東京築地活版製造所 第三代社長  曲 田 成

(1)第3代社長に就任
曲田成(まがたしげり)は、明治22年(1889)12月30日、緊急に開催された東京築地活版製造所の臨時株主総会において第3代社長として選任された。

図3-1 曲田成の肖像写真
《 松尾篤三編『曲田成君畧傳』、口絵から 》

先代の第2代社長は空席で、創業者である本木昌造の嫡子本木小太郎が社長心得となり、実質的な経営は取締役の一人に選任された谷口黙次が代行していたと見られる。しかし、谷口黙次は、明治18年(188510月以来、大阪活版製造所の社長を務めていた関係から日常的に本木小太郎を社長として輔佐、育成することは出来なかった。

この時期の東京築地活版製造所については、前回のブログ「第二代社長 空席、社長心得本木小太郎」(20189月)で述べた。 

当時の社会情勢は、明治14年(1881)に始まった松方内閣のデフレ政策の余波を受けて、不景気による同業者間の過当競争、それに伴う従業員の賃金下落により、企業倒産と社会不安がますます激しくなっていた。 

東京築地活版製造所もその風潮から免れることができず、度重なる臨時株主総会を開催して対応を図ったが、いよいよ存続か、倒産かの瀬戸際に追い詰められた結果、臨時株主総会で経営改革7箇条が提議され、その実行を委任されて曲田成が社長となった。 

この時の経営改革7箇条の内容については明らかになっていないが、当時の状況とその後の対応から推測すると、次のようになことと見られる。 

① 過度な競争の自粛について同業者関での話し合いの場を設けること。
② 競争力強化のため活字の改刻と品揃えを加速させる。
③ 組織を見直し、不採算部門の縮小を断行すること。
④ 職員と工員を一旦解雇し、経営に全面的協力を約束する者を再雇用すること。
⑤ 役員報酬の削減をおこなうこと。
⑥ 経営に寄与せず高額所得を得ている本木小太郎の退社を勧告すること。
⑦ 本木小太郎の退社勧告について平野富二の了解を得ること。 

曲田成は、明治22年(18896月に平野富二が社長を退任してからは、工務監査(役)に転じていた。しかし、それまで平野富二社長の下で支配人を務めていたことから、社内での人望も厚く、同業者内での知名度も高く、業界の事情も良く認識していたと見られる。

(2)曲田成の前歴
曲田成は、弘化3年10月1日(西暦1846年11月19日)、淡路国津名郡上物部村(現在の兵庫県洲本市物部)に生まれた。父は徳島藩士岩木富太郎で、幼名は岩木荘平と称した。平野富二と同い年で、1ヶ月半ほど遅く生まれた。

数え年2のとき、父を失い、母に育てられた。このことも平野富二と似た境遇であった。幼年で書道を学び、成長して藩校に入って漢学を学んだ。書道においても、漢学においても人に抜きん出ていたという。

その後、徳島藩の軍隊にはいり、一番隊小隊長を経て、慶應2年(1866)、数え年22でイギリス式練兵法を修得し、銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜された。

明治3年(1870)5月、26歳のとき、いわゆる「稲田事件」が勃発した。その時、曲田成は一方の指揮官となったが、免職されるにとどまった。

「稲田事件」(稲田騒動、庚申事件とも呼ばれる)の内容を知るには、次のような時代の背景を知っておく必要がある。

明治2年(1869)1月、新政府は薩・長・土・肥の4藩主連名による版籍奉還を受け、函館の榎本軍の平定後の同年6月、土地と人民は国家のものとして、中央政府が藩政を統制し、旧藩主を新藩知事として世襲を認め、旧藩の実収高の10分の1を知事家禄と定めた。
続いて旧大名と公卿を華族とし、旧藩主の平士(ひらざむらい)以上を士族とした。さらに、同年12月になって足軽以下は卒族とした。士族・卒族の禄制も新たに定められ、すべて現米で藩財政から支給されることとなった。

このような中で、徳島藩蜂須賀家の家臣は徳島藩士族とされたが、蜂須賀家の家臣で筆頭家老を勤める稲田家の家臣は卒属とされた。稲田家側はそれに納得できず、家臣の士族編入を徳島藩に訴えかけた。しかし、それが認められないことから、稲田氏の知行地である洲本を中心とする津名郡を徳島藩から独立させ、稲田氏を藩知事とする稲田藩を新設するよう明治政府に働きかけた。

これら双方の行動は、維新に際して蜂須賀家側が佐幕の立場をとったのに対して、稲田家側は倒幕運動に寄与したことから、双方の思惑があって、このような行動に出たと見られる。

明治3年(1870)5月12日、稲田家側の一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激武士たちが徳島にある稲田屋敷を焼き討ちし、その翌日、洲本城下の稲田氏別邸と学問所、家臣の屋敷を襲撃した。これに対して稲田家側は一切無抵抗を貫いていた。

新政府による処分は、徳島藩側の首謀者ら10人を斬首(後、藩主嘆願により切腹)、八丈島への終身流刑27人、禁固81人、その他謹慎など多数に及んだ。
一方、稲田家側に対しては、稲田家とその家臣に対して北海道静内と色丹島を配地し、兵庫県管轄の「士族」として移住、開拓を命じた。それに応じて稲田家当主以下主従たちとその家族540名余りが北海道に移住した。これを「稲田事件」と言う。

洲本を含む津名郡の一部は、明治4年(1871)5月、徳島藩から兵庫県に編入された。その後、廃藩置県により徳島藩は徳島県となるが、同年6月14日の第1次府県統合により徳島県は兵庫県津名郡を含めて名東(みょうどう)県となった。明治9年(1876)の第2次府県統合のときに淡路島全島が兵庫県に統合されて現在に至る。

なお、士族と卒族とを区別する基準は藩によりまちまちであったと言われており、廃藩置県後の明治5年(1872)1月、卒の廃止が実施され、明治8年までに士族に編入された。

明治4年(1871)になって、徳島藩主が兵制を改めてイギリス式からフランス式とするに際してその教授役に推挙された。

しかし、居住地である洲本が兵庫県に編入されるなど、時代の趨勢から、ただ士族というだけで家禄を受け、何の仕事もせずに徒食することの出来る身分に疑問を感じ、独立して自立の道を求める決意をして、明治6年(1873)2月、単身で上京した。

(3)平野富二との出会いと築地活版製造所入社
曲田成は、僅かな金銭しか持たず、苦労を重ねながらようやく東京についたが、身寄りや知己はなかった。持参した金銭も底をついて進退窮まった頃、東京神田和泉町に活版製造事業を営み、そのために人材を求めていた平野富二と偶然に出会った。

お互いに天下国家を論じ、国を憂い、新しく事業を興して国の為に貢献する意欲に共感して、平野富二に誘われるままに活版所に入社した。その時期は、明治6年(1873)5月とされている。つまり、平野富二が神田和泉町では手狭となったため、築地に土地を求めて活版製造所を移転する準備を進めていた頃である。

徳島藩では一小隊の司令官を勤めた経験しかない曲田成は、物造りの経験は全くなく、すべてを平野富二の指示に従って仕事を行わざるを得なかった。そこで、活版事業を基礎から学ぶために、自ら志願して活字・活版の配達夫となり、累進して鋳造係となった。

当時の活字鋳造は、片手に持った活字鋳型に、他方の手に持った柄杓で熔融鉛合金を流し込み、直後に鋳型を大きく振り上げてから、固化した活字素材を鋳型から外す一連の操作で行われていた。そのため、こぼれて飛散した高温の鉛合金が手足や顔面に当たって火傷が絶えなかったという。
平野富二が上京したときに長崎から活字手鋳込機械3台を持参したとの記録がある。これはハンドポンプと称する手押し式ポンプにより鋳型をポンプの排出口に押し当てて熔融鉛金属を注入するものであった。しかし、当時は活字の需要が急激に増大しつつあったため、ハンドポンプ3台だけでは足りず、新人には旧式の方法で活字鋳造を行わせていたと見られる。

当時は、ようやく中央官庁や地方府県庁での布告・布達類の活版印刷化が進み、新聞業界でも活版の需要が増大し、地方への活版普及が始まりつつあった。神田和泉町にあった崎陽新塾出張活版製造所は手狭となり、それに対処するため築地に土地を求めて工場を新築し、明治6年(1873)7月、ここに移転して活字・活版の生産体制を整えると共に、印刷機の本格的製造に着手した。

明治9年(1876)になって、淡路島洲本の先覚者安部喜平が自宅に活版所を設立するに当たり、東京の築地活版製造所で働いている同郷の曲田茂に連絡して、活版印刷設備一式を購入したと見られる。

『洲本市史』など地元の資料では、安部喜平は本木昌造が苦心の末活字の製法を発明して東京に活版製造所を創設したことを知り、洲本の曲田成を東京の活版製造所に派遣して研究させ、曲田は明治9年(1876)5月に印刷機と活字を購入して洲本に帰ったとしている。しかし、この記述は曲田成の伝記と相違する。

安倍喜平は、慶應2年(1866)2月、人材養成のための家塾「積小軒」を創設している。そこで学んだ精鋭たちの中に、後に報知新聞社主となる三木善八が居る。兵庫県令神田耕平が、政府の新聞発行奨励策を受けて、三木善八(1856-1931、淡路の津名郡上物部村出身)らに積極的な働きかけを行い、港新聞社を設立して明治5年(1872)5月に『神戸港新聞』を創刊した。そのとき、東京神田和泉町の文部省御用活版所で支配人兼技師を勤めていた茂中貞次が活字類を携行して印刷指導を行っている。その後、三木善八は、安倍喜平の招きで淡路島に戻り、淡路新聞社の社員となって『淡路新聞』の発行を行っている。
したがって、情報のルートは、安倍喜平⇒三木善八⇒茂中貞次⇒平野富二⇒曲田成、とするのが妥当と見られる。

この機会を利用して曲田成は、家禄奉還の願書を徳島にある名東県の県庁に提出すると共に、安部喜平に活版設備一式を届けるため淡路島洲本に出張したと見られる。

曲田成は、徳島藩から士族としての家禄を与えられていた。徳島藩は藩籍奉還により徳島県となり、さらに府県統合により名東県(みょうどうけん)なったため、当時は名東県士族として県から家禄を支給されていた。

しかし、平野富二から、長崎地役人だった兄が家禄を得ていたが、維新後に僅かな資産を与えられて家禄を没収されたため苦労している一方、自分は自主独立の道を選んで現在に至っていること、祖先が得た資格だけで何もせず安穏に暮らして行ける華士族の在り方に疑問を持っていることなどを聴かされた曲田成は、自活の道を得た現在、自分の得ている家禄を返還することを決意していた。

曲田成は、長文の「乞家禄奉還書」を作成し、平野富二の添え書を得て名東県権令富岡敬明に明治9年(1876)6月26日付けで提出した。その内容は『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田君畧傳』に全文が紹介されている。

ここでは、平野富二の添え書だけを現代文に直して紹介する。
「前書願意の通り、曲田成とは4年前から居食を共にし、かねてから同人も何の仕事もせずに食するだけの生活を悔い、日夜、仕事に励み、志を同じくして、既に生活の道も定まった状態に至りました。私としましても間違いなく保証いたしますので、なにとぞ、本人の願いの通り、ご採用下さりたく、奥書を認めました。」

このような家禄奉還を出願する行為は、当時、稀なこととされ、名東県知事は銀杯1個を曲田成に賞品として賜った。

政府は、明治6年(1873)12月に外国債に基づき秩禄奉還の法を設けたが、外国債だけでは秩禄の買い取り資金には足りず、明治8年(1875)7月、この制度を廃止した。明治9年(1876)8月になって、明治5年から3年間の平均米価で換算した金で禄を支給することとした金禄公債証書発行条例を公布し、禄の種類と金額に応じて5ヶ年から14ヶ年分に相当する額面の公債を与えてすべての禄を廃止した。

このとき、曲田成は洲本を訪問して地元の安部喜平に活版印刷設備を届け、活版印刷の基礎を伝授して帰京したと見られる。明治10年(1877)3月8日、安部喜平は『淡路新聞』を創刊した。これは、淡路島で最初に発行された新聞とされている。

図3-2 『淡路新聞』、第1号、表紙
《 国立国会図書館所蔵、請求記号:WD-180 》
『淡路新聞』は淡路新聞社(洲本新町450番地)から創刊された。
社主は安倍喜平、編集長は岩根瑞枝、印刷人は渡辺三千太で、
社員に三木善八、炬口又郎らがいた。
明治10年(1877)2月に勃発した西南の役の記事が多い。

明治11年(1878)9月、本木小太郎が所長(平野富二は後見人)となった築地活版製造所では藤野守一の下で会計掛の一員となっていた。

(4)築地活版製造所で頭角を現す
明治12年(1879)、曲田成は、平野富二から抜擢されて上海に出向を命じられ、四号と六号の明朝書体を改良して、翌13年(1880)春に帰国した。それまでの活字は上海美華書館で使用していた書体の明朝体をそのまま使用していたが、雑駁で雅致も趣味もないものと見做されていた。活版の普及に従い、字体の良否に関心を持たれるようになったことから、平野富二はこれを曲田成に一任した。

明治13年(1880)9月、曲田成は、平野富二に随って函館に赴いた。地元の有力者である渡辺熊四郎らに協力して、同地に保管されていた海軍省所有の造船器械類を払下げて貰い、函館器械製作所の設立に参画した。同年10月下旬になって平野富二が帰京した後も現地に留まり、平野富二の代理を務めた。

この事実だけから見ると、何故、平野富二の造船事業にも曲田成が関与することになったのか疑問に思われる。函館の渡邊熊四郎は、平野富二が土佐藩に雇われていたとき、長崎土佐商会の持ち船で会計を勤めており、その時に面識を得たと見られる。その面識により、渡邊熊四郎が函館で『函館新聞』を創刊するに当たって平野富二から活字と印刷機1台を購入している。
明治12年(1879)12月の函館大火で罹災したため、明治13年(1880)になって渡邊熊四郎は再び平野富二から活字と印刷時を購入している。この応対をしたのが曲田成であったと見られる。曲田成が渡邊熊四郎の信頼を得ていることを知っていた平野富二は、自分の代理人として曲田成を函館に同道させたと見られる。

明治14年(1881)9月、築地活版製造所の支配人桑原安六の退社に伴い、曲田成は函館から呼び戻されて、後任の支配人和田国雄、副支配人藤野守一郎の補助となる。この頃になると築地活版製造所は繁栄の極みに達していたようで、桑原安六が店先で金製の「鉈豆煙管-なたまめきせる」を吸って成金趣味を見せびらかしていたことから、平野富二はこれを戒めて退社させ、独立の道を歩ませたという。

明治17年(1884)3月、活版製造所に初めて印刷部が新設された。そのため、業務がますます複雑化するに及び、同年11月、支配人和田国雄の退任により、曲田成は支配人に抜擢された。

明治18年(1885)6月、会社組織を変更して有限責任東京築地活版製造所となった時に、社長平野富二、副社長谷口黙次、取締役松田源五郎、同品川藤十郎の重役の下で、曲田成は支配人に就任した。副支配人として藤野守一郎がなった。

明治22年(1889)5月、平野富二が東京築地活版製造所の社長を辞任したのに伴い、曲田成は支配人を退任して工務監査(役)に転じた。この時期のことを、畧傳では「繁劇の身に少しく其閑を得たるを以て、傍ら益々工事を攻究したり。」(繁忙を極めた身に、少しの閑暇を得たことから、業務のかたわら製造上の事柄について深く研究した。)と述べている。

(5)東京築地活版製造所の社長としての事績

明治22年(1889)12月30日、曲田成は、東京築地活版製造所の臨時株主総会において経営改善7ヶ条の条件を委任されて社長に就任した。翌31日、事務員一同に辞職届を提出させ、各部の職工を解雇した。

年明け早々の明治23年(1890)1月2日、経営改革に協力する事務員を再雇用し、その中から信任の度合いに応じて事務を分担させた。また、職工の再雇用などを行わせた。
なお、明治22年と同23年の職工数を見ると、男性214人が5人減、女性30人が21人増となっており、男性に代えて女性を増やしたと見られるが、大幅な変動はない。

当時、不景気が続き、業界内での極端な過当競争により収益が上がらず、会社解散の危機に遭遇していた。『印刷雑誌』創刊号(明治24年2月28日)に寄稿した集英舎の佐久間貞一によると、「印刷業の状況は実に甚だしい。その原因は、無制限の競争から発する弊害に外ならない。(中略)今日の有様は、職工の工程も顧みず、賃金も問題視せず、いたずらに値段の引き下げ競争に走っている。このような競争をすれば、早晩、必ず活字屋と職工とが窮地に陥ることは免れない。」と述べている。

このような苦境の中でも、明治23年(1880)4月1日から開催された第三回内国勧業博覧会に活字類を出品し、進出賞牌を授与された。

経営改革の一環として、同業者間の話し合いの場となる同業組合を設立するため、明治23年(1890)11月24日、製紙分社陽其二、博聞社長尾景弼、築地活版所曲田成、日就社子安竣、尾張町活版所桜井敬三、集英舎佐久間貞一、国文社桐原捨三等が主唱者となって同業者65名が築地の割烹料理店寿美屋に参集して協議会を開いた。協議の上、規約27ヶ条を定め、事務委員7名を選挙した。曲田成を含む事務委員の中から互選により頭取として佐久間貞一が選ばれた。

同年12月13日、同業組合設置願書を東京府庁に提出した。願人惣代として長尾景弼、曲田成、佐久間貞一の3人が名前を連ねた。それには、次のように記されている(現代文とした)。

「今般、東京府下十五区活版印刷営業者が申し合せ、本業の進歩を図り、営業上の弊害を矯正し、同業者の福利を進めるため、東京府明治十八年甲第二号達により、右組合を設置いたしたく、別紙の通り盟約つかまつりましたので、速やかに御認可なされて下さりますよう、此段、願い奉ります。」

この願書は、同年12月26日、東京府知事蜂須賀茂韶の認可を得て「東京活版印刷業組合」が設立され、曲田成は事務委員となった。なお、明治27年(1894)1月、役員改選により副頭取として曲田成が選任された。

明治25年(1892)6月、「東京石版印刷業組合」の設立に際し、曲田成は集英舎佐久間貞一、他10氏と共に発起人となり、組合設立後は、事務委員を委嘱され、重任を重ねた。翌26年(1893)8月、「東京彫工会」の製版部長に挙げられた。また、「製版協会」の設立に際して斡旋を行い、翌年、解散して東京彫工会に合併する時、交渉委員となった。

同業者組合の結成については、明治14年(1881)1月、政府の方針に従って東京府知事の行政指導の下にその結成に関する布達が出され、同年2月に東京46工場、横浜2工場の48工場が参加して「活版印刷営業組合」設立願書が東京府知事に提出された。しかし、有力な指導者が居なかったため、組合設立には至らなかった。
明治17年(1884)になって政府は「同業組合準則」を制定して秩序の回復を図り、明治18年(1885)1月に東京府の布達により再び組合決済の勧奨があったが、この時も業界内が纏まらず、立ち消えとなってしまった。

東京築地活版製造所は、その設立の経緯が、長崎の新町活版所に活字・活版を供給する活版製造会社であったことから、明治17年(1884)3月に印刷部が新設されるまでは、活版印刷に必要な活版と活版印刷機を中心とする機器・資材を製造することを主務としていた。そのため、印刷を専門とする会社とは趣を異にしていた。同業組合に加入するにしても、あえて活版印刷業界のリーダーとしての立場は差し控えていたと見られる。当時、平野富二は造船事業分野で多忙を極め、明治19年(1886)5月には脳溢血を発症し、その後、業務を控えて静養に努めていたこともある。

新しく発足した「東京活版印刷業組合」の機関誌として、明治24年(1891)2月28日、『印刷雑誌』が集英舎から発刊された。

その創刊号に掲載された発刊の趣旨として、「今日に至り東京府下のみでも150社余りの同業者が存在していて盛んであるが、欧米の印刷術に較べると、意匠の巧妙さ、印刷の鮮麗さに於いて未だに及ばない。わが国の印刷術を欧米諸国と同等にするためには、学理に通じ、知識を拡め、競争と奨励の方法を設け、印刷術の研鑽を行わせる必要がある。そのためには印刷雑誌の発行が必要である。」(要約)と述べている。

また、社告として、「活版、その他諸版の印刷、木版・銅版の彫刻、石版・電気版・亜鉛版等に従事する諸君、ならびに、鋳字匠・製本匠・紙商・雑貨商・器械匠諸君のために有益な記事・広告等を掲載することに努め、これらの諸職業に従事する諸君は実業上の経験・発明に関わる事柄、営業の景況等の報告を提供して欲しい。」(要約)と述べている。

この『印刷雑誌』の発刊に際して、曲田成は福地源一郎(桜痴)に原稿の執筆を依頼して、創刊号から第3号までに「本木昌造君ノ行状」と題して故本木昌造の伝記を連載し、本木昌造の偉業を顕彰するため同紙を数百部購入して同業者に頒布した。

また、それに続いて同誌の第4号から第6号にかけて「平野富二君ノ履歴」を連載した。この「平野富二君ノ履歴」を連載するに当たって編纂した原稿を、同年3月、『長崎活版所東京出店ノ顛末幷ニ継業者平野富二氏行状』(非売品、42ページ)として活版印刷し、小冊子とした。これを初稿として、今後の経歴や誤り、補足事項を加えて増補訂正する予定としていたが未完に終わった。

図3-3 『長崎活版所東京出店ノ顛末幷ニ継業者平野富二氏行状』の表紙
《平野ホール所蔵》
『印刷雑誌』(第4号~第6号)に掲載の「平野富二君ノ履歴」原稿で、
曲田成が中心となって編纂されたものと見られている。
長崎時代の平野富二については、
福地源一郎(桜痴)の編集になる原稿が引用されている。

この年、岡倉天心、九鬼隆らによって『国華』第1号が国華社から発行され、東京築地活版製造所はその印刷を行ない、高度な製版・印刷技術を披露した。
また、同年11月24日には、曲田成が訳述兼発行人となって『実用印刷術袖珍書』(Sauthward “Practical Printing”、4版)を発行した。

図3-4 明治24年当時の東京築地活版製造所の絵図
《 印刷雑誌』(明治24年9月28日発行)の広告として掲載》
経営危機を脱し、煙突から盛んに黒煙を出し、活況を呈している。
右端の二階建て大形煉瓦建物は、築地に移転時の木造仮工場を建替え、
前面道路際まで増設されている。

同年12月2日、平野富二が鋳物業界の会合で演説中に脳溢血を発症し、翌日、死去した。

平野富二の墓所には東京築地活版製造所から石灯籠1対が献納され、その筆頭に曲田成の名前が刻まれている。向かって左側の石灯籠の台座に東京築地活版製造所社員14名、右側に16名の名前が刻まれている。

図3-5 平野家墓所にある石灯籠台座の刻字写真
向かって左側の石灯籠台座に刻まれた14名の氏名は次の通り
曲田成(社長)、松田源五郎(取締役)、谷口黙次(取締役)、
西川忠亮(取締役)、野村宗十郎(支配人)、竹口芳五郎(彫刻部)、
釜田鍋太郎(明治11年9月には徒弟室)、松尾篤三(畧傳の著者)、
湯浅丈平(会計)、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、
木戸金朔(販売)、仁科衛。
なお、括弧内は当時の役職等を示す。

明治26年(1893)5月1日から10月3日までアメリカのシカゴで開催された万国博覧会に写真家小川真一が出席する際、曲田成は餞別を含めて5,000円を渡し、写真製版関係書籍の購入を依頼した。同年、新部門として東京築地活版製造所内に写真製版部門を開設して共同研究を行い、明治27年(1894)になって、小川一真の指導による写真製版と印刷を開始した。

同年7月28日に発行された『印刷雑誌』第3巻第6号の誌上で曲田成は「交換作品募集の呼びかけ」を行い、全国の印刷業者を対象として印刷技術の向上を目指した印刷物見本交換を企画した。

制定した規則によると、
会の名称:   全国印刷業者製作印刷物蒐集交換会
見本交換事務所:東京築地活版製造所構内に置く
見本到着期限: 10月31日
用紙の寸法:  縦1尺5寸、横7寸7分5厘、綴料1寸
製本の送付:  交換員(販売、譲与は禁止)
製本料・その他の費用については後日通知

この企画は、『印刷雑誌』第1巻、第2号に掲載されたイギリスの大手印刷出版社British Printerの「印刷様本ノ交換」を手本としたものである。

全国の印刷業者から同年10月31日までに寄せられた印刷物118点を纏めて製本し、同年12月に『花のしをり』と題して見本を提供した交換人に配布した。
曲田成は、その1冊を帝国博物館に納入し、それにより官から木盃を賜った。また、British Printer社に見本の一部を送ったところ、1894(明治27)年2月19日付けで編集長から書状が送られてきた。

図3-6 『花のしをり』の表紙
《もと板倉文庫所蔵》
第一回印刷物見本交換事務所(東京築地活版製造所内)から
明治26年(1893)12月製本として、118点の作品が綴じられている。
第二回の印刷物見本交換実施中に曲田成が死去し、野村宗十郎によって
明治27年(1894)11月に111点の作品が製本され、配布された。
以後、明治31、35、41年まで合計5回『花のしをり』として配布された。

同年8月、社内の人事異動を行い、副支配人だった野村宗十郎を支配人に昇進させ、会計課長湯浅丈平、販売部長木戸金朔、印刷部長上原定次郎とした。

明治26年(1893)12月12日、商法実施条例に基づき定款を作成し、東京府知事を通じて農商務大臣に「定款認可願出御進達願」を提出した。同月25日に認可され、同月27日、株式会社として登記された。社名は株式会社東京築地活版製造所、資本金8万円、専務取締役社長曲田成、取締役松田源五郎、取締役西川忠亮。

曲田成は、社長就任以来、活字の改刻を進め、その結果を『印刷雑誌』に毎号のように広告として掲載している。
『印刷雑誌』の広告以外にも、明治25年(1892)1月に『二号明朝活字書体見本 全』(分合活字を含む)を発行し、明治27年(1894)1月に『座右の友』を発行して初号-5号明朝、初号-5号楷書、1、2号片仮名、4、5号平仮名を紹介している。明治27年(1894)7月にはポイント制活字として10ポと9ポの母型が完成し、活字を販売開始したが、時期尚早であまり売れなかったという。

また、特殊印刷分野として、明治27年(1894)6月1日から明治30年(1897)にかけて清国の九江、重慶、宣昌、鎮江、南京の信書館から合計102種類の郵便切手と大清国郵政局の蟠龍切手を受注し納入している。

曲田成の出版物としては、先に幾つか紹介した以外に、明治27年(1894)9月4日、曲田成編『日本活版製造始祖 故本木先生詳伝』を発行し、相当部数が無償で配布された。同年9月8日には、曲田成編『実用印刷術袖珍書 第九』を出版している。

明治27年(1894)同年10月11日、曲田成は播但鉄道会社の用務で姫路に出張した。同鉄道は同年7月26日に姫路―生野間が開通して開業し、引き続き姫路―飾磨間の建設を行っていた。ところが、同月15日、午後1時、曲田成は出張先で急性脳溢血を発症し、翌16日、姫路の客舎において死去した。享年49。

直ちに電報で東京築地の自宅に通知された。遺族は姫路に向かい、遺骸を東京に移した。それを知った東京築地活版製造所は、広島市大手町2番地のキバセンジロウ方に居た貴族院議員名村泰蔵に電報で曲田成の死去を通知している。すでに社長後継者として内諾を得ていたのかも知れない。

曲田成は播但鉄道会社の設立に協力し、明治26年(1893)7月には監査役に就任していた。
播但鉄道会社は、明治26年(1893)7月に認可を受けて設立された私設鉄道で、資本金100万円(当初)、社長藤田高之、本社は東京市京橋区日吉町(現、中央区の一部)であったが、同年9月、姫路の西魚町に本社を移転し、東京には出張所が置かれた。
明治28年(1895)4月14日、当初計画の飾磨から生野までの区間が全通した。その後、明治29年(1896)5月に生野から和田山までの延長の本免許が下付されたが、生野からその先の新井までは難工事が多く、新株増資が十分に行われなかったため、社債を発行して工事を完遂させた。その結果、莫大な負債と折からの不況で経営が悪化し、途中の新井まで開通したところで建設を終了させた。明治36年(1903)3月、三洋鉄道と売却の仮契約を結び、播但鉄道は解散することとなった。

明治27年(1894)10月21日、曲田成の葬儀が挙行された。東京活版印刷業組合頭取佐久間貞一が「曲田成君を弔う文」を述べ、菩提寺の住職と見られる密厳末資栄隆が「曲田成氏を追弔す」を朗読した。遺骸は東京府白金大崎村に葬られた。

同月23日、東京築地活版製造所支配人野村宗十郎の名前で有力新聞に一斉に黒枠広告を出した。それには次のように記されている。
「故曲田成 葬送之節ハ 遠路之處態々御會葬被成下 御厚志之段奉謝候 乍畧儀 此段新聞紙上ヲ以テ御厚礼申上候 明治廿七年十月廿二日 養子 曲田甲子二郎 親戚惣代 湯浅丈吉」

遺族は妻と二人の娘で、伊藤家から養子甲子二郎を迎えて長女に配し、甲子二郎は喪主を務める。親戚惣代となった湯浅丈吉は東京築地活版製造所で会計を勤めている人で、実際に親戚であったかどうかは不明である。

曲田成の功績について、その要点が『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉取材)に次のように記されている。
「明朝活字の改良に在ることを特記せねばならぬ。即ち今日の築地形と称する明朝体は氏の時代に於いて初めて改良されたのであるから、如何に氏がこの点に努力を傾注したかを思うべきである。また、印刷事業をして他の産業部門の上位に置くべく、一般社会人の認識を高めることに精進したこと、東京活版、石版両組合の組織にあたって、自ら進んで斡旋人力したその功績は没すべからざるものがある。またさらに、活字製造業者の習癖である秘密主義や隔壁を設けることが、ひいては活字改良に悪影響を及ぼす所以を喝破し、堂々、見本交換その他に範を垂れた一事の如きは、氏の明朗な性格の一面であるといえる。」

明治27年(1894)10月、東京築地活版製造所の株主総会で名村泰蔵(大審院長心得)が曲田成の後を受けて専務取締役社長(第4代)に就任した。

あとがき
明治27年(1894)10月に発行された『印刷雑誌』に「曲田成氏の逝去」と題した一文が掲載された。さらに、明治28年(1895)10月16日には、曲田成の一周忌を記念して、松尾篤三が編輯兼発行者なって『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君畧傳』が非売品として株式会社東京築地活版製造所から発行された。序文は福地源一郎が寄せ、跋(奥書)は東京築地活版製造所社長名村泰蔵が寄せている。本稿は多くをこの畧傳に拠った。

曲田成の戒名(仏号)は「得芳院慈運明成居士」であるが、その墓所は白金大崎村としか分かっていない。大崎村は、明治22年(1889)から同41年(1908)にかけて荏原郡に属していた。白金大崎村は存在しないが、上大崎村・下大崎村・居木橋村・桐ケ谷村、芝区白金猿町の一部を合併して成立したことから、芝区白金猿町の一部(現在の高輪3丁目の一部と白金台2丁目の一部)にある寺院の墓地と見られる。

2018年12月15日、稿了

第二代社長 (空席)、社長心得 本木小太郎

(1)社長空席により本木小太郎の社長心得就任
明治22年(1889)6月17日、有限責任東京築地活版製造所は株主総会を開催し、定款を改正して、平野富二は社長を辞任した。次いで、株主による投票で取締役を選出した結果、松田源五郎と谷口黙次の2人が選出された。松田源五郎は長崎で十八銀行頭取を、谷口黙次は大阪で活版製造所社長を務めているため、社長は空席のまま、創業者本木昌造の跡継ぎである本木小太郎を社長心得に指名した。

図2‐1 本木小太郎

松尾篤三編『曲田成君略伝』によると、平野富二は、本木小太郎が海外留学から帰国したことから、社長の職を本木小太郎に譲り、創業者本木昌造の遺志に応えようとしたと述べている。しかし、本木小太郎は事業運営に関心が薄く。社長の任に堪えないことから、社長心得の座を設けたと見られる。

定款では、株主の投票により20株以上所有する株主の中から3名を選出し、互選によって社長1名、その他の2名を取締役とすることになっていた。ただし、社長を選出できない場合は、仮に社長心得を置くことがあるとしていた。

新体制では社長が空席となるので、今まで社長平野富二の下で副社長を務めていた谷口黙次を取締役兼社長代行としたと見られる。これまで平野富二の下で支配人を務めていた曲田成は工務監査となった。

東京築地活版製造所は、明治22年(1889)12月30日、臨時株主総会を開催して会社の存廃を論じた結果、経営改革7項目が設定され、その実行を委任されて曲田成が社長に選任された。それに先立ち、短期間の内に数次にわたる臨時株主総会が開催されて、経営危機の打開策が論じられたが、結論を出すことが出来なかったという。

当時の経済社会は、明治14年(1881)以降の松方内閣による思い切ったデフレ政策の影響を受けて、保護育成の対照から外れた一般産業は困窮と共倒れの苦境に見舞われた。
東京の印刷業界では、東京府の指導の下、明治14年(1881)2月、東京46工場、横浜2工場が参加して「活版印刷営業組合」の設立願いを東京府知事に提出したが、意見が纏まらず成立しなかった。この頃、平野富二は造船事業で函館、続いて新潟に出張するなど多忙を極めていたことから、印刷業界での指導的立場を発揮することができなかったと見られる。
政府は、明治17年(1884)になって、「同業組合準則」を制定して秩序の回復を図り、明治18年(1885)1月、東京府の布達により再び組合結成の勧奨がなされたが、印刷業界では内部の意見が纏まらず、立ち消えとなってしまった。

東京築地活版製造所は、明治23年(1890)1月、再び臨時株主総会を開催し、社長は曲田成のまま、松田源五郎と西川忠亮の2人が取締役に選出された。社長心得の本木小太郎は病気を理由に退任し、取締役だった谷口黙次は大阪活版製造所の社長に専念することになった。西川忠亮(初代)はインキ商西川求林堂の社長で、大株主だった。

牧治三郎編『京橋の印刷紙』によると、本木小太郎の明治22年(1889)頃の納税記録は所得税34円20銭で、印刷業界で2位の高額所得者であった。因みに、曲田成は8円40銭であった。当時は、年間300円以上の所得者を納税資格者として、最低金3円が課税された。

このことから、名前ばかりで高額所得を得ている本木小太郎に対しても、経営改革7項目の一つに挙げられていたと見られる。

なお、明治期の『東京府管内統計表』によると、東京築地活版製造所の明治21年と同22年の従業員数は、251人と244人で7人減、製出代価は75,488円と128,916円で53,528円増となっている。この二つの指標だけから見ると、経営上の問題は全く見られないが、実態は業界内での過当競争による値引き合戦で、売上高は増大したが、その分、収益の悪化に繋がったと見ることができる。

(2)本木昌造存命中の本木小太郎
本木小太郎は、安政4年(1857)9月18日、オランダ通詞本木昌造とその妻縫の二男として生まれた。数え年2〔満年令0歳10ヶ月〕のとき、母縫が21歳の若さで死亡した。翌年、長男昌太郎も6歳で病死したため、小太郎は本木家の継嗣となった。

その後、母縫の従妹に当たる大和屋喜太郎の姉タネが継母となった。元治1年(1864)10月15日に異母弟清次郎が出生し、慶應2年(1866)11月23日に異母弟昌三郎が生まれた。清次郎は明治12年(1879)8月18日に16歳で死亡、昌三郎は明治42年(1909)7月16日に45歳で死亡している。

慶應1年(1865)、数え年9のとき、本木昌左衛門久美の孫としてオランダ稽古通詞、無給を仰せ付けられた。慶應4年(1868)、数え年12のとき、祖父昌左衛門から家督を相続して家業であるオランダ通詞の業給を受けるようになった。父親の本木昌造は長崎製鉄所の取締助役として業給を得ていることから、家業としてのオランダ通詞の業給は、祖父から孫に相続させることを願い出て認可された。

改元されて明治となった12月8日、これまでの役名を廃され、新政府の下で通弁稽古を申し付けられ、手当・扶持はこれまで通り下し置かれることとなった。

明治3年(1870)頃に長崎製鉄所の機関方見習となった記録があるが、翌年11月には、無役となっていた本木小太郎は、農商入籍を願い出て認可され、資金として100両を下付されている。

この年の3月に本木昌造は長崎新町に新街私塾を開設しており、その8月、本木小太郎は数え年14で新街私塾の組親の一人となった。当時の新街私塾は世話懸、組親、助親、当番によって運営されていた。
翌年の12月12日、本木小太郎を含む新街私塾の4人は、1年間の囚獄を申し渡された師の池原大所(香稺)に代わってその罪科を償いたいと長崎県知事に嘆願書を提出している。

明治5年(1872)6月7日、隠居していた養父本木昌左衛門〔祖父、隠居名:昌栄〕が病死した。享年72だった。相次いで同年12月27日には、養母たま(祖母、万屋浅左衛門二女)が病死した。享年59だった。

明治5年(1872)に編成された壬申戸籍では、戸主は本木小太郎、実祖父昌左衛門久美を父本木昌栄、実父昌造永久を本木昌三と記録されている。この頃は、長崎外浦町682番051番屋敷に居住していた。本木昌造が長崎府に提出した文書にも同じ住居表示で記載されている。

明治6年(1873)6月の新街私塾の生徒名簿には、本木小太郎の名前が16歳10ヶ月として記録されている。

(3)本木昌造死去後の本木小太郎
本木小太郎は、明治8年(1875)9月3日、数え年19のとき、実父本木昌造が病死した。享年52だった。これに伴い、本木小太郎は新街私塾、新町活版所、大阪の新塾出張活版所、東京の新塾出張活版製造所のオーナーとなった。

新街私塾については、学制の公布により私塾としての役割を終えたとして、明治8年(1875)               限りで私塾を閉鎖し、塾の予備金100円余りを長崎県下の各小学校に学資の一部に供するため、長崎県庁に献納した。
また、新町活版所は本木昌造の門人だった境賢治に経営を一任した。

明治9年(1876)9月、本木昌造の一周忌で長崎に帰った平野富二に伴なわれて、本木小太郎は上京して、築地活版製造所に職を得た。
その2年後の本木昌造没後三年祭に際して、本木小太郎は平野富二に伴なわれて長崎に帰郷した。このとき、平野富二からの申し出により、築地活版製造所の資産一式9万円が本木家と出資者に返還された。
本木小太郎は、築地活版製造所の所長となり、平野富二は小太郎の後見人となった。

平野富二は、明治9年10月30日に海軍省と契約して石川島修船場の跡地を借用し、石川島平野造船所を開設した。その設備増強のため、ドック戸船用予備資材や旧鋳物所の払下げを受けたとき、提出する代金納入証書に本木小太郎が保証人となって捺印している。

築地活版製造所の経営を学んだ本木小太郎は、明治13年(1880)3月、数え年23のとき、平野富二の配慮で欧米に工業視察と研修に赴いた。これに関して、平野富二の「金銀銭出納帳 明治13年3月改」に、「金五十六円 本木殿へ餞別銀貨」とある。海外で通用する銀貨を餞別として与えている。

同年中には帰国したらしく、その12月29日に長崎の住居を外浦町7番戸〔682番105番屋敷の改正番地〕から同町43番戸に移転している。当人は東京に寄留していたので、長崎に残された家族のための転居と見られる。

明治14年(1881)3月1日から開催された第二回内国勧業博覧会に本木小太郎の名前で印刷機械、各種活版、字見本帖を出品し、二等有効賞牌を授与された。

図2-2 第二回内国勧業博覧会への出品
出品者:本木小太郎、製作者:桑原安六
印刷機械:ロ型(ロール型)とフート型(足踏型)の2種
活版:明朝風、清朝風、朝鮮書体、片仮名、平仮名、横文字の36種
字見本帖(西洋紙、西洋綴、各種書体印刷):1冊

この年の9月、数え年24のとき、品川藤十郎の長女ミネと結婚している。しかし、翌年の明治15年(1882)になって、海外留学に出発し、明治22年(1889)までの7年間、日本を留守にしている。イギリスのロンドンに滞在していたと見られるが、場所や勉学内容などについては不明である。その間、何度か一時帰国しているように見受けられる。

ロンドン滞在中の1885(明治18)年5月から6か月間、イギリスでロンドン万国発明品博覧会が開催されることになり、同年1月、出品者である長崎県平民本木小太郎の代理として平野富二が東京府を通じて農商務省に出品願書を提出している。

図2-3 ロンドン万国発明品博覧会への出品願書
この願書により、本木小太郎が「活版と印刷見本」を出品したことが分かる。
事務局の要求で、別途、「活版事業創始の説明書」を提出している。

本木小太郎が所長となっていた築地活版製造所は、明治18年(1885)6月26日、有限責任の株式会社となった。それに伴い、株主総会で役員選出が行われ、社長平野富二、副社長谷口黙次、取締役として松田源五郎、品川藤十郎、曲田成の3人が選出された。支配人として曲田成、副支配人として藤野守一郎がそれぞれ重任された。本木小太郎は海外留学のため選出されなかった。

一方、同じ頃に大阪活版所も有限責任の株式会社となり、ここでは本木小太郎が不在のままで社長に選任された。しかし、同年10月になって、社長本木小太郎が洋行中であることから、谷口黙次が社長に就任し、取締役として酒井三造、肥塚與八郎、吉田宗三郎が選任され、支配人は吉田宗三郎が兼任した。このとき、社名を大坂活版製造所と改めた。

明治19年(1886)11月、長崎の家族は外浦町37番戸から同町5番戸2号に移転している。後に、この場所を含めた一帯の土地にグランドホテルが建設され、その入口に本木昌造の旧居跡として記念碑が建てられたが、グランドホテルの建物が解体されたため、記念碑も撤去されたままになっている。
本木小太郎は一時帰国したと見られ、明治21年(1888)10月20日に長女恵美が誕生している。

明治22年(1889)6月、本木小太郎は7年間の海外留学から帰国し、東京築地活版製造所に社長心得として迎え入れられた。

(4)社長心得退任後の本木小太郎
明治23年(1890)1月、本木小太郎は病気を理由に築地活版製造所の社長心得を退任した。その後は、父本木昌造の門人たちを訪ねて各地を転居しながら、療養に努めたう。

明治43年(1910)9月13日、本木小太郎は東京の療養先で死亡した。享年57だった。最後の療養先は、三間印刷所を経営する三間隆次(谷口黙次の次男)宅だった。
死亡時の本籍地は長崎市外浦町5番戸2号で、長崎の大光寺にある本木家墓所に埋葬された。

その間の家族の動向は、明治23年(1890)に長男昌国が誕生し、同26年(1893)3月になって妻ミネと離婚している。明治38年(1905)1月には長女恵美が18歳で病死し、明治42年(1909)9月に長男昌国が19歳で病死している。このため由緒のある本木家の直系を継ぐ者は居なくなってしまった。

(5)本木小太郎を支えた谷口黙次
谷口黙次とその次男三間隆次の親子は、共に本木小太郎を終生にわたり支援し、面倒を見ていた。場合によると、本木小太郎の海外視察や留学に次男隆次が付き添っていたのではないかと推測される。

谷口黙次は、弘化1年(1844)、長崎奉行所普請方谷口杢治の三男として生まれた。平野富二よりも2歳年長だった。

図2-4 谷口黙次(初代)

図2-5 谷口黙次の次男三間隆次

谷口黙次は、幼なくして本木昌造の経営する新街私塾に入門し、基礎教育を受けた。その後、本木一門に加わった。

明治3年(1870)4月頃、大阪に長崎新塾出張活版所が開設されるに当たり、幹部の一人として大阪に派遣された。素質と能力が優れていることから、内外の信用を得て、所長の酒井三造は谷口黙次を所長代理として内外の業務一切を任せるようになったという。

明治6年(1873)に、たまたま長崎に帰省中だった谷口黙次は、天草で活字の原料となるアンチモニーの良鉱が発見されたとの報告を得た本木昌造から、実地調査を依頼されて現地に赴き、採鉱を繰り返した結果、ついに良質な鉱脈を発見した。

時代の流れで、明治7年(1874)頃には、活版印刷が世間に認知されるようになったことから、大阪の活版所は相当の成績を挙げられるようになった。そこで、谷口黙次は再び大阪に派遣されて支配人となった。
同年、京都烏丸通三条上ルに在った點林堂を大阪活版所の支店とし、その支配人を兼務した。

明治8年(1875)春の頃から本木昌造はしばしば病床に就くようになった。5月下旬になって保養のため大阪と京都を気の向くまま訪れたが。そこで病が再発した。谷口黙次は夫人と共に看護に尽くし、長崎から迎えの人を呼び寄せて長崎に帰って貰った。しかし、看護の甲斐なく本木昌造は同年9月3日に死去した。

明治10年(1877)になって、谷口黙次らが中心となって「京阪神活版同盟会」が組織され、大阪18社、京都6社、神戸5社、大津2社の合計31社が参加した。しかし、明治16年(1883)に解散し、続いて大阪で「活版仲間組合」を設立した。これも、明治22年(1889)に解散し、改めて「大阪活版営業組合」が結成されている。

明治11年(1878)春、大阪北久太郎町に1,000坪ほどの土地を購入し、社屋を新築して移転した。名称を「活版製造所」と改め、印刷機器の製造・販売で事業拡張を行った。明治14年(1881)7月に東京の築地活版製造所に派遣していた速水兵蔵と中島幾三郎を大阪に呼び戻して、印刷機械の修繕と製造を担当させた。

明治18年(1885)以降の事柄については、既に述べたので省略する。

第3回内国勧業博覧会が明治23年(1890)4月1日から東京上野公園で開催され、大阪活版製造所谷口黙次として、16片紙ロールマシンと半紙6枚ハンドプレスを出品している。

明治25年(1892)12月3日、平野富二が急死した。谷中墓地の平野家墓所には、東京築地活版製造所の役員・従業員の有志者から石灯籠一対が献納され、その中に、谷口黙次も名前を連ねている。

商法改正により、明治26年(1893)12月、大阪活版製造所は株式会社となり、谷口黙次は初代社長に選任された。しかし、明治33年(1900)1月6日、病を得て卒然と死去した。享年57だった。

谷口黙次の長男は、父の名前を襲名して二代谷口黙次と名乗って大阪活版製造所の経営に携わった。二代社長吉田宗三郎の跡を受けて三代社長となった肥塚源次郎は二代谷口黙次の姉を娶っており、このころから、二代谷口黙次が実質的に経営を行うようになったという。

明治45年(1912)になって、大阪活版製造所は、経営は順調のまま、関係者一同合意の上、解散した。二代谷口黙次は、翌大正2年(1913)に、別途、谷口活版所を創設した。大正3年(1914)3月、谷口印刷所と改称している。

次男の隆次は、三間(みつま)家に養子として入り、東京銀座で石版印刷を営む三間印刷所を経営した。本木小太郎の長男昌国は、蔵前の東京高等工業学校を卒業して、三間印刷所に奉職している。しかし、父小太郎の亡くなる前の年に、若くして死去している。

本木小太郎とその長男昌国は、亡くなる直前まで、三間隆次の世話になっていた。

2018年9月13日 稿了

 

 

初代社長 平野富二

(1)初代社長就任とその実績
株式会社東京築地活版製造所は、登記上、明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このとき、初めて社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

図1-1 不惑を迎えた平野富二の肖像写真

この時の会社規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。

20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたと云う。株主名簿は未詳。

役員は、取締役社長平野富二、取締役副社長谷口黙次、取締役松田源五郎、取締役品川藤十郎、支配人曲田成、副支配人藤野守一郎で、その他は未詳。

それに先立ち、同年4月、大阪において長崎、東京、大阪の出資者が参集し、東京店が所有する大阪店にたいする持株と売掛金の合計3万円、ならびに、東京店が支出した上海店の財産の一部を棄捐して、東京店と上海店を本木家から独立させることとした。その結果、長崎本社と大阪店は本木家の所有とし、本木昌造の嫡子本木小太郎に経営を委ねることになった。

その4年後の明治22年(1889)5月、平野富二は東京築地活版製造所の社長を退任し、その経営から身を引いた。退任の直接の理由は、同年1月、平野富二の個人会社であった石川島造船所を資本金17万5千円の株式組織の有限責任石川島造船所とし、平野富二は常務委員(事実上の社長)に選任されたことによる。さらに、創業者本木昌造の嫡子本木小太郎が長期間の海外研修と視察を終えて帰国したことも勇退を決意した理由と見られる。

平野富二は、明治19年(1886)5月、激務と心労のため脳溢血を発症し、その後、療養に努めたが、さらに発症を繰り返したため、家族や友人の強い要請により業務負担軽減の一環でもあった。

初代社長として在任した4年間の実績は、朝鮮国にハングル活字を納入(明治18年11月)、ロンドン万国発明品博覧会への出品(明治18年5月)、活字版印刷部・石版印刷部の充実(明治19年1月)、需要に応じた各種の文字活字・花形活字・電気銅版の品揃えと、明治15年以来作成した活字の『新製見本』発行(明治21年2月)、中国における活版需要調査(明治22年4月)などである。

このように、販路の海外向け展開、総合活字版印刷事業者としての印刷事業の充実、需要に応じた活字・花形活字などの品揃えがなされたことが分る。

初代社長に就任してからの実績はこのようなものであるが、株式会社組織となるまでの築地活版製造所を設立し、ここまで育て上げたのは平野富二である。

(2)築地活版製造所の前史
築地活版製造所は、もともと、平野富二が本木昌造の要請によって活字製造事業としての長崎新町活字製造所の経営を引き受けたことによって始まる。

この活字製造事業は、本木昌造の活版印刷事業の一環として、さらに遡れば、新街私塾の経営の一環として、長崎新町活版所(活版印刷所)に活字を供給することを目的としていた。

本木昌造は、すでに、自身の研究開発による基礎技術と、上海美華書館のギャンブルによる伝習によって得られた製造技術を習得していたが、思うような品質の活字を安定して製造することが出来ず、不良品の山を築くばかりの状態に立ち至っていた。すでに資金も枯渇寸前で、おまけに、健康不安も重なり、本木昌造は気力・体力を共に失いつつあった。

〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
本木昌造は、明治4年(1871)6月、東京出張で芝神明前の書肆仲間や、大学(後の文部省)からそれぞれ活版所と活字販売所の設立を要請されて長崎に戻った。ただちに、長崎製鉄所を退職して自宅で待機していた平野富二(当時は、まだ富次郎と称していた)を招き、新町活字製造所の改革と経営引受けを要請した。

造船事業を志望していた平野富二は、最初は固辞していたが、本木昌造の窮状を見るに見兼ねて、条件付きで引き受けることとした。それは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。

このときの平野富二が付けた条件を要約すると、(1)この事業の経営を一任し、専断を許すこと、(2)数年間で収益を挙げることが出来るようになったら、本木家に返還すること、(3)後継者を養成して、この事業を継承させること、(4)その後は、自分の素志である造船業を興すこと、であった。

〔活版製造事業の改革〕
製造業としての生産管理がおろそかになっていることを見抜いた平野富二は、直ちに徹底的な抜本改革を断行した。

活字の規格化を行い、品質管理と在庫管理を徹底させ、就業規則を定め、能力・特性に応じた作業体制を整えた。さらに、この事業の損益を明確にするため、今まで一体運営されていた活版印刷事業から独立させて長崎新町活字製造所とし、活字の外部販売を行い、それによって収益を得る独立採算制を採ることとした。

これは、長崎製鉄所時代の小菅修船場での独立採算による経営と、立神ドック掘削工事における人事管理の経験に基づくもので、さらに、上海美華書館の経営も参考にしたと見られる。

従業員にとっては革命とも言える抜本改革によって、着手してからわずか2ヶ月という短期間で、外部に販売できるだけの高品質・低価格で、しかも、必要量の活字を安定して製造・納入できるようになった。

〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
活字の販売で収益を得るためには、政治・経済・文化の中心地となった東京に販路を求めるのが第一と考え、本木昌造の了解の上、活字のサンプル若干と印刷見本を携え、平野富二自身が大阪経由で東京に出張した。

大阪活版所で取り組んでいる五代友厚依頼の『英和辞書』印刷と、そのために困難を窮めつつある特殊洋活字の製造、東京における芝神明前活版所の設立計画と大学御用活版所の設立も、平野富二の責任範囲に含まれるため、その善後処置を講ずることも出張の目的であった。

改革の結果が軌道に乗ったことを確認した平野富二は、明治4年(1871)9月中旬、長崎を発って大阪に立ち寄り、『英和辞書』(いわゆる薩摩辞書の第二版)の印刷辞退を五代友厚に申し出て了解を取り付けた。
次いで、大阪活版所に派遣されていた小幡正蔵と共に東京に向かった。東京では大学御用活版所を設立して小幡正蔵を所長とし、芝神明前の書肆仲間に活版所設立の計画中止を伝えた。その傍ら、有望な活字需要先を訪れて、各所から多量の活字註文を受け、大きな成果を得て長崎に戻った。それは、明治4年(1871)11月1日のことである。

〔事業所の東京移転〕
東京出張から戻った平野富二は、直ちに本木昌造と相談して、活字製造の拠点を大口需要が見込める東京に移転させることを決めて、その準備に入った。工部省傘下に入った長崎新聞局の活字製造部門は、勧工寮活字局として東京に移転したばかりで、そのことも決断を促したと見られる。

本木昌造は、明治5年(1872)2月、完成した活字を用いて『新塾餘談 初編一』を刊行した。その巻末に、平野富二の要求を容れて崎陽 新塾活字製造所の「活字摺り見本」を広告として掲載した。

この小冊子は本木昌造が経営する新街私塾の塾生向けの読本であるので、本来ならば活字の広告を掲載しても余り意味をなさないが、平野富二は、この冊子を東京に持参し、印刷サンプルとして希望者に配布することを考えていた。おそらく、上海美華書館の活字摺り見本広告にヒントを得たものであろう。

図1-2 『新塾餘談 初編一』に掲載した広告

明治5年(1872)7月11日、平野富二は、新妻と社員8名を引き連れて、兵庫(神戸)行きの郵便蒸気船に搭乗して長崎を発った。兵庫で横浜行きの便船に乗り換えて横浜に着いたのは、7月17日だった。

横浜で東京行きの小型蒸気船に乗り換え、東京築地に着き、そこから小舟を雇って隅田川、神田川を遡って神田和泉町河岸に到着したと見られる。近くの津藩藤堂和泉守上屋敷跡に残された門長屋の一室に、先発した小幡正蔵を所長とする大学御用活版所があり、その続きの部屋を借り受けて「崎陽新塾活版製造所」を設営した。

このとき、長崎から持参した物品は、五号と二号の活字母型と鋳型各1組、活字手鋳込器械3台のみで、当面の設営資金として持参した1,000円は長崎の金融業者から平野富二が首証文を引き換えに借りたものであったと伝えられている。四号活字母型1組と試し刷りに用いる手引き印刷機1台は長崎から後送されたが、これが、東京で事業をスタートさせるための設備の全てであった。

当時は木版による摺り物が一般的で、活版印刷による効能を理解する者は少なかったことから、平野富二は、官庁を回って『新塾餘談』の広告を配布しながら、活版印刷の効能を説明して回った。
10月になって、『新聞雑誌』に七号の振り仮名を加えた「崎陽新塾製造活字目録」を広告として掲載した。このような努力の結果、官庁の布達類は活版印刷を採用することになり、新聞・雑誌なども活版採用の気運が高まった。

「崎陽新塾製造活字目録」
『新聞雑誌』(第66号、明治5年10月)巻末綴じ込み附録 真田幸文堂蔵

一部記録に「投げ込み附録」とされるが、国立国会図書館蔵書を含め綴じ込まれている

平野富二が東京に進出する直前の明治5年(1872)2月に、銀座大火があって銀座・京橋・築地の一帯が焼失した。復興計画による規制もあり、築地地区には広大な空き地があった。そこで、平野富二は、もはや拡張の余地のない神田和泉町の借り部屋から撤退して、交通便利な築地に移転することを決意した。

明治6年(1873)7月、築地2丁目20番地の土地に仮建築という条件で木造2階建ての工場を新築して移転した。当初は敷地面積120坪余りの土地であったが、その後の事業発展に従い、次々と隣接地を買い増して、周辺道路に囲まれた一画の約半分851坪余りとなった。

これが東京築地活版製造所の起源である。その事業の創始と基金は本木昌造に拠るものであるが、事業としての発展は平野富二の寄与になることは明らかである。

(3)平野富二の貢献
明治20年(1887)7月改正の東京築地活版製造所「活字版並印刷器械及紙型鉛版其他定価」および「活版並諸印刷用器械洋墨類定価表」が残されている。それには、活版印刷に必要な活字類やあらゆる資材・器械類を網羅した取扱品目が価格を付して掲載されている。洋活字やハングル活字も含まれており、これを見ると、築地移転当時とは隔世の感がある。

平野富二の貢献を示す切り口はいろいろあるが、ここでは、残された当時の写真と絵図・地図によって、築地活版製造所発展の様子を示し、その間に行われた土地の買い増しと建物の新築・増改築によって、東京でも有数な大工場にまで発展させた平野富二の貢献を視覚的に再認識してみたい。

図1-3 明治7年(1874)の長崎新塾活版製造所
(『株式会社東京築地活版製造所紀要』、昭和4年10月、口絵組みあわせ写真の一部)

図1-3の写真は、築地活版製造所の姿を映した最も古いものと見られる。本木昌造は、死去する前年の明治7年(1874)夏に上京して、新築なった築地の煉瓦建事務所と関連施設を視察した。その時の本木昌造が目にした姿はこの写真とほぼ同じであったと見られる。

写真の右手奥の木造2階建て建物は、明治6年(1873)7月に完成した最初の仮工場である。左側の煉瓦造2階建て建物は、明治6年(1873)12月に完成・引渡しを受けた事務所である。その右側に正門と通用門がある。正門の右側門柱に表札「長崎新塾出張活版製造所」が掲げられている。なお、右側道路沿いの煉瓦造と見られる平屋の建物(倉庫?)については記録がない。

仮工場の建つ土地は、築地2丁目20番地とされているが、建物の奥行から見ると、隣接する21、22番地も同時か、その後に購入した可能性がある。手前の平屋の建つ土地は19番地、事務所の建つ土地は18番地と見られる。なお、この番地は、周辺の道路拡張・新設によって、後年、変更されることになる。

写真には見えないが、明治8年(1875)6月、本木昌造が再度上京する直前に平野富二は築地2丁目23番地の土地・建屋・畳・家具・諸造作1式を購入し、20番地から家族と共に移転した。また、時期は不明であるが、事務所左側の隣接地(17番地)も入手している。

築地活版製造所を訪れた本木昌造は、平野富二に対する明治5年から同7年まで3年間の給料と褒賞として、築地活版製造所のある17,18番地(新13番地)、23番地(新14番地)、19、20、21、22番地(新17番地)の土地を平野富二の所有とした。( )内は明治11年(1878)以降の新番地を示す。

図1-4 明治17年2月測量の「五千分一東京図測量原図」

図1-4の地図の中央に道路に囲まれた長方形の一画がある。その上半分(築地川寄り)に築地活版製造所の建物群がある。この地図では、薄赤色に着色された建物は私有の耐火建築物(煉瓦造または土蔵造)を示している。上部中央から左斜めに流れる川が築地川で、祝橋と万年橋が架けられている。

祝橋から右下に向かって斜めに通じる道路と万年橋からの道路との間を並行して通る道路に面して大形耐火建築物が表示されている。この場所は新17番地で、当初の木造仮工場を建て替えて煉瓦造りの工場建物としたと見られる。築地川沿いの道路との間に在った煉瓦造平屋は撤去されている。

祝橋に近い築地川沿いの道路に面した耐火建築物は、新13番地の土地に明治6年末に完成した事務所と明治14年5月に新築した2階建建物であると見られる。

区画の下半分(築地川と反対側)の土地は、平野富二が新たに購入した土地で、上半分の土地を築地活版製造所に譲渡した資金で購入した私有地である。明治16年(1883)夏、ここに平野邸が新築され、一家はここに移転した。隣接して並ぶ3棟の長屋は、石川島造船所と築地活版製造所の従業員に貸し与えられる宿舎と見られる。この平野邸と長屋のある土地は華族柳原前光邸の跡地だった。

図1-5 明治18年頃(?)の活版製造所絵図
(『東京盛閣図録』、明治18年刊)

図1-5は、明治18年(1885)刊行の絵図であることから、図1-4の地図とほぼ同じ頃の築地活版製造所の様子を描いたものと見られる。しかし、画面右側の2階建て大形建物は、この絵図では木造と見られるが、先の地図では耐火建築物と表示されている。したがって、この絵図は明治16年(1883)以前に撮影した写真により作成された可能性がある。

絵図の中央右寄りに見える煙の出ている4本煙突の辺りに僅かに見える建物は、明治9年(1876)9月に完成した木造の活字仕上場と印刷機製造工場と見られる。
築地川沿い道路に面した左側に明治14年(1881)5月に建てられた煉瓦造2階建の大形建物は、後のことになるが、この2階にある13号室で内田百閒らが岩波書店から刊行する『漱石全集』(組版・印刷:東京築地活版製造所)の編集に携わった。

図1-6 明治24年9月現在の東京築地活版製造所
(『印刷雑誌』、第1巻第8号、明治24年9月、広告)

図1-6は、平野富二が初代社長を退任してから2年後の様子を示す絵図である。図1-5と大きく相違するところは、右側の2階建て煉瓦造りの工場建物と正門の門構えである。

2階建て煉瓦造の工場建物は、川沿いの道路の縁まで延長増築されていることが分る。平野富二の社長在任中に増築されたものかどうかは判然としないが、株式組織となってからの建築であることは間違いない。

正門は、従来の扉付き門柱を建て替えて洒落た門型となり、装飾を施した横梁には、中央に「丸もにH」の社章を置き、その上部の円弧に沿って「THE TOKYO TSUKIJI TYPE FOUNDRY」と配し、下段に「東京築地活版製造所」と表示してある。両脇の門柱の頂部には電気照明が置かれている。

明治25年(1892)12月2日、平野富二は、鋳鉄業界の集会に招かれ、講演の最中に卒倒し、翌日早朝、東京の自宅で死去した。46年2ヶ月の生涯であった。本木昌造から引き継いだ活版製造事業を大成させ、念願の造船事業を独力で創り上げた。

2018年7月11日 稿了