東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

はじめに
第6代社長の松田精一が取締役社長を辞任した昭和10年(1935)5月28日から会社解散決議に至る2年10ヶ月間は、文字通り東京築地活版製造所の終末期であった。

この間、専務取締役吉雄永寿(第7代社長空席)が2年5ヶ月間、次いで専務取締役坂東長康(第8代社長空席)が4ヶ月半の間、選任されて社長職を務め、昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において第9代社長に指名された代表取締役松田一郎が会社解散を決議した。
これによって、明治・大正・昭和の66年間にわたってわが国の印刷文化に尽くし、印刷業界で老舗(しにせ)といわれた東京築地活版製造所、通称「築地活版」は幕を引いた。

松田精一が第6代社長を辞任してから、その長男松田一郎が代表取締役に選任されて第9代社長として会社解散が決議されるまでの間、実質的な会社経営に寄与した人は専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿と代表取締役第9代社長松田一郎である。二人は、昭和6年(1931)3月16日に開催された臨時取締役会において共に初めて取締役に選任され、経営を支えて来た。

本稿ではおもに吉雄永寿と松田一郎について紹介する。

1.終末期の東京築地活版製造所の経営概要
第6代社長松田精一は、昭和10年(1935)5月28日に開催された定時株主総会において、健康上の理由で取締役社長を辞任し、相談役に退くことになった。同日、引き続いて開催された臨時株主総会において役員改選がおこなわれ、吉雄永寿が専務取締役に選任され、第7代社長空席のまま社長職を務めることになった。
吉雄永寿は、4年前の昭和6年(1931)3月12日に開催された臨時株主総会において、取締役の伊藤三郎と大道良太の二人の辞任による補欠選挙により、松田一郎と共に初めて取締役に選任され、以後、再選重任を重ねていた。

専務取締役に就任して会社の経営責任者となった吉雄永寿は、まず、伝票システムを導入して入出金の動きを正確に把握できるようにし、不要部門の整理統合を行うことによって昭和5年後期以来続く繰越赤字解消の目途をつけ、その上で、設備の更新を断行し、印刷工場の新設計画、業界活動への積極参加を行った。

しかし、昭和12年前期(昭和12年4月30日現在)の決算で当期損益金が9,924円の赤字を計上し、さらに、昭和12年(1937)10月、事業縮小のために従業員80名を解雇して以後、ストが頻発して、昭和12年後期(昭和12年10月31日現在)の決算で当期損益金が大幅赤字の見込みとなったことから、定時株主総会で決算報告の為される直前の同年10月29日に開かれた臨時株主総会において、吉雄永寿は専務取締役を辞任し、監査役に退かざるを得ないことになった。

新たに専務取締役(第8代社長空席)に選任されて経営責任者となった坂東長康は、政党関係の人(印刷史研究家牧治三郎は宮内省関係者としている)といわれ、昭和12年10月31日現在の株主名簿によると50株を所有する株主で、債権者代表として送り込まれた人物であったと見られている。

しかし、会社経営責任者となった坂東長康は、ほとんど経営改革に取り組むことなく、現状のままで営業を続行しながら清算準備にはいった。その間、坂東長康の不審な行動に気付いた吉雄永寿は、昭和13年(1938)3月17日に開かれた臨時株主総会において、監査役の職権を以って坂東長康を解任させたという。

昭和13年(1938)3月17日の臨時株主総会では、役員改選の結果、第9代社長として代表取締役松田一郎、取締役として橋本能保利と足立豊、監査役として吉雄永寿が選任された。次いで、松田一郎社長の発議により会社解散の決議がなされた。

解散決議がなされた東京築地活版製造所は直ちに清算業務に入ったが、社内の秩序が保てず、清算管理人となった吉雄永寿は背任行為に加わることをおそれて、途中で自ら身を引いたと伝えられている。

解散に追い込まれて後、東京築地活版製造所は、社内の醜い争いが表面化することなく、立つ鳥跡を濁さずの喩えのとおり、静かに身を引いた。
築地の土地・建物は債権者である日本勧業銀行の手に移され、製銅業者の団体「懇話会」に売却された。

2.専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿について
吉雄永寿は、昭和6年(1931)3月12日に開催された臨時株主総会において、松田一郎と共に初めて取締役に選任され、松田精一社長の下で経営改革に取り組むことになった。
その時の会社役員は、取締役社長:松田精一、取締役:大澤長橘、松田一郎、吉雄永寿、監査役:星野錫、野村雅夫であった。なお、大澤長橘は支配人を兼務していた。

挿図7-1 吉雄永寿の肖像写真
<日本工業倶楽部『創立二十年記念 会員写真帖』、昭和13年3月>

この写真は、東京築地活版製造所 常務取締役として掲載された。
日本工業倶楽部は大正6年に創立され、
東京築地活版製造所も会員の一員として加入していた。

明治10年5月28日に開催された定時株主総会に続く臨時総会で、吉雄永寿は専務取締役に選任され、松田精一社長の跡を継いで第7代社長空席のまま経営責任者となった。

東京築地活版製造所の業績は、大正12年(1923)9月の関東大震災で罹災してから向上せず、それでも野村宗十郎から松田精一が社長職を引き継いで以降は株主配当を継続していた。しかし、昭和5年後期(昭和6年11月25日現在)の決算で当期損益金として3万3千円若の赤字を計上することになった。

この期の営業報告書は失われているので大幅赤字の原因は不明であるが、当時、経済界の不況は深刻で、印刷業界への影響も厳しくなる一方であった。活字の需要は新聞社は勿論、中堅印刷業者であっても活字自家鋳造の時代となって大口需要は見込めなくなり、印刷業界での活版印刷輪転機の採用やオフセット印刷機の導入など、活字の売上と共に印刷物の注文も減少していた。なお、この時の大幅赤字は最後まで経営の足を引っ張ることになった。

このような事態に立ち至って、業界の老舗「築地活版」を潰すなとの声が上がり、共同印刷の大橋光吉(共同印刷社長)や、星野錫(東京印刷社長で築地活版の監査役)の推薦を受けた吉雄永寿が「築地活版」の経営陣に加わることになった。

吉雄永寿は父吉雄永昌から受け継いだ東京築地活版製造所の株式50株に新株発行による50株を加えて100株を所有する株主で、それまで高砂工業株式会社(現、高砂熱学工業株式会社)で役員を務めていた。

東京築地活版製造所の終末期の事業記録は断片的で、纏まった資料はほとんど残されていない。しかし、幸いなことに、吉雄永寿の御子息である吉雄永春氏が「東京築地活版製造所と吉雄永寿」と題して草稿を執筆されている。

この草稿は、平成2年(1990)3月1日から31日まで、中央区立明石町区民館で開催された「日本の活字印刷」あけぼの展(主催:中央区明石町町会、協賛:東京都印刷工業組合京橋支部)を訪れた吉野永春氏が、出品者として会場に居られた斎藤正文堂の斎藤喜徳氏に託されたものである。

斎藤正文堂の経営を継がれた斎藤隆夫氏が、平成30年(2018)5月18日、朗文堂を訪れて、その原稿を提示され、東京築地活版製造所の最後の歴史を物語る資料として公開することを依頼された。

その御依頼にお応えするため、本シリーズの一環として、以下にその草稿の全文を原文のまま紹介する。

2-1 吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」
活字業界の最大手であり印刷業界でも中堅の地位にあった築地活版製造所が昭和14年〔ママ〕に閉業したことは、謎として今日も真相が明らかではありません。閉業から半世紀が経過した今日、真相を追っても迷惑を及ぼす心配は失せているように思います。

終末劇の中心人物吉雄永寿は私の父です。その父と私の対話がこれからの文章の骨です。従って、或いは偏った記述があるかもしれませんが、父親は感情にはしる人ではなく、依怙贔屓はしない人ですから、その語った言葉は冷静な判断から生まれたものだと信じます。文中人名は避けますが、父に共鳴した人よりは改革に抵抗した人の方が多く、父の思うように改革が進まなかったのは認めざるを得ません。資金面での長崎人は冷ややかであったようです。父の数度の長崎の出張は援助を取付けるためだったようですが、成功しなかったようです。

吉雄永寿
吉雄家は代々長崎の蘭通詞でしたが、永寿の父永昌は明治政府の大蔵省出仕となって上京しました。英語に堪能であったために二度に渉って長期外遊がありました。その故に子女は7才年上の姉と永寿の2人きりです。

東京築地活版製造所は、明治18年、株式会社となって出資に応じた人々に株券を公布しています。その株券は永昌の没後も大切に保存されていました。それが、永寿が築地の経営を委される素地となりました。

築地活版は、東京大震災後、業績が上らず、昭和5年には2万7千円以上の大赤字で危機に瀕していました。印刷業界で老舗築地活版を潰すなとの声があがり、共同印刷の大橋光吉氏、財界の星野錫氏の推挙で、築地活版再建のため、その経営陣に加わりました。昭和5年暮のことです。

父親は引受けるに際して、長崎人の会社である築地活版はどんなことがあっても守って見せる。恐らく報酬はのぞめないが、これは二の次、と私に心境を洩らしました。事実、殆ど報酬を受けずに働き通しました。

昭和10年、社長松田精一氏の退任で、代表取締役になりましたが、社長は空席のままです。財力がないものは社長の資格がないというのが信念でした。

それでは、父親が時々洩らした言葉から改革の模様を探って見ます。

(一)伝票制会計
築地の会計はまことに大雑把であったことは父親の大きな驚きだったようです。

金の動きを正確に掴むために、すべてを伝票によって整理するシステムを導入しましたが、面倒がられて徹底するのに数年を必要としたということです。掛売の多い活字業では、もっと早く導入する必要があったのにともいっていました。

(二)設備の更新
設備の更新を怠ればたちまち同業者に蹴落されてしまいます。築地活版は老舗として高い技術を持っていましたが、父親は常々よい仕事はよい器械から生まれると言っていました。

日本は精神面の充実が技術の根本とされた時代で、異端者的な考えの持主でした。そのような考え方は大企業の人の中にも見られました。父親は築地活版以前の高砂時代、当時最高技術を誇った高砂暖房(今の高砂熱機)で、この考えを不動のものにしたようです。

あまりにも陳腐化していた築地の印刷機械は更新の対象でしたが、大赤字では為すすべがなかったのでしょう。

永寿は、その赤字解消の目算のついた昭和11年、敢然として新しい機械の購入に踏み切りました。機種の選定は慎重を極めたようですが、中馬鉄工所の高速オフセット機を2台迎え入れました。たちまち鉄道省観光局の印刷物を大量に受注出来ました。何んともいえない黒の色調のよさがその決め手だったと父は言っていました。

さらに増設を考えていたようですが、手狭ではにわかに実現できず、僅か2台の増設で終わりました。

(三)不用部門の切捨て
昭和10年頃の築地活版の重荷は機械製造部と大阪営業所でした。共に築地の良き時代に創設され、殊に機械製造部は印刷機械を広く売った花形部門ですが、全くといってよい程、受注がない状態だったようです。大阪営業所は製造設備を持つ分工場のようでしたが、業績はさっぱりということでした。

この二つの整理は昭和大不況の時だけに大変困難な仕事でした。

人員整理を巡って二度の大争議となりました。印刷界の争議は他に較べて解決が困難なものとされていました。争議団の人々が私共の自宅に襲撃して来ました。当時、父親は合理的な借家主義で自分の家は持ち合せていません。争議団の人々はこれが築地の代表者の家かと驚いたと伝えられています。

父親の築地活版を愛する気持が通じたのか、間もなく争議は解決し、月島の機械工場は閉鎖とし、大阪営業所も縮小の上、存続と決定しました。

一件落着のようですが、今振り返って見ると、築地活版の崩壊はこのときに始まっていたようです。一部社員の不正行為に端を発して、幹部社員に迄波及した騒動となりました。
自宅には父親の行為を是とする人々の会合が始まり、反対派の人々の来訪もあって、騒然とした状態でした。

(四)別工場
父親の最後の夢でしたが、遂に不発におわりました。先に述べたように印刷工場は狭い所に押込められ、狭くて暗い最悪の状態でした。

先ず、父親はまだ印刷の需要は伸びると考えていました。〔当時印刷業界トップ企業であった〕共同印刷と迄は及ばずとも、それに近い合理化は新しい工場を作るしかないとの見解のようでした。

もうコスト戦争は始まっているといっていました。その夢を実現する改革は着々と進んでいました。建物の図面を見せてくれましたが、少なくとも今迄の工場の3倍の広さでした。〔東京都板橋区〕志村を選んだのは、土地が安く、何よりも都の中心に製品を運ぶのに最適と考えたからといっていました。

この計画を知る人は、社内でも限られた人のみだったようです。不発に終ったのは、崩壊が早くて、銀行からの資金調達が出来なくなったからと推察します。

(五)内政から外交
父親は常々それ迄の築地は外交を疎かにしたためと分析していました。名実共に築地の代表者となった昭和10年は、赤字解消の目途が立ち、外交を積極的に行える状態になったからと思えます。業界誌はにわかの変化に注目しています。活躍の始まりは先ず活字組合の組合長です。その仕事は活字の値段の安定化でしたが、築地だけ値上げして他の組合員はそっぽを向くと言う苦境がありましたが、徐々に組織を纏めて目的を果たしていったようです。

次のステップは、東京印刷組合の京橋支部長です。いづれも築地活版の名声をバックにした行動で、当然の地位であると一般からも歓迎されたようです。京橋支部長を足掛りに、東印組合の副議長に選出され、組合長大橋光吉氏の補佐をしました。
東印25周年記念祭は、その絶頂のときでした。

終 焉
一番知りたい事ですが、本当に謎につつまれた最後です。

そのきっかけは、吉雄永寿が代表専務取締役から監査役に退いたときから始まります。私の推測では、先述したように幹部職員の間の内紛の責任をとったと思えます。

替わって代表専務となった阪東長康氏は株主名簿*1)にはありません。恐らくは債権者代表ではないかと思います。この交替は昭和12年の6月であったと思えます。僅か10ヶ月の後の昭和13年3月からは清算に入っています。

清算人の不審な行動に気付き、解任を迫っても肯んぜす、監査役の職権をもって交替させたといいます。解散が決まってからの社内は秩序が保てず、父は寄ってたかって会社を喰いものにしているといっていました。或日、妻にもうこれ以上居れば背任行為に加はらねばならないので退任するといって、築地活版から退社してしまいました。
崩壊の原因は、社内の内紛が表面に出て、銀行筋が貸金の回収を急いだ結果だと推察します。

父親は、昭和6年から11年迄の決算報告書を保存していましたが、不思議なことに、昭和12年以降は見当たりません。昭和12年の決算*2)こそ、閉業に至る事情が判るはずです。自宅に持ち帰らなかった内情は察するに余ります。

昭和11年で赤字は僅かに圧縮していますが、借入金に迄は手がつけられていません。

決算表のうつし
年度*3)           利益金   損益金
昭和 6年 6月    1,159.70         -26,980.75
昭和6年12月          535.77         -26,444.98
昭和 7年 6月       3,028.14         -23,416.14
昭和 7年12月      3,433.75         -19,982.39
昭和 8年 6月       3,116.35         -16,866.04
昭和 8年12月   3,169.83         -13,796.21
昭和 9年 6月     948.75        -12,847.46
昭和9年11月    -3,569.81        -16,417.27
昭和 10年 6月   2,926.53        -13,496.74
昭和10年11月   1,297.23        -10,193.51
昭和11年 6月       3,940.89          -6,257.70
昭和 11年12月     4,343.74          -1,908.96

資本金     600,000.–
借入金          510,369.21
(昭和11年10月現在)

以上

(稿者備考)
*1.文中に出てくる専務取締役坂東長康は、『昭和12年後期営業報告書』の「株主名簿」(昭和12年10月31日現在)に株主として名前が掲載されている。
*2. 12年6月と12年12月の決算表は、『昭和12年前期営業報告書』と『昭和12年後期営業報告書』に掲載されている。
*3. 「決算表のうつし」にある「年度」は、その1ヶ月前を期末とする決算結果を報告した定時株主総会の開催年月を示す。

2-2 その他の事績
東京活字製造組合での活動
吉雄永寿が専務取締役として経営責任者となった同じ月の昭和10年(1935)5月に、東京活字製造組合(組合員104名)において役員改選がおこなわれた。その結果、吉雄永寿(築地活版)が組長、青木弘(大日本印刷)が副組長に選任された。
同年7月になって、組合決議にしたがい新活字定価を発表した。同年12月には東京活字業者の有志が販売連鎖店「万寿会」を組織した。さらに、昭和11年(1936)11月、東京活字製造組合は活字定価を2割値上げした。

なお、大日本印刷は、昭和10年(1935)2月に株式会社秀英舎と日清印刷株式会社が合併したもので、その活字販売部が東京活字製造組合に加入した。この頃には、組合員となった活字製造業者が100社を超えるほど多数存在していたことが分かる。

その3年前の昭和8年(1933)秋以降、原料の暴騰により活字の販売件数は増加したものの、それなりの利益を挙げることが困難となっていた。昭和9年(1933)には数度に亘って活字値上げを断行したが、採算を度外視して販売する業者も現れたため、採算の改善にはつながらなかった。

昭和11年(1936)3月、東京築地活版製造所は大日本印刷活字販売部と共に、東京活字販売組合から脱退した。おそらく、組合員104名の中には中小業者が多く、活字値上げの徹底ができなかったことによると見られる。

昭和11年4月から1年間の営業成績
吉雄永寿が自宅に持ち帰らなかった昭和12年前期と後期の営業報告書は国立国会図書館の科学技術・経済情報室で閲覧できる。先に紹介した吉雄永春氏の草稿を補うものとして、以下に記載する。

『昭和12年前期営業報告書』によると、昭和11年(1936)11月1日から昭和12(1937)年4月30日までの事務処理と諸計算が報告、承認されている。
この期間の「営業の景況」は、「前期に引き続き諸材料の暴騰、ことに地金類の暴騰はほとんど底止まりするところを知らず、そのために多大の努力をはらったが、ついに予期の成績を挙げるに至らなかったのは、まことに遺憾とする所です。」としている。
また、「損失金処分」として、前期繰越欠損金 1,908円96銭、当期欠損金 9,924円25銭、合計後期繰越欠損金 11,833円21銭と報告している。

『昭和12年後期営業報告書』によると、昭和12年(1937)5月1日から同年10月31日までの事務処理と諸計算が報告、承認されている。
この期間の「営業の景況」は、「今期は前期以上に諸材料が暴騰したのみならず、原料の供給不足を来たす状況で、地金類の騰貴ははなはだしく、これに反して注文類は思わしくなく、そのために成績も悪く、したがって事績において見るべきものがないのは、まことに遺憾とする所です。」としている。
また、「損失金処分」として、前期繰越欠損金 11,833円21銭、当期欠損金 86,958円72銭、合計後期繰越欠損金 98,791円93銭と報告している。

なお、昭和12年(1937)10月31日現在として、資本金 600,000円、借入金 508,260円16銭となっている。

吉雄永寿が取締役となった昭和6年前期以降は、昭和9年前期まで松田精一社長の下で当期損益金は黒字を維持していた。しかし、昭和9年後期の決算で当期損益が赤字を計上したことから、吉雄永寿が常務取締役となって黒字に戻し、経営改善の方向に向かった。しかし、わが国の経済・社会情勢はこれに味方しなかった。

経済・社会環境の変化
昭和6年(1931)9月に満州事変が勃発し、以後、わが国の国際的孤立化が進み、日中戦争へと発展した。その中で、「重要産業統制法」が公布され、軍需優先の統制経済へと移行した。昭和12年(1937)9月になって、政府は「輸出入品等臨時措置方」、「臨時資金調整法」、「軍需工業動員法」を制定して、重要物資や資金を優先的に軍需産業に回すこととした。このとき、各産業は優先順に甲、乙、丙の三種に区分された。

印刷業は丙種産業に指定され、設備の拡張を抑制され、資金・原材料・生産・加工・流通などのあらゆる面で冷遇されることになった。
印刷業は、大部分が輸入品で、軍需資材でもある印刷関連資材が統制の対照となったため、資材供給の面でもっとも厳しい制限を受けることになった。それにより、あらゆる資材の高騰と供給制限に悩まされた。

昭和12年(1937)には、昭和11年(1936)に較べて印刷資材が4割も高騰し、各種材料・機械の値上げが相次いだが、それを転嫁すべき印刷料金の3割値上げの申し合わせは思うように実行できず、東京印刷同業組合員は苦しい経営を余儀なくされていた。

昭和13年(1938)5月発行の『印刷雑誌』によると、活字鋳造業の事情は甚だしく困難となり、各地の業者はその対策に腐心している。原因はいうまでもなく、輸入制限のため品薄となり、目下の原産地相場より恐ろしく騰貴し、鉛と錫は3倍、アンチモンは2倍に当たる。そして国内値段としては、(日華)事変前の5倍ないし6倍に騰貴している。
これに対して販売値段はせいぜい2倍くらいに騰貴したに過ぎず、前途値上げ実行も、甚だしく困難視されているので、この上は全国業者が一段となって、特別輸入許可を請願するほかなしとして、寄り寄り下相談が進められている模様である。
本月(昭和13年5月)前後の値段は各100キロ、鉛96円(貫3円50銭)、アンチモン175円(貫6円50銭)、錫800円(貫30円)で、事変(稿者注:日華事変、昭和12年7月に勃発)前の、貫当り鉛60銭前後、アンチモン1円20銭、錫7円に対して5,6倍の騰貴となった。
それでも合金中の最下品といわれる込物用〔活字〕が貫3円60銭(平時5,60銭)となり、仮に鉛83%、アンチモン15%、錫2%の地金にすると、4円50銭前後のものになる。

専務取締役の退任と監査役就任
昭和12年前期(昭和11年11月1日~昭和12年4月30日)の決算報告により当期損益で赤字を計上し、さらに昭和12年後期(昭和12年5月1日~昭和12年10月31日)の決算では大幅赤字が見込まれることになった。

このような苦境に直面した吉雄永寿は経営を改善すべく努力を続けていたが、昭和12年(1937)9月に政府の特別法が制定されて、印刷業はきびしい統制を受けることになった。このこともあって同年10月29日、臨時株主総会を開いた。その場で、吉雄永寿は専務取締役を退任して監査役に就任し、代わって株主坂東長康が代表専務取締役に選任された。

このとき選任された新役員は、専務取締役:坂東長康、取締役:橋本能保利、松田一郎、監査役:吉雄永寿であった。代表専務取締役坂東長康と専務取締役橋本能保利は東京築地活版製造所の株式それぞれ50株を取得して株主となっていた。

2-3 父吉雄永昌と平野富二との親交
吉雄永寿の父吉雄永昌は、築地活版製造所の初期時代から平野富二に協力し、株式組織となった時に50株を取得して株主となっていた。吉雄永寿がその株式を相続し、新株発行のときに50株を買増して100株を所有していた。

吉雄永昌は、幕末には吉雄辰太郎と称してオランダ通詞の一員であった。『慶應元年 明細分限帳』によると、享保8年(1723)の玄祖父より6代で、嘉永4年(1851)に稽古通詞に任命され、そのときにオランダ通詞役を相続したと記録されている。

玄祖父は、その年代から見て、吉雄藤三郎のことを示すと見られる。吉雄藤三郎は、前名を品川与兵衛と称し、オランダ通詞の品川家から吉雄家に養子に入った。その息子は吉雄幸左衛門永章(耕牛)、吉雄作次郎永純、諸熊五兵衛照親の3人で、吉雄幸左衛門永章の子孫は、のちに品川家を継いで品川藤十郎につながり、諸熊五兵衛照親の子孫には吉雄圭斎がおり、いずれも本木昌造の協力者として知られている。

吉雄辰太郎永昌は、吉雄作次郎永純の家系につながる人と見られ、代々オランダ通詞を勤めていた。慶應元年(1865)に数え年で25歳とされていることから、天保12年(1841)生まれとなる。しかし、相続してオランダ稽古通詞となったときに登用年齢に満たなかった場合、奉行所年齢として実年齢とは異なる場合もある。

幕末になると若手オランダ通詞は英語の勉学が行われるようになり、吉雄辰太永昌も英語を修得した。明治元年(1868)には長崎府職員として通弁役となった。この中の優秀な者たちは、新政府により東京や横浜の外国語を必要とする部署に出仕している。

吉雄辰太郎は、明治4年(1971)にアメリカ・ヨーロッパに派遣された岩倉使節団の理事官の1人となった田中光顕(大蔵省戸籍寮戸籍頭、財政・民生制度などの調査・研究を担当)の随員の1員として参加した。大蔵省からの派遣で、使節団一行に対する給料の支給などを行っていたことが記録されている。

明治7年(1874)1月、平野富二が築地活版製造所の本社事務所として築地2丁目19番地に煉瓦家屋を自費官築したとき、その建築費を月賦払いとするよう東京府に申請した。その請書に平野富二の身元請人として吉雄永昌(木挽町2丁目18番地)が名前を連ねている。このとき、遠い親戚である品川藤十郎が東京で政府の役人となっている吉雄永昌を平野富二に紹介したと見られる。

また、明治9年(1876)5月10日から11月10日までフィラデルフィアで開催された米国万国博覧会の委員の1人として、渡航人名表に「事務官 吉雄永昌」の名前がある。それには「勧業寮十二等出仕 長崎県平民 吉雄永昌 会計」と記録されている。
このフィラデルフィア万国博覧会には、平野富二が築地活版製造所から活字類と活字見本帳を出品している。この出品に当たって、勧業寮に出仕していた吉雄永昌の出品勧誘、協力があったと見られる。

吉雄永昌は、東京築地活版製造所が明治18年(1885)に株式会社として組織替えしたとき、平野冨二との縁もあって株主となった。

3.解散を決議した第9代社長松田一郎について 

3-1 東京築地活版製造所との関わり
松田一郎は、第6代社長松田精一の長男で、昭和6年(1931)3月12日に開催された臨時株主総会において取締役に選任された。このときの会社役員は、取締役社長:松田精一、取締役:大澤長橘、松田一郎、吉雄永寿、監査役:星野錫、野村雅夫であった。

それまで取締役だった伊東三郎と大道良太は退任し、その補欠として松田一郎と吉雄永寿が初めて取締役に選任された。

松田一郎の取締役就任は、多忙で病気がちとなった父松田精一の補助役として選任されたとみられる。以後、昭和10年(1935)5月1日に松田精一が取締役社長を辞任したのちも、昭和13年(1938)3月17日に代表取締役社長に就任するまで、丸7年間、取締役として会社経営を支えて来た。

父松田精一は、昭和8年(1933)まで長崎商工会議所会頭を務め、また、昭和11年(1936)7月に病を得て辞任するまで十八銀行頭取を務めていた。その翌年の昭和12年(1937)1月、63歳で死去した。

なお、昭和12年10月31日現在の東京築地活版製造所の株主名簿には、松田精一が筆頭株主として2,600株、松田一郎は410株を所有し、2人は東京市在住となっている。株式の遺産分与がなされていないが、これは何を意味するのか不明である。

3-2 取締役としての事績
昭和6年(1931)3月に松田精一の下で初めて取締役となり、昭和10年(1935)5月からは専務取締役に選任された吉雄永寿の下で引続き取締役を勤めて昭和13年(1938)3月まで、合計7年3ヶ月間、東京築地活版製造所の経営を支えてきた。

しかし、この間、取締役松田一郎としての事績は記録されていない。おそらく創業以来一貫して東京築地活版製造所の経営を支えて来た松田一族の代表として主として株主代表として、資金面での協力が大きかったと見られる。

ちなみに、昭和12年(1937)10月31日現在の株主名簿に記載された松田一族は、松田精一(2,600株)、松田一三(500株)、松田正雄(480株)、松田一郎(410株)、松田次郎(310株)、松田三郎(281株)、松田五郎(265株)、松田静枝(65株)で、合計持株数は4,911株となる。つまり、株式総数12,000株の41%を松田一族が所有していたことになる。

なお、参考に当時の東京築地活版製造所の株主構成を示すと、創業者本木昌造と初代社長平野富二の協力者であった西川忠亮につながる西川家は790株、第4代社長名村泰蔵の遺族の所有株式すべてを引き受けた北見米吉は2,550株、第5代社長野村宗十郎の縁につながる伊東巳之吉の子孫2,750株と野村雅夫366株を合わせて3,116株で、松田一族の分を含めると株式総数の94.7%となる。その他は平野富二の縁故者や東京築地活版製造所の従業員功労者の持株が大部分を占める。

3-3 第9代社長としての事績
昭和13年(1938)3月17日に開催された臨時株主総会において代表取締役社長に指名された松田一郎は、その場で会社解散を提議し、承認を得て清算業務に入った。
そのとき選任された新役員は、代表取締役社長:松田一郎、取締役:橋本能保利、足立豊、監査役:吉雄永寿となった。
新しく取締役となった足立豊は50株を所有する株主で、茨城県の田口家から男爵足立家に養子に入った人で、男爵を世襲して貴族院議員となっていた。

祖父松田源五郎は、明治25年(1892)2月、衆議院議員に当選しており、政界との繋がりが深い。その故もあってか、東京築地活版製造所に迎えられた役員には政界、官界の出身者が多い。

会社解散を決議した松田一郎は、東京築地活版製造所の最後の社長として、その後の清算業務を無事に実行させることが自らの役割となった。
しかし、どのように清算が行われ、何時、清算を完了して会社解散の届け出を行ったかは明らかになっていない。

まとめ
第6代社長松田精一が辞任して専務取締役吉雄永寿に会社経営を託した昭和13年(1935)5月28日から、第9代社長松田一郎が会社解散を決議した昭和13年(1938)3月17日までの2年10ヶ月間は東京築地活版製造所の終末期であった。

この間、第7代社長空席のまま専務取締役として吉雄永寿が2年5ヶ月半、次いで第8代社長空席のまま代表専務取締役坂東長康が4ケ月半、それぞれ経営責任者として勤めた。その後は、代表取締役松田一郎が第9代社長に選任されて即日、会社解散を決議して清算業務に入った。

吉雄永寿と松田一郎の二人は、昭和6年(1931)3月12日の臨時株主総会において初めて取締役に選任され、以後、重任を重ねていた。それを勘案すると、会社役員として経営に参与した期間は共に7年間となる。一方、坂東長康が経営に参与したのは僅か4ヶ月半で、その業績は伝えられていない。

吉雄永寿は、父吉雄永昌が遺した東京築地活版製造所の株式50株に新株50株を加えて100株を所有する株主であった。

吉雄家は長崎のオランダ通詞の家柄で、吉雄永昌は吉雄辰太郎と称していた。初期の東京築地活版製造所の取締役であった品川藤十郎とは遠い親戚で、上京して大蔵省、内務省に出仕した。その頃、平野富二に協力して築地本社事務所の建築代金支払いの保証人となった。また、フィラデルフィア万国博覧会への活字類出品に協力したと見られている。

その後、高砂熱学の役員を経て、東京築地活版製造所の取締役として招聘されたといわれている。昭和5年(1930)11月末の決算で大幅赤字を計上した東京築地活版製造所は、印刷業界の老舗「築地活版」をつぶすなとの声に押されて株主吉雄永寿は取締役に選任された。当時の社長松田精一は長崎の十八銀行頭取や長崎商工会議所会頭を務め、多忙のため病気がちで、「築地活版」の経営に専念することができない状態にあった。その補佐役として長男の松田一郎も同時に取締役に就任した。

会社役員に就任して後、会計に伝票制を取り入れ、人員整理を断行、大阪営業所の縮小、印刷事業に着目した高速オフセット印刷機の導入と、板橋区志村に新工場の計画、同業組合への積極的参画など、経営改善に努めた。

しかし、満州事変に始まる日中戦争への拡大により経済・社会情勢はこれに味方せず、関東大震災後の復興のための多額の借入金と昭和5年後期の大赤字が足を引っ張り、昭和12年後期の決算で前期に続いて赤字計上の見込みとなったため、昭和12年(1937)10月29日開催の臨時株主総会において専務取締役を辞任し、監査役に就任した。

吉雄永寿の跡を引き継いだ代表専務取締役坂東長康は、債権者代表として送り込まれた人物ともいわれ、会社経営上の貢献についての記録は見当たらない。第8代社長空席での経営責任者であったが、会社解散決議の直前まで最後の経営責任者となった。

松田一郎は、松田精一、吉雄永寿、坂東長康の3代にわたる経営責任者の下で都合7年間、取締役を務め、経営を支えてきた。この間の松田一郎が果たした経営上の貢献は明らかにされていないが、資金面での協力が大であったことは推測される。

松田精一を代表とする松田一族の保有する株数は、東京築地活版製造所の発行株数12,000株の40%を越え、松田一族の会社といっても過言ではない。

昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会が開かれ、経営責任者である坂東長康の不審な行動を見抜いた吉雄永寿は監査役の権限で退任を要求し、その結果、代表取締役に選任された松田一郎が第9代社長に就任した。松田一郎は、役員選任が終わった後、引き続いて会社解散の決議を行い、清算に入ることになった。

したがって、松田一郎は社長として会社経営を行うことなく、会社清算に入ったことになる。
この時の会社清算がどのように行われ、何時、解散届が役所に提出されたか不明であるが、築地の土地と建物は日本勧業銀行からの借入金の弁済に充てられた。その他、従業員の解雇手当や債権者への弁済には製品・資材や器械・器具類の売却により、多少の混乱はあったものの無事に清算を完了したと見られる。

なお、株主に対しては、昭和5年後期の決算以降、一度も株式配当を行うことなく会社解散となったが、最大株主である松田一族の代表でもある松田一郎の協力要請により、納得できる処置が講じられたものと見られる。

明治18年(1885)7月の会社設立から数えて53年、平野富二が築地に工場を建設した明治6年(1873)6月から数えると65年、わが国活版印刷の普及と発展に尽くした東京築地活版製造所は、その混乱を表面化することなく静かに幕を閉じた。

シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長略歴」を完結するに当たって
東京築地活版製造所の歴史をさかのぼると、明治3年(1870)3月に長崎で本木昌造が新街私塾の付属として設立した新町活版所と新町活字製造所にはじまる。その後、活字製造所の経営に行き詰まった本木昌造が平野富二に経営を委託し、平野富二は活字の規格を統一して品質とコストの管理を徹底し、一般需要者にも活字を販売することによって事業化に成功した。

平野富二は、本木昌造の承諾を得て、活字需要の見込める東京に進出することにした。明治5年(1872)7月、平野富二は、新妻と従業員8名を引き連れて上京し、神田和泉町に活版製造所を設立して、「長崎新塾出張活版製造所」として活字の製造と販売を開始した。当初、活字の需要はほとんど無かったが、各地の新聞社や県庁に働きかけて活字の利便性を説明すると共に、活版印刷機の国産化を行なった。その結果、全国各地から活字と印刷機の引き合いが寄せられるようになり、活字の需要は急速に拡大した。

手狭な神田和泉町の工場では活発な需要に対応できなくなったことから、明治5年(1872)に発生した銀座大火で類焼した築地の焼け跡に土地を求めて工場を新設し、明治6年(1873)7月、長崎新塾活版製造所を移転した。これが株式会社となる東京築地活版製造所にまで発展する起点となった。

これだけ長い歴史を持つ東京築地活版製造所であるから、社史が編纂されていても当然であるが、同社の社史に類するものは、昭和4年(1928)10月21日発行の『株式会社東京築地活版製造所紀要』と題するわずか10ページのパンフレットしかない。

その他に東京築地活版製造所の歴史を物語る資料としては、三谷幸吉編『本木昌造・平野富二詳伝』(詳伝頒布刊行会、昭和8年4月)、松尾篤三編『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君畧傳』(東京築地活版製造所印刷、明治28年10月)、「故野村宗十郎翁畧傳」(野村宗十郎翁胸像建立事務所編『野村宗十郎翁胸像建立概要』、昭和4年10月)、吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」(未発表草稿、斎藤正文堂斎藤隆夫氏提供)がある。

なお、東京築地活版製造所に関する情報を暦年順に纏めたものとして、板倉雅宣著『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』は幅広く情報が集約されているが、誤記が多いので原典を参照しながら読めば、貴重な資料となる。本シリーズの執筆に当たっては大いに参照させて頂いた。

旧東京築地活版製造所の建物は昭和44年(1969)2月まで所有者の株式会社懇話会館によって使用されてきたが、同年3月から新ビル改築のため取壊しがなされ、その痕跡はすべて失われた。

その後、同年6月に東京活字共同組合の理事会で「旧東京築地活版製造所に記念碑を建設する件」が協議され、昭和46年(1971)6月29日、道路に面した敷地の南端に「活字発祥の碑」が建立されて除幕式が挙行された。除幕式には野村雅夫氏が招かれたが、創始者である平野家の代表者が招かれなかったことから、一周年の記念日に当たる翌年6月29日に平野家から平野富二の嫡孫平野義太郎氏を招いて碑前祭が挙行された。

2019年9月3日 稿了

東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一

(1)第六代社長として松田精一が就任
株式会社東京築地活版製造所の第5代社長野村宗十郎が大正14年(1925)4月23日に病没したため、同年6月に開催された取締役会において、松田精一が取締役のまま第6代社長に選任された。

図6-1 松田精一の肖像写真
<『長崎商工会議所 五十年史』より>

すでに白髪が目立つ晩年の姿とみられる。
温厚な顔つきをしているが、
恰幅の良い体格で激務に耐えていたと見られる。

そのときの重役は、取締役社長:松田精一、取締役:伊東三郎、監査役:星野錫、西川忠亮であった。なお、大正14年(1925)後期定例株主総会において、前社長野村宗十郎の持株を、長男野村雅夫(東京電灯勤務)が相続して東京築地活版製造所の株主となり、取締役の1人に選任されている。

松田精一は、設立当初から同社の取締役だった松田源五郎が明治34年(1901)3月1日に急死したのに伴い、そのあとを継いで取締役に就任した。当時、すでに長崎の株式会社十八銀行頭取、長崎商業会議所(昭和3年に長崎商工会議所と改称)の会頭をつとめていた。
そのため、東京築地活版製造所の社長に就任はしたが、専務としての役を負うことは実態としてみてもできなかった。

株主総会で選出された役員のうち、伊東三郎は、枢密顧問官伯爵だった伊東巳代治の三男で東京電灯の常勤監査役、星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長、西川忠亮は初代西川忠亮の息子でインキ商西川求林堂の社長であった。このようにいずれも東京築地活版製造所の経営を専任できる人たちではなかった。

したがって、東京築地活版製造所の実質的経営を執行するのは支配人となるわけであるが、それまで野村宗十郎社長の下で支配人をつとめていた人が居たのか、居なかったのか明らかではない。
昭和3年(1928)12月に開催された、昭和3年(1928)後期定時株主総会で新たらしく取締役支配人に選任された大沢長橘が、それ以前から支配人だった可能性がある。しかし、その人の社内における実績や社外活動については記録が見当たらず、野村宗十郎は社内における後継者育成を行っていなかったのではないかと疑われても仕方がない状態がみられる。

なお、大正2年(1913)に入社し、後に技師として技術部門を統括した宮崎栄太郎は、『印刷雑誌』などに時々投稿しているが、経営上の役割をどの程度になっていたかは不明である。宮崎栄太郎は昭和6年(1931)3月、37才の若さで亡くなっている。

この1年前の大正13年(1924)4月10日に開催された定時株主総会で報告された関東大震災による罹災後の復興状況について、
「仮工場の建築ならびに機械・工具の設備も着々進捗し、復興の基礎がようやくなった。しかし、作業の日はなお浅く、いまだ充分な成績を見るにはいたっていない」
としている。

その後、借入金30万円により復興が推進され、その結果、同年7月には罹災した築地の本社建物の補修と増築工事が完了している。また、月島分工場も罹災したあとに新築した工場建物が大正13年(1924)6月に完成している。

(2)松田精一の前歴
松田精一は、長崎の十八銀行第2代頭取だった松田源五郎の息子で、明治8年(1875)に生まれた。明治31年(1898)、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、同時に十八銀行に入行した。

十八銀行では、支配人代理を経て明治36年(1903)年1月、監査役に就任し、大正4年(1915)1月、取締役となった。大正11年(1922)4月、第4代頭取永見寛二が死去した後を受けて第5代頭取となった。

昭和11年(1936)7月、病を得て辞任するまで、十八銀行頭取の在職14年余、翌昭和12年(1937)1月、死去した。数え年で63だった。

この間、大正14年(1925)1月から昭和8年(1933)1月まで長崎商業会議所(昭和3年から長崎商工会議所と改称)の会頭(第7代、初代会頭は松田源五郎)をつとめた。また、長崎貯蓄銀行頭取、東京築地活版製造所社長のほか関係事業、公職も多かった。

松田精一は東京築地活版製造所など関係事業のために長崎には不在しがちであったため、昭和5年(1930)7月以降は常勤取締役の松田一三が代わって十八銀行での采配を振るっていた。

以上は、十八銀行の社史『十八銀行 百年の歩み』(昭和53年3月発行)による。

(3)東京築地活版製造所との関り
松田精一の東京築地活版製造所との関わりは、同社の取締役だった松田源五郎が明治34年(1901)3月1日に病気で急死したことにより、同年4月に開催された定時株主総会において松田源五郎のあとを継いで取締役に選任されたときからはじまる。

図6-2 松田源五郎の肖像写真
<『長崎商工会議所 五十年史』より>

本木昌造の活版事業に1,000円を出資して協力し、
東京に出た平野富二にも活版事業と造船事業の両面で協力した。
株式組織となった東京築地活版製造所の取締役を務め、
同社の第6代社長松田精一はその長男である。

図6-3 松田源五郎の墓
長崎の光源寺別所に松田家の広大な墓所がある。
墓所の参道突き当りに松田源五郎の墓があり、
墓前に一対の石灯篭が供えられている。
その石灯籠は「東京築地活版製造所員」の献納による。

先に名前のでた松田一三は、松田精一の甥で、松田精一が東京築地活版製造所の取締役に選任されたときに、監査役として就任した松田英三の四男(明治25年5月生まれ)である。松田英三は松田源五郎の次女サヲ(松田精一の姉)と結婚して松田姓を名乗った。

取締役となった松田精一は、明治40年(1907)9月までの6年間は社長名村泰蔵の積極経営を金融面で支え、明治39年(1906)6月には資本金16万円を20万円に増資した。
明治40年10月に社長野村宗十郎に代わってからは、ポイント活字の販路拡張を中心とした拡大経営に協力し、大正6年(1917)に資本金20万円を30万円に増資して、みずから発行株式の20%近くを占める最大の株主となった。

大正3年(1914)7月の第一次世界大戦勃発から、大正7年(1918)11月の大戦終結までの間、日本経済は一時苦境におちいったが、1年後頃から景気は好転し、未曽有の大戦景気を迎えることになった。
印刷業界も非常な活況を呈したが、大正5年(1916)頃から職工不足と材料高騰に悩まされた。大戦終結後の反動不況も半年たらずで収まり、大正8年(1919)4月頃から景気は急速に回復した。

この中で印刷業者の協調は良く保たれていたが、大正12年(1913)9月1日の関東大震災によって、東京の印刷業界はほとんど壊滅状態となった。印刷同業組合加入の685工場の中で552工場が罹災し、被害額4千万円と記録されている。

東京築地活版製造所では、本社ビルの第1期工事が完成して、移転の前日であったが、新築したばかりの鉄筋コンクリートビルの構造体を残すのみで、資料類や活版製造設備一切を類焼により焼失した。月島分工場も罹災して甚大な被害を受けて印刷機械の製造を継続することができなくなった。

世の中はその後の復興景気にあおられて、一時、目覚ましい好転振りをしめしたが、大正13年(1924)8月頃から、再び不景気となり、次第に価格競争を起すきざしが現れた。

そのような中で東京築地活版製造所は、震災後の初年度の決算は赤字に転落したものの、借入金30万円により復興に努め、大正13年(1924)7月には総工事費35万円を掛けて4階建本社ビルの補修と増築を完了し、活字製造設備を中心に復旧させた。月島分工場も同年6月に新築建物を竣工させ、工作機械類の据付に入った。

その後も復旧工事は続けられ、本社ビル周辺の罹災した工場跡地を片付け、数棟の建物を新築して本社ビル内に収容できない諸設備を据え付けた。

図6-4 昭和初期の築地本社ビルと付属工場
<『東京の印刷組合百年史』より>

裏鬼門のうわさのあった本社ビル正面玄関は、
松田精一が社長に就任してから閉鎖されて壁面となり、
正面玄関は築地川沿いのビル中央の位置に移されている。
4階建本社ビルの左右に別棟の平屋建て建物が見える。
これらの建物は前社長野村宗十郎の復興計画に含まれるもので、
本社ビルに収容しきれない諸設備のために建てられたものと見られる。
震災復興後の築地地区の工場平面図を図6-4に示す。
なお、写真右下に新しく架け替えられた祝橋の欄干が写されている。

社長野村宗十郎の陣頭指揮のもとで多大の資金を投入してようやく復旧を果たした直後の大正14年(1925)4月24日、野村宗十郎は入院中の病院で死去した。

(4)第6代社長松田精一による経営
1.増資・借入金と各期の決算結果
野村宗十郎のあとを引き継いて社長に指名された松田精一は、大正14年(1925)9月、株主総会で今までの資本金30万円を倍額増資して60万円とすることを決定し、同年11月28日、臨時株主総会を開催して増資新株6,000株の第1回払込を決了した。

震災後の復興資金として日本勧業銀行から、大正14年(1925)に30万円、翌15年に10万円、昭和3年(1928)に10万円、合計50万円の融資をうけた。

明治5年(1930)11月25日の決算では、活字の売り上げ減少がひびいて、当期損益で28,141円の大幅赤字を計上した。これが原因となって、以後は当期損益では黒字となっても赤字決算を続け、株主への配当も行うことができなかった。 

2.役員の改選
大正14年(1925)12月12日、大正14年後期定時株主総会を開催し、原料が騰貴し、財界不振の状態であったが、震災以来、無配だった株主への配当を復活した。新たに取締役1名を選出し、野村宗十郎の長男野村雅夫が選任された。
野村雅夫は、野村宗十郎の持株を相続して株主となっていった。当時、東京電灯に勤務し、数え年23だった。昭和48年(1973)7月19日、行年71歳で死去している。 

大正15年(1926)12月13日、大正15年度後期定時株主総会が開催され、今まで監査役を務めてきた西川忠亮は病気のため退任した。
西川忠亮は、インキ商西川求林堂を創業した初代西川忠亮のあとを継いで二代目として父親の名前を襲名し、東京築地活版製造所の3大株主の1人となっていた。明治36年(1903)1月には月島分工場の用地の一部である月島通4丁目7番地の土地を東京築地活版製造所に代わって東京市から家屋建築用として借地している。昭和2年(1927)6月12日に病気で死去した。享年48。

昭和3年(1928)6月29日、昭和3年度前期定時株主総会が開催され、取締役だった野村雅夫が監査役となり、代わって新任取締役として大道良太が選任された。また、大澤長橘が取締役支配人に選任された。
大道良太は、明治12年(1879)生まれの滋賀県出身で、明治35年(1902)に京都大学法学部在学中に文官高等試験に合格し、翌年、卒業して内務省に入省した。大正12年(1923)に東京市電気局長として転出した。昭和5年(1930)後期まで東京築地活版製造所の取締役をつとめた。
大澤長橘は、東京築地活版製造所の社員で、それまで支配人を務めていたと見られるが、その事績は不明である。

昭和5年(1930)12月24日、昭和5年度後期定時株主総会が開催され、取締役だった伊藤三郎、大道良太の2人が退任し、代わって松田一郎、吉雄永寿が選任された。
松田一郎は、松田精一の長男で、多忙で病気がちとなった父の補助役として選任された。
吉雄永寿は、オランダ通詞出身で大蔵省に出仕していた吉雄永昌(辰之助)の長男で、明治18年(1885)以来、父親が所有していた株式を相続して株主となっていた。前期に大赤字を出して経営危機に瀕していた東京築地活版製造所を救うため星野錫らの推薦を受けて経営陣に加わった。

昭和6年(1931)12月28日、昭和6年度後期定時株主総会が開催され、取締役だった大澤長橘は退任した。

3.博覧会への出品
昭和3年(1928)11月に昭和天皇即位の大礼式が行われ、これを記念して次のような博覧会が開催された。東京築地活版製造所はこれに協賛して活字類を出品し受賞した。
・大礼記念国産振興東京博覧会   国産優良時事賞
・大礼記念京都大博覧会        国産優良名誉大賞牌
・御大典奉祝名古屋博覧会      名誉賞牌
・東北産業博覧会                 名誉賞牌

4.活字鋳造設備の縮小
大正15年(1926)10月の『印刷雑誌』によると、「さすがは築地活版、至れり尽せる活字製造の設備 堅実に復興し行く此の状況」として、手廻機130台、トムソン(Thompson)自動鋳造機8台、フランス製フーシェー(Foucher)自動鋳造機1台を備えたとしている。

ところが、昭和6年(1931)10月調の東京築地活版製造所の「工場配置図」によると、4階建本社ビルの第4階平面図に「活字鋳造工場」(図6-6)として手廻キャスチング69台、トムソン8台が設置されていて、これ以上の機械を設置する余地はほとんど無い。

残りの手廻機61台とフーシェー自動鋳造機1台は、どこに据え付けられ、その後、どのようになったか明らかになっていない。しかし、4階建本社ビルの周辺に建てられた付属工場建物の規模からみると、残りの60台を越える活字鋳造機よりなる工場建物は、図6-5の右端にある細長い煉瓦造建物以外には考えられない。しかし、その図には「紙倉庫」と表示されている。

活字の売上高は、震災直前の大正11年(1922)をピークとして、震災後はそのレベルまで復活することなく、明治4年(1929)頃からは半減し、さらに減少の傾向を示している。

このことから、本社ビルの別棟として(第2)活字鋳造工場を新設したが、その後、松田精一の決断によって余剰設備となった機械類は転売処分し、建物は紙置場に転用したのではないかと推測される。しかし、そのことを示す資料は見当たらない。

図6-5 築地地区の工場配置図
この工場配置図は、昭和6年(1931)10月調のものである。

図の左下に描かれたL字形の区画は4階建本社ビルを示す。
これとは別に、数棟の建物が築地の所有地を埋め尽くす形で建てられている。
図の右側に描かれた細長の煉瓦造建物は「紙置場」と表示されている。
しかし、もともとは、(第2)活字鋳造工場だったと見られる。

図6-6 本社ビル4階の活字鋳造工場平面図
床面の中央部分に並ぶ  □  は手廻鋳造機で、69台が配置され、

さらに、図左下の区画内にトムソン自動鋳造機8台が並べられている。
図左上突出部は母型整理場、右下の区画内は「製系工場」と表示されている。
ここの手廻鋳造機で鋳造された活字素材は、
3階にある仕上工場で女工の手によりヤスリで仕上げられる。

活字鋳造事業は、もはや大工場で大量生産する時代ではなくなり、とくに震災以降は活字販売業者が自ら活字製造業に転向する傾向にあり、東京活字製造組合(組合員104名)が結成されるまでになっていた。

また、新聞社に続いて大手印刷会社も、雑誌や全集物を印刷するために活版輪転印刷機を設置するようになると、活字の大口需要は減少の傾向にあった。さらに、中規模の出版社でも自動活字鋳造機を備えて自家鋳造するようになった。そのうえ、活字鋳造から組版までを行う機械として「和文モノタイプ」が開発され、これが出版社に導入される時代になりつつあった。

昭和5年(1930)1月、東京築地活版製造所は創業以来の社則を解き、時代に即応して印刷局に官報用活字母型を納入した。また、和文モノタイプの普及が予測される中、自社の活字を活字父型かわりとして積極的に提供して、新しい活路を開く試みをはじめた。

野村宗十郎は震災後の復興として手廻活字鋳造機を大量に設備した。しかし、この設備は明治初年から行っていた活字製造方式であり、活字の鋳造から仕上げ作業まで職人や女工の手作業に依存していた。このことは、労働運動に目覚めつつあった職工たちによるストライキの影響を直接受けることにもなった。
野村宗十郎の社長時代である大正8年(1919)10月、東京築地活版製造所を含めた京橋区と神田区の大工場の多くが、信友会による実働8時間、賃上げ5割の統一要求ストライキにより各工場を閉鎖し、首謀者を解雇するなどで業界麻痺を経験している。

5.月島分工場の廃止と九州出張所の閉鎖
昭和3年(1928)12月頃から、月島分工場の用地を分割して、東京市からの借地権を他者に譲渡し始めた。
これは、関東大震災のあとの復興需要が一段落して、活版印刷機の需要が急激に減少し、新規需要は活版輪転印刷機やオフセット印刷機など、東京築地活版製造所では扱っていない高性能の新機種に顧客の需要が移行しつつあったことによると見られる。

昭和9年(1934)7月7日になって松田精一は、東京市に対して「市有地借地権譲渡願の件」として、京橋区月島通4丁目9番地1号と同11番地の土地を馬場新に借地権譲渡することを届け出た。これによって、これまで次々と縮小してきた月島分工場を閉鎖し、活版印刷機製造事業から完全に手を引いた。

そのような状況にも関わらず、昭和6年(1931)10月に『活字と機械』(改正版)を出版し、昭和10年(1935)10月にも出版して、活字と共に印刷機械の宣伝をしている。むかし、平野富二が行ったように、外部委託で印刷機を製造し、販売だけでも継続していたとも見られる。

月島分工場の閉鎖に先立ち、昭和6年(1931)12月に業務縮小のため九州出張所(小倉市大阪町)を閉鎖している。 

6.その他
昭和2年(1927)11月、東京築地活版製造所は、秀英舎、共同印刷、日清印刷、凸版印刷、日本紙業の6社で健康保険組合を創立した。以後、健康保険料の会社負担が計上されることになった。

昭和4年(1929)10月、『株式会社 東京築地活版製造所紀要』が発行された。これは同社が発行した最初で最後の社史であるが、わずか10ページの小冊子であった。

一方、顧客でもありライバルでもあった株式会社秀英舎は、明治40年(1907)3月と大正12年(1923)3月に『株式会社秀英舎沿革史』を発行、さらに、昭和2年(1927)3月に『株式会社秀英舎 創業五十年誌』を発行している。

昭和5年(1930)6月、有志者により前社長野村宗十郎の胸像を目黒不動尊滝泉寺境内に建立した。寄せられた寄付金8,680円余りの内、東京築地活版製造所から500円、東京築地活版製造所従業員から475円40銭が寄付された。

昭和6年(1831)12月、松田精一は、財団法人日本産業協会から産業功労者の1人として表彰された。

昭和9年(1934)5月、本木昌造没後60年目にあたり本木昌造頌徳会によって長崎諏訪公園内に本木昌造銅像(椅子掛座像)が建立された。この像は戦時の金属供出により失われた。現在の立像は昭和29年(1954)に再建されたものである。

(5)東京築地活版製造所の社長辞任とその後
昭和10年(1935)5月28日に開催された昭和10年度前期定時株主総会において、松田精一は病身のため取締役社長を辞任して相談役となった。

このとき選任された役員は、社長:空席、専務取締役:大道良太(新任)、取締役:松田一郎、吉雄永寿、馬場喜久松(新任)、監査役:星野錫、野村雅夫、相談役(新設):松田精一、伊東三郎、北見米吉。

専務取締役となった大道良太は、昭和3年後期から昭和5年後期まで取締役を勤めていた。取締役に新任された馬場喜久松は、東京築地活版製造所の事務員で、永年勤続により株式譲渡を受けて株主となっていた。
相談役となった北見米吉は第4代社長の名村泰蔵と関係が深く、名村泰蔵の遺族が所有していた株式をすべて譲り受けて大株主となっていた。

しかし、専務取締役に就任した大道良太が持株を手放して辞任したため、同年6月、臨時株主総会により取締役吉雄永寿が専務取締役に選任され、社長空席のまま、経営改善に取り組むことになった。本件については次回ブログで述べる。

松田精一は、東京築地活版製造所の第6代社長を辞任して1年7ヶ月後、昭和12年(1937)1月、長崎で死去した。享年63。

まとめ
松田精一は、明治34年(1901)4月から大正14年(1925)4月までの24年間、東京築地活版製造所の取締役として第4代社長名村泰蔵と第5代野村宗十郎の下でつとめた。
野村社長の病死により大正14年(1925)4月に第6代社長に就任してから昭和10年(1935)4月に病気で退任するまで10年間つとめた。その後も相談役をつとめたが、2ヶ月後の同年6月に辞任した。

このように34年余りの長い年月にわたって東京築地活版製造所の経営に関わって来たことになる。

この間、わが国の経済情勢は、明治34年(1901)の銀行恐慌、大正12年(1923)の関東大震災による震災恐慌、そして昭和2年(1927)の金融恐慌、さらには昭和4年(1929)に始まる世界大恐慌下の昭和恐慌に至る、まさに、わが国の経済情勢は「恐慌から恐慌へ」と揺れ動く動乱の時代だった。

前々代の名村社長による積極経営と、前代の野村社長によるポイント活字販売によって、東京築地活版製造所は順調に経営の拡大がなされてきた。しかし、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で罹災し、新築したばかりの本社ビルは鉄筋コンクリートの建物が焼け残っただけで、月島分工場を含めてほとんど壊滅状態になった。

前代野村社長の陣頭指揮の下で震災復興がおこなわれ、翌13年7月には本社ビルの補修と増築が完成して活字製造を開始した。それに続いて月島分工場も復旧工事が完成した。復興事業はその後も続いたが、本社ビルの完成から1年後の大正14年(1925)4月23日になって野村社長は復興計画未完成のまま入院して間もなく病死した。

あとを引き継いで社長となった松田精一は、野村前社長の未完成の計画を引き継ぎ、震災から3年後に活字製造設備を中心とした製造設備を完成させた。その復興資金は、日本勧業銀行からの融資と資本金の増資によってまかなわれた。日本勧業銀行からは大正13年度に30万円、大正15年度と昭和2年度にそれぞれ10万円、合計50万円の融資をうけた。大正14年(1925)に30万円の倍額増資を行い、資本金60万円となった。

しかし、震災後の復興需要が一巡すると、活字の需要は減退し、月島分工場で製造する従来型の活版印刷機もその需要は低迷した。そのため、銀行融資の利払いが負担となり、株主への配当ができない状態に陥ってしまった。

原因は、野村社長の復興計画が、印刷業界の趨勢を無視して復興の重点を活字製造事業に置き過ぎたこと、自動化、省力化の最新型製造設備への転換が疎かにされたことと見られる。
明治初期からの中小企業体質をそのままの形で大企業化をはかったため、もはや、後戻りして体質改善をおこなう余裕すらない状態に追い込まれていた。

この間、社長として経営を任された松田精一は、前社長の野村宗十郎の復興投資の後始末に追われて、活字鋳造設備を半減処分し、月島分工場を閉鎖するなどで経営上の負担を軽減させたが、時代に適合した方向への軌道修正ができないまま、病気により退陣を余儀なくされた。社長に代わって強力なジーダ―シップを発揮し、社内を新しい方向へ引っ張って行く人材が育成されていなかったことも苦境からの離脱ができない要因の一つであった。

松田精一は、父の松田源五郎が本事業の開祖本木昌造と業祖平野富二に終始側面から協力した結果として設立された東京築地活版製造所の第6代社長として経営を任されたが、長崎の十八銀行頭取などの本務がある制約から、経営改善の筋道をつけることができないまま、激務による病気で引退することになった。

その後は、長男の松田一郎が取締役として経営に参画することになるが、時代の趨勢は厳しくなる一方であった。
伝統ある東京築地活版製造所の最後の幕引きは、松田一郎が倒産でなく、解散という形で締めくくる役目を負った。そのことについては次回ブログで紹介する。

2019年7月18日 稿了

東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎

(1)第五代社長として専務取締役社長に選任
株式会社東京築地活版製造所の第四代社長名村泰蔵が明治40年(1907)9月6日に急逝したため、同年10月に開催された株式総会において、野村宗十郎が専務取締役社長に選任された。

野村宗十郎は、明治39年(1906)4月に支配人から昇格して取締役兼支配人となっていたことから、前社長の急逝にも関わらず、混乱なく順当な経営引継が行われた。

図5-1  野村宗十郎の肖像写真
<Wikipediaより>

昭和4年(1929)10月に発行された『株式会社 東京築地活版製造所紀要』に、
「氏は、当社中古の一大異彩でありまして、明治23年入社以来、献身的精神を以って事に臨み、剛毅果断、しかも用意周到で、自ら進んでよくその範を社員に垂れました。社務の余暇、常に活字の改良に大努力をそそぎ、研究を怠らず、ついにわが国最初の「ポイントシステム」を創定して、活版界に一大美揺を与えたのであります。ために官は授けるに藍綬褒章を以ってし、これが功績を表彰せられたのであります。」と記されている。

以下に、野村宗十郎の東京築地活版所入社までの略歴、入社とその後の昇進、支配人時代の事績、専務取締役社長としての事績、没後の記録を順次紹介する。

(2)東京築地活版製造所に入社までの略歴
野村宗十郎は、安政4年(1857)5月4日、鹿児島藩御用商人である服部東十郎の長男として長崎築地に生まれた。

鹿児島藩御用商人の服部家については、オランダ通詞今村源右衛門明生(1719-1773)が薩摩藩御用商人服部政太郎の養女(政太郎の弟の娘)を妻として迎え、その子今村政十郎真胤(1751-1823)は、島津重豪が長崎を訪問するに先立って、明和8年(1771)4月から薩摩藩に仕えた。この服部政太郎の子孫が服部東十郎と見られる。

長崎築地は町名ではないが、現在の長崎市銅座町の銅座川に面した一画は築地と呼ばれ、薩摩藩蔵屋敷と接していたことから、この場所と見られる。

父の服部東十郎は、代々、薩摩藩から一代限りの家禄を得ていたと見られ、島屋政一著『本木昌造伝』によると、家禄を奉還して困窮のふちにあったとき、長崎新町活版所に入って植字工となった。彼は飄々としたひとであって、長崎新町活版所をやがて去って、郷里の鹿児島にもどって県庁の地券証書などの印刷にあたっていた。明治10年(1877)の西南戦争で県庁の印刷局が廃止されたため、再び長崎に出て三井物産の印刷所に入った。明治15年(1882)には、上京して東京築地活版製造所に入社した。

服部宗十郎は、明治2年(1869)2月、数え年13のとき、本木昌造が開設したばかりの新街私塾に、父に伴なわれて入学し、数学・英語・その他の洋学を学んだ。その傍ら、同じ構内にあった新町活版所で活版術の基本を学んだ。新街私塾で2年間勉学した後、明治4年(1871)に大阪に出た。<「故野村宗十郎翁畧伝」、『大正4年10月 功労者表彰具申』による>

しかし、時期的に見て、宗十郎が入学したのは新街私塾の前身である本木昌造の私塾であって、その後、新町私塾が開設され、引き続きそこで学んだと見られる。

本木昌造が「私塾」を開設したのは、慶應2年(1866)9月のことで、本木昌造は長崎製鉄所の頭取を務めていたことから、陽其二に管理者兼助教を委嘱した。<宮田安著『唐通事家系論攷』、陽其二> 
新町私塾が正式に発足したのは、本木昌造が長崎製鉄所頭取を辞任した後の明治2年(1869)11月であり、新町活版所は、翌3年3月、その付属として開設された。

新町私塾の入門控(慶應4年1月11日から記載)には、服部宗十郎、あるいは、野村宗十郎の名前は見当たらない。

島屋政一著『本木昌造伝』によると、父親の新町活版所入社にすこし遅れて、聡明をうたわれていたものの学資に事欠いていた一人息子の宗十郎が、無月謝で人材養成をつとめていた新街私塾に入って数学と洋学を学んだと記されている。これによると、服部改め野村宗十郎の新街私塾入門は明治3年(1870)3月以降となる。

従兄の野村全吉が、官軍軍艦「朝陽」に搭乗して函館戦争に参戦中、明治2年(1869)5月11日の海戦で、軍艦「朝暘」の火薬庫に被弾し、艦上で戦死した。そのため、宗十郎は、服部家の一人息子であったが、父の指示に従い野村家の跡を継いで、野村宗十郎となった。

義父となった故野村全吉は、長崎府の御船手掛であったことから、明治1年(1868)12月18日、長崎製鉄局機関方に任命され、第三等機関方、壱ヶ年に付五人扶持、業給金拾弐両宛の待遇を受けていた。このとき、平野富次郎は第一等機関方に任命されている。

野村全吉は、やがて新政府軍艦「朝暘」に機関方として乗組み、榎本軍討伐のため函館に向かい、函館で戦死した。

明治2年(1869)6月、長崎製鉄所第三等機関方野村宗十郎に対して、野村家を継いだことにより父の志を継いで、一層勉励して忠勤に励むよう、製鉄所方から指示を受けている。これにより、宗十郎は義父の職務を継いで長崎製鉄所第三等機関方となっていたことが分かる。しかし、宗十郎は、機関方としての知識も経験もなく、扶持と業給金を受けるだけだったと見られる。

野村宗十郎が長崎製鉄所機関方となった頃には、平野富次郎は小菅専任として艦船修理の責任者となっており、同じ機関方に属していても、職場を共にすることはなかったと見られる。

明治4年(1871)、数え年15のとき、大阪に出て、游龍鷹作(野村全吉の弟で宗十郎とは従兄に当たる)の家に寄宿し、大阪開成学校(後の第三高等学校)に入学した。しかし、病気がちのため途中退学した。

その後、東京にあこがれて上京し、加福喜一郎(従兄、王子製紙に勤務)の家に寄宿して王子製紙に入社した。その時期は、工場の建築が終わってようやく製紙作業を開始した頃とされているので、明治9年(1876)頃のことと見られる。

王子製紙は明治6年(1873)2月に設立されて、最初は「抄紙会社」と称した。明治9年(1876)5月に「製紙会社」と改称し、明治26年(1893)11月に「王子製紙株式会社」と改称している。

したがって、野村宗十郎の入社した頃は、工場が竣工した後であることから、「製紙会社」と称していたと見られる。その頃、工場は完成したが、なかなか稼働に入れない状態が続いていた。

従兄の游龍鷹作は、唐通事林家七代目の林市兵衛昌風の曾孫にあたり、市兵衛の次男游龍彦十郎、その次男游龍彦次郎と続く。野村全吉と游龍鷹作は兄弟であるとされていることから、その兄弟は游龍彦次郎の息子たちか、あるいは、游龍鷹作が野村家から游龍家に養子に入ったか、どちらかと見られる。

なお、游龍彦次郎は、慶應1年(1865)に小通事(唐通事)を勤め、その弟に林道三郎が居る。林道三郎は、柴田昌吉・子安峻らの『英和字彙』の編纂に協力した人である。

別の従兄である加福喜一郎は、陽其二に協力して、お互いの妻を介して義兄弟の関係にある竹谷半次郎の三人で、明治6年(1873)2月、横浜に「景諦社」を設立している。翌年、渋沢栄一の設立した「抄紙会社」に譲渡して「抄紙会社横浜分社」となり、陽其二は支配人となった。

王子に建設していた「抄紙会社」の工場は、大株主の小野組・島田組が倒産したこともあって、明治8年(1875)12月になってようやく竣工した。しかし、生産が軌道にのるまでにはさらに多くの月日を要した。

明治9年(1876)に「抄紙会社」は「製紙会社」と改称した。その印刷部門である「製紙分社」が東京兜町の第一銀行内に設立され、陽其二が総括した。

明治26年(1893)11月の商法施行に伴い「製紙会社」は株式会社として改組し、「王子製紙株式会社」と改称した。

しかし、野村宗十郎の王子製紙(製紙会社)勤務は長くは続かなかった。会社勤務では勉学が出来ず、これが悩みの種となっていた。

おりしも幸に、游龍鷹作が大阪から東京に移り住んだことから、明治9年(1876)に東京の游龍家に寄宿して東京英語学校に入学することができた。東京英語学校は、明治10年(1877)4月に東京大学予備門となった。宗十郎は、大いに喜んで、日夜、勉学に励んだが、病弱のため大学に進学することは出来なかった。

宗十郎は、これ以上の勉学は諦め、実生活に入る準備をするべく決心し、簿記学校に入学して、専ら簿記術を勉学した。

宮田安著『唐通事家系論攷』によると、明治17年(1884)7月の記録に、「長崎区本古川町弐拾弐番戸第二号 平民 游龍鷹作 三十五年三ヶ月 右東京府寄留ニ付‥‥‥」とある。これによると游龍鷹作は、明治17年7月に東京府に寄留したと見られる。しかし、実際に大阪から東京に移り住んだのは、明治10年(1877)前後のことと見られる。

明治12年(1879)12月、数え年23のとき、宗十郎は大蔵省銀行局に入ることができた。銀行局では、余暇のあるたびに、銀行学の研究に注力していたことから、これが認められて、国立銀行の検査を行う役を仰せ付けられた。

全国各地の国立銀行に派遣されて検査を行っていたが、簿記に詳しいことから、主計局に転勤を命じられ、今度は全国各地の国庫を巡回調査した。

明治21年(1888)になって、宗十郎は、地方への出張ばかりで、自分の学歴では今後の昇進は難しいことから、官吏生活に不満を持ち、民間会社に勤務したい旨を加福喜一郎に伝えた。加藤喜一郎は賛意を表し、早速、製紙分社の陽其二に宗十郎のことを依頼した。

その結果、陽其二の推薦により東京築地活版製造所から招聘されることになり、明治22年(1889)に大蔵省主計局に辞職を申し出て退職した。

(3)東京築地活版製造所への入社とその後の昇進
明治22年(1889)7月、数え年33のとき、東京築地活版製造所に入社した。

当時の東京築地活版製造所は、同年5月に平野富二が社長を辞任して、本木昌造の嫡子本木小太郎が社長心得となり、実質的な経営は取締役の松田源五郎と谷口黙次の2人が行うようになったばかりの時期であった。

野村宗十郎が最初に配属された先は、倉庫係だった。

野村宗十郎の入社直後は、長引く不況の影響を受けて会社存亡の危機に瀕していた。重役会で会社の資産を2万円の評価で身売りすることを決議したが、それでも売れなかったほど経済界の不況は深刻だった。最後の手段として、臨時株主総会において前支配人の曲田成が選ばれて社員・職工全員から辞表を預かり、事態打開のため各人の全面的協力を確認した上で再雇用を行なった。

明治23年(1890)1月、社長心得の本木小太郎は辞任し、曲田成が社長に就任した。

野村宗十郎が倉庫係に配属された後、どのような部署を歴任したかは定かでない。入社して3年後の明治25年(1892)8月には、早くも社長曲田成の下で副支配人に任命され、その翌年8月には支配人に昇進した。活版製造事業にほとんど経験のない者が、入社後わずか4年で支配人となったことになる。

その後、明治29年(1896)4月には、社長名村泰蔵の下で取締役支配人となり、明治40年(1907)9月に名村泰蔵が死去したことにより、その後継者として専務取締役社長に選任されるまで、支配人として15年間、取締役として11年間務めた。

明治22年(1889)6月に制定された同社の「定款」によると、重役の下に役員を置き、総務部の役員は支配人、副支配人、会計係、工場係の4人であった。正副支配人は、重役の命を請けて事務一切を担当し、会計に注意して簿記計算と物品出納などを取り裁いて整理することを主務としている。

野村宗十郎は、入社した年の明治22年(1889)以来、活字の改良と印刷の進歩に熱心に取り組み、一意専心、この事業に従事したとされている。

入社当時、会社の秘書として雇われていたイーストレイキ(F. W. Eastlake)が辞任したので、サマーズが新たに雇われたが、程なく死去してしまった。その机上に『プラクティカル・プリンティング』2冊が遺されていた。しかし、遺族が遺品として持ち帰ったので、会社で他の書籍・雑誌類と共に海外に注文して取り寄せた。

野村宗十郎は、海外から取り寄せた書籍、雑誌類を翻訳させ、自ら読みふけり、社内の各担当者にも読むように指示し、また、印刷して広く同業者に配布して、印刷業の啓発に役立てたという。その一つが、明治25年(1892)11月に東京築地活版製造所で刊行した『実用印刷術袖珍書 第一』(訳述兼発行人 曲田成、印刷人野村宗十郎)である。この本は、明治27年(1894)9月に『実用印刷術袖珍書 第十』が刊行されるまで続いた。

(4)支配人時代の事績
1)活字のポイントシステム調査と導入・普及
入社した年の明治22年(1889)に、野村宗十郎は、アメリカ貿易会社の手を経てサンフランシスコのパーマー・エンド・レイン社の見本帳を入手し、初めてポイントシステムの大小活字を知ることができたという。

やがて、明治24年(1891)4月に秀英舎から発行された『印刷雑誌』(第1巻第3号)に「亜米利加ノ活字定点法」と題してポイントシステムのことが掲載された。野村宋十郎は、これに賛意を得て、このポイントシステムをわが国の活字に採用する場合、フランスとアメリカでは多少の差があり、いずれにするか迷ったが、アメリカの制度によることが最良だと思い、インチを基本としたポイントシステムで活字を創製することを決心した。

そこで、『印刷雑誌』(第1巻第5号)にポイントシステムを簡略に翻訳し、東京築地活版所からの寄稿として投稿した。
さらに、字母製造者の宇佐美豊吉と事務員の松尾篤三とを相談相手にして、ポイント活字の製造を計った。

ポイント活字の製造について、重役会では、現在、せっかく普及し売れている五号活字〔=10.5ポイント〕があるのに、これと似たようなポイント活字をつくって業界を混乱させる必要はないと批難されたが、曲田社長の支援により造り始めることができたという。

以上のことは、野村宗十郎が大正4年(1915)6月12日に印刷青年会において行った講演「日本に於けるポイントシステム」で述べている。

しかし、野村宗十郎は、上海美華書館での活字サイズの歴史を知らず、本木昌造が導入して平野富二が整理・統一した経緯も理解しないまま、思い込みと独断があったのではないかと見られる。

野村宋十郎が提唱したポイントシステムは、イギリス・アメリカの1インチ(25.4mm)を基準にして、その72分の1を1ポイントと定めたものである。しかし、当時のアメリカン・ポイント・システムは、全米で広く用いられているフィラデルフィアのマッケラー・スミス・アンド・ジョーダン社のパイカ活字の全角を基準として、その12分の1を1ポイントとしたもので、パイカの全角6本のサイズ(72ポイント)は0.996264インチとなる。つまり、1インチよりも僅かに小さい。

そもそもポイントシステムは、フランスで最初に提唱されたもので、アメリカではシカゴのマーダー・ルース社がパイカ活字の全角6本を正確に1インチとし、1インチの72分の1を1ポイントとする提案を発表した。しかし、これでは、全米の活字をすべて改鋳することになり、採用するものはなかった。

野村宋宗十郎のポイント活字は、結果的に、この提案によったことになる。

野村宗十郎がポイント活字を一般に発表したのは、明治36年(1903)3月に第5回内国勧業博覧会が大阪で開かれたときで、東京築地活版製造所は9ポイント活字約3,000本を中心に、他のポイント活字10種ばかりを50~60本ずつ出品した。これに対して名誉銀牌を受賞している。

『大阪毎日新聞』はこれに注目して、記者の菊池幽芳がこれを綿密に調査し、同紙上に2回にわたり詳しく記載した。野村宗十郎はこれを読んで、いよいよポイント活字採用の到来と喜んだという。

明治39年(1906)になって、東京の『中央新聞』が9ポイント活字を採用したので、7~8,000種を製造して供給した。これが新聞に用いられた最初である。しかし、当時の新聞は、紙面が6段か7段で、五号活字(10.5ポイント相当)で読みなれた眼には、9ポイント活字は小さくて読みにくいとの非難があったため、五号活字に戻ってしまった。そのことから、9ポイント半、10ポイント活字をつくるに至った。

野村宋十郎の良き庇護者であった社長曲田成が明治27年(1894)10月に急逝し、代わって名村泰蔵が社長になった。
社長名村泰蔵は積極的経営に打って出て、幸いポイント活字に対しても非常に乗り気だったので、野村宗十郎も一層ポイント活字の研究に熱を入れることが出来たという。

この年の8月に始まった日清戦争で、印刷業界は活況を呈していた。

2)コロタイプによる写真印刷の実用化
明治26年(1893)、アメリカのシカゴでコロンビア世界博覧会が開催(1893.5.1~10.3)され、コロタイプ印刷術を研究する小川一真(おがわかずまさ)が招待されて出かけた。そのとき、東京築地活版製造所の社長曲田成は、小川一真に写真製版の標本購入費として餞別の意を含め50円を渡した。

小川一真は、明治15年(1882)に写真術を習得するためアメリカのボストンに渡り、ヨーロッパの最新写真術とコロタイプ印刷術などを習得し、明治17年(1884)1月に帰国した。明治21年(1888)になって、日本初のコロタイプ写真製版と印刷を開始し、翌年、京橋区日吉町(現、銀座8丁目)に小川写真製版所を開業した。

コロタイプは、コロイド・タイプ(膠質型版)のことで、ガラス板上に感光剤を混合したゼラチンを均一に塗布し、写真のネガ版を用いて感光させることにより、感光の度合いに応じてゼラチンの硬化度に相違が生ずる。これを乾燥させるとゼラチン膜の硬化度に応じて表面に微細な皺(しわ)が生じる。これを印刷版として使用することにより、写真の印刷が可能となる。

この技術は、1870(明治3)年にドイツで実用化された。同一版では数千枚の印刷が限度で、また、印刷スピードが遅いため、高級印刷を除くと、やや遅れて開発された網目印刷(網点印刷)が一般的となる。

網目印刷は、網目スクリーンを通して写真を光学的に網点で構成させ、濃淡に応じた網点の大小によって階調を表現するものである。明治27、8年(1894、5)の日清戦争の報道で網目印刷版が盛んに用いられて広く流行した。

小川一真は、アメリカに滞在中、現地で印刷した岡倉天心執筆のわが国出品物解説書の挿図に写真網目版が用いられているのを見て、初めてこの技術を知ったという。帰国に際して、その整版に必要な用具・材料一式を購入している。

翌年の明治27年(1894)に小川一真が写真製版用スクリーン、その他を購入にて帰国したときは、既に曲田社長は死去し、代わって名村泰蔵が社長となっていた。
小川一真は曲田社長との約束もあったので、支配人の野村宗十郎に、写真製版は自分でやるから、印刷の方は東京築地活版製造所でやって貰いたい。しかし、製版法については秘密保持をお願いしたいと申し出た。

野村宗十郎は、構内にある紙倉庫の一部に仮工場を設け、外から覗き見されないように戸板で周囲を囲み、従業員二人を選んで秘密保持の誓約書を書かせた上で、小川一真がアメリカで学んできた印刷方法の説明を受けさせた。横浜のアーレンス商会を通じてドイツからインキを買い入れ、小川がアメリカから持参したアート紙を用い、アメリカで製版した人物画のコロタイプ写真版を用いて、外国製の器械により印刷を試みた。

しかし、印刷面はアバタだらけで、失敗の連続だったという。思案のあげく、パラフィン紙をムラ取りに使用する下貼り上貼りの技術を知り、なんとか理想に近い印刷が出来るようになったという。この方法で衆議院議長楠本正隆と副議長安倍井磐根の写真版をアート紙に印刷して好評を受けた。

その後、8頁ロール印刷機にルーラーを3本増やして精密整版物の印刷が出来るようになったという。さらに、三色版の写真印刷を研究し、黄・赤・青の版を30度ずつ違えて印刷することでカラー写真の印刷に成功した。

以上の話から推測すると、野村宗十郎が写真版の印刷を小川一真から依頼されたのは、コロタイプ写真版のみならず、網目写真版の印刷も含めたものであったと見られる。

大日本写真協会の創立に際して野村宗十郎は評議員に挙げられた。

3)組織改革と営業活動、博覧会出品
<組織改革>
明治26年(1893)8月、曲田成社長の下で支配人に昇進したことにより、社務分掌を改め、会計課長に湯浅文平、販売部長に木戸金朔、印刷部長に上原定次郎を据え、自らは元締となった。また、明治29年(1896)4月には、3年修業の徒弟養成学校を社内に設けた。

明治40年(1907)1月、大阪市西区土佐堀通2丁目に大阪出張所を新設した。これは、大阪毎日新聞社によるポイント活字採用とその後の度重なる改良により、大阪毎日新聞社への活字納入の便宜と関西方面の売込みを目的としたものであった。

<営業活動>
明治28年(1895)11月、曲田成が発行した『座右之友』の続編として、『座右之友(第二)』を支配人野村宗十郎として発行した。

明治29年(1896)11月から12月にかけて、野村宗十郎は清国上海と香港に出張した。この出張目的は明確にはなっていないが、上海で一手特約店としていた修文書館が業績不振で閉鎖されたため、その善後策を協議し、次いで、今後の海外発展をめざして香港に足を延ばしたと見られる。

平野富二は、明治17年(1883)2月に東京築地活版製造所の上海出張所として修文館を開設している。修文館はやがて修文書館と改称するが、明治18年(1885)になって独立させて、東京築地活版製造所の一手特約店とした。
しかし、明治27年(1894)に二代目館主となっていた松野平四郎が28歳の若さで病死した後は、業績不振に陥り、修文書館は閉鎖された。その後、明治33年(1900)になって現地の商務印書館に譲渡された。

東京築地活版製造所の海外活動について、明治24年(1891)2月発行の『印刷雑誌』に掲載された広告に、「今やほとんど東洋第一の活字製造所として知られ、上海・香港・マニラ・シンガポールなどの遠方から漢字および洋字の注文を受けるのみならず、東洋に在る幾多の横字新聞紙も従来から用いて来た欧米製の活字に代えている。当所の活字は地金が堅牢で、永久の使用に堪え、ことに字体が正確で、かつ、どのような注文にも応じ得るためであります。」述べられている。

 <博覧会出品>
明治28年(1895)4月に東京で開催された第4回内国勧業博覧会に活字類を出品し、名誉銀牌を受賞した。また、明治36年(1893)3月に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に「ポイント」式活字の活版見本と定価表を出品し、名誉銀牌を受賞した。

さらに、明治40年(1907)7月に開催された東京勧業博覧会に仮名付活字と写真石版印刷物を出品し、名誉金牌を受賞した。

4)業界活動と社会貢献
<外部団体の役員就任>
明治26年(1893)10月、曲田社長が病没し、名村泰蔵が専務取締役社長に就任したとき、曲田成の跡を継いで東京印刷業組合の常務委員となった。また、この年、東京彫刻競技会審査員および協議員となり、後に東京彫工会理事に就任した。

明治30年(1897)には、文省国語調査会の嘱託員となり、常用漢字の制限について意見を述べた。明治35年(1892)12月になって、文部省国語調査委員会より活字に関する調査事務を嘱託される。

明治40年(1907)4月に、東京府から東京勧業博覧会の審査を嘱託された。

大正5年(1916)4月、東京印刷同業組合の代表工場により印刷倶楽部が組織され、野村宗十郎は理事長に選任された。また、大正6年(1917)6月、東京印刷同業組合の臨時組合会で役員改選が行われ、野村宗十郎は副組長に選任されたが、同年7月、辞任した。

<印刷物見本交換会の開催>
前社長曲田成が準備していた第2回印刷物見本交換会を開催し、その結果を明治27年(1894)11月に纏めた『花のしをり』(第2回)を野村宗十郎名義で発行した。

それに続いて、第3回全国印刷業者製作印刷物蒐集会を開催し、明治31年(1898)10月、その結果を『花のしをり』(第3回)として野村宗十郎名義で発行した。

さらに、第4回全国印刷業者製作印刷物蒐集会を開催し、明治35年(1902)3月、その結果と『花のしをり』(第4回)として野村宗十郎名義で発行した。

しかし、野村宗十郎が指導して研究・実用化したコロタイプ印刷と三色版印刷については、第3回のときに他社から初めて出品されたが、東京築地活版製造所からの出品はない。

(5)専務取締役社長としての事績
明治40年(1907)10月、野村宗十郎は第4代社長名村泰蔵の後任として専務取締役社長に就任した。社長就任後の野村宗十郎の事績について、その内容を項目に分けて述べる。

<事業の拡張・縮小>
野村宗十郎が社長に就任した翌年の明治41年(1908)3月、東京府京橋区月島通5丁目に機械製作工場が竣工し、月島分工場とした。ここでは印刷機械の製作を中心に行った。

図5-2 竣工して稼働に入った月島分工場
<大正3年6月発行の『活字と機械』の口絵より>

この工場用地は印刷機製造のために前社長の名村泰蔵が借地した。
明治38年(1905)6月に一部が完成して稼働に入ったと見られる。
左上の写真は明治40年(1907)1月に開設した大阪出張所である。
東京築地活版製造所における印刷機械の製造は、
それまで大阪活版製造所と東京石川島造船所に委託製造していた。
しかし、共に製造を打ち切ることになったので、

名村泰蔵が自社での製造を計画したものと見られる。

大正3年(1914)6月、東京築地活版製造所から『活字と機械』を発行して、各種印刷機械を含めた諸機械の写真版、仕様、定価表を掲載している。

月島分工場の完成を機会に、株主総会では16万円だった資本金を30万円に増資することが決定された。その結果、大正6年(1917)1月時点で、払込資本金が27万5千円となった。

明治42年(1909)12月と大正7年(1818)にトムソン自動鋳造機を輸入した。それまで東京築地活版製造所では、150台の手廻鋳造機械をフルに使用しても全国の新聞社から寄せられるポイント活字の注文に追われ、昼夜兼行で働いても間に合わない状態だったという。

また、大正10年(1921)5月には、ベントン活字母型彫刻機械1台を輸入した。この機械は、約2インチサイズの活字パターンから、パンタグラフの原理を利用して、各種サイズの活字母型をカッターで削り出すもので、母型製作が容易になった。しかし、非常に高価な機械であった。その後、1台を追加発注している。

大正7年(1918)末、築地川沿いの通りと祝橋通りとの角地に地下1階、地上4階の鉄筋コンクリート造りの新社屋が清水建設によって着工された。大正12年(1923)7月になって、建設中の新社屋の主要部分が第1期工事として完成し、一部の部門を残して移転した。

第一期工事として完成した建物は、築地川沿いの一番古い煉瓦造事務所を残して工事を行い、事務部門を新社屋に移転させた後に、第二期工事として、煉瓦造事務所を取壊し、その跡地に新社屋に接続して建て増しする計画だった。なお、明治37年(1904)に祝橋通りに面して建てられた鉄筋コンクリート造3階建ての活字仕上工場は残された。

大正11年(1922)11月3日、小倉市大阪町9丁目121番地に九州出張所を開設した。

<ポイントシステムの普及>
明治37年(1904)2月に日露戦争が勃発したが、国民の関心は新聞報道に頼るしかなかった。そのため、購読者が増え、新聞社間の販売競争が激化した。これに呼応して一般出版社による雑誌や画報の創刊が相次いだ。しかし、これを機会にポイント活字を採用する新聞社や出版社はなかった。

明治41年(1908)11月3日、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社は、築地製10ポ活字を採用し、紙面を18字詰、8段、104行に改めた。しかし、18字詰では少し張り過ぎ、17字詰では空き過ぎるという欠点があったことから、他の新聞社では10ポ活字を採用するものがなく、東京築地活版製造所では、一時、10ポ字母の製造を中止してしまった。

明治44年(1911)1月1日から大阪毎日新聞社と東京日日新聞社は9.5ポ活字を採用し、東京築地活版製造所では『大阪毎日新聞』のために9.5ポイントのルビ付き活字をつくって供給した。

大正2年(1913)の秋になって、『大阪朝日新聞』から9ポイント活字10万個の注文に続いて、『東京朝日新聞』も9ポイント活字に紙面を改め、『大阪毎日新聞』も大正3年(1914)4月1日から9ポイント活字を採用した。
そのため、全国の新聞界はすべてポイント活字に風靡され、また、一般印刷工場においてもポイント活字を整備することになった。

ことのき築地活版は45日間で8,000体の字母をつくり、約100万個近い9ポイント活字を納入している。

大阪毎日新聞社の紙面整理には、野村宗十郎も全面協力した。これを機会に大阪毎日新聞社社長本山彦一との関係は商売を度外視して親密を深めた。

大正4年(1915)6月12日、印刷青年会に於いて「日本に於けるポイントシステム」を講演し、同年10月4日には、東京府知事から農商務大臣に対して「功労者表彰の義につき具申」が提出された。
これにより、大正5年2月15日、野村宗十郎に対して
「ポイント式活字数種を創造し、仮名付ポイント活字を製作して、各新聞社を初めとし、洽(あまねく)く出版界の使用するところとなり、我邦文運の隆興を裨補すること少なからず。洵(まこと)に公衆の利益を興し、成績顕著なりとす」
として藍綬褒章が下賜された。

図5-3 ポイント活字の広告
ポイント活字は科学的管理法を実現したもので、

活字を組むときの込め物の割合が明瞭なので、
組み版が簡易である、としている。

新聞紙面の改良はさらに続き、大正6年(1917)に至って、大阪朝日、大阪毎日、東京朝日、東京日日等の主要新聞社は8.5ポ活字を採用し、16字詰、10段、120行に改めた。大正7年(1918)7月に、東京の日刊新聞は、8.25ポ活字で15字詰、11段の紙面に改定。
さらに、大正8年(1919)1月、各日刊新聞は、7.75ポ活字を採用。15字詰、12段、135行の紙面に変更した。この7.75ポ活字は、8ポイント母型を使用して活字格のみを7.75ポイントに縮小して鋳造したものである。これは、8ポの肩落としと言われた。

新聞以外では、明治44年(1911)に、参謀本部編纂『日露戦史』を刊行するに際し、野村宗十郎の献策で築地製12ポイント活字が採用され、四六倍判20冊、1頁39字詰17行、総ページ11,000ページを当時の大工場(集英舎、博文館印刷所、凸版印刷、東洋印刷、東京印刷、東京国文社、東京築地活版製造所など)が協力分担して印刷納本した。

大正4年(1915)から印刷業界は好況に入ったが、大正5年(1916)2月、第一次世界大戦のため活字・込物類の原料暴騰により価格引き上げを行った旨を同業組合参加の18社が連名で『日本印刷界』、76号に通告を掲載している。

東京築地活版製造所はポイント活字の販売効果で大いに発展し、大正12年(1923)3月を期末とする大正11年後期の決算では、売上高57.77万円、当期利益10.506万円を達成した。この時の資本金は30万円だった。

<社外活動>
明治41年(1908)6月、第5回全国印刷業者製作印刷物蒐集会を開催し、その結果を『花のしをり』(第5回)として野村宗十郎名義で発行した。

序文を寄せた東京高等学校校長の手島精一は、「印刷物を交換することに加えて、優劣を審査して、相互に技巧を競わせるべきである」とした。しかし、これを最後として曲田成が始めた蒐集会は開催されることはなかった。

明治43年(1910)7月、東京印刷同業組合の臨時創立総会が開催され、初代組長に星野錫(東京印刷株式会社)が選任され、評議員20名の1人として野村宗十郎が就任した。

大正3年(1914)9月、東京大正博覧会協会の商議員に就任した。また、大正10年(1921)になって、文部省から国語調査会委員に任命され、漢字制限に協力した。

大正6年(1917)6月、東京印刷同業組合の臨時組合会で役員改選が行われ、野村宗十郎は副組長に選任された。しかし、同年7月、辞任した。大正12年(1923)3月になって、同組合の相談役に推薦された。 

<博覧会出品>
明治43年(1910)、日英博覧会に各種活字を出品し、名誉大賞牌を受賞。

大正3年(1914)、東京大正博覧会に活字類を出品して、名誉大賞牌を受賞。 

大正11年(1922)3月、平和記念東京博覧会に各種活字を出品し、名誉大賞牌を受賞。

<関東大震災の影響と対応>
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災で、築地2丁目に新築した鉄筋コンクリート造りの建物は、外構を残して焼失した。主要部門が移転して稼働に入って2ヶ月目だったこともあり、最も大切な活字母型を含めて、活字鋳造設備、印刷設備の全てを失ってしまった。また、月島分工場も火災により大損害を受けた。

東京築地活版製造所の損失は150万円(?)、死者1名、負傷者2名、罹災した職工数は689名に及んだという。

図5-4 建物外郭を残して焼失した築地の新社屋
関東大震災による類焼で内部の設備は焼失してしまった。

手前の橋は築地川に架かる祝橋で、橋その物は焼失た。
建物の右手に接続して増設予定だったが未着工だった。
建物左手に隣接する3階建の建物は類焼した活字仕上工場である。

大正12年(1923)12月12日、遅れて開催された大正12年前期の株主総会が開催され、当期損金3.18万円、無配当、借入金30万円を決議した。なお、大正11年後期の決算では、売上高57.77万円、純益金10,61万円を計上していた。

大正13年(1924)4月10日に開催された臨時株主総会において、専務取締役社長野村宗十郎、取締役松田精一・伊東三郎、監査役星野錫・西川忠亮(二代目)が選任された。

同年7月19日、本社建物の補修と増設工事が完成し、屋上に高く社旗を掲げた。この建物は、鉄筋コンクリート造4階建、一部地下1階。建坪250.26坪、延坪1,071.67坪で、清水組(現、清水建設)が設計・施工した。工事費は水道・ガス工事を含めて35万円だった。

図5-5  完成した築地の新社屋
竣工記念の絵葉書に印刷されたコロタイプ写真である。

類焼した建物内部を補修し、右に建物を増設した。
建物先端を船の舳先のように盛上げて社章を置いている。
その下の入り渕が正面玄関である。

母型製造のベントン彫刻機は焼失したが、別途注文してあった機械が震災後に届いた。活字鋳造設備として手廻鋳造機60余台、トムソン自動鋳造機5台が据え付けられた。

大正14年(1925)10月時点で、東京築地活版製造所の活字鋳造設備は、手廻機械〔いわゆるブルース型活字鋳造機〕130台、トムソン自動鋳造機8台、フランスのフーシェー自動鋳造機1台と記録されている。

<エピソード>
(1)内田百閒と築地13号室
大正6年(1917)頃、岩波書店から『漱石全集』初版の刊行に際し、内田百閒ら4人が築地活版製造所の13号室で編集を行った。

野村宗十郎は時々、顔をのぞかせ、ゲラ刷りをルーペでチェックしていた。当時は、スペイン風邪が最初に大流行した時で、病後に出向いたとき、野村社長は築地の精養軒や歌舞伎座前の長崎料理に呼んでくれたという。

13号室は本館に隣った川沿いの煉瓦建の2階で、教室ぐらいの広さがあった。その階段の下が職工達の通路になっていたので、夕方ぞろぞろと流れる様に帰って行く職工達の間にふと老人の顔を見付けたり、綺麗な髷のお神さん風の姿に目を惹かれたりして何となく感慨を起こす様な事もあった、と述べている。

この話は、内田百閒著「築地活版所十三号室」(『思想』、第162号、昭和10年11月)による。

図5-6 建て替え前の築地社屋と13号室
<大正3年6月発行『活字と機械』の口絵から>

川沿いの道路に面して横長の煉瓦造2階建の事務所の
向かって右端の2階に13号室があった。
その横に通用門があり、
夕方になると退社する従業員の列ができた。
背後に聳える三階建建物は
明治37年(1904)完成の仕上工場である。

(2)新社屋の裏鬼門
新社屋が完成して間もなく、新社屋の角に設けられた正面玄関が、易学でいう裏鬼門にあたるとして、東洋インキ製造株式会社の社長小林鉄太郎が、築地活版の監査役を務めていた西川求林堂の社長西川忠亮(二代目)に話したところ、これが野村社長に伝わった。

野村宗十郎は、新社屋の完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売れ行きも減退していたので、これが原因かと気に病んで死期を早めてしまった。

この話は、牧治三郎が「旧東京築地活版製造所 社屋の取壊し」(『活字界』、第22号、昭和44年7月)による。

図5-7 地図上の新社屋の位置
本図は昭和7、8年の付保図に示す築地三丁目の地図である。

築地川に架かる祝橋の右下に
東京築地活版製造所の本社建物が太線で示されている。
本社建物の先端角に設けられた正面入口は
方位指針が示すようにほぼ東方を向いていることが分かる。
鬼門は北東の方角で、裏鬼門はその逆の南西の方角を示し、
鬼が出入りする方角とされている。
その方角に入口を設けることを避ける風習がある。

<持病の悪化と死去>
野村宗十郎は、大正14年(1925)2月末から持病の喘息が悪化し、4月12日、麻布六本木の額田病院に入院した。特旨をもって正七位に叙せられた。4月23日、入院先の額田病院で息を引き取った。享年69。

大正14年(1925)4月26日、午後2時、青山斎場で仏式葬儀が営まれ、その後、谷中の寛永寺墓地にある野村家墓所に埋葬された。

(6)没後の記録
大正14年(1925)6月、取締役松田精一が選任されて社長となった。松田精一は、明治34年(1901)3月1日に死亡した松田源五郎の長男で、その跡を継いで取締役を務めてきた。

昭和3年(1928)9月になって、故野村昭十郎翁の胸像建立計画がなされ、翌年10月に趣意書を作成して寄付金募集を行った。その結果、予算7千円に対して、東京築地活版製造所500円、同従業員435円70銭、平野津留〔平野富二の次女で継嗣〕50円など、総額8,683.70円の寄付金が集まった。

その結果、昭和5年(1930)6月、目黒不動尊滝泉寺の仁王門脇に故野村宗十郎翁の胸像を建設して除幕式を挙行した。
その後、目黒不動尊の門前バス道路建設のため、故野村宗十郎胸像は近くの三福堂(恵比寿神)境内前の新設道路脇に移転された。

図5-8 野村宗十郎翁胸像
目黒不動尊前のバス道路に面して建てられている胸像で、

その下に野村宗十郎の略歴を漢文で刻んだ銘板が
台石に嵌め込まれている。
背後は三福堂の境内で社殿と池がある。

昭和46年(1971)6月29日、東京築地活版製造所の跡地(中央区築地二丁目13番25号)において「活字発祥の碑」除幕式が挙行され、野村宗十郎の令息雅夫氏と同夫人・令孫泰之(当時、10歳)および雅夫氏の令弟で服部家を継いだ服部茂氏が招待者として列席し、令孫泰之が除幕を行っている。しかし、この地で初めて活字を製造したのは平野富二であるにも関わらず、その式典に平野家からは誰も招かれなかった。

まとめ
野村宋十郎は、長崎に居住する薩摩藩御用商人の服部家に生まれた。親戚の野村家当主が戦死したため、その名跡を継いで長崎製鉄所の第3等機関方となった。しかし、それは短期間で、技術者としての素養を身に着けたとは考えられない。

実父は、維新により家職を失い、明治3年(1870)に本木昌造が開いた長崎の新町活版所に勤務した関係から、野村宗十郎も活版印刷に多少の関わりを持ったと言われている。

その後、病弱の身を押して勉学にはげみ、大学予備門を中退して簿記を学び、大蔵省に入省した。しかし、専ら外回りの勤務に見切りをつけて退省した。その時、すでに数え年33となっていた。

退省した野村宗十郎は、陽其二の推薦を得て、明治22年(1889)7月、東京築地活版製造所に将来の幹部候補として招聘された。野村宗十郎が最初に配属された先は倉庫係だったが、3年後の明治25年(1892)8月には早くも社長曲田成の下で副支配人となり、その翌年8月に支配人となった。

さらに、明治29年(1896)4月に社長名村泰蔵の下で取締役支配人となった。明治40年(1907)9月には、名村泰蔵死去の跡を継いで専務取締役社長に選任され、大正14年(1925)4月23日に数え年69で病没するまで社長職を務めた。

支配人として15年間、取締役として11年間、専務取締役社長として18年間、それぞれ重複する期間はあるが、東京築地活版製造所の経営に関わったことになる。

野村宗十郎は、入社して間もなく、活版製造事業について学ぶ中で、活字サイズの決め方に疑問を持ち、外国文献にポイント・システムがあることを知った。結果的に、野村宗十郎に一人合点と思い違いがあったと見られるが、このポイントシステムが本木昌造の決めた活字体系に合致することを知り、改めて本木昌造にたいする尊敬の念を強めるとともに、わが国の統一システムとして普及させることを決意したと見られる。

曲田社長の理解と名村社長の積極的後援を得て、野村宗十郎は死去する直前までポイントシステムに焦点を当てて、その普及に努めた。その結果、新聞社がその利便性に着目して採用するものもあったが、読者の受け入れ安さを主に、紙面の構成やバランスなどを試行錯誤する状態が続いた。やがて、全国の新聞界はすべてポイント活字に風靡されるようになり、一般の印刷工場においてもポイント活字を整備することになった。

このようなことから、大正5年(1916)2月15日、野村宗十郎は、ポイント式活字の創造と普及によりわが国の文運隆興を補助したとして、藍綬褒章を下賜された。

会社の経営面から見ても、ポイントシステムへの切替需要により、順調に増収増益を重ね、大正11年(1922)後期の決算では、資本金が30万円であったが、売上高57.7万円余、純利益10.5万円を記録している。

しかし、牧治三郎によると、東京築地活版製造所の全盛期は大正12年(1923)を以って終わった。活字鋳造が次第に自動鋳造機械の普及に従って、大口需要家の新聞社をはじめ、一般印刷業者も自家鋳造へと移行する形勢を示した。

それにも関わらず、関東大震災でほとんど全ての製造設備を失った東京築地活版製造所が採った対応は、旧態依然とした手廻鋳造機を中心とする活字製造事業に注力し、手工業的体質からの脱却、活字需要者の変化に対する対応が見られない。

大正時代になると、一般製造業の発展により女工不足が深刻となった。また、職工組合による賃上げ要求ストライキが発生するようになっていた。

野村宗十郎は、創業者である本木昌造を敬うあまり、実質的に活版製造を事業として完成させ、海外需要にも目を向けた平野富二、時代の局面で同業組合による協調で切り抜けた曲田成、日清・日露の戦争による好況、不況を積極経営で乗り切った名村泰蔵の3人の社長が敷いた布石を発展させることなく、ポイントシステムの成功に酔いしれていたとしか考えられない。

曲田社長が糸口を付けたコロタイプ版や網目版による写真印刷は、新しい印刷事業の方向性を示すものであったが、その後の展開が見られない。また、印刷物蒐集交換会も、社長に就任してから1回開催しただけで、中止してしまった。
明治18年(1885)には、石版技手人名鏡に東京築地活版製造所が国文社と共に勧進元となっているように、活版印刷と石版印刷〔オフセット平版印刷につらなった〕の双方の印刷分野でトップクラスの技術と実績を持っていた。

さらに、名村社長が復活を手掛けた印刷機械製造事業についても、その製造機種は依然として平野富二が製品化した機種ばかりで、急速に普及しつつある輪転印刷機やオフセット印刷機などの国産化には全く関心がなかったようである。

さらに問題なのは、次期社長とするべき後継者を育成することなく死去したことである。
そのため、遠隔地である長崎に居住し、多くの会社の役員を兼任する松田精一が引き継がざるを得なくなった。
それでも、有力な支配人が実質的な経営に取り組んでいれば別であるが、昭和3年(1928)6月の株主総会で取締役に指名された支配人大沢長橘は知名度が低く、それまで、どのように経営に関わっていたかは知られていない。

野村宗十郎は、活版の大業に一大功績を残し、東京築地活版製造所の興隆に尽くしたとされている。しかし、結果的にバランスを欠いた経営が、その後の苦境を乗り切れず、その死去から13年目に会社解散に追い込まれる要因になったと見られる。

令和1年(2019)5月27日、稿了

東京築地活版製造所 第四代社長 名村泰蔵

(1)第四代社長として専務取締役に就任
名村泰蔵は、明治27年(1894)10月下旬に開催された株式会社東京築地活版製造所の株主総会において取締役に選任され、続いて取締役3人の互選により専務取締役に就任した。

図4-1 名村泰蔵の肖像写真

当時の専務取締役は、明治26年(1893)12月に制定した同社の「定款」により、「取締役の合議を経た全般の業務を処弁すると共に、内外に対して会社を代表する」としており、実質的に社長と同じである。

その直前の10月15日、曲田成は姫路の出張先で急性脳溢血を発症し、翌16日、姫路の客舎において死去した。その報せは直ちに東京の留守宅と東京築地活版製造所に届き、翌16日には広島市大手に滞在していた名村泰蔵に宛てて東京築地活版製造所から至急私報で「曲田姫路にて脳充血にて死す」と連絡された。

名村泰蔵は、明治26年(1893)9月、司法省を辞して、永年の官職を離れた。このようなことから、この頃、すでに東京築地活版製造所の役員候補として名前が挙がっていた可能性がある。

(2)名村泰蔵の出自と名前の変遷
名村泰蔵は、天保11年(1840)11月1日、島村義兵衛を父として長崎で生まれた。幼名を島村子之松、後に元健と称したとされている。

子之松は、その後、北村元助(1802~1868)の養子となって北村元四郎と名を改め、元助の孫娘トモ(1851~1938)と結婚した。北村トモは北村元七郎の弟茂登吉の娘とされている。北村元助はオランダ通詞で、その跡継ぎである北村元七郎(1833~1859)はオランダ通詞品川藤兵衛(1808~1857)の娘都喜(1839~1855)を妻としている。

『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』(長崎歴史文化博物館収蔵)によると、北村元助(小通詞並、二貫目、内助成五百目、六十六歳)、北村元四郎(小通詞末席、無給、二十六歳)、北村庄之助(元助孫、稽古通詞見習、無給、年令不明)となっていて、北村元七郎の名前はない。

北村元助の孫庄之助は、元四郎の年齢から推測すると、元七郎の息子と見られる。北村元七郎は、すでに、安政6年(1859)に死去している。

北村元助と品川藤兵衛は、本木昌造の活版研究仲間で、オランダから運ばれてきた印刷機と活字を共同で購入し、品川藤兵衛宅に持ち込み活版印刷の研究を行った。
品川藤兵衛の跡を継いだ品川藤十郎は英語を得意とするオランダ通詞で、維新後は長崎製鉄所に勤務し、本木昌造の活版事業に多額の資金を出資して協力している。後に東京築地活版製造所の取締役を務めていた。

北村元四郎が名村泰蔵と名を改めた時期は、明治3年(1870)頃と見られる。通説では、長崎のオランダ通詞名村八右衛門の養子となって名村泰蔵と改名したと言われている。しかし、名村八右衛門は安政6年(1859)に死去しており、それは有り得ない。

名村泰造が島村子之松と名乗っていた頃、名村八右衛門(元義、号は花蹊)からオランダ語を学ぶと共に、英語・ドイツ語・フランス語を修めた。同じ頃、名村泰蔵よりも1歳年下の福地源一郎(1841~1906)が名村八右衛門からオランダ語を学び、安政3年(1856)12月から安政5年(1858)12月ころまで名村家の養子となっていた。

名村八右衛門は、養子名村五八郎(1826~1876)に娘亀を嫁がせて跡継ぎとしたとされている。しかし、『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』によると、名村八右衛門(大通詞、三貫目、六十三歳)、名村貞四郎(八右衛門倅、小通詞末席、無給、二十五歳)となっていて、ここには、名村五八郎と名村泰蔵の名前はない。

名村八右衛門の倅(せがれ)とされる名村貞四郎は、年令から逆算すると天保12年(1841)に生まれている。八右衛門は若い頃に貞四郎、貞五郎と名乗っていたことがあり、同じ名前を襲名している。
『明治元年長崎府職員録』(長崎歴史文化博物館収蔵)によると上等通弁役となり、『明治三年長崎県職員録』(長崎歴史文化博物館収蔵)には長崎県外務局の権少属と記録されている。明治3年(1870)4月12日に死去している。なお、福地源一郎と同年で、名村泰蔵とは一歳年下である。

名村五八郎は、安政3年(1856)に函館詰となって長崎奉行支配の下から離れたため『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』には記載されなかったと見られる。明治5年(1872)9月には名村元度の名前で開拓使六等出仕として東京の芝増上寺に設けられた開拓使仮学校の学校掛(教授)に任命されており、明治9年(1876)に死去している。

以上のことから、名村貞四郎は、明治3年(1870)に、未だ数え年30であったが、不治の病で自分の死期を悟り、かつての父八右衛門の門人だった北村元四郎に名村家の名跡を継ぐことを依頼したのではないかと見られる。なお、『明治三年長崎県職員録』には広運館仏語教導助名村泰蔵の名前が記録されている。

(3)東京築地活版製造所に招聘されるまでの略歴
文久1年(1861)、22歳のとき、北村元四郎は幕命により神奈川奉行所詰となり、元治1年(1864)になって、フランス語の才能を見込まれ、横浜製鉄所の建築掛となった。

翌年2月、フランス海軍士官ド・ロートルが横浜製鉄所の首長に任命され、横須賀製鉄所設立原案に基づきフランス政府の支援で横浜製鉄所の建築工事が着工されたとき、通訳官として任命された。

慶應1年(1865)4月、横浜で幕府蒸気船「翔鶴丸」の機関修理がフランス軍艦「セミラミス」号の機関長ジンソライの指導の下で、横浜製鉄所所長のド・ロートルとその配下の職人により行われた。「翔鶴丸」の機関修理が終わって、試運転の際に同乗するフランス人の通訳として北村元四郎も搭乗した。そのとき、八丈島に漂着していた本木昌造らを救助するため八丈島に寄港している。近藤富蔵の『八丈実記』に「阿蘭陀通詞 北村元四郎」と記録されている。

『慶應元年長崎諸役人明細分限帳』に、「小通詞末席、無給、北村元四郎、二十六歳」と記録されており、この年に神奈川奉行所詰(横浜製鉄所建築掛)を解かれて、長崎に戻ったと見られる。

慶應2年(1866)末、長崎奉行支配通詞北村元四郎は、万国博覧会御用掛に任命され、パリに派遣される徳川昭武民部大輔に随行して渡仏している。慶應4年(1868)2月、幕府崩壊によりフランスから帰国した。

長崎に戻った北村元四郎は、同年5月、長崎府上等通弁となった。同月、語学所「済美館」が改編されて「広運館」となったことから、上等通弁を務めるかたわら、その仏学局でフランス語を教えていた可能性がある。

明治2年(1869)3月に撮影されたと見られるフルベッキの送別記念写真の中に、「広運館」の教師・生徒と共に北村元四郎の姿(後列向かって左から4人目)が写されている。フルベッキは、3月10日に後任のスタウトに事務引継を行い、同月23日、長崎を発っている。

図4-2 北村元四郎の写真
明治2年3月に撮影されたと見られるフルベッキの送別記念写真。

「広運館」の教師・生徒と共に北村元四郎の姿が写されている。

『明治三年長崎県職員録』(長崎歴史文化博物館収蔵)によると、「広運館」仏語教導助として名村泰蔵の名前が記録されている。この頃、オランダ通詞名村八右衛門の倅である名村貞四郎の名跡を継いで名村泰造と改名したと見られる。

新町にあった「広運館」は国学局と洋学局に分かれ、国学局は中島の聖堂内にある明倫堂に、洋学局は外浦町の西役所跡に移転している。
本木昌造は、その「広運館」の跡を買い取って新街私塾を開設したことから、名村泰蔵は、「広運館」でフランス語の教導助を務めるかたわら、新街私塾で英語と数学を教えた。

この頃の名村泰蔵について、吉村栄吉著『マリンフード株式会社社史 第二編』(非売品)に記述があるので紹介する。なお、吉村子之助(又作と改名、1858-1940)は平野富二が一時養子となっていた吉村為之助の異母弟で、吉村栄吉氏の父に当たる。

吉村子之助の住んでいた桜町にフランス語助教をしていた名村泰造という学友(教師の誤り)がいた。色が黒く頭髪がいつも茫々として眼光が鋭いため「ライオン」という綽名が付けられていた。子之助は泰造の家で、生まれて初めて牛肉というのを馳走になったという。名村家では(牛肉を)煮るとき臭気を避けるため裏庭で料理したという噂であった。

維新後に桜町に居住していた吉村子之助は、長姉の嫁ぎ先である大井手町の杉山家の二階を借りて手織り木綿を作っていて、かたわら、外浦町の西役所跡に出来た広運館の洋学局に通学して英語とフランス語を学んでいた。

明治5年(1872)2月、名村泰蔵は上京して司法省に出仕し、明法寮生徒学堂営繕掛となり、やがて翻訳局長となった。司法制度研究のため司法卿江藤新平の指示で渡欧した。このことは、明治4年(1871)11月12日に横浜を出発してアメリカに向かった岩倉使節団の後発団員の一人として名村泰蔵の名前が記録されている。司法大輔佐々木高行が理事官として使節団に当初から参加している。

渡欧先ではヨーロッパ各国の法律を調査し、その間、パリ大学法学部教授ボアソナード(Boissonade, Gustave Emile)と知り合い、その来日の契機を作ったと言われている。

少し脇道にそれるが、同年8月、本木笑三(昌造)は友人名村五八郎が万延元年遣米使節団に随行してアメリカに渡航したときの日記から要を摘んで贈られたものを『新塾餘談 三編 亜行記』上、下として刊行している。

明治6年(1873)11月、名村泰造はヨーロッパ視察を終えて帰国し、同年、司法権大書記官となった。

この年、日本政府は駐仏大使鮫島尚信を通じてボアソナードに法学教育と法典編纂のため来日を懇情し、ボアソナードは3年契約で来日した。ボアソナードは、後に契約を更新して明治25年(1892)まで日本に滞在した。その間、明治14年(1881)5月に開校した東京法学校(後の法政大学)で民法契約篇を連続講義し、明治16年(1883)に同校の教頭に就任している。

明治7年(1874)9月、名村泰蔵は台湾出兵問題で清国に派遣される特命全権弁理大臣大久保利通に随行している。明治8年(1875)には正七位に叙せられ、翻訳課長に任じられた。ついで、別局刑法草案取調委員となった。

明治11年(1878)には、ボアソナード講義、名村泰蔵口訳として『仏国刑法講義』、『仏国訴訟法講義』を司法省から刊行している。

明治12年(1879)10月、治罪法草案審査委員となる。この年、明治天皇が現任文武百官の写真を座右に備えるため「人物写真帖」を作成、その中に名村泰蔵44歳の写真も含まれている。

明治13年(1880)3月、太政官少書記官を兼務、明治14年(1881)10月、司法権大書記官、同年11月、海上裁判所取調委員となり、次いで参事院議官補なる。明治15年(1882)6月、勲五等に叙せられ、双光旭日章を下賜され、同年12月、司法大書記官に任じられ、内閣委員を仰せ付けられた。明治17年(1884)、大審院に移って「加波山事件」を担当した。

明治19年(1886)1月、大審院検事長に補せられ、勅任官二等に叙せられた。同年7月8日、正五位に叙せられ、同年11月30日、勲四等旭日小綬章を受けた。明治21年(1888)5月29日、勲三等旭日中綬章を受け、明治22年(1889)11月25日、大日本帝国憲法発布記念章を受章、明治25年(1892)2月13日、正四位に叙せられた。

明治25年(1892)8月、大審院長心得となり、明治26年(1893)9月、高等官一等に叙せられ、次いで、司法省を退官し、永年に亘る官職を辞した。

同年、従三位に叙せられ、その翌年1月、貴族院議員に勅任されている。

(4)東京活版製造所での事績
明治27年(1894)10月に株式会社東京築地活版製造所の専務取締役に就任した時の経営陣は、取締役松田源五郎、同西川忠亮、支配人野村宗十郎が重任した。

名村泰蔵が専務取締役社長として在任中に行った事績を以下に紹介する。

〔株主総会関連〕
明治28年(1895)11月25日、東京築地活版製造所の「定款変更届書」を農商務大臣に提出した。変更内容は、専務取締役を専務取締役社長とし、取締役の持株30株以上を100株以上に変更した。以後、専務取締役社長名村泰造と名乗っている。

明治29年(1896)4月、株主総会で野村宗十郎を取締役に選任し、支配人支配人とした。

明治31年(1898)10月18日、「定款変更御届」を農商務大臣に提出。明治32年(1899)1月10日、臨時株主総会を開催し、同月12日付けで「定款変更御届」を農商務大臣に提出した。これは、従来、取締役は当会社の株を100株以上所有するものに限るとしていたのを50株以上に変更したものである。明治33年(1900)11月、東京築地活版製造所の資本金を16万円に増資した。

創立当初からの取締役であった松田源五郎は、長崎で急病を発して病床に伏し、わずか数日後の明治34年(1901)3月1日、急死した。享年61。

明治39年(1906)4月、野村宗十郎を取締役支配人に再任し、同年6月、資本金を20万円に増資。日露戦役後の事業発展のための経営に資することとした。

〔事業拡張〕
明治30年(1897)2月5日、事業拡張のため、工場用地として月島通4丁目7,9,11番地と5丁目1,3,5番地の土地、合計1,425坪を借地し、借地人名村泰造、保証人西川忠亮として登記した。

明治36年(1903)1月1日、工場用地として借地していた東京月島4丁目9、11番地と5丁目1,5番地、各285坪、合計1,140坪を、改めて坪当たり3銭で借地した。月島4丁目7番地は西川忠亮が借地。ここに月島分工場として活版印刷機械の製造工場を建設することとした。(月島5丁目3番地は譲り受けたとみられる。)

図4‐3 月島分工場の完成写真
〈明治38年(1905)6月発行の『新製見本』、真田幸治氏提供〉

本工場は明治41年(1908)に完成するが、
写真で見られるように工場の一部は既に完成して、
印刷機を初めとする諸器械の製造を開始しているように見受けられる。

名村泰蔵が没して6ケ月後の明治41年3月に印刷機械を中心とする機械製造工場が完成した。これにより、東京石川島造船所と大阪活版製造所に委託していた印刷機ならびに諸器械の製造を自社で行うことになった。

〔営業活動〕
明治27年(1894)11月、前年に引き続いて第二回印刷物見本交換会を開催し、寄せられた印刷物見本を製本した『花のしおり』を野村宗十郎の名前で発行した。この印刷物見本交換会は、明治31年10月に第三回、明治35年3月に第四回が開催され、名村泰蔵の没後、明治41年6月に第五回が開催されて終了している。

明治28年(1895)4月1日、第四回内国勧業博覧会が開成され、東京築地活版製造所から活字類を出品し、名誉銀賞杯を受賞した。また、開場の当日、明朝活字三号、五号、六号と楷書活字三号の4書体を発売した。

明治36年(1903)3月1日、第5回内国勧業博覧会が大阪で開催され、ポイント活字10種を出品し、名誉銀牌を受賞した。

明治40年(1907)7月、東京勧業博覧会に仮名付活字と写真石版印刷物を出品し、名誉金牌を受賞した。

〔徒弟の基礎教育〕
明治28年(1895)4月、東京築地活版製造所内に徒弟養成学校(3年修業)を設けて、基礎教育を行うことになった。

明治32年(1899)4月1日、従来の徒弟養成学校の制度を見直し、徒弟学校として規則を制定し、徒弟として入社した者を対象に10歳から13歳までの男女子に尋常小学校の教程と同等の学科を教授するものであった。

〔その他〕
同年10月16日発行の松尾篤三編『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君畧伝』を刊行するに当たり、名村泰造はその小冊子を懐にして福地源一郎を訪問し、曲田成をよく知る者として閲読校正を依頼した。福地源一郎はその序文で名村泰蔵のことを「竹馬同窓の旧友」と述べ、若い頃、長崎で共にオランダ通詞名村八右衛門からオランダ語を学んだことを回想している。また、名村泰蔵は同書の「跋(おくがき)」に東京築地活版製造所社長として一文を呈している。

明治32年(1899)の頃、名村泰造は東京建物株式会社の専務取締役を兼務していた。東京建物株式会社は、明治29年(1896)10月1日、安田善次郎(安田財閥の創始者)により設立された会社で、割賦販売方式で不動産の売買を行った。現在、東京都中央区八重洲一丁目に本社がある。

明治37年(1904)11月27日、平野富二の十三回忌に当たり記念碑を建立して建碑式を挙行した。名村泰蔵は発起人総代の一人として式辞を述べた。記念碑の裏面には、発起人惣代として東京石川島造船所 専務取締役 平澤道次の名前と共に、「株式会社東京築地活版製造所 専務取締役 従五位勲三等 名村泰造」と刻まれている。

図4‐4 平野富二君碑
碑石の高さ1丈5尺(約4.55m)、幅5尺5寸(約1.67m)で、

上部の篆額は榎本武揚、碑文と揮毫は福地源一郎(桜痴)
石工は酒井八右衛門(井亀泉)による。

明治40年(1907)9月6日、東京築地活版製造所社長在任のまま、東京市麹町区富士見町四丁目八番地の自宅で死去した。享年68。遺族は妻トモと長男壬午郎。

特旨により正三位に叙せられ、祭祀料を賜わり、勅使をその邸に遣わされて幣帛を賜わった。

図4‐5 名村家の墓所

東京青山霊園に墓所(1種イ11号10・11側1蕃)がある。墓石の表面には「名村家之墓」と刻まれており、傍らの墓誌に戒名「馨徳院殿寛誉厳正泰安居士」が刻まれている。

まとめ
名村泰蔵は、幼名を島村子之松、少年の頃、オランダ通詞北村元七郎の養子となって北村元四郎、30歳になってオランダ語、英語、フランス語を学んだ名村八右衛門の名跡を継いで名村泰蔵となった。

北村元四郎を名乗っていた幕末から明治初期には、神奈川奉行所詰め(22歳)、横浜製鉄所の建設工事でフランス語通訳を勤め、八丈島に漂着していた本木昌造一行の救助に向かった幕府蒸気船に搭乗(27歳)、パリ万国博覧会に幕府随員として参加(28歳)し、帰国後、長崎に戻って上等通弁(29歳)となった。

慶應4年(1868)、30歳のとき、名村八右衛門・名村貞四郎の名跡を継いで名村泰蔵と改名し、長崎の「広運館」仏学局でフランス語の助教を務める傍ら、本木昌造の経営する新街私塾で英語とフランス語を教えていた。

明治5年(1872)に上京して司法省に出仕し、岩倉使節団の後発団員としてヨーロッパに派遣された。以後、明治26年(1893)、54歳のとき、大審院長心得を辞任して退官するまでの22年間を司法畑で過ごした。

東京築地活版製造所は、もともと、新街私塾の出張所(新塾出張)であったこともあり、名村泰蔵もその縁に連なる人である。そのことから、あらかじめ退官を期に東京築地活版製造所に役員として招聘される内諾があったと見られる。

第三代社長曲田成の急逝により、第四代社長として専務取締役に選任された名村泰蔵の東京築地活版製造所に於ける業績は、資本金8万円の会社から20万円の会社に成長させたこと、印刷機械を含む諸器械の専門工場として月島分工場を設立し、経営の拡大と安定を計ったことが挙げられる。また、各種博覧会に新製活字を出品して受賞し、業界のトップ企業としての地位を確立した。さらに、徒弟として入社した年少者の基礎教育を制度化した。

名村泰蔵を語る伝記や私記は見当たらない。東京築地活版製造所の正史とも言うべき『株式会社東京築地活版製造所紀要』(昭和4年10月発行)には、名村社長についての記述は僅かに4行しかない。そのこともあってか、その事績はほとんど知られていない。本書における東京築地活版製造所での事績は、板倉雅宣著『活版印刷発達史』(財団法人朝陽会、2006年10月15日)によるところが多い。

2019年3月9日 稿了

東京築地活版製造所 第三代社長  曲 田 成

(1)第3代社長に就任
曲田成(まがたしげり)は、明治22年(1889)12月30日、緊急に開催された東京築地活版製造所の臨時株主総会において第3代社長として選任された。

図3-1 曲田成の肖像写真
《 松尾篤三編『曲田成君畧傳』、口絵から 》

先代の第2代社長は空席で、創業者である本木昌造の嫡子本木小太郎が社長心得となり、実質的な経営は取締役の一人に選任された谷口黙次が代行していたと見られる。しかし、谷口黙次は、明治18年(188510月以来、大阪活版製造所の社長を務めていた関係から日常的に本木小太郎を社長として輔佐、育成することは出来なかった。

この時期の東京築地活版製造所については、前回のブログ「第二代社長 空席、社長心得本木小太郎」(20189月)で述べた。 

当時の社会情勢は、明治14年(1881)に始まった松方内閣のデフレ政策の余波を受けて、不景気による同業者間の過当競争、それに伴う従業員の賃金下落により、企業倒産と社会不安がますます激しくなっていた。 

東京築地活版製造所もその風潮から免れることができず、度重なる臨時株主総会を開催して対応を図ったが、いよいよ存続か、倒産かの瀬戸際に追い詰められた結果、臨時株主総会で経営改革7箇条が提議され、その実行を委任されて曲田成が社長となった。 

この時の経営改革7箇条の内容については明らかになっていないが、当時の状況とその後の対応から推測すると、次のようになことと見られる。 

① 過度な競争の自粛について同業者関での話し合いの場を設けること。
② 競争力強化のため活字の改刻と品揃えを加速させる。
③ 組織を見直し、不採算部門の縮小を断行すること。
④ 職員と工員を一旦解雇し、経営に全面的協力を約束する者を再雇用すること。
⑤ 役員報酬の削減をおこなうこと。
⑥ 経営に寄与せず高額所得を得ている本木小太郎の退社を勧告すること。
⑦ 本木小太郎の退社勧告について平野富二の了解を得ること。 

曲田成は、明治22年(18896月に平野富二が社長を退任してからは、工務監査(役)に転じていた。しかし、それまで平野富二社長の下で支配人を務めていたことから、社内での人望も厚く、同業者内での知名度も高く、業界の事情も良く認識していたと見られる。

(2)曲田成の前歴
曲田成は、弘化3年10月1日(西暦1846年11月19日)、淡路国津名郡上物部村(現在の兵庫県洲本市物部)に生まれた。父は徳島藩士岩木富太郎で、幼名は岩木荘平と称した。平野富二と同い年で、1ヶ月半ほど遅く生まれた。

数え年2のとき、父を失い、母に育てられた。このことも平野富二と似た境遇であった。幼年で書道を学び、成長して藩校に入って漢学を学んだ。書道においても、漢学においても人に抜きん出ていたという。

その後、徳島藩の軍隊にはいり、一番隊小隊長を経て、慶應2年(1866)、数え年22でイギリス式練兵法を修得し、銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜された。

明治3年(1870)5月、26歳のとき、いわゆる「稲田事件」が勃発した。その時、曲田成は一方の指揮官となったが、免職されるにとどまった。

「稲田事件」(稲田騒動、庚申事件とも呼ばれる)の内容を知るには、次のような時代の背景を知っておく必要がある。

明治2年(1869)1月、新政府は薩・長・土・肥の4藩主連名による版籍奉還を受け、函館の榎本軍の平定後の同年6月、土地と人民は国家のものとして、中央政府が藩政を統制し、旧藩主を新藩知事として世襲を認め、旧藩の実収高の10分の1を知事家禄と定めた。
続いて旧大名と公卿を華族とし、旧藩主の平士(ひらざむらい)以上を士族とした。さらに、同年12月になって足軽以下は卒族とした。士族・卒族の禄制も新たに定められ、すべて現米で藩財政から支給されることとなった。

このような中で、徳島藩蜂須賀家の家臣は徳島藩士族とされたが、蜂須賀家の家臣で筆頭家老を勤める稲田家の家臣は卒属とされた。稲田家側はそれに納得できず、家臣の士族編入を徳島藩に訴えかけた。しかし、それが認められないことから、稲田氏の知行地である洲本を中心とする津名郡を徳島藩から独立させ、稲田氏を藩知事とする稲田藩を新設するよう明治政府に働きかけた。

これら双方の行動は、維新に際して蜂須賀家側が佐幕の立場をとったのに対して、稲田家側は倒幕運動に寄与したことから、双方の思惑があって、このような行動に出たと見られる。

明治3年(1870)5月12日、稲田家側の一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激武士たちが徳島にある稲田屋敷を焼き討ちし、その翌日、洲本城下の稲田氏別邸と学問所、家臣の屋敷を襲撃した。これに対して稲田家側は一切無抵抗を貫いていた。

新政府による処分は、徳島藩側の首謀者ら10人を斬首(後、藩主嘆願により切腹)、八丈島への終身流刑27人、禁固81人、その他謹慎など多数に及んだ。
一方、稲田家側に対しては、稲田家とその家臣に対して北海道静内と色丹島を配地し、兵庫県管轄の「士族」として移住、開拓を命じた。それに応じて稲田家当主以下主従たちとその家族540名余りが北海道に移住した。これを「稲田事件」と言う。

洲本を含む津名郡の一部は、明治4年(1871)5月、徳島藩から兵庫県に編入された。その後、廃藩置県により徳島藩は徳島県となるが、同年6月14日の第1次府県統合により徳島県は兵庫県津名郡を含めて名東(みょうどう)県となった。明治9年(1876)の第2次府県統合のときに淡路島全島が兵庫県に統合されて現在に至る。

なお、士族と卒族とを区別する基準は藩によりまちまちであったと言われており、廃藩置県後の明治5年(1872)1月、卒の廃止が実施され、明治8年までに士族に編入された。

明治4年(1871)になって、徳島藩主が兵制を改めてイギリス式からフランス式とするに際してその教授役に推挙された。

しかし、居住地である洲本が兵庫県に編入されるなど、時代の趨勢から、ただ士族というだけで家禄を受け、何の仕事もせずに徒食することの出来る身分に疑問を感じ、独立して自立の道を求める決意をして、明治6年(1873)2月、単身で上京した。

(3)平野富二との出会いと築地活版製造所入社
曲田成は、僅かな金銭しか持たず、苦労を重ねながらようやく東京についたが、身寄りや知己はなかった。持参した金銭も底をついて進退窮まった頃、東京神田和泉町に活版製造事業を営み、そのために人材を求めていた平野富二と偶然に出会った。

お互いに天下国家を論じ、国を憂い、新しく事業を興して国の為に貢献する意欲に共感して、平野富二に誘われるままに活版所に入社した。その時期は、明治6年(1873)5月とされている。つまり、平野富二が神田和泉町では手狭となったため、築地に土地を求めて活版製造所を移転する準備を進めていた頃である。

徳島藩では一小隊の司令官を勤めた経験しかない曲田成は、物造りの経験は全くなく、すべてを平野富二の指示に従って仕事を行わざるを得なかった。そこで、活版事業を基礎から学ぶために、自ら志願して活字・活版の配達夫となり、累進して鋳造係となった。

当時の活字鋳造は、片手に持った活字鋳型に、他方の手に持った柄杓で熔融鉛合金を流し込み、直後に鋳型を大きく振り上げてから、固化した活字素材を鋳型から外す一連の操作で行われていた。そのため、こぼれて飛散した高温の鉛合金が手足や顔面に当たって火傷が絶えなかったという。
平野富二が上京したときに長崎から活字手鋳込機械3台を持参したとの記録がある。これはハンドポンプと称する手押し式ポンプにより鋳型をポンプの排出口に押し当てて熔融鉛金属を注入するものであった。しかし、当時は活字の需要が急激に増大しつつあったため、ハンドポンプ3台だけでは足りず、新人には旧式の方法で活字鋳造を行わせていたと見られる。

当時は、ようやく中央官庁や地方府県庁での布告・布達類の活版印刷化が進み、新聞業界でも活版の需要が増大し、地方への活版普及が始まりつつあった。神田和泉町にあった崎陽新塾出張活版製造所は手狭となり、それに対処するため築地に土地を求めて工場を新築し、明治6年(1873)7月、ここに移転して活字・活版の生産体制を整えると共に、印刷機の本格的製造に着手した。

明治9年(1876)になって、淡路島洲本の先覚者安部喜平が自宅に活版所を設立するに当たり、東京の築地活版製造所で働いている同郷の曲田茂に連絡して、活版印刷設備一式を購入したと見られる。

『洲本市史』など地元の資料では、安部喜平は本木昌造が苦心の末活字の製法を発明して東京に活版製造所を創設したことを知り、洲本の曲田成を東京の活版製造所に派遣して研究させ、曲田は明治9年(1876)5月に印刷機と活字を購入して洲本に帰ったとしている。しかし、この記述は曲田成の伝記と相違する。

安倍喜平は、慶應2年(1866)2月、人材養成のための家塾「積小軒」を創設している。そこで学んだ精鋭たちの中に、後に報知新聞社主となる三木善八が居る。兵庫県令神田耕平が、政府の新聞発行奨励策を受けて、三木善八(1856-1931、淡路の津名郡上物部村出身)らに積極的な働きかけを行い、港新聞社を設立して明治5年(1872)5月に『神戸港新聞』を創刊した。そのとき、東京神田和泉町の文部省御用活版所で支配人兼技師を勤めていた茂中貞次が活字類を携行して印刷指導を行っている。その後、三木善八は、安倍喜平の招きで淡路島に戻り、淡路新聞社の社員となって『淡路新聞』の発行を行っている。
したがって、情報のルートは、安倍喜平⇒三木善八⇒茂中貞次⇒平野富二⇒曲田成、とするのが妥当と見られる。

この機会を利用して曲田成は、家禄奉還の願書を徳島にある名東県の県庁に提出すると共に、安部喜平に活版設備一式を届けるため淡路島洲本に出張したと見られる。

曲田成は、徳島藩から士族としての家禄を与えられていた。徳島藩は藩籍奉還により徳島県となり、さらに府県統合により名東県(みょうどうけん)なったため、当時は名東県士族として県から家禄を支給されていた。

しかし、平野富二から、長崎地役人だった兄が家禄を得ていたが、維新後に僅かな資産を与えられて家禄を没収されたため苦労している一方、自分は自主独立の道を選んで現在に至っていること、祖先が得た資格だけで何もせず安穏に暮らして行ける華士族の在り方に疑問を持っていることなどを聴かされた曲田成は、自活の道を得た現在、自分の得ている家禄を返還することを決意していた。

曲田成は、長文の「乞家禄奉還書」を作成し、平野富二の添え書を得て名東県権令富岡敬明に明治9年(1876)6月26日付けで提出した。その内容は『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田君畧傳』に全文が紹介されている。

ここでは、平野富二の添え書だけを現代文に直して紹介する。
「前書願意の通り、曲田成とは4年前から居食を共にし、かねてから同人も何の仕事もせずに食するだけの生活を悔い、日夜、仕事に励み、志を同じくして、既に生活の道も定まった状態に至りました。私としましても間違いなく保証いたしますので、なにとぞ、本人の願いの通り、ご採用下さりたく、奥書を認めました。」

このような家禄奉還を出願する行為は、当時、稀なこととされ、名東県知事は銀杯1個を曲田成に賞品として賜った。

政府は、明治6年(1873)12月に外国債に基づき秩禄奉還の法を設けたが、外国債だけでは秩禄の買い取り資金には足りず、明治8年(1875)7月、この制度を廃止した。明治9年(1876)8月になって、明治5年から3年間の平均米価で換算した金で禄を支給することとした金禄公債証書発行条例を公布し、禄の種類と金額に応じて5ヶ年から14ヶ年分に相当する額面の公債を与えてすべての禄を廃止した。

このとき、曲田成は洲本を訪問して地元の安部喜平に活版印刷設備を届け、活版印刷の基礎を伝授して帰京したと見られる。明治10年(1877)3月8日、安部喜平は『淡路新聞』を創刊した。これは、淡路島で最初に発行された新聞とされている。

図3-2 『淡路新聞』、第1号、表紙
《 国立国会図書館所蔵、請求記号:WD-180 》
『淡路新聞』は淡路新聞社(洲本新町450番地)から創刊された。
社主は安倍喜平、編集長は岩根瑞枝、印刷人は渡辺三千太で、
社員に三木善八、炬口又郎らがいた。
明治10年(1877)2月に勃発した西南の役の記事が多い。

明治11年(1878)9月、本木小太郎が所長(平野富二は後見人)となった築地活版製造所では藤野守一の下で会計掛の一員となっていた。

(4)築地活版製造所で頭角を現す
明治12年(1879)、曲田成は、平野富二から抜擢されて上海に出向を命じられ、四号と六号の明朝書体を改良して、翌13年(1880)春に帰国した。それまでの活字は上海美華書館で使用していた書体の明朝体をそのまま使用していたが、雑駁で雅致も趣味もないものと見做されていた。活版の普及に従い、字体の良否に関心を持たれるようになったことから、平野富二はこれを曲田成に一任した。

明治13年(1880)9月、曲田成は、平野富二に随って函館に赴いた。地元の有力者である渡辺熊四郎らに協力して、同地に保管されていた海軍省所有の造船器械類を払下げて貰い、函館器械製作所の設立に参画した。同年10月下旬になって平野富二が帰京した後も現地に留まり、平野富二の代理を務めた。

この事実だけから見ると、何故、平野富二の造船事業にも曲田成が関与することになったのか疑問に思われる。函館の渡邊熊四郎は、平野富二が土佐藩に雇われていたとき、長崎土佐商会の持ち船で会計を勤めており、その時に面識を得たと見られる。その面識により、渡邊熊四郎が函館で『函館新聞』を創刊するに当たって平野富二から活字と印刷機1台を購入している。
明治12年(1879)12月の函館大火で罹災したため、明治13年(1880)になって渡邊熊四郎は再び平野富二から活字と印刷時を購入している。この応対をしたのが曲田成であったと見られる。曲田成が渡邊熊四郎の信頼を得ていることを知っていた平野富二は、自分の代理人として曲田成を函館に同道させたと見られる。

明治14年(1881)9月、築地活版製造所の支配人桑原安六の退社に伴い、曲田成は函館から呼び戻されて、後任の支配人和田国雄、副支配人藤野守一郎の補助となる。この頃になると築地活版製造所は繁栄の極みに達していたようで、桑原安六が店先で金製の「鉈豆煙管-なたまめきせる」を吸って成金趣味を見せびらかしていたことから、平野富二はこれを戒めて退社させ、独立の道を歩ませたという。

明治17年(1884)3月、活版製造所に初めて印刷部が新設された。そのため、業務がますます複雑化するに及び、同年11月、支配人和田国雄の退任により、曲田成は支配人に抜擢された。

明治18年(1885)6月、会社組織を変更して有限責任東京築地活版製造所となった時に、社長平野富二、副社長谷口黙次、取締役松田源五郎、同品川藤十郎の重役の下で、曲田成は支配人に就任した。副支配人として藤野守一郎がなった。

明治22年(1889)5月、平野富二が東京築地活版製造所の社長を辞任したのに伴い、曲田成は支配人を退任して工務監査(役)に転じた。この時期のことを、畧傳では「繁劇の身に少しく其閑を得たるを以て、傍ら益々工事を攻究したり。」(繁忙を極めた身に、少しの閑暇を得たことから、業務のかたわら製造上の事柄について深く研究した。)と述べている。

(5)東京築地活版製造所の社長としての事績

明治22年(1889)12月30日、曲田成は、東京築地活版製造所の臨時株主総会において経営改善7ヶ条の条件を委任されて社長に就任した。翌31日、事務員一同に辞職届を提出させ、各部の職工を解雇した。

年明け早々の明治23年(1890)1月2日、経営改革に協力する事務員を再雇用し、その中から信任の度合いに応じて事務を分担させた。また、職工の再雇用などを行わせた。
なお、明治22年と同23年の職工数を見ると、男性214人が5人減、女性30人が21人増となっており、男性に代えて女性を増やしたと見られるが、大幅な変動はない。

当時、不景気が続き、業界内での極端な過当競争により収益が上がらず、会社解散の危機に遭遇していた。『印刷雑誌』創刊号(明治24年2月28日)に寄稿した集英舎の佐久間貞一によると、「印刷業の状況は実に甚だしい。その原因は、無制限の競争から発する弊害に外ならない。(中略)今日の有様は、職工の工程も顧みず、賃金も問題視せず、いたずらに値段の引き下げ競争に走っている。このような競争をすれば、早晩、必ず活字屋と職工とが窮地に陥ることは免れない。」と述べている。

このような苦境の中でも、明治23年(1880)4月1日から開催された第三回内国勧業博覧会に活字類を出品し、進出賞牌を授与された。

経営改革の一環として、同業者間の話し合いの場となる同業組合を設立するため、明治23年(1890)11月24日、製紙分社陽其二、博聞社長尾景弼、築地活版所曲田成、日就社子安竣、尾張町活版所桜井敬三、集英舎佐久間貞一、国文社桐原捨三等が主唱者となって同業者65名が築地の割烹料理店寿美屋に参集して協議会を開いた。協議の上、規約27ヶ条を定め、事務委員7名を選挙した。曲田成を含む事務委員の中から互選により頭取として佐久間貞一が選ばれた。

同年12月13日、同業組合設置願書を東京府庁に提出した。願人惣代として長尾景弼、曲田成、佐久間貞一の3人が名前を連ねた。それには、次のように記されている(現代文とした)。

「今般、東京府下十五区活版印刷営業者が申し合せ、本業の進歩を図り、営業上の弊害を矯正し、同業者の福利を進めるため、東京府明治十八年甲第二号達により、右組合を設置いたしたく、別紙の通り盟約つかまつりましたので、速やかに御認可なされて下さりますよう、此段、願い奉ります。」

この願書は、同年12月26日、東京府知事蜂須賀茂韶の認可を得て「東京活版印刷業組合」が設立され、曲田成は事務委員となった。なお、明治27年(1894)1月、役員改選により副頭取として曲田成が選任された。

明治25年(1892)6月、「東京石版印刷業組合」の設立に際し、曲田成は集英舎佐久間貞一、他10氏と共に発起人となり、組合設立後は、事務委員を委嘱され、重任を重ねた。翌26年(1893)8月、「東京彫工会」の製版部長に挙げられた。また、「製版協会」の設立に際して斡旋を行い、翌年、解散して東京彫工会に合併する時、交渉委員となった。

同業者組合の結成については、明治14年(1881)1月、政府の方針に従って東京府知事の行政指導の下にその結成に関する布達が出され、同年2月に東京46工場、横浜2工場の48工場が参加して「活版印刷営業組合」設立願書が東京府知事に提出された。しかし、有力な指導者が居なかったため、組合設立には至らなかった。
明治17年(1884)になって政府は「同業組合準則」を制定して秩序の回復を図り、明治18年(1885)1月に東京府の布達により再び組合決済の勧奨があったが、この時も業界内が纏まらず、立ち消えとなってしまった。

東京築地活版製造所は、その設立の経緯が、長崎の新町活版所に活字・活版を供給する活版製造会社であったことから、明治17年(1884)3月に印刷部が新設されるまでは、活版印刷に必要な活版と活版印刷機を中心とする機器・資材を製造することを主務としていた。そのため、印刷を専門とする会社とは趣を異にしていた。同業組合に加入するにしても、あえて活版印刷業界のリーダーとしての立場は差し控えていたと見られる。当時、平野富二は造船事業分野で多忙を極め、明治19年(1886)5月には脳溢血を発症し、その後、業務を控えて静養に努めていたこともある。

新しく発足した「東京活版印刷業組合」の機関誌として、明治24年(1891)2月28日、『印刷雑誌』が集英舎から発刊された。

その創刊号に掲載された発刊の趣旨として、「今日に至り東京府下のみでも150社余りの同業者が存在していて盛んであるが、欧米の印刷術に較べると、意匠の巧妙さ、印刷の鮮麗さに於いて未だに及ばない。わが国の印刷術を欧米諸国と同等にするためには、学理に通じ、知識を拡め、競争と奨励の方法を設け、印刷術の研鑽を行わせる必要がある。そのためには印刷雑誌の発行が必要である。」(要約)と述べている。

また、社告として、「活版、その他諸版の印刷、木版・銅版の彫刻、石版・電気版・亜鉛版等に従事する諸君、ならびに、鋳字匠・製本匠・紙商・雑貨商・器械匠諸君のために有益な記事・広告等を掲載することに努め、これらの諸職業に従事する諸君は実業上の経験・発明に関わる事柄、営業の景況等の報告を提供して欲しい。」(要約)と述べている。

この『印刷雑誌』の発刊に際して、曲田成は福地源一郎(桜痴)に原稿の執筆を依頼して、創刊号から第3号までに「本木昌造君ノ行状」と題して故本木昌造の伝記を連載し、本木昌造の偉業を顕彰するため同紙を数百部購入して同業者に頒布した。

また、それに続いて同誌の第4号から第6号にかけて「平野富二君ノ履歴」を連載した。この「平野富二君ノ履歴」を連載するに当たって編纂した原稿を、同年3月、『長崎活版所東京出店ノ顛末幷ニ継業者平野富二氏行状』(非売品、42ページ)として活版印刷し、小冊子とした。これを初稿として、今後の経歴や誤り、補足事項を加えて増補訂正する予定としていたが未完に終わった。

図3-3 『長崎活版所東京出店ノ顛末幷ニ継業者平野富二氏行状』の表紙
《平野ホール所蔵》
『印刷雑誌』(第4号~第6号)に掲載の「平野富二君ノ履歴」原稿で、
曲田成が中心となって編纂されたものと見られている。
長崎時代の平野富二については、
福地源一郎(桜痴)の編集になる原稿が引用されている。

この年、岡倉天心、九鬼隆らによって『国華』第1号が国華社から発行され、東京築地活版製造所はその印刷を行ない、高度な製版・印刷技術を披露した。
また、同年11月24日には、曲田成が訳述兼発行人となって『実用印刷術袖珍書』(Sauthward “Practical Printing”、4版)を発行した。

図3-4 明治24年当時の東京築地活版製造所の絵図
《 印刷雑誌』(明治24年9月28日発行)の広告として掲載》
経営危機を脱し、煙突から盛んに黒煙を出し、活況を呈している。
右端の二階建て大形煉瓦建物は、築地に移転時の木造仮工場を建替え、
前面道路際まで増設されている。

同年12月2日、平野富二が鋳物業界の会合で演説中に脳溢血を発症し、翌日、死去した。

平野富二の墓所には東京築地活版製造所から石灯籠1対が献納され、その筆頭に曲田成の名前が刻まれている。向かって左側の石灯籠の台座に東京築地活版製造所社員14名、右側に16名の名前が刻まれている。

図3-5 平野家墓所にある石灯籠台座の刻字写真
向かって左側の石灯籠台座に刻まれた14名の氏名は次の通り
曲田成(社長)、松田源五郎(取締役)、谷口黙次(取締役)、
西川忠亮(取締役)、野村宗十郎(支配人)、竹口芳五郎(彫刻部)、
釜田鍋太郎(明治11年9月には徒弟室)、松尾篤三(畧傳の著者)、
湯浅丈平(会計)、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、
木戸金朔(販売)、仁科衛。
なお、括弧内は当時の役職等を示す。

明治26年(1893)5月1日から10月3日までアメリカのシカゴで開催された万国博覧会に写真家小川真一が出席する際、曲田成は餞別を含めて5,000円を渡し、写真製版関係書籍の購入を依頼した。同年、新部門として東京築地活版製造所内に写真製版部門を開設して共同研究を行い、明治27年(1894)になって、小川一真の指導による写真製版と印刷を開始した。

同年7月28日に発行された『印刷雑誌』第3巻第6号の誌上で曲田成は「交換作品募集の呼びかけ」を行い、全国の印刷業者を対象として印刷技術の向上を目指した印刷物見本交換を企画した。

制定した規則によると、
会の名称:   全国印刷業者製作印刷物蒐集交換会
見本交換事務所:東京築地活版製造所構内に置く
見本到着期限: 10月31日
用紙の寸法:  縦1尺5寸、横7寸7分5厘、綴料1寸
製本の送付:  交換員(販売、譲与は禁止)
製本料・その他の費用については後日通知

この企画は、『印刷雑誌』第1巻、第2号に掲載されたイギリスの大手印刷出版社British Printerの「印刷様本ノ交換」を手本としたものである。

全国の印刷業者から同年10月31日までに寄せられた印刷物118点を纏めて製本し、同年12月に『花のしをり』と題して見本を提供した交換人に配布した。
曲田成は、その1冊を帝国博物館に納入し、それにより官から木盃を賜った。また、British Printer社に見本の一部を送ったところ、1894(明治27)年2月19日付けで編集長から書状が送られてきた。

図3-6 『花のしをり』の表紙
《もと板倉文庫所蔵》
第一回印刷物見本交換事務所(東京築地活版製造所内)から
明治26年(1893)12月製本として、118点の作品が綴じられている。
第二回の印刷物見本交換実施中に曲田成が死去し、野村宗十郎によって
明治27年(1894)11月に111点の作品が製本され、配布された。
以後、明治31、35、41年まで合計5回『花のしをり』として配布された。

同年8月、社内の人事異動を行い、副支配人だった野村宗十郎を支配人に昇進させ、会計課長湯浅丈平、販売部長木戸金朔、印刷部長上原定次郎とした。

明治26年(1893)12月12日、商法実施条例に基づき定款を作成し、東京府知事を通じて農商務大臣に「定款認可願出御進達願」を提出した。同月25日に認可され、同月27日、株式会社として登記された。社名は株式会社東京築地活版製造所、資本金8万円、専務取締役社長曲田成、取締役松田源五郎、取締役西川忠亮。

曲田成は、社長就任以来、活字の改刻を進め、その結果を『印刷雑誌』に毎号のように広告として掲載している。
『印刷雑誌』の広告以外にも、明治25年(1892)1月に『二号明朝活字書体見本 全』(分合活字を含む)を発行し、明治27年(1894)1月に『座右の友』を発行して初号-5号明朝、初号-5号楷書、1、2号片仮名、4、5号平仮名を紹介している。明治27年(1894)7月にはポイント制活字として10ポと9ポの母型が完成し、活字を販売開始したが、時期尚早であまり売れなかったという。

また、特殊印刷分野として、明治27年(1894)6月1日から明治30年(1897)にかけて清国の九江、重慶、宣昌、鎮江、南京の信書館から合計102種類の郵便切手と大清国郵政局の蟠龍切手を受注し納入している。

曲田成の出版物としては、先に幾つか紹介した以外に、明治27年(1894)9月4日、曲田成編『日本活版製造始祖 故本木先生詳伝』を発行し、相当部数が無償で配布された。同年9月8日には、曲田成編『実用印刷術袖珍書 第九』を出版している。

明治27年(1894)同年10月11日、曲田成は播但鉄道会社の用務で姫路に出張した。同鉄道は同年7月26日に姫路―生野間が開通して開業し、引き続き姫路―飾磨間の建設を行っていた。ところが、同月15日、午後1時、曲田成は出張先で急性脳溢血を発症し、翌16日、姫路の客舎において死去した。享年49。

直ちに電報で東京築地の自宅に通知された。遺族は姫路に向かい、遺骸を東京に移した。それを知った東京築地活版製造所は、広島市大手町2番地のキバセンジロウ方に居た貴族院議員名村泰蔵に電報で曲田成の死去を通知している。すでに社長後継者として内諾を得ていたのかも知れない。

曲田成は播但鉄道会社の設立に協力し、明治26年(1893)7月には監査役に就任していた。
播但鉄道会社は、明治26年(1893)7月に認可を受けて設立された私設鉄道で、資本金100万円(当初)、社長藤田高之、本社は東京市京橋区日吉町(現、中央区の一部)であったが、同年9月、姫路の西魚町に本社を移転し、東京には出張所が置かれた。
明治28年(1895)4月14日、当初計画の飾磨から生野までの区間が全通した。その後、明治29年(1896)5月に生野から和田山までの延長の本免許が下付されたが、生野からその先の新井までは難工事が多く、新株増資が十分に行われなかったため、社債を発行して工事を完遂させた。その結果、莫大な負債と折からの不況で経営が悪化し、途中の新井まで開通したところで建設を終了させた。明治36年(1903)3月、三洋鉄道と売却の仮契約を結び、播但鉄道は解散することとなった。

明治27年(1894)10月21日、曲田成の葬儀が挙行された。東京活版印刷業組合頭取佐久間貞一が「曲田成君を弔う文」を述べ、菩提寺の住職と見られる密厳末資栄隆が「曲田成氏を追弔す」を朗読した。遺骸は東京府白金大崎村に葬られた。

同月23日、東京築地活版製造所支配人野村宗十郎の名前で有力新聞に一斉に黒枠広告を出した。それには次のように記されている。
「故曲田成 葬送之節ハ 遠路之處態々御會葬被成下 御厚志之段奉謝候 乍畧儀 此段新聞紙上ヲ以テ御厚礼申上候 明治廿七年十月廿二日 養子 曲田甲子二郎 親戚惣代 湯浅丈吉」

遺族は妻と二人の娘で、伊藤家から養子甲子二郎を迎えて長女に配し、甲子二郎は喪主を務める。親戚惣代となった湯浅丈吉は東京築地活版製造所で会計を勤めている人で、実際に親戚であったかどうかは不明である。

曲田成の功績について、その要点が『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉取材)に次のように記されている。
「明朝活字の改良に在ることを特記せねばならぬ。即ち今日の築地形と称する明朝体は氏の時代に於いて初めて改良されたのであるから、如何に氏がこの点に努力を傾注したかを思うべきである。また、印刷事業をして他の産業部門の上位に置くべく、一般社会人の認識を高めることに精進したこと、東京活版、石版両組合の組織にあたって、自ら進んで斡旋人力したその功績は没すべからざるものがある。またさらに、活字製造業者の習癖である秘密主義や隔壁を設けることが、ひいては活字改良に悪影響を及ぼす所以を喝破し、堂々、見本交換その他に範を垂れた一事の如きは、氏の明朗な性格の一面であるといえる。」

明治27年(1894)10月、東京築地活版製造所の株主総会で名村泰蔵(大審院長心得)が曲田成の後を受けて専務取締役社長(第4代)に就任した。

あとがき
明治27年(1894)10月に発行された『印刷雑誌』に「曲田成氏の逝去」と題した一文が掲載された。さらに、明治28年(1895)10月16日には、曲田成の一周忌を記念して、松尾篤三が編輯兼発行者なって『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君畧傳』が非売品として株式会社東京築地活版製造所から発行された。序文は福地源一郎が寄せ、跋(奥書)は東京築地活版製造所社長名村泰蔵が寄せている。本稿は多くをこの畧傳に拠った。

曲田成の戒名(仏号)は「得芳院慈運明成居士」であるが、その墓所は白金大崎村としか分かっていない。大崎村は、明治22年(1889)から同41年(1908)にかけて荏原郡に属していた。白金大崎村は存在しないが、上大崎村・下大崎村・居木橋村・桐ケ谷村、芝区白金猿町の一部を合併して成立したことから、芝区白金猿町の一部(現在の高輪3丁目の一部と白金台2丁目の一部)にある寺院の墓地と見られる。

2018年12月15日、稿了

東京築地活版製造所 第二代社長(空席)、社長心得 本木小太郎

(1)社長空席により本木小太郎の社長心得就任
明治22年(1889)6月17日、有限責任東京築地活版製造所は株主総会を開催し、定款を改正して、平野富二は社長を辞任した。次いで、株主による投票で取締役を選出した結果、松田源五郎と谷口黙次の2人が選出された。
松田源五郎は長崎で十八銀行頭取を、谷口黙次は大阪で活版製造所社長を務めているため、社長は空席のまま、創業者本木昌造の跡継ぎである本木小太郎を社長心得に指名した。

図2‐1 本木小太郎

松尾篤三編『曲田成君略伝』によると、平野富二は、本木小太郎が海外留学から帰国したことから、社長の職を本木小太郎に譲り、創業者本木昌造の遺志に応えようとしたと述べている。しかし、本木小太郎は事業運営に関心が薄く。社長の任に堪えないことから、社長心得の座を設けたと見られる。

定款では、株主の投票により20株以上所有する株主の中から3名を選出し、互選によって社長1名、その他の2名を取締役とすることになっていた。ただし、社長を選出できない場合は、仮に社長心得を置くことがあるとしていた。

新体制では社長が空席となるので、今まで社長平野富二の下で副社長を務めていた谷口黙次を取締役兼社長代行としたと見られる。これまで平野富二の下で支配人を務めていた曲田成は工務監査となった。

東京築地活版製造所は、明治22年(1889)12月30日、臨時株主総会を開催して会社の存廃を論じた結果、経営改革7項目が設定され、その実行を委任されて曲田成が社長に選任された。それに先立ち、短期間の内に数次にわたる臨時株主総会が開催されて、経営危機の打開策が論じられたが、結論を出すことが出来なかったという。

当時の経済社会は、明治14年(1881)以降の松方内閣による思い切ったデフレ政策の影響を受けて、保護育成の対照から外れた一般産業は困窮と共倒れの苦境に見舞われた。
東京の印刷業界では、東京府の指導の下、明治14年(1881)2月、東京46工場、横浜2工場が参加して「活版印刷営業組合」の設立願いを東京府知事に提出したが、意見が纏まらず成立しなかった。この頃、平野富二は造船事業で函館、続いて新潟に出張するなど多忙を極めていたことから、印刷業界での指導的立場を発揮することができなかったと見られる。
政府は、明治17年(1884)になって、「同業組合準則」を制定して秩序の回復を図り、明治18年(1885)1月、東京府の布達により再び組合結成の勧奨がなされたが、印刷業界では内部の意見が纏まらず、立ち消えとなってしまった。

東京築地活版製造所は、明治23年(1890)1月、再び臨時株主総会を開催し、社長は曲田成のまま、松田源五郎と西川忠亮の2人が取締役に選出された。社長心得の本木小太郎は病気を理由に退任し、取締役だった谷口黙次は大阪活版製造所の社長に専念することになった。西川忠亮(初代)はインキ商西川求林堂の社長で、大株主だった。

牧治三郎編『京橋の印刷史』によると、本木小太郎の明治22年(1889)頃の納税記録は所得税34円20銭で、印刷業界で2位の高額所得者であった。因みに、曲田成は8円40銭であった。当時は、年間300円以上の所得者を納税資格者として、最低金3円が課税された。

このことから、名前ばかりで高額所得を得ている本木小太郎に対しても、経営改革7項目の一つに挙げられていたと見られる。

なお、明治期の『東京府管内統計表』によると、東京築地活版製造所の明治21年と同22年の従業員数は、251人と244人で7人減、製出代価は75,488円と128,916円で53,528円増となっている。この二つの指標だけから見ると、経営上の問題は全く見られないが、実態は業界内での過当競争による値引き合戦で、売上高は増大したが、その分、収益の悪化に繋がったと見ることができる。

(2)本木昌造存命中の本木小太郎
本木小太郎は、安政4年(1857)9月18日、オランダ通詞本木昌造とその妻縫の二男として生まれた。数え年2〔満年令0歳10ヶ月〕のとき、母縫が21歳の若さで死亡した。翌年、長男昌太郎も6歳で病死したため、小太郎は本木家の継嗣となった。

その後、母縫の従妹に当たる大和屋喜太郎の姉タネが継母となった。元治1年(1864)10月15日に異母弟清次郎が出生し、慶應2年(1866)11月23日に異母弟昌三郎が生まれた。清次郎は明治12年(1879)8月18日に16歳で死亡、昌三郎は明治42年(1909)7月16日に45歳で死亡している。

慶應1年(1865)、数え年9のとき、本木昌左衛門久美の孫としてオランダ稽古通詞、無給を仰せ付けられた。慶應4年(1868)、数え年12のとき、祖父昌左衛門から家督を相続して家業であるオランダ通詞の業給を受けるようになった。父親の本木昌造は長崎製鉄所の取締助役として業給を得ていることから、家業としてのオランダ通詞の業給は、祖父から孫に相続させることを願い出て認可された。

改元されて明治となった12月8日、これまでの役名を廃され、新政府の下で通弁稽古を申し付けられ、手当・扶持はこれまで通り下し置かれることとなった。

明治3年(1870)頃に長崎製鉄所の機関方見習となった記録があるが、翌年11月には、無役となっていた本木小太郎は、農商入籍を願い出て認可され、資金として100両を下付されている。

この年の3月に本木昌造は長崎新町に新街私塾を開設しており、その8月、本木小太郎は数え年14で新街私塾の組親の一人となった。当時の新街私塾は世話懸、組親、助親、当番によって運営されていた。
翌年の12月12日、本木小太郎を含む新街私塾の4人は、1年間の囚獄を申し渡された師の池原大所(香稺)に代わってその罪科を償いたいと長崎県知事に嘆願書を提出している。

明治5年(1872)6月7日、隠居していた養父本木昌左衛門〔祖父、隠居名:昌栄〕が病死した。享年72だった。相次いで同年12月27日には、養母たま(祖母、万屋浅左衛門二女)が病死した。享年59だった。

明治5年(1872)に編成された壬申戸籍では、戸主は本木小太郎、実祖父昌左衛門久美を父本木昌栄、実父昌造永久を本木昌三と記録されている。この頃は、長崎外浦町682番051番屋敷に居住していた。本木昌造が長崎府に提出した文書にも同じ住居表示で記載されている。

明治6年(1873)6月の新街私塾の生徒名簿には、本木小太郎の名前が16歳10ヶ月として記録されている。

(3)本木昌造死去後の本木小太郎
本木小太郎は、明治8年(1875)9月3日、数え年19のとき、実父本木昌造が病死した。享年52だった。これに伴い、本木小太郎は新街私塾、新町活版所、大阪の新塾出張活版所、東京の新塾出張活版製造所のオーナーとなった。

新街私塾については、学制の公布により私塾としての役割を終えたとして、明治8年(1875)限りで私塾を閉鎖し、塾の予備金100円余りを長崎県下の各小学校に学資の一部に供するため、長崎県庁に献納した。
また、新町活版所は本木昌造の門人だった境賢治に経営を一任した。

明治9年(1876)9月、本木昌造の一周忌で長崎に帰った平野富二に伴なわれて、本木小太郎は上京、築地活版製造所に職を得た。
その2年後の本木昌造没後三年祭に際して、本木小太郎は平野富二に伴なわれて長崎に帰郷した。このとき、平野富二からの申し出により、築地活版製造所の資産一式9万円が本木家と出資者に返還された。
本木小太郎は、築地活版製造所の所長となり、平野富二は小太郎の後見人となった。

平野富二は、明治9年10月30日に海軍省と契約して石川島修船場の跡地を借用し、石川島平野造船所を開設した。その設備増強のため、ドック戸船用予備資材や旧鋳物所の払下げを受けたとき、提出する代金納入証書に本木小太郎が保証人となって捺印している。

築地活版製造所の経営を学んだ本木小太郎は、明治13年(1880)3月、数え年23のとき、平野富二の配慮で欧米に工業視察と研修に赴いた。これに関して、平野富二の「金銀銭出納帳 明治13年3月改」に、「金五十六円 本木殿へ餞別銀貨」とある。海外で通用する銀貨を餞別として与えている。

同年中には帰国したらしく、その12月29日に長崎の住居を外浦町7番戸〔682番105番屋敷の改正番地〕から同町43番戸に移転している。当人は東京に寄留していたので、長崎に残された家族のための転居と見られる。

明治14年(1881)3月1日から開催された第二回内国勧業博覧会に本木小太郎の名前で印刷機械、各種活版、字見本帖を出品し、二等有効賞牌を授与された。

図2-2 第二回内国勧業博覧会への出品
出品者:本木小太郎、製作者:桑原安六
印刷機械:ロ型(ロール型)とフート型(足踏型)の2種
活版:明朝風、清朝風、朝鮮書体、片仮名、平仮名、横文字の36種
字見本帖(西洋紙、西洋綴、各種書体印刷):1冊

この年の9月、数え年24のとき、品川藤十郎の長女ミネと結婚している。しかし、翌年の明治15年(1882)になって、海外留学に出発し、明治22年(1889)までの7年間、日本を留守にしている。イギリスのロンドンに滞在していたと見られるが、場所や勉学内容などについては不明である。その間、何度か一時帰国しているように見受けられる。

ロンドン滞在中の1885(明治18)年5月から6か月間、イギリスでロンドン万国発明品博覧会が開催されることになり、同年1月、出品者である長崎県平民本木小太郎の代理として平野富二が東京府を通じて農商務省に出品願書を提出している。

図2-3 ロンドン万国発明品博覧会への出品願書
この願書により、本木小太郎が「活版と印刷見本」を出品したことが分かる。
事務局の要求で、別途、「活版事業創始の説明書」を提出している。

本木小太郎が所長となっていた築地活版製造所は、明治18年(1885)6月26日、有限責任の株式会社となった。それに伴い、株主総会で役員選出が行われ、社長平野富二、副社長谷口黙次、取締役として松田源五郎、品川藤十郎、曲田成の3人が選出された。支配人として曲田成、副支配人として藤野守一郎がそれぞれ重任された。本木小太郎は海外留学のため選出されなかった。

一方、同じ頃に大阪活版所も有限責任の株式会社となり、ここでは本木小太郎が不在のままで社長に選任された。しかし、同年10月になって、社長本木小太郎が洋行中であることから、谷口黙次が社長に就任し、取締役として酒井三造、肥塚與八郎、吉田宗三郎が選任され、支配人は吉田宗三郎が兼任した。このとき、社名を大坂活版製造所と改めた。

明治19年(1886)11月、長崎の家族は外浦町37番戸から同町5番戸2号に移転している。後に、この場所を含めた一帯の土地にグランドホテルが建設され、その入口に本木昌造の旧居跡として記念碑が建てられたが、グランドホテルの建物が解体されたため、記念碑も撤去されたままになっている。
本木小太郎は一時帰国したと見られ、明治21年(1888)10月20日に長女恵美が誕生している。

明治22年(1889)6月、本木小太郎は7年間の海外留学から帰国し、東京築地活版製造所に社長心得として迎え入れられた。

(4)社長心得退任後の本木小太郎
明治23年(1890)1月、本木小太郎は病気を理由に築地活版製造所の社長心得を退任した。その後は、父本木昌造の門人たちを訪ねて各地を転居しながら、療養に努めたとされる。

明治43年(1910)9月13日、本木小太郎は東京の療養先で死亡した。享年57だった。最後の療養先は、三間印刷所を経営する三間隆次(谷口黙次の次男)宅だった。
死亡時の本籍地は長崎市外浦町5番戸2号で、長崎の大光寺にある本木家墓所に埋葬された。

その間の家族の動向は、明治23年(1890)に長男昌国が誕生し、同26年(1893)3月になって妻ミネと離婚している。明治38年(1905)1月には長女恵美が18歳で病死し、明治42年(1909)9月に長男昌国が19歳で病死している。このため由緒のある本木家の直系を継ぐ者は居なくなってしまった。

(5)本木小太郎を支えた谷口黙次
谷口黙次とその次男三間隆次の親子は、共に本木小太郎を終生にわたり支援し、面倒を見ていた。場合によると、本木小太郎の海外視察や留学に次男隆次が付き添っていたのではないかとも推測される。

谷口黙次は、弘化1年(1844)、長崎奉行所普請方谷口杢治の三男として生まれた。平野富二よりも2歳年長だった。

図2-4 谷口黙次(初代)

図2-5 谷口黙次の次男三間隆次

谷口黙次は、幼なくして本木昌造の経営する新街私塾に入門し、基礎教育を受けた。その後、本木一門に加わった。

明治3年(1870)4月頃、大阪に長崎新塾出張活版所が開設されるに当たり、幹部の一人として大阪に派遣された。素質と能力が優れていることから、内外の信用を得て、所長の酒井三造は谷口黙次を所長代理として内外の業務一切を任せるようになったという。

明治6年(1873)に、たまたま長崎に帰省中だった谷口黙次は、天草で活字の原料となるアンチモニーの良鉱が発見されたとの報告を得た本木昌造から、実地調査を依頼されて現地に赴き、採鉱を繰り返した結果、ついに良質な鉱脈を発見した。

時代の流れで、明治7年(1874)頃には、活版印刷が世間に認知されるようになったことから、大阪の活版所は相当の成績を挙げられるようになった。そこで、谷口黙次は再び大阪に派遣されて支配人となった。
同年、京都烏丸通三条上ルに在った點林堂を大阪活版所の支店とし、その支配人を兼務した。

明治8年(1875)春の頃から本木昌造はしばしば病床に就くようになった。5月下旬になって保養のため大阪と京都を気の向くまま訪れたが。そこで病が再発した。谷口黙次は夫人と共に看護に尽くし、長崎から迎えの人を呼び寄せて長崎に帰って貰った。しかし、看護の甲斐なく本木昌造は同年9月3日に死去した。

明治10年(1877)になって、谷口黙次らが中心となって「京阪神活版同盟会」が組織され、大阪18社、京都6社、神戸5社、大津2社の合計31社が参加した。しかし、明治16年(1883)に解散し、続いて大阪で「活版仲間組合」を設立した。これも、明治22年(1889)に解散し、改めて「大阪活版営業組合」が結成されている。

明治11年(1878)春、大阪北久太郎町に1,000坪ほどの土地を購入し、社屋を新築して移転した。名称を「活版製造所」と改め、印刷機器の製造・販売で事業拡張を行った。明治14年(1881)7月に東京の築地活版製造所に派遣していた速水兵蔵と中島幾三郎を大阪に呼び戻して、印刷機械の修繕と製造を担当させた。

明治18年(1885)以降の事柄については、既に述べたので省略する。

第3回内国勧業博覧会が明治23年(1890)4月1日から東京上野公園で開催され、大阪活版製造所谷口黙次として、16片紙ロールマシンと半紙6枚ハンドプレスを出品している。

明治25年(1892)12月3日、平野富二が急死した。谷中墓地の平野家墓所には、東京築地活版製造所の役員・従業員の有志者から石灯籠一対が献納され、その中に、谷口黙次も名前を連ねている。

商法改正により、明治26年(1893)12月、大阪活版製造所は株式会社となり、谷口黙次は初代社長に選任された。しかし、明治33年(1900)1月6日、病を得て卒然と死去した。享年57だった。

谷口黙次の長男は、父の名前を襲名して二代谷口黙次と名乗って大阪活版製造所の経営に携わった。二代社長吉田宗三郎の跡を受けて三代社長となった肥塚源次郎は二代谷口黙次の姉を娶っており、このころから、二代谷口黙次が実質的に経営を行うようになったという。

明治45年(1912)になって、大阪活版製造所は、経営は順調のまま、関係者一同合意の上、解散した。二代谷口黙次は、翌大正2年(1913)に、別途、谷口活版所を創設した。大正3年(1914)3月、谷口印刷所と改称している。

次男の隆次は、三間(みつま)家に養子として入り、東京銀座で石版印刷を営む三間印刷所を経営した。本木小太郎の長男昌国は、蔵前の東京高等工業学校を卒業して、三間印刷所に奉職している。しかし、父小太郎の亡くなる前の年に、若くして死去している。

本木小太郎とその長男昌国は、亡くなる直前まで、三間隆次の世話になっていた。

2018年9月13日 稿了

東京築地活版製造所 初代社長 平野富二

(1)初代社長就任とその実績
株式会社東京築地活版製造所は、登記上、明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このとき、初めて社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

図1-1 不惑を迎えた平野富二の肖像写真

この時の会社規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。

20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたと云う。株主名簿は未詳。

役員は、取締役社長平野富二、取締役副社長谷口黙次、取締役松田源五郎、取締役品川藤十郎、支配人曲田成、副支配人藤野守一郎で、その他は未詳。

それに先立ち、同年4月、大阪において長崎、東京、大阪の出資者が参集し、東京店が所有する大阪店にたいする持株と売掛金の合計3万円、ならびに、東京店が支出した上海店の財産の一部を棄捐して、東京店と上海店を本木家から独立させることとした。その結果、長崎本社と大阪店は本木家の所有とし、本木昌造の嫡子本木小太郎に経営を委ねることになった。

その4年後の明治22年(1889)5月、平野富二は東京築地活版製造所の社長を退任し、その経営から身を引いた。退任の直接の理由は、同年1月、平野富二の個人会社であった石川島造船所を資本金17万5千円の株式組織の有限責任石川島造船所とし、平野富二は常務委員(事実上の社長)に選任されたことによる。さらに、創業者本木昌造の嫡子本木小太郎が長期間の海外研修と視察を終えて帰国したことも勇退を決意した理由と見られる。

平野富二は、明治19年(1886)5月、激務と心労のため脳溢血を発症し、その後、療養に努めたが、さらに発症を繰り返したため、家族や友人の強い要請により業務負担軽減の一環でもあった。

初代社長として在任した4年間の実績は、朝鮮国にハングル活字を納入(明治18年11月)、ロンドン万国発明品博覧会への出品(明治18年5月)、活字版印刷部・石版印刷部の充実(明治19年1月)、需要に応じた各種の文字活字・花形活字・電気銅版の品揃えと、明治15年以来作成した活字の『新製見本』発行(明治21年2月)、中国における活版需要調査(明治22年4月)などである。

このように、販路の海外向け展開、総合活字版印刷事業者としての印刷事業の充実、需要に応じた活字・花形活字などの品揃えがなされたことが分る。

初代社長に就任してからの実績はこのようなものであるが、株式会社組織となるまでの築地活版製造所を設立し、ここまで育て上げたのは平野富二である。

(2)築地活版製造所の前史
築地活版製造所は、もともと、平野富二が本木昌造の要請によって活字製造事業としての長崎新町活字製造所の経営を引き受けたことによって始まる。

この活字製造事業は、本木昌造の活版印刷事業の一環として、さらに遡れば、新街私塾の経営の一環として、長崎新町活版所(活版印刷所)に活字を供給することを目的としていた。

本木昌造は、すでに、自身の研究開発による基礎技術と、上海美華書館のギャンブルによる伝習によって得られた製造技術を習得していたが、思うような品質の活字を安定して製造することが出来ず、不良品の山を築くばかりの状態に立ち至っていた。すでに資金も枯渇寸前で、おまけに、健康不安も重なり、本木昌造は気力・体力を共に失いつつあった。

〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
本木昌造は、明治4年(1871)6月、東京出張で芝神明前の書肆仲間や、大学(後の文部省)からそれぞれ活版所と活字販売所の設立を要請されて長崎に戻った。ただちに、長崎製鉄所を退職して自宅で待機していた平野富二(当時は、まだ富次郎と称していた)を招き、新町活字製造所の改革と経営引受けを要請した。

造船事業を志望していた平野富二は、最初は固辞していたが、本木昌造の窮状を見るに見兼ねて、条件付きで引き受けることとした。それは、明治4年(1871)7月10日頃とされている。

このときの平野富二が付けた条件を要約すると、(1)この事業の経営を一任し、専断を許すこと、(2)数年間で収益を挙げることが出来るようになったら、本木家に返還すること、(3)後継者を養成して、この事業を継承させること、(4)その後は、自分の素志である造船業を興すこと、であった。

〔活版製造事業の改革〕
製造業としての生産管理がおろそかになっていることを見抜いた平野富二は、直ちに徹底的な抜本改革を断行した。

活字の規格化を行い、品質管理と在庫管理を徹底させ、就業規則を定め、能力・特性に応じた作業体制を整えた。さらに、この事業の損益を明確にするため、今まで一体運営されていた活版印刷事業から独立させて長崎新町活字製造所とし、活字の外部販売を行い、それによって収益を得る独立採算制を採ることとした。

これは、長崎製鉄所時代の小菅修船場での独立採算による経営と、立神ドック掘削工事における人事管理の経験に基づくもので、さらに、上海美華書館の経営も参考にしたと見られる。

従業員にとっては革命とも言える抜本改革によって、着手してからわずか2ヶ月という短期間で、外部に販売できるだけの高品質・低価格で、しかも、必要量の活字を安定して製造・納入できるようになった。

〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
活字の販売で収益を得るためには、政治・経済・文化の中心地となった東京に販路を求めるのが第一と考え、本木昌造の了解の上、活字のサンプル若干と印刷見本を携え、平野富二自身が大阪経由で東京に出張した。

大阪活版所で取り組んでいる五代友厚依頼の『英和辞書』印刷と、そのために困難を窮めつつある特殊洋活字の製造、東京における芝神明前活版所の設立計画と大学御用活版所の設立も、平野富二の責任範囲に含まれるため、その善後処置を講ずることも出張の目的であった。

改革の結果が軌道に乗ったことを確認した平野富二は、明治4年(1871)9月中旬、長崎を発って大阪に立ち寄り、『英和辞書』(いわゆる薩摩辞書の第二版)の印刷辞退を五代友厚に申し出て了解を取り付けた。
次いで、大阪活版所に派遣されていた小幡正蔵と共に東京に向かった。東京では大学御用活版所を設立して小幡正蔵を所長とし、芝神明前の書肆仲間に活版所設立の計画中止を伝えた。その傍ら、有望な活字需要先を訪れて、各所から多量の活字註文を受け、大きな成果を得て長崎に戻った。それは、明治4年(1871)11月1日のことである。

〔事業所の東京移転〕
東京出張から戻った平野富二は、直ちに本木昌造と相談して、活字製造の拠点を大口需要が見込める東京に移転させることを決めて、その準備に入った。工部省傘下に入った長崎新聞局の活字製造部門は、勧工寮活字局として東京に移転したばかりで、そのことも決断を促したと見られる。

本木昌造は、明治5年(1872)2月、完成した活字を用いて『新塾餘談 初編一』を刊行した。その巻末に、平野富二の要求を容れて崎陽 新塾活字製造所の「活字摺り見本」を広告として掲載した。

この小冊子は本木昌造が経営する新街私塾の塾生向けの読本であるので、本来ならば活字の広告を掲載しても余り意味をなさないが、平野富二は、この冊子を東京に持参し、印刷サンプルとして希望者に配布することを考えていた。おそらく、上海美華書館の活字摺り見本広告にヒントを得たものであろう。

図1-2 『新塾餘談 初編一』に掲載した広告

明治5年(1872)7月11日、平野富二は、新妻と社員8名を引き連れて、兵庫(神戸)行きの郵便蒸気船に搭乗して長崎を発った。兵庫で横浜行きの便船に乗り換えて横浜に着いたのは、7月17日だった。

横浜で東京行きの小型蒸気船に乗り換え、東京築地に着き、そこから小舟を雇って隅田川、神田川を遡って神田和泉町河岸に到着したと見られる。近くの津藩藤堂和泉守上屋敷跡に残された門長屋の一室に、先発した小幡正蔵を所長とする大学御用活版所があり、その続きの部屋を借り受けて「崎陽新塾活版製造所」を設営した。

このとき、長崎から持参した物品は、五号と二号の活字母型と鋳型各1組、活字手鋳込器械3台のみで、当面の設営資金として持参した1,000円は長崎の金融業者から平野富二が首証文を引き換えに借りたものであったと伝えられている。四号活字母型1組と試し刷りに用いる手引き印刷機1台は長崎から後送されたが、これが、東京で事業をスタートさせるための設備の全てであった。

当時は木版による摺り物が一般的で、活版印刷による効能を理解する者は少なかったことから、平野富二は、官庁を回って『新塾餘談』の広告を配布しながら、活版印刷の効能を説明して回った。
10月になって、『新聞雑誌』に七号の振り仮名を加えた「崎陽新塾製造活字目録」を広告として掲載した。このような努力の結果、官庁の布達類は活版印刷を採用することになり、新聞・雑誌なども活版採用の気運が高まった。

「崎陽新塾製造活字目録」
『新聞雑誌』(第66号、明治5年10月)巻末綴じ込み附録 真田幸文堂蔵

一部記録に「投げ込み附録」とされるが、国立国会図書館蔵書を含め綴じ込まれている

平野富二が東京に進出する直前の明治5年(1872)2月に、銀座大火があって銀座・京橋・築地の一帯が焼失した。復興計画による規制もあり、築地地区には広大な空き地があった。そこで、平野富二は、もはや拡張の余地のない神田和泉町の借り部屋から撤退して、交通便利な築地に移転することを決意した。

明治6年(1873)7月、築地2丁目20番地の土地に仮建築という条件で木造2階建ての工場を新築して移転した。当初は敷地面積120坪余りの土地であったが、その後の事業発展に従い、次々と隣接地を買い増して、周辺道路に囲まれた一画の約半分851坪余りとなった。

これが東京築地活版製造所の起源である。その事業の創始と基金は本木昌造に拠るものであるが、事業としての発展は平野富二の寄与になることは明らかである。

(3)平野富二の貢献
明治20年(1887)7月改正の東京築地活版製造所「活字版並印刷器械及紙型鉛版其他定価」および「活版並諸印刷用器械洋墨類定価表」が残されている。それには、活版印刷に必要な活字類やあらゆる資材・器械類を網羅した取扱品目が価格を付して掲載されている。洋活字やハングル活字も含まれており、これを見ると、築地移転当時とは隔世の感がある。

平野富二の貢献を示す切り口はいろいろあるが、ここでは、残された当時の写真と絵図・地図によって、築地活版製造所発展の様子を示し、その間に行われた土地の買い増しと建物の新築・増改築によって、東京でも有数な大工場にまで発展させた平野富二の貢献を視覚的に再認識してみたい。

図1-3 明治7年(1874)の長崎新塾活版製造所
(『株式会社東京築地活版製造所紀要』、昭和4年10月、口絵組みあわせ写真の一部)

図1-3の写真は、築地活版製造所の姿を映した最も古いものと見られる。本木昌造は、死去する前年の明治7年(1874)夏に上京して、新築なった築地の煉瓦建事務所と関連施設を視察した。その時の本木昌造が目にした姿はこの写真とほぼ同じであったと見られる。

写真の右手奥の木造2階建て建物は、明治6年(1873)7月に完成した最初の仮工場である。左側の煉瓦造2階建て建物は、明治6年(1873)12月に完成・引渡しを受けた事務所である。その右側に正門と通用門がある。正門の右側門柱に表札「長崎新塾出張活版製造所」が掲げられている。なお、右側道路沿いの煉瓦造と見られる平屋の建物(倉庫?)については記録がない。

仮工場の建つ土地は、築地2丁目20番地とされているが、建物の奥行から見ると、隣接する21、22番地も同時か、その後に購入した可能性がある。手前の平屋の建つ土地は19番地、事務所の建つ土地は18番地と見られる。なお、この番地は、周辺の道路拡張・新設によって、後年、変更されることになる。

写真には見えないが、明治8年(1875)6月、本木昌造が再度上京する直前に平野富二は築地2丁目23番地の土地・建屋・畳・家具・諸造作1式を購入し、20番地から家族と共に移転した。また、時期は不明であるが、事務所左側の隣接地(17番地)も入手している。

築地活版製造所を訪れた本木昌造は、平野富二に対する明治5年から同7年まで3年間の給料と褒賞として、築地活版製造所のある17,18番地(新13番地)、23番地(新14番地)、19、20、21、22番地(新17番地)の土地を平野富二の所有とした。( )内は明治11年(1878)以降の新番地を示す。

図1-4 明治17年2月測量の「五千分一東京図測量原図」

図1-4の地図の中央に道路に囲まれた長方形の一画がある。その上半分(築地川寄り)に築地活版製造所の建物群がある。この地図では、薄赤色に着色された建物は私有の耐火建築物(煉瓦造または土蔵造)を示している。上部中央から左斜めに流れる川が築地川で、祝橋と万年橋が架けられている。

祝橋から右下に向かって斜めに通じる道路と万年橋からの道路との間を並行して通る道路に面して大形耐火建築物が表示されている。この場所は新17番地で、当初の木造仮工場を建て替えて煉瓦造りの工場建物としたと見られる。築地川沿いの道路との間に在った煉瓦造平屋は撤去されている。

祝橋に近い築地川沿いの道路に面した耐火建築物は、新13番地の土地に明治6年末に完成した事務所と明治14年5月に新築した2階建建物であると見られる。

区画の下半分(築地川と反対側)の土地は、平野富二が新たに購入した土地で、上半分の土地を築地活版製造所に譲渡した資金で購入した私有地である。明治16年(1883)夏、ここに平野邸が新築され、一家はここに移転した。隣接して並ぶ3棟の長屋は、石川島造船所と築地活版製造所の従業員に貸し与えられる宿舎と見られる。この平野邸と長屋のある土地は華族柳原前光邸の跡地だった。

図1-5 明治18年頃(?)の活版製造所絵図
(『東京盛閣図録』、明治18年刊)

図1-5は、明治18年(1885)刊行の絵図であることから、図1-4の地図とほぼ同じ頃の築地活版製造所の様子を描いたものと見られる。しかし、画面右側の2階建て大形建物は、この絵図では木造と見られるが、先の地図では耐火建築物と表示されている。したがって、この絵図は明治16年(1883)以前に撮影した写真により作成された可能性がある。

絵図の中央右寄りに見える煙の出ている4本煙突の辺りに僅かに見える建物は、明治9年(1876)9月に完成した木造の活字仕上場と印刷機製造工場と見られる。
築地川沿い道路に面した左側に明治14年(1881)5月に建てられた煉瓦造2階建の大形建物は、後のことになるが、この2階にある13号室で内田百閒らが岩波書店から刊行する『漱石全集』(組版・印刷:東京築地活版製造所)の編集に携わった。

図1-6 明治24年9月現在の東京築地活版製造所
(『印刷雑誌』、第1巻第8号、明治24年9月、広告)

図1-6は、平野富二が初代社長を退任してから2年後の様子を示す絵図である。図1-5と大きく相違するところは、右側の2階建て煉瓦造りの工場建物と正門の門構えである。

2階建て煉瓦造の工場建物は、川沿いの道路の縁まで延長増築されていることが分る。平野富二の社長在任中に増築されたものかどうかは判然としないが、株式組織となってからの建築であることは間違いない。

正門は、従来の扉付き門柱を建て替えて洒落た門型となり、装飾を施した横梁には、中央に「丸もにH」の社章を置き、その上部の円弧に沿って「THE TOKYO TSUKIJI TYPE FOUNDRY」と配し、下段に「東京築地活版製造所」と表示してある。両脇の門柱の頂部には電気照明が置かれている。

明治25年(1892)12月2日、平野富二は、鋳鉄業界の集会に招かれ、講演の最中に卒倒し、翌日早朝、東京の自宅で死去した。46年2ヶ月の生涯であった。本木昌造から引き継いだ活版製造事業を大成させ、念願の造船事業を独力で創り上げた。

2018年7月11日 稿了