海外への活字販売:清国

まえがき

わが国と清国との間の近代国家としての交流は、明治4年(1871)7月29日、日清修好条規が調印されたことにより始まる。そして、翌5年(1872)1月29日に上海に領事館が設置され、代理領事として品川忠道が就任した。

築地活版製造所の清国への活字・印刷器械の販売拡張については、平野富二が築地活版製造所社長として外務省通商局に宛てて提出した明治22年(1889)5月3日付の願書に、それまでの経緯が要約されている。

① 明治12年(1879)に曲田成を上海に派遣して活版業の実況を視察した。
② 明治13年(1880)に上海商同会に委託して商品展示場に活字を展示し、一時、販売を試みた。
③ 明治16年(1883)、上海に修文書館を出店し、印刷業の傍ら活字鋳造販売を行った。
④ 明治18年(1885)、清国公使徐承祖は、活字数万個と器械1台を求めて公使館内に活版局を設け、足利文庫の古写本などを印刷して本国の関係者に配布、併せて日本印書業の進歩を報告してくれた。
⑤ 明治19年(1886)、上海の同文書館から館員数名が築地に出張し、2年余り滞在。漢書数十種の紙型鉛版数万枚と活字数十万個を持ち帰った。また、清国人王錫斎も活字若干とロールマシン1台を購入して本国に送った。

その後の追加事項として、次の内容がある。
⑥ 明治22年(1889)、平野富二は外務省に清国活版販路調査の願書を提出し、それに対する清国各地の領事館から報告が寄せられた。

これらについて、以下に順を追って紹介する。

1.曲田成の上海派遣、明治12年(1879)

明治12年(1879)1月、曲田成は平野富二の指示により、四号と六号の明朝風活字書体を改良するため清国上海に渡航した。現地で苦心惨憺の結果、優秀な種字彫刻職人を探し当て、ようやく理想的な活字種版を得て、明治13年(1880)に帰国した。
これが築地活版製造所に於ける活字改良の第一歩となった。後に「築地型」と称する明朝風書体はこの時の第一次改良を起点として着手された。

それまでの明朝風書体は、明治2年(1869)末から同3年(1870)初にかけて上海美華書館の館長ギャンブルを招聘して鉛活字迅速製造法を伝習するに際し、上海美華書館の標準書体が導入され、複製して用いられていた。

平野富二の外務省に宛てた願書によると、美華書館の字体は「細太が一様でなく、角に大小があって、高さに高低がある。そのため、版面が平滑とならず、白紙・唐紙等の脆薄な紙に印刷すると紙面の所々に脱破が見られる」としている。また、松尾篤三編『曲田成君略伝』によると、「(草創期の字母書体は)雑駁にして雅致をも趣味をも有しない」としていた。

曲田成の略伝には、明朝体活字の書体改良については記録されているが、清国における活版業の実情調査については触れていないので、その調査結果は不明である。木版彫師の中から優秀な技を持つ者を探し出す過程で、木版印刷業を中心にその他の印刷業者も含めて調査の対象となったことは十分考えられる。

本稿のテーマである清国への活版販売とは直接関係はないが、この時の活字書体改良に関連して、『本邦活版開拓者の苦心』に掲載されている挿話「築地活版昔物語」に、次のように紹介されている。

  • 築地活版が活字書体の大改良を企画したのは、明治13、4年頃で、竹口芳五郎氏が彫刻主任をしていた時分であった。その時は上海から支那人を2、3人招聘して所内に寄宿させていた。然るに彼らは和食を摂らず自炊をすると云う有様で、大変な費用がかかり、結局、改良費が4、5千円も計上されたそうである。
  • 上海から箱崎の三井支店に一握り程の種字が到着すると、何時も70円から100円位の金を持って、その種字を受取ったものである。その頃の種字は単に価の高価ばかりではなく、これが蒐集に並々ならぬ苦心を要したそうである。

2.上海商同会による委託販売の試み、明治13年(1880)春

上海商同会は、同会の報告書である『上海商業雑報』の第一号によると、在上海の日本人商人が設立を創議して、明治12年(1879)12月4日に上海総領事館に稟議し、公認を得て設立された。当時、上海で開業する日本人商人は10数社で、その他、清国21港の中では僅かに1、2社のみであったと云う。

明治13年(1880)春、築地活版製造所は上海総領事品川忠道の周旋により上海商同会の一部を借り受け、岡正康を主任として派遣し、活字版を陳列して清国に於ける販路を拓こうとした。

図34‐1 品川忠道の肖像写真
<吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史、第二編』より>

品川忠道(1841~1891)の清国との関係は、
明治2年(1869)11月、通商少佑に任じられて
「上海表商況取扱向経験の為」に上海出張を命じられた。
明治5年(1872)8月、上海初代領事に就任、
明治6年(1873)1月、上海総領事に就任、
明治17年(1884)5月、後任に事務を引き継ぎ、
同年7月に帰国するまで上海に駐在していた。

品川忠道と平野富二とは、当人同士が承知していたかどうかは不明であるが、二人の間に個人的な因縁がある。『マリンフード株式会社社史、第二編』によると、平野富二が一時期養子となっていた長州藩御用達吉村為之助(庄之助と伝えられているが、誤りと見られる)の次姉タキは大村藩御用達品川九十九に嫁しており、品川九十九の弟が品川忠道である。つまり、義理の伯父・甥の関係であった。

品川忠道は、品川権左衛門を実父とし、幼名は英輔と称した。オランダ通詞品川徳三郎の養子となってその跡を継いだ。英語にも通じていたので、ペリーの浦賀来港により幕府に徴されて横浜で通弁となり、安政6年(1859)に幕府が各国と通商条約を締結する時に通弁を務めた。その後、通弁のかたわら横浜で洋学教授をしていた。明治2年(1869)になって会計官通商司兼造幣局訳官として新政府に出仕した。

上海商同会の主任となった岡正康は、清国の状況をわが国の有志者に認識してもらうために月刊の報告書を発行する計画を立て、明治14年(1881)1月、上海総領事館に出願し、認可を得て、明治15年(1882)7月、日本人向け報告書『上海商業雑報』を創刊した。清国上海英租界四川路11号 三井物産会社構内に在る上海商同会から刊行し、主幹兼編集人岡正康、印刷人田中春雄で、第1号は五号明朝と片仮名活字を使用し、16ページの小冊子であった。第3号から月刊となった。

明治15年(1882)12月発行の第6号から発行場所が江西路第7号に変更されている。また、明治17年(1884)1月発行の第14号を以って満1年に達したので、ひとまず決算するとしている。
(第1号は明治15年春季3ヶ月、第2号は同年夏季3ヶ月の情況を報告しており、明治16年3月から7月までは休刊していた。)

明治16年(1883)になって、清国の形勢が近代化にむけて急進し、とくに活字の需要は最も有望であるとの報告が上海商同会から東京築地の平野富二にもたらされた。そこで、平野富二は上海に出張所修文館を開設し、館長として松野直之助を指名して上海に派遣することにした。本件については次の項で述べる。

明治18年(1885)6月、上海商同会は農商務省の要求に応じて清国一般の商況を精細に調査し、月に3、4回報告することとなった。この報酬として明治18年(1885)7月から毎月銀貨50円の報酬を受けることになった。

この時の農商務省の文書によると、「目下、清国に向かって物産の輸出を拡張する時期に際し、わが国への諸報告はわずかに一部の商情を摘訳したものに過ぎなかった」と云う。このことは、『上海商業雑報』は既に廃刊となっており、新たに「商況報告書」の発行が求められたと見られる。この報告書発行が何時まで続いたかは不明である。

3.上海に修文書館を開設、明治16年(1883)

明治16年(1883)3月、平野富二は松野直之助を主任として清国上海に派遣して、同年8月、資金3万円を以って英租界三洋径橋北江西路東南角第7号に築地活版製造所の出張所として修文館を開設させた。その時、松野直之助と共に大阪活版所から速水英喜、長崎から年齢の離れた未だ18歳の弟松野平三郎が上海に同行した。

松野直之助は、長崎の新街私塾で学び、新町活版所に入所した。明治5年(1872)7月、平野富二が東京の外神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設する際、長崎から上京した10人の中の一人であった。営業を担当していたが、その後、長崎に戻っていたと見られる。

速水英喜は、明治3年(1870)に開所したばかりの長崎新塾出張大阪活版所に印刷係見習いとして入所し、明治6年(1873)に東京の築地活版製造所で印刷器械の本格製造を開始したとき、製造見習いとして大阪活版所から東京に派遣された。明治14年(1881)7月に大阪活版所に戻って印刷器械の製造を担当していた。上海では活字鋳造と印刷の実務を担当したが、明治18年(1885)に大阪活版製造所(社名変更)に戻った。

上海出張修文館は、当初、上海の新聞に出した広告には修文活版所館、修文館活版所、修文書館などと表示されているが、その後、修文書館に統一された。取扱い品目は、大小銅活字・花紋刻版・各式印刷器械・各種印字墨料などで、活字を用いて古今書籍の印刷も行うとしていた。

明治18年(1885)4月、旧長崎新塾関係の株主総会が大阪活版製造所で開催され、長崎・大阪・東京・上海にある各事業所の財産区分について協議された。その結果、各事業所を独立させることとし、長崎の新町活版所は本木家の財産とすること、東京築地活版製造所が保有する大阪活版製造所の株式と売掛金を棄損し、東京築地活版製造所が支出した上海修文書館の財産も棄損することで合意した。これにより、上海修文書館は東京築地活版製造所の出張店から支那(清国)一手特約店となった。

図34‐2 東京築地活版製造所の広告
<『上海新報』、第4号、明治23年6月に掲載>

修文書館が築地活版製造所から独立して5年後に
修文書館から発行された『上海新報』に
東京築地活版製造所の広告が掲載されている。
それには、修文書館を「支那一手特約店」としている。

修文書館については、長崎在住の宮田和夫氏が長崎歴史文化博物館で「修文書館関連書簡類全13冊」を発見され、板倉雅宣氏がタイポグラフィ学会誌に紹介している。

それには上海で修文書館が受注した活字類や印刷物の記録が含まれており、アメリカ教会から多量の聖書、福音書類、在上海日本領事館を通じた多量の漢洋活字類が記録されている。また、明治19年(1886)から翌年にかけて上海で清国人が経営する出版社「廣百宗斎」から『東華録』194巻、『東華続録』230巻のステロ版(鉛版)を受注し、東京築地活版製造所と大阪活版製造所で分担した納入記録もある。

その他に、在天津領事館からの報告(項で述べる)によると、日刊紙『時報』と『Chinese Times』を発行している時報館は、活字を上海の修文館から購入したと述べている。天津以外の領事館からも地元の新聞社が日本から活字・印刷器械を求めていることが報告されている。

ステロ版について、『本邦活版開拓者の苦心』(89ページ)に、「(上海における)その頃の印刷物は専ら旧約聖書で、ステロ版を以って印刷していた。上海には既に米人経営の印刷所が4、5軒もあって、相当の仕事を吸収してやっていたのであるが、ステロ版に布目が出るため評判が芳しくなく、結局、技術の上で修文書館が勝利を博したので、松野主任をはじめ速水英喜らの得意は物凄かったと云う。」と紹介されている。

なお、上海に限らずアメリカ本国でも大量に同一版で印刷する聖書類は、活字の消耗が激しいので、活字版から紙型をとり、それを鋳型にして鉛版を鋳込んで複製版を作製し、これをステロ版と称していた。ステロ版は英語の stereotypeのことである。

修文書館の主任で館主の松野直之助は肺疾患が悪化し、長崎に戻って入院療養していたが、明治22年(1889)3月に43歳で病死した。その間、弟の松野平三郎が上海で兄の代理を務め、兄の死去により修文書館の館主となった。

 

図34‐3 松野直之助と松野平三郎の写真
<『大阪印刷界 本木号』、第32号、明治45年6月>

松野直之助は本木昌造の経営する新街私塾に学び、
新町活字製造所に勤務中、平野富二に随伴して上京した。
松野平三郎は直之助の20歳年の離れた弟で、
『大阪印刷界 本木号』では松野卯三郎となっている。
これは、「平」の崩し字を「卯」と読み違えたものと見られる。
松野家は長崎市豊後町2番戸にあったらしい。

このような事態を受けて、平野富二は清国に於ける今後の活版市場開拓を心配して、明治22年(1889)5月、外務省に願書を提出し、清国に於ける活版事業の販路調査を依頼したと見られる。本件については項で述べる。

明治23年(1890)6月5日、松野平三郎は修文書館から『上海新報』、第1号を発行した。この新聞発行は兄松野直之助の頃からの懸案であった。

発行に当たって松野平三郎は、同年1月に朝野新聞等に新聞広告「上海新報発行之趣旨」を出して日本国内での申込取次所を示し、購読者を募集している。

次いで、在上海日本総領事館に宛てて明治23年5月12日付の「上海新報発行届」を提出している。その内容は、「今般、清国上海外国人居留地規則を守り、日清間の通商貿易を奨励する趣旨で『上海新報』と題する新聞を来る5月20日から毎週1回発行するので、御届け申し上げます。」としている。この時の修文書館の住所は、清国上海英租界四川路第三百七拾五号で、松野平三郎は修文書館館主、本籍長崎市豊後町2番戸、平民としている。

これを受けた上海日本総領事館の領事代理書記官二口美久は、同日付けで本国の外務大臣子爵青木周蔵に宛てて「上海新報発行ノ件ニ付伺」を提出している。外務省では、同年6月28日、新聞紙条例の遵奉要否を検討した結果、外地での発行物は適用外であるとして届け出を認可し、同月30日に上海総領事館に通告した。そのため、発行予定の5月20日は遅れて6月5日発行となった。

『上海新報』の発行に先立つ明治19年(1886)1月に、三井物産会社上海支店から上海領事に対して「物価報告状発行願」が提出されたが、日本の新聞条例の許可が問題とされて実現しなかった。その『物価報告状』の発行所は上海支店三井物産会社、印刷所は上海の修文書館となっていた。修文書館は三井物産とは親密な関係にあり、『上海新報』に掲載された記事には三井物産から提供された「物価報告」等がある。

その後、修文書館は、明治23年(1890)12月、当初の英租界三洋径橋北江西路から英租界蘇州路に移転している。

明治24年(1891)5月29日付の『上海新報』第52号に松野平三郎は「休刊の辞」を掲載して「上海の地は生計費・税金が高く経営を続けられない」として休刊を告げ、また、修文書館の広告を掲載して「活字製造販売と諸印刷物請負などの本業に身を入れる」旨を述べている。それに先立つ5月17日には、同紙に掲載した記事が原因で暴徒の襲撃、暴行を受けるという事件があり、これが休刊となる直接の原因であったとも見られる。

松野平三郎は、その後、修文書館の本業に専念したが、『上海新報』を復刊することなく、明治26年(1893)に28歳の若さで病没した。

修文書館は、その翌年に業績不振に陥り、三井物産会社の担保となったが、明治33年(1900)に印刷設備一切を清国人経営の商務印書館に引き取られた。

4.清国公使による日本印書業の進歩を本国に報告、明治18年

清国公使徐承祖が、東京築地活版製造所の活字が清国の活版・木版と比較できないほど鮮明であることを感賞し、活字数万個と印刷器械1台を求めて、永田町の清国公使館内に設置して活版局「扶桑使廨」とした。

その活版局で足利文庫の古写本や公使父子の著書等、若干種を印刷し、本国の貴官や各省長・各道台、ならびに知人・友人等に配布した。これと併せて、日本印刷業の進歩について報告を行ったとされている。それ以来、築地活版製造所には清国各地方より活版業に関する照会が少なくなかったと云う。

公使父子の著書について、これは公使の亡父徐鼐(ジョ・シ)が遺した草稿を『周易舊註』、12巻として光緒丙戌、明治19年(1886)1月17日に扶桑使廨から出版したものと見られる。この書籍は『東京日日新聞』に出版広告が掲載され、国内でも販売された。現在、京都大学付属図書館に所蔵されている。

徐承祖は、明治17年(1884)12月26日に清国二等公使として着任し、明治20年(1887)6月23日に任期を終えた。本国に帰国する際、先に永田町公使館内に据付けた印刷設備1式を持ち帰ったと云う。

なお、余談であるが、明治19年(1886)8月1日に清国北洋艦隊の精鋭を誇る主力軍艦4隻が水師提督丁汝昌に率いられて長崎入港した。8月13日から15日にかけて多数の清国水兵が長崎市内に上陸し、暴行を働いて警察と市民を巻き込む大乱闘となり、多数の死者・負傷者を出すと云う大事件が発生した。同年9月に入ってから東京で外務大臣井上馨と清国公使が外交交渉が行われ、善後策を取り決めた。この時の清国公使が徐承祖である。

5.上海同文書館館員の築地滞在、明治19年(1886)夏

明治19年(1886)夏、上海の同文書館員数名が東京に出張して来て、東京築地活版所に2ヶ年余り滞在した。その時、『先正事略』、『西廂記』、『四書大全』、『詩韻合璧』、『歴代名臣言行録』、『憲廟硃批諭旨』、『石頭記』、『開国方略』等の漢文書籍数十種を版組して、数万枚の紙型を取って鉛版とし、鉛版と活字数10万個を持ち帰った。

この同文書館は、在上海日本総領事館からの報告書にある「同文書局」と見られる。それによると、同文書局は上海における石版業の著大なるものとして最初に挙げられており、上海虹口に所在し、手摺印刷機18台、ロール印刷機白紙全面掛12台を設備し、資本は80万ドルとしている。石版および器械は上海に在る売薬商大英医院の取次でイギリスから輸入したものとされ、ロール印刷機は蒸気動力駆動と報告されている。

また、日本に滞在していた清国人王錫斎も活字若干とロールマシン1台を購入し、本国(多分、広東であろう)に輸送したと云う。

6.外務省への清国活版販路調査依頼、明治22年(1889)

明治22年(1889)5月3日、平野富二は、清国に日本製の活字と印刷器機類の販路を開く目的で、外務省通商局に宛てて調査依頼の願書を提出した。

この直後の同年6月17日の株主総会で、平野富二は東京築地活版製造所を有限責任の株式組織とするために定款を定め、社長心得として本木小太郎を指名して、自らは社長を辞任した。その背景には、同年1月17日に認可を得て有限責任東京石川島造船所が発足した。平野富二は選任されて常務委員となり、造船事業に専念することになった。

そのようなことから、外務省通商局への願書は築地活版製造所 社長平野富二代 平田東雄が署名、捺印して提出された。

平田東雄の役職は明らかではないが、明治17年(1884)7月の「かなのくわい」役員改選で評議役40人の中に名前が見られる。また、平野富二が死去した明治25年(1892)12月にはすでに東京築地活版製造所を去っている。

平野富二にとって、明治4年(1871)に本木昌造から活版製造事業の経営を委託されて以来18年間、その事業に係わってきたが、中国での市場開拓を委託していた上海修文書館の松野直之助が死去したため、改めて中国における活版の市場調査を行い、その結果により善後策を講じることとしたものと見られる。
更には、当時のわが国の活字製造業界は、中小業者を中心として採算を度外視した過度な販売競争が行われており、海外に活路を見出す目的があったとも見られる。

ここで紹介する外務省宛ての願書とその関連文書は、外務省の外交史料館に所蔵され、アジア歴史資料センターから公開されている。その願書の冒頭には次のように述べられている。平易な文章に直して紹介する。

「当築地活版製造所は、清国国内で繁華な都市や開港場に日本製活字と印刷器械類の販売ルートを開きたく存じています。清国は、何分、遠隔の地でもあるので、活版業の現況や将来の見込み、日本と上海間の運輸・通信の有り様などが分かりません。しかも、日本内地と異なり鉄道・汽船の便にも問題が多く、広く遠大な国であるので地域により風土や人情も著しく相違する国柄で、事情不案内のままで突然視察に出かけても、実際の調査は行き届きかねません。
そこで、お手数をお掛けして誠に恐縮ながら、北京・上海・天津・広東・香港・福州・漢江・芝罘・牛荘・寧波・その他の主要都市や開港場の領事館または貿易事務員の手により一応御調査の上、御回報に預かりたく、別紙として定価表・略見本を添え、お願い申し上げます。」

 

図34‐4 外務省に宛てた活字販路取調方願書
<外務省外交史料館所蔵、アジ歴 B11091493300>

この願書は5枚、10ページから成る。
図は冒頭の1枚目と最後の5枚目を示す。
この願書は手書きではなく、活版印刷で作製されている。
この年は石川島造船所と築地活版製造所の株式組織化や
甲信鉄道の計画、東京湾汽船会社の設立など
平野富二にとって多忙であったことから
外務省通商局への提出に当たって
代理として平田東雄に署名させている。

なお、文中に「御報告を受けたら、清国中で著名な書肆・印書商・新聞社等に標本や定価表等を配布し、行く行くは主要な開港場に代理店・出張所を設立することを計画しています。」と述べている。

その上で、取調要目として12項目を挙げて、それぞれに就いての精細なる報告を要求した。

清国各地にある日本領事館からの回答は、在芝罘(チーフー)日本領事館(5月28日付)、在福州日本領事館(6月10日付)、在香港日本領事館(6月10日付)、在上海日本総領事館(6月14日付)、在天津領事館(8月3日付)、漢口領事館(8月26日付)から寄せられた。

芝罘は山東省北東部にある渤海に面した不凍港で、そこの日本領事館からは送り状と共に2枚4ページの報告書が添付されていた。それには、「山東省は、人口は多いが土地は痩せ、人は豊かでないので印刷物等の需用は多くない。必要なときは上海、天津等から容易に廉価で買い求めることが出来る。目下のところ、遺憾ながら需用はない。尤も、山東省の人民も逐年進歩しているので、他日を待って計画する以外にない」としている。

福州は福建省の台湾海峡に面した港であり、そこの日本領事館からは個別の調査報告はなく、コメントとして、「未だ活版の業務は殆どなく、販路を求める見込みはない」としているが、「心当たりの外国新聞社、外国宣教師、各官庁等に相談して置きたいので、活字標本と定価表を各10部送付するよう」要請があった。

香港の日本領事館からは3枚5ページの報告書が添付されており、そこには、「外字新聞が8種、漢字新聞が5種ある。活版業者は前記新聞社の他に、外国人経営3社、清国人経営の小活版印刷業者があるが、石版・銅版を業とするものはない。書籍等は主として活版により、木版は稀である」としている。活字と印刷器械については、「英活字はすべてイギリスからの輸入、漢字活字は China Printing & Publishing Co.によりイギリスの two-line pica body で製造している。また、上海の American Presbyterian Mission Press で製造している。印刷器械はイギリスから輸入し、アメリカ製のものもある」としている。その他に関する報告もあるが、ここでは省略する。

天津は首都北京に最も近い河北省の水運の中心地で、そこの日本領事館からは5枚10ページの報告書が寄せられた。そこには、「活版印刷は時報館と税関で定時的に発行されている。時報館は日刊紙『時報』と『Chinese Times』を発行しており、活字は上海の修文館から、活版器械は上海の外国人の手により購入した。税関は活字・器械ともにイギリス製である。天津地方では官民共に未だ活版を利用する方法を知らない。時報館はあまり収益がないと聞き及んでいるので、差し向き活字の販路を拡張するのは困難であろう。しかしながら、試みに三井物産会社出張店などに依頼して、徐々に販路を開くことに尽力するのも一策である」としている。

漢口は湖北省の中心都市で、現在は武漢市の一地区になっている。そこの日本領事館からは4枚8ページの報告書が寄せられた。そこには、「新聞・雑誌等の定時刊行物はないが、英漢書館が専ら漢文活字を用いて宗教書類を印刷している。他に洋文を印刷する小規模印刷所が2社ある。一般に在来の木版を珍重する風があり、現状では国民の気風が保守に偏しているので木版印刷物が最も多く、それに次いで石版、活版、銅版の順になる。官府告示文、その他公文類は専ら筆写で、民間の文書、報告書も同様で活版を用いた文書は見たことがない。当地で用いられている印刷器械はイギリス製である。上海機器局で大小各種の印刷器械を製造している。価格は廉価であるが、品質粗悪のため漢口で用いる者は居ない。活字は漢口製のものがあるが、上海・日本・西洋から輸入するものもある」としている。

上海の日本総領事館からの報告書は最も詳細に亘っており、8枚16ページの報告書であった。その中に前文として「上海活版・石版両業現況一班」が2枚4ページにわたって述べられている。

図34‐5 在上海日本総領事館からの報告書
図34‐4 と同じ>

報告書は最初に総括として
「上海に於ける活版業と石版業の現況一班」を述べている。
「一班」とは、物事の一部を示すことで全体を批評することを言う。
豹の毛皮は、まだら模様の一つを観れば、
全体の良否が判別できるに由来している。

その中に、「この数年間、活版製造業者の技術が大いに進歩し、活字は勿論、活版印刷に属す諸器械は一切、他国の供給を要せず、全て上海に於いて製造し、自国の需用は自国の供給を以って充てることが出来るようになった。その上、石版・銅版の事業も非常に発達し、殊に、石版は特に清国人の好みを博し、活版を凌駕する状態である。この事から、今日では他国が乗ずべき様を見ることが出来ない」としている。
また、「活版業者に至っては、定時刊行物を有する者は別として、その他の者は諸帳簿類や石版・銅版業者が顧みない印刷物を扱うに止まり、且つ、同業者が多数あって競争が激しいので、現に、修文館(修文書館)は清国人の鋭敏で巧妙な競争に苦しめられているようである」としている。

設問に対する11項目に亘る報告の内容紹介は、ここでは省略するが、その中の「活字と印刷器械」については、「最初、アメリカに求め、中頃、日本に求めたが、今は上海に於いてすべて製造し、しかも、洋墨・色肉までも清国人が自製していて、外国からは一切の供給を要しないようになった。しかし、活字は日本の活字を標本として模造したものであるので、佳は佳であるが日本の活字よりも優れているとは言えない。器械類も同様で、販売価格が非常に低廉であるので、外国製品を求めることはなく、自国製品で満足しているようである。したがって、近頃、外国人は活版諸器械の売込みに努めないようになった。」としている。また、「活字の価格は、美華書館の価格の2割から3割方安く、活版器械の販売価格も日本品よりも1割から2割方安く、外国製品は日本製よりも2割から3割方高いと云う」としている。

なお、各地共通であるが、定期刊行物以外で最も多数販売されている書籍は考試用の四書五経の類で、その他に尺牘(書簡類)・紀事・小説・翻訳書であると報告されている。

以上のような報告内容であるが、清国では、上海では石版、その他の地方では木版による印刷物が好まれている。報告書には述べられていないが、その裏には木版と石販は雅趣のある筆跡を残しているのに対して、単純化・規格化された明朝体による活版はその書体を嫌う傾向にあったと見られる。この傾向はわが国での活版印刷導入期に於いても同様であった。しかるに何故か、築地活版製造所が願書に添付した活字標本は明朝活字のみで、楷書活字の標本はなかった。

図34‐6 築地活版製造所の活字標本
図34‐4 と同じ>

提出された活字標本は明朝風書体のみであった。
当初採用されていた上海美華書館の書体はすべて改刻されて、
バランスの取れた、いわゆる「築地体」が実現されている。
四号字の標本として示す漢文に、
「本木昌造は今を去ること39年前に
初めて母型を製造して鉛活字を鋳造した」
と記されている。
明治22年を基準とすると、嘉永3年(1850)となる。

外務省からの調査報告書を受けた築地活版製造所は、当時、株式組織を有限責任として定款を定め、役員を改選して新発足する時期に当たっていた。
明治22年(1889)6月に開催された株主総会で、平野富二は社長を辞退して本木小太郎(業祖本木昌造の継嗣)を社長不在のまま社長心得とし、取締役の松田源五郎と谷口黙次に後見を託した。

その後間もなく、東京築地活版製造所は中小の活字製造業者による過度の販売競争の影響を受けて存亡の危機に見舞われた。翌明治23年(1890)1月に社長心得本木小太郎は退任し、代わって曲田成が社長に就任している。

そのようなことから、清国各地の日本領事館から報告書を受けたが、清国への活字・印刷器械の販売計画は殆ど進展しなかった。上海の修文書館は、明治24年(1891)5月29日になって、それまで主力を注いてきた『上海新報』を休刊して、本業に身をいれることを宣言したが、その後のことは3項で述べた通りである。

明治29年(1896)11月から12月にかけて、東京築地活版製製造所の取締役支配人野村宗十郎は清国の上海と香港に出張した。この出張目的は明確ではないが、上海で清国一手特約店となっていた修文書館が業績不振により閉鎖されたため、その善後策を協議し、次いで、今後の海外発展をめざして香港に足を延ばしたと見られる。

ま と め

上海の美華書館との付き合いは本木昌造の時代から始まるが、わが国で製造した活字や印刷器械を清国に販売する計画は、その製造が平野富二によって軌道に乗った時期に始まった。
その最初の試みは、明治12年(1879)に社員曲田成を上海に派遣して明朝風活字の書体改良を行う傍ら、清国に於ける活版印刷の動向を調査したことに始まる。その翌年に上海の商同会の商品展示場に活字を展示させてもらい、販売を試みた。

明治16年(1883)になって、清国での近代化に伴い活字の需要は最も有望であるとの上海商同会からの報告により、平野富二は松野直之助ら3人を上海に派遣して出張所修文館を設けて、活字鋳造販売と印刷請負を始めた。
その後、出張所修文館は独立して修文書館となり、支那一手特約店として東京築地活版製造所と大阪活版製造所からかなりの数量の活字やステロ版を納入している。館長の松野直之助が明治22年(1889)3月に病死したこともあってか、同年5月に平野富二は外務省通商局に宛てて清国に於ける活版販路調査を依頼している。

国内での清国関連として、明治18年(1885)、清国公使徐承祖は、東京築地活版製造所から活字数万個と器械1台を求めて公使館内に活版局を設け、父の遺した注釈書や足利文庫の古写本などを印刷した。これらを本国の関係者に配布し、併せて日本印書業の進歩を報告した。帰任に当たって印刷設備一式を本国に持ち帰った。また、明治19年(1886)には、上海の同文書館館員数名が築地に2年余り滞在し、漢書数十種の紙型鉛版数万枚と活字数十万個を持ち帰った。その他、清国人王錫斎も活字若干とロールマシン1台を購入して本国に送っている。

明治22年(1889)5月、平野富二は、東京築地活版製造所社長としての最後の仕事として、外務省通商局に宛てて清国に於ける活版設備のマーケット調査を依頼した。この直後の同年6月17日に東京築地活版製造所を有限責任の株式組織とし、平野富二は社長を辞任し、本木小太郎を社長心得として指名している。

この外務省へのマーケット調査依頼は、一つには上海の修文書館館主松野直之助の死去に伴うその後の活動に不安を持ったこと、二つには国内の活字製造業が採算を無視した販売競争にあったことから、新市場として清国に本格進出を計画していたことが考えられる。

外務省を通じて清国から芝罘・福州・香港・上海・天津・漢口に在る各領事館から報告が寄せられたのは、平野富二が東京築地活版製造所の社長を辞任した後のことであった。
在上海総領事館から寄せられた報告書が最も詳細を極めたものであった。その内容は、「活字と印刷器械は、最初、アメリカに求め、中頃、日本に求めたが、今は上海に於いてすべて製造し、外国からは一切の供給を要しないようになった。販売価格が非常に低廉であるので、自国製品で満足しているようである」としていた。
東京築地活版製造所は、平野富二の社長辞任後まもなく、会社存続に係わる経営危機に見舞われ、また、清国は必ずしも有望な市場ではないとの報告もあってか、清国進出は具体化されなかった。

上海の修文書館は、松野直之助の死後、弟の松野平三郎が館長となったが、兄の遺志を継いで『上海新報』を発行して清国の情況を日本国内に伝えることに力を注いだが、明治24年(1891)5月29日になって『上海新報』を休刊して、本業に身をいれることになった。しかし、明治26年(1893)に松野平三郎は28歳の若さで病没した。修文書館は業績不振に陥り、明治33年(1900)に印刷設備一切を清国人経営の商務印書館に引き取られた。

明治29年(1896)11月になって、東京築地活版製製造所の取締役支配人野村宗十郎が清国の上海と香港に出張しているが、その目的と結果については記録に残っていない。

本稿を纏めるに当たり、上海の商同会と修文書館に関して板倉雅宣氏がタイポグラフィ学会誌に発表された「上海 修文書館のこと」、「補遺 上海 修文書館のこと」を大いに参考にさせて頂いた。具体的で詳細な内容は同誌に拠られたい。

平野富二の活版事業との関わりは、明治4年(1871)に本木昌造から事業委託を受け、明治22年(1889)に東京築地活版製造所の社長を辞任するまでの18年間であった。その最後の置き土産が「清国に於ける活字・印刷器械の販路調査」であった。その後の平野富二は、活版事業を離れて自分の目指す事業に専念するが、天から与えられた時間はあまり無かった。

2020年7月27 日 公開

 

 

 

海外への活字販売:朝鮮国

はじめに
わが国の近隣諸国との交流は、江戸時代の鎖国下においても、清国とは長崎の唐人屋敷を通じて唐交易が行われ、李氏朝鮮国とは釜山に設けられた倭館を通じて対馬藩が交易を行われていた。その後、近代国家としての交流は、明治4年(1871)7月に清国との間で日清修好条規を締結、明治9年(1876)2月に朝鮮国との間で日朝和親条規を締結したことにより始まった。

平野富二は、東京に長崎新塾出張活版製造所を設けて生産体制を着々と整備し、海外の活字市場の開拓にも関心を示すようになった。当時、同じ漢字を用いていた清国と朝鮮国への活字供給が当面の対象となったと見られる。

清国と朝鮮国は、当時、いずれの国も特別な活字を造る必要はなかったが、広く普及させるためには、いわゆる明朝風よりも清朝風の楷書活字を用意する必要があった。

わが国では、当時、誰にでも読める仮名文字による印刷物の普及が提唱されていたことから、朝鮮国に対してはいわゆる朝鮮文字(ハングル)の活字を用意することになった。

本稿は、「海外への活字販売」シリーズの(その1)として、販売先を朝鮮国に焦点をあて、(1)東京築地活版製造所の広告文や活字見本帳に示された朝鮮文字、(2)朝鮮国への活字供給実績、について各種資料から取り纏めて紹介し、併せて、(3)ハングルの創制と変遷(参考)について、その概要を紹介する。

(1)広告文・活字見本帳に示された朝鮮文字
1)『活字見本帳(改定版)』、明治12年(1879)6月
平野富二は、明治12年(1879)6月、東京築地活版製造所の活字見本帳(改訂版)を発行している。その8ページに四号明朝風漢字と共に朝鮮書体が掲載されている。
本書を所持されていた板倉雅宣氏は「その朝鮮書体は取り急ぎ追加されたように見える」と述べておられる。

この発行に先立ち、明治9年(1876)2月に日朝修好条規が締結された結果、同年5月に朝鮮国は日本に第一次朝鮮修信使(正使:金綺秀 キム・ギス)を派遣し、日本における近代化と富国強兵策が迅速かつ効果的に行われている様子を見聞して帰った。一方、わが国は、明治10年(1877)から花房義質弁理公使をしばしば朝鮮国に派遣して開港交渉を行ない、明治12年(1879)に釜山(プサン)と元山(ウォンサン)が開港された。

このように、わが国は朝鮮国との間で国家間の交流が開始されたことから、朝鮮語を表記する朝鮮書体の活字需要が見込まれると判断したと見られる。

余談となるが、三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(p.191,2)に花房義質公使と見られる人物に関して、次のような逸話が紹介されている。要約すると、「或る公使が、明治11年頃に外国赴任のため自分が乗っていた定紋入りの人力車がまだ新しいのに不用となり、友人の平野富二に贈った。平野富二は、その後、その人力車が古くなったので新しく買い替えたが、公使から贈られたときのように定紋を取付けていた。4、5年後に公使が帰国したとき、平野富二が、贈った人力車をまだ新品のように手入れをして使用していると思い込み、『平野さんは品物を大切にする人だ』と褒められたそうである。」

当時、花房家は築地活版製造所の南側の道路を隔てた向かいにあった。二人は近隣のよしみで親しく付き合っていたらしい。そのことから、ハングル活字も話題となり、それを製造する動機となったとも考えられる。

なお、本稿(2)で紹介するが、明治5年(1872)と同6年(1873)に、平野富二は朝鮮文字の母型を製造し、顧客に納入している。当時は活字ではなく、活字の母型を納入しており、活字の製造までは考えていなかったのかも知れないが、朝鮮文字との出会いは東京に進出して間もなくのことであった。

2)第二回内国勧業博覧会『出品目録』、明治14年(1881)3月出品
築地活版製造所が自社製造のハングル活字を一般に公開したのは、明治14年(1881)3月1日に東京上野公園で開催された第二回内国勧業博覧会においてであった。このとき平野富二は既に築地活版製造所の経営を名目上ではあるが本木小太郎に譲っていたので、本木小太郎の名前で各種印刷機械と共に各種活版と字見本帖を出品している。

同博覧会事務局から出版された『出品目録』によると、37種の各種活版が出品され、その中に明朝風、清朝風、行書、片仮名、平仮名と共に4種の「朝鮮書体」活版が記載されている。その印字見本は、同時に出品された「字見本帖」に示されている。この「字見本帖」は本稿1)で紹介した『活字見本帳(改定)』(明治12年(1879)6月刊行)と見られる。

図33‐1 第二回内国勧業博覧会『出品目録』
<『第二回内国勧業博覧会出品目録』、初篇四、明治14年刊>
上段の最終行から下段に掛けて本木小太郎の出品が列記されている。
製造者は支配人の桑原安六となっている。
印刷機械2種に続いて、各種活版が番号を付けて列記されており、
(13)、(16)、(22)が朝鮮書体、(19)が朝鮮風と表示されている。
最後に、各種書体を印刷した字見本帖がある。

3)『新製見本』、明治17年(1884)6月、配布
築地活版製造所では、前述したように明治14年(1871)3月開催の第二回内国勧業博覧会で朝鮮書体活版を出品し、活字見本帳に掲載しているが、その後、明治17年(1884)6月になって三号と四号の朝鮮活字を発売している。

これは、明治15年(1882)5月から明治19年(1886)11月までに新製した朝鮮文字活字を一冊に纏めて明治21年(1888)2月に発行した『新製見本』に掲載されている。

図33-2 明治17年6月の「新製見本」
<『新製見本』、築地活版製造所、明治21年2月より>

右に三号朝鮮文字、中央に四号朝鮮文字が印字されている。
なお、左は四号梵字(インド文字)である。

『新製見本』の(12)ページに「明治17年6月新製」の三号と四号の朝鮮文字と四号の梵字体が掲載されている。
なお、同書の(30)ページには「明治19年9月新製」の銅板イラストが紹介されており、そのイラストに築地活版製造所の英文広告が組み込まれている。その中に、FOREIGN CHARACTERSとして「Roman, Italic, German, Corean, Indian and all kinds of Jobbing Types」としてCorean(朝鮮文字)が含まれている。

4)『活字と機械』、大正3年(1914)6月発行(参考)
株式会社東京築地活版製造所の五代社長野村宗十郎の時代のことになるが、大正3年(1914)6月、『活字と機械』を発行している。

その冒頭の挨拶文で「粛啓 漢字、仮名、朝鮮文字、その他ポイント式活字類、印刷機械、小道具類等ノ見本帖 調製致候間 御高覧ニ供シ候 敬具」と述べて、漢字、仮名と共に朝鮮文字が含まれていることを示している。
また、9ページには「築地和漢洋文字」として「各号明朝、各号楷書、各号ポイント式活字、朝鮮文字、其他各種書体英、佛、伊太利、独乙、希蝋、印度、露西亜、蒙古、其他各国文字及装飾文字」と記した広告を掲載している。

そして、同書の77ページに「二号および三号」、78ページに「四号および五号朝鮮」として4種の朝鮮文字(ハングル)による印字見本を掲載している。

図33-3 『活字と機械』に掲載された朝鮮文字
<『活字と機械』、㈱東京築地活版製造所、大正3年6月より>

左側に二号と三号、右側に四号と五号の朝鮮文字を示す。
二号、四号、五号はいわゆる明朝系とされる書体であるが、
三号は、明治17年6月新製と同じで、
ゴシック系に近い書体であるが、筆の起収が表現されている。

大正3年(1914)は第一次世界大戦の勃発した年であるが、4年前の1910(明治43)年8月に日韓国併合条約が調印されて、大韓帝国(1897年10月に宣布)は消滅して日本国政府の統治下に入った。

日本政府は朝鮮の教育・文化政策を推進し、併合時に100校ほどしかなかった4年制の普通学校(小学校に相当)は、1943(昭和18)年には6年制の国民学校として5,960校を数え、義務教育制度はなかったが、そこで日本語、朝鮮語、算数、日本史、朝鮮史、朝鮮伝統の修身などの教育を行った。この朝鮮語教育でハングルが用いられたことから、ハングル活字の需要は大いに期待されていた。

(2)朝鮮国への活字納入実績
1)ハングル母型の製造・納入(明治5年)
明治5年(1872)、横浜のゼーコール・ジャパン社は朝鮮諺文活字を用いて『聖教公程』、四六半裁版300余頁を印刷出版した。この印刷に使用した字母の種字を彫刻したのが牛込に住んでいた天野国中で、母型は字母吉が製造してゼーコール・ジャパン社で鋳造した。

この記事は、牧治三郎著『活版印刷伝令考=10』(『印刷界』、1966年12月号)に記述されているものをそのまま引用した。

平野富二に雇われて神田和泉町で字母係となった小倉吉蔵(通称、字母吉)によるハングル活字の母型製造について、『聖教公程』が出版されたとする明治5年(1872)は、平野富二が長崎から上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したばかりの頃で、そのとき、長崎から字母係を連れて来ることができなかったため、江戸で相当名の知れた神社仏閣の飾金具師小倉宗吉に白羽の矢をたて、その推挙を受けて長男の吉蔵を字母係として雇い入れた。その小倉吉蔵が、後に「字母吉」と呼ばれるようになった。

平野富二が神田和泉町で字母製造のために初めてガルバニー(電胎法)を開始したのは明治5年(1872)9月20日であったする記録がある。小倉吉蔵はこれに従事したと見られる。

したがって、牧治三郎の記事が正しいとすると、『聖教公程』の朝鮮諺文(ハングルのこと)活字を鋳造するための字母は、神田和泉町で平野富二が字母吉に造らせて、ゼーコール・ジャパンに納入したと見ることができる。
通常は活版製造会社が字母を販売することはないが、わが国で使用されないハングル活字の字母であったがために、平野富二は敢えて販売に踏み切ったと見られる。

小倉吉蔵は、明治8年(1875)に平野富二の指示で上海に渡り、合理的な字母の製造法を研究し、明治10年(1877)に帰国した。しかし、平野富二の下には戻らず各地に誕生した活版製造所を遍歴し、明治11年(1878)に神田連雀町で字母製造業を独立開業した。 

2)活字字母を朝鮮国に納入(明治14年)
明治14年(1881)、朝鮮国から二号と四号の字母の注文があったことが津田伊三郎編『本邦活版開拓者の苦心』の雑録「築地活版昔物語」(116頁)に次のように紹介されている。

「●明治14年に朝鮮から二号と四号の字母が入注したことがある。数量は記憶がないが、かなり沢山な額であったと思う。その頃、字母は一本65銭、五号活字1個が1厘8毛という相場であった。」

この朝鮮からの字母入注は、明治13年(1880)8月、第二次朝鮮修信使(正使:金弘集〔キム・ホンジプ〕)の随員が東京の築地活版製造所を見学した結果とも見られる。

これだけの情報ではこの字母が漢字かハングルかは不明であるが、平野富二が漢字の字母を販売したとは考え難い。

ハングルで使う文字は、子音字と母音字を組み合わせて一つの文字に「組み書き」した場合、実用上は2,500字から3,000字近くの母型が必要となると云われている。これだけでもかなりな数量、金額であることに間違いない。

3)第四次朝鮮修信使に活字・印刷機を納入(明治16年)
朝鮮国への活字・印刷機の輸出については、直接的には、第四次朝鮮修信使(正使:朴泳考〔パク・ヨンヒョ〕、顧問:金玉均〔キム・オッキュン〕)が、明治16年(1883)1月、日本において資金を調達して帰国する際に、福澤諭吉の「朝鮮が近代国家として独立し、人民を啓蒙するには、新聞の発行が必要である」との訓示により、活字と印刷機を購入した。この活字と印刷機は築地活版製造所から納入された。

福沢諭吉は、明治15年(1882)3月1日に『時事新報』を創刊しており、人民を啓蒙する手段として自ら新聞によることを実践し、朝鮮にもそのような活動を広めるために全面的な支援を約束していた。

第四次朝鮮修信使が朝鮮国に持ち帰った活字と印刷機を使用して新聞を発行するため、福澤諭吉の意を戴した弟子の井上角五郎は印刷工2名を引き連れて朝鮮に渡った。この印刷工2名は慶應義塾出版の関係者と見られる。

井上角五郎(1860~1938)は、明治15年(1882)7月に慶應義塾を首席で卒業し、同年12月に福沢諭吉の指示で『時事新報』の記者だった牛場卓蔵らと共に朝鮮改革のため漢城(今のソウル)に派遣された。しかし、朝鮮政府の内部抗争で改革を断念して牛場卓蔵らは帰国したが、井上角五郎だけは独り残った。
その後、井上角五郎は、国王高宗と金允植(キム・ユンシク)の支持を得て、1883(明治16)年6月に朝鮮政府の外衛門顧問となった。そして、同年8月に新設された統理衛門博文局の主事を任命され、朝鮮開国492年10月1日(1883年10月31日)、朝鮮国最初の近代的新聞である『漢城旬報』を創刊した。

図33‐4 『漢城旬報』、第一号
<李相哲著『朝鮮における日本人経営新聞の歴史(1881~1945)』、

角川学芸出版、平成21年2月 より>
この新聞は朝鮮国の官報に準じて発行された。
四六倍判(幅17センチ、縦24センチ)の冊子形式であった。
新聞紙名の下に号数と朝鮮年号で発行年月日を示しており、
左上の枠外に清国の年号を表記している。
すべてが漢文で、当初は16頁であったが、後に24頁となった。
41号まで発行されて中断した。

当初の計画では、漢文とハングルを混ぜた朝鮮語の新聞とする予定であったが、活字の問題や守旧派の反対もあって全てが漢文の新聞となったという。

4)福沢諭吉を通じたハングル活字納入(明治18年)
明治16年(1883)11月21日付けの福澤諭吉から井上角五郎に宛てた書簡が慶応義塾編『福澤諭吉書翰集』、第四巻に収録されている。それによると、

「(前文省略) 殊に近日は新聞紙も着手、弥(いよいよ)発行相成(あいなり)候よし、幾重にも御勉強奉祈(いのりたてまつる)。 (途中省略) 京城新聞出来(しゅったい、完成)候に付ては朝鮮の仮名入用に可有之(これあるべく)、爰(ここ)に朝鮮仮名活字四号文字四千三百余種類各百五拾個づゝ、此総数六十四万九千八百個、代金弐千〇七拾九円三十六銭。但壱個に付三厘二毛。
右出来の品有之(これあり)、若(も)し御入用ならば差送り可申、実は此品を売れば此方に都合宜しき次第、但し金子を前以(まえもって)御遣し不相成候(あいならずそうらい)ては相談出来不申、品物は慥(たしか)に揃居候得共(そろえおりそうらえども)、金の入用劇しく、何分金と引替ならでは不都合に御座候。
故に若し其地の活版局に御買入にも相成(あいなり)候はゞ、右代価の外に荷作り並に運賃を見込、少々余分の金を添て御廻し相成候はゞ、品物は直に差上候様取計可申、実を証するため態(わざ)と老生より申上候。 (後付けと別記は省略)」

なお、括弧内は稿者が参考とて付記した。

時期的に見ると、すでに『漢城旬報』が発行された後のことであるが、福澤諭吉はまだ発行済であることを承知していないらしく、朝鮮の仮名文字(いわゆるハングル)が必要ならば、すでに手配して何時でも送れるように準備してあるとして、四号活字の個数と金額を提示している。なお、現地活版局の代金支払いを心配して、代金引き換えとするよう要求している。

この書簡の解説によると、朝鮮仮名活字は福澤諭吉の独断ですでに築地活版製造所に注文済みで、井上角五郎は、後年、『漢城旬報』を『漢城周報』と改題して漢字とハングル混用の文体を採用する際に、これを引き取ったという。

これよりやや後の書簡と見られるが、石河幹明著『福澤諭吉伝』、第三巻に、井上角五郎から送られて来た『漢城旬報』の第一号と第二号を見た福澤諭吉の書簡抜粋が次のように紹介されている。

「 (前略) 一向一心に御勉強奉祈候。或は材料の為に海外の新聞紙購求の事も緊要ならん。又、随(したがっ)て英文翻訳の人物も入用ならん。追々は紙面に絵を挿む事も韓人の耳目に新しき工風ならん。或は又、朝鮮の仮名文字にて近浅なる理学医学の道理を知らせ、又、滑稽洒落文抔(こっけいしゃれぶんなど)も妙ならん。兎に角(とにかく)に仮名は早々御用相成(ママ)、漢文のみにては区域狭くして埒明不申(らちあきもうさず)、実は仮名文を以て朝鮮の旧主義をも一転いたし度(たき)事共なり。日本にても古論を排したるは独り通俗文の力とも可申(もうすべく)、決して等閑(なおざり)に看るべからざるものに御座候。 (後略) 」

つまり、福澤諭吉は、井上角五郎から贈られた第一号と第二号を見て、「我国の仮名に相当する朝鮮のハングルを用いれば多くの人が読めるようになるだろう」と指摘し、ハングルの採用を井上角五郎に指示した。井上角五郎は、早速、新聞記事としてハングルを使用する検討を始めた。

井上角五郎が『漢城旬報』第10号(1884年1月30日付)と第11号に、京城に駐在する清兵の横暴についての記事を掲載したことに就いて、1884年4月、清国から朝鮮政府に対して、官報である『漢城旬報』にこのような根拠のない記事を掲載するのは非礼である、との厳重な通牒が寄せられた。
井上角五郎はその責任を負って辞職し、同年5月、日本に帰国した。同年8月になって、朝鮮国王(高宗)の内意を伝え得る手紙が届き、再び朝鮮に赴き、『漢城旬報』を再刊したのは同年11月であった。

1884(明治17)年12月、朝鮮国において「甲申政変」と呼ばれる改革派によるクーデターが起き、反撃した守旧派により博文局が襲撃され、機械設備一切を破壊され、局舎を焼き払われた。日本公使館も危うくなったことから、日本公使以下が日本に脱出するなどの事件があった。その際、井上角五郎はクーデターを起こした改革派の金玉均、朴泳考らと共に日本に避難した。

間もなくベトナムを巡って清国とフランスとの関係が切迫したため、井上角五郎は外務省の筋から『朝鮮旬報』を支那人の手に渡さないとの主意で朝鮮行きを勧められた。

1885(明治18)年8月中旬、井上角五郎は再び漢城に戻って博文館を再建した。さらに、一旦、日本に帰国して福沢諭吉が手配していたハングル活字を購入、活字職人2人を引き連れて漢城に戻った。次いで、漢字とハングル文字を混用した文体を現地の老儒者に創案してもらい、先の政変で発行停止となっていた『漢城旬報』に代えて、1886(明治19)年1月、『漢城周報』と題して発行した。

井上角五郎は1885(明治18)年10月(旧暦)から2年間の契約で翻訳係として朝鮮政府に雇われていたが、1886(明治19)年12月末に朝鮮を去って帰国した。

その後、『漢城周報』は、国漢文(漢字ハングル混用文)、純漢文、純ハングル文が使われていたが、国漢文と純ハングル文は次第に減少し、47号から純漢文のみとなり、1888年(明治21)年7月7日、赤字財政のため博文局が閉鎖されると共に『漢城周報』は廃刊された。創刊から2年6ヶ月後のことである。

(3)ハングルの創製と変遷(参考)
 1)「訓民正音」の創製
朝鮮国においては李朝第四代世宗(1397~1450、在位:1418~50)が1443年に国語を表記する文字として創製し、1446年に『訓民正音』という書物で公布した。この「訓民正音」は28字から成り、「習いやすく、日用に便ならしむ」目的で制定された。「訓民正音」は、後に「正音」、「諺文」、「国文」と称され、現在の「ハングル」である。

この「訓民正音」は、音節を初声、中声、終声に分解し、それぞれに子音字、母音字、子音字を割り付け、初声と中声を上に並べ、終声をその下に配置する。これにより音節に対応した一つの字体をかたちづくる。

子音字は、牙(口蓋)・舌・唇・歯・喉から発する平音をそれぞれ発音する時の口の形にかたどって字母とし、吐き出す息の強い激音には平音の字母に一画を加え、その他、有声音(鼻音・摩擦音・流音)に対応させて異体字(派生字)を割り付けた。これにより子音字は17字となる。
母音字は、「易」の天地人を表わす点・横棒・縦棒を組み合わせて短母音7字と短母音に点を一つ加えた半母音(二重母音)4字とし、合計11字となる。これに子音字17字を加えると28字となる。

世宗は『訓民正音』を頒布した翌年の1446年に『東国正韻』全六巻を編纂させて、2年後の1448年に頒布した。署名は「東国(朝鮮国のこと)の韻を定める」という意味で、その序文は金属活字、本文は木活字を用いた活版印刷で刊行された。

漢字漢文原理主義者の根強い抵抗のある中で、漢字と正音(ハングル)を混用した書物が現れた。その中での漢字の扱いは、①漢語は漢字で表記し、国語はハングルによるもの、②漢語をハングルで表現し、やや小さめの漢字を付すもの、③漢語を漢字で表記し、ハングルで小さめに付記するものなど、表記の仕方に工夫をしながらハングルの普及に努めたことが分かる。

世宗の没後は、第五代文宗、第六代端宗と続くが、その治世はいずれも短く、世宗の次男世祖が第七代として王朝を継いだのは1455年のことである。
この世祖の時代には仏典を朝鮮語に翻訳する事業が行われ、国是である儒学を学ぶための四書の諺解(ハングルを用いた朝鮮語訳)が行われている。また、漢字漢文を学ぶための入門書として『千字文』があるが、その漢字に対応する朝鮮語と音読みをハングルで付記した16世紀のものが残されている。

2)諺文の沈滞期
「諺」とは、昔から言い伝えられてきた言葉やことわざを意味するが、朝鮮国では漢文に対して朝鮮語の文を卑下して「諺文(おんもん)」と称したといわれている。

第十代燕山君(ヨンサングン、1476~1506、在位1494~1506)は諺文を禁圧し、諺文で記した書物などの焚書を命じたことで知られている。

この時から高宗30年(1892)までの400年間を諺文の沈滞期とする時代区分が朝鮮語学者の李允宰(イ・ユンジュ、1888~1943)によって1933年に提起されている。

本稿(2)で示したように、明治14年(1881)にはハングル母型の納入、明治16年(1873)の第四次朝鮮修信使による活字と印刷機の発注と『漢城旬報』発行時のハングル使用検討、明治18年(1875)の福沢諭吉手配のハングル活字購入による漢字・ハングル混用の『漢城周報』発行など、すでにハングル普及活動が開始されていることは、次の復興期への導入と見ることが出来る。

3)国文としての復興期(参考)
本稿は平野富二の活版製造に関連して朝鮮書体の製造と販売について紹介することを目的としているので、この「国文としての復興期」は時期的にその後の事となることから、(参考)とした。

李允宰は、この期間を甲午更張(1894)から庚戌(1910)までの17年間としている。
甲午更張とは、1894年7月に高宗が内政改革の一環として校正庁(改革推進機関)を設置して、「更張(改革)」への詔勅を下し、金弘集政権による改革事業が開始され、1896年2月に第三次金弘集政権が壊滅するまでの近代化改革をいう。

この改革は、下から支える大衆的基盤が弱かったことに対する反省から、1896(明治29)年4月、開化派の徐裁弼(ソ・ジェピル 1864~1951))らにより全文ハングルの『独立新聞』が創刊された。この刊行に当たって朝鮮語学者の周時経(チュ・シギョン、1876~1914)がハングル表記を統括する役割を果たした。なお、ハングルの名称は「偉大なる文字」を意味し、周時経が名付けたと言われている。

8年後の1896(明治29)4月に徐載弼(ソ・ジェピル 1864~1951)らによって全文ハングルによる『独立新聞』が創刊されている。この刊行にあたって朝鮮語学者の周時経(チュ・シギョン 1876~1914)によってハングル表記が統括され、純ハングルにより活版印刷された最初の新聞とされている。これは、清国による伝統的な宗属関係からの独立を主張し、漢文の読めない庶民および女性層の中に民権思想を浸透させるためであった。

なお、李允宰は、この周時経によるハングル運動を起点として、時代区分を提起した1933年までを「ハングルの整理期」としている。

ま と め
平野富二は、活字の販路を国内のみならず、当時の近隣国である清国と朝鮮国にも広げることを計画していた。清国に対しては、やや遅れてスタートしたが、朝鮮国に対しては明治5年(1872)に平野富二が上京して長崎新塾出張活版製造所を開設したばかりの頃に、横浜からの注文に応じて活字母型を納入しており、このことが、朝鮮国への朝鮮文字(ハングル)納入に結び付く契機となったと見られる。

築地活版製造所の広告文や活字見本帳に「朝鮮文字」が掲載されたのは、明治12年(1869)6月に発行された『活字見本帳(改定版)』であった。次いで、明治14年(1871)3月に開催された第1回内国勧業博覧会に朝鮮書体の活版4種が出品・展示された。明治17年(1874)6月には「新製」として三号と四号の朝鮮文字を発表している。明治21年(1878)2月に発行された『新製見本』には、明治17年6月新製の朝鮮文字も含まれているが、別の広告文に、FOREIGN CHARACTERSとして「Corean」が含まれている。
なお、平野富二の時代ではないが、大正3年(1914)6月発行の『活字と機械』には、二号から五号まで4種の朝鮮文字が掲載されている。

このように、明治12年(1869)に四号と見られるハングル活字が紹介されて以来、順次、サイズを増やして、大正3年(1914)には三号から五号までの4種のハングル活字が販売されていたことが分かる。

これを、活字納入実績の面から見ると、明治14年(1881)に朝鮮国からの注文に応じて二号と四号の活字母型を納入したことから始まる。活字母型を納入したことについては、明治12年(1869)6月発行の『活字見本帳(改正版)』に四号とみられる朝鮮文字をすでに掲載していることから、余程の配慮がなされた結果と見られる。

この間、国家間の進展が見られ、明治9年(1876)2月に日朝修好条規が締結された結果、同年5月に朝鮮国は日本に第一次朝鮮修信使を派遣し、明治13年(1880)8月には第二次朝鮮修信使の随員が築地活版製造所を見学している。

明治16年(1883)1月に第四次朝鮮修信使が、日本において資金を調達して帰国する際、福澤諭吉の「朝鮮が近代国家として独立し、人民を啓蒙するには、新聞の発行が必要である」との訓示により、活字と印刷機を築地活版製造所から購入している。それに合わせて福沢諭吉の意を体して牛場卓蔵らと共に井上角五郎が印刷技師2名を連れて朝鮮国に渡り、朝鮮国の官報に相当する『漢城旬報』を1883(明治16)年10月に刊行した。この刊行に当たってハングルの使用も検討されたが、反対もあって純漢文となったという。

その頃、福沢諭吉は朝鮮国での新聞発行には朝鮮仮名(ハングル)が必要であろうとして、築地活版製造所に朝鮮仮名活字約65万個を発注し、完成していたらしい。この朝鮮仮名活字は後に買い上げられて『漢城周報』(『漢城旬報』の後続誌)の印刷に使用された。

最後に、ハングルの創製と変遷について、参考にその概略を記した。

2020年6月28日 公開

 

活版印刷の地方への普及〔後編〕:明治7年以降の納入事例

まえがき
前回の「活版印刷の地方への普及〔中編〕」では、明治6年(1873)に各府県が発行した布達類と新聞について、平野富二の活字・活版印刷機納入を通じて鉛活字による活版印刷が全国に普及して行く状況を示した。

当初は県庁に活字・活版印刷機を設備して御用業者に印刷業務を請け負わせる府県が多かった。平野富二の鉛活字を採用する前から既に木活字を用いて手摺りで印刷を行っていた府県もあり、木活字を鉛活字に切り替えると共に活版印刷機を導入する府県もかなり見られた。

明治6年(1873)10月になって、正院印書局が布告・布達類を活版印刷して各府県毎に一定部数を定めて頒布するようになると、各府県は布告・布達類を新聞に掲載して広報誌として利用するようになった。さらに、民間の御用業者に県庁の活版設備を払い下げるなどして新聞を発行させるようになった。

本稿〔後編〕では、明治7年(1874)以降の地方における活版印刷の採用について、各種資料に記録された平野富二の活字・活版印刷機納入事例を通じて纏めてみた。

明治7年(1874)には秋田県聚珍社の『遐邇新聞』発行について、明治8年(1875)には佐賀県の県庁活版局への活版設備納入と名東県(後の徳島県)普通社の『普通新聞』発行について、明治9年(1876)には大阪府御布令上木所の活版化と兵庫県淡路洲本の『淡路新聞』発行について、1年置いた明治11年(1878)には北海道函館北溟社の『函館新聞』発行について、以下に順次紹介する。

各府県における布告類・新聞の活版印刷動向
(1)明治7年2月、秋田県の聚珍社
『遐邇(かじ)新聞』は、明治7年(1874)年2月2日、秋田の聚珍社(秋田県下茶町菊の町)から発行された。これは秋田県各新聞の先駆たる新聞の濫觴で、全国新聞中でも古いものに属するとされている。
聚珍社の基本的性格は県庁からの公文書の印刷であるが、その運営は全面的に県の資金援助に依存するものではなく、広告収入や文芸誌の発行により独立性を保っていた。
明治11年(1878)になって『秋田遐邇新聞』と改題し、秋田の自由民権運動に大きな役割を果たしたとされている。

第1号は、和紙9枚を半折りし、紙縒(こよ)り綴じした冊子で、本文は三号の初期清朝風漢字活字を使用している。明治8年(1875)上半期までは毎月1回発行され、下半期は月8回となった。

当時、東京築地活版製造所で販売していた漢字活字は書風の異なる3種の漢字を揃えていたが、呼称を表示することなく印字見本で示していた。当時の活字の版下は池原香稺の筆になるもので、池原香稺と本木昌造の間ではそれぞれを明朝風、清朝風、和風と呼んでいたらしい。ただし、明朝風と呼ぶ漢字活字は上海美華書館の活字を複製したものと見られている。

明朝風は現在用いられている明朝体と基本的に同じであるが、
清朝風は字画の太さに変化の少ない細めの書風の楷書体で、和風は御家流の流れを汲む書風の行書体である。清朝風は、後年、書家の小室樵山の筆になる版下を用いたことから、池原香稺によるものを初期清朝風とした。

これらの活字は、「活字目録」(図32‐2)や明治9年発行の『活版様式』に掲載されている。

表紙となる第1面には、明治七年二月二日、官許(押印)、遐邇新聞 第一號、聚珍社発兌(押印)とある。続いて半折りの裏面に、「今般官許を蒙(こうむ)り、上は県庁の布達幷(ならび)に審理公判、下は県下の諸新報を編集し、加うるに現今発行の各種新聞紙中最も切要にして世益となるべき者を抜粋し、且、東北地方の事績、諸新誌の載せざる所を録し、人民をして遠近の事情に達し、内外の形勢を知らしめ、以って知識開広勧懲裨補の一助となさんと欲す。因(よ)って冀(こいねが)ふ。諸君子記載すべき事あらば速に報告を賜へ」として掲載内容と発行目的、投稿依頼を記している。

図32‐1 『遐邇新聞』、第一号の奥付
<日本新聞博物館所蔵>

最終ページにある奥付には
本局:秋田縣下茶町菊ノ町 聚珍社
同局:東京小傳馬町三町目 吉岡重次郎
賣弘所:秋田縣下上肴町 小谷部甚左衛門
編輯者:鳥山棄三、印務者:管又謙次
と記してある。
漢字はすべて明朝体を採用している。
新聞名の「遐邇」は「遠近」、
社名の「聚珍」は「珍しい事柄を集める」
を意味する。

『遐邇新聞』の創刊に先立ち、明治6年(1873)8月、平野富二は聚珍社の関係者からの依頼に応じて社員鳥山棄三を編集兼印刷人として秋田に出立させている。

秋田県では、明治6年(1873)9月に秋田県権参事加藤祖一の名前で管内布達「活版新聞局設置に付き告諭」が出され、その中に「県下に活板新聞局を設け、‥‥その開業を許可」と記されている。次いで、同年10月5日に柴村藤次郎と吉岡十次郎代理吉岡十五郎から秋田県に届書が提出されている。その届書には、「本年4月中、願い済みとなっている『羽後新聞』は、今般、『遐邇新聞』と題号を改めて発行したいのでお届け申し上げ奉る」としている。秋田県はこれを受けて文部省に新聞題号更正を届け出た。

宇田川文海(鳥山棄三の筆名)述『喜寿記念』によると、
「或る日のこと、平野さんから『ちょいと来てくれ』という沙汰があったので、何の用かと思って、すぐに行って見ると、平野さんは例のニコニコ笑いながら、『今度、秋田県の活版印刷御用を引受けて出張する人があるが、県庁では、印刷の御用を命ずる代わりに、その副業として新聞を発行することになっている。ところが、経費の都合で新聞の主筆と、活版部の職工長と2人を雇うことは経費上むずかしいから、1人でこの二役を兼ねる者が欲しいので、是非世話をしてくれという難しい相談があった。そこで私もいろいろと考えて見たが、私の知る限りでは、差し当たりお前より外に適任者がないから、是非、二役を兼ねて行って貰いたい。お前さへ承知なら、兄の茂中貞次君には宜しく頼むことにする』と、意外千万な相談があった。そこで、『印刷の職工長は、曲りなりにも勤まりましょうが、これまで纏まった文章を書いた事がありませんから、新聞の主筆などはとても出来ません』と固く辞退したが、普段から部下の言動より鳥山棄三に文才があることを見抜いていた平野富二に説得されて秋田行きを決意した。」

鳥山棄三は東京を発って秋田に到着するまでの個人記録として『秋田行日記』を残している。その前文に、「明治六年八月四日、秋田県へ、新聞局を開き、活字版を広めん事を依頼され、本日出発す。相伴う人は、吉岡十五郎君、柴村藤次郎君、外壱人、僕と合せて四人、家兄吉太郎、真平、千住駅まで送り来る。」と記されている。

ここに出てくる柴村藤次郎は、当時、秋田県に寄留していた東京府下橘町三丁目の活版取扱人と記録されており、平野富二に活版設備一式を注文すると共に、活版印刷指導と新聞編輯を兼ねた人材の派遣を要請した当人と見られる。

その後、鳥山棄三が秋田を去るに至った経緯について、再び『喜寿記念』から引用すると、
「私は秋田の活版所へ、2年間の約束で行って、明治6年の秋から8年の秋まで、首尾よく勤めたので、是非今一年働いてくれと依頼されたが、この時、兄の茂中貞次が兵庫県の活版印刷の御用を勤め、傍ら『神戸港新聞』を発行していたので、是非帰って援けろと、再三やかましく言ってくるので、兄弟の誼(よしみ)として辞するに由なく、約束通り秋田の活版所を辞して、その年の秋の末に神戸に行き、『神戸港新聞』の記者と成った。」

(2)明治8年、佐賀県の県庁活版所
佐賀県では明治6年(1873)2月から楷書と片仮名、および、楷書と平仮名の活字で印刷された布告・布達類を発行しているが、これに用いられた活字はいずれも木活字と見られる。

明治7年(1874)10月15日になって、佐賀藩医だった川崎道民が佐賀県令北嶋秀朝に活版所の設立を願い出ている。その願書には『新聞雑誌』に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」が添付されていて、その中にある三号和様活字を至急購入したいと述べている。
このことは鈴木広光著『日本語活字印刷史』に述べられており、その関連文書は佐賀県立図書館に「活版書類」一冊(第一課編)として所蔵されているとのことである。

図32‐2 『新聞雑誌』の広告
<『新聞雑誌』、第66号附録より>

この「崎陽新塾製造活字目録」が掲載された時期は
明治5年(1872)10月下旬と見られる。
この中の三号活字には書体の異なる3種がある。
川崎道民は右から3番目の和様活字を指定した。
和様漢字は広く手習いで教えられる標準書体で、
当時の人たちにとって
最もなじみ深い行書体の書風である。

川崎道民の出状から20日程遅れて、長崎活版社中の松野直之助が佐賀県令北島秀朝に宛てて出状している。その明治7年(1874)11月4日付の願書については、本稿〔中編〕の福岡県の項でその前半部分に記された内容を紹介した。ここでは、後半部分に記された佐賀県令に対する願いの内容を現代文に直して紹介する。

「(前文省略) このたび御県にお伺いしたところ、活版所を出店した場合に布告類1枚を幾らで印刷できるか見積もるよう仰せ付けられました。そこで、布告類の部数をお伺いしたところ450部ずつ必要とのことでした。
計算の結果、1か月の布告類を平均100枚と見込むと総数は45,000枚、1枚2厘とすると90円となります。この内、紙代約35円を差し引くと、残りは60(55の誤り)円になりますが、これでは職人の給金やその他諸雑費など、出店するとなると存外増大するので、収支が合わないと存じます。
したがって、このことを勘案され、活字・機械等をお買い上げ頂けないでしょうか。代金の支払いについては一部前払い金を頂ければ、ご指示通りどのようにでも致します。
ことに御県ではこれまで布告類の印刷に従事した人もおられるとのことですので、ついでに活字・機械等のお買い上げをご下命されますようお願い申し上げます。」

川崎道民と松野直之助の願書は、たまたま、期を合わせたように相次いで佐賀県庁に提出されたことが分かる。

当時の佐賀県は、廃藩置県当初の佐賀県(第1次)と厳原県が合併して伊万里県となり、旧佐賀藩の諫早等が長崎県に分離編入された後の明治5年(1872)5月に伊万里県が佐賀県(第2次)と改称したものである。

佐賀県では、二人の願書を受けて木活字から崎陽新塾製の鉛活字に切り替えを行い、明治8年(1875)になって布告類の活版印刷化が実現することになった。
しかし、明治9年(1876)4月に三潴(みずま)県に併合され、さらに、同年8月に長崎県に併合された。現在の佐賀県(第3次)となったのは明治16年(1883)7月に長崎県から分離独立したときからである。

(3)明治8年9月、名東県で『普通新聞』発行
明治4年(1871)7月14日に行われた廃藩置県の結果、徳島藩は徳島県となったが、同年11月15日に淡路島全郡を含めて名東県となり、明治6年(1873)2月20日に香川県を併合したが、明治8年(1875)9月6日に香川県を分離して元に戻した。現在の徳島県となるのは明治13年(1880)3月2日である。

名東県は、明治6年(1873)7月10日、県の布達を初めて木活字による活版印刷で発行し、管内に配布した。
これに関連して、明治7年(1874)1月の徳島県布達に「昨年(明治6年)7月より12月まで、諸布達を活版印刷して配布したが、その間の印刷物は85,141部、費用は768円48銭2786」とあり、さらに、同年6月の徳島県庶務課からの布達に「昨年(明治6年)、活版機を1,470円で県が買い上げた。その代金と印刷費は管内各区が負担し、当年から5ヶ年10回払いする。」旨が記されている。

これに先立つ明治6年(1873)3月、名東県下の謳歌社から『徳島新聞』が創刊されている。この新聞は半紙二つ折りの冊子で、1段17字詰めの罫線書きで、木版により印刷されている。
第3号は同年4月に発行されたが、第4号は1年余り後の明治7年(1874)5月21日に体裁を一新して発行された。それは、洋紙1枚の表裏刷りで、3段組み、12ポイントよりも大きい木活字(四号相当)による活版印刷であった。編集者は国方日渉園(元徳島藩士で国学者)、発行所本局は通町二丁目の謳歌社となっている。

このように、名東県布達が木活字による活版印刷となった時期と『徳島新聞』が1年余りの休刊の後に体裁を変えて木活字による活版印刷で再刊された時期が一致する。このことは、謳歌社が名東県の印刷御用となり、県庁所有の木活字と活版印刷機を使用して諸布達を印刷納入すると共に、『徳島新聞』の印刷にも使用したと推測される。

明治6年(1873)に名東県が購入した印刷機は、金額が1,470円もすることから、これは活版印刷に必要な機器・資材一式と見られるが、当時、平野富二が販売する長崎製半紙二枚摺プレスは1台170円と比較すると余りにも高すぎる。したがって、これらの機器・資材は神戸の外国商社から購入した舶来品と見られる。

その前年5月に神戸では『神戸港新聞』が鉛活字による活版印刷で発行されており、名東県に属していた淡路島出身の三木善八がその経営に関わっていた。また、同年10月には、平野富二による活字や摺器械などの広告が『新聞雑誌』に掲載されている。
それにも拘らず、名東県が鉛活字ではなく木活字を使用し、高価な印刷設備を購入した理由は判らない。木活字は何度も印刷を重ねるうちに、次第に字影が判然としなくなるなどの問題がある。

『徳島新聞』は、明治8年(1875)8月に第21号で廃刊したらしい。その号には政府の「新聞纔謗律」と「新聞紙条例」の全文を掲載しており、廃刊の理由を暗示している。

それに代えたかのように、同年9月21日、『普通新聞』が普通社(徳島裏ノ町)から創刊された。『普通新聞』の創刊号はタブロイド判二つ折り、4ページ物で、3段組により鉛活字で活版印刷されている。主宰の益田永武は徳島藩中老の家に生まれ、初期民権運動家の一人で、廃藩置県後に県会議員を永く務めた人である。

『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)によると、「明治9年、四国に普及社(普通社の誤り)と云うのが出来て、美濃判二枚刷のハンド2台と活字、その他付属品一切を送付した。」とある。このことから、活字・活版印刷機など一式を平野富二が納入したことが判る。

図32‐3 普通社に納入したと見られるハンドプレス
<東京築地活版製造所『活字見本帳』、明治12年刊>

平野富二が国産化した半紙一枚刷の小型プレス
に続いて国産化した大型プレスが
ここに示す美濃判二枚刷ハンドである。
明治10年開催の第一回内国勧業博覧会に
この図版は野村長三郎名で出品された印刷機と同一で
すでに明治9年に販売されていたと見られる。

明治21年(1888)になって『普通新聞』は『徳島日日新聞』と改題し、明治31年(1898)に社屋の火災で休刊し、その後、蜂須賀家の援助を得て再刊した。明治37年(1904)5月に『徳島新報』と合併して『徳島日日新報』となった。

このように、県庁による布達類の活版印刷は明治6年(1873)7月から木活字を用いて発行されたが、鉛活字による活版印刷となったのは、平野富二が活字と活版印刷機を納入したのは明治9年(1976)であったと見られる。

(4)明治9年2月、大阪府の御布令上木所で活版採用
大阪府については本稿の〔前編〕で紹介したが、そこでは触れなかった布令発行について、『本邦活版開拓者の苦心』の雑録として次のように記されている。

「大阪で布令を発行することに決定したのは、明治4年(1871)の秋からである。その頃、布袋町の住人瀬戸安世氏は、再三、当局者へ布達の貫徹を計るために上木聴許の願いを提出したが、明治4年(1871)7月24日にようやく許可の達しに接したのであった。そこで直ちに自宅に「大阪府御布令上木所」の看板を掲げて布令の印刷を開始した。
その当時は印刷と云っても要するに木版の手摺りに過ぎなかった。その工程は、まず布令の原稿を総区長から受け取ると、直ちに版下書工に浄写させて、即時、彫刻に廻し、再び校合して一枚ずつ手摺りにかける。そして出来上がったものを和綴じにして、翌朝、総区長ならびに諸官衛に納本すると云う順序で、全く徹夜の作業であった。
明治9年(1876)2月には、大阪活版所から活字を購入し、御布令書を手引印刷機によって活字で印刷することにしたから、印刷能率は非常に上がったが、さて、当時の活字はわずかに2、3種で、しかも字数がすくなかったから、活字同型の木版を彫刻させて補植しつつ印刷したそうである。」

本木昌造が五代友厚の要請を受けて大阪に長崎新塾出張活版所を設けたのは、明治3年(1870)3、4月頃のことであるが、その設立に当たって、あらかじめ大阪府の御用活版所となることを約束されていた。
明治4年(1871)7月14日に発令された廃藩置県の実施に際して、政府の関係印刷物を一手に引き受けた実績はあるものの、五代友厚から依頼された『和訳英辞林』刊行のための活字製造に忙殺されて、大阪府御用活版所としての役割を果たすことができなかった。

〔前編〕で紹介したように、明治4年(1871)10月28日に刊行した『大阪府日誌』は木版刷りで、しかも支配人吉田宗三郎の名義となっている。

(5)明治9年5月、淡路洲本の淡路新聞社
淡路島洲本の先覚者安部喜平は、明治9年(1876)に自宅に活版所を設立した。この年の8月21日には名東県が廃されて淡路島全島が兵庫県に編入されている。

安倍喜平は、慶應2年(1866)2月、人材養成のための家塾「積小軒」を創設している。そこで学んだ精鋭たちの中に、後に報知新聞社主となる三木善八が居る。三木善八は兵庫県令神田孝平の招きを受けて神戸で『神戸港新聞』を発行したが、その後、安倍喜平の招きで郷里の淡路島に戻り、淡路新聞社の社員となって『淡路新聞』発行に協力している。
このことから、安倍喜平は、活版所開設に当たって、三木善八に相談して、茂中貞次を通じて平野富二から活字と活版設備の購入が行われたと見られる。

『洲本市史』など地元の資料によると、安部喜平は、本木昌造が苦心の末に活字の製法を発明して東京に活版製造所を創設したことを知り、洲本の曲田成を東京の活版製造所に派遣して研究させ、明治9年(1876)5月、曲田成は活字と印刷機を購入して洲本に帰ったとしている。

しかし、この内容は東京築地活版製造所から発行された『曲田成君略伝』の記述と相違する。
淡路島洲本出身の曲田成は、士族という身分だけで官から禄を支給され、安穏に生活していることに疑問を持ち、明治6年(1873)2月、独立して自立の道を求める決意をして単身で上京し、偶然、平野富二の面識を得て活版製造所に入所したとされており、安倍喜平の指示で上京したとの記録はない。

活字と活版設備一式は、曲田成によって淡路島の安倍喜平に届けられた。曲田成は、このとき、家禄奉還の願書を徳島にある名東県の県庁に提出し、受理されている。

明治10年(1877)3月8日に安倍喜平は『淡路新聞』を創刊した。タブロイド判二つ折り(縦196mm、横134mm)で、当初は月2回、第5号から月4回の発行となった。この年の2月15日には西郷隆盛による西南戦争が勃発している。

図32‐4 『淡路新聞』第1号の奥付
<国立国会図書館所蔵>

第1号の表紙は
「東京築地活版製造所社長列伝」ブログの
「第3代社長曲田成」で紹介した。
ここではその表紙と最終ページの奥付を示す。

当時の地方新聞は県庁の御用新聞として県庁所在地で発行されたものが多いが、『淡路新聞』は県庁所在地から遠くはなれた地方の中堅都市において一個人によって発刊された。
『淡路新聞』発行の趣旨が創刊号の緒言に述べられているので、その概要を紹介する。

「わが淡路国の地勢は南海の一孤島で、西は鳴門海峡が険しく、北は岩屋の海潮が急で、東面は大阪と神戸港の盛地が視野にはいるが、電信・汽船の便がない。
そのため日時を競う新説や奇聞は他所に後れを取っている。東京や各地の新聞紙があるので全国の景況などを知ることができるが、全て郵便・電信の届く土地に限られる。僻地の住人は新聞の効能を知らず、その体裁がどの様なものであるかを知らない人が少なくない。
その上、掲載する社説や弁論は中等以上の者でなければ、これを読んで面白いと感じることができないのは嘆かわしい。このようなことから、当地において読み易い新聞を発行しなければならない。これが弊社の新聞発行の所以である。」

名東県が廃止されて淡路島全島は兵庫県に属したが、以前の徳島県は復活されることなく併合されて土佐県となり、明治13年(1880)3月2日に高知県と徳島県に分割されるまで続いた。

土佐は自由民権運動の発祥地ともいわれており、板垣退助が明治7年(1874)3月に土佐で日本最初の政治結社である「立志社」を創設している。この土佐の「立志社」の活動に刺激を受けて、同年9月に早くも阿波徳島に「自助社」ができ、その支社が淡路島の洲本にもあった。

『淡路新聞』創刊号の雑録に、西南戦争に対する洲本自助社の箋文(上奏文)が掲載されている。その主旨は、鹿児島県下の暴動について朝廷の趣旨に従い、県官の命令を固守して流言浮説に惑わされないようにすることを申し合わせたものである。
その内容は自由民権運動とは関係ないが、その後、『淡路新聞』は自由民権論を中心とした社説を掲載している。明治16年(1883)4月に自由民権運動の高揚に伴い廃刊を余儀なくされたが、明治23年(1890)4月に再発行された。

(6)明治11年1月、函館の北溟社
北海道で最初の民間の手になる新聞である『函館新聞』は、明治11年(1878)1月7日、函館の書店魁文社内に設けられた北溟社から創刊された。

北溟社は、明治10年(1877)12月、函館区内の有力者を株主として資本金2,000円で設立され、函館財界の四天王と呼ばれる一人である渡辺熊四郎が社長に就任した。
北溟社の設立に当たって、渡辺熊四郎は、長崎で懇意だった東京の平野富二に相談して、築地活版製造所から活字類と二枚刷器械1台を買い入れた。

『函館新聞』は、当初、2、7の日に月6回の発行だったが、明治11年(1878)7月から隔日刊となった。しかし、明治12年(1877)12月の函館大火による類焼により青森に分局を置いて青森新聞社の機械を借りて発行を継続した。

図32-5 『函館新聞』第一号
<『函館市史』、通説編 第二巻より引用>

紙面はタブロイド判洋紙による二枚両面刷りで、
二つ折りの4面、1面3段組みであった。
編輯人は宮城県出身の佐久間健寿、
印刷人は山形県出身の伊藤鋳之助であった。

社長の渡辺熊四郎は、株主と相談して再建資金の目途をつけ、活字と印刷機を再び築地活版製造所から購入し、明治13年(1880)1月、函館市庁の長屋を借りて活版所を開き、『函館新聞』を発行した。明治13年(1880)6月から再び隔日刊となり、明治18年(1885)4月から日刊紙となった。

以上の経緯について、坪谷善四郎編著『実業家百傑伝』の渡辺熊四郎の項によると、「(渡辺熊四郎は)函館に新聞がないことを残念に思い、明治11年になって同志と相談して北溟社と云う活版所を設けて『函館新聞』を発刊した。創業の当初、君は推されて社長となり、在職3年で基礎を固め、社運がようやく盛んになるに及んで社長を辞任し、同志の一人である伊藤鋳之助にゆずった。」と記されている。

渡辺熊四郎は、引退後に渡辺孝平と改称するが、その自伝である『初代渡辺孝平伝』によると、「(新聞発行に当たって)まず東京に行き、『報知新聞』の栗本(鋤雲)氏、また、『東京日日新聞』の岸田(吟香)氏などに頼んで編輯人を雇入れ、また、新聞事業の機械は平野富二と懇意だったので、活字・機械なども同人に頼んで買い入れることにした。さてまた、資金が乏しいので二枚刷器械1台で、それに応じた活字を買い入れ、明治11年1月7日に開業した。」と述べている。

平野富二が慶應3年(1867)に土佐藩に招聘され、機関方として土佐藩の蒸気船を乗り回していた頃、渡辺熊四郎は長崎土佐商会の持ち船で会計を勤めていたことがある。このときお互いに面識を得て懇意になったと見られる。

明治12年(1879)12月6日に発生した函館大火により北溟社は社屋が類焼し、機械類も使用できなくなった。

このときの『函館新聞』に関して、同月18日付の『朝野新聞』に掲載された記事によると、
「函館新聞は、開拓使の保護と二、三の富豪の尽力により追々盛大になったところ、過日の火災で器械を残らず焼失した。しかし、このまま廃業するのも遺憾とのことで、同社取締役伊藤鋳之助氏は株主に相談して都合1,000円余りの資金を調達し、この度、活版器械買入のため上京し、築地の平野活版所で調達中である。同氏によると、是非とも今年中に函館に帰り、来年1月から函館市庁の長屋を借りて活版所を開くとのこと。」

北溟社が設立される以前の函館における活版印刷について、函館市編さん室編『函館市史』によると、明治6年(1873)8月、開拓使が東京出張所内に活版所を設けて布達類を印刷して管内に配布し、さらに、『新報節略』を発行して官員に配布した。この『新報節略』は東京の新聞の中から北海道に関する記事をダイジェスト版として編輯したものであった。明治8年(1875)4月になって『新報節略』が廃刊となり、印刷設備は函館支局に移された。

この印刷設備に注目した伊藤鋳之助は賛同者の大矢佐市、魁文社社中と連名で「活字版器械拝借願」を提出した。途中、魁文社社中の者たちは本業多忙を理由に脱退したが、明治9年(1876)3月23日になって、「60日間、試験として函館支庁発令の公布達類に限り印刷」として貸与が認められた。同年5月22日になって、設備の払い下げと印刷業開業の申請を行い、許可を得て伊東鋳之助と大矢佐市の二人だけで函館活版舎を設立し、開拓使の仕事を中心に営業を開始した。
その印刷設備は、活字摺器械1式と付属品、3,301種類45,865文字の活字であったと記録されている。
東京で開拓使が調達したことから、摺器械は外国の輸入品、活字は工部省勧工寮活字局の製品と見られる。

伊藤鋳之助は函館活版舎を経営する傍ら北溟社の株主として参加し、『函館新聞』の印刷人となっている。
明治13年(1880)3月、渡邊熊四郎が本業の商業事務多忙を理由に社長を辞任し山本忠礼が社長に就任したが、明治14年(1881)1月に伊藤鋳之助が北溟社の資産を受継いで社長に就任した。

『函館新聞』が創刊された頃は、すでに政府の新聞紙条例と讒謗律により発行責任者に対する罰則が厳しくなっていたこともあって、その内容は道内の状況と内地府県の景況を報道することに重点を置き、政治色を排除した中立的地方新聞であって、明治21年(1888)1月に札幌で『北海新聞』(同年10月に『北海道毎日新聞』と改題)が誕生するまで、北海道では『函館新聞』が一紙独占の状態だった。

平野富二と渡辺庫四郎との関係は活版設備の納入に止まらず、造船事業での協力にまで発展した。

渡辺熊四郎ら函館四天王と称された4人の有力者たちは、函館に本格的な船舶修理を行える造船所の設立を計画し、開拓使長官黒田清隆に嘆願して船渠(ドック)築造計画を推進していたが、明治12年(1879)の函館大火に遭遇し、資金面から計画が中断してしまった。
その結果、計画を縮小して小規模器械製造所を設立することになり、渡辺熊四郎は東京で石川島造船所を経営している平野富二に協力を要請した。要請を受けた平野富二は、明治13年(1880)9月、曲田成を伴って函館に赴き、函館器械製造所の設立に協力し、出資者の1人となった。

ま と め
明治5年(1872)9月に埼玉県が文部省の認可を受けて布告・布達類を活版印刷して管内に限り頒布するようになったことから、この動きは全国の府県にも急速に広がった。
明治7年(1874)11月には各地方県庁の3分の2が長崎新塾製の活字・活版設備を買い上げて活版所を開設したという。当時は3府60県であったので、約40県が活版所を開設したことになる。

本稿では、前2回の〔前期〕、〔中期〕に続く〔後期〕として明治7年(1874)以降の事績について述べた。

明治7年(1874)の事績としては、秋田県の聚珍社から発行された『遐邇新聞』についてのみを紹介したが、この年は前年にも増して全国各地の県庁から東京築地活版製造所に引き合いが寄せられ、数多くの納入実績を挙げたと見られる。しかし、東京築地活版製造所には纏まった記録が残されていないので、それぞれの府県の記録を調査しないと分からない。

前稿で紹介したように、明治6年(1873)7月から政府による日誌・布告類の印刷・頒布が行われるようになり、各府県に部数を定めて頒布されるようになった。ただし、当初は整版による印刷であって、『太政官日誌』が活版で印刷されたのは同年10月13日からである。
その結果、各府県は不足部数を謄写して管内に配布するようになったが、次第に県庁で購入した印刷設備を民間の御用業者に払い下げて、印刷を委託するようになった。

秋田県の聚珍社は、県庁から布告・布達類などの掲載を認められて『遐邇新聞』を発行するため印刷設備を購入し、県の広報を担う御用を務めたが、経営的には独立した民間企業であった。

明治8年(1875)の事績としては、佐賀県活版所への活版印刷設備の採用と名東県(後の徳島県)の普通社から発行する『普通新聞』印刷のための大型ハンドプレスの納入について紹介した。
両県とも、木活字により布告・布達類の活版印刷を行っていたが、鉛活字に切り替えた。名東県では民間の普通社が発行する『普通新聞』に布告・布達類を掲載させて周知を図った。そのとき普通社は、東京築地活版製造所で国産化したばかりの大型手引印刷機を購入している。

明治9年(1876)の事績としては、大阪府の御布令上木所が大阪活版所から活字を購入して活版印刷に移行したことについて、また、淡路島洲本に於いて先覚者安倍喜平により『淡路新聞』が発行されたことについて紹介した。

最後に、明治11年(1878)の事績として、府県には属さない北海道の新聞発行として『函館新聞』について紹介した。

当時の政府は、文明開化政策を進める手段として、「新聞は人の知識を啓発・開眼させることを目的とすべきであり、これによって文明開化が達成される」とした。その流れに沿って地方の府県でも、単に布告・布達類の頒布に留まらず、積極的に新聞として発行し、単に政府や県の施策を伝達するだけでなく、内外の新たな情報や知識を地元住民に伝達する手段として活用するようになった。

ここで紹介した秋田県の『遐邇新聞』、名東県の『普通新聞』、兵庫県淡路の『淡路新聞』、北海道函館の『函館新聞』は、県庁で頒布する布告・布達類を掲載して県庁御用の一役を担っているが、いずれも独立した民間の会社から発行されている。

明治7年(1874)1月、板垣退助ら元参議4人を含む8人により提出された「民撰議院設立建白書」が『日新真事誌』と『東京日日新聞』に相次いで掲載された。これを契機として、民撰議院設立論争が多くの新聞を通じて行われた。秋田、淡路、函館の新聞も時代の流れを受けて自由民権運動にも関与するが、明治8年(1875)6月に公布された「讒謗律」と「新聞誌条例」、9月に公布された「出版条例」を意識した穏健な立場を取っていた。

明治10年(1877)の西南戦争の報道により新聞の発行部数は大きく伸びたが、西郷隆盛の失脚、明治14年(1881)の政変による大隈重信の要職からの追放、10年後の国会開設の約束などにより、自由党、立憲改進党などの政党が結成された。各政党は自らの意見や主張を広く民衆に伝える手段として新聞・雑誌を利用するようになる一方、政府はこれに対抗して政府系の新聞を発行するようになり、全国的に数多くの新聞が発刊されては、廃刊するという情況が続いた。

活版印刷設備を販売する平野富二は、時期到来とばかりに、ますます生産設備の増強と活字の改良、品質の向上に努めた。
記録によると、明治11年(1878)の活字販売個数は127万個余りで、これは明治6年(1873)の3.56倍であった。

総まとめとして、
〔前編〕で扱った明治初年(1868)から5年(1872)までは、長崎、横浜、大阪に於ける『崎陽雑報』、『横浜毎日新聞』、『大阪府日報』の発行を通じて、本木昌造が永年の研究により開発した鉛活字を用いた活版印刷による発行が計画されていたものの、活字の製造が思うに任せず、木活字や木版による印刷でスタートせざるを得なかった。
この状態は、言わば近代活版印刷の黎明期に当たる。
対策として同様の原理で鉛活字を製造している上海美華書館のギャンブルを招聘して「迅速製造法」の伝習を受け、平野富二による活字の規格統一、品質・コスト面での生産管理の徹底が行われた。
その結果、神戸に於ける『神戸港新聞』では鉛活字による活版印刷で発行され、埼玉県では布告類の鉛活字のよる活版印刷化が実現した。
この状態は、言わば近代活版印刷の曙光期に当たる。

〔中編〕で扱った明治6年(1873)は、三重県、福岡県、名古屋県(後の愛知県)、新潟県、鳥取県、石川県における活版印刷採用の経緯を平野富二が納入した活版設備を通じて梗概した。いずれも前年に埼玉県が採用した布告類の活版印刷化の影響を受けて、いずれも県庁で平野富二から活版印刷設備を購入して、布告・布達類の活版印刷化が行われた。
印刷業務は御用商人に行わせていたが、やがて印刷設備を下げ渡して、単に布告・布達類の印刷に止まらず、県の広報紙として新聞を発行させるようになった。

〔後編〕では明治7年(1874)以降の秋田県、佐賀県、名東県(後の徳島県)、大阪府、淡路洲本(兵庫県)、函館(北海道)について活版印刷の採用を中心に梗概した。

活版印刷の地方への普及は、平野富二による府県に対する布告・布達類の活版印刷化の提案により急速に広まった。さらに、県庁活版所から民間の御用活版所へ、布告・布達類の単独印刷頒布から広報誌としての新聞の発行へと移行するようになった。
国民の知識欲と政治熱が高まるにつれて、中央のみならず地方に於いても、また、県庁御用以外でも新聞の創刊が相次ぎ、明治8年(1875)には26紙、明治9年(1976)には24紙、明治10年(1877)には37紙が創刊している。

本稿シリーズでは「地方への活版化普及」に視点を置いて述べてきたが、東京においても有力紙は発展を続け、明治10年(1877)以降,こぞって銀座煉瓦街に進出し、その他の新聞社も発行部数をのばしていた。

本木昌造が念願としていた近代的な活版印刷の全国普及は、それを引き継いだ平野富二の技術者としての視点と経営者としてのセンスにより、わが国の置かれていた未開の時代を切り開き、時流を形成しながら発展の途に就くことによって、初めて達成できたことが分かる。

2020年5月29日  公開
同年6月2日 修正・加筆

 

 

国内外の博覧会と活字・印刷機出品(その2)

まえがき
前回の「国内外の博覧会と活字・印刷機の出品(その1)」では、1867(慶應3)年のパリ万国博物館、1876(明治9)年のフィラデルフィア万国博覧会、明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会について、それぞれの概要と活字・印刷機の出品について紹介し、考察を加えた。

今回は、続いて国内外で開催された各種博覧会への出品について紹介する。
内国勧業博覧会は、明治10年(1877)の第一回に続いて、明治14年(1881)、明治23年(1890)、明治28年(1895)、明治36年(1903)と第五回まで開催された。続いて明治40年(1907)に第六回が予定されていたが、日露戦争による財政悪化で延期され、政府主催による内国勧業博覧会は第五回以降の開催はなかった。

代わって明治40年(1907)に東京府主催で東京勧業博覧会が開催された。それ以降、府県庁またはその関係団体による主催で各種博覧会が開催された。その中で東京築地活版製造所から出品された博覧会は、大正3年(1914)の東京大正博覧会、大正11年(1922)の平和記念東京博覧会、昭和3年(1922)の大礼記念関連地方博覧会であった。

その間、1885(明治18)年にイギリスで開催されたロンドン万国発明品博覧会に活版見本を出品している。1893(明治26)年にはアメリカのシカゴで開催されたコロンブス世界博覧会に出品を予定していたが、都合により出品を辞退している。

本稿で採り上げる明治14年(1881)から昭和3年(1922)の間には、東京築地活版製造所は組織ならびに経営者の異動があった。その内容については必要に応じて個別に触れることにする。

博覧会に出品する製品については、活字・活版が主力であるが、印刷機については活字の販売促進のための製品であったことから、明治17年(1884)に印刷機械製造部門の廃止に伴い、製造に関わった従業員を独立させ、また、大阪活版製造所に製造委託するようになった。このことから、印刷機の博覧会への出品は大阪活版製造所が行うようになる。

今回は、第二回内国勧業博覧会以降の築地活版製造所が出品した各種博覧会について、年代順に紹介する。平野富二が直接関与した第二回内国勧業博覧会とロンドン発明品博覧会については詳細に述べるが、明治22年(1889)6月に東京築地活版製造所の社長を辞任して以降の博覧会については、その概要を述べるにとどめる。

(4)第二回内国勧業博覧会
博覧会の概要
明治14年(1881)3月1日から6月30日まで第二回内国勧業博覧会が東京の上野公園で開催された。出品人員は31,239人、観覧人員は822,395人、経費は276,148円と記録されている。

出品物は第一区:鉱業・冶金、第二区:製造物、第三区:美術、第四区:機械、第五区:農業、第六区:園芸の6大区分され、その区分に従い館別に陳列された。館内では、横軸通路を府県別、縦軸通路を類別に配列された。

表門内に第一~第四本館が建てられて第1、2区の出品物が展示された。中門内には第五本館(第2区出品物展示)、美術館(第3区)、第一・第二機械館(第4区)、第一~第五農業館(第5区)、動物館(第5区)、園芸館(第6区)が設けられた。

東京築地活版製造所から出品した「活字・印刷機」は第四区第五類に分類され、中門内の第一機械館に展示された。

図29-1 第二回内国勧業博覧会案内図(国文社)
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』より引用〉
この案内図は国文社が足踏印刷機を会場に持ち込んで印刷したものである。

第一から第四本館までは現在の国立博物館前の広場に設けられ、
それ以外の展示館は現在の国立博物館構内に設けられた。
「活字・印刷機」を展示する第一機械館は中門内の左手突当りにあった。

築地活版製造所からの出品
築地活版製造所からは所長の本木小太郎の名前で次の諸品を出品し、銅製二等有効賞牌を授与された。なお、平野富二は、明治11年(1878)9月に築地活版製造所を本木家に返還して、所長本木小太郎、支配人桑原安六とし、自らは本木小太郎の後見人となっていた。

築地活版製造所の出品目録は、次の通りであった。
・印刷機械(鉄製、西洋模造口形、京橋區築地二丁目 桑原安六)
・印刷機械(同上、フート形、同上)
・各種活版(亜鉛刻字、明朝風10種、清朝風6種、行書1種、朝鮮書体4種、片仮名6種、平仮名8種、平仮名続字1種、横文字1種、同上)
・字見本帖(西洋紙、西洋綴、各種書体印刷、同上)

築地活版製造所から出品された印刷機械の「西洋模造口形」と「フート形」は、一緒に出品された「字見本帖」に絵図で掲示されているPRINTING ROLL MACHINE(活版車機械)とPrinting Foot Press(活版足踏機械)と見られる。「ロ形」は「ロール(ROLL)形」を略称したものと推察される。

各種活版の内、漢字は「明朝風」、「清朝風」、「行書」の3種が出品され、初めて書風、書体を示す名称が付けられた。それまでの築地活版製造所の「摺り見本」や「字見本帳」には書体・書風を示す表示は示されていなかった。

「清朝風」の表現については池原香稺が本木昌造に宛てた書簡(出状年不明、もと長崎諏訪神社所蔵)の中に見られ、「明朝風」については『東京日日新聞』(明治8年9月5日付)の記事のなかに見られるので、本木昌造の生前にすでに用いられていた。

本木一門の間では、楷書体(一点一画を崩さずに正しく書いた漢字の正書体の内、紙面に兎毫竹管の筆を用いて書いた漢字書体で、「三過折」つまり三節構造を有するもの。)の一書風で、17、18世紀の清王朝の刊本に見られる自然で柔軟な筆遣いを残した書風を「清朝風」、16世紀頃から大量の経典を木版摺りとするために正書体でありながら点画を標準化した書風を「明朝風」と表現していたと見られる。

「字見本帳」について
出品された「字見本帖」は、明治12年(1879)6月版の活字見本帳『BOOK OF SPECIMENS』(改刷)と見られる。それ以降、明治14年(1881)2月までに発行された活字見本帳は見付かっていない。

フィラデルフィア万国博覧会出品用として造られた明治9年版『活版様式』を大幅に増補改版した通称明治10年版の『BOOK OF SPECIMENS』を基に、その後に追加された活字類を加えて、「紀元弐千五百三拾九年 明治拾弐年卯第六月」、「改刷版」と表示された『BOOK OF SPECIMENS』が発行されている。

板倉文庫旧蔵本によると、表紙はマーブル紙表装圧紙、背表紙はクロス装で文字等は印刷されていない。扉ページ1は本木昌造肖像(点・線を組み合わせた凹版彫刻技法による銅版)、扉ページ2は表門と煉瓦造り二階建て事務所の絵図(線刻木口木版)、扉ページ3は明治10年版と同じ『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRNO』の表示の上部に「紀元貮千五百三拾九年 明治拾貮年卯第六月」、下部に「Tsukiji Tokyo, Japan」、「改刷」と表示されている。

図29-2 明治12年6月版『BOOK OF SPECIMENS』の扉ページ
〈板倉文庫旧所蔵〉
上図は本木昌造の肖像(扉ページ1)で、
写真を手本とした砂目石版画である。
手本とした写真では首筋まで髪を垂らした総髪姿であるが、
右耳裏の垂れ髪は修正されて無くなっている。

下図は本書の表題(扉ページ3)で、
中央部分は明治10年版と同じである。

表題の上部に刊行年月として紀元年と明治12年6月と記されている。
表題の下部には改刷版であることが示されている。

扉ページ4は飾り枠罫線の中に各種装飾文字を使用した英文表紙で「THE Printers’ Handy Book OF SPECIMENS」と表題を示し、下方に築地活版の旧マークと「OFFICE AND FOUNDEY, 20-BAN-CHI TSUKIJI TOKIO」とある。なお、「FOUNDEY」は「FOUNDRY」の誤りである。主要文字とマーク、飾り枠罫線は色刷りとなっている。

他社による活版印刷機の出展
この博覧会には、国文社(神田淡路町二丁目4番地、社長竹中邦香)から足踏印刷機(鉄、一人力踏転)と活字鋳造車機械が出品された。この足踏印刷機は平野富二の下から独立した金津平四郎(京橋区常盤町一丁目)による製作であることが表示されている。

この足踏印刷機を使用して、会場で「第二回内国勧業博覧会場案内図」(図29-1)を印刷して来館者に配布し、いかに印刷が便利なものであるかを示した。

国文社は、前島来介(密)が『まいにち ひらがな しんぶんし』を発行するに当たって、明治6年(1873)に山田栄蔵(本木一門出身)が本所区御竹蔵に活版印刷所「啓蒙舎」を設けた。明治7年(1874)に神田淡路町二丁目に移転し、その後、「国文社」と改称した。

その他、長崎県の以文会社(勝山町)から木製一人刷印刷機械が出品された。
以文会社について述べると、本木昌造が新町私塾から発行した『長崎新聞』の廃刊(明治6年12月)に続いて、西道仙が編輯主任となって発行(明治8年12月)された同名の『長崎新聞』がある。その発行所は新町新聞局と勝山街新聞局であった。この『長崎新聞』は、明治9年(1877)1月に『西海新聞』と改題され、さらに、明治15年(1882)になって『鎮西日報』と改題して日刊新聞として発行された。この発行所が勝山街新聞局を引き継いだ以文会社(社長佐々澄治・井上英雄・高見松太郎)である。その後、以文会社は県庁関係の印刷物を出版している。

弘道軒神崎正諠とのひと悶着
築地活版製造所の展示を視察したと見られる活版製造所弘道軒(京橋区南鍋町二丁目1番地)の神崎正諠は、博覧会展示品のなかに清朝風活字があることを見付けて、平野富二との間でひと悶着を起した。

当時の『有喜世(うきよ)新聞』(明治14年11月26日付)の記事を要約すると次のようになる。
「神崎正諠は、明治4年(1871)頃からタガネ師を雇って活字の鋼製元字を造り、すでに四号、五号等の字母数千種を製造した。本年1月になって、資金不足のために製造器械と共に字母などすべてを売却する広告を出した。早速、築地の平野富二が買い取りたいと申し入れたが、神崎正諠は思うところがあって断った。その仕返しかどうか知らないが、その後、築地活版製造所で弘道軒の活字を字母として電胎法による母型を造り、活字を鋳造していることを知った神崎正諠は、このまま捨て置いては犬が骨折してエサを鷹にとられるようなものだと立腹した。近頃、この旨を告訴するべく準備中とのこと。」

築地活版製造所は、本木昌造の頃から清朝風と呼んでいた池原香稺の版下による楷書体を改刻するため、能筆家小室樵山(下谷御徒町)に版下を依頼し、完成した活字を「清朝風」と称して第二回内国勧業博覧会に出品した。ところが、弘道軒活字も同じ小室樵山による版下を用いて「清楷書(正楷書)」と名付けて販売していたため、神崎正諠は弘道軒活字をそのまま父型として利用・複製したものと誤解したと見られる。

神崎正諠が、白装束に陣羽織姿で腰に大刀を帯び、築地活版製造所に乗り込んで抗議談判に及んだ逸話は、三谷幸吉が築地活版製造所の社員だった田中市郎の談話として紹介している。

弘道軒活字は、明治14年(1881)8月1日付けの『東京日日新聞』から本文活字として採用され、明治23年(1890)2月11日まで使われた。その間、相場や商況広告などは築地活字の明朝五号が使用されていた。神崎正諠は、明治24年(1891)12月14日、病没し、次男池上喜之助が跡を継いでいる。

築地活版製造所は、明治16年(1883)7月2日付け『時事新報』に広告を掲載して、「これまで明朝風の各号活字と六号楷書活字を販売して来たが、この度、能筆家に版下を依頼して五号楷書活字を本日から発売し、さらに、二号、三号、四号も製造着手中である」と述べている。このことは、神崎正諠の談判を受けて築地活版製造所は、出品した清朝風6種の内、六号のみを「楷書」として販売し、その他の清朝風5種は販売を差し控えていたことが分かる。

(5)ロンドン万国発明品博覧会
(International Inventors Exhibition, London)
明治17年(1884)11月21日付け農商務省布達第21号により「英吉利国龍動府開設万国発明品博覧会ニ帝国政府参同一件」として「来る明治18年5月より6ヶ月間、英国ロンドン府において万国発明品博覧会が開催されるに付き、出品を希望する者は農商務省に願い出ること。但し、出品手続については追って農商務卿より告示する。明治17年11月21日 太政大臣三条実美、農商務卿松方正義」とあり、それによって政府から布告された。

明治18年(1885)1月12日、平野富二は、本木小太郎の代理として、東京府を通じて農商務省に出品願書を提出した。

それに先立ち明治13年(1880)3月、平野富二は本木小太郎を活版、造船等の視察のためアメリカを経てイギリスに長期海外出張させており、当時、本木小太郎はロンドンに滞在していたとい見られる。

なお、出品願書を提出して3ヶ月後の明治18年(1885)4月に、築地活版製造所は本木家から独立して株式組織となり、有限責任東京築地活版製造所となった。平野富二が社長に就任し、本木小太郎は長崎新町活版所と大阪活版製造所の社長となった。

提出した願書には「出品目録」と「説明書」が添付されている。「出品目録」には次の2項目が記載されている。
第一号 活版見本   創業本木昌三、改良平野富二、製造本木小太郎 原価8円

第二号 同上印刷見本 同上                    原価1円

「説明書」は、築地活版製造所の便箋に手書きされたもので、末尾に追記された一文を除き、その全文は『史学協会誌』(第29号、明治19年1月、史学協会)に「活版事業創始の説明」として掲載されている。それは、片塩二朗著「本木昌造の活字づくり」(『ヴィネット04』、2002年6月、朗文堂)で紹介されている。その手書き原文は東京都公文書館に保管されている。

ここでは、手書き原稿により、その要点を箇条書きにして紹介する。
◆わが国には木板による製版と木駒による組版とがあるが、時間を要し、高価である。
◆本木昌三(注1)はオランダ書籍により西洋印刷術を知り、鉛字による漢文印刷術を上海で調査したが、手続きを怠ったため不成功に終わった。独自に研究の結果、電気メッキ版で母型を造り、手鋳込器械を用いて鉛活字を鋳造することを創始した。
◆嘉永5年(1852)の頃、蘭和対訳辞書(注2)を印刷してオランダに送ったのを初めとする。
◆当時は、この新技術が貴重なものであることを知る者がなく、逆に賎しむ有様だった。そのため、本木昌三は自分の財産を使い盡してしまった。

◆このとき、平野富二が本木昌三の志を賛助し、あらゆる面で計画を見直した。平野富二は、明治5年(1872)に東京に出て事業の拡張を計ったが、当初は販売の道が開けず、その苦労は本木昌三を上回った。
◆明治7、8年(1874、5)頃になって、新聞・雑誌類の発行が増え、布告類の活版印刷採用もあって、活字の販売高が増大し、利益をあげることが出来るようになった。その利益を資本として、活字の地金を厳選し、字体と大小を揃え、西洋文字・朝鮮文字・梵字などに至るまで揃えた。また、2、3年前から和文の再興が行われ、続き仮名活字を造り好評を得た。

◆この活版製造事業において、創業の功は専ら本木昌三にある。改良と弘売の功は平野富二の力が多大である。
◆明治5年(1872)中に東京で開業し、それ以来、明治17年(1884)までの販売高概数(注3)は次の通りである。なお、長崎と大阪の店の販売高は両店合計で東京店とほぼ同数となる。詳細は公表されている資料に譲るが、その概要は次の通りである。
明治5年は、7月中旬に神田和泉町に活版製造所を設営してから年末までの販売実績は個数244千個、重量6貫(1貫=3.75㎏)であった。
明治6年は2,773千個、257貫と個数で11.4倍、重量で42.8倍となり、明治7年はほゞ横ばいで、明治8年は4,554個、1,089千貫、明治9年には7,157千個、1,071貫と個数は年々大幅に増加した。
明治12年になると個数10,141千個、重量1,639貫、更に明治14年には個数15,811千個、重量2,262貫と驚異的な伸びを記録している。
明治17年までの実績合計は、個数107,589千個、重量164,508貫(616,905㎏)となっている。
◆第一回、第二回内国勧業博覧会に出品して賞牌を得た。

◆現在では全国500余の活版印刷所がわが社の製品を使用しており、2、3年前から上海・朝鮮にまで輸出するようになった。
◆わが事業がわが国の文明開化を誘導補助したことは疑うことはできない。しかし、わが国では未だ専売特許権の制度がないため、発明改良に苦労しても利益を得ることが少ない。それを盗み取って擬造・販売することで労せずに過分の利益を得ている。
◆活字の製造法や用法・効能などは西洋諸国と同じである。しかし、母型の製造法に違いがあり、西洋諸国は打込型であるのに対して、わが国ではガラフハニー(注4)型を用いている。(添付説明図は保存されていない。)
◆この鉛製活字は、従来の整版に較べて25~30倍の耐久性がある。
◆整版は急速の用には向かず、他の文章に版を転用することも出来ない。また、文字などを細かく出来ないので、印刷紙数が多くなり、書籍も高価となる。そのため、資力のない学徒は手写本に時日を費やしていた。
◆活版の採用により書籍の値段(注5)は1/2~1/5に下がるものがある。写本で伝わって来た奇書や大冊の書籍も活版印刷されるようになった。また、書籍の印刷発行が容易になったことから著述者を誘導し、その種類は10~15倍となった。
◆わが国が文明開化の進歩に向かう中で、直接または間接に成し遂げた功績については、長くなるので、説明を省略する。
◆追記として、日本文、中国文、欧文などの印刷に要する諸体の文字の販売、あるいは、印刷の引受を行うので、宣教師、その他東洋文字の印刷を希望する者はわが社に来訪されたい。

文中で注記番号を付した内容について、以下に補足する。
(注1):「本木昌三」について、通称は本木昌造であるが、ここでは明治5年(1872)に編成された戸籍上の名前で記している。

(注2):「蘭和対訳辞書」について、従来、福地櫻痴が執筆したとされる『印刷雑誌』の「本木昌造君の行状(前号の続)」の中で、「蘭和通弁の事を記せし一書」としており、それに基づいて研究者による詮索が行われ、それに相当する書物はオランダで発見することができなかったとされている。オランダで再調査すれば発見される可能性があるのではないかと思われる。
注3):「活字の販売高概数」について、明治5年の実績は年央からのもので、明治17年の実績は予測値と見られる。『史学協会雑誌』に掲載された説明書では重量を貫匁からポンドに換算しているが、その換算の過程で桁を誤って記載した箇所がある。
(注4):「ガルフハニー型」について、ガルヴァニー(galvanic)をオランダ語で表現したもので、「電気メッキ法により作成した型」を意味する。
(注5):「整版と活版の印刷物の価格差」について、ここでは学術本を対象にしているが、戯作本を例にとると、仮名垣魯文著『高橋阿伝夜刅譚』は、明治12年(1879)年に木版八編二十四冊本で1円だったのに対して、明治18年(1885)に活版一冊本で36銭だったという。

(6)第三回内国勧業博覧会
明治23年(1890)4月1日から7月31日の間、東京会場(上野公園内)で開催された。
出品人員77,432人、観覧人数1,023,693人、経費486,148円と記録されている。

出品は第一部:工業、第二部:美術、第三部:農業・園芸、第四部:水産、第五部:教育・学芸、第六部:鉱業・冶金術、第七部:機械 の7部門に区分された。

図29-3 第三回内国勧業博覧会場之図
〈江戸東京博物館図録『博覧都市 江戸東京』、1993年11月〉

図右下にある表門内に第一東本館、第一西本館、第二~五館、機械館、
図中央の中門内に農林館、美術館、水産館、動物館、参考館が建てられた。
本館には工業、教育・学芸、鉱業・冶金術と工芸品、
参考館には諸外国の工芸品、美術品、天然物と邦人の特別出品が陳列された。
東京電灯がわが国最初の路面電車を走らせた。

印刷関係は、第一部の第十四類として「写真・印刷」、第七部の第四類として「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」に分類されている。この分野の審査は陽其二(製紙分社総括)が審査官主任を務めた。

「写真・印刷」(第一部第十四類)で褒賞を授与された出品者は、総数121人で、その内、東京府が58人、神奈川県が8人、大阪府が5人、京都府・兵庫県・長崎県が各3人を占めていた。その中で受賞者は総数33人の内、東京府が24人を占めていた。主な受賞者は次の通り。一等有功賞:写真 白金印書    東京府麹町区飯田町   小川一真
二等有功賞:活版印刷類 二面   東京府京橋区西紺屋町      佐久間貞一
三等進歩賞:活字組立板           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
三等有功賞:石版印刷物           東京府京橋区築地二丁目 東京築地活版製造所
褒状   :凸版                    東京府日本橋区兜町   陽其二

賞牌について上位から記すと、名誉賞牌(金造)、進歩賞牌(銅造、一等~三等)、妙技賞牌(銅造、一等~三等)、有功賞牌(銅造、一等~三等)、協賛賞牌(銅造、一等~三等)、褒状があった。

この印刷関係の審査報告概要では、「木版印刷は各種印刷物の過半を占め、専ら東京府の出品に属す。一は洋式の木版にして、もとより痂瑕なき能わずといえども、鮮明にして彫刻の労見るべし。一は本邦従来の方法に拠れるものにして、殊に雅致に富める所あり。東京府の出品にして活字を用いて上野公園入口の真景を填綴せるものは、その意匠の斬新たる本邦に於いてかつて見ざる所とす。又、紙型鉛版の如きは鋳造尋常なりといえども需要頗る広く、その製額変多し。」としている。

「製紙・印刷・製本の機械、活字・其の鋳造等の機械」(第七部第四類)で褒賞を授与された出品者は次の通り。
二等有功賞:活字鋳型              東京府赤坂区田町           大川光次
三等有功賞:十六片紙ロールマシン 大阪府東区北久太郎町  大阪活版製造所
褒状   :石版印刷機           東京府日本橋区本町        浅沼藤吉
同上   :活版印刷機           東京府京橋区常盤町   金津平四郎
同上   :活字額面              大阪府東区北久太郎町      大阪活版製造所
同上   :石版銅板彫刻機械 東京府日本橋区本町        杉浦六右衛門

博覧会に出品された印刷機は、前記の受賞出品以外に、東京府から水谷伊之助の活版器械(柏原栄太郎製造)があった。東京築地活版製造所の出品はなかった。大阪府から大阪活版製造所が受賞した十六片紙ロールマシン以外に半紙六枚摺ハンドプレスを出品し、会場に持ち込んだハンドプレスで自社の大判広告チラシを印刷、配布した。

図29-4  大阪活版製造所の広告チラシ
〈板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』、朗文堂、2011年9月〉

この広告は、会場に於いて半紙六枚摺ハンドプレスで印刷したものと見られる。
この広告の上段には四種類の印刷機械が描かれている。
右から活版印刷車輪機械 紙取付十六片紙摺 ロールマシン、
活版印刷車輪機械 八片紙摺 ロールマシン、
活版印刷手引機械 ハンドプレス、
活版印刷足踏機械 フートプレス
広告の下段右側には、活字各号見本が印刷されている。

審査報告として、「大阪府大阪活版製造所十六片紙(ロールマシン)は良く模造できたということが出来る。構造はよろしく、販売価格も低廉で、印刷された製品は殊に鮮明である。言うまでもなく、これに従事する職工の熟練、印肉の良質、活字の良品によることが少なくないとは言え、多年の経験により機械各部の構造が宜しくなければ、決して可能なことではない。」としている。

東京築地活版製造所は、明治23年(1890)1月に曲田成が社長に就任して間もなくの頃であった。本博覧会では「写真・印刷」部門で石版印刷物を出品して受賞しているが、すでに明治17年(1884)3月に印刷部を新設して、石版を含む印刷事業にも注力するようになっていた。

なお、平野富二の経営する東京石川島造船所は第七部「機械」、第六類「瓦斯・電気・汽力・風力等の発動機械及び汽缶」として舶用高圧蒸気機関を出品した。審査報告には「東京府石川島造船所 舶用高圧蒸気機関は構造・意匠とも程よく、各部はこれに比準してとても適当となった。しかし、造船所の規模が大きいことに比較して、この類の機械の出品が少ないのは残念である」とし、その出品に対して一等有功賞が授与された。

(7)コロンブス世界博覧会(シカゴ万国博覧会-1893年)
The World’s Columbian Exposition at Chicago, 1893
コロンブスの新大陸発見400年を記念してアメリカのシカゴで1893(明治26)年5月1日から10月30日まで開催された。その内容は科学技術の発展と工業への応用が中心となっていた。

わが国は宇治の平等院鳳凰堂を模した三棟から成る「鳳凰殿」と日本庭園を建設し、美術工芸品を中心に工業製品から園芸まで幅広く日本の文物を紹介した。このとき、東京築地活版製造所も出品を申請したが、明治25年(1892)5月5日付けで「閣龍(コロンブス)世界博覧会出品取消願」を東京府に提出して、出品を辞退している。

東京築地活版製造所は、社長曲田成の組織改革と業界活動の結果、経営は順調に拡大し、改正明朝活字や新製欧文活字を相次いで発売していた。

(8)第四回内国勧業博覧会
明治28年(1895)4月1日から7月31日の間、京都府岡崎公園に於いて開催された。
前年の明治27年(1894)には日清戦争が勃発したが、京都の遷都1,100年の記念事業として運営された。出品人員は73,781人、観覧人数は1,136,695人、経費27,256円と記録されている。

展示館としては、美術館、工芸館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館が主要なものであった。機械館の動力源が石炭から電力に替わり、会場外では、わが国初めての市街電車によって京都~琵琶湖疎水のほとりまでを連絡した。

印刷関係の出品区分は、第一部「工業」の第三類「写真・印刷」の中に其一「写真・幻燈画並びに其の器具」、其二「印刷物・其の用具」があり、さらに、第七部「機械」の第四十九類「製造機械」の其四「製紙、印刷、製本、活字、文具、‥‥等の機械」として2分野にまたがって区分されている。

「印刷物・印刷用具」(第一部第三類其四)については、東京府から東京築地活版製造所が「活字」を出品し、名誉賞銀牌を授与された。その審査評によると、「故本木昌造の遺志を継ぎ、活字鋳造、製版、印刷の業を営み、早くからその名声を海内に博し、功績顕著で、斯業の模範と為すに足りる」としている。

なお、東京築地活版製造所は、前年の明治27年(1894)10月16日に社長曲田成が姫路に出張中に脳溢血で客死し、代わって名村泰蔵が専務取締役社長に就任した。支配人は野村宗十郎が曲田社長時代に引続き支配人を務めていた。明治28年(1895)1月には、東京築地活版製造所から『座右の友(第二)』を発刊している。

東京築地活版所は、博覧会の開催に合わせて、明治28年(1895)3月、『印刷雑誌』に「改正明朝活字発売の広告」を掲載して、「第四回内国勧業博覧会の開催に際し、弊社改正文字発売の緒に就きたるを以て、其の会場の当日、すなわち本年四月一日より、三号明朝活字、五号明朝活字、六号明朝活字および新たに製造するところの三号楷書の4体を更に発売せんとす」としている。

「印刷機械」(第七部第四十九類其四)については、大阪府から大阪活版製造所の印刷車機械、森川松之助の足踏印刷機械、加藤駒蔵の活字製造機械、中島幾三郎の印刷機械が出品され、東京府からは杉浦六右衛門の写真版印刷機械が出品された。
大阪活版製造所出品の「印刷車機械」について、審査報告では「手本を海外に採るとは言え、着々と改良を施し、構造は堅牢で、製作は佳良である。製品も鮮明に印刷でき、充分実用に適している」としている。

東京築地活版製造所は、印刷機械の製造を大阪活版製造所に委託していたので、出品はなかった。

(9)第五回内国勧業博覧会
明治36年(1903)3月1日から7月31日の間、大阪府天王寺今宮の天王寺公園で開催された。出品人員は130,416人、観覧人数は5,305,209人、経費1,066,611円と記録されており、最後にして最大の内国勧業博覧会となった。

展示館として農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館の外に台湾館、参考館が建設された。第二会場として堺に水族館も建てられた。

出品は第一部「農業及園芸」、第二部「林業」、第三部「水産」、第四部「採鉱及冶金」、第五部「化学工業」、第六部「染織工業」、第七部「製作工業」、第八部「機械」、第九部「教育、学術、衛生及経済」の9部に分類された。

印刷関係の出品は、第八部の第四十六類「印刷機械」(其一「製版機械」、其二「印刷機械」と、第九部の第五十三類「写真及印刷」(其一~其十の内、其五「活字、活版、字母」、其六「整版、印刷器具、用品」、其八「印刷物」)に区分されている。

「印刷機械」(第八部)については、東京府から前田義胤が印刷機械、浅沼藤吉が汽動力石版印刷機械、全紙用写真版印刷機械、四つ切用写真版印刷機械、鉄葉版印刷機械、三色版用印刷機械、銅板用印刷機械の6機種、大阪府から中島幾三郎が四六判半裁石版印刷機、四頁形便利印刷機の2機種、浪花活版製造所が活版印刷機械四頁足踏ロール、坂本辰三郎が石版印刷器械を出品した。

活字」(第九部)については、東京築地活版製造所が、9ポイント活字約3,000個、その他サイズのポイント活字10種5,60個を出品し、名誉銀牌を授賞した。
このころ、東京築地活版製造所では社長名村泰蔵の下で支配人となっていた野村宗十郎がポイント活字の普及に努めていた。

この博覧会での受賞を記念して、同年11月1日、東京築地活版製造所は、それまでの集大成として『SPECIMEN BOOK OF TYPES 活字見本』を印刷し、関係者に贈呈した。しかし、この活字見本には内国勧業博覧会に出品した9ポイント活字は、まだ、掲載されていない。顧客の要求に即応できる社内態勢が充分整っていなかったものと推察される。

図29-5 明治36年11月版『活版見本』の表紙
〈旧板倉文庫所蔵、板倉雅宣著『活版印刷発達史』より〉

この明治36年11月版『活字見本』は、
468×182mm、468ページの大冊で、
明朝体、楷書体、平仮名、片仮名、各種装飾書体(色刷見本を含む)、
ゴチック、竪平型、梵字、朝鮮文字などから成る。

(10)その他の地方博覧会
国が主催した内国勧業博覧会は明治36年(1903)の第五回を以て終了した。それ以降は各府県あるいは関係団体主催による博覧会が開催された。東京築地活版製造所は下記の各博覧会に活字等を出品して受賞している。

1)東京勧業博覧会
明治40年(1907)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池畔(第二会場)、帝室博物館西側竹の台(第三会場)に於いて開催された。本博覧会は、もともと、明治40年(1907)に政府主催の第六回内国勧業博覧会の開催を予定していたが、日露戦争の勃発で財政悪化のため代わって東京府主催で開催されたものである。

東京築地活版製造所(社長名村泰蔵)は仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。取締役支配人の野村宗十郎は同博覧会の審査を嘱託された。

2)東京大正博覧会
大正3年(1914)3月20日から7月31日まで、東京府主催により上野公園(第一会場)、不忍池周辺(第二会場)に於いて開催された。

東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「活字類」は名誉大賞牌を授賞した。なお、社長野村宗十郎は博覧会商議委員に就任した。

3)平和記念東京博覧会
大正11年(1922)3月10日から7月31日まで、東京上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長野村宗十郎)から出品した「各種活字類」は名誉大賞牌を授賞した。

4)大礼記念関連の地方博覧会
・大礼記念国産振興東京博覧会
昭和3年(1928)3月24日から5月22日まで、東京商工会議所主催により上野公園に於いて開催された。東京築地活版製造所(社長松田精一)は国産優良時事賞を受賞した。

・ 東北産業博覧会
昭和3年(1928)4月15日から6月3日まで、仙台商工会議所主催により仙台市川内東西両公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・御大典奉祝名古屋博覧会
昭和3年(1928)9月15日から11月30日まで、名古屋の鶴舞公園に於いて開催された。東京築地活版製造所は名誉賞牌を授賞した。

・大礼記念京都大博覧会
昭和3年(1928)9月20日から12月25日まで、京都の岡崎公園(東会場)・京都刑務所跡地(千本丸太町、西会場)・恩賜京都博物館(南会場)に於いて開催された。東京築地活版製造所は国産優良名誉大賞牌を授賞した。

なお、東京築地活版製造所は、1)の東京勧業博覧会の時は第四代社長名村泰蔵、支配人野村宗十郎であったが、2)と3)の東京大正博覧会と平和記念東京博覧会の時は第五代社長野村宗十郎、4)の大礼記念博覧会の時は第六代社長松田精一により出品された。

ま と め
前回の(その1)では、その最初として1867(慶應3)年に開催されたパリ万国博覧会で渡仏した清水卯三郎が「フランスみやげ」とした石版印刷機と足踏印刷機について紹介し、1876(明治9)年にアメリカで開催されたフィラデルフィア万国博覧会と明治10年(1877)に開催された第一回内国勧業博覧会に出品した活字と印刷機について紹介した。

今回は(その2)として、明治11年(1878)9月に平野富二が本木小太郎に築地活版製造所の経営を返還・移譲し、本木小太郎の後見人となって以降について紹介した。

明治14年(1881)に第二回内国勧業博覧会が開催され、本木小太郎の名前で各種印刷機と各種活版、字見本帖を出品した。また、1885(明治18)年にはロンドン万国発明品博覧会には平野富二が本木小太郎の代理として活字見本と活版印刷見本を出品した。

明治18年(1885)4月、有限責任の株式組織として本木家から独立した東京築地活版製造所は、平野富二を初代社長に選任した。明治22年(1889)6月になって平野富二は社長を辞任して、第二代社長は空席のまま、本木小太郎が社長心得となった。以後、平野富二は東京石川島造船所の経営に専念して、自ら東京築地活版製造所の経営に関与することはなかった。この間、明治23年(1890)に開催予定だった第三回内国勧業博覧会の出品準備が行われたが、博覧会開催は曲田成が社長に就任した後のことである。

明治23年(1890)1月、本木小太郎の辞任により、曲田成が第三代社長に就任した。野村宗十郎は社長曲田成の下で明治25年(1892)8月に副支配人、明治26年(1893)8月に支配人となった。この間、明治23年(1890)4月から第三回内国勧業博覧会が開催され、東京築地活版製造所から活版組立板と石版印刷物が出品された。また、大阪活版製造所から十六片紙ロールマシンと活字額面が出品され、会場内で活版印刷機の図入り広告が印刷、配布された。

明治27年(1894)10月、社長曲田成の病死により名村泰蔵が第四代社長に就任した。この間、明治28年(1895)の第四回内国勧業博覧会では改正明朝体活字を出品、明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会ではポイント活字を出品して名誉銀牌を授賞、明治40年(1907)の第六回内国勧業博覧かに代わる東京勧業博覧会では仮名付活字と写真石版印刷物を出品して名誉金牌を授賞した。

明治40年(1907)9月、名村泰蔵の病死により支配人野村宗十郎が第五代社長に就任した。大正14年(1925)4月、野村宗十郎の病死により松田精一が第六代社長に就任した。
この間、府県庁またはその関係団体主催の各種博覧会に活字を出品して名誉賞を受賞している。

東京築地活版製造所は、業界の老舗でリーダーであったことから、出品した活字・活版については毎回、何らかの賞牌を授賞している。しかし、印刷機については、途中から自社内での製造を中止し、大阪活版製造所に委託したことから、機械分野での出品は見られなくなった。一方、明治17年(1884)から社内に印刷部を新設して印刷事業に本格進出し、石版印刷に力を注いだことから、石版印刷物の出品で受賞するようになった。

本稿では、平野富二が関わった博覧会の出品については詳しく述べたが、それ以降の博覧会については概要を述べるにとどまった。国立国会図書館には博覧会関係資料が数多く保管されており、それらは「国立国会図書館所蔵博覧会関係資料目録」(『参考書誌研究』、第44号、1994.8、国立国会図書館発行)に掲載されている。参考になる筈である。

2020年1月28日