文部省御用活版所の開設

まえがき
本木昌造は、明治4年(1871)5、6月頃、活版事業の拡大を目指して東京に出張した。前年3月に長崎で新町活版所を設立して教科書・参考書・教養書を中心とした活版印刷物を発行しているが、長崎では一向に販路が拓けず、在庫の山を築く状態だった。

折しも、東京で本木昌造が提供した活字を用いて書籍が刊行されることから、その評判を確認すると共に、主要書肆たちを訪問して今後の活版印刷による書籍の販路拡大について話し合ったと見られる。その際、本木昌造は、大学(後の文部省)から活版御用を仰せ付けられ、御用活版所設置の地所を提供された。

準備のために長崎に帰った本木昌造は、用意した資金が枯渇寸前の状態で、もはや事業拡大どころではないことに気付いた。活字の製造が思うように行かず、これが事業最大の妨げとなっていることに思いを来たし、同年7月、先般長崎製鉄所を退職した平野富次郎を招いて活字製造事業を一任した。これを受けた平野富次郎は徹底的な活字の品質向上と経営の効率化を行った。

平野富次郎は、受託してから2ヶ月間で改革の成果が表れたことを確認し、大阪経由で東京に出張して、懸案となっていた大学御用活版所の開設を本木昌造に代わって行った。なお、この時点で本木昌造が仰せ付かった大学は廃止され、代わって文部省が新設されて間もなくであった。

本稿では、平野富次郎による文部省御用活版所の設立について述べると共に、参考として、大学・大学東校・大学南校の設立経緯とそれぞれの活版事情について述べる。

この文部省御用活版所が設立された場所は、後に平野冨二(改名)が東京に進出して活字製造を行うときの最初の拠点となった所でもあり、ここから全国に鋳造鉛活字による活版印刷が普及した記念すべき場所でもある。

(1)文部省御用活版所の設立
本木昌造は、明治4年(1871)5月末、あるいは、6月初旬、東京に出張した。その主たる目的については明らかではないが、同年6月に本木系活字を使用したとされる兵部省官版『法普戦争誌畧』、8巻が須原屋茂兵衛(日本橋南1丁目)から刊行されていることから、その刊行に立ち合って、その評判を自ら見極めると共に、東京の書肆仲間とさらなる書籍の刊行について相談する目的であったと推察される。

図21-1 『法普戦争誌畧』の表紙
《牧治三郎著「活版印刷伝来考=8」、『印刷界』、1966年10月》
この刊本を所蔵していたと見られる牧治三郎によると、
本文に用いられている明朝4号活字の漢字・平仮名・片仮名は、
横浜活版社の陽其二から須原屋などが大量に買い入れて印刷した、
と述べている

本木昌造は、東京に滞在中、大学から大学・東南校に活字を供給する御用を仰せ付けられた。早速、その受け皿となる御用活版所を設立するための地所拝借を願い出たところ、明治4年(1871)6月15日付けで大学東校区域内で不用となっている長屋とその接続地に大学御用活版所を開設する許可を得た。

図21-2 御用活版所の設立認可
《『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵》
この公文書によって本木昌造は、
大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、
御用活版所の用地拝借を願い出た結果、
大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する
政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。
この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。

大学御用活版所の開設準備のため長崎に戻った本木昌造は、いままで現場に任せていた活字製造部門を調査したところ、大量に活字を製造しても、印刷に適した活字はごく僅かで、不良品の山を築くばかりの状態であって、準備した資金は枯渇寸前となっていることに気付いた。自身の健康不安もあって、事業拡大どころではないことに愕然とした。

そこで本木昌造は、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されるに際して退職した平野富次郎を招いて、苦境打開のために活字製造事業を一任し、徹底した改革を行うことを懇願した。

その結果、平野富次郎は、恩師の窮状を見るに見兼ねて、活字製造部門の経営一任を引受け、活字の規格を統一し、生産管理を主体とした抜本的改革を断行し、僅か2ヶ月間で高品質の活字を安定して製造する目途をつけたことについては、本シリーズの「活字製造事業の経営受託」(2018年9月)で紹介した。

平野富次郎に一任された活字製造事業の一環として大学御用活版所も含まれることから、その所長と東京における協力者の人選について本木昌造と相談の上、平野富次郎は、明治4年(1871)9月中旬、大阪を経由して東京に出張した。

大阪では、長崎から新塾出張活版所に派遣されていた小幡正蔵と茂名貞次に東京派遣を伝え、東京の大学御用活版所を設営するため、その所長に指名された小幡正蔵を同伴して東京に向かった。

本木昌造が版御用を仰せつかった大学は、明治4年(1871)7月18日、廃止されて文部省が新設され、同年9月18日に文部省編集寮活版部が東校区域内にある東校活版所に設けられて、文部省活版所となったばかりであった。ここには南校にあったオランダ製活版印刷設備一式も移された。

平野富次郎と小幡正蔵は、東京在住の大坪本左衛門の協力により、文部省活版所と同じ長屋内の1戸とその接続地を借り受けて文部省御用活版所を設営した。

この長屋は、津藩藤堂和泉守上屋敷の表門に連なる門長屋で、江戸時代には参勤交代で江戸に滞在した家臣たちが居住する宿舎であると共に、大名屋敷の周囲を囲む外壁を兼ねて、二階建ての連棟となっていた。

図21-3 藤堂和泉守上屋敷の表門と門長屋
《安藤広景画「外神田佐久間町」、『江戸名所道外盡 十』》
東京都立中央図書館蔵
20万石以上の大大名のみに認められた表門造りで、
左右に連棟2階建ての門長屋が屋敷地周囲を囲んでいる
一階部分は海鼠壁(なまこかべ)に武者窓(むしゃまど)で
二階部分は漆喰の白壁に太い横桟の曰窓(いわくまど)がある。
門長屋と道路の間には堀を巡らし、城塞を模している。
西方に当たる遠方の山上には神田明神の社殿が描かれている

文部省御用活版所の所長となった小幡正蔵は、やがて大阪から上京して来た茂名貞次を支配人兼技師とし、活字の販売と共に活字を組んで印刷版として販売した。校正摺りを行うために、日本橋にある瑞穂屋卯三郎の店からイギリス製小型アルビオン式印刷機を購入し、注文に応じて小物印刷も行っていたらしい。

明治5年(1872)7月、平野冨二(この年に行われた近代戸籍編成に当たり富次郎を改名)は、長崎から社員8人と新婚の妻を引き連れて上京し、小幡正蔵が所長の文部省御用活版所に隣接する門長屋の数戸を借り受けて、崎陽新塾出張活版製造所を開設し、ここで活字・活版の製造を開始した。

明治5年(1872 )9月20日に太政官正院印書局が東京辰ノ口の分析所跡(現、千代田区丸の内1丁目4番)に開設されるに当たって、各省が所有する活版印刷設備を集約することになったため、文部省活版所は、所有する活版印刷設備一式を印書局に移管して、設置されてから丁度1年後の同年9月18日に廃止された。

そのため、文部省御用活版所は所長小幡正蔵の名前を冠して小幡活版所と改称し、自主営業の道を辿ることになった。翌年になって、小幡正蔵は、平野富二の了解を得て小幡活版所を閉鎖し、大坪本左衛門と共に神田五軒町の湯島嬬恋坂下に大坪活版所を設立して独立した。

平野富二が開設する崎陽新塾出張活版製造所については、次回のブログで紹介する。

(2)大学、大学東校、大学南校
慶應4年(1868)4月、新政府は幕府の「医学所」を接収し、同年6月、「医学校」として復興した。同年8月、医学校は「昌平学校」(幕府の「昌平坂学問所」を新政府が復興)と共に東京府に移管された。一方、幕府の「開成所」は新政府の下で、改元された明治1年(1868)9月、「開成学校」として復興され、同年11月、東京府に移管された。同月、昌平学校が行政官の所管となったのに伴い、翌明治2年(1869)1月、医学校と開成学校は昌平学校の下に置かれた。

明治2年(1869)7月、教育行政機関の「大学校」が設立された。これにより、昌平学校は廃止され、医学校と開成学校は共に分局として大学校の管轄下に入った。同年12月、大学校が「大学」と改称され、それに伴い医学校は「大学東校」、開成学校は「大学南校」と改称された。湯島昌平坂にある大学を中心として、その東方にあることから大学東校、南方にあることから大学南校と名付けられた。

明治3年(1870)7月18日、大学が廃止され、それに代わって「文部省」が湯島聖堂内に新設された。それに伴い、同月21日、大学東校は「東校」、大学南校は「南校」と改称された。なお、東校、南校は「文部東校」、「文部南校」とも称された。東校は、それまでのイギリス医学中心からドイツ医学の教育に移行するに当たり、一旦、閉鎖して規則を改め、同年10月に再開した。

(3)「大学」における活版について
大学は政府弁官に対して明治3年(1870)3月8日付けで「学規が確定したことにより諸省などが学規を内見したいとの要求があり、その都度、書写して渡すことは手間が掛かり、誤写の弊害もあるので、活字版を整え置きたい。」と伺書を提出し、「伺いの通りとなすべし。」との回答を得た。

その後、どのような経緯があったか不明であるが、長崎県が政府弁官に対して同年11月20日付けで「長崎製鉄所付属新聞局が長崎県から製鉄所に付属替えの節、アメリカ人ガンブルが長崎滞在中に活字鋳造法などをその筋の者へ伝習いたさせ、現在、専ら造字中です。しかし、当県では(活字は)それほど有用ではなく、其の上、製鉄所が工部省に移管されることから、毎月相応の経費にもなります。新聞局を大学で引き取って頂ければ、それなりの効果が期待できると言えます。したがって、これまでに製造した原字と諸器械ならびに関係者一同を(大学に)差出したいと存じますので、ご決断を仰ぎます。」と伺書を提出している。

これを受けて大学は政府弁官に対して、同年12月15日付けで「活字のほか、機械類も南校で必要なので、すべて南校に付与して頂きたい。(本件について)長崎県と相談したい。」と要望書が出された。
ここでは、大学自体ではなく、大学南校への付与を希望していることが分かる。

ところが、明治4年(1871)1月、工部権大丞山尾庸三が、長崎製鉄所を工部省に移管準備のため長崎に出張して長崎製鉄所の経営状況を調査する中で、付属新聞局で活字を製造していることを知り、活字製造も工部省の事業の一つとすることにしたと見られる。

山尾庸三は、同年4月7日、再度、長崎に出張して、長崎県から正式に長崎製鉄所付属施設一式の工部省への移管を受けた。ところが、新聞局の活字と活字製造設備については移管目録から除外されていることを知り、異議を申し入れた。本件については本シリーズの「山尾庸三と長崎製鉄所」(2018年6月)で述べた。

結果として、同月中に、工部省と大学南校は、活字製造設備と人員は工部省で引き取り、これまで長崎で製造した活字一式は大学南校に引き渡すことで合意した。不足活字は、大学南校の要求に応じて、工部省から供給することとなった。

明治4年(1871)7月18日、大学が廃止され、代わって文部省が設置された。

(4)「大学南校」における活版について
大学南校の前身は、幕府の「蕃書調所」で、文久3年(1863)になって、「開成所」と改称された。元治1年(1864)11月に開成所の規則が改められ、教育科目を蘭・英・仏・独・魯の5学と、天文学・地理学・窮理学・数学・物産学・精錬術・器械学・画学・活字術の各課に分けられた。

器械学については、教授手伝役の市川斎宮(兼恭)が米国独国器械改に任命されて、アメリカ使節ペリーとプロシャ使節オイレンブルグが献納した電信機、汽車模型、石版印刷機、写真機などの調査・研究が主であった。

活字術については、蕃書調所時代の安政4年(1857)1月に市川斎宮が活版事業担任に任命され、嘉永3年(1858)にオランダ語教科書『レースブック(西洋武功談)』を刊行した。その後、活字方として津藩士榊令輔が市川斎宮の跡を継いだ。万延1年(1860)には、教授手伝の堀達之助らによって、初めて英語入門書『Familiar Method』が復興出版された。文久1年(1861)3月になって、長崎奉行所の倉庫にあった手引き印刷機を含む活版付属具が備えられた。

文久2年(1862)5月、蕃書調所は「洋書調所」と改称(さらに翌年、「開成所」となる)されて、人員も逐次増加し、洋学教科書の復刻、中国刊行訳書の翻刻、翻訳新聞(『バタビヤ新聞』)の刊行などが盛んに行われた。

開成所にあった活版印刷設備は、開成学校、大学南校、南校へと引き継がれ、文部省編集寮の設置に伴い、東校活版所に移されて、文部省活版所の主要設備となった。

このように大学南校は、
蕃書調所⇒洋書調所⇒開成所⇒開成学校⇒大学南校⇒南校
と活版印刷設備を伝承して来たが、洋書の復刻が中心であったため、邦文活字は保有していなかった。

前項(3)で述べたように、明治4年(1871)4月になって大学南校は、それまで長崎新聞局で製造した活字一式を工部省から移管され、必要に応じて工部省から追加供給を受けられるようになった。

(5)「大学東校」における活版について
明治3年(1870)閏10月、大学東校は学校規則を制定して予科と本科の組織が確立された。この新組織に基づき行われた体制について、当時、大学東校に勤務していた石黒忠悳(いしぐろただのり)の著わした『懐旧九十年』(岩波文庫、1983年4月)に、次のような内容が記されている。

・各藩に内示し、甲乙に区別した志願者を募集した。
・甲は有為の少年を対象に5,6年で卒業させる。西寮または西舎と称する寮舎に入れ、これを本科生とする。
・乙は現に医職にある者若干を入学させ、およそ2ヶ年で成業させる。東寮または東舎に入れ、これを東寮生と言った。

石黒自身は、東寮内の2室を占めて宿泊し、自ら東寮生の授業を担当して、監督まで兼務した。東寮生には短い年限で一通り西洋医学を教える必要があった。石黒は主に理化学の講義を担当した。

そのとき、化学の講義案を整理して活版印刷することを企てたが、医学館にあった李朝活字では字数が乏しく困っていた。その折、大学で絵を描かせるため雇っていた画家島霞谷(しまかこく)が新活字を発明し、その活字を用いて刷ったのが『化学訓蒙』(初版)で、その冊子を生徒各自に渡して教科書とした。これが医学校で最初の活字出版である。

以上について注釈を加えると、当時はまだ廃藩置県の実施される前だったので、中央政府の統括のもとで各藩が地方自治を行っていた。そのため、各藩を通じて生徒募集を行った。
西寮・東寮については、大学東校の表門(旧津藩藤堂和泉守上屋敷の表門)の西に連なる門長屋を西寮(西舎)、東に連なる門長屋を東寮(東舎)と呼び、学生の寄宿舎とした。
李朝活字を保管していた医学館は、近くの向柳原にあった旧幕府の漢方医学教育施設であったが、慶應4年(1868)7月、廃止されて医学所(大学東校)に付属された。

藤堂屋敷の門長屋が医学校の寄宿舎だったことについては、森鴎外の小説『雁』にも記述されている。

島霞谷は、明治3年(1870)3月、大学東校から資金を供与されて、下谷下久保町の自宅に活字製造所を開設し、職人を雇って活字の鋳造を行った。島霞谷の発明は、黄楊(つげ)または水牛の角を彫刻して父型とし、河柳(かわやなぎ)の木口に父型を打ち込んで活字母型を造ったことで、河柳の耐熱性を利用したものである。

大学東校での出版作業は、原稿の作成とゲラ刷りの校正程度であったと見られ、活字の組版と印刷は旧開成所出入りの御用商人であった蔵田屋清右衛門が請け負い、蕃書調所時代から伝来したスタンホープ式印刷機を借り受けて印刷を行ったと見られる。いわゆる大学東校活版所と称される実態は、このようなものであったと見られる。初期は、大学東校出版として浅草茅町2丁目の須原屋伊八と馬喰町2丁目の島村屋利助の発兌となっている。

明治3年(1870)11月、島霞谷が病死したため、大学東校では活字の新規鋳造が出来なくなった。そのため、明治4年(1871)に刊行された書籍は木活字本となっている。本木昌造が大学活版御用を仰せ付けられたのは、明治4年(1871)6月のことで、このような事情があったことによると見られる。

明治4年(1871)9月18日、文部省は編集寮活字局を新設して(大学)東校活版所を引き継ぎ、文部省活版所とした。そのとき、(大学)南校にあった活版印刷設備一式が移管された。

しかし、明治5年(1872)9月20日に正院印書局が東京辰ノ口の分析所跡に開設されるに伴い、文部省活版所は活版印刷設備一式を印書局に移管して、同年9月13日に廃止された。

大学東校の活版印刷の歴史は、大学南校と較べると短いが、その発祥は、安政5年(1858)5月、江戸の蘭方医たちが出資して神田お玉ヶ池に設置した種痘所に始まる。その後の推移を示すと、
種痘所⇒西洋医学講習所⇒官立種痘所⇒西洋医学所⇒医学所⇒医学校
⇒大学東校⇒東校⇒第一大学区医学校⇒東京医学校⇒東京大学医学部
となる。

医学校のときに、大病院(新政府の軍陣病院)と併合されて津藩藤堂和泉守上屋敷に移転し、東京医学校のときに本郷に移転した。

(6)当時の東京における活版事情
蕃書調所時代の活版印刷設備を受継いだ大学南校と、講義録を印刷するため木製母型から活字を鋳造した大学東校について述べたが、両校の活版印刷設備は文部省活版所が開設されて1カ所に纏められた。やがて、太政官正院印書局が新設されて、政府各省が保有する活版印刷設備が集約された。

一方、長崎県から長崎新聞局の活版関係設備を移管された工部省は、省内に勧工寮活字局を新設して、長崎から活字製造設備と人員を東京赤坂葵町に移転したのは、明治4年(1871)11月22日のことである。

このような政府内での活版化が着々と進められている中で、明治4年(1871)6月、本木昌造は大学・大学東校・大学南校への活字供給のために大学御用活版所を大学東校区域内に開設することを認められ、平野富次郎によって、同年10月頃、小幡正蔵を所長とする文部省御用活版所が開設されたことになる。この時期は、勧工寮活字局の新設に先立つこと1ヵ月程であった。

当時の東京では、活字の販売業者として南鍋町1丁目(現、中央区銀座5丁目)に店を構えた志貴和介(しきわすけ)が海軍省などの大口需要者に鋳造活字を販売ていた。しかし、どのような技術を基にして活字を鋳造していたかは分かっていない。

横浜では、居留地に住む外国人が新聞を発行してたので、活版印刷が盛んに行われていたが、本木昌造が派遣した陽其二によって横浜活版社が地元の出資で設立され、明治3年(1870)12月8日、わが国最初の日刊新聞『横浜毎日新聞』が発行されている。また、柴田昌吉(しばたまさよし)らが『英和字彙』を刊行するに当たり、同年春に日就社が設立され、欧文・漢字・仮名の各活字と活版印刷機を上海の美華書館から購入している。

このように、民間でも活版印刷による刊行が徐々に始まりつつあった。まさに活版印刷の夜明け前であった。

2018年10月25日 稿了

活字製造事業の経営受託

平野富次郎(平野冨二)が、本木昌造から活字製造事業の経営を受託して、工場の組織と運営面で全面的改革を断行した。その結果、約2ヶ月という短期間で、高品質の活字を安定して、しかも、低価格で製造できる目途を付けた。さらに、本木昌造が大阪と東京に計画した出張活版所で抱えていた諸課題に対して善後策を講じ、活字の需要が見込める東京・横浜において販売を試み、大きな成果を得た。これらについては、本シリーズの2018年7月と2018年8月の投稿で、その概要に触れている。

本稿では、平野富次郎の人生で最大の転機となった本木昌造の活字製造事業の受託とその成果について、先稿と一部重複することもあるが、ここに纏めて紹介する。

その多くは、東京築地活版製造所で編纂した小冊子『長崎活版所東京出店ノ顛末幷ニ継業者平野冨二氏行状』(明治24年3月、初稿)に拠った。そもそも、この小冊子の内容は、本木昌造の協力者である池原香稺と、以前から本木昌造の工場で従事していた2、3人に加えて、平野冨二本人の直話を比較・参考にしたと付記されている。それに加えて、その後に発見された資料や当時の状況を勘案して、補足・修正を行った。

(1)本木昌造の懇願と平野富次郎の条件付き受託
本木昌造は、長崎出島のオランダ人から得た情報をもとに活字製造の基礎技術を開発したが、本格的に実用に供するまでには、まだまだ、多くの課題を抱えていた。たまたま、同様の原理で活字を製造していた上海の美華書館から主任で開発者でもあるウィリアム・ギャンブルを長崎に招いて、長崎県付属の長崎新聞局のために迅速活字製造法の伝習を行い、自らも伝習に協力しながら受講した。

本木昌造は、長崎製鉄所の退職を機に、明治3年(1870)3月、長崎新町に新街私塾を開設した。その運営経費をまかなうためと、維新に際して家禄・扶持を失った地役人や士族たちに職を与えるため、活版所(活版印刷所)と活字製造所とを開いて、活字の製造とその活字を用いた活版印刷により教科書や参考書、教養書の出版を開始した。

しかし、活字を製造しても、粗悪品ばかりが多く、印刷に適した活字を思うように製造することが出来なかった。また、活版で印刷しても、従来の手書き文字を木版とした整版印刷に馴染んだ人々から、必ずしも歓迎されなかった。

このままでは、活版所での活版印刷事業は勿論のこと、新街私塾の経営にも支障を来たす事態に陥ることは明らかであった。身近にいた主な門人たちは、すでに大阪、横浜、京都に開設した活版所に派遣したため、後事を託せる門人は残っていなかった。

明治4年(1871)6月頃、東京出張から戻った本木昌造は、自宅で造船事業の構想を練っていた平野富次郎を招いて、活字製造の事業化が思うように進まないので、これに手を貸してくれないかと要請した。

当初、平野富次郎は、本木昌造が自分の退職を心配してくれたものと思い込み、再三に亘って固辞した。しかし、内情を聴くうちに、本木昌造の窮状を知り、遂に、本木昌造が経営している活字製造事業を引き受けることとなった。

(2)本木昌造の抱えていた課題と要望
当時、本木昌造が抱えていた課題を纏めて整理すると、
① 不良品ばかりが出来て、実用になる活字が僅かしか得られないこと、② 鋳造活字を用いた印刷物が必ずしも世間から歓迎されないこと、③ 事業収入が得られず、経費ばかりが増大し、資金は枯渇寸前となったこと、④ 自身の健康不安を抱えていること、であった。

さらに、副次的なものとして、
⑤ 有能な門人たちを大阪、横浜、京都に派遣してしまい、後事を託す者が居ないこと、⑥ 五代友厚から前金を受けて請負った和訳英辞書の出版が頓挫していること、⑦ 大阪、横浜、京都に開設した出張活版所では、当面、木版での出版とせざるを得ないこと、⑧ 大学・東南校への活字供給の要請を受けて、その対応に苦慮していること、⑨ 東京芝神明前での書肆仲間との活版所設立計画に苦慮していること、など多岐多方面にわたっている。

本木昌造は、どちらかと云えば、学者・研究者肌の人であった。自分の家の一室で職人を使って活字を手作りすることは出来ても、これを工業的に大量に製造するには、別の才覚と能力を必要としていた。本木昌造を慕って集まった門人たちも、知識欲は旺盛であっても、物造りの本質をわきまえず、このようなものは職人にまかせるものだという考えが一般的であった。

これらの課題を解決するため本木昌造が平野富次郎に要望した内容は、
① 活字製造のために設けた工場に関する一切の事を委託すること、② どのような改革をおこなっても構わないので、心置きなく処置して欲しいこと、③ どのような土地で営業しても構わないので、利益の多く得られる土地に移転することが得策と考えること、④ 損益得失の責任を負う覚悟で行なって欲しいこと、⑤ 経営が軌道に乗るようになったら、出資者のために資本償却として5千円を還付して欲しいこと、⑥ 今後の事業運営についてはすべて、従業員一同との協議によって処置すること、であった。

(3)平野富次郎の活版印刷への関り
ここで、本木昌造から活字製造事業を委託された頃の平野富次郎は、活版印刷に関する知識と経験がどの程度あったかを、その経歴から調べて見た。

平野富次郎は、文久1年(1861)、多くの候補者の中から選抜されて長崎製鉄所に入所し、機関方見習いとして機械学の伝習を受けた。その際、長崎製鉄所の御用掛と伝習掛を兼務していた本木昌造から直接指導を受けたことから、誘われて本木一門に加わり、業務の余暇に一門の者たちと共に活版印刷の研究にも携わったと見られる。

長崎で1861年6月22日(文久1年5月15日)に創刊された英字新聞『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』の発行に際して、伝習を兼ねて新聞の印刷を手伝った本木一門の逸話がある。その一門の者の中に平野(当時は矢次)富次郎の名前が見られる。

その後は、本木昌造が船長となった長崎製鉄所の蒸気船に機関手として乗組む機会が多く、また、八丈島に漂着して、約5ヵ月間、共に滞在を余儀なくされたこともあり、本木昌造と直接話をする機会も多く、活版印刷研究について多くの話を聴かされたであろうことは推測できる。

しかし、明治2年(1869)3月に平野富次郎が小菅修船場の諸務専任となって以降、長崎製鉄所を退社するまでの間は、業務多忙のため活版印刷研究からは遠ざかっていたと見られる。したがって、その間に行われた上海美華書館のギャンブルによる伝習には直接関わることはなかったと見られる。

(4)平野富次郎の受託条件
平野富次郎が本木昌造から活字製造事業の経営を受託したのは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。

平野富次郎が、受託するに当たって付けた条件を箇条書きにして纏めると、
① 引き受ける事業は、当面、活字製造に限り、印刷出版は別扱いとすること、② 本事業をすべて一任して専断を許認し、他者の干渉を排除すること、③ 製造する活字類は希望するものにも販売できるようにすること、④ 活字製造事業を印刷出版事業から分離して、独立採算制とすること、⑤ 後継者を養成して事業の継続を図ること、⑥ 経営が軌道に乗って利益がでるようになったならば、一切を本木家に返還すること、であった。

当時、わが国では活版印刷について一般になじみが薄く、手書き文書をそのままの形で複写する整版印刷(木版摺り)を好み、敬遠する風潮にあった。そのような中で、政府・官公庁が公布する行政文書が多くなるに従い、手早く大量に印刷できる活版印刷が着目されるようになった。また、新聞の普及により、遅滞なく最新の情報を印刷する手段として活字が求められるようになりつつあった。

当初の本木昌造の基本方針は、全国の活版印刷事業を一手に独占し、主要書肆(出版社、書店)を通じて印刷物を販売することであって、これによって得られた利益を全国の職を失った貧窮士族の救済に充てることであった。

このことが活版印刷の普及を妨げる要因の一つとなっていることに着目した平野富次郎は、本木昌造を説得して、広く世間に活字・活版を販売することが活版印刷の普及を促進し、自らの利益を増大させると共に、世間の利便にも貢献することことになることを認めて貰った。

(5)平野富次郎による改革の内容
活字製造事業を引受け、改革を行うに当たって、活字製造に関する最新の知識と情報を本木昌造から説明を受け、ギャンブルから伝授された活字製造上の要点を聴取したと見られる。このとき、ギャンブルから入手していたであろう活字見本広告も参考にしたと思われる。

図20-1 上海美華書館の活字見本広告
《『教会新誌』、第16号、同治7年11月(1868年12月)》

この広告では「本館が現有する新鋳の大小中国鉛字6種を販売し、
号ごとに印刷して、重量ポンド当たりの価格と個数を示し、
購入者に一見して便利で明らかになるようにした。(中略)
なお、来館購入するならば、日本鉛字・外国鉛字などもあるが、
ここには価格の表示はない。」と述べている。
ページを4分の1の枠に区切り、枠内に活字のサイズ毎に
キリスト教の「主の祈り」を中国鉛字で印刷している。
字種は一書体のみで、サイズは第一号から第六号まで、
その外に、旧型鉛字の別有二号が表示されている。
この広告は、1868年(明治1年)12月から翌年7月まで、
8回掲載されたが、最後の2回分は別有二号の掲載はない。
長崎の活版伝習では、この広告を教材とした可能性がある。

ちなみに、上海美華書館では号数で活字のサイズを示している。各サイズを比較調査して見ると、第五号を基準として、その倍角(縦に並べた2本分)を第二号、半角(2分の1本分)を第六号としている。また、第三号の1.5倍角が第一号(第三号3本分が第一号2本分)となる。第四号は第三号と第五号との中間サイズであるが、倍角関係はない。このように、美華書館の活字サイズは3種類の異なる基本システムを組み合わせていることが分かる。

第五号は、英語で Small Pica と呼ばれ、1フィートの枠内に80個の活字が並べられるアメリカのブルース・システムを採用している。イギリスのハンサード・システムでは1フィートに83個を基準としており、僅かな寸法差がある。また、イギリスやアメリカの1インチはフランスやオランダの1インチとは僅かではあるが異なっている。

本木昌造は、当初、オランダから活版印刷を学び、幕末になってイギリスのハンサードから新聞印刷を学んだ。明治になってからアメリカのギャンブルから迅速活字製造法を学んでいる。そのため、永年にわたる活字研究の結果として、本木昌造の許には各国の活字サイズシステムが混然としていて、字種・字体も多様なものが残されていたと見られる。

平野富次郎の断行した活字製造上の改革内容は、すでに上海美華書館で実用に供されている製造技術そのものは対象外として、製造の際の管理と運営上の問題に絞られた。その多くが、能力や経験に関係なく失業救済策として採用された従業員であることに起因していると見られることから、教育や訓練は勿論、作業上の管理と運営に着目して改革を断行した。

改革の内容を箇条書きにして纏めると、
① 業務に精励しない者若干名を解雇すること、② 幼年者・老人・身体虚弱者は能力に応じた業務に配置転換すること、③ 出勤・退出の時刻を厳守させ、昼食後の午睡習慣を禁止すること、④ 能力に応じて給料を支払うこと、⑤ 意欲や向上心のある者に褒賞を与えること、などであった。

次に、素人の集まりであることから、
⑥ 仕事を習熟させるために分業制とすること、⑦ 組織を改正して責任の明確化を図ること、⑧ 不良品の発生を少なくするため作業工程の見直しを行うこと、などであった。

また、活字の品質を向上させ、コスト意識を持たせるために、
⑨ 品目ごとに標準見本を作製すること、⑩ 一人の主任者により製品検査を行うこと、⑪ 不合格となった活字類はすべて熔解して地金に戻すこと、などを徹底した。

なお、伝記には記録されていないが、木製の種字から鉛合金製の活字を鋳造するまでには多くの複雑な工程が必要であり、各工程における良否の判断は経験に依存する要素が多かった。当時は未だ外部からの電力供給はなく、蝋や地金の加熱・溶解の際の温度管理や電気メッキ作業での適正層厚管理などは経験を要する感覚に頼るしかなかった。

図20-2 16世紀の活字鋳造作業図
《Hans Sachs の著書(1568)から引用》

床に置かれた地金熔解炉の焚き口から木炭を継ぎ足しながら
その上にある鍋中の地金の熔融温度を調節し、
右手に持った柄杓で熔融地金を定量掬い取り、

すばやく左手に握った鋳型に熔融地金を注ぎ入れる。
その直後に左手を素早く振り上げて、
地金を鋳型の隅々まで行き渡らせる。
鋳型内で固化した活字素材は、鋳型から外されて、
床上の受け皿に入れられる。
明治初期には、
すでに外国で活字注入ポンプや手廻式活字鋳造機があったが、
長崎の新塾活字製造所では、ほとんどが
16世紀のヨーロッパと同様の鋳造作業であったと見られる。

図20-3 活字の仕上げ作業
《石井研堂著『少年工芸文庫』、第八編、「活版の牧」》

この作業は、活字の側面を砥石で擦って仕上げる作業を示す。
これを「こますり」(駒擦り)と呼び、
もっぱら、女性の仕事とされた。

改革の実行に当たっては、長崎製鉄所における経験と上海美華書館の情報が大いに役立ったと見られる。

具体的には、船舶用の機械や器具は鋳鉄や真鍮の鋳物が多く、活字の鋳造と共通する知識と経験が役立った。また、小菅修船場での経営に当たって、本局と経理を分離して独立採算制としたことにより、経営の採算性が明確になった。立神ドック掘削工事では、失業者救済のための人事管理を経験し、多種多様の素人集団を一つに纏めて工事を実行した。さらに、上海美華書館の活字・印刷機械の外部販売による積極経営や印刷見本広告による活字の販売方法などを参考にしたと見られる。

(6)平野富次郎の改革の成果
本木昌造の活字製造事業を引受け、徹底的な改革を実行して、わずか2ヶ月後には課題を解決して、高品質の活字を安定して製造できるようになった。また、不良品の発生が激減したことにより、活字の製造コストも大幅に低減した。その時期については、平野富次郎の大阪出張準備の記録から判断できる。

少し後のことになるが、明治5年(1872)2月になって本木昌造は『新塾餘談 初編一』を刊行して、その緒言の中で「近ごろ、私の製造する活字がようやく完成した」旨を述べている。さらに、その巻末に「口上」として、崎陽 新塾活字製造所の広告を掲載して、各号ごとの印刷見本と1字当たりの代価を示している。

図20-4 新塾活字製造所の活字広告
《『新塾餘談 初編一』、新町活版所、明治5年2月》

活字のサイズ毎に「天下泰平国家安康」の印刷見本を示している。
美華書館の広告と比較すると、
活字サイズとしては、
初号を追加し、六号がない。
書体は、三号に清朝風と和洋行書体を追加している。
また、価格は重量当たりではなく、1個当たりとしている。
この広告は、上海美華書館の広告を見習った可能性がある。

「口上」として掲示された文章を現代文に書き換えると、次のようになる。
「この度、印字見本の通り活字が完成しました。漢字のみならず、カタカナ・ひらがな共大小数種があるので、お望みの方にはお譲りすることができます。その外に、字体や大小など、お好みの通り製造できます。」

初号については、本木昌造が明治3年(1870)に印刷発行した教科書『単語篇 上』で、初号と二号の活字を用いている。この広告と共通して用いられている「天」と「平」を比較すると、同じ活字母型で鋳造されたことが分かる。しかし、『単語篇』では鋳造欠陥のある活字が含まれている。

なお、参考に記すと、広告にある価格の「永」表示は、金貨を基準とした永銭勘定と呼ばれ、江戸時代から金貨は4進法で1両=4分=16朱と呼称するが、これを10進法である銅銭の単位を用いて、1両=1貫文=1,000文=10,000分で呼称することを示す。金貨と銅銭の交換比率は相場によって変動した。明治4年(1871)5月の新貨条例により、純金の重さに基づき1両=1円=100銭=1,000厘=10,000毛となった。

(7)関連する課題への対応
平野富次郎は、改革の成果が出始めたことを確認して、明治4年(1871)9月中旬に大阪に出張し、次いで、東京まで足を延ばし、同年11月1日に長崎に帰着している。

伝記では、「11月に活字若干を携えて東京に上り、」とあるが、平野富次郎の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵、現在は所在不明)の記録により時期を訂正した。出張目的は、伝記では東京での活字販売を試みたことしか述べていないが、当時、本木昌造が大阪、横浜、東京で抱えていた諸課題から類推すると、早期決着を要する別の目的があったことが分かる。

大阪における本木昌造の当時の課題については、本シリーズの「五代友厚と大阪活版所」(2018年8月)で詳述した。また、横浜では、陽其二を派遣して横浜活版所からわが国最初の日刊新聞を発行したが、鉛活字の供給が停滞して、木活字で対応していたこと、東京では、神田佐久間町前の大学東校構内に御用活版所を設立して活字の納入要請を受けていたこと、芝神明前の書肆仲間と活版所設立計画をしていたことについては、本シリーズの「本木昌造の活版事業」で述べた。

平野富次郎は、完成した活字若干を見本として携えて、横浜と東京で販売を試みた。その際、印刷見本も持参したと見られる。

横浜では、陽其二を通じて神奈川県御用掛となっていた柴田昌吉(本木昌造の末弟)を紹介してもらい、同地に設立された日就社から刊行予定の『不音挿図 英和字彙』の序文印刷用として活字を買ってもらった。

東京では、芝神明前の書肆仲間を訪れたとき、岡田吉兵衛を通じて太政官左院から活字数万個の注文を受けた。岡田吉兵衛は、本木昌造が文久2年(1862)に崎陽點林堂主人として『秘事新書』を整版で出版したときの取り扱い書肆の一つである和泉屋吉兵衛のことと見られる。

続いて、神田佐久間町前の大学東校構内に御用活版所を設立する際に、大学御用達の蔵田屋清右衛門から活字の注文を受けた。蔵田屋清右衛門は大学東校にあったスタンホープ式印刷機を借り受け、ドイツ活字を輸入して『独和会話篇』(明治5年刊)を印刷している。

このように、東京の各所で活字の販売を行い、合計2,000円余りの注文を得たという。本木昌造の抱えていた課題も解決し、活字販売の見通しも立って、大きな成果を得て東京を発つ直前に東京で撮影した、丁髷を結い旅姿の平野富次郎の肖像写真が平野家に残されている。
途中、大阪に立ち寄って、活字の原料となるアンチモニーを購入し、長崎に戻った。

この平野富次郎の東京出張と入れ替えに、明治4年(1871)11月22日、工部省は東京赤坂溜池葵町に勧工寮活字局を開設した。長崎新聞局活字一課の設備と人員をここに移転させ、官報の活版印刷を目的とした活字製造を開始した。

この頃が、まさに活版印刷の黎明期と云える。文明開化の代表的な利器の一つと言える活版印刷も、その価値を認められて需要が拡大するためには、更なる努力が必要であった。

2018年9月30日 稿了

 

五代友厚と大阪活版所

まえがき
数ある本木昌造の伝記資料の中で大阪活版所について述べた最初の記事には、「是歳(明治3年)春社員小幡正蔵酒井三造ノ両氏ヲ大坂ヘ送リ五代才助(後ニ友厚)氏ト謀リテ同地ノ大手町ニ始メテ活版所ヲ開カシム(後ニ北九太郎町ニ移レリ)」(『印刷雑誌』、第1巻第3号、明治24年4月)と記述されている。

この記事には著者が明記されていないが、福地源一郎(桜痴)が長崎の西道仙収集の資料(「長崎文庫」)に基づいて執筆したとされている。

活版所開設の時期を「春」(旧暦では正月元日から3月末日)と幅をもたせて表現し、開設場所を「大手町」として当時の大阪には存在しない町名で示している。さらに、五代才助(友厚)とはどのような経緯があったのか全く分からない。

後に、『東京活版製造始祖故本木昌造先生』と題する小冊子が東京築地活版製造所から発行されて、活版所の開設時期は「明治3年3月」となった。しかし、その根拠は不明である。

このように、大阪活版所の開設に関する経緯、場所、時期が必ずしも明確になっていない。そこで、大阪商工会議所に保管されている「五代友厚関係文書」の中から、大阪における活版所開設に関する各種文書(主として書簡類)を横断的に読み解いた。その結果、本木昌造との関係で活版所開設の経緯などが見えて来た。

以下にその内容を紹介するに当たり、この時期、個人の名前が多様に用いられており、例えば、五代友厚は才助、松陰、重野安繹は重埜安、成斎、小松帯刀は玄蕃頭、観瀾、本木昌造は昌三、元木、平野富二は富次郎として文書に現れている。ここでは、特に必要とする以外は、一般に用いられている名称に統一して表記することとする。

(1)大阪における活版所開設の経緯
五代友厚は、明治2年(1869)7月に官途を辞し、その後は大阪の財界に身を投ずる決意をしていた。そのことを郷里鹿児島に帰って報告するため、同年12月、大阪を発って長崎に立ち寄り、翌年1月、大阪に戻る途次、再び長崎に立ち寄っている。


図19-1 大阪商工会議所前に立つ五代友厚銅像
この銅像は、昭和28年(1953)10月、
大阪商工会議所創立75周年に当たり、再建された。
《写真提供:雅春文庫》

長崎に立ち寄った五代友厚は、大阪に大阪府御用活版所を設立して新聞を発行する計画を、大村屋(書肆とみられる)と本木昌造に伝えて協力を要請した。大村屋には大阪に進出して新聞の印刷発行を行うこと、本木昌造には新聞発行に必要な活字を大村屋に提供することを要求したと見られる。

このことに関して、五代友厚が大阪に戻った後に、長崎の大村屋に宛てて出状した明治3年(1870)3月19日付け書簡がある。これを現代文に直して紹介すると次のようになる。

「(前文挨拶は省略)活字板の一件については、追い追い勉強されていることと遠察いたします。当所においても都合よく進展しています。殊に、重野安繹とは『二十一史』を活字で出版するよう取り決めて置いたので、本木昌造とご示談の上、所持の活字一切残らず持参させるよう致したい。もちろん、『二十一史』は近頃流行の書であるが、一向に市中に見当たらず、一部250両位するとのこと。重野はそのため大阪に滞在して字数を取調中です。所持している活字だけでは、まだ、字数が不足しているとのこと。追い追い取り寄せいたしたく、そのため、本木昌造にも大阪に来てもらわなければ、このような大業は成功することは難しいです。一緒に誘い合わせて大阪に来られることをお待ちしています。重野安繹は漢学の分野では現在、彼より優れている者を知りません。同氏を味方にすれば、本木昌造は勿論、貴殿の志もこの時に立つことが出来ると云えるでしょう。ぐずぐずなさることは有りません。頓首不具。
三月十九日                     松陰生
大村屋君
なお、新聞紙の方は何時でも宜しい。また、活字を製造する機械があると思うので、長崎にあれば、御買入の上、ご持参下さい。」

この書簡には出状年が記載されていないが、次に示す重野安繹の書簡と小松帯刀の死亡時期から見て、明治3年(1870)であることが分かる。

「(前文挨拶は省略)昨日、小松家より活版の一件に付いて依頼され、引き受けました。早速、参堂して詳しくお話し申上げたく存じますが、(省略)明後日に(省略)参上いたしたく、(省略)御在宅でしょうか?(省略)詳しくはお会いして申上げます。頓首
三月十一日                 重埜繹拝
松陰賢伯 侍史」

小松家とは小松帯刀のことを指すと見られる。小松帯刀は薩摩藩家老を勤め、新政府内で要職に就いたが、明治2年(1869)5月、病気のため退官した。その後は療養に努めていたが、多くの借財を抱えていた。この窮状を打開するため、小松家で秘蔵していた『二十一史』を活版で出版することを思い付き、重野安繹と五代友厚がこれに協力していた。なお、『二十一史』とは、中国の史記から元朝までの正史を編纂した歴史書である。

重野安繹は、3月13日に五代宅を訪問して、対応を話合い、その結果、先に紹介した五代友厚から大村屋に宛てた書簡が出状されたと見られる。

この大村屋に宛てた書簡によると、明治3年(1870)3月19日の時点では、五代友厚は本木昌造に対して大阪に活版所を設立することまでは、まだ、期待していないように読み取れる。

また、同じ書簡で、追伸として述べている「新聞紙の方は」の一文から推察すると、五代友厚が大村屋と本木昌造に対して、以前から大阪での新聞発行を相談していたように窺える。

やや後のことと見られるが、活版所の開設に関して本木昌造が作成したと見られる覚書草案がある。一部補足して現代文に直して紹介する。

① 大阪府の御用活版所として設立し、本木昌造(元木と表記)が全てを手配すること。
② 『二十一史』の校合・句読を重野安繹にお願いすること。
③ 活字数が揃ったら、期限を定めて『二十一史』を印刷し、利益は2分割すること。
④ 『二十一史』を出版するまでは、その他の書籍売上高の5歩を上納すること。
⑤ 書籍の販売は秋田屋に差配させること。
⑥ 必要な資金を貸し渡し下されば、利付で借用するが、ご都合に任せること。

この覚書草稿には差出人、受取人、日付の記載がない。しかし、国立公文書館にあるマイクロフィルムを閲覧した結果、明らかに本木昌造の筆跡であることが分かった。
内容からみて、受取人は五代友厚と見られる。

先の五代友厚から大村屋に宛てた書簡と相違して、より具体化された取り決めとなっている。ここでは、大村屋の代わりに本木昌造が活版所を設立し、秋田屋が書籍の販売を行うことになっている。秋田屋は、大阪心斎橋通安堂寺町の秋田屋太右衛門のことと見られ、本木昌造の『秘事新書』を整版で発売したことがある。

この覚書草稿の作成時点で、当初、五代友厚が期待していた長崎の大村屋は辞退したと見られる。その背景には、長崎の大村屋と本木昌造との間で何らかの話合いがなされ、大村屋は荷が重すぎることで手を引き、本木昌造自身が大阪に活版所を設立することになったと見られる。

その後のことについては、『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)の速水英喜に関する記述の中に、「(本木昌造)先生は予ねて長崎で経営されている長崎新塾の出張所を大阪の地へ設立する意図があって、豪商五代友厚氏と田村良助氏、これに(長崎屋)吉田宗三郎氏等を加えて相談を試みられ、翌3年3月には先生の命を奉じて同社員小幡正蔵、酒井三造の両氏が上阪し、五代氏と更に協議の結果、大手町に大阪活版所を創立することに決定した。」と述べられている。

以上の事柄を纏めると、明治3年(1870)1月に五代友厚が長崎に立ち寄って、本木昌造と大村屋に大阪での新聞発行のことを相談した。これを受けて本木昌造は、懇意にしていた大阪の長崎屋宗三郎と田村良助に連絡して、五代友厚と相談していた。3月になって、小松帯刀所蔵の『二十一史』を活版で出版することになり、五代友厚は同月19日付け書簡で大村屋と本木昌造に対応を要請した。本木昌造は大村屋と協議し、3月中に小幡正蔵と酒井三造を大阪に派遣した。二人は長崎屋宗三郎と田村良助と共に五代友厚と更に協議を行い、活版所設立に関する覚書を交わすに至った。

したがって、大阪で実際に活版所が開設された時期は、いくら急いでも、それから1,2ヶ月後のことと見られる。

(2)活版所開設直後の『二十一史』出版中止
活版所の土地と建物は、地元の長崎屋宗三郎と田村良助が手配して、大手筋折屋町(現在の大手通2丁目)に所在する家作を買い受け、小幡正蔵と酒井三造を責任者とし、さらに、長崎から谷口黙次、若林弥三郎、茂中貞次を送り込み、必要な職人を派遣するなどして、万全の体制を敷いた。


図19-2 「大阪活版所跡」碑
場 所:大阪市中央区大手通2丁目4番の前の道路脇
表 面:「大阪活版所跡」
右側面:「明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計
     により この地に活版所が創設された 大阪の活版印刷
     は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」
裏 面:「    昭和四九年三月  大阪市建立」
《写真提供:雅春文庫》

ところが、明治3年(1870)7月20日、小松帯刀が36歳の若さで大阪において病死した。そのため、『二十一史』の刊行が中止となってしまった。

本木昌造は、五代友厚・重野安繹と対応を協議した結果、五代友厚が上海の美華書館で出版を予定していた『和訳英辞林』を、取り急ぎ、大阪の活版所に振り替えることとなった。

(3)五代友厚の『和訳英辞林』出版計画
先に薩摩藩の学生高橋新吉(良昭)・前田献吉(正穀)・前田正名(弘庵)の3人が、長崎で洋学の勉強をしているときに、海外留学の資金を得るため、和訳英辞書の出版を思い付き、アメリカ宣教師フルベッキの協力を得て原稿を作成した。これを上海の美華書館で印刷し、完成した『改正増補 和訳英辞書』(明治2年1月、薩摩学生として刊行。通称『薩摩辞書』)を国内で売りさばくに当たって、五代友厚が協力した。『薩摩辞書』は好評を博し、品切れの状態で高価に取り引きされるようになった。

話は少しさかのぼるが、前田献吉(前田正名の兄)は軍艦「春日」の軍医として戊辰戦争に従軍し、高橋新吉は薩摩藩庁に出仕して長崎で警備に就いたため、前田正名はひとりで辞書の序文を作成し、「薩摩学生」(英文では A STUDENT OF SATSUMA)と記して完成させた。前田正名は完成した辞書2,000部を上海から持ち帰った。

前田正名は、五代友厚の協力の下に、約500部を売りさばいて自分の海外留学資金とし、残りの約1,500部を五代友厚に預けて、明治2年(1869)6月、フランスに帰国するモンブラン伯に同行して出国してしまった。

その後、前田献吉と高橋新吉は相次いで鹿児島に戻り、五代友厚から『薩摩辞書』を受取った。2人はアメリカに留学するため、受け取った辞書の販売に尽力して留学資金を得た。明治3年(1870)2月になって、留学のため出発する期日が差し迫ったため、残り500部の販売を小松帯刀に頼み込んだ。小松帯刀から依頼された五代友厚は、大阪内淡路町の岡田平蔵に販売を依頼して、売りさばいてやった。

五代友厚は、『薩摩辞書』が好評を博したことに目を付け、通訳兼手代として雇っていた堀孝之(壮十郎、オランダ通詞堀達之助の次男)に指示して、この『薩摩辞書』をウェブスター辞書を基にして大幅に改正・増補させ、薩摩学生前田献吉・高橋新吉の名前で出版することを計画した。

その改定・増補する内容について、次のような覚書が残されている。これを現代文に直し、補足を加えて紹介する。

① ウェブスター小辞書から選択して、先の和訳英辞書(『薩摩辞書』)で不足している英語を追加すること。
② 和訳英辞書に幾つかの誤訳があるので、別途、改正専門の者を雇うこと。
③ 巻末付属の略語集に詳しい和訳を加えること。
④ 右の通り増補改正する辞書の序文と本文最初の一枚位を印刷して、広く一般に配布すること。
上記4ヶ条は、この度の辞書再版において一つも欠くことのできない要件である。

この覚書には示されていないが、最大の改正点として、英語の発音を示すカタカナ表記を止めて、ウェブスター辞書に基づく発音符号、アクセント符号、シラブル記号を用いることとした。(図19-3を参照)

明治2年(1869)10月頃、堀孝之の手で増補改正作業が大方完成した段階で、前田・高橋に二人の名前で辞書を再版することの了解を得たと見られる。明治3年(1870)5月になって、前田・高橋はフルベッキに辞書再版のことを伝え、堀孝之と共に3人で上海の美華書館を訪れた。現地では、ほぼ完成した原稿を示し、見積もりを依頼すると共に、宣伝に用いるための摺り見本を要求し、契約書用紙と摺り見本を持参して、一旦、帰国した。

この再版辞書(『和訳英辞林』)は、五代友厚と堀孝之にとっては、先に薩摩藩が鹿児島に設立した薩摩藩活版所で出版を計画した大英和辞書(ウェブスター大辞書を基にして堀孝之が編纂)に代わるものであったと見られる。薩摩藩では、印刷の知識と技術が伴わず、印刷設備1式は使用されないまま、明治2年(1869)9月頃、本木昌造に譲渡された。本件については、前回ブログ「本木昌造の活版事業」で紹介した。

前田献吉と高橋新吉の2人は、海外留学の準備と『薩摩辞書』の販売に注力していたが、序文の作成と官許申請だけは行ない、後事を堀孝之に託して、明治4年(1871)1月4日、海外留学のため、アメリカに向けて出発してしまった。

(4)洋活字の製造で困難に直面
五代友厚は、大阪の活版所で出版準備中であった『二十一史』を中止し、それに代えて上海の美華書館で再版を予定していた『和訳英辞林』の出版を本木昌造に依頼した。依頼にあたって、五代友厚は上海美華書館で印刷した摺り見本(本文8ページ分)をサンプルとして渡したと見られる。この摺り見本は「五代友厚関係文書」の中に含まれている。

本木昌造は、先に薩摩藩から譲り受けた和洋活字1式と手引印刷機1台を大阪に送って対応した。この印刷設備は、薩摩藩が大英和辞書の印刷のために購入したものであることから、容易に出版できるものと考えていたらしい。

ところが、期待に反して洋活字の製造に苦労し、なかなか完成するに至らなかった。この洋活字を含めて、活字製造事業が壁に突き当たって進退窮まった本木昌造が、長崎製鉄所を退職した平野富二を招いて活字製造事業を一任し、抜本的改革に着手したのは明治4年(1871)7月10日前後とされている。

大阪活版所の支配人となった長崎屋宗三郎が大阪府庁に提出した明治4年(187197月52日付けの「乍恐口上」書簡がある。それによると、まず最初に「西洋活字の製造法を修業中」と述べている。

このことは、本木昌造が『和訳英辞林』の出版を依頼されてから、ほぼ1年を経過しているにも関わらず、西洋活字が製造できず、「製造法を修業中」、つまり、実用できる西洋活字の製造が未だに出来ない状態であることを示している。

先に薩摩藩から譲り受けた和洋活字1式が手元にあり、しかも、上海美華書館のギャンブルから伝習を受けたことでもあり、その洋活字を種字として蝋型電胎法で母型を製作すれば、問題なく洋活字を複製できる。しかし、今度の『和訳英辞林』は、以前の『薩摩辞書』と相違して、全ての英語に発音符号が付けられていた。そのため、この符号付き洋活字の製造に苦労して、なかなか完成に至らなかったと見られる。

長崎屋の書簡には、続いて、「大阪府下追手筋折屋町において、昨年中より活字器械を据え付けて現在に至っている。」とある。これにより活版所の場所が判る。「追手筋」は大坂城の追手口に通じる道筋のことで、その道筋に「折屋町」がある。明治4年(1871)2月に出版された『新塾餘談 初編二』には、製本賣弘所のひとつとして「大坂 大手筋折屋町 活版所」と表示されている。「追手筋」は昔からの呼称で、「大手筋」、「大手通」と称されるようになる。

なお、この書簡は、大阪府付属御用活版所として、府庁で必要な書籍類を調進し新聞記事を毎日印行することの免許を大阪府に申請するものであった。

その後、新聞刊行についての規則の提出と承認を経て、明治4年(1871)10月28日に『大阪府日報』初号(内題『日刊波華要報』第一号)を発行している。この新聞は、活版ではなく整版(木版)で印刷され、その口上の中に「板元は内淡路町壱丁目活板所長崎屋宗三郎」と記している。

内淡路町壱丁目は、追手筋の1本北側の道路に面した町で、その道路の南側は活版所のある折屋町と背中合わせとなっている。先の書簡で、長崎屋宗三郎が大阪府付属御用活版所として申請し認可を受けた場所は折屋町であることから、本来ならば折屋町とするべきである。しかし、背中合わせの北側の内淡路町1丁目としていることは、この土地までも取得して活版所用地としていたと見れば、まだ、活字による活版印刷ができなかったことから、遠慮して、「活板所」と表記し、裏口の住居表示を用いたのではないだろうか?

なお、内淡路町1丁目は、後に2丁目に変更されるが、ここには長崎屋宗三郎が薬種問屋としての店を持っていた。この店は、長崎の物産を扱い、本木昌造の定宿であったと云われている。

長崎屋宗三郎が大阪府庁に「乍恐口上」を提出する直前の明治4年(1871)7月14日に、政府は262藩を廃して3府72県を置く廃藩置県を断行した。このとき、廃藩置県に関する政府の印刷物一切を大阪活版所が引き受けたという。活字製造が壁に突き当たっていたため、やむを得ず、整版印刷で対応したと見られる。

この頃、廃藩置県に伴い職を失った元藩士たちの授産のために活版業を始めようとした尼崎の三浦長兵衛が、大阪の長崎新塾出張活版所を訪れて、活版業の伝授を懇請したが、同所の幹部は入門を許さず、絶対秘密主義を墨守したとの話が『本邦活版開拓者の苦心』に紹介されている。当時、大阪の活版所では、活字製造法が未だに確立されておらず、それどころではないのが実情であった。

(5)平野富二の登場
この頃、本木昌造が平野富二に活字製造部門の経営を一任し、平野富二による抜本的改革が行われていた。このことに付いては、前回ブログ「本木昌造の活版事業」で紹介した。

平野富二が本木昌造の活字製造部門の経営を引き受けたのは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。活字の規格を統一し、品質管理と在庫管理を徹底させ、適材適所の人員配置と勤務の見直しを行った。

その結果、不良品が激減して、印刷に堪える品質の活字を安定して製造できる見通しがついた。そこで、平野富二は、活版事業で大阪と東京で抱えている懸案事項について本木昌造と相談し、まず、大阪で抱えている洋活字の製造を中止し、五代友厚から請け負った『和訳英辞林」の出版を辞退することを進言して、了解を得たと見られる。

平野富二は、同年9月13日、大阪出張のために本木昌造と社友品川藤十郎から旅費などを借用している。恐らく、当日か翌日に大阪に向けて出立したと見られる。その際、見本の活字若干数と印刷した摺り見本を持参したと見られる。

大阪では、酒井三造の案内で五代友厚を訪問し、長崎における活字製造の取組みについて説明し、『和訳英辞林』の活字製造と組版の困難さを訴え、当初予定していた上海の美華書簡で印刷するよう懇願したと見られる。また、五代友厚から受領していた辞書出版前払金と活版所設立融資金の返済についても話し合ったと見られる。

五代友厚は、取り急ぎ、堀孝之を上海に派遣して、美華書館に『和訳英辞林』の印刷・製本を依頼したと見られる。明治4年(1871)10月、上海美華書館から『大正増補 和訳英辞林』(本文806ページ)として出版された。なお、堀孝之の同年1月25日付けの五代友厚宛書簡によると、契約書に調印して前金を支払えば、40~50日程度で印刷できるとのことであった。

図19-3 『大正増補 和訳英辞林』の内表紙と本文
本文の英語には、全て発音符号などが付けられている。

大阪での用務を済ませた平野富二は、本木昌造からの指示を受けて、大阪に居た小幡正蔵と同行して、横浜を経由して東京に向かった。

横浜では、横浜活版社の陽其二を訪れ、その紹介により日就社から活字若干の注文を受けた。東京では、神田和泉町の元藤堂家上屋敷の門長屋に文部省御用活版所を設営して、小幡正蔵を所長とした。次いで、芝神明前の書肆仲間を訪れて活版所設立の計画中止を申し入れた。その後、東京の各所を訪れて活字の宣伝と販売を行い、大きな成果を得て長崎に戻ったのは、同年11月1日のことだった。

(6)平野富二による五代友厚への融資金返済
平野富二の遺品の中に、「本木昌三 利子」と題した書付があり、三谷幸吉によって『本木昌造・平野富二詳伝』に不鮮明な写真版が掲載されている。なお、「本木昌三」は戸籍上の表記である。

図19-4 「本木昌三 利子」書付
《三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』より》

本木昌造は、五代友厚からの要請で大阪に活版所を設立する際、入費金として利付で資金を融資して貰っている。このことは本稿(1)で述べた。さらに、島屋政一によると、『和訳英辞林』の印刷を請け負う際に、前渡金として5,000円を無利子で受取り、月賦で返還することにしていた。

先の「本木昌三 利子」によると、明治7年(1874)10月の時点で、本木昌造は3,580円の利付負債があったことが判読できる。つまり、辞書印刷の前渡金は既に返済が終わっていて、残りは活版所設立の際の融資金の残金であったことが分かる。

融資金の残金に対して、本木昌造は、明治7年11月に元金100円に利子を加えて返済したが、以降、返済が滞ったまま、明治8年(1875)9月3日に死去してしまった。そのため、平野富二は、この本木昌造の負債を肩代わりして、取り敢えず元金1,500円に利子を付けて返済した。その後は、元金200円に利子を付けて月賦返済を行い、明治9年(1876)10月に残金180円に利子を付けて返済を完了した。図版では利子の金額までは読み取れない。

平野富二にとっては、もともと本木昌造に養老金として毎月200円を贈っていたので、本木昌造の没後は、それに代えて月賦返済の元金としたと見られる。

大阪活版所は、その後、主として商業印刷物を中心に印刷していた。牧治三郎の蔵書の中に、明治7年8月官許の『医用化学』(ニール・スミス著、松村短明訳、美濃二つ折和装、四号明朝活字組、112ページ、大阪大手通折屋町印務活版社)、明治10年(1877)2月出版の『新撰薬名早引 全』(安川通斎輯、松村文海堂発兌、四六判、96ページ、奥付欄外に大阪大手通活版社)がある。

明治11年(1878)春になって、大阪活版所は東区北久太郎町2丁目(現、中央区久太郎町2丁目)に1,000坪余りの土地を求めて移転し、大阪活版製造所と改称した。ここでは、事業を拡張して印刷機械の製造を本格的に行うこととなった。

五代友厚は、平野富二の誠意に感じて、平野富二の造船事業にしばしば支援の手を差し伸べている。また、五代友厚は東京築地に製藍事業の東京店として東朝陽館を設立て、岩瀬公圃を派遣していたが、平野富二が横浜製鉄所の貸与を申請したとき、岩瀬公圃に保障人となって貰っている。

五代友厚は、明治11年(1878)8月、大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の設立を主導し、創立に際して会頭に選ばれ、死去に至るまでその任にあった。明治18年(1885)9月25日、東京築地で没した。享年51。

五代友厚が保管していた書簡類は、現在、大阪商工会議所に「五代友厚関係文書」として保管されている。その内容はマイクロフィルムにより国立国会図書館で閲覧できる。

2018年8月27日 稿了

本木昌造の活版事業

平野富二を語る上に於いて、本木昌造の活版事業を欠かすことはできない。今まで、本木昌造の研究として多くの研究者がその活版事業について調査研究し、各種報告がなされている。しかし、その事業化に至る経緯は依然として不明確なことが多い。

ここでは、新しい知見や推測を織り込みながら、その全貌を纏めてみたが、未だ完全解明には至っていない。。

(1)活版研究の取り組み
本木昌造は、弘化3年(1846)の頃、緻密に整然と印刷されたオランダ書籍を見て、わが国でもこのような印刷による書籍を造りたいと研究を始めたと云う。丁度この頃、後に本木昌造のこの分野における後継者となる平野富二(幼名、矢次富次郎)が生まれている。

図18-1 晩年の本木昌造
《古賀十二郎著『本木昌造先生略伝』より》
明治7年か同8年に上京したとき、浅草の内田九一写真館で撮影した。

嘉永1年(1847)、オランダから舶来した蘭書植字判1式が長崎会所に保管されているのを見つけ、オランダ通詞仲間4人で借り受け、12月になって代金を払って買い受けた。その設備を、品川藤兵衛の屋敷に持ち込み、活版印刷の研究を行った。その仲間は、北村元助(45歳)、品川藤兵衛(39歳)、楢林定一郎(28歳、量一郎)と、一番若くて熱心だった本木昌造(23歳)と記録されている。なお、年令は数え年で示す。

数年間、調査研究した結果、西洋の印行術と上海の鉛字、わが国の組版などを比較折衷してガラフハニー(galvani、オランダ語の発音;電気メッキ)版で活字母型を造り、手鋳込器を用いて鉛活字を鋳造し、嘉永5年(1852)の頃、『蘭和対訳辞書』を印刷して、これをオランダに送ったとする伝聞が平野富二によって記録されている。しかし、この伝聞は時期の異なる事柄を集約したと見られ、このまま受け取ることはできない。

嘉永6年(1853)7月、ロシア使節プチャーチンの長崎来航と、それに続くアメリカ使節ペリーの浦賀沖来港で江戸と伊豆を往復するなど、安政2年(1855)4月に病気を理由として長崎に戻るまでの約2年間は、公務多忙で長崎を離れた期間も長く、活版印刷の研究を行うことは出来なかったと見られる。

安政2年(1855)8月、長崎奉行は西役所に活字判摺立所を設けて、オランダ書籍の復刻印刷を行うこととした。オランダ通詞4人の所有する蘭書植字判1式は買い上げられ、本木昌造は推薦を受けて活字判摺立方取扱掛に任命された。

同年12月には、他のオランダ通詞たちと共にオランダ商館長ドンケル・クルチウスと医師ファン・デン・ブルックから物理・化学などの学習を命じられた。このとき、本木昌造は電気メッキ法などの最新技術も知識として学んだと見られる。そのとき学習したテキストに基づき自ら実験した結果を後述する『新塾餘談』に掲載している。

安政4年(1857)5月、蘭書・器物売り捌き事件に連座して処罰された。翌年2月末に自宅謹慎の身となり、11月末に許されて自由の身となるまでの9ヶ月間、自宅で密かに活版研究を進めると共に、わが国の近代化を果たすために必要な青少年の基礎教育について構想を練っていた。

自宅謹慎の身となる直前の安政4年(1857)3月28日に長男昌太郎が夭逝し、自宅謹慎中の7月12日には妻縫が21歳の若さで病没した。なお、前年9月18日に次男小太郎が生まれている。その後、時期は定かでないが、本木昌造は病没した妻の母方の従妹タネを後妻として再婚した。

自宅謹慎を解かれた本木昌造は、活版師インデルマウルが運営する出島印刷所の通詞兼目付役に任命された。インデルマウルは長崎海軍伝習所の第二次オランダ教師団の一員として来日していた。ここでは、日本人の印刷見習工によりロール印刷機を用いてオランダ書籍の復刻が行われた。

このとき、本木昌造はインデルマウルから西欧の最新活版印刷技術を直接学んだと見られる。手元にある鉛活字を用いて電気メッキ法を応用し、同じ活字を複製する方法は既にオランダでも実用化されていたと見られる。

なお、本木昌造が活字判摺立方取扱掛となっていた活字判摺立所は、江戸町の五ヶ所宿老会所に移転した後、廃止されて、印刷設備は奉行所倉庫に保管されていた。

(2)事業化の試み
本木昌造は、自宅謹慎中に行った独自の研究と出島活版所でインデルマウルから教えて貰った事柄を織り込んで、安政6年(1859)12月に『和英商賈対話集 初編』(発行人塩田幸八)を出版した。それは、安政4年(1857)に長崎活字判摺立所で覆刻出版したオランダの『英文典初歩』から主要会話を抜き出し、オランダ会話の部分を和訳したものである。英文とその発音を示すカタカナはパンチ母型による鋳造鉛活字を用い、和文は木版を用いて印刷したものと見られ、漢字と平仮名の活字は未だ世に出すには至らなかったと見られる。

万延1年(1860)10月に出版した『蕃語小引 上下巻』(増永文治・内田作五郎名義)は、上巻の凡例に続けて「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今新ニ製スル所ニシテ 未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ヲ希フ」と記されている。漢字は蝋型電胎母型によると見られる鋳造活字を用いて印刷されている。

図18-2 『蕃語小引』の一部

いまだ満足の出来る鋳造漢字活字ではなかったが、実用化の目途のついた段階で、その成果を世に問うものであったと見られる。その意味で、これが本木昌造の永年の夢であった活版事業の最初の試みと見ることができる。なお、このときの活字試作や組版作業には、本木昌造を慕う若者たちが本木一門として協力したと見られる。

長崎奉行所の地役人としてオランダ通詞を勤める本木昌造は、書籍を出版して販売するような商行為は認められていなかった。そのため、自分の名前を出すことは出来ず、出入りの商人に依頼して出版届を提出し、発行したと見られる。

本木昌造は、上海において同様の技法で漢字活字を製造しているとの情報を得て、その製造法を学ばせるため、万延1年(1860)に門人松林源蔵を上海に派遣したが、空しく帰国したと云う。上海では、在中国アメリカ長老会印刷所が寧波から移転したばかりであり、しかも、蝋型電胎法により漢字の活字母型を造り始めたばかりの頃であったことを考慮する必要がある。

ところが、同年11月、本木昌造は長崎飽の浦で建設中だった長崎製鉄所の御用掛に任命された。そのため、緒に就いたばかりの活版事業を中断せざるを得なくなった。

しかし、文久1年(1861)5月、長崎居留地滞在のイギリス人ハンサードが日本で初めての英字新聞を発行するとき、本木一門の若者たちが、伝習を兼ねて手伝いのため英字新聞の発行に協力した。その中に陽其二や平野富二の名前もある。

慶應4年(1868)1月14日、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗退したとの報に接した長崎奉行が、長崎を退去するに当たり、本木昌造に製鉄所取扱方を任命し、長崎製鉄所の経営を一任した。長崎製鉄所は、同年5月4日、新政府の下で長崎府に移管された。この頃、本木昌造は長崎府に新聞局を設置することを建議したと見られる。同年7月24日には長崎製鉄所の頭取に任命されている。

同年8月、長崎新聞局から『崎陽雑報』が発行された。これは鋳造活字による活版印刷を計画していたが、木活字で間に合わせたと見られる。鋳造活字の製造が思うように進まないため、同年9月には政府の許可を得て上海美華書館に活字母型と関連設備1式を購入手配している。しかし、実際に購入したかどうかは不明である。

いつまでも思うような品質の鋳造活字を迅速に製造することができないため、上海美華書館の責任者ギャンブルが任期を終えてアメリカに帰国する機会を捉えて、長崎興善町の唐通事会所跡を伝習所として迅速活版製造技術の伝習(明治2年10月から翌年2月末まで)が行われた。

(3)活版事業の本格化
本木昌造は、明治2年(1869)8月に、病気を理由に長崎製鉄所の頭取辞任を申し出て以降、長崎製鉄所に出社しなかったという。9月になって、頭取辞任が認められて、代わりに閑職を与えられた。10月になって、ギャンブル伝習に協力するよう要請を受けたため、一門の者たちと共に伝習に参加して協力した。伝習を終えた明治3年(1870)2月末に、本木昌造は長崎製鉄所を正式に退職した。

頭取辞任を申し出て以降、本木昌造は、公職を離れて独自に活版事業を本格化させる準備として、多大の資産を投入して活版印刷を行うための印刷器械類を購入している。

明治2年(1869)9月頃と見られるが、友人の池原香稺の紹介で鹿児島を訪れ、薩摩藩の活版所を視察している。このとき、活用されずに保管されたままになっている和洋活字各1組と活版印刷機(ワシントンプレス)1台を譲り受けた。

図18-3 同型と見られるワシントンプレス
門型支柱に取り付けられた2本のスプリングによって
中央の圧盤を吊っており、レバーを引くことによって
中央のエルボーを経由して圧盤が押下げられる構造を特徴とする。

薩摩藩活版所の設備は、慶應4年(1868)6月に同藩の学生前田正名が上海から和英辞書(通称『薩摩辞書』)の数ページ分の摺り見本を持って資金集めのために帰国し、同藩の重野厚之丞(安繹)に見せたところ、重野厚之丞はその仕上がりに感心して、印刷設備一式を上海美華書館から購入して薩摩藩に活版所を設けることになった。

丁度この頃、五代才助(友厚)が通訳兼手代として雇っていた堀壮十郎(孝之)に和英辞書(ウエブスター大辞書を底本とする)を編集させていた。これを薩摩藩で印刷し、出版することとしたものである。

薩摩藩の和洋活字一式と印刷機は、明治2年(1869)2月に、再渡航した前田正名が上海から帰国する際、一緒に携行して来たと見られる。しかし、活字を印刷版に組む知識もなく、印刷機を組立てて使用する技術もないため、和英辞書の出版は棚上げにされた。

本木昌造は、長崎外浦町の自宅の一隅に活字と印刷機を持ち込み、門人陽其二と二人で、昼夜を分かたず、研究に取り組んだという。また、このとき、活字母型の製造法を学ばせるため、門人酒井三造を上海に派遣したとの伝聞がある。しかし、この伝聞は、当時すでにギャンブルを上海から長崎に招聘して伝習を受ける計画が進められていた頃であるので、誤伝と見られる。

ギャンブルの伝習を終了した明治3年(1870)2月末日をもって、本木昌造は長崎製鉄所を正式に退職した。その後は、ギャンブルの伝習によって得られた新知識を取り入れて蝋型電胎法による活字母型の製造に取り掛かった。

上海美華書館の明朝風漢字書体に加えて、新たに清朝風(楷書体)と和洋(行書体)の漢字と古典仮名の活字を製造するため池原香稺に揮毫を依頼した。当時の文章は、和洋漢字と古典仮名まじりが一般的であることを配慮したものと見られる。(図18-5 を参照)

また、大々的に多様の印刷物を出版するため、薩摩藩から譲り受けた印刷機をもとに、模造印刷機3台の製作を長崎製鉄所に依頼した。

さらに、同じ頃、上海美華書館に注文していたロール印刷機1台を買い求めた。これは、明治2年(1869)4月に本木昌造が新聞発行を目的として上海美華書館に4,000ドル相当の印刷機と関連設備の見積を依頼していたものであると見られる。購入した印刷機は、紙取付の無い四六判八頁掛けのロール印刷機(シリンダープレス)とされている。

図18-4 同型のロール印刷機
《東京築地活版製造所『活字と機械』、大正3年6月より》
上部にある円筒に印刷用紙を巻き付け、

その下で左右に往復する台車上の印刷版の動きと同期して
回転することによって印刷する。
手前右側の筒は、インキ塗布用の印刷用ローラー鋳型である。

(4)活版所の設立と中央への展開
明治3年(1870)3月、本木昌造は新町活版所を新街私塾に併設して開業した。ここでは、教科書・参考書・教養書などを活版で印刷し、広く一般にも販売することとした。

新街私塾では、もと地役人の子弟などを受入れ、その道の専門家を教師とし、本木昌造の方針で入学金などは無料とした。その経費を賄うために、私塾に付属させて新町活版所を設け、活版事業によって得られた収益を充てることにした。

活版事業を開始するに当たって、友人・知人に協力を仰ぎ、松田源五郎・品川藤十郎・和田半がそれぞれ1,000両、島田茂次郎・和田粂造がそれぞれ500両、合計4,000両を提供した。また、坂道を隔てた隣接地の小倉藩蔵屋敷跡を和田半から提供を受け、ここに活字鋳造場を設けて新町活版所に活字を供給した。この頃、本木昌造は、すでに本木家の財産として3万両余りをほとんど使い盡していたという。

本木昌造が鋳造活字の開発に成功し、長崎に本格的な活版所を開いたことが世間に知れ渡り、大阪、横浜、東京などから活版所の設立要請を受けるようになった。

まず、五代才助(友厚、すでに官途を辞し、大阪財界に身を投じる決意をしていた。)の要請により、明治3年(1870)4月頃、大阪大手筋折屋町に活版所を設立した。設立に当たって、五代才助から3,000円の融資を受けた。長崎から門人の酒井三造、小幡正蔵、谷口黙次、茂中貞次らを派遣して、それぞれ所長、所長代理、店員に据え、地元の薬種問屋長崎屋吉田宗三郎を支配人とした。

次いで、同じく明治3年(1870)4月頃、神奈川県令井関盛艮の要請を受けて、わが国最初の日刊新聞発行のため、門人陽其二を横浜に派遣した。陽其二は、横浜出資者の資金を得て横浜本町通り六丁目に横浜活版社を設立し、明治3年(1870)12月8日付け『横浜毎日新聞』を印刷・発行した。しかし、創刊号は鋳造活字が間に合わず、しばらくの間、木活字混用だった。

明治3年(1870)12月には、京都在住の山鹿善兵衛(父親が本木昌造の弟子だった。)の要請により、門人古川種次郎を派遣して、京都烏丸通三条上ルの地に點林堂を開設させた。後に大阪活版所の支店となる。

明治4年(1871)6月、本木昌造が東京に出張したとき、芝神明前の書肆仲間と活版所設立を計画した。この計画は、後に平野富二が東京出張のとき、本木昌造に代わって事情を説明し、計画中止を申し入れたと見られる。そのとき、平野富二は一書肆(和泉屋岡田吉兵衛)の紹介で太政官左院に活字数万個の注文に成功している。

同じ頃、本木昌造は大学・東南校の活字御用を仰せ付けられ、外神田の藤堂和泉守上屋敷跡に残された門長屋の一室と付属地所を借り受けて活版所を開くことになった。

本木昌造は、このように次々と活版事業の展開を図っていたが、肝心の活字製造が思うようにいかず、健康不安も手伝って、大きな壁に突き当たっていた。頼みとする主だった門弟たちを中央に送り出し、途方に暮れていたとき、今となっては長崎製鉄所を辞任した平野富二に頼むしかないと決意した。

明治4年(1871)7月、本木昌造は、平野富二を自宅に招いて活字製造部門の改革を依頼し、その経営を一任した。このとき、平野富二は、上海美華書館の事業運営を参考にたらしく、印刷出版事業と活字製造事業とを分離することとした。これにより、印刷出版事業を全国に展開して独占的に収益をえるという本木昌造の当初の方針を転換して、活字製造を一つの事業として独立させ、一般需要家にも活字を販売して収益を得ることとした。独立した活字製造部門は「新塾活字製造所」と命名した。

明治4年(1871)7月以降、本木昌造は新街私塾・新町活版所と大阪活版所の経営に専念することとなった。

平野富二が本木昌造から活字製造部門の経営を引受け、抜本的な改革を実行したことにより、わずか2ヶ月後には、ほぼ満足できる品質の活字を廉価に安定して製造することができる見込みがついた。

そこで、平野富二は大阪を経由して東京に出張し、本木昌造が抱えていた大阪と東京における懸案事項を解決し、併せて新塾活字(本木活字)の販売と需要調査を行い、好結果を得て長崎に戻った。

本木昌造は、ほぼ満足できる品質の活字が製造できるようになったので、これを期に語学抄集書6種の出版届を長崎県令に宛てて提出している。以後、教科書・参考書・教養書の出版届を相次いで提出している。

また、『新塾餘談』と題したシリーズ物の教養書を小冊子で出版開始した。明治5年(1872)2月に初編一から初編三を相次いで出版し、4月には初編四を出版している。いずれも巻末に新塾活字製造所の広告を掲載している。

図18-5 『新塾餘談 初編一』の「緒言」
完成した和様(行書体)漢字と万葉仮名の三号活字を用いている。
なお、本文は明朝風漢字と万葉仮名の四号活字で印刷している。
巻末に掲載された新塾活字製造所の広告は、
別シリーズの「東京築地活版製造所 歴代社長列伝 初代平野富二」
に掲載した図1-2を参照されたい。

本木昌造が本木咲三の名前で誌した「緒言」には、「近ごろ、私が製する所の活字がほぼ完成したので、このたび、取り急ぎ筆を執り‥‥」と述べている。また、巻末の広告には、「口上」として「この頃、印刷見本の通り活字が完成し、カタカナ、ひらがな共、大小数種あるので、ご希望の方には売却できます。右の他に字体・大小などお好みの通り製造できます。」としている。

この『新塾餘談 初編』は、西洋の新知識による各種加工法や製造法を紹介したもので、文久2年(1862)秋に整版で出版した『秘事新書』の続編に相当する内容が紹介されている。「初編二」には、ガルファニ鍍金銀の法、銅を以て器物を模する法が掲載され、「初編三」には、型の製法、「初編四」には、ガクファニ蝋着の法が紹介されている。これらは、本木昌造が活字製造の基礎とした諸法と見られる。

このように、活字による出版を積極的に行うようになったことは、本木昌造にとって念願の活版事業を本格的に展開することが出来るようになったことを示すものである。

(5)私塾の経営
大村藩の医師長與専斎は、英語の学習を思い立ち、自宅謹慎中の本木昌造をしばしば訪れた。そのとき、余暇に学塾を開くことを勧められ、文久1年(1861)になって本木昌造の貸家を借り受けて住居とし、10名ばかりの諸生を集めて、毎夜、適塾風の輪講を始めた。このことは自伝『松香私志』に記述されている。

本木昌造は、慶應年間に「新町塾」を開設したが、長崎製鉄所頭取と云う公職があって多忙なため、陽其二を塾長とし、自身は副塾長となったとの言い伝えがある。「新塾変則入門願書綴込」によると、最初の入門願書は明治元年(慶應4年)正月11日となっている。慶應4年(1868)8月になって、新町の長州藩蔵屋敷跡にあった広運館(もと語学所、済美館)が西役所に移転したことから、その跡地を校舎ごと買い受け、移転して「新町塾」と称したと見られる。

明治2年(1869)11月15日、「新町塾」は、規則を定めて正式に開塾し、「新街私塾」(略して「新塾」)と改称した。

ガンブル伝習の結果として、明治3年(1870)4月に初めて造った二号活字を用いて、塾生の教科書『保建大記』(保元から建久までの記録を大記した歴史教科書)を活版印刷した。同年中には、二号活字の倍角として本木昌造が創作した初号活字を用いて教科書『単語篇 上』を印刷している。また、『論語』も印刷を試みたが、活字不足で中止されたと云う。

先に述べたように、明治5年(1872)2月には、塾生向けの読み物として『新塾餘談 初編一』を発行し、同年8月までに『新塾餘談 三編』を刊行している。

私塾経営とは外れるが、明治5年(1872)には本木昌造は養父母を相次いで失った。養父本木昌左衛門久美(戸籍上は昌栄)は6月7日、72歳で病没、養母たまは12月27日、59歳で病没した。本木昌左衛門は、すでに、孫の小太郎を養子として家督を譲り、隠居の身となっていた。

明治5年(1872)8月に学制が公布された結果、小学校下等4年間の就学が義務化された。明治6年(1873)1月15日、本木昌造は法令に基づき私塾開業願書を長崎県令に提出したが受理されず、同年11月、再び願書を提出。明治7年(1874)1月に重ねて私塾開業願書を提出したところ、無免許教員による授業は認められないと通告された。

同年5月には、上京して新築成った築地活版製造所の視察を兼ねて、東京に於ける私塾経営の現状を調査し、長崎県庁が国の定めた一律の教科以外は認めないことを非難して文部省に訴え出た。その結果、ようやく、同年11月17日、文部省の指示により長崎県から私塾設立の認可を得ることができた。

このように、本木昌造は、平野富二に活版製造事業を一任して以降は、専ら、教育事業に注力していたことが覗える。

(6)本木昌造没後の活版事業
明治8年(1875)9月3日、本木昌造は長崎の自宅で死去した。享年52.残された遺族は後妻タネ、次男(嫡子)小太郎(19歳)、三男清次郎(12歳)、四男昌三郎(10歳)だった。

〔新街私塾〕
新街私塾は、そこで教師をしていた嫡子本木小太郎が塾長を継いだが、すでに明治5年(1872)に学制が公布されて公立小学校が設置された今日となっては、私塾としての存在意義も薄れたとして、明治8年(1875)限りで閉鎖することとした。塾の予備金100円余りは県下小学校の学費に供するため長崎県庁に献納した。

〔新町活版所〕
新町活版所は、嫡子本木小太郎が跡を継ぎ、境賢治が中心となって経営を支えた。明治27年(1894)5月から翌28年(1895)9月にかけて、長崎古文書出版会編纂の『長崎叢書』、全9巻を刊行したのを最後に、新町活版所は解散したとされている。境賢治は本五島町に境活版所を、喜多庄太郎は今町に愛文舎喜多活版所を設けた。喜多庄太郎(璋太欧)は、本木昌造が造ったとされる木活字(種字)と鋳造器具一式(合計4箱)を長崎諏訪神社に奉納した。

〔崎陽新塾出張活版所(大阪)⇒ 大阪 活版所⇒ 大阪活版製造所〕
大阪 活版所は、嫡子本木小太郎が跡を継ぎ、所長谷口黙次、支配人吉田宗三郎が経営を支えた。明治11年(1878)に大阪東区北九太郎町2丁目に移転し、活版製造所と改称した。

明治18年(1885)4月になって、本木家から独立させて株式組織とすることとなり、同年6月頃、株主総会で本木小太郎が社長に選任された。しかし、本木小太郎が長期海外出張中のため、同年10月、社長谷口黙次、取締役酒井三造、取締役肥塚與八郎、支配人吉田宗三郎に経営が一任され、社名を大坂活版製造所とした。

明治33年(1900)1月、社長谷口黙次が死去したため、吉田宗三郎が社長に就任した。明治35年(1902)6月、吉田宗三郎が死去したことにより、肥塚源次郎が社長に就任した。

明治45年(1912)になって、大阪活版製造所は閉鎖され、谷口黙次(2代目)が谷口活版所(北区堂島裏3丁目)を設立して、その跡を継いだ。

〔京都點林堂〕
山鹿善兵衛とその子息たちが経営を受け継ぎ、大正12年(1923)に50周年を機会に合資組織に改め、伊東幸祐が代表社員となった。昭和45年(1970)頃までは存続していた記録があるが、それ以降は不明。

〔横浜活版社〕
陽其二は、明治6年(1873)2月、横浜仲通り3丁目に仲間(親戚)と共に景諦社を設立し、同年5月、横浜活版社を閉鎖して横浜毎日新聞会社に譲渡した。

〔文部省御用活版所〕
明治5年(1872)9月に文部省活版所(文部省編集寮活版部)が廃止されたため、小幡活版所と改称したが、明治6年(1873)になって、所長小幡正蔵は、平野富二の了解を得て独立し、協力者だった大坪本左衛門と共に湯島嬬恋坂下に大坪活版所を設立して移転した。

〔崎陽新塾出張活版製造所(東京)⇒ 東京築地活版製造所〕
本件については、別シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長列伝」で述べることとする。

2018年7月31日 稿了

山尾庸三と長崎製鉄所

山尾庸三については、すでに本シリーズの「官営時代の長崎製鉄所(その2)」(2018年2月)で触れているが。本稿では、山尾庸三が長崎製鉄所と関りを持つようになった経緯を述べ、山尾庸三の略歴を紹介した後、長崎新聞局の活版製造設備を工部省に移管した経緯について、やや詳しく述べる。

1)山尾庸三と長崎製鉄所との関わり
山尾庸三が、明治4年(1871)1月7日の夜、長崎に到着して、9日から長崎製鉄所に出向いて帳簿調査を行い、平野富次郎が長崎製鉄所の責任者としてこれに対応したことについては「官営時代の長崎製鉄所(その2)」で触れた。

そもそも、山尾庸三が長崎製鉄所に関りを持つようになったのは、長崎府判事で長崎製鉄所の責任者となっていた井上聞多(馨)の働きによると見られる。

明治2年(1869)3月12日、井上聞多は国の施政上の意見十数ヶ条を参与副島種臣に提出してる。その中の1条に、「諸器械・船等を外国へみだりに注文または買入することを厳禁すべし。是非とも横須賀・長崎両所において作るべし。ついては、山尾庸三を横須賀へ全任これ有り候はば、長崎と申し合わせて、死力を尽くさんと欲す。」と述べている。

この意見書を受けてか、イギリス留学から帰国して郷里に居た山尾庸三は、明治3年(1870)4月、新政府に出仕して民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられ、横須賀製鉄所事務取扱となった。

ところが、井上聞多が会計官判事として大阪在勤(同年6月21日辞令)となって長崎製鉄所の経営に関われなくなったためか、同年5月3日、山尾庸三は横須賀・長崎・横浜製鉄所の総管と細大事務を委任されることになった。つまり、長崎製鉄所を含めた3製鉄所の総括責任者となったことを示している。

明治2年(1869)7月8日、民部省が新設され、これによって政府直轄の府県行政を中央の管轄・指揮のもとに一体化した。同年8月12日、大蔵省の主導により、民生実務一本化のため、民部・大蔵両省が合併した。同年10月28日には横須賀・横浜両製鉄所を神奈川県から本省に移管した。

しかし、長崎製鉄所は長崎府付属のままで民部・大蔵省の管轄下にあった。この頃の長崎府は、衰退の一途を辿る貿易に対処するため、立神ドックを建設することによって大形船舶の長崎入港を促し、それによって長崎を活性化させる動きが始まっていた。

明治3年(1870)7月10日、民部省は大蔵省から独立した。さらに、同年閏10月20日、工学開明・百工褒勧を目標として工部省が民部省から独立した。冒頭に述べた山尾庸三の長崎出張は、長崎製鉄所を長崎県から工部省直轄として継承するための予備調査を行うものであった。

その頃、1871年5月16日(明治4年3月27日)付けの英字新聞『The Far East』に、「長崎の飽ノ浦工場は、日本で最も有効な生産工場の一つであるにも関わらず、現在、休業状態にある。その直接の原因は、現地採用者による公金の遣い込みで、目下、政府による調査が行われている。」と報じている。

山尾庸三の調査結果を受けて、長崎製鉄所で行われた不正経理操作の首謀者とその一味は摘発・処分された。平野富次郎は長崎製鉄所本局である飽ノ浦製鉄所とは分離運営された小菅修船場の経営に携わっていたため嫌疑を免れたが、長崎製鉄所全体の経営責任者の立場として、明治4年(1871)3月16日に退職した。

平野富次郎が長崎製鉄所を去って3週間後の4月7日、山尾庸三が再び長崎に出張して来て、長崎製鉄所と小菅修船場を長崎県から正式に受領して、工部省の管轄下に入れ、長崎造船所と改称した。

図17‐1 明治5年(1872)頃の長崎造船所(飽ノ浦)
(「上野彦馬明治初期アルバム」から)
工部省に移管されて約1年経った頃の様子を示す。
鍛冶場の煙突から煙が出ており、岸壁沿いの工場建物が新設されている。

2)山尾庸三の略歴
山尾庸三は、天保8年(1837)10月8日、村役人山尾忠治郎の三男として周防国吉城郡二島村長浜(現、山口県秋穂二島)に生まれた。

嘉永2年(1849)、13歳で萩に出て繁沢家(藩の重臣で、二島村長浜を給領地としていた)に奉公し、その家来となる。かたわら柳生新陰流師範内藤作兵衛の下で剣術を学んだ。

安政3年(1856)夏、藩命により修学のため江戸に上り、江戸三大道場の一つである斎藤弥九郎の練兵館に入門し、そこで学んでいた高杉晋作(木戸孝允)から弟のように可愛がられたという。

〔洋学修業〕
文久1年(1861)1月、函館奉行所所属の幕府貿易船「亀田丸」がロシア沿海州に派遣されることを知り、藩主の許可を得て箱館(函館)に赴いた。同年4月、幕史北岡健三郎に随行して「亀田丸」に乗り組み、ロシア領ニコライエフスクとアムール地方に渡航し、同年8月、箱館に戻った。箱館では洋学者武田斐三郎の諸術調所に入門して洋学を学んだ。ここには、洋学修業中の野村弥吉(井上勝)が学んでいた。

文久2年(1862)9月、長州藩は小姓役の志道聞多(井上馨)に御用掛を命じて、蒸気船壬戌丸(原名ランスフィールド、448トン)を購入した。江戸に戻っていた山尾庸三は、志道聞多と共に乗り組みを命じられたが、船長と意見が合わず、乗り組みを免じられた。

同年11月、高杉晋作らと共に外国公使襲撃計画を行ったが、世子毛利元徳の命令により中止となり、江戸の藩邸で謹慎を命じられた。謹慎中に同志と血盟書を作り、御楯組と称して、同年12月12日、品川御殿山に建築中のイギリス領事館焼き討ちに参加した。この焼き討ちには、高杉晋作・久坂玄蕃・志道聞多・伊藤俊輔(博文)・山尾庸三ら総勢12名が加わった。

文久3年(1863)1月21日、長州藩が横浜で木造帆船癸亥丸(原名ランリック号、283トン)を購入し、同年3月、山尾庸三は測量方として乗り組んだ。船将は航海術を学んだ野村弥吉で、品川から兵庫までの回航を命じられた。

〔イギリス密航留学〕
この頃、藩重役周布政之助は、野村弥吉と山尾庸三の2人をイギリスに留学させるため、諸方に斡旋を依頼していたが、同年4月18日、志道聞多を加えた3人に、藩主の黙認による海外渡航のため5年間の「暇」を申し渡された。このとき、山尾庸三は身柄を「一代士雇」に準ぜられ、海軍修業として稽古料200両を世子毛利元徳から賜った。

これに次いで、京都藩邸の内用掛伊藤俊輔と江戸詰めで蒸気船壬戌丸乗組員の遠藤謹助が加わり、同年5月12日、伊藤俊輔(22歳)・井上聞多(28歳、旧姓に復す)・野村弥吉(20歳)・遠藤謹助(27歳)と共にイギリスに密航のため横浜を出航した。山尾庸三は26歳だった。

上海でロンドンに戻る2隻の帆船に分乗してイギリスに向かった。伊藤と井上は同年5月末、野村・遠藤・山尾はそれより10日程遅れて上海を出航し、同年9月中旬、山尾等3人はロンドンに到着した。同月23日、伊藤と井上の2人はロンドン港に入港した。

井上と山尾は画家クーパー家に下宿し、伊藤・野村・遠藤はUCL(ユニヴァーシティ・カレッジ、ロンドン)の教授ウィリアムソン家に下宿し、英語の勉強のためUCLの法文学部の聴講生となり、分析化学の講義などを専攻した。
図17‐2 ロンドンに於ける長州ファイブ
前列右が山尾庸三、左が井上聞多
後列右が伊藤俊輔、中央が野村弥吉、左が遠藤謹助

ロンドンに落ち着いて勉学を始めて半年ばかりのとき、現地の新聞でアメリカを中心とした四国連合艦隊が下関を砲撃するかもしれないとの報に接し、伊藤・井上の2人は急ぎ帰国の途に就いた。

元治2年(1865)6月21日、薩摩藩の海外視察員と留学生の一行19人がロンドンに到着した。視察員は新納刑部・松木弘安・五代友厚・堀壮十郎の4人だった。同年7月2日、野村・遠藤・山尾の3人はグラヴァー商会の周旋で薩摩留学生の宿舎を訪問している。

山尾庸三は、井上聞多が帰国した後、UCL近くのクーパー家に一人暮らしをしていた。そのため、薩摩留学生たちと頻繁に接触し、各地を案内している。

長州藩の3人は、藩からの送金がとだえ、学費に窮していた。山尾庸三は、カレッジを退学して造船技術を習得するため、スコットランド地方のグラスゴーに行くことにしていたが、旅費が工面できず、薩摩留学生たちから義援金16ポンドを出して貰ったという。

改元して慶應1年(1865)となった秋ごろ、山尾庸三はロンドンからグラスゴーに移り、昼間は同地にあるネイピア造船所で徒弟・見習工として働きながら、アンダーソン・カレッジの夜学に通って工学を修めた。

ロンドンに滞在していた遠藤謹助は、慶應4年(1868)1月ごろ、病気を理由にロンドンを発ち、同年4月に帰国した。

〔帰国〕
明治1年(1868)11月17日、井上弥吉(渡英時は野村)と共に山尾庸三はイギリス留学から帰国し、横浜本町4丁目の中蔦屋半兵衛方に身を寄せた。翌日、江戸の木戸孝允に宛てて連名で書簡を送り、指図を仰ぐと共に、7、8日滞在したのち、蒸気船で馬関(下関)に帰るとしている。

同年11月21日、山尾庸三は、井上弥吉と同道して東京の木戸孝允宅を訪問した。その後、井上弥吉と共に長州に戻り、山口の藩庁に復命した。翌明治2年(1869)1月、山尾庸三は山口藩海軍局教授方助役を命じられ、造船学を藩の子弟に教えた。同年2月3日、藩当局はイギリス留学から戻った2人に対して各30両の慰労金を下賜している。

〔新政府に出仕〕
その後、山尾庸三は木戸孝允の招きに応じて東京に上り、明治3年(1870)4月9日、民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられ、横須賀製鉄所事務取扱を仰せ付けられた。次いで、同年5月3日、横須賀・長崎・横浜製鉄所総管細大事務委任を仰せ付けれた。同年7月10日、民部省と大蔵省が分離したのに伴い、同月13日、民部権大丞専任となった。

同年閏10月20日、民部省の一部を継承して工部省が設置された。工部省の設置は山尾庸三が辞職を覚悟して政府に迫った結果と言われている。同月22日、山尾庸三は工部権大丞に任じられた。

明治4年(1871)4月、工部学校の設置を建議し、同年7月23日、工部大丞に任じられた。同年8月14日、工部省に工学寮と測量司が開設されるに伴い、同月15日に工学頭兼測量正に任じられた。同年12月4日になって工部少輔に任じられ、明治5年(1872)10月27日、工部大輔に昇進した。

工学寮に工学校(後の工部大学校)を開設するに当たって、訪欧中の工部大輔伊藤博文にイギリス人お雇い教師の人選を依頼した。伊藤博文は、明治4年(1871)11月に横浜を発って岩倉使節団の副使として参加していた。その結果、明治6年(1873)6月、工学博士ヘンリー・ダイアー以下9人が選ばれて来日した。

明治10年(1877)2月1日、工部卿の不在中、御用弁のため毎日太政官へ出勤することになった。明治11年(1878)3月5日、議官を兼任、明治13年(1880)2月28日、工部省のトップである工部卿に任じられた。

〔工部省退官後の余生〕
明治14年(1881)10月、参事院議官に転じ、明治15年(1882)7月、工学会会長となり、明治18年(1885)12月、宮中顧問官兼法制局長官となった。

図17‐3 山尾庸三の肖像写真
(萩博物館図録『日本工学の父 山尾庸三』、口絵写真より)
『明治十二年明治天皇御下命「人物写真帖」』(三の丸尚蔵館図録)に
明治13年(1880)、44歳の頃の写真がある。
本写真は容貌から見てそれよりやや後に撮影されたと見られる。

明治20年(1887)、華族に列せられ、子爵となった。大正6年(1917)12月21日、東京市麻布区東鳥居坂町5番地の自宅で逝去した。享年81。

山尾庸三は、技術者としてだけでなく、技術の持つ多様な側面を国政の場に役立てようとした。国家富強のための人材育成として、技術者養成のための工部学校を設立し、障碍者教育のために盲唖学校の設立に協力した。その性格は、地位や名誉に拘泥することのない、人間味豊かで、控えめな人であった。

3)長崎新聞局の工部省移管
民部省は、布達など一切の文書を、書写の手間を省くため、整版で印刷して公布するようになったが、さらに一層、簡便迅速に行うためには活字以外にはないとして、明治3年(1870)10月12日付け弁官(太政官)宛て文書で、活版印刷設備の導入を申請した。

その文書には、当節、長崎県で活字が開発され、殊の外、人手を省き便利であると聞いているとし、代価については、上海に注文すれば中小の漢字・カタカナ活字とも、併せて5千両ほとになるとして、長崎新聞局によるギャンブル伝習の結果と上海美華書館からの活字母型購入の情報を述べている。

このように、民部省が活版印刷設備の導入を希望していたにも関わらず、長崎県は、同年11月20日付け弁官宛て文書「活字版器械、大学付与の儀伺い」を提出た。

その文書には、長崎製鉄所付属新聞局がギャンブルにより活字鋳造法等を関係者に伝習させ、現在、活字の製造に専念している。しかし、長崎県では経費ばかり掛かって、それほどの役には立たない。したがって、大学が希望するならば、活字原字・諸器械に関係者一同を添えて差出したい、としている。

これに対して大学(後の文部省)は、同年12月15日付け文書で、申し立て通りすべてを受け入れたいとして、弁官に対して長崎県に通知することを依頼した。

ところが、翌明治4年(1871)1月、長崎製鉄所を長崎県から工部省に移管するため、事前調査として長崎に出張してきた民部権大丞山尾庸三は、応対した平野富次郎と共に帳簿調査に集中したためか、長崎新聞局の設備と人員を大学に移管させようとしている事実は知らなかったらしい。

その後について、『工部省沿革報告』の「長崎造船局」の項によると、「明治4年4月7日、工部権大丞山尾庸三は、長崎に至り、同所製鉄所および小菅修船架を長崎県庁より受領し、工部省十一等出仕岡部仁之助(利輔)にその経営を委任した。この際、太政官が長崎県庁に命じて、製鉄所付属の活字製造器械を大学南校に交付させようとしていることを知り、‥‥」とある。

このことに関して、牧治三郎が執筆した「製鉄所活字局移管の経緯」(「いんさつ明治百年⑬」、『日本印刷新聞』、昭和41年11月14日)には、次のように紹介している。

「明治4年3月、崎陽製鉄所御用のため工部省山尾権大丞が長崎県庁に出張して、製鉄所財産の移管について目録と引合せを行った際に、活字製作ならびに新聞紙局の活字および諸機械類の一部が除かれていたので、山尾は、県知事にこれを質した。ところが知事のいうには、『活字製造施設は、先に太政官から大学南校へ移譲するよう鞭撻がきているので、ご質問の部分は財産目録から除いた。』と答えた。
しかし、山尾は、『工部省の事業計画には、活字製作も入れてあるので、活字機械まで南校へ渡されては事業計画の変更で、今さらそれはできない。一応、太政官に伺いを立てるまで、引渡しを延期してもらいたい。』と告げて帰京し、伊藤工部卿と相談の上、4月7日付けで、次のような公文書を太政官に提出して善処方を申し入れた。」

大学では、既に長崎県の活字と器械類を南校で必要としているとして受け入れを表明していたが、長崎県から、工部権大丞山尾庸三の談判により器械類ならびに関係者共、工部省に引き継ぐことになったと通知された。大学はこれを工部省の横取りで不条理千万とした。

これを受けて工部省は、同年4月7日付けの弁官宛て文書「長崎製鉄所所属活字器械 大学南校へ御渡の儀に付 申立」を提出して、活字製作は工部省に一局を設けること、長崎でこれまで製作した活字は残らず南校に渡すこと、希望の者には活字を相応の価格で供給すること、とした。なお、『工部省沿革報告』によると、山尾庸三は次のように上申したと記録されている。

「今や人事多端の日に当たって、活字の功用は欠くことができない。およそ政府布告・日誌等のように速やかに公布を要するものは、活字を用いて印刷すれば、その敏捷なことは以前の比ではない。また、この功用を一般市民が知ることになれば、その内、新聞紙等を発行し、活字の需要が生まれるのは間違いない。したがって、工部省中に更に一局の製造所を設け、広く活字の販売を許し、勉めて印刷業を勧誘することを請願する。」

その結果、活字製造器械は工部省が領収し、既成の活字は南校に交付された。

その後の動向を述べると、工部省は、明治4年(1871)11月22日、勧工寮活字局を東京赤坂溜池葵町の旧伊万里県出張所跡(もと、佐賀藩松平肥前守中屋敷跡の一部)に開設し、長崎新聞局活字一課の設備と人員を移転させた。なお、明治6年(1873)11月になって、勧工寮が廃止されたため、製作寮の所管となった。

図17‐4 工部省勧工寮活字局の所在地
(明治16年測量「五千分一東京図」より)
図の中央左寄りに「工部省」と表記された一画が松平肥前守上屋敷で、
「地質検査所」と表記された辺りに勧工寮活字局があったと見られる。
ごく最近まで、ここには財務省印刷局の虎ノ門工場があった。
外堀を隔てた北側に「工部大学校」が表示されている。

その間、長崎製鉄所を退職した平野富二は、本木昌造の活版製造事業を受け継いで東京に進出し、崎陽新塾活版製造所を開設して、一般需要者に向けて活字・活版の販売を開始した。

これを受けてか、明治6年(1873)4月になって、勧工寮活字局も新聞広告により一般向けに活字販売を開始し、官民の間での劇烈な販売競争となった。

当時の勧工寮活字局の活版製造設備は、平野富二が調査した「明治6年 記録」によると、次の通りである。設備別に区分し、用語は分かり易く修正した。

活字母型:二号 5,000個、三号 6,000個、四号 3,000個、五号 5,000個、
(概数) 七号 300個、西洋 300個。
活字鋳造設備:ハンド・マシン・ポンプ 1 丁、メタル釜 1ッ、キャスチング・
マシン 1丁。
その他道具類:活字尻切道具 1揃、紙締め 1梃、ガルヴァ用型枠締め 1丁、
スペース鋳型 2梃。
印刷機:ハンド・マシン 1丁、ろーる・マシン 2丁。

明治7年(1874)8月になって、製作寮活字局は印刷関係設備一切を正院印書局に引渡した。これによって、政府各省に分散されていた印刷設備の印書局への集約完了した。

一方、南校(後、大学南校)は、幕府の蕃書調所を起源とする教育機関で、蕃書調所から伝えられた活版印刷設備があった。しかし、洋書の復刻印刷を主としていたため、漢字・仮名文字の活字は所有していなかったことから、長崎新聞局の活字と製造設備を必要としていた。明治4年(1871)になって、大学南校の印刷設備は大学東校に移管され、文部省が新設されるに伴い、文部省活版所(通称)となった。その間、大学は、上京中の本木昌造に活版御用を申し付け、活字供給の道を付けた。これが平野富二の東京進出の契機となる。

山尾庸三は、明治4年(1871)1月、長崎製鉄所での帳簿調査で真摯な態度で対応た平野富次郎に好感を抱き、近代産業の根幹をなす造船業の発展に一身を捧げる覚悟であることを知った。これを機に。平野富二(改名)は、東京に於いて山尾庸三から多大の協力を得ることになる。二人の交流については、拙著『明治産業近代化のパイオニア 平野富二伝』で記述してある。

2018年6月25日 稿了

長崎新聞局とギャンブルの伝習

(1)長崎新聞局の開設
長崎新聞局は、長崎府に付属する形で開設された。その開設の時期や経緯については今のところ間接的な伝聞しか見当たらない。しかし、殆どの資料で本木昌造の関与が記述されている。

本木昌造がわが国最初の英字新聞の刊行に協力したことについて、本シリーズの「幕府時代の長崎製鉄所」(2017年12月公開)で述べた。しかし、長崎新聞局から刊行された『崎陽雑報』創刊号に掲載された「題言」には、本件に関して誤った記述があるので、どこまで本木昌造が関与したのか、疑問は残る。

当時、長崎において新聞発行に必要な活版印刷の知識と技術を持つ者は、本木昌造とその一門以外には考え難い。本木昌造はわが国における活版印刷分野の開拓者として知られており、その概要は(2)で紹介する。

長崎奉行所が新政府に移管された後の慶應4年(1868)4月22日に、長崎において商会囲品の入札公示がなされ、その諸品目の中に活字板蘭書摺立道具一式が含まれていた。この入札は、旧長崎奉行所に保管されていた諸品の中の不用品を処分するため、売り捌いたものとみられる。

本木昌造は、このことを知って、活字板蘭書摺立道具一式を長崎裁判所(同年閏4月21日に長崎府となる)に引き取ってもらい、それを利用して一般市民に内外のニュースを伝えると共に新政府や長崎府の方針や施策を周知させる方策として新聞の発行を建議し、その結果、長崎新聞局が設置されたと推測される。

この活字板蘭書摺立道具は、もともとオランダから舶来したもので、本木昌造を含めたオランダ通詞仲間が購入し、嘉永2年(1869)頃から活版印刷の研究を行っていたものと見られる。

長崎海軍伝習所が開設されるに当たって、教科書・参考書をオランダ原書で印刷するために活字判摺立所が設けられ、オランダ通詞仲間が所有する摺立道具一式が買い上げられた。海軍伝習を終えて活字判摺立所が閉鎖されたとき、そこに在った道具類は奉行所の倉庫に保管された。文久1年(1861)になって、その主要部分は江戸の蕃書調所に移されたが、この摺立道具一式はそのまま保管されていたと見られる。

新設された長崎新聞局では、新聞の編集と印刷を自局で行い、活字の製造と版組みは長崎製鉄所内の分局を置いて行った可能性がある。

長崎新聞局で用いる漢字と仮名の活字類は、活字板蘭書摺立道具一式の中には含まれていないので、新規に活字製造部門を設けて、新聞発行に必要な活字類を製造する必要があった。

そのため、本木昌造の永年の研究と実験によって開発された蝋型電胎法により活字母型(鋳型)を造り、手鋳込器を用いて鉛活字を鋳造する方式が採用されたと見られる。具体的には、『本木昌造活字版の記事』(本木昌造自筆稿本、市立長崎博物館から長崎歴史文化博物館に移管)に記述されている方式か、さらに改良を加えたものであると見られる。

(2)本木昌造の活版製造研究
本木昌造の活版製造に関して、明治18年(1885)1月、平野富二が本木小太郎に代わって執筆し、東京府に提出した「活版事業創始の説明」(東京都公文書館所蔵)の中に、次のような記述がある。現代文に直して紹介する。

「本木昌造は、蘭書に基づき西洋印刷術の概要を学び、上海で鉛活字により漢文を印刷している者がいることを知り、上海に人を派遣して調査したが、得るところが無かった。その後、自ら熱心に研究・実験した結果、西洋印刷術と上海の鉛字、わが国の組版などを比較折衷して、ガラフハニー版(ガルヴァーニ版、電胎版)により活字母型を造り、手鋳込器を使用して鉛製活字を鋳造する方法を創始した。これを実際に使用したのは、嘉永5年(1852)の頃で、蘭和対訳辞書を印刷し、これをオランダに送ったのを初めとする。」

この記述によると、本木昌造が上海に人を派遣して調査したのは1852年以前のこととなるが、この時期は、ウィリアム・ギャンブルが中国に派遣される前で、中国では未だパンチマトリクス(punch matrix、打刻母型)方式による鋳造鉛活字の時代だった。ギャンブルは、1860年1月(万延1年11月)に寧波から上海に移転して、蝋型電胎法による漢字の活字母型を造り始めている。

万延1年(1860)10月、本木昌造は増永文治名義で『蕃語小引 数量篇』上下巻を出版した。その上巻の凡例末に「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今 新ニ製スル所ニシテ未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ニ希フ」として、未だ満足できるものではないとしながらも、鋳造活字研究のこれまでの成果を活版印刷で示している。おそらく、ガラフハニー版の活字母型により手鋳込器を用いて鋳造した鉛活字のことを述べたものと見られる。

そもそも、その原理は電気メッキによる精密模造法で、本木昌造は安政2年(1855)から3年にかけて、オランダ商館の医師ファン・デン・ブルックから教えられ、それを応用したものと見られる。

本木昌造は、安政4年(1857)に発覚した蘭書器物密売事件に連座して、同年5月13日、預かりの身となり、その後、揚り屋入りとなったが、翌年2月30日に重病を理由に出牢を許され、再び預かりの身となって自宅謹慎を続けていた。安政5年(1858)11月28日、長崎奉行の特別の計らいで処分を解かれた。

この自宅謹慎の9ヶ月間、本木昌造は公務に煩わされることなく活字製作についての各種研究・実験に専念することができた。その結果、蝋型電胎法による活字母型の製作法を開発するに至り、それを纏めたのが「本木昌造活字版の記事」であると見られる。

この本木昌造自筆の字母製作法について、牧治三郎は「活版印刷伝来考―6」(『印刷界』、1966年8月)に全文を掲載している。その原本は、本木昌造から後継者平野富二に渡され、東京築地活版製造所に保管されていた。関東大震災で焼失したが、牧治三郎がノートにとっておいたものとして紹介している。なお、文中の絵図は省略したとしている。長崎にある稿本は、本木昌造の手により添削がなされており、牧ノートによる記事には、添削の結果がそのまま反映されている。

蘭学者である川本幸民も、本木昌造に少し遅れて、長崎出島のオランダ商館で科学技術を学んでいる。薩摩藩で講義した記録が『遠西奇器述』として、安政6年(1859)秋、薩摩藩から出版されている。その中に「電気模像機 ガルハノプラスチーキ」の紹介がある。鹿児島の尚古集成館に所蔵されている三代木村嘉平の金属活字は、江戸の薩摩藩邸で川本幸民の指導により製作したと見られている。

(3)『崎陽雑報』の刊行
慶應4年(1868)8月、長崎新聞局から『崎陽雑報』第1号が創刊された。その表紙には、中央枠内に「崎陽雑報 第一号』と表示され、左下側に「致遠閣発兌」と印刷されている。右肩には公許の印として角印の「長崎府印が捺されている。

『崎陽雑報』、第1号の表紙
表紙右肩の捺印「長崎府印」は、公に許しを得て刊行されたことを示す。
この年、江戸で刊行された親幕府派の新聞はすべて発行禁止となった。
「長崎府印」はここにある正方形の他に幅を狭くした角印も見られる。

『崎陽雑報』は、和紙を二つ折りした表紙のある冊子形新聞で、漢字とカタカナの活字を用いた活版印刷である。本文は1ページに10行×21字詰の罫線入りで印刷されている。内容は、海外の情報と国内通信、官報に代わる布告訓令や官吏任免など、新政府の意向に沿ったものになっている。不定期刊行で、第13号までの存在が確認されている。明治2年(1869)夏以降は、鋳造活字の製造に手間取り、発行中止となったと見られる。

本文に用いている漢字活字は、端正な細書きの楷書で、同じ字でも点画が微妙に相違するものが混在する。また、カタカナも同じ母型から鋳造されたと見られる字がある一方、点画に差がある字も含まれている。このことから、鋳造活字が間に合わず、木活字が多用されたのではないかと見られる。

長崎歴史文化博物館展示の『崎陽雑報』第1号レプリカ
最初のページに「崎陽雑報題言」が掲載されている。
文章は楷書とカタカナを用い、鋳造活字と木活字の混合と見られる。

このことから見ると、本木昌造の指導によって設けられた活字製造設備は、まだ実験室の規模から多きく超えることはなく、新聞発行に必要な活字類を揃えるには長時間を要し、より迅速に活字を製造できる技術が求められていたことが分る。

(4)『崎陽雑報』を刊行した「致遠閣」
『崎陽雑報』を発兌(刊行)した「致遠閣」は、それと類似の名称である佐賀藩の外国語学校「致遠館」が同じ時期に長崎に存在していることから、佐賀藩の「致遠館」から刊行したとする説もある。しかし、長崎府が発行する新聞を、わざわざ、佐賀藩の学校から刊行することは考え難い。

「致遠」の意味は、新聞の機能である「遠方の情報などを送り届ける」という、新聞の機能に関係する意味があり、長崎新聞局は、その別称として「致遠閣」と称したと見られる。

一方、佐賀藩の外国語学校は、慶應3年(1867)11月、アメリカ宣教師で長崎外語学校(後の広運館)の校長だったフルベッキを迎えて教師とし、翌年になって、加賀、薩摩、土佐など他藩の学生を広く受け入れ、「致遠館」と称した。この「致遠」の意味は、「遠い土地の人を招き寄せる」という意味で名付けたと見られる。

長崎新聞局が長崎府の付属機関であったことについては、長崎製鉄所の頭取だった本木昌造が、明治2年(1869)5月、長崎製鉄所で精米事業を営み、それによって得る利益金を長崎府の付属機関の運営に充てるとして、徒刑場、広運館(本学局・漢学局・洋学局)、新聞局、製鉄局を挙げていることからも分る。

長崎新聞局が発行した新聞以外の印刷物は、明治2年(1869)7月に出版した何幸五郎訳述『地球略解』巻之一がある。何幸五郎は、後に何幸五と称し、後述するギャンブル伝習の際に通訳を勤めた人である。また、明治3年秋とする長崎新聞局開版『改正長崎職員録』が知られている。その裏表紙に「明治三庚午秋」、「長崎新聞局開版」と朱印が捺してある。

(5)『崎陽雑報』の刊行中止
明治2年(1869)夏頃に発行された『崎陽雑報』第13号を最後として、長崎新聞局での新聞発行は中断されたらしい。

後藤吉郎等(BULLETIN OF JSSD、2002)によると、アメリカ議会図書館のギャンブル・コレクションの中に、「日本新政府より活字母型の注文を受け、印刷設備を整備するため5,000ドルを受領した」旨を記した1868年10月19日(明治1年9月4日)付け書簡の概要記録が残されている。

上海美華書館の1867年版活字見本帳によると、スモール・パイカ(第5号相当)を含む3種類のサイズを揃えており、それぞれ1字当たりの母型価格はすべて1.00ドルと表示されている。

この記録では、「日本新政府」となっているが、当時の状況を考えると、長崎府が新政府の認可を得て発注したものと推察される。これにより、長崎新聞局では活字母型の製作がネックとなっていたことが分る。また、長崎では、既に明治1年頃から上海美華書館との交流があったことも分る。

明治2年(1869)6月、製鉄所掛から府当局に提出された文書が『文書科事務簿』に保存されている。その内容を現代文に直して紹介する。

「昨年来、新聞局において活字判で印刷・出版しているが、西洋と同様の迅速製造技術がないため、昼夜、苦心している。このたび、アメリカ人活字師ガンブルが避暑のため長崎港に来泊するので、4ヶ月間、当局で雇い入れ、活字判製造技術を残らず伝習したい。そうすれば、長崎府としても莫大な功績となるので、許可をお願いする。」

つまり、長崎新聞局では、依然として活字の製造に手間取り、新聞発行に支障をきたしていたことが分る。なお、活字師ガンブルは英語読みではギャンブルとなる。

(6)ギャンブルの招聘と短期雇用
ギャンブルの招聘を要請したとみられる本木昌造は、明治2年(1869)8月、病気を理由に長崎製鉄所頭取辞職願を提出し、当局から慰留されたがその決意は固く、同年9月になって製鉄所頭取退職を認められ、新たに機械伝習方懸頭取を委嘱された。しかし、その後は長崎製鉄所に出社することはなかった。

同年(1869)10月になって、本木昌造は県当局から「貴殿は、かねてから活字判の製造技術を心得ているので、新聞局掛の者と相談して、早急に成功するよう尽力すること」とした文書を受けている。

この文書から見ると、ギャンブルの来訪は明治2年(1869)10月中に延期されていたと見られる。その理由は定かではないが、上海における人事上のトラブルや長崎での伝習準備のためであったと見られる。

ギャンブルは、1830年(天保1年)、アイルランドで生まれた。1847年(弘化4年)、17歳でアメリカに移住し、製本所に勤務した。その後、印刷所で訓練を受けて、1858年(安政5年)、28歳のときにアメリカ長老派教会のニューヨーク伝道本部から印刷技術者として中国の寧波(ニンポウ)に派遣された。寧波では華花聖経書房に勤務した。1860年(万延1)12月、同書房が上海に移転し、美華書館と改称したとき、共に移転した。

ギャンブルがアメリカの印刷所で訓練を受けていたころ、既にアメリカでは活字および活字版の複製技術として電気鋳造法(electrotyping)が実用化されていた。特に、聖書の印刷では、大量に印刷するため活字版の劣化が早く、この方法で活字版を複製して対応していたという。

(7)ギャンブルの伝習
ギャンブルの来日に合わせて、明治2年(1869)10月、長崎興善町に在った元唐通事会所に活版伝習所が開設された。現在、その場所には長崎市立図書館があり、道路に面して記念碑が建てられている。

活版伝習所となった元唐通事会所の平面図
本絵図は国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」にある。
この絵図の下方に左右に通じる道路が現在の市役所通りである。

活版伝習所跡と唐通事会所跡の記念碑
背後は長崎市立図書館で、市役所通りに面した角に建てられている。

伝習に参加した者たちは、長崎新聞局の活版製造部門・印刷部門の担当者と本木昌造とその一門の者たちであったと見られる。本木昌造は世話役を務めると共に、自らも進んで伝習を受けたと見られる。長崎唐通事出身で英語に堪能な何幸五郎がギャンブルの通訳を勤めた。

長崎で伝習を行うに際してギャンブルが持参した活版器材の内容は明らかではないが、中国側の資料『教会新報』によると、「中国鉛字・外国鉛字・東洋字と一切の器具を携帯して出掛け、東洋人に排字・印書・電気鋳銅版の諸法を教える」とある。ここで、東洋とは日本のこと、排字とは活字を並べて版に組むことである。携帯した一切の器具の中には、ガルヴァーニ電池・電解槽や鋳造器具などを主体として、その他、製本までを含めた一切の道具・資材一式であったと見られる。

伝習の結果として、同じく中国側の資料によると、「造字は模三、副一で、中国字一、日本字は大小字を全て備え、試しに組版印刷した書物として西洋字と日本字を合わせて訳した字典がある」と記録されている。

この中の「造字は模三、副一」については、「持参した活字を用いて作成した鋳型(母型)3セットと予備1セット」と解釈される。「組版印刷した字典」については、どのような字典であったか不明である。

伝習に当たって、上海美華書館における活字のサイズを決める号数システムについても、基礎知識として教えられたと見られる。この知識が無ければ、組版を的確に行うことができない。

上海美華書館は、上海で発行されていた『教会新報』(1868.12.19)に活字販売広告を掲載している。それには、大小の新鋳中国鉛字6サイズを販売するとして、第1号から第6号までの摺り見本とそれぞれの重量ポンド当たりの価格と個数を示している。また、別有第2号としてややバランスの悪い漢字摺り見本が示されている。書体はいずれも明朝体で、第1号から第6号までは電胎母型により鋳造されたもの、別有第2号は従来から製造されていたパンチ母型による分合活字(扁や旁などを標準化して組み合わせた漢字活字)と見られる。

それぞれの活字サイズの関係は、第1号は第3号の2倍角(2倍の幅)で、第2号は、第1号よりもやや小さく、第5号の2倍角、第5号は第6号の2倍角となっている。第4号は第3号と第5号の中間サイズとなっている。これらは、アメリカのシステムとヨーロッパのシステムを活字サイズに応じて組み合わせたものとなっている。

小宮山博史(『日本語活字ものがたり』)によると、上海美華書館の活字販売広告は、1869年7月12日(明治2年6月4日)まで、8回に亘って掲載され、最後の2回は別有第2号が除かれているとのことである。旧式活字の在庫がなくなったと見られる。

ギャンブルは、日本における伝習教材の一つとして、この活字販売広告を携帯品の中に加えた可能性がある。

ギャンブルの伝習内容について纏まった形での日本側の記録は今のところ見当たらない。

日本側が期待した「迅速」については、最大の時間を要する電胎母型の製作が中心であったであろうが、出来上がった活字の品質についても、使用に堪えない活字を大量に製作しては意味がない。そのため、迅速と共に高品質の活字を鋳造するために、ギャンブルは鋳造用手動ポンプを上海から持参して、使用方法を伝授した可能性がある。

(8)ギャンブル伝習後の動向
明治3年(1870)2月末にギャンブルによる伝習が終了して、活版伝習所は閉鎖された。ギャンブルの持参した活版製造用器具と印刷器材は長崎新聞局に引き取られた。

長崎新聞局では、ギャンブルの伝習に基づき活版製造設備の更新が行われ、人員を整えて活字の製造に取り組んだが、『崎陽雑報』の再刊は行われなかった。

明治3年(1870)5月、長崎県当局は製鉄所掛に対して、「以降、新聞局を製鉄局に付属させる」旨を指令した。これにより、長崎新聞局は、長崎県付属から長崎製鉄所付属に変更された。同時期に。民部権大丞山尾庸三は横須賀・横浜製鉄所と長崎製鉄所(共に県営)を総括して、経営の全てを委任されることとなった。

長崎新聞局が長崎製鉄所に付属されて以降の事柄については、次回の「山尾庸三と長崎製鉄所」で述べることとする。

一方、ギャンブル伝習に協力した本木昌造は、伝習で製作した活字母型の副1を譲り受けたのではないかと思われるが、確証はない。その他には、複数ある器材のごく一部のみであったと見られる。また、上海美華書館の活字販売広告も少なくとも1枚は入手した可能性がある。

本木昌造は、伝習を終了した直後に、長崎製鉄所を退職している。かねてから取り組んでいた私塾の経営を本格化させるため、知人・友人の資金的協力を得て、長崎新町に新街私塾を設立し、さらに、教材としての教科書・参考書印刷のため新街私塾に付属させて新町活版所(印刷所)と新町活字製造所を設立した。本件については、追々、述べることとする。

2018年5月30日 稿了

官営時代の長崎製鉄所(その2)

前回の「官営時代の長崎製鉄所(その1)」では、長崎製鉄所の頭取役である本木昌造と吉田鶴次郎の二人が退職願を提出したところまでを述べた。
今回は、その後の動向と、長崎県から工部省への移管、工部省による郵便汽船三菱会社への貸与されるまでを述べる。

<青木休七郎による専横経営>
本木昌造と吉田鶴次郎の製鉄所頭取役辞任の動きのある中、明治2年(1879)9月3日、製鉄所助役だった青木休七郎は、県庁職員としての権大属、庶務掛兼裁判所弁務に任命されると共に、製鉄所役頭取兼勤を申し付けられた。

明治2年9月初旬に出された製鉄局手割書によると、頭取1人(兼勤 青木休七郎)、頭取助2人(牧斐之助、本庄寛次郎)、元締役3人(加藤雄次郎、野田耕平、品川藤十郎)、元締役助2人(香月新助、平野富次郎)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、機関方4人(吉田新、矢島良之助、御幡栄三、戸瀬昇平)となっている。

この人事では、本木昌造と吉田鶴次郎の退職を前提にして決められており、暫定人事と見られる。なお、この職制では、以前とは相違して機関方の前に勘定役と勘定役助が置かれており、技術よりも経理を重視することが覗える。

同月中旬に行われた人事異動は、退職を申し出ていた頭取役2人の処遇が決まったことにより発令されたと見られる。それは、頭取役1人(機械伝習方懸 本木昌造)、製鉄所頭取1人(兼務 権大属 青木休七郎)、頭取助役3人(吉田鶴次郎、牧斐之助、本庄寛次郎)、元締役3人(加藤雄次郎、野田耕平、品川藤十郎)、元締役助2人(香月新助、平野富次郎)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、第一等機関方1人(松尾良助)、第二等機関方3人(戸瀬昇平、塩沢善十郎、藤川喜多助)、第三等機関方2人(吉田新、矢島良之助)、機関方1人(御幡栄三)となっている。

この人事では、退職を願い出ていた本木昌造と吉田鶴次郎の2人の処遇を反映したもので、本木昌造は製鉄所筆頭ではあるが、経営には関与しない役職となっている。吉田鶴次郎も頭取助に降格させて、名目だけ残されている。その他については、9月初旬に出された手割書と同じであるが、機関方は等級別に表示されるようになり、人数が増えている。

続いて発令された同月下旬の人事異動では、頭取1人(権大属 青木休七郎)、頭取助4人(牧斐之助、野田耕平、加藤雄次郎、品川藤十郎)、元締役1人(香月新助)、元締役助2人(平野富次郎、吉田新)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、第一等機関方1人(松尾良助)、第二等機関方3人(塩沢善十郎、戸瀬昇平、藤川喜多助)、第三等機関方4人(矢島良之助、藤田新助、伊藤一郎吉、青木休三)となっている。

この異動では、本木昌造と吉田鶴次郎の名前は消え、頭取青木休七郎の意を体する経理部門は「青木―牧―香月―片山」の人脈により運営される体制が整ったと見られる。
このときに制定された「則」によると、飽之浦本局と小菅分局の経理は完全に分離された。そのためか、小菅諸務専任の品川藤十郎と平野富次郎は共に一段階の昇進となっている。

<青木体制下の本木昌造と平野富次郎>
本木昌造は、退職願を提出して以降、製鉄所には出勤しなかったと記録されている。しかし、先に招聘していた上海美華書館のギャンブルが10月に来日することになったため、製鉄所掛から本木昌造に宛てた明治2年10月付けの文書で、「その方は、かねてから活字製造技術を心得ていることから、新聞局掛の者と相談して、その技術を完成させるよう尽力すること。」(意訳)として、ギャンブルによる活字製造技術の伝習に協力するよう要請された。

ギャンブルによる伝習は、長崎市内の興善町にある元唐通事会所に活版伝習所を設けて、明治2年10月初旬から翌年2月末まで行われた。本木昌造は、それまで自分に協力してくれた本木一門の者たちを引き連れて活版伝習に協力するとともに、自らも伝習を受けた。

本木昌造は、ギャンブルにより伝習を終えた直後の明治3年(1870)2月末日、正式に長崎製鉄所を退職した。

なお、長崎県付属だった新聞局は、明治3年5月16日、製鉄所付属となり、新聞発行と活版製造は製鉄所内の一つの組織として運営されるようになった。

一方、平野富次郎は、小菅諸務専任となってから、小菅修船場で順調に工事をこなし、着実に成果を挙げていた。

明治2年10月頃になって、平野富次郎は、長崎県の知県事野村宗七に対して、立神ドック建設に関する建言書を提出した。それは、長崎製鉄所で本格的な船舶の建造と修理を行うために、小菅修船場で得た純益金を投資して立神地区にドック(船渠)を建設するというものであった。これによって、長崎に来港する内外の大形船舶を受入れて修理を行なうことで長崎の繁栄の一助とすると共に、建設工事の実施により職を失った長崎市民の失業救済のもなることを提言した。

これを受けた野村知県事は、大阪造幣頭となっていた井上聞多に上申書を提出し、同年12月13日付けで、大阪出張大蔵省によって認可された。

それに先立つ同年11月、製鉄所職制の中に、新たに「ドック取建方掛」が置かれ、頭取青木休七郎、頭取助(小菅諸務専任)品川藤十郎、元締役助(小菅諸務専任)平野富次郎、第一等機関方戸瀬昇平らが任命された。

<経理不正事件と経営陣の刷新>
明治3年5月、青木休七郎は製鉄所専任を命じられたが、同年6月、大阪出張大蔵省に出向となって、事実上、製鉄所では頭取が不在となった。

同年秋の「改正 職員録」によると、「〇製鉄所」の表示の後に、土肥少参事、白木権大属、青木権大属の県庁職員3人の名前が列記されており、それに続いて、頭取助1人(牧斐治)、頭取心得2人(野田耕平、品川藤十郎)、元締役2人(香月雄記、平野富次郎)、勘定役助1人(片山逸多)、第一等機関方1人(松尾凌多)、第二等機関方1人(戸瀬昇平)、第三等機関方1人(伊東一郎吉)となっている。

   

         明治3年秋の「改正 職員録」         冊子の奥付に相当するところに、
庚午秋 長崎新聞局 開版 と朱印が捺されている。

当時の秋は、旧暦の7月から9月までを示す。6月に青木頭取が大阪に出向して不在となったことから、県庁職員が製鉄所掛を兼務して、その役を補っていたと見られる。

なお、同年5月3日、民部・大蔵大丞山尾庸三が長崎製鉄所を含めた製鉄所事務総管に任命されており、民部省・大蔵省が長崎製鉄所の経営に深く関わるようになっていた。

本木昌造は、既に製鉄所頭取役を退いて経営に関与することはなく、青木休七郎も大阪出向により、事実上、製鉄所の経営に直接関与することが不可能な状態となった。

この人事異動により元締役助から元締役に昇進した平野富次郎は、頭取不在の状況に対処するため、製鉄所の諸事を幹部職員の合議により運営することを上申した。その結果、小菅諸務専任であった品川藤十郎と共に、同年7月から、飽之浦本局に勤務して製鉄所頭取職を合議制で運営することを命じられた。

同年8月22日、製鉄所職員は等級に応じて官禄を支給されるようになった。これは、県庁職員の官禄に比較して製鉄所職員の手当・褒賞が過大であることが問題となり、その是正が行われたことによる。

これまで、製鉄所職員は、官からの食禄を辞退する代わりに、製鉄所の利益金の中から手当を支給し、製鉄所が盛大な利益を得た場在には、前利益の8分の2を褒賞として支給することになっていた。青木一派は、これを悪用して、経理操作により利益を水増ししていたことが疑われ、大阪出張大蔵省からの調査が行われていた。

同年閏10月16日、平野富次郎は、製鉄所元締役のまま、県庁職員の資格である権大属に任命された。その時の製鉄所人事異動では、頭取心得品川藤十郎は退職、勘定役飯島與八郎、勘定役助片山逸多、第一等機関方松尾凌多の3人は元締役に、職方差配役吉田国太郎が元締役助に昇進し、第二等機関方戸瀬昇平は退職した。

平野富次郎の権大属辞令
この辞令は平野家に保管されている。

上記異動のあった翌日、頭取助牧斐治と元締役香月雄記の2人は「逼塞差し免じ候事」とされ、翌日に退職した。また、元締役となった片山逸多も、同年11月29日、「風聞宜しからず候につき、暇を申し候」とされて退職した。その結果、頭取心得の野田耕平については詳らかではないが、名目上の出向県職員は別として、権大属で元締役の平野富次郎が製鉄所職員のトップとなって、新任の元締役2人と共に製鉄所の経営を担うことになった。このとき、平野富次郎は数え年25であった。

<工部省への経営移管>
明治3年(1870)閏10月20日、民部省の一部を独立させて工部省が新設された。同日付けで、民部権大丞山尾庸三は工部権大丞に任命された。

山尾庸三は、幕末にイギリスへ密航留学した「長州ファイヴ」の1人で、維新後の慶応4年(1868)11月に帰国して、郷里に帰っていた。明治3年4月に上京して新政府に出仕し、民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられた。

同年閏10月から11月にかけて行われた長崎製鉄所の経理責任者処分を受けて、事実上、長崎製鉄所の責任者となった平野富次郎に対して、同年11月付けで東京からの調査官派遣に対する準備を申し渡された。

明治4年(1871)1月7日、民部権大丞山尾庸三が長崎に到着し、9日から長崎製鉄所に出向いて、平野富次郎を相手に帳簿類の調査を行った。先に大阪出張大蔵省が調査したときの帳簿と元帳とを比較したところ、不都合な個所が次々と見つかった。

同月20日、これらについて説明を求められた平野富次郎は、的確に応えることができず、翌日、進退伺を提出したが、遺留されて引き続き旧帳簿の調査を続けるよう指示された。富次郎にとっては、それまで小菅庶務専任であったため、旧帳簿の内容を説明できる立場ではなかった。

平野富次郎は、同年3月16日、県職員としての権大属を返上し、長崎製鉄所を退職した。しかし、その後も、御用に応じて出勤するよう長崎県から要請されていた。

官営となった長崎製鉄所での平野富次郎の昇進は目覚ましく、慶応4年(1868)8月に機関方として製鉄所職員に登用されて以来、同年12月には第一等機関方となり、明治2年(1869)3月には小菅庶務専任、同年9月には元締役助、同年11月には立神ドック取建掛兼務、明治3年(1870)秋には元締役、同年閏10月には権大属に任命され、わずか2年3ヶ月で長崎製鉄所の事実上のトップとなった。

一民間人となった平野富次郎は、自分の手掛けた立神ドックが未完成のまま廃棄されることを憂えて、この施設の完成から経営までを自分に委託するよう願い出た。しかし、この願いは実現されず、明治7年(1874)まで放置された。

<工部省による長崎製鉄所の経営>
明治4年(1871)4月7日、長崎に出張してきた工部権大丞山尾庸三は、長崎県から長崎製鉄所と小菅修船架の引き渡しを受け、工部省十一等出仕岡部仁之助(利輔)を所長とした。

このとき、製鉄所付属新聞局活字一課にある活字・諸器械が大学南校に引き渡されることを知った山尾庸三は、「活字の製作は工部省の役割であるので、認められない。しかし、これまで長崎で造った活字類は残らず大学南校に引き渡す」旨の申し出を太政官に提出した。

これに先立つ、前年11月20日、長崎県は、製鉄所付属新聞局が保有する設備と人員を、大学に移管する旨の希望を書面にして太政官に提出しており、同年12月15日、大学は、「活字と器械類を南校で必要としている」として、受け入れを申し出ていた。

工部省に移管された長崎製鉄所は、明治4年8月9日、「長崎造船所」と改称し、同月14日、本省内に造船寮を置いて、その下に属させた。

同年11月22日、勧工寮内に活字局を設けて、もと長崎新聞局活字一課の人員と活版製造設備一式を東京の赤坂溜池葵町にある旧伊万里県出張の屋敷跡に移転させた。

明治5年(1872)6月16日、明治天皇の臨幸に際して小菅修船場を視察し、雇修船長ブレイキーらに賜物された。

 

 

 

 

 

 

 

 

『明治天皇行幸所小菅修船場趾」碑      「長崎製鉄所跡」碑(飽の浦門前)

同年10月20日、造船寮を廃して製作寮と合併させ、長崎造船所を「長崎製作所」と改称した。また、明治10年(1877)1月11日、製作寮を廃して工作局が置かれたことに伴い、「長崎工作分局」と改称した。

それに先立ち、明治7年(1874)5月27日、製作寮六等出仕渡邉嵩蔵が所長となり、同年6月7日、立神ドックの再築工事を開始。明治11年(1878)5月21日、立神ドックが竣工し、工部卿井上薫により開業式が挙行された。

この立神ドックの再築は、明治4年から明治9年までの間は、船舶修理と器械製造・修理は僅少であったが、明治10年の西南戦争により工事量が増加し、諸工場の新設や器械設備の改良等に着手した一環として行われたものである。

明治16年(1883)9月22日、工作局が廃止されたため、「長崎造船局」と改称し、渡辺嵩蔵が局長となり、翌年6月3日、船舶会社に長崎造船局工場を貸与することを太政官に稟請した。これは、長崎港の商売が日増しに衰退し、船舶の出入りが減少したため、明治15年度から欠損を出すに至ったことによる。

政府の対応は素早く、同月11日、工場を岩崎弥太郎に交付すべきであると決め、同月12日、郵便汽船三菱会社社長岩崎弥太郎は長崎造船局を拝借したい旨を工部卿伊藤博文宛ててに請願した。同月23日には、岩崎弥太郎の拝借願は正式に認可され、翌日、貸渡条約書の調印が行われた。翌月の7月7日には、長崎出張工部少書記官から岩崎弥太郎に引き渡されて、「長崎造船所」と改称された。

2018年2月26日 稿了

官営時代の長崎製鉄所(その1)

<幕営から官営への移行>
慶応4年(1868)1月14日の夜、密かに長崎を退去した長崎奉行河津伊豆守裕邦は、長崎を対外警備する肥前・筑前両藩に後事を託していた。

しかし、両藩は形勢傍観するのみであったことから、長崎に駐在していた土佐藩の佐々木三四郎(後の佐々木高行)が海援隊を引き連れて西役所に乗り込んで警備に当たり、薩摩藩の長崎駐在松方助左衛門(後の松方正義)は長崎奉行の配下にあった遊撃隊に対して説得に当たって協力させた。同時に、長崎駐在の諸藩有志を糾合して長崎会議所を設けた。

同年2月14日、九州鎮撫総督澤宜嘉が同参謀井上聞多(長州藩、後の井上薫)を伴って長崎に入り、同月16日、長崎裁判所を設立した。井上は、長崎裁判所参謀となって、諸藩有志の中から抜擢して陣容を整えた。

長崎裁判所は、取りあえず、長崎奉行所の行政組織をそのまま引き継いでスタートした。したがって、長崎製鉄所は、その支配下になった。

同年閏4月21日、管制改革で七官制となり、地方を府・藩・県とした。これにより、澤は長崎府知事、井上は長崎府判事兼外国官判事に任命され、同年5月4日、長崎裁判所は長崎府に改められた。同時に大隈八太郎(佐賀藩、後の大隈重信)、野村宗七(薩摩藩、後の野村盛秀)も府判事(共に外国官判事兼務)に任命された。しかし、大隈は、前月18日に長崎を発って大阪に派遣されていた。そのため、5月29日に元長崎裁判所権判事だった楠本平之丞(大村藩、後の楠本正隆)が府判事に任命された。大隈は8月22日になって長崎府判事を免じられた。

このとき府判事となった大隈、野村、楠本の3人は、後年、平野富二が上京して事業を興してから何かと支援してくれた人たちである。

<井上聞多、製鉄所御用掛に就任>
当時、長崎府の財政は逼迫していたため、井上府判事は、その応急策として長崎製鉄所を独立採算できるように改革することを建言して、同年6月19日、外国官判事はそのままで、長崎府製鉄所御用掛となった。

この時の政府から井上に宛てた達書には、「今般、維新により海陸の武備を拡張されるに当たって、長崎製鉄所は最も必要とする設備であることから、速やかに規則を厳重に制定し、従来の悪弊を一掃して、天下の武器を十分保繕できるようにしたいとの思し召しである。よって製鉄所御用掛を仰せ付けられるので、その取り締まりに尽力するようとのご沙汰である。」(意訳)と記されている。

幕末の長崎製鉄所全景写真(「ボードイン・コレクション」から)

製鉄所御用掛となった井上による新しい職制と人事が発令される前の慶応4年7月4日付の井上に宛てた書面で、青木休七郎、以下15名の製鉄所職員一同が、「向後、会計局より御下ケ金一切御廃止くだされ、掛の者一同の食禄も返上し、粉骨砕身、当局と存亡を共に致し、奉功つかまつりたし」(要約)と申し出ている。

この時点では新組織が未決定であるとは言っても、上司となる頭取役を差し置いて、このような申し出をする青木休七郎は、もともと長崎で貿易を営む商人で、一時期、紀州藩御用を勤めたことがあったが、悪評の伴う人物であった。その才覚を買った井上が、自分の代人として抜擢したと言われている。

製鉄所改革の第一歩として、慶応4年7月24日、新たに職制と人事が示された。
その時の『長崎府職員録』によると、製鉄所頭取役2人(本木昌造、吉田鶴次郎)、助役1人(青木休七郎)、元締役5人(牧斐之助、本庄寛次郎、野田耕平、加藤寛次郎、品川藤十郎)、機関方3人(吉田新、矢島良之助、御幡栄三)、勘定役4人(香月新助、飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、機関方見習4人、下役3人、伝習の者15人に対して辞令が交付された。同年8月になって、機関方として3人(平野富次郎、松尾良助、戸瀬昇平)が追加任命された。

 

 

         『長崎府職員録』(慶応4年8月)

同年9月8日には改元して明治となるが、その6日前に井上は佐渡県知事に任命された。しかし、井上は、伊藤博文に長崎留任の斡旋を依頼した結果、10月17日に佐渡県知事を免じられて、長崎府判事に復任し、製鉄所の経営も任されることになった。

<井上聞多、製鉄所掛解任とその間の事業改革>
明治2年(1869)3月、井上は大阪において参与副島種臣に提出した意見書に、「諸器械・船等外国へみだりに注文または買入は厳禁すべし。是非とも横須賀・長崎両所において作るべし。就いては、山尾庸三を横須賀へ全任下されば、長崎と申し合わせ、死力を尽くさんと欲す。」とした。

一旦、長崎に帰った井上は、岩倉卿に呼ばれて再び大阪に上り、瓦解に瀕しつつある政府の現状と国家の危機救済について懇談した。その結果、同年6月21日、井上は会計官判事として通商司知事勤務を仰せ付けられ、大阪在勤となった。

その間の同年4月、長崎製鉄所では、頭取名で出された達書に、「近来、上下隔絶の模様も見聞に及び」、「上下の差別なく直言申し立てらるべく候。」として、組織内での派閥化を匂わせている。

井上が製鉄所御用掛に任命された慶応4年(1868)6月19日から、通商司知事として大阪在勤となった明治2年(1869)6月21日までの1年間に行われた長崎製鉄所の事業拡張の試みは次のようなもので、雑業的多角経営を目指していた。
(1)  イギリス式元込銃の製作、(2) 浜町の鉄橋架設、(3)  伊王島の燈明台建設、            (4)  精米機械の製作と精米事業の運営計画、 (5) 小菅修船場の買収。

<本木昌造の動向>
この間、本木昌造は、慶応4年1月14日の長崎奉行退去に当たって、製鉄所取扱方を命じられて長崎製鉄所の後事を託された。2月には、自宅待機していた平野富次郎を製鉄所機関手として復帰させている。

5月には、井上判府判事の命を受けて、修繕が必要となった政府輸送船「朝暘丸」の損傷報告と修理費受け取りのため京都に派遣された。京都では大阪の高麗橋架け替え工事と浚渫機械製造を請負い、長崎に戻った。

同年7月24日の製鉄所辞令で製鉄所頭取役に就任した。同時に、製鉄所伝習掛として機関方見習の者たちに技術教育を行い、また、長崎府新聞局にも関与して、8月には月刊誌『崎陽雑報』を発行、9月には上海美華書館から印刷設備を購入(?)している。

明治2年6月になって、『崎陽雑報』を第12号で廃刊せざるを得なくなった。その理由は、製鉄所に委託製造していた活字版を、西欧並みに迅速に製造することができず、日夜、苦心していたことによる。

同月、製鉄所役を通じて長崎府に願書を提出して、「上海美華書館の活字師ガンブル(ギャンブル)が避暑のため長崎に来港するので、4ヶ月間の契約で製鉄所に雇入れ、活字版製造技術を残らず伝習したい。」と願い出た。しかし、ギャンブルの都合によってか、同年10月に通知がくるまで延期された。

<平野富次郎の動向>
一方、平野富次郎は、慶応4年5月、政府輸送船「朝暘丸」に乗組んで兵庫に向かったが、下関でプロペラの車軸が折損し、風帆を使用して長崎に戻った。このとき、大阪に向かう大隈八太郎が乗船していて、親しく将来のことを語り合い、支援の約束をしてくれたという。

同年12月18日には、機関方に対して等級と御扶持・業給金が定められ、富次郎は第一等機関方に任命され、1ヵ年に付き10人扶持、業給金18両を支給されることになった

明治2年3月、グラバーから製鉄所付属となった小菅修船場を管理する小菅庶務専任となり、同じく専任となった品川藤十郎と共に、製鉄所本局から独立した形で経営を任された。これは、青木一派が本木一派である品川と平野を本局経営から隔離したとも、本木昌造がふたりを青木一派の経営から遠ざけるために配慮したとも考えられる。

<本木昌造の頭取役辞任>
長崎府は、明治2年(1869)7月17日、長崎県となって、府判事だった野村宗七が知県事に就任した。それにもかかわらず、青木一派による頭取役2人を差し置いた専横が続いた。

その間、本木昌造は、同年8月、奉願口上書を提出して、肝胃の病気を理由に辞職を願い出た。これに対して県当局は、「書面願いの義は詮議に及び難く、とくと養生すること。」として辞職を認めなかった。

同年9月5日になって、本木昌造は、「何分格別の御憐愍を以って‥‥御暇下し置かれ候様」として再度辞職を願い出た。県当局は、「製鉄所頭取は差し免じるが、製鉄所機械伝習方懸頭取を申し付ける。局中の諸事取締向も心得るべき事。」とした。

これに対して本木昌造は、同月21日に、「今般、仰せ渡された職名については御免じ仰せ下さるよう願い奉る。もっとも、機関方、その外、幼年の者の教育については不肖を顧みず尽力する。」として、公式の職務は辞退した。

同僚の吉田鶴次郎も、同年8月、肺病を患っていることを理由に辞職を願い出ている。

2018.1.31 稿了

長崎の長州藩蔵屋敷

<まえがき>
17世紀の初頭から19世紀の中葉までの間、長崎は幕府の政策によって唯一の対外貿易港であった。各種物産に限らず内外の情報も長崎に集中していたため、長崎には九州諸藩を中心とした14の藩が市内に蔵屋敷を設けていた。

長州藩(萩藩ともいう)の蔵屋敷は、最初、本五島町(現在の五島町の台地寄り)にあったが、寛政11年(1799)に台地の上の新町(現在の興善町6)に蔵屋敷を構えた。「肥前長崎図」(文錦堂、嘉永3年改刻)には「長門」と当時の国名で表示されている。

新町の通りに面して、坂道を介した隣りには「小くら」と表示のある小倉藩蔵屋敷があった。長州藩の下関と小倉藩の門司との間にある関門海峡に巌流島があることから、その坂道は「巌流坂」と呼ばれていた。

「肥前長崎図」部分

絵図の中央に「新町」とあり、その下の枠内に「小くら」と「長門」と書いてある。
新町から引地町に通じる道が「巌流坂」である。
平野富二は、引地町の道路の右端にある「丁じ長や」(町司長屋)で生まれた。

この長州藩蔵屋敷については、本木昌造と平野富二にとって直接的、間接的に因縁が深い。その内容については、おいおい説明する。

<長崎の蔵屋敷とは>
蔵屋敷は、大名や旗本などが自分の領地の年貢米や特産品を販売するため、商業の中心地である江戸、大阪、京都、長崎などに設けた倉庫や取引所を兼ねた屋敷のことである。とくに長崎では貿易品の売買や海外情報の入手が重要な役割であった。

長崎の蔵屋敷には、藩の役人が一年中駐在する藩と、オランダ船が5月中旬に入港して9月下旬に出港するまでの期間だけ駐在する藩とがあった。長州藩は後者で、夏季にのみ「聞役」と称する藩の役人とその部下が派遣されて駐在するグループに属していた。

長崎の「聞役」は、長崎奉行からの指示を国元に伝達する役目を主とし、その他に、諸藩との情報交換、独自の秘密情報の収集、藩で必要とする貿易品の調達などで、藩を代表する責任者であった。その下には、手先として働く地元出身の「御用達」が居り、長州藩蔵屋敷では吉村家が代々これを勤めていた。

<長州藩御用達吉村家について>
吉村家の出自は明らかではないが、寛永・慶安の頃(17世紀前半)にさかのぼると云う。おそらく、祖先は長州藩士で、何らかの理由で禄を失い、長崎に出てきて町人となったものと見られる。

吉村家の当主は、代々、長崎の長州藩蔵屋敷内に居住し、清国語に通じて唐交易の業務を行い、聞役などが本国に帰国した後の留守居役(長崎御屋代という)も兼ねていた。また、当主は長州藩から一代士族を認められ、苗字帯刀を許されていた。

吉村家の子孫である吉村栄吉氏の著わした『吉村迂斎詩文集』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和47年1月)に掲載されている吉村家の「家系図略」によると、詩儒として高名だった吉村迂斎(1749~1805)は新町の長州藩蔵屋敷に居住し、17歳で御用達となっている。当時、交易のために来航する唐人(清国人)は詩文、書道、絵画、音曲などを嗜む文化人が多く、それらの人々と親しく交流したことが覗える。同聲社(迂斎塾ともいう)を興して広く門人を擁した。

長州藩蔵屋敷のあった巌流坂に面して、「詩儒吉村迂斎遺跡」(昭和47年、長崎市設置)の記念碑があったが、現在では撤去されている。桜馬場の近くの春徳寺の墓地に墓碑がある。

吉村迂斎は、通称を久右衛門、諱を正隆と称した。その継嗣は、猪助正恵(1773~1834)、年三郎(1811~1859)、為之助(1845~1876)と続く。

<幕府による蔵屋敷没収>
元治1年(1864)7月19日、尊王攘夷を唱える長州軍が、迎え撃つ会津・桑名・薩摩の藩兵と京都御所の蛤御門前で激突し、敗退した。長州藩が御所に向かって発砲したことから、朝議により長州藩討伐のことが決定し、幕府に伝えられた。幕府はただちに諸藩に命じて各地の長州藩邸の没収を命じた。

長崎の長州藩蔵屋敷の処分については、長崎総奉行大村丹後守と長崎奉行服部長門守に委ねられた。同年8月19日、長崎にある長州藩蔵屋敷は早々に取り上げ、そこに居る家来どもは国元へ引き払わせるようとの幕命が伝えられた。

処置を任された大村藩は、長州浪人の妨害が噂される中、自藩藩邸を守護していた兵卒を従え、幕吏と共に長州屋敷に乗り込んだ。そのとき、周囲を取り巻いていた群衆が長州浪人の襲来と勘違いして急に離散したため、大村藩の兵卒は恐怖におびえ、上官を捨てて逃げだした。

その後、真相が判明して長州屋敷は没収され、大村藩に預けられた。この時、長州屋敷に居た者は、藩士1人と少数の小者の外、吉村一家に過ぎなかった。その者たちは幽囚の身となり、翌慶応1年(1865)、捕らえられた長州藩士と吉村家の当主為之助は長州送りとなった。残された吉村家の家族は長崎在住の親類縁者を頼って身を寄せた。長州屋敷にあった建物は撤去され、屋敷内に聳えていた太さ10抱えもある楠の大樹も切り倒された。

吉村家の当主為之助は、長州送りとなって4年後の明治1年(1868)12月になって、長州藩での謹慎を解かれて長崎に戻ってきた。やがて、長州藩蔵屋敷も復活され、場所を変えて樺島町の海岸通りに建てられた。吉村家はそこに御用達としての住居を与えられた。時代の流れでほとんど用向きのなくなった御用達の仕事に代えて、為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に、近くの大波止から、小舟で通勤した。

長州藩蔵屋敷の没収については、吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史 第二編』(マリンフード株式会社社史刊行会、昭和51年12月)に詳しく紹介されている。

新町の長州藩蔵屋敷跡には、慶応1年(1865)2月、近くの大村町にあった「語学所」が移転してきて、同年8月、「済美館」となった。ここには宣教師フルベッキが招かれて英語を教えた。何礼之助(礼之)と柴田大介(昌吉)もここで英語教師を勤めた。明治2年(1869)2月、長崎府により「広運館」と改称され、一般官吏の子弟と諸藩有志に高等教育を授けるため校舎増設などがあった。その翌年、「広運館」は外浦町の西役所跡に移転した。

本木昌造は、その跡地と校舎を買い受け、「新街私塾」を開設した。また、その運営資金を賄い、教科書・参考書を出版するため、ここに「新塾活版所」を併設した。さらに、本木昌造の協力者和田半が隣の小倉藩蔵屋敷跡を購入して本木昌造に提供したので、そこに「新町活字製造所」を設けた。

長州藩蔵屋敷跡の石垣
この写真は昭和9年(1935)に撮影とされている。
『長崎印刷百年史』の口絵に掲載されているものを流用させて頂いた。

長州藩蔵屋敷跡の現在の写真

向かって左側が長州藩蔵屋敷跡で、現在、長崎県市町村職員共済会館となっている。
中央の坂道は通称「巌流坂」と呼ばれ、坂道の途中に道路に面して「新町活版所跡」と「近代活版印刷発祥の地」碑がある。
向かって右端は小倉藩蔵屋敷跡で、現在、丸善ハイネスコーポが建っている。
ここには、「新町活字製造所」があった。

<平野富二の養子先>
平野富二は、文久3年(1863)、吉村庄之助の養子となり、吉村富次郎と称した。吉村家の養子となった後も、長崎製鉄所の機関方勤務は変わらず、時折、蒸気船に乗組んで関門海峡を通って兵庫、江戸へと航海していた。平野富二の乗組んだ蒸気船が遭難して八丈島に漂着したときの記録に、吉村富次郎と見られる名前が残されている。

慶応2年(1866)7月に行われた小倉沖海戦では、平野富二は幕府軍艦「回天」に乗組んで長州藩と対決し、一等機関方として活躍した。その功績が認められてか、江戸の軍艦所一等機関手の内命を受けた。しかし間もなく、理由も告げられずに内命取消となって、長崎に戻された。

以上の事柄は、明治24年(1891)3月に編纂された小冊子『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 幷ニ 継業者平野富二氏行状』に記述されている。この小冊子は、平野富二の生前に編纂され、平野家に保存されていた。

平野富二(吉村富次郎)は、幕府のために活躍したにも関わらず、養子先の吉村家が朝敵となった長州藩に仕えていることが内命取消の原因と見られたことから、長崎製鉄所を辞任し、吉村家からも去って、自主独立の道を歩むことを決心したらしい。そのとき、矢次家始祖が名乗っていた平野姓を復活させて、平野富次郎と改名した。

<未解明の疑問>
拙著『平野富二伝』(朗文堂、2013年11月)を執筆していた頃、平野富二の養父だったとされる吉村庄之助について、資料調査を行っていた。たまたま、安政5年(1858)の資料に吉村庄之助が波止場御番所詰となっていることを見つけた。

このことから、吉村庄之助は、長州藩の御用達であると共に、長崎奉行の地役人でもあって、二足の草鞋を履いていると解釈した。長崎地役人の地位は、隠居して養子に譲れば、家禄を相続することができた。

平野富二は地役人の次男であったため、家禄を受けることが出来なかった。親友杉山徳三郎も次男で、家禄を受けることができなかったが、選抜により長崎海軍伝習所を卒業して、特別に一代限りの町司として禄を得ていた。そこで、平野富二のことをおもんばかって、義姉の実家である吉村家への養子を勧めたと解釈していた。

ところが、長州藩蔵屋敷の御用達であった吉村家の系図を調べて見ると、吉村庄之助と名乗る人物は見当たらない。

長崎には吉村姓の地役人が数多くいた。たまたま、その中に吉村庄之助と名乗る人物がいたらしい。平野富二が養子となって名乗った吉村富次郎も、同姓同名の人物が船番見習、19歳として『慶応元年 明細分限帳』に載っている。

矢次富次郎と称していた平野富二が、数え年18で吉村家の養子となった文久3年(1863)の頃の吉村家の当主は、吉村迂斎の曾孫にあたる吉村為之助(1845~1874)で、まだ数え年10であった。父の年三郎(1811~1859)が死去して吉村家の当主となったときは、わずか数え年6であった。叔父の雄五郎(1819~1875)が幼い当主を支えたと見られる。

平野富二の伝記では、この「為之助」を「庄之助」と読み誤って伝えられたと見ることもできる。しかし、8歳も年下の吉村為之助を養父として吉村家に入るには、それなりの大きな理由がなければならない。

吉村為之助には、3つ違いの弟年次郎(1848~1919)がおり、異母弟である子之助(又作、1854~1878)もいた。また、為之助は、将来、結婚して跡継ぎを設けることもできた筈である。当時の吉村家に跡継ぎ問題はなかったと見られる。

さらに、為之助には3人の姉妹がいた。長姉トク(1838~1872)は平野富二の親友杉山徳三郎の兄杉山友之進に嫁ぎ、次姉タキ(1843~1896)は大村藩長崎御用達の品川九十九に嫁いでいた。妹ヒデ(1854~1878)は、当時、数え年10であったので、将来、養子に入った平野富二と結婚させる意図があったとも見られるが、わざわざ吉村家の養子となる動機にはならない。

杉山徳三郎の曽孫に当たる杉山謙二郎氏が執筆した『明治を築いた企業家 杉山徳三郎』(碧天舎、2005年9月)によると、「平野富二は成人したおりに一時長州藩の御用達吉村庄之助の養子となるが、この養家の長女は後に松三郎(友之進)の妻となった。」と記している。

ここでは、平野富二の養父を「吉村庄之助」とし、長女は「後に杉山松三郎の妻となった。」と記してあるが、吉村庄之助が吉村家の系図で誰に相当するのか説明がない。また、平野富二が吉村家の養子となった時には、杉山松三郎は、長男の出生年から見ると、すでに結婚していたことになる。したがって、上記の記述だけでは確証とはならない。

長州藩御用達として長崎蔵屋敷に居住していた吉村為之助と平野富二との関係で明らかなことは、次の2つである。

1)平野富二の親友杉山徳三郎の義姉トクが吉村為之助の長姉であること。
2)明治になって、吉村為之助は長崎製鉄所の小菅修船場に勤務するようになった。これは、小菅修船場の経営責任者となっていた平野富二のかつての義父に対する配慮がうかがえることである。

長崎には、幕末から明治初期にかけての膨大な史料が残されている。それは、長崎奉行所・長崎裁判所・長崎府・長崎県の公文書を集めた『文書科事務簿』で、長崎歴史文化博物館に保管され、閲覧に供されている。

この中に先の疑問を解明できる史料が含まれているに違いない。しかし、『文書科事務簿』の簿冊リストはネット上で公開されているが、小生の知る限りにおいて、簿冊内の個別文書についてはリスト化されておらず、文書のデジタル化や内容検索も未完成のようである。これが完成すれば、幕末から明治初期にかけての長崎の歴史をより明確に解明できるものと思われる。

来年は明治150年に当たるので、この機会に実現されることを期待したい。

以上

町司長屋の前にあった桜町牢屋

【はじめに】
平野富二の生まれた引地町の周辺には、長崎の長い歴史に関連する史跡が存在する。それは、桜町牢屋・三ノ堀・地獄川である。これらの史跡には、その痕跡を示すものは僅かであり、説明板や表示もない。平野富二の生誕地をおとずれたついでに、平野富二を生み、はぐくんだ長崎の土地とその歴史をしることも意義あることと思う。

今回は、シリーズの最初として「桜町牢屋」について紹介する。

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【平野富二との関わり】
引地町にある町司長屋の前面道路の反対側に、かつては高さ2間(約3.9m)の石垣が積まれ、その上に桜町牢屋があった。

平野富二の父矢次豊三郎は、天保14年(1843)から弘化1年(1844)にかけて、加役として牢屋・溜牢取締掛を勤めていた。[1] 住んでいた町司長屋のすぐ前に牢屋の裏門があったので、牢屋への通勤にはものの1分とは掛からなかった。

母方の祖父神邉隆庵は、町年寄支配御役医師として桜町に居住し、世襲の牢屋医師を勤めていた。このことから、豊三郎は、同じ職場で隆庵と親しくなり、隆庵の娘み祢(みね)と結婚することになったと見られる。

豊三郎とみ祢は、ともに文政6年(1823)の生まれで、このとき数え年21歳だった。天保14年(1843)10月19日には長男和一郎が生まれている。

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【「桜町牢屋」の歴史】
桜町牢屋のあったこの地には、もともとキリシタン墓地があった。慶長5年(1600)、その墓地を炉粕町に移して、南馬町(現、馬町)の坂際にあった牢屋をその跡地に移転させたと記録されている。[2]

初期の牢屋はたいして大きなものではなかったとみられる。現在、絵図で知られている牢屋の敷地は、桜町の一区画の多くを占め、残るは桜町通りに沿った細長い町地のみである。後に述べるサン・フランシスコ教会(修道院)がこの細長い敷地に建築されたとは考え難い。

慶長10年(1605)、桜町の東南に隣接する荒れ果てた傾斜地を削って平地化し、引地町が造成された。削り取られて崖となったところに石垣を築いて引地町との境界とし、石垣に沿った道路を引地町通りとした。この造成工事によって、桜町牢屋はその敷地や規模が変更された可能性がある。

桜町と勝山町の間に、慶長1年(1596)に開削された三ノ堀(次回で紹介する)があったが、このとき、その一部が埋められたとされている。[3] 寛永年間の中頃(1623年前後)に描かれたとされる「寛永長崎港図」によると、引地町はすでに描かれているが、三ノ堀はそのまま残っている。主要道路の通る所だけを埋め立てたと見られる。

慶長16年(1611)、桜町牢屋に隣接した土地にフランシスコ会の修道士たちによってサン・フランシスコ教会(修道院)の建設が始められた。しかし、慶長19年(1614)の禁教令により破壊された。宣教師をはじめとして多くの潜伏キリシタンが捕縛され、牢屋に収容されたと云う。[4]

現在、長崎市役所別館前の歩道脇に長崎さるく説明板「サン・フランシスコ教会(修道院)跡」が立てられている。

寛文2年(1662)3月、筑後町から出火した大火は、当時の長崎66ヵ町のうち63ヵ町を焼失するという大惨事となった。このとき、桜町牢屋も類焼したが、すぐに再建されたと云う。

この桜町牢屋の再建に合わせたかのように、寛文3年(1663)、引地町に初めて町使長屋が建てられた。(当時は、「町司」を「町使」と表記していた。)

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【桜町牢屋の規模と構造】
桜町牢屋に関して、長崎歴史文化博物館に所蔵されている「長崎諸地図」に、その敷地と建物の寸法・配置をあらわした絵図がある。

その絵図によると、敷地の惣坪数は744坪(約2,880㎡)余りで、外塀の長さは、絵図の左手表門側19間2尺(約38.0m)、右手の勝山町側17間半(約34.4m)、下方の引地町側45間(約88.5m)、上方の桜町側46間5寸(約91.6m)、折廻し50間5尺(約99.3m)と記されている。

敷地は大きく二つの区域に分けられている。表門を入った区域は厚い練塀で囲われ、拷問所と3棟からなる獄舎がある。この区域の奥は、中門のある練塀を隔てて別の区域となっている。そこには、牢守居宅と牢番長屋があり、さらに、揚り屋が2ヶ所に分かれて建てられている。

絵図の上方に描かれた長い練塀の外は桜町通りに面した細長い町地となっている。また、絵図の下方は長い石垣に沿って引地町通りとなっている。

敷地の右端は、上方が桜町通りに面するまで突出している。これは、三ノ堀を埋め立てて新たに造成した土地と見られる。そこには5室の牢番長屋と番所付き揚り屋1室からなる連棟長屋が建てられている。

絵図に示された桜町牢屋の敷地が確定したのは、建設中の教会が破壊撤去され、引地町が造成され、三ノ堀が埋め立てられた後と見ることができる。

この「長崎諸地図」よりも後に作成されたと見られる「長崎諸役場絵図」が国立公文書館に所蔵されており、その中に「桜町牢屋絵図」がある。

この絵図に記されている惣坪数744坪と敷地の外形は、先に述べた「長崎諸地図」と一致している。しかし、建物の配置を見ると、揚り屋は1棟のみで、その規模が縮小されている。それに応じて牢守居宅や牢番長屋も規模や配置が変更されている。

宝暦年間(1757~1763)に、土地が狭いために揚り屋を2棟とも取り崩し、新たに4間 × 2間(約7.9m × 3.9m)の1棟を中門の北隅に新築したとされている。[6] したがって、この絵図は宝暦年間以降に描かれたことが分かる。

なお、この絵図に表示されている方位は、南北が誤って逆に記されている。

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【矢次豊三郎の勤務】
平野富二の父矢次豊三郎は、前に述べたように、一時期、牢屋・溜牢取締掛を勤めていた。

牢屋は、当初、未決および既決の犯罪人を収容していたが、寛延(1748~1750)の頃に、主として既決囚のみを収容した。[6] 牢守と牢番が居住して看守に当たっていたが、町司はここに日勤で詰めて取り締まりを行い、また、囚人を移送するときの監護もその役目であった。

溜牢は、寛延1年(1748)に桜町牢屋が狭くなったため、浦上村馬込郷(当時)に屋舎を新設し、町人を対象とした未決囚を収容した。[6] 矢次豊三郎が勤務していた頃は、刑を終えた無宿で無職の者たちを収容し、寄せ場の細工所に通わせて職業訓練を行っていた。「長崎諸役所絵図」の中に「溜牢絵図」が含まれており、その規模と構造が分かる。

矢次豊三郎の在勤中に、桜町牢屋で無宿人宗助が首つり自殺をはかった事件があり、また、溜牢では大阪無宿人の入れ墨治兵衛が雪隠(トイレ)の内壁を破って逃亡する事件があった。[7] 矢次豊三郎はその責任を問われて処分をうけたが、任期を終えたときには、「万端、行き届き勤務した。」として御目付からお言葉とご褒美を貰ったと「矢次事歴」に記録されている。

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【本木昌造の揚り屋入り】
桜町牢屋の揚り屋は、士分以上の罪人を拘禁する所であった。安政4年(1857)5月に起こった蘭書器物売り捌き事件で多くの逮捕者があったが、本木昌造は士分扱いとして、同年閏5月18日から翌年2月30日まで、この揚り屋に入牢していた。
 「揚り屋」と「揚げ屋」は似た表記ではあるが、「揚げ屋」の方は、遊女を置き屋から呼んで遊興するところであるので、天国と地獄の違いがある。

当時、有力大名が自藩の海防強化のためにオランダ語の洋式造船・大砲鋳造・砲台築造などの科学技術書やそれを読むための語学書を盛んに買い集めていた。結果として、輸入量が限られていたことから品薄となり、市中で高価に取り引きされていた。

オランダの協力により長崎海軍伝習所が開設されるに当たって、通訳官として従事するオランダ通詞たちの勉学に支障をきたすようになっていた。そのため、オランダ書籍を復刻する目的で長崎奉行所西役所内に長崎活字判摺立所が設立された。本木昌造は活字判摺立方取扱掛に任命されて、ここに勤務していた。

本木昌造は、病気を理由に揚り屋入りを許された後も、「預かり」として自宅謹慎が同年11月28日まで続いた。

本木昌造が拘束されていた安政4年(1857)5月から翌年11月までの期間は、オランダからカッテンディケの率いる第二次オランダ教師団が来日して、海軍伝習とともに、ポンぺによる西洋医術の伝習、インデルマウルによる活版伝習、ならびに、ハルデスによる製鉄所の建設具体化がなされた時期であった。

外出は禁じられていたが外部との接触は可能だった本木昌造は、専ら自宅において鋳造活字の各種製造法について研究に明け暮れた。
私見ではあるが、長崎歴史文化博物館に保存されている「本木昌造活字版の記事」稿本は、この時に実験した蝋型電胎法の成果を記録したものと見られる。

自由の身となってから、その成果が『和英商賈対話集 初編』と『蕃語小引 数量篇』上巻の刊行として示された。しかし、本木昌造は「未だ精に至らず」としている。

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【備考】
[1] 加役とは、本来の職務とは別に年ごとに持ち回りで分担する業務のことである。
[2] 『長崎実録大成』(丹羽漢吉・森永種夫校訂、正編、長崎文献社、昭和48年12月)、『長崎治役人総覧』(籏先好紀著、長崎文献社、2012年10月)
[3] 『新長崎市史』(第二巻近世編、長崎市、平成24年3月)
[4] 『長崎県の歴史散歩』(山川出版社、2005年6月)、『ナガサキ インサイトガイド』(Vol. 1、社団法人ナガサキベイデザインセンター、2010年10月)
[5] 「建碑趣意書」参照。
[6] 『長崎市史』(地誌篇名勝旧跡部、長崎市役所、成文堂出版、昭和42年再刊)
[7] 『犯科帳』(森永種夫校訂、第九巻、犯科帳刊行会、昭和36年)