第二代社長 (空席)、社長心得 本木小太郎

(1)社長空席により本木小太郎の社長心得就任
明治22年(1889)6月17日、有限責任東京築地活版製造所は株主総会を開催し、定款を改正して、平野富二は社長を辞任した。次いで、株主による投票で取締役を選出した結果、松田源五郎と谷口黙次の2人が選出された。松田源五郎は長崎で十八銀行頭取を、谷口黙次は大阪で活版製造所社長を務めているため、社長は空席のまま、創業者本木昌造の跡継ぎである本木小太郎を社長心得に指名した。

図2‐1 本木小太郎

松尾篤三編『曲田成君略伝』によると、平野富二は、本木小太郎が海外留学から帰国したことから、社長の職を本木小太郎に譲り、創業者本木昌造の遺志に応えようとしたと述べている。しかし、本木小太郎は事業運営に関心が薄く。社長の任に堪えないことから、社長心得の座を設けたと見られる。

定款では、株主の投票により20株以上所有する株主の中から3名を選出し、互選によって社長1名、その他の2名を取締役とすることになっていた。ただし、社長を選出できない場合は、仮に社長心得を置くことがあるとしていた。

新体制では社長が空席となるので、今まで社長平野富二の下で副社長を務めていた谷口黙次を取締役兼社長代行としたと見られる。これまで平野富二の下で支配人を務めていた曲田成は工務監査となった。

東京築地活版製造所は、明治22年(1889)12月30日、臨時株主総会を開催して会社の存廃を論じた結果、経営改革7項目が設定され、その実行を委任されて曲田成が社長に選任された。それに先立ち、短期間の内に数次にわたる臨時株主総会が開催されて、経営危機の打開策が論じられたが、結論を出すことが出来なかったという。

当時の経済社会は、明治14年(1881)以降の松方内閣による思い切ったデフレ政策の影響を受けて、保護育成の対照から外れた一般産業は困窮と共倒れの苦境に見舞われた。
東京の印刷業界では、東京府の指導の下、明治14年(1881)2月、東京46工場、横浜2工場が参加して「活版印刷営業組合」の設立願いを東京府知事に提出したが、意見が纏まらず成立しなかった。この頃、平野富二は造船事業で函館、続いて新潟に出張するなど多忙を極めていたことから、印刷業界での指導的立場を発揮することができなかったと見られる。
政府は、明治17年(1884)になって、「同業組合準則」を制定して秩序の回復を図り、明治18年(1885)1月、東京府の布達により再び組合結成の勧奨がなされたが、印刷業界では内部の意見が纏まらず、立ち消えとなってしまった。

東京築地活版製造所は、明治23年(1890)1月、再び臨時株主総会を開催し、社長は曲田成のまま、松田源五郎と西川忠亮の2人が取締役に選出された。社長心得の本木小太郎は病気を理由に退任し、取締役だった谷口黙次は大阪活版製造所の社長に専念することになった。西川忠亮(初代)はインキ商西川求林堂の社長で、大株主だった。

牧治三郎編『京橋の印刷紙』によると、本木小太郎の明治22年(1889)頃の納税記録は所得税34円20銭で、印刷業界で2位の高額所得者であった。因みに、曲田成は8円40銭であった。当時は、年間300円以上の所得者を納税資格者として、最低金3円が課税された。

このことから、名前ばかりで高額所得を得ている本木小太郎に対しても、経営改革7項目の一つに挙げられていたと見られる。

なお、明治期の『東京府管内統計表』によると、東京築地活版製造所の明治21年と同22年の従業員数は、251人と244人で7人減、製出代価は75,488円と128,916円で53,528円増となっている。この二つの指標だけから見ると、経営上の問題は全く見られないが、実態は業界内での過当競争による値引き合戦で、売上高は増大したが、その分、収益の悪化に繋がったと見ることができる。

(2)本木昌造存命中の本木小太郎
本木小太郎は、安政4年(1857)9月18日、オランダ通詞本木昌造とその妻縫の二男として生まれた。数え年2〔満年令0歳10ヶ月〕のとき、母縫が21歳の若さで死亡した。翌年、長男昌太郎も6歳で病死したため、小太郎は本木家の継嗣となった。

その後、母縫の従妹に当たる大和屋喜太郎の姉タネが継母となった。元治1年(1864)10月15日に異母弟清次郎が出生し、慶應2年(1866)11月23日に異母弟昌三郎が生まれた。清次郎は明治12年(1879)8月18日に16歳で死亡、昌三郎は明治42年(1909)7月16日に45歳で死亡している。

慶應1年(1865)、数え年9のとき、本木昌左衛門久美の孫としてオランダ稽古通詞、無給を仰せ付けられた。慶應4年(1868)、数え年12のとき、祖父昌左衛門から家督を相続して家業であるオランダ通詞の業給を受けるようになった。父親の本木昌造は長崎製鉄所の取締助役として業給を得ていることから、家業としてのオランダ通詞の業給は、祖父から孫に相続させることを願い出て認可された。

改元されて明治となった12月8日、これまでの役名を廃され、新政府の下で通弁稽古を申し付けられ、手当・扶持はこれまで通り下し置かれることとなった。

明治3年(1870)頃に長崎製鉄所の機関方見習となった記録があるが、翌年11月には、無役となっていた本木小太郎は、農商入籍を願い出て認可され、資金として100両を下付されている。

この年の3月に本木昌造は長崎新町に新街私塾を開設しており、その8月、本木小太郎は数え年14で新街私塾の組親の一人となった。当時の新街私塾は世話懸、組親、助親、当番によって運営されていた。
翌年の12月12日、本木小太郎を含む新街私塾の4人は、1年間の囚獄を申し渡された師の池原大所(香稺)に代わってその罪科を償いたいと長崎県知事に嘆願書を提出している。

明治5年(1872)6月7日、隠居していた養父本木昌左衛門〔祖父、隠居名:昌栄〕が病死した。享年72だった。相次いで同年12月27日には、養母たま(祖母、万屋浅左衛門二女)が病死した。享年59だった。

明治5年(1872)に編成された壬申戸籍では、戸主は本木小太郎、実祖父昌左衛門久美を父本木昌栄、実父昌造永久を本木昌三と記録されている。この頃は、長崎外浦町682番051番屋敷に居住していた。本木昌造が長崎府に提出した文書にも同じ住居表示で記載されている。

明治6年(1873)6月の新街私塾の生徒名簿には、本木小太郎の名前が16歳10ヶ月として記録されている。

(3)本木昌造死去後の本木小太郎
本木小太郎は、明治8年(1875)9月3日、数え年19のとき、実父本木昌造が病死した。享年52だった。これに伴い、本木小太郎は新街私塾、新町活版所、大阪の新塾出張活版所、東京の新塾出張活版製造所のオーナーとなった。

新街私塾については、学制の公布により私塾としての役割を終えたとして、明治8年(1875)               限りで私塾を閉鎖し、塾の予備金100円余りを長崎県下の各小学校に学資の一部に供するため、長崎県庁に献納した。
また、新町活版所は本木昌造の門人だった境賢治に経営を一任した。

明治9年(1876)9月、本木昌造の一周忌で長崎に帰った平野富二に伴なわれて、本木小太郎は上京して、築地活版製造所に職を得た。
その2年後の本木昌造没後三年祭に際して、本木小太郎は平野富二に伴なわれて長崎に帰郷した。このとき、平野富二からの申し出により、築地活版製造所の資産一式9万円が本木家と出資者に返還された。
本木小太郎は、築地活版製造所の所長となり、平野富二は小太郎の後見人となった。

平野富二は、明治9年10月30日に海軍省と契約して石川島修船場の跡地を借用し、石川島平野造船所を開設した。その設備増強のため、ドック戸船用予備資材や旧鋳物所の払下げを受けたとき、提出する代金納入証書に本木小太郎が保証人となって捺印している。

築地活版製造所の経営を学んだ本木小太郎は、明治13年(1880)3月、数え年23のとき、平野富二の配慮で欧米に工業視察と研修に赴いた。これに関して、平野富二の「金銀銭出納帳 明治13年3月改」に、「金五十六円 本木殿へ餞別銀貨」とある。海外で通用する銀貨を餞別として与えている。

同年中には帰国したらしく、その12月29日に長崎の住居を外浦町7番戸〔682番105番屋敷の改正番地〕から同町43番戸に移転している。当人は東京に寄留していたので、長崎に残された家族のための転居と見られる。

明治14年(1881)3月1日から開催された第二回内国勧業博覧会に本木小太郎の名前で印刷機械、各種活版、字見本帖を出品し、二等有効賞牌を授与された。

図2-2 第二回内国勧業博覧会への出品
出品者:本木小太郎、製作者:桑原安六
印刷機械:ロ型(ロール型)とフート型(足踏型)の2種
活版:明朝風、清朝風、朝鮮書体、片仮名、平仮名、横文字の36種
字見本帖(西洋紙、西洋綴、各種書体印刷):1冊

この年の9月、数え年24のとき、品川藤十郎の長女ミネと結婚している。しかし、翌年の明治15年(1882)になって、海外留学に出発し、明治22年(1889)までの7年間、日本を留守にしている。イギリスのロンドンに滞在していたと見られるが、場所や勉学内容などについては不明である。その間、何度か一時帰国しているように見受けられる。

ロンドン滞在中の1885(明治18)年5月から6か月間、イギリスでロンドン万国発明品博覧会が開催されることになり、同年1月、出品者である長崎県平民本木小太郎の代理として平野富二が東京府を通じて農商務省に出品願書を提出している。

図2-3 ロンドン万国発明品博覧会への出品願書
この願書により、本木小太郎が「活版と印刷見本」を出品したことが分かる。
事務局の要求で、別途、「活版事業創始の説明書」を提出している。

本木小太郎が所長となっていた築地活版製造所は、明治18年(1885)6月26日、有限責任の株式会社となった。それに伴い、株主総会で役員選出が行われ、社長平野富二、副社長谷口黙次、取締役として松田源五郎、品川藤十郎、曲田成の3人が選出された。支配人として曲田成、副支配人として藤野守一郎がそれぞれ重任された。本木小太郎は海外留学のため選出されなかった。

一方、同じ頃に大阪活版所も有限責任の株式会社となり、ここでは本木小太郎が不在のままで社長に選任された。しかし、同年10月になって、社長本木小太郎が洋行中であることから、谷口黙次が社長に就任し、取締役として酒井三造、肥塚與八郎、吉田宗三郎が選任され、支配人は吉田宗三郎が兼任した。このとき、社名を大坂活版製造所と改めた。

明治19年(1886)11月、長崎の家族は外浦町37番戸から同町5番戸2号に移転している。後に、この場所を含めた一帯の土地にグランドホテルが建設され、その入口に本木昌造の旧居跡として記念碑が建てられたが、グランドホテルの建物が解体されたため、記念碑も撤去されたままになっている。
本木小太郎は一時帰国したと見られ、明治21年(1888)10月20日に長女恵美が誕生している。

明治22年(1889)6月、本木小太郎は7年間の海外留学から帰国し、東京築地活版製造所に社長心得として迎え入れられた。

(4)社長心得退任後の本木小太郎
明治23年(1890)1月、本木小太郎は病気を理由に築地活版製造所の社長心得を退任した。その後は、父本木昌造の門人たちを訪ねて各地を転居しながら、療養に努めたう。

明治43年(1910)9月13日、本木小太郎は東京の療養先で死亡した。享年57だった。最後の療養先は、三間印刷所を経営する三間隆次(谷口黙次の次男)宅だった。
死亡時の本籍地は長崎市外浦町5番戸2号で、長崎の大光寺にある本木家墓所に埋葬された。

その間の家族の動向は、明治23年(1890)に長男昌国が誕生し、同26年(1893)3月になって妻ミネと離婚している。明治38年(1905)1月には長女恵美が18歳で病死し、明治42年(1909)9月に長男昌国が19歳で病死している。このため由緒のある本木家の直系を継ぐ者は居なくなってしまった。

(5)本木小太郎を支えた谷口黙次
谷口黙次とその次男三間隆次の親子は、共に本木小太郎を終生にわたり支援し、面倒を見ていた。場合によると、本木小太郎の海外視察や留学に次男隆次が付き添っていたのではないかと推測される。

谷口黙次は、弘化1年(1844)、長崎奉行所普請方谷口杢治の三男として生まれた。平野富二よりも2歳年長だった。

図2-4 谷口黙次(初代)

図2-5 谷口黙次の次男三間隆次

谷口黙次は、幼なくして本木昌造の経営する新街私塾に入門し、基礎教育を受けた。その後、本木一門に加わった。

明治3年(1870)4月頃、大阪に長崎新塾出張活版所が開設されるに当たり、幹部の一人として大阪に派遣された。素質と能力が優れていることから、内外の信用を得て、所長の酒井三造は谷口黙次を所長代理として内外の業務一切を任せるようになったという。

明治6年(1873)に、たまたま長崎に帰省中だった谷口黙次は、天草で活字の原料となるアンチモニーの良鉱が発見されたとの報告を得た本木昌造から、実地調査を依頼されて現地に赴き、採鉱を繰り返した結果、ついに良質な鉱脈を発見した。

時代の流れで、明治7年(1874)頃には、活版印刷が世間に認知されるようになったことから、大阪の活版所は相当の成績を挙げられるようになった。そこで、谷口黙次は再び大阪に派遣されて支配人となった。
同年、京都烏丸通三条上ルに在った點林堂を大阪活版所の支店とし、その支配人を兼務した。

明治8年(1875)春の頃から本木昌造はしばしば病床に就くようになった。5月下旬になって保養のため大阪と京都を気の向くまま訪れたが。そこで病が再発した。谷口黙次は夫人と共に看護に尽くし、長崎から迎えの人を呼び寄せて長崎に帰って貰った。しかし、看護の甲斐なく本木昌造は同年9月3日に死去した。

明治10年(1877)になって、谷口黙次らが中心となって「京阪神活版同盟会」が組織され、大阪18社、京都6社、神戸5社、大津2社の合計31社が参加した。しかし、明治16年(1883)に解散し、続いて大阪で「活版仲間組合」を設立した。これも、明治22年(1889)に解散し、改めて「大阪活版営業組合」が結成されている。

明治11年(1878)春、大阪北久太郎町に1,000坪ほどの土地を購入し、社屋を新築して移転した。名称を「活版製造所」と改め、印刷機器の製造・販売で事業拡張を行った。明治14年(1881)7月に東京の築地活版製造所に派遣していた速水兵蔵と中島幾三郎を大阪に呼び戻して、印刷機械の修繕と製造を担当させた。

明治18年(1885)以降の事柄については、既に述べたので省略する。

第3回内国勧業博覧会が明治23年(1890)4月1日から東京上野公園で開催され、大阪活版製造所谷口黙次として、16片紙ロールマシンと半紙6枚ハンドプレスを出品している。

明治25年(1892)12月3日、平野富二が急死した。谷中墓地の平野家墓所には、東京築地活版製造所の役員・従業員の有志者から石灯籠一対が献納され、その中に、谷口黙次も名前を連ねている。

商法改正により、明治26年(1893)12月、大阪活版製造所は株式会社となり、谷口黙次は初代社長に選任された。しかし、明治33年(1900)1月6日、病を得て卒然と死去した。享年57だった。

谷口黙次の長男は、父の名前を襲名して二代谷口黙次と名乗って大阪活版製造所の経営に携わった。二代社長吉田宗三郎の跡を受けて三代社長となった肥塚源次郎は二代谷口黙次の姉を娶っており、このころから、二代谷口黙次が実質的に経営を行うようになったという。

明治45年(1912)になって、大阪活版製造所は、経営は順調のまま、関係者一同合意の上、解散した。二代谷口黙次は、翌大正2年(1913)に、別途、谷口活版所を創設した。大正3年(1914)3月、谷口印刷所と改称している。

次男の隆次は、三間(みつま)家に養子として入り、東京銀座で石版印刷を営む三間印刷所を経営した。本木小太郎の長男昌国は、蔵前の東京高等工業学校を卒業して、三間印刷所に奉職している。しかし、父小太郎の亡くなる前の年に、若くして死去している。

本木小太郎とその長男昌国は、亡くなる直前まで、三間隆次の世話になっていた。

2018年9月13日 稿了