町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡

【町司長屋の横にあった窪地】
幕末の「長崎明細図」[1] によると、引地町町司長屋の敷地に隣接して、何やらいわく因縁のありそうな土地が、周囲から孤立して描かれている。

この土地が接している引地町通りの延長部分は、「引地町町使長屋絵図」[2] によると、道幅が狭くなっており、片側は桜町牢屋の石垣で高くなっている。反対側は、道路面から下に石垣が積まれており、この土地が窪地であることが分かる。

さらに、「長崎惣町絵図」[3] によると、この窪地は台形状をなしており、引地町通りの延長部分に面する間口が5間5尺(約11.4m)、下の川沿いの間口が7間2尺(約16.4m)、石段のある坂道に接する長さと引地町に接する長さが、共に16間1尺(約31.8m)で、その面積は約440㎡となる。

先の「長崎明細図」では、町筋を表示した道路に太い線で町の境界を示してあり、その範囲の道路に面した土地が、その町に属すことになる。この台形状の窪地は、引地町筋の外側にあるので引地町には属さないことは分かるが、それではどの町に属していたのかというと、はっきりしない。

現在、その窪地には私立財団法人長崎地区労働福祉会館のビルが建てられている。そのため、ここが窪地であったことはほとんど気付かれない。しかし、隣接する長崎県勤労福祉会館の敷地との境界をよく見ると、大きな段差があったことが分かる。

窪地の先にある石段の坂道(「引地町町使長屋絵図」にある両紺屋町筋の延長)は、現在、大きく変貌を遂げている。道路は拡幅され、その中央を公会堂前から長崎駅に通じる路面電車が通っている。国道34号線が上部を交差するため、台地を横断する切通し道となっており、その両側は、上の国道に通じる坂道となっている。

その坂道に面して労働福祉会館の正面入口がある。その入口脇に何やら説明板が建てられている。この土地にあった施設のことが記されていたので、単なる窪地のままではなかったらしい。

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【この窪地は「三ノ堀」の末端部だった】
この窪地について、さらに調べてみた。

長崎に残された最も古い地図とされる「寛永長崎港図」[4] によると、白く塗られた内町の台地を横断して青色で3本の堀が描かれている。同図で、一番上に描かれた堀は、赤く塗られた外町との境界をなしていることが分かる。この堀は、台地の先端から数えて3本目に当たることから、「三ノ堀」と呼ばれている。

寛永長崎港図(長崎歴史文化博物館所蔵)部分

この「三ノ堀」の両端は、共に川に接続している。2本の川は内町台地の両側面を囲うように流れている。同図で、左側の川は岩堀川、右側は地獄川と呼ばれている。

「寛永長崎港図」で、「三ノ堀」が地獄川に接続する付近の内側に、地獄川と平行して「引地町通り」と表示されている。そのことから、引地町に隣接する窪地は、「三ノ堀」の末端部であったことが明らかとなった。

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【「三ノ堀」の建設時期とその目的】
内町にあった3本の堀について、『新長崎市史』(第二巻 近世編、平成24年3月)によると、次のように記されている。

「本博多町、現在の万才町にある奉行屋鋪(白塀で囲まれているが、建物はない)の南側に大堀(一ノ堀)が、さらに、豊後町と桜町の間に大堀(二ノ堀)が、桜町と勝山町の間に大堀(三ノ堀)がある。一ノ堀は、文禄元年(1596)、奉行屋鋪北側の小堀(「寛永長崎港図」にはない)と共に開削されたが、慶長元年(1596)、二ノ堀と三ノ堀が開削されたので、小堀は埋められ、慶長元年(1596)以降、町が造成され、堀町と命名された。また、慶長10年(1605)、三ノ堀の一部は埋められ、引地町が造成された。」

引用元の本文にある丸番号は、ここでは省略したため、文章を多少変更した。

戦国時代、ポルトガル船の来航により開港した長崎は、中島川が堂門川(西山川)と合流する付近まで入り江となっており、海に向かって長く突き出た岬の台地上に新しく六ヵ町が造成され、それを基点に発展して都市が形成されたと云われている。

岬の形状は、飛翔する鶴の首に似ているとされている。「長崎明細図」には、岬の外周に築かれた石垣が描かれている。その石垣をたどると、鶴の首の姿が現れてくる。長いくちばしの先端は尖ってはいないが、頭に相当する部分は西側に丸く突出し、首の部分で再び細くなっている。

岬上の町は、天正8年(1580)、領主大村純義によってイエスズ会に寄進された。その後、町が拡張されると共に、くちばしの外縁部に当たる低地にも町が造成された。天正15年(1587)、九州征伐を達成した豊臣秀吉は、長崎を没収して直轄領とした。その範囲は「寛永長崎港図」に白塗りで示された内町に相当する。

文禄元年(1592)、長崎支配のために岬上に奉行屋鋪(奉行所)が置かれ、同時に、外敵の防御と秀吉の威信を示すために設けられたのが、三段構えの大堀であった。

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【3本の大堀の位置関係】
長崎の地形を鶴の首になぞられて3本の大堀の位置を確認すると、まず、くちばしの付け根に相当する位置に岬を横断して「一ノ堀(大堀)」、くちばしの付け根から鼻の辺りにかけて奉行屋鋪、その外側に接して「一ノ堀(小堀)」が設けられた。その4年後に、頭と首の接続部に「二ノ堀」、尾根上の街道が尾根から分かれる辺りに「三ノ堀」が設けられたことが分かる。

「寛永長崎港図」が描かれた頃は、すでに中島川本流を残して入り江は埋め立てられ、市街地化されていた。内町と外町とは、内町の一部を除いて、「三ノ堀」と2本の川によって隔離され、橋によって連絡されていた。

「三ノ堀」は、岩原川から水を導入して貯水し、堰を設けて地獄川に排水したと見られる。

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【引地町の造成と「三ノ堀」の埋め立て】
徳川家康によって天下が平定されたため、大堀は順次埋め立てられて市街化された。

引地町の造成については、前回のブログでも触れたが、『新長崎市史』に「慶長10年(1605)、三ノ堀の一部は埋められ、引地町が造成された。」と記されている。しかし、それより約30年後に描かれたと見られる「寛永長崎港図」には、「三ノ堀」が埋め立てられた様子は見られない。

引地町の造成に当たって、「三ノ堀」に面する擁壁を嵩上げする工事が行われたことは考えられるが、これは埋め立てには当たらない。引地町通りの延長が「三ノ堀」を横断して描かれているので、この部分だけ埋め立てられたとも見られるが、通常ならば橋を架けるところで、このためだけに堀の一部を埋め立てたとは考えられない。

『長崎市史』(地誌編名勝旧跡部、昭和⒓年3月)には、引地町について、次のように記されている。

「この地はもと、桜町より東南に向かって傾斜した荒蕪地であった。戦国の世、桜町に濠を設けて貯水し、敵軍に備えたが、後、人口増殖、市街拡張のため、桜町の東南部傾斜の一帯を切開き、濠を埋めて一区の住宅地を建てたので引地町の称を得た。」

桜町の傾斜した荒蕪地に隣接して存在していたとする「濠」は、「三ノ堀」のことではなく、引地町に沿って流れる地獄川の位置に「濠」が存在していたことを示すものと解釈できる。その「濠」の一部が水路として残されて地獄川となったと見られる。

地獄川については、次回のブログで紹介する。

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【窪地として残された理由】
「三ノ堀」の引地町に隣接するところだけが、何故、窪地として残されたのだろうか?

「長崎惣町絵図」は、明和年間(1765 年前後)に造られたとされており、これには「三ノ堀」はすべて埋め立てられて、町地化されている。しかし、引地町に隣接する「三ノ堀」跡は、この時でも完全には埋め立てられず、窪地として残されていたことは、宝暦年間(1760年前後)より後に描かれた「桜町牢屋絵図」[5] にある石垣によって明らかである。

窪地として残された理由として、まず考えられることは、桜町牢屋と引地町町使長屋の存在がある。警備上の隔離策として道を狭め、深い窪地を残したと見られる。

しかし、もっと単純な理由かもしれない。窪地の一方が坂道に面しているので、わざわざ引地町と同じ高さまで埋め立てる必要はなく、下の土地の高さまで埋め立てれば、住宅地としてはあまり好適ではないが、それで十分と見なしたのではないか。

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【備考】
[1] 「長崎明細図」は、「平野富二生誕の地」確定根拠の添付資料3として示した。
[2] 「引地町町使長屋絵図」は、前々回ブログ(2017年1月)の図2として示した。
[3] 「長崎惣町絵図」は、「趣意書」の「平野富二生誕の地」確定根拠の添付資料2として示した。
[4] 「寛永長崎港図」は、長崎歴史文化博物館に所蔵されている。元長崎町年寄高島家に伝来した原図の模写とされている。図に描かれた奉行屋鋪は、寛永10年(1633)に焼失して外浦町に移転したとされているが、元の位置のままである。一方、寛永13年(1636)に完成した出島が描かれているなど、描かれた時期に幅がある。
[5] 「桜町牢屋絵図」は、前回ブログ(2017年2月)で示した。