【長崎生まれとしかわからなかった】
平野富二が長崎の町司矢次豊三郎の次男として長崎に生まれ、幼名を矢次富次郎と称したことについては、福地桜痴の記述したとされる「平野富二君の行状」に示されている。それをもとに調査し、結果をまとめた三谷幸吉編著『本木昌造・平野富二詳伝』でも、長崎の何処で生まれたかについては明らかにしていない。
ご子孫の平野家にある過去帳や平野富二の京橋区除籍謄本には、いずれも長崎の外浦町(ほかうら-まち)と記されている。しかし、これは平野富二が東京に籍を移す前の本籍地であって、必ずしも出生地を示すものではない。
各種文献を調査した結果、長崎には引地町(ひきぢ-まち)と大井出町に町司長屋が在ったことが分かり、矢次家はそのいずれかに住んでいたのではないかと思われた。
────────
【矢次家の居所を示す番地が判明】
平野富二の伝記を執筆中だった2007(平成19)年に、平野富二の生家である矢次(やつぐ)家のご子孫から「矢次事歴」を拝見させて頂く機会を得た。
その「矢次事歴」は、1723(正徳3)年から1880(明治13)年まで、矢次家初代から九代までの事歴を記録したものである。しかし、九代目を継いだ平野富二の兄矢次温威(幼名は和一郎)の事歴は未完成のままとなっていた。
兄温威の事歴の中に、引地町と外浦町に関する記述があり、それを要約すると次のようになる。
◆1872(明治5)年に矢次温威の弟平野富二は妻こまと共に外浦町に分家した。その番地は、1874(明治7)年の時点で、第一大区七ノ小区外浦町九十六番地であった。
◆1874(明治7)年4月時点での矢次温威宅の番地は、第一大区四ノ小区引地町五十番地であったが、1878(明治11)年9月時点では、第一大区二ノ小区引地町二百十五番地に変更されている。
◆1874(明治7)年頃に、矢次温威は家計を賄うために引地町の自宅を貸家とし、外浦町にある平野富二の留守宅に移り住んだ。
◆1876(明治9)年10月になって、矢次家は東京の平野富二宅に移転し、やがて、先祖代々受け継いできた長崎の土地と建物を売却している。
ここに記した大区小区制の番地は、1872(明治5)年に実施された近代戸籍の編成に当たって制定されたものである。当初、細分化し過ぎたことから、1873(明治6)年に改正された。
「矢次事歴」によると、長崎では1874(明治7)年4月になっても、当初定められた番地が使われていたらしい。引地町の番地が二つあるのは、この改正によるものと見られる。
────────
【明治初期の番地では調査できない】
平野冨二の生家である矢次家の明治初期の番地が判明したことから、その場所を特定するため、長崎の歴史研究に携わっておられる長崎在住の宮田和夫さんに調査をお願いしたことがある。
そのときは、1872(明治5)年に編成された近代戸籍(壬申戸籍と呼ばれる)は、人権に関わる内容を含むため非公開となっていて調査できないとのことであった。
────────
【長崎での「活版さるく」を機会に再調査】
2016(平成28)年は平野富二生誕170年目に当たり、朗文堂/アダナ・プレス倶楽部主催で「崎陽探訪・活版さるく」が計画された。
これを機会に平野富二の生誕の地を特定したいとの思いから、いろいろ調べているときに、「肥前長崎図」(享和2年、文錦堂刊、嘉永3年再板)にある引地町と表示された道筋の末端に、何やら長崎奉行所の関連施設らしい表示があったことを思い出した。
その部分を拡大して子細に観ると、図1に示すようにちいさく「丁じ 長や」と二行で表示されていることが分かった。「町司長屋」のことを知らなかったら、判読できなかったかも知れない。
これは、矢次家が代々居住していた引地町の町司長屋を示すもので、その長屋の一画が平野富二の誕生の地であることは間違いないと思われた。
○図1「肥前長崎図」(原田博二著『図説 長崎歴史散歩』から)の部分拡大図
【「矢次家」居所を示す絵図の発見】
このことを朗文堂の片塩二朗さん経由で、長崎の宮田和夫さんと長崎印刷工業組合の岩永正人さんに連絡したところ、長崎歴史文化博物館に長崎市立博物館旧蔵資料として「長崎諸役場絵図」があり、その中に「引地町町使長屋」の絵図が含まれていること、さらに、その長屋の一戸に「矢次」の名前が記されていることを教えて頂いた。
町使(後に町司と表記された)という長崎奉行所の一地役人の住居が名前入りで絵図に描かれ、現代まで残されるとは思いもよらないことだった。
同様の絵図が東京の国立公文書館にも所蔵されているとのことで、朗文堂が入手した絵図を図2に示す。
○図2「引地町町使長屋絵図」(国立公文書館所蔵)の部分図
【「引地町町使長屋」跡地の現状】
現在の長崎市には引地町の町名はすでになく、隣接する桜町と興善町に吸収合併されてしまった。矢次家のあった町使長屋の場所は、現在、桜町に属しており、そこには長崎県勤労福祉会館とVIVACITY 桜町 Exia と称するマンションが建っている。
その前の通りが旧引地町筋で、明治の頃は幅が2間4尺(約2.14m)であったとされている。しかし、現在は勤労福祉会館の建物が大きく後退して建てられているので、道幅はかなり広くなっている。また、明治維新前は道の反対側に小高い石垣が築かれ、その上に桜町牢屋があった、それを道路と同じレベルに平準化して長崎市役所分館が建てられている。
○図3 現在の街の様子を示す写真
図3に示す写真は、2016(平成28)年5月現在の街の様子を示す。道路の右側中央の白い建物が長崎県勤労福祉会館で、その前に駐車している小型乗用車の辺りに矢次家の入口があったと見られる。
なお、長崎県勤労福祉会館と同じ並びの奥に見える三階建てのビル(一般財団法人長崎地区労働福祉会館)は、図2に示す町使長屋の右手に表示されている窪地に建てられていることが分かる。
このように、現在ではこの地区には昔を偲ぶよすがは全く残されていない。
投稿:2017年01月03日