官営時代の長崎製鉄所(その2)

前回の「官営時代の長崎製鉄所(その1)」では、長崎製鉄所の頭取役である本木昌造と吉田鶴次郎の二人が退職願を提出したところまでを述べた。
今回は、その後の動向と、長崎県から工部省への移管、工部省による郵便汽船三菱会社への貸与されるまでを述べる。

<青木休七郎による専横経営>
本木昌造と吉田鶴次郎の製鉄所頭取役辞任の動きのある中、明治2年(1879)9月3日、製鉄所助役だった青木休七郎は、県庁職員としての権大属、庶務掛兼裁判所弁務に任命されると共に、製鉄所役頭取兼勤を申し付けられた。

明治2年9月初旬に出された製鉄局手割書によると、頭取1人(兼勤 青木休七郎)、頭取助2人(牧斐之助、本庄寛次郎)、元締役3人(加藤雄次郎、野田耕平、品川藤十郎)、元締役助2人(香月新助、平野富次郎)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、機関方4人(吉田新、矢島良之助、御幡栄三、戸瀬昇平)となっている。

この人事では、本木昌造と吉田鶴次郎の退職を前提にして決められており、暫定人事と見られる。なお、この職制では、以前とは相違して機関方の前に勘定役と勘定役助が置かれており、技術よりも経理を重視することが覗える。

同月中旬に行われた人事異動は、退職を申し出ていた頭取役2人の処遇が決まったことにより発令されたと見られる。それは、頭取役1人(機械伝習方懸 本木昌造)、製鉄所頭取1人(兼務 権大属 青木休七郎)、頭取助役3人(吉田鶴次郎、牧斐之助、本庄寛次郎)、元締役3人(加藤雄次郎、野田耕平、品川藤十郎)、元締役助2人(香月新助、平野富次郎)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、第一等機関方1人(松尾良助)、第二等機関方3人(戸瀬昇平、塩沢善十郎、藤川喜多助)、第三等機関方2人(吉田新、矢島良之助)、機関方1人(御幡栄三)となっている。

この人事では、退職を願い出ていた本木昌造と吉田鶴次郎の2人の処遇を反映したもので、本木昌造は製鉄所筆頭ではあるが、経営には関与しない役職となっている。吉田鶴次郎も頭取助に降格させて、名目だけ残されている。その他については、9月初旬に出された手割書と同じであるが、機関方は等級別に表示されるようになり、人数が増えている。

続いて発令された同月下旬の人事異動では、頭取1人(権大属 青木休七郎)、頭取助4人(牧斐之助、野田耕平、加藤雄次郎、品川藤十郎)、元締役1人(香月新助)、元締役助2人(平野富次郎、吉田新)、勘定役3人(飯島與八郎、中島貞次郎、品川熊次郎)、勘定役助1人(片山市右衛門)、第一等機関方1人(松尾良助)、第二等機関方3人(塩沢善十郎、戸瀬昇平、藤川喜多助)、第三等機関方4人(矢島良之助、藤田新助、伊藤一郎吉、青木休三)となっている。

この異動では、本木昌造と吉田鶴次郎の名前は消え、頭取青木休七郎の意を体する経理部門は「青木―牧―香月―片山」の人脈により運営される体制が整ったと見られる。
このときに制定された「則」によると、飽之浦本局と小菅分局の経理は完全に分離された。そのためか、小菅諸務専任の品川藤十郎と平野富次郎は共に一段階の昇進となっている。

<青木体制下の本木昌造と平野富次郎>
本木昌造は、退職願を提出して以降、製鉄所には出勤しなかったと記録されている。しかし、先に招聘していた上海美華書館のギャンブルが10月に来日することになったため、製鉄所掛から本木昌造に宛てた明治2年10月付けの文書で、「その方は、かねてから活字製造技術を心得ていることから、新聞局掛の者と相談して、その技術を完成させるよう尽力すること。」(意訳)として、ギャンブルによる活字製造技術の伝習に協力するよう要請された。

ギャンブルによる伝習は、長崎市内の興善町にある元唐通事会所に活版伝習所を設けて、明治2年10月初旬から翌年2月末まで行われた。本木昌造は、それまで自分に協力してくれた本木一門の者たちを引き連れて活版伝習に協力するとともに、自らも伝習を受けた。

本木昌造は、ギャンブルにより伝習を終えた直後の明治3年(1870)2月末日、正式に長崎製鉄所を退職した。

なお、長崎県付属だった新聞局は、明治3年5月16日、製鉄所付属となり、新聞発行と活版製造は製鉄所内の一つの組織として運営されるようになった。

一方、平野富次郎は、小菅諸務専任となってから、小菅修船場で順調に工事をこなし、着実に成果を挙げていた。

明治2年10月頃になって、平野富次郎は、長崎県の知県事野村宗七に対して、立神ドック建設に関する建言書を提出した。それは、長崎製鉄所で本格的な船舶の建造と修理を行うために、小菅修船場で得た純益金を投資して立神地区にドック(船渠)を建設するというものであった。これによって、長崎に来港する内外の大形船舶を受入れて修理を行なうことで長崎の繁栄の一助とすると共に、建設工事の実施により職を失った長崎市民の失業救済のもなることを提言した。

これを受けた野村知県事は、大阪造幣頭となっていた井上聞多に上申書を提出し、同年12月13日付けで、大阪出張大蔵省によって認可された。

それに先立つ同年11月、製鉄所職制の中に、新たに「ドック取建方掛」が置かれ、頭取青木休七郎、頭取助(小菅諸務専任)品川藤十郎、元締役助(小菅諸務専任)平野富次郎、第一等機関方戸瀬昇平らが任命された。

<経理不正事件と経営陣の刷新>
明治3年5月、青木休七郎は製鉄所専任を命じられたが、同年6月、大阪出張大蔵省に出向となって、事実上、製鉄所では頭取が不在となった。

同年秋の「改正 職員録」によると、「〇製鉄所」の表示の後に、土肥少参事、白木権大属、青木権大属の県庁職員3人の名前が列記されており、それに続いて、頭取助1人(牧斐治)、頭取心得2人(野田耕平、品川藤十郎)、元締役2人(香月雄記、平野富次郎)、勘定役助1人(片山逸多)、第一等機関方1人(松尾凌多)、第二等機関方1人(戸瀬昇平)、第三等機関方1人(伊東一郎吉)となっている。

   

         明治3年秋の「改正 職員録」         冊子の奥付に相当するところに、
庚午秋 長崎新聞局 開版 と朱印が捺されている。

当時の秋は、旧暦の7月から9月までを示す。6月に青木頭取が大阪に出向して不在となったことから、県庁職員が製鉄所掛を兼務して、その役を補っていたと見られる。

なお、同年5月3日、民部・大蔵大丞山尾庸三が長崎製鉄所を含めた製鉄所事務総管に任命されており、民部省・大蔵省が長崎製鉄所の経営に深く関わるようになっていた。

本木昌造は、既に製鉄所頭取役を退いて経営に関与することはなく、青木休七郎も大阪出向により、事実上、製鉄所の経営に直接関与することが不可能な状態となった。

この人事異動により元締役助から元締役に昇進した平野富次郎は、頭取不在の状況に対処するため、製鉄所の諸事を幹部職員の合議により運営することを上申した。その結果、小菅諸務専任であった品川藤十郎と共に、同年7月から、飽之浦本局に勤務して製鉄所頭取職を合議制で運営することを命じられた。

同年8月22日、製鉄所職員は等級に応じて官禄を支給されるようになった。これは、県庁職員の官禄に比較して製鉄所職員の手当・褒賞が過大であることが問題となり、その是正が行われたことによる。

これまで、製鉄所職員は、官からの食禄を辞退する代わりに、製鉄所の利益金の中から手当を支給し、製鉄所が盛大な利益を得た場在には、前利益の8分の2を褒賞として支給することになっていた。青木一派は、これを悪用して、経理操作により利益を水増ししていたことが疑われ、大阪出張大蔵省からの調査が行われていた。

同年閏10月16日、平野富次郎は、製鉄所元締役のまま、県庁職員の資格である権大属に任命された。その時の製鉄所人事異動では、頭取心得品川藤十郎は退職、勘定役飯島與八郎、勘定役助片山逸多、第一等機関方松尾凌多の3人は元締役に、職方差配役吉田国太郎が元締役助に昇進し、第二等機関方戸瀬昇平は退職した。

平野富次郎の権大属辞令
この辞令は平野家に保管されている。

上記異動のあった翌日、頭取助牧斐治と元締役香月雄記の2人は「逼塞差し免じ候事」とされ、翌日に退職した。また、元締役となった片山逸多も、同年11月29日、「風聞宜しからず候につき、暇を申し候」とされて退職した。その結果、頭取心得の野田耕平については詳らかではないが、名目上の出向県職員は別として、権大属で元締役の平野富次郎が製鉄所職員のトップとなって、新任の元締役2人と共に製鉄所の経営を担うことになった。このとき、平野富次郎は数え年25であった。

<工部省への経営移管>
明治3年(1870)閏10月20日、民部省の一部を独立させて工部省が新設された。同日付けで、民部権大丞山尾庸三は工部権大丞に任命された。

山尾庸三は、幕末にイギリスへ密航留学した「長州ファイヴ」の1人で、維新後の慶応4年(1868)11月に帰国して、郷里に帰っていた。明治3年4月に上京して新政府に出仕し、民部権大丞兼大蔵権大丞に任じられた。

同年閏10月から11月にかけて行われた長崎製鉄所の経理責任者処分を受けて、事実上、長崎製鉄所の責任者となった平野富次郎に対して、同年11月付けで東京からの調査官派遣に対する準備を申し渡された。

明治4年(1871)1月7日、民部権大丞山尾庸三が長崎に到着し、9日から長崎製鉄所に出向いて、平野富次郎を相手に帳簿類の調査を行った。先に大阪出張大蔵省が調査したときの帳簿と元帳とを比較したところ、不都合な個所が次々と見つかった。

同月20日、これらについて説明を求められた平野富次郎は、的確に応えることができず、翌日、進退伺を提出したが、遺留されて引き続き旧帳簿の調査を続けるよう指示された。富次郎にとっては、それまで小菅庶務専任であったため、旧帳簿の内容を説明できる立場ではなかった。

平野富次郎は、同年3月16日、県職員としての権大属を返上し、長崎製鉄所を退職した。しかし、その後も、御用に応じて出勤するよう長崎県から要請されていた。

官営となった長崎製鉄所での平野富次郎の昇進は目覚ましく、慶応4年(1868)8月に機関方として製鉄所職員に登用されて以来、同年12月には第一等機関方となり、明治2年(1869)3月には小菅庶務専任、同年9月には元締役助、同年11月には立神ドック取建掛兼務、明治3年(1870)秋には元締役、同年閏10月には権大属に任命され、わずか2年3ヶ月で長崎製鉄所の事実上のトップとなった。

一民間人となった平野富次郎は、自分の手掛けた立神ドックが未完成のまま廃棄されることを憂えて、この施設の完成から経営までを自分に委託するよう願い出た。しかし、この願いは実現されず、明治7年(1874)まで放置された。

<工部省による長崎製鉄所の経営>
明治4年(1871)4月7日、長崎に出張してきた工部権大丞山尾庸三は、長崎県から長崎製鉄所と小菅修船架の引き渡しを受け、工部省十一等出仕岡部仁之助(利輔)を所長とした。

このとき、製鉄所付属新聞局活字一課にある活字・諸器械が大学南校に引き渡されることを知った山尾庸三は、「活字の製作は工部省の役割であるので、認められない。しかし、これまで長崎で造った活字類は残らず大学南校に引き渡す」旨の申し出を太政官に提出した。

これに先立つ、前年11月20日、長崎県は、製鉄所付属新聞局が保有する設備と人員を、大学に移管する旨の希望を書面にして太政官に提出しており、同年12月15日、大学は、「活字と器械類を南校で必要としている」として、受け入れを申し出ていた。

工部省に移管された長崎製鉄所は、明治4年8月9日、「長崎造船所」と改称し、同月14日、本省内に造船寮を置いて、その下に属させた。

同年11月22日、勧工寮内に活字局を設けて、もと長崎新聞局活字一課の人員と活版製造設備一式を東京の赤坂溜池葵町にある旧伊万里県出張の屋敷跡に移転させた。

明治5年(1872)6月16日、明治天皇の臨幸に際して小菅修船場を視察し、雇修船長ブレイキーらに賜物された。

 

 

 

 

 

 

 

 

『明治天皇行幸所小菅修船場趾」碑      「長崎製鉄所跡」碑(飽の浦門前)

同年10月20日、造船寮を廃して製作寮と合併させ、長崎造船所を「長崎製作所」と改称した。また、明治10年(1877)1月11日、製作寮を廃して工作局が置かれたことに伴い、「長崎工作分局」と改称した。

それに先立ち、明治7年(1874)5月27日、製作寮六等出仕渡邉嵩蔵が所長となり、同年6月7日、立神ドックの再築工事を開始。明治11年(1878)5月21日、立神ドックが竣工し、工部卿井上薫により開業式が挙行された。

この立神ドックの再築は、明治4年から明治9年までの間は、船舶修理と器械製造・修理は僅少であったが、明治10年の西南戦争により工事量が増加し、諸工場の新設や器械設備の改良等に着手した一環として行われたものである。

明治16年(1883)9月22日、工作局が廃止されたため、「長崎造船局」と改称し、渡辺嵩蔵が局長となり、翌年6月3日、船舶会社に長崎造船局工場を貸与することを太政官に稟請した。これは、長崎港の商売が日増しに衰退し、船舶の出入りが減少したため、明治15年度から欠損を出すに至ったことによる。

政府の対応は素早く、同月11日、工場を岩崎弥太郎に交付すべきであると決め、同月12日、郵便汽船三菱会社社長岩崎弥太郎は長崎造船局を拝借したい旨を工部卿伊藤博文宛ててに請願した。同月23日には、岩崎弥太郎の拝借願は正式に認可され、翌日、貸渡条約書の調印が行われた。翌月の7月7日には、長崎出張工部少書記官から岩崎弥太郎に引き渡されて、「長崎造船所」と改称された。

2018年2月26日 稿了

幕営時代の長崎製鉄所と平野富二

<長崎製鉄所の第一期工事竣工とその設備>
長崎製鉄所は文久1年(1861)3月25日に竣工した。それは長崎港内の飽ノ浦において安政4年(1857)10月10日に起工して、3年5か月後のことであった。その間、木材、煉瓦と瓦以外の資材・機械類をオランダから輸入し、オランダから派遣された技術者や職長たちの指導により完成した。

竣工したときの長崎製鉄所の製造設備は、鋳物場、鍛冶場、轆轤盤細工所、小細工場と仮舎蜜所で、付属施設として諸物置、石炭囲所、諸器械置場、蒸気機関室が設置され、轆轤盤細工所に図引所が付属して設けられた。その他に、波戸、表門、掛支配向・地役人詰所、蘭人住居があった。

長崎製鉄所第一期工事竣工時の工場平面図
工場の右手は長崎湾で、下手は飽ノ浦の海面を示す。
破線で示した施設は追加建設予定の施設。

設置された工場設備を見ると、鉄や銅類の鋳物を製造し、鉄素材を鍛造して成型し、それらを工作機械で加工するまでの設備であることが分かる。上記工場略図には示されていないが、当然、加工した機械部品を組み立て、完成した機械を試運転するまでの施設があったと見られる。なお、仮舎蜜所は仮設のガラス工場のことで、船舶に用いられるガラス窓やランプなどのガラス製品を造る工場と見られる。

この工場施設が設置された長崎飽ノ浦は、水深が岸近くまで深く、容易に大型船舶を接岸できることから選ばれたものであるが、この時点では、蒸気機関に必要な汽缶製造設備や、修理する船舶を接岸するための岸壁も未だ整備されていなかった。

船舶の建造や本格的な船体修理を行う施設がなければ造船所としての機能はなく、そのため、鉄製品を製造する施設として「製鉄所」と呼ばれた。また、将来、本格的な造船所とすることを目指して、この段階で第一期工事の竣工としたと見られる。

竣工に先立ち、万延1年(1860)12月26日、オランダ側の建設責任者である海軍機関将校ハルデス(H. Hardes、1815~   )の在留期間を1861年5月1日(文久1年3月24日)まで延長、機関方のファン・アーケン(J. M. van Aken、1826~   )とラスコイト(D. Lasschuit、1813~   )の2名は1866(慶応2)年まで、職長たち7名は1862(文久2)年まで延長している。

ハルデスを除くオランダ人たちは、第一期工事竣工後の長崎製鉄所での技術指導のために滞在を延長され、飽ノ浦の製鉄所に隣接して建てられた蘭人住居に居住していたと見られる。

<長崎製鉄所での技術者育成>
わが国で初めての近代的舶用機械製造工場として建設された長崎製鉄所を運営して行くには、早急に日本人の「機関方」(エンジニア)と称する機械技術者を養成する必要があった。

長崎製鉄所の起工に先立ち、安政2年(1855)10月22日、日蘭和親条約の締結と同時に長崎海軍伝習所が開所され、幕府伝習生に対してオランダ海軍により洋式海軍の伝習が行われた。ここでは、海軍士官と要員の養成を目的とし、長崎製鉄所の技術者養成は対象とされてはいなかった。

そのため、長崎製鉄所の竣工を期に機関方の養成が行われることとなり、急遽、長崎地役人の中から機関方として適性のある者の人選が行われた。その際、機関方見習として伝習を行うために製鉄所内の掛支配向・地役人詰所の一室を教室としたと見られる。製鉄所内には見習生の宿舎は見当たらないので、見習生は長崎市内から西役所横の大波止から小舟に乗って通学したと見られる。

オランダ通詞の本木昌造は、文久1年(1861)3月、伝習掛兼務を命じられ、伝習責任者として主体的に伝習に関わり、主としてオランダ人機関方2名が、機関方見習として配属された者たちに直接教授したと見られる。

なお、記録には見当たらないが、日本人教師として吉田鶴次郎が加わっていた可能性がある。吉田鶴次郎は、長崎地役人の中から選抜されて長崎海軍伝習所の幕府伝習生として「蒸気機械方」・「火焚取締方」要員育成の伝習を受けた。この時に伝習を受けた主要メンバーは、伝習を終えて練習船「観光丸」で江戸に向かったが、吉田鶴次郎は、続いて行われた補充伝習(第二期伝習)にも参加し、その後、長崎奉行所支配定役となり、維新後は、本木昌造と共に長崎製鉄所の頭取役に就任している。

<特例選抜された矢次富次郎>
製鉄所機関方見習として採用された者たちの一人として矢次富次郎(後の平野富二、数え年16)が居た。

富次郎は、数え年12で隠密方御用所番見習として長崎奉行所に出仕していたが、抜擢されて製鉄所機関方見習となった。この抜擢は、特例中の特例として扱われたらしく、長崎奉行所の文書である『安政七年 外務課事務簿』の中に、次のような趣旨の記述があることを長崎在住の宮田和夫氏が見付けられた。

町司矢次和一郎の弟矢次富次郎については、製鉄所御雇いを仰せ付けられるに当たって、以後、次に該当する者に限り人選するよう申し付けたとして、「部屋住みの内に年頃の者が居ない時は、無給または本見習いの者たちでも、相応の者を選んで申し立てて良いが、二男、三男などの厄介は容易には申し立てをしてはならない。」という指示が出された。

文中にある「部屋住み」とは、武家の嫡男が未だ相続をしない間の身分、または、次男以下の者たちを指す。また。「厄介」とは家禄を支給されている長男の下で生活している二男以下の者たちを指す。長崎では地役人は、身分は別として、武家並みの扱いをされていた。

このとき、杉山徳三郎も製鉄所機関方見習として配属され、矢次富次郎と共に伝習を受けた。杉山徳三郎は、長崎海軍伝習所での補充伝習(第二期伝習)で番方として砲術の伝習を受け、終了後は、一代町司となっていた。

なお、富次郎が長崎奉行所で所属していた隠密方について、「隠密」と言うと「忍びの者」を連想されるが、実際は長崎奉行の特命事項を実行する役目である。隠密方の役割を示す一つの例として、長崎奉行が長崎に於ける艦船整備の一環として、長崎表で当時船を製造できる者の存否を隠密方に調査させたことがある。

嘉永7年(1854)2月に隠密方から長崎奉行に提出された調査報告書によると、「出島に在留するオランダ外科医(ファン・デン・ブルーク)が所持していた蒸気船絵図を、オランダ通詞本木昌造が少しずつ見覚え、下筑後町大工藤太郎に金を与えて蒸気船を細工させている。近頃、完成した様子であるが、まだ、蒸気装置の試運転までは行っていないとのこと」としている。

この隠密調査は、時期的に見て、富次郎の奉行所隠密方出仕以前のことであり、富次郎と本木昌造との接点にはなりえない。

長崎製鉄所における富次郎らの見習生たちは、本木昌造の指導の下、2年間の伝習を終えて、正式に機関方となった。つまり、長崎製鉄所の技術職員となったことを示す。

この間、江戸から軍艦操練所の蒸気方教官肥田濱五郎が長崎に出張に来ていたので、富次郎らの見習生たちは教えを受けたり、設計作業に参加させてもらったりした可能性がある。

肥田濱五郎は、長崎海軍伝習所の第2期伝習に参加し、伝習終了後は江戸軍艦操練所で教授方となり、蒸気船「咸臨丸」で渡米。帰国後は国産砲艦「千代田形」の蒸気機関の設計・製造を担当して長崎に出張して来ていた。後年、平野富二が東京で造船業に進出してから多くの協力を得ている。

<伝習責任者となった本木昌造>
本木昌造は、万延1年(1860)10月、製鉄所御用掛を任命され、長崎製鉄所を管理する立場となった。この頃、建設中の長崎製鉄所を視察し、細工場用の屋根組トラスの前でハルデスと共に撮った写真が残されている。同年12月には、細工所の小屋組トラスを据え付け、上棟式が行われたことからも通詞姿の人物は本木昌造であると見られる。

細工場屋根組トラス前のハルデスと本木昌造と見られる写真
製鉄所御用掛となった本木昌造が
建設中の工場を視察したときの写真と見られる。
背後の二階建て家屋は日本人役人の詰所で、
機関方見習生の教室として使用されたと見られる。

本木昌造は、洋式造船に関する知識と経験に於いて、当時、この分野で第一人者と見なされていた。以下に、その経験と実績と述べる。

1)嘉永6年(1853)、出島のオランダ医師ファン・デン・ブルークから蒸気船絵図を見せられ、下筑後町大工に模型を製作させた。(前述の隠密報告)

2)嘉永7年(1854)7月、土佐藩の江戸藩邸に於いて山内容堂に対して蒸気船模型を供覧。同年閏7月末、土佐藩から8人乗り小型蒸気船の建造を依頼された。
土佐藩は、同年8月23日、幕府の許可を得て江戸で小形蒸気船を着工し、翌年8月、土佐の浦戸に回航した。

3)安政1年(1854)12月6日、幕府の命によりロシア軍艦乗員の帰国用として洋式帆船「ヘダ号」建造のため、伊豆戸田村に滞在。翌年4月3日、病気を理由に戸田村在勤を楢林量一郎と交代している。

4)安政2年(1855)6月、蒸気船乗方等伝習掛を命じられる。同年8月には鍋島藩が洋式輸送船を購入する際、その良否と価格の調査を依頼されている。

5)安政2年(1855)10月22日から安政4年(1857)2月末まで、長崎海軍伝習所の幕府伝習生に対して、通訳掛の一員として伝習に関わった。
ただし、安政4年(1857)5月13日に蘭書・器物売り捌き事件で処罰され、預かりの身となったため、以後は海軍伝習に関わることはなかった。

本木昌造は、安政4年(1857)11月28日、自宅謹慎の身を解かれた。自宅謹慎の9ヶ月間、もっぱら鋳造活字の研究に従事したが、かたわら、子弟教育についての構想を練っていた。

<本木一門としての矢次富次郎>
矢次富次郎と本木昌造との最初の接点は、文久1年(1861)3月、矢次富次郎が長崎製鉄所に配属されて、機関方見習として伝習を受けたときと見られる。

長崎というあまり広くない地域で、同じ地役人の社会に属する関係にあることから、それ以前から何らかの接点があったかも知れないが、それを示す史料や逸話は今のところ見当たらない。

長崎製鉄所での機関方見習に対する伝習が開始されたころ、英領ニュージーランドから来日したイギリス人ハンサード(A. W. Hansard)が長崎駐在のイギリス領事を通じて長崎奉行に、「長崎で英字新聞を発行するので、この機会に日本人の若者2,3人に印刷術の全てを伝授したい」と申し入れがあった。

この申し入れを長崎奉行から伝え聞いた本木昌造は、自分の一門の者たちに伝え、平野富二(矢次富次郎)をはじめ、陽其二、谷口黙次、茂中貞次らの有能な門人たちがハンサードの新聞づくりに参加して、そのノウハウを学んだという逸話が伝えられている。

このとき発行された新聞は、”The Nagasaki Shipping List and Advertiser”で、1861年6月22日(文久1年5月15日)に創刊された。
これは、富次郎が長崎製鉄所に配属されて2ヶ月余り後のことである。ハンサードは、この新聞をわずか3ヶ月で終刊し、長崎に見切りをつけて横浜に移住し、「ジャパン・ヘラルド」を発行した。

「ザ・ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザー」
本紙はわが国で最初に発行された英字新聞で、図版は第6号を示す。

先の逸話が正しいものであるとすると、富次郎は長崎製鉄所に入って間もなく、本木一門に加わったていたことになる。

<第一期工事竣工後の長崎製鉄所>
文久1年(1861)3月に第一期工事を竣工した長崎製鉄所は、蒸気船に必要な機械・器具類を製造することのできる工場として完成した。しかし、未だ汽缶の製造は出来ず、修理船を接岸して機械類を修理することもできない状態であった。

また、第二期工事として、船舶を建造し、船体修理を行う施設を建設する計画であったが、幕府の財政窮乏のため、実現されなかった。

安政6年(1858)6月に築造着手していた大船修復場(艤装岸壁)は、文久2年(1862)頃に完成している。また、蒸気釜仕立所(汽缶製造工場)が建設着手したのは、文久1年(1861)11月以降と見られる。

江戸の石川島で砲艦「千代田形」の建造が着手され、文久2年(1862)9月、その蒸気機関(エンジン)は長崎製鉄所で製造して江戸に届けられた。しかし、汽缶(ボイラ)は、長崎製鉄所では製造できず、佐賀藩の三重津造船所で文久3年(1863)10月に完成している。

第一期工事竣工時に未整備だった大船修復場(艤装岸壁)と蒸気釜仕立所(汽缶製造工場)は、慶応1年(1865)頃に撮影された長崎製鉄所の写真(ボードウィン・コレクション)には完成された姿で写されている。

第二期工事としての船舶の建造・修理施設については、一貫した方針のない幕府の軍艦建造計画に振り回されて、遂に幕営時代には実現しなかった。

飽ノ浦に隣接する岩瀬道に修船架(ソロバンドック)の建設が着手されたが、途中で別に軍艦打建所の建設計画が浮上し、重複するとの理由で工事中止となった。すでにオランダから機材を輸入し、4分の1ほど工事が進捗していたが、未完成のまま放置された。

次いで、幕府から本格的な軍艦建造の要請を受けて、立神地区に軍艦打建所の建設が行われたが、長崎での軍艦建造計画が中止となり、土地造成の段階で中止となった。

長崎港内の長崎製鉄所関連施設
上図の「飽の浦製鉄所」とあるのが長崎製鉄所である。
「岩瀬道修船架」と「立神軍艦打建所」は建設工事の途中で中止となった。
「小菅修船場」は薩摩藩・グラバーにより完成した後、
長崎製鉄所の所属となった。

その背景には、江戸と大坂を防備するために建造する軍艦を、江戸から見て遥かに遠隔地である長崎に本格的造船所を設けて大量の軍艦を建造することを問題視し、江戸湾内にある石川島造船所の拡充、あるいは、江戸湾口にある横須賀造船所の建設計画が推進されて、長崎の重要性が低くなったことによる。

このようなことから長崎製鉄所の衰退は続き、元治1年(1864)6月、オランダ公使から外国奉行に対して長崎製鉄所の改善について善処方の要請を受けた。

八丈島漂着で冬季を過ごして江戸に戻った本木昌造は、幕閣から諮問を受けて、慶応1年(1865)8月、「製鉄所の儀御尋に付申上候書付」を提出した。この頃から本木昌造は長崎製鉄所の経営に深く関与することになる。本木昌造は、慶応2年(1866)8月、製鉄所支配定役格を命じられて、数かずの経営再建策を建言するが、幕府当局の理解が得られず、長崎製鉄所は衰退の一途を辿ることになる。

慶応4年(1868)1月14日、最後の長崎奉行となった河津伊豆守祐邦が長崎を退去するに当たって、「製鉄所取扱方の儀は、支配定役格本木昌造へ申し付け置き候」として、本木昌造に長崎製鉄所の後事を託した。

<製鉄所機関方となった矢次富次郎>
文久3年(1863)2月、富次郎は2年間の機械学を中心とした伝習を終えて、正式に製鉄所機関方となった。

これに合わせて長崎製鉄所では中古の蒸気輸送船2隻を購入し、物資や人員の輸送を行うようになった。それが、「チャールズ号」(「長崎丸」)と「ヴィクトリア号」(「第一長崎丸」)である。富次郎はこの船に乗り組み、時折、本木昌造が船長となって大坂、江戸へと航海した。

その間、富次郎は縁あって長崎にある長州藩蔵屋敷を管理する吉村家の養子となり、吉村富次郎と改名した。これによって長崎製鉄所の勤務は変わることはなかった。

薩英戦争で輸送船を失った薩摩藩の要請で、幕府は「チャールズ号」を薩摩藩に貸与していたが、下関海峡を通行する際、外国船と見誤った土佐藩からの砲撃に遭って避難する最中に火災を起こして沈没してしまった。

元治1年(1864)11月24日、本木船長の下で「ヴィクトリア号」に搭乗して江戸から長崎に戻る際、暴風雨に遭って八丈島に漂着。船体は大破して沈没してしまった。本木船長以下、富次郎を含めた56人は、翌春まで八丈島での滞在を余儀なくされた。

本木昌造と富次郎は、翌年4月18日に江戸に戻ることができたが、八丈島での約6ヶ月間、富次郎は直に本木昌造から多くの事を学んだに違いない。このとき、本木昌造は数え年42、富次郎は20であった。

本木昌造は八丈島から江戸に戻った頃から、経営不振に陥った長崎製鉄所の経営に深く関与することになる。

一方、長崎に戻った富次郎は、慶応2年(1866)6月、長崎奉行が長崎湾内警備のために購入した中古軍艦「回天」(原名:「ダンチッヒ」)に機関方として乗組んだ。富次郎の乗組んだ軍艦「回天」は、第二次幕長戦争で小倉沖に赴き、長州軍との海戦で大活躍をし、敵方からも富次郎の操艦技術を賞讃された。

平野富次郎の乗組んだ軍艦「回天」
長崎奉行所が長崎湾の警備のために購入した軍艦で、
当時、わが国で最大の軍艦だった。

その後、軍艦「回天」に乗組んで大坂経由江戸に赴き、軍艦「回天」は江戸の軍艦所所属となった。その時、富次郎も江戸軍艦所一等機関方の内定を通知された。しかし、間もなく理由も告げられずに内定取消しとなり、長崎で修理が必要となった軍艦「回天」で長崎に戻された。

長崎に戻った富次郎は、長州藩に仕える養家と幕府の組織に所属する自分の立場が内定取消しの理由であることを悟り、いずれにも無関係な自由の身になって自分の進路を切り開く決意をした。その結果、養家の吉村家を去り、祖先の旧姓である平野姓を名乗って平野富次郎と改名した。長崎製鉄所には辞表を提出したと見られるが、そのことを示す文書は未だ見つかっていない。また、辞表が受理されたかどうかも未確認である。

富次郎は、慶応3年(1867)3月から同年12月まで土佐藩に雇われ、同藩の蒸気船器械方となって、長崎土佐商会を基点として土佐藩のために活躍した。
土佐藩からの招聘は、当時、長崎に滞在していた土佐藩参政後藤象二郎から長崎製鉄所に出されたと見られる。しかし、とこからも制約されない自由の身となることを決意した富次郎に翻意を促したのは、本木昌造の関与があったと考えられる。

富次郎は、幕末の最終局面を土佐藩で過ごして維新を迎えることになった。その間、海援隊の坂本龍馬や維新後の新政府の要人となった土佐藩の後藤象二郎、佐々木三四郎などと面識を得ることができた。

維新後の長崎製鉄所と本木昌造・平野富次郎については、次回に譲ることとする。

以上