平野富二の師 本木昌造

はじめに
平野富二が本木昌造と初めて面識を得たのは、まだ幼名の矢次富次郎を名乗っていた頃であった。それは、文久元年(1861)4月に製鉄所機関士見習として抜擢されて、長崎製鉄所に配属された時と見られる。伝習掛を兼務していた本木昌造は、平野富二が利発で物事に真剣に取り組む態度に眼をつけ、私的に活版印刷技術を研究するグループへの参加を呼び掛けた。

その時から明治維新を経て明治2年(1869)9月に本木昌造が長崎製鉄所の頭取を辞任するまでの8年半の間、本木昌造が慶應2年(1866)8月に奉行所支配定役格となってからの1年間と長崎製鉄所の頭取辞任後の半年間を除いて、長崎製鉄所に於いて上司と部下の関係にあった。この間の事柄については『平野富二伝』およびブログ連載により紹介した。

本木昌造は、長崎製鉄所頭取辞任後に永年の夢だった活版事業と育英事業とを実現させるため、新町に新街私塾(新塾と略称)を開設し、これを資金面から支えるために新町活版所と新町活字製造所を併設した。活版事業は長崎奉行所の解体で職を失った地役人たちの失業救済の意味もあり、知人・友人からの出資協力を得て実現した。

ところが、肝心の活字製造が軌道に乗らず、問題解決に至らないうちに資金が枯渇するという深刻な状態に陥った。その頃、平野富二は、長崎製鉄所が工部省に移管さるのに伴い退職し、自力で造船事業を行う構想を練っていた。本木昌造は、明治4年(1871)7月頃、平野富二を自宅に招いて活字製造部門の事業改革を依頼し、一任することになった。これを契機として、平野富二は本木昌造の活版事業に深く関わることになった。

明治8年(1875)9月3日に本木昌造は長崎で病没し、その没後3年に当る明治11年(1878)9月になって、平野富二は、活版事業受託の成果である築地活版製造所の資産を本木家に返還して本木小太郎を所長とし、自らは後見人となった。しかし、本木小太郎は事業経営者としては未熟であったことから海外に留学させた。
明治22年(1889)5月に東京築地活版製造所を有限責任の株式組織としたとき、平野富二は、本木小太郎を社長心得に推薦し、活版事業から身を引いて造船事業を中心とした自ら起した事業に専念することにした。

平野富二は、明治25年12月に脳溢血で死去し、46年6ヶ月の生涯であったが、文久元年(1861)の数え年16の時から明治22年(1889)の数え年44までの29年間、人生の大半を本木昌造との関連で過ごしたことになる。

この本木昌造について、その生涯を物語る伝記や小説を読んでみると、総合的にバランスよく纏められたものが殆ど見られない。どちらかと云うと活版印刷分野を中心とした内容が多い。本木昌造が活躍し世の中に貢献した分野を大きく分けると、①オランダ通詞、②活版製造・印刷・出版、③鉄工・造船・船舶運輸、④科学技術の啓蒙・普及、⑤私塾経営による育英事業の5分野に区分することができる。

本稿では、まず最初に「本木昌造の出自と家族」について紹介し、それに続いて上記5分野に於ける事績を拾い集め、最後に「本木昌造の晩年」を述べることにより、本木昌造の生涯を知る縁としたい。

本木昌造の出自と家族
本木昌造は、文政7年(1824)6月9日、馬田又次右衛門の二男として長崎で生まれた。幼名は作之助。天保5年(1834)、11歳の時、オランダ通詞本木昌左衛門久美の養子となり、元吉と名を改めた。通称は昌造、諱は永久、号は梧窓、堂号は點林、公職を退いた後は咲三、笑三などと称した。明治5年(1872)の近代戸籍の編成に際し昌三として届け出ている。従って戸籍上の本名は本木昌三である。

出自
実父馬田又次右衛門永成は、長崎会所吟味役を勤めあげた長崎地役人で、乙名(町長)を務める北島家から馬田家の養子に入った人である。その長男は馬田又蔵永親、二男は本木昌造、三男は松田雅典、四男は伊東祐吉、五男は長川東明、六男は柴田昌吉で、いずれも各界で名を成した人たちである。

実父の長兄北島三弥太(長崎新大工町乙名を継ぐ)は、本木昌左衛門久美の長姉繁を嫁として迎えた。本木昌造が本木家に養子として入るに際して、その縁から北島三弥太・繁を本木昌造の仮親として本木家に入ったと見られる。本木昌左衛門久美には男子2人、女子1人があったが、いずれも幼没し、当時、実子は無かった。そのため、養子を迎える条件として親戚筋であることを示す必要があったと見られる。初期に書かれた本木昌造の伝記では北島三弥太・繁を両親としている。
なお、本木昌左衛門久美の父庄左衛正栄が記録した本木家系図によると、その長女は「名茂、幼名豊。実は姪で、まだ襁褓(おむつ)をしている頃に養子とした」と記されている。

家族
妻の縫は、昌造が養子に入った4年後の天保9年(1838)4月18日に本木家の次女として生まれ、昌造の許嫁として育てられた。
長男昌太郎は嘉永6年(1853)3月に生まれ、安政5年(1858)3月に数え年6歳で病没した。次男小太郎は安政4年(1857)9月18日に生まれ、本木家の跡継ぎとして育てられた。
安政5年(1858)7月12日、妻縫が長男の死を追うように数え年21で病没した。そのため、義理の従妹で大和屋喜市の娘タネを後妻に迎え、三男清次郎と四男昌三郎を儲けた。

養父昌左衛門久美は、慶應3年(1867)までオランダ通詞目付を勤め、慶應4年(1868)にオランダ通詞の家督を孫の小太郎に譲って隠居し、昌栄と改名した。明治5年(1872)6月に数え年72で死去した。養母タマ(玉)も同年12月に数え年59で病死している。

本木家の祖先
本木家の始祖は平戸の蒲生家に仕えた林治作栄政で、病身のため弟甚左衛門友徳に平戸での扶持を譲り、その後、本木祐斉と称した。万治2年(1659)の頃、本木祐斉は長男庄太夫を召し連れて平戸から長崎に移住した。
本木庄太夫栄久(後に良意)は、寛文4年(1664)に奉行所から召し出されて小通詞役を仰せ付けられオランダ通詞となった。オランダ通詞2代目は本木仁太夫良固、3代目は本木仁太夫良永(良固の妹多津が西松仙に嫁ぎ、その次男)、4代目は本木庄左衛門正栄、5代目は本木昌左衛門久美(後に昌栄)と続き、本木昌造永久は6代目に当たる。

初代の本木栄久はオランダ商館長の江戸参府に随行すること10回に及んだ。3代目の本木良永は天文学や地理学の翻訳が多く、地動説の紹介で知られている。4代目の本木正栄は英語学習書と英和対訳辞書、フランス語辞書を編集、『和蘭軍艦図解』などの著訳書がある。5代目の本木久美は嘉永1年(1848)にアメリカ漂流民マクドナルドからオランダ通詞たちが英語を学んだとき通詞目付の立場で責任者となった。

① オランダ通詞としての職歴・実績
天保6年(1835、12歳)に、養父昌左衛門がオランダ通詞小通詞並の時、「稽古通詞」として採用された。天保11年(1840、17歳)に「小通詞末席」となり、弘化3年(1846、23歳)に「小通詞並」、嘉永4年(1851、28歳)に「小通詞助」、嘉永6年(1853、30歳)に「小通詞過人」となった。なお、年号に付した年齢は数え年を示す。

ここで述べる本木昌造のオランダ通詞としての記録は、『長崎県史』(史料編第四、吉川弘文館、昭和40年3月31日、p.831,832)に拠るが、この記録は安政4年(1857、34歳)までであるので、それ以降については別途示す。

安政2年(1855、32歳)になって、家業のオランダ通詞としての役に精を出し、ことに地方出張等で格別骨折り勤務したとして、父昌左衛門がオランダ通詞として勤務している間、御手当として毎年銀1貫目ずつ支給されることになった。また、安政4年(1857、34歳)には、勤務に精を出し商売関連の取扱いでも骨折ったことから、今後は「小通詞」として課せられる役掛りの加役を順に従い務めることになったが、オランダ人の江戸参府と献上物付添いについては除外された。

ところが、安政4年(1857、34歳)5月に許可なく蘭書・器物を売却したとして預かり(自宅謹慎)を申し渡され、閏5月になって揚屋(座敷牢)入りを申し付けられた。翌安政5年(1858、35歳)2月末に病気を理由に再び預かりの身となった。それから9ヶ月間は外出を禁止されて自宅で謹慎していたが、同年11月末になって許され、公務に復帰した。

その後は、慶應1年(1865、42歳)になっても小通詞過人であったが、慶應2年(1866、43歳)に奉行所直属の「支配定役格」に昇進し、オランダ通詞の役職を離れた。慶應4年(1868)6月、旧奉行所が新政府下で長崎裁判所となった陣容を示す『戊辰六月分限帳』では長崎裁判所「取締助役」の一人として本木昌蔵(ママ)の名前がある。

本木昌造がオランダ通詞として果たした主な事績(褒美・手当を受領)を列記すると、
・弘化1年(1844、22歳)、オランダ本国から使節コープスが渡来し、幕府に開国と通称条約の締結を勧告する国書を提出した。この時、入津より出帆まで「掛り切り勤務」し、格別出精した。
・弘化3年(1846、23歳)、イギリス船渡来に際して昼夜出精して勤め、続くイギリス船の渡来で「御役所詰め」を命じられて対応に当たった。
・嘉永4年(1851、28歳)、アメリカ船渡来の節、「御役所詰め」で翻訳物等に精を出して勤務した。
・嘉永6年(1853、30歳)、ロシア使節プチャーチンが軍艦パルラダ号に搭乗して長崎に来航し、7月18日から10月13日までと12月5日から翌年1月8日までの2度に亘って滞在した。その節、役掛りを仰せ付けられ、「滞船中の通弁」で骨折り勤務した。これにより幕府老中阿部伊勢守から御褒美として白銀三枚、御扶持方三人扶持を勤務日数に応じて支給され、さらに、「御隠密筋の御用」を勤めたことから別段銀拾枚を支給された。
・安政1年(1854、31歳)1月16日、アメリカ使節ペリーの伊豆下田来港により、江戸表からの急御用により急ぎ「江戸出張」を仰せ付けられた。同年3月3日に横浜村で日米和親条約12ヶ条(神奈川条約)が調印され、同年5月22日に伊豆下田で同附録12ヶ条(下田条約)が調印された。その間、「条約文和訳などの御用」を滞り無く勤めたことから、幕府老中阿部伊勢守から江戸城において御褒美として銀五枚を支給された。
・安政1年(1854)10月14日、ロシア使節プチャーチンが伊豆下田に来航した。その節、「江戸出張」を命じられ、江戸と下田を頻繁に往復し、同年12月21日に日露和親条約が締結された。その間、大地震による津波で大破したロシア艦ディアナ号を伊豆戸田村に回航の節、途中で沈没したディアナ号の代船ヘダ号を戸田村で建造するに際して、「戸田村出張」を命じられ、「通弁兼検分役」を勤めた。これにより、幕府老中阿部伊勢守から御褒美として白銀五枚を江戸で支給された。

・安政2年(1855、32歳)6月8日、オランダ海軍中佐ファビウスはヘデー号とスンビン号を率いて長崎に入港し、長崎海軍伝習所の開設準備が行われた。伊豆から長崎に戻った6月下旬からは、オランダ側との連絡掛を勤め、通詞団の一員として「交換文書の翻訳」に従事した。その他、「蒸気船乗方伝習掛」(6月29日)、「イギリス船掛」(7月19日)、「別段錫持渡商法掛助」(7月21日)、「別段御誂持渡代物取扱掛」(8月11日)を務めた。
・安政2年(1855)8月22日、長崎海軍伝習所が開所されるに当たって「伝習掛通弁官」の一人に任命された。同年9月には日蘭和親仮条約が調印された。

その後は、安政4年(1857、34歳)5月から預かり、入牢、預かりの身となり、オランダ通詞としての公的業務から遠ざかっていた。

・安政5年(1858、35歳)11月末に謹慎の身を解かれ、再びオランダ通詞として復帰し、オランダ側が活版印刷伝習の場として出島に開設した出島印刷所の「通詞兼目付役」に任命された。

しかし、万延1年(1860、38歳)10月に「製鉄所御用掛」に任命されて以降は、通詞としての役よりは「製鉄所御用掛」の方が主務となり、慶應2年(1866、44歳)には長崎奉行所「支配定役格」に昇進し、通詞役から外れることになった。

② 活版製造・印刷・出版の研究開発、事業化
活版印刷関係については、本シリーズの「本木昌造の活版事業」(2018年7月31日公開)で紹介したが、ここでは、その後に入手して基礎史料や新たな知見を加え、改めて纏めた。

活版研究の動機
本木昌造が活版印刷に興味をもって研究を始めた時期と動機について、本木昌造の伝記の中で最も古いものと見られる記録は、本木昌造の13回忌に当たり、多年函底に蔵されていた小冊子をもとに、明治20年(1887)11月に編纂したとする『本木先生行状記』(明治新聞雑誌文庫所蔵)がある。

それによると、活版印刷研究の契機は、弘化1年(1844、21歳)のことで、同年に来日したオランダ使節コープスがわが国に対して開国を勧告したことから、西欧で重視する科学技術に注目、中でも最も興味のある工業分野について、余暇を利用して広く洋書に目を通すようになった。そのうち、ふとしたことから、洋書の印刷が精巧で整然としていることに気付いて感銘し、これをわが国従来の木版印刷に代えて普及させることを決意した。活版印刷に関する西欧の参考書を探索し、出島のオランダ人に質問するなどして、その一端を知ることができたという。

通詞仲間との共同研究
そのうち、通詞仲間も参加するようになり、嘉永1年(1848、25歳)にオランダから輸入された蘭書植字判一式が見計らい品として長崎会所に保管されていることを知り、品川藤兵衛、楢林定一郎、本木昌造、北村元助の4人で借り受けるべき役所に申請した。嘉永2年(1849、26歳)1月14日に品川藤兵衛に貸渡されることになったが、品川藤兵衛と楢林定一郎が代金を支払い買取り、品川藤兵衛の屋敷に据え付けた。

流し込み活字のよる自著の印刷
「本木先生行状記」によると、「嘉永4、5年(1851、2年)の頃、流し込み活字を鋳造し、自著の蘭和通便書のような書を印刷して、これをオランダに送ったところ、オランダ人はこれを見て頗るその精巧さを賞讃したという。(中略) 鉛で活字を製することは、先生(本木昌造)が創造した流し込み活字を以て我が国の嚆矢とされる。」という趣旨が記述されている。これは、明治24年(1891)2月に刊行された『印刷雑誌』、創刊号でも同様の記述となっている。

ところが、それより早い明治22年(1889)5月に平野富二が本木小太郎の代理として作成した英国万国発明品博覧会の出品説明書には、「数年の間、潜心し経験した末、西洋印行術と上海の鉛字、我国の組版などとを比較、折衷し、ガラフハニー版を以て母型(電胎母型)を造り、手鋳込器械を以て鉛製活版を鋳造することを創始し、これを実際に使用したのは、嘉永5年(1852)の頃、蘭和対訳辞書を印刷し、これをオランダに送ったのを初めとする。」として、より具体的に記述されている。

しかし、前者では「本木昌造が創造した」とする流し込みによる鉛活字の製造法で、何を創造したかについては不明であり、後者では「ガラフハニー版による母型の製造」として具体的に述べていが、これを「上海の鉛字」と結びつけるのは時期的に無理がある。

長崎奉行による活字判摺立所の開設と取扱掛任命
安政2年(1855)8月、西役所内に海軍伝習所と併設する形で活字判摺立所が設けられ、本木昌造は品川藤兵衛と共に「活字判摺立方取扱掛」に任命された。この活字判摺立所は、諸藩主や蘭学者がオランダ書籍を競って買い求めるようになったことからオランダ通詞の勉学に支障をきたし、幕府の許可を得て、欧文活字と活版印刷機を備えた活字判摺立所を設置してオランダ書籍を覆刻することになった。

品川藤兵衛らが先に長崎会所から買い求めた印刷設備一式を奉行所が買上げ、さらに老中阿部伊勢守の指示により追加の印刷設備がオランダに発注された。安政3年(1856)6月にオランダ文法書『シンタクシス(Syntaxis)』が刊行され、長崎会所を通じて一般にも販売された。

オランダに追加注文した印刷設備は、安政4年(1857)6月3日にヤン・ダニエル号に積載されて長崎に到着した。その内容は、3箱に収納された書籍印刷用手引印刷機1台と見計らいとして5箱に収納された鉄製シリンダープレス1台と印刷用インキであった。シリンダープレスは手引印刷機の6倍の価格であったことから購入しなかったと見られる。

活字判摺立所は、安政4年(1857)12月に江戸町の五ヶ所宿老会所に移設され、同年9月に第二次オランダ教師団の一行として来日した看護長兼活版師インデルマウルが活字の植字術や印刷術を日本人に伝授した。しかし、このとき本木昌造はすでに入牢中の身となっていた。活字判摺立所は翌安政5年(1858)に廃止され、印刷設備は奉行所の倉庫に保管された。

自宅謹慎中の活字試作研究
安政5年(1858、35歳)2月末に病気を理由に入牢を解かれて、預かりの身として自宅謹慎となった。それから自由の身となるまでの9ヶ月間、自宅で鋳造活字の製造法などの実験を重ねた。活字の製造では、西欧に倣って水牛角や真鍮の端面に字を彫刻して鉛片に打ち込み、或いは、鋼鉄の端面に彫刻して銅片に打ち込むなどして活字母型を造るが、その方法では字画が単純な欧文やカタカナでは問題ないが、漢字や平仮名では点画や筆勢が充分に表現できない。また、活字の材料となる鉛とアンチモニーは不純物が多く、鋳込んだ活字の字面が平滑にならない。さらに、印刷に使用するインキも墨汁を種々工夫するが鉛活字による印刷には適応できないなど、苦労を重ねた。

このとき、出島でオランダ商館長と医師から近代科学技術の基礎教育を受ける際に洋書や参考資料として入手した化学・物理を応用した各種製法・技法の解説書があった。その中に電気メッキ法を応用した精密模造品の製造方法(電鋳法)の解説があり、これにヒントを得て欧米流の打ち込み式に代わる活字母型の製造実験を行ったと見られる。

出島活版所での通詞兼目付役
その後、安政5年(1858、35歳)11月末に預かりの身を解かれた。その間、オランダ側が出島に印刷所を開設し、活版師インデルマウルが日本人に活版術を伝習しながら、蘭書を出版するようになっていたことから、出島印刷所における「通詞兼目付役」に任命された。なお、同年7月には日蘭通商条約が締結され、それに伴いオランダ商館は廃止されてオランダ領事館となり、出島への一般人の出入りが自由になって出島印刷所は洋式活版印刷術の伝習所となっていた。

この出島印刷所はオランダ側が手配したもので、安政4年(1857)8月5日に第二次オランダ教師団の一員として来日した看護長兼活版師インデルマウルによる西欧式活版印刷術伝授のために出島内に設けられた。ここには、安政4年(1857)6月26日にオランダから出島宛てに74箱の活字類、7月7日にシリンダープレス1台と各種付属品や副資材、さらに、9月24日に47箱の活字類が到来した記録がある。安政6年(1859)4月に海軍伝習所が閉鎖されたのに伴い、出島印刷所も閉鎖された。

本木昌造は、自身の活字製造での疑問点や問題点について、暇を見てはインデルマウルに相談し、西欧における最新技術について説明を受け、アドバイスを得たと思われる。オランダでの活字サイズの標準体系、版組み方法、シリンダー・プレスの操作方法などの他に、欧米では電気メッキ法を応用した電鋳版が、有価証券の印刷や聖書のような同一版で大量に印刷する版の複製として実用化されていたことから、このことについても何らかの情報を得た可能性がある。

鋳造活字を用いた初めての書籍出版
安政6年(1859、36歳)12月、本木昌造は自分の名前を伏せて『和英商賈対話集 初編』を発行人 長崎下筑後町 塩田幸八として自費出版した。英文とその振り仮名のカタカナは活版、和文は木版による2度刷りの和装本であった。
続いて万延1年(1860.37歳)10月、『蕃語小引 数量篇』、上下巻を書肆 麹屋町 増永文治と江戸町 内田作五郎として出版した。英文、蘭文と和文の対訳で漢字を含めて全て鋳造活字で印刷されている。凡例末に「原語訳字共ニ活字ヲ用フ 今新ニ製スル所ニシテ未ダ精ニ至ラズ 覧者ノ寛恕ヲ希フ 万延庚申九月」とある。

万延2年(1861)には、ジョン・コムリーの翻刻本『EIKEU’S EDITION, COMLY’S READING BOOK adapted to the use of PUBLIC SCHOOLS』を出版しおり、海外との交流に必要な基礎英語を勉学するための教科書とした。

これらの書籍は、本木昌造の自宅または別途所有していた土地と建物に活版印刷設備を設置して、作業員を雇って印刷を行ったと見られる。

本木昌造の活字製造法
謹慎中に洋書からヒントを得て電鋳法を応用した活字製造法を編み出し、赦免後に出島印刷所で活版師インデルマウルからアドバイスを得たと見られる。万延1年(1860)になって不満足ながら実用できる漢字活字の製造法が完成したことを示している。

この活字製造法について、本木昌造は添削の跡のある草稿の形で残している。この草稿は「本木昌造活字判ノ記事」として、明治45年(1912)5月30日付けで點林同窓会惣代高見松太郎・堺賢治が長崎市長北川信従に宛てて「寄付願」として提出した「本木昌造家秘蔵古文書」の中の一冊である。現在、長崎歴史文化博物館に収蔵されている。その影印複写と読み下し文は片塩二朗氏によって『Vinette 04』(「活字をつくる」、朗文堂、2002年6月)に紹介されている。

本木昌造は清書した原稿を平野富二に預けていたと見られる。それは、出版されることなく東京築地活版製造所に保管されていたが、関東大震災で焼失してしまった。しかし、その内容は、牧治三郎によって「活版印刷伝来考=6」(『印刷界』、昭和41年8月、日本印刷株式会社)に紹介されている。誤記、脱字を除くと長崎の草稿と同一文であることが確認できるが、原稿28頁物の後半10頁半分は省略されている。説明図は共に欠落していた。

明治5年(1872、49歳)2月に長崎新塾から本木昌造が出版した『新塾餘談 初編三』に、前号の記事「ガルファニ鍍金銀の法」、「銅を以て器物を模する法」の続きとして「型の製法」が掲載されている。これを活字製造に応用すれば、木製の活字父型から銅製の活字母型(鋳造鋳型)を作ることが出来る。
本木昌造は、安政2年(1855)に出島で物理・化学などの教育を受ける中で、洋書中あるいは出島のオランダ人からの伝聞に基づき、日常生活に役立つ事柄を記録し、自ら実験して確認して、文久2年(1862)秋にその概要を原稿に纏め、慶應4年(1868)夏に江戸・京・大坂の三都の書肆から木版刷りの『秘事新書』を出版した。明治5年(1872)になって、その続編として『新塾餘談』シリーズを活版印刷により出版した。

本木昌造は、『秘事新書』の前言の中で、「爰(ここ)に示す其事件(そのことがら)は洋書中より訳するものにあらず、実地に予が製する処のものにして、其便利を広く知らしめんが為なり」と述べている。本木昌造は公務に多忙で、なかなか私事で纏まった時間が得られなかったが、自宅謹慎中の安政5年(1858)3月から11月の10ヶ月間は、公務を解かれて私事に費やす時間が十分あった。『秘事新書』や『新塾餘談』に紹介された内容は、このとき、自宅で実験した成果を纏めたものと見られる。その中には、電気メッキ応用による活字母型の製造も含まれていたことは、『蕃書小引』の活版印刷に用いられた和文鋳造活字によって知ることができる。

活版製造事業の後継者平野富二との出会い
その後、万延1年(1860、37 歳)10月に「飽ノ浦製鉄所御用掛」に任命されてからは、もっぱら製鉄所の用務に係り切りであったが、仕事の余暇に本木昌造の下で活版印刷の実用化を研究する若手グループが出来上がっていた。
文久1年(1861、38歳)4月、地役人の子弟の中から利発で将来性のある若者を製鉄所機関方見習として採用し、機械技術者として育成するための伝習が開始された。その中に矢次富次郎(後の平野富二)が居た。本木昌造は「製鉄所伝習掛兼務」に任命され、滞在していたオランダ人技師や海軍伝習所で学んだ地役人たちによる機械学を中心とした伝習が開始された。

活版事業の具体化
万延1年(1860)、門人松林源蔵を漢字活字鋳造法調査のため上海に派遣したが、印刷設備を見学するだけで、活字製造法の伝習は受けられなかった。時期的にみて、上海美華書館は寧波から上海に移転したばかりの多忙な時期に当たっていた。

文久1年4月22日(西暦1861年5月31日)、イギリス人A.W.ハンサード(1821~1866)が長崎大浦居留地から英字新聞『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』を創刊した。その際、長崎駐在イギリス領事G. S. モリソンを通じて長崎奉行に願書を提出している。それには、「イギリス人ハンサード氏が長崎で新聞発行を計画している。奉行が希望されるならば、この機会に奉行の推薦する2、3人の忠実な若者に印刷術を伝授したい。」としていた。
この話は長崎奉行から本木昌造に伝えられ、本木一門の者たちが閑を見ては参加した。その中には、小幡正蔵、陽其二、茂中貞次の名前があり、平野富二も参加したと見られる。ここでは、イギリス式の活字システムと新聞の版組みについて勉学したと見られる。
ハンサードは、新聞創刊から3ヶ月後に27号を終刊号として横浜に移転し、そこで『Japan Herald』を創刊した。

長崎新聞局とギャンブル伝習
慶應4年(1868、45歳)8月、長崎府付属の長崎新聞局から致遠閣発兌として『崎陽雑報』が発行された。この長崎新聞局の開設には長崎製鉄所の頭取に任命されたばかりの本木昌造が関与していたらしい。印刷設備は上海美華書館に発注し、活字製造設備は本木昌造が実用化に目途を付けた電鋳母型製造設備と手鋳込器によったと見られる。しかし、思うような品質の活字を必要なときに必要なだけ「迅速」に生産することに手間取り、当初から木活字との混用で印刷せざるを得なかった。そのため、『崎陽雑報』は翌明治2年(1869)夏ごろ発行中止となった。

この解決策として、同様の原理で活字母型を製造している上海の美華書館の館長W. ギャンブルが任期を終えて帰国するとの情報を得て、長崎に招いて「迅速活字製造法」の伝習を行うことになった。この時点で長崎新聞局は長崎製鉄所に所属替えとなっていた。
明治2年(1869、46歳)10月から明治3年2月末までギャンブルによる迅速活字製造法の伝習が行われ、本木昌造は「伝習世話役」として一門の者たちと共に参加した。

以上の事柄については、本ブログの「長崎新聞局とギャンブル伝習」(2018年5月公開)で述べてあるので、詳細は省略する。

活版所設立のための準備
明治2年(1869)4月、上海美華書館に活版印刷機と関連諸設備を4,000ドルの見積で購入。この印刷機は四六版八頁掛シリンダープレスであったと見られ、本木昌造は新聞の発行を目論んでいたらしい。

また、明治2年(1869)9月頃、薩摩藩活版所から手引印刷機1台と和洋活字1式を譲り受けた。この印刷設備は、五代友厚が堀孝之の編纂した英和辞典を印刷するため重野安繹と相談して、薩摩藩が上海美華書館から購入したが、印刷方法が分からず倉庫入りしていたものあった。

活版事業への進出
本木昌造は、ギャンブルの伝習が終わった直後の明治3年(1870、47歳)2月末日を以て長崎製鉄所を退職し、同年3月、支援者の出資を得て、新街私塾に付属させる形で新町活版所と新町活字製造所を設立した。ここで初めて製造したと見られる明朝風活字二号とその倍角の初号を用いて教科書『保建大記』と『単語篇 上』を出版した。

さらに、主要都市への活版印刷普及のために、五代友厚の要請と融資による大阪活版所の開設、東京の書肆仲間と共同で芝口に活版所の計画、大学(文部省)御用活版所の開設要請、京都の點林堂の開設、横浜毎日新聞刊行の協力など、各方面に手を広げた。

しかし、活版事業を本格化させたのは、平野富二に委託して活字の品質とコストが安定してからのことで、明治5年(1872)2月に『新塾餘談 初編一』を出版したのを初めとする。

明治5年(1872、49歳)3月から翌6年7月にかけて、各種教科書を活版印刷するための届け出を行っている。その中には、『日本外史小本』、『各国語学』、『西洋古史略』などがある。これらは、新町活版所で印刷し、新街私塾で教科書として使用された。

明治5年(1872)に松田源五郎、池原香稺、西道仙と新聞の発行を計画し、翌明治6年(1873)1月、新町私塾から『長崎新聞』を発行した。しかし、同年12月に廃刊となった。

新町活字製造所の経営改革と事業委託
本木昌造は新町活字製造所を、折から職を失った長崎地役人の救済の場として、能力や適性に関係なく雇用し、勤務も厳しくなく温情主義に徹していた。ギャンブルの伝習により上海美華書館の活字製造法を学んだものの、鋳込んだ活字の中で印刷に使用できる品質の活字は極くわずかで、不良品の山を築くばかりだった。そのため、準備した資金も底を着きはじめ、自身の健康不安もあって、東京、大阪、京都にまで広げた計画を中止または中断せざるを得ない事態となった。

丁度その頃、長崎製鉄所が工部省に移管されるに際して、明治4年(1871、48歳)3月に平野富二が長崎製鉄所を退職して在宅していることから、本木昌造は、平野富二を招いて新町活字製造所の現状を説明し、経営改革を依頼した。
紆余曲折を経て、平野富二が新町活字製造所の主任となって事業改革と経営受託を引き受けたのは、明治4年(1871)7月10日頃であった。

この時から本木昌造は、活字製造に関して一切の事を平野富二に任せて、自らは事業主の立場で相談に乗るにとどめた。

平野富二が、活版事業の経営を軌道に乗せて、本木家に一切を返却したのは、明治11年(1878)9月、本木昌造没後3年祭の時であった。出資者の合意を得て築地活版製造所の資産9万円を本木家に返還し、事業後継者として本木小太郎を所長に迎えた。

③ 蒸気船運航、鉄工・造船の企画、運営
蒸気船運航
安政2年(1855、32歳)6月に来日したオランダ海軍大尉ペルス・ライケンらが教師となって、長崎地役人と佐賀、福岡藩士を対象に蒸気船乗方等の予備伝習が行われることになり、本木昌造は蒸気船掛に任命され、掛り切りの勤務を命じられた。

文久3年(1863、40歳)2月、幕府は長崎でイギリス商人から中古蒸気輸送船2隻を購入し、長崎製鉄所に付属させた。通称「チャールズ号」は木造外車船で「長崎丸」と命名され、通称「ヴィクトリア号」は鉄甲外車船で「長崎丸一番」と命名された。本木昌造は、時折、船長として、機関方伝習を終えた平野富二らを乗組ませて、大坂、江戸を往復している。

鉄工・造船
嘉永7年(1854、31歳)2月、下筑後町の大工藤太郎は蒸気船雛形を完成させたが、蒸気仕掛けの試験までには至っていない。これは、出島のオランダ人外科医が所持していた蒸気船絵図を、本木昌造が少しづつ見覚え、大工藤太郎に造らせたものであるとの調査報告書がある。〔楠本寿一著「本木酒造と蒸気船の建造」、『長崎談叢』、平成4年1月〕

同年閏7月1日、本木昌造に従って伊豆戸田村に来ていた船大工塩田幸八は、土佐藩の江戸藩邸に蒸気船雛形を持参して、御馬場で山内容堂にご覧にいれた。その3日後には、本木昌造が前回よりは大形で仕掛けもやや精密な蒸気船雛形を持参してご覧にいれた。
その後、同月16日に蒸気船注文について相談し、24日には江戸築地の土佐藩蒸気船製造場を調査している。〔以上、土佐藩士寺田志斎の日記、楠本寿一著「本木酒造と蒸気船の建造」〕
土佐藩は、嘉永7年(1854)閏7月24日付で長さ6間の雛形(小型)蒸気船1艘の建造許可の申請書を幕府に提出している。同年8月23日に幕府の認可を得て、3ヶ月後の12月2日に竣工届が提出された。その後、艤装工事が行われたと見られるが、翌安政2年(1855)8月4日、土佐の浦戸に回航された。

日露和親条約交渉のためロシア使節プチャーチンがディアナ号に搭乗して伊豆下田に来航していた嘉永7年(1854)11月4日、大地震による津波でディアナ号が船体を破損した。修復のため伊豆戸田村に曳航中のディアナ号は天候急変で沈没した。そのため、乗員帰国用の代船を戸田村で建造することとなった。
本木昌造は、名目上、戸田村の領主小笠原家家来「通弁兼検分役」としてロシア人の設計・指導による洋式帆船の建造に立ち合った。改元された安政1年(1854)12月24日に洋式帆船の建造が開始され、安政2年(1855)3月10日に進水して「ヘダ号」と命名された。同月22日にプチャーチンは一部の乗員を残して帰国の途についた。
同年4月3日、本木昌造は病気を理由に同地に滞在していた楢原量一郎と交代を願い出て許された。長崎に帰還したのは安政2年(1854、32歳)6月20日であった。

安政3年(1856、33歳)8月、オランダ人坑師ヒュキュエニンが来日したことから、前年に引続き、化学・物理学・幾何学等と共に、坑業と製鉄についてオランダ通詞数名と共に「伝習御用」を命じられ、「兼帯諸事通弁掛」となった。なお、ヒュキュエニンは翌安政4年(1857)3月下旬に長崎を発ってオランダに帰国した。

安政3年(1856)、洋式小規模製鉄所を長崎郊外に設置するため、品川藤兵衛らと共に足しげく出島を訪問して商館医師ファン・デン・ブルックに相談し、関連図面を作製して貰っている。この工場は鋳鉄場と鍛造場を備え、さらに、簡単な機械工作場と小型溶鉱炉も設けていたらしい。その内容はフォス美弥子著「ファン=デン=ブルックの伝習」(『日本洋学史の研究 Ⅹ』、創元社、1991.1)に記録が紹介されている。当時は、飽ノ浦に建設される長崎製鉄所は計画中で、まだ、具体化されていなかった。

安政4年(1857、34歳)10月10日にオランダの支援により長崎製鉄所が飽ノ浦で起工され、諸設備の完成が近づいた万延1年(1860)10月、「飽ノ浦製鉄所御用掛」に任命された。文久1年(1861、38歳)3月25日になって長崎製鉄所の第一期工事(鉄工場としての主要設備)が完成し、それに伴い機関方候補者を養成のため「製鉄所伝習掛兼務」となった。

元治1年(1864、41歳)9月、ヴィクトリア号(船長本木昌造、機関手平野富二)で下関、大坂、江戸に航海し、帰途、11月24日に暴風雨で八丈島に漂着し、冬季を島で過ごした。翌慶應1年(1865、42歳)4月18日に八丈島を発って江戸に戻り、公務を終えて長崎に帰着したのは、同年9月11日だった。
なお、八丈島滞在中に島の産業を調査し、「八丈島御開港其外見込之儀ニ付申上候書付」を江戸で纏め、冬季でも入港できる港を開き、八丈島の絹織物などを長崎会所で扱うことにより、八丈島の貧困を救い、長崎の衰退から脱却する一助になるとしている。

この江戸滞在中、折からオランダ公使から幕府外国奉行に送達された長崎製鉄所の改善に就いての要請に対して意見を求められた本木昌造は、慶應1年(1865)8月、「製鉄所の儀御尋に付申上候書付」を幕府に提出した。
長崎に戻ってから、長崎奉行所「支配定役格」に任命され、専ら長崎製鉄所の経営問題に関与し、慶應3年(1867)10月までの間に意見書を次々と長崎奉行に上申している。その中で立神軍艦打建所の建設中止後の経営改善策としてドックの建設を提案し、概算見積を提出している。また、大雨で流失した浜町大橋(板橋)を鉄製橋として架け替えることを提言して採用された。慶應4年(1868)1月に長崎奉行河津伊豆守佑邦が長崎を退去するとき、「製鉄所の儀は支配定役格本木昌造へ申し付け置き候」として、後事を託した。

慶應4年(1868、45歳)4月、長崎府の「取締助役」に任命され。同年7月24日、「長崎製鉄所頭取」に任命された。その後は長崎製鉄所の経営改善に努め、中島川の鉄製橋「くろがね橋」の架設、浚渫機製造、小菅修船場の買収建言、大阪「高麗橋」の鉄製橋架設建言、飽ノ浦製鉄所内に蒸気式精米場を設けて精米事業に進出、伊王島灯明台の建設、立神ドックの建設推進を行った。なお、「くろがね橋」と「高麗橋」はわが国で2番目と3番目の鉄製橋で、1番目は横浜の「吉田橋」である。

明治2年(1869、46歳)8月に病気を理由に頭取辞任を申し出たが認められず、同年9月になって製鉄所頭取辞任が認められ、代わりに「機械伝習方教頭」に任命された。しかし、その後に行われたギャンブルによる迅速活字製造法の伝習を最後に、明治3年(1870、47歳)2月末日に長崎製鉄所を去った。

④ 科学技術の啓蒙・普及
安政2年(1855、32歳)10月、本木昌造を含むオランダ通詞5名と町医師吉雄圭斎がオランダ商館長と外科医師から化学・物理・測量・算術・炭坑業・鉄製造、その他必要とする分野として西欧科学技術の基礎を勉学するよう命じられた 翌安政3年(1856)8月にも坑業を中心とした同様の勉学を命じられた。

入牢後の自宅謹慎のとき、西欧の科学技術の基礎を学ぶ中で、その応用として日常生活で有用な物品の製法や処理法について解説したオランダ書を入手し、出島のオランダ人から学んだ事柄を加えて書き溜めた内容を纏め、実用書として出版した。

慶應4年(1868、45歳)夏、『秘事新書』を東京の須原屋と大阪の秋田屋を板元として整版(木版)で出版した。これは、文久2年(1862、39歳)に執筆して保管してあった原稿であることは、冒頭の凡例に記された日付で知ることが出来る。

明治5年(1872、49歳)2月、新町活版所から『新塾餘談』シリーズが刊行された。これは、平野富二による新町活字製造所の改革の成果として初めて活版印刷により出版されたもので、先に出版した『秘事新書』の続編に相当する。塾生の余暇に読ませるものとしているが、長崎、東京、大阪の新塾出張活版所を売弘所として、広く一般にも販売した。

⑤ 教育、私塾経営による育英事業
私塾経営についての関心
本木昌造は、安政2年(1855、32歳)に長崎海軍伝習所が開設されて、その伝習掛通弁官に任命され、同時に出島で最新の数学・物理・化学等の基礎教育を受けた。これらの経験から青少年を対象とした学塾の経営に関心があった。
このことは、長与専斎の自伝『松香私志』にも記されている。長与専斎は、安政5年(1858)に自宅謹慎中の本木昌造をしばしば訪ねて語らっている。

後日談として、長与専斎は、本木家の所有する外浦町の貸家を借り受けて住居とし、郷里(大村)の門下生が来て家事一切を行いながら、10名ばかりの諸生を集めて毎夜、適塾風の輪講を始めた。これは文久1年(1861)のことで、これが開業の初めであったとしている。

私塾の開設と経営
本木昌造が私塾を開設したのは慶應4年(1868、45歳)前後と見られ、「新塾変則入門願綴込」(渡辺庫輔著『崎陽論攷』)によると、最初の入門願書は慶應4年正月11日となっている。当時、本木昌造は長崎製鉄所の頭取として多忙であったことから、塾長は陽其二とし、自らは副塾長となっていたと伝えられている。

慶應4年(1868)8月になって、新町の元長州藩蔵屋敷の跡に建てられた語学所「広運館」が西役所跡に移転したことから、建物ごと買い取って「新町塾」と称した。明治2年(1869、46歳)11月15日になって、規則を定め、名称を「新町私塾」(略称「新塾」)として正式に発足した。学科は初等、1等から4等に分けて手習い、素読、算術などの基礎教育が行われ、長崎居住の子弟に対しては入学金などの支払いを不要とした。その費用は、明治3年(1870)3が月に新町活版所と新町活字製造所を協力者の出資により設立して、その収益により賄うこととした。

私塾の公認申請
明治5年(1872)8月になって学制が公布されたことから、小学校下等4年間の就学が義務化された。本木昌造は、明治6年(1873、50歳)1月、法令に基づき私塾開業願書を長崎県令に提出した。しかし、長崎県令は、同年3月に長崎県小学校創立告諭を発したことから、これを優先して私塾開業を認めなかった。本木昌造は、同年11月、翌年1月にも新学制に従って開業願を提出したが、認可を得られないまま新町私塾の経営を続けていた。

その後、数度に亘って出願を重ねたが、長崎県令の認可が得られないことから、築地活版製造所の視察を兼ねて、東京に於ける私塾経営の実態を調査し、文部省に働きかけた。その結果、明治7年(1874、51歳)11月に文部省から「私学の如きは学科・教則など充分備わらざるも、現に本木昌造私学諸規則の如き大なる弊害なきものは、本人の願意に任せ許可致す儀と相心得べき事」として長崎県令に対して通達され、開業が認可されることになった。

本木昌造は、明治4年(1871、48歳)7月に新町活字製造所の経営を平野富二に一任してからは、新町活版所での教科書出版と新町私塾の公的認可問題に専念していたことが覗える。

本木昌造の晩年
晩年は、専ら新街私塾と新町活版所の経営に当り、その傍ら長崎の名士となっていた友人たち、品川藤十郎、吉雄圭斎、池原香稺、和田半、西道仙、松田源五郎(以上、年令順)らと交流を深めた。また、趣味の面では短歌の会の主要メンバーであった。

明治7年(1874 51歳)5月、平野富二によって東京築地に新築された新塾出張活版製造所(通称、築地活版)の整備が完成し、その視察のために上京した。このついでに、東京に於ける私塾の実態を調査し、帰途、浅草の内田九一写真館で記念写真を撮影している。

翌明治8年(1875、52歳)春、再度上京して、五代友厚に対する債務返済について平野富二と相談した。その結果、大阪活版所の設立の際に融資を受けた5,000円のうち、取り敢えず1,500円に利子を加えて平野富二に出してもらい、さらに、養老金として毎月200円の仕送りを受けることになった。
長崎への帰途、大阪に立ち寄って五代友厚に1,500円と利子分を返済し、残りは月賦払いで返済することとした。その後、大阪、京都で門人たちと交流したが、5月に京都で体調を崩したが、小康を得て長崎に戻った。

同年8月中旬になって容体が悪化し、友人や門人たちが駆け付けて看病にあたったが、9月3日、長崎の自宅で病没した。同月16日に葬儀が行われ、長崎大光寺の本木家墓所に埋葬された。戒名は故林堂釈永久梧窓善士。

ま と め
幕末から明治初期にかけて52年間を生き抜いた本木昌造は、家職のオランダ通詞としてその人生をスタートさせた。長崎出島のオランダ人と接する中で、西欧文明、特に科学技術に関心を抱くようになり、わが国の近代化に役立てようと決心したと見られる。

当時のオランダ通詞を含めた長崎奉行所に出仕する長崎地役人は、与えられた役職の中で仕事に忠実に専念する者が多かったが、本木昌造は異なっていた。その関心領域は広く、それを追求する精神を持っていた。そのため、本木昌造と接した欧米人の評価は高かった。

そのようなことから、しばしば奉行特命の「隠密役」に指名されて通詞の役とは別の仕事を命じられた。また、開国に伴い通詞の役割を超えた新しい業務を与えられることも多く、オランダ通詞としては小通詞過人に留まり、通詞に課せられた数多くの付帯的な仕事からは解放されていた。

わが国が永い鎖国時代を経て欧米に門戸を開く時代に遭遇した本木昌造は、オランダ通詞としての活躍は目覚ましく、長崎奉行に限らず幕府老中阿部伊勢守からも数々の褒美を受けている。また、養父本木昌左衛門がオランダ通詞在任中であったので無給扱いとなっていたが、特別に手当てを支給されていた。

長崎にオランダの支援により海軍伝習所が開かれ、それに伴い蒸気軍艦の修理・建造のために長崎製鉄所が建設され、オランダ書籍の覆刻とそのための活版印刷伝習も行われた。主なオランダ通詞たちは伝習掛に任命され、また、その役目を果たすために、西欧の基礎学問として数学、物理、化学、その応用として測量、坑業、製鉄などについて出島の医師で科学技術に造詣の深いファン・デン・ブルックから学ぶ機会が与えられた。
これを契機に、本木昌造はさらに活版印刷の研究を進め、また、鉄工・造船と船舶運輸、科学技術の普及、育英事業の分野に深い関心を抱くようになったと見られる。いずれも、わが国が文明開化を果たすために必須なものであった。

結果として本木昌造は、わが国活版印刷術の創始者として印刷業界から仰がれ、わが国最初の近代的鉄工・造船所の経営者として位置付けられている。科学技術の普及に関しては実用書シリーズの刊行により一般人ばかりでなく製造業の人たちもこれを参考としていた。育英事業では多くの人材を輩出し、點林同窓会として交流を深めていた。

本木昌造は、小説ではあるが、「逃げる男」とか、「ふうけもん」と呼ばれている。
「逃げる男」として、オランダ通詞からの逃亡、製鉄所からの逃亡、活版製造からの逃亡などが挙げられている。一見すると自分に与えられた役割を全うせず、いずれも途中で仕事を放り投げてしまったと見られるかも知れない。「ふうけもん」は長崎の方言で、この小説では「普通の人では抱かない事柄に執着して、もう少し気の利いた人生を送ればよいのにと見られている人」のことを言うらしい。

幕末から明治にかけて本木昌造の生きた時代は、欧米の圧倒的な軍事力と進んだ文明を導入する窓口は長崎であり、その直接の受け皿はオランダ通詞たちであった。その中から有能な者たちは抜擢されて新しい業務を与えられ、或は、先覚者として、また、有志者として得率して国のため、人のために尽くし、それを生き甲斐と感じていた人が多かった。

そのような中で、人としての能力や適性、経験の差から一個人としての限界もあることから、後継者として平野富二を育て上げ、結果的に長崎製鉄所の経営を引き継ぎ、活版製造事業を一任することによって、それなりの成果を挙げることが出来た。

本木昌造が死去して146回目の祥月にあたり、平野富二が師と仰ぐ本木昌造の生涯を出来るだけ原典に拠り、最新の知見に基づいて纏めて見た。なお、私生活の面でいろいろと語られている事柄もあるが、どこまでが真実であるか不明な面も多いのであえて記述していない。

2020年9月24日 公開

 

 

 

 

 

 

 

 

 

活版印刷の地方への普及〔後編〕:明治7年以降の納入事例

まえがき
前回の「活版印刷の地方への普及〔中編〕」では、明治6年(1873)に各府県が発行した布達類と新聞について、平野富二の活字・活版印刷機納入を通じて鉛活字による活版印刷が全国に普及して行く状況を示した。

当初は県庁に活字・活版印刷機を設備して御用業者に印刷業務を請け負わせる府県が多かった。平野富二の鉛活字を採用する前から既に木活字を用いて手摺りで印刷を行っていた府県もあり、木活字を鉛活字に切り替えると共に活版印刷機を導入する府県もかなり見られた。

明治6年(1873)10月になって、正院印書局が布告・布達類を活版印刷して各府県毎に一定部数を定めて頒布するようになると、各府県は布告・布達類を新聞に掲載して広報誌として利用するようになった。さらに、民間の御用業者に県庁の活版設備を払い下げるなどして新聞を発行させるようになった。

本稿〔後編〕では、明治7年(1874)以降の地方における活版印刷の採用について、各種資料に記録された平野富二の活字・活版印刷機納入事例を通じて纏めてみた。

明治7年(1874)には秋田県聚珍社の『遐邇新聞』発行について、明治8年(1875)には佐賀県の県庁活版局への活版設備納入と名東県(後の徳島県)普通社の『普通新聞』発行について、明治9年(1876)には大阪府御布令上木所の活版化と兵庫県淡路洲本の『淡路新聞』発行について、1年置いた明治11年(1878)には北海道函館北溟社の『函館新聞』発行について、以下に順次紹介する。

各府県における布告類・新聞の活版印刷動向
(1)明治7年2月、秋田県の聚珍社
『遐邇(かじ)新聞』は、明治7年(1874)年2月2日、秋田の聚珍社(秋田県下茶町菊の町)から発行された。これは秋田県各新聞の先駆たる新聞の濫觴で、全国新聞中でも古いものに属するとされている。
聚珍社の基本的性格は県庁からの公文書の印刷であるが、その運営は全面的に県の資金援助に依存するものではなく、広告収入や文芸誌の発行により独立性を保っていた。
明治11年(1878)になって『秋田遐邇新聞』と改題し、秋田の自由民権運動に大きな役割を果たしたとされている。

第1号は、和紙9枚を半折りし、紙縒(こよ)り綴じした冊子で、本文は三号の初期清朝風漢字活字を使用している。明治8年(1875)上半期までは毎月1回発行され、下半期は月8回となった。

当時、東京築地活版製造所で販売していた漢字活字は書風の異なる3種の漢字を揃えていたが、呼称を表示することなく印字見本で示していた。当時の活字の版下は池原香稺の筆になるもので、池原香稺と本木昌造の間ではそれぞれを明朝風、清朝風、和風と呼んでいたらしい。ただし、明朝風と呼ぶ漢字活字は上海美華書館の活字を複製したものと見られている。

明朝風は現在用いられている明朝体と基本的に同じであるが、
清朝風は字画の太さに変化の少ない細めの書風の楷書体で、和風は御家流の流れを汲む書風の行書体である。清朝風は、後年、書家の小室樵山の筆になる版下を用いたことから、池原香稺によるものを初期清朝風とした。

これらの活字は、「活字目録」(図32‐2)や明治9年発行の『活版様式』に掲載されている。

表紙となる第1面には、明治七年二月二日、官許(押印)、遐邇新聞 第一號、聚珍社発兌(押印)とある。続いて半折りの裏面に、「今般官許を蒙(こうむ)り、上は県庁の布達幷(ならび)に審理公判、下は県下の諸新報を編集し、加うるに現今発行の各種新聞紙中最も切要にして世益となるべき者を抜粋し、且、東北地方の事績、諸新誌の載せざる所を録し、人民をして遠近の事情に達し、内外の形勢を知らしめ、以って知識開広勧懲裨補の一助となさんと欲す。因(よ)って冀(こいねが)ふ。諸君子記載すべき事あらば速に報告を賜へ」として掲載内容と発行目的、投稿依頼を記している。

図32‐1 『遐邇新聞』、第一号の奥付
<日本新聞博物館所蔵>

最終ページにある奥付には
本局:秋田縣下茶町菊ノ町 聚珍社
同局:東京小傳馬町三町目 吉岡重次郎
賣弘所:秋田縣下上肴町 小谷部甚左衛門
編輯者:鳥山棄三、印務者:管又謙次
と記してある。
漢字はすべて明朝体を採用している。
新聞名の「遐邇」は「遠近」、
社名の「聚珍」は「珍しい事柄を集める」
を意味する。

『遐邇新聞』の創刊に先立ち、明治6年(1873)8月、平野富二は聚珍社の関係者からの依頼に応じて社員鳥山棄三を編集兼印刷人として秋田に出立させている。

秋田県では、明治6年(1873)9月に秋田県権参事加藤祖一の名前で管内布達「活版新聞局設置に付き告諭」が出され、その中に「県下に活板新聞局を設け、‥‥その開業を許可」と記されている。次いで、同年10月5日に柴村藤次郎と吉岡十次郎代理吉岡十五郎から秋田県に届書が提出されている。その届書には、「本年4月中、願い済みとなっている『羽後新聞』は、今般、『遐邇新聞』と題号を改めて発行したいのでお届け申し上げ奉る」としている。秋田県はこれを受けて文部省に新聞題号更正を届け出た。

宇田川文海(鳥山棄三の筆名)述『喜寿記念』によると、
「或る日のこと、平野さんから『ちょいと来てくれ』という沙汰があったので、何の用かと思って、すぐに行って見ると、平野さんは例のニコニコ笑いながら、『今度、秋田県の活版印刷御用を引受けて出張する人があるが、県庁では、印刷の御用を命ずる代わりに、その副業として新聞を発行することになっている。ところが、経費の都合で新聞の主筆と、活版部の職工長と2人を雇うことは経費上むずかしいから、1人でこの二役を兼ねる者が欲しいので、是非世話をしてくれという難しい相談があった。そこで私もいろいろと考えて見たが、私の知る限りでは、差し当たりお前より外に適任者がないから、是非、二役を兼ねて行って貰いたい。お前さへ承知なら、兄の茂中貞次君には宜しく頼むことにする』と、意外千万な相談があった。そこで、『印刷の職工長は、曲りなりにも勤まりましょうが、これまで纏まった文章を書いた事がありませんから、新聞の主筆などはとても出来ません』と固く辞退したが、普段から部下の言動より鳥山棄三に文才があることを見抜いていた平野富二に説得されて秋田行きを決意した。」

鳥山棄三は東京を発って秋田に到着するまでの個人記録として『秋田行日記』を残している。その前文に、「明治六年八月四日、秋田県へ、新聞局を開き、活字版を広めん事を依頼され、本日出発す。相伴う人は、吉岡十五郎君、柴村藤次郎君、外壱人、僕と合せて四人、家兄吉太郎、真平、千住駅まで送り来る。」と記されている。

ここに出てくる柴村藤次郎は、当時、秋田県に寄留していた東京府下橘町三丁目の活版取扱人と記録されており、平野富二に活版設備一式を注文すると共に、活版印刷指導と新聞編輯を兼ねた人材の派遣を要請した当人と見られる。

その後、鳥山棄三が秋田を去るに至った経緯について、再び『喜寿記念』から引用すると、
「私は秋田の活版所へ、2年間の約束で行って、明治6年の秋から8年の秋まで、首尾よく勤めたので、是非今一年働いてくれと依頼されたが、この時、兄の茂中貞次が兵庫県の活版印刷の御用を勤め、傍ら『神戸港新聞』を発行していたので、是非帰って援けろと、再三やかましく言ってくるので、兄弟の誼(よしみ)として辞するに由なく、約束通り秋田の活版所を辞して、その年の秋の末に神戸に行き、『神戸港新聞』の記者と成った。」

(2)明治8年、佐賀県の県庁活版所
佐賀県では明治6年(1873)2月から楷書と片仮名、および、楷書と平仮名の活字で印刷された布告・布達類を発行しているが、これに用いられた活字はいずれも木活字と見られる。

明治7年(1874)10月15日になって、佐賀藩医だった川崎道民が佐賀県令北嶋秀朝に活版所の設立を願い出ている。その願書には『新聞雑誌』に掲載された「崎陽新塾製造活字目録」が添付されていて、その中にある三号和様活字を至急購入したいと述べている。
このことは鈴木広光著『日本語活字印刷史』に述べられており、その関連文書は佐賀県立図書館に「活版書類」一冊(第一課編)として所蔵されているとのことである。

図32‐2 『新聞雑誌』の広告
<『新聞雑誌』、第66号附録より>

この「崎陽新塾製造活字目録」が掲載された時期は
明治5年(1872)10月下旬と見られる。
この中の三号活字には書体の異なる3種がある。
川崎道民は右から3番目の和様活字を指定した。
和様漢字は広く手習いで教えられる標準書体で、
当時の人たちにとって
最もなじみ深い行書体の書風である。

川崎道民の出状から20日程遅れて、長崎活版社中の松野直之助が佐賀県令北島秀朝に宛てて出状している。その明治7年(1874)11月4日付の願書については、本稿〔中編〕の福岡県の項でその前半部分に記された内容を紹介した。ここでは、後半部分に記された佐賀県令に対する願いの内容を現代文に直して紹介する。

「(前文省略) このたび御県にお伺いしたところ、活版所を出店した場合に布告類1枚を幾らで印刷できるか見積もるよう仰せ付けられました。そこで、布告類の部数をお伺いしたところ450部ずつ必要とのことでした。
計算の結果、1か月の布告類を平均100枚と見込むと総数は45,000枚、1枚2厘とすると90円となります。この内、紙代約35円を差し引くと、残りは60(55の誤り)円になりますが、これでは職人の給金やその他諸雑費など、出店するとなると存外増大するので、収支が合わないと存じます。
したがって、このことを勘案され、活字・機械等をお買い上げ頂けないでしょうか。代金の支払いについては一部前払い金を頂ければ、ご指示通りどのようにでも致します。
ことに御県ではこれまで布告類の印刷に従事した人もおられるとのことですので、ついでに活字・機械等のお買い上げをご下命されますようお願い申し上げます。」

川崎道民と松野直之助の願書は、たまたま、期を合わせたように相次いで佐賀県庁に提出されたことが分かる。

当時の佐賀県は、廃藩置県当初の佐賀県(第1次)と厳原県が合併して伊万里県となり、旧佐賀藩の諫早等が長崎県に分離編入された後の明治5年(1872)5月に伊万里県が佐賀県(第2次)と改称したものである。

佐賀県では、二人の願書を受けて木活字から崎陽新塾製の鉛活字に切り替えを行い、明治8年(1875)になって布告類の活版印刷化が実現することになった。
しかし、明治9年(1876)4月に三潴(みずま)県に併合され、さらに、同年8月に長崎県に併合された。現在の佐賀県(第3次)となったのは明治16年(1883)7月に長崎県から分離独立したときからである。

(3)明治8年9月、名東県で『普通新聞』発行
明治4年(1871)7月14日に行われた廃藩置県の結果、徳島藩は徳島県となったが、同年11月15日に淡路島全郡を含めて名東県となり、明治6年(1873)2月20日に香川県を併合したが、明治8年(1875)9月6日に香川県を分離して元に戻した。現在の徳島県となるのは明治13年(1880)3月2日である。

名東県は、明治6年(1873)7月10日、県の布達を初めて木活字による活版印刷で発行し、管内に配布した。
これに関連して、明治7年(1874)1月の徳島県布達に「昨年(明治6年)7月より12月まで、諸布達を活版印刷して配布したが、その間の印刷物は85,141部、費用は768円48銭2786」とあり、さらに、同年6月の徳島県庶務課からの布達に「昨年(明治6年)、活版機を1,470円で県が買い上げた。その代金と印刷費は管内各区が負担し、当年から5ヶ年10回払いする。」旨が記されている。

これに先立つ明治6年(1873)3月、名東県下の謳歌社から『徳島新聞』が創刊されている。この新聞は半紙二つ折りの冊子で、1段17字詰めの罫線書きで、木版により印刷されている。
第3号は同年4月に発行されたが、第4号は1年余り後の明治7年(1874)5月21日に体裁を一新して発行された。それは、洋紙1枚の表裏刷りで、3段組み、12ポイントよりも大きい木活字(四号相当)による活版印刷であった。編集者は国方日渉園(元徳島藩士で国学者)、発行所本局は通町二丁目の謳歌社となっている。

このように、名東県布達が木活字による活版印刷となった時期と『徳島新聞』が1年余りの休刊の後に体裁を変えて木活字による活版印刷で再刊された時期が一致する。このことは、謳歌社が名東県の印刷御用となり、県庁所有の木活字と活版印刷機を使用して諸布達を印刷納入すると共に、『徳島新聞』の印刷にも使用したと推測される。

明治6年(1873)に名東県が購入した印刷機は、金額が1,470円もすることから、これは活版印刷に必要な機器・資材一式と見られるが、当時、平野富二が販売する長崎製半紙二枚摺プレスは1台170円と比較すると余りにも高すぎる。したがって、これらの機器・資材は神戸の外国商社から購入した舶来品と見られる。

その前年5月に神戸では『神戸港新聞』が鉛活字による活版印刷で発行されており、名東県に属していた淡路島出身の三木善八がその経営に関わっていた。また、同年10月には、平野富二による活字や摺器械などの広告が『新聞雑誌』に掲載されている。
それにも拘らず、名東県が鉛活字ではなく木活字を使用し、高価な印刷設備を購入した理由は判らない。木活字は何度も印刷を重ねるうちに、次第に字影が判然としなくなるなどの問題がある。

『徳島新聞』は、明治8年(1875)8月に第21号で廃刊したらしい。その号には政府の「新聞纔謗律」と「新聞紙条例」の全文を掲載しており、廃刊の理由を暗示している。

それに代えたかのように、同年9月21日、『普通新聞』が普通社(徳島裏ノ町)から創刊された。『普通新聞』の創刊号はタブロイド判二つ折り、4ページ物で、3段組により鉛活字で活版印刷されている。主宰の益田永武は徳島藩中老の家に生まれ、初期民権運動家の一人で、廃藩置県後に県会議員を永く務めた人である。

『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)によると、「明治9年、四国に普及社(普通社の誤り)と云うのが出来て、美濃判二枚刷のハンド2台と活字、その他付属品一切を送付した。」とある。このことから、活字・活版印刷機など一式を平野富二が納入したことが判る。

図32‐3 普通社に納入したと見られるハンドプレス
<東京築地活版製造所『活字見本帳』、明治12年刊>

平野富二が国産化した半紙一枚刷の小型プレス
に続いて国産化した大型プレスが
ここに示す美濃判二枚刷ハンドである。
明治10年開催の第一回内国勧業博覧会に
この図版は野村長三郎名で出品された印刷機と同一で
すでに明治9年に販売されていたと見られる。

明治21年(1888)になって『普通新聞』は『徳島日日新聞』と改題し、明治31年(1898)に社屋の火災で休刊し、その後、蜂須賀家の援助を得て再刊した。明治37年(1904)5月に『徳島新報』と合併して『徳島日日新報』となった。

このように、県庁による布達類の活版印刷は明治6年(1873)7月から木活字を用いて発行されたが、鉛活字による活版印刷となったのは、平野富二が活字と活版印刷機を納入したのは明治9年(1976)であったと見られる。

(4)明治9年2月、大阪府の御布令上木所で活版採用
大阪府については本稿の〔前編〕で紹介したが、そこでは触れなかった布令発行について、『本邦活版開拓者の苦心』の雑録として次のように記されている。

「大阪で布令を発行することに決定したのは、明治4年(1871)の秋からである。その頃、布袋町の住人瀬戸安世氏は、再三、当局者へ布達の貫徹を計るために上木聴許の願いを提出したが、明治4年(1871)7月24日にようやく許可の達しに接したのであった。そこで直ちに自宅に「大阪府御布令上木所」の看板を掲げて布令の印刷を開始した。
その当時は印刷と云っても要するに木版の手摺りに過ぎなかった。その工程は、まず布令の原稿を総区長から受け取ると、直ちに版下書工に浄写させて、即時、彫刻に廻し、再び校合して一枚ずつ手摺りにかける。そして出来上がったものを和綴じにして、翌朝、総区長ならびに諸官衛に納本すると云う順序で、全く徹夜の作業であった。
明治9年(1876)2月には、大阪活版所から活字を購入し、御布令書を手引印刷機によって活字で印刷することにしたから、印刷能率は非常に上がったが、さて、当時の活字はわずかに2、3種で、しかも字数がすくなかったから、活字同型の木版を彫刻させて補植しつつ印刷したそうである。」

本木昌造が五代友厚の要請を受けて大阪に長崎新塾出張活版所を設けたのは、明治3年(1870)3、4月頃のことであるが、その設立に当たって、あらかじめ大阪府の御用活版所となることを約束されていた。
明治4年(1871)7月14日に発令された廃藩置県の実施に際して、政府の関係印刷物を一手に引き受けた実績はあるものの、五代友厚から依頼された『和訳英辞林』刊行のための活字製造に忙殺されて、大阪府御用活版所としての役割を果たすことができなかった。

〔前編〕で紹介したように、明治4年(1871)10月28日に刊行した『大阪府日誌』は木版刷りで、しかも支配人吉田宗三郎の名義となっている。

(5)明治9年5月、淡路洲本の淡路新聞社
淡路島洲本の先覚者安部喜平は、明治9年(1876)に自宅に活版所を設立した。この年の8月21日には名東県が廃されて淡路島全島が兵庫県に編入されている。

安倍喜平は、慶應2年(1866)2月、人材養成のための家塾「積小軒」を創設している。そこで学んだ精鋭たちの中に、後に報知新聞社主となる三木善八が居る。三木善八は兵庫県令神田孝平の招きを受けて神戸で『神戸港新聞』を発行したが、その後、安倍喜平の招きで郷里の淡路島に戻り、淡路新聞社の社員となって『淡路新聞』発行に協力している。
このことから、安倍喜平は、活版所開設に当たって、三木善八に相談して、茂中貞次を通じて平野富二から活字と活版設備の購入が行われたと見られる。

『洲本市史』など地元の資料によると、安部喜平は、本木昌造が苦心の末に活字の製法を発明して東京に活版製造所を創設したことを知り、洲本の曲田成を東京の活版製造所に派遣して研究させ、明治9年(1876)5月、曲田成は活字と印刷機を購入して洲本に帰ったとしている。

しかし、この内容は東京築地活版製造所から発行された『曲田成君略伝』の記述と相違する。
淡路島洲本出身の曲田成は、士族という身分だけで官から禄を支給され、安穏に生活していることに疑問を持ち、明治6年(1873)2月、独立して自立の道を求める決意をして単身で上京し、偶然、平野富二の面識を得て活版製造所に入所したとされており、安倍喜平の指示で上京したとの記録はない。

活字と活版設備一式は、曲田成によって淡路島の安倍喜平に届けられた。曲田成は、このとき、家禄奉還の願書を徳島にある名東県の県庁に提出し、受理されている。

明治10年(1877)3月8日に安倍喜平は『淡路新聞』を創刊した。タブロイド判二つ折り(縦196mm、横134mm)で、当初は月2回、第5号から月4回の発行となった。この年の2月15日には西郷隆盛による西南戦争が勃発している。

図32‐4 『淡路新聞』第1号の奥付
<国立国会図書館所蔵>

第1号の表紙は
「東京築地活版製造所社長列伝」ブログの
「第3代社長曲田成」で紹介した。
ここではその表紙と最終ページの奥付を示す。

当時の地方新聞は県庁の御用新聞として県庁所在地で発行されたものが多いが、『淡路新聞』は県庁所在地から遠くはなれた地方の中堅都市において一個人によって発刊された。
『淡路新聞』発行の趣旨が創刊号の緒言に述べられているので、その概要を紹介する。

「わが淡路国の地勢は南海の一孤島で、西は鳴門海峡が険しく、北は岩屋の海潮が急で、東面は大阪と神戸港の盛地が視野にはいるが、電信・汽船の便がない。
そのため日時を競う新説や奇聞は他所に後れを取っている。東京や各地の新聞紙があるので全国の景況などを知ることができるが、全て郵便・電信の届く土地に限られる。僻地の住人は新聞の効能を知らず、その体裁がどの様なものであるかを知らない人が少なくない。
その上、掲載する社説や弁論は中等以上の者でなければ、これを読んで面白いと感じることができないのは嘆かわしい。このようなことから、当地において読み易い新聞を発行しなければならない。これが弊社の新聞発行の所以である。」

名東県が廃止されて淡路島全島は兵庫県に属したが、以前の徳島県は復活されることなく併合されて土佐県となり、明治13年(1880)3月2日に高知県と徳島県に分割されるまで続いた。

土佐は自由民権運動の発祥地ともいわれており、板垣退助が明治7年(1874)3月に土佐で日本最初の政治結社である「立志社」を創設している。この土佐の「立志社」の活動に刺激を受けて、同年9月に早くも阿波徳島に「自助社」ができ、その支社が淡路島の洲本にもあった。

『淡路新聞』創刊号の雑録に、西南戦争に対する洲本自助社の箋文(上奏文)が掲載されている。その主旨は、鹿児島県下の暴動について朝廷の趣旨に従い、県官の命令を固守して流言浮説に惑わされないようにすることを申し合わせたものである。
その内容は自由民権運動とは関係ないが、その後、『淡路新聞』は自由民権論を中心とした社説を掲載している。明治16年(1883)4月に自由民権運動の高揚に伴い廃刊を余儀なくされたが、明治23年(1890)4月に再発行された。

(6)明治11年1月、函館の北溟社
北海道で最初の民間の手になる新聞である『函館新聞』は、明治11年(1878)1月7日、函館の書店魁文社内に設けられた北溟社から創刊された。

北溟社は、明治10年(1877)12月、函館区内の有力者を株主として資本金2,000円で設立され、函館財界の四天王と呼ばれる一人である渡辺熊四郎が社長に就任した。
北溟社の設立に当たって、渡辺熊四郎は、長崎で懇意だった東京の平野富二に相談して、築地活版製造所から活字類と二枚刷器械1台を買い入れた。

『函館新聞』は、当初、2、7の日に月6回の発行だったが、明治11年(1878)7月から隔日刊となった。しかし、明治12年(1877)12月の函館大火による類焼により青森に分局を置いて青森新聞社の機械を借りて発行を継続した。

図32-5 『函館新聞』第一号
<『函館市史』、通説編 第二巻より引用>

紙面はタブロイド判洋紙による二枚両面刷りで、
二つ折りの4面、1面3段組みであった。
編輯人は宮城県出身の佐久間健寿、
印刷人は山形県出身の伊藤鋳之助であった。

社長の渡辺熊四郎は、株主と相談して再建資金の目途をつけ、活字と印刷機を再び築地活版製造所から購入し、明治13年(1880)1月、函館市庁の長屋を借りて活版所を開き、『函館新聞』を発行した。明治13年(1880)6月から再び隔日刊となり、明治18年(1885)4月から日刊紙となった。

以上の経緯について、坪谷善四郎編著『実業家百傑伝』の渡辺熊四郎の項によると、「(渡辺熊四郎は)函館に新聞がないことを残念に思い、明治11年になって同志と相談して北溟社と云う活版所を設けて『函館新聞』を発刊した。創業の当初、君は推されて社長となり、在職3年で基礎を固め、社運がようやく盛んになるに及んで社長を辞任し、同志の一人である伊藤鋳之助にゆずった。」と記されている。

渡辺熊四郎は、引退後に渡辺孝平と改称するが、その自伝である『初代渡辺孝平伝』によると、「(新聞発行に当たって)まず東京に行き、『報知新聞』の栗本(鋤雲)氏、また、『東京日日新聞』の岸田(吟香)氏などに頼んで編輯人を雇入れ、また、新聞事業の機械は平野富二と懇意だったので、活字・機械なども同人に頼んで買い入れることにした。さてまた、資金が乏しいので二枚刷器械1台で、それに応じた活字を買い入れ、明治11年1月7日に開業した。」と述べている。

平野富二が慶應3年(1867)に土佐藩に招聘され、機関方として土佐藩の蒸気船を乗り回していた頃、渡辺熊四郎は長崎土佐商会の持ち船で会計を勤めていたことがある。このときお互いに面識を得て懇意になったと見られる。

明治12年(1879)12月6日に発生した函館大火により北溟社は社屋が類焼し、機械類も使用できなくなった。

このときの『函館新聞』に関して、同月18日付の『朝野新聞』に掲載された記事によると、
「函館新聞は、開拓使の保護と二、三の富豪の尽力により追々盛大になったところ、過日の火災で器械を残らず焼失した。しかし、このまま廃業するのも遺憾とのことで、同社取締役伊藤鋳之助氏は株主に相談して都合1,000円余りの資金を調達し、この度、活版器械買入のため上京し、築地の平野活版所で調達中である。同氏によると、是非とも今年中に函館に帰り、来年1月から函館市庁の長屋を借りて活版所を開くとのこと。」

北溟社が設立される以前の函館における活版印刷について、函館市編さん室編『函館市史』によると、明治6年(1873)8月、開拓使が東京出張所内に活版所を設けて布達類を印刷して管内に配布し、さらに、『新報節略』を発行して官員に配布した。この『新報節略』は東京の新聞の中から北海道に関する記事をダイジェスト版として編輯したものであった。明治8年(1875)4月になって『新報節略』が廃刊となり、印刷設備は函館支局に移された。

この印刷設備に注目した伊藤鋳之助は賛同者の大矢佐市、魁文社社中と連名で「活字版器械拝借願」を提出した。途中、魁文社社中の者たちは本業多忙を理由に脱退したが、明治9年(1876)3月23日になって、「60日間、試験として函館支庁発令の公布達類に限り印刷」として貸与が認められた。同年5月22日になって、設備の払い下げと印刷業開業の申請を行い、許可を得て伊東鋳之助と大矢佐市の二人だけで函館活版舎を設立し、開拓使の仕事を中心に営業を開始した。
その印刷設備は、活字摺器械1式と付属品、3,301種類45,865文字の活字であったと記録されている。
東京で開拓使が調達したことから、摺器械は外国の輸入品、活字は工部省勧工寮活字局の製品と見られる。

伊藤鋳之助は函館活版舎を経営する傍ら北溟社の株主として参加し、『函館新聞』の印刷人となっている。
明治13年(1880)3月、渡邊熊四郎が本業の商業事務多忙を理由に社長を辞任し山本忠礼が社長に就任したが、明治14年(1881)1月に伊藤鋳之助が北溟社の資産を受継いで社長に就任した。

『函館新聞』が創刊された頃は、すでに政府の新聞紙条例と讒謗律により発行責任者に対する罰則が厳しくなっていたこともあって、その内容は道内の状況と内地府県の景況を報道することに重点を置き、政治色を排除した中立的地方新聞であって、明治21年(1888)1月に札幌で『北海新聞』(同年10月に『北海道毎日新聞』と改題)が誕生するまで、北海道では『函館新聞』が一紙独占の状態だった。

平野富二と渡辺庫四郎との関係は活版設備の納入に止まらず、造船事業での協力にまで発展した。

渡辺熊四郎ら函館四天王と称された4人の有力者たちは、函館に本格的な船舶修理を行える造船所の設立を計画し、開拓使長官黒田清隆に嘆願して船渠(ドック)築造計画を推進していたが、明治12年(1879)の函館大火に遭遇し、資金面から計画が中断してしまった。
その結果、計画を縮小して小規模器械製造所を設立することになり、渡辺熊四郎は東京で石川島造船所を経営している平野富二に協力を要請した。要請を受けた平野富二は、明治13年(1880)9月、曲田成を伴って函館に赴き、函館器械製造所の設立に協力し、出資者の1人となった。

ま と め
明治5年(1872)9月に埼玉県が文部省の認可を受けて布告・布達類を活版印刷して管内に限り頒布するようになったことから、この動きは全国の府県にも急速に広がった。
明治7年(1874)11月には各地方県庁の3分の2が長崎新塾製の活字・活版設備を買い上げて活版所を開設したという。当時は3府60県であったので、約40県が活版所を開設したことになる。

本稿では、前2回の〔前期〕、〔中期〕に続く〔後期〕として明治7年(1874)以降の事績について述べた。

明治7年(1874)の事績としては、秋田県の聚珍社から発行された『遐邇新聞』についてのみを紹介したが、この年は前年にも増して全国各地の県庁から東京築地活版製造所に引き合いが寄せられ、数多くの納入実績を挙げたと見られる。しかし、東京築地活版製造所には纏まった記録が残されていないので、それぞれの府県の記録を調査しないと分からない。

前稿で紹介したように、明治6年(1873)7月から政府による日誌・布告類の印刷・頒布が行われるようになり、各府県に部数を定めて頒布されるようになった。ただし、当初は整版による印刷であって、『太政官日誌』が活版で印刷されたのは同年10月13日からである。
その結果、各府県は不足部数を謄写して管内に配布するようになったが、次第に県庁で購入した印刷設備を民間の御用業者に払い下げて、印刷を委託するようになった。

秋田県の聚珍社は、県庁から布告・布達類などの掲載を認められて『遐邇新聞』を発行するため印刷設備を購入し、県の広報を担う御用を務めたが、経営的には独立した民間企業であった。

明治8年(1875)の事績としては、佐賀県活版所への活版印刷設備の採用と名東県(後の徳島県)の普通社から発行する『普通新聞』印刷のための大型ハンドプレスの納入について紹介した。
両県とも、木活字により布告・布達類の活版印刷を行っていたが、鉛活字に切り替えた。名東県では民間の普通社が発行する『普通新聞』に布告・布達類を掲載させて周知を図った。そのとき普通社は、東京築地活版製造所で国産化したばかりの大型手引印刷機を購入している。

明治9年(1876)の事績としては、大阪府の御布令上木所が大阪活版所から活字を購入して活版印刷に移行したことについて、また、淡路島洲本に於いて先覚者安倍喜平により『淡路新聞』が発行されたことについて紹介した。

最後に、明治11年(1878)の事績として、府県には属さない北海道の新聞発行として『函館新聞』について紹介した。

当時の政府は、文明開化政策を進める手段として、「新聞は人の知識を啓発・開眼させることを目的とすべきであり、これによって文明開化が達成される」とした。その流れに沿って地方の府県でも、単に布告・布達類の頒布に留まらず、積極的に新聞として発行し、単に政府や県の施策を伝達するだけでなく、内外の新たな情報や知識を地元住民に伝達する手段として活用するようになった。

ここで紹介した秋田県の『遐邇新聞』、名東県の『普通新聞』、兵庫県淡路の『淡路新聞』、北海道函館の『函館新聞』は、県庁で頒布する布告・布達類を掲載して県庁御用の一役を担っているが、いずれも独立した民間の会社から発行されている。

明治7年(1874)1月、板垣退助ら元参議4人を含む8人により提出された「民撰議院設立建白書」が『日新真事誌』と『東京日日新聞』に相次いで掲載された。これを契機として、民撰議院設立論争が多くの新聞を通じて行われた。秋田、淡路、函館の新聞も時代の流れを受けて自由民権運動にも関与するが、明治8年(1875)6月に公布された「讒謗律」と「新聞誌条例」、9月に公布された「出版条例」を意識した穏健な立場を取っていた。

明治10年(1877)の西南戦争の報道により新聞の発行部数は大きく伸びたが、西郷隆盛の失脚、明治14年(1881)の政変による大隈重信の要職からの追放、10年後の国会開設の約束などにより、自由党、立憲改進党などの政党が結成された。各政党は自らの意見や主張を広く民衆に伝える手段として新聞・雑誌を利用するようになる一方、政府はこれに対抗して政府系の新聞を発行するようになり、全国的に数多くの新聞が発刊されては、廃刊するという情況が続いた。

活版印刷設備を販売する平野富二は、時期到来とばかりに、ますます生産設備の増強と活字の改良、品質の向上に努めた。
記録によると、明治11年(1878)の活字販売個数は127万個余りで、これは明治6年(1873)の3.56倍であった。

総まとめとして、
〔前編〕で扱った明治初年(1868)から5年(1872)までは、長崎、横浜、大阪に於ける『崎陽雑報』、『横浜毎日新聞』、『大阪府日報』の発行を通じて、本木昌造が永年の研究により開発した鉛活字を用いた活版印刷による発行が計画されていたものの、活字の製造が思うに任せず、木活字や木版による印刷でスタートせざるを得なかった。
この状態は、言わば近代活版印刷の黎明期に当たる。
対策として同様の原理で鉛活字を製造している上海美華書館のギャンブルを招聘して「迅速製造法」の伝習を受け、平野富二による活字の規格統一、品質・コスト面での生産管理の徹底が行われた。
その結果、神戸に於ける『神戸港新聞』では鉛活字による活版印刷で発行され、埼玉県では布告類の鉛活字のよる活版印刷化が実現した。
この状態は、言わば近代活版印刷の曙光期に当たる。

〔中編〕で扱った明治6年(1873)は、三重県、福岡県、名古屋県(後の愛知県)、新潟県、鳥取県、石川県における活版印刷採用の経緯を平野富二が納入した活版設備を通じて梗概した。いずれも前年に埼玉県が採用した布告類の活版印刷化の影響を受けて、いずれも県庁で平野富二から活版印刷設備を購入して、布告・布達類の活版印刷化が行われた。
印刷業務は御用商人に行わせていたが、やがて印刷設備を下げ渡して、単に布告・布達類の印刷に止まらず、県の広報紙として新聞を発行させるようになった。

〔後編〕では明治7年(1874)以降の秋田県、佐賀県、名東県(後の徳島県)、大阪府、淡路洲本(兵庫県)、函館(北海道)について活版印刷の採用を中心に梗概した。

活版印刷の地方への普及は、平野富二による府県に対する布告・布達類の活版印刷化の提案により急速に広まった。さらに、県庁活版所から民間の御用活版所へ、布告・布達類の単独印刷頒布から広報誌としての新聞の発行へと移行するようになった。
国民の知識欲と政治熱が高まるにつれて、中央のみならず地方に於いても、また、県庁御用以外でも新聞の創刊が相次ぎ、明治8年(1875)には26紙、明治9年(1976)には24紙、明治10年(1877)には37紙が創刊している。

本稿シリーズでは「地方への活版化普及」に視点を置いて述べてきたが、東京においても有力紙は発展を続け、明治10年(1877)以降,こぞって銀座煉瓦街に進出し、その他の新聞社も発行部数をのばしていた。

本木昌造が念願としていた近代的な活版印刷の全国普及は、それを引き継いだ平野富二の技術者としての視点と経営者としてのセンスにより、わが国の置かれていた未開の時代を切り開き、時流を形成しながら発展の途に就くことによって、初めて達成できたことが分かる。

2020年5月29日  公開
同年6月2日 修正・加筆

 

 

地方への活版印刷の普及(中編):明治6年の納入事例

まえがき
前回の(前編)では、わが国における明治5年(1872)以前の活版印刷について黎明期と曙光期の二期に分けて紹介した。
まず、黎明期に相当する時期に発行された『崎陽雑報』(慶應4年8月発行)と『横浜毎日新聞』(明治3年12月発行)、『大阪府日報』(明治4年10月発行)については、発行場所は異なるものの、いずれも本木昌造の経営する長崎の新塾活字製造所で製造した鉛活字を用いる計画であったが、結果として木活字あるいは木版に頼らざるを得なかった。
『崎陽雑報』発行の経験から、迅速に鉛活字を製造する手段と方法を上海美華書館のギャンブルから学び、その結果を用いて『横浜毎日新聞』が発行される予定だったが、活字の品質とサイズが安定せず、当初は木活字に依存するしかなかった。『大阪府日報』発行の頃は本木昌造に代わって平野富二が活字製造の責任者となり、高品質で低価格の鉛活字を安定して生産できる目途が付いていたが、政府から廃藩置県関係の印刷物を緊急で大量に請負ったため余力がなく、木版刷りでの見切り出版となったと見られる。

次いで、曙光期に相当する時期に発行された『神戸港新聞』(明治5年5月発行)については、木活字に頼ることなく鉛活字による活版印刷で発行された。時期的には平野富二が活字製造の拠点を長崎から東京に移転する準備を行っていた頃のことである。

平野富二が東京に進出してから1ヶ月の間、活字の引き合いがなかった。政府内での活字需要に対しては、前年11月に工部省勧工寮活字局が長崎から東京に移転して活字を供給していた。そこで、平野富二は旧知の野村盛秀が埼玉県令となっていることから、面会して布告・布達類の活版印刷によるメリットを説明し活字の購入を依頼した。野村県令は活版印刷採用による迅速、正確、減費の3得に着目して文部省の認可を得て、布告・布達類を活版印刷して管内に限って配布することになった。
これが契機となって、全国の各府県は県庁内に活版所を設けるか、出入りの業者に活版所を設けさせて布告・布達類の活版印刷を行うことになった。これがやがて地方新聞の発行につながることになった。

明治5年(1872)2月には、新潟県庁布告類印刷請負人坪井良策がフランス宣教師エブラルの指導により木活字と活版機械を購入し、『北湊新聞』を創刊した。また、同年9月には、栃木県では県令鍋島幹が文部省に布告類の活版印刷による配布を申請して許可され、乙女村の山中八郎の希望により活版を買い入れさせ、同年10月から布告類を活版で印刷させている。

この新潟県と栃木県の例では、いずれも平野富二以外の業者から活字と活版印刷機を購入しているが、明治6年(1873 )になると全国の各府県が一斉に布告・布達類の活版印刷化に乗り出し、平野富二の活版製造事業は盛況を極めることになる。

本稿では、各府県における布達類の活版印刷化と新聞発行について平野富二による活字・活版印刷機の納入事例となるものを抜粋して紹介する。その順序は時期的に早い順からとしたが、必ずしも厳密なものではない.

1.各府県における布達類・新聞の活版印刷動向
(1)明治6年3月、三重県御用活版所「水谷北辰社」
三重県では、明治5年(1872)に県庁御用印刷所として創業した水谷北辰社が、明治6年(1873)3月、三重県活版所として『三重県官員録』を半紙二つ折10枚、本木製四号活字で印刷、発行した。この記録は牧治三郎編『京橋の印刷史』の「年表」による。

この記録の根拠は不明であるが、おそらく牧治三郎が入手した『三重県官員録』に拠ったと見られる。これが事実であるとすると、三重県は、明治5年(1872)中に布達類を活版印刷するため県庁出入りの水谷某に北辰社を設立させて県庁御用活版所としたことになる。活字と活版印刷機は東京神田和泉町の長崎新塾出張活版製造所から三重県が購入して業者に貸与したか、業者に購入させたことになる。

三重県は、藤堂和泉守が藩主だった伊勢國津藩が明治4年(1871)7月の廃藩置県で津県となり、同年11月に隣接する6県が統合して安濃津県となり、県庁を安濃郡津大門町に設けた。明治5年(1872)4月に県庁を四日市に移し、郡名を採って三重県と改称したが、明治6年(1873)12月に県名はそのままで県庁を安濃津(現在の津市)に移した。

幕末に津藩士榊令輔が、蕃書調所で『レースブック』を翻刻する際、活字御用係出役を命じられて洋書の活版印刷に関わっている。また、神田和泉町にあったもと津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋には平野富二が崎陽新塾出張活版製造所を設けて活版印刷全国普及の起点となった。このように三重県は、間接的ではあるが、活版印刷との関りが深い。このことから、三重県は早い時点で布達類の活版印刷が行われたと見ることも出来る。

(2)明治6年4月、福岡県庁活版局で布告の活版印刷開始
明治6年(1873)4月、福岡県庁活版局は築地活版製の活版機械および活字を購入して布告・広報の印刷を開始した。
この記録は、牧治三郎著『京橋の印刷紙』、年表に記録されているが、どのような資料に拠ったかは不明である。

福岡県の活版設備に関して、長崎活版社の松野直之助から佐賀県令北島秀朝に宛てた明治7年(1874)11月付の願書がある。その内容は、「(前文略)すでに各地方の県庁も三分の二は(活版設備を)御買い上げ仰せ付けられ、御取り開きなされました。しかるに近隣の佐賀県と福岡県は未だ御買い上げのない状態であると伝え聞いております。先般、福岡県に御買い上げを願い出たところ、速やかに御採用、御買い上げ仰せ付けられ、当時、文字・機械等を取り揃え中です。‥‥」と記されている。

文中末尾にある「当時」は「現在」と同じ意味と解することができるので、明治7年11月の時点で福岡県に活版設備を納入準備中であったことを示しており、冒頭に紹介した年表の記録とは一年半以上の相違がある。

この願書を出した松野直之助は、明治5年(1872)7月に平野富二にしたがって東京に派遣された社員の一人で、明治16年(1883)2月には上海出張所修文館の主任として上海に派遣されている。従って、長崎に一時帰省していたときに出状したものと見られる。

また、年表では「築地活版製の」としているが、明治6年(1873)4月の時点では、活版製造所は神田和泉町に所在しており、未だ築地には移転していない。

したがって、福岡県庁活版局については更なる調査が必要である。

福岡県は、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により筑前、筑後、豊前にあった各藩がそのまま県となった。同年11月になって中小県の統合が行われ、筑前地区にある福岡県と秋月県が福岡県となった。そのとき、筑後地区の久留米県、柳川県、三池県の三県が統合されて三潴(みずま)県となり、豊前地区の豊津県、千束県、中津県の三県が統合されて小倉県となっている。明治9年(1876)8月、三潴県のうちの筑後一円が福岡県に編入された。

新聞の発行については、当時の福岡県に隣接する三潴県で、明治5年(1872)6月に久留米において植木園二らが『三潴県新聞誌』を創刊している。この時期、長崎では平野富二が製造した活字を用いて本木昌造が『新塾餘談』を刊行し始めているので、鉛活字による活版印刷で創刊された可能性があるが、未確認である。明治7年(1874)2月になって三潴県の広報誌『三潴新聞』が発行された。明治13年(1880)になって植木園二と博多の薬種商藤井孫次郎によって福岡に弘聞社が設立されて『筑紫新聞』が創刊された。

このように、隣接する三潴県では早くから新聞が発行されているが、福岡県では明治13年(1880)まで新聞の発行はなく、それまでは福岡県庁活版局による広報誌が新聞の役割を果たしていたと見られる。

(3)明治6年中頃、名古屋県庁御用達中川利兵衛の築地訪問
名古屋県は、明治4年(1871)3月、県庁内に新聞局を開設した。同年12月12日に名古屋権令となった井関盛艮は着任早々、次のような県布達を木版刷りで出している。

「新聞紙は民智を開くの最要也。文明の国に於いては競て之を読み、事情の景況、物価の騰降を弁知し、人生の利用、之にすぐるはなし。這回(この度)官許を得て名古屋新聞誌の上梓近きにあり。各区各村よく此の意を体認し、発売ごとに必ず一区一村 冊子を求め、各産業の基礎を補成し、開化の域に進歩すべき也。
太政官より御布告ありし願伺届書異紙の義も新聞社に於いて売立させ候事。
辛未十二月」

井関盛艮は、明治2年(1870)4月に神奈川知県事、明治3年(1870)10月に神奈川県知事となり、わが国最初の日刊新聞とされる『横浜毎日新聞』の発行を指導しており、新聞には関心が深かった。明治4年(1871)11月27日に宇和島県参事となった後、明治5年4月2日に名古屋県が愛知県に改称されたときに愛知県権令となり、明治6年5月30日に本官を免じられた。その後、島根県権令、同県令を経て、明治9年(1876)5月12日に依願免官となった。

後任の愛知県令鷲尾隆聚による明治6年(1873)9月付の県布達は二号明朝体鉛活字により印刷されている。

図31‐1 愛知県活版局で印刷された愛知県布達
<三浦荒一編『名古屋印刷史』による>

明治5年11月の権令井関盛艮名の県布達は木版刷りであるが、
明治6年9月の県令鷲尾隆聚名の県布達は、
二号明朝体鉛活字が用いられている。
前任の井関盛艮は本山某と中川利兵衛を東京に派遣して
平野富二からこの鉛活字を購入させたと見られる。

名古屋県庁御用達だった中川利兵衛は、県庁から布達類印刷の用命を受け、弟子の大工太田伊助の協力を得て、宮町2丁目に中川印刷局を設け、明治4年(1871)11月に県庁布達を木版刷りした『名古屋新聞』を本町5丁目の文明社から発行した。
この新聞の体裁は半紙二つ折り、6枚を紙縒(こより)で綴じた冊子で、表紙の中央に「名古屋新聞」、その下に号数、表題の右に発行年月を配し、左隅に「文明社記」と押印している。その後、明治5年(1872)4月2日に名古屋県が愛知県と改編されたことから、『愛知新聞』と改題した。

明治6年(1873)1月、木活字による印刷となって『愛知週報』と改題して週報となり、永東書店から刊行された。しかし、木活字は摩滅が早く補刻の必要もあって、手間と経費の面で難点があったため、同年6月に廃刊となった。

丁度その頃、中川利兵衛は県庁役人本山某から鉛活字の効用を知らされた。本山某が平野富二と懇意であるとのことから、2人で東京の長崎新塾出張活版製造所を見学し、二号活字を買い求めた。また、東京で見た手引印刷機を手本にして弟子と共に木製の手引印刷機を造り上げた。
これにより県布達は二号鉛活字により活版印刷されるようになったと見られるが、新聞の刊行までには至らなかったらしい。

明治6年(1873)7月1日、新たに購入した四号活字を用いて新聞紙面の改良を計ると共に、洋紙両面印刷4頁の日刊とし、『愛知新聞』第1号を発行した。新聞読者の増加に従い、明治7年(1874)に鉄製小型手引印刷機とフート(足踏印刷機)各1台を購入した。

明治8年(1875)5月1日、『愛知新聞』は『第二大学区新聞』、『二大学区愛知新聞』と改題したが、明治9年(1876)3月、『愛知新聞』に復し、五号活字を使用するようになった。後に『東海新聞』、『扶桑新報』、『名古屋新聞』、『中部日本新聞』へと続くことになる。

明治10年(1877)に八頁掛ハンド1台を、明治14年(1881)にはフート2台と八頁掛ハンド2台を増設して、一般向けの印刷も引き受けて社運隆盛を来たしたが、明治15年(1882)5月24日、中川利兵衛は71歳で死去した。

なお、自由民権派の新聞として、明治9年(1876)8月、『愛知日報』が創刊され、福沢諭吉門下生の鈴木才三が編輯長を勤めた。同年11月、『愛岐日報』と改題して岐阜県への進出を果たし、明治10年(1877)1月から日刊となった。愛知県令勝間田稔によって県下3紙が合同して『扶桑新報』となった。

その後、中川利兵衛の次男の中川善次郎が別途、報文社を開き、明治18年(1885)に東京築地活版製造所から字母製造人として海老原氏ほか2名を招聘している。また、姻戚関係のある成瀬弥六が印刷業を志し、明治14年(1881)に築地活版製造所に入り、その他2、3の活版所に入って技を磨き、明治31年(1898)に名古屋市東区に成瀬印刷所を開業している。

名古屋にはもう一人、平野富二の活版製造所で学んだ人がいる。それは、後に名古屋印刷界の重鎮と見なされた山田良弼である。山田良弼は、平野富二が長崎から上京して神田和泉町に新塾出張活版製造所を開いた当時から同所に入って専ら技術の研鑽に精励した。築地に移転拡張した後、ひと通りの自信がついた山田良弼は、明治6年(1873)に名古屋に帰り、県庁に活版印刷業の開業を出願しが、斡旋する人があって中川活版局の職長に迎えられて技術面を支えた。

明治18年(1885)になって、中川活版局を退社し、翌年、日比野泰助が経営する『黄金新聞』の職長に招聘されたが、間もなく廃刊となったため、同年12月、独力で活版印刷業を開業した。この会社は、後に株式会社一誠社となる。山田良弼は、明治43年(1910)に59歳で没した。

中川利兵衛に関しては、『本邦活版開拓者の苦心』(津田三省堂、昭和9年11月)に記載されおり、三浦荒一編『名古屋印刷史』(名古屋印刷同業組合、昭和15年12月)にそのまま引用されている。

原文では、中川利兵衛は最初に『名古屋新聞』を発行し、その後、『愛岐日報』と改称したとしているが、『名古屋印刷史』の別項「新聞印刷のはじめ」によると、『愛知日報』と『愛岐日報』については『中日新聞創業百年史』(社史編さん室、1987年8月)の記述に基づき修正した。

(4)明治6年7月、新潟県活版局で『新潟県治報知』発行
新潟県令楠本正隆は、明治6年(1873)7月、県庁の二橋県官に指示し、その肝煎りで新潟県庁直轄の新潟県活版局を設立した。その場所は新潟本町通柾屋小路の旧町会所内で、支配役として地元の有力者荒川太二を任命して、太政官布告、県庁布達などを頒布するため『新潟県治報知』を発行した。

図30‐2 新潟県治報知』、第二号
(日本新聞博物館所蔵)

和紙を用いた二つ折り、和綴じの冊子で、
罫線枠内に二号活字で「新潟」、
その下に続けて初号活字で「縣治報知」、
間隔を置いて三号活字で年月日を二行書きし、
号数を印字している。
記事は三号活字を用いて官省布告から始まっている。
書体はいずれも明朝体である。

新潟県では県庁内に活版局を開設するに当たり、平野富二の経営する東京の活版製造所から金属活字類と手引印刷機を調達し、さらに、印刷技師の派遣を要請した。

なお、新潟県では、「はじめに」で記したように、坪井良策が新潟県で初めての活版所を設けて、県の布達類の印刷請負人となり、明治5年(1872)2月に木活字による『北湊新聞』を創刊した。しかし、県令楠本正隆により県庁内に活版局を設けることになって、坪井良策から県庁印刷御用の権利を召し上げたため、新聞経営に行き詰まり、廃刊に追い込まれてしまったという。

楠本正隆は、慶応4年(1868)5月、長崎府において井上聞多(薫)、大隈八太郎(重信)、野村宗七(盛秀)と共に長崎府判事に任命され、小菅修船場の政府買い上げを大隈八太郎とともに推進したことでもあり、この頃から平野富二のことを知っていたと見られる。
その後、楠本正隆は外務大丞を経て、明治5年(1872)5月から明治7年(1874)7月まで新潟県令を務めた。明治8年(1875)8月に内務大丞として転出し、同年12月に東京府権知事を兼任、明治10年(1877)1月から東京府知事となった。
平野富二の石川島拝借願書は楠本権知事を通じて海軍省に提出し、認可を得ている。

荒川太二については、後年、平野富二と共同で新潟に「運輸会社」を設立し、新潟税関に代わって小型蒸気船による新潟・佐渡間の運輸業に進出している。

(5)明治6年中頃、兵庫県尼崎の三浦長兵衛が活版設備を購入
尼崎の元藩士三浦長兵衛は、明治5年(1872)9月、藩士授産のため活字製造と活版印刷の事業を志して上京し、平野富二に面会して、約6か月間、神田和泉町に滞在して活版伝習を受けた。帰京後、尼崎城内東三の丸に工場を建設すると共に、まず手始めに平野富二から二号、四号の活字若干と手引印刷機1台を買い受けた。その時期は明治6年(1873)の中頃と見られる。

ここに至るまでの経緯を述べると、明治4年(1871)7月に廃藩置県の令が出され尼崎県が成立したが、明治5年(1872)になって兵庫県に編入された。それらの結果、禄を失った旧尼崎藩のもと藩士たちに自活の途を与える方策が尼崎城内で協議され、一つの方策として活版製造・印刷を事業として立ち上げることになった。
そこで、代表となった三浦長兵衛は、本木昌造が大阪大手町に開設した長崎新塾出張活版所を訪ね、藩士授産のため活版業について伝授するよう要請した。しかし、大阪活版所の幹部は三浦長兵衛の入門を許さず、秘密主義を貫いたという。

明治5年(1872)9月になって、三浦長兵衛は上京して平野富二に面会し、元藩士の窮状を訴え、大阪活版所に頼んだが拒絶されたことを伝えた。これを聞いた平野富二は活版製造と印刷の伝授を直ちに快諾したと伝えられている。

三浦長兵衛は、活字製造工場を設け。事業に賛同する仲間と共に、入手した活字を種字として活字製造に着手した。しかし、東京で習ったはずの活字製造法が役に立たなかった。仲間の一人である久保松照映は、見るに見兼ねて独自に調査研究した結果、独創的な考案で活字を製造することができたという。

津田三省堂発行の『本邦活版開拓者の苦心』(昭和9年11月発行)に「大阪初期活版製造業者 久保松照映氏」として尼崎の三浦長兵衛と久保松照映に関する記事が掲載されており、本稿はこれに拠った。

(6)明治6年10月、鳥取県庁活版局が活版設備を購入
明治6年(1873)10月頃, 鳥取県庁から平野富二に対して布告などの印刷のため活字・活版印刷機械の買入れと印刷指導技師1名の派遣要請があった。そこで、平野富二は小幡活版所で支配人兼技師を勤めていた茂中貞次に本人の意向を打診した。以前から地方への活版普及に尽力していた茂中貞次は、鳥取県庁に知人がいることもあって、直ぐに鳥取行きを決意した。

茂中貞次は、小幡活版所を辞任し、平野富二の活版製造所で製造した活字1式と印刷機を携えて鳥取に向かった。鳥取では、県庁の布達類を印刷したが、余力を民間の活版印刷に注ぎ、その利便性を一般に周知させるべく努力した。鳥取でほぼ1年間働き、明治7年(1874)10月になって、旧知の兵庫県令神田孝平からの招聘により、以前、設立に協力した神戸港新聞社に移った。

鳥取県で最初に発行された新聞は『鳥取県新報』で、鳥取の新報社から発行された。第1号の日付は明治5年(1872)9月29日で、木版、和綴じの冊子であった。その後、県庁が平野富二から活字と活版設備を購入したので、明治6年(1873)末頃から鉛活字による活版印刷になったと見られるが、未調査である。

なお、鳥取地方で活版印刷による新聞が発行されたのは、明治13年(1880)のこととされており、『鳥取新報』(後の同名新聞とは違う)、『鳥取読売新聞』(後の『鳥取新聞』)、『蠖屈新誌(かくくつしんし)』が相次いで発刊された。これら3新聞の印刷にどの様な活字・印刷機が使用されたかは不明である。

鳥取県は、明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により、旧因幡国と旧伯耆国の全部と旧播磨国の3郡の一部が鳥取県となった。同年11月に旧播磨国の領域が姫路県に分離・編入され、同年12月に島根県から旧隠岐国が編入された。明治5年(1872)1月に県下を112区に分け、明治6年(1873)12月から大区小区制が実施された。明治9年(1976)8月21日に鳥取県が島根県に併合・廃止され、鳥取に支庁が設置された。以後10年間、鳥取県は存在しないことになった。明治19年(1886)9月12日になって旧因幡国と旧伯耆国が島根県から分離して鳥取県が再置された。

(7)明治6年、石川県金沢町区会所が活版設備を購入
明治4年(1871)7月14日の廃藩置県によって金沢県が成立し、同年11月20日に大聖寺県を統合した。明治5年(1872)2月2日に県庁を石川郡美川町に移して石川県と改称した。同年9月25日に七尾県の射水郡を除き石川県に併合し、同年11月に足羽県から白山麓18か村を併合して、現在の石川県領域となった。明治6年(1873)になって県庁を金沢に移転した。

明治6年(1873)に金沢町区会所が平野活版製四号、五号活字ほか鉄製活版機械を買入れ、印刷工場を創設。後に同地吉本次郎兵衛に払い下げた。このことは『京橋の印刷史』年表に記録されている。

金沢町区会所は、明治6年(1873)に東京から取寄せた鉛製活字4万個と鉄製印刷機械1台を、明治8年(1875)10月5日に吉本次郎兵衛に払い下げることを決め、活字版ならびに器械代として金549円3銭、運搬費として金131円33銭5厘を3ヶ年賦で金沢町区会所に支払うこととした。吉本次郎兵衛は明治11年(1878)7月になって代金の全額を返済している。

本件に関する記録は石川県立図書館に吉本文庫として保存されており、石川県印刷工業組合編『石川県印刷史』に紹介されている。

吉本次郎兵衛は、天保2年(1831)10月、創業百年に及ぶ仕出し料理屋の家の次男として生まれた。明治2年(1869)に書林(書店)を開店して、明治4年(1871)冬に共同者と新聞発行を出願した。同年12月に官の許可を得て、同月末に『官許 開化新聞』第1号を発行した。

図31‐3 『開化新聞』第二号の表紙
(『日本初期新聞全集』、ぺりかん社)

この新聞は半紙二つ折りの仮綴じで、
冒頭に太政官の布告や金沢・石川県の布達を掲載。
当初は木版を手摺りした整版印刷であったが、
やがて木活字による活版印刷となった。
その後、紙面を一新した『石川新聞』に引き継がれ、
やがて鉛活字が採用されたと見られる。

その後、地元の金沢学校が明治4年(1871)11月に刊行した『十九史略通考』で使用した木活字を譲り受け、この木活字を用いたバレン摺りが続いたが、明治6年(1873)2月になって『石川新聞』と改題して大判一枚摺りとした。号数はそのまま継続した。

しかし、木活字の消耗もあって、吉本次郎兵衛は鉛製活字に着目した。たまたま、明治5年(1872)10月発行の『新聞雑誌』に平野富二の活字広告が掲載されているので、吉本次郎兵衛はこれを目にしたと見られる。

それまで金沢町区会から発行していた『石川県日誌』の印刷業務を請け負っていたとみられる吉本次郎兵衛は、早速、金沢町区会所に働きかけて、東京から鉛活字と活版印刷機を購入して貰い、それまで整版で印刷していた『石川県日誌』を鉛活字で活版印刷すると共に、『石川新聞』の印刷にも使用させて貰ったと見られる。

明治8年(1875)10月になって、活版印刷設備を金沢町区会所から譲り受けた吉本次郎兵衛は、石川県庁の活版御用を仰せ付けられ、管内の布達および日誌等の印刷を請け負うようになった。

本件については、磯部敦著『出版文化の明治前期』に吉本文庫を調査して纏めた「吉本次郎兵衛の足跡」が掲載されている。これを参考にすると共に、それ以前の経緯に一部推測を加えて纏めた。

なお、金沢には独自に開発したと見られる鉛活字がある。それは金沢学校が明治5年(1872)から明治7年(1874)にかけて刊行した書籍に見られる。
加賀藩甲冑師明珍宗英の次男小島致将は、金沢学校の教授たちの協力により金沢博労町に経業堂という印刷所を開設し、研究の結果、甲冑職人に活字母型を造らせ、神戸で活字鋳造ポンプ、鋳型、活字仕上機、手印刷機などを購入して活字製造と活版印刷を行った。その活字は肉細の楷書体で、西欧式のパンチ母型により鋳造されたと見られている。
この活字は、東京の大学東校における島霞谷の活字と同様に、金沢学校関係の出版にのみ使用され、他には使用されなかったと見られる。

2.明治6年当時の一般動向
平野富二は、明治6年(1873)7月に神田和泉町から築地二丁目に長崎新塾出張活版製造所を移転させて、活字と印刷機を含む活版印刷に必要な設備と資材の本格製造に入った。
これは、前年に埼玉県庁が布告・布達類の活版印刷による管内配布に踏み切ったことにより、全国の府県もこれに着目して一斉に活版印刷採用を検討するようになった結果でもある。

それより先の明治5年(1872)10月、平野富二は活版印刷の全国普及を目指して『新聞雑誌』に広告「崎陽新塾製造活字目録」を掲載した。この広告には、初号から七号までの活字摺り見本に売価を示し、大小2種の印刷機を含む活版印刷に必要な諸品を製造できると述べている。なお、「崎陽」は「長崎」のことである。
この『新聞雑誌』は、他の有力新聞に先行して、木戸孝允の意向によって明治4年(1871)5月1日に創刊された新聞で、初号は1万3千部余り、3号は3万部という盛況だったという。当然、各府県の東京駐在員を通じてそれぞれの県庁に送られたと見られる。

明治6年(1873)に入ると政府からの布告・布達類は数量が膨大になった。『日新真事誌』(明治6年7月4日)に掲載された山梨県権令藤村紫朗が大蔵省事務総裁大隈重信宛てた建言書によると、「太政官・諸省の達書が次々と頒布され、その中でも記録類は細字で数十枚にもなる。それらを伝写するのに一人1日掛けても出来ないものがある。明治6年1月から5月までに23件、その他に県庁限りの布告が85件ある。」としており、「各県に活字と器械を一度限り下げ渡して貰いたい。長崎(新塾)製二号活字と器械を含めて1県につき500円内外である。」としている。

これまで各府県が県庁内に活版局を設けて布告類を印刷する動きが盛んになったが、多額の資金を必要とするため、山梨県のような政府資金を当てにする府県も多かった。

これに対する政府の対応かどうかは不明であるが、明治6年(1873)6月14日の太政官布告第213号によると、「諸布告が各府県に早飛脚で到達する日限を定めて、到達の上30日間掲示の後は、管下一般にこれを知り得たことと見做す」とした。また、政府の布告・布達文の頒布部数は同年10月15日の太政官布達第348号で定めている。その配布総数は1,100部前後と云われている。

このことは、明治5年(1872)9月20日に印書局が正院内に設置され、設備と人員の整備拡充が行われた結果、ようやく、各府県にも布告類を一定数印刷配布することができるようになったことを示すものと見られる。

その結果、各府県は県庁内に活版局を設置して布告・布達類の印刷配布することを取止め、民間の御用活版所から新聞を発行さて布告・布達類や県の方針を伝達する役割をさせる方向に転換したと見られる。
この流れは、明治2年(1869)3月に公布された「新聞紙印行条例」などで新聞発行を公許制とし、政府の新制度や施策を伝える手段として積極的に新聞を活用する施策と合致し、明治6年(1873)10月に公布された「新聞紙印行条目」により改正整備された。明治8年(1875)6月に「讒謗律(ざんぼうりつ)」が公布されるまで、その流れは変わらなかった。

まとめ
明治5年(1872)の後半から一部の府県で活版印刷による布告・布達類の管内配布が行われるようになったが、明治6年(1873)に入ると、その流れは加速して多くの府県が県庁内に活版局を設け、あるいは、民間に御用活版所を設けさせるようになった。

本稿では長崎新塾製の活字・印刷機が採用された府県として、各種文献の中から三重、福岡、名古屋、新潟、尼崎、鳥取、金沢を採り上げ、布告・布達類の活版化とそれに続く新聞発行について紹介した。

これらの内、名古屋、尼崎、金沢は現在の県名ではないが、一時期、県として存在した。明治4年(1871)7月に行われた廃藩置県で3府302県が成立したが、同年11月に3府72県に統合され、さらに、明治6年(1873)になって3府60県にまで統合された。その名称は県名に限らず、その県内で発行された新聞名にも反映されるため、参考として府県ごとにその概要を付記した。

平野富二は、単に活字・印刷機を販売するだけにとどまらず、名古屋や尼崎のように顧客の要求に応じて工場見学を受入れ、活字製造や印刷業務の伝習まで行っている。また、新潟や鳥取のように活字・印刷機と共に印刷技術者を派遣して活版印刷技術を伝授・指導している。

明治6年(1873)に平野富二が納入した活字・印刷機の納入先として7県を紹介したが、福岡県の項で紹介したように明治7年(1874)11月の時点で地方の県庁の内、3分の2は活版設備を買い上げて貰ったとしていることから、さらに多くの県から引き合いが寄せられたと見られる。

平野富二の記録によると、活字納入個数として明治5年(1872)には244,236個であったものが、明治6年(1873)には2,772,851個と約11.4倍となっている。ただし、明治5年は7月に上京して工場を設立し、8月末になって埼玉県に初めて活字を納入したことから、明治5年の納入個数は4ヶ月間の実績となる。それを勘案しても約4倍の数量の活字を納入したことになる。

各府県では県庁内に活版局を設けて活版設備を備え、県布告として政府の布告類を印刷し、管内に頒布していた。その内、正院印書局が次第に設備と人員を整備し、太政官布告や各省布達を活版印刷して一定部数を各府県に配布するようになって、府県の方針や施策を含めた情報を住民に伝達する手段として民間の御用活版所を指定し、活版設備を貸与あるいは譲渡することにより新聞を発行させるようになった。

次稿の(後編)では、明治7年(1874)以降の納入事例を取り上げる予定であるが、地方の府県に限らず、東京における納入事例も含めて紹介する。

2020年4月28日 公開