諭」が公布されることになり、この印刷も追加注文された。「徴兵告諭」は、今の市町村長に相当する郷長・里正に対して一般住民に徴兵に応じるよう告諭させるものであった。

この時の活版製造所での様子が三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』に、平野富二から速水兵蔵(大阪活版所から印刷機械製造の見習いとして派遣)が伝え聞いた話として、次のように紹介されている。
「平野先生が小幡活版所の隣で仕事をして居られた時分には、未だ東京にはどこにもロールがなかったので、随分珍しがられたものであったが、また、ゴットンゴットンと云うロールの音を聞いて、工場の付近を通る者が、『あの家では毛唐のものを使っている』などと嫌われて、ガラス戸に石を投げ付けて通った者があって困ったそうである。」

図23‐4 当時のロール印刷機による印刷風景
〈三浦荒一編『名古屋印刷史』、名古屋印刷同業組合、昭和15年12月〉
図では明治30年頃としているが、明治初期も同様であった。

これらの活版印刷による「新暦」と「徴兵告諭」の全国への頒布は全国に広く活版印刷物を認知させ、普及を促す一つの契機となったと見られる。

まとめ
神田和泉町で活版製造を行っていた期間は明治5年(1872)7月から翌年7月までの僅か1年余りであるが、活版製造体制を整えながら販売と広報に力を注ぎ、ようやく活版印刷の夜明けを迎え、朝日が昇り始めた。

この間、明治6年(1873)5月には曲田成(後の東京築地活版製造所第3代社長)を社員として迎えた。また、文部省御用活版所(小幡活版所)で支配人兼技師となっていた茂中貞次とその弟鳥山棄三(筆名、宇田川文海)を地方新聞社に派遣して地方の活版印刷普及の一端を担わせた。さらに、活版印刷機械国産化のために江戸職人を探し出し、その技術を活用している。

曲田成については、本ブログの別シリーズ「東京築地活版製造所社長列伝」に掲載してある。茂中貞次と鳥山棄三については次回のブログ掲載とし、それに続いて活版印刷機械の国産化について紹介する予定である。

平野富二の記録によると、明治5年(1872)の活字販売高は、僅か7月から12月の6ヶ月に満たない期間に244,236個(6貫448匁、24.18㎏)の実績を挙げている。それが翌年になると、神田和泉町から築地に移転した空白期間があるにも関わらず、年間2,772,851個(357貫388匁、1,340.21㎏)を記録している。個数で11.3倍、重量で55.4倍となる。

初めて埼玉県から活字350個を受注して、ようやく一息ついた頃から見ると、隔世の観がある。平野富二による活版製造事業は確実に軌道に乗り、平野富二はさらなる発展を目指して築地の新立地に移転することを決意した。

2019年2月10日 稿了

東京進出最初の拠点:神田和泉町

(1)富次郎の更なる改革
平野富次郎は、明治4年(1871111日、東京出張から長崎に戻った。
大阪と東京で得た知見にもとに、活版印刷の普及のために新たに取り組むべき課題が明確となった。

ギャンブルから導入した明朝体の漢字は、横線を細く水平とし、縦線は太く垂直に引き、横線のトメを三角形(ウロコ)とし、ハライとハネをふくめて定型化している。筆画が単純化されているため、公文書は別として、一般の文書用としては雅趣に欠けるとして当時はあまり歓迎されなかった。 

明朝体の漢字は、筆画が単純化されているため、明朝体の漢字と曲線主体の平仮名を交えた和文活字組版を違和感なく受け入れられるようにするためには、平仮名の字体改良も今後の課題として残された。また、活版印刷普及のためには、幕府の公文書に用いられ、一般の習字手習いに用いられている、いわゆる「和様書体」の活字も、当面充実させる必要があった。この書体の改良については、本木昌造から友人の池原香稺に依頼することになった。

活字を販売するだけで、あとの版組みと印刷を顧客に任せるのでは、必ずしも満足できる印刷結果が得られない。そこで、活字を印刷版に組むために必要な機材の提供、さらには、顧客の要求に応じてそのまま印刷機に設置すれば印刷できる活字組版(活版)までを販売の対照として、社内の体制を整備し、単なる活字製造から一歩進めて活字版製造までを行うことにした。 

さらに、官庁の布告類や新聞のような多量の文書を迅速に印刷できるようにするためには、高価な外国製印刷機に代えて、外国製に劣らない高性能印刷機を国産化することも必要であった。当面は、先に本木昌造が長崎製鉄所に依頼して製作した、自社用の手引印刷機と同型の印刷機を長崎製鉄所で製造してもらえるように手配することも必要であった。 

活字の大口需要先が東京にあることは明らかで、遠く離れた長崎から活字類を供給することは、運送のための時間と費用を考えると、事実上、不可能であった。また、不足活字を緊急に必要とする顧客に対して、その要求に応じる事が欠かせないことから、活字製造の拠点を東京に置くことが不可欠であった。

ギャンブルから学んだ技術に基づき活字を製造している長崎製鉄所付属の長崎新聞局活字一課が東京の赤坂溜池に移転し、明治4年(18711122日、工部省勧工寮活字局となって本格的に活字製造を開始したことも、東京移転の決意を促した要因と見られる。

(2)富次郎の結婚、転居、戸籍編成と改名
明治5年(1872)の年が明けて早々、平野富次郎は長崎丸山町に居住する安田清次・むらの養女こま(「古ま」と表記)と結婚した。新妻こまは嘉永5年(18521122日生まれの数え年21歳であった。こまの実父母は長崎茂木村の山下廣作・久ヱで、こまが数え年8歳のときに実父廣作が死去したため、安田家の養女となったと見られる。 

平野富次郎は結婚を機に、生家である矢次家を出て長崎外浦町-ほかうらまち、現万才町の一部-の新居に移転した。転居先は第一大区七ノ小区外浦町96番地と記録されている。同じ町内の外浦町682番(旧105番屋敷)に本木昌造が居住していたので、本木昌造が同じ町内にある売家を紹介して、平野夫妻を呼び寄せたと見られる。 

当時、全国的に新戸籍の編成が行われたため、戸別に住居表示が定められた。今まで住んでいた矢次家は第一大区四ノ小区引地町50番地であった。そのときの新街私塾は第一大区六ノ小区新町62番地と記録されている。 

当初定めた大区小区制は細分化し過ぎたため、1873(明治6)年11月に見直し改正された。さらに、1878(明治11)年10月に郡区町村編成法が公布されて大区小区制が廃止された。
その後、数度に亘って町界町名の変更が行われ、特に外浦町は、もともと町名の無かった旧長崎奉行所西役所の土地が外浦町に編入されたり、国道開通により道路の改廃と拡幅が行われたりしたため、現在となっては、当初定められた番地からその場所を特定することは難しい。
なお、1963(昭和38)年、全国的に行われた住居表示により、外浦町は万才町に併合されたため、現在、その町名はない。 

今まで、年月日の表記は和暦(旧暦)で表記し、西暦年を( )内に参考表記してきたが、明治6年(187311日から新暦が採用されたことから、それ以降の表記は西暦年のあとに元号を( )内で表記する。

明治4年(18714月、政府により戸籍法が布告され、明治5年(187221日から全国一斉に戸籍の編成が開始された。平野富次郎は、自分の名前を平野富二と改名し、外浦町の新住所を本籍として妻と共に二人の戸籍届けを提出した。本稿では以後、平野富二と表記する。

このとき、本木昌造は自分の戸籍上の名前を昌三と改名している。以後の正式名称は本木昌三であるが、実際には、その後も県庁などに提出した書類に、本木昌造あるいは咲三と署名しているものが多い。本稿では特別な場合を除き、従来通り本木昌造と表記する。

(3)東京移転計画と本木昌造の諒解
平野富二は長崎新街私塾の出張店として活字製造所の東京移転について本木昌造と相談した。その時の本木昌造の言葉が記録に残されている。現代文に直すと次のようになる。 

「私はすでに工場のことは一切、君に委託している。それを興隆させようが廃止させようが、また、発展させようが縮小させようが、君に一任する。
東京や大阪などの場所に異論はなく、ともかく利益を多く上げられる土地に行って営業することが得策だろう。
私がただ願うところは、その損益や得失について君が責任を持ち、計画どおりに事業を進展させたならば、資本償却費として金5,000円を還付して欲しい。そうすれば、私も出資者に対して面目を失わないことになる。その他については全て君と従業員一同とで協議して処置してくれ給え。」 

これは、本木昌造が平野富二を全面的に信頼し、その能力と気質を十分に理解した言葉であった。

(4)東京出張店の開設準備
明治5年(1872)に入ると、前年末に発行された『横浜毎日新聞』の影響を受けて、日刊新聞の発行を目指した新聞社設立の動きが東京・横浜で顕著になった。 

東京浅草茅町一丁目に設立された日報社は、同年221日、『東京日日新聞』と題して創刊号を発行した。創刊号は木版刷りであったが、二号から活版刷りとなった。しかし、活字の不足で苦労した様子が文面から読み取れる。やがて木版刷りに変更されてしまう。
横浜でガゼット社を経営していたブラックは、東京築地新栄町5丁目の東京開市場(とうきょうかいしじょう)区域内に日新真事誌社を設立して、同年317日、日本語新聞『日新真事誌』を発刊している。この新聞は、漢字を日本製木活字、片仮名を上海製鉛活字で印刷された。
駅逓頭前島密の発案で東京両国米沢町3丁目に設立された報知社は、同年610日、『郵便報知新聞』を発刊している。これも活字が得られなかったため、木版刷りであった。
また、明治4年(1871)に東京京橋の南鍋町で出版印刷業博聞社を開業した長尾景弼が、翌明治5年(18729月、『博聞新誌』を木版刷りで発行した。 

平野富二は、このような東京・横浜における動向を伝聞するにおよんで、東京出店を急ぐこととし、その準備に入った。 

東京出張店の場所は、既に東京に設けた文部省御用活版所と同じ門長屋に空き部屋があることを確認していたので、ここを正式に借用することとした。 

東京に活版製造の拠点を設けるからには、長崎に現有する活字製造設備と人員の大部分を移転させることになる。しかし、新町活版所での印刷業務に支障をきたすわけにはいかないので、それに必要な設備と人員は残すこととしたと見られる。 

東京行きの人選については、積極的に参加の意向を示す者もいたが、先祖代々住みなれた長崎の地を離れ、家族と離別することにかなりの抵抗があったと見られる。しかし、当時の長崎の状況を考えると、新たに職を得て家族を養うことは至難の業だった。 

人選の結果、柏原市兵衛・大塚浅五郎・和田国松・松野直之助・桑原安六・品川徳多・松尾徳太郎・吉田某・柘植広蔵の九人が選考され、柘植広蔵は少し遅れて出立することになった。 

柏原市兵衛は、後に印刷機製造部門の主任となり、息子の柏原栄太郎を呼び寄せ、同部門で従事させた。桑原安六は1878年(明治11年)に築地活版製造所の支配人となっている。そのとき、和田国松は桑原安六の下で副支配人を務め、桑原安六が解雇されたあとを継いで支配人に昇格している。松野直之助は営業部門で活躍したが、1873年(明治16年)4月、上海に支店として修文館を開設するに当り、その所長として派遣されている。 

平野富二は新妻こまを同行、単身で赴任する一行の食事や洗濯など日常の面倒をみてもらうこととした。こまはすでに身重の身であった。 

東京での事業は、活字の製造を中心とし、さらに活版印刷に必要な機器・資材の製造もおこなって、希望する顧客に提供することとし、そのため、事業所の名称を 「長崎新塾出張活版製造所」 と定めた。 

当面は資金の余裕が全くないことから、需要の見込める活字の製造から着手し、追々、内容を充実させていくこととした。

長崎から東京に持参する物品は次の範囲にとどめた。
・五号とその倍角の二号の字母各1組(四号の字母は追って別送)
・鋳型各1
・活字手鋳込器械3 

このうち、字母(活字母型)はそれぞれ数千個の単位で準備したと見られる。
鋳型はハンド・モールドと称する片手で持って操作する鋳造用具で、溶融した鉛合金を手柄杓で湯口に注ぎ込み、活字を一個ずつ鋳造することができる。取りあえず五号と二号の活字を鋳造するための鋳型を準備したものと見られる。
活字手鋳込器械は、溶融した鉛合金を手持ち鋳型に圧入するための手押しポンプで、鉛合金を熔解する釜と組み合わせた器械と見られる。

その他に鋳造した活字を仕上げるための道具類が必要と思われるが、これらは東京での調達が可能と見ていたのかも知れない。 

持参した物品の評価額は、保険を掛けるために高めに見積もって15千円としたと伝えられている。 

平野富二にとって最も重要なことは、東京出店に当って活字販売が或る程度軌道に乗るまでの運営資金の調達であった。 

本木昌造や出資者からこれ以上の出資を要求することは出来ないため、平野富二は長崎の金融業者六海社に出向き、担保なしの首証文を提出して金1,000円を借り出したと伝えられている。その証文には、「此の金を借りて東京に上り、活字製造・活版印刷の業を起こす。万が一にも此の金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差上げる。」 と書いてあったという。

(5)大きな抱負を持って東京へ
明治5年(1872711日、いよいよ長崎を出立する日が決まった。
新戸籍の届出を済ませた一行は、当分の間、東京に寄留することになるので、所轄の戸長に寄留先住所を届出て、鑑札を受け取る必要があった。その鑑札は寄留先の戸長を通じて最寄りの府県庁に提出され、新たな鑑札を受け取る。長崎に戻る際には元の鑑札と引き換えてもらう定めとなっていた。 

長崎を出立する日が迫った或る日のこと、本木昌造は平野富二の夫人こまを自宅に招き、金20円を入れた縞(しま)の財布を渡して小遣銭とするよう言われた。この財布は本木昌造が着ていた縞の着物をほどいて作ったものであった。
こま夫人は本木昌造の内情を知っていたので一度は固辞したが、それを受け入れ、上京後も肌身離さず大切にしていたと云う。
その20円は資金難からたちまち事業資金の一部となってしまった。しかし、縞の財布だけは記念として大切に保存していたが、この貴重な記念品は関東大震災で家財と共に焼失してしまったと云う。 

上京には、飛脚船と称されたアメリカの郵便蒸気船で長崎から兵庫経由、横浜まで行くことになった。運賃10人分150ドル、荷物運賃25円を支払い、携行物品の損害保険料として75ドルを支払った。この損害保険の支払いに際して、本木昌造と平野富二との間で次のような会話が交わされたと伝えられている。 

本木昌造は、「それは無用ではないか? 資金が窮乏している現在、75ドルは非常に大金だ。万一、不幸にも船が沈没して荷物を失ったとしても、私はこれを天災と諦め、残念とは少しも思わない。」

これに対して平野富二は、「先生のおっしゃることはもっともですが、この荷物は私の所有物ではなく、先生をはじめ数人の方々の今までの努力と、多大の資金とを注入して造り出したものです。輸送の途中で荷物を失ったとき、先生は天命として諦めても、先生に協力してくれた人々に申し開きができません。先生のご子孫のことも考えなければなりません。今、75ドルを払っておけば、万全の策となります。」 と言ったと云う。 

この逸話は、本木昌造と平野富二との事業経営に対する考え方の相違を如実に表している。 

明治5年(1872711日、平野富二は、新妻と社員8名を引き連れ、長崎を出発した。蒸気船の運航予定に従って、途中、神戸に上陸して2泊し、横浜に着いたのは同月16日であった。 

横浜に到着した平野富二は、横浜活板社の責任者となっている陽其二と連絡をとって上京の挨拶と今後の相談をしたことは想像に難くない。

横浜では、一行の一人ひとりに15円、10円、5円の3段階に分けて小遣銭を支給したと云う。その総額は75円であった。 

横浜から東京への交通手段については記録に残されていない。
明治1年(18681119日の江戸開市によって築地に外国人居留地が出来たことから、東京築地と横浜を結ぶ小形蒸気船による定期便が運航していた。したがって、平野富二一行はこの小形蒸気船を利用して東京築地に上陸したと見られる。 

折から政府によって建設中であった新橋-横浜間の鉄道は、同年57日に品川-横浜間で仮開業されたが、新橋までの全線開通は同年918日のことであった。 

一行が横浜から東京に着いて上陸したと見られる築地一帯は、外国人居留地とその周辺を除き、明治5年(18722月に発生した銀座大火で焼失し、焼け野原となっていた。

平野富二が21歳の時に軍艦「回天」に搭乗して江戸に着き、軍艦所一等機関手の内命を受けた幕府軍艦所は、その跡地に築地ホテル館が建ち、東京の新名所となっていたが、これも焼失してしまっていた。

(6)長崎新塾出張活版製造所
東京築地に着いた一行は、小幡正蔵の出迎えを受け、築地河岸で小舟を雇い、大川(隅田川)を遡って神田川に入り、和泉橋近くの河岸-かし-から上陸したと見られる。 

東校表門の門長屋には、小幡正蔵がすでに文部省御用活版所を経営していたので、それに隣接する数部屋が予め職場兼宿所として用意されていた。 

文部省活版所はその後913日に廃止され、やがて、そこに在った活版設備は正院印書局に移管されることになる。それに伴い小幡正蔵が所長を務める文部省御用活版所は文部省御用を解かれて小幡活版所と称することになる。翌年になって小幡正蔵の協力者であった大坪本左衛門の要請で、小幡活版所を長崎新塾の下から分離独立させ、湯島妻恋坂下に大坪活版所が開設されることになる。 

一行は旅装を解く間もなく、長崎新塾出張活版製造所の看板を掲げて、活字・活版製造の準備に入った。この看板の新塾は新街私塾のことで、その出張所である活版製造所であることを意味する。なお、長崎では活字製造所としていたが、東京では活版製造所とした。 

近くに住む大工を入れるなどして、部屋を模様替えして造作を整備し、長崎から後送された荷物もおいおい到着して、早速、活字の鋳造作業に入った。 

しかし、平野富二によると、「明治5年、東京に出て来て、活版製造事業の拡張を図ったが、その当初は容易に販売の道も開けず、その艱難は本木氏が経験した以上のものであった。それにも関わらず刻苦勉励して、技術を磨き、製造体制を整頓しながら時運の到来を待っていた。」 と述べている。

(7)活版製造所が開設された場所
一行が長崎から東京に着いて1ヶ月ほど経った814日に、平野富二は同日付けで『横浜毎日新聞』に陽其二の経営する横浜活版社の広告として、次の趣旨を掲載した。 

「(前略)今般、東京府下佐久間町東校表門通り文部省活版所内に於いて活字と銅板を製造発売したので、ご注文の方は同所ならびに長崎新塾にご相談下さい。なお、当社でもご注文できます。」

図22-1 『横浜毎日新聞』の広告
この広告は、平野富二の依頼により、横浜活版社の名前で出されている。
それには、これまで長崎の新町私塾内で活版製造を行ってきたが、
今般、東京府下佐久間町の東校表門通りにある
文部省活版所内において製造・販売することになった、と述べている。

ここでは長崎新塾出張活版製造所の場所を、東京府下佐久間町の東校表門通りにある文部省活版所内としている。つまり、平野富二が設けた活版製造所は文部省活版所内にあることを示している。 

ここで、東校表門と文部省活版所との関係を整理してみたい。前回のブログ(21)「文部省御用活版所の開設」(201810月)と重複するところもあるが、ご容赦ねがいたい。 

佐久間町の南側道路に面して、明治維新の直前まで伊勢国津藩主藤堂和泉守高猷-とうどう いずみのかみ たかゆき-の上屋敷と、能勢熊之助・太田運八郎・中根宇右衛門の旗本三屋敷が並んでいて、藤堂家上屋敷は西側のほぼ3分の2を占めていた。

また下図下方にみる「藤堂佐渡守」は伊勢国久居-ひさい-周辺(三重県旧久居市、現在は合併により津市)を支配した久居藩の上屋敷である。久居藩は本家藤堂家の嗣子が絶えた場合、無嗣子による改易に備えて設置された石高五万石ほどの支藩である。しかし城主格の大名でありながら築城は許可されず、久居陣屋と城下町を建設するのにとどまって維新を迎えた。

図22-2 上野下谷外神田辺絵図(近吾堂版、嘉永2年)
津藩藤堂家上屋敷の東西(絵図で左右)の長さは約350メートルで、
その周囲は堀と門長屋に囲まれていた。
屋敷の南側(上方)の道路に面して豪華な表門が設けられていた。
神田川に架かる和泉橋を通る道路は和泉橋通りと称し、現在の昭和通りに相当する。
もう一つの新シ橋(現、美倉橋)を通る道路は現在の清洲橋通りに相当する。

慶応4年(18681月に行われた鳥羽伏見の戦いで、勅命に応じて官軍に協力した藤堂高猷は、同年の内に佐久間町前から常盤橋内の小笠原家上屋敷跡に移転し、幕府崩壊の結果、旗本3家とその南側に隣接していた酒井家は国元に戻り、空屋敷となったこの地域は藤堂家上屋敷を含めて新政府が接収した。 

同年9月、藤堂和泉守上屋敷跡に横浜から新政府の軍陣病院が移転してきて大病院と称した。隣接する他の屋敷跡はその抱込地となった。

図22-3 明治4年の藤堂和泉守上屋敷跡の絵図
〈吉田屋又三郎板『東京大絵図』(明治48月改正)による。〉
藤堂和泉守の上屋敷は新政府に接収されて大病院となった。
ここに医学校が移転してきて、大学東校、東校、
第一大区医学校、東京医学校と改称を繰り返して、
1876(明治9)年に本郷元富士町に移転した。

明治2年(18692月、政府は近くの下谷和泉橋通りにあった幕府の医学所を医学校と改称し、移転して大病院に付属させた。同年3月、イギリス公使館付医師W・ウィリスを教師として迎え、医学校での授業を開始した。医師ウィルスは横浜で軍陣病院の医官として勤めていたことから、軍陣病院の移転と共に大病院に勤務していた。大病院と医学校は、設立した当初の一時期、東京府に移管されて医学校兼病院となった。 

同年7月、教育行政機関として大学校が設立され、医学校は昌平学校、開成学校と共にその管轄下に入った。同年12月、大学校が大学と改称され、それに伴い医学校は大学東校、開成学校は大学南校と改称された。そのとき、病院は大学東校の付属とされた。 

明治3(1870) 10 月、大学東校は学校規則を制定して予科と本科の組織が確立された。この新組織に基づき行われた体制について、当時、大学東校に勤務していた石黒忠悳-いしぐろ ただのり-の著わした『懐旧九十年』(岩波文庫、19834月)に、次のような内容が記されている。

      各藩に内示し、甲乙に区別した志願者を募集した。
      甲は有為の少年を対象に56年で卒業させる。西寮または西舎と称する寮舎に入れ、これを本科生とする。
      乙は現に医職にある者若干を入学させ、およそ2ヵ年で成業させる。東寮または東舎に入れ、これを東寮生と云った。
      石黒自身は東寮内の2室を占めて宿泊し、自ら東寮生の授業を担当し、監督まで兼務した。

石黒は主に理化学の講義を担当したが、東寮生には短い年限でひと通りの西洋医学を教える必要があったため、化学の講義案を整理して活版印刷することを企てた。しかし、活字が乏しく困っていた。 

その折、大学で絵を描かせるため雇っていた画家島霞谷-しま かこく-が新しい活字の製造法を発明し、その活字を用いて刷ったのが『化学訓蒙』(初版)である。その冊子を生徒各自に渡して教科書とした。これが医学校で最初の活字出版となった。

活字は島霞谷の自宅に小屋を建て、職人を雇って製造した。組版と印刷・製本は出入りの書肆に頼んだと見られる。
印刷物は教科書として生徒に配布すると共に、一般にも販売され、初期には、大学東校出版とし、浅草茅町二丁目の須原屋伊八と馬喰町二丁目の島村屋利助が発兌した。

大学東校での出版作業は、原稿の作成とゲラ刷りの校正程度で、石黒が使用した2室の内の1室で行われ、ここが東校活版所と呼ばれるようになったと見られる。

明治3年(187011月に島霞谷が病死したため、大学東校では活字の新規鋳造が出来なくなり、翌明治4年(1871415日、大学から活版御用を命じられていた本木昌造の願いが聞届けられて、大学東校区域内の長屋とそれに続く空き地に活版所を設ける許可を得た。

長崎に戻った本木昌造は、活字の品質とコスト面で困難に直面し、平野富次郎を招いて活字製造部門の改革を行った。そのため、大学東校での御用活版所の開設は遅れて、同年10月、門人の小幡正蔵を所長に任命し、活字製造部門の責任者となった平野富次郎に同行して東京に派遣して御用活版所を開設した。この時、すでに大学は廃止されて文部省となっていたことから、大学東校活版所は文部省活版所と改称されていた。そのため、文部省御用活版所と称した。

その間、同年718日、大学が廃止され、それに代わって文部省が神田の湯島聖堂内に新設された。それに伴い、同月21日、大学東校は東校と改称された。東校は文部東校とも称された。東校は、それまでのイギリス医学中心からドイツ医学の教育に移行するに当たり、一旦、閉鎖して規則を改め、同年10月に再開した。

大学東校活版所は東校活版所と改称されたが、同年918日、文部省編集寮が設立されたため、文部省編集寮の所属となり、蕃書調所から大学南校に伝承された活字・印刷機一式が移管された。それに伴い、門長屋とその付属地に活版所が増設されたと見られる。文部省編集寮活版局は文部省活版所と通称された。

文部省編集寮は欧米の書物の翻訳と教科書の編纂を目的としたが、明治5年(1872913日に廃止された。それに伴い活版局は廃止されて、同月20日に辰ノ口の元分析所に開設された正院印書局に活版印刷設備一式を移管した。

以上のことから、東校表門は元藤堂家上屋敷の表門であって、文部省活版所はその表門の東側に連なる門長屋とその付属地にあり、その区域内の同じ門長屋とその付属地を本木昌造が借りていたこと、それに隣接して平野富二が崎陽新塾出張活版製造所を開設したことが類推できる。

(8)門長屋の様子
この門長屋の様子は、安藤広景画 『江戸名所道下盡 十 外神田佐久間町』(安政66月)に描かれており、前ブログ(21)「文部省御用活版所の開設」、図213で紹介した。

ちょうど同じ頃のことになるが、津藩士堀江鍬次郎が藩の留学生として長崎海軍伝習所に入所して砲術を学び、傍らポンペの医学伝習所で化学を学んだ。医学伝習所で安政5年(1858)に入所した上野彦馬と知り合い、共に写真研究をしていた。上野の自宅で薬品類を自製し、銀板、湿板の研究を行い、堀江は藩主の許可を得てオランダ商人ボードウィンから湿板用写真機と薬品を購入した。
万延1年(1860)に、堀江は藩命を受けて江戸に向かった。このとき購入した写真機・薬品を携え、上野彦馬を同道した。江戸では上野彦馬と一緒に神田和泉橋の藤堂家中屋敷に滞在した。なお、藤堂家中屋敷は上屋敷の北方約600メートルの、現在の台東区台東3丁目にあった。

そのとき、堀江は命じられて藩主や重臣、旗本らを撮影したと伝えられている。しかし、現在では堀江が撮ったとされる若い上野彦馬像のひび割れたガラス製湿板写真(日本大学写真学科収蔵)が1点だけ残されているが、その他については発見されていない。 もしも、その時撮った写真が一式揃って発見されれば、その中に上屋敷表門と門長屋の姿も含まれているかも知れない。

この藤堂家上屋敷の表門と門長屋は1876(明治9)年頃までは残されていたらしく、森鷗外は、この門長屋のことを小説『雁』で次のように記している。 

「まだ大学医学部が下谷に有る時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌めた窓の明いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論、今はあんな窓を見ようと思ったって、僅かに丸の内の櫓に残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりは遥かにきゃしゃに出来ている。」 

森林太郎(鷗外)は、1874(明治7)年1月、12歳でありながら14歳として第一大学区医学校に入学した。同年5月に東京医学校と改称されるが、このとき東京医学校は神田和泉町の旧藤堂藩邸にあって、予科生徒は全寮制で、寄宿舎は旧藤堂屋敷の門長屋がそのまま使われていた。東京医学校は1876(明治9)年に神田和泉町から本郷元富士町の大聖寺藩上屋敷跡(現在の東京大学医学部構内)に移転した。

もともと、この門長屋は参勤交代で大名行列に連なった藩士たちの居住に使われ、身分に応じた広さの部屋が割り振られた。表門から入った屋敷内の各部屋の前面には、その部屋に付属する土地と入口が設けられており、入口を入ると土間を介して板の間、その先に座敷があり、板の間から二階に上がる階段が設けられていた。土間の一画に竈-かまど-が置かれていた。 

平野富二が東京に移転して来て3ヶ月ほど後に、1873(明治6)年から改暦が行われるため、太政官から緊急の印刷物の注文を受けた。このとき、深夜まで仕事をする連中が前の通りで売り歩く稲荷寿司屋を呼び止めて、2階の窓から帯の端に代金を結び付けて寿司を買い求めた話が伝えられている。当時、門長屋の2階の部屋が作業室になっていたことが分かる。

まとめ
平野富二が東京で最初に設けた活版製造の拠点は、神田和泉町の旧津藩藤堂家上屋敷の門長屋の一画だった。

この屋敷内の本邸には近代医学を教える東校があり、表門に続く門長屋は東校の生徒たちの宿舎として利用されていた。表門の東側に連なる門長屋と付属地の一画に文部省活版所があって、その近くの部屋と付属地を本木昌造が借り受けて長崎新塾製の活字を販売する文部省御用活版所(所長:小幡正蔵)が設けられていた。 

平野富二は本木昌造が借り受けた部屋と付属地に隣接する数室の部屋と付属地を借り受け、そこに長崎新塾活版製造所を設立して、東京進出の拠点とした。 

この場所は、明治4年(1871)まで、町名が付けられておらず、藤堂和泉守上屋敷として通っていたが、明治5年(1872)に近代戸籍が編製されるに当たって、新しく神田和泉町と名付けられた。そのため、この町名は一般には通用せず、平野富二は新聞広告で「東校表門通り、文部省活版所内」と表示している。 

平野富二による東京進出の最初の拠点となった長崎新塾出張活版製造所の位置を現在の地形図に当てはめると、和泉公園が旗本能勢熊之助の屋敷跡に相当することから、その西側に隣接する和泉小学校の道路沿いの一画にあったと推測される。

図22-3  旧東校表門通りの現状写真
画面の左手の道路が旧東校表門通り(現、佐久間学校通り)で、
中央に見えるコンクリート壁面から先方が旧藤堂家上屋敷で、
道路沿いに堀と門長屋が表門を介して続いていた。
アイビーの絡まる和泉小学校の壁面の辺りは東校表門の東側門長屋で、
この一画に長崎新塾活版製造所が設けられたと見られる。
手前は和泉公園で、ここは旗本能勢熊之助の屋敷地だった。

当時は、その門長屋の大部分が東校生の寄宿舎として利用されていたこと、前面の道路を隔てて佐久間町の民家が軒を連ねていたこともあって、活版製造所の用地としては何かと制約が多かったと見られる。その後、文部省活版所が廃止されたこともあって、平野富二は東京築地に新工場を建設して移転することになる。

この神田和泉町は平野富二の東京進出の第一歩であり、ここが活版印刷の全国的普及の起点となった場所でもあり、そのことを記念すべき土地である。しかし、そのことを示す標識や説明板は何もない。 

この地は、近代医学教育発祥の地と目され、また、初期邦文活版印刷の一拠点となった場所でもある。それらを含めた記念碑の設置を要望する。 

201915日 稿了

文部省御用活版所の開設

まえがき
本木昌造は、明治4年(1871)5、6月頃、活版事業の拡大を目指して東京に出張した。前年3月に長崎で新町活版所を設立して教科書・参考書・教養書を中心とした活版印刷物を発行しているが、長崎では一向に販路が拓けず、在庫の山を築く状態だった。

折しも、東京で本木昌造が提供した活字を用いて書籍が刊行されることから、その評判を確認すると共に、主要書肆たちを訪問して今後の活版印刷による書籍の販路拡大について話し合ったと見られる。その際、本木昌造は、大学(後の文部省)から活版御用を仰せ付けられ、御用活版所設置の地所を提供された。

準備のために長崎に帰った本木昌造は、用意した資金が枯渇寸前の状態で、もはや事業拡大どころではないことに気付いた。活字の製造が思うように行かず、これが事業最大の妨げとなっていることに思いを来たし、同年7月、先般長崎製鉄所を退職した平野富次郎を招いて活字製造事業を一任した。これを受けた平野富次郎は徹底的な活字の品質向上と経営の効率化を行った。

平野富次郎は、受託してから2ヶ月間で改革の成果が表れたことを確認し、大阪経由で東京に出張して、懸案となっていた大学御用活版所の開設を本木昌造に代わって行った。なお、この時点で本木昌造が仰せ付かった大学は廃止され、代わって文部省が新設されて間もなくであった。

本稿では、平野富次郎による文部省御用活版所の設立について述べると共に、参考として、大学・大学東校・大学南校の設立経緯とそれぞれの活版事情について述べる。

この文部省御用活版所が設立された場所は、後に平野冨二(改名)が東京に進出して活字製造を行うときの最初の拠点となった所でもあり、ここから全国に鋳造鉛活字による活版印刷が普及した記念すべき場所でもある。

(1)文部省御用活版所の設立
本木昌造は、明治4年(1871)5月末、あるいは、6月初旬、東京に出張した。その主たる目的については明らかではないが、同年6月に本木系活字を使用したとされる兵部省官版『法普戦争誌畧』、8巻が須原屋茂兵衛(日本橋南1丁目)から刊行されていることから、その刊行に立ち合って、その評判を自ら見極めると共に、東京の書肆仲間とさらなる書籍の刊行について相談する目的であったと推察される。

図21-1 『法普戦争誌畧』の表紙
《牧治三郎著「活版印刷伝来考=8」、『印刷界』、1966年10月》
この刊本を所蔵していたと見られる牧治三郎によると、
本文に用いられている明朝4号活字の漢字・平仮名・片仮名は、
横浜活版社の陽其二から須原屋などが大量に買い入れて印刷した、
と述べている

本木昌造は、東京に滞在中、大学から大学・東南校に活字を供給する御用を仰せ付けられた。早速、その受け皿となる御用活版所を設立するための地所拝借を願い出たところ、明治4年(1871)6月15日付けで大学東校区域内で不用となっている長屋とその接続地に大学御用活版所を開設する許可を得た。

図21-2 御用活版所の設立認可
《『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵》
この公文書によって本木昌造は、
大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、
御用活版所の用地拝借を願い出た結果、
大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する
政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。
この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。

大学御用活版所の開設準備のため長崎に戻った本木昌造は、いままで現場に任せていた活字製造部門を調査したところ、大量に活字を製造しても、印刷に適した活字はごく僅かで、不良品の山を築くばかりの状態であって、準備した資金は枯渇寸前となっていることに気付いた。自身の健康不安もあって、事業拡大どころではないことに愕然とした。

そこで本木昌造は、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されるに際して退職した平野富次郎を招いて、苦境打開のために活字製造事業を一任し、徹底した改革を行うことを懇願した。

その結果、平野富次郎は、恩師の窮状を見るに見兼ねて、活字製造部門の経営一任を引受け、活字の規格を統一し、生産管理を主体とした抜本的改革を断行し、僅か2ヶ月間で高品質の活字を安定して製造する目途をつけたことについては、本シリーズの「活字製造事業の経営受託」(2018年9月)で紹介した。

平野富次郎に一任された活字製造事業の一環として大学御用活版所も含まれることから、その所長と東京における協力者の人選について本木昌造と相談の上、平野富次郎は、明治4年(1871)9月中旬、大阪を経由して東京に出張した。

大阪では、長崎から新塾出張活版所に派遣されていた小幡正蔵と茂名貞次に東京派遣を伝え、東京の大学御用活版所を設営するため、その所長に指名された小幡正蔵を同伴して東京に向かった。

本木昌造が版御用を仰せつかった大学は、明治4年(1871)7月18日、廃止されて文部省が新設され、同年9月18日に文部省編集寮活版部が東校区域内にある東校活版所に設けられて、文部省活版所となったばかりであった。ここには南校にあったオランダ製活版印刷設備一式も移された。

平野富次郎と小幡正蔵は、東京在住の大坪本左衛門の協力により、文部省活版所と同じ長屋内の1戸とその接続地を借り受けて文部省御用活版所を設営した。

この長屋は、津藩藤堂和泉守上屋敷の表門に連なる門長屋で、江戸時代には参勤交代で江戸に滞在した家臣たちが居住する宿舎であると共に、大名屋敷の周囲を囲む外壁を兼ねて、二階建ての連棟となっていた。

図21-3 藤堂和泉守上屋敷の表門と門長屋
《安藤広景画「外神田佐久間町」、『江戸名所道外盡 十』》
東京都立中央図書館蔵
20万石以上の大大名のみに認められた表門造りで、
左右に連棟2階建ての門長屋が屋敷地周囲を囲んでいる
一階部分は海鼠壁(なまこかべ)に武者窓(むしゃまど)で
二階部分は漆喰の白壁に太い横桟の曰窓(いわくまど)がある。
門長屋と道路の間には堀を巡らし、城塞を模している。
西方に当たる遠方の山上には神田明神の社殿が描かれている

文部省御用活版所の所長となった小幡正蔵は、やがて大阪から上京して来た茂名貞次を支配人兼技師とし、活字の販売と共に活字を組んで印刷版として販売した。校正摺りを行うために、日本橋にある瑞穂屋卯三郎の店からイギリス製小型アルビオン式印刷機を購入し、注文に応じて小物印刷も行っていたらしい。

明治5年(1872)7月、平野冨二(この年に行われた近代戸籍編成に当たり富次郎を改名)は、長崎から社員8人と新婚の妻を引き連れて上京し、小幡正蔵が所長の文部省御用活版所に隣接する門長屋の数戸を借り受けて、崎陽新塾出張活版製造所を開設し、ここで活字・活版の製造を開始した。

明治5年(1872 )9月20日に太政官正院印書局が東京辰ノ口の分析所跡(現、千代田区丸の内1丁目4番)に開設されるに当たって、各省が所有する活版印刷設備を集約することになったため、文部省活版所は、所有する活版印刷設備一式を印書局に移管して、設置されてから丁度1年後の同年9月18日に廃止された。

そのため、文部省御用活版所は所長小幡正蔵の名前を冠して小幡活版所と改称し、自主営業の道を辿ることになった。翌年になって、小幡正蔵は、平野富二の了解を得て小幡活版所を閉鎖し、大坪本左衛門と共に神田五軒町の湯島嬬恋坂下に大坪活版所を設立して独立した。

平野富二が開設する崎陽新塾出張活版製造所については、次回のブログで紹介する。

(2)大学、大学東校、大学南校
慶應4年(1868)4月、新政府は幕府の「医学所」を接収し、同年6月、「医学校」として復興した。同年8月、医学校は「昌平学校」(幕府の「昌平坂学問所」を新政府が復興)と共に東京府に移管された。一方、幕府の「開成所」は新政府の下で、改元された明治1年(1868)9月、「開成学校」として復興され、同年11月、東京府に移管された。同月、昌平学校が行政官の所管となったのに伴い、翌明治2年(1869)1月、医学校と開成学校は昌平学校の下に置かれた。

明治2年(1869)7月、教育行政機関の「大学校」が設立された。これにより、昌平学校は廃止され、医学校と開成学校は共に分局として大学校の管轄下に入った。同年12月、大学校が「大学」と改称され、それに伴い医学校は「大学東校」、開成学校は「大学南校」と改称された。湯島昌平坂にある大学を中心として、その東方にあることから大学東校、南方にあることから大学南校と名付けられた。

明治3年(1870)7月18日、大学が廃止され、それに代わって「文部省」が湯島聖堂内に新設された。それに伴い、同月21日、大学東校は「東校」、大学南校は「南校」と改称された。なお、東校、南校は「文部東校」、「文部南校」とも称された。東校は、それまでのイギリス医学中心からドイツ医学の教育に移行するに当たり、一旦、閉鎖して規則を改め、同年10月に再開した。

(3)「大学」における活版について
大学は政府弁官に対して明治3年(1870)3月8日付けで「学規が確定したことにより諸省などが学規を内見したいとの要求があり、その都度、書写して渡すことは手間が掛かり、誤写の弊害もあるので、活字版を整え置きたい。」と伺書を提出し、「伺いの通りとなすべし。」との回答を得た。

その後、どのような経緯があったか不明であるが、長崎県が政府弁官に対して同年11月20日付けで「長崎製鉄所付属新聞局が長崎県から製鉄所に付属替えの節、アメリカ人ガンブルが長崎滞在中に活字鋳造法などをその筋の者へ伝習いたさせ、現在、専ら造字中です。しかし、当県では(活字は)それほど有用ではなく、其の上、製鉄所が工部省に移管されることから、毎月相応の経費にもなります。新聞局を大学で引き取って頂ければ、それなりの効果が期待できると言えます。したがって、これまでに製造した原字と諸器械ならびに関係者一同を(大学に)差出したいと存じますので、ご決断を仰ぎます。」と伺書を提出している。

これを受けて大学は政府弁官に対して、同年12月15日付けで「活字のほか、機械類も南校で必要なので、すべて南校に付与して頂きたい。(本件について)長崎県と相談したい。」と要望書が出された。
ここでは、大学自体ではなく、大学南校への付与を希望していることが分かる。

ところが、明治4年(1871)1月、工部権大丞山尾庸三が、長崎製鉄所を工部省に移管準備のため長崎に出張して長崎製鉄所の経営状況を調査する中で、付属新聞局で活字を製造していることを知り、活字製造も工部省の事業の一つとすることにしたと見られる。

山尾庸三は、同年4月7日、再度、長崎に出張して、長崎県から正式に長崎製鉄所付属施設一式の工部省への移管を受けた。ところが、新聞局の活字と活字製造設備については移管目録から除外されていることを知り、異議を申し入れた。本件については本シリーズの「山尾庸三と長崎製鉄所」(2018年6月)で述べた。

結果として、同月中に、工部省と大学南校は、活字製造設備と人員は工部省で引き取り、これまで長崎で製造した活字一式は大学南校に引き渡すことで合意した。不足活字は、大学南校の要求に応じて、工部省から供給することとなった。

明治4年(1871)7月18日、大学が廃止され、代わって文部省が設置された。

(4)「大学南校」における活版について
大学南校の前身は、幕府の「蕃書調所」で、文久3年(1863)になって、「開成所」と改称された。元治1年(1864)11月に開成所の規則が改められ、教育科目を蘭・英・仏・独・魯の5学と、天文学・地理学・窮理学・数学・物産学・精錬術・器械学・画学・活字術の各課に分けられた。

器械学については、教授手伝役の市川斎宮(兼恭)が米国独国器械改に任命されて、アメリカ使節ペリーとプロシャ使節オイレンブルグが献納した電信機、汽車模型、石版印刷機、写真機などの調査・研究が主であった。

活字術については、蕃書調所時代の安政4年(1857)1月に市川斎宮が活版事業担任に任命され、嘉永3年(1858)にオランダ語教科書『レースブック(西洋武功談)』を刊行した。その後、活字方として津藩士榊令輔が市川斎宮の跡を継いだ。万延1年(1860)には、教授手伝の堀達之助らによって、初めて英語入門書『Familiar Method』が復興出版された。文久1年(1861)3月になって、長崎奉行所の倉庫にあった手引き印刷機を含む活版付属具が備えられた。

文久2年(1862)5月、蕃書調所は「洋書調所」と改称(さらに翌年、「開成所」となる)されて、人員も逐次増加し、洋学教科書の復刻、中国刊行訳書の翻刻、翻訳新聞(『バタビヤ新聞』)の刊行などが盛んに行われた。

開成所にあった活版印刷設備は、開成学校、大学南校、南校へと引き継がれ、文部省編集寮の設置に伴い、東校活版所に移されて、文部省活版所の主要設備となった。

このように大学南校は、
蕃書調所⇒洋書調所⇒開成所⇒開成学校⇒大学南校⇒南校
と活版印刷設備を伝承して来たが、洋書の復刻が中心であったため、邦文活字は保有していなかった。

前項(3)で述べたように、明治4年(1871)4月になって大学南校は、それまで長崎新聞局で製造した活字一式を工部省から移管され、必要に応じて工部省から追加供給を受けられるようになった。

(5)「大学東校」における活版について
明治3年(1870)閏10月、大学東校は学校規則を制定して予科と本科の組織が確立された。この新組織に基づき行われた体制について、当時、大学東校に勤務していた石黒忠悳(いしぐろただのり)の著わした『懐旧九十年』(岩波文庫、1983年4月)に、次のような内容が記されている。

・各藩に内示し、甲乙に区別した志願者を募集した。
・甲は有為の少年を対象に5,6年で卒業させる。西寮または西舎と称する寮舎に入れ、これを本科生とする。
・乙は現に医職にある者若干を入学させ、およそ2ヶ年で成業させる。東寮または東舎に入れ、これを東寮生と言った。

石黒自身は、東寮内の2室を占めて宿泊し、自ら東寮生の授業を担当して、監督まで兼務した。東寮生には短い年限で一通り西洋医学を教える必要があった。石黒は主に理化学の講義を担当した。

そのとき、化学の講義案を整理して活版印刷することを企てたが、医学館にあった李朝活字では字数が乏しく困っていた。その折、大学で絵を描かせるため雇っていた画家島霞谷(しまかこく)が新活字を発明し、その活字を用いて刷ったのが『化学訓蒙』(初版)で、その冊子を生徒各自に渡して教科書とした。これが医学校で最初の活字出版である。

以上について注釈を加えると、当時はまだ廃藩置県の実施される前だったので、中央政府の統括のもとで各藩が地方自治を行っていた。そのため、各藩を通じて生徒募集を行った。
西寮・東寮については、大学東校の表門(旧津藩藤堂和泉守上屋敷の表門)の西に連なる門長屋を西寮(西舎)、東に連なる門長屋を東寮(東舎)と呼び、学生の寄宿舎とした。
李朝活字を保管していた医学館は、近くの向柳原にあった旧幕府の漢方医学教育施設であったが、慶應4年(1868)7月、廃止されて医学所(大学東校)に付属された。

藤堂屋敷の門長屋が医学校の寄宿舎だったことについては、森鴎外の小説『雁』にも記述されている。

島霞谷は、明治3年(1870)3月、大学東校から資金を供与されて、下谷下久保町の自宅に活字製造所を開設し、職人を雇って活字の鋳造を行った。島霞谷の発明は、黄楊(つげ)または水牛の角を彫刻して父型とし、河柳(かわやなぎ)の木口に父型を打ち込んで活字母型を造ったことで、河柳の耐熱性を利用したものである。

大学東校での出版作業は、原稿の作成とゲラ刷りの校正程度であったと見られ、活字の組版と印刷は旧開成所出入りの御用商人であった蔵田屋清右衛門が請け負い、蕃書調所時代から伝来したスタンホープ式印刷機を借り受けて印刷を行ったと見られる。いわゆる大学東校活版所と称される実態は、このようなものであったと見られる。初期は、大学東校出版として浅草茅町2丁目の須原屋伊八と馬喰町2丁目の島村屋利助の発兌となっている。

明治3年(1870)11月、島霞谷が病死したため、大学東校では活字の新規鋳造が出来なくなった。そのため、明治4年(1871)に刊行された書籍は木活字本となっている。本木昌造が大学活版御用を仰せ付けられたのは、明治4年(1871)6月のことで、このような事情があったことによると見られる。

明治4年(1871)9月18日、文部省は編集寮活字局を新設して(大学)東校活版所を引き継ぎ、文部省活版所とした。そのとき、(大学)南校にあった活版印刷設備一式が移管された。

しかし、明治5年(1872)9月20日に正院印書局が東京辰ノ口の分析所跡に開設されるに伴い、文部省活版所は活版印刷設備一式を印書局に移管して、同年9月13日に廃止された。

大学東校の活版印刷の歴史は、大学南校と較べると短いが、その発祥は、安政5年(1858)5月、江戸の蘭方医たちが出資して神田お玉ヶ池に設置した種痘所に始まる。その後の推移を示すと、
種痘所⇒西洋医学講習所⇒官立種痘所⇒西洋医学所⇒医学所⇒医学校
⇒大学東校⇒東校⇒第一大学区医学校⇒東京医学校⇒東京大学医学部
となる。

医学校のときに、大病院(新政府の軍陣病院)と併合されて津藩藤堂和泉守上屋敷に移転し、東京医学校のときに本郷に移転した。

(6)当時の東京における活版事情
蕃書調所時代の活版印刷設備を受継いだ大学南校と、講義録を印刷するため木製母型から活字を鋳造した大学東校について述べたが、両校の活版印刷設備は文部省活版所が開設されて1カ所に纏められた。やがて、太政官正院印書局が新設されて、政府各省が保有する活版印刷設備が集約された。

一方、長崎県から長崎新聞局の活版関係設備を移管された工部省は、省内に勧工寮活字局を新設して、長崎から活字製造設備と人員を東京赤坂葵町に移転したのは、明治4年(1871)11月22日のことである。

このような政府内での活版化が着々と進められている中で、明治4年(1871)6月、本木昌造は大学・大学東校・大学南校への活字供給のために大学御用活版所を大学東校区域内に開設することを認められ、平野富次郎によって、同年10月頃、小幡正蔵を所長とする文部省御用活版所が開設されたことになる。この時期は、勧工寮活字局の新設に先立つこと1ヵ月程であった。

当時の東京では、活字の販売業者として南鍋町1丁目(現、中央区銀座5丁目)に店を構えた志貴和介(しきわすけ)が海軍省などの大口需要者に鋳造活字を販売ていた。しかし、どのような技術を基にして活字を鋳造していたかは分かっていない。

横浜では、居留地に住む外国人が新聞を発行してたので、活版印刷が盛んに行われていたが、本木昌造が派遣した陽其二によって横浜活版社が地元の出資で設立され、明治3年(1870)12月8日、わが国最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が発行されている。また、柴田昌吉(しばたまさよし)らが『英和字彙』を刊行するに当たり、同年春に日就社が設立され、欧文・漢字・仮名の各活字と活版印刷機を上海の美華書館から購入している。

このように、民間でも活版印刷による刊行が徐々に始まりつつあった。まさに活版印刷の夜明け前であった。

2018年10月25日 稿了

活字製造事業の経営受託

平野富次郎(平野冨二)が、本木昌造から活字製造事業の経営を受託して、工場の組織と運営面で全面的改革を断行した。その結果、約2ヶ月という短期間で、高品質の活字を安定して、しかも、低価格で製造できる目途を付けた。さらに、本木昌造が大阪と東京に計画した出張活版所で抱えていた諸課題に対して善後策を講じ、活字の需要が見込める東京・横浜において販売を試み、大きな成果を得た。これらについては、本シリーズの2018年7月と2018年8月の投稿で、その概要に触れている。

本稿では、平野富次郎の人生で最大の転機となった本木昌造の活字製造事業の受託とその成果について、先稿と一部重複することもあるが、ここに纏めて紹介する。

その多くは、東京築地活版製造所で編纂した小冊子『長崎活版所東京出店ノ顛末幷ニ継業者平野冨二氏行状』(明治24年3月、初稿)に拠った。そもそも、この小冊子の内容は、本木昌造の協力者である池原香稺と、以前から本木昌造の工場で従事していた2、3人に加えて、平野冨二本人の直話を比較・参考にしたと付記されている。それに加えて、その後に発見された資料や当時の状況を勘案して、補足・修正を行った。

(1)本木昌造の懇願と平野富次郎の条件付き受託
本木昌造は、長崎出島のオランダ人から得た情報をもとに活字製造の基礎技術を開発したが、本格的に実用に供するまでには、まだまだ、多くの課題を抱えていた。たまたま、同様の原理で活字を製造していた上海の美華書館から主任で開発者でもあるウィリアム・ギャンブルを長崎に招いて、長崎県付属の長崎新聞局のために迅速活字製造法の伝習を行い、自らも伝習に協力しながら受講した。

本木昌造は、長崎製鉄所の退職を機に、明治3年(1870)3月、長崎新町に新街私塾を開設した。その運営経費をまかなうためと、維新に際して家禄・扶持を失った地役人や士族たちに職を与えるため、活版所(活版印刷所)と活字製造所とを開いて、活字の製造とその活字を用いた活版印刷により教科書や参考書、教養書の出版を開始した。

しかし、活字を製造しても、粗悪品ばかりが多く、印刷に適した活字を思うように製造することが出来なかった。また、活版で印刷しても、従来の手書き文字を木版とした整版印刷に馴染んだ人々から、必ずしも歓迎されなかった。

このままでは、活版所での活版印刷事業は勿論のこと、新街私塾の経営にも支障を来たす事態に陥ることは明らかであった。身近にいた主な門人たちは、すでに大阪、横浜、京都に開設した活版所に派遣したため、後事を託せる門人は残っていなかった。

明治4年(1871)6月頃、東京出張から戻った本木昌造は、自宅で造船事業の構想を練っていた平野富次郎を招いて、活字製造の事業化が思うように進まないので、これに手を貸してくれないかと要請した。

当初、平野富次郎は、本木昌造が自分の退職を心配してくれたものと思い込み、再三に亘って固辞した。しかし、内情を聴くうちに、本木昌造の窮状を知り、遂に、本木昌造が経営している活字製造事業を引き受けることとなった。

(2)本木昌造の抱えていた課題と要望
当時、本木昌造が抱えていた課題を纏めて整理すると、
① 不良品ばかりが出来て、実用になる活字が僅かしか得られないこと、② 鋳造活字を用いた印刷物が必ずしも世間から歓迎されないこと、③ 事業収入が得られず、経費ばかりが増大し、資金は枯渇寸前となったこと、④ 自身の健康不安を抱えていること、であった。

さらに、副次的なものとして、
⑤ 有能な門人たちを大阪、横浜、京都に派遣してしまい、後事を託す者が居ないこと、⑥ 五代友厚から前金を受けて請負った和訳英辞書の出版が頓挫していること、⑦ 大阪、横浜、京都に開設した出張活版所では、当面、木版での出版とせざるを得ないこと、⑧ 大学・東南校への活字供給の要請を受けて、その対応に苦慮していること、⑨ 東京芝神明前での書肆仲間との活版所設立計画に苦慮していること、など多岐多方面にわたっている。

本木昌造は、どちらかと云えば、学者・研究者肌の人であった。自分の家の一室で職人を使って活字を手作りすることは出来ても、これを工業的に大量に製造するには、別の才覚と能力を必要としていた。本木昌造を慕って集まった門人たちも、知識欲は旺盛であっても、物造りの本質をわきまえず、このようなものは職人にまかせるものだという考えが一般的であった。

これらの課題を解決するため本木昌造が平野富次郎に要望した内容は、
① 活字製造のために設けた工場に関する一切の事を委託すること、② どのような改革をおこなっても構わないので、心置きなく処置して欲しいこと、③ どのような土地で営業しても構わないので、利益の多く得られる土地に移転することが得策と考えること、④ 損益得失の責任を負う覚悟で行なって欲しいこと、⑤ 経営が軌道に乗るようになったら、出資者のために資本償却として5千円を還付して欲しいこと、⑥ 今後の事業運営についてはすべて、従業員一同との協議によって処置すること、であった。

(3)平野富次郎の活版印刷への関り
ここで、本木昌造から活字製造事業を委託された頃の平野富次郎は、活版印刷に関する知識と経験がどの程度あったかを、その経歴から調べて見た。

平野富次郎は、文久1年(1861)、多くの候補者の中から選抜されて長崎製鉄所に入所し、機関方見習いとして機械学の伝習を受けた。その際、長崎製鉄所の御用掛と伝習掛を兼務していた本木昌造から直接指導を受けたことから、誘われて本木一門に加わり、業務の余暇に一門の者たちと共に活版印刷の研究にも携わったと見られる。

長崎で1861年6月22日(文久1年5月15日)に創刊された英字新聞『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』の発行に際して、伝習を兼ねて新聞の印刷を手伝った本木一門の逸話がある。その一門の者の中に平野(当時は矢次)富次郎の名前が見られる。

その後は、本木昌造が船長となった長崎製鉄所の蒸気船に機関手として乗組む機会が多く、また、八丈島に漂着して、約5ヵ月間、共に滞在を余儀なくされたこともあり、本木昌造と直接話をする機会も多く、活版印刷研究について多くの話を聴かされたであろうことは推測できる。

しかし、明治2年(1869)3月に平野富次郎が小菅修船場の諸務専任となって以降、長崎製鉄所を退社するまでの間は、業務多忙のため活版印刷研究からは遠ざかっていたと見られる。したがって、その間に行われた上海美華書館のギャンブルによる伝習には直接関わることはなかったと見られる。

(4)平野富次郎の受託条件
平野富次郎が本木昌造から活字製造事業の経営を受託したのは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。

平野富次郎が、受託するに当たって付けた条件を箇条書きにして纏めると、
① 引き受ける事業は、当面、活字製造に限り、印刷出版は別扱いとすること、② 本事業をすべて一任して専断を許認し、他者の干渉を排除すること、③ 製造する活字類は希望するものにも販売できるようにすること、④ 活字製造事業を印刷出版事業から分離して、独立採算制とすること、⑤ 後継者を養成して事業の継続を図ること、⑥ 経営が軌道に乗って利益がでるようになったならば、一切を本木家に返還すること、であった。

当時、わが国では活版印刷について一般になじみが薄く、手書き文書をそのままの形で複写する整版印刷(木版摺り)を好み、敬遠する風潮にあった。そのような中で、政府・官公庁が公布する行政文書が多くなるに従い、手早く大量に印刷できる活版印刷が着目されるようになった。また、新聞の普及により、遅滞なく最新の情報を印刷する手段として活字が求められるようになりつつあった。

当初の本木昌造の基本方針は、全国の活版印刷事業を一手に独占し、主要書肆(出版社、書店)を通じて印刷物を販売することであって、これによって得られた利益を全国の職を失った貧窮士族の救済に充てることであった。

このことが活版印刷の普及を妨げる要因の一つとなっていることに着目した平野富次郎は、本木昌造を説得して、広く世間に活字・活版を販売することが活版印刷の普及を促進し、自らの利益を増大させると共に、世間の利便にも貢献することことになることを認めて貰った。

(5)平野富次郎による改革の内容
活字製造事業を引受け、改革を行うに当たって、活字製造に関する最新の知識と情報を本木昌造から説明を受け、ギャンブルから伝授された活字製造上の要点を聴取したと見られる。このとき、ギャンブルから入手していたであろう活字見本広告も参考にしたと思われる。

図20-1 上海美華書館の活字見本広告
《『教会新誌』、第16号、同治7年11月(1868年12月)》

この広告では「本館が現有する新鋳の大小中国鉛字6種を販売し、
号ごとに印刷して、重量ポンド当たりの価格と個数を示し、
購入者に一見して便利で明らかになるようにした。(中略)
なお、来館購入するならば、日本鉛字・外国鉛字などもあるが、
ここには価格の表示はない。」と述べている。
ページを4分の1の枠に区切り、枠内に活字のサイズ毎に
キリスト教の「主の祈り」を中国鉛字で印刷している。
字種は一書体のみで、サイズは第一号から第六号まで、
その外に、旧型鉛字の別有二号が表示されている。
この広告は、1868年(明治1年)12月から翌年7月まで、
8回掲載されたが、最後の2回分は別有二号の掲載はない。
長崎の活版伝習では、この広告を教材とした可能性がある。

ちなみに、上海美華書館では号数で活字のサイズを示している。各サイズを比較調査して見ると、第五号を基準として、その倍角(縦に並べた2本分)を第二号、半角(2分の1本分)を第六号としている。また、第三号の1.5倍角が第一号(第三号3本分が第一号2本分)となる。第四号は第三号と第五号との中間サイズであるが、倍角関係はない。このように、美華書館の活字サイズは3種類の異なる基本システムを組み合わせていることが分かる。

第五号は、英語で Small Pica と呼ばれ、1フィートの枠内に80個の活字が並べられるアメリカのブルース・システムを採用している。イギリスのハンサード・システムでは1フィートに83個を基準としており、僅かな寸法差がある。また、イギリスやアメリカの1インチはフランスやオランダの1インチとは僅かではあるが異なっている。

本木昌造は、当初、オランダから活版印刷を学び、幕末になってイギリスのハンサードから新聞印刷を学んだ。明治になってからアメリカのギャンブルから迅速活字製造法を学んでいる。そのため、永年にわたる活字研究の結果として、本木昌造の許には各国の活字サイズシステムが混然としていて、字種・字体も多様なものが残されていたと見られる。

平野富次郎の断行した活字製造上の改革内容は、すでに上海美華書館で実用に供されている製造技術そのものは対象外として、製造の際の管理と運営上の問題に絞られた。その多くが、能力や経験に関係なく失業救済策として採用された従業員であることに起因していると見られることから、教育や訓練は勿論、作業上の管理と運営に着目して改革を断行した。

改革の内容を箇条書きにして纏めると、
① 業務に精励しない者若干名を解雇すること、② 幼年者・老人・身体虚弱者は能力に応じた業務に配置転換すること、③ 出勤・退出の時刻を厳守させ、昼食後の午睡習慣を禁止すること、④ 能力に応じて給料を支払うこと、⑤ 意欲や向上心のある者に褒賞を与えること、などであった。

次に、素人の集まりであることから、
⑥ 仕事を習熟させるために分業制とすること、⑦ 組織を改正して責任の明確化を図ること、⑧ 不良品の発生を少なくするため作業工程の見直しを行うこと、などであった。

また、活字の品質を向上させ、コスト意識を持たせるために、
⑨ 品目ごとに標準見本を作製すること、⑩ 一人の主任者により製品検査を行うこと、⑪ 不合格となった活字類はすべて熔解して地金に戻すこと、などを徹底した。

なお、伝記には記録されていないが、木製の種字から鉛合金製の活字を鋳造するまでには多くの複雑な工程が必要であり、各工程における良否の判断は経験に依存する要素が多かった。当時は未だ外部からの電力供給はなく、蝋や地金の加熱・溶解の際の温度管理や電気メッキ作業での適正層厚管理などは経験を要する感覚に頼るしかなかった。

図20-2 16世紀の活字鋳造作業図
《Hans Sachs の著書(1568)から引用》

床に置かれた地金熔解炉の焚き口から木炭を継ぎ足しながら
その上にある鍋中の地金の熔融温度を調節し、
右手に持った柄杓で熔融地金を定量掬い取り、

すばやく左手に握った鋳型に熔融地金を注ぎ入れる。
その直後に左手を素早く振り上げて、
地金を鋳型の隅々まで行き渡らせる。
鋳型内で固化した活字素材は、鋳型から外されて、
床上の受け皿に入れられる。
明治初期には、
すでに外国で活字注入ポンプや手廻式活字鋳造機があったが、
長崎の新塾活字製造所では、ほとんどが
16世紀のヨーロッパと同様の鋳造作業であったと見られる。

図20-3 活字の仕上げ作業
《石井研堂著『少年工芸文庫』、第八編、「活版の牧」》

この作業は、活字の側面を砥石で擦って仕上げる作業を示す。
これを「こますり」(駒擦り)と呼び、
もっぱら、女性の仕事とされた。

改革の実行に当たっては、長崎製鉄所における経験と上海美華書館の情報が大いに役立ったと見られる。

具体的には、船舶用の機械や器具は鋳鉄や真鍮の鋳物が多く、活字の鋳造と共通する知識と経験が役立った。また、小菅修船場での経営に当たって、本局と経理を分離して独立採算制としたことにより、経営の採算性が明確になった。立神ドック掘削工事では、失業者救済のための人事管理を経験し、多種多様の素人集団を一つに纏めて工事を実行した。さらに、上海美華書館の活字・印刷機械の外部販売による積極経営や印刷見本広告による活字の販売方法などを参考にしたと見られる。

(6)平野富次郎の改革の成果
本木昌造の活字製造事業を引受け、徹底的な改革を実行して、わずか2ヶ月後には課題を解決して、高品質の活字を安定して製造できるようになった。また、不良品の発生が激減したことにより、活字の製造コストも大幅に低減した。その時期については、平野富次郎の大阪出張準備の記録から判断できる。

少し後のことになるが、明治5年(1872)2月になって本木昌造は『新塾餘談 初編一』を刊行して、その緒言の中で「近ごろ、私の製造する活字がようやく完成した」旨を述べている。さらに、その巻末に「口上」として、崎陽 新塾活字製造所の広告を掲載して、各号ごとの印刷見本と1字当たりの代価を示している。

図20-4 新塾活字製造所の活字広告
《『新塾餘談 初編一』、新町活版所、明治5年2月》

活字のサイズ毎に「天下泰平国家安康」の印刷見本を示している。
美華書館の広告と比較すると、
活字サイズとしては、
初号を追加し、六号がない。
書体は、三号に清朝風と和洋行書体を追加している。
また、価格は重量当たりではなく、1個当たりとしている。
この広告は、上海美華書館の広告を見習った可能性がある。

「口上」として掲示された文章を現代文に書き換えると、次のようになる。
「この度、印字見本の通り活字が完成しました。漢字のみならず、カタカナ・ひらがな共大小数種があるので、お望みの方にはお譲りすることができます。その外に、字体や大小など、お好みの通り製造できます。」

初号については、本木昌造が明治3年(1870)に印刷発行した教科書『単語篇 上』で、初号と二号の活字を用いている。この広告と共通して用いられている「天」と「平」を比較すると、同じ活字母型で鋳造されたことが分かる。しかし、『単語篇』では鋳造欠陥のある活字が含まれている。

なお、参考に記すと、広告にある価格の「永」表示は、金貨を基準とした永銭勘定と呼ばれ、江戸時代から金貨は4進法で1両=4分=16朱と呼称するが、これを10進法である銅銭の単位を用いて、1両=1貫文=1,000文=10,000分で呼称することを示す。金貨と銅銭の交換比率は相場によって変動した。明治4年(1871)5月の新貨条例により、純金の重さに基づき1両=1円=100銭=1,000厘=10,000毛となった。

(7)関連する課題への対応
平野富次郎は、改革の成果が出始めたことを確認して、明治4年(1871)9月中旬に大阪に出張し、次いで、東京まで足を延ばし、同年11月1日に長崎に帰着している。

伝記では、「11月に活字若干を携えて東京に上り、」とあるが、平野富次郎の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵、現在は所在不明)の記録により時期を訂正した。出張目的は、伝記では東京での活字販売を試みたことしか述べていないが、当時、本木昌造が大阪、横浜、東京で抱えていた諸課題から類推すると、早期決着を要する別の目的があったことが分かる。

大阪における本木昌造の当時の課題については、本シリーズの「五代友厚と大阪活版所」(2018年8月)で詳述した。また、横浜では、陽其二を派遣して横浜活版所からわが国最初の日刊新聞を発行したが、鉛活字の供給が停滞して、木活字で対応していたこと、東京では、神田佐久間町前の大学東校構内に御用活版所を設立して活字の納入要請を受けていたこと、芝神明前の書肆仲間と活版所設立計画をしていたことについては、本シリーズの「本木昌造の活版事業」で述べた。

平野富次郎は、完成した活字若干を見本として携えて、横浜と東京で販売を試みた。その際、印刷見本も持参したと見られる。

横浜では、陽其二を通じて神奈川県御用掛となっていた柴田昌吉(本木昌造の末弟)を紹介してもらい、同地に設立された日就社から刊行予定の『不音挿図 英和字彙』の序文印刷用として活字を買ってもらった。

東京では、芝神明前の書肆仲間を訪れたとき、岡田吉兵衛を通じて太政官左院から活字数万個の注文を受けた。岡田吉兵衛は、本木昌造が文久2年(1862)に崎陽點林堂主人として『秘事新書』を整版で出版したときの取り扱い書肆の一つである和泉屋吉兵衛のことと見られる。

続いて、神田佐久間町前の大学東校構内に御用活版所を設立する際に、大学御用達の蔵田屋清右衛門から活字の注文を受けた。蔵田屋清右衛門は大学東校にあったスタンホープ式印刷機を借り受け、ドイツ活字を輸入して『独和会話篇』(明治5年刊)を印刷している。

このように、東京の各所で活字の販売を行い、合計2,000円余りの注文を得たという。本木昌造の抱えていた課題も解決し、活字販売の見通しも立って、大きな成果を得て東京を発つ直前に東京で撮影した、丁髷を結い旅姿の平野富次郎の肖像写真が平野家に残されている。
途中、大阪に立ち寄って、活字の原料となるアンチモニーを購入し、長崎に戻った。

この平野富次郎の東京出張と入れ替えに、明治4年(1871)11月22日、工部省は東京赤坂溜池葵町に勧工寮活字局を開設した。長崎新聞局活字一課の設備と人員をここに移転させ、官報の活版印刷を目的とした活字製造を開始した。

この頃が、まさに活版印刷の黎明期と云える。文明開化の代表的な利器の一つと言える活版印刷も、その価値を認められて需要が拡大するためには、更なる努力が必要であった。

2018年9月30日 稿了

 

五代友厚と大阪活版所

まえがき
数ある本木昌造の伝記資料の中で大阪活版所について述べた最初の記事には、「是歳(明治3年)春社員小幡正蔵酒井三造ノ両氏ヲ大坂ヘ送リ五代才助(後ニ友厚)氏ト謀リテ同地ノ大手町ニ始メテ活版所ヲ開カシム(後ニ北九太郎町ニ移レリ)」(『印刷雑誌』、第1巻第3号、明治24年4月)と記述されている。

この記事には著者が明記されていないが、福地源一郎(桜痴)が長崎の西道仙収集の資料(「長崎文庫」)に基づいて執筆したとされている。

活版所開設の時期を「春」(旧暦では正月元日から3月末日)と幅をもたせて表現し、開設場所を「大手町」として当時の大阪には存在しない町名で示している。さらに、五代才助(友厚)とはどのような経緯があったのか全く分からない。

後に、『東京活版製造始祖故本木昌造先生』と題する小冊子が東京築地活版製造所から発行されて、活版所の開設時期は「明治3年3月」となった。しかし、その根拠は不明である。

このように、大阪活版所の開設に関する経緯、場所、時期が必ずしも明確になっていない。そこで、大阪商工会議所に保管されている「五代友厚関係文書」の中から、大阪における活版所開設に関する各種文書(主として書簡類)を横断的に読み解いた。その結果、本木昌造との関係で活版所開設の経緯などが見えて来た。

以下にその内容を紹介するに当たり、この時期、個人の名前が多様に用いられており、例えば、五代友厚は才助、松陰、重野安繹は重埜安、成斎、小松帯刀は玄蕃頭、観瀾、本木昌造は昌三、元木、平野富二は富次郎として文書に現れている。ここでは、特に必要とする以外は、一般に用いられている名称に統一して表記することとする。

(1)大阪における活版所開設の経緯
五代友厚は、明治2年(1869)7月に官途を辞し、その後は大阪の財界に身を投ずる決意をしていた。そのことを郷里鹿児島に帰って報告するため、同年12月、大阪を発って長崎に立ち寄り、翌年1月、大阪に戻る途次、再び長崎に立ち寄っている。


図19-1 大阪商工会議所前に立つ五代友厚銅像
この銅像は、昭和28年(1953)10月、
大阪商工会議所創立75周年に当たり、再建された。
《写真提供:雅春文庫》

長崎に立ち寄った五代友厚は、大阪に大阪府御用活版所を設立して新聞を発行する計画を、大村屋(書肆とみられる)と本木昌造に伝えて協力を要請した。大村屋には大阪に進出して新聞の印刷発行を行うこと、本木昌造には新聞発行に必要な活字を大村屋に提供することを要求したと見られる。

このことに関して、五代友厚が大阪に戻った後に、長崎の大村屋に宛てて出状した明治3年(1870)3月19日付け書簡がある。これを現代文に直して紹介すると次のようになる。

「(前文挨拶は省略)活字板の一件については、追い追い勉強されていることと遠察いたします。当所においても都合よく進展しています。殊に、重野安繹とは『二十一史』を活字で出版するよう取り決めて置いたので、本木昌造とご示談の上、所持の活字一切残らず持参させるよう致したい。もちろん、『二十一史』は近頃流行の書であるが、一向に市中に見当たらず、一部250両位するとのこと。重野はそのため大阪に滞在して字数を取調中です。所持している活字だけでは、まだ、字数が不足しているとのこと。追い追い取り寄せいたしたく、そのため、本木昌造にも大阪に来てもらわなければ、このような大業は成功することは難しいです。一緒に誘い合わせて大阪に来られることをお待ちしています。重野安繹は漢学の分野では現在、彼より優れている者を知りません。同氏を味方にすれば、本木昌造は勿論、貴殿の志もこの時に立つことが出来ると云えるでしょう。ぐずぐずなさることは有りません。頓首不具。
三月十九日                     松陰生
大村屋君
なお、新聞紙の方は何時でも宜しい。また、活字を製造する機械があると思うので、長崎にあれば、御買入の上、ご持参下さい。」

この書簡には出状年が記載されていないが、次に示す重野安繹の書簡と小松帯刀の死亡時期から見て、明治3年(1870)であることが分かる。

「(前文挨拶は省略)昨日、小松家より活版の一件に付いて依頼され、引き受けました。早速、参堂して詳しくお話し申上げたく存じますが、(省略)明後日に(省略)参上いたしたく、(省略)御在宅でしょうか?(省略)詳しくはお会いして申上げます。頓首
三月十一日                 重埜繹拝
松陰賢伯 侍史」

小松家とは小松帯刀のことを指すと見られる。小松帯刀は薩摩藩家老を勤め、新政府内で要職に就いたが、明治2年(1869)5月、病気のため退官した。その後は療養に努めていたが、多くの借財を抱えていた。この窮状を打開するため、小松家で秘蔵していた『二十一史』を活版で出版することを思い付き、重野安繹と五代友厚がこれに協力していた。なお、『二十一史』とは、中国の史記から元朝までの正史を編纂した歴史書である。

重野安繹は、3月13日に五代宅を訪問して、対応を話合い、その結果、先に紹介した五代友厚から大村屋に宛てた書簡が出状されたと見られる。

この大村屋に宛てた書簡によると、明治3年(1870)3月19日の時点では、五代友厚は本木昌造に対して大阪に活版所を設立することまでは、まだ、期待していないように読み取れる。

また、同じ書簡で、追伸として述べている「新聞紙の方は」の一文から推察すると、五代友厚が大村屋と本木昌造に対して、以前から大阪での新聞発行を相談していたように窺える。

やや後のことと見られるが、活版所の開設に関して本木昌造が作成したと見られる覚書草案がある。一部補足して現代文に直して紹介する。

① 大阪府の御用活版所として設立し、本木昌造(元木と表記)が全てを手配すること。
② 『二十一史』の校合・句読を重野安繹にお願いすること。
③ 活字数が揃ったら、期限を定めて『二十一史』を印刷し、利益は2分割すること。
④ 『二十一史』を出版するまでは、その他の書籍売上高の5歩を上納すること。
⑤ 書籍の販売は秋田屋に差配させること。
⑥ 必要な資金を貸し渡し下されば、利付で借用するが、ご都合に任せること。

この覚書草稿には差出人、受取人、日付の記載がない。しかし、国立公文書館にあるマイクロフィルムを閲覧した結果、明らかに本木昌造の筆跡であることが分かった。
内容からみて、受取人は五代友厚と見られる。

先の五代友厚から大村屋に宛てた書簡と相違して、より具体化された取り決めとなっている。ここでは、大村屋の代わりに本木昌造が活版所を設立し、秋田屋が書籍の販売を行うことになっている。秋田屋は、大阪心斎橋通安堂寺町の秋田屋太右衛門のことと見られ、本木昌造の『秘事新書』を整版で発売したことがある。

この覚書草稿の作成時点で、当初、五代友厚が期待していた長崎の大村屋は辞退したと見られる。その背景には、長崎の大村屋と本木昌造との間で何らかの話合いがなされ、大村屋は荷が重すぎることで手を引き、本木昌造自身が大阪に活版所を設立することになったと見られる。

その後のことについては、『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)の速水英喜に関する記述の中に、「(本木昌造)先生は予ねて長崎で経営されている長崎新塾の出張所を大阪の地へ設立する意図があって、豪商五代友厚氏と田村良助氏、これに(長崎屋)吉田宗三郎氏等を加えて相談を試みられ、翌3年3月には先生の命を奉じて同社員小幡正蔵、酒井三造の両氏が上阪し、五代氏と更に協議の結果、大手町に大阪活版所を創立することに決定した。」と述べられている。

以上の事柄を纏めると、明治3年(1870)1月に五代友厚が長崎に立ち寄って、本木昌造と大村屋に大阪での新聞発行のことを相談した。これを受けて本木昌造は、懇意にしていた大阪の長崎屋宗三郎と田村良助に連絡して、五代友厚と相談していた。3月になって、小松帯刀所蔵の『二十一史』を活版で出版することになり、五代友厚は同月19日付け書簡で大村屋と本木昌造に対応を要請した。本木昌造は大村屋と協議し、3月中に小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣した。二人は長崎屋宗三郎と田村良助と共に五代友厚と更に協議を行い、活版所設立に関する覚書を交わすに至った。

したがって、大阪で実際に活版所が開設された時期は、いくら急いでも、それから1,2ヶ月後のことと見られる。

(2)活版所開設直後の『二十一史』出版中止
活版所の土地と建物は、地元の長崎屋宗三郎と田村良助が手配して、大手筋折屋町(現在の大手通2丁目)に所在する家作を買い受け、小幡正蔵と酒井三造を責任者とし、さらに、長崎から谷口黙次、若林弥三郎、茂中貞次を送り込み、必要な職人を派遣するなどして、万全の体制を敷いた。


図19-2 「大阪活版所跡」碑
場 所:大阪市中央区大手通2丁目4番の前の道路脇
表 面:「大阪活版所跡」
右側面:「明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計
     により この地に活版所が創設された 大阪の活版印刷
     は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」
裏 面:「    昭和四九年三月  大阪市建立」
《写真提供:雅春文庫》

ところが、明治3年(1870)7月20日、小松帯刀が36歳の若さで大阪において病死した。そのため、『二十一史』の刊行が中止となってしまった。

本木昌造は、五代友厚・重野安繹と対応を協議した結果、五代友厚が上海の美華書館で出版を予定していた『和訳英辞林』を、取り急ぎ、大阪の活版所に振り替えることとなった。

(3)五代友厚の『和訳英辞林』出版計画
先に薩摩藩の学生高橋新吉(良昭)・前田献吉(正穀)・前田正名(弘庵)の3人が、長崎で洋学の勉強をしているときに、海外留学の資金を得るため、和訳英辞書の出版を思い付き、アメリカ宣教師フルベッキの協力を得て原稿を作成した。これを上海の美華書館で印刷し、完成した『改正増補 和訳英辞書』(明治2年1月、薩摩学生として刊行。通称『薩摩辞書』)を国内で売りさばくに当たって、五代友厚が協力した。『薩摩辞書』は好評を博し、品切れの状態で高価に取り引きされるようになった。

話は少しさかのぼるが、前田献吉(前田正名の兄)は軍艦「春日」の軍医として戊辰戦争に従軍し、高橋新吉は薩摩藩庁に出仕して長崎で警備に就いたため、前田正名はひとりで辞書の序文を作成し、「薩摩学生」(英文では A STUDENT OF SATSUMA)と記して完成させた。前田正名は完成した辞書2,000部を上海から持ち帰った。

前田正名は、五代友厚の協力の下に、約500部を売りさばいて自分の海外留学資金とし、残りの約1,500部を五代友厚に預けて、明治2年(1869)6月、フランスに帰国するモンブラン伯に同行して出国してしまった。

その後、前田献吉と高橋新吉は相次いで鹿児島に戻り、五代友厚から『薩摩辞書』を受取った。2人はアメリカに留学するため、受け取った辞書の販売に尽力して留学資金を得た。明治3年(1870)2月になって、留学のため出発する期日が差し迫ったため、残り500部の販売を小松帯刀に頼み込んだ。小松帯刀から依頼された五代友厚は、大阪内淡路町の岡田平蔵に販売を依頼して、売りさばいてやった。

五代友厚は、『薩摩辞書』が好評を博したことに目を付け、通訳兼手代として雇っていた堀孝之(壮十郎、オランダ通詞堀達之助の次男)に指示して、この『薩摩辞書』をウェブスター辞書を基にして大幅に改正・増補させ、薩摩学生前田献吉・高橋新吉の名前で出版することを計画した。

その改定・増補する内容について、次のような覚書が残されている。これを現代文に直し、補足を加えて紹介する。

① ウェブスター小辞書から選択して、先の和訳英辞書(『薩摩辞書』)で不足している英語を追加すること。
② 和訳英辞書に幾つかの誤訳があるので、別途、改正専門の者を雇うこと。
③ 巻末付属の略語集に詳しい和訳を加えること。
④ 右の通り増補改正する辞書の序文と本文最初の一枚位を印刷して、広く一般に配布すること。
上記4ヶ条は、この度の辞書再版において一つも欠くことのできない要件である。

この覚書には示されていないが、最大の改正点として、英語の発音を示すカタカナ表記を止めて、ウェブスター辞書に基づく発音符号、アクセント符号、シラブル記号を用いることとした。(図19-3を参照)

明治2年(1869)10月頃、堀孝之の手で増補改正作業が大方完成した段階で、前田・高橋に二人の名前で辞書を再版することの了解を得たと見られる。明治3年(1870)5月になって、前田・高橋はフルベッキに辞書再版のことを伝え、堀孝之と共に3人で上海の美華書館を訪れた。現地では、ほぼ完成した原稿を示し、見積もりを依頼すると共に、宣伝に用いるための摺り見本を要求し、契約書用紙と摺り見本を持参して、一旦、帰国した。

この再版辞書(『和訳英辞林』)は、五代友厚と堀孝之にとっては、先に薩摩藩が鹿児島に設立した薩摩藩活版所で出版を計画した大英和辞書(ウェブスター大辞書を基にして堀孝之が編纂)に代わるものであったと見られる。薩摩藩では、印刷の知識と技術が伴わず、印刷設備1式は使用されないまま、明治2年(1869)9月頃、本木昌造に譲渡された。本件については、前回ブログ「本木昌造の活版事業」で紹介した。

前田献吉と高橋新吉の2人は、海外留学の準備と『薩摩辞書』の販売に注力していたが、序文の作成と官許申請だけは行ない、後事を堀孝之に託して、明治4年(1871)1月4日、海外留学のため、アメリカに向けて出発してしまった。

(4)洋活字の製造で困難に直面
五代友厚は、大阪の活版所で出版準備中であった『二十一史』を中止し、それに代えて上海の美華書館で再版を予定していた『和訳英辞林』の出版を本木昌造に依頼した。依頼にあたって、五代友厚は上海美華書館で印刷した摺り見本(本文8ページ分)をサンプルとして渡したと見られる。この摺り見本は「五代友厚関係文書」の中に含まれている。

本木昌造は、先に薩摩藩から譲り受けた和洋活字1式と手引印刷機1台を大阪に送って対応した。この印刷設備は、薩摩藩が大英和辞書の印刷のために購入したものであることから、容易に出版できるものと考えていたらしい。

ところが、期待に反して洋活字の製造に苦労し、なかなか完成するに至らなかった。この洋活字を含めて、活字製造事業が壁に突き当たって進退窮まった本木昌造が、長崎製鉄所を退職した平野富二を招いて活字製造事業を一任し、抜本的改革に着手したのは明治4年(1871)7月10日前後とされている。

大阪活版所の支配人となった長崎屋宗三郎が大阪府庁に提出した明治4年(187197月52日付けの「乍恐口上」書簡がある。それによると、まず最初に「西洋活字の製造法を修業中」と述べている。

このことは、本木昌造が『和訳英辞林』の出版を依頼されてから、ほぼ1年を経過しているにも関わらず、西洋活字が製造できず、「製造法を修業中」、つまり、実用できる西洋活字の製造が未だに出来ない状態であることを示している。

先に薩摩藩から譲り受けた和洋活字1式が手元にあり、しかも、上海美華書館のギャンブルから伝習を受けたことでもあり、その洋活字を種字として蝋型電胎法で母型を製作すれば、問題なく洋活字を複製できる。しかし、今度の『和訳英辞林』は、以前の『薩摩辞書』と相違して、全ての英語に発音符号が付けられていた。そのため、この符号付き洋活字の製造に苦労して、なかなか完成に至らなかったと見られる。

長崎屋の書簡には、続いて、「大阪府下追手筋折屋町において、昨年中より活字器械を据え付けて現在に至っている。」とある。これにより活版所の場所が判る。「追手筋」は大坂城の追手口に通じる道筋のことで、その道筋に「折屋町」がある。明治4年(1871)2月に出版された『新塾餘談 初編二』には、製本賣弘所のひとつとして「大坂 大手筋折屋町 活版所」と表示されている。「追手筋」は昔からの呼称で、「大手筋」、「大手通」と称されるようになる。

なお、この書簡は、大阪府付属御用活版所として、府庁で必要な書籍類を調進し新聞記事を毎日印行することの免許を大阪府に申請するものであった。

その後、新聞刊行についての規則の提出と承認を経て、明治4年(1871)10月28日に『大阪府日報』初号(内題『日刊波華要報』第一号)を発行している。この新聞は、活版ではなく整版(木版)で印刷され、その口上の中に「板元は内淡路町壱丁目活板所長崎屋宗三郎」と記している。

内淡路町壱丁目は、追手筋の1本北側の道路に面した町で、その道路の南側は活版所のある折屋町と背中合わせとなっている。先の書簡で、長崎屋宗三郎が大阪府付属御用活版所として申請し認可を受けた場所は折屋町であることから、本来ならば折屋町とするべきである。しかし、背中合わせの北側の内淡路町1丁目としていることは、この土地までも取得して活版所用地としていたと見れば、まだ、活字による活版印刷ができなかったことから、遠慮して、「活板所」と表記し、裏口の住居表示を用いたのではないだろうか?

なお、内淡路町1丁目は、後に2丁目に変更されるが、ここには長崎屋宗三郎が薬種問屋としての店を持っていた。この店は、長崎の物産を扱い、本木昌造の定宿であったと云われている。

長崎屋宗三郎が大阪府庁に「乍恐口上」を提出する直前の明治4年(1871)7月14日に、政府は262藩を廃して3府72県を置く廃藩置県を断行した。このとき、廃藩置県に関する政府の印刷物一切を大阪活版所が引き受けたという。活字製造が壁に突き当たっていたため、やむを得ず、整版印刷で対応したと見られる。

この頃、廃藩置県に伴い職を失った元藩士たちの授産のために活版業を始めようとした尼崎の三浦長兵衛が、大阪の長崎新塾出張活版所を訪れて、活版業の伝授を懇請したが、同所の幹部は入門を許さず、絶対秘密主義を墨守したとの話が『本邦活版開拓者の苦心』に紹介されている。当時、大阪の活版所では、活字製造法が未だに確立されておらず、それどころではないのが実情であった。

(5)平野富二の登場
この頃、本木昌造が平野富二に活字製造部門の経営を一任し、平野富二による抜本的改革が行われていた。このことに付いては、前回ブログ「本木昌造の活版事業」で紹介した。

平野富二が本木昌造の活字製造部門の経営を引き受けたのは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。活字の規格を統一し、品質管理と在庫管理を徹底させ、適材適所の人員配置と勤務の見直しを行った。

その結果、不良品が激減して、印刷に堪える品質の活字を安定して製造できる見通しがついた。そこで、平野富二は、活版事業で大阪と東京で抱えている懸案事項について本木昌造と相談し、まず、大阪で抱えている洋活字の製造を中止し、五代友厚から請け負った『和訳英辞林」の出版を辞退することを進言して、了解を得たと見られる。

平野富二は、同年9月13日、大阪出張のために本木昌造と社友品川藤十郎から旅費などを借用している。恐らく、当日か翌日に大阪に向けて出立したと見られる。その際、見本の活字若干数と印刷した摺り見本を持参したと見られる。

大阪では、酒井三造の案内で五代友厚を訪問し、長崎における活字製造の取組みについて説明し、『和訳英辞林』の活字製造と組版の困難さを訴え、当初予定していた上海の美華書簡で印刷するよう懇願したと見られる。また、五代友厚から受領していた辞書出版前払金と活版所設立融資金の返済についても話し合ったと見られる。

五代友厚は、取り急ぎ、堀孝之を上海に派遣して、美華書館に『和訳英辞林』の印刷・製本を依頼したと見られる。明治4年(1871)10月、上海美華書館から『大正増補 和訳英辞林』(本文806ページ)として出版された。なお、堀孝之の同年1月25日付けの五代友厚宛書簡によると、契約書に調印して前金を支払えば、40~50日程度で印刷できるとのことであった。

図19-3 『大正増補 和訳英辞林』の内表紙と本文
本文の英語には、全て発音符号などが付けられている。

大阪での用務を済ませた平野富二は、本木昌造からの指示を受けて、大阪に居た小幡正蔵と同行して、横浜を経由して東京に向かった。

横浜では、横浜活版社の陽其二を訪れ、その紹介により日就社から活字若干の注文を受けた。東京では、神田和泉町の元藤堂家上屋敷の門長屋に文部省御用活版所を設営して、小幡正蔵を所長とした。次いで、芝神明前の書肆仲間を訪れて活版所設立の計画中止を申し入れた。その後、東京の各所を訪れて活字の宣伝と販売を行い、大きな成果を得て長崎に戻ったのは、同年11月1日のことだった。

(6)平野富二による五代友厚への融資金返済
平野富二の遺品の中に、「本木昌三 利子」と題した書付があり、三谷幸吉によって『本木昌造・平野富二詳伝』に不鮮明な写真版が掲載されている。なお、「本木昌三」は戸籍上の表記である。

図19-4 「本木昌三 利子」書付
《三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』より》

本木昌造は、五代友厚からの要請で大阪に活版所を設立する際、入費金として利付で資金を融資して貰っている。このことは本稿(1)で述べた。さらに、島屋政一によると、『和訳英辞林』の印刷を請け負う際に、前渡金として5,000円を無利子で受取り、月賦で返還することにしていた。

先の「本木昌三 利子」によると、明治7年(1874)10月の時点で、本木昌造は3,580円の利付負債があったことが判読できる。つまり、辞書印刷の前渡金は既に返済が終わっていて、残りは活版所設立の際の融資金の残金であったことが分かる。

融資金の残金に対して、本木昌造は、明治7年11月に元金100円に利子を加えて返済したが、以降、返済が滞ったまま、明治8年(1875)9月3日に死去してしまった。そのため、平野富二は、この本木昌造の負債を肩代わりして、取り敢えず元金1,500円に利子を付けて返済した。その後は、元金200円に利子を付けて月賦返済を行い、明治9年(1876)10月に残金180円に利子を付けて返済を完了した。図版では利子の金額までは読み取れない。

平野富二にとっては、もともと本木昌造に養老金として毎月200円を贈っていたので、本木昌造の没後は、それに代えて月賦返済の元金としたと見られる。

大阪活版所は、その後、主として商業印刷物を中心に印刷していた。牧治三郎の蔵書の中に、明治7年8月官許の『医用化学』(ニール・スミス著、松村短明訳、美濃二つ折和装、四号明朝活字組、112ページ、大阪大手通折屋町印務活版社)、明治10年(1877)2月出版の『新撰薬名早引 全』(安川通斎輯、松村文海堂発兌、四六判、96ページ、奥付欄外に大阪大手通活版社)がある。

明治11年(1878)春になって、大阪活版所は東区北久太郎町2丁目(現、中央区久太郎町2丁目)に1,000坪余りの土地を求めて移転し、大阪活版製造所と改称した。ここでは、事業を拡張して印刷機械の製造を本格的に行うこととなった。

五代友厚は、平野富二の誠意に感じて、平野富二の造船事業にしばしば支援の手を差し伸べている。また、五代友厚は東京築地に製藍事業の東京店として東朝陽館を設立て、岩瀬公圃を派遣していたが、平野富二が横浜製鉄所の貸与を申請したとき、岩瀬公圃に保障人となって貰っている。

五代友厚は、明治11年(1878)8月、大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の設立を主導し、創立に際して会頭に選ばれ、死去に至るまでその任にあった。明治18年(1885)9月25日、東京築地で没した。享年51。

五代友厚が保管していた書簡類は、現在、大阪商工会議所に「五代友厚関係文書」として保管されている。その内容はマイクロフィルムにより国立国会図書館で閲覧できる。

2018年8月27日 稿了

本木昌造の活版事業

平野富二を語る上に於いて、本木昌造の活版事業を欠かすことはできない。今まで、本木昌造の研究として多くの研究者がその活版事業について調査研究し、各種報告がなされている。しかし、その事業化に至る経緯は依然として不明確なことが多い。

ここでは、新しい知見や推測を織り込みながら、その全貌を纏めてみたが、未だ完全解明には至っていない。。

(1)活版研究の取り組み
本木昌造は、弘化3年(1846)の頃、緻密に整然と印刷されたオランダ書籍を見て、わが国でもこのような印刷による書籍を造りたいと研究を始めたと云う。丁度この頃、後に本木昌造のこの分野における後継者となる平野富二(幼名、矢次富次郎)が生まれている。

図18-1 晩年の本木昌造
《古賀十二郎著『本木昌造先生略伝』より》
明治7年か同8年に上京したとき、浅草の内田九一写真館で撮影した。

嘉永1年(1847)、オランダから舶来した蘭書植字判1式が長崎会所に保管されているのを見つけ、オランダ通詞仲間4人で借り受け、12月になって代金を払って買い受けた。その設備を、品川藤兵衛の屋敷に持ち込み、活版印刷の研究を行った。その仲間は、北村元助(45歳)、品川藤兵衛(39歳)、楢林定一郎(28歳、量一郎)と、一番若くて熱心だった本木昌造(23歳)と記録されている。なお、年令は数え年で示す。

数年間、調査研究した結果、西洋の印行術と上海の鉛字、わが国の組版などを比較折衷してガラフハニー(galvani、オランダ語の発音;電気メッキ)版で活字母型を造り、手鋳込器を用いて鉛活字を鋳造し、嘉永5年(1852)の頃、『蘭和対訳辞書』を印刷して、これをオランダに送ったとする伝聞が平野富二によって記録されている。しかし、この伝聞は時期の異なる事柄を集約したと見られ、このまま受け取ることはできない。

嘉永6年(1853)7月、ロシア使節プチャーチンの長崎来航と、それに続くアメリカ使節ペリーの浦賀沖来港で江戸と伊豆を往復するなど、安政2年(1855)4月に病気を理由として長崎に戻るまでの約2年間は、公務多忙で長崎を離れた期間も長く、活版印刷の研究を行うことは出来なかったと見られる。

安政2年(1855)8月、長崎奉行は西役所に活字判摺立所を設けて、オランダ書籍の復刻印刷を行うこととした。オランダ通詞4人の所有する蘭書植字判1式は買い上げられ、本木昌造は推薦を受けて活字判摺立方取扱掛に任命された。

同年12月には、他のオランダ通詞たちと共にオランダ商館長ドンケル・クルチウスと医師ファン・デン・ブルックから物理・化学などの学習を命じられた。このとき、本木昌造は電気メッキ法などの最新技術も知識として学んだと見られる。そのとき学習したテキストに基づき自ら実験した結果を後述する『新塾餘談』に掲載している。

安政4年(1857)5月、蘭書・器物売り捌き事件に連座して処罰された。翌年2月末に自宅謹慎の身となり、11月末に許されて自由の身となるまでの9ヶ月間、自宅で密かに活版研究を進めると共に、わが国の近代化を果たすために必要な青少年の基礎教育について構想を練っていた。

自宅謹慎の身となる直前の安政4年(1857)3月28日に長男昌太郎が夭逝し、自宅謹慎中の7月12日には妻縫が21歳の若さで病没した。なお、前年9月18日に次男小太郎が生まれている。その後、時期は定かでないが、本木昌造は病没した妻の母方の従妹タネを後妻として再婚した。

自宅謹慎を解かれた本木昌造は、活版師インデルマウルが運営する出島印刷所の通詞兼目付役に任命された。インデルマウルは長崎海軍伝習所の第二次オランダ教師団の一員として来日していた。ここでは、日本人の印刷見習工によりロール印刷機を用いてオランダ書籍の復刻が行われた。

このとき、本木昌造はインデルマウルから西欧の最新活版印刷技術を直接学んだと見られる。手元にある鉛活字を用いて電気メッキ法を応用し、同じ活字を複製する方法は既にオランダでも実用化されていたと見られる。

なお、本木昌造が活字判摺立方取扱掛となっていた活字判摺立所は、江戸町の五ヶ所宿老会所に移転した後、廃止されて、印刷設備は奉行所倉庫に保管されていた。

(2)事業化の試み
本木昌造は、自宅謹慎中に行った独自の研究と出島活版所でインデルマウルから教えて貰った事柄を織り込んで、安政6年(1859)12月に『和英商賈対話集 初編』(発行人塩田幸八)を出版した。それは、安政4年(1857)に長崎活字判摺立所で覆刻出版したオランダの『英文典初歩』から主要会話を抜き出し、オランダ会話の部分を和訳したものである。英文とその発音を示すカタカナはパンチ母型による鋳造鉛活字を用い、和文は木版を用いて印刷したものと見られ、漢字と平仮名の活字は未だ世に出すには至らなかったと見られる。

万延1年(1860)10月に出版した『蕃語小引 上下巻』(増永文治・内田作五郎名義)は、上巻の凡例に続けて「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今新ニ製スル所ニシテ 未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ヲ希フ」と記されている。漢字は蝋型電胎母型によると見られる鋳造活字を用いて印刷されている。

図18-2 『蕃語小引』の一部

いまだ満足の出来る鋳造漢字活字ではなかったが、実用化の目途のついた段階で、その成果を世に問うものであったと見られる。その意味で、これが本木昌造の永年の夢であった活版事業の最初の試みと見ることができる。なお、このときの活字試作や組版作業には、本木昌造を慕う若者たちが本木一門として協力したと見られる。

長崎奉行所の地役人としてオランダ通詞を勤める本木昌造は、書籍を出版して販売するような商行為は認められていなかった。そのため、自分の名前を出すことは出来ず、出入りの商人に依頼して出版届を提出し、発行したと見られる。

本木昌造は、上海において同様の技法で漢字活字を製造しているとの情報を得て、その製造法を学ばせるため、万延1年(1860)に門人松林源蔵を上海に派遣したが、空しく帰国したと云う。上海では、在中国アメリカ長老会印刷所が寧波から移転したばかりであり、しかも、蝋型電胎法により漢字の活字母型を造り始めたばかりの頃であったことを考慮する必要がある。

ところが、同年11月、本木昌造は長崎飽の浦で建設中だった長崎製鉄所の御用掛に任命された。そのため、緒に就いたばかりの活版事業を中断せざるを得なくなった。

しかし、文久1年(1861)5月、長崎居留地滞在のイギリス人ハンサードが日本で初めての英字新聞を発行するとき、本木一門の若者たちが、伝習を兼ねて手伝いのため英字新聞の発行に協力した。その中に陽其二や平野富二の名前もある。

慶應4年(1868)1月14日、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗退したとの報に接した長崎奉行が、長崎を退去するに当たり、本木昌造に製鉄所取扱方を任命し、長崎製鉄所の経営を一任した。長崎製鉄所は、同年5月4日、新政府の下で長崎府に移管された。この頃、本木昌造は長崎府に新聞局を設置することを建議したと見られる。同年7月24日には長崎製鉄所の頭取に任命されている。

同年8月、長崎新聞局から『崎陽雑報』が発行された。これは鋳造活字による活版印刷を計画していたが、木活字で間に合わせたと見られる。鋳造活字の製造が思うように進まないため、同年9月には政府の許可を得て上海美華書館に活字母型と関連設備1式を購入手配している。しかし、実際に購入したかどうかは不明である。

いつまでも思うような品質の鋳造活字を迅速に製造することができないため、上海美華書館の責任者ギャンブルが任期を終えてアメリカに帰国する機会を捉えて、長崎興善町の唐通事会所跡を伝習所として迅速活版製造技術の伝習(明治2年10月から翌年2月末まで)が行われた。

(3)活版事業の本格化
本木昌造は、明治2年(1869)8月に、病気を理由に長崎製鉄所の頭取辞任を申し出て以降、長崎製鉄所に出社しなかったという。9月になって、頭取辞任が認められて、代わりに閑職を与えられた。10月になって、ギャンブル伝習に協力するよう要請を受けたため、一門の者たちと共に伝習に参加して協力した。伝習を終えた明治3年(1870)2月末に、本木昌造は長崎製鉄所を正式に退職した。

頭取辞任を申し出て以降、本木昌造は、公職を離れて独自に活版事業を本格化させる準備として、多大の資産を投入して活版印刷を行うための印刷器械類を購入している。

明治2年(1869)9月頃と見られるが、友人の池原香稺の紹介で鹿児島を訪れ、薩摩藩の活版所を視察している。このとき、活用されずに保管されたままになっている和洋活字各1組と活版印刷機(ワシントンプレス)1台を譲り受けた。

図18-3 同型と見られるワシントンプレス
門型支柱に取り付けられた2本のスプリングによって
中央の圧盤を吊っており、レバーを引くことによって
中央のエルボーを経由して圧盤が押下げられる構造を特徴とする。

薩摩藩活版所の設備は、慶應4年(1868)6月に同藩の学生前田正名が上海から和英辞書(通称『薩摩辞書』)の数ページ分の摺り見本を持って資金集めのために帰国し、同藩の重野厚之丞(安繹)に見せたところ、重野厚之丞はその仕上がりに感心して、印刷設備一式を上海美華書館から購入して薩摩藩に活版所を設けることになった。

丁度この頃、五代才助(友厚)が通訳兼手代として雇っていた堀壮十郎(孝之)に和英辞書(ウエブスター大辞書を底本とする)を編集させていた。これを薩摩藩で印刷し、出版することとしたものである。

薩摩藩の和洋活字一式と印刷機は、明治2年(1869)2月に、再渡航した前田正名が上海から帰国する際、一緒に携行して来たと見られる。しかし、活字を印刷版に組む知識もなく、印刷機を組立てて使用する技術もないため、和英辞書の出版は棚上げにされた。

本木昌造は、長崎外浦町の自宅の一隅に活字と印刷機を持ち込み、門人陽其二と二人で、昼夜を分かたず、研究に取り組んだという。また、このとき、活字母型の製造法を学ばせるため、門人酒井三造を上海に派遣したとの伝聞がある。しかし、この伝聞は、当時すでにギャンブルを上海から長崎に招聘して伝習を受ける計画が進められていた頃であるので、誤伝と見られる。

ギャンブルの伝習を終了した明治3年(1870)2月末日をもって、本木昌造は長崎製鉄所を正式に退職した。その後は、ギャンブルの伝習によって得られた新知識を取り入れて蝋型電胎法による活字母型の製造に取り掛かった。

上海美華書館の明朝風漢字書体に加えて、新たに清朝風(楷書体)と和洋(行書体)の漢字と古典仮名の活字を製造するため池原香稺に揮毫を依頼した。当時の文章は、和洋漢字と古典仮名まじりが一般的であることを配慮したものと見られる。(図18-5 を参照)

また、大々的に多様の印刷物を出版するため、薩摩藩から譲り受けた印刷機をもとに、模造印刷機3台の製作を長崎製鉄所に依頼した。

さらに、同じ頃、上海美華書館に注文していたロール印刷機1台を買い求めた。これは、明治2年(1869)4月に本木昌造が新聞発行を目的として上海美華書館に4,000ドル相当の印刷機と関連設備の見積を依頼していたものであると見られる。購入した印刷機は、紙取付の無い四六判八頁掛けのロール印刷機(シリンダープレス)とされている。

図18-4 同型のロール印刷機
《東京築地活版製造所『活字と機械』、大正3年6月より》
上部にある円筒に印刷用紙を巻き付け、

その下で左右に往復する台車上の印刷版の動きと同期して
回転することによって印刷する。
手前右側の筒は、インキ塗布用の印刷用ローラー鋳型である。

(4)活版所の設立と中央への展開
明治3年(1870)3月、本木昌造は新町活版所を新街私塾に併設して開業した。ここでは、教科書・参考書・教養書などを活版で印刷し、広く一般にも販売することとした。

新街私塾では、もと地役人の子弟などを受入れ、その道の専門家を教師とし、本木昌造の方針で入学金などは無料とした。その経費を賄うために、私塾に付属させて新町活版所を設け、活版事業によって得られた収益を充てることにした。

活版事業を開始するに当たって、友人・知人に協力を仰ぎ、松田源五郎・品川藤十郎・和田半がそれぞれ1,000両、島田茂次郎・和田粂造がそれぞれ500両、合計4,000両を提供した。また、坂道を隔てた隣接地の小倉藩蔵屋敷跡を和田半から提供を受け、ここに活字鋳造場を設けて新町活版所に活字を供給した。この頃、本木昌造は、すでに本木家の財産として3万両余りをほとんど使い盡していたという。

本木昌造が鋳造活字の開発に成功し、長崎に本格的な活版所を開いたことが世間に知れ渡り、大阪、横浜、東京などから活版所の設立要請を受けるようになった。

まず、五代才助(友厚、すでに官途を辞し、大阪財界に身を投じる決意をしていた。)の要請により、明治3年(1870)4月頃、大阪大手筋折屋町に活版所を設立した。設立に当たって、五代才助から3,000円の融資を受けた。長崎から門人の酒井三造、小幡正蔵、谷口黙次、茂中貞次らを派遣して、それぞれ所長、所長代理、店員に据え、地元の薬種問屋長崎屋吉田宗三郎を支配人とした。

次いで、同じく明治3年(1870)4月頃、神奈川県令井関盛艮の要請を受けて、わが国最初の日刊新聞発行のため、門人陽其二を横浜に派遣した。陽其二は、横浜出資者の資金を得て横浜本町通り六丁目に横浜活版社を設立し、明治3年(1870)12月8日付け『横浜毎日新聞』を印刷・発行した。しかし、創刊号は鋳造活字が間に合わず、しばらくの間、木活字混用だった。

明治3年(1870)12月には、京都在住の山鹿善兵衛(父親が本木昌造の弟子だった。)の要請により、門人古川種次郎を派遣して、京都烏丸通三条上ルの地に點林堂を開設させた。後に大阪活版所の支店となる。

明治4年(1871)6月、本木昌造が東京に出張したとき、芝神明前の書肆仲間と活版所設立を計画した。この計画は、後に平野富二が東京出張のとき、本木昌造に代わって事情を説明し、計画中止を申し入れたと見られる。そのとき、平野富二は一書肆(和泉屋岡田吉兵衛)の紹介で太政官左院に活字数万個の注文に成功している。

同じ頃、本木昌造は大学・東南校の活字御用を仰せ付けられ、外神田の藤堂和泉守上屋敷跡に残された門長屋の一室と付属地所を借り受けて活版所を開くことになった。

本木昌造は、このように次々と活版事業の展開を図っていたが、肝心の活字製造が思うようにいかず、健康不安も手伝って、大きな壁に突き当たっていた。頼みとする主だった門弟たちを中央に送り出し、途方に暮れていたとき、今となっては長崎製鉄所を辞任した平野富二に頼むしかないと決意した。

明治4年(1871)7月、本木昌造は、平野富二を自宅に招いて活字製造部門の改革を依頼し、その経営を一任した。このとき、平野富二は、上海美華書館の事業運営を参考にたらしく、印刷出版事業と活字製造事業とを分離することとした。これにより、印刷出版事業を全国に展開して独占的に収益をえるという本木昌造の当初の方針を転換して、活字製造を一つの事業として独立させ、一般需要家にも活字を販売して収益を得ることとした。独立した活字製造部門は「新塾活字製造所」と命名した。

明治4年(1871)7月以降、本木昌造は新街私塾・新町活版所と大阪活版所の経営に専念することとなった。

平野富二が本木昌造から活字製造部門の経営を引受け、抜本的な改革を実行したことにより、わずか2ヶ月後には、ほぼ満足できる品質の活字を廉価に安定して製造することができる見込みがついた。

そこで、平野富二は大阪を経由して東京に出張し、本木昌造が抱えていた大阪と東京における懸案事項を解決し、併せて新塾活字(本木活字)の販売と需要調査を行い、好結果を得て長崎に戻った。

本木昌造は、ほぼ満足できる品質の活字が製造できるようになったので、これを期に語学抄集書6種の出版届を長崎県令に宛てて提出している。以後、教科書・参考書・教養書の出版届を相次いで提出している。

また、『新塾餘談』と題したシリーズ物の教養書を小冊子で出版開始した。明治5年(1872)2月に初編一から初編三を相次いで出版し、4月には初編四を出版している。いずれも巻末に新塾活字製造所の広告を掲載している。

図18-5 『新塾餘談 初編一』の「緒言」
完成した和様(行書体)漢字と万葉仮名の三号活字を用いている。
なお、本文は明朝風漢字と万葉仮名の四号活字で印刷している。
巻末に掲載された新塾活字製造所の広告は、
別シリーズの「東京築地活版製造所 歴代社長列伝 初代平野富二」
に掲載した図1-2を参照されたい。

本木昌造が本木咲三の名前で誌した「緒言」には、「近ごろ、私が製する所の活字がほぼ完成したので、このたび、取り急ぎ筆を執り‥‥」と述べている。また、巻末の広告には、「口上」として「この頃、印刷見本の通り活字が完成し、カタカナ、ひらがな共、大小数種あるので、ご希望の方には売却できます。右の他に字体・大小などお好みの通り製造できます。」としている。

この『新塾餘談 初編』は、西洋の新知識による各種加工法や製造法を紹介したもので、文久2年(1862)秋に整版で出版した『秘事新書』の続編に相当する内容が紹介されている。「初編二」には、ガルファニ鍍金銀の法、銅を以て器物を模する法が掲載され、「初編三」には、型の製法、「初編四」には、ガクファニ蝋着の法が紹介されている。これらは、本木昌造が活字製造の基礎とした諸法と見られる。

このように、活字による出版を積極的に行うようになったことは、本木昌造にとって念願の活版事業を本格的に展開することが出来るようになったことを示すものである。

(5)私塾の経営
大村藩の医師長與専斎は、英語の学習を思い立ち、自宅謹慎中の本木昌造をしばしば訪れた。そのとき、余暇に学塾を開くことを勧められ、文久1年(1861)になって本木昌造の貸家を借り受けて住居とし、10名ばかりの諸生を集めて、毎夜、適塾風の輪講を始めた。このことは自伝『松香私志』に記述されている。

本木昌造は、慶應年間に「新町塾」を開設したが、長崎製鉄所頭取と云う公職があって多忙なため、陽其二を塾長とし、自身は副塾長となったとの言い伝えがある。「新塾変則入門願書綴込」によると、最初の入門願書は明治元年(慶應4年)正月11日となっている。慶應4年(1868)8月になって、新町の長州藩蔵屋敷跡にあった広運館(もと語学所、済美館)が西役所に移転したことから、その跡地を校舎ごと買い受け、移転して「新町塾」と称したと見られる。

明治2年(1869)11月15日、「新町塾」は、規則を定めて正式に開塾し、「新街私塾」(略して「新塾」)と改称した。

ガンブル伝習の結果として、明治3年(1870)4月に初めて造った二号活字を用いて、塾生の教科書『保建大記』(保元から建久までの記録を大記した歴史教科書)を活版印刷した。同年中には、二号活字の倍角として本木昌造が創作した初号活字を用いて教科書『単語篇 上』を印刷している。また、『論語』も印刷を試みたが、活字不足で中止されたと云う。

先に述べたように、明治5年(1872)2月には、塾生向けの読み物として『新塾餘談 初編一』を発行し、同年8月までに『新塾餘談 三編』を刊行している。

私塾経営とは外れるが、明治5年(1872)には本木昌造は養父母を相次いで失った。養父本木昌左衛門久美(戸籍上は昌栄)は6月7日、72歳で病没、養母たまは12月27日、59歳で病没した。本木昌左衛門は、すでに、孫の小太郎を養子として家督を譲り、隠居の身となっていた。

明治5年(1872)8月に学制が公布された結果、小学校下等4年間の就学が義務化された。明治6年(1873)1月15日、本木昌造は法令に基づき私塾開業願書を長崎県令に提出したが受理されず、同年11月、再び願書を提出。明治7年(1874)1月に重ねて私塾開業願書を提出したところ、無免許教員による授業は認められないと通告された。

同年5月には、上京して新築成った築地活版製造所の視察を兼ねて、東京に於ける私塾経営の現状を調査し、長崎県庁が国の定めた一律の教科以外は認めないことを非難して文部省に訴え出た。その結果、ようやく、同年11月17日、文部省の指示により長崎県から私塾設立の認可を得ることができた。

このように、本木昌造は、平野富二に活版製造事業を一任して以降は、専ら、教育事業に注力していたことが覗える。

(6)本木昌造没後の活版事業
明治8年(1875)9月3日、本木昌造は長崎の自宅で死去した。享年52.残された遺族は後妻タネ、次男(嫡子)小太郎(19歳)、三男清次郎(12歳)、四男昌三郎(10歳)だった。

〔新街私塾〕
新街私塾は、そこで教師をしていた嫡子本木小太郎が塾長を継いだが、すでに明治5年(1872)に学制が公布されて公立小学校が設置された今日となっては、私塾としての存在意義も薄れたとして、明治8年(1875)限りで閉鎖することとした。塾の予備金100円余りは県下小学校の学費に供するため長崎県庁に献納した。

〔新町活版所〕
新町活版所は、嫡子本木小太郎が跡を継ぎ、境賢治が中心となって経営を支えた。明治27年(1894)5月から翌28年(1895)9月にかけて、長崎古文書出版会編纂の『長崎叢書』、全9巻を刊行したのを最後に、新町活版所は解散したとされている。境賢治は本五島町に境活版所を、喜多庄太郎は今町に愛文舎喜多活版所を設けた。喜多庄太郎(璋太欧)は、本木昌造が造ったとされる木活字(種字)と鋳造器具一式(合計4箱)を長崎諏訪神社に奉納した。

〔崎陽新塾出張活版所(大阪)⇒ 大阪 活版所⇒ 大阪活版製造所〕
大阪 活版所は、嫡子本木小太郎が跡を継ぎ、所長谷口黙次、支配人吉田宗三郎が経営を支えた。明治11年(1878)に大阪東区北九太郎町2丁目に移転し、活版製造所と改称した。

明治18年(1885)4月になって、本木家から独立させて株式組織とすることとなり、同年6月頃、株主総会で本木小太郎が社長に選任された。しかし、本木小太郎が長期海外出張中のため、同年10月、社長谷口黙次、取締役酒井三造、取締役肥塚與八郎、支配人吉田宗三郎に経営が一任され、社名を大坂活版製造所とした。

明治33年(1900)1月、社長谷口黙次が死去したため、吉田宗三郎が社長に就任した。明治35年(1902)6月、吉田宗三郎が死去したことにより、肥塚源次郎が社長に就任した。

明治45年(1912)になって、大阪活版製造所は閉鎖され、谷口黙次(2代目)が谷口活版所(北区堂島裏3丁目)を設立して、その跡を継いだ。

〔京都點林堂〕
山鹿善兵衛とその子息たちが経営を受け継ぎ、大正12年(1923)に50周年を機会に合資組織に改め、伊東幸祐が代表社員となった。昭和45年(1970)頃までは存続していた記録があるが、それ以降は不明。

〔横浜活版社〕
陽其二は、明治6年(1873)2月、横浜仲通り3丁目に仲間(親戚)と共に景諦社を設立し、同年5月、横浜活版社を閉鎖して横浜毎日新聞会社に譲渡した。

〔文部省御用活版所〕
明治5年(1872)9月に文部省活版所(文部省編集寮活版部)が廃止されたため、小幡活版所と改称したが、明治6年(1873)になって、所長小幡正蔵は、平野富二の了解を得て独立し、協力者だった大坪本左衛門と共に湯島嬬恋坂下に大坪活版所を設立して移転した。

〔崎陽新塾出張活版製造所(東京)⇒ 東京築地活版製造所〕
本件については、別シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長列伝」で述べることとする。

2018年7月31日 稿了

山尾庸三と長崎製鉄所

山尾庸三については、すでに本シリーズの「官営時代の長崎製鉄所(その2)」(2018年2月)で触れているが。本稿では、山尾庸三が長崎製鉄所と関りを持つようになった経緯を述べ、山尾庸三の略歴を紹介した後、長崎新聞局の活版製造設備を工部省に移管した経緯について、やや詳しく述べる。

1)山尾庸三と長崎製鉄所との関わり
山尾庸三が、明治4年(1871)1月7日の夜、長崎に到着して、9日から長崎製鉄所に出向いて帳簿調査を行い、平野富次郎が長崎製鉄所の責任者としてこれに対応したことについては「官営時代の長崎製鉄所(その2)」で触れた。

そもそも、山尾庸三が長崎製鉄所に関りを持つようになったのは、長崎府判事で長崎製鉄所の責任者となっていた井上聞多(馨)の働きによると見られる。

明治2年(1869)3月12日、井上聞多は国の施政上の意見十数ヶ条を参与副島種臣に提出してる。その中の1条に、「諸器械・船等を外国へみだりに注文または買入することを厳禁すべし。是非とも横須賀・長崎両所において作るべし。ついては、山尾庸三を横須賀へ全任これ有り候はば、長崎と申し合わせて、死力を尽くさんと欲す。」と述べている。

この意見書を受けてか、イギリス留学から帰国して郷里に居た山尾庸三は、明治3年(1870)4月、新政府に出仕して民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられ、横須賀製鉄所事務取扱となった。

ところが、井上聞多が会計官判事として大阪在勤(同年6月21日辞令)となって長崎製鉄所の経営に関われなくなったためか、同年5月3日、山尾庸三は横須賀・長崎・横浜製鉄所の総管と細大事務を委任されることになった。つまり、長崎製鉄所を含めた3製鉄所の総括責任者となったことを示している。

明治2年(1869)7月8日、民部省が新設され、これによって政府直轄の府県行政を中央の管轄・指揮のもとに一体化した。同年8月12日、大蔵省の主導により、民生実務一本化のため、民部・大蔵両省が合併した。同年10月28日には横須賀・横浜両製鉄所を神奈川県から本省に移管した。

しかし、長崎製鉄所は長崎府付属のままで民部・大蔵省の管轄下にあった。この頃の長崎府は、衰退の一途を辿る貿易に対処するため、立神ドックを建設することによって大形船舶の長崎入港を促し、それによって長崎を活性化させる動きが始まっていた。

明治3年(1870)7月10日、民部省は大蔵省から独立した。さらに、同年閏10月20日、工学開明・百工褒勧を目標として工部省が民部省から独立した。冒頭に述べた山尾庸三の長崎出張は、長崎製鉄所を長崎県から工部省直轄として継承するための予備調査を行うものであった。

その頃、1871年5月16日(明治4年3月27日)付けの英字新聞『The Far East』に、「長崎の飽ノ浦工場は、日本で最も有効な生産工場の一つであるにも関わらず、現在、休業状態にある。その直接の原因は、現地採用者による公金の遣い込みで、目下、政府による調査が行われている。」と報じている。

山尾庸三の調査結果を受けて、長崎製鉄所で行われた不正経理操作の首謀者とその一味は摘発・処分された。平野富次郎は長崎製鉄所本局である飽ノ浦製鉄所とは分離運営された小菅修船場の経営に携わっていたため嫌疑を免れたが、長崎製鉄所全体の経営責任者の立場として、明治4年(1871)3月16日に退職した。

平野富次郎が長崎製鉄所を去って3週間後の4月7日、山尾庸三が再び長崎に出張して来て、長崎製鉄所と小菅修船場を長崎県から正式に受領して、工部省の管轄下に入れ、長崎造船所と改称した。

図17‐1 明治5年(1872)頃の長崎造船所(飽ノ浦)
(「上野彦馬明治初期アルバム」から)
工部省に移管されて約1年経った頃の様子を示す。
鍛冶場の煙突から煙が出ており、岸壁沿いの工場建物が新設されている。

2)山尾庸三の略歴
山尾庸三は、天保8年(1837)10月8日、村役人山尾忠治郎の三男として周防国吉城郡二島村長浜(現、山口県秋穂二島)に生まれた。

嘉永2年(1849)、13歳で萩に出て繁沢家(藩の重臣で、二島村長浜を給領地としていた)に奉公し、その家来となる。かたわら柳生新陰流師範内藤作兵衛の下で剣術を学んだ。

安政3年(1856)夏、藩命により修学のため江戸に上り、江戸三大道場の一つである斎藤弥九郎の練兵館に入門し、そこで学んでいた高杉晋作(木戸孝允)から弟のように可愛がられたという。

〔洋学修業〕
文久1年(1861)1月、函館奉行所所属の幕府貿易船「亀田丸」がロシア沿海州に派遣されることを知り、藩主の許可を得て箱館(函館)に赴いた。同年4月、幕史北岡健三郎に随行して「亀田丸」に乗り組み、ロシア領ニコライエフスクとアムール地方に渡航し、同年8月、箱館に戻った。箱館では洋学者武田斐三郎の諸術調所に入門して洋学を学んだ。ここには、洋学修業中の野村弥吉(井上勝)が学んでいた。

文久2年(1862)9月、長州藩は小姓役の志道聞多(井上馨)に御用掛を命じて、蒸気船壬戌丸(原名ランスフィールド、448トン)を購入した。江戸に戻っていた山尾庸三は、志道聞多と共に乗り組みを命じられたが、船長と意見が合わず、乗り組みを免じられた。

同年11月、高杉晋作らと共に外国公使襲撃計画を行ったが、世子毛利元徳の命令により中止となり、江戸の藩邸で謹慎を命じられた。謹慎中に同志と血盟書を作り、御楯組と称して、同年12月12日、品川御殿山に建築中のイギリス領事館焼き討ちに参加した。この焼き討ちには、高杉晋作・久坂玄蕃・志道聞多・伊藤俊輔(博文)・山尾庸三ら総勢12名が加わった。

文久3年(1863)1月21日、長州藩が横浜で木造帆船癸亥丸(原名ランリック号、283トン)を購入し、同年3月、山尾庸三は測量方として乗り組んだ。船将は航海術を学んだ野村弥吉で、品川から兵庫までの回航を命じられた。

〔イギリス密航留学〕
この頃、藩重役周布政之助は、野村弥吉と山尾庸三の2人をイギリスに留学させるため、諸方に斡旋を依頼していたが、同年4月18日、志道聞多を加えた3人に、藩主の黙認による海外渡航のため5年間の「暇」を申し渡された。このとき、山尾庸三は身柄を「一代士雇」に準ぜられ、海軍修業として稽古料200両を世子毛利元徳から賜った。

これに次いで、京都藩邸の内用掛伊藤俊輔と江戸詰めで蒸気船壬戌丸乗組員の遠藤謹助が加わり、同年5月12日、伊藤俊輔(22歳)・井上聞多(28歳、旧姓に復す)・野村弥吉(20歳)・遠藤謹助(27歳)と共にイギリスに密航のため横浜を出航した。山尾庸三は26歳だった。

上海でロンドンに戻る2隻の帆船に分乗してイギリスに向かった。伊藤と井上は同年5月末、野村・遠藤・山尾はそれより10日程遅れて上海を出航し、同年9月中旬、山尾等3人はロンドンに到着した。同月23日、伊藤と井上の2人はロンドン港に入港した。

井上と山尾は画家クーパー家に下宿し、伊藤・野村・遠藤はUCL(ユニヴァーシティ・カレッジ、ロンドン)の教授ウィリアムソン家に下宿し、英語の勉強のためUCLの法文学部の聴講生となり、分析化学の講義などを専攻した。
図17‐2 ロンドンに於ける長州ファイブ
前列右が山尾庸三、左が井上聞多
後列右が伊藤俊輔、中央が野村弥吉、左が遠藤謹助

ロンドンに落ち着いて勉学を始めて半年ばかりのとき、現地の新聞でアメリカを中心とした四国連合艦隊が下関を砲撃するかもしれないとの報に接し、伊藤・井上の2人は急ぎ帰国の途に就いた。

元治2年(1865)6月21日、薩摩藩の海外視察員と留学生の一行19人がロンドンに到着した。視察員は新納刑部・松木弘安・五代友厚・堀壮十郎の4人だった。同年7月2日、野村・遠藤・山尾の3人はグラヴァー商会の周旋で薩摩留学生の宿舎を訪問している。

山尾庸三は、井上聞多が帰国した後、UCL近くのクーパー家に一人暮らしをしていた。そのため、薩摩留学生たちと頻繁に接触し、各地を案内している。

長州藩の3人は、藩からの送金がとだえ、学費に窮していた。山尾庸三は、カレッジを退学して造船技術を習得するため、スコットランド地方のグラスゴーに行くことにしていたが、旅費が工面できず、薩摩留学生たちから義援金16ポンドを出して貰ったという。

改元して慶應1年(1865)となった秋ごろ、山尾庸三はロンドンからグラスゴーに移り、昼間は同地にあるネイピア造船所で徒弟・見習工として働きながら、アンダーソン・カレッジの夜学に通って工学を修めた。

ロンドンに滞在していた遠藤謹助は、慶應4年(1868)1月ごろ、病気を理由にロンドンを発ち、同年4月に帰国した。

〔帰国〕
明治1年(1868)11月17日、井上弥吉(渡英時は野村)と共に山尾庸三はイギリス留学から帰国し、横浜本町4丁目の中蔦屋半兵衛方に身を寄せた。翌日、江戸の木戸孝允に宛てて連名で書簡を送り、指図を仰ぐと共に、7、8日滞在したのち、蒸気船で馬関(下関)に帰るとしている。

同年11月21日、山尾庸三は、井上弥吉と同道して東京の木戸孝允宅を訪問した。その後、井上弥吉と共に長州に戻り、山口の藩庁に復命した。翌明治2年(1869)1月、山尾庸三は山口藩海軍局教授方助役を命じられ、造船学を藩の子弟に教えた。同年2月3日、藩当局はイギリス留学から戻った2人に対して各30両の慰労金を下賜している。

〔新政府に出仕〕
その後、山尾庸三は木戸孝允の招きに応じて東京に上り、明治3年(1870)4月9日、民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられ、横須賀製鉄所事務取扱を仰せ付けられた。次いで、同年5月3日、横須賀・長崎・横浜製鉄所総管細大事務委任を仰せ付けれた。同年7月10日、民部省と大蔵省が分離したのに伴い、同月13日、民部権大丞専任となった。

同年閏10月20日、民部省の一部を継承して工部省が設置された。工部省の設置は山尾庸三が辞職を覚悟して政府に迫った結果と言われている。同月22日、山尾庸三は工部権大丞に任じられた。

明治4年(1871)4月、工部学校の設置を建議し、同年7月23日、工部大丞に任じられた。同年8月14日、工部省に工学寮と測量司が開設されるに伴い、同月15日に工学頭兼測量正に任じられた。同年12月4日になって工部少輔に任じられ、明治5年(1872)10月27日、工部大輔に昇進した。

工学寮に工学校(後の工部大学校)を開設するに当たって、訪欧中の工部大輔伊藤博文にイギリス人お雇い教師の人選を依頼した。伊藤博文は、明治4年(1871)11月に横浜を発って岩倉使節団の副使として参加していた。その結果、明治6年(1873)6月、工学博士ヘンリー・ダイアー以下9人が選ばれて来日した。

明治10年(1877)2月1日、工部卿の不在中、御用弁のため毎日太政官へ出勤することになった。明治11年(1878)3月5日、議官を兼任、明治13年(1880)2月28日、工部省のトップである工部卿に任じられた。

〔工部省退官後の余生〕
明治14年(1881)10月、参事院議官に転じ、明治15年(1882)7月、工学会会長となり、明治18年(1885)12月、宮中顧問官兼法制局長官となった。

図17‐3 山尾庸三の肖像写真
(萩博物館図録『日本工学の父 山尾庸三』、口絵写真より)
『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』(三の丸尚蔵館図録)に
明治13年(1880)、44歳の頃の写真がある。
本写真は容貌から見てそれよりやや後に撮影されたと見られる。

明治20年(1887)、華族に列せられ、子爵となった。大正6年(1917)12月21日、東京市麻布区東鳥居坂町5番地の自宅で逝去した。享年81。

山尾庸三は、技術者としてだけでなく、技術の持つ多様な側面を国政の場に役立てようとした。国家富強のための人材育成として、技術者養成のための工部学校を設立し、障碍者教育のために盲唖学校の設立に協力した。その性格は、地位や名誉に拘泥することのない、人間味豊かで、控えめな人であった。

3)長崎新聞局の工部省移管
民部省は、布達など一切の文書を、書写の手間を省くため、整版で印刷して公布するようになったが、さらに一層、簡便迅速に行うためには活字以外にはないとして、明治3年(1870)10月12日付け弁官(太政官)宛て文書で、活版印刷設備の導入を申請した。

その文書には、当節、長崎県で活字が開発され、殊の外、人手を省き便利であると聞いているとし、代価については、上海に注文すれば中小の漢字・カタカナ活字とも、併せて5千両ほとになるとして、長崎新聞局によるギャンブル伝習の結果と上海美華書館からの活字母型購入の情報を述べている。

このように、民部省が活版印刷設備の導入を希望していたにも関わらず、長崎県は、同年11月20日付け弁官宛て文書「活字版器械、大学付与の儀伺い」を提出た。

その文書には、長崎製鉄所付属新聞局がギャンブルにより活字鋳造法等を関係者に伝習させ、現在、活字の製造に専念している。しかし、長崎県では経費ばかり掛かって、それほどの役には立たない。したがって、大学が希望するならば、活字原字・諸器械に関係者一同を添えて差出したい、としている。

これに対して大学(後の文部省)は、同年12月15日付け文書で、申し立て通りすべてを受け入れたいとして、弁官に対して長崎県に通知することを依頼した。

ところが、翌明治4年(1871)1月、長崎製鉄所を長崎県から工部省に移管するため、事前調査として長崎に出張してきた民部権大丞山尾庸三は、応対した平野富次郎と共に帳簿調査に集中したためか、長崎新聞局の設備と人員を大学に移管させようとしている事実は知らなかったらしい。

その後について、『工部省沿革報告』の「長崎造船局」の項によると、「明治4年4月7日、工部権大丞山尾庸三は、長崎に至り、同所製鉄所および小菅修船架を長崎県庁より受領し、工部省十一等出仕岡部仁之助(利輔)にその経営を委任した。この際、太政官が長崎県庁に命じて、製鉄所付属の活字製造器械を大学南校に交付させようとしていることを知り、‥‥」とある。

このことに関して、牧治三郎が執筆した「製鉄所活字局移管の経緯」(「いんさつ明治百年⑬」、『日本印刷新聞』、昭和41年11月14日)には、次のように紹介している。

「明治4年3月、崎陽製鉄所御用のため工部省山尾権大丞が長崎県庁に出張して、製鉄所財産の移管について目録と引合せを行った際に、活字製作ならびに新聞紙局の活字および諸機械類の一部が除かれていたので、山尾は、県知事にこれを質した。ところが知事のいうには、『活字製造施設は、先に太政官から大学南校へ移譲するよう鞭撻がきているので、ご質問の部分は財産目録から除いた。』と答えた。
しかし、山尾は、『工部省の事業計画には、活字製作も入れてあるので、活字機械まで南校へ渡されては事業計画の変更で、今さらそれはできない。一応、太政官に伺いを立てるまで、引渡しを延期してもらいたい。』と告げて帰京し、伊藤工部卿と相談の上、4月7日付けで、次のような公文書を太政官に提出して善処方を申し入れた。」

大学では、既に長崎県の活字と器械類を南校で必要としているとして受け入れを表明していたが、長崎県から、工部権大丞山尾庸三の談判により器械類ならびに関係者共、工部省に引き継ぐことになったと通知された。大学はこれを工部省の横取りで不条理千万とした。

これを受けて工部省は、同年4月7日付けの弁官宛て文書「長崎製鉄所所属活字器械 大学南校へ御渡の儀に付 申立」を提出して、活字製作は工部省に一局を設けること、長崎でこれまで製作した活字は残らず南校に渡すこと、希望の者には活字を相応の価格で供給すること、とした。なお、『工部省沿革報告』によると、山尾庸三は次のように上申したと記録されている。

「今や人事多端の日に当たって、活字の功用は欠くことができない。およそ政府布告・日誌等のように速やかに公布を要するものは、活字を用いて印刷すれば、その敏捷なことは以前の比ではない。また、この功用を一般市民が知ることになれば、その内、新聞紙等を発行し、活字の需要が生まれるのは間違いない。したがって、工部省中に更に一局の製造所を設け、広く活字の販売を許し、勉めて印刷業を勧誘することを請願する。」

その結果、活字製造器械は工部省が領収し、既成の活字は南校に交付された。

その後の動向を述べると、工部省は、明治4年(1871)11月22日、勧工寮活字局を東京赤坂溜池葵町の旧伊万里県出張所跡(もと、佐賀藩松平肥前守中屋敷跡の一部)に開設し、長崎新聞局活字一課の設備と人員を移転させた。なお、明治6年(1873)11月になって、勧工寮が廃止されたため、製作寮の所管となった。

図17‐4 工部省勧工寮活字局の所在地
(明治16年測量「五千分一東京図」より)
図の中央左寄りに「工部省」と表記された一画が松平肥前守上屋敷で、
「地質検査所」と表記された辺りに勧工寮活字局があったと見られる。
ごく最近まで、ここには財務省印刷局の虎ノ門工場があった。
外堀を隔てた北側に「工部大学校」が表示されている。

その間、長崎製鉄所を退職した平野富二は、本木昌造の活版製造事業を受け継いで東京に進出し、崎陽新塾活版製造所を開設して、一般需要者に向けて活字・活版の販売を開始した。

これを受けてか、明治6年(1873)4月になって、勧工寮活字局も新聞広告により一般向けに活字販売を開始し、官民の間での劇烈な販売競争となった。

当時の勧工寮活字局の活版製造設備は、平野富二が調査した「明治6年 記録」によると、次の通りである。設備別に区分し、用語は分かり易く修正した。

活字母型:二号 5,000個、三号 6,000個、四号 3,000個、五号 5,000個、
(概数) 七号 300個、西洋 300個。
活字鋳造設備:ハンド・マシン・ポンプ 1 丁、メタル釜 1ッ、キャスチング・
マシン 1丁。
その他道具類:活字尻切道具 1揃、紙締め 1梃、ガルヴァ用型枠締め 1丁、
スペース鋳型 2梃。
印刷機:ハンド・マシン 1丁、ろーる・マシン 2丁。

明治7年(1874)8月になって、製作寮活字局は印刷関係設備一切を正院印書局に引渡した。これによって、政府各省に分散されていた印刷設備の印書局への集約完了した。

一方、南校(後、大学南校)は、幕府の蕃書調所を起源とする教育機関で、蕃書調所から伝えられた活版印刷設備があった。しかし、洋書の復刻印刷を主としていたため、漢字・仮名文字の活字は所有していなかったことから、長崎新聞局の活字と製造設備を必要としていた。明治4年(1871)になって、大学南校の印刷設備は大学東校に移管され、文部省が新設されるに伴い、文部省活版所(通称)となった。その間、大学は、上京中の本木昌造に活版御用を申し付け、活字供給の道を付けた。これが平野富二の東京進出の契機となる。

山尾庸三は、明治4年(1871)1月、長崎製鉄所での帳簿調査で真摯な態度で対応た平野富次郎に好感を抱き、近代産業の根幹をなす造船業の発展に一身を捧げる覚悟であることを知った。これを機に。平野富二(改名)は、東京に於いて山尾庸三から多大の協力を得ることになる。二人の交流については、拙著『明治産業近代化のパイオニア 平野富二伝』で記述してある。

2018年6月25日 稿了

長崎新聞局とギャンブルの伝習

(1)長崎新聞局の開設
長崎新聞局は、長崎府に付属する形で開設された。その開設の時期や経緯については今のところ間接的な伝聞しか見当たらない。しかし、殆どの資料で本木昌造の関与が記述されている。

本木昌造がわが国最初の英字新聞の刊行に協力したことについて、本シリーズの「幕府時代の長崎製鉄所」(2017年12月公開)で述べた。しかし、長崎新聞局から刊行された『崎陽雑報』創刊号に掲載された「題言」には、本件に関して誤った記述があるので、どこまで本木昌造が関与したのか、疑問は残る。

当時、長崎において新聞発行に必要な活版印刷の知識と技術を持つ者は、本木昌造とその一門以外には考え難い。本木昌造はわが国における活版印刷分野の開拓者として知られており、その概要は(2)で紹介する。

長崎奉行所が新政府に移管された後の慶應4年(1868)4月22日に、長崎において商会囲品の入札公示がなされ、その諸品目の中に活字板蘭書摺立道具一式が含まれていた。この入札は、旧長崎奉行所に保管されていた諸品の中の不用品を処分するため、売り捌いたものとみられる。

本木昌造は、このことを知って、活字板蘭書摺立道具一式を長崎裁判所(同年閏4月21日に長崎府となる)に引き取ってもらい、それを利用して一般市民に内外のニュースを伝えると共に新政府や長崎府の方針や施策を周知させる方策として新聞の発行を建議し、その結果、長崎新聞局が設置されたと推測される。

この活字板蘭書摺立道具は、もともとオランダから舶来したもので、本木昌造を含めたオランダ通詞仲間が購入し、嘉永2年(1869)頃から活版印刷の研究を行っていたものと見られる。

長崎海軍伝習所が開設されるに当たって、教科書・参考書をオランダ原書で印刷するために活字判摺立所が設けられ、オランダ通詞仲間が所有する摺立道具一式が買い上げられた。海軍伝習を終えて活字判摺立所が閉鎖されたとき、そこに在った道具類は奉行所の倉庫に保管された。文久1年(1861)になって、その主要部分は江戸の蕃書調所に移されたが、この摺立道具一式はそのまま保管されていたと見られる。

新設された長崎新聞局では、新聞の編集と印刷を自局で行い、活字の製造と版組みは長崎製鉄所内の分局を置いて行った可能性がある。

長崎新聞局で用いる漢字と仮名の活字類は、活字板蘭書摺立道具一式の中には含まれていないので、新規に活字製造部門を設けて、新聞発行に必要な活字類を製造する必要があった。

そのため、本木昌造の永年の研究と実験によって開発された蝋型電胎法により活字母型(鋳型)を造り、手鋳込器を用いて鉛活字を鋳造する方式が採用されたと見られる。具体的には、『本木昌造活字版の記事』(本木昌造自筆稿本、市立長崎博物館から長崎歴史文化博物館に移管)に記述されている方式か、さらに改良を加えたものであると見られる。

(2)本木昌造の活版製造研究
本木昌造の活版製造に関して、明治18年(1885)1月、平野富二が本木小太郎に代わって執筆し、東京府に提出した「活版事業創始の説明」(東京都公文書館所蔵)の中に、次のような記述がある。現代文に直して紹介する。

「本木昌造は、蘭書に基づき西洋印刷術の概要を学び、上海で鉛活字により漢文を印刷している者がいることを知り、上海に人を派遣して調査したが、得るところが無かった。その後、自ら熱心に研究・実験した結果、西洋印刷術と上海の鉛字、わが国の組版などを比較折衷して、ガラフハニー版(ガルヴァーニ版、電胎版)により活字母型を造り、手鋳込器を使用して鉛製活字を鋳造する方法を創始した。これを実際に使用したのは、嘉永5年(1852)の頃で、蘭和対訳辞書を印刷し、これをオランダに送ったのを初めとする。」

この記述によると、本木昌造が上海に人を派遣して調査したのは1852年以前のこととなるが、この時期は、ウィリアム・ギャンブルが中国に派遣される前で、中国では未だパンチマトリクス(punch matrix、打刻母型)方式による鋳造鉛活字の時代だった。ギャンブルは、1860年1月(万延1年11月)に寧波から上海に移転して、蝋型電胎法による漢字の活字母型を造り始めている。

万延1年(1860)10月、本木昌造は増永文治名義で『蕃語小引 数量篇』上下巻を出版した。その上巻の凡例末に「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今 新ニ製スル所ニシテ未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ニ希フ」として、未だ満足できるものではないとしながらも、鋳造活字研究のこれまでの成果を活版印刷で示している。おそらく、ガラフハニー版の活字母型により手鋳込器を用いて鋳造した鉛活字のことを述べたものと見られる。

そもそも、その原理は電気メッキによる精密模造法で、本木昌造は安政2年(1855)から3年にかけて、オランダ商館の医師ファン・デン・ブルックから教えられ、それを応用したものと見られる。

本木昌造は、安政4年(1857)に発覚した蘭書器物密売事件に連座して、同年5月13日、預かりの身となり、その後、揚り屋入りとなったが、翌年2月30日に重病を理由に出牢を許され、再び預かりの身となって自宅謹慎を続けていた。安政5年(1858)11月28日、長崎奉行の特別の計らいで処分を解かれた。

この自宅謹慎の9ヶ月間、本木昌造は公務に煩わされることなく活字製作についての各種研究・実験に専念することができた。その結果、蝋型電胎法による活字母型の製作法を開発するに至り、それを纏めたのが「本木昌造活字版の記事」であると見られる。

この本木昌造自筆の字母製作法について、牧治三郎は「活版印刷伝来考―6」(『印刷界』、1966年8月)に全文を掲載している。その原本は、本木昌造から後継者平野富二に渡され、東京築地活版製造所に保管されていた。関東大震災で焼失したが、牧治三郎がノートにとっておいたものとして紹介している。なお、文中の絵図は省略したとしている。長崎にある稿本は、本木昌造の手により添削がなされており、牧ノートによる記事には、添削の結果がそのまま反映されている。

蘭学者である川本幸民も、本木昌造に少し遅れて、長崎出島のオランダ商館で科学技術を学んでいる。薩摩藩で講義した記録が『遠西奇器述』として、安政6年(1859)秋、薩摩藩から出版されている。その中に「電気模像機 ガルハノプラスチーキ」の紹介がある。鹿児島の尚古集成館に所蔵されている三代木村嘉平の金属活字は、江戸の薩摩藩邸で川本幸民の指導により製作したと見られている。

(3)『崎陽雑報』の刊行
慶應4年(1868)8月、長崎新聞局から『崎陽雑報』第1号が創刊された。その表紙には、中央枠内に「崎陽雑報 第一号』と表示され、左下側に「致遠閣発兌」と印刷されている。右肩には公許の印として角印の「長崎府印が捺されている。

『崎陽雑報』、第1号の表紙
表紙右肩の捺印「長崎府印」は、公に許しを得て刊行されたことを示す。
この年、江戸で刊行された親幕府派の新聞はすべて発行禁止となった。
「長崎府印」はここにある正方形の他に幅を狭くした角印も見られる。

『崎陽雑報』は、和紙を二つ折りした表紙のある冊子形新聞で、漢字とカタカナの活字を用いた活版印刷である。本文は1ページに10行×21字詰の罫線入りで印刷されている。内容は、海外の情報と国内通信、官報に代わる布告訓令や官吏任免など、新政府の意向に沿ったものになっている。不定期刊行で、第13号までの存在が確認されている。明治2年(1869)夏以降は、鋳造活字の製造に手間取り、発行中止となったと見られる。

本文に用いている漢字活字は、端正な細書きの楷書で、同じ字でも点画が微妙に相違するものが混在する。また、カタカナも同じ母型から鋳造されたと見られる字がある一方、点画に差がある字も含まれている。このことから、鋳造活字が間に合わず、木活字が多用されたのではないかと見られる。

長崎歴史文化博物館展示の『崎陽雑報』第1号レプリカ
最初のページに「崎陽雑報題言」が掲載されている。
文章は楷書とカタカナを用い、鋳造活字と木活字の混合と見られる。

このことから見ると、本木昌造の指導によって設けられた活字製造設備は、まだ実験室の規模から多きく超えることはなく、新聞発行に必要な活字類を揃えるには長時間を要し、より迅速に活字を製造できる技術が求められていたことが分る。

(4)『崎陽雑報』を刊行した「致遠閣」
『崎陽雑報』を発兌(刊行)した「致遠閣」は、それと類似の名称である佐賀藩の外国語学校「致遠館」が同じ時期に長崎に存在していることから、佐賀藩の「致遠館」から刊行したとする説もある。しかし、長崎府が発行する新聞を、わざわざ、佐賀藩の学校から刊行することは考え難い。

「致遠」の意味は、新聞の機能である「遠方の情報などを送り届ける」という、新聞の機能に関係する意味があり、長崎新聞局は、その別称として「致遠閣」と称したと見られる。

一方、佐賀藩の外国語学校は、慶應3年(1867)11月、アメリカ宣教師で長崎外語学校(後の広運館)の校長だったフルベッキを迎えて教師とし、翌年になって、加賀、薩摩、土佐など他藩の学生を広く受け入れ、「致遠館」と称した。この「致遠」の意味は、「遠い土地の人を招き寄せる」という意味で名付けたと見られる。

長崎新聞局が長崎府の付属機関であったことについては、長崎製鉄所の頭取だった本木昌造が、明治2年(1869)5月、長崎製鉄所で精米事業を営み、それによって得る利益金を長崎府の付属機関の運営に充てるとして、徒刑場、広運館(本学局・漢学局・洋学局)、新聞局、製鉄局を挙げていることからも分る。

長崎新聞局が発行した新聞以外の印刷物は、明治2年(1869)7月に出版した何幸五郎訳述『地球略解』巻之一がある。何幸五郎は、後に何幸五と称し、後述するギャンブル伝習の際に通訳を勤めた人である。また、明治3年秋とする長崎新聞局開版『改正長崎職員録』が知られている。その裏表紙に「明治三庚午秋」、「長崎新聞局開版」と朱印が捺してある。

(5)『崎陽雑報』の刊行中止
明治2年(1869)夏頃に発行された『崎陽雑報』第13号を最後として、長崎新聞局での新聞発行は中断されたらしい。

後藤吉郎等(BULLETIN OF JSSD、2002)によると、アメリカ議会図書館のギャンブル・コレクションの中に、「日本新政府より活字母型の注文を受け、印刷設備を整備するため5,000ドルを受領した」旨を記した1868年10月19日(明治1年9月4日)付け書簡の概要記録が残されている。

上海美華書館の1867年版活字見本帳によると、スモール・パイカ(第5号相当)を含む3種類のサイズを揃えており、それぞれ1字当たりの母型価格はすべて1.00ドルと表示されている。

この記録では、「日本新政府」となっているが、当時の状況を考えると、長崎府が新政府の認可を得て発注したものと推察される。これにより、長崎新聞局では活字母型の製作がネックとなっていたことが分る。また、長崎では、既に明治1年頃から上海美華書館との交流があったことも分る。

明治2年(1869)6月、製鉄所掛から府当局に提出された文書が『文書科事務簿』に保存されている。その内容を現代文に直して紹介する。

「昨年来、新聞局において活字判で印刷・出版しているが、西洋と同様の迅速製造技術がないため、昼夜、苦心している。このたび、アメリカ人活字師ガンブルが避暑のため長崎港に来泊するので、4ヶ月間、当局で雇い入れ、活字判製造技術を残らず伝習したい。そうすれば、長崎府としても莫大な功績となるので、許可をお願いする。」

つまり、長崎新聞局では、依然として活字の製造に手間取り、新聞発行に支障をきたしていたことが分る。なお、活字師ガンブルは英語読みではギャンブルとなる。

(6)ギャンブルの招聘と短期雇用
ギャンブルの招聘を要請したとみられる本木昌造は、明治2年(1869)8月、病気を理由に長崎製鉄所頭取辞職願を提出し、当局から慰留されたがその決意は固く、同年9月になって製鉄所頭取退職を認められ、新たに機械伝習方懸頭取を委嘱された。しかし、その後は長崎製鉄所に出社することはなかった。

同年(1869)10月になって、本木昌造は県当局から「貴殿は、かねてから活字判の製造技術を心得ているので、新聞局掛の者と相談して、早急に成功するよう尽力すること」とした文書を受けている。

この文書から見ると、ギャンブルの来訪は明治2年(1869)10月中に延期されていたと見られる。その理由は定かではないが、上海における人事上のトラブルや長崎での伝習準備のためであったと見られる。

ギャンブルは、1830年(天保1年)、アイルランドで生まれた。1847年(弘化4年)、17歳でアメリカに移住し、製本所に勤務した。その後、印刷所で訓練を受けて、1858年(安政5年)、28歳のときにアメリカ長老派教会のニューヨーク伝道本部から印刷技術者として中国の寧波(ニンポウ)に派遣された。寧波では華花聖経書房に勤務した。1860年(万延1)12月、同書房が上海に移転し、美華書館と改称したとき、共に移転した。

ギャンブルがアメリカの印刷所で訓練を受けていたころ、既にアメリカでは活字および活字版の複製技術として電気鋳造法(electrotyping)が実用化されていた。特に、聖書の印刷では、大量に印刷するため活字版の劣化が早く、この方法で活字版を複製して対応していたという。

(7)ギャンブルの伝習
ギャンブルの来日に合わせて、明治2年(1869)10月、長崎興善町に在った元唐通事会所に活版伝習所が開設された。現在、その場所には長崎市立図書館があり、道路に面して記念碑が建てられている。

活版伝習所となった元唐通事会所の平面図
本絵図は国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」にある。
この絵図の下方に左右に通じる道路が現在の市役所通りである。

活版伝習所跡と唐通事会所跡の記念碑
背後は長崎市立図書館で、市役所通りに面した角に建てられている。

伝習に参加した者たちは、長崎新聞局の活版製造部門・印刷部門の担当者と本木昌造とその一門の者たちであったと見られる。本木昌造は世話役を務めると共に、自らも進んで伝習を受けたと見られる。長崎唐通事出身で英語に堪能な何幸五郎がギャンブルの通訳を勤めた。

長崎で伝習を行うに際してギャンブルが持参した活版器材の内容は明らかではないが、中国側の資料『教会新報』によると、「中国鉛字・外国鉛字・東洋字と一切の器具を携帯して出掛け、東洋人に排字・印書・電気鋳銅版の諸法を教える」とある。ここで、東洋とは日本のこと、排字とは活字を並べて版に組むことである。携帯した一切の器具の中には、ガルヴァーニ電池・電解槽や鋳造器具などを主体として、その他、製本までを含めた一切の道具・資材一式であったと見られる。

伝習の結果として、同じく中国側の資料によると、「造字は模三、副一で、中国字一、日本字は大小字を全て備え、試しに組版印刷した書物として西洋字と日本字を合わせて訳した字典がある」と記録されている。

この中の「造字は模三、副一」については、「持参した活字を用いて作成した鋳型(母型)3セットと予備1セット」と解釈される。「組版印刷した字典」については、どのような字典であったか不明である。

伝習に当たって、上海美華書館における活字のサイズを決める号数システムについても、基礎知識として教えられたと見られる。この知識が無ければ、組版を的確に行うことができない。

上海美華書館は、上海で発行されていた『教会新報』(1868.12.19)に活字販売広告を掲載している。それには、大小の新鋳中国鉛字6サイズを販売するとして、第1号から第6号までの摺り見本とそれぞれの重量ポンド当たりの価格と個数を示している。また、別有第2号としてややバランスの悪い漢字摺り見本が示されている。書体はいずれも明朝体で、第1号から第6号までは電胎母型により鋳造されたもの、別有第2号は従来から製造されていたパンチ母型による分合活字(扁や旁などを標準化して組み合わせた漢字活字)と見られる。

それぞれの活字サイズの関係は、第1号は第3号の2倍角(2倍の幅)で、第2号は、第1号よりもやや小さく、第5号の2倍角、第5号は第6号の2倍角となっている。第4号は第3号と第5号の中間サイズとなっている。これらは、アメリカのシステムとヨーロッパのシステムを活字サイズに応じて組み合わせたものとなっている。

小宮山博史(『日本語活字ものがたり』)によると、上海美華書館の活字販売広告は、1869年7月12日(明治2年6月4日)まで、8回に亘って掲載され、最後の2回は別有第2号が除かれているとのことである。旧式活字の在庫がなくなったと見られる。

ギャンブルは、日本における伝習教材の一つとして、この活字販売広告を携帯品の中に加えた可能性がある。

ギャンブルの伝習内容について纏まった形での日本側の記録は今のところ見当たらない。

日本側が期待した「迅速」については、最大の時間を要する電胎母型の製作が中心であったであろうが、出来上がった活字の品質についても、使用に堪えない活字を大量に製作しては意味がない。そのため、迅速と共に高品質の活字を鋳造するために、ギャンブルは鋳造用手動ポンプを上海から持参して、使用方法を伝授した可能性がある。

(8)ギャンブル伝習後の動向
明治3年(1870)2月末にギャンブルによる伝習が終了して、活版伝習所は閉鎖された。ギャンブルの持参した活版製造用器具と印刷器材は長崎新聞局に引き取られた。

長崎新聞局では、ギャンブルの伝習に基づき活版製造設備の更新が行われ、人員を整えて活字の製造に取り組んだが、『崎陽雑報』の再刊は行われなかった。

明治3年(1870)5月、長崎県当局は製鉄所掛に対して、「以降、新聞局を製鉄局に付属させる」旨を指令した。これにより、長崎新聞局は、長崎県付属から長崎製鉄所付属に変更された。同時期に。民部権大丞山尾庸三は横須賀・横浜製鉄所と長崎製鉄所(共に県営)を総括して、経営の全てを委任されることとなった。

長崎新聞局が長崎製鉄所に付属されて以降の事柄については、次回の「山尾庸三と長崎製鉄所」で述べることとする。

一方、ギャンブル伝習に協力した本木昌造は、伝習で製作した活字母型の副1を譲り受けたのではないかと思われるが、確証はない。その他には、複数ある器材のごく一部のみであったと見られる。また、上海美華書館の活字販売広告も少なくとも1枚は入手した可能性がある。

本木昌造は、伝習を終了した直後に、長崎製鉄所を退職している。かねてから取り組んでいた私塾の経営を本格化させるため、知人・友人の資金的協力を得て、長崎新町に新街私塾を設立し、さらに、教材としての教科書・参考書印刷のため新街私塾に付属させて新町活版所(印刷所)と新町活字製造所を設立した。本件については、追々、述べることとする。

2018年5月30日 稿了